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手に茶碗をのせると客の前に運び、客が飲み終わると戻っていく”お茶汲み人形”。矢台に置かれた矢を人形が順番に手に取り、連射していく”弓引き人形”。江戸時代の末期、そうした、からくり人形を作って、たちまち評判となり、全国にその名を知られたのが「からくり儀右衛門」です。しかし、彼は、単にからくり師として、その生涯を終えたわけではなく、からくり人形で培った技術や知識を発展させて、数々の発明を行い、幕末から明治初期においては、日本の技術者の草分けとして、数々の功績を残した人でもありました。彼は、その独創的な発明や技術によって「東洋のエジソン」と称されたりもしています。本名は田中久重、幼名を儀右衛門といいました。今回は、そうした「からくり儀右衛門」こと田中久重の生涯についてまとめてみたいと思います。田中久重は、寛政11年(1799年)に筑後国久留米の城下で鼈甲細工店を営む田中弥右衛門の長男として生まれました。 子どもの頃から、職人であった父の傍らで、その仕事ぶりを見て育ち、また、もともと手先が器用であったため、父の仕事場で色々な道具を遊び半分でいじりながら、道具の使い方を自然に覚えていったそうです。そんな、久重少年が、最初にその才能を発揮したのが9才の時。寺小屋の仲間が、硯箱に度々いたずらをするのに業を煮やしていた久重は、自分しか開けられない巧妙な鍵がついた硯箱を作り、周りの仲間たちを驚かせました。彼はこの時、発明・工夫することの楽しさを感じたといいます。15才の時には、近所に住む、久留米絣の作者から依頼されて、絣に絵模様を織り込むための織機を完成させました。これにより、彼の発明家としての評判が、周囲に鳴り響いていきました。ところで、この頃、久留米城下の五穀神社に見せ物小屋があり、久重は、そこで見た、からくりのお茶汲み人形に魅せられていきます。彼は、何とかして、これと同じからくり人形を作りたいと思い、それ以降、からくり作りに没頭していきました。ちょうど、父がからくりの仕掛けについて書いた本を長崎から持ち帰っていたこともあり、これを参考にして、ついに、同じ型の”お茶汲み人形”を作ることに成功します。これでコツをつかんだ久重は、続けて、弓を連射する”弓引き人形”や水力により、天女が雲の上で舞う”雲切り人形”など、独創的なからくり人形を、次々と作り出していきました。そして、これらのからくり人形を、見せ物興業で発表したところ、たちまち大評判となり、久重は、からくり師として身を立てていく決意を固めます。その後は、京都・大阪・江戸と、全国を興業にまわり、それとともに、さらなる技術修行を続けていきました。天保5年(1834年)久重35才の時。自分の技術に自信を深めた久重は、大阪への移住を決意し、家族を呼び寄せます。この頃には、久重も、からくり人形ばかりでなく、様々な発明品を作ることにより、生計を立てることが出来るまでになっていました。この時期の久重は、様々な発明品を世に出していきます。【携帯用懐中燭台】折りたたむと板状になり、懐にもしまうことが出来る真鍮製の燭台。【無尽灯】ろうそくの灯は、ゆらいでいるために、非常に見にくかったのを、空気の圧力で、菜種油が管をつたって灯心に昇る仕掛けを発明し、長時間安定した灯りを供給できるようにしました。【雲龍水】水を10mも飛ばすことができる消防用の手押しポンプ。これのおかげで、大火にならずに済んだと、大いに感謝されたという話も残っているそうです。【万年自鳴鐘(万年時計)】西洋時計と和時計が融合された、工芸品のような時計で、曜日・二十四節気・旧暦の日付・月の満ち欠け等、あらゆる時の概念が一つに凝縮されているといった複合時計です。これは、からくり時計の史上最高傑作とも云われ、時の関白・鷹司卿からも「日本第一の細工師」であると絶賛されました。