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福井モデル 藤吉雅春 2015年 未来は地方から始まる 富山市は、OECDコンパクトシティー先進都市5に選ばれているそうだ。メルボルン、バンクーバー、パリ、ポートランド、そして富山市だそうだ。この内、人口減、少子化、超高齢化になっているのは富山だけで、海外からも視察があいついでいるそうだ。 一時は、消滅都市さながらの郊外拡大、中心部空洞化都市であったそうだが、行政が計画を立案し、誘導政策をとりながら、市民・議会に合理的な説明をして協力をとりつけ、みせかけの公平論で戦略投資が忌避されるのを克服し、交通弱者に配慮したライトレールと在来線の循環を確立して、職住遊が近い、歩く街づくりに成功したそうだ。 市長が率先して先進事例を学んで採り入れた都市に変えていったそうだ。 福井県の鯖江は、福井市との市町村合併を市民が選ばず、市民参加型の市政・事業に変えることを決意し、市の事業を市民参加型運営に切りかえているそうだ。 工業で栄えた時期もあったが、中国にやられ、多くが斜陽化した町であったそうだが、斜陽産業でも世界一で生き残りつよくなってきたそうだ。眼鏡フレーム出荷額はピークの半分になっているそうだが、技術力と市内の事業者が相互連携した200もの製造工程の連携体制を実現して、イタリア・フランスのブランドのライセンス契約を維持しているそうだ。培われたチタン加工技術は、医療、航空機、光センサー分野と新たな分野での活躍を可能にしているそうだ。 こうした先進性、柔軟性が発揮される素地は、市民が寛容で外の人を受け入れ、協働する風土があるからだそうだ。体操ワールドカップなど二回の世界大会の開催に成功したのも、7万の市民の内3万人が協力したボランティアの力が大きいそうだ。 鯖江は、地域に新しい事業を立ち上げる基礎となる事業者が多くいて、それらの事業者には連携力があるそうで、地域そのものが、インキュベーターであると著者は言う。エコノミック・ガーデニングに相当するそうだ。地域協業・内発的発展にあたるそうだ。 企業誘致で繁栄というのは誤解であるそうだ。亀山しかり、企業は条件のよいところに流動するもので中国、次には東南アジアと、採算なくば移転していくもの。コールセンターも職場は生まれても新しい産業は生まれないと。 北陸三県が日本の中で幸福度が高い地域になっているおおもとには、他にはないものがあるからだそうだ。学ぶこと、勤勉であることを地域が大切にし、特に実践教育の重視と、家庭も教育の責任を果たす風土があるからだそうだ。戦前からの自発教育があるからだそうだ。 考える力を鍛える教育をしているらしい。一向一揆に負け、米騒動に負け、中国にもやられてきた地域の歴史は、教育こそが武器であると教えたらしいと。しかも知識型教育では、考えられる人は育たず、思考力をつけるために自覚と省察と自己の整理を経験させる教育をめざしているそうだ。 生業は地域とあり、地域は家庭とあり、家庭は教えとあるようだ。幸福の源泉は、思考力を鍛える教育にあるようだ。
Nov 27, 2015
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殉国 吉村昭 1967年 陸軍二等兵比嘉真一 沖縄戦に鉄血勤皇隊として召集された、当時旧制中学三年・14歳の少年に、戦後二十数年経て取材したものだそうだ。著者は事実に忠実に創作したそうだ。 敵愾心、気負いをもっていたが、容赦のない殺戮、果てしない死地、累々たる腐乱・散乱、飢餓の中、負傷者の搬送、埋葬に疲れ果て、自決の銃声や手榴弾の炸裂が続く中、戦う意志は捨てず、腐乱死体の下に死体に化けて逃れ続けていたが、遂に発見され、小さい体躯を米兵に囲まれて晒され、屈辱感と羞恥の中捕虜となってしまう。 