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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】
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四国八十八ヶ所お遍路の旅・結願の翌日は高野山に向かう。
四国八十八ヵ所のすべて巡礼が終わり結願すると高野山へお礼参りに行く習わしがあるのです。
四国遍路は弘法大師の足跡を辿る旅でもあり、無事に八十八ヵ所を巡り終えた同行二人の
ご報告と感謝の気持ちをお大師様にお伝えするのです。
高野山では今でも弘法大師が生きて瞑想を続けられているとされる、奥之院にある
弘法大師御廟をお参りし、結願を報告するのです。
途中、桜、桃が紅白に咲き乱れ祝福してくれた。
そして高野山・大門に到着。
高野山の入口である国道480号線に面したところにあった。
高野山の総門であり、結界のシンボル。
もともと高野山の入口は、鎌倉時代ごろまで九折谷という地区にありその頃は
「門」の形ではなく鳥居が立っていたことが分かっていると。
当時高野山に建てられたのが、鳥居だった理由としてはもともと高野山が丹生都比売神社の
神領であったことが考えられると。
現在の門が建てられたのは、今から900年前のことでこの時鳥居から門へと変えられた。
また、800年には現在のような2階建ての楼門に建て替えられた。
その後戦国時代に焼失したが、応其上人によって再建された。
現在高野山に観光で赴いて目にすることのできる大門は、 1705
年再建。
国の重要文化財・世界遺産。
左右には金剛力士像が安置されていた。
阿形像。
大門のスケール感にマッチし非常に大きく日本国内で奈良の東大寺の仁王像に次いで
2番目の大きさを誇るのだと。
向かって右側に立つのが阿形像でその高さは546.0cm、京都の仏師・康意が造立。
吽形像。
左側に立つのが吽形像で高さ558.0cm、京都の仏師・運長が造立。
大門の中央二本の正面の柱に掲げられた、「日々影向文」(にちにちようごうぶん)。
これは高野山に伝わる「入定留身」の信仰の精神を伝える文章が。
即身成仏した空海は死してなお多くの人のために祈りを捧げ続けてると言うことで、
日々影向文の「弘法大師が高野山の樹下に身を留め、魂は弥勒菩薩の浄土である兜卒天の
雲上に遊行し、毎日欠かすことなく、大師に縁ある遺跡に影向し検知する」という内容と
同じことになると。
大門に掲げられている「不闕日日之影向 (日々の影向を闕かさず)検知處處之遺跡
(處々の遺跡を検知す)」は「毎日欠かすことなく、大師に縁ある遺跡に影向し検知する」の
部分に当たりると。
高野山 壇上伽藍 配置図。
そして次に中門へ。
開創1200年を記念する主要事業として、天保14(1843)年に焼失した壇上伽藍の中門が
172年ぶりに平成27年4月に再建された。
新たな中門は、鎌倉時代の建築様式をもとに設計され、規模は東西25m、南北15m、高さ16m。
平成26年10月23日から24日にかけて、四天王像が中門に運び入れられました。
従来、中門には持国天と多聞天の二天王が安置されていたが、文化6(1809)年に起こった
火災で焼失。その後、文政3(1820)年に中門が再建され、二天王も新たに造立されたが、
23年後の天保14(1843)年、再び火災に見舞われ中門は焼失してしまった。
しかしこの時二天王は救い出され、損傷の修復を受けた後長らく西塔に仮安置されていた。
そして平成11年に根本大塔へと移され、現在に至っていた。
今回の172年ぶりの中門再建により、この二天王は再び中門に安置されることに。
また加えて、平成の大仏師・松本明慶の手によって現代ならではの作風に仕上げられた
広目天、増長天の二天王が新たに中門に安置されることになり、平成の中門には
四天王が揃うことになったと。
「多聞天像」。
上杉謙信の熱い信仰で有名な「毘沙門天(びしゃもんてん)」の別名の仏様。
したがって、「毘沙門天(びしゃもんてん)」のこと。
多聞天は、北の方角を守護する仏様。
「持国天」。
東の方角を守護する仏様としても有名。
安置される位置に関しては、通例では、御本堂の本尊に向かい、右手前に安置される。
持国天像のよく見かける姿は、革製の中国の唐の時代を連想させる甲冑姿に刀剣を
手に持っている。
「増長天」は平成の大仏師・松本明慶の手による仏。
「増長天」は、南の方角を守護する仏様としても有名。
胸に昆虫の蝉(せみ)がとまっている。
この蝉の意味は蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退けるという意味合いがあるのだと。
また、蝉は上空を飛び回って止まる木を見つけることから、”広くすみずみまで見通せる”の
意味合いもあるのだと。
「広目天」。
「広目天」は、西の方角を守護する仏様としても有名。目を大きく見開いていた。
「増長天」と同様に今度は昆虫のトンボがとまっている。
