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「お正月」 作詞 東くめ 作曲 滝廉太郎 もういくつねると お正月 お正月には たこあげて こまをまわして あそびましょ 早くこいこい お正月 もういくつねると お正月 お正月には まりついて 追いばねついて あそびましょ 早くこいこい お正月 今年も残すところ、あとわずか。押し迫ってきましたねぇ。私も子どもの頃には、それこそ、この歌のように、指折り数るようにして、お正月がくるのを楽しみにしていました。華やかな雰囲気、晴れがましい気分、日常とは違うぜいたく、まさに、早くこいこい、とばかりに、お正月を待ち望んでいたものでした。しかし、大人になったからなのか、時代の変化なのか、お正月といっても、今では、特に楽しみにする事もなくなっています。最近では、この「お正月」の歌詞のように、たこあげや、はねつきをして遊ぶ子どもの姿も、あまり見かける事もありません。お正月で何が一番楽しみか、と、うちの子に聞いて見たところ、「お年玉がもらえること」と現金な答えが返ってきました。子どもたちにとっての、お正月も変わってきているのでしょう。私の父が子どもの頃のお正月は、といえば、普段は食べられない、お頭付きの魚が食べられることが楽しみだったとか。貧しい中でも、ささやかなぜいたく、それがお正月だったのでしょう。それからすると、今はまるで、毎日がお正月みたいなもの。お正月の有難みがなくなってきているわけです。ところで、この童謡「お正月」は、明治34年(1901年)に『幼稚園唱歌』の中の一曲として発表された歌でした。作詞が童謡作詞家の東くめで、作曲は滝廉太郎。この歌が、滝廉太郎の作曲とは、少し意外な感じがしますが、そもそも、この歌が作られるに至るいきさつは、東くめの夫の発案によるものでありました。くめの夫は、東基吉と言い、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)に務める教育学者。くめは、幼児教育の改革を提唱していた夫の基吉から、"子どもにわかるやさしい歌、子どもが喜んで歌う歌”を作るように薦められ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)の後輩であった滝廉太郎に相談しました。廉太郎もくめから聞いたこの話に賛同し、東・滝のコンビで何曲かの童謡が作られることとなりました。その中の一曲が「お正月」だったのです。『幼稚園唱歌』には「お正月」の他にも、「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」など、今なお歌われている童謡が収録されています。そして、これらは、日本で初めて作られた、口語体の童謡作品でもありました。「お正月」の歌詞は、まさに、東くめが、子どもたちの遊んでいるさまを、ほほえましく見ていた、そんな、ある日の正月風景だったのでしょう。今年も、あとわずか・・・この一年、当ブログにアクセスして下さった方、コメントを書き込んで下さった方、有難うございました。思えば、今年は、ブログを通じて色々な方と出会う事もできました。それは、去年、このブログを始めた時には、想像もしていなかった展開でもありました。でも、おかげで、非常に充実した一年を送る事ができたと思っております。今年出会って下さった方々には、感謝しております。来年も、また、皆様方からパワーを頂いて、地道に、このブログを続けていきたいと思っております。来年も宜しくお願い申し上げます。それでは、みなさん、良い年をお迎えください。
2007年12月29日
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もうすぐ、クリスマス・・・。街の至るところで、クリスマスツリーが飾られ、店には、BGMにクリスマスソングが流れています。一年のうちで、最もきらびやかな雰囲気に包まれるクリスマス。今や、すっかり日本の年中行事ですね。ところで、「クリスマス」という言葉は、俳句の季語にもなっていますが、これを季語として、初めて俳句に取り入れたのは、正岡子規であったといわれています。 クリスマスの 小き会堂の あはれなる正岡子規(1867年~1902年)は、明治の俳人・歌人。