著者の「旅行鞄のなか」に収録の「14歳の陸軍二等兵」によれば、ハワイに連行された後、帰還できたものの、級友はほとんど亡くなり、戦後は、米軍関係の英文通信社に長く勤め、個人タクシーを営むようになったそうだ。二歳違いの著者とは取材を通じて親交が生まれたそうだ。敵前逃亡 吉村昭 1970年 旧制中学3年の陸軍二等兵が負傷者の搬送中、爆撃弾で意識を失い、気が付けば捕虜となっていた。投降勧告の役を打診され、逃亡の好機と企て、渡嘉敷島の友軍の立てこもる陣地へ向かい、逃亡し戦闘を志願する。しかし、士官は捕虜になってしまったことを許さず、敵前逃亡として斬首されてしまう。 日本の軍紀とは、命を破綻させる精神が支配した無残なものであったという事なのか。太陽をみたい 吉村昭 1970年 沖縄・伊江島では、女子斬込隊が組まれ、看護隊の19歳の女子は、断髪し、鉄兜を被り、短刀を携えて、夜間斬りこみの砲弾運搬に従事したそうだ。日本の将兵が爆雷を背負い戦車に身を投じ続けたが、伊江城山陣地から総攻撃に出た後に、残された者達は、就寝中の発火を負傷兵に託して洞窟で中で死の眠りについたが、負傷兵が逡巡したため朝を迎える。米軍に囲まれても投降勧告には応ぜず、籠城するも、最期には力尽き、死ぬなら太陽をみたいと、洞窟をはいでたそうだ。 伊江島は米軍基地となり、住民は他島への立ち退きをさせられ、飢餓生活の後、二年後に帰島を許されたそうだ。故郷の累々たる死骸の埋葬がはじまったそうだ。日本人戦死者4706人中、住民が1500名であったそうだ。他人の城 吉村昭 1970年 沖縄戦に備え、疎開命令に従って疎開したものは、8万人で187隻が渡海したそうだ。内、対馬丸が一隻が雷撃され、乗員乗客1804人中生存者は177人であったそうだ。 宮崎の遠縁を頼って身を寄せるも、よそ者扱い、島民への蔑み、冷淡な村民が現実的であったそうだ。沖縄壊滅で一時は同情的になっても、敗戦をむかえると追い出しにかかったそうだ。沖縄出身の帰還兵10万人も九州の路頭に迷ったそうだ。 沖縄への送還がなったとき、著者は言う、「沖縄は日本の一県との思いは錯覚と気づいたにちがいない。沖縄は本土とは無縁の島であったことを知ったはず。」 本土で漂流民となった後、沖縄へ戻ると、別のところのように荒れ果て、米兵が支配し、日本人が労役についていた。親戚に身を寄せた村では、夜、酔った米兵がジープで女性を襲いに来て、村民は集団で金属を打ち鳴らして抗うしかない姿があったそうだ。 摩文仁は人骨のひろがる丘と化し、海岸には自決の痕跡が残り、手榴弾の炸裂の輪に散らばる骨が残っていたそうだ。砂糖黍・雑草の繁みには白骨が寄りかたまり、養分となっていたそうだ。 海の色のみに昔が残っていたそうだ。
Nov 25, 2015
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黒澤明 樹海の迷宮 野上照代、ウラジミール・ヴァシーリエフ、笹井隆男 2015年映画「デルス・ウザーラ」全記録1971~1975 64歳でシベリアでの8か月に及ぶ撮影をこなし、1975年に公開されたソビエト映画。その企画、制作、公開、受賞までの一部始終が明らかにされていた。黒澤明のほとばしる意欲と激しい仕事振りを聞いてはいたが、こういうことなのかとよくわかった。 制作に至るまでの経緯や、いろいろな人々の思い入れ、ソビエトの国策の事情、脚本の厳しい推敲、役者・演技・背景・小道具・衣装・動物などのリアリティー、アングル、季節などのあらゆることへの細部にわたる準備と実現への努力、スタッフとの妥協を許さない関係、憤り・不満・罵倒・怒り、痛飲など、あまさず披露されている。とても長い撮影日誌は悪戦苦闘しながら仕上げきる生き生きとした姿がわかるものだった。64歳の枯淡の境地とは異次元の熱血の撮影記録だ。 