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これは四月に発行される職場の機関誌に投稿する予定の文章ですが、書いたとたんに先に此処で発表します。内容的には、去年書いた韓国旅レポートの書き直しなのですが、今やはり「早く」発表するべきだと思ったからです。それは、徴用工問題から始まって、レーダー照射問題にわたる、「異常ともいえる」韓国パッシングの「報道」が現在日本に吹き荒れているからです。しかし、少なくとも徴用工問題に関しては、私は私はいつもの通りの韓国の常識を訴えただけで、反日感情は少しはあるかもしれないが、それよりも第一義は「白黒をはっきりさせる」韓国の人たちの(国際的にも合致する)「常識」にあると思うのです。光州・ソウルを旅して昨年11月に私費で、韓国の光州・ソウルを旅して来ました。映画「タクシー運転手 約束は海を越えて」と「1987、ある闘いの真実」を観たことがきっかけです。そこで、嫌韓報道で染まっている日本では決して知ることの出来ない貴重な歴史的教訓を多く学ぶことができました。光州では、先ず郊外にある全南大学の教育会館棟の壁一面に描かれている「光州民主抗争図」を観ました。この壁画に、1980年日本では「光州事件」と言われている出来事の内容の集約があります。真ん中で若者が銃を取っています。全斗煥大統領が軍隊で光州民主運動を武器で虐殺を始めた自衛の措置です。おばちゃんが炊き出しをしています。市民が物品カンパをしています。光州では、フランスマクロン反対デモのような店の商品の盗みなどは一切起きませんでした。「暴動事件」ではないのです。「民主運動」を軍隊で潰したのです。殺されたのは500人とも700人とも言われ、負傷したのは5千人に及びます。10数年の時を経て、それらの「真相を解明」し、2人の大統領含めて「責任を追及して処罰し」、犠牲者の「名誉回復」「補償」を行い、国立墓地や各地に記念碑や記念館を建てて「顕彰」する。それら全ての行為を、ユネスコは2011年に世界記録遺産として認定しました。私たちは、このことを知っていたでしょうか?私はこの旅で、はたと気がつきました。光州のこの教訓が、この間の韓国の行動を見事に解き明かしている、と。ひとつは、ソウル・南営洞の朴鐘哲記念資料館に答があります。映画「1987ー」にも描かれていますが、ソウル大学生の朴鐘哲が民主運動で拷問死したことをキッカケにして、1987年、韓国民は大統領選挙を勝ち取ります。写真の建物の五階が拷問室が並んでいる所です。心理的な圧迫を与えるために、わざと窓を小さくしています。その他色々な拷問のための工夫がありました。現在この資料館は、警察庁人権センターの一室に設置されています。「権力は間違うことがある。だから、市民は時に正さなくてはならない」と「人権の歴史」が13世紀英国のマグナカルタに始まることによせて、人権資料室の展示に書いていました。これが、韓国民が多くの犠牲を伴って得た歴史的教訓でした。それが、2017年の朴政権の平和理の退陣に繋がったと、私は確信しています。また、「真相解明」「責任追及」「名誉回復」「補償」「顕彰」は、日本に対する従軍慰安婦問題と徴用工問題でも貫かれてはいないでしょうか?決して反日感情が基本にあるのではない、と私は思います。また、日本の態度は、光州や南営洞を思うと、全然その基準には達していない、と私は思うのです。
2019年02月09日
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11月29日(木)晴れ 最終日朝は4時に起きた。やはり、人は寝坊をしてはいけないと一週間ぐらい思い続ければ、いくら疲れて毎日朝の7時ごろまでぐっすり寝るのが習慣になっていたとしても、目覚ましなくても起きれるものなのだ。朝の5時ごろREX Motelを出て、駅に向かう。まだ真っ暗だ。朝の5時25分の始発電車に乗る。これを逃すとタクシーだ。カードの残はもう1500しかない。次に来た時は、乗る前にチャージしなくてはならない。覚えておけるかな。地下鉄電車の終点第二ターミナル駅で降りる。