優れた俳句・和歌を数多く残し、中でも、写実を重んじた子規の俳句は、新たな詩情を開拓したとものとして評価されています。その一方、子規は古歌の収集・分類・評価を徹底的に行い、俳句・和歌の改革を訴えました。子規の本質は、歌人というよりも、俳句・和歌の研究者であったといえるのかも知れません。彼の残した作品は、そうした研究が基盤となって生み出されたものでもありました。結核を患い、34才でその短い生涯を終えた正岡子規。限られた時間の中で、病と闘いながらも、振りしぼるようにして、続けられた研究・著作活動でありました。しかし、病床にありながらも、子規は自分の運命を受け入れ、自己を客観視する目を持ち続けました。正岡子規という人は、好奇心が旺盛だったようで、ハイカラで新しいもの好きでもありました。そうした事もあって、当時定着し始めたクリスマスを祝うという習慣を、いち早く俳句に取り入れたのかも知れません。 八人の 子供むつまじ クリスマス子だくさんの家の、にぎやかなクリスマスの風景が目に浮かんでくるような句です。しかし、子規自身が実際にどのようなクリスマスを過ごしていたかについて、記録は残されていないようです。子規の家庭は、年老いた母と妹との、東京での3人暮らしでありました。そんな子規ではありましたが、クリスマスに対して、一家団欒の楽しさを感じ取っていたのではないでしょうか。今年の、クリスマスイブはちょうど休日。私のうちは、例年通り、ケーキを焼いて、シャンパンを用意しての家族パーティーです。皆さんは、誰とどんなクリスマスを予定されているでしょうか。
2007年12月22日
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楽天仲間のFC司馬さんからのお薦めで、先日、「長州ファイブ」という映画のDVDを借りてきました。幕末、長州藩の5人の若者が命がけでイギリスへ密航し、進んだ西洋の近代文明に触れたことから、日本の近代化に情熱を持つに至る様子が、生き生きと描かれている物語です。イギリスへ密航した若者とは、この5名。井上聞多・・・後の馨。外務大臣等の要職を歴任した明治の大物政治家。伊藤俊輔・・・後の博文。ご存知、日本の初代総理大臣。遠藤謹助・・・大阪造幣局長を務め、桜の通り抜けを発案したことでも有名。井上 勝・・・鉄道の敷設・普及に尽力し、日本鉄道の父と呼ばれた人物。山尾庸三・・・工部卿など工学関連の重職を歴任し、日本工学の父と呼ばれた人物。いずれも、帰国後、この留学経験を生かして大変な活躍を見せ、明治日本の近代化に、それぞれ、大きな足跡を残した人たちです。そして、この中で、映画の主人公として取り上げられているのが山尾庸三。派手さもなく、知名度も決して高くありませんが、日本が工業立国となる基盤を作った、ともいわれるほどの功績を残した人物であります。そこで少し、映画「長州ファイブ」を振り返ってみます。まず、映画の冒頭シーンは、イギリス人が薩摩藩士に殺傷された、生麦事件の場面から始まります。尊王攘夷を掲げたテロ活動が、最盛期を迎えていた幕末の文久年間です。山尾庸三を含む、長州の志士たちも英国公使館の焼討ちを行うなど、攘夷活動を行い、暴れまわっていました。しかし、山尾たち5名は、藩から英国留学の機会が与えられることになり、近代技術を学び「生きた機械」となって帰ってくることを決意し、イギリスへ密航することとなります。イギリスでは、蒸気機関車が動くさまを、初めて見て衝撃を受け、また、立ち並ぶビル群を見ては、圧倒され、銀行のしくみを聞いては、驚かされました。どれ一つ、日本にはなく、日本が勝てるものは何一つない、ということを、彼らは痛感しました。そうした中で、彼らは、藩のためではなくて、日本の国のために役に立ちたい、日本の国を何とかしたい、という情熱を、強く持つに至ります。やがて、彼らは、同じ志を持ちながらも、違った方向を選ぶことになりました。井上聞多と伊藤俊輔の2人は、日本の攘夷戦争をやめさせないといけないと思い詰め、急遽日本へと戻っていきます。残った3人も、それぞれが、自分の進むべきテーマを見つけ、それを追求するために、ロンドンで別れ、個々が目指すべき道に進み始めました。そうした中、山尾庸三は、工業に注目します。特に、造船業を学ぼうと考え、造船のさかんなグラスゴーへと向いました。