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妥協して図書館で最終章を借りるなり文庫化の報せ。講談社文芸文庫。八章まで綺麗に並んだ本棚の景観が虚しく見える。 頁を開くと馴染みの面々が巨大なテーブルについて津田安寿子の誕生パーティーを開こうとしていた。八章読み終えてからあまり間は開いてないが、懐かしさを感じた。またしばらく、あの重っ苦しい、馬鹿馬鹿しい、ハチャメチャな文章と空間と激論に浸れるのだと。しかしこれが最後なんだと。十章を書き次ぐ人間はそのうち現れるかもしれんが、それは他人だと。埴谷雄高はもう死んだんだと。どうしようもない当たり前の事実と向き合いながら、それでも、未完ながら最後まで読み通せば達成感でもあるのだろうと思っていた。 そうして得たものは虚しさだ。命綱をちょん切られ空中に放り出されたまま、落ちるはずのところで永久に凍り付いて動けなくなってしまった登山者だ。時間を止める機械を発動させたら自分の動きも止まってしまった科学者だ。埴谷雄高は病床についている間も「死霊」の登場人物が頭の中で動き、話し、生きていたそうだ。そうして長い年月を挟んで書き続けられたものは、当初のテンションを見かけだけは維持していても、軽さを含み、各人物から命懸けの気迫が欠け落ちている。作者自身、思ったよりも長く生き延びることが出来たというのも関係しているのかもしれない。ともかく九章の最後、そこで永遠に断ち切られることになる「死霊」という物語の裁断面は、読者にその後の「死霊」を想像させ、永い楽しみに浸らせるものではない。あまり自由が残されていない。実は楽しみにしていたんだ、それを。 ・・・・・・黒服の男と青服の男、見慣れぬ新しい人物二人は最初津田老人の見る幻覚のようなものとして書かれる。前に飲み物も置かれない。津田老人と会話をしているのに、津田夫人はそれを老人の独り言と言う。途中までは。何の屈託もなく津田安寿子はその二人、「はじめのはじめのはじめの単細胞」黒服と、「>のもの以前のまま停まってしまった」青服とに語りかけ、無限永劫の間黙り通してきた青服の声を導き出す。喜劇だ。笑いがどんどん洩れる。首猛夫の「ぷふい!」という笑い声とオーバーアクションは今回は前半だけに留まる。 完璧な円へひたすら向ってたゆみもなく肥りに肥りつづけている津田夫人の憤然と弾んだ力によって不意と押し開かれた扉は、薄暗い死のたゆたう廊下から眩く明るい生の静謐にゆらめく世界へ通ずる厚い大きな扉ででもあるかのごとく、その内部の深い魂の底まで透き通るほど白い肌をもった肥った丸顔の輪郭全体に、晩夏の真昼過ぎの果てもなく透明に澄んで輝く戸外の陽光の揺らめきがさっと刷かれるのとまったく同時に、憤然たる歓喜とでもいった不思議な薔薇色の一種予期せぬ霊妙な彩りがその内部まで透き通る津田夫人の白い頬の上にぱっと浮んだ。 句点を打てる自由というのは素晴らしい。 埴谷雄高「死霊」を読むことは、読み通すことは、あまり意味のないことである。しかしそこには快感がある。やや自虐的な、厭世的な、人畜無害な快感ではあるが、浸ると楽しい。気を緩めると何が書いてあるか分からなくなるが、真面目に読んでいても全て分かった気になることは難しい。頭に入る時はスイスイ入る。「虚無感に満ちた」という言葉に矛盾を感じなくなる。読むと逆に言葉は奪われる。手本とするには最悪の類の文章である。何が言いたかったかよく分からなくなっているのか、何も言いたくなかったのか、何も言えなくなってしまったのかよく分からない。このままいけばもうすぐ歌でも歌い出す。文庫化とともにもう一度読んでしまうかもしれない。その時の顔は阿呆面だ。埴谷雄高「死霊 九章」(この本は現在お取り扱いできません)「死霊(七~九章)」(講談社)
2003/01/31
