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最近の礼拝を通して、「礼拝は捧げもの」ということを学んできた。「礼拝は捧げもの」というのは、神さまが主役。私たちは自分の宝箱を開けて最高のプレゼントを捧げるものだという。精神的に疲れているから癒されに行くとか、賛美をすると心がスカッとするからとか、メッセージを聞いて励まされたいとか、他のクリスチャンに話を聴いてもらいたいなどという動機で礼拝に行くのなら、それはちょっと違う、自分が主役になっているということに目から鱗が落ちたようだった。私自身も「行かなければやってられない」という自己中心的な思いのときが多かったように思う。もちろん礼拝に出席した結果、それらのことが与えられることが多い。けれど、それがもともとの目的ではないのだ。礼拝で自分が何かを受けたい、もらいたいと思いがち。それはなぜだろう。毎日の生活で十分に受けていることを味わい、感謝していれば、日曜日には捧げることができるんじゃないかな。毎日いっぱいいっぱいの我慢の生活をしていると、日曜日の礼拝では、そのときぐらいは受けたいと思うのでは。こんな話が出てきて、なるほどと思った。では、最高の贈り物って、何だろう。自分には何も神さまに贈るようなものを持っていないように感じることがある。でも、最高のプレゼントは時間だ、たとえ何か物を選ぶにしても、相手のことを想いながら考え選ぶ時間こそが尊いのだと、ある本に書いてあるのだそうだ。「礼拝は捧げもの」という意識を持つだけで何かが変わっていくように思う。できることを探しながら。
2007.01.30
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一昨年、あるキャンプに行った娘がお土産にプラスティックの真珠のようなビーズで出来た十字架のネックレスを買ってきてくれた。「お母さんへのお土産はいらないからね。」と言っておいたのに。「お母さんのために一生懸命選んだの。教会に行くときにつけてね。」と言って渡してくれた。けれど子どものおもちゃのようなつくりなので、数回つけたきりリビングの入口にかけておいた。昨年、同じキャンプに行った息子がお土産に貝殻とプラスティックのカラフルなビーズを連ねたネックレスを買ってきてくれた。小さい子どものおもちゃのような・・・。「お母さんへのお土産はいらないからね。」と言っておいたのに。「お母さんのために選んだから、つけてね。」と言われたのだけれど、さすがにそれは一度もつけずにリビングの入口にかけたままにしてあった。時には、それらが目に入るたびに「お母さん、何でつけてくれないの?」と言われた。子どものおもちゃのようだから、大人にはねぇ、とは言えずかわしてきていた。そして、今日も。今日はなぜか、すっと引き下がってくれない。いつまでも、「何でつけないの?」と、納得のいく答えを得ようとする。それはきっと「じゃ、明日つけるね。」という答え。お風呂から上がっても、息子は沈んだ気持ちをいだいていた。「お母さん、嬉しくなかったの?」「他に買いたかったものを我慢して、これを買ってきたのに。」「おみやげ、いらなかったの?今年はお土産買ってこなくてもいいっていうこと?」(買ってあげたいのに)「400円を無駄にするの?」(そのお小遣いを渡したのは私なんですけど)「お母さんへの愛情を伝えかったのに。」「ゴージャス過ぎってって言うけど、つけない理由にならないよ。」「今年は違うのを買ってくるから。」布団の中でシクシクと涙し始めた。「お母さんへの愛は十分伝わってるよ。ほんとうにありがとう。その気持ちで充分だよ。」と答えるも、「だけど、形に表さないと伝わらないこともあるでしょ。」はい、その通りです。息子の思いもよくわかる。逆の立場だったら同じように思うだろう。買ってこなくていいよと言われても、買ってきたかったのだ。お母さんのためと思って、一生懸命選んでくれたのだ。自分の欲しかったものを我慢してまで。その贈った物が喜ばれていないようだと感じることは本当に悲しいことだ。贈った物を使ってもらうことで、自分の愛が伝わり受け止めてもらえたと感じるのだ。変に言い訳しないほうがいいだろう。たとえどのような言い訳であっても、息子を慰めることは出来ない。息子の想いを無にしているのは、私の方。その想いを言葉で表現できる息子は、私よりはるかに素晴らしいと思う。けれど、やはりおもちゃのようなネックレスをつけて外には出られないなぁ。せめて、家の中だけでも?(今、息子の帰りを待ちながら、そのネックレスをつけているのだけれど、どうもおかしい、落ち着かないよ)これで、安心してくれるといいのだけれど。いい子ども達だなぁ。そんな子ども達を傷つけてしまっている自分は、どうすればいいのだろう。少し、悶々と考え込んでしまう。