また、今回初公開として収録されている脚本の決定稿は、映画を短縮化するためになくなったシーンや、フィルム事故などで使えなくなったために変更してしまったシーンが、削られずにもとのまま読めるものだった。とても感動的で面白い「小説」だ。 自然と共存する人間、収奪する人間、互いに争い合う人間と、様々な人間の有様をみせつけて、ともに生きていくことを頑なに守る境地にある人間の気高さを讃美している。やがて、老い、孤独と恐怖にさらされる現実、最期には畏れていた自然ではなく、同じ人間に命を奪われてしまう人間の無残な宿命も描き出していた。 境地に達した人が、人間と自然の厳然たる老いの法則を突きつけられ、静かな気持ちに満たされていくといったような心境になる。 七転八倒するような映画製作現場にしてしまう天才監督は、64歳にしていかがな心境であったのだろう。案外、主人公と似たような境地であったのかもしれない。
Nov 20, 2015
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生きて帰ってきた男 小熊英二 2015年ある日本兵の戦争と戦後 戦時下の繰り上げで早稲田実業を卒業の後、富士通信機にて経理に就くも、陸軍二等兵で通信部隊に召集され、満州寧安の守備にて敗戦をむかえ、シベリアのチタの収容所の三年を生き抜き、帰国するも、職を転々とし、長期療養所生活を強いられた後、新潟、東京と職を求め、ようやく10年かけてスポーツ用品販売業で生計をたてるようになる。忙しく働き、家庭を持ち、子を育て、高齢となり引退した時、兵士としての戦争を語りはじめ、兵士に対する国の身勝手な対応を訴えるに至る。 威張ったり、高揚したりすることのない普通の庶民が、兵士として動員され、敗戦の捕虜となり、強制労働にかりだされ、共産主義の威勢に虐げられながら、生き抜いて帰国するも、母国は、経済破綻により庶民のなけなしの蓄えを無価値にしてしまい、特権階級の利得は保全し、庶民には自らの力で切り開いていくしかない国の正体が明らかにされている。 戦争に普通の市民をかりだし、追い詰めて互いに傷つけ合わせながら統制して、軍のために命を差し出させた為政者。戦争の被害は、国民に等しく受容させるとして償わぬ為政者。 遂には、戦争を見ようともせず、学ぼうとも知ろうともしない風潮に染まり始めた国民に、ほくそえんでいる為政者がいるのかもしれない。
Nov 19, 2015
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雪の墓標 小池喜孝 賀沢昇 1979年タコ部屋に潜入した脱走兵の告白 1925年大正14年生まれの農家4男が、弱みにつけこまれて海軍刑法を犯し、脱走、潜伏、監禁、手先、逃亡、流浪の末、敗戦を迎え、米軍諜報となり、旧軍法の消滅により自由となり、土建現場回りの末、市役所職員として市民生活に入るも、戦時中、潜伏先のタコ部屋で手先となったことを告白し、自身の呪われた人生と苦悩し、贖罪を成し遂げる壮絶なノンフィクションであった。 スパイにつけいられて攻撃機の破壊工作に手を染め、逃亡していく話は、吉村昭に三度取り上げられているが、本書はその本人が述懐し、調査し、タコ部屋での犠牲者に贖罪する話で、戦争中の軍属・人夫の奴隷状況を克明にまとめたものだ。 菅原組による、人夫配給品物資の横領隠匿、給与ピンハネ、飲食・慰安所で借金漬け、捕虜収容施設を流用した宿泊所、監視、過酷な逃亡者追跡、みせしめ暴力、過労と栄養失調による衰弱死など、惨状には息が詰まる。 軍、役人に賄賂が撒かれ、軍事目的に隠れて菅原組に物資と富が隠匿されていく、このあさましさは日本の無残な真実のひとつだったようだ。 弱者はつけいられ、利権を貪る暴力の暗黒が戦争の底辺でも繰り広げられていたことがよくわかる。北海道の山中にも戦場があったかのようだ。