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熱に揺られてるうちに一年が経った、一年に経たれた。日記を始めたのが昨年1月23日。それから一年も経ったということに対する感慨を何か書こうと思っていたのだが、風邪にやられ、高熱が続くうちは本も読めず、日記を書くこともなかった。 今年の風邪はインフルエンザでなくとも高い熱が長く続き、薬無しでは38度より下には下がろうとしない。厚着して寝ていれば済むような、見慣れた表情は見せず、また「微熱の国」とはほど遠いところで浮かれた頭を持て余していた。何も読めない頭を妄想が占め、治った時には全て忘れていた。 発熱の原因に思い当たる本。薬を飲み、熱の引いた後もしばらくは読もうとも思えなんだ。かといって他の読みたい本とてどれも熱病くらい簡単に起こせそうな、迷惑な力を秘めたもののように見えた。茫漠とした頭の乗っかった中で読めたのは田村隆一の幾つかの、何度も読んだ詩だけ。見知った言葉以外、まだ知らない話に触れること──そのたいていはあまり明るく楽しい話ではない──は、病巣を肥大させる手助けにしかならない、物理的な厄介者の上にわざわざ背負う必要のない形にならない厄介事を内に溜め込ませ、苦しむことにしかならない、そんなことを、ただの風邪引きの身で後から思った。 追憶というやつだな、これを夜中に犬にして、寝床から降ろして部屋の外へ出してやる、と別の知人は入院中のことを話した。この人は一時重体に近いところまで行ったが、乗り切って二月ほどで放免され、三年は元気に暮らした。近年、高層の十階以上に飼われる犬は地上に放されるとたちまち道に迷うそうだが、俺の犬は長年飼われていながら野良犬も同然で、勝手知った顔で廊下を伝い非常階段を駈け降り、救急口あたりから表へ滑り出る。未明の車の間を、尻尾を巻きながらはしこく擦り抜け、長い切通しをくだって橋を渡り、もう古い町をうろついている。やはり子供の頃の方へ行きたがるようで。 熱を出したい為に読んでるようなもんだ。100ページほどのところで風邪に好かれ、古井由吉の文体でものを考える癖を残したまま寝伏していると、これはもっと重い病で、もう助からないかもしれないとロマンチックなことばかり考えてしまうが、病院と薬の力には軽い病人の感傷が入る隙間はなかった。それにしても、病人の話を読むたびに病人になってしまうような律儀なことはもうしたくない。 冷めた頭でやっとこさ続きを読み出してみると、何が書いてあるかがよく分からない。一文一文、数行ずつの話の展開は理解出来ても、全体として何を書いていたか、誰と誰が話しているのか、よく見えない。砂を読んでるように眼と頭から零れ落ちる、融けてなくなる。感じ入るところがここにもかしこにもあるように見え、またそうでもないようにも見える。こことここはいい。しかしこことの違いは何か。差はあるか。ないならここもここもいいということになる。だがこちらのこことその前のこことではやはり感じるものが違う。予め熱病を誘い込むような読み方をしないように膜でもかけたか、繋がりが見えず、話がくみ取れない。最初に寝込んだ晩、熱を計ることすらおぼつくなかった頃、40度近くはあったろう、その後も38~9度の間を実際の時間よりは多く感じる間彷徨った。その時に何か落としたか。しかし古井由吉の近作はそもそもこのようなものだった、と、本作のラストで次作「忿翁」に続くような、続けて出現する老人達を見て安心する。 目の前に実物さえなければ、この一冊自体が熱病に浮かされた頭の中で作り出した幻のようにも思えた。古井由吉「聖耳」(講談社)
2003/01/29
