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京都...1000年あまりの間、天皇が住まう御所が置かれ、日本の都であり続けた町です。この地に都が移されたのは、延暦13年(794年)桓武天皇の治世下のことでありました。しかし、この遷都に至る事情については謎が多く、正史である日本後記にも、この時期の記述が欠落しているため、その後、長きにわたって日本の都となった割には、なぜ、京都に都が置かれることになったかについて、実はよくわかっていないようです。そこで、今回は、平安遷都に至るまでのいきさつについて、まとめてみたいと思います。桓武天皇が平城京から、都を移そうと考えた理由としては、・奈良では寺社勢力や古くからの豪族の勢いが強く、思ったような政治ができない。・父の光仁天皇は、久々に復活した天智系の天皇で、 桓武も天武系の勢力から離れたいと考えた。・もっと、水陸の便が良いところに都を置きたいと思った。など、が挙げられます。最初に、新都の場所と定められたのは平安京ではなくて、現在の京都市南郊に位置する長岡京。建議を行ったのは、藤原式家の人で桓武からも信頼を集めていた、藤原種継でありました。延暦3年(784年)の6月から新都の工事が進められ、建設途中の11月には、桓武天皇も長岡へ移ってきました。しかし、ここで事件が起こります。新都建設事業の中心であった種継が、建設状況の督励中に、何者かに暗殺されたのです。すぐさま、犯人の捜索が行われ、やがて、大伴旅人・竹良ら数十人が捕らえられました。そして、この事件は、桓武の新政やこの遷都を快く思わない一派が、妨害・叛乱を企てて行われたものであると判断され、その首謀者として、桓武の弟である早良(さわら)親王も捕らえられました。早良親王という人は、光仁天皇がお気に入りだった人で、光仁の存命中には、桓武から政治を任されていましたが、光仁の死後は、桓武から政治の実権を取り上げられたため、両者の間に溝が深まっていたとも言われ、さらには、藤原氏と大伴氏との勢力争いも、その背景にはあったようです。しかし、実際、早良親王にこの事件への関与があったのかどうかは判然としません。捕らえられた早良親王は、廃太子の上、京の乙訓寺に幽閉され、その後、淡路へ流されることが決まりました。早良は無実を訴えて食を絶ち、憤慨の中、絶命します。しかし、それでもなお、早良の遺体はそのまま淡路へと送られていったといいます。一方、長岡京の建設は、種継暗殺事件の後も続けられていました。しかし、長岡京の建設は、思ったようにはかどりませんでした。さらに、この頃から、桓武天皇の周囲で奇怪なできごとが相次ぎます。その一つは、桓武の長男で後継者でもあった安殿(あで)親王のノイローゼ。夜中に早良の亡霊を見るのか、不眠症が続き、神経衰弱ですっかり体調を崩しました。桓武の妃であった旅子が死亡、さらに桓武の皇后である乙牟漏(おとむろ)までも、相次いで2人が病死します。続いて、安殿親王の妃である帯子(たらしこ)も病死。さらに、長岡京は2度にわたって洪水に見舞われました。そして、これらの相次ぐ災いは、早良親王の祟りであると考えられたのです。桓武天皇は、これらの怪異を鎮めるため早良親王に「祟道天皇」というおくり名を与え、種継暗殺事件で捕らえられたものたちの、罪を赦しました。淡路にも寺を建てて、早良親王の霊を弔います。そうした中、桓武天皇は、長岡の北方、当時、葛野(かどの)と呼ばれていた地への遷都を突然発表しました。これが平安京です。この建議をしたのは、和気清麻呂であるとされ、その建議書によると、「長岡が10年経っても竣工せず、国費の費えがおびただしい」ためということだけで、遷都のはっきりした理由は記されていません。和気清麻呂が薦めたためとあるだけで、この遷都は、確かに唐突な感じがします。しかし、この時の状況からして、早良親王の祟りという意識が、遷都に至る大きな要因であったことは間違いないといえるのではないでしょうか。現代の感覚では、そんなのは迷信であると馬鹿にされてしまうようなことですが、当時の人たちにとっては、深刻な問題だったのですね。この後、平安京の整備が急ピッチで進められました。やがて、この地が京都と呼ばれ、その後、長きにわたる日本の都となっていったのです。
2009年02月22日
