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book+ish 形容詞〔しばしば軽蔑して〕1(人が)本〔勉強〕好きの. ──a bookich person 勉強好きの人.2(ことばづかいなどが)堅苦しい,学者ぶった. ──bookish expressions 堅苦しいことばづかい.3実際のこと〔現実〕にうとい,机上の.4書物(上)の.スーパーアンカー英和辞典より「ブッキッシュな魅力 傑作自薦短編集」という、売る気があるのかないのか分からない帯の文章につられて買ったわけでは全くなく、興味を持った作家の短編集が新刊で出ていたからだ。そうでなければ一生手に取らないような題名作者名装丁帯。だが内容は面白い。 かれの足はもう自然と我が家のほうにむかった。ママやアユに会おう。かれは明るい道、暗い道を選ばず、ひたすら近道を取った。佐々のことは念頭を離れ、友だちの家で遅くまで遊び疲れた少年のように家路を急いだ。どこかで犬がほえた。川の音がきこえた。急に犬の声がとだえると、川のせせらぎも消えた。洋は走りだそうとはやる気持をおさえ、急ぎ足を保ちながら遠くまで耳をすませた。サンケイ新聞販売店の角を曲った。とふたたび犬がほえはじめた。川の音もまじった。犬がほえているから川も流れるのだ。『野の寂しさ』より『黒髪』についてだけ書く。 小説家であり、実際の事件を基にしたルポタージュを別の名前で書いている「私」という「信頼出来ない語り手」により話は語られる。福岡で起きた美容師バラバラ殺人事件に興味を持った「私」は事件について調べ始める。そして度々「これは小説ではない」と言い続ける。もちろんそれは信用出来ない。短篇小説集であり、それまでの三篇が全て小説であったから疑うわけではない。語り手が「これは小説ではない」と言うから疑うのだ。結局その事件についてのルポタージュは書かれる前に連載が打ちきられる。バラバラにされた死体で唯一見つかっていないパーツ、美しい黒髪の付属物としての頭の謎は解かれぬまま。 そして「私」の友人が亡くなったという報を聞き、彼が死の直前大学で講義していた「黒髪考──ニッポン文芸史ご案内」という「生徒がたまたま録音していた」ものを全文紹介する。その内容は面白いがそれはひとまずおく。しかしこれは講師の突然の死によって、二回で中断されたものであり、それまで語ってきた結論らしきものも、最後であやふやになって終わっている。それを読んだ「私」は友人が語る中に明らかな虚偽を発見し(それは「私」の母のことである)、講義においてわざわざ語る必要のない友人の母の出奔話に疑いを持つ。 ここまで来ると、読んでいて何がなんだか分からなくなる。話の意味がとれないというのではなくて、殺人事件も文芸史も、何故こうして語られる必要があるのだろう、作者はこの短篇を何処へ持っていこうとしているのだろう、と。 くり返すが、これは小説ではない。事実という結果を、それが生起した順に書き写しているノートにすぎない。事実がすべてなのだ。言葉などなにほどのこともない。しかしまた、事実を検証し、それを事実と認定するものは言葉だ。そこに小説する誘惑がたえず忍びこむ。しかし、これは小説ではない。そして、私は事実ではない。 今ここを読み返して気付いた。別の書物から孫引きする。「小説はわれわれを事実の展開のなかに参加させ、語られる事柄の中心にわれわれを置き、一種の直観によって、人物の行動と内的生活のさなかにみちびく。これと反対に、物語は次々に述べてゆくという方法によってナラシオンを構成する作者が取りあげる主題である。作者は事件を遠くから眺めるという目的に向ってナラシオンをみちびいてゆく。彼はつねにその素材を支配し、抽象的な、限定された図式の挿絵にほかならぬ一連の分析、肖像、要約、描写によって、読者の心をとらえようと企てる」辻邦生『物語と小説のあいだ』に引用されている、モーリスベッツ『小説への一瞥』の一節。ナラシオンは語り、語り口。「私」は福岡美容師バラバラ殺人事件に興味を持った時から、時系列に沿って事実を並べてきたに過ぎない。それは「物語」ではあるが「小説」ではない。このあたりの部分は『物語と小説のあいだ』を読んでもらえば分かりやすい。「私」の周辺の事実を語り続けるならば、それは小説的に終着へと近づくのではない。「黒髪考」の後、福岡の事件のその後について「私」は調べる。