発明家として、世に知れ渡るようになっていった田中久重。しかし、そうした久重の人生にも大きな転機が訪れます。ペリー来航に始まる幕末の動乱により、時代は、西洋諸国のような進んだ科学技術の取得を熱望し始めたのです。嘉永6年(1853年)久重、54才の時のこと。久重は、高い技能を持つ技術者を求めていた佐賀藩から、仕官するようにと勧誘を受けました。久重は、佐賀藩に仕えることとなり、当時、日本でも最先端の科学技術研究機関といわれていた、佐賀藩の精煉方という部署に配属され、これ以降、久重は、蒸気機関や大砲など最先端の技術開発に取り組むことになります。日本で初めての国産蒸気船「凌風丸」を製作。また、模型ではあるものの、実際に動く蒸気機関車の模型も作りました。さらに、郷里である久留米藩からも技術顧問として招聘され、ここでは、当時の先端兵器であるアームストロング砲も完成させています。幕末の藩営技術の向上においても、大きな足跡を残していった久重。しかし、時代は、やがて明治維新を迎えることとなり、藩営工場も閉鎖されることになります。久重も故郷の久留米に戻って、またもや、大好きな発明を続ける日々を送りました。ところが、明治という新しい時代も久重を、そのままおいては、おきませんでした。明治4年(1871年)電信機国産化の必要性を感じていた明治政府が、その技術者として、久重を東京に呼び寄せたのです。久重、この時、すでに72才。東京に着くや、久重は、早速、電信機の開発に取り組み、苦心の末、これを作り上げます。そして、この電信機は、輸入品と違わぬ精巧さを持ち、操作性はそれ以上であるとの、高い評価を受けるほどの出来でありました。政府からは、電信機の追加注文が続々と入ってきたそうです。明治8年(1875年)久重は、東京・新橋南金(現在の銀座8丁目)に、新しい工場兼店舗を構えました。日本初の民間工場、田中工場です。この田中工場は、電信機ばかりでなく、一般機械全般を製造する総合機械工場で、さらに、ここでは、久重のもとで、多くの技術者が育っていきました。「沖電気」の創業者である、沖牙太郎、宮田自転車で知られる自転車会社を創設した宮田政治郎、日本初の国産旋盤を開発し、工作機械の父と言われた池貝庄太郎 などその中心人物です。そして、田中工場自体も、久重の弟子である田中大吉が、2代目久重となり引き継がれていきました。2代目久重は田中工場を継承して「芝浦製作所」を創設。やがて、これが、現在の「東芝」へと発展していくことになります。久重が死去したのは、明治14年(1881年)。享年82才でありました。先端技術を駆使し、もっと人々の生活に役立つ発明をしていきたい。幕末から明治に至る動乱期にあって、常に時代の先を見据え、人々を楽しませる発明を追い続けた人生でもありました。老いてもなお、「からくり儀右衛門」の頃そのままに、永遠の発明少年のようであったという田中久重。久重の人生そのものが、モノづくりニッポンの原点だったのではないか。久重の生涯を振り返える時、そのようにさえ思えてきます。
2009年10月30日
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幕末、土佐藩からの建白を受け入れた徳川慶喜が大政奉還を行ない、朝廷に政権を返上したことは良く知られています。この大政奉還は、坂本龍馬が、後藤象二郎に働きかけて、山内容堂が奏上したことにより実現したものでありますが、しかし、大政奉還という考え、それ自体は、以前から、有識者の間では、何度か構想され、議論されてきていたことでもありました。その元々の発案者は、誰かというと、幕臣で、中でも英才といわれていた大久保忠寛(一翁)。大久保一翁といえば、勝海舟の盟友としても知られた人で、ただ、海舟よりも家格が高い分、海舟より先に出世をし、海舟が、幕府の主要ポストにつけるように斡旋した人でもありました。