これは「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味を持ち、前にしか飛ばない
”昆虫のトンボ”で表しているのだと。
金堂。
高野山開創当時「講堂」と呼ばれていた「金堂」は、平安時代半ば頃より高野山の総本堂として
重要な役割を果たしてきた建物。
現存する金堂は、7度目に再建されたもので1932年(昭和7年)に完成したもの。
内部には仏師・高村光雲による本尊・薬師如来(秘仏)が祀られており、内壁には
木村武山による壁画が描かれていると。
金堂を境内側から。
六角経蔵。
六角経蔵は「鳥羽法皇」の菩提(ぼだい)を弔う為に、皇后の「美福門院(びふくもんいん)が、
1159年(平治元年)に建立した経蔵。
実は、この六角経蔵は、経蔵の基壇付近(少し高くなっている基礎の上付近)に把手があって、
なんと時計廻りに回転させることが出来たのです。
山王院。
弘法大師は高野山の開創に際して、日本古来の神々と仏教との融和のため、高野山の
地主神として、丹生明神(にうみょうじん)と高野明神の分霊を高野山の守護神として
「御社(みやしろ)」に祀った。
この「御社」の拝殿として山王院は建立されたと。
御社。
そしてこの小さな山王院本殿には神仏習合の原点ともいうべき重要な意味のある社。
山王院本殿は、その重厚感のある造りからそれぞれが立派な堂のように見えるが、
御社の拝殿として建てられたものであり、現在の建物は1594年に再建された。
山王院本殿は、伽藍大塔の西に約100メートルも離れた少し高い場所に。
御社の朱の鳥居。
孔雀堂。
もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを
成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立された。
現在の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたもの。
准胝堂(じゅんていどう)。
弘法大師が得度の儀式を行う際に自ら造立したという本尊、准胝観音を祀る堂。
伽藍が建立された当時は食堂に安置されていたと伝わっており、973年(天禄4年)頃に
この堂が建立されこちらに祀られるようになったと伝わっていると。
幾度も焼失し現在の堂は1883年(明治16年)に再建されたもの。
御影堂。
弘法大師の持仏堂として建立されたが、後になって真如親王直筆の「弘法大師御影像」を
奉安したことから御影堂と名づけられた。
大塔の鐘。
弘法大師が大鐘の鋳造を発願され、真然大徳の時代になってようやく完成したと伝わる
「大塔の鐘」。火災等により度々鐘楼が焼失し、改鋳が繰り返され現在の銅鐘は、
1547年(天文16年)に完成したもの。直径が約2mと非常に大きく、日本で4番目に大きな鐘で
あったことから「高野四郎」の愛称で呼ばれるようになったと。
根本大塔。
高野山のシンボル、高さ48m。
愛染堂。
四海静平、玉体安穏を願い後醍醐天皇の御願により1334年(建武元年)に建立された。
本尊として愛染明王を祀り、愛染明王護摩と長日護摩が行われる場所。
災害に何度か遭い再建されており、現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたと。
不動堂。
大会堂。
鳥羽法皇の皇女・御辻斎院内親王が父帝の追善のために建立された堂で、元々別の場所から
この場所へ移された。徳川時代から大法会がある時にまずこの堂に会して行列を整える事から
大会堂と呼ばれていると。
現在の堂は、1848年(嘉永元年)に再建されたもの。
本尊に阿弥陀如来を祀り、脇侍に観世音菩薩と勢至菩薩が祀られている。
三昧堂。
済高座主が929年(延長7年)に建立した堂で、済高がこの堂で「理趣三昧」と言う儀式を
執り行っていたことにより三昧堂と呼ばれるようになった。元々は総持院境内にあり
後に伽藍に移された。この時修造に西行法師が関わったと。
現在の堂は1816年(文化13年)に再建されたもの。
東塔。
白河法皇の御願により1127年(大治2年)に創建された塔で、本尊に尊勝仏頂尊、脇侍として
不動明王、降三世明王の二尊が祀られている。江戸時代に塔が再建されたが、
1843年(天保14年)に焼失し、その後再建されていなかったが、1984年(昭和58年)に
現在の塔が再建されたと。
手水舎。
手水舎前から東塔、大会堂、根本大塔を見る。
蓮池の太鼓橋を渡る。
弘法大師像。
金剛峯寺の参拝に向かう。
壇上伽藍の東端のメイン道路に面した金剛峰寺表門。
金剛峯寺・正門。
金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っていると。
金剛峯寺伽藍。
主殿は、秀吉が亡母の菩提を弔うために建立した建物
「金剛峯寺」という名称は、弘法大師が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと。