その後昔の友人と「私」は中国の奥地へ旅行へ行く。その山中で「黒髪考」を書いた亡き友に似た現地人を見かけたりするが、小説上、この中国旅行には全く意味がない。しかしこれは「小説」ではない。「私」という人物の語る、彼に起こった「物語」であるから、話の尽きるまでに中国旅行へ行った事実があるなら、それも語られなければならない。 そうして読む途中混乱したことも納得は出来た。しかしこれは「語り手が『これは小説ではない』と言い張る物語という小説」であり、また作者が展開したかった「黒髪を軸にした日本文芸史」でもある。「私」に躍らされるのではなく、あくまで「黒髪」に注目し続けるべきであったのだ。 2004年 講談社文庫
2004/01/29
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解説町田康。あまりにひどい解説文に出会った場合、編集者は書き直しを要求するなりボツにするなりすればいい。解説する気もないなら仕事を断ればいい。真面目な文章とふざけた文章を書く境目をいつまで経っても見極められないのなら作家を辞めればいい。とにかく解説は読まない方がいい。 ブコウスキーが故郷のドイツ及びヨーロッパを旅した時の、一応ノンフィクション紀行。あと写真、詩。 ほとんどどんなことにも興味を引かれない人間が、どうしてものを書くことができるのか? どっこい、わたしは書いている。わたしは取り残されたものについて書いて書いて書きまくっている。通りをうろつく野良犬、亭主を殺す人妻、ハンバーガーに食らいつく時に強姦者が考えたり感じたりしていること、工場での日々、貧乏人や手足を切断された者、発狂した者がひしめく部屋や路上での生活、そういったたわごと。わたしはそういったたわごとをせっせと書く・・・・・・。 写真つきという以外、日記と短篇小説の中間という感じで、要するに見慣れたブコ。有名なフランスのテレビ番組に出演中、酔っぱらって暴れて退場した翌日から、フランスで翻訳されてたブコウスキーの本が飛ぶように売れ始めたとか・・・そんな話。ドイツの競馬場にはオッズ表示板がないらしい。ヨーロッパ人はなにかとセリーヌから受けた影響について聞きたがるらしい。この頃60歳、まだ十年以上この後ブコウスキーは生きる。いつでも酒飲んでるように書いてあるのに、健康面に関する叙述はあまりない。元気でなければものは書けない、そう見える。 朝青龍が全勝優勝を決めた千秋楽の取り組み、栃東の覇気のなさが目立った。綱取りが絶望的になって以降の栃東の取り組みは見てて面白いものではなかった。たまたま今場所の一日目を見て、相手の体に体重を預け一瞬浮き上がり前に詰める朝青龍の動きに驚嘆し、生まれて初めて相撲を初日から最後まで見通した私にとって、栃東は「人気先行なだけで実力の伴っていない力士にも不甲斐ない負け方で負けた、大関らしくない凡百の力士」にしか見えなかった。人気先行~は高見盛のこと。しかし栃東戦の前日の取り組みは熱戦で面白かった。二日目だったか、千代大海は親指一本で土俵に残り、私の相撲への興味を持続させた。垣添の相撲は毎日楽しめた。安美錦の顔が気に入った。何より朝青龍が強かった。 しかしそれは一場所しか見ていないものの目から見えたものだ。 教会の鐘がいつも鳴っていた、ほとんど四六時中 ほんものの人たちによって鳴らされるほんものの鐘、正時に鳴ることは 決してないのに、鐘は鳴って、鳴って、鳴って、その音は 骨の髄までしみ込んでしまい、食事をしている時も トイレに入っている時も、セックスをしている時も、あるいは 歯を磨いている時も、鐘は鳴った・・・・・・ ちょうどホテルのエレベーターで上ったり下りたりするように 鐘が鳴ることはごくあたりまえのことになってしまい、外では 噴水が水を空中二メートル近くまで噴き上げ、男たちは大型犬を散歩させ 男たちや女たちがテーブルについて何か飲んでいて、彼らは 三十年の間に二度の世界大戦で敗北を喫したというのに、それでもまだ鐘は鳴っていて 鐘はユーモアたっぷりに鳴り、鐘は喜びに満ちて鳴っていて、こう思わざるをえなくなる なぜなんだ、いったい何ごとなんだ?『ドイツのマンハイム』 7人の若者たちが向かい合って座っている車内から一人が「ちょっと小便行ってくる」と言い電車から駅に降り、ふらふら歩いていった。他の連中は電車が走り出してからしばらくしてようやく「えっ?」という顔をしていた。
2004/01/26