車内でも注意喚起がされていたが、第一と第二と分かれていて、間違えるとたいへんなことになりそうだけど、「歩き方」にも一切書いてないし、ソウル市内で配っていた地下鉄図にも載っていない。つまり、ごく最近出来たようだ。第一で半分くらい降りて行ったのでちょっと不安になる。チェックカウンターが開く前にセルフでチェックが出来た。便利だけど、随分早く中に入れた。搭乗まで1時間半ある。ところが、あまりにも早くきたので、ほとんどの店が開いていない。大きな誤算であり、少し開いていた免税店で、お土産のお菓子を無駄買いしてしまった。前回の台湾で、最後買い物をしていて、出発時間10分前にアテンダントさんが探しに来て、大きく迷惑をかけたので、焦ってしまった。こういう焦りを利用して高い買い物をさせるのが免税店の役割である。あゝ恥ずかしく頭にくる。空港内は、新しいためか、豪華だ。美術演出の椅子、キッズコーナー、授乳用の部屋、おしゃれなお手洗い。「人権」を大切にする韓国らしい空港である。初めて、シートは最前列に座れた(早く空港についてセルフチェックインしたおかげである)。ここはいい。前に席がないので、ものすごく広く感じる。隣の韓国のいい大人の男性がネットでマンガを見ていた。(日本も直ぐにこうなるはずだ。ネットでは韓国の方が少し早い。)こういう時代なのだ。朝の内なので、飛び立つときの韓国の風景がよく見えた。機内食。今回はコーヒーをお替りした。日本だ。久しぶりによく見える日本の景色。これが高梁川。7月西日本豪雨で、町そのものが洪水に遭った真備町はこの写真の上の橋を渡ってすぐの平野である。この川の支流の小田川がこの本流の高梁川に阻まれて水が逆流したのも、今回の大きな被害の一因だった。もちろん、川に生えている木々の伐採を怠ったことや、そもそも洪水が予想されていたのに、治水計画が遅れたことなども大きな原因である。この川の隣の総社市に比べて、市町村合併で担当自治体になっている倉敷市は対応がお粗末だと、住民の不満はくすぶっている。古代吉備の国の中心があった、吉備平野。岡山空港についた。エコノミーの一番前に座っていたおかげで、一番早く税関を通ることができた。税関はわりとよくいろいろ聞く。単身旅行で、なおかつ何度もアジアを旅行しているのはパスポート見ればわかるので、「警戒」しているのだ。慣れているので、淡々と答えた。でも手荷物だけなので、早いのである。おそらく飛行機のタラップを過ぎて、空港の玄関を出るまでに、5分以上10分以内だったはずだ。これまでの最速記録。地方空港はこういうのが速くてとても快適である。無料の駐車場にたどり着いて、その15分後には車中の人になっていた。久しぶりの韓国旅行だった。行けば何とかなると思っていたけど、ホントに何とかなったし、予想以上の収穫があったと思う。日本人は、謙虚に韓国に学ばなくてはならないといけないと思う。お土産56630 朝食7500歩数 6923歩
2018年12月24日
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世宗路十字路からイ・スンシン将軍像と景福宮、青瓦台へ結ぶ一直線道路を眺める。これは1926年に建てられた元東亜日報社屋。此処での新聞の発行は1992年まで続けられたらしい。現在は、一民美術館となっている。ちょっと覗いたけど、現代美術のようでした。パス。今回、是非来て見たかった新市庁にやって来ました。この地下に何やらあるそうなのです。現在の朴市長は、参与連帯を立ち上げた中心メンバーの1人です。ロウソクデモ市民革命も、朴市長の影響があったと言っても過言ではないでしょう。その肝いりで作られたのが、この開かれた市庁です。地下には「市民庁」ではなく「市民聴」となっている。聴の字の下が耳の穴に。そうしてそれを耳の形でデザインしている。市民発言台。「言いたいことがあります」とスピーカーから突然話すことが可能だ。休憩広場。市民が思い思いに本などを読んでいる。コンサート、市場、結婚式、討論会、講座、ワークショップなど多様なプログラムを市民が企画運営できるらしい。面白いのは「落書きコーナー」があるのだ。私も書いて見た。オバケのQ太郎。他の落書きも見ることができる。平和な時にはたわいのないものが書かれるだろうが、何かを感じ取ったら、これは市民にとって「毒を感じてくれるカナリア」になるだろう。