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新書は読んでも感想書くことはあまりなく、小説読む数も減ってるので、時々本や俳句から離れたことも書いていこうと。 何か書いたり過去の自分に出会ったりする時に使用しているソフト、三つだけ簡単に紹介。 O's Editor2 自動保存機能つき、原稿用紙やら黒板やらいろいろなスタイルで書くことの出来るエディタ。公式サイトはなんだかよく分からないことになっている。シェアウェア、2000円。 紙 2001 スクラップブックソフト。自分が長文で掲示板に書き込んだ時や、残しておきたいページをとりあえず取り込んでおく。公式サイト。フリーソフト。上位ソフトはシェアウェア。 全文検索ソフト G-Search Personal 上記二ソフトで書いたり保存したりしたものなどを、自分のPC内から全文検索出来るソフト。膨大な量のテキストからたとえば「祖父」という語の含まれるファイルをすぐに検索出来る。自分でも書いたことを忘れているものがいくらでも出てくる。たとえばこれは、ここの日記にも(本の感想の間に挟んで)書いたものだけれど、 私だけではない。父も、父の姉妹も、祖父のことはあまりよく知らなかったようだ。祖父の死体が寝転がる前でアルバムを広げて意外な写真を見つけて笑い転げる親戚と私との間にはあまり哀しみは横たわっていない。死んだ祖父に初めて対面した父、二人の叔母、兄が流したような素直な涙は私の目からは落ちなかった。それでも、つい数日前に荒い呼吸を続けていた祖父が全身のどこにも動きを見せずに生を止めている姿を見た時には少し震えた。厳密な「生」と「死」との区別がまだちょっと見たところでは表れていないのにもかかわらず──そこにいる祖父は死んでいた。 骨となった祖父は、いなくなった。たとえ死んでも、数時間前まではいつでも手に触れられる存在として在ったものが、二度とほんとうに蘇らないものとして、骨になった。それまでの祖父と等号で結ぶことが今でも出来ない。骨に人間味はない。高温で焼かれ続けて細かい骨は粉々になり、漠然とした輪郭しか残っていないそれは、肉を纏っていないというだけで、本当にただの「物」になった。頭の上に置いていた入れ歯の歯の部分が綺麗に残り、キリスト教徒だったなら「天使の輪のよう」と喜ぶところだろう、と思いながら係員の説明を聞いていた。 今じゃちょっと書けないような文章も見つけることが出来る。ベクター。フリーソフト。 書く、保存、検索、とりあえずこの三つがあれば困らない。
2005/01/31
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よく見かけるものは却って詠むのが難しい。1/30「寒雀」凍雀 ふくら雀 冬雀 冬になると餌が少なくなるので、用心深い雀も人家付近に集まってくる。屋根や軒、あるいは枯枝に来る姿は厳しい寒気の中で、誰もが目にしているもの。ふくら雀は、寒気のなか羽毛に空気をとり入れ、羽をふくらませている姿のことで、愛らしい。第二次大戦後、野鳥の捕獲が禁止されたが、雀はその対象外となったので焼鳥として賞味されている。寒雀は、現代俳句に至って親しみのある季語として多くの作品が作られるようになった(現代俳句歳時記 冬 角川春樹編 より寒雀冬の蛙となりて鳴け老け込んで田に埋もれたしと寒雀陽と土と繋ぐ縦糸寒雀寒雀ゴヤの巨人の絵の一粒寒雀拾いあげたし冬果実寒雀黙々と居て鳥と見ず寒雀空の堅さに縮められ寒雀に土のありかを教えられ 時間をかけた割には出来が悪い。ゴヤの巨人の絵と繋げた4句の発想は気に入ったものの、「の」の連続は失敗している。8句、寒雀を思い出していたら、冬田や空き地など、土の上をトットと歩く姿ばかり浮かんできた。実際は餌が落ちていればどこでも歩くだろうけれど。
2005/01/30
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春並の暖かさのすぐ後には強い寒気が来るそうな。束の間の気怠さは吹き飛ばされるためにある。1/29「冬暖か」冬ぬくし 暖冬 冬暖 冬のあいだに、ときに暖かい日に恵まれることがある。風のない穏やかな暖かさもあれば、南風の吹く暖かさもあり、年によって冬暖の現れ方もちがう。(現代俳句歳時記 冬 角川春樹編 より)冬ぬくし溶け出す白や鳥の糞茶の味を落とすは暖冬熱の舌冬ぬくし少しすぼまる女胸夢の海泳ぐ子混じる冬ぬくしあたたかき冬引き連れて戦(いくさ)来るあたたかな冬シェルターの中の余生冬ぬくし「昨日」が今朝も起きてくる何もかも焦げるにまかす冬ぬくし 1句、そもそも鳥の糞って凍るのか。3句、冬になってから、胸の大きく見える女性が突然増えた。厚着の中で割り増しされた胸は蒸れないのだろうか。暖かい冬の日には急にまた縮んだようだ。5句、「暖かい冬」という餌を引っ提げて、時に笑顔で戦争はやってくる。のかどうか知らないけれど。6句、戦争後。7句、「昨日」を擬人化。暖かいので昨日を終える前に眠り込んでしまってうっかり消滅しそびれた「昨日」が今朝も起きてきてしまった。
2005/01/29
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過去の日記を整理しながらちょくちょく読んだりしていると、本の感想に全くなってない、全然関係のないことばかり書いてるものがとても多くて、大抵そちらの方が面白かった。文章も、その時読んでいた作家の影響によって、堅かったり柔らかかったりするけれど、書くこととマッチしていればなかなかいい文章になっていたりして、それと比べると最近ここに書く文章は緊張感ゼロで本当に本のことしか書いてなくて、これじゃ駄目だなあとやや反省。本と自分との「関係」を書くことがこのサイトの趣旨なのだから。一応。 短編集。『みんな元気。』『Dead for Good』『我が家のトトロ』『矢を止める五羽の梔鳥』『スクールアタック・シンドローム』。『みんな元気。』が飛び抜けて良い。読み始めの頃はただのシュールな馬鹿話にしか見えず、なんだよこの家族姉弟何人いるのかよくわかんないし何で空飛べておかしな家族関係に平気でいられるんだよだとか思ってイライラしてたのに、滑稽に滑稽を、嘘に嘘を塗り固めていくことで、初めの嘘が次第に本当らしく思えてきて、空からやってきた謎の一家(台風一家?)に連れ去られた小学校一年生の朝ちゃんが、これは仕方ないことなんだからあっちの家族になっちゃうよ私、と決めちゃう場面も、そうそう小さい頃ってこういう決断する時があったよねーなんて本当はありもしなかったくせに妙なデジャ・ヴュ感じて納得したりしている。 細かいストーリーは飛ばす。主人公の枇杷(名前)が、実は地上に住んでいた空飛ぶ一家の家を見つけ出して入り込むと、そこで自分のこれから辿るかもしれない三通りの未来を、全て同時に経験させられるという幻視に襲われるのだが、ここが怖い。三通りの家族がそれぞれ並行して存在しながら、お互い存在を気付かぬ振りをして行動が重ならないように動くという思慮分別のある幻影はあまり荒唐無稽ではなくて、誰もが経験する人生の分かれ道における重大な選択をする時って、こういうこと起こるんだよねー、とまでは思わないにしろ、気持ち悪いくらい迫力があって、時々ついていけなくなることはあるけど、ちゃんと実力派なんだよねこの人、と思い知らされる。 あと終わりが見事で気持ちいい。新潮社 2004年