この大久保一翁が、大政奉還を唱えたのは、文久2年頃、慶喜の大政奉還が行われる5年前のことでありました。この頃、幕府は、朝廷から攘夷の実行を迫られていて、しかし、攘夷の実行が不可能であることがわかっていた一翁は、この時、それならば、幕府は朝廷に政権を返上して、駿河・遠江・三河3国の大名に戻り、後を朝廷に任せようという発想から主張されたものでした。朝廷に政権を担当させて、攘夷がどれほど不可能なものか、思い知らせようとするのがその目的。しかし、大久保一翁が、幕臣でありながらも、どういう思想的背景から、この大政奉還を考えついたのか、定かではありません。ただ、当時の武家の一般教養である、儒学思想から思い至ったのではないか、と、想像することができます。一翁の大政奉還につながる考え方の中に、次の言葉があります。「天下は天下の天下にして 徳川の天下にあらず」徳川の政権は、天下から委任されたもので、徳川の恣意により私すべきでない。その政権担当能力がなくなった時には、政権を天下に返すべきである。ここでいう「天下」とは、「公」といっても良いでしょうし、幕末のこの時期においては、「天皇を中心とする朝廷」とも取れるかもしれません。一翁は、この大政奉還の話を、勝海舟や横井小楠、越前候の松平春嶽に語りました。土佐の山内容堂にも語り、容堂もこれを聞き、大いに感服したという話も残っています。しかし、文久2年という段階では、幕府の権力もまだまだ強大であったため、一翁の大政奉還論は、過激な空論として現実には受け入られず、一翁は忌避され、やがて、左遷されてしまいます。時代は少し下がって、慶応元年。第二次征長戦の停戦問題の時にも、大政奉還が議論されました。敗勢となったこの戦いを停戦に持ち込みたい慶喜は、松平春嶽に停戦処理の協力を求めたのですが、この時、春嶽が協力するための条件として持ち出したのが大政奉還論でありました。家茂が死去し、将軍位が空位となっている状況の中で、幕府を廃して、諸侯連合による新たな政体を築くことを春嶽は求めたのです。慶喜は、これを了承。勝海舟が長州への使者となり、停戦合意が成立しました。しかし、結局、この時、慶喜はこの約束を守ることなく、将軍に就任したため、大政奉還は実現しませんでした。その後も、中岡慎太郎が大政奉還案を述べるなど、議論の対象にはなっていきますが、どれも、現実的な動きにはつながっていきません。そこへ、最終的に、タイミングを得て、実現に向けての道筋をつけたのが坂本龍馬でありました。「船中八策」で後藤象二郎に提案したことから、土佐藩が実現に向け動き始めます。大政奉還は、案として議論されていた段階から、龍馬のような構成力を持った調停の天才の手を経て、実現されていくことになるのです。
2009年10月24日
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中岡慎太郎といえば、坂本龍馬の陰にいつも隠れがちで、龍馬が脚光を浴びる分、もう一つ、スポットが当てられることの少ない存在です。しかし、慎太郎の残した功績というのは、決して小さくなく、龍馬とは異なる方向で、日本の方向性を見定め、維新に向けて主導していった人でもありました。中岡慎太郎の事績の主なものとしては、・尊王攘夷派の志士として活躍(土佐勤王党~長州の忠勇隊)・薩長同盟の締結に尽力(龍馬より早かった)・大政奉還の提唱(龍馬より早かった)・薩土の提携・土佐討幕派の育成(乾退助を薩摩に紹介)・岩倉具視と三条実美、討幕派との連携・陸援隊の創設 などそれに加え、「時勢論」という著書を残した革命理論家としての側面もあります。この本を通じて、尊王攘夷運動の意義や目指すものを示し、討幕への方向性を導いた人でもありました。今回は、そうした中岡慎太郎の略歴をたどりながら、その事績と思想にについて、まとめてみたいと思います。中岡慎太郎が生まれたのは、天保9年(1838年)。土佐安芸郡北川郷柏木村に、中岡小伝次の長男として生まれました。