市庁発行の本屋もあった。左のソウル市内散歩ガイドブックを買った。オールカラー177ページで2000wである。ベストセラーになるはずだ。奥に「軍器寺遺跡跡展示室」があった。新市庁建設工事途中で発掘調査された遺物が保存展示されている。軍器寺は、朝鮮時代に武器を製造していた官庁である。1392年に設置されて、1884年に廃止された。建物跡と石積み堤防などを復元。仏狼機子砲、勝字銃筒などが展示されている。多様な矢じりがくっつき絡まり合いながら、出土した。図録は置いていなかったが、コーナーごとの説明には、英語中国語と共に日本語の説明も付いていた。面白い取り組みをしていた。2人の職員が、訪問者に次々とシールを四つほど渡して、(おそらく)この間の市庁の取り組みに対して人気投票をしていたのである。この取り組みは、インターネット投票よりも遥かにいい。市民は無記名ながらもいい加減な投票はできないので、ともかく文書を読むのである。この部分ではおそらくレンタサイクルの拡大のことだろう、が一番人気をとっている。このボードでは、おそらく「訪問住民センター拡大」という取り組みに対して圧倒的に人気があるようだ。詳しいことは韓国語がわからないのでよくわからない。もしかしたら、出張住民センターをやっているのか?1番右の取り組みが、一番人気なのだが、よくわからない。闇市?どちらにせよ、この「開かれた市庁」すごいと思う。地下で見つけた「ソウル市庁舎セルフツアーガイド」によると、8階9階も面白い展望台とかあるそうなのだが、工事中らしくて登れなかった。市庁の壁は、世界最大規模の垂直庭園らしい。植物が壁を覆っている。様々な運動を演出した市庁前の広場は、工事中だった。木などを植えたら、人が集まるスペースがなくなると思う。これでいいのか?完成を観て判断したい。元庁舎は市立図書館になっていた。階段などは、1926年の建築そのまま。5階には、いろんな遺物の展示があったらしいのだが、みそこなった。さて、5時を過ぎて暗くなった。ソウル駅に移動、そのまま仁川国際空港二つ手前の雲西駅に降り立つ。明日の朝が8時飛び立ちのために、2時間前に空港に着くために、トランジットのための宿泊地として此処を選んだのである。駅前には多くのホテル・モーテルがある。駅から近場を選ぶ。あまり安いのを選んで時間を取られないことにした。現金ならば5万wというので、此処にした。光州の6万wよりも綺麗だ。ここでいい。最後の夕食。トリにしたかったのだが、入ろうとすると1人はダメと言われて、もう探すのを疲れて適当なテジクッパにした。写真ではわからないが、久しぶりに「不味い」と思った。 何が違うのか?水が違うとしか思えない。干拓地で、水が綺麗に濾過されていないのでは無いか?このままでは終われない。焼酎を半分残して、チキンハンバーガー屋で揚げチキンを買う。ホテルに帰ってこれをたべながら、日記をつけて、この今日を終えてゆく。今日の費用ロッカー2000チャージ5000 朝食3200 李韓烈3000 タクシー3800 参与連帯コーヒー6500 従軍慰安婦カンパ10000 焼き魚定食8000 ビッグイシュー10000 本2000 宿50000 夕食11000 チキン唐揚げ4000計112000歩数 26449歩
2018年12月23日
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地下鉄を乗り換え西大門駅を出て、参与連帯の本部に向かう。勘違いしていたが、門の東にある建物は景福宮ではない。おかしなあ、いつこんな高層ビル群が出来たのか?あの趣のある下町を全て再開発したのかなと歩いていて、ずっとしばらくして西大門と独立門を間違えていたことに気がつく。仕方ない。私の旅スタイルに反するけど、タクシーを使おう。タクシーっていいよね。ピンポイントでビル前に着いた。参与連帯(참여연대)は韓国の有名な民主団体。落選運動で有名だが、2017ロウソク革命でも主要団体として活躍した。詳しくはマイ書評の「ソウルの市民民主主義」に。1度来たかったのである。私は個人で来ているし、韓国語も出来ないので、事務室に入るのははばかれるけど、一階で喫茶店を経営しているので、其処に行けば、資料を置いてあるのではないかと目論んだわけである。