Nov 18, 2015
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昭和史の10大事件 半藤一利 宮部みゆき 2015年 明治の日英同盟の背景は、独露同盟、仏露の強い結びつき、独と仏の結びつきへの危惧、英の孤立感があって、露の力を削ぐために日英同盟を計画したそうだ。日露戦争は、欧州の緊張の代理戦争だったそうだ。 中国の治安回復に出動した列強の中で日本の軍紀が立派で、英国は約束を守る国は他にないと認めたからだと読んだ事があるが、英も国益を画策したという訳だ。 昭和の三国同盟については、駐英大使吉田茂は反対していたが、陸軍が推進したと読んだが、外相の松岡洋右も日独伊に加えてソ連を加えるべく、スターリンにアプローチしていたそうだ。これは帝も承知していたと。 大政翼賛会で戦争意識を高め、戦争に突き進んでいったことを考えると、広田よりも自決した近衛文麿の方が責任があったと。東京裁判では、国民には罪がないような気分になっているが、国民が戦争に熱狂していたのは事実であったと。吉村昭も人々のこの変節への違和感を吐露していた。 独はソ連と協定し、ポーランドを分かち合い、裏切ってソ連に侵攻し、その果てに敗れるが、日は、日露戦争、ノモンハン、日ソ不可侵条約ときて、終戦仲介を託すも、裏切られて奪われたということか。アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 馬淵睦夫 2015年「日米近代史」から戦争と革命の20世紀を総括す ロシア革命は、ユダヤ人救済の為に、ユダヤ系金融資本が支援したユダヤ革命と言う。ユダヤ資本は国際主義でユダヤ民族主義と国際主義を両立させ、他の民族を国際主義にすることを目指したという。社会主義は国際主義であると。 ロシア革命を称賛したアメリカのウィルソン大統領は、国際ユダヤ資本に操られていたと。ロシアの共産化をアメリカは支援したと。 フランクリン・ルーズベルトは、社会主義者の側近に取り囲まれ、もともと人種差別主義者で日本嫌いの性格であったと。スターリンに分け前を与えたのがルーズベルトであると。 中国をも共産化するのがアメリカの目的で、日本はそれの邪魔なので戦争をしかけて壊す戦略をとったと言う。アメリカは、1940年にフライングタイガーを重慶に送り、蒋介石の抗日を支援をしたが、アメリカは毛沢東を勝たせて共産化したかったと著者は言う。 日米関係を悪化させた元凶は、ヘンリー・スティムソンだと。たしか、原爆投下の時の老陸軍長官だ。また、ユダヤ大富豪のバーナード・バルークが黒幕だと。 日本人移民の排徐は、1913年の排日土地法、1924年の絶対的排日移民法などで強化され、対日戦争シナリオは、政府のオレンジ計画として仕上げられたそうだ。ドイツと戦争するために日本に戦争を仕掛けたと言う裏口参戦論は誤りで、アメリカが日本と戦争したくて仕掛けたのが真実と著者は言う。 よくわからないが、アメリカが日本を壊そうとして開戦を回避せず、最期通牒したのは、有馬哲夫、寺島実郎なども明らかと言う。アメリカの戦争責任 竹田恒泰 2015年戦後最大のタブーに挑む 原爆投下は終戦を早めたとするのは、フィクションと。人道的配慮をしない、軍事的必要性もない、一般市民を殺害した犯罪であることが、米側の事実関係から詳述されている。 動機は、引き継いだトルーマンがルーズベルトの決めたことを再検討しない事、開発に成功した原爆が戦争を終結したとしたかった事。そして、最大の理由は、原爆でソ連に優位に立つためと。 壮絶な戦いをした日米が強固な同盟関係にあることは人類の英知と著者は言うが、知れば知るほどやりきれない。
Nov 16, 2015