父の小伝次は、苗字帯刀も許されていた大庄屋で、郷民からも信頼を集めていたといいます。子供の頃から、父に手習いを受け、又、近郷の医師や学者からも四書や詩経などを学び、14才の時には、代講まで務めるようになるまでに学問を積んでいたそうです。剣術は、武市半平太から教えを受け、高知城下の武市の塾で修行を重ねる中、龍馬と知り合ったと云われています。一方、庄屋としての使命感も強く、郷民のために、藩に掛け合って借金をしたり、食糧をまわしてもらったりと、郷民の救済に力を尽くしました。また、地域振興のため、ゆずの栽培を推進して、特産品の開発にも力を注いでいたともいいます。そうした中、時代は、幕末の動乱期に。やがて、慎太郎は、武市半平太が結成した土佐勤王党に加盟、尊王攘夷運動に、邁進していくことになります。しかし、やがて、山内容堂が土佐勤王党を弾圧。慎太郎にも捕縛令が出されたことを知り、慎太郎は土佐を脱藩、その後、慎太郎は長州へと向かいました。長州では、京から逃れてきていた三条実美ら尊攘派公卿と面会し、長州の志士たちとも交わりました。翌年には、京で起こった蛤御門の変に参戦。乱戦の中で、負傷し、やむなく敗走。その後、長州に戻っって、三条らが潜居する功山寺の護衛を担当していました。そうした中、慎太郎の転機となったのが、西郷隆盛との出会いでありました。幕府の起こした第一次征長戦。幕府方の参謀として、調停交渉を進めていた西郷は、この征長戦を、穏便のうちに終息させたいと考えていました。その撤兵の条件の一つが、三条ら尊攘派公卿の他藩への移転問題。ここで、慎太郎は西郷と協議を重ねることになります。この時、慎太郎は、西郷の真意を知っていたく感動したといい、決意を持って、長州の寛大な処分を行おうとする西郷に同意。慎太郎は、この時に、薩長同盟の可能性に気がついたといいます。それ以降、慎太郎は、薩長同盟締結のために奔走し、その動きに、龍馬も加わり、やがて、薩長同盟が実現していくこととなります。ところで、慎太郎は、この頃から、「時勢論」と呼ばれる論文を書きはじめました。4回に分けて執筆・公表されたもので、この論文は、討幕運動に対し、少なからぬ影響を与えたとも言われています。この論文をたどることで、慎太郎の考え方が進化していった様子もわかります。そこで、ここからは、慎太郎が書き記した「時勢論」を中心に、慎太郎の考え方について見ていくことにします。<慶応元年 「時勢論」>慎太郎が薩長連合に着目して、活動を始めた頃に書かれたものです。「富国強兵と云ふものは、戦の一字にあり。」この言葉から、慎太郎は武闘派であると、イメージされたりもしますが、要は、薩摩、長州とも西欧列強との戦いを経験し、敗れたことで、「民族の独立」を意識するようになり、他藩に比べ「富国強兵」が進行していったということを述べたかったようです。さらに、こうした薩長両藩について。「自今以後、天下を興さん者は必ず薩長両藩なる可し、吾思ふに、天下近日の内に二藩の令に従ふこと鏡にかけて見るが如し、他日本体を立て外夷の軽侮を絶つも、亦此の二藩に基づくなる可し。」これからは、薩長両藩の命に従うことになる、と薩長の天下を予測しているのです。<慶応2年 「窃に知己に示す論」>土佐藩の上士から依頼されて書かれたもので、この中で、慎太郎は大政奉還論を唱えています。「徳川を助けるための策はすでにない、徳川自ら政権を朝廷に返上し、臣としての勤めを果たすことこそ残された道である。」さらに、アメリカのワシントンを例に挙げて、徳川慶喜と対比し、万国に名誉を示すべきであるとも述べています。この慎太郎の大政奉還論は、坂本龍馬、後藤象二郎の大政奉還よりも8ヶ月早く、また大政奉還後、国内において戦いが起こることを予想し、倒幕の戦いの準備を始めることを示唆していることも象徴的です。もう一つの注目は、慎太郎の世界情勢論。慎太郎は、海外の情勢についても感心を持っていて、その知識と分析の深さには、目をみはるものがあります。