2007.01.29
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第二ペテロの手紙1:1-13クリスチャンの中には、自らの信仰生活に満足してしまっている人もいれば、そうでない人もいる。どうしてだろうか。これはペテロ自身も抱えていた問題であった。そして、同じ信仰をもつ兄弟を励ますためにこの手紙を書き送った。人生を振り返って神さまが今までに自分にしてくださったことを思い起こす人は霊的成長があるけれど、それを忘れてしまう人はあまり成長しない。「思い出す」ことは、ペテロにとってとても大切なことだった。今までの経済的危機にはいつも必要を満たしていただいた。自分の過去の罪をすべて贖うために、イエスさまを送ってくださった神の愛を思い起こすと、感謝で溢れ、神をもっと知りたい、愛を捧げたいと思うようになる。過去において神がいかに約束を真実に守ってくださったのかを思い起こすこと。ペテロやヨハネは確かに深い信仰をもっていた人たちだったが、それと"同じ尊い信仰を受けた方々へ"(1節)書き送っている。世にある欲のもたらす滅びを免れ(4節)ることからはじまり、神様を深く知ることによって(私たちが救われた目的その1)いのちと敬虔に関する全てのことを私たちに与えられる。嫌いな人を赦したり、困難な状況にあって喜びを見出すことなど、自分の力では出来ない、神から受けなければ出来ないことができるようになる。神を知る時に、これらのことが惜しみなく与えられる。それは、神の性質にあずかる者となるため(救われた目的その2)。神さまは、私たちが神さまと生き生きとした交わりを楽しむようになることを望んでおられる(4節)。心の平安を得るために悔い改めの祈りをしたり、喜びを感じるために賛美することがあると思う。それらは、自分のためのことであって、ちょっと違う。いのちのパンであるイエスさまを味わい、神の性質にあずかる者となると、その結果として平安や喜びが与えられる。全て主のため、主が望むこと。もともと罪のあった私たちは、"赦された罪人"である。罪から解放され、神さまと親しく交わりを持つことを、神さまは望んでおられる。油と水が混じり合わないように、光(神)と闇(罪)は混じらない。イエスさまのようになることでしか神さまを楽しめない。霊的生活は信仰を出発点とし、愛が最終地点である。その間にいくつかの段階がある。信仰には得(高い道徳心、正しいことを知って行おうとする)を、得には知識(神さまを体験し個人的に知ること)を、知識には自制(間違ったことを知って行わないこと)を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔(個人的な聖さ)を、敬虔には兄弟愛(同じ信仰をもつ人たちとの交わりに甘味を感じるなら、見えない神との関係にも甘味を見出す)を、兄弟愛には愛(隣人への)を、あらゆる努力をして加えなさいとペテロはすすめている。努力といっても独りで頑張るのではなく、聖霊との共同作業を行っていく。内側の霊的生活(深く神さまを楽しむこと)に外側の霊的生活(豊かに実を結ぶ)も伴う、両方が大切。霊的にもっと成長させたいと思う人たちは、いつも自分の以前の罪がきよめられたことを覚えていて、いつも感謝し、喜び溢れ、もっと祈り、賛美をする。そうではない人は、以前の罪がきよめられたことを忘れてしまっている(9節)。「あなたがたの召されたことと選ばれた事を確かなものとしなさい。」(10節)永遠の命への希望をいつも持っている(救われた目的その3)ために、過去の、救われた時の自分の決意だけでなく、今どのように歩んでいるかをも確かめてみよう。「このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。」(11節)神さまはこれらの目的、神様を深く知ること、神の性質にあずかる者(イエスさまのように)なること、永遠の命への希望を持つこと、真の喜び持つことのために、私たちを救って(選び召して)くださったのです。