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奈良時代から平安初期にかけては、藤原氏がその権勢を確立していった時代でもありますが、その中でも、藤原氏自体が四家に分かれ、それぞれが、盛衰を繰り返していきました。藤原不比等が亡くなった時に、四人の息子 武智麻呂(むちまろ) 房前(ふささき) 宇合(うまかい) 麻呂(まろ)と二人の娘 宮子(みやこ) 安宿媛(あすかべひめ)がいました。娘たちは、それぞれ天皇家に嫁いでおり、四人の息子たちは、不比等の後を引き継いで政権を担いました。この頃の藤原四家の関係について、まとめたものが、次の略系図です。(藤原四兄弟と長屋王)不比等の死後、四兄弟は、時の天皇・聖武の妃であった安宿媛を皇后にして、自家の勢力を強めようと考えていました。ところが、皇族以外で皇后になった人はこれまでにないとして反対があり、その中心となっていたのが長屋王でありました。ここで、四兄弟は、政敵であり、当時上位の政権者でもあった長屋王の抹殺を企てます。長屋王の変です。長屋王は、謀反の企てがあるとして自殺させられ、そればかりか、その妃・子供までが、自殺に追い込まれました。長屋王亡き後は、安宿媛が正式に聖武天皇の皇后(光明皇后)となり、その後は、藤原四兄弟が政権を牛耳るようになりました。ところが、藤原四兄弟の政権は長くは続きませんでした。因果応報というべきでしょうか、この時期、天然痘が大流行。藤原四兄弟の全員が、相次いで病死したのです。こうした天然痘の流行やまた、聖武・光明の間に子供が生まれないこと等、これらは、長屋王の祟りであると考えられました。そうした中で、これらの鎮静を願って建立されたのが、東大寺の大仏であったのです。(藤原四家の成立)藤原四兄弟が相次いで病死。しかし、藤原氏の隆盛は、それでもとどまることはありませんでした。四兄弟の子供たちが、それぞれに勢力を伸ばしやがて、藤原氏は四家に分かれていくことになります。武智麻呂の系統が、南家房前の系統が、北家宇合の系統が、式家麻呂の系統が、京家と呼ばれました。この後、この四家が、順番に盛衰を繰り返していくことになります。(南家の全盛期・恵美押勝)この四家の中で最初に、勢力を強めたのが南家でした。中でも、仲麻呂は聖武の娘孝謙女帝と、光明皇后からの信任を受けて政権と軍事の両方を掌握していきました。仲麻呂は、彼の推す淳仁天皇を即位させ孝謙女帝からは、恵美押勝(そなたを見ると笑ましく思わすの意)の名まで与えられました。結局、彼は人臣では、初めての太政大臣にまで登りつめていきます。しかし、そうした中で、仲麻呂にライバルが登場しました。孝謙上皇の病を癒したことから、上皇の信任を得ることとなった僧の道鏡です。仲麻呂は、孝謙のもとで出世を続ける道鏡に対して兵を集め反乱の準備を進めました。しかし、孝謙は軍学者として名高い吉備真備を呼び、仲麻呂追討を命じます。仲麻呂は破れ、捕らえられたのち、斬首されました。(恵美押勝の乱)この事件の詳細は、以前に書いた関連記事 恵美押勝と道鏡 を参照下さい。仲麻呂の没落により、南家は急激にその勢力を失っていくことになりました。(式家の台頭・藤原百川)次に、繁栄したのが式家。その繁栄のきっかけを作ったのが百川(ももかわ)でした。百川は、孝謙(称徳)天皇が跡継ぎを定めないまま崩御した際、吉備真備らの反対をくつがえして、光仁天皇を擁立しました。これは、しばらく天武系の天皇が続いていたところに、天智系の天皇を復活させるという意味合いを持つ、クーデターでもあったのです。百川は、辣腕家として知られた人で、次の、桓武天皇を擁立させるように運んだのも、百川でありました。百川は娘の乙牟漏(おとむろ)を桓武の皇后にするなど、天皇家とつながりを強めていきます。以後の桓武朝においても、天皇の式家に対する信頼は厚く、平安遷都の際の中心勢力ともなりました。しばらくの間、式家の全盛期が続いていきます、(京家と北家)京家は、結局、最後まで振るうことがありませんでした。式家は、やがて衰退していきますが、藤原四家の中で、最終的に勝ち残っていったのが、北家でありました。最も遅れて繁栄期を迎えた北家でありますが、やがて、摂関政治を確立し、道長や頼通などの”わが世の春”を現出していきます。以上、ここまで、奈良時代を中心とした藤原四家成立の概略でしたが、次は、平安時代、いくつかの事件を点描していきたいと思っています。
2009年02月15日
