JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.05.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

栗東市目川の『金勝川』沿いの旧東海道を進むと、右手に石碑、案内板が。



『東海道 一里塚』碑と案内板。日本橋から118里。
左面には『目川ひょうたんの里』と。
現在、塚はなくなり石碑が建っているだけであった。



右面には『草津宿まで半里』と刻まれていた。



「一里塚
東海道には一里ごとに距離標として一里塚が設けられていた。 一里塚は道の両側に五間四方の
塚の上に椋(むく)や松などの木立があった。
目川村の一里塚は、現在の鎌田屋敷の東隅と、その向かいの旧北野家敷の西隅にあり、
椋の大木があったといわれ、当時の一里塚は西は草津市野路に、東は六地蔵(梅の木)に
あったといわれている。」



全く同じ内容がカーブミラーに固定されて。こちらは目川自治会のもの。



一里塚跡から程なく右手に、『真宗大谷派 久遠山 専光寺』があった。
『専光寺 山門』



『真宗大谷派 久遠山 専光寺』寺標。



『専光寺 本堂』
推定樹齢350年の大イチョウが『本堂』前にデンと。



『鐘楼』。



『殉國諸霊頌徳碑』。
昭和44年9月とあるが、太平洋戦争で亡くなった地元の方々の慰霊碑なのであろうか。



『仏堂』



旧東海道に戻ると右手にあったのが『治田(はるた)郵便局』。
滋賀県栗東市目川524-2。
草津市史によると、律令時代の栗太郡治田郷がここにあったと。



左手には大きな旧家が。



更に進むと右手に石碑が。



『田楽発祥の地 滋賀県栗東市岡三八四番地』 碑と領界石 『従是西膳所領』があった。



「目川立場 田楽茶屋 元伊勢屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。
天明時代の当家の主人岡野五左衛門は「岡笠山」と号した文人画家である。 与野蕪村に師事し、
その力量は「よく師法を受け、筆神に入る」と称賛され「幕府の命に応じて揮毫し、
将軍の覧に供す」と記録されている。
作品には氏神の小槻大社へ奉納された大絵馬の外、地元にも数点の作品が残されている。」



ちょっと先には『目川田楽 古志゛ま屋跡』の石柱があった。



直ぐ先で十字路を渡ると、左手に『真宗大谷派 東護山 乘圓寺』があった。
『乘圓寺は、天和元年(1681)近江の国栗太郡岡村士民の発願により創建された。
残念ながら入口の扉は閉まっており境内には入れなかった。



『真宗大谷派 東護山 乘圓寺』寺標。



寺標の裏側には
「當寺院は近江の国栗太郡岡村士民の発願により天和元年6月創建せしものなり
昭和60年6月 先祖の遺詔により西岡忠資建立」



『乘圓寺』を過ぎると右手に石碑が。



『目川田楽 京いせや跡』碑。



「名代 田楽茶屋 京伊勢屋跡
東海道を往来する旅人の休憩場として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し
東海道の名物となった。
田楽茶屋は、立場の元伊勢屋(岡野屋)と、この古志ま屋(寺田家)、京伊勢屋(西岡家)の
三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。 当家の藤棚は明治初期に新善光寺へ奉納された。
伊勢屋は、元伊勢屋と京伊勢屋の2つあり、古しま屋と合わせて三軒の茶屋が田楽を
扱ったようです。」
この三軒はいずれも三重県出身なのであろう。



『目川田楽 いせや跡
滋賀県栗東市岡三八八番地
東海道間の宿岡村
菜飯田楽京いせや西岡中兵衛屋敷』



京伊勢屋跡の斜向かいに 『舊跡 人吉藩主相良候 御対面所跡 山本家』 碑が建っていた。
平成26年移築とあるが、解説もなく何の石碑か不明である。
しかし、相良家は、肥後南部を支配した戦国大名の氏族であり、
江戸時代は肥後人吉藩主家として明治維新まで存続しているのだと。
しかし5W1Hが残念ながら不足であった。



旧東海道は緩やかに右にカーブ。



直ぐ先で街道が右に折れる左手に、『田楽茶屋ほっこり庵』があった。
大正時代以降、田楽を販売する店は途絶えてしまったが、目川田楽保存会が再現し、
このほっこり庵で食べられると。田楽セットは要予約のようであった。



左手に『東海道』道標。



ここでは目川田楽・菜飯・季節の野菜の煮物などのメニューがあり、隣の『ほっこり庵』には、
ヤマキ酒店が設置する足湯があるのだと。



「岡ほっこりマップ 岡まちづくり委員会」。
「ほっこり」とは、この地域の合い言葉のようであったが、「心が落ち着く・ほっとする・
心が温まる・癒される・心が落ち着く・まったりする・ほんわかする」といった”癒し”の感情を
「ほっこり」と言うのであろう。