「今時、恐るべきはロシアである。虎狼のような心を包み隠し、数年この方、大兵を養い、国費を蓄え、石炭を用意し、諸国との交易を心にもかけず、もし彼の政策を以って立たしめるならば、必ずや突如として侵略し、その恐れがあるのは、我が国を以って甚だしいとす」「只、ロシアだけでなく、中国がこれに次ぐ。英国やフランスも危ない。ロシアだけでなく、アメリカも同様に恐るべき所がある」慎太郎の自論は、国を開き、貿易を行いつつ、富国強兵を急ぎ、挑み来る敵国があれば敢然と戦う、ということでありました。慎太郎のいう攘夷とは、「国の独立」「民族の自立」を目指すものであり、アメリカの独立戦争に触れて、これを「攘夷」であると位置づけているのです。<慶応2年 「愚論 窃に知己に示す」>土佐藩の兵制改革、政治改革についてまとめたものです。兵制改革については、洋式銃の整備に重点を置き、精鋭部隊を作ることを強調しています。これを元に、乾(板垣)退助によって、迅衝隊が組織され、戊辰戦争で活躍をすることになります。慎太郎は、なお佐幕傾向が強い土佐藩を、薩長と同じ土台に立たせるべく、政治改革や同志の意識改革を訴えていったのです。<慶応3年 「時勢論」>先に、大政奉還論を唱えていた慎太郎でしたが、この「時勢論」においては、慎太郎の理論が討幕へと進化しています。「西洋各国の国勢を見れば、軍備政教を一新して国体を立ててきた。いまだ周旋と議論とに終始して国を興したことは聞かない。」と述べ、後藤象二郎による大政奉還論を、暗に批判しています。「邑ある者は邑を投げ捨て、家財ある者は家財を投げ捨て、勇ある者は勇を振るい、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸あるものはその技芸を尽し、愚なる者は愚を尽し、公明正大、おのおの一死をもって至誠を尽し、しかるのち政教たつべく、武備充実、国威張るべく、信義は外国におよぶべきなり。」国難に際しては、階級に関係なく、民衆が一体となることにより、藩論を動かすことが出来るのであると主張しているのです。慎太郎は、幕末の攘夷・討幕運動を、民衆をも含めた革命運動であると認識していたのでありました。慶応3年(1867年)11月15日。中岡慎太郎は、京都・近江屋において、龍馬とともに襲撃を受け、その2日後、この世を去ります。彼が目指した明治維新が、成就する目前のことでありました。維新が成ったら何をするか、と、聞かれたとき、龍馬は、世界の海援隊として世界中を飛び回る、と答えたそうですが、慎太郎の場合は、そうした話は残されていないようです。しかし、もし、慎太郎が維新後まで生き残っていたとしたら、きっと、明治政府の中心人物の一人となっていたのではないでしょうか。ひょっとすると、中岡内閣が誕生していたかも知れません。慎太郎は、それくらい、広い視野を持った人物であったのだと思いますね。
2009年10月18日
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前回の桑名の旅の続き。今回は、江戸時代。桑名の繁栄を見ていきます。江戸時代の桑名は東海道の要所であり、また、伊勢神宮への東玄関のような役割を果たしていたため経済的にも繁栄し、また、独自の地方文化が花開いた町でもありました。そうした桑名の江戸文化の中で、ちょっと風変わりで、特徴的なものが折り鶴の発達です。中でも、長円寺という寺の住職・義道一円は、折り鶴作りの名人で、一枚の紙に切り込みを入れて、つなぎ折りして鶴の形にしていくという「連鶴」と呼ばれる折り鶴をいくつも作っていました。やがて、義道一円は、この折り方を描いた折り紙の教本(『秘傳千羽鶴折形』)まで出版します。この本は、「連鶴」49種の完成図と、その銘、銘にちなんだ狂歌が添えられているといったような内容のものでした。