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クリーム色の函に題名と作者名だけの装丁。新聞を読んだ後触ったので指の跡が黒く残った。文芸誌「新潮」で二年間連載されていたものだが、出版されたのは書肆山田というところ。http://www.t3.rim.or.jp/~shoshi-y/ 本のラインナップを見ると、よく会社を続けていられるなと思う。これからも頑張って欲しい。 体温がわずかに上昇する。頬が紅潮していくのを視神経が感受している。無人の倉庫街を滑るように移動している。赤煉瓦の倉庫の中では、梱包された綿花が自然発火を待っている。貨車のレールが遥に続いて、一点で交わっている。桟橋から、沖合に停泊の舟に向けてサンパンが音もなく出て行く。海底に打ち込まれ、静まっていた巨大な錨が自重で、さらに一センチ沈む。しかし、海底は目覚めなかった。『夢がたり』「新潮」でたまに読んでいたが、見開き二ページで完結する夢に似た話の中で、あまり小道具と描写に凝ると窮屈になり、読み苦しくなっている話もある。毎話登場する、夢幻なあるいは具体的な少女のイメエジには、時折嫌悪感を抱くこともあった。毎度のことでもある。それでもやはり好きなのだ。 函ではなく本の表紙の真ん中に、別々の短篇に何度か出てきた、パイプが浮き上がっている。その回りは全部真っ白で。パイプも真っ白で。とにかく全部真っ白で。 帯の、それで購買意識をそそらせるようという気を微塵も感じさせない文といい、この出版社のことがどんどん心配になる。
2004/01/23
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読んだ順番は前後するが、あまり律儀にこだわっていると感想が滞ることに気付いたので書きやすいものから書いていくことにした。シリーズ第二期最終巻。11篇中5篇が既読作。・日影丈吉「かむなぎうた」・矢川澄子「ワ゛ッケル氏とその犬」・谷崎潤一郎「過酸化マンガン水の夢」・星新一「ピーターパンの島」・色川武大「蒼」・吉行淳之介「蠅」・中井英夫「鏡に棲む男」・村上龍「ハワイアン・ラプソディ」・村田喜代子「百のトイレ」・川上弘美「消える」・室井光広「どしょまくれ」 第一期最終巻の時にも書いたことだが、このシリーズで私が発見したのは「どの作家でも短篇ならば、読めないということはない(金井恵美子以外)」だった。第二期に入り同じ作家が紹介されるようになり、「新しく『読める作家』を探す」という目的の半分は失われた。こうして選ばれているのだから極端につまらない短篇というものはない。しかし、その作家に惚れ込んだり、新しい世界が拓けるというようなものも、辻原登をのぞけばあまりなかった。というより、前シリーズで短篇を読んだことをきっかけに読み始めた作家は、元々興味を持っていた人たちであった。だから、とても新しい発見のなさそうなこの巻はわざわざ読むほどではなかったと思える。「これはこういう短篇であったな」と確認する作業が半分、残り半分でもめぼしい発見はなかった。 このごろずいぶんよく消える。 いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる。 消えている間どうしているかというと、しかとは判らぬがついそこらで動き回っているらしいことは、気配から感じられる。風がないのに次の間への扉ががたがたいったり、箸や茶碗がいつの間にか汚れていたり、朝起きてみると違い棚に積もっていた埃が綺麗にぬぐわれていたりするのが、兄なのであろう。川上弘美『消える』冒頭 素晴らしい冒頭の文章を書く作家である。特にこの冒頭は大好きだ。 昔、村上龍『ハワイアン・ラプソディ』を初めて読んだ時は、多分怒っていたと思う。しかし今回はこれが一番楽しめた。年老いたスーパーマンが故郷の星に帰るため、地元の若者と協力して宇宙へ飛び出そうとあれこれ頑張る話。「だいじょうぶ・マイ・フレンド」の前身。多分。 ハズミンはバルーンの準備を完了した。後はロープを外すだけだ。一言も口をきかず表情もわからないのでスーパーマンの気持ちを知ることはできないが、恐らくあまり喜んではいないだろう。全盛の頃、弾丸よりも速く飛ぶと空中の虫達が体に衝突するのだ、といつも言っていた。虫達の柔らかな小さな体が私の体でつぶれるのがわかる、それがスピードというものだ、残酷なようだが、その感触はとても素敵なんだ。村上龍『ハワイアン・ラプソディ』より しかしやはり、夢・幻想などというテーマでまとめられると、収録元の作品集の中ではそれぞれ光り輝いてるものでも、並べられると飽きる。第三期はあるのだろうか。