2005/01/28
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歳時記にあげられてる例句の半分ほどに「死」という語が出てくる。自分でもすぐに日向ぼっこと死は結びつき、そんな句ばかり出来る。陽気さと死は近いものなのか、冬の寒さの中の陽溜まりの中で人は死にたがるのか。1/26「日向ぼこ」日向ぼこり 日向ぼつこ 冬は暗い家にこもっているよりも、日向に出てあたたまるにかぎる。そのほうが体も心も温み、なごみを覚えるはずである。日向ぼっこ、日向ぼこり、日向ぼこうともいう。おもしろい接尾語が付いているが、焼いてあぶる意であろうとする古説がある。(現代俳句歳時記 冬 角川春樹編 より)日向ぼこ髪の緑が懐かしき彼方より一編の詩来て日向ぼこ起き抜けの目脂とる刻日向ぼこ日向ぼこ隣で誰か死ぬような眼の病山が近付き日向ぼこ顎と声マーロン・ブランド日向ぼこ風音に心音交じる日向ぼこ日向ぼこ我が身ひたすら影となり 1句、自分を光合成する植物に見立てたかったのだろうが、なぜ髪にしたのかは覚えてない。2句、例句にも「志と詞と死と日向ぼこりの中なるや 折笠美秋」というのがある。死と詩は結びつきやすい、日向ぼこと死は結びつきやすいとなれば、よくある句でしかないので、「彼方より」を加えた。4句、竹久夢二のことを考えていた。「待てど くらせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな」。5句、眼を病んで山が近付いてくるという発想を楽しんだものの、日向ぼことの繋がりが強引。6句、映画『ゴッドファーザー』の中で、マーロン・ブランド庭で転ぶ場面、陽が射していたような気がして、顎を突き出しながら。
2005/01/27
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書くこと二つ。作中描かれる「アルマゲドン」に妙なリアリティがあって怖い。第二部の『森』が本当に怖い。別に私は怖がりではない。巻末にご丁寧にも「第二部『森』はラッセ・ハルストレム監督の傑作映画『やかまし村の子供たち』『やかまし倉の春夏秋冬』よりインスパイアされています」と書いてある。グロテスクなだけのホラー映画だったりしたら嫌だ。「アルマゲドン」というのは、ネット上のタチの悪いサイト(某巨大掲示板がモデルと思われる)「天の声」に集う馬鹿な連中が提唱して、それに乗った暴れたがり屋たちが集まってどこかの町で、人死にが出るくらいに暴れ回るイベント。『九十九十九』でも少し出てきた。「天の声」の書き込みが延々と3ページ半続く箇所があって、とても疲れる。でも「ふざけた調子で書かれてはいるけど本当のこと」はそれなりに見分けられるように書かれていて、ここもリアル。 主人公の女子高生の気持ちの描写も、男を書いてる時よりずっと真に迫っていてそれらしく感じられて、舞城王太郎女性説に一人熱を上げたまま。そもそも女子高生のリアルな気持ちなんて知らないのだけれど。 陽治はこのままでいい。このままでいい。 でも陽治にはヒーローになって欲しい。陽治の同情心はちゃんと面倒臭いに勝って欲しい。陽治の貴重な「かわいそー」がだらしないつまらない「だる~」なんかに負けて欲しくない。陽治がエチオピアやら月の裏やら別の時空に走って行くなら私はすっごく丸ごと全力で応援するし、永遠にいかなる場合でも陽治を肯定し、愛しつづけるのに。 いやいや私は今のままの陽治で十分愛して肯定して応援するから。 第二部『森』、怪物が住む森の中を彷徨う少年少女たち、物音が全て森が脅す声に変わるという仕掛けが新鮮で面白かったけれど「死ね死ね死ね死ね」と書かれ過ぎていて読んでいて暗く黒い気分に落ち込んでしまった。 この本読み終えた直後読んだ『みんな元気』の方がいろいろうまいことやってる気がして、本作から気持ちは早く離れたので、これで終わり。新潮社 2003年
2005/01/26
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以前からやろうやろうとは思いつつも二年くらいやってなかった、作家ごとに感想リンクをまとめたページをようやく作った。国内作家 マ行 まだいまのところマ行だけ。PCに入っていたHP作成ソフトでちまちまこじゃれた感じで作ってたら、楽天に「そのタグは無効です」とたくさん言われたので結局手打ちでやった。くりむーぷさんのところを少し参考にさせてもらった。こちらのは殺風景なだけだけれど。 まとめて感想書いてる俳句関係の本や、新書についてははぶいた。元々新書にいちいち感想書いてなかったから。 舞城王太郎を最近読んでいるからとりあえずマ行から、と思って始めたら、並ぶ作家名にいろいろ想いが及んだので、徒然と書く。 舞城王太郎 これは最近読んでるから別にいい。 牧野信一 名前を見た途端すごく懐かしく、甘酸っぱい気持ちになった。時間が経ってもまだ好きという感情は残っている。特に短編『天狗道食客記』は大好きで、二度読んだからあまり忘れてない。講談社文芸文庫から出ている『父を売る子・心象風景』はこの日記を始める以前に読んだ。痛々しいくらいに青臭いところも好きだったけど、父親を亡くしてからはガラリと作風を変え、幻想的な作家になり、そちらが本領。 町田康 この人は日記始める直前くらいに一時読み漁って、『きれぎれ』で飽きた。作品にというより文体に飽きた。ブコウスキー『死をポケットに入れて』のあとがきで小説と変わらぬ調子で書いていてふざけているようにしか見えず腹が立って冷めたりもした。 松浦寿輝 この人も読み出したのは割と最近だから、特に感慨もない。装丁が平凡なものだったら出逢わなかっただろう。 見沢知廉『天皇ごっこ』『囚人狂時代』『母と息子の囚人狂時代』(全て新潮文庫)など、読んだのがそれほど昔とも思えないのに、日記開始以前(2002/1/25)に読んだものらしい。重要なのはそのあたりの本なのに。 村上春樹 まるで『海辺のカフカ』しか読んだことのない人みたいだけど、ある程度春樹は昔読んでいた。読みやすいから。それほど好きな作家ではない。『風の歌を聴け』『ノルウェイの森』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『パン屋再襲撃』『スプートニクの恋人』『レキシントンの幽霊』『ねじまき鳥クロニクル』(完全に読んだこと忘れていた)・・・懐かしすぎて何を思い出せばいいのかも分からない。 