この『秘傳千羽鶴折形』は、現存する世界でも最も古い折り紙のテキストであると言われていて、この折り方は「桑名の千羽鶴」として、現在、桑名市の無形文化財に指定されています。桑名市博物館には、この桑名の千羽鶴が常設展示されていました。「連鶴」の折り方を書いたチラシと折り紙も置いてあり、その場で「連鶴」創りに挑戦できるようになっています。また、折り紙コンテストのような企画も、時折、実施されているようで、さすが、折り鶴の町だけに、折り鶴の普及に力を入れています。ところで、何といっても、江戸時代の桑名を象徴するものは、東海道の桑名宿。桑名は、東海道五十三次第42番目の宿場町でありました。東海道というのは、陸路だけではなくて、一ヶ所だけ海路がありました。それが宮宿(名古屋熱田区)~桑名の間です。東海道を行く人々は、桑名で船を降り、再び陸路に戻るのです。七里の渡し跡。宮宿~桑名間をつなぐ渡し船の、船着き場です。この船は、宮宿~桑名の間の距離が七里であったことから、七里の渡しと呼ばれていたのです。ここからは伊勢国。お伊勢参りの入口にも当たるということから、江戸の天明期には、ここに伊勢神宮一の鳥居が建てられました。この鳥居は、今でも、伊勢神宮の式年遷宮に合わせて、建て替えられているのだそうです。この付近は、江戸の当時、船番所や本陣などが立ち並んでいたといい、東海道を行く人々で、大層な賑わいであったといいます。蟠龍櫓です。七里の渡しに面して建てられていた桑名城の櫓の一つで、船で桑名に入る人々が、必ず目にしたという、桑名の名物でありました。安藤広重の浮世絵「東海道五十三次」の桑名宿でも、この櫓が象徴的に描かれています。現在の蟠龍櫓は、資料や絵図を元に復元されたものではありますが、しかし、桑名市の水門統合管理所として、実際に使われている建物でもあります。この2階が展望室。たまたま、この日は休館日ではありましたが、一般にも公開されているということです。かつて、東海道を結ぶ渡し舟が行き交っていた、揖斐川の流れです。この日は風が気持ちよく、川のほとりに佇んでいると、何とも言えない爽快感がありました。ちょっと地味ではありますが、特徴的な歴史を持つ桑名の町。歴史好きな私にとっては、なかなか、見どころ満載の旅でありました。
2009年10月09日
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桑名といえば・・・「その手は桑名の焼き蛤」という洒落言葉が有名です。東海道五十三次の宿場町であり、また、お伊勢参りの東国からの入口として相当に繁栄していた町で、この焼き蛤の句も、そうした繁栄のさまが示されているように思います。しかし、一方、幕末において、桑名藩は、会津藩とともに幕府方の急先鋒となり、藩主・松平定敬(さだあき)のもと、戊辰戦争を戦い抜いたという歴史を持っています。そうした、幕末史の主要勢力の一つであった桑名の地を、訪ねてみたいと思い、この前の、シルバーウイークの休みに、桑名へと行ってきました。出かける前に、インターネットで桑名の幕末史跡を調べてみたのですが、検索をしても、ほとんど見つけることが出来ませんでした。現地で聞けば教えてもらえるかも、と思い、桑名駅に着くと、まず、観光案内所に行って聞いてみました。「幕末の史跡が残っているところへ行きたいのですが。 松平定敬にゆかりのある史跡はないですか?」と、聞くと「聞いたことがありますね、確か有名な人ですよね。」と言いながら、桑名観光案内の本の人名索引から、調べてくれました。一項目だけあって、九華(きゅうか)公園の中に、「戊辰殉難招魂碑」があり、松平定敬が碑文を書いたものだと教えてもらいました。次に、もう一つ「立見尚文に、ゆかりの史跡はないですか?」と、聞いてみました。立見尚文は、戊辰戦争の時から、いくさ上手として知られ日清戦争・日露戦争にも出征。その巧みな戦いぶりから、海外からも東洋一の戦術家と評された名将で、桑名から唯一、陸軍大将になった人です。