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エコファームの農地から2週間ほど前に掘ってきた大根を、くるんでベランダに放っておいた。ふと目をやると、葉の中心から茎が伸びていてブロッコリーのような蕾が座っていた。暖かい日が多いからかな。今年は随分早い春だね。このまま放っておいたら、花が咲くだろうか。(食べるために持ち帰ったのだけれど)
2007.02.28
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使徒の働き4章1-13節より サム・マクギオン師使徒の働き3章ではペテロとヨハネがイエスの名によって足なえの人を癒しました。人々は驚き、あきれたとあります。4章1-4節で、彼らによる御言葉を聞いた人々がみんな喜んだ訳ではなかったのです。ペテロとヨハネは捕らえられ、翌日には大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデスたち―彼らこそイエスを十字架につける決断をした人々―が使徒たちを尋問しだしました。使徒たち、つまり初代教会のリーダーの危機です。ペテロはイエスが捉えられた時、3度も「知らない」と言ってしまった人です。彼らは、命の保障さえない状況で「もう、このようなことはしません」と言いgive upしてしまいたいという誘惑があったことでしょう。でも、それはすなわち"教会の死"を意味するのです。この危機的状況の中で、彼らはどうしたのでしょう。1.聖霊に満たされ(8-12節)勇気とキリストと共にいることを表した(13節)。ペテロは聖霊に満たされ、大胆に語りました。聖霊による洗礼は完全で1回限りのものです。でもいつも聖霊に満たされている訳ではありません。だからこそ、満たされ続けなさい、と聖書に何度も書かれてあるのです。使徒の働き2:4や4:8にも「聖霊に満たされた」と書かれてあります。聖霊の満たしは感情的な異言や歌って踊るようなことを意味するのではありません。"わたし"の内にある霊、心、思いなどすべてが、自己や酒やこの世の価値観ではなく、神で満たされていることなのです。ペテロとヨハネの大胆さ、勇気は私たちにとっても必要なことです。家庭で、職場で、また街で出会う見知らぬ人に対して。彼ら自身がイエスと共にいてイエスに似るものであることを表していました。2.人々の頑なな心のために準備する(14節)癒された人がふたりと一緒にいるのを見て、ふたりの言っていることの証拠、現実を目の当たりにし、否定できませんでした。尋問した人たちは悔い改める必要がありました。けれど、彼らは"信じないこと"を選んだのです。3.結果がどういうことになろうとも、神様への誠実を守る(18-20節)「いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない。」と命じられたペテロとヨハネは「神に聴き従うより、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」と答え、神に従うことを選びました。これは"死"をも覚悟した行動でした。このような最悪の状況の中でも、神さまは働いておられ、ふたりは釈放され、罰することはされませんでした。皆のものが、この出来事によって神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったのです。4.大胆になる(23-31節)釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、このことを聞いた人々はみな、心を一つにして言いました。「主よ、あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です!」彼らの自身の源は、天と地と海とその中のものすべてを造った神にありました。「あなたの指の技である天を見、あなたが整えられた月や星をみますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:3-4)どれほど大きな方が、どれほど私たちのことを気にかけておられることか。雀の一羽さえ父なる神の許しがなければ地に落ちず、私たちの頭の毛さえもみな数えられているのです(マタイ10:29-30)。「神さま、わたしを愛している?」なんて問いたくなるかもしれませんが、それは愚かな質問なのです。「もちろん!あなたを愛しているよ。」神さまを拒むことができる人々がいると、神さまは聖霊によってダビデの口を通して言われています。(詩篇2:1-2)彼らは、神さまの御手と御心によって、あらかじめ定められたこと(イエスを捕らえ十字架につけたこと)を行ったのでした。「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべ達にみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」もっと問題を抱えることになるにも拘らず、こう、彼らは祈りました。