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だが、ぼくが言葉っていう時の言葉は、ぼくらが永年つき合わされてきたあのくたびれきった文字のことじゃあないよ。きみは相変わらず飽きもせずああいうものを読んでいるのかい? 失礼な言い方だが、きみがいまでも小説の泥(あのマンネリズムの肥溜め)をかき回しているのだとしたら、その生理的要求はやっぱりあれかい?「慰めてくれ、楽しませてくれ、悲しがらせてくれ、感動させてくれ、夢想にふけらせてくれ、笑わせてくれ、戦慄させてくれ、泣かせてくれ、考えさせてくれ」っていうあれかい? ところがぼくのほうでは、「いやだね、そんなことは」っていう心境になっているとしたら?「そんなことに一々つき合えるものかね、勝手に自分で慰みな、悲しみな、感動しな・・・・・・」って、「冷たいようだけど、あたしそうさせてもらうわ」っていう心境になっているのだとしたら? どうしてまたそんな心境に落ち込んだかろきみは言うかね? いや、本当は心境なんていうしゃらくさいものじゃないんだよ。こいつは絶体絶命の本能的拒絶なんだ。しかし、こんな話はもうよそう。小説に限らず、本の話はもううんざりだからね。それに人の楽しみに水をさすのはよくないしね。どっちみち読者というのは目がつぶれるまで読むだろうし、目がつぶれてもまだ人に読んでもらったりしているだろう。そうして死ぬまで「感動」したりしているだろうよ。『怪異の正体』より 既に読んでいた表題作を含む短篇五作。『怪異の正体』『まどろむ入江』以外は大体同じ時期、主人公が大学に入った後の浪人生たちとの友達付き合いの話。上記二編に比べると迫力が足りない。『冬の仲間』では主人公はトルストイ『少年時代』を読んで感動している。私はあまり気にせず通り過ぎた、「太陽が地平に沈んだ直後に稲妻が光り出す」場面の情景描写に感心している。『幼年時代』を飛び越して読んでいるが、この時期ならまだ青年時代とは言えず、阿部昭にとっての幼年時代なら他にいくらでも作品があるので、すんなり似合う。少年時代の終わり頃のこと、そしてまさに青年時代の幕開けとなる時が『家族の一員』『冬の仲間』『春の岸辺』で書かれている。『怪異の正体』に、主人公が入院している病院で真夜中に何かが爆ぜるような音が続けて聞こえる場面がある。看護婦に尋ねてもその音の出所は不明だといささかおどけた調子で教えられる。祖父の死の数日前に病院に泊まり込んだ朝、爆ぜるというのではないが、ベランダの鉄パイプ? を硬い棒で殴りつけるような音が少し間を置いて何十回も響くのを聴いた。病院だからそのような人も居るのだろうと勝手な納得をしかけたが、看護婦に音のことを聞くと暖房の音だという。夜間冷え切ったパイプか何かに暖かい空気が通るとそのような音を出すのだろうか。部屋の老人達は気にする様子など当然ない。耳が遠いからというより、ここでのこの時間はそういうものだと慣れてしまっているように見えた。古そうな建物だが巨大な病院ではあるのに、この音から逃げようとは、解決をしようとは思わないのだろうか──、と、その時は思わなかった。感想はいくらでも後付けがきく。よく知らない場所で起こることは少しくらい変でも「そういうものか」で片付けてしまう。 その時の音と、アメリカ同時多発テロ直後の映像を収めたテープを公開したテレビ番組で見た時に聞いた、炎から逃げ出してビルから飛び降りる人達が落下して来た音とが今重なった。あのような音を日常として耳に馴染ませている病院の人達を恐ろしく思えた。それほど長い間喧しさに苦しめられた覚えはないから、せいぜい30分くらいだったと思う。 小説の一場面から想起されるのがいちいち祖父の死の周辺なのがつまり経験の少なさなのだろう。一番破壊力のある短篇である『まどろむ入江』の感想は2002/12/16(月) 千年/阿部昭に少し書いた。講談社文芸文庫版「千年・あの夏」を借りたところ、「千年」収録作以外には僅か短篇二つ。「無縁の生活」の系。まだ読んでいない阿部昭の作品がどんどん減っていく。書かれるために割かれた厖大な時間には関係なく。阿部昭「まどろむ入江」(講談社 在庫切れ)「千年・あの夏」(講談社文芸文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/01/18