目論見は当たって、参与連帯の加入書と月刊誌を無料で手に入れた。喫茶店は、自然派の普通の喫茶店である。安くもなく、高くもない。ベーグルとコーヒーアメリカンを頼んだ。やはり韓国のパンは硬い、他の言い方をすれば濃くがある。そこにあるピンクのパンフを広げると、参与連帯の紹介になっている。1994年に誕生。画期は、1997年の落選運動の開始である。どうしてこの運動が日本で定着しないのか、と私は思う。2003年にはイラク戦争にも反対している。既に2006年から韓米FTAに反対している。2008年に狂牛病騒動で、日本とは違い韓国では広い反対運動が起きたのは、そういう地道な活動があったからかもしれない。2014年にセマウル号沈没事件があった以降は、怒涛の活動が始まり、会員数も増えているようだ。加入時に記入する事柄に、関心運動機関に丸をするのがあって、「参与連帯のみ」とか「司法監視センター」は、まだわかるとしても「参加社会研究所」「経済金融センター」など、韓国にはわけのわからないセンターがうようよあるのだなあ、と思う。会費は自己申告制度らしい。1万wから、2、3、5、10万その他と様々である。そのあと、歩いて景福宮を横断した。平日だけど、なんかのイベントがあるようだ。日本人だけでなく、様々な外国人が宮廷の服を着ていた。イベントなのかな?と思うとそうではなく、近くに貸し服屋がたくさんあって、「歩き方」によると空前のヒット商品になっているらしい。まあ、いいんだけどね。横断した先。「民衆美術」が展示されていると聞いてかなり期待していた国立現代美術館は期待外れだった。広い館内には、わけのわからない現代美術しかなかった。遅いランチを食べに、少し歩くと、2日前の夜に行った日本大使館前の「平和の少女像(従軍慰安婦像)」にたどり着いた。こうやって見ればはっきりわかるが、日本大使館前の道に建っているわけではなく、向かいの通路に、大使館の方を見て建っているのである。今日もテントには2人の学生が見張り兼ガイドとして常駐している。昼間見ると、ホントに生きているようだ。思うに、傑作だろう。2日前にできなかった、著名とカンパをした。ビル街をランチを探して歩くも適当なものなし(昔食べたソルロンタンの名店を見つけられなかった)。今回魚を食べていなかったので、老夫婦のやっている古ぼけた店で焼き魚定食を頼む。まずくもなく美味しくもなく。エゴマのキムチだけは美味しかった。今回気がついたのだが、いろんな所にビルの再開発の名残か、街中に遺物の展示があった。これは朝鮮時代の井戸らしい。鐘閣駅の1番出口をしばらく光化門方面に歩くと、見慣れた赤い帽子のおじさんが本を売っているのを見つけた。ビックイシューだ。ここでも売っているんだ(後で調べたら、ソウルだけで40数カ所の販売点があることを知った)。大きくて厚い。値段も一冊5000wだった。もちろん、半分は販売者の収入となる。2冊購入(後の別記事で紹介します)。写真撮ってもいいか?と聞くと笑顔で応じてくれた。とてもフレンドリーな方でした。黄色い注意書きは、「カードはごめんなさい」という意味かな、と思っていた。カード社会の韓国なので、そういう表示が必要なのかな、と。ところが、後でビックイシューを見ると、カード購入可能な販売者が何人も居て、此処もそうだった。ホームレスから、カードで買えるなんて!光化門5番出口辺りにも販売者が居ました。教保文庫出口辺りにある創設者らしき人がベンチに座っている像と、何やら文字が。「人は本を作り、本は人をつくる」ということだそうです。
2018年12月22日