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杉原千畝 白石仁章 2011年情報に賭けた外交官 ユダヤ人への日本通過ビザの発給に至る情勢、決意に至る背景、細心の工夫をした発給がよくわかった。なぜ、ユダヤ人を救う事を決意することになったのか、それまでの経歴を知ってよくわかった。 ロシア語を専門とした外交官として教育され、満州で15年過ごしたことが、礎になっていたそうだ。白系ロシア人と結婚し、ソ連と対峙する満州で外交官として諜報活動をこなし、軍とは意見相違しながらもソ連との外交交渉を成功裡に進め、陸軍からも重宝がられたそうだ。本人は、陸軍のスパイとなることを嫌い、1935年に日本への帰任を自ら願いでたそうだ。 1936年、在ソ連日本大使館勤務の命がでるも、杉原の情報士官としての力量から、ソ連は「好ましからざる人物」として入国を拒否したそうで、それほどの実力のある外交官であったそうだ。日ソ間で外交官のビザ拒否の応酬にまで問題は発展したそうだ。 恐れられた理由は、杉原の情報源が、ソ連に圧迫されていた白系露人、ドイツに迫害されていたユダヤ人、ドイツとソ連から圧迫されていたポーランド人達で、彼らを通じた第一線の事実把握とそれに基づく情勢判断が、極めて優れたものであったかららしい。 1937年にフィンランド、1939年にリトアニアに赴任することとなったそうだが、ソ連に拒まれたため赴任時にシベリア鉄道を使えず船でフィンランドに渡ったそうだ。後にヒューマニストと称賛される人物が、実は、ソ連に恐れられるまでの諜報能力を有するロシア通の精鋭外交官であったとは驚きだ。 1939年5月、ノモンハンでソ連の軍事力の前に、日本は兵力の劣位が明白となり、ソ連への危機感が増大していたそうだ。 8月、杉原がリトアニアに着任した時、独ソ不可侵条約が結ばれ、日独防共協定にあった日本の外交は失敗し、内閣は総辞職するにいたったそうだ。 9月には、ドイツ、ソ連がポーランドに進攻し、独ソで分割協定を結んだそうだ。ポーランドには、3から4百万人のユダヤ人が住んでいたそうだ。国境が閉鎖されるまでの間隙にリトアニアに入国できたポーランド避難民がいたそうだ。 12月、ソ連は、フィンランドに進攻し、国際連盟は、この侵略にたいしてソ連を除名処分にしたそうだ。この頃、杉原は、近しいユダヤ人一家に早く、米へ渡れと助言していたそうだ。 1940年6月、ソ連の50万の兵がバルト三国を占領し、8月にソ連に併合してしまったそうだ。 9月、日本は、ドイツ、イタリアと同盟を結び、翌年には、日ソ中立条約を結んだ後、米英と開戦したわけだ。 この激動の中、7月から日本領事館閉鎖までの間にユダヤ人に通過ビザを交付し続けたことになる。ドイツのユダヤ人迫害のみならず、ソ連のスターリンの脅威から守る行動でもあったと著者は言う。 交付に際しては、先々で入国拒否されたり、効力無効と判断されないように、交付条件に工夫をこらし、本国への交付記録の報告にも工夫を凝らしてあるそうだ。 熟慮した内容、タイミングで交付され、渡航を成功させる決意に満ちたものであったと著者は解説している。この後、プラハ、ケーニヒスベルグに赴任し、そこでも交付を続けていたそうだ。 1941年、独ソの開戦をさぐりだして日本に打電するも日本は反応しなかったそうだ。ドイツにもマークされ、帰国願いを申し出て、1941年12月10日ルーマニアに赴任した時は、日米が開戦していたそうだ。 半藤一利によると、日独伊の協定には、ソ連も入れたいと、松岡洋右外相は、スターリンにアプローチしていたそうだ。これは天皇も同意していたそうだ。 吉田茂の「ドイツは信ずるに足らず、英と関係深めよ」との報告に反応せず、ドイツと防共協定するも、独ソ不可侵条約でドイツに裏切られ、日ソ中立条約するも、1945年8月には、米と分け前を密約していたスターリンに150万の兵で攻め込まれた。その攻めてくることになる相手に終戦仲介も頼んでいたとは。 軍と組せず、事実と情勢判断により日本を考えていた外交官がいたこと、ユダヤ人を助ける方法を考えだして成功させることを決意して実行した外交官がいたことは、救われる思いだ。