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暗い話だというのは知っていた。以前読んだ時残り100ページほどしか残っていないにもかかわらず読むのを止めたから。それが今回はすんなり読み直せた、一気に読めた。そろそろこれを読もうと思っていたから、その下準備として読みやすい童話集を選んで読んでいたということか。夢まで用意して。 主人公ダダが鬱治療の為に服用していた薬に中毒になり、壊れてしまう。帯の言葉を写せば「『壊れかけた器』となって苦悩の淵をさまよう魂の畏れと祈り」。言ってしまえば、ネット上にうんざりするほど溢れている鬱病日記にも似ている。ただし、苦しむ現実、夢、今書いている短篇小説、昔の旅行の思い出、ダダ以外の家族達の話、カソリック信者であることのあれこれ。作家の筆致がそれらを写すと、読むのに苦しい部分はあるが、やはり有象無象の文章とは一線を画す。ただし、現在鬱と付き合っている人は読まない方がいい。この手の文章は、気分が伝染る。私はそういう気分は寝たら忘れる。 夜中に爪を切るには迷信が邪魔になる日本では・・・・・・と、多和田葉子「容疑者の夜行列車」で主人公はその爪切りのおかげで人称を奪われて自分のことを「あなた」としか書けなくなっていた。そのことは関係なく、読み終えると夜中になっていたので、迷信は忘れた振りをして爪を切った。読んでる最中に伸びているのに気付いていたが結局夜中になるまで持ち越した。爪を切ることは意外と行動を縛られてしまうもので、目は切られる爪、切る爪切りを注意深く見ていなければいけないし、自由になる耳もあまり音楽を聴きたがってはいなかった。作中に出てくる音楽は主にクラシックだったが、それ以外のものを聴いても、陰々滅々とした気になるのではないかと思えたから。しかし物語終局部では、よくある言い方をすれば「聖性を纏い」救いの道が拓けていたので、あまり暗くなることもなかったのだが。宗教というやつはどうも・・・。度々引用される聖書の言葉も私には響かなかった。いつでも聖書の気に入った部分を暗唱出来るということは、それだけ言葉に縛られているということ。薬に浸かった頭では、言葉というやつは、いっそう自分の内に沈み込む重力を増大させるものでしかない。作家という職業について毎日言葉と向きあって、聖書に書かれた言葉に導かれて、自分の行動をひたすら記したりしたら・・・それは狂っても仕方がない。あくまで小説の中のダダの話。 そうして爪を切っていると、切ってるそばから爪に伸び出されたら困るな、という考えが浮かんだ。ブーメランを投げたことを忘れて、自分の頭に大怪我を負った男の話のように、とっくに切り終えたはずの爪がまた伸び出したことに気付かず、何度も手の指に爪切りを走らせ続ける人を想った。爪が伸びるのをやめてようやく切り揃えられた爪にヤスリをかけている時、ふと時計が大袈裟な時間の経過を示しているのに気付く男のこと。訝りと共に己の空腹に気付くが失われた時間のことを信じようとはせず、爪を切っている最中に寝てしまったんだろうと常識的な頭で結論付けて安心する男。 ダダは、居間にいた。そのころの家は明り採りの窓が屋根にあり、台所のあたりは明るかった。台所は居間と廊下でへだてられ、土間になっていて、素足では降りられない。外光が落ちて、明るくなっているが、曇りの日だった。何やら不安で、さみしい気持でいると、眼にもとまらぬ早さで台所を飛び去ったものがある。白猫のようだが、違う。イタチでもない。ダダは息をのんで、じっとしていた。幻を見たのかどうか、その事実を心配している。大きな驚きに打たれた。こういったとき、子供にときどき見受けられることだが、ダダはおびえながら眠ってしまった。眼を醒ますと母が戻っていた。ダダは自分が見た生き物の話を、出来るだけ落ち着いてした。話をしてみると、それはたちまち夢になってしまった。