JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.05.11
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我が家の横の菜園の「イチゴ畑」です。
イチゴの収穫の最盛期ですが、夜中にイチゴを狙って来る動物がいるのです。
イチゴの畝に防鳥用の網を被せましたが、その網の目に前足を突っ込んでイチゴを
引っかき出すのです。赤い実ばかりでなくまだ未熟の実も網の外に転がっているのです。
そして網を破っている場所もあるのです。
姿は見ていませんが、明らかに鳥ではなく、四足の動物。
ハクビシン、アライグマのどちらかではないでしょうか。
よって先日に、対策の追加で、「イチゴ畑」全体を四角に囲むネットフェンスを取り付けました。
もちろん1ヶ所だけ中に入れるようにしました。



これが功を奏して、その後の被害はなくなりました。
しかし、隣に余った苗がそのまま残り、赤い実をつけた場所、ここは何の対策も施していないの
ですが、何故かここには来ている様子がなくイチゴの赤い実がそのまま残り大きな実に成長して
収穫出来ているのです。
リスクがないと面白くないのでしょうか?それとも何もされていない事を罠と考えて
いるのでしょうか?これが理解不能、残された課題なのです。
昨日の収穫物です。大きいのはそのまま食べて、小さいのは妻がジャムにしています。





『旧東海道を歩く』ブログ 目次


旧手原村の旧東海道を進む。



光圓寺の直ぐ先右手に『肩かえの松』があった。
旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所と言われているのだ。



「肩かえの松
小野村は慶長年間の東海道整備によってこの地に移る。
旅人足等がこの松の木の下で休憩し荷物を担う肩をかえた所である。」



『肩かえの松碑』の隣に『真宗大谷派 石谷山 西巌寺』寺標。



『西巌寺 本堂』。
本堂のみ建っていた。
西巌寺は、天和3年(1683)秀岳の開基であり、本尊は阿弥陀如来である。



交差点を渡る。



ここは栗東市『手原一丁目』交差点。



交差点を渡り更に直進する。



先に進むと国道1号線から名神高速道路栗東インターチェンジへの高架
連絡道が横切っていた。



高架を潜ると右手に『行者堂』が。
1820年(文政3)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像御告げにより背負って持ち帰り、
小堂を建てたのが始まり、と彫られていた。役行者(えんのぎょうじゃ)とは、7世紀後半の
山岳修行者で、陰陽道、神仙術と密教を古来の山岳宗教に取り入れて、独自の修験道を
確立したようだ。保守的な神道側から虚偽の罪を申告され伊豆大島へ流されたのだと。



『行者堂碑』。 
「ここ東海道手原 ←  上鈎 小野 →」
右側面には前述の「文政3年(1820)開基、里内九兵衛が大和国より役行者大尊像を御告により
背負って持ち帰り小堂を建てたのが始まり、権現僧都となる。」と。
左側面には「手孕(てはらみ)説話の由緒・天満神社へ大橋へ至る」と。



左手に進行方向・西に向いた祠が。



『行者堂』から程なく右手に『里内呉服店』が姿を現した。



呉服商を営んだ家で、旧東海道に面して屋敷を構える。主屋は、接道して建つ町家で、
2階を低く押さえた外観など、明治初期の町家の特徴をよくそなえていた。
庇を正面から西側面に矩の手にまわし、上部に雨除けの小庇を設けるなど褄の意匠に
工夫がみられるのであると。



『里内呉服店』は、明治5年(1872)創業で、大正11年(1922)まで呉服店を営んでいた。
この建物は国登録有形文化財となっていた。



『かぎて屋 里内呉服店』案内書。
「里内呉服店は、明治5年創業(1872年)~大正11年廃業(1922年)し、
50年間呉服店をここ手原で営んでまいりました。
平成19年(2007年)85年振りに呉服店を再開し、創業当時のままの明治町屋を生かし
現代に沿った呉服店を目指し現在に至っています。
「着物を着たいけれど、なかなかねえ‥・」という方はおられませんか?
当店では、着物を1枚1,000円から販売しております。
古い着物には独特の模様があり、着る事はもちろんですが、リメイクして洋服や小物バックの
アクセントとして使用する事もできます。
着物の他にも、洋服や小物や裂き織り、バックなども置いておりますので、
お気軽にご来店ください。
また当店で着付け教室もしております。時間等はお気軽にお問い合わせください。」