2004/01/22
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表題作が1990年第103回芥川賞受賞作。併録の『犬かけて』がデビュー作。やはり『犬かけて』の方が面白かった。「受賞させた理由」が透けて見えてしまうと冷めてしまう。 白いくろつぐみというやつは存在しているのだがあまり白いので目にみえないのだ、と深夜サウナのソファベッドで隣りあわせた中年男が濡れた灰の口臭をたててしつこく五円玉の耳にささやきかけた。そして、黒い黒つぐみはその影法師にすぎないのだ。『犬かけて』冒頭 行方不明になった弟を捜すためにミシンのセールスマンとなった男、話の本題はそこにあるようでなく、ないようであるようで、妻の過去、弟を捜すと言って全国を遊び歩いた昔話、徐々に現実からずれていく様が面白い。比べて表題作の方は最初から現実からややずれた村(中国の桃源郷)へ入って行き、幻想の世界が展開されるかと思いきや、金の欲しい中国人の姿が描かれ、夢は崩れ去る。文章の調子も描写の仕方も、大胆で粗い『犬かけて』抑えて丁寧な表題作、私には後者が面白いとは思えなかった。 行った先々の町でトオルらしき影のかけらやほのめかしが必ずみつかった。須賀川から父親と乗ってきた斜めむこうの座席の少年は十分の一秒の間ならすかりトオルの姿になりきった。真室川駅の出札係の情報は確実に思えた。話すうちに十年ももっと前のことだと分かった。それでも年老いた出札係は五円玉にむかって、あれは弟さんにちがいないと断言した。岩泉線のとある各駅停車の小駅の昼下り、枕木の柵にそってピンクや白のコスモスがいっせいに咲き乱れているそのむこうで郵便配達夫が自転車に乗ったまま少女に手紙を手渡している。あれはトオルからの手紙ではないだろうか。『犬かけて』より 時間を置くと、読んだ当初は面白いと思ったものでも、評価が一変していることがある。大抵は悪い方に。今回は珍しく、『犬かけて』はとても面白かったんだと思えた。表題作の方については語りたくなるような思いもないが。
2004/01/19
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文字を覚えたての子供が電車の中から駅のホームに見える文字をたどたどしく読み上げていた。 「あの村から一歩も出ないで、ほら、あの墓地で一生を閉じる人もいる。そんな真似が出来るかい?」 ホクは向きなおった。「なんと答えたか、教えなさい」「来年の春、退学してあの村で暮らす。決めた」「ピアノが弾けなくなるぞ」と、ホク。「いいの、教会にオルガンがあるはずだから」「そうか・・・・・・」「そうなの。毎年一度、永遠の夏が帰って来る村なの、充分よ」『遠景の家族』より やたらとものを食う場面の出てくる、粒ぞろいの短編集。特に『遠景の家族』は一生抱いて寝たい。どこの世界での出来事かよく分からなくとも、料理・服装・気候などを微に入り細を穿つまで書き込まれると風景に湯気が立つ。人物に肌触りが感じられる。足音が響く。ただ、この作品の通りに料理を食い酒を飲んでいると体を壊す。作者に似た主人公たちは皆実際にどこかを壊している。 イカモノは普段の食生活から離れたものである。その離れた味覚の世界に身を置いて、日常食べ慣れたものを、あらためて味わい知るのは意味なきことではない。アウトサイダーと呼ばれる人々がいて、時々、光る。だがそれは彼ら自身が光っているのではない。ごくあたりまえの生活が営々といとなまれていて、その生活の光りを光源として輝いているのである。この生活の灯が消えると、彼らも消えて、異常な精神だけが残る。イカモノの食べ物に惹かれるのは、平穏無事な食生活が常でなき食べ物を照らし教えるからだ。人は何故食べるのかというあたりまえの行いを、考えなおさせる。食べるのは動物も同じだが、人にとっては食欲をみたすだけの只事ではない。もっと深く神秘で切ないものだ。しかし、こう言ったところで、すっきりしない。ただイカモノを食べ歩いていたころの写真が、アルバムに残っている。痩せていて、哀しそうな顔で写っているのが眼につく。そのころ何が哀しかったのか分かっているようで、分かっていない。