いとどうは聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語りだしたのです。-----初代教会の危機にあってのペテロとヨハネの行動を見つめていくと、教会のみならず、私個人の日常にも大なり小なり当てはまることがあるようです。私たち一人一人のからだは、私たちの内に住まれる、神から受けた聖霊の宮です(1コリント6:19)。私たちが自分の都合の悪いような状況にあっても、天と地と海とその中のすべてのものを造られた神さまに愛されていることに信頼をおき、大胆に信仰を表すことができるように、助けてください。そんな風に思いました。
2007.02.25
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あれは私が10歳ぐらいの頃だったろうか。お友達のお誕生日会に招かれて、子どもながらにプレゼントを用意しました。ファンシー文具屋さんで長い間迷って、選び出した1枚の下敷き。プレゼント包装もしてもらいました。限られたお小遣いの中から、使ってもらえそうで、ありきたりでないもの。キキララの図柄でグレーが基調の(今思うと)渋い色使い、図柄の背景は透明のまま。「これはいい!」と気に入って買いました。お誕生日会の日に、ドキドキしながら渡しました。数ヶ月経って、今度は私の誕生日会に彼女を招きました。そして、プレゼントを頂きました。その場で開けたのか、皆が帰ってから開けたのか覚えてはいませんが、そこには私があげた下敷きがありました。随分長い間、このことを忘れていました。この歳になっても、人にプレゼントをする機会があります。プレゼントを選ぶ時になんだか難しく思うことがあるのです。気に入ってもらえるだろうか。迷惑とはならないだろうか。何故なのだろうと、思い巡らせていました。それで、ふと思い出したのです。愛をこめて人にプレゼントをするのは、良いことです。けれど、プレゼントを選ぶことを苦しく思うなら、健全ではないのかもしれません。傷はまだ癒えていないのかもしれません。
2007.02.24
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劇的な出来事が、そんなに頻繁に起こるわけではない。毎日、ほぼ同じことを繰り返している。朝起きて着替え、ラジオ体操をして、お湯を沸かして、新聞の連載小説を読み、見出しに目を通し、洗濯機を回し、簡単な朝食の支度をし、家族に「おは!」と言い、朝食をとって、子ども達の支度を誘導し、家族一人一人を「行ってらっしゃ~い!」と送り出す。布団を上げ、洗濯物を干し、顔を洗い、仕事や外出の予定のある日は少し化粧をし、心を整えて家を出る。以下、省略。毎日、毎日、ほぼ同じ。毎日会うのは同じ顔。週に何回か会うのも変わり映えのしない顔。週に一度だとさすがに「久しぶり!」とも思えないこともない。同じことを繰り返し、同じ顔に会う。ともすれば、慣れと退屈さで、その一つ一つを喜ぶことを忘れる。もし、同じことの中に、同じ顔の内に、かすかな違いを見出すことができれば、もっと創造的なことができ、もっとワクワクするかもしれない。同じだと感じるのは、ていねいさが欠けているのかもしれない。同じ道を歩いていても、花は毎日変化している。雪柳の枝も、日増しに白さを増していく。同じ人とすれ違うとしても、その場所は違う。夕方帰ってくる子ども達も、昨日とは違う表情だろうか。なんだか、ワクワクしてきた。
2007.02.22
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「さおだけ屋はなぜ潰れないのか 身近な疑問からはじめる会計学」山田真哉著タイトルに引かれて、読みました。中身はれっきとした会計学の導入篇、なのでしょうが、エピソードごとのタイトルがとても身近です。自身も「不思議だなぁ」と思ったことがいくつかありました。会計学の視点から、そのような不思議な商売や行動を見ると、「へぇ~なるほど。」と思わせられます。雑学としても、生活に生かすとしても、興味深く読めました。ちなみに、小学5年生の息子もタイトルに興味を持ち、全部読んでしまったようです。
2007.02.22