2007.01.28
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クリスチャン生活における霊的形成の過程にそぐい、例えられる箇所があります。★出エジプト記15:22-27 イスラエルの民がエジプトを出て約束の地への40年間の1ヶ月目エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民がモーセに導かれてエジプトを脱出し、エジプト兵に追われつつも紅海を無事に渡り、奴隷から解放され、神に賛美を捧げた直後の話です。この喜びは、私たちが罪の奴隷から解放されクリスチャンとなってすぐの喜びと似ています。ところが、荒野を歩いているとき3日間水がなく、たどり着いたマラという地の水は苦くて飲めませんでした。クリスチャンライフも、思ったより苦いものに感じられるのです。イエスキリストの救いを知らなかったときの喜びと、クリスチャンになってからの喜びは、違います。この時期はその過渡期にあるのです。ささやかな喜びを見出すことが難しいのです。イスラエルの民も飲食に不自由しなかったエジプト(奴隷生活)に戻りたいとさえ思ったでしょう。同様に私たちもクリスチャンでなかった頃に戻りたいと思うこともあります。けれど、なぜエジプトに戻らなかったのでしょうか。なぜ、クリスチャンを辞めなかったのでしょうか。(それぞれの理由があると思います。)以前は罪を犯すようなことが楽しかったのです。朝少し早く起きて聖書を読む楽しさと、友人と飲み食いしてはしゃぐ楽しさは、違うのです。24節では、民はモーセにつぶやいて(愚痴を言って)います。「こんな苦い水は飲めない。」するとモーセは神に叫び、新しい水を楽しむことが出来るように、変えられたのです。古い習慣から新しい習慣に変えられていくのです。単に変えられただけではなく、魂がそれを欲し、甘さを見出しているのです。真っ二つに割れた紅海を渡るだけでなく、主に従い、耳を傾け、守るなら「わたしは主、あなたをいやす。」(26節)と仰せられました。27節では12の水の泉と70本のナツメヤシの木のあるオアシスがちゃんと用意されていることが書かれてあります。喜びrejoiceは、訓練して学ばなければ身につかないのです。しばしの休息です。★出エジプト記16:1-8 2ヶ月目オアシスを発ちシンの荒野にはいった民は、口々につぶやいています。「エジプトにいたらよかった。」「エジプトで死んでいたらよかった。」「この全集団を飢え死にさせようとしているのか。」エジプトにおいての奴隷生活がいかに辛く過酷だったかを忘れているのです。クリスチャンになる前は虚しさ、辛さを酒や人間関係などによって忘れようと、満たそうとしていたことを。主は仰せられた。「わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。」主が毎日、新しいパン(食べもの・御言葉)を与えてくださる。それを喜んで食べることを学び、練習するのです。霊にとって悪い食べ物によって病み、よい食べものによって元気になるのです。★民数記11:4-9 39年目、約束の地が与えられるまであと少し相変わらずエジプトの食べものを懐かしむ思いは彼らの内に来ます。けれど、マナ(天からのパン)を楽しむことを覚えました。一見、味気のないマナの喜びを見出すことが出来るようになってきました。マルチン・ルターがこう言いました。「鳥が空を飛ぶのを止めることは出来ない。けれど、頭の上に巣を作らせないことはできる。」気分の高揚を得るための賛美やカリスマ的なものに対する陶酔(ニンニクや玉葱などの刺激のある食べもの)は、現実逃避でright reasonではありません。マナを喜ぶとは、問題に取り組みたいと思っていること、問題が示されていることを喜ぶこと、問題から自由にされていることを喜ぶことです。★ヨハネ6:31-35,41イエスさまご自身がマナ(いのちのパン)であると言われました。罪の告白をするのは、賛美するのは、聖書を読むのは、マナを食べたい(神さまとの関係を求めたい)からです。祈り「主の力によって、苦い水の中に甘さを見出すことが出きるように。」 「ほんとうのマナ(いのちのパン、イエスキリスト)に出会うためにクリスチャンとして歩んでいるかどうかを示していただくように。」
