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【海外旅行 ブログリスト】
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今年も明日6月2日(土)から会社の先輩二人とトルコ旅行に行くこととなりました。
当初は4名でしたが、残念ながら1名は仕事の関係上キャンセルとなりました。
クラブツーリズムの『文明の十字路エキゾチック・トルコ10日間』の旅。
先日ツアーコンダクターの女性から携帯に連絡があり参加総数は29名とのこと。
その中で我々3人といつもの旅友Mさんご夫妻の5名がおそらく最大多数派。
何しろ廉価ツアーの為、成田からカタール航空で関西空港→カタール・ドーハ
→イスタンブールと20時間以上のグレート?タフ!ジャーニー。
ツアー名ともなっているように、トルコは東西文明の十字路。
地理的に三方を黒海、エーゲ海、地中海に囲まれたトルコ共和国。
古くから「東西文明の十字路」として栄え、ヒッタイト帝国、古代ギリシャ・ローマ、
ビザンチン帝国、セルジューク朝、オスマン帝国などが興亡した場所。
国土は日本の約2倍、人口は7,200万人、『中東』地域を代表する大国。
しかし、トルコの国土の大半を占めるアナトリア半島は言うまでもなくアジアに含まれる。
ボスポラス海峡の西部のわずかな地域がヨーロッパに含まれるのであるが、かつて、
オスマン帝国の領域(バルガン半島やアナトリア半島など)は近東(Near East)と呼ばれ、
ヨーロッパから見て近くの東方地域とみなされていたとのこと。
そして、イラン・アフガニスタン及び周辺国を中東(Middle East )と呼び、日本を含む東アジアや
東南アジアは極東(Far East)と呼ばれていたと。
日本における概念としてはキリスト教の地域をヨーロッパ、イスラム教の地域を中東となって
いるため、外務省のWebサイトでは、トルコを中東に含めているのである。
まさしく、ヨーロッパ、アジア、中東、・・・の『文明の十字路』なのである。
そしてトルコと日本の間には、120年にもおよぶ友好の歴史があるのだ。
そのエピソードは、1887年、日本の皇族がオスマン帝国皇帝に謁見し、その答礼として、
1889年、650名の使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号を日本へ派遣したことから
始まるのである。使節団は1890年、横浜に到着後、明治天皇に謁見して、同年9月に
トルコへの帰路へと着いたが、折しも日本は台風の季節。
和歌山県沖で、強風と高波に襲われ、沈没してしまったのだ。
この時、使節団587人が死亡する大惨事となった一方で、近くの村人たちが総出で救出
にあたり、69人の命が救われたのであった。
これとは逆に、イラン・イラク戦争が続いていた1985年、イラクの空爆を目前にイランの
首都テヘランに取り残されていた日本人約250人が、トルコ航空機によって奇跡的に救出
されるという出来事も。この2つの出来事は多くの人の心を打ち、今でもトルコと日本の
友好のきずなとして語り継がれて、トルコ人には親日家が多いとのこと。
訪れる場所は、
イスタンブール(【ブルーモスク、アヤ・ソフィア、ヒッポドローム)⇒トロイ⇒ベルガマ(ペルガ
モン王国)⇒エフェソス遺跡⇒パムッカレ(石灰棚、ヒエラポリス)⇒コンヤ(メブラーナ博物館)
⇒カッパドキア(ギョレメ野外博物館、地下都市カイマクル、ゼルベの谷、デヴレント、
ウチヒサール、三姉妹の岩、じゅんたん工場)⇒アンカラ⇒サフランボル(バザール、
フドゥルルックの丘)⇒そして再びイスタンブール(トプカプ宮殿、グランドバザール、地下宮殿
とトルコ周遊の旅。すべてバスによる移動でオプショナルツアー無しの今回も強行軍の旅。
準備もほぼ完了。気温は日本とほぼ同じとのことで半袖中心の衣類を準備。
温泉にも入りたいので海水パンツも準備したのだ。
トルコはイスラム教徒の国となった後でも、キリスト教の遺産と共存、調和する社会を
築いており、ここにトルコ人の寛容さが想像できるのです。
今回もトルコの人たちとの一期一会の出会いを、そして世界遺産にもなっているカッパドキア、
パムッカレの奇跡の自然風景を楽しみながら、アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる
トルコ共和国を肌で感じてきたいのである。
そして『ベリーダンス』も学んできたいと思っているのであるが・・・・・・・・。
・・・つづく・・・