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1列王記19章1-13節よりこの箇所は、霊的成長にとって重要な箇所として知られ、また美しく難解な箇所として様々な理解があります。18節は、預言者エリヤの神が本当の神か偽預言者の神バアルが本当の神か、壮絶な戦いが繰り広げられ、エリアの神が勝利した箇所です。ところが、エリアは命を狙われる羽目になりました。(1-2節)今日の箇所の後、14節以降では、主はエリアに「後のことはわたしに任せなさい。」と言われました。偉大な預言者エリヤは熱心に神に仕え、その働きをし、情熱的な信仰を持っていました。その分、自分の働きの成果が出ていない、形となっていないと感じる時、落ち込みが激しかったのかもしれません。この箇所は、自分の働きミニストリー(働き、祈り)が形になっていないなと感じる時に読むといい箇所です。3節では、エリアは1人になって荒野へはいっていきました。でも、これは間違った行動だったのです。落ち込んでいる時に1人になると、もっと落ち込んでしまいがちだというのです。4節では、彼は死にたいとさえ思いました。自分で命を絶つことは罪ですが、そう感じること自体は罪ではありません。5-6節で、御使いが彼のところにやってきて彼に触れ「起きて、食べなさい。」と言いました。これは出エジプト記16章4節の天からのパン(マナ)を思い起こさせるものです。神さまは、エジプトでの奴隷生活からイスラエルの民を解放し、約束の地への荒野の旅の間、毎日1日分の天からのマナを与え、民を養ったのです。霊的にふさぎ込むとき、神さまは私たちの頭の上にパン菓子を置いてくださっています。私たちは顔の向きを変えてそれを探さなくてはなりません。エリヤが望んだり求めたわけではないのに、パン菓子をすぐそばにおいて下さる、神さまはそんな方なのです。マナのために働かなくてもいいよ、でも落ち込んだまま横になっていてはいけないよ、と言われるのです。霊的な落ち込みを体験するとき、私たちは自分の力で這い上がれないことがあります。そのようなときでも、神さまご自身が私たちのところにきてくださり、マナを置いてくださるのです。霊的な落ち込みとは、心からの賛美、礼拝ができないような時、思い当たる原因がなかったりあるいは祈りが聴かれていないと感じるような時に覚えます。疲れや渇きを覚え、暗闇にいるように感じるのです。そのような時でも、私たちも注意して探すと手の届くところにパン菓子が置かれているのです。6節を見ると、霊的な疲れは一夜で癒されるものではない、回復に時間がかかることがわかります。7節でもう一度御使いが来られ、エリヤをさわります。私たちも疲れているときには、主にさわってもらうことを味わう必要があります。8節でエリヤはこの食べものに力を得て、40日40夜歩いて神の山につきました。「落ち込み体験」というのは、"ある"のです。けれど、そこに居続けていてはいけません。モーセに次ぐ偉大な預言者であると言われるエリヤでさえこのような落ち込み体験をしたのです。私たちが落ち込みを感じることは不思議なことではないのです。霊的落ち込みには「神を愛し、霊的に成長したい」という思いがあるのです。霊的に病んでいる状態(神から離れても平気だと思うような)とは違うのです。9-13節は、聖書の中でも非常に謎めいていて美しい箇所です。神の山で、主が共におられるのに、主は2回もこう尋ねます、おそらく穏やかな慈愛に満ちた声だったのでしょう。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」主は、エリヤを責めるのではなく「わたしに何を求めるのか。」「自分の思いを成そうとしているのか、主の思いを成そうとしているのか。」と尋ねられたのでしょう。エリヤは「こんなに頑張ってきたのです。私は私の役割を果たしたのです。神さまは神さまの役割を果たしていないじゃないですか。だから私は失望したのです。主を愛しているのは自分ひとりなんです。」という思いがあったのでしょう。「主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」(11節)ドラマチックな出来事(revival)の中にいつも主が居られるとは限らないのです。多くの場合「細いかすかな声」で、確かに働いておられることを、この箇所で示しているのです。私たちも自分の祈りや働きに対して、ともすれば劇的な変化、自分の思うような反応が見たいと思いがちです。私たちのイメージしたような変化が見られないと、神さまは働かれていないと感じます。でも、そのような明らかな結果が見えなくても神さまはかすかな細い声で囁き、働き続けておられるのです。私たちの霊的形成、成長においても、この「かすかな細い声」に耳を傾けることができるかどうかが大切です。それには"静けさ"が必要です。"奇跡"によって人の人生が変えられるとは思えません。本当の力は"御言葉"にあるのです。それはある意味、神さまの憐れみとも言えます。御技(奇跡)を見たにもかかわらず悔い改めないのなら、裁きの日に厳しく裁かれるからです。私たちが、静まり、「かすかな細い声」に耳を傾けるなら、自分の働き(ミニストリー)の像と神さまの持っている像が一致してくるのです。祈り「どのようにすれば、もっと神さまとの時間を持てるようになるか思い巡らしましょう。もしかしたら、何かを捨て去らなくてはならないかもしれません。」霊的形成、成長において、"ただ、静まる"ことはとても大切です。神さまの愛に満たされる時間を持つといいでしょう。-----週明け、少し落ち込んでいました。霊的だか、感情的だか、両方だか。罪の性質をこんなにも持ちやすい自分というものを目の当たりにしました。でもすぐに、パン(聖書の中で心に残った御言葉、賛美集会、聖書の学びの機会)が与えられ、再び元気になりました。今回は、早い回復!今日から受難節。自らの罪の性質を御霊に探っていただき、悔い改め、イエス・キリストによる贖いが必要な罪人、弱い自分だと認識します。静まる時を、ただ静まる時を持ちたいと思います。