村上龍 こちらは春樹よりもずっと好きだったので、ほとんどと言っていいくらい読んだ。本離れしていた頃、村上龍にはまっていた友人に貸してもらっていた龍ばかり読んでいた。経済やネットやら言い出してあまり興味がなくなった。そもそも今も小説書いてるんだっけ。今でもたまに『コインロッカー・ベイビーズ』を読み返したくなる。性やら暴力やらについて書かれたものには食傷。 森敦 深沢七郎みたいなのを求めて『月山』を読んだのだけど、文体が合わなかった。 森内俊雄 ・・・舞城のあと、とりあえず森内俊雄を検索していて、とにかく不遇だなと思ったのがこの人。大好きな作家。福武書店発行の本が多いことで今では手に入りにくい本が多いというか、そもそもあまり売れてないから出回っていない。最近になって講談社文芸文庫から『骨の火』が復刊された。一度きりにならずこれからも他のものを出し続けて欲しい。同じカトリック系作家でも遠藤周作はよく売れてるのに・・・暗いし、重いけど、何というか、地下に広がる都市風に都会風なところがあって・・・じゃよく分からない。しかし『骨の火』から入ったらまず引かれるだろうし。やっぱり売れることには縁のない作家なのだろうか。偶然の発見からずっと愛し続けている作家。マ行でも結局一番最後になっちゃう。でも割とコンスタントに本を出して文芸誌にちょくちょく名前を見かけるというのは、結構ファンがいるのだろうか。
2005/01/25
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初場所は盛り上がりに欠けたのであまり書くこともなかったけれど大体見ていた。朝青龍全勝スタートというのは去年と一緒。相撲を見始めてから丸一年経った。あまりの早さに驚く。1/23「虎落笛(もがりぶえ)」 冬の烈風が電線や柵などに吹きつけて、笛のような音を発するのをいう。屋内にいても、その音を聞くと、外は寒く鋭い風がわがもの顔に跳梁している感じがする。虎落と妙な字を当てているが、中国では虎を防ぐ柵の意。それと喪あがりの意の殯(もがり)から生じ、火葬場に設けた木や竹の囲い、さらに戦場の防衛の柵などを指すようになったこととが結びついた、と考えられる。(現代俳句歳時記 冬 角川春樹編 より)虎落笛蛇も鼠も愛しからんもがり笛空の風喰う咀嚼音この冬もまた何もなし虎落笛気の枯れた翁も吹かす虎落笛空焚きの風呂にも届く虎落笛電線と凧戯れし虎落笛虎落笛今日も苛烈に冬が降り気の触れた安手の夢や虎落笛 季語をうまく使いこなすには、季語のイメージに囚われ過ぎないこと。一つの季語についてのイメージを膨らませるだけでは、一句内に一つのイメージしか現れないから、結び付きによる面白さは生じない。1句、「笛」からコブラ使い、ハーメルンの笛吹き男を連想した「だけ」の句。2句「咀嚼音」を使いたかった。3、4、5、6駄句の見本。7句「冬が降る」を詠み込みたかった。8句「気の触れた~の夢や」とまず出来て、「~」の部分を、とりあえずの音の響きの参考例として「ヤスデ」と置いていた。結局最初のイメージのままで完成させたが、意味は通りにくい。
2005/01/24
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何度も途中で放り出しそうになりながらも一応読み終える。 セシルの左胸には僕の日本刀が刺さったままだ。それはセシルの心臓を貫いている。でも刺さり所が良かったらしくてセシルの心臓は今でも異常なく動いているし、ほとんど出血もない。日本刀が刺さったことなんてセシルの心臓には簡単に無視できてしまったみたいだった。でも刀はセシルの心臓を確かに通過してセシルの背中を突き破って出てきたのだ。たぶん風船に針を通すのと同じような絶妙さがそこで起こったのだろう。今はセシルの体内に残っている分の刃を残し、柄と切っ先は切り落としてある。セシルがシャツを脱げば左胸の上に僕のつけた×マークと、その中央に僕が刺し込んだまま抜いていない刃の切断面が見えるはずだ。胸の中の刃が少し動けばきっとセシルは大量出血を起こして死ぬに違いない。セシルに無理はさせられない。面倒なときに面倒な場所で死なれたら困る。 こんな文章がたまに挟まるんだからまともに付き合う必要なんてない。『第一話』『第二話』『第三話』ときて『第五話』『第四話』『第七話』『第六話』と続く。そもそも、一話一話が「清涼院流水」と名乗る人物から送られてくる、九十九十九という人物を主人公にした物語という設定なのだ。それを読むのも九十九十九、そして九十九十九自体がかつて清涼院流水が書いた小説の中の登場人物という、やりすぎのメタ・フィクション。途中でどの九十九十九が何だろうがどうでもよくなってきて結末や作者の意図なんて蹴り飛ばしたくなる。清涼院流水の本を読んだことはないけれど、「読み終えた途端本を投げ捨てられることが多い作家」というのは聞いたことがある。清涼院流水=舞城王太郎とまでは思わないが、誰かの覆面ではないかという疑いは出てきた。福井県西焼と東京の調布にこだわり続けるのも、むしろそこに注意を引き付けてておくためのトリックとも思えてくる。 一話ごとに名前の違う恋人および弟への愛情は相変わらず素直で微笑ましいけれど、それ以外のめんどくさい要素が多すぎる。疲れる。純文系雑誌に移ってからの方がいい。講談社ノベルス 2003年
2005/01/23
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喉が痛くて熱っぽい。1/22「大寒(だいかん)」 二十四節気の一つで、一月二十日か二十一日ごろに当たる。寒さが最も厳しいときである。太平洋側は乾燥、日本海側は雪の天候が続く。『年浪草』に寒さは「栗烈として極まれり」とあるが、梅・水仙・椿などが咲きはじめ、春が少しずつ用意されてゆく。(現代俳句歳時記 冬 角川春樹編 より)大寒が額に熱を烙印す大寒やここに滅びる者我ら大寒や間氷期明けゆるり来る大寒やうどんあるのにネギがない大寒やかつて雷落ちし木々大寒の空塞ぐ蓋雲砦大寒に捨て置かれたる初屍体大寒や和服娼婦の花の露 たいかんではなくだいかん。画家のは横山大観。微熱でだるい。例句のうち「大寒」を上五以外に置いたものはなかった。微熱のせいか詠んだ句もどこか気怠い。特に書くことなし。
2005/01/22