造船所で、実習生として造船術を学ぶ日々を送る毎日。しかし、そんな中、聾唖の婦人エミリーと知り合い、淡い恋心を抱いたりもします。当時の、造船所内は、鋲を打ち込む音のため、常に大音響でありました。そのため、何年も働くと耳が遠くなる人が多く、又、逆に、造船所では、聾唖者でも十分に仕事ができたのです。山尾は、聾唖者も、教育によって健常者以上の能力を持てると考え、このことが、帰国後、彼が聾唖者教育を提唱することにつながっていきます。やがて、山尾が日本へ帰国する日が近づき、エミリーとの別れが・・・。というところで、この映画は終わっています。幕末の頃の日本や、19世紀のイギリスの様子がとても生き生きと映し出されていて、画面から、臨場感が伝わってきますし、イギリスで初めて蒸気機関車を見て、衝撃を受けるシーン等も印象的。若き日の情熱を、日本の将来にかけた彼らの青春群像としても見ごたえがあって、幕末・維新史に興味のある方には、是非お薦めの映画だと思います。ちなみに、映画のその後、帰国してからの山尾庸三について。帰国後の、山尾が残した功績の大きなものは、工業教育と聾唖者教育推進についての明治政府への提言であったと言えるでしょう。明治元年(1868年)に、山尾はイギリスから帰国。 明治4年(1871年)には、工部大学校の設置と聾唖学校設立を明治政府に建白しました。「たとえ今、日本に工業がなくとも、人を育てれば、その人が工業を興す。 近代化とは、技術を学ぶことだけではなく、人間に近代文明を教えることも重要である。」というのが、山尾が英国留学から学んだ考え方でした。そうした、工学教育の基盤の上に立った日本工業発展への展望を彼は描いていたのです。明治6年(1873年)には、そうした山尾の提言が実現し、工部大学校(現在の東京大学工学部)が開校。その後も、工部卿など工学関連の重職を歴任、日本工学会会長も30年以上にわたって勤め、日本の工業振興の第一線に携わり続けました。一方の、聾唖者教育についても、山尾は活動を続けました。こちらも、山尾の働きかけにより、東京に日本で初めての聾唖学校「東京楽善会訓盲院」が明治9年(1876年) に設立されました。聾唖者も、教育によって健常者以上の能力を持てると考えていた、そんな山尾が、グラスゴーの造船所での体験から学んだことを、日本において実現したものと言うことができます。山尾庸三、大正6年(1917年)没。81才でした。日本の未来をはるか遠くまで見据えて、この国の近代化を願い、教育に情熱を燃やした山尾庸三。彼の功績が、現代の先進国日本の大きな土台となっている、といえるのではないでしょうか。彼が「日本工学の父」と称されている由縁も、ここにあると思います。以前に書いた長州藩留学生の関連記事 井上聞多と伊藤俊輔 興味のある方は、こちらも合わせてご覧下さい。
2007年12月15日
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「時は、元禄15年12月14日」赤穂浪士の吉良邸討ち入り。12月のこの時期、季節の風物誌でもあります。小説やドラマなどで、数多く取り上げられている、この赤穂事件ですが、実のところ、後世に作られた脚色や義人譚も多く、意外と、真相がはっきりとわからない部分が多い事件でもあります。その事件の発端となったのは、松之廊下の刃傷事件。勅使饗応役をつとめる浅野内匠頭が、指南役の吉良上野介を殿中で斬りつけました。しかし、この事件も、吉良上野介と浅野内匠頭の間に何があったのか、今でもはっきりわかっていません。将軍綱吉は、この刃傷事件に激怒し、審議もほとんどしないまま、直裁で処分を決定しました。浅野内匠頭は切腹の上、お家取り潰し。一方、吉良は、その振る舞い神妙であるとしてお咎めなしとする裁定です。しかし、この裁定が禍根を残し、吉良邸討ち入りへと発展していきます。当時、武士の間の争いについては、喧嘩両成敗という考え方が原則でした。争いに至るまでの事情を勘案し、因果関係も含め、両者に罪を認めるというもの。現代の刑事事件の考え方とは異なります。浅野だけに、処分が加えられたということで、浅野の家臣たちは、この裁定に納得しませんでした。又、幕府内部も含めた、世間一般も、この一方的な裁定には、疑問を持ちました。そうした背景の中で、赤穂浪士の事件は進展していきます。