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そのあと、南営洞駅から地下鉄で新村駅に行く。李韓烈記念館を訪ねるためである。地下鉄駅から延世大学に行く途中だと勘違いしていて、その辺りでピザ配達屋のお兄ちゃんに道を聞くと、即座にスマホで이한열기념관 と検索してくれて「現在の私の位置はここだから、この辺りだよ」と教えてくれた。こういう道の教え方は、6年前に韓国に来た時にはなかった。ものすごく良くわかる。日本の若者で、このように素早くわかりやすく、外国語ができないのに仕事中にもかかわらず、親切に教えてくれる「若者」は、はたして居るだろうか。私は居ないと思う。少なくとも、「高い確率で教えてくれる若者」は存在しない。この写真で言えば、この略図の上の辺りで迷っていたけど、赤い所へ駅方向に帰ったわけだ。実際は地下鉄新村駅の8番出口を出たらまっすぐ行って、直ぐある公園を左に曲がると、右手にスターバックスがあるから、それを過ぎて右手に曲がると、左手に記念館がある。お兄ちゃんのスマホを見て、それだけを覚えて行ったら一発でわかったので、その行き方で誰も間違わないと思う。行ってみると、ビルの一部屋を借りて記念館を作っているわけではなかった。4階建の一つのビルなのだ。観覧料は無料のはずだ。行政が運営しているとは聞いていない。どうしてこんなことが出来るのか?先ずそれを思った。実際は一階は車庫、2階は事務室、3階4階が展示室である。登る途中に、歴代ポスターが貼ってあって、ずっと定期的に特別展をしていることがわかる。朴鐘哲記念館はそういうことはしていなかったみたいなので、それだけでも(博物館フェチとしては)尊敬出来る。中学生か高校生が書いたと思われる来館感想も階段に貼られていた。素朴に「愛してるよ」と書いている一方で「ウリナラ我が国」という言葉が何度も使われるなど、身体を呈して国を変えてくれたということを感謝する言葉が書かれているように思えた。若い人たちの意識は、ここでも日本と相当違う。ただ、今回は3階が特別展展示で「会いたい顔たち」というのだった。李韓烈氏への関心だけで精いっぱいだったので、スルーした。今までの早世した民主活動家を、作家が独自の表現で描いた美術品の展示だった。あとで珍しくあった日本語での説明書を見ると、いろんなタイプの市民活動家がいたことがわかり、きちんと見なかったことを悔やんだ。顔が誰が誰か良くわからない。4階の本展示は、思った以上に質素なものだった(もっと写真展示など、時代を説明するものもあった方が良かったのでは)。しかし、1人の若者を記念する展示としては、これくらいのものなのかもしれない。家族の写真や、学生証等々を展示しているブース。そして次のブースがこれ。1987年6月9日、延世大学の門前で、全斗煥大統領への抗議行動を行っている最中、警備隊の撃った催涙弾か李韓烈に直撃してしまう。映画「1987」でも描かれたように、いったん起き上がり仲間を助けようとしたところ、意識不明になる。頭から血を流して、仲間に支えられて病院にはこばれた。その時に着ていた服とズボンと運動靴、ベルト、靴下である。片方の運動靴は、現場に残されていたはずだ。映画では、この運動靴のエピソードを、実に効果的にドラマに仕立てていた。実際、この時まで李韓烈役のカン・ドンウォンは、自分の名前も大学名も明らかにしていなかった。韓国の少しでも1987年のことを知っているものならば、大学名を聞いただけで若者の運命は、わかったはずだが、観客は最後の時になってようやく彼が李韓烈と知ることになる。普通の自覚的な若者として登場し、彼は「デモなんかしても社会は変わらない」とうそぶく少女に、「僕もそう思っていた。でも、(この前見せたあの光州民主抗争を記録した)ビデオを見てしまった。知ってしまったならば、少しでも変えるために出来ることをしなくちやならない」と答えるのである。しかも彼は光州の出身だった。けれどもあの時に13歳にもなっていなかった彼は、政府の言い分を信じ、あれを光州暴動事件とずっと思っていたのである。李韓烈は、6月革命の成就を見届けるように7月5日に亡くなる。その追悼集会7月9日の「民主国民葬」は、全国から人が集まり、それまでの最大の160万人が集まったという。倒れた李韓烈を支える学生の姿を写したチョン・テオン(정태원 )記者の写真は、その後チェ・ビョンス(최병수 )により木版画としても再生されて、1987のアイコンとなった。そういう絵画的な表現を、「民衆美術」だということを私は今年学んだのである。ここでは、ずっと短いビデオを流していて、去年作り変えているのだと知った。なぜならば、最後の部分「30年経った今日」と言って、2016‐7年のロウソクデモの映像を長く流していたからである。