JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.02.06
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カテゴリ: 綾瀬市歴史散歩
【綾瀬市歴史散歩 目次】 ​👈リンク

私の住む藤沢市は、鎌倉市、横浜市戸塚区・泉区、大和市、綾瀬市、海老名市、寒川町、
茅ヶ崎市の6市1町と市境を接している。



コロナ禍で不要不急の外出の自粛要請の中で、自分の体力維持も同時に重要であるため
3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの少ない、屋外の散歩として
マスクの完全着用の下での隣接市の神社仏閣を訪ねることを始めているのである。
先日は横浜市戸塚区、泉区にまたがる「鎌倉古道」を歩いたが
この日は、隣接する「 綾瀬市 」の神社仏閣を訪ねる目的で我が車で向かい無料駐車場に
車を駐め散策のスタート。



最初に訪ねたのは綾瀬市の最北に近い東名高速道路に近い「弁財天」。
綾瀬市大上9丁目25。



綾瀬市立北の台小学校の南側にあった小さな社の「弁天社」。



鳥居の扁額は「弁才天」。



「社殿」の扁額は「 亀甲山白糸七面大天女 」。



「弁財天
亀甲山白糸七面大天女といい、明治の末ころに造立されました。
当時の綾瀬では養蚕が盛んであり、この下の低い場所に建てられた製糸工場に蛇が入り込み
白くミイラ化したものを真綿でくるんで祀ったのが初まりといわれています。
現在は、山野講中で大切にされています。」



「お願い 賽銭を盗ないで下さい 弁天様管理者一同」と。



何重にもチェーンが巻かれ南京錠が。その中に賽銭箱が納められていた。
世知辛い世の中ですが、これも新型コロナの影響か。
この写真を撮っている私の姿を、通りかかった自転車のオバチャンがじっと見ている
のであったが・・・・。幸い尋問等はなかったのであった。



東名高速に架かる橋を渡ると「蓼川神社(たでかわじんじゃ) 」が左手に。
綾瀬市蓼川2-12-42。



「社殿」。
御祭神は大山祇命 ( おおやまつみのみこと )、菅原道真( すがわらみちざね )。



「蓼川神社(たでかわじんじゃ)
蓼川は上下に分かれていましたが、上分の鎮守は大山祇命を祭る山神社と素盞男命を祭る
ハ坂神社、下分は菅原道真を祭る天満宮てした。
それが明治四十二年(一九〇九)に合祀されて蓼川神社となりました。
境内には、享保二十一年(一七三六)造立の双体道祖神をはじめ数多くの石造物ガ安置されており、
また庚申堂には正徳三年(一七一三)に造立された青面金剛像(庚申塔)が祭られています。」



江戸後期天保十四年の「地神塔」が境内に。



こちらは天保十五年の「地神塔」。



そして道を戻り、次に訪ねたのが「安産子育出世地蔵」。



「安産子育出世地蔵 願文山法正寺」の寺号標。



扁額「願文山法正寺」。


格子窓から内陣を。



中央に「青面金剛像(合掌・六臂)・三猿」。 寛政8年(1796)10月。



多くの「庚申塔」を中心とする石碑が並んでいた。



そして県道42号線・藤沢座間厚木線を南下し「風車公園」に立ち寄った。



綾瀬市大上2丁目にある公園。複合遊具が揃う遊具広場、少年サッカーや少年野球などでも
使うことができる多目的広場、テーブルベンチなど休養施設か設置されたふれあい広場の
3つのエリアにわかれていた。



「風車公園」案内板は・・・・・。



遊具広場。



遊具広場内で一番大きな遊具の頂上には風車がついており、ハンドルを回すことで
子ども一人で自由に動かすことが可能とのこと。



ツリー型のジャングルジム。



ロープウェイ?。



そして綾瀬市の雨水・汚水マンホール蓋。
市の木「ヤマモミジ」を描いた雨水用マンホール蓋。
下部に「あやせ」「あめ」の文字。



こちらは、市の花「バラ」を描いた汚水用マンホール蓋。
下部に「あやせ」「おすい」の文字。



次に訪れたのが「子之神神社(ねのかみじんじゃ)」。
綾瀬市寺尾中1ー3ー38。



社号標「寺尾 子之社」。



石段を上り参道を進む。



「手水舎」。



「本殿」と手前に「御神木」。



「石灯籠と狛犬」(左)。



「石灯籠と狛犬」(右)。



「拝殿」。
御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)[別名]大国主命(おおくにぬし)。
綾瀬市早川にある五社神社の兼務社となると。
慶長十年(1605)に勧請されたという棟札があり、現在の本殿は文久元年(1861)に建造され、
さらに大正十五年(1926)に再建されたもの。



向拝の見事な彫刻。



木鼻の彫刻。



扁額「子之社」。
子とは北の方角をいい、子之神とは北方をつかさどる神のことを言うのだと。



「拝殿と本殿」。



「御大禮紀年改築碑」。
「御大禮(ごたいれい)」とは、天皇の即位にともなう一連の儀式の総称。
昭和天皇の御即位の時のものであろう。



「神輿殿」。



こちらにも御神木のクスノキ。



「社務所」。



歴史を感じさせる石碑。



「子之神神社」を後にし、西に進むと「目久尻川」に架かる「伊勢下村橋」が。



「伊勢下村橋」の欄干には河童が2体。
「昔むかし、いつのころからか海老名市を流れる目久尻川(めくじりがわ)に河童(かっぱ)が
住みつきました。目久尻川の河童はしだいに数を増やし、食料不足となってしまいました。
そのため、河童たちは夜になると川の近くの農作物を盗むようになりました。
始めのころは隠れて盗み食いをしていたものの、やがて手当たり次第に田畑を荒らすように
なりました。
しだいに河童による農作物の被害は拡大し、村人たちも頭を悩ますようになったところで、
田畑を荒らしているのは河童の仕業だということがわかりました。怒った村人たちは手に手に
鎌などを持ち、河童を退治するために目久尻川へと向かいました。
村人たちは次々に河童たちをとらえ、最後まであばれていた河童の親分も取り押さえることに
成功。処刑のさいには親分を川のほとりの砂の上に引き据えて、今までの恨みをこめて河童の目を
刃物でくじり取り(えぐり)ました。この河童の目を「くじり取った」というところから、
川へ目久尻川という名前がつけられたというのが、目久尻川の名前のひとつだといわれています。」
とネットから。



冬支度姿、マスクをかけた、河童とは判らない完全防備の姿で。
こちらは男の子と。



欄干には様々な姿の河童君の姿が。











そしてこちらはカッパの「女の子」であると。



町の方が四季折々、お色直しをされていると。




橋の上流側の欄干の両端に。



「目久尻川」とその先に「相鉄本線」の線路を見る。



「目久尻川」を再び渡る。



小園地区の目久尻川にかかる「小園橋」の脇にある「かっぱ伝説」。
橋のたもとには3匹の河童たちの姿が。



石の上で膝をかかえた河童と、その前で寝そべる河童。



水面から半身をのぞかせている河童と、どの河童像も個性豊かなのであった。



「小園橋
昔は目久尻川改修前の位置に架けられ、国の費用で工事をしたので、国役橋と呼ばれて
いたようです。
ここには浜田の駅(うまや)からひさご塚に出て、俗に四十坂と呼はれる急坂を下った
古道が通っていました。」






                   ・・・​ つづく ​・・





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Last updated  2021.09.05 07:18:30
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