東西60m、南北約70mのこの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え
境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有していると。
主殿の中には、歴史に名を残す狩野探幽筆の襖絵『松に群鶴』、豊臣秀次切腹の「柳の間」に
ある山本探斉筆の襖絵『雪柳白鷺』、豪壮ながら生活感が溢れた台所など見所が多彩。
経蔵。
天水桶。
金剛峯寺の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっていた。
その屋根の上に、桶が置かれています。これを天水桶という。
これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が
燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たすと。
鐘楼。
金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼とのこと。
そして奥の院入り口まで進む。
奥の院参道を進む。
奥の院参道ガイドマップ
東日本大震災物故者慰霊碑。
阪神淡路大震災物故者慰霊碑。
花菱アチャコ句碑が右側に。
加賀 前田家二代利長墓所。
安芸 浅野家 墓所。
蓮花院 墓所。
結城秀康石廟。
肥前島原 松平家墓所。
奥の院 御供所に到着。
弘法大師の御朱印を頂きました。
護摩堂。
水向地蔵。
高野山奥の院。高野山信仰の中心であり、お大師さまが入定されている聖地。
諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいた。
御廟橋より先は写真撮影禁止。
正面に大師廟が見えた。
そして弘法大師廟にて四国八十八ヵ所のすべて巡礼が終わり結願した事を
弘法大師様に報告したのでした。
2015年9月3日に日本百名城スタンプラリーと共にスタートした私の四国遍路旅は、
この時には1番発願寺そして88番結願寺を含め飛び飛びに11寺の参拝を完了。
そして本格的には2017年10月14日にスタートし、1番から26番そして65番から87番札所を
巡り残り33寺となっていた。
そして今回27番札所:神峯寺をスタートし66番札所:雲辺寺で無事四国拝十八箇所遍路結願を
成し遂げることが出来たのであった。
88番札所:大窪寺も訪ね、結願証を頂き、また無事に旅を終えたお礼に1番札所に戻って
もう一度参拝する方法が昔から行われおり、この「お礼参り」も完了。
更に88ヶ所すべての札所を巡り、お遍路を結願した後に高野山に行く「高野山参り」も
この日に済ませたのであった。
お遍路は1200年前に弘法大師空海が四国で修業をした足跡をたどる旅。
その流れで、弘法大師が眠る高野山奥之院へ結願の報告をしに行ったのです。
昔は世捨ての旅として知られた、全行程1,400Kmにもおよぶ厳しい道のりの四国八十八ヶ所巡り。
しかし今回の私の
四国八十八ヶ所巡りは
健康のため、ストレス解消のため、自分自身を見つめ直すため
そして観光としてなどなど、さまざまな目的で巡って来たのであった。
日本百名城スタンプラリーそして四国八十八ヶ所巡りも完遂し次は何を・・と考えているのである。
そして5月22日~29日まで人気上昇中のウズベキスタンに行くのである。
中央アジアの国の1つで何世紀もシルクロードの中心として栄えた古代オアシス都市が多く点在し、
かつてはこの地をアレクサンドロス大王やチンギス・ハンが活躍し支配していたこともあるのだ。
"青の都"、"イスラム世界の宝石"、"東方の真珠"と数々の異名を持つサマルカンド。
あのアレキサンダー大王にもサマルカンドに遠征で到達した時に「話に聞いていた通りに美しい、
いやそれ以上に美しい」と言わしめたと。
サマルカンド・ブルーの象徴はレギスタン広場にある丸屋根を持つモスクや壮大な
メドレセ(神学校)群。他にも巡礼者が絶えないシャーヒズィンダ廟など見どころ満載なのである。
古代ペルシャ時代からカラクム砂漠の玄関口として繁栄したウズベキスタン西部の都市ヒヴァ。
外敵からの侵入を防ぐために、外壁(デシャンカラ)・内壁(イチャンカラ)と二重の城壁で
街を守っていたのだ。城壁内は歩いて数々のモスク、メドレセ、ミナレットが観光するのだ。
そびえ立つミナレット(尖塔)に登って一望すると、城壁都市であることが理解出来ると。
ウズベキスタンの首都「タシケント」では第二次大戦後、当時、ソ連に抑留された日本兵が
ナヴォイ劇場を建設した。1966年にタシケントの街が壊滅した大地震が起こったが、
なんとナヴォイ劇場は無傷で残っていたことで有名なのだと。
18名のツアーであると添乗員から。多いに楽しんできたいのである。(5月20日記載)
・・・完・・・
四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト 2020.06.15
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