「めがわ田楽 由来
関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、その翌年の慶長6年(1601)、東海道に伝馬制を制定した。
宿駅が定められ草津宿や石部宿が置かれた。宿場には人馬の継ぎ立てを行う問屋場や公用宿の
本陣職が指名されて宿場機能が整えられていった。
旅をする人達が旅に必要な物を総て宿場町で賄うことが出来ないため、幕府は宿場と宿場の
中間に 「間の宿」 を置き、ここで必要な物が整えられるようにした。
間の宿の中心施設が立場である。 石部宿と草津宿間には六地蔵の 「梅ノ木立場」 と、
岡の 「目川立場」 が置かれた。
目川立場を担ったのが屋号を 「伊勢屋」 とした岡野五左衛門家である。 伊勢屋は精進料理を
味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」 として売り出した。
主食=菜飯。副食=田楽。お酒=菊の水。の三点セットである。 「安くて・美味しくて・
腹持ちがよい」 と大評判になり、商品名の 「めがわ田楽」 は全国へ波及していった。
京都・大阪・江戸にも 「めがわ田楽」 の店が営業していると 「江戸総鹿子大全」 や
「守貞漫稿」 等に記録されている。
岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の 「こじまや」 や西岡家の 「京いせや」 が
続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁盛の様子を今に伝えている。大田蜀山人は 「改元紀行」 (享和元年=1801)に
『目川の立場には、菜飯と田楽とありと、今いずくにても目川菜飯とよぶは、此の所より
起これりと聴きて、伊勢屋といへる家にいりて、かの菜飯をもとむるに、田楽の豆腐あたたかに
ものして味よろし。ここに目川とも女川とも染め付けたる茶碗もて、茶をすすむ。
めずらかなれば二ッとも買ひぬ。銘酒あり。御銘菊の水と記せり』
と記している。
めがわ田楽の復元に当たっては、「田楽茶屋こじまやの伝承の味付け」 を忠実に守って復元した。」



『田楽茶屋ほっこり庵』の隣に、『膳所城大手門』が移設されていた。
この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で、攻城戦に耐える堅牢さと威厳を
備えた意匠である。屋根は本柱通りに切妻を設け、控えにはそれより低い切妻屋根を乗せる。
乗馬のまま通れる寸法で、内法高は8尺3寸(2.5m)である。



「伝 膳所城大手門
膳所城は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦直後に大坂方への供えとして徳川家康が築城した。
縄張りは藤堂高虎に、工事は諸大名に命じて築城した天下普請・第一号の徳川家の城である。
この門の形式は高麗門と言い、城の枡形虎口の一の門で、攻城戦に耐える堅牢さと威厳を
備えた意匠である。門は左手に潜り戸を設け、控柱は八双に開く。屋根は本柱通りに切妻を
設け、控にはそれより低い切妻屋根を乗せる。乗馬のまま通れる寸法で、内法高は
8尺3寸(2.5m)である。
膳所城は、寛文2年(1663)5月1日に起きた安曇川地震で、大破したため、時の城主本多俊次に
よって大規模な改修・改築がされた。この門の主要な部材の経年変化と、屋根瓦の家紋が
改築当時の城主・本多氏の「本多立葵紋」であることから、地震直後に建築されたと推定される。
甍部分に徳川家の「三つ葉葵紋」の紋瓦が6枚残ることから、膳所に築城された当時の家紋瓦は、
すべて「三つ葉葵紋」が使われていた可能性が高い。
明治の廃藩置県で城の建物は膳所藩領の村に移築された。この門は膳所藩領だった栗東市林の
長徳寺へ移築されていたが、今般建て替えられ、同じ膳所藩領の当地へ移築したものである。
膳所藩領の村へ移築された城門の例は、膳所の膳所神社や矢橋の鞭埼神社が知られている。
移築にあたっては、主要部材は現状のまま使用した。屋根は長徳寺への移築時に寺院用に
改築されていたことが判明したため一部を復元した。併せて耐震補強を施した。」



『膳所城復元模型図』。
寛文2年の大地震後修築された膳所城復元模型図。



門前には、芭蕉が田楽の酒 「菊の水」 で田楽料理に舌鼓を打ったときに詠んだ句碑がある。
芭蕉句碑
「草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒」  元禄四年重陽芭蕉

平安の頃より9月9日は五節句の一つ、「重陽の節句」といい、菊を用いて不老長寿を願う
ことから「菊の節句」と言われます。『菊の節句など隠者の自分には関係ないことと
思っていたが、日が暮れる頃、思いかけず節句の祝いの酒が届いた』という一句。
誰にも気にかけてもらわなくても寂しくないけど・・・やっぱり誰かに気にしてもらえると、
ちょっとうれしい!という気持ちが伝わってくる句なのであった。 
そしてもう一句、沙弥随縁の句、
「田楽で 芭蕉も飲んだ 菊の水」    沙弥随縁



『田楽茶屋ほっこり庵』を振り返る。



旧草津川の土手に沿った道を進むと、東海道新幹線の高架が横断していた。



栗東市小柿の街並みを進む。



東海道新幹線の高架の先右手に、平成18年8月15日に復元された領界石 『従是東膳所領』が。



更に進むと右手に石碑が。



『史蹟 老牛馬養生所趾』碑が右手に。



「史蹟 老牛馬養生所跡
栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛場で老廃牛馬の
打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、 これから老牛馬であっても息のある間は
打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保十二年四月当地が東海、中山両道を集約する
草津宿の近くであることから、 ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、
県下の老牛馬を広く収容された」と記されている。」
「打はぎ」とは、老いさらばえた牛馬がまだ息のある臨終前において、強引に牛馬の皮革を
剥ぎ取る作業に入るという意味合いでしょうか。これはなるほど残酷そのもの。



続いて右手に小柿村の『高札場跡』があった。
木札には『東海道 小柿村 高札場 大谷』と。



『東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)』
天秤棒の販売を生業にしていたのであろうか?



木札『東海道 小柿村 天秤棒 棒喜(ぼうき)』。



そして『高札場跡』の直ぐ先で、栗東市から草津市へ入って行ったのであった。



                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.05.21 18:40:48
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