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薩長同盟成立に奔走し、第二次征長戦にも帯同するなど、めざましい活躍を見せていた坂本龍馬。しかし、その反面、この時期の龍馬は、その活動の基盤であった亀山社中の運営が、行き詰まりをみせていて、彼にとって、苦しい時期でもありました。ワイル・ウェフ号の海難事故やユニオン号事件 により、運用する船もなくなってしまい、社中の解散や、他藩への身売りさえ検討していたといいます。そんな時、龍馬にとって、新たな方向性を与えるきっかけとなったのが、長崎での後藤象二郎との出会いでありました。後藤象二郎は、吉田東洋の門下生で、土佐藩官僚の中でも若手のエリート。土佐勤王党弾圧に際して手腕を発揮したことで、土佐の老公・山内容堂に取り立てられこの時期には、藩の近代化政策推進の中心人物になっていました。この頃の後藤は、殖産興業と藩営貿易をすすめる立場をいいことに、長崎を拠点に派手に活動を続けていて、藩内からも批判を受けるほどに、豪勢な振る舞いを続けていたといいます。後藤象二郎という人は、ある意味、豪傑のような人で、気宇壮大であったとはいえるものの、悪く言えば、放漫で、全くの無頓着。明治になってからは、事業の失敗を重ねて空前の借金王となったことでも知られています。それでも、この動乱期にあっては、雄弁で、かつ、ずば抜けて強靭な精神力を持って、幕末の政局に、光を放った人でもありました。この後藤が、龍馬との提携を図り、また、龍馬も、後藤を通じて、藩の力を利用していこうとしたのです。もうひとつ、その背景には、土佐藩自体の方向性の変化ということもあります。これまで、容堂を中心とする藩上層部は、あくまでも幕府を中心とした公武合体路線を進めてきたのですが、第二次征長戦における、幕府のあまりにぶざまな負け方を見て、新たな方向性を模索しはじめていたのです。藩という大きな組織の力を利用していこうと考え始めていた坂本龍馬と、方向転換を模索していた土佐藩の後藤象二郎。そうした中、二人の長崎での会合が実現することとなります。慶応3年(1867年)2月。後藤象二郎は、長崎の清風亭という酒席に坂本龍馬を招待しました。仲介したのは、龍馬とも古くから交際があった土佐藩郷士、溝渕広之丞であったといいます。龍馬が後藤の待つ部屋に入っていくと、ちょうど、後藤は、馴染みの芸者を呼んで酒を飲んでいたところでありました。具体的な会談の内容はわかりませんが、龍馬は、この時、土佐藩は薩長とともに連合していけるという手応えをつかみ、後藤は、龍馬という人脈を通じて、薩長とのつながりをつかもうとしていたのではないかと思われます。そもそも、勤王党出身の龍馬にとって、後藤象二郎とは、勤王党を弾圧し、武市半平太を処刑に追い込んだ張本人。龍馬の同志たちの中にも、後藤を斬るべし、と主張するものも多くいました。しかし、それでも龍馬は、そうした同志の動きを固く抑えていたといいます。状況の変化により、又、薩長に土佐を加えた新たな体制を作っていくためには、これまでの憎悪やこだわりの感情は捨てるべきである。そうした、合理的な考え方でものごとに対応していこうとするところが、坂本龍馬の真骨頂であったといえるでしょう。一方、この頃、中岡慎太郎も土佐藩の首脳と薩摩藩首脳との会合が実現するよう仲介するなどの動きをみせていました。そうした中で、後藤の働きかけにより、坂本龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪が、土佐藩から黙認されることとなりました。やがて、土佐藩は「翔天隊」という新たな外部組織を設置。その両翼を担うものとして、坂本龍馬が運営する「海援隊」と中岡慎太郎率いる「陸援隊」が結成されていくこととなるのです。
2009年04月25日
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最近、仕事で、月一回程度千葉市に行っているのですが、その時に目にするのが「花の都・ちば」というキャッチフレーズ。JR千葉駅の駅前には、Jリーグ・ジェフユナイテッドの応援キャラクターとともに「花の都・ちば」と書かれたモニュメントがあり、目をひきます。そういえば、数年前に、千葉マリンスタジアムにロッテ戦の試合を見に行った時にも、幕張に同様のモニュメントがあったことを思い出しました。町をあげてのキャンペーンなのかなと思い家に帰って調べてみると、千葉市が推進している、都市イメージのプロジェクトのようです。この都市イメージ確立のための取り組みについて、千葉市長のお話が、「ちばニュース」のホームページに掲載されていましたので、抜粋します。----------------------------------------------------------------------千葉市は、全国的に名前を知られる都市イメージが乏しいことを残念に思っていました。そこで、千葉市の特長は何かを考えてみたところ、温暖で、四季に応じた穏やかな変化がある気候であると思ったのです。