逆にダダの心のうちでは、幻覚かと怪しんでみたものが現実となった。それが恐ろしかった。多分、ダダの感覚の輪郭は今よりはっきりしていたのだろう。最近、記銘力、記憶力が甚だしくおとろえている事実を知らされるにつけ、このことを切実に思いかえす。「c 湿地の葦」より 爪切りが終わらない人の話は私の妄想、爪切りを売って人称を無くしたのは多和田葉子の話、記憶を落として薬に苦しんでいるのは主人公ダダ。眠い頭とはいえ区別はつく。 ダダは夢の中で自分の書きかけの短篇小説の登場人物の後を追いかけ「変な臭いが付いてきている」と迷惑がられる。短篇小説の断片の部分は他の個所とあまりに違うので明記されていなくても分かる。ところが最後近くになると昔のイギリス旅行の思い出と夢が混じり、固有名詞の頻発に混乱してしまう。区別することなど不要かもしれない。 私は六年間、薬を嚥んできて、まだすっかりやめられないでいる。この歳月の間の多くのことを忘れているのは、わたしという人間がそれだけ死んでいるのだ。わたしはいま、既に歳老いてしまっているのだろうか。あるいは今朝、このの、たとえようもなく悲しく美しい曲を聴いているときは、わたしにとって最も若い日であり、誕生日であり、出発点なのだろうか。わたしは歯ぎしりをしながら考えている。考えているそこのところだけが明るい。そのまわりを記憶の欠落の暗黒が取り巻いている。 ソプラノのグンドゥラ・ヤノヴィッツが歌い出した。その声がわたしに教える。もうほかに何もない、などと考えるな。絶望することが出来るって? 素晴しいではないか。「n 間氷期」より ダダの一番酷く醜い姿は、息子の報告として書かれる。部屋にウンコを垂れ流し、ベランダから「オシッコスルゾ」とダダは叫ぶ。作者とダダを重ねて見ていると心配になるが、近作「真名仮名の記」「11月の少女」は共に明るく、薬の陰はない。ちなみに福武文庫版の色川武大「狂人日記」の解説で森内俊雄は「氷河が来るまでに」は実際の経験を小説にしたものと書いている。これもたまたま見つけたもの。現実と重ねるといっそう暗くなるのであまり書き写しはしないが、「(小説にすることでしか)ほかにこの世界から己れを救い出す方法が無かったからである」とある。今は救われているのだ。何もあてにするものがなくなった以上、何でもあてにしなくてはならない。「r 帰郷・1」より森内俊雄「氷河が来るまでに」(河出書房 この本は現在お取り扱いできません)
2003/01/15
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今では使われなく(使いにくく)なった言葉も普通に使われているから、改訂版と収録作品が同じかどうか知らないが、ちと古い版。表紙が地味な頃の新潮文庫。 読んだのが土曜。夢を見たのが金曜。金曜の夜に夢を見た。寒い場所にある駅のホームの待合室に入るとゾウが四匹居た。普通のゾウの体格で、そのままだと待合室が壊れるので天井が上に伸びていたり、服を着て人間らしい恰好をして坐っていたりする姿が目の具合で両方ちらちらと見えた。敵意はないらしいが牙は危ないし大きいというだけで怖いので、暴れられるときっと助からないと覚悟した。ゾウたちは自分がゾウであることを隠したがっているのだが、ばればれである。電車が一本来たがそれは私の乗る電車ではなく、ゾウたちも動かなかった。やがて外に雪が降り出したかと思うと地面を叩く音が強く響き出した。おかしいと思い外に出ると雹。よく見ると真珠であり、そこら中が真珠で埋まっていた。手に取ると黒くなったが、まだ黒真珠として通用すると思えた。ゾウたちはそんなものの何が珍しいのかと知らぬ振り。 この夢は童話っぽいなと思ったのが日曜。夢を見たことを土曜日、この本を手に取る時は覚えていなかった。読みながら夢のことを思ったかどうかは覚えていない。童話のような夢を見た→童話集を読んだ→そういえばあの夢は童話みたいだったな、と思い出した のそれぞれはあまり関係がないと思っていたが、日記を書き始めると繋がった。読む本が夢に左右されるのならば、もっとホラー系を読んでいたはずだ。 そんなことに関係なく童話に浸る。読み慣れていないので一話一話の短さにやや物足りなくなることはあるものの、一編一編が作り出している世界観と物語にとても満足した。ただやっぱり・・・・・「子供の時にこれを読んでいたら」という考えばかりがちらつく。「夢を見るように本を読む」というような読書。小川未明「小川未明童話集」(新潮文庫)