2007.01.24
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今年初めての教室。しばらくペンを持っていなかったので、緊張してペンを握る。ペンの温度も一定せず、なかなか思うように線が焼けない。楕円が角張ってしまった・・・。久々でペンの感覚が戻っていない上に、精神的な乱れが途中で発生。線は恐ろしいほど正直、精神状態を隠せない。乱れた心では、線がつっかえたり、力んだり、思わぬ方向へ走ったり、足並みが揃わなかったり。焦げ目のラインは消すことが出来ない、やり直しが効かない、ごまかせない。ダメだ、家に帰って心を落ち着けて、仕上げよう。来月の教室までには。そして、次回には平安な心で挑もう。製作途中家にちょうど札幌時計台の写真葉書があったので、それを観ながら、あと細かい表現や陰影などをつけて立体的に仕上げます。
2007.01.24
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今日はまた別の痛み。今まで気づかずにいたあちらこちらの体の衰えが、一度に自己主張し始めたよう。今が、それを受け止め、受け入れるべき時なのだろう。点検に出し、手入れし、補修や補強をしなくてはいけない時なのだろう。医療関係者のくせに、自分の身体を診てもらいに行くのを面倒がる、まずその態度から改めなくてはいけないのかも。自分の身体を、過信しすぎている、まだ。それでももうちょっと、できれば子ども達が自立するまで、働いて欲しいね、この身体。診てもらい慣れていないから、継続しないんだよね。寝込むほどじゃないし。朝は忙しいだとか、夕方はバタバタするとか、難癖をつけて。最近、「痛いわぁ」と口にすることが多いので、家族が優しい。これは収穫。私の様子を見て、痛みと共に生活することをよく観てね。あなたの大切な、あの人(達)も、同じなんだよ。私に示す優しさを、あの人(達)にも分けてあげてよ。あの人(達)の痛みのほんの少しでも共有できていることを、嬉しく思う。
2007.01.24
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痛みは辛い。痛み自身が辛い。原因がよくわからないのが辛い。他に原因の可能性がないか心配なのが辛い。はっきりとした治療法がないのも辛い。いつまで続くかわからないのが辛い。一生付き合わなくてはならないかもと思うのが辛い。医師はあっさり「筋力をつけなさい。」と言う。姿勢には気をつけている。(ひずみは出てきているだろうが)もともと筋肉は弱い方ではない。(年齢相応にはなってきたかも)他の原因の可能性はないのか。寝てると痛い。曲げると痛い。押しても痛い。昼間の活動は平気。痛みのないときには、全く無かった不安。不安が辛さを呼ぶ。雪だるま式に不安が大きくなる。痛み止めを飲んだところで、無くならない不安。不安を抱き続ける、辛さ。身体だけでなく、心まで痛くなる。痛みを持ち初めてわかったこと。若葉マークの痛み。
2007.01.22
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今日の礼拝メッセージはオーストラリア人のMさんの証、神さまがMさんに何をされたのか、Mさんがどのように神さまとともに歩んでこられたのか。手元にメモを取っていなかったので、印象に残った部分だけを記しておこうと思う。家には仏壇、元日には初詣、お宮参りに七五三、クリスマスも祝い、葬式にはお経という日本人すると、オーストラリアにはクリスチャンが多そうだし、神様を信じて生活することはたやすい環境なんじゃないかと思っていた。けれどMさんの歩んできた道をたどると、決してそうではない。神さまの存在を求め、ある出会いから聖書を読むようになり、自分を愛してくれる神さまの事を知り、そして信じるに至った彼女は、すばらしいことを知った喜びに溢れていた。ところが、その喜びを両親に話すと、何か悪いことをしているかのように言われ、教会に行ったりクリスチャンの人と活動することを禁止すらされた。また、大学の寮では様々な快楽にふける友人達のなかで、変わり者扱いされたり、毎日酔っ払った友人の世話をしたり。