結局ここから先のことは、もう何も言えない。『食べる』より 今年は「日本の現在(いま)」を読んでいこう、と思い、幾つか候補を上げた。・吉田修一「パーク・ライフ」(地味だから)・阿部和重「シンセミア」(文章に気分悪くなりつつ結構面白くて最後まで読んでしまいそうだから)・舞城王太郎のどれか(途中で放り出し「こんなのが現在(いま)なら、もうどうでもいい」って言いたくなりそうだから) 図書館が例年より長く年末年始の整理期間で休んでいたので、何も借りないままその気が失せた。シンセミアも立ち読み、別に今読まなくても構わないと決めつけた。結果、これまで何度も訪れた壁の前に立ち止まって、次々に新しい本を読もうという気を起こせないでいた。そんな中、この短編集は嬉しかった。何しろまだ読んでいない森内俊雄作品はある。それらを読む気も出てきた。本を読むのが楽しいとはこういうことだ。 次の一節を読んで体が震えた。 天之蒼蒼。其正色邪。其遠而無所至極邪。其視下也。亦若是則己矣。 空が青いのは、空そのものの色であろうか。それはきわまるところのない遠さが、空を青く見せているのであろうか。では、さかしまに見おろせば、この地上もまた青一色に違いない。『荘子』逍遙遊篇第一章の言葉である。これは若き日のホクにとって、麻薬のような働きをした。ただ、覚えているだけで、一生やっていける、と元気が出た。いまでも魅力がある。その青を探して、ここへ来た。じっとしていても、足下照顧、空は足もとにあるのだが、わざわざレラの町へ、天を見んとしてやって来た。天気になれば、ミナが仰いだような空が展ける・・・・・・。『遠景の家族』より 一生抱いて寝たい。
2004/01/16
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それほど面白そうなテーマでもなく、興味を惹く作家名もないので今回はパスするかと思っていたところ、年末年始の図書館一斉休館の前に大量に本を借りそこね、結局買った。ところ、「再発見」という名にふさわしく、第二期中一番内容の濃い一冊であった。・中山義秀「あやめ太刀」・梶山季之「族譜」・中野重治「第三班長と木島一等兵」・新田次郎「八甲田山」・富士正晴「足の裏」・城山三郎「調子はずれ」・佐多稲子「疵あと」・黒井千次「椅子」・石原慎太郎「院内」・辻原登「松藾」 富士正晴、石原慎太郎の前半が良いなあと思っていたところ、最後辻原登という聞いたことのない作家にぶっ飛ばされた。「なんだ?」「なんだこれは?」「なんだこれはなんだ?」「誰だこの人?」「なんでこんなものを?」と、読む間中驚き呆れ続けていた。藤枝静男の『田紳有楽』にしろ『空気頭』にしろ、読むとかなり面食らう作品だという予備知識を持って読んだが、これはまったく油断していたところへの不意打ちだった。あまり本を読まない友人に深沢七郎「楢山節考」を貸したら、「電車で読み始めたら止まらなくなって、駅のベンチで最後まで読んだ」と嬉しい感想を寄越してきた。それと同じ経験を私は『松籟』で味わった。まだ正月気分の抜けきらない駅のホーム(1月4日)とはいえ、終電までにまだ一時間ほどあるのに人影少なく、さほど寒くない日だったのに体がどんどん冷えてきて、小説内の人物たちと同じようなことになってしまわないかと不安になった。しかし手袋つけたらそんな気分も治った。それからハマゴウの中に車座になり、ジャンケンをした。最初の拳で海外事業部の青柳ひとりグーで、あとの十四人全員がパーを出して勝負はついたが、その後はグー、チョキ、パーが入りまじって、いつまでもけりがつかない。案内人がチョキを禁じるとすぐ片がついたが、それではおもしろくもなんともない。~中略~それからハマゴウの中に車座になって、ジャンケンをはじめる。最初の拳で経理課の小出がパーで、あとの十四人全員がグーを出してひとり勝ちだったが、その後はグー、チョキ、パーが入りまじってけりがつかず、箱庭がチョキを禁じるとすぐ片がついて、つまらなくて立ちあがった。~中略~ 調理台からうまいぐあいに大ぶりの生きのいい鰺を一尾すくねた黒猫のトッポは、民宿の奥さんのどなり声を尻目に、勝手口を抜けて物置と食堂の間の隘路を走り、前庭から松林の中へと逃げ込むつもりが、ちょうど門から箱庭とコスメ化粧品の一行がどやどやと入って来たので、あわててとっつきのヤツデの葉かげに身を翻した。箱庭にはこれまで何十回、いや何百回と蹴りとばされたことだろう。