2003/01/13
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選んだつもりもないのに、また父と息子の話。養父・養母・姉・姉婿・兄・実父の順に不等号が付く、それらにまつわる主に金のごたごた話。不等号の向きは養父>>>実父。今気付いたが血縁が濃くなるほど割かれる量が少ない。それと主人公が真剣になればなるほど馬鹿馬鹿しく見える妻との確執のこと。 昔、親戚一同の集まった正月でのこと。それぞれ坐る場所に特に決まり事があったわけではないので、その時はたまたま伯母夫婦に挟まれた。小学校上がる前かいくらか上かの頃。子供のいない伯母夫婦の間に居る私を見て誰かが冗談に「養子に入ったみたい」と言った。私は確かその言葉の意味を分かっていたはずだ。今の両親から離され、生み出された覚えのない二人の元で暮し、育つこと。その冗談に乗ってそうなった時のことを空想したことはあった。真剣に打診されたとしても養子に出されることはなかっただろうが。子供の頃の私の写真はとても可愛い。自分が子供のない夫婦だったら・・・しかしどうしてあまり可愛くなくなったのだろう。 というわけで主人公が養子に出されていた頃、今は金を無心に来るだけの人になった養父母に可愛がられていた頃の話は可愛らしい。その子が大人になった後の、それ相応の理由はあるとはいえ、元・養父母への態度は冷たく見える。 お常は昔から肥り肉の女であつた。今見るお常も依然として肥つていた。何方かといふと、昔よりも今の方が却て肥つてゐはしまいかと疑はれる位であつた。それにも拘らず、彼女は全く変化してゐた。何処から見ても田舎育ちのお婆さんであつた。多少誇張して云へば、籠に入れた麦焦しを背中へ背負つて近在から出て来るお婆さんであつた。 子供に初めて嫌悪感という感情を植え付けた元・養母の姿さえ、年寄りになってしまえば、離れて暮す長い年月を経てしまえば、ごく普通の善良な老人に見えてしまう。中身はともかく、見た目というものも割と変わりやすいものだ。 黒木和雄監督版「浪人街」での原田芳雄演じる浪人は、背が高く見えた。共演の石橋蓮司 、勝新太郎、田中邦衛と比べてもそう見えた。無頼を気取り女を食い物にしクズ扱いされながらも、格好良かった。昵懇の女が侍達に捕まり、助け出してくれと女の店の使用人にせがまれるが「他人の為に命は張らない」と断る原田芳雄。「分かった、金だ。安売りしねえあんたの命俺が買う」「いくら出す」(原田)「十両」「十五両」(原田)「買った」「売った」(原田 即答) 十両でも十五両でも死んでしまえば同じなのに。即答で命を売る原田芳雄。この時はとても格好良い。 だが、同じ黒木和雄監督「スリ」では年老いて腕の落ちたスリを演じるのが実に似合ってしまっている程、年老いた姿を見せていた。ここでも出てくる石橋蓮司の頭には髪が少ない。「KT」だと佐藤浩一と向かい合うシーンが多いので余計に背が低く見えた。「ツィゴイネルワイゼン」の原田芳雄と「浪人街」の原田芳雄は似ているが、「スリ」「KT」の原田芳雄とは似ていない。だがどちらの原田芳雄も私は好きである。「道草」の主人公健三は義母の、今では人の良いお婆さんにしか見えない変わり様を見ても、感じる嫌悪感は変わらない。そんなもんだ。 ちなみに伯母に言わせると昔の伯父は市川雷蔵似だったそうだ。確かに昔の写真はそういえなくないこともなかった。今は岸辺一徳だった。「道草」の終わりの正月の場面。今年のうちと同じように正月らしいことはせず過ぎる。「世の中に片付くなんてものは殆どありやしない。一編起つた事は何時迄も続くのさ。たヾ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなる丈の事さ」