2007.02.21
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一体なぜこんなに心が乱れたのだろう。一体何を恐れていたのだろう。「恐れるべき方のことを思い返し」ある方のブログでこのように申しました。これは、後から思うと、自分自身に言いたかったことなのかもしれません。「ざわめくことはない、恐れることはない。そんなことに注意を向けてばかりいないで、わたし(主)を見上げなさい。」と言われたよう。辛く思うこと、悲しく感じることが降って来たとしても、「神さまの御業が現れるためだよ」※と言っていただき、「あなたを愛しているよと きょうも語りかける だから生きてゆける 主の守りの中で」※と、励ましをいただきました。辛いことの原因を求め、そのことを恨んだり、間違った思い(偏見を抱いたり、他人を裁いたり)を抱くところでした。いえ、実際にそのような思いを抱いてしまっていました。ほんの僅かだとしても、誰にも気付かれなかったとしても。そのことに気付いて、少し落ち込んでしまっていました。「弱き 人のため あなたは光をてらす 弱き 人を変えるため あなたは光をてらす ・・・・・ 主イエス・キリストにより 生かされ僕は歩く ・・・・・」※※こんな弱い者のためにこそ、主イエスはいてくださるのです。昨日、「ジョイフルソング」というイベントがジョイフルにて催され、その中でPRISMというフォークゴスペルデュオのミニコンサートが行われました。皆で歌うリビングプレイズの賛美を通して、PRISMの歌を通して、目の前のごちゃごちゃに惑わされていた自分の姿が浮かび上がり、本当に見るべきものを思い出すことができました。わかっているけれど、悲しいことに、すぐ忘れちゃうのです。落ち込んでいても、ちゃんと脱出の道が用意されています。神さま、ありがとう。ジョイフルさん、ありがとう。PRISMさんありがとう。(なんか、よそよそしいよなぁ。実はお友達です♪)もう、だいじょうぶ♪注※PRISMオリジナルソングより ※※PRISMがコンサートで歌った歌ですがオリジナルではありません
2007.02.21
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ピリピ人への手紙4章2-9節より。子どもは1日中家でじっとしていることはできません。好む好まざるに関わらず、必然的に親も外に出ることになります。子どもは色々なものに興味を示すので、ちょっと自転車を停めて草花を観ます。色とりどりに美しく、生き生きしており、心が安らぎます。自分の心の中もそんな風であればいいなと思います。けれども実際は、不安や心配事でいっぱいで、ラッシュアワーの高速道路のようなこともあります。高速道路というのは、たくさんの重みに耐える目的で造られています。心の中に高速道路を造りたいですか、それとも花いっぱいの庭を造りたいですか?庭造りは、素人でもわかるように大変な作業です。草を抜き、石ころを取り除き、耕し、土を整え、良い種をまきます。心の中に花園を造り神の平安の花を咲かせたいなら、心の中もそのようにする必要があります。神の平安を味わう(体験する)ために、心を整える必要があるのです。今日はそのための3つの方法を見ていきましょう。(2-3節)「あなたがたは、主にあって一致してください。・・・彼女達を助けてやってください。」ピリピの教会には2人の女性の間で不和があったようです。それが教会全体に影響をもたらしていたのでしょう。この2人はお互いに愛し合うことを拒んでいたので、平安がなかったのです。愛のないところに平安はありません。私たちが神さまから受けている無条件の愛を、他の人に同じように与えることを拒んでいると、神さまと私たちの間の平安もないのです。時には、厳しいことを言って波風を立てなくてはならないときもあるでしょう。そのときも愛と自制心を持つべきなのです。恨むこと、挨拶を交わさないこと、目を合わせないこと、これらのことは、せっかく心に咲いている神の平安を枯らせることになるのです。人を恨み続けることを拒み、人に愛を示しましょう。祈り「今、私の心の中に、苦々しい思いを抱いている人がいないでしょうか。」(4-7節)「いつも主にあって喜びなさい。・・・何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」神の平安が瞬間的なものではなくて、留まってほしいと思いませんか。それには主の愛と力に目を留めなければなりません。