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2010年10月26日
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カテゴリ: 邦画(09~)
「13人の刺客」
この映画を見てから4週間たった。どのように書けばいいのか、悩んでいるうちに日にちが経ってしまった。

当初は、この映画で二回行われる切腹の場面が共に「罰を受ける」タイプの切腹ではなく、「自ら死んで何かを生かす」タイプの切腹であり、「葉隠」の精神を体現していることに注目し、保守派日本思想史の大家、相良了の本を紐解こうと思っていたのであるが、時間がなくなった。これを含めて「武士道」とは何か、を真剣に考えた脚本であり、元映画が非常に気になった。そこで、工藤栄一監督の「13人の刺客」(1963)を見てみた。以下三池崇史版(以下「新作」と表記)と工藤栄一版(以下「旧作」と表記)を比べることで、私の感想としたい。
01十三人の刺客.jpg
監督 : 三池崇史
出演 : 役所広司 、 山田孝之 、 伊勢谷友介 、 沢村一樹 、 古田新太 、 高岡蒼甫 、 六角精児 、 波岡一喜 、 近藤公園 、 石垣佑磨 、 窪田正孝 、 伊原剛志 、 松方弘樹 、 松本幸四郎 、 稲垣吾郎 、 市村正親

大きく変わったのは、明石藩主松平斉韶の人物像である。「旧作」には、「新作」の女の手足を切り慰み者にした上に捨てるという設定は無い。切腹した家老の家族を弓で射るという場面は無い。一方、新左衛門たちに追い詰められたときには「旧作」は「将軍の弟に歯向かうか」と逃げ惑うだけであり、単なる暴君・愚君以上の何者でもない。「新作」の斉韶は自分なりの信条でより残忍になっているのである。つまり「旧作」は明石藩家老鬼頭半兵衛と島田新左衛門との対決の映画であったのであるが、「新作」では明らかに斉韶という新たな「意志」が付け加わっているのである。「新作」で付け加わったのは、斉韶だけでない。あと二人いる。

「旧作」でも13人目の小弥太が参加したのは落合宿であったが、彼(山城新伍)は宿の郷士であってそれ以上の何者でもない。「七人の侍」へのオマージュだったのかもしれない。しかも彼は生き残らない。あっさりと殺されるのである。「新作」では「山の民」として大きな役割を持って登場する。しかも、刀を使わず石投げが武器、侍嫌いという全くの野生児であり、完全に「武士」とはちがう立場として参加するのだ。しかも、彼はなぜか生き残っている。(「旧作」では生き残るのは組頭の左平太)思うに「新作」の小弥太は監督の分身であり、生きる死ぬを体験しない現代の我々の分身として、同じ「視線」を持つものとして登場させたのであろう。「旧作」にはそれが無い。それには理由があるが後で述べる。

もう一人性格が変わったのは、新左衛門の甥の新六郎である。「新作」にはない「旧作」の場面でこういうのがある。たまたま新六郎の処にやってきていた新左衛門に彼はこのように遠まわしに刺客に参加しない理由を言う。「今は侍より趣味のほうが面白くなってね」と三味線を弾くのである。すると新左衛門は「俺もお前くらいの年頃だった。侍の家が嫌いでな、放蕩三昧をしてこれ(三味線)で身を立てようとして習ったが、さて、やってみてなかなかどうして難しい。それよりは侍で死ぬが楽だと悟ったわ。ハハハハハ。」と言いながら見事な三味線の技を見せるのである。新左衛門が帰った後、趣味の道に限界を感じたのか新六郎は「一度思いっきり真剣になってみたくなった」といって刺客に参加するのである。これは当時の洋楽に入れ込む若者へのカウンターパンチだったのだろう。新六郎にとって三味線は単なる大人になる前の通過儀礼でしかないという描き方である。「新作」は違う。彼は、博打にものめりこめない、三味線にも女にものめりこめない、侍の社会自身に「?」をもつ人間として登場させている。彼が刺客に参加するのは、自ら参加して「侍とは何か、侍として死ぬこととは何か」の答を見つけ出すためであった。「旧作」では落合宿の準備をするのは新六郎の役目であり、もうすっかり刺客の自覚が出来ている。「新作」のほうでは沢村一樹演ずる半次郎に担わせ、役割分担している。新六郎の役割はほかにあるからである。彼は最後の最後まで悩んでいるのである。

「旧作」は半兵衛と新左衛門の対決だった。それはつまり「武士道とは何か」「忠とはなにか」をめぐる対決であった。たとえ、君が愚君であっても、忠義を尽くすのが「道」であると教える儒教もあったと思う。(確かめていないのだが朱子学だったかも)一方で、君が間違っていたときには死を賭して諫めるべきである、という学問もあった。(荻生徂徠だったかな?)江戸時代、確かにその二つの潮流があり、その二つの対決を見事にエンタメとして描いたのが「旧作」であった。当時は戦後10数年しか経っておらず、戦争で死んでいった人々の記憶はまだまだ新しかった。だから、いかに死ぬか、というはそれだけで理屈はいらないすんなりと受け入れられるテーマだった。どちらの「忠」がよかったのか、ということは切実なテーマだった。「旧作」では半兵衛と新左衛門は同時に死んで、観客に答を委ねることが出来た。

「新作」では、現代では、なぜ死ぬのか、というところから始めなくてはならない。ゲーム世代は「死ぬ」という実感が沸かない。テーマは「死ぬとは何か」ということだ。だからこの映画で「忠」のテーマは後景に追いやられた。しかし一定描かないと説得力が無いから、上映時間も長くなった。脚本的にはうまく作ったと思う。斉韶の姿は「自らの欲望のまま生死をもてあそぶ姿である」死の実感の無いまま、死ぬ間際になって死の恐怖を知る現代人の姿を良く描いている。小平太は斉韶のように自分勝手ではないが、死ぬ実感をもてないまま覚めた目でこの戦いを見ている我々の「視線」そのものだ。だから彼は一度死んでもゲームのように生き残っている。その対極にある人物は新六郎である。同じく現代人の「視線」を持っているが、新左衛門の立場で「死ぬ間際」まで体験する。彼はおそらく「生きる」ために「死ぬ」のだということを感じたのかもしれない。しかし、「何のために生きるのか、死ぬのか」ということまでは感じることが出来たとは思えない。その表現が最後の死屍累々たる戦場を歩く場面なのだろう。「新作」では「大義のために死ぬのだ」という言葉が何度も何度も出てくる。しかし、最後の新六郎の視線でそれをすべて相対化していると私には思えた。「新作」が新六郎の「視線」で終わるのは、監督の現代感覚なのだ。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言い切ったのは「葉隠」であるが、その良質のエッセンスを感覚的にエンタメとして見せようとしたこの映画はよくできた作品だと思う。しかし「何のために死ぬのか、あるいは生きるのか」という肝心なところはこの映画からは拾うことは出来ない。それは情報が氾濫して、返って大切なことが見えない現代、独り映画の責任ではないのかもしれないが。





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最終更新日  2010年10月26日 23時45分35秒
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