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舞嬢王太郎デビュー作。第十九回メフィスト賞受賞作。テーマ「家族愛」らしいミステリー。犠牲者は母親。暴力的な、あるいは理想的な男たち。この男たちの書き方がどうも、女性くさいとまた感じる。ややしつこい。『ゼイリブ』というSF映画で、サングラスをかける/かけないの言い争いから15分くらい主演男優二人が殴り合いを続ける場面がある。無意味で真剣な暴力の応酬、そんなことを読みながら思い出した。 福井県が産んだ暴力の王・政治家奈津川丸雄、その息子たち一郎・二郎・三郎・四郎、彼らの親子喧嘩や殺人事件や謎解きやらドラえもんやらワイワイガヤガヤという話。中盤の二郎の過去はちょっと長すぎるなあと思った。「生きてても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてしまうんやで」 福井弁? と関西弁は似てるのかな。発音が違いそう。 酷い父親に、真面目なのもいるけど結局は父親の血を受け継いで暴れるのが好きな息子たち。陰惨な暴力描写が多いにもかかわらず、父子の愛の交歓が稀に見られて、不意をつかれて涙ぐみそうになった。ところが、母親及び祖母などの女性陣にはそういうものが希薄で、アンバランスさにこちらが不安になってしまう。「理想的な暴力男」として書かれる男たちと違って、どの女性も描写が簡潔に過ぎる。どこか少女漫画の雰囲気さえ漂わせる。私がミステリーに読み慣れていないだけで、こういうものなのかもしれないけれど。 面白いけどちょっと食い足りなくも感じるのは、ジャンルに対する不慣れのせいか。講談社文庫 2004年
2005/01/20
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雪など見ないまま、なんだか暖かくなってきた。1/16「雪女郎」雪女 雪坊主 雪女といえば、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』を思い出す人も多いであろう。雪深い道がしんしんと降る夜、白い衣の女がたたずんでいて、あやしく誘うのである。雪国の幻想の話しながら、雪の夜に聞くと、どこか現実味を帯び、哀しみを覚える。(同上)雪嫌い降らぬうちに来る雪女郎夜の唄聞いて笑うは雪女郎冷凍庫空け雪女待つ暇日少し前色黒もあり雪女郎でかき尻おらぬは寂し雪女郎堅物の眼鏡を壊す雪女積もるもの雪・雪女・色男待ち合わせ遅れりゃ溶ける雪女郎 雪女郎・雪女にこだわりすぎて、写生精神欠片もなし。雪女=冷たいというイメージを壊したくてやや急ぎ気味。 1句、サンタでも応用可。4句ガングロ。5句、雪女郎は大体細身が多そう、尻は小さそう。6句、目の前に雪女を見ても眼鏡の曇りとしか思わない堅物の眼鏡を叩き割る直情型の雪女。7句、まず雪が積もり、雪を覆うように雪女が積もり、雪女に惚れた馬鹿な色男が雪女の上に積もり、冬景色を真っ白い死で染め上げる。
2005/01/19
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私も好きです。 良いから参った。 どの話も純愛が軸になってるのは、「純愛テーマに書いとけば何やってもいいだろ?」的にやってるのか、「僕の書く純愛は結局こうなっちまうんです」という開き直りか。やっぱり作者は女性だと思う。「身体中に虫が入り込んで、患者を死に至らしめる」病にかかった恋人の女性を前に右往左往する主人公、ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』を思い出すような話は最初だけ。幾つもの断片の中、核となるのは小説家の男と、癌に冒され、死にゆく、死んだ、死後の女性との交流話。『うたかたの日々』は以前読もうとしたが、おしゃれな雰囲気に呑まれて挫折した。こちらは続いた。「柿緒のことが本当に好きだよ」と僕は言う。「心から」「私も治のことが好きだった」と柿緒は言って、僕も、そして柿緒も、それが過去形で言われたことにすぐ気付く。その気付きは稲光みたいに僕と柿緒のその瞬間を照らす。 僕は「どうして過去形なんだよ」と軽くツッコミたかった。でもここでこのときこんな台詞を軽く言うことなんて無理だった。どんな言葉も出てこなかった。柿緒も訂正なんてしなかった。それもそうなのだ。それはもう言葉としてきっと間違いではないのだ。それはもうすでに過去のことなのだ。僕と柿緒の<<恋愛>>は。 もちろん言うまでもなく柿緒が今はもう僕のことを好きではなくなったということではない。僕達の<<恋愛>>が過去になったのは、<<柿緒>>が過去のものになったからだ。 死はこんなふうに始まるんだ、と僕と柿緒は知る。 あれだけ考え、空想し、思い悩み苦しんだ<<死>>の在り方が、唐突な形で明らかになった気がする。人は心臓が止まったり脳が動かなくなったりして死ぬんではない。死はもっと、誰かが思ってるよりももっとずっと緩やかに始まり、終わるのだ。柿緒は今、僕の前である意味既に死んでいるのだ。その緩やかで穏やかで、しかし宿命的な死が柿緒においていつ始まったのかは分からない。でもその死は柿緒のなかでずっと前に起こり、そしてゆっくり柿緒の生を食い潰しながらだんだんと大きく育ってきたんだろう。そして今や生よりも死が勝ってしまったのだ。それと戦ってきた柿緒は負けてしまっていたのだ。もうとっくに、いつの間にか、柿緒自身も知らないうちに、たぶん柿緒はまだ戦い続けているつもりだったんだろう。柿緒はもう死んでいる。心臓も脳も動いているが、既に死が柿緒を飲み込んでいる。柿緒が死に自分を飲み込ませてしまっている。柿緒は自分を、生を諦めたのだ。『好き好き大好き超愛してる』より やっぱり本気に見える、この純愛。切るとこなかったし。 もう一編の『ドリル・ホール・イン・マイ・ブレイン』は、母親の浮気相手に、プラスドライバーを頭に刺された男がそれを機に自分の脳内に広がる世界に入り込んでしまい、自分の分身、調布=世界を守るヒーロー村木誠として、ユニコーンの彼女と頭の穴でセックスしたり、美術部の先輩に頭の穴に腕つっこまれてエクスタシー感じたら先輩が敵だったり、股間に咲いたクリトリスの花をいじりながら電車で調布から福井県の、本当の自分のところまで会いに行こうとするけど、敵になっちゃった彼女を殺しに行くために呼び戻されて、逆らったけど頭の穴専用バイブで政府のいいなりになっちゃうとか、そういう話。 でも、一見相当ふざけてるように見えるこの話も、核はやっぱり純愛で、そこのところは素直にいいなあこの二人、とか思ってしまって、なんか恥ずかしいな自分、となった自分を観察し、作者に騙されてないだろうなこの感情、と疑心暗鬼に陥ったりもするけど、やっぱり嫌いにはなれなくて、かなり好きな方に針が揺れてて、変な気持ち。講談社 2004年
2005/01/18
