PR
Comments
Category
Freepage List
Calendar
さて、コンサートでは、そのお母様の勤務先まで暴露されてしまった。
私自身は、高石市出身だという、二人の姉妹、ビィオラとピアノをそれぞれ担当していらっしゃる女性のことが気になっていた。演奏会が終わってロビーに出ると、客席を埋めたかたたちを見送っていらっしゃった。お住まいは、どうやら東羽衣らしいことが判明。
このトリオの名前はビィオラ、クラリネット、ピアノの三人組だから。ということで付けられたらしい。
演奏会のもう一つの目的は、「ミサコの被爆ピアノ」が実際にステージに上がったこと。ピアノが好きだったミサコは毎日ピアノを弾いていたこと。そして昭和20年8月6日。爆心地から1.8キロしか離れていなかったお宅でピアノは壊れた窓ガラスが突き刺さり、とても酷い状態だったらしいけれど、音は出たようで、日本が戦争に負けた翌日、ミサコは「トセリのセレナーデ」を弾いたのだそう。
プログラムの裏側に、「ミサコの被爆ピアノ」あらすじとして紹介されていた分を引用させていただきました。
実際に、淡路島までどうやって運ばれてきたのか。。。まぁ、今ならピアノ専門のトラックがあって、いとも簡単に運び込むことはできるのだろうけれど。演奏会の後、ステージにあるピアノに触れさせて頂く機会を持ってくださったけれど、私は触ることはできなかった。
会場はいつも“地元のほうの”で紹介しているコーラスグループの練習に使っている公民館のホール。なので、実は第一木曜日の練習を、このコンサートを聴くことで練習に参加。ということになったらしい。公民館の入り口の窓に貼られたポスターには、私が想像していたのとはまるで違う文字が入っている。「ミサコの被爆ピアノ」。実は、トリオの演奏だけ。だとばかり思っていたので、実際に被爆したピアノで演奏されるとは思いもよらなかったのだ。地元の子供たちも何人かが演奏に加わることも。
ホールは2階なので、2階へ通じる階段の脇に、当時の新聞記事が貼られていた。原爆のすさまじさ、核というものの恐ろしさを伝えていた。
偶然なのかどうか、8月6日は、広島に原爆が投下された日だ。その2日前に何と、この淡路島で本物の被爆ピアノを使っての演奏会を持つことを企画された人には本当に頭が下がる。
子どもたちはどういう思いでピアノを弾いただろう。昭和20年なんて、影も形も無かった子どもたち。「原爆の恐ろしさを少しでも周りの人に伝えて。」と主催者は仰ったけど、壊れた窓ガラスが突き刺さっても、音を出してくれたピアノ。現実に弾ける状態にしてくださった技術者がいたこと。。。弦は切れ、動かなくなったピアノの鍵盤も見事に蘇ったのだとか。
実際にあの被爆の後に流れてきたピアノの音を、その場に居た人は一体どんな思いで聴いただろう。よくまぁ、残っていたことだと、そのことに驚いてしまう。あの原爆ドームがそのすさまじさを物語っているのだから。
さて、子どもたちの演奏は6人。驚いたのは、小学校3年生だという男の子。『紅の豚』より「帰らざる日々」を演奏。そのセンスに私は驚いてしまった。しかも小学校3年生だったら、今からがとても楽しみだ。また、『隣のトトロ』より「風の通り道」は何と、ビィオラとクラリネットが加わって、大人顔負けの演奏だった。これにはピアノ担当のかたも感激されていたようだった。
アラッ?子どもたちの演奏は6人だった筈なのに、何故か5人しかプログラムには載っていないけど、これはどうしたことでしょう?確認しなかったのかなぁ。だから怖いのよねぇ、印刷物は。誰の眼に触れるかわからないし。
正直、ビィオラをソロで聴くなんていう機会はあり得ない。チェロとかコントラバスなら聴いたけど。考えたら、皇太子さまも、担当はビィオラじゃなかったかなぁ。重厚な音に改めて感動を覚えた演奏会だった。本当に素敵な機会をありがとう♪
被爆ピアノはヤマハ製だったから、ヤマハ独特のあの嫌な音は否めないけれど、見事に蘇って演奏ができる。ということに技術者さんたちの心意気を感じた。
原爆に関しては、戦争を仕掛けた国日本への戒めだった?まだ、二つで済んだのが幸いだった?今も尚苦しむ人が居るという現実。亡くなってしまわれたからオシマイ。という話ではないと私は思う。二度と、こんな悲惨なことが起こらないように願うばかり。
原発の問題は、専門家たちが知恵を尽くして安全を導き出して欲しい。でなければ、原爆投下ぐらいでは済まないことが起こってしまう(しまった?)のだから。
『日本中に歌声を「歌おうNIPPON」プロジ… 2012.08.30
『愛燦燦』(8/23) 2012.08.24 コメント(2)
『ふるさとの心をうたう第37回淡路音楽… 2012.08.05