正に、30年経って、暴力撹乱行為が一切なくて、犠牲者を1人も出さずに、あの大統領罷免を勝ち取った背景には、李韓烈を忘れなかった韓国民たちの努力があったせいだと、私は思う。この記念館の設立目的に、李韓烈を顕彰するだけでなくて、「민주주의의 역사를 교육하는 박물관이다 (民主主義の歴史を教育する博物館だ)」と位置づけているのも頷けるのである。4階には、関連書籍や写真の朴鐘哲と李韓烈を扱ったマンガや(展示物の)クリアファイル、(アイコンの)コップ敷きなどを売っていて、必要な人は事務室まで、と書いていたのでクリアファイルとコップ敷きが欲しくてドアを叩いた。その時に少しだけ日本語が出来る女性に、「この記念館のお金は何処から出ているのか」と不躾な質問をした。「李韓烈のお母さんの息子の死に対して払われた補償を寄附してくれて作った」という。どれくらいの寄附かまでは聞かなかったが、オープンは2014年というから、いろんな苦労と志あったことが伺われた。ここでも、光州民主運動記念館で知った五大原則のうち「(犠牲者に対する)補償」が貫徹していることをつくづく知る。女性事務員には、私のブログの検索方法を伝えたのだけど、見てくれただろうか。
2018年12月21日
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11月28日(水曜)晴れ 4日目朝8時に宿を出て、ソウル駅に向かう。そこで指紋認証のロッカーに荷物を預けて、トイレに行くと、ソウル駅のトイレは紙を便器に直接流せるようになっていた。ここは国際化したのだろうか?案内所で、「ビッグイシューを買いたいけど、ネット情報の『서울(ソウル )수요 鉄道駅』の수요(ジュヨ)駅がわからない」と聞くと、地下鉄の行き方を教えてくれる。しばらくしてやっと意味があわかったのだが、これはソウル駅のジュヨという場所のことだったのだ。教えてくれた出口の2番ゲートに行ってみる。ホームレスがうようよしていた。まだ早いのでビッグイシュー販売者はいない。ここは旧ソウル駅の前である。1925年建築。東京駅を真似て作られている。今は使われていない。建物と土地が勿体ないなぁと思う。地下鉄で目的地の南営に行く手もあるのだけど、ひと駅なので歩いて行くことにする。線路沿に歩けば迷わないだろう、と思いきや、突然他の地下鉄の入り口が出て来たので、路線の道を間違ったかと思い、見当方向に歩いている途中に思い返して戻った。そうか、途中まで地下鉄は同じ方向に向かい走っているのか。朝食は屋台のサンドイッチ。なんやかんやで南営駅を過ぎて直ぐにあるはずの朴鐘哲(박종철)記念館を捜す。それらしき警察の建物があるのだが、門の前の表示に박종철の文字がないのである。何回か、周りを行ったり来たりしていると、門番に咎められた。「金鐘哲記念館は‥」「朴鐘哲だろ。日本人か。この交通証を下げて、名前と日付を書いて。部屋は一階と四階五階だ」と有無を言わせず入れてくれた。あの…ちゃんと朴鐘哲記念館と表示して置いて欲しいんですけど。これが、1987年1月14日逮捕されて拘束中のソウル大学生の朴鐘哲が拷問されて死亡した、当時の南営洞対共分室のあった建物である。五階は窓が極端に小さい。五階全てが取り調べ室だからだ。逮捕された人間の心理を圧迫するための設計らしい。今は目新しい看板は着いているが、それ以外の外観は30年前と全く変わらない。現在この建物は、경찰청 인권 센터 (警察庁人権センター)になっている。一階は歴史とエントランス。其処に、入場者の感想を書くコーナーがあった。日本人もつい最近来て感想を書いている。もう少し綺麗な字で書いて欲しいな。本来の階段以外にも、このように秘密の階段がある。これは五階に直結している。これは上から見たところ。裏の小さなドアから入り、螺旋階段を登り調査室に入れられて拷問される。これも心理を圧迫させる設計らしい。対共分室らしい構造。ここは4階の歴史や教育関係の展示。人権の歴史を1215年のマグナカルタから始めている。もちろん1789年のフランス革命も表の中に入っている。マグナ・カルタ(大憲章)をわかりやすく言うと、「世界で初めて国王に制限を加えた憲章」のこと。憲章とは、「極めて重要で根本的な決まり事」を文書化したもの。