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封建社会の遺風が、色濃く残っていた明治の初期。女性は家にいて、家庭を守るもの。女に学問など不要、など。明治の初期には、そうした考えが強く残っており、学問の好きな才女は、畏敬されることはあっても、女だてらに変わり者と批判されるような時代でした。そうした中、社会の女性差別とたたかい、艱難辛苦の中、医師を目指し、一人奮闘した女性がいました。荻野吟子という人です。今回は、近代日本の女医第一号であり、女性運動家でもあった荻野吟子の、波乱に満ちた生涯をたどります。荻野吟子は、1851年(嘉永4年) 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)で名主を勤める、荻野綾三郎の5女として生まれました。 幼少期の吟子は、父の綾三郎が、「女には過ぎたる利発ぶり」と言って嘆いたというほどの、学問の良くできる才女でありました。しかし、荻野家は、この近郊でも有数の格式高い名家であったため、幼少期の吟子は、なに不自由ない裕福な生活を送っていたようです。1867年(慶応3年)には、武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎と結婚。 吟子16才の時のことで、もちろん、家同士が決めた結婚でありました。しかし、この結婚生活はすぐに破綻してしまいました。それが、こともあろうに、夫から淋病をうつされ、それがもとでの離婚だったのです。当時は、嫁いだものが戻ってくる、離縁されるなど、とても恥ずかしいことと考えられていた時代で、そんな中、とんでもない病気持ちとなり、子どもを産むこともできない身体になって実家に戻ってくるなど、考えられない屈辱でありました。世間から「出戻り」「不産女」「業病持ち」などと、後ろ指を指されるのを恐れ、隠れるように家の中で過ごす、絶望に打ちひしがれる日々が続きました。しかし、病状は進行するばかりで、じっと家の中にいても治る見込みはありません。吟子は、ついに、上京して専門の医院で診察を受けることを決意します。東京では、西洋医として評判の高い順天堂医院を紹介してもらい、入院することとなりました。しかし、この時の診察体験が、その後の吟子の生涯を決定づけることになります。婦人科の診察。そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察されるということが、吟子にとって、耐え難い屈辱的な体験であり、大きな衝撃であったのです。2年に及ぶ治療生活の中、やがて、吟子は同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという思いから、女医を志す決意を固めていきました。 吟子は、その後、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が開校されると聞くや、これを受験。その第一期生となり、やがて、ここを首席で卒業します。 しかし、彼女が目指したのは医師になることです。ところが、この時代、女医になるということには、絶望的なほどの障害がありました。当時の医学校は、どこも女人禁制で、女性が医学を学べる場所など、どこにもなく、また、法的にも女性が医師になることは認められていない、そうした状況だったのです。しかし、それでも、吟子は、医師になることをあきらめませんでした。東京女子師範の恩師から紹介してもらって、当時、軍の医監であった石黒忠悳(ただのり)という人に直接会って話しをする機会を得て、これからは、女医が必要であることを石黒に説明・懇願し、これに共感した石黒が、私立の医学校・好寿院を経営する友人を説得したことにより、なんとか、好寿院への特例入学が認められることになったのです。やっと、大きな関門を一つ乗り越えた吟子。しかし、なんとか、好寿院への入学は果たしたとはいうものの、男子学生の中で、女子は吟子一人という状況です。まわりからは、好奇の目で見られ、偏見と蔑視といやがらせの中、まさに艱難辛苦の勉学を続けることになります。それでも、3年間の履修過程を、吟子は耐え抜きました。抜群の成績を修めた上で、好寿院を卒業。次は、いよいよ、医師開業の国家試験を目指します。勇んで、医術開業試験の願書を提出する吟子。しかし、女性であるという理由で、その試験願は却下されました。翌年も試験願を提出しますが、また、同様に受験を拒否されます。思いあぐねた吟子は、再び、石黒忠悳に会い、事情を説明しました。話を聞いた石黒は、医術開業試験の所轄長である衛生局長・長与専斎に、働きかけることを約束しました。数日後、吟子は、長与専斎と面会する機会を得ます。「女性が医師になるには、どうしたらいいんですか」と、訴えかける吟子。「女の医者は前例がない」と長与専斎。「前例があれば、認めてもらえるんですね。」吟子は、それから、多くの書籍を調べ上げ、やがて、奈良時代の律令制の注釈書である「令義解」の中から、日本最古の医事法令の規定を見つけて、そこに女医という言葉が出ているのを探し出しました。