信仰を持つことの厳しさは国によらないのだなと思った。言い換えると、どんな国でも環境でも、同じ神を信じることができる。クリスチャンでない人たちの中にいるということは、福音を伝えるチャンスがいつでもあるということだとMさんは言った。逆境はチャンスでもあるんだ。バリ島のテロ事件があったときオーストラリア人がたくさん亡くなった。Mさんはこのようなことを許される神さまに怒りを覚えた。きっと多くの人が「神さま、なぜこのようなことを!」と叫んだことだろう。Mさんの友人が自殺未遂を起こしたり、また別の友人が自殺してしまった時、Mさんは友人を助けられなかった自分を責めた。辛い毎日を送っていたとき、1人の先生が声をかけてくれ話を聴いてくれた。そして言われた。「それはあなたのせいじゃない。あなたはよい友達だった。友人は自分でそれを選択したのよ。」Mさんは気付いた。「人間には決定する権利がある。だからあのようなひどいことのすべてが神様のせいじゃない。」聖書引用、1ヨハネ4:9-10、2コリント1:21-22、ローマ5:3-5、詩篇36:5-6、1ペテロ1:3話は続いたが、Mさんは辛い辛い歩みの中にも神さまに従い、今は神さまのために働きたいという熱い思いが与えられ、日本に滞在している。Mさんの絶えない笑顔と熱い思いの一端に触れることができたひとときだった。
2007.01.21
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娘は、やらなければならないことになかなか取りかかれない。つい、漫画や本に熱中したり、つい、漫然とつけられているテレビ画面に見入ったり、つい、・・・。娘は喘息のため、毎日朝夕と薬の吸入と肺機能の簡易チェックをし、ノートに書き込まなくてはならない。先月の定期診察の際に、自分で健康管理することを医師と約束したのだ。ある時、何度言ってもなかなかやろうとしないので、声を大にして「早う、やり!」と叫んだ。笑顔と共に返ってきた返事は「もうそろそろ・・・。」つい笑ってしまう。カリカリしてしまう私のような親に、こんな娘とはまったくよくできた組み合わせだと思う。
2007.01.20
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聖書に登場する夫婦を見ながら、自身の夫婦関係を見つめ、夫のためにも祈る夫人の会(アビガイル会、聖書に登場する聡明な妻の名より)があった。今日は新年スペシャル祈祷会だった。実は何も心構えのないまま「スペシャルって何やろなぁ?」とぼーっとしながらの参加だった。「夫を、イエスさまの目で見ることができるように・・・。」始めの祈りの中で導き手(リーダー)の口に与えられたことば。いきなり目が覚めた。ああ、昨年一年さまざまな荒波(感情、状況)にもまれたあげく、たどり着いたまさにその想い。問題に直面する度に、過度な期待を抱きことごとく砕かれたように感じてきた。そんな状況を、わたしが頑張らねばという内外からのプレッシャーに応える形で、また私自身のやり場のない想いを発散させるように、がむしゃらに自分を追い込んできた。苦しくて辛くなってもなかなか手放せなかった、頑張り、意地っ張り。それが年末になってようやく、"ふっ"と肩から降りた。気がついたら、内外からのプレッシャーのエネルギーが衰えていた。わたしの思うように行動してくれないことへの不満ではなく、表れている行動に秘められた想いを知り、理解し、寄り添いたいという祈りに変えられた。奇跡のような心の変化。御霊の働きとしか言いようがない。今日、再度、確認させられた。「誰でもキリストの愛を求めて生きている 誰でもキリストの愛を受けられる」「流れよ 栄光 この力 世界に 溢れよ主の香り われらの中に」今日の賛美の中にあったことば。夫はクリスチャンではない、そして周りにいる人もクリスチャンでない方ばかり。けれど、こんな風にいつも誰に対しても思えたら、きっとその方も神様の愛を感じてくれるに違いないと強く思った。私自身がその愛を受けたのだから、受け続けているのだから。そしてもし、口で証する時だとされるなら、どうかその勇気さえも与えてください。「わたしこそ神であることを知れ。」今日のために、祈りのリーダーを通して与えられた御言葉。