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新年の部の歳時記は結局ほとんど使わず、冬のものに戻すと、詠みやすくなった。 夜の公園で木に引っかかってる凧を見て、とても珍しいものに出会った気持ちになり、少し歳をとった。1/15「雪まろげ」 まろげは丸めること。つまり、雪のかたまりをつくって、雪の上を転がしてゆくと、だんだん大きな丸い雪のかたまりになる。雪遊びの一つである。子供はもとより、大人も交じって興じる。そのうち体がほてってくる。それから雪達磨をつくろうか、となる。(現代俳句歳時記 冬 角川春樹 編より)雪まろげ二つで既に惰性の芽泥混じる雪まろげたき暖夜の想手の外に手袋あるや雪まろげ月ありて夜にはやらぬ雪まろげ雪まろげ犬の名呼ぶや球が鳴く朝の道老人ばかりがゆきまろげ小坊主は達磨つくれず雪まろげ亡き犬と小屋跡の墓で雪まろげ 私の住むところではまだ今年雪は積もっていない。だから選んだ。経験していない方が詠みやすい。 3句あまりに寒い時、手袋をしているのに素手でいるような錯覚に陥ることがある。子供の頃雪遊びをしていた時、ほんとに自分の手を手袋が覆っているのだろうかと、時折確かめていた。4句、白くて丸い月があるのだから、何も寒い中、雪を丸める必要はない。5句、雪が犬の振りをしたか、雪球の中に犬が紛れたか、よくわからない。7句、小坊主だから、達磨大師には手が届かないから雪をまるめる。
2005/01/16
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新書はぽんぽん読めるからいちいち感想記していたらおっつかない。だから面白かったものだけ・・・といっても、大抵新鮮で解りやすくて面白いから難しい。 元々は趣味で始めたクモ研究が高じて論文を発表するようになり、「ネイチャー」や「サイエンス」といった海外の有名雑誌にも載り、現在は大学教授の著者が、クモの糸について執拗なまでに書いてくれてる一冊。 ビッグコミック・スペリオールに『昆虫鑑識官ファーブル(作・北原雅紀/画・あきやまひでき/協力・(有)日本法科学鑑定センター)』という、虫好きの子供がそのまま大人になったような男が主人公の、妙な警察漫画が載っていて時々読んでいるから、自然と虫の本に目がいったのだろう。残念ながらこの季節にジョロウグモなどの、巣をかけるポピュラーなクモクモは見かけない。およそ四万種いるクモのうち、巣をかけるものと、動き回り捕食するクモとはほぼ半数。日本で見られるものは1200種類だそうだ。 そんなクモの基礎知識はさておいて、クモの牽引糸の合理的な仕組み、それを人間社会にも応用出来ないか、害虫駆除に薬散布するのではなく、捕食者であるクモを使って駆除する方法とか、いろいろ面白いことが書いてあるけど、小説じゃないので、一部引用したところでよく分からない。 面白い新書を読んでるうちは、あまり小説を欲しなくなりそうで、それも寂しい。 解りやすいクモの糸解説サイトがないかと調べたら、ちょうど本書を参考にして書かれたところがあった。http://www.asahi-net.or.jp/~nr8y-ktu/kumo.htm中公新書 2000年
2005/01/15
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小説は抑え気味にしようと思う。 新書を選ぶ基準は特にない。 誰でも思い浮かぶ有名な義賊二人「鼠小僧」「ロビン・フッド」は初っぱなから否定されている。鼠小僧の残した伝説はほとんど捏造であり、ロビン・フッドに至っては実在しなかったと。 本書は主に、19世紀中頃ハンガリーで活躍した義賊ロージャ・シャーンドルについて書かれている。彼は一度投獄された後脱獄、1848年一度恩赦を受け革命軍に仲間を引き連れて参加し、敵対国と戦って英雄にもなっている。そのことが後に再びベチャール(当時のハンガリーで「義賊」を表す言葉)に戻った時に彼の逃亡を容易くし、なかなか捕まらなかったこととも関係してくる。折しも世の中の仕組みが変わっていく時代、かつては仲間同然であった農民たちとの間に利害関係の対立が起こり・・・。 まあそれなりの義侠心があったとはいえ元々はただの強盗なんだし。いくら初期衝動にそれなりの理由があったにせよ。 当時書かれた手配書の文章が面白い。年齢四二歳-四三歳。中肉中背。他人の前ではいつも下を向いている。目は黒く、なかば閉じていて、おとなしそうにまばたきする。ちょうど、鼠を追いかける猫のようである。髪の毛は柔らかくて、濃いグレー。前髪は長くて額をおおっており、わざと左の方になでつけてある。垂れ下がっている大きな口髭はあかるいグレーで、頬髭も同じ。顔は細長く、鼻も長く鼻孔は立っていない。下顎の横骨がやや広く、頭の後部は二つの耳のあいだで突出している。全体としては、頭は小さく、上半身とともにやや前に傾いている。非常に無口で、まわりの者が話をしていてもかまわない。下がり気味で半分閉じた目をまばたきしながら、他人の話を聞く。右手で口髭をひねる。部屋のなかにいるときや他人といるときは、落ちつかないようすである。動作はだらしがないが静かで、しまりのない服装をしている。ちょっと見たところでは、長い馬旅に耐えてきたようで、射撃のうまい人間にはみえない。話しかたはゆっくりと、だらだらしている。 刑務所時代の観察なのだろう。丁寧な描写の中に、少しでもシャーンドルを貶めようという気配が伺える。 シャーンドルは一八七八年、獄中で病死するが、面白いことに一八九〇年代、農業社会主義運動が展開し始めると、運動が活発な地域でシャーンドルの子孫を名乗る人物が「あらわれつづけ」る。また、シャーンドルの片腕だったヴェセルカ・イムレの子孫が生き続け、ベチャールのことが「語られつづけ」たらしい。この続いていく様が、伝説の生成過程として興味深い。彼等が本当に子孫だったかは問題ではない。岩波新書 1996年
2005/01/13
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全作品をむさぼり読んだわけでもなく、特別好きな作品があるわけでもない。なのにちくま文庫版『宮沢賢治全集』全八巻は本棚の一番目立つ場所にでんと構えている。構えていやがる。憎んでいるわけではないけど、愛せもしない。キリスト教徒にとっての聖書、イスラム教徒にとってのコーランのように賢治を扱っていこう、時々開いてその時々にあった文章を探そう、そう決めた。 賢治作品の漫画化などで有名な作者の、賢治にまつわるエッセイ集。代表作『アタゴオル物語』『アタゴオル玉手箱』の「アタゴオル」は、彼が住む千葉県愛宕からとっていること、それは賢治の岩手=イーハトーブにならったものであること、同じくヨネザアド=米沢(ますむら・ひろしの故郷)など初めて知った。 風景からもらってきた記憶。どうしてもそんな気がしてならなかった想い。幼い昔の記憶の沼に針を降ろせば、たくさんの<どうしてもそんな気がした時間>は僕にもあった。 土蔵の染みが生きものに見え恐かったことや、町外れの古い巨木がお爺さんみたいに見えて妙な親近感があったり、田んぼの彼方に見える山の頂の木々の形が、二匹の熊に見えて、どうもあの山には親子熊が住んでるような気がしてならなかったり、あるいは斜平山にキノコ採りにいって、たった一人でいるうち突然、山の気配が重圧のようにせまってくる気がして、心細くなって友達の名を呼んだ時や・・・・・・。「そうなんだ。オレにも、そんな気がしてならない時間はあったんだ。」 そして、宮沢賢治は言うのだ。<<ソレハ、幼児期ノミノ特権デハナイ>>と。 誰もが感じていて、成長とともにほとんどの人が感じなくなる<自然からの信号>を、「そのとおり書いたまでです」という大人がいることは、ほんとうに嬉しかった。そしてこの瞬間、自分は何を描けばいいのか、何が描けるのかが、ぼんやりと分かるようになった。 あと、少年ジャンプの「手塚治虫賞」(現在のやつとは違う)に作者が初めて応募した時、準入選だったのだが、その時一人だけ強く推してくれた選考委員が筒井康隆だったことなど。 後半、『銀河鉄道の夜』の謎解きなど、そういった作品研究や作家研究に私は興味がないのでやや退屈だった。 ますむら・ひろしの漫画はすごい好き。ちくま新書 1998年