こうして、衛生局もついに、吟子の医術開業試験受験を、認めることとなったのです。1885年(明治18年)吟子は、ついに、念願の医師開業試験に合格します。女医を志してから、15年。吟子、34才の春のことでした。次いで、この年には、東京湯島に借家を借りて、診療所「産婦人科荻野医院」を開業。このことは新聞や雑誌で取り上げられ、「女医第一号」として大きな反響を呼びました。診療所は、脚光を浴び、場所が手狭となるほどの繁盛ぶりでありました。しかし、吟子は同時に、医療を施すだけでは、病気を治療するには限界があることを感じていました。むしろ、治療に専念できるだけの生活環境、社会体制を整備する事こそが、必要であると感じ始めていたのです。そうした中で、彼女はキリスト教と出会い、やがてキリスト教に魅せられていきます。1886年(明治19年)吟子は、キリスト教の洗礼を受けました。それとともに、キリスト教系の婦人運動部会にも参加し、その風俗部長や幹事に就任するとともに、廃娼運動・女性の議会傍聴認可運動などに取り組みます。 この頃の吟子は、女医であるとともに、女性活動家としても知られるようになり、社会的にも、評価されるようになっていきました。しかし、そんな吟子にも、やがて人生の転機が訪れます。そのきっかけは、一人の青年との出会いでありました。1890年(明治23年)。吟子39才の時。13才年下の同志社の学生で、敬虔なキリスト教信者でもあった志方之善(しかたゆきよし)と知り合い、やがて、2人は恋に落ちます。吟子は、キリスト教の理想社会を求める之善の熱意に共感し、釣り合いがとれないと周囲が反対するのを押し切って、之善と再婚しました。幸せな新婚生活を過ごす2人。しかし、それも束の間、やがて、夫の之善は、キリスト教の理想郷をつくるという信念のもと、北海道で原野を開拓すると言い、単身、北海道へと渡っていきました。しばらくは、東京から之善の支援を続けていた吟子でしたが、やがて、吟子も、北海道に渡り、夫とともに理想郷をつくる決意を固めます。吟子は、診療所をたたみ、社会的な地位も財産も投げ打って之善のあとを追って、北海道に渡ります。ところが、北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの事業は、想像以上に困難を極めたものでありました。環境も劣悪で、顔や手足は、蚊や虻にさされて、ただれ、過酷な労働の中、マラリヤにかかり死んでいく人が続出します。そうした中、この開拓事業は7年にわたり続けられましたが、結局、之善の試みは、全くの挫折に終りました。その後、吟子は、海辺の町瀬棚に移転し、ここで診療所を開業し、暮らしていくことになります。一方の之善は、その後、マンガン鉱の開発にも失敗し、一旦、同志社へ再入学したのち、再び、北海道の教会へと赴任してきました。そんな時、之善が、突然、病に倒れます。 長年の無理がたたっての過労によるもので、之善は、無念のうちに、息を引き取りました。1905年(明治38年)のこと。之善が北海道に渡ってからは、早や、14年の歳月が流れていました。夫に先立たれた吟子は、その後、3年間瀬棚で過ごしますが、やがて、帰京。本所区小梅町で医院を開業しながら晩年を送ります。 1913年(大正2年)肋膜炎にかかり、逝去。享年62才でした。 吟子の生涯は、常にひたむきでした。ひたむきさと、頑張りがあれば、不可能と思われることも可能にできるということを彼女の生涯は、示してくれているように思います。また、それと同時に、北海道に行かず、そのまま活動を続けていれば、もっと大きな功績を、社会に残すことが出来たのではないか、という残念な思いも交錯します。日本女医会では、昭和59年に、荻野吟子の偉業を称えて、「荻野吟子賞」を設置したそうです。この賞は、女医の地位を高めるために貢献した女性に対し、毎年、贈られているといいます。
2009年02月07日
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私、どちらかというと気に入ったものには、のめりこんでしまう、たちのようで、読書についても、広く浅くというより、偏ってしまう傾向があります。その一つが、アガサ・クリスティのミステリー。推理物、ミステリーも好きなのですが、しかし、それも、クリスティ作品に偏っています。アガサ・クリスティといえば、ポアロとマープル。2人の名探偵が有名ですね。エルキュール・ポアロは、卵型の頭に、大きなヒゲが特徴のベルギー生まれの探偵。自称”灰色の脳細胞”を駆使して、数々の難事件を解決していき、世界的にもシャーロック・ホームズに次いで有名な探偵であるといわれています。