神さまがこれまでに、そして今も、私たちに示して下さっている愛と憐れみ、それらを具体的に思い出すことで、無理やりではなく、人工的ではなく、真に喜ぶことができます。今置かれている状況のすべてが悪いわけではないことに気づきます。そして、周りの人にも同じ新設を示すなら、神さまの平安が私たちにやってきます。そうすることで私たちは、常に怒ったり他の人に苛立ちを覚えたりすることから守られるのです。イエスさまが再び戻ってこられ、いずれこの困難、悲しみ、痛みが永遠に過ぎ去ることを思い出すなら、心配事の大半は取るに足りないものとなり、神さまの平安が私たちにやってきます。「何も思い煩わないで」原語では"進行形"の意味だそうです。思い煩ったまま、続けていては、神さまに目を留め、主を信頼することを拒むことになるのです。心配するだけでなく感謝をもって祈るとき、ストレス、悩み、心配を主に委ねるなら、神さまの平安が私たちにやってきます。ストレス、悩み、心配そのものは罪ではないけれど、平安を奪い、そのままにしておくと罪に至ります。祈り「今、私の平安を奪おうとしているものは何でしょうか。」(8-9節)「・・・すべての真実なこと・・・誉れあること・・・正しいこと・・・清いこと・・・愛すべきこと、評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば・・・心に留めなさい。・・・学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方とともにいてくださいます。」聖霊の力によって私たちが、罪深い否定的なゴミのような考えを、毎日頭の中から意識的に取り除き、純粋で愛と真に満ちたことに思いを留めるなら、神さまの平安は私たちにやってきます。マルチン・ルターが言いました。「頭の上を鳥が飛ぶのをやめさせることはできないが、頭に巣を作らせないようにすることはできる。」と。良いものを取り入れて悪いものを取り除くのです。ゴミを取り除きよい種を蒔くのです。御言葉に聞き従うなら、神様の平安が私たちにやってきます。私たちは御心に従うことによって神に対する愛を示します。主は自分を愛するものを喜ばれ、そのものと共にいてくださるからです。(ヨハネ14:15,23-24)-----私の心の中にも神さまの平安の花がいっぱい咲くように、ゴミや石ころを取り除き、耕し、良い種を蒔こう。ゴミ、落ちてないかな。石ころ、埋まっていないかな。
2007.02.18
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神さまは時々、私をびっくりさせるようなことをされる。1度ならず、2度も。突然のご指名である役割を仰せつかったのだけれど、私にとっては能力ぎりぎりかそれ以上のこと。祈りながらも、最後の最後でつまずいてしまいました。前回も、今回も。前回自分で納得の働きではなかったのに、神さま、また私を用いようとされるのですか。ほら、私よりももっとちゃんとできる人が何人もいるのに。もし、私のつまずきによって違和感を感じあるいは心が乱された人がいたら、ごめんなさいそれでも、不完全なままの私を用いられるなら、そこには神さまのご計画があるのでしょう。私がつまずいたとしても、他の人がつまずくことから守られるのでしょう。そして、私にとっては新たな挑戦です。
2007.02.18
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友人とお喋りしているときふと思ったいつまでこの人と喋ることができるかなその瞬間今この時が涙が出るほど いとおしくなった今この時は再び戻ってはこない明日もお喋りできるとは限らない来年もお喋りできるとは限らないこの身の上にどんな計画がなされているのか わからないこの身がどこに遣わされるか わからない今 この時を輝かせたい
2007.02.16
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第11回歌声ぺトラ関西に参加しました。これに参加するのは2回目です。子ども達もまあ元気になって家族の都合もついて、参加できるなんて感謝なことだなぁと思いながら会場へ。コンサート、ではなく一緒に歌い、新曲を練習し、ショートメッセージを聴き、また一緒に歌い、新曲をおさらいする、というような流れです。とにかく知っている曲(今回は多かったので思いっきり歌えました)も知らない曲(新曲とか)も、ひたすら賛美します。賛美していると、歌っている自分の声を通して自分の心に語りかけられたり、思い起こさせられたり、不思議な体験をすることがあります。そして、今日も。新曲「神さまのほほえみ」を歌っていた時、ある身近な人間関係が硬直し、重い雰囲気に覆われ続けている現状が思い起こされ、「主よ その人たちの中にも いてください」と思った瞬間、熱いものがこみ上げてきてしまいました。