~中略~トッポは頭を食べおえた。ひとしきり舌なめずりしたあと、再び鰺をくわえなおしてヤツデの葉かげから首を出し、一歩二歩と影から体を引き抜き、そのまま一気に駆け抜けようとしたとき、小旗を巻きながら箱庭が大勢の客を従えて門から入って来たので、あわてて再びヤツデの葉かげに引っこんだ。あいつにはこれまで何百回、いや何千回蹴飛ばされたことだろう。辻原登『松籟』より 落丁ではない。昔、話がループしている「月下の棋士」一巻を読んだことがあるが、そういうことではない。僅か3ページの間に、壊れたレコードのように上の文章が出てくる。「この話はちょっと普通とは違いますよー」という挨拶だ。旅館を舞台にしたいささか尋常からはずれる世界の中で進む物語に特別な意味はなくオチも劇的なものではない。終末の雰囲気漂う小説内の登場人物たちのバックにラスト、巨大な「END」という文字があらわれる星新一の短篇のようなものを嫌な予感と共に想像していたが、いい意味で裏切られた。明確なオチはいらない。 私の知っている二・二六のある革命家は、無期刑で十年監獄に坐っている間に一つだけ結論を掴んだ、といっていた。人間の進歩を妨げる最大の悪は観念だ、と。ある大きな寺の隅の寓居の書院であぐらのまま茶をたててくれながら彼はそういった。「獄の中に十年坐って覚ったのはそれだけだ。それで、俺のやったことは間違いだったと自分でいい渡せたのさ」 すべての観念から自由であり得る人間、その強さ。しかし、その強さを獲得した時、その人間にとってすべての他者他物は不要になるのであろうか。石原慎太郎『院内』より 新田次郎『八甲田山』も、事実の持つ力強さに溢れていて面白い。
2004/01/08
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汚くてカヴァーがなくて旧仮名で。どこかでもらったものだろう。部屋自体の紙魚のように湧いて出てきたのを掴まえて読んでみた。どのみち掃除ははかどらない。「じや私たちもやつぱり死ぬの?」少女は泣きやめて、涙の顔で男を仰ぎ見た。「まあそんなことだろうと思うんだ。」「なぜもつと早くいつて下さらないの?」少女はうれしそうに笑いながら、「私ほんとうに驚いたわ。だつて死にさえすれば、お母さんのところへ行けるんですもの。」「それはそうだ。お母さんのところへ行けるねえ。」 ワトスンとシャーロック・ホームズがこの世に初めて登場する第一部、延々と犯人の過去物語が語られる第二部。どうもこいつは読んだことがあるようだ。犯人の動機も死体発見現場も名推理の仮定もさっぱり覚えがないが、第一部とうって変わりいきなり砂漠を放浪する男の姿で幕を開ける第二部の始まりの光景は記憶の底の底にある。「神さまはどこの国の人間をでもご自由に、お好きなときを選んで、そろりそろりと粉になるまで挽きつぶしておしまいになる。」ドレッパが鼻にかかる声でいつた。 ならば、その後いくらでもあるホームズ物の続編に、おそらくは幼い頃の私は興味を示さなかったのだろうか。探偵という物に憧れなかったのだろうか。今読んでもホームズをちっとも好きにはなれず、犯人へ共感する気も起きない。子供の頃から悪役ばかりを好きになった。愛する人に屈辱を負わせて死に至らしめた二人への復讐に燃え、飽くなき執念でそれを遂げたジェファスンには何も魅力を感じない。推理小説、探偵小説の類に昔から私はうまく入り込めないでいる。探偵の有能さを現すためだけ(のように見える時がある)に、人がバタバタと死んでいくのを素直に見過ごせない。
2004/01/06
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嘘をつくと鼻が伸びる。クジラの腹の中。そんな記憶。それくらいなら読んでなくても分かる。ディズニーのアニメも見たことがないから、そもそも読んだことがなかったのかもしれない。まだ省略されてるエピソードがあるらしいが、子供向け絵本とは違い、そこそこ長いピノッキオのお話。「い、い、いたいといった、あの、こ、こ、声は、ど、ど、どこから聞こえて、きたんだ? こ、こ、ここには、ネコの一ぴき、いないんだよ。まさか、こ、この棒きれが、あかんぼみたいに泣いたんじゃないだろうな。とても、しんじられないよ。ほら、ちゃんとこのとおり、なんのかわりもない棒きれだ。火にくべて、まめをにるのにちょうどいい。