2003/01/12
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そういえば書き忘れていた。干狩あがた「プラネタリウム」で十一歳の少年が「メチル・メタフィジーク」を読んでいる場面がある。吾妻ひでおの漫画の題名を小説の中で見たのは初めてだった。 「詩集」──散文の本になら見事な標題だ ルナール「幼年詩編」扉より。 父親、父親、父親。主に兄のことを書いた「鵠沼西海岸」を除けば、作者の父親のこと、父親の死の間際、死んだ後、父親の昔の思い出、等々、ばかりが書いてある。父を祖父に置き換えれば、つい先月見たばかりの(もう一ト月経った!)情景が重なり、よく、見える。 いわゆる「父親小説」と呼ばれる牧野信一が書いた一連の父親についての小説も思い出すが、それより似ているのは色川武大の父との類似。あるいはほとんどの父親は、何もしていない時の様子は似ているのか。自分の父親の姿を思い浮かべると、あまり喜ばしくないことだが、この種のタイプである。 僕は車を道路の脇に停めて降り、何か他の用事でそこに立っているようなふりをして二人が近づくのを待った。だがその僅か数分の時間が僕には耐えがたいほど長いものに感じられた。あきらかに僕は動転していた。半ば顔を伏せるようにしておやじを待ち構えながら、こいつはいけない、と思いはじめていた。おれが悪かった、女房の言う通りだ、と思った。・・・・・・しばらく見ないうちにおそろしいほど痩せこけて杖にすがって歩いて来るおやじの白い顔は、この世の風の中を歩いてくる亡者のようだった。そんなにまでして歩いている、というより、おやじがもうそんなふうにしか歩けなくなっているとは知らなかった。「司令の休暇」より 私だってそのうち死ぬが、多分父親の方が先に死ぬ。ありふれたものか、劇的なものかは分からない。ただその時に、たとえばこの本のように──一冊分、他の作品を入れればもっともっとある──美しいこともそうでないことも思い出が多くあるだろうか、父親についてあるだろうか。阿部昭と同じような目で父親について思い出せるか、そのことを記せるか。いろいろなことがあったような気も、そうでもなかったような気もする。だが間違いなく、私にとっての私の父は、阿部昭にとっての阿部昭の父ほどの存在感は持っていない。そのことは寂しいのだろうか。阿部昭が羨ましいのだろうか。祖父のように日記を残してでもいない限り、父が何を考えていたか、子供はよく分からないままに、肉は焼けカサカサした骨だけが残り、後には都合良く取捨選択された思い出だけが時折姿を見せるのだろうか。父の生きている間はそれらの疑問は全て答えが出ないし、死んでからでは遅い。母親でも、兄でも、友人でも恋人でも変わりはしない。そして出来ればその答えを知る時は先延ばしになり続けてくれる方がいい。 「司令の休暇」を父に読ませたくなったが、きっと実行しない。いろいろと世の中はややこしい。 そういえば「単純な生活」連載中に阿部昭の母親は亡くなっている。そういえば、という風に思い出したように、母の死は父のそれに比べると随分そっけなく、あっさりと書かれている。81歳の大往生では特別書き記すような出来事も少なかったのかもしれない。 いまでも情ないのは、僕が父を殴ってやろうとして遂に殴れないで終ったことだ。喧嘩の原因が何であったかはもう忘れた。茶の間のふだんの居場所に坐っている父に向かって、僕は、「何を、この野郎!」というような罵声を浴びせかけた。そして、相手が立って向かって来たら、殴り倒してやろうと身構えた。