Nov 6, 2015
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神宮の奇跡 門田隆将 2008年 昭和33年・1958年の東都大学野球秋のリーグ戦、学習院の優勝にまつわる話だが、敗戦時の朝鮮半島からの引き上げからはじまり、復興期に野球が人々に及ぼしたものが何であったのかとてもよくわかった。 学生野球の真剣勝負の姿に人々が共鳴し、未来への希望を人々にもたらしていたことがとてもよくわかった。学習院の逆転劇と並行して、昭和天皇のご成婚への逆転劇も展開され、人々の喜びが沸き上がった様子が目に浮かぶようだった。 未来を感じて、人々が我が事のように祝福したのだろう。 高度成長に入ろうとする時、懸命な勝負には、未来が映り、勝利を信ずる力を人々に与えたのかもしれない。さぞかし爽快な気分に満ちた年であったのだろう。 いつの時代でも、ラグビーワールドカップの日本の活躍のように懸命で爽快な勝負は人々を酔わす。まさに試合の醍醐味だ。
Nov 5, 2015
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ホンダジェット 前間孝則 2015年 開発リーダーが語る30年の全軌跡 ホンダが世界で好かれる理由がよくわかった。 たゆまぬ研究努力、率直に学ぶ姿勢、未踏の進歩に賭ける技術的野心、チームメンバーへのまなざし、顧客を喜ばせる信念、供給する責任、技術の伝承などなど、地道でかつ冒険的で、理論的でかつ野心的な姿がとても痛快でした。 本業で苦しんでいる報道が最近続いているが、世界の空を駆け巡る様子を想像すると、健在なりとエールをおくりたくなった。 革新の機体を設計した藤野道格氏、GEから提携打診されるまでのジェットエンジンをつくりだした藁谷篤邦氏、携わってきた技術者達、研究を継続させてきた歴代経営者達、事業参入を決意した経営者などなど、様々な関係者の事情や思いがあるだろうことを考えると、野心が成功を遂げたのは、創業者の残した教えがとても大きかったのではないかと思ってしまう。 著者の「悲劇の発動機 誉」では、国内最大の航空機メーカー中島飛行機の機体、エンジン開発とその運命が悲劇的に記されていた。技術力と生産力を集中できず、次々と着想、着手された戦闘機とエンジンが、世界最高水準の性能をつくりだしたがゆえに、その高度な仕様に職人までもが戦地にかりだされる製造現場では品質がともなわぬまま、実戦投入され、故障が頻発し、航空戦力の消耗・低下をもたらす悲劇が繰り広げられたという。製造・調達の科学的考察の欠けた海軍の技術省の計画能力が原因と断じていた 戦後、技術者達は、航空機製造を禁じられ、自動車産業に転身し、その情熱を自動車に振るったらしい。ホンダの創成期、モータースポーツで世界制覇した快挙はこうした技術者達によるものらしい。 高度成長も終わり、1980年代半ばに入社した技術者世代が、ホンダジェットを造り上げたらしい。戦前に、欧米コピーから学んだ後、世界最先端の技術水準に達するまでになった日本の航空機技術者達が、アメリカの命により航空機から去り、他分野に転身し、自動車産業を育て世界を席巻し、その後輩達が航空機を開発し、世界最先端機体を作り上げ、アメリカで供給する。 時を経て底流に脈打つものがあると感じてしまうのは、日本の未来に気楽すぎるだろうか。
Nov 4, 2015
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