なら、このなかに、だれかかくれているのかな? それだったら、お気のどくさまだ。いま、わたしがらくにしてやるぞ!」 こういいながら、親方は、かわいそうなこの丸太ん棒をなさけようしゃもなしに、ゴツンゴツン、へやのかべにたたきつけはじめました。 操り人形ピノッキオを作る元になる棒きれに出会った時の大工の親方の反応。変な物はとりあえず壊す。単純明快。他にも、笑い転げただけで胸が破れて死んでしまう大蛇、ピノッキオに手を食いちぎられる猫、おじいさんとピノッキオが大波に呑まれても「かわいそうになあ!」と言い放つだけの猟師たちなど、童話らしい無邪気な残酷さが溢れている。章のはじめに簡単な粗筋が書いてあるのだが14 お話するコオロギの忠告をきかなかったために、ピノッキオは人ごろしにであいます。なんていう、いきなり度肝を抜かれる文章もある。友達にたまたま出会ったような字面でありながら「人殺し」よりもずしんと来る。思えば森のくまさんだって、本当に出会えば歌を唄う余裕なんてない、命がけの相手だ。ちなみにこのコオロギも、百年以上生きていたのに、新しく部屋の住人となったピノッキオにカナヅチで叩き殺された可哀想な虫。死んでもその後ちょくちょく出てくる。童話は簡単に生者と死者を渾然一体とさせてもちっとも不自然でないから羨ましい。真面目に勉強をし、働くようになったピノッキオは晴れて人間の子供となる。かつての自分であった木の人形を見て「なんとこっけいだったんだろう!」と言うピノッキオはファンタジー世界の無邪気な主人公ではなく、ただの小生意気なガキだ。物語前半の、約束を簡単に破り遊び歩き、おじいさんのなけなしの金さえ自分の楽しみの為に使うピノッキオはまだ魅力的だ。 まだ。
2004/01/05
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HI! 深夜に響く救急車のサイレンの音に、モチを喉に詰まらせた人のいる家庭の騒動を夢想するシティボーイのコチさんだ。サーフィンやスノボに乗りまくるマッチョな正月だぜ。違い知らないけど。今年はノリノリな年にしようぜ! 今日感想を書く本は、ダ・ヴィンチ一月号の企画「今年読んだ本ベスト3」で清水良典が『十一月の少女』をあげていた、今最もノリに乗っている森内俊雄の、1988年に出た短編集だ。『十一月の少女』に出てくるのと同じ名前の主人公が活躍するSF風短篇小説なんていう、今まで読んだことのない森内俊雄の作風をかいま見ることが出来た。ちなみにとっくに絶版だから図書館を探そう! 心に片輪の蟹が一匹、棲んでいる。鋏がひとつ椀げて、そのまま生えてこない哀れな蟹がいる。それでも、あれこれ物思いの糸で生活の綻びを縫い、繕ってきて四十八年が過ぎた。『口紅』冒頭 森内俊雄を読み始めたきっかけは本当に偶然で、図書館が書庫に収まりきらない本、貸し出されることのあまりない本を除籍して市民に無償で放出する場で、たまたま福武文庫であり目についた「夢のはじまり」を手にとったからであった。泉鏡花賞受賞者ということではずれはないと何気なく読んだその本の幾つかの短篇に魅了された。が、図書館以外ではあまり手に入らない。地味な作家なので話題になることもないので、発見者気取りでやや過大評価した時もありつつ、読み進めてきた。古井由吉を読んで普段の思考形態が内向的になったり、埴谷雄高を読みつつ、頭の少し上の方で埴谷雄高なんて読んでる自分の姿を見て笑っている自分を作りだしたりしている時に、平明な文章で、救いを受け止める存在が遠巻きに書かれている物語を読むことで癒された。とまとめたいところだったが、古井・埴谷を本格的に読み始める前に森内俊雄と出会っている。日記って便利。 ちなみに森内俊雄は今でも文芸誌にちょくちょく書いている。誰にも発見されず人気もない作家がここまで長く書き続けることはない。「短篇の名手」という冠をいくつかの本の帯などで見たが、ちらと見ると、ワインや葉巻などの商品名が頻出していて、「翔ぶ影」など昔の作品集と比べたら、比較的最近のものは少し抵抗があったが、読んでみれば心配するほどではなかった。ただ冒頭を引用した『口紅』などのように、最後に説明し過ぎているものもあったが。一体、石を茹でて何になる? 仮にそんなことを彼に尋ねてみたとしても、答えられない。石は、石である。ただそれだけの単純明快、堅固な在りようでしかない。枝川は、それが恨めしく、腹立たしく、泣きながら正気のつもりでいて、石を煮ている、と言ってみても誰が承服してくれるだろうか。