マグナ・カルタは、1215年6月15日に制定された。かつて、マグナ・カルタより前の各国の法律や憲法では、「国王は法に縛られない別格の上の存在」として扱われてきた。そんな、神の次に偉いような立場の国王に、初めて法的制限が設けられたのがマグナ・カルタである。「王といえども、法の下にあって、法を守る義務があり、権利を制限される」といった感じの内容が、明確に文書化されている(デジタルことば辞典より)。うーむ、人権の始まりを「警察という権力の代表みたいな所の力を制限すること」から始めている。きわめて真面(まとも)だと思う。そのあと、隣の記念館に入る。写真や新聞で時系列を追っていた。アカだと言われて逮捕された朴青年の死因は、映画にあるように、検察・記者・医者の連携で明らかになる。「水拷問途中 窒息死」と派手な見出しが踊る。これで調査警官2名が拘束された。しかし、本当に拷問したかはまだ明らかになっていない。頂上逮捕の決め手にはならない。映画では更に看守や市民運動家との緊迫した「連携」が描き出される。また、それとは別に学生たちや市民は街頭に出て運動をして行った。この後で行く延世大学生の李韓烈もその1人だった。朴鐘哲拷問死が明らかになった後は、唯一世間に発表された朴くんの顔写真が、運動のアイコン(象徴)になった。大きなデモが何度も起きる。ソウルの明洞聖堂は「抵抗運動」の聖地にもなっていった。「弾を撃たないでね」と警官にカーネーションを渡す市民の写真があった(時は李韓烈が催涙弾で撃たれた数日後)。かつて加藤周一は1968年のプラハの春を評して、「圧倒的な戦車の前に立ちはだかったのは、市民の圧倒的な言葉だった」という意味のことを言った。また、それは成功するあらゆる「革命」で表出する現象だろう。この写真を、権力の代表である警察庁が掲示していることの意味は大きい。そして「1987・6月民主抗争」は、ときの盧泰愚大統領から、軍人の独裁政権から平和裡に、「直接大統領選挙」「金大中などの政治犯の即時釈放」などの成果を勝ち取った。朴青年の愛用していたギターや家族写真、眼鏡や腕時計の展示があった。その上の階を上がると、緑色のドアが続く取調べ室が続く。その中の902号室だけは、朴鐘哲の亡くなった部屋ということで、少し加工されている。昔はこんなふかふかのベッドはなかったろうに。しかし、水責めをされた浴槽は、そのままらしい。階下の資料室にも、後に浴槽を調べている写真が展示されていた。確かにそのままだ。他の部屋は、だいたいこんな感じ。朴鍾哲記念展示室(警察庁人権保護センター)(박종철 기념 전시실(경찰청 인권보호센터):ソウル特別市 龍山区 漢江大路71ギル 37 (葛月洞 98-8))記念館を出て右手方向に続く警察署の取調べ人が逃げるのを防ぐための鉄条網を張った壁は、映画「1987」の検察官と対共分室長が対決する場面で使われたらしい。出て直ぐの所か、それともしばらく行って左に曲がったところなのか判断つかなかった。
2018年12月20日
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宿は鐘路3街の2日前に泊まった宿の真向かい、ヌヌホテルである。3.5万w。前のよりもかなり広い。見た目は近代的だったが、中味は木造。かなり古い。でもきちんと改装しているみたいで、まあ合格です。屋台の帽子を買った。私が日本人とわかると、「私は国民学校だった」と日本語で返して来た。81歳だという。「お元気ですね。どの辺りに住んでいたんですか?」はっきり言えなかった。でも真実だと思う。これぐらいの流暢さで日本語を喋れる人は、まだまだいるだろう。夕食は、とりあえず仁寺洞の美味しいマッコリ(トンドン酒)を飲ませてくれる店を探した。覚えのある路地を探した。あのトンドン酒と美味しい巨大ホッケを食べさせてくれる店はどうやら閉めたようだ。ソウルは、美味しい店が簡単に閉店する。これはどうにかならないものか?仕方ないので、2日前に9時過ぎに入って「アジョシ、閉店です」と言われたユジン食堂をリベンジ。今は7時半。まだまだ大丈夫。ここは冷麺が美味しいらしいが、マッコリを飲むために、緑豆チジミを頼む。マッコリがキムチと共にやってくる。これは現在のメニュー。