2005/01/12
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2004年11月に出たばかりの本。フィリップ・モーリッツという、陰鬱な画面に奇妙なユーモアを醸す版画家の作品が表紙扉絵目次の頁とにあしらってあり、こんな題名でもあり、ゴシック怪奇小説の集まった本にも見えるが、そうでもない。詩人でもある作者が、自分の過去の作品を引用しつつ、その過去を否定するような事を書きつつ、しかしこれは小説なのでどこまで本当の気持ちなのかも疑わしく・・・そこが面白い。なかでも『逢引』で大笑いした。こういうのは久し振り。主人公のかつての同性愛の恋人、現代詩人のT・・・という男の詩を繙きながら、「あなたは彼の詩を盗作してきただけじゃない」といちゃもんをつけてくる、かつてのT・・・の恋人という女に振り回されつつ、昔のT・・・との蜜月時代(と主人公は思っている)、男同士の同棲時代を思い出しながら、女を嘲笑しつつ、次第に自分が女を笑えない立場であることに気付かされ、やがて強烈なしっぺ返しを・・・・・・。 『虻』で紹介されていた、マンテーニャの『死せるキリスト』という絵を探してみた。これ。よく見ると手足に杭が打たれた跡まで描かれている。 引用されている自作詩は、どれも好きにはなれなかった。新潮社 2004年
2005/01/11
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初場所が始まった。白鵬が負けた。「初場所や白き鵬踵を地にもがれ」これでは今場所ずっと足を地面にとられるみたいで不吉だ。1/8「人日(じんじつ)」正月七日のことである。『当方朔占書』に、「一日を鶏、二日を狗、三日を豕、四日を羊、五日を牛、六日を馬、七日を人、八日を穀となす」とあり、人は万物の霊長なので、この日をまた霊辰ともいう。(新版俳句歳時記 新年の部 角川書店編 より)人日や煙草屋の前匂いの火人日の空注視せる老い始め人日や人語介せし人に逢う尻尾のみ壁の向こうの人日猫人日を知らぬテリアに寄り切られ人日に車は走るよくるまみち人日や貨物列車の背に双子人日や鼻の毛一本引き伸ばす 七日に詠むべき季語だけれど。新年なので歳時記を変えた。解説文のそっけなさ、文字の小ささ、例句の少なさに馴染めない。1句、寒い中、煙草屋が店の扉を開けて倉庫の整理か何かやっていた。ムワっと煙草の匂いが立ち昇り、そこだけ熱気があった。2句、目が疲れたので遠い空を見ていたら、随分と歳をとってしまったように感じた。3句、元旦からこの日までは皆べろんべろんに酔っていて、人のくせして人語を介せないものばかり、七日になってようやく言葉が通じるようになる。6句、当たり前のことなんだけど、歩道よりも車道の方が広くて、けものみちというものもなく、くるまみちに地上は支配されているなあと、人日という、自分が人間であると妙に意識する日に想ったりした、というのは後付け。8句、この日したことで一番人間らしかったこと。
2005/01/09
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都会の音の移り変わり、厭なものは目を瞑れば見ずに済むが、音は耳を塞いでも防ぎきれるものではない、ということを繰り返し書いてる随筆集。もっとも、彼の場合小説との境目は曖昧である。作者が以前病んだのは眼と頸椎だったかのはずで、耳がどうとかはあまり読んだ記憶がないが、六十も半ばを過ぎればいろいろあるだろう。大江健三郎といい筒井康隆といい古井由吉といい、一番過激な世代。舞城王太郎になぜ近頃の人は眉を顰めるのだろう。もっとえげつない人が年寄りの中にいるのに。 人の手の働きの先を行く機械の音は無機質である。防音の工夫がさまざまほどこされる。しかし喩えばの話、汚水を完璧に浄化した水を出されて、呑めと言われれば、人はたじろぐだろう。騒音を濾し取った後の、音にならぬざわめきこそ人を耳から侵かす。 それはともかく、現代の都市人の、心の病いということになれば、声や音は大いに関係がありそうだ。心の病いにもおそらく、感染ということはある。あまりにも画一的な環境の中であまりにも画一な生活を大勢が送っていると、同一の細菌に一斉におかされる恐れがあると聞いたことがあり、これは表面上の衛生非衛生にかならずしもかかわらぬことと思われるが、神経の傷むのも同様なのだろう。しかも目はつぶることもそらすこともできるのにひきかえ、耳はよほどでないとふさげない。 寒さの中、自転車で駅への行き帰りの時、寒い寒いという言葉で頭の中が埋め尽くされてしまうことを防ぐために、携帯型mp3プレイヤーを買った。音楽に思考が支配されるのに耐えきれず、ウォークマンを手放してから随分経つ。以前持っいてたのはCDでもMDでもなくカセットテープのものだった。 ペダルを漕ぎ続けるのが気分的に楽にはなった。ただ当然のことながら、周囲の物音がかき消された。車の走行音、救急車のサイレン、自転車のブレーキ音などは聞こえてくるが、鳥の囀り、犬の呼吸、風に吹かれて葉がざわめく音が聞こえてこない風景は無味乾燥に変じ、俳味を感じる景色にも出会いにくくなってしまった。始終そのような状態が続けば、人から情緒が失われてしまいしないか、と、古井由吉とは別の角度で、音と病を考えた。電車などでウォークマンを大音量で聴き、周囲に音の漏れまくっているのにもかかわらず本人だけは気にしていない人も、そういうことなのかもしれない。耳を悪くしてるだけかもしれないが。結局は、景色とうまく調和する程度にボリュームを落として、考えごとをしつつ走り、音楽の意味は薄れてきた。 たまにしか音楽を聴かなかった頃は、懐かしい一曲で簡単に涙が流れたものだが、今はそうもいかない。逆に今は、日常化しすぎていた、普段見ている景色に新しい発見がある。それはそれで、怖ろしいことではある。日本経済新聞社 2004年
2005/01/08