泣けばいいのだ。おまえは枯れかかった小さな木のように渇いているのだから、涙がおまえをうるおしてくれるだろう、と考えてみる。もうこれで四日も同じことをしていた。大学からの帰り道で石を拾った。持ち帰り、洗って鍋に入れ、煮上がるとアパートの裏庭の土を掘って埋めた。拾った石はひとつきりだったのに二日目には二つに増えている。一日にひとつずつ増える。石は増殖する。石を菜切り庖丁で、さくさくと切り、食べてみたくなるが、もとより切れず、かぶりつくわけにはいかない。枝川公一は、ただ石を煮るばかりだった。『笑う影』より 母方の祖母は今回も80年くらい前の、クラス一の優等生であった頃の昔話を始めた。伯父そっくりの顔形のまま写真が飾られている、若い頃に亡くなった祖父についてもいつもと同じ話だ。いつまでも若い夫の姿を心に留め続けていられるというのは、幸せなことなのだろうか。しきりにビスケットとミカンを勧めてくる。そんなにいらないと思いつつも食べ続けた。 若い主人公ヤとウが活躍するSF二編はあまり良い出来とは言えないが、もう一つのSFもの『地を這うもののごとく』は悪くなかった。良いとまでいかないのは、似たような話はいくつもあるからだ。追放された主人公が最後、乞食をキリストと思いこみ、自分の食料を与え続けて餓死するところも含めて。特別目新しい話ではないが、これを森内俊雄が書いたのかと思うと驚く。 初夢にイルカが出てきた。今年に合った猿も出てきた。初夢らしく綺麗な夢を見ようとしていた、夢の中で。
2004/01/03
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いつ通っても客が物を買っている姿を見たことのない、沖縄名物を並べた店の前の貼り紙が、大した風でもないのに剥がれ落ちて飛んでいった。次の日、その店の隣家の二階でボヤがあった。その次の日、年が明けた。 いつ読み終えたのかも忘れたので、アナタハン事件を題材にした『裸の島』くらいしか印象に残っていない。孤島に取り残された日本軍兵士たちは、一人の女の為に殺し合いをするまでに・・・しかし救出されて冷静にその女を眺めてみれば おれは茫然として環さんの姿をながめやった。これがあの女だったのだろうか、これがかくもおれたちの心を嵐のように宙天に舞いあげ、地獄へまきおとしたあの女王だったのだろうか。・・・・・・近代的な都会の光と蔭と響音の交錯のなかに、それは顴骨のとび出した、色の黒い、唇の厚いぶざまな土人の女にすぎないではないか。・・・・・・ という結末。島で生活するうちに、日本へ帰った後のことを約束した者からは「忘れましょう」と言われ、本来の夫にだけは「僕は忘れない」と言われる哀れな女。実際のアナタハン事件においては、女だけ先に救出されている。アナタハン。 父方の祖母がなくなり、同じく祖父の痴呆が進んだ頃から、正月に親戚一同が集まるということはなくなり、正月ボーナスもなくなり、祖父母が握る鮨も食えなくなった。おせち料理のことは詳しく思い出せないが、近所の焼鳥屋で大量に買い込んだ串を、一番多く皿の上に並べていたのは私か兄だった。百人一首をやらなくなったのはいつ頃からか思い出せない。祖父はよく響く声で歌を読んだ。男性陣と女性陣に別れて、結果はどうだったかも思い出せない。古い木製の麻雀牌を押し入れの奥から見つけだした時からだったかもしれない。役も分からず、ただ牌を集めてあがるだけの麻雀だった。役も点数も分かるようになってからも、祖父は役のことを気にしなかった。祖父はあまりあがらなかった。後年痴呆に完全に呑まれてしまう少し前の麻雀で、思えば祖父はツモ切りだけをしていたのではなかったか。 主のいない祖父の家の本棚には、古代史関連の書籍と歴史小説が並んでいる。山田風太郎もあるので持ち帰ろうかと思ったが、本の傷み激しく、ほっとけば夏には40度になる部屋にあったので匂い立ちそうで、置いたままだ。今手に入れるに苦労する本でもないので。 残された祖父の日記には、正月の日に皆が集まっている様子が楽しそうに書かれていた。祖母とのたまの性交時以外、楽しく書かれていた日はそう多くはなかった。 今の正月は365分の1日でしかない。ちなみに今年だと366分の1。
2004/01/01
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