「たつみなおぶみ ですかぁ」と言いながら、調べて頂きましたが、これは、人名索引にものっていません。地元で聞けば、多少は教えてもらえるかな、と思ったのですが・・・、対応して頂いたのは、中年くらいの女性の方でしたが、悪いことをしました。でも、それほどまでに、桑名に幕末史の面影は残っていないのです。観光案内所で教えてもらった通り、まずは、九華公園に行きました。かつては、桑名城の本丸・二の丸があったところで、昭和3年に、城跡公園として整備されたもの。もともと、この城を築いたのは、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝でありました。濠の跡を利用して、うまく整備されていて、ゆったりとした、良い公園になっています。この公園の一角に、鎮国守国神社(ちんこくしゅこくじんじゃ)という神社があり、その奥の方に、松平定敬の書による「戊辰殉難招魂碑」がありました。この一帯は、昔、天主閣があった場所なのだそうです。しかしながら、本当に、奥まった片隅という感じの場所で、何の説明文も掲示板もなく、それこそ、人知れず建っているという感じがしました。・・・気を取り直して、九華公園の中を散策します。公園の中には、何ヶ所か、辰巳櫓跡、神戸櫓跡など、城の遺構を示す説明が立てられていました。辰巳櫓跡です。この櫓跡には、何故か、大砲が一基置かれています。ここの説明文には、こう書かれていました。 桑名城は、元禄14年天主閣が焼失し、その後再建されなかったので、 この辰巳櫓が、桑名城のシンボル的存在であった。 戊辰戦争の時、降伏のしるしとして焼き払われた。 現在、大砲が置かれているが由来等は不詳。そうなのです。維新の時の桑名は、本当に悲惨な運命をたどったのです。戊辰戦争の時、藩主定敬以下、桑名の主力軍は東北各地を転戦。その留守の間に、国許の桑名では、新政府軍の前に降伏しました。無血開城といったようなもので、この時に、辰巳櫓は焼却され、他の建造物もすべて取り壊されました。それら遺構のほとんどは、当時、建設中であった四日市港の建設資材にすべく、運び去られたといいます。この後、地元の人に少し話を聞く機会がありましたが、賊軍である桑名に対して、新政府軍は、それこそ徹底的であったようで、根こそぎ潰されたのだと、仰っていました。それを思うと、おそらく今でも、桑名の人は、幕末の時のことは、あまり思い出したくもなく、観光の資源にする気も起こらない、ということなのかも知れません。九華公園を出て、桑名の町をさらに歩きます。たまたま、神社に行き着きました。赤須賀神明社という神社です。何気なく、境内を歩いていると、一角に石碑があるのに気がつきました。 村民死節之碑 明治三十二年 立見尚文 謹書 とあります。意外なところで出会った、立見尚文の名にびっくりです。これが、どういう経緯で、何の慰霊を行ったものなのか家に帰ってから調べてみました。節義のために死んだ村民を慰霊するための碑文ということなのだろう、とは思いますが良くわかりません。明治32年ということは、日清戦争終結の4年後に当たるので、この地から日清戦争に出征した兵士を慰霊したものかも知れませんし、あるいは、戊辰戦争以降の戦没者を慰霊する意味のものなのかも知れません。しかし、こうした碑を前にすると、立見尚文などもそうですが、戦争や死というものと、隣りあわせのようにして生きていた当時の人の、強靭な生き様と思いが伝わってきます。賊軍の汚名を着せられ、悲惨な運命をたどることになった幕末の桑名。その歴史を思うと心が痛みます。しかし、その一方で、正しいと信じた道を一途に貫いたその精神は、もっと、誇ってもいいのですよ、と、桑名の町に、声を掛けてあげたくなりました。
2009年10月02日
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