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1/5「嫁が君」 鼠のこと。関西地方の方言である。特に新年三が日は、鼠というのを忌んでこう呼ぶのである。なお仙台、宮城県登米郡群馬県碓氷群、愛知県北設楽郡、岡山県邑久群などでは「よめご」、丹波では「よめごぜ」、熊本県の天草島では「よめじょ」というそうである。 聞いたことがない。恋しきものただの正月嫁が君葉の震えチチと走るは嫁が君嫁が君歯の一本は米に似て押し入れに小僧ありけり嫁が君嫁が君餅に紛れて丸まれるこたつ目掛け猫と争う嫁が君嫁が君家傾ぐ音立たせけり足音に踏み起こされし嫁が君 父方の祖父母が亡くなって以来、正月らしい正月というものが来なくなった。 鼠をあまり見たことがない。山で一度、街で一度、他にそれらしい記憶がないので、不潔だとか不気味だという悪印象もない。「嫁が君」という言い回しに惹かれて選んだものの、鼠で詠めることなどほとんどないのだ。8句、日頃は静かな家に来客がひっきりなしに訪れる正月、「踏み起こされ」る哀れな鼠。そこだけ好き。
2005/01/06
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これまで読んだ小川洋子の作品と違い、くっきりと形があり、後にも記憶が残るのは、「江夏豊」「阪神タイガース」「数学」というはっきりした輪郭のあるものが散りばめられているからか。92年、久しぶりに優勝争いをしていたタイガースの、これに勝てば優勝が決まるという日の八木の幻のサヨナラホームランは物語のクライマックスに関連してもいる。中断を含めてプロ野球史上最長となったその試合のことを、その頃はほどほどの関心しか持っていなかった私も覚えている。記憶の中風景の中で見ているテレビが今の住まいのテレビと混同されているので、本当に見ていたかは疑わしい。今夜にも優勝決定かというのだから、父がきっと熱心に見ていたのだろう。そこに通りかかった私はどれほど興味を示したのだろうか。新庄、亀山、そして私と一字だけ名前の違う選手がいたその年のチームを、先年までとは違った目では見ていた。その後野田がオリックスにトレードされ、FAで来た松永が一年で去り、久慈がトレードされ、私と一字違いの選手は一軍に上がらなくなり、亀山は引退し、新庄は敬遠の球をサヨナラヒットした後泳いで海を渡った。 「そうだ。それは直線だ。君は直線の定義を正しく理解している。しかし考えてみてごらん。君が書いた直線には始まりと終わりがあるね。だとすれば、二つの点を最短距離で結んだ、線分なのだ。本来の直線の定義には端がない。無限にどこまでものびてゆかなければならない。しかし一枚の紙には限りがあるし、君の体力にだって限界があるから、とりあえずの線分を、本物と了解し合っているに過ぎないんだ。更に、どんなに鋭利なナイフで入念に尖らせたとしても、鉛筆の芯には太さがある。よってここにある直線には幅が生じている。面積がある。つまり、現実の紙に、本物の直線を描くことは不可能なのだ」 江夏豊の現役時代を見た覚えはない。「江夏の21球」のVTRで、カープのユニホームを着て投げている彼、(現日本ハム)として出ている彼、またぞんざいな語り口の解説者としての江夏豊を知ってはいたが、彼が大エースとして阪神に居たことを知ったのは、野球にそれほど興味がなかったとはいえ、かなり遅かった。大阪に住んでいた割には。「仕事中ラジオで、江夏がノーヒットノーランやりながら自分でホームラン打って決着つけた試合最後まで聞いててなあ」と自慢げに話す父の声を聞いたのは、私が幼い頃ではなかった。 2002年、たまたまサンテレビでやっていた阪神戦の中継を見ていた。知った名前の選手といえば遠山、葛西、藪、和田・・・はコーチになっていた。昨年まで中日の監督をやっていた星野仙一が監督になったとはいえ、そう簡単に強くなるとも思っていなかったし、開幕ダッシュなんて言葉も気にかけなかった。四番を打っていた気の弱そうな外国人の打率が一割を切り、「この打率ですが、放った安打のほとんどがホームランという、宝くじみたいなバッター」と解説者が言い、アリアスという名前を覚えた。日本ハムからFAで来た片岡が苦しんでいた。彼がいたPL学園が甲子園で春・夏連覇をした時、何度か甲子園に足を運んでいた。当時の私は立浪よりも片岡が好きで、プロに進まず大学へ進学したと聞いて残念に思っていたのに、不振に喘ぐ片岡をその時は憎く感じた。やがて濱中が上がって来て・・・。まあその後はどうでもいい。 少し寂しいのは、付箋を貼っている箇所がほとんど、数学について説明する「博士」の台詞であることだ。数学に関する事柄、当時の阪神タイガース、江夏の思い出、読後それらについての感情ばかりに支配されて、物語そのものに関しては特に書くことも思いつかない。新潮社 2003年
2005/01/05
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大晦日からこっち一句も詠んでいない。これみよがしの「詠んで詠んで」な雰囲気に気が乗らなくて。 追撃兵向日葵の影を超え倒れ水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり射たれたりおれに見られておれの骨 六林男の詠む戦場句は実体験に基づいたもの。三鬼や三橋敏雄とは違う。彼らのは内地にいて想像で詠んだものだから、出来は良くても白ける部分があった。誇張や極端に走ることなく平坦に禍々しいことを詠み、嫌みがない。だけど六林男は三鬼の弟子。六林男の六は名前だけは三鬼の倍にという気持ちからつけたそうな。「本当なら我らはあの戦争で亡んでしまっていた」という感慨をいつまでも引きずるような戦後の句。深山に蕨とりつつ亡びるか放射能雨むしろ明るし雑草と雀月の出や死んだ者らと汽車を待つ 軽い独白の装いで「亡びるか」と、自分でも呟けるような気がして「カケス集う木の名知らぬまま亡びるか」「初烏返事をされた亡びるか」と戯れてみたところで実感が湧かない。亡べないのだ、私は、私たちの世代では。亡ぶに至る前に積み重ねられていなければならない諸々の何かが足りない。その何かはよくわからないけれど。 故人への感傷抜きに読むために、もっと現役俳人の句も読んでいかないと、と、思っては、いるものの。の。春陽堂文庫 1993年
2005/01/04