僕のほうはもう大学生だったし、父は六十を過ぎて足腰も弱っていた。息子の腕力の前には一とたまりもなかったろう。だがこの時の父はいささか知能的に振舞った。息子と対決するつもりでか、体をかわそうとしてか、咄嗟に言った──「貴様は俺を殴ろうとしているな・・・・・・?」 僕は二の句が継げずに、父を睨み返した。父はつづけて横にいる母をかえり見て、なんとかこの馬を収拾してくれというように力なくつぶやいた。「こいつは俺を殴ろうというつもりだ。見ろ、あんなふうに拳を固めておる・・・・・。」「およしなさい、親に対して何です!」 母は勿論それぐらいのことは言った。 決闘の前に、当の相手にそんなふうに描写されては、やる気を失くすというものだ。 喧嘩と描写。本好き親子の喧嘩らしくて実にいい。阿部昭「大いなる日 司令の休暇」(講談社文芸文庫 この本は現在お取り扱いできません)
2003/01/08
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このシリーズ二冊だけ読みのがしていた。・安岡章太郎「愛玩」・久生十蘭「母子像」・幸田文「雛」・中村真一郎「天使の生活」・庄野潤三「蟹」・森内俊雄「門を出て」・尾辻克彦「シンメトリック」・黒井千次「隠れ鬼」・津島祐子「黙市」・干刈あがた「プラネタリウム」・増田みず子「一人家族」・伊井直行「ぼくの首くくりのおじさん 森内俊雄のみ既読。津島、干狩、増田の女性三並びは読んでいる最中は感心したものだが、よく考えると、なんだか当たり前のことを言いたいような気がする。だから悪いというわけではないが、感動はない。 黒井千次「隠れ鬼」が面白い。冒頭「夜の食事が終わると妻は家出した」。妻は電車に乗る。駅に停まるごとに、見知った顔と出会い、さながらクラス会のように人はどんどん膨れ上がり──、その後家に残された夫と電話で尻取りをする。尻取りである。「骸骨」「杖」「絵巻物」「鑿」「ミルク」と続く尻取りである。選ばれる言葉に深い意味があるわけでもない。晩飯を食べた。妻の気配がない。夫と息子が二階を探す。「あの電車に乗ったかもしれないね」と息子。はたして乗っている妻。次々と続く邂逅。尻取り電話。ただそれだけの話なのに、書き出してみるとこんな話が小説として本当に成立するのかどうか疑問なのに、やはり面白いと感じたことは動かない。 だけど一番印象に残っているのは、庄野潤三「蟹」の中の一場面。「お兄ちゃん、何取ってるの?」 ルノワールの部屋から浴衣を着た女の子が二人、顔を出している。声をかけたのは上の女の子だ。「カニ」 男の子は返事だけしておいて、石垣の前をそろりそろりと歩いている。「見せて」 男の子は空き間罐を持って行き、窓のところにいる女の子に差し出した。「いやだ、あたし」 女の子はろくに見もしないで、手で押しのけるようにする。 男の子は「何だ」という顔をしてもとの場所へ戻った。小さい弟もそのあとから戻って来る。 しばらくすると、「お兄ちゃん」 女の子が呼ぶ。「何取ってるの?」「カニ」 男の子は振り向かないで返事する。「見せて」 男の子は空き罐を持って行く。「いやだ」 そばまで来ると、また押しのけるようにする。 男の子は「何だ」という顔をしてもとの場所へ戻る。呼ばれると行かないわけにはいかないから行く。そうすると、「いやだ」と云う。まるでこちらが悪いことをしているみたいに云う。何が何だか分りゃしない。そういう顔をして戻って来る。 しばらくすると、また、「お兄ちゃん、見せて」 セザンヌの部屋の父親は「女め」と思う。だが、彼は自分の息子に「放っておけ」と云うことは出来ない。 別に間違って同じ行を何度も書き写したわけではない。「戦後短篇小説再発見〈4〉漂流する家族」(講談社文芸文庫)
2003/01/06
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