この特長を活かした都市イメージを考えた結果、四季折々にいろいろな花を楽しめるまちづくりをする、すなわち「花の都・ちば」の実現を目指すことにしたのです 基本的なコンセプトは、「四季折々に花のあふれる協働のまちづくり」を掲げ、市内のあらゆるところで、市民、民間団体、企業、花の生産者などと連携を図りながら、様々な取り組みを展開します。私は、単に花を飾るということだけではなく、″緑を大切に,ごみのないきれいな街″そして″人の心もきれいな美しい街″を目指していきたいと思います。このように街を思いやる意識が高まり、市民の皆さんが、ご自分の家や、地域を花で飾り、ああ綺麗な町だなあ、ずっと住んでいたいと思えるようになったとき、目標が達成されるのではないかと思っています。----------------------------------------------------------------------なるほど。素晴らしい取り組みだと思います。私の住む大阪などでは、そうした市民レベルで共同して取り組んでいこうというような意識が希薄であるように感じます。そういえば、千葉で見かける電車の広告にも、市民への呼びかけのようなものが見られたりと、千葉というところは、何か、そうした市民意識の高さを感じたります。住みやすく魅力のあるまちにしたいという”まちづくり”についての意識も高いのかもしれません。この「花の都・ちば」は、行政主体の”まちづくり”への取り組みではありますが、住民が主体となった”まちづくり”の動きも、全国の色々な町で進められています。自然発生的な地域社会の結びつきが、希薄になっている現代社会。それだけに、こうした取り組みに対して、市民が意識を高めていくことが、これからは、より大きな意義を持ってくるのではないかと感じています。
2009年04月18日
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先日の有馬温泉旅行で、いくつかお土産を買ったのですが、その時、有馬の特産品にまつわる由来話に興味を持ちました。まず、有馬みやげとして人気が高いのが、これ。「炭酸せんべい」です。小麦粉を炭酸水で溶かし、砂糖と塩で味付けしたもの。パリっとした食感に、あっさりとした甘み、飽きのこない素朴なおいしさが、人気の由縁なのでしょう。「炭酸せんべい」は、明治40年に、三津繁松という人が、有馬の泉源のひとつである炭酸泉源から湧き出る炭酸水に注目し、考案したものでありました。炭酸泉源から湧き出す炭酸水は、古くから「毒水」と呼ばれ恐れられていたそうですが、明治時代に入って、これが飲めるとわかると、飲食用素材として注目されていったようです。「炭酸せんべい」の原料水となった炭酸泉源です。神社のような建物の中に、炭酸水が湧き出る泉源があります。この周辺は、「炭酸泉源公園」として、きれいに整備されていました。ちなみに、「炭酸せんべい」の開発と同じ時期。この炭酸水に砂糖を混ぜたものをビンに詰め、清涼飲料水として売り出されました。この製品は「有馬サイダー」と名付けられ、国産サイダーの第一号になったと言われています。有馬のおみやげの中から、もうひとつ。「有馬人形筆」です。「有馬人形筆」とは、軸の表面に色とりどりの絹糸が巻かれ、軸の中にからくり仕掛けの人形が仕込まれている筆。穂先を下に向けると、軸の先端から可愛い人形が顔を出し、筆をしまうと軸内に戻る仕組みになっています。仕掛けの面白さと筆軸の美しさが特徴の伝統工芸品。使うには惜しいので、ひな飾りに使う人も多いそうです。この「有馬人形筆」には、由来が伝えられています。飛鳥時代、子供のなかった孝徳天皇は妃の小足媛(おたらしひめ)とともに、子宝に恵まれるようにと有馬温泉に入湯に訪れました。3ヶ月有馬に滞在し、めでたく皇子を授かりました。それが有間皇子です。この故事にちなみ、室町時代に作られ始めたのが、「有馬人形筆」の起源であったといわれています。その後、江戸時代から明治にかけて、人形筆作りが定着していきましたが、第二次大戦後になると、生産が徐々に衰退してきます。そして、現在、この「有馬人形筆」の製作を続けているのは、一店のみになってしまっているそうです。現在、唯一「有馬人形筆」の製作を続けている西田有馬筆本舗有馬の特産品は、それぞれに趣きを持っていますね。その発祥のルーツを訪ねてみることにより、さらに、親しみのようなものが感じられ、何か身近なもののようにさえ思えてきます。
2009年04月11日