また「81番 キリストの中に生きるなら」新しい力、新しい仲間、新しい世界・・・新しい住まい・・・キリストの中に生きるなら 与えられます♪と歌っていたら、将来実際にありうる転居への不安が突然わき起こり、それが一瞬のうちに「キリストの中に生きるなら 新しくすべて整えられるのだ」という確信に変わったのです。賛美は、不思議です。聴いているだけならともかく、歌ってもいる自分の声に語り掛けられ、思いや感情がほとばしり出ます。賛美には力が与えられます。それは、神さまを賛美するからです。関根一夫牧師のメッセージの中の、印象に残った部分をお分かち合いします。(私なりの受け止め方ですが)ひとつはナチスのユダヤ人収容所での話。これからの人生に微塵もの希望も持てなくなっていた収容所のユダヤ人たちが集団自殺をしようとしていた。収容所の世話役の人が、同じくユダヤ人として収容されていたフランクル(精神科医、心理学者だったか)にそれを止めさせるように言いました。「人生から何を、我々はまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何を、我々から期待しているかが問題なのである。」と彼は同朋に言いました。私たちが人生に何を期待するかではなく、神が私たちの人生に"何を期待されているか"。こう思うことで、限られた時間と最悪の状況でも最後まで生き抜けるのではないか。もうひとつは、波乱万丈の人生を歩んでこられた金大中氏(拉致、死刑判決、亡命、大統領就任)の奥様が日本に来られたときのこと。ひとりの学生からこんな質問を受けました。「あなたにとっての幸せは何ですか?」「夫の微笑を見ることが何よりです。」私の幸せは何でしょう。あなたの幸せは、何でしょう。
2007.02.12
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1コリントへの手紙 13:1-13キリスト教の暦では、来週2月21日からイースター(復活祭)までの約7週間の受難節が始まります。この期間はイエスキリストが十字架につけられたということを思い巡らし、ゆっくりと生活し、祈り、自分の内側を吟味するのです。ちょうど人間ドッグで身体の隅々まで点検するように、心と魂の点検を行い、Dr.Jesusによる霊的健康のためのアドバイスを受けるのです。イースターまでの数週間にわたって、聖霊の実(ガラテヤ5:22)についてメッセージをします。バレンタインデーのある今週はなんといっても"愛"についてでしょう。今日の聖書箇所は、聖書の中でもっとも有名な箇所の一つであり、愛について的確に書かれてあるところです。愛についてのふたつの質問について見ていきましょう。Q1.なぜ愛が、私たちの霊的生活の真髄であるとされるのでしょうか?A1-1.愛がなくては、何をしても神の前には何の値打ちもないからです(1-3節)。この著者であるパウロは、永遠の"救い"について言っているのではなく、"(クリスチャンはイエスの弟子としての)霊的な成長"について言っています。この手紙を受け取ったコリントのクリスチャン達は、熱心に異言をしたり預言をしたり、また完全な信仰をもち、聖書のことも隅々まで知ることなどに熱心でした。けれど、霊的に赤ちゃんのよう(成長していない)で真の愛が育っていなかったのです(3章)。愛がなければ、これらの素晴らしい行いも、神の前には"永遠に価値あるものは何もない"のです。これは、個人に対しても、教会全体に対しても言われていることです。イエスさまのministry(働き)は愛で始まり、愛で実践し、愛で終わるのです。私たちがクリスチャンとしての歩みに真の価値を与えたいなら、神と他の人に対する愛こそが土台となるべきなのです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37-40)A1-2.人生において、私たちが唯一、神と他の人に対して持ちうる完全で永遠なることは愛だからです(8-13節)。キリストが戻られる時、霊的な賜物、ミニストリー訓練は終わりとなります(8-10節)。それらはもはやでなくなるのです(12節)。唯一、愛だけが耐えることがありません(8節)天で唯一私たちに問われることは「あなたは、神を愛したか。あなたは、わたしがあなたの周りに置いた人々を愛したか。」なのです。「あなたは異言をしたか。」とか「あなたは預言をしたか。」とか「あなたは聖書の隅々までよく知っていたか。」ということではないのです。「神は愛です。」(1ヨハネ4:16)だから、私たちが愛を示す時に最も神に似るものとなります。「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13節)愛は、霊的成熟を最も表す真のテストであるといえるでしょう(11節)。Q2.私たちの内側に、他の人に対するキリストの愛が育っていることを、どのようにすれば知ることができるでしょうか?A2-1.自分自身の"必要"よりも、他の人の"必要"を思いやるようになります(4-6節)。「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。