赤穂藩側の中心人物は、筆頭家老の大石内蔵助。藩取り潰し後の事後処理を進め、紛糾する家中をまとめて、赤穂城を開城します。その後、内蔵助は、つてを通じて、御家の再興と吉良上野介の処分を、幕府に求める活動を続けますが、その願いは聞き届けられることはありませんでした。ついに、内蔵助は、吉良を討ち取って主君の仇を討つことに方針を定めます。元禄15年(1702年)12月14日。大石内蔵助を始めとする赤穂浪士、四十七士は吉良邸へ討ち入り、念願の吉良上野介の首を挙げました。 この吉良邸討ち入り事件は、江戸の町を興奮させ、江戸の庶民は、赤穂浪士に対し喝采を送りました。一方、幕府の中でも、お抱えの儒学者たちの間で、赤穂浪士の行為を善とみなすか、悪とみなすかについて、論争が繰り広げられます。結局、赤穂浪士に対する処分は切腹。道義的には称えられるが、法においては罪であるとする意見が採用されました。この事件が、単なる仇討ち事件ではないところは、松の廊下の刃傷事件に対する、幕府の処分が片手落ち、不公平であった事に、大石内蔵助ら浪士が異を唱え、社会問題化させたところにあったと思います。庶民も幕府の処分に対して憤激していて、赤穂浪士を応援しました。この時代においては、珍しいくらい世論が盛り上がった出来事だったのでしょう。さらに、その後も、この事件は民衆の間で語り継がれていきました。事件から47年後の、寛延元年(1748年)。歌舞伎、人形浄瑠璃の演目として「仮名手本忠臣蔵」が発表され、この作品が、大ヒット。忠臣蔵物語の代表作となっていきます。「忠臣蔵」と呼ばれるようになったのも、この作品からでした。その後、芝居や映画でも、不入りの時には「忠臣蔵」を出せば当たると云われるほどの、人気の出し物となっていきます。そうした中で、様々な脚色・義談が挿入されて、現在のような、忠臣蔵物語が出来上がっていきました。講談、小説、映画、テレビ等々、その生み出された、関連作品の多さは、いかに、日本人に愛され続けてきたかを示しています。いじめをこらえながらも、刃傷に及んだ浅野内匠頭。その復讐を誓い、しかし、その素志を隠しながらも準備を進める浪士たち。それを、陰から支える人たち。同志から脱落していく人たち。そして、吉良を討ち取って、本懐を遂げ、最後は潔く、切腹して果てていく。「忠臣蔵」の中には、日本人の大好きな物語が、いくつも詰め込まれています。まさに、日本的な精神構造の中から生み出された、物語り群であるともいえます。近年「忠臣蔵」は、以前ほど、もてはやされることが、なくなってきているようにも思いますが、現代の日本人が忘れかけているものが、ここにはあるのかも知れません。
2007年12月08日
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きのう、松山から、楽天仲間の7777ハリーさんが、大阪にきてくれました。ハリーさんとは、今年8月に、高知のゆうあい工房でお会いして以来の再会。夢・目標を持ち、絶えず色々なことに挑戦されている、とても素敵な女性です。さらに、ハリーさんが、大阪で会いたいと連絡を取られていたのが、楽天仲間の、このお2人。G3さん とどやさん です。その、お会いした印象。G3さんは、2年近く前から一度ハリーさんと会いたいとの思いを持っておられて、念願が実現した形です。とても、澄んだ頭脳を持ち、かつ、誠実な人柄の人。どやさんは、再生塾「格闘塾」を主宰し、中学生の教育に情熱を注いでおられる方。とても、熱い思いと、情熱を持った人です。まず、阪急3番街の中華料理店で昼食、その後、喫茶店に場を移し、話に花が咲きました。この、お3人のお話をお聞きしていると、はっきりした夢や目標を持っておられて、生きることに、非常に真剣であると感じました。そうした点、私など足元にも及びません。夢と情熱と持つことがどれだけ大切なのか、この皆さんから教えられました。どやさんとは、次の予定があるとのことで、ここでお別れ。年に一度は集まることを約束してのお別れです。この後、G3さん、ハリーさんと私の3人で居酒屋で、もう、時が経つのも忘れて、酒を酌み交わし、色々な話をしました。それは、とても、楽しく、素晴らしいひと時・・・。そうです、私は非常に幸せものです。オフ会で仲間が広がるといっても、ブログを始めて2年足らず、普通は、なかなか、ある話ではありません。