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有馬温泉、一泊二日の旅。二日目の朝は、早起きして、有馬の歴史を訪ね町を散策です。日本最古の温泉といわれている有馬温泉。それだけに、その由来は古く、有馬の泉源を最初に見つけたのは、神代の昔、大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)であったとされています。この二神が、有馬を訪れた時に、三羽の傷ついたカラスが、水たまりで水浴しているのを見つけ、しかも、その傷が数日で治ったことから、その水たまりが温泉であることに気づきました。これが、有馬温泉発祥の由来であると伝えられています。少彦名命という神様は、方々の温泉発祥譚に登場してきますから、あたかも、温泉の神様のようでもありますね。大已貴命と少彦名命、この二神を祭神として祀っている神社が、有馬にありました。湯泉(とうせん)神社です。私は、入り口の鳥居まで行っただけですが、実際のお社はこの先、山の中腹くらいにあります。7世紀頃には、舒明天皇や孝徳天皇も、有馬の湯に魅せられ、幾度か有馬を訪れて、入浴したといわれています。日本書紀にも、有馬温泉についての記述が度々登場しているそうです。奈良時代には、行基により温泉の整備が進められました。行基は、民衆の中に入って布教活動を行い、貧民救済や治水・架橋などの社会事業に携わったことで有名なお坊さんでありますが、有馬の地において、温泉発展の礎を築いたのも、この行基であったようです。有馬の町には、行基の記念像が建立されていました。ある日、仏の化身による霊験を目の当たりにした行基は、それに感嘆して、有馬にお堂を建立し、写経を泉源に沈めるとともに、自ら彫り上げた等身大の薬師如来像をそのお堂に供えました。そうした言い伝えも残っているそうですが、そうした伝承とともに、行基により開創されたと伝えられているのが温泉寺です。平安時代の末には、有馬を大洪水が襲ったそうです。これにより、有馬は壊滅的な被害を受け温泉も疲弊していったといいます。しかし、この時、有馬の再興を果たしたのが、吉野からやってきた僧・仁西(にんさい)でありました。仁西は有馬に多くの宿坊を設置するなど復興につとめ、有馬温泉中興の祖と称えられているそうです。少し、時代は下って安土桃山時代。有馬温泉とのつながりで、何といっても有名なのが豊臣秀吉です。秀吉は幾度となく、有馬に入湯に訪れており、それとともに、有馬への援助も、継続的に続けていたといいます。特に、慶長2年(1597年)には、有馬温泉の大規模な改修工事を行っており、これが、現在の有馬温泉の原型を形作ったとさえ言われています。今も、有馬の町には、秀吉ゆかりの史跡や地名が数多く残されています。秀吉・北政所(ねね)の別邸があったところです。今は、念仏寺というお寺になっています。北政所を伴った湯治宿泊や、千利休を連れて、ここで茶会を催したりと、有馬は、秀吉お気に入りの保養地だったんですね。湯けむり広場にある太閤秀吉像。ねね橋とねねの像その後、江戸時代になると、庶民も社寺参詣や湯治に出かけるようになり明治以降の有馬には、名泉を求めて各界の著名人が度々訪れました。今も、有馬は関西の奥座敷と呼ばれていて、多くの人に親しまれています。有馬温泉の歴史は、名泉を求めて集まってきた人たちが培ってきたもの。病気の平癒や健康・癒しを願う、人のこころは、昔も今も変わらないのですね。そんなことを感じながらの有馬散策でありました。
2009年04月05日
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先週、家族で六甲・有馬、一泊二日の旅に行ってきました。長男(一浪)の大学受験と、次男(中三)の高校受験の合格祝いを兼ねての旅行でもあります。義母もいっしょなので、総勢5人、新開地から神戸電鉄に乗り、まず、有馬温泉に向かいます。有馬温泉から、さらに、六甲山頂へ。六甲山頂まではロープーウェイを利用です。六甲山頂に着くと、とても素晴らしい景色で、神戸の町や港が一望に見渡せます。さっそく、皆が、思い思いに写真撮影を開始。広々と広がる海原と、港の風景は、浮世の憂さを吹き飛ばしてくれるような爽快感です。でも、うす曇りだったせいか、目で見たようには写真に写ってくれなかったのは残念。しかしながら、ここは、又絶好の夜景スポットだということで、是非一度、夜に来てみたいものです。この展望エリアは、六甲ガーデンパレスという商業施設になっていて、飲食店や、おしゃれなグッズを売る店や、パワーストーンの専門店などもあって、結構、ショッピングも楽しめます。六甲山頂からの景色を満喫したあとは、再び、今日の宿泊地、有馬温泉へと向かいます。宿泊は、今、何かと話題のかんぽの宿。でも、料理は抜群に美味しかったですし、部屋も快適で、ゆったりとくつろげました。夕食のあとは温泉で入浴。有馬の湯には、金泉(含鉄強塩泉)と銀泉(炭酸泉、ラジウム泉)の2種類の泉質があるのですが、ここの湯は金泉。茶褐色で、なめると塩気がある有馬温泉独特のものです。さすがに名湯、溜まった疲れも芯から取ってくれるような心地よい有馬の湯でした。翌朝には、有馬の町を歩いてみました。町の所々には、温泉が湧き出ている泉源があって、また、古い町並みも残っています。 御所泉源と呼ばれている有馬の泉源のひとつ。 有馬に残る古い町並み。有馬の町は、湯の町の風情満載です。有馬温泉は、日本最古の温泉と言われているだけに、町をを歩いてみると、歴史的な見どころもいっぱいでした。そうした、有馬温泉の歴史探訪の話を、また、次回にでも・・・。
2009年04月03日
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