木札『東海道手原村 里内呉服店』。



その先には『塩屋』の蔵が。



『里内呉服店』の隣に『手原醤油塩屋藤五郎』が建っていた。



木札『東海道手原村 手原醤油 塩屋藤五郎』。
現在は営業していない様子であったが。



店脇には『手原醤油顕彰碑』が。
三代目藤五郎(幼名長之助)と四代目藤五郎(幼名菅次郎)について
細かく刻まれていた。



「三代目 藤五郎 幼名 長之助
弘化三年(一八六四)旗本竹中主水家(代官職)生まれ。
明治維新後二十七才で栗太第四区町に、明治十二年初の県会議員に当選、明治三十年栗太銀行を
創設、頭取として経済、郷土の隆盛の礎を築く。醤油醸造では家訓を守り、勤倹節約を
旨としながら、慈善事業や公共工事には多大な資金を投じられた。明治三五年没。
四代目藤五郎幼名菅次郎
文久元年(一八六ニ)生れ、三代目の弟、家業を引き継ぎますますの隆盛を極める。
原料の研究に取り組まれた。大正十二年に開業された手原駅には多大な協力をされた。
昭和二年没。栗太銀行最後の頭取。」



「手原醤油歌
あまりにおいしく、たいへん評判が良いので長文の歌がよまれた(その一部)」
色如葡萄紫而滑 色はブドウの如く紫にして滑らかなり
人間百食益佳良 人が食べるすべて益々おいしくなる
王侯饌差美如玉 王様のごちそうもおいしくなること玉のごとし」



その先に白漆喰の外壁の酒屋の蔵が。



木札『東海道手原村 酒屋 塩新』



直ぐ先、左手の手原赤坂会館前に明治8年創立の『厚進学校跡』碑が建っていた。

先ほど見た六地蔵村を出たあたりの「修斎学校」ともう1校が合併し、
現在の「葉山小学校」となっているのだ。
碑の奥にはかつての学校門柱が保存され、傍らに学校門柱碑・赤坂山記念碑があった。



『学校門柱碑』。



「赤坂山記念碑
抑 赤坂山6町7反余は 徳川中期より下柴下草採立入場として手原区が権利を有し、
明治22年の頃、当時の現住民72名の共同名義にて仮登記。以来手原の共有山として
区長管理の下に玉梅社等の協力を得て、その保安に努めて来たのである。
この間明治42年金勝山紛争のため全山を皆伐これが買戻金に充当。
その後植栽を行い葉山佐瀬両河川の決潰時の用材又は潅漑用の諸施設の資材資源として、
区の財政に多大の寄与をなして来た。然るに名神高速道路の開通に伴い、仝付近の開発頓に進み、
昭和43年開発事業団の要請に応ずるの止むなきに至り、永年の愛着を捨て譲渡に決する。
即ち茲に永く全区民の管理愛育せし赤坂山を永遠に記念し、区民の福利増進施設として
手原赤坂会館と命名。之を建設する。」
「抑」は「そもそも」と読む事を知ったのであった。




手孕(てはらみ)ベンチの手のモニュメント



「手孕ベンチ
伝説が歌舞伎 「源平布引滝」 に、子供を守るため産んだのは手だけだと偽り助けた。
(源平の戦いで有名な後の木曽義仲)
子どもを守り育てるベンチ。(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)」



『稲荷神社由緒碑』。



「稲荷神社由緒
里中大明神 木造男神座像 (明応9年開眼)室町時代」
当社は栗東町手原に鎮座、稲倉魂神、素盞嗚尊、大市比売神を祭る。
寛元3年(1245)馬淵広政この地を領し勸請する。 子孫手原氏と称し代々当社を崇敬、
文明3年(1471)同族の里内爲経社殿を修し、神域を拡張、天文4年(1535)手原重政武運を
祈り尊崇を深める。 慶長17年(1612)宮城丹波守豊盛社殿を造営、貞享3年(1686)と享保8年(1723)に社殿の再建あり、明治2年改築、明治9年10月村社に列す、昭和61年修復工事を施行。
当社は里中稲荷大明神又笠松の宮とも称される。
東海道名所記に 「左の方に稲荷の祠あり、老松ありて傘の如しなり、傘松の宮と言う」 と
記され江戸時代は傘松が有名であった。」



『稲荷神社』の扁額が掛かる鳥居。



『拝殿』。



『里中大明神碑』が建つ『稲荷神社覆屋』。



『明治天皇御聖跡碑』。



『手原稲荷神社』前の十字路左角に『素月漢詩碑』があった。
中央の碑に
『​ 栗太八景 ​👈リンク 手原行人 
雨寒塵路手原辺 客袂涙霑萬里天 終日著鞭馳痩馬 往来有故幾年々 寛延3年12月 素月作』
と刻まれていた。
雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑(ぬれ)る万里天  終日鞭を著け痩せ馬は馳せ 
往来故(ふる)くから有り幾年々
」と。
左の碑に
『手原を通る旅人 雨は寒く塵の路手原辺り 客の袂は涙に霑る万里天 終日鞭を著け
痩馬は馳せ 往来故くから有り幾年々』と。



『手原稲荷神社』前の石材屋の作品群。



そして、この日のゴール地点の『手原駅』に向かって旧東海道を右折した。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・







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Last updated  2020.05.13 07:13:31
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