PR
Keyword Search
Comments
Calendar
『旧東海道を歩く』ブログ 目次
赤坂宿の旧東海道を更に西に進む。
いまでも東海道の面影を感じさせる町並みが残っていた。
路地を左手に折れると、正面に見えたのが『長福寺』の山門。
入口は薬医門で左右は白壁になっていた。
長福寺のある場所は、行政上の区分から言えば音羽町になる。
豊川市のほうから東海道をたどると旧御油宿、御油の松並木、赤坂宿は隣接していて
ひとつの宿場町の様相を呈していた。
江戸時代には遊女の多かった宿場だったというから、単に宿駅としての機能だけではなく
近郷から男たちが遊びにくる歓楽街的な機能も持っていたのであろう。
いつの世も変わることなく・・・・。
山門の扁額には『三頭山』と。
山門前右側には「信州善光寺出張所」と記載された石柱が。
『鐘楼』。
境内にある『長福寺のヤマザクラ』。
昭和55年(1980)に豊川市指定天然記念物に指定。
町内で一番大きなサクラの古木であると。
「この木は、推定樹齢約300年で、幹の周りは目通り約3.3mあり町内で一番大きな
サクラの古木です。この木について、幕末の頃、赤坂の代官所に努めていた役人の
手紙の中に「長福寺の桜も満開になったでしょう。昔、桜を見ながら囲碁をしたこ
とを思い出します。と記されています。」
開花すると・・・。
【 http://yutabi.cside4.com/sakura/hokuriku_tokai/aichi/chofukuji.html
】より
そして『手水舎』と正面に『本堂』。
長福寺の創建は平安時代、宮路弥太郎長富が息子である三河守大江定基の愛妾である
力寿姫(赤坂の長者の娘:定基との別れを悲しんで自害)の菩提を弔う為開かれたのが
始まりとされます。その後、荒廃しましたが大永年間(1521~1528年)善誉慶印が
再興した。
『長福殿』と書かれた本堂の扁額。
正面には見事な向拝虹梁(ごはいこうりょう)、海老虹梁(えびこうりょう)があり、
龍の彫刻が配されていた。
正面に向かって右側の海老虹梁。
正面に向かって左側の海老虹梁。
鐘楼と本堂の改修事業供養之宝塔。
寺宝である『彫刻 観音立像』、昭和30年(1955)に愛知県指定文化財に指定されている。
「この像は、三河の国司であった大江定基が、愛人力寿姫の死を悲しみ、その菩提を
弔うために寄進したとされる聖観世音菩薩です。
平安時代の11世紀後半から12世紀前半に作られたといわれ、恵心僧都の作と伝えら
れています。像高190cmのヒノキの寄木造りで、当初は鮮やかな彩色が施されてい
ましたが、現在ではほとんどの彩色も落ち、素木造りの様相を呈しています。」
裏山の観音堂へと登る石段があった。石段の途中には弘法堂、鎮守社があるのだと。
観音堂の周りにはかわいい石仏群も。更に 本殿裏の山中には三河の国司大江定基との別れを悲しんで 自害した『力寿姫の墓』や
『原田伝左衛門の墓』があるとのこと。
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.12