JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.11.05
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
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『幕府老中 覚(朝鮮通信使来朝につき)』
「明暦元年(1655年)の通信使来朝に際し、江戸幕府の老中(阿部豊後守忠秋・松平伊豆守信綱)
が、幕府代官の成瀬五左衛門へ、藤沢宿の人馬徴発や道の整備について滞ることがないよう
命じた覚書です。」



『原本』。



『翻刻文』



『葛飾北斎 東海道五十三次 十七 由井』



「東海道の興津宿(現、静岡市)の近くにある清見寺付近は風光明媚なことで知られて
いましたが、そこを訪ねた朝鮮通信使の一行が、その風景を愛でて、同寺のために
扁額を認めたという逸話を描いたものです。由井(現、静岡市)は、興津の隣宿です。」



『葛飾北斎 東海道五十三次 十四 原』



「東海道の浮世絵として、当時人気を呼んだ朝鮮通信使の通行風景は、絶好の画題だった
ようです。しかし皮肉なことに、通信使はこの浮世絵の発行された翌年、対馬(長崎県)までの
来訪を最後に幕を閉じます。
原は道中で富士山が一番大きく見える宿です。」



『朝鮮人来朝御大名様方 御馳走御古御場所附』



「朝鮮通信使来朝時の各宿場での御馳走大名の書上です。藤沢宿は細川若狭守
(肥後熊本新田藩)が担当していました。当時の人々は通信使の来朝に大きな関心を寄せ、
こうした摺物も広く販売されていました。」



『江戸浅草東本願寺 朝鮮人逗留之中御馳走御馬附』



「朝鮮通信使来朝時の最終到着地(浅草 東本願寺)での各大名等の馬の提供数(御馳走)一覧
です。筆頭は老中酒井雅楽頭の十二疋(匹)になっています。」



『エドワース・エス・モース』関連の展示。



『エドワース・シルヴェスター・モース』
「Edward Sylvester Morse 1838年~1925年)は、アメリカ合衆国メイン州ポートランド
に生まれた動物学者。大森貝塚の発見・発掘者として知られています。
東京大学動物学初代教授(1877年~1879年)。ピーボディ・エセックス博物館三代館長・
名誉館長。
1877年(明治10年)、1878年(明治11年)、1822年(明治15年)の三度に渡って来日。
1877年(明治10年)、1878年(明治11年)、江の島を訪れて漁師小屋を臨海実験所に改造して
採集活動を行いました。」



『モース』の描いたものであろう。



『モース博士と「日本 その日その日」』



『エドワース・エス・モース Japan Day By Day』



『エドワース・エス・モース 動物進化論』
「E.Sモース博士は東京大学に招かれて進化論の講義を行い、その内容は石川千代松の訳で
「動物進化論」として出版されました。同書には、モース博士が江の島で研究した
シャミセンガイも紹介されています。」



『江の島モース臨海実験所復元模型(縮尺1/30)』



『江の島モース臨海実験所』の姿も。



『コッキング商会 横浜七十五番コッキング商会(カタログ)』
「同書にはコッキング商会の設立は1868年とあります。内容はキニーネ(坑マラリヤ薬の
代用薬(クインクイニア)の説明が大半を占めています。当時の日本はコレラが大流行して
いましたがキニーネの供給はなく、代用薬は大当たりしました。」



ズームで。



『サムエル・コッキング(Samuel Cocking)』
「サムエル・コッキング(Samuel Cocking)は、イギリス領アイルランド生まれの貿易商。
オーストラリアに移住したのち、明治元年(1868)に横浜へ来日、同4年に横浜居留地に
コッキング商会を開設する。翌年、宮田リキと結婚し、同13年にリキ名義で江の島に土地を購入、
住居用別荘(自宅は横浜市神奈川区平沼)のほかに、私用の大規模な植物園を開設する。
当時、本格的な植物園はめずらしく、栽培していたランなどについて、植物研究者等に
注目されていた。その間、日本国内のコレラ流行に際し、医薬品の輸入販売で財を成すなどした。
商会として扱った商品は、他に医療器具・測量器具・写真器材・楽器・洋酒等を輸入し、
ハッカ・百合根・美術骨董品等を輸出した。また江の島以外にも湘南海岸一円に土地を購入し、
別荘等として販売した。晩年は福祉事業にも力を入れ、江の島の植物園内で孤児院の事業を
補助するための慈善園遊会を開いたりした。大正3年(1914)、平沼の自宅で永眠。
中区相沢の共同墓地に葬られる。」



『コッキング植物園温室遺構全景』



『壬生昌延 相州江之島真景』



「コッキングが江の島の頂上に植物園を開いたのは明治20年(1887)頃で、明治30年発行の
「相州江之島真景」には、中央の山二ツと中津宮の間に、塀で囲まれた「植物園」が
描かれています。また、左下にある洋館が別荘だと思われます。
発掘調査の結果、大量のレンガを使用した植物園温室の遺構が確認され、現在も
サムエル・コッキング苑内に残されています。」




「出雲人形(奈良県桜井市)、唐子踊り人形(岡山県牛窓市)」



『エンゲルベルト・ケンペル 日本誌オランダ語第二版 ファクシミリ版』
藤沢に関連する箇所の日本語訳、ケンペルの描いた挿絵などが展示されていた。



『挿絵 日本と中国の想像上の動物園』



「左上から「獅子(しし)、「麒麟(きりん)」、「騶虞(すうぐ)」、「獬豸(かいち)」
「蛟(じゃ、たつじゃ)」、「螭(たつまき)」、鳳凰(ほうおう)」



『フェリーチェ・ペアト 江の島(写真)』
イタリア生まれのイギリスの写真家。
東アジアの写真を撮影した初期の写真家の一人であり、また初期の従軍写真家の一人でもある。
日常写真、ポートレイト、またアジアや地中海の風景や建物のパノラマ写真で有名である。
ベアトはいくつもの国に旅行し、それらの国、人々、事件を撮影したが、遠く離れてそれらに
なじみの少ないヨーロッパや北アメリカの人々にとって記憶に残るものであった。
インド大反乱やアロー戦争の記録も撮影しており、最初期の報道写真ともいえる作品を
残している。彼は他の写真家に大きな影響を与えたが、特に日本においては、非常に多くの
写真家・芸術家に深く、かつ長期にわたる影響を与えた。



『明治初期に作成された着彩写真アルバムのページ』
「写真左手に、片瀬洲鼻通りの茶屋、かどや(角屋)とかしはや(柏屋)が映っています。
道をはさんで右手には、鳥居が見えます。」



『川瀬巴水 潮来の夕』



『川瀬巴水 浜町河岸』



『川瀬巴水 馬込の月』



『河原崎奨堂 ハゲイトウ』



『井出岳水 ツタにシジュウカラ』



『江の島弁財天道標』



奥に『藤沢宿』コーナー。



企画展示コーナーの水島爾保布の『「東海道五十三次」に描かれたケンペル像』が左手に。



そして、吉田初三郎の「神奈川県観光図絵」など相模地域と日本の名所の鳥瞰図。
相模湾と三浦半島。



箱根とその後ろに富士山。



横浜港周辺。



浮世絵版画の制作工程の展示。



絵解きコーナー。



そして最後に再び『歌川広重(初代)相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図』を楽しんで
展示室を後にしたのであった。



エレベーターホールにあった様々な展示会ポスター。



訪ねて見たい多くの展示会のポスターが。



こちらにも。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・完・・・





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Last updated  2020.06.15 20:12:37
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