JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.10.29
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カテゴリ: 海老名市歴史散歩
【海老名市歴史散歩】 目次

「妙元寺」を後にして、西に進むと駐車場の角に石碑が二基。
海老名市大谷南4丁目5。



右側の石碑には「道祖神」と。



その直ぐ先にあったのが「真鯨稲荷社」。



「真鯨」という小字名も、丘の形が鯨に似ているからだとか、小丘をくじと言うとか、
いろいろな説や解釈はあるが、昔、この地にあったという鯨竜山大谷寺の伝承や、出土した
石碑がこの地に鯨が上がったことを裏づけているのだと。
海老名耕地が入り海であったころというから、国分寺建立前後のことであろう。
入り海説は「尼の泣き水」や「船をつないだ杭が根づいた大けやき」などの伝説によって
人口に膾炙しているが、相模川の本流はその昔、東側の台地下を流れていた時代があったと
みてまちがないのだと。



過去2万年間の神奈川県の海岸線の変化。
縄文時代前期(6000~5000年前)には海岸線が海老名近くまで入り込んでいたのを
理解したのであった。


 【https://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking4/french/pleinsj.htm】より

この先の坂「清水坂」に向かって西に進む。



そして「清水坂」入口まで下って引き返す。



「清水坂」。
海老名市大谷南4丁目1−3。



「清水坂
この坂は、かって坂の上りくちの左手から清水が湧き出て、一坪(三.三平方メートル)ほどの
泉が清洌な水を湛えていたのが、坂の由来となっています。」



その先にあった石碑群。
左は角柱型「道祖神」、「道路改修記念/昭和四十五年四月二十五日建立/大谷杉久保講中」
の文字が。
その右に山状角柱型「道祖神」、「大正九年十一月建設」(1920)。
そのさらに右に舟形光背型「双体道祖神像」、
右「延享三歳」(1746)左「寅正月惣氏子十八人」。



その先にも「道祖神」があった。



「清水坂」を上りきり進むと右手には一面のキャベツ畑が。



そして右にカーブして行くと正面に「東名高速道路」が姿を現した。



高架の下の隧道(トンネル)入口には地元の杉久保小学校の生徒の絵画作品が。



下り方面のその先の隧道(トンネル)を歩く。



右手に折れ進むとあったのが「善教寺」の「山門」。
海老名市杉久保北2丁目5−7。



寺号標石「浄土宗久光山 善教寺」。



「掲示板」。



「本堂」。
浄土宗寺院の「善教寺」は、久光山浄安院と号す。
「善教寺」は、高橋又兵衛尉久教が開基となり、明誉光善大和尚が文禄元年(1592)に開山した
とのこと。相模七福神の布袋尊の寺。



扁額「善教寺」。



内陣。



ご本尊は阿弥陀如来像。



境内の「シュウメイギク」。



シュウメイギクは漢字で書くと「秋明菊」となり、菊に似た白やピンクの花を咲かせる宿根草。
シュウメイギクは「貴船菊」、「秋牡丹」などの別名でも呼ばれ、欧米ではボーダーガーデンや
日本風のガーデンには欠かせない植物となっている。
英名や学名も日本の植物のように表記されているが、実は中国が原産となる帰化植物で、
野山に多く自生しているのだと。



「聖観音像」。



「この世には、墓もなければ位牌もない。流産、中絶など悲しい迷える水子の霊がたくさん
あります。子供の家庭内暴力や、体の病弱な人、心配事の絶えない人、安産、子育、受験の合格
など、聖観音様に願(がん)をかけて下さい。
苦しみや悩みから必ず救われるでしょう。    合掌    」



お顔をズームで。



そして「東名高速道路」沿いを「海老名SA (下り)」方面に進むと右手にあったのが
「不動明王堂」。
海老名市杉久保北2丁目7。



「不動明王堂」を正面から。
江戸時代、大山は、関東一円の人々から信卿を集め登山客で賑わった。そのため大山への
参詣道の辻々には大山道を示す標が建てられた。大山は不動明王を本尊とする寺で、
道標にはこの像がしばしば刻まれているのだ。不動明王は厄難除災と煩悩を断ち切ると言われ、
その姿は左手に羂索をとり、右手に剱、背に火炎を背負っている。
海老名市内にはいくっかの特徴的な不動明王像と多くの大山道標が残っていたのであった。
昔は露座で立っていたのであろうが。



石仏「不動明王」像。



近づいて。



更に。



そして次の「杉久保富谷横穴墓群」に向かって東に進む。



西の空は赤く染まりだしていた。



林の横の道を東に向かって進むと前方に小高い山が。



そして前方の「杉久保富谷児童公園」に到着。



「自然と歴史のさんぽみち」
ここが「杉久保富谷児童公園」、「杉久保遺蹟」。



「杉久保遺蹟」・「富谷横穴墓群」案内板。



「この周辺一帯は杉久保遺跡と呼ばれ、縄文時代の大規模な集落跡が確認されています。
発掘調査では縄文時代早期~後期の竪穴住居跡が、約300軒も確認されました。この中でも
中期の竪穴住居跡が多く発見され、その形状は中央広場を住居群が囲む環状集落と呼ばれる
もので、この時代の典型的な集落形態です。
集落は発掘調査区以外にも広がることが確認されており、総数は600軒以上の住居跡があると
推定され、この地域の拠点集落であったと考えられています。」



「杉久保遺蹟調査全体図」。



「発掘調査空撮写真」。



「富谷横穴墓群
また、古墳時代後期(7世紀代)の杉久保富谷横穴墓群がありました。発掘調査では6基の横穴墓が
確認され、その中の第3号横穴墓の奥壁からは線刻画が発見されましたが、意味は不明です。」



「出土土器写真」。



「杉久保富谷横穴墓群」があった「杉久保富谷児童公園」を望む。




そしてこの日の最後に「豊受大神」に向かって進んで行った。



夕焼けの色が刻々と変わって行った。



「豊受大神」の鎮守の森が森林浴コースになっているようであった。



大山三峰山(おおやまみつみねやま)の姿であろうか。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.18 18:59:00
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