(尊厳と敬意をもって対応する)」(4-6節)弱い人や未熟な人を受け入れ、傷ついている人やself imageの低い人を思いやり、全てのよきものは神から来るものだと、一緒に喜び、また謙虚になります。自分のやりたいことを押し付けず、イライラせず、尊厳と敬意をもって対応します。愛とは○○だと言い切れるものではありません。たくさんのキリストの性質が組み合わされたものです。本当の愛は、周りの人を輝かせるものです。A2-2.自分を傷つけるものとよりよい関係を心から求めるようになります(7節)。「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(7節)本当の愛は、嫌いな人、付き合うのが難しい人、傷つけられた人との間においてこそテストされます。「赦さない権利を放棄」するのです。それは自分が既に赦された者だからです。傷つけられた痛みに耐え、自分を傷つける人の中にも良いところがあると信じ、その人が悔い改めヘ導かれることを期待し、その人のために祈り、聖霊が働くように祈ります。その結果、自分が変えられるかもしれません。そして引き続く痛みを耐え忍びます。聖霊がこれらを助けてくれます。これらの16の例は、受難節に心の中を吟味するのによい助けとなるでしょう。しばらく心の中を探り、祈る時を持ちましょう。-----ここ数年間、身近な人の言動に戸惑い、傷つき、腹が立ち、イライラすることが多くありました。その辛い年月の間に、「それでも、彼らを愛しなさい。」と言われていたことがわかりました。辛い、辛い、と思っていたけれど、聖霊なる神さまは確実にわたしの心の中に働かれ、私自身、そして周りの人たちの心でさえも変えてこられたことを、今はっきりと確信しています。これらのことを通して、神様は"愛"を私の中に育ててくださっています。そう思えると、辛かったことが(決して終わってはいないのですが)感謝の想いに変えられ、辛さも以前ほど感じなくなっていることに気付きます。全く、不思議なことです。自分の力ではありません。「わたし(神さま)は、あなたを愛している。そして、あなたが彼らを愛することを求めているのだよ。」こう、温かな声で語られているように感じます。(何となく、ではなく、実感として)「そんなことできません!」と泣きついた時もありましたが、今は「わかりました。だから、そのようにできるように、どうぞ助けてください。」と応えます。
2007.02.11
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先日3年生の娘のクラス通信で、保護者と子どもとで話し合いながら回答するアンケートがあった。質問は以下のようなもの。・宿題など家で勉強する時に邪魔になるようなものがそばにありますか?・家で宿題以外の勉強時間はどれくらいですか?(習い事や読書を含む)・ランドセルや筆箱の中身をチェックしていますか?・鉛筆は毎日削ってきていますか?・学習に必要のないものがランドセルや筆箱に入っていませんか?・学校での学習態度について「先生の話をよく聴きなさい」など、家でも言っていますか?・家庭で学習しやすいようにどんなことに気をつけていますか?などなど。(詳細を思い出したら、また書き足します)4年生を目前として、教室はもちろんのこと家庭においても学習環境を整えたい、という担任の先生の意思が伝わってきました。しかし内容については、少し厳しいなと感じる面もありましたが、今日の参観&学級懇談において先生の考えを直に伺うことができました。学校にうっかりしていて(私服のポケットに入ったままになっていたりで)お菓子やゲームソフトを持って来てしまった子がいたそうです。また、1時間目から先の丸い鉛筆しかなくて、ノートに字が書けない子もいるそうです。消しゴムに鉛筆で穴をあけたり、鉛筆を噛んだり、(学習に使う)物を大切に扱わない子もいるそうです。4年生になると各教科難しくなり、勉強につまづきやすい、差が出てくるということなので、その前に学習環境を整えることを、準備として意識してくださっているのでしょう。ランドセルや筆箱をチェックすることは(面倒だという理由で)ほとんどすることがないのですが、そのことの重要性についての先生の考えも説明していただけました。今そのこと(チェックすること)を習慣付けておかないと、中学、高校生になって本当にチェックしなくてはならない時になって初めてチェックすることはできない、ということです。もし、親に見られたくないようなものが入っていたら、そのような物をそんなところ(親の目につくところ)に入れておくのが悪い、という理論だそうです。わたしの考えでは、これを丸ごと頷くことはしにくいのですが、一理あるなぁとおもいました。これらの集計結果をまた、クラス通信に載せて、保護者の注意喚起をしてくださるということです。熱心な先生のお蔭で、自分では「まぁいいや。」と気にしていなかったこと(学習環境を整える、学習習慣をつけさせる)ことは放っておいてできるものではないのだなぁと思わされました。心を入れ替えて、子どもを励まし、張り切らせる親としての手伝いはできるかもしれないと思いました。