そうです、昨年通して、わたしは自分の力で何とかしようと、自分の力で何とかできると、自分勝手な判断であがいていました。・・・間違っていたのです。これも昨年12月になってようやく気づかされたことだったのです。状況を変えることができるのは、私ではなく、神さま。人を変えることができるのは、私ではなく、神さま。人と人を和解に導けるのは、私ではなく、神さま。気付かされた後の、心の平安も、奇跡的。そしてたどり着いた、今年目標とする漢字一字が「委」。まさに、主ご自身が言われているこのことだったのです。最後に「夫に仕える」ということについて、静まり、神さまに心を探ってもらい、想いを吐き出し、悔い改めるべきは悔い改め、導きを求める祈りの時を持った。家庭の中でほとんど自分の想いや意志を表さないので、正直「どうやって仕えたらいいのよー!」と、私の持つ"仕える"イメージから離れられずにイライラしていたのだけれど、聖書の言う"仕える"とは私の抱いていたイメージとは違うのかも、そして新たなイメージが掴みかけてきたような。"仕える"とは私にとって、まず、イエス様のような眼差しで見、ありのままを受け止め、不満でははなく憐れみ祈ることからの出発のように思えるようになった。ほんとにほんとに、スペシャルな祈祷会でした。祈り、示され、賛美し、示され、分かち合い、探られ、悔い改め、祈り、平安。食べ喋り・・・。
2007.01.17
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団欒のひととき「生きがいって何かなぁ。」という話題になった。子ども達は「まま!」だなんて言う。「ママが生きがいやったら、ままが死んだらどうするんよ?」なんて言いながら。半分くらいは嬉しいけれど、あんたたちの生きがいはそんなもんかい、とも思う。では、私自身の生きがいってなんだろう。毎日のことで精一杯だし。ちょっと考えて答えた。「美味しく食べることかな。だって、美味しく食べられるって、本当にありがたいことやし幸せやもんなぁ。」食いしん坊です・・・。ハテさて、ほんとうに、生きがいって??
2007.01.17
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午前中に遣わされた 場所で怒りを誘う出来事が あった立て続けに 3件そのまま午後に遣わされている 場所に向かった怒りモードの まま与えられたことに心を向けてしまったさらに 夕げ団欒の時まで持ち越してしまったどこかで 一旦ニュートラルにしてあらためて 穏やかモードで発進できなかったものかどこかで 一旦十字架の元に 怒りを置くことはできなかったものか
2007.01.11
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息子は、暇があると「お母さん、好きっ!」とか「お母さんって、すてき!」という言葉を口にする。あんまりひっきりなしに言うので、聞き返してみた。「どこがすてきなん?」すると思いがけない返答が。「人を愛で包み込むって感じが。」(あんた、愛って何かわかってるんかいな?)で、さらに問うてみた。「愛って、何?」すると、なんと。「太陽とか水みたいなもん。植物にとって、喜ぶでしょ。」(結構いいところついているかもね)こんなに親である私のことを好きでいてくれるなんて、もぉ~かわいいったらありゃしない、と思う私も親ばかだけれど、この子も結構子ばか(って言うものかな?)だねぇ。今朝、こんな言葉に出会いました。「愛するということは必ずしも『好きになる』ことではありません。愛するというのは、意思をもって相手の祝福を願うことです。神様からの祝福を心から願うこと、願い続けること、そして『聞く』ことができる事も愛の表れと考えられています。」
2007.01.08