ミス・マープルは、ロンドン近郊の村で、ひっそりと暮らす独身の老婦人。しかし、持ち前の鋭い観察眼で推理を繰り広げ、いくつもの事件の謎を解き明かしました。また、この2人が登場しない作品にも、見逃せない名作が、多くあります。そういうわけで、今回は、私が読んだ作品の中から、全くの独断と好みで、クリスティ作品のベスト10を選んでみました。第10位 『オリエント急行殺人事件』かつて、映画が大ヒットしたこともあり、一番有名なクリスティ作品かもしれません。ポアロが乗り合わせたオリエント急行の車内で、殺人事件が発生。閉ざされた列車内に犯人がいるのか?そして最後は・・・ あきれかえるほどの結末を迎えます。第9位『予告殺人』「殺人をお知らせ申し上げます。10月29日午後6時30分より、リトル・パドックスにて、お知り合いの方のお越しをお待ちします。」という文章が新聞広告に掲載され、その村の住人たちが、半ば興味本位で集まります。そこで、響き渡る銃声・・・ミス・マープルものの代表作といわれている名作ミステリーです。第8位『ゼロ時間へ』ポアロもマープルも登場しませんが、クリスティも自選ベスト10に挙げているという本格ミステリー。最後の予想外の結末(といっても事件ではなく、恋のゆくえですが)私自身は、どうもすっきりきませんでした。でも、ごく最近に読んで印象に残っていたこともあり、ベスト10に入れてみました。第7位『ナイルに死す』ナイル川周遊の観光船で、莫大な遺産を相続した新婚旅行中の新妻が殺害され、ポアロが、この事件の謎解きに挑みます。映画化された、ナイル川の雄大な映像も印象的でした。第6位『メソポタミア殺人事件』クリスティの夫は考古学者だったため、クリスティ自身も、彼の遺跡調査をよく手伝っていたとか。死んだはずの夫から届いた謎の脅迫状。メソポタミアの遺跡発掘現場で起こる殺人事件に対し、ポアロが解決に乗り出します。第5位『無実はさいなむ』キャルガリという地理学者が、ある日、一人の青年をたまたま車に乗せました。その後、彼は南極に調査に出かけ、それから帰国してくると、その青年が、殺人の容疑者になっていることを知ります。殺人の時刻には、彼は私の車に乗っていた。キャルガリは、彼の無実を証明するため、一人、事件の究明に乗り出します。探偵は登場してきませんが、とても魅力のある作品です。第4位『アクロイド殺し』裕福な未亡人が、睡眠薬の飲みすぎで死亡。その翌日、彼女の再婚相手と思われていたアクロイドという初老の紳士が殺害されます。クリスティの代表作と評されている名作ですが、その著述方法に賛否両論の物議をかもしだしました。私も、このやりかたは、ちょっと掟破りなのではと・・・他の作家も、二度と同じ手は使えない?第3位『パディントン発4時50分』マープルの親友が、汽車の窓から、並行して走る汽車の車内で男が女を絞殺している現場を目撃。警察に調査を依頼しますが、しかし、殺人の痕跡も遺体も発見されません・・・物語が展開されていく中で、犯人探しもさることながら、遺体はどこに行ったのか、殺された女性は一体誰なのか、という部分が興味深い作品です。第2位『三匹の盲目のねずみ』開業したばかりの山の民宿に、雪の中、多くの宿泊客が到着。しかし、猛烈な吹雪のため、民宿はやがて、雪の中に孤立してしまいます。そこで、起こった殺人事件。大雪の中、部長刑事がスキーにのって駆けつけます。私が、犯人の意外さに最も驚いた作品。クリスティには、「ねずみとり」という舞台公演ロングランのギネス記録を持つ舞台劇がありますが、この作品は、その原作でもあります。第1位『そして誰もいなくなった』 オーエンと名乗る人物からの招待で、10人の男女が、インディアン島という無人島に集まってきます。しかし、オーエンは現れず、やがて、部屋に残されたインディアンの歌の通りに一人、また一人と、順番に殺されていきます。残されたものたちは、互いが殺人犯なのではと疑心暗鬼にとらわれていき、やがて、最後の一人になってしまう・・・。格調高いミステリーで、まさに、不滅の傑作だと思います。結末を知っていて読み返しても、なお、引き込まれていくほどに緊迫感があります。と、いうことで、未読の人には、ネタばれになるので、概略の紹介が、奥歯にものがはさまったような書き方になりましたが、クリスティの推理ものは、私にとって、気分転換にちょうど良い読み物となっています。興味のある方は、また、読んでみられてはいかがですか。
2009年02月01日
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