2007.02.09
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「手紙」東野圭吾著両親を亡くし2人で生きてきた兄弟。母からの進学への期待が、兄からの過剰な期待と変わり、弟の学費のために兄は強盗、殺人を犯してしまう。突然強盗殺人者の弟となった主人公。住むところは追われ、今日食べるものにも事欠く日々。何とか高校は卒業したものの、働くにも身内のことを正直に言うわけには行かない。兄から毎月届く手紙。元気かと、変わり映えもしない作業や日々の暮らしを綴る。住むところも食べるものも、保証されている堀の中ので生活。苦しみ、辛い生活の中にあって、一度も返事を書かなかった。その中で出会った人々。ある人は、同情はすれど関わりたくないと。そして、積極的に関わりとなった人たち。何とかやっていけそうだと思うたびに、その"手紙"によって打ち砕かれていく。兄が自分に望むように、被害者の遺族にお詫びをすべきなのか。兄は遺族にも毎月詫びる手紙を出していた。けれどそれは、遺族にとって不愉快なものだった。手紙を断ることもできたが、それで事件を終わらせる決心もつかなかった。兄は、手紙を書くことで弟を気遣い、遺族に詫びてきた。それは、彼らにとって・・・。犯罪によって被害者とその家族、そして自分の家族がどんな思いをしどのような状況に陥れられるのか。罪は、本当に償うことができるのか。やったこととその影響は、消えはしない。------私なりのレビューです。罪というものの重さ、長さ、広さ、深さを、僅かでも感じることができたように思います。そして、人間の弱さ、醜さ、温かさ、強さも。久々に考えさせられ、感動できた小説でした。
2007.02.08
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一応完成しました。製作中だったものより、立体感が出たと思います。手前の街灯がもう少し浮き上がるように、その縁を白く残せばよかったと思います。正面の時計盤の楕円がもっとなめらかに描ければよかったなぁ。
2007.02.06
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買い物、郵便局の用事をつくって、今日も歩きます。コートを脱ぎたくなりました。ニットのロングカーディガンだけを羽織りました。青い空。天に向かって伸びた枯れ枝(見かけは)。惜しげもなく降り注ぐ光。上からの温もり。身体の芯をしゃんととして。上を向いて歩きます。内から湧き上がる熱。少し汗ばむ。すべてが今日も、わたしのもの。精一杯受け取ります。
2007.02.06
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空を見上げながら前に進むには、歩かなくちゃできないってことに、今日気がつきました。上向いて走りにくいだろうし危なそう。自転車を漕ぎながら上を向いたら、誰かに何処かにぶつかりそう。もちろん自動車でもね。ゆっくり、地に足をつけて、一歩一歩足を進めながら上を見上げるなら、歩くべし。自転車を漕いでいると、行く手にしか注意が払えません。他に注意がいってしまえば、事故を起こしそう。だけど、歩くと視野がずっとずっと広くなる。スピード調節も一歩ごとに行えます。周りの花に気付き、新芽が「春はまだか」と待ち構えている。散歩中の犬の丸い眼。ベビーカーの赤ちゃんの笑み。そして、空の広さ、青さ!これが全部、わたしのもの!明日も、上を向いて歩こう。
2007.02.05
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先週から、ラジオの音と共に起床しています。着替えるとちょうど、ラジオ体操の歌が始まります。まだ暗い部屋で、音楽に合わせて身体を目覚めさせます。子供のころから身体に染み付いている、音楽と体操。部屋が少しずつ明るくなっていきます。お友達に触発されて、また自分の身体の現実を実感して。いつまで続くことでしょうか。時々は思い出して、励ましてください。
2007.02.02
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職場への行き帰りの道を、歩くことにしました。片道ほんの十数分です、信号待ちを含めて。雪柳が2つ咲いていました。寒椿が次々と咲いていました。ラッパ水仙が空に向かってしゃきっと咲き誇っていました。紅梅が七部咲きでした。身体が暖まってきました。素敵なものをたくさん見つけました。自転車では、さっと過ぎ去っていた景色を楽しまず、惜しいことをしていました。1駅分くらいは、歩くことにします。これからはもっと楽しみな季節です。
2007.02.01
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