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ヨハネによる福音書、7章53節~8章11節クリスチャンは二つの悲しい問題を持つ傾向があります。ひとつは、自分を高くしすぎて他人を裁くこと。もうひとつは、自分を低くしすぎて罪悪感を抱くこと。バランスよく、そのふたつの間にとどまるには、自分が"赦された""罪人"であることを覚えていることが必要なのです。赦されたということを覚えているなら、自分を必要以上に低くすることもないし、罪人であることを覚えているなら、自分を高く持ち上げることもありません。自分の過去現在未来の罪をも十字架によって赦されていることを覚え感謝して主を見上げることができます。ここでは姦淫の場で捉えられた女が、イエスを試みようとしていた律法学者とパリサイ人によって連れて来られました。人は、他人の問題に気付きながらも自分の中の同じ問題に気づかないことがよくあります。また、気付いていても同じ問題を持つ人に厳しくなりがちです。姦淫の場には相手の男性も居たはずなのに、奇妙なことに連れて来られたのは女性だけでした。モーセの律法(申命記22:22)によると、ふたりとも死ななければならない(罰を受けなければならない)とされているのです。明らかに彼らは自分自身は聖いと信じ、男性ではなく女性の性的な罪に対して歪んだ基準(double standard)を持っていました。イエスは「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)と、彼らの偽善を指摘しました。彼らは一人一人去っていきました。(9節)イエスは、女が連れて来られた時、指で地面に書いておられました。(6節)聖書の中で「指で記す」ことが書いてあるのは、主(神)がご自身の指によって(モーセに与えられた)十戒を石に記された箇所(主ツエジプト記31:18、32:16)とこの箇所だけです。ここで、イエスの神格を表しており、イエスがこの女(と私たち)の罪を赦す権威(律法の著者)を持っていることを表すのです。イエスは地面に何を書いていたのでしょう。推測ですが、十戒を書いていたのかもしれません。それも、その全部ではなく姦淫の罪についての箇所を書いていたのかもしれません。あるいは律法の箇所(申命記22:22)を書いていたのかもしれません。いずれにせよ、律法学者やパリサイ人たちは自らの罪(おそらくは姦淫の罪)を自覚し、女を石うちにすることが出来なくなったのです。英語では「あなたが誰かを指差すときには、誰かの3本指に指される。」という表現があります。私たちは赦された罪人であり、神の赦しが必要な存在であることを覚えましょう。そうすることで、常に感謝の思いと謙虚さを保ち、周りの人を裁く思いから守られるのです。これはひとつのチャレンジで、赦しを求めるなら(裁く)権利を放棄しなくてはならないのです。誰にも石を投げられることのなかった女にイエスは言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)これは私たちへの言葉でもあります。聖い生き方を始める前に、彼女に赦しを与えられたのです。同じように私たちも、個人的な聖さを求める旅を始める前に主の憐れみによって赦された者であることを確信することが最初のステップなのです。その後の歩みがどんなものであっても、イエスさまの約束に変わりはないのです。
2007.01.07
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隣に横たわるもうひとつの 体温を感じそっと手を置く空気の流れる音柔らかな丘が静かに上下規則正しくひとつの独立した 命この胎から生まれ出たのに私のものではない私が創ったのではない宿ったその日から生かされ育まれている命
2007.01.06
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今年はどんな年になるのだろう。大小、様々な変化のある年になりそう。状況が変わっても、使わされた場所(空間のみならず、環境、人々の集まり、役割含めて)において、精一杯歩んでいきたい。みこころを求め、従い、あとは信じて委ねる。どんな荒波であろうと、どんなに深い穴であろうと、山のてっぺんにいるように感じる時も、委ねていきたい。というわけで、今年の目標の漢字は『委』。
2007.01.03
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明けましておめでとうございます。今年も、気が向きましたら、かすみ草の原っぱにお立ち寄りください。ぼちぼちと、綴ってまいります。
2007.01.01
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