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両腕を奇妙に折り曲げて頭の上で組む男か女かよく分からない人物の表紙を見ながら、はてこの本の中身はどんなものだったか、思い出せず困惑した。浮かんでくる部分部分は別の松浦作品からのものだった。題名通り幽(かそ)けき物語だった気はするが、だからといって数年前に読んだものではない、思い出せないことに首を傾げた。本を開いてようやく四編の、それぞれ繋がらない物語が収められていたと気が付く。本を開けば思い出せるのに、表紙を眺めているうちにまた物語があやふやになり輪郭を失いだす。男の目か、腕か、「幽」という文字か、何もかもか。この作者はいつも装丁に凝る。時には中の文章よりよほど本の内容を表している時もある。装丁が、時に物足りなく感じることもある作者の文章を充分に補っているどころか、陵駕している時さえある。最新刊『そこでゆっくりと死んでいきたい気持をそそる場所』の装丁も良い。 二編目の『ふるえる水滴の奏でるカデンツァ』を読んでる最中たまらなく欲情したのを覚えている。バンコックのホテルで駆け落ち旅行のような生活を送る主人公と片腕のない女のやりとりが異様に生々しく感じたためだ。これを読んだ頃にはまだ、津波にタイは襲われていなかった。また別のときには階段などどこにも見当たらぬ平屋になっているようで、そんなとき伽村はどうしよう、布団の上で眠れないぞと困惑しながら庭に面した階下の部屋でビールを飲んでいるうちに眠くなってごろりと倒れて膝枕で寝てしまい、朝になるとやはりいつも二階の部屋に敷きっぱなしにしている布団の中で目が覚めるというようなこともあった。まあ寝惚けただけだと言えなくもないが伽村にしてみれば当方の寝惚けた頭の状態をそのつど受け入れてそれに合わせて自在に姿を変えてくれる寛大な家という感じがした。それともやはり化かされるというような言葉を使うべきなのだろうか。『幽』より 生きてるのか死んでるのか分からない友人に偶然留守居を託された、ちょうど落ち着ける家を探していた病み上がりの男。その家は上記のように夢うつつの中にあるように虚ろで、それでいて主人公には優しい。他の住人も生きているか死んでいるか分からない。自分の生死も朧になり、しまいには「みんな死んだ」と結論づける。その後も生きているものはいるのだが。「生」と「性」がかかってもいたのか。書いてることが自分でもよく分からないが、それでもやっぱり『幽』が一番良かった。講談社 1999年
2005/01/03
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どうでもいい日。12/25「クリスマス」降誕祭 聖誕節 聖夜 聖樹 聖歌 聖菓 クリスマス・イブ 十二月二十五日、キリストの降誕祭。キリスト降誕の日は記録されていないが、ヨーロッパでは太陽の新生を祝う冬至の祭と結びついたと考えられる。その前夜、つまりクリスマス・イブ(聖夜)にはミサが行われるが、今日では聖樹を飾り、ケーキを食べ、子供たちに人気のサンタクロースが登場し、プレゼントを交換する歓楽的風習が一般化した。空暗しそのままでいろクリスマス野良猫の減ること気づきし聖夜の利クリスマス誰も見ぬのに笑い消す愛す冬木を聖夜飾るな生かせるな餃子屋の店先ツリー倒れ伏す23、4、5今年も何も変わりなく教会前選び帰りし聖夜帰路人恋しさ吹き飛ぶを待つクリスマス 曙戦始まった。暗いなあ。2句、と、曙負けた(大晦日の夜、テレビを見ながら書いていた)。2句、野良猫の減ったのはただ冬だから。クリスマスだからこそクリスマスらしくないことを探そうと下を見ながら歩くと、猫が全く見えなかった。4句は先日の「冬木」からの繋がり。5句はやや大袈裟。傾いていただけ。わざとそうしていたようだけれど、不吉にしか見えなかった。12/26「有馬記念」 季語ではないけれど、季語としても構わないじゃないかと思い、久しぶりにテレビで競馬を見たこともあったので。競馬は競馬場に行かなければ楽しくないものだが、もう二年ほど行っていないので、負けないでいる。 ちなみにこの日のレースは、逃げ馬タップダンスシチーが調子よく終盤まで先頭を走っていたが、一完歩一完歩迫ってきた本命馬ゼンノロブロイがゴール前競り勝った。他の馬のことはよく知らない。踊りつつ駆ける逃げ馬又有馬木星で見たよな騎手来る有馬記念スポーツ紙子供広げる有馬の日大金得た者ら帰途急ぐ裏有馬有馬記念安手のジャンパー熱で溶け有馬記念馬小屋生まれ復帰戦買わぬから今年も負けぬ有馬記念四肢駆けて師駆け詩書ける有馬記念 2句、髪の薄いギョロ目の騎手オリビエ・ペリエは三年連続有馬記念を制覇。4句、途中で散財しそうでもあるが、これから入り用の多い正月ということで大事にする気持ちが勝ちそうでもある。5句、電車の中、鞄を椅子の下に置いていたら、暖房の熱気で金具部分がヤケドしそうなくらい熱せられていた。触れたなら、久しぶりに着た薄いジャンパーを溶かしそうであった。溶けてはいない。6句、「馬小屋生まれ」はそのまま競走馬のことでもあり、イエスのことでもある。有馬記念の日に合わせて復活した髭面の男が、負けてまた常闇の方へ帰る。12/29「冬の蝶」冬蝶 凍蝶(いてちょう) 初冬にはまだ生き残りの蝶が見られるが、真冬にはほとんど姿を消してしまう。暖かい日にどうかすると、ふわふわ舞い上がることがある。冬の蝶がじっと凍ったようにして動かないのが凍蝶である。実際に死んでいる場合もある。「実際に死んでいる場合もある」! 何かについてこんな説明をしてみたい。 凍蝶という語が好きなので、凍蝶連作として続けてみた。発想がありきたりになってしまっているけれど。凍蝶を探す目付きの卑しさ良し凍蝶に触れる指先溶け始む凍蝶を枝ごと部屋へ灯は消して凍蝶の居着く一間は冬の病凍蝶が空気凍らせ布団幾重凍蝶よ花開くように疾く翔べ凍蝶に恋し凍える我が世の完凍蝶が人凍る見て羽ばたける 凍蝶を使って幻想的なことを詠んどきゃいいみたいで嫌い。
2005/01/02
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曙の試合のようにあっけなく読み終えてしまい、今年はもっと長いものを、重いものを、古くても読み辛くても濃いものを、という決意を新たにした。 雑誌に連載されていた時期は十年前の、短編集。らしさは充分あるが、短編の最後で、やや唐突にも見える急展開を見せるあたり、どこか不自然に感じもした。刺繍好きの病弱な少女、母親の言いなりになって、美少女コンテストに出る少女、不倫相手にとっての寄生虫になりたがる主婦・・・、弱々しい、いかにも文学少女な面々、あまりこういう女性は好きじゃない。「卵から孵化したばっかりの頃には、ちゃんと目を持っているの。光を当てると集まってくるのよ。でも、寄生するための魚を見つけて、えらにくっついたら、まず、目玉を捨ててしまうの」 わたしは彼の胸に頬をのせたまま喋った。唇から体温が伝わってきた。「何の未練もなく、あっさりとね。宿主にくっついていられるなら、目玉なんて必要ないし、惜しくもないのよ。海の中にはね、そんなふうにして捨てられた寄生虫の目玉が、いくつも漂っているの」『図鑑』より・セリーヌ再挑戦・何か古典作品・小説はやや減らし、もっと他のものを読む 今年の読書における課題。適当。角川書店 1996年
2005/01/01
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