それというのも、わざわざ、松山から来て頂いて、こうした機会を作って下さったハリーさん。そして、貴重なお話を聞かせて頂いたG3さん、どやさん。さらには、こうした出会いの連鎖のきっかけを用意して頂いたゆうあいママさん、いつも、このブログを訪問頂き、歴史談義を楽しみにしてくださっているブロガーの皆さん。それは、すべての方々のおかげだと思っております。23時過ぎ、名残りを惜しみつつ、高速バス乗り場でハリーさんと、お別れしました。PRICE LESSこれまでにない、極上の時を過ごすことが出来た、本当に素晴らしいオフ会でありました。
2007年12月02日
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新撰組は、鉄の掟と云われるほどの厳しい隊則が運用されていたため、幹部クラスも含めて、激しく人が入れ替わりました。まさに、新陳代謝によって組織が維持されていたと云えるほどです。池田屋事件により、勇名を馳せたその後も、新規募集・粛清などにより、新撰組隊士の入れ替わりは進行していきました。今回は、そうした、新撰組の人事・組織の移り変わりを追いかけます。元治元年(1864)年8月。組織の強化を目指す、局長の近藤勇は、江戸に戻って隊士を募集しました。その募集に応じて入隊したのが、伊東甲子太郎(いとうかしたろう)を中心とする、北辰一刀流・伊東道場の面々でした。彼らの新撰組入隊は、もともと伊東道場の寄り弟子であった藤堂平助が、仲介したものです。鈴木三樹三郎、篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄ら、総勢50名あまり。伊東甲子太郎は、新選組入隊と同時に、いきなり、参謀の地位をあたえられました。文武両道に優れ、伊東道場の道場主であったということがあっての抜擢でした。近藤勇は、彼の入隊を非常に歓迎していましたが、その一方、副長の土方歳三は、彼のことを並々ならぬ策士として、警戒していたようです。甲子太郎は、水戸学や国学を学んでいたことから、尊王攘夷の考えを持っていました。甲子太郎と新選組とは、当初は攘夷という点で結ばれていたのですが、新選組は佐幕派で、甲子太郎は尊王派。両者は、早晩、衝突することが明らかでありました。慶応元年(1865)年2月。今度は、副長の山南敬助が新撰組を脱走。その後、捕らえられた末に、切腹するという事件が発生します。「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走した山南に対し、近藤と土方は、沖田総司を追っ手として差し向け、山南は、大津で捕えられて、壬生の屯所に連れ戻されました。新選組の隊規では、隊を脱走したものは死罪。この時、山南は永倉新八に再度の脱走をすすめられましたが、彼は、死の覚悟を決めていました。山南敬助は、切腹。山南が何故脱走したのかについては、色々な説があり、よくわからないようです。慶応元年(1865)年4月。隊士が増え、壬生の屯所が手狭になったため、本拠を西本願寺に移転。この時、組の組織を再編しました。新撰組は、幾度も人事構成、編成替えを行っていますが、この時の、編成が一般的に、よく知られているものです。 局長 近藤勇 副長 土方歳三 参謀 伊東甲子太郎 組長 一番隊組長 沖田総司 二番隊組長 永倉新八 三番隊組長 斎藤一 四番隊組長 松原忠司 五番隊組長 武田観柳斎 六番隊組長 井上源三郎 七番隊組長 谷三十郎 八番隊組長 藤堂平助 九番隊組長 鈴木三樹三郎 十番隊組長 原田左之助 この下に、監察、伍長がおかれました。しかし、こうした幹部の面々も、決して安泰ではありませんでした。伊東甲子太郎、松原忠司、武田観柳斎、谷三十郎、藤堂平助、鈴木三樹三郎、らがその後の、色々な事件や、隊則違反などにより、粛清・暗殺されていきます。幕末に、「誠」の旗を掲げて京の町を警護し「人斬り集団」と恐れられた新撰組。その組織は、実にスリリングで、危ない集団であったといえるでしょう。新撰組についての、関連記事は、下記をごらんください。清河八郎と浪士隊の結成 新撰組誕生池田屋事件
2007年12月01日
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