マッコリ3000wは嬉しい。鄭銀淑さんの情報で来た。ユジン食堂の後に、このままでは終わりたくないので、チョンノの幸福カンチブに向かう。一昨日の路地に動く幻燈広告があるのをもう一度撮る。写真にあるように、上の方から幻燈光線を照射しているようだ。これは店の前に広げている屋台だ。中はいっぱいだったので、ここならいいと入らせてもらった。同じ、チチミの店ではあるが、鄭銀淑さん推薦の美味しいマッコリを飲ませる店である。ジョンが高い。(後でパンチャンが豪華なためだと気がついた)でも、適当なジョンとマッコリを頼むが、本当は金山マッコリを頼みたかったけどそばにおばさんが待っている状態で、焦ってしまって名前が出てこない。釜山マッコリは、なんか名前が違う気がする。その下のトクサンマッコリをつい頼んでしまった。頼んだ時点で間違ったことはわかっていたけどもう訂正は出来ない。同じ値段、どういう味なのか、試してみよう。全国酒類品評会一等賞受賞らしい。忠南北の酒のようだ。バンチャンは、なんとムール貝のスープが出てきた。1人で食べると大変だけど、お客様はたいてい四人組だった。これならば安く飲める。マッコリは流石にコクがあって一味違った。4000wでこれを飲ませてくれるなんて。ジョンは、ユジン食堂のようなものではなくて、数人でつまめるものだった。なんか魚介類が入っていジョンを頼んだ気がするけど忘れた。流石に腹がいっぱいだ。店を辞して、コーヒー屋にしけこむ。マッコリはカバンにこっそり入れた(結局飲めなかった)。ホリィズコーヒー。21時37分。一時間弱日記をつける。現在23時51分。寝ていた。飲み過ぎた。宿に帰ろう。今日の費用朝食4200 電車1400 カード10000 昼食7000 電車46800 コーヒー2500 図録76000 帽子5000 宿35000 ユジン食堂10000 幸福カンチブ17000 ホリィズコーヒー4100計230000歩数 27274歩
2018年12月19日
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地下鉄の金大中コンベンションセンター駅で降りて、5.18自由公園に向かう。その前に駅で昨日チャージしたはずのTモニイカードが0円になっていた。あのやる気のない女店員からレシートをもらわなかったのを後悔していたら、案の定だ(多分エラーが出てもそのままにしたのだろう)。一万wはドブに捨てたと思って新しいのを買う他はないようだ。コンビニで一悶着あって、一つ買う。昼食。バイキング方式の食堂だった。牛肉カルビとあとはスープ、ご飯類と6食ほどのパンチャンをつける。近隣の人が次々やってきてつけ台帳で食べていた。金大中コンベンションセンターの無駄に大きいこと。金大中がノーベル平和賞をとったことで、この権威主義的な建物が出来たとしたら、それは韓国の負の部分かもしれない。ただ金大中展示室は、予想に反して小さいものだった。一階の1/10ぐらいのスペースしかとられていない。大統領の任命書。金大中が死刑宣告を受けて服役していた時の服。そこから北に少し行ったところに5.18自由公園(5.18자유공원)がある。これもかなり広い。自由館に入ると、代表的な5.18の民衆美術が迎えてくれる。「行こう!道庁へ」「民主!民主のために血が流される」そのあと、尚武台や(逮捕者を拷問などした)軍関係の施設に向かった。残念ながら、工事中で見学出来ず。本来ならば、憲兵隊中隊内務班、憲兵隊本部事務室、憲兵隊食堂、営巣、法廷(軍事法廷)などの施設を見ることが出来る。入り口管理人の方が日本語が出来た。少しお話を聞くことが出来た。「光州民主化運動の犠牲者は5000人以上と聞くけど、本当は何人なくなったんですか?」「負傷者も入るので、死亡者はまだよくわかっていない」「だいたいどのくらいですか?」「700人ぐらいと思う」「それでも多いですね」「私はその頃、専門学校の生徒だった。全南大学の近くに住んでいたけど、5.18の時に父親が市内を見に行って、そのあとは「絶対に家を出るな」と言われた。だいたい5.18から10日ぐらい。その前は大学のデモも見ていた。家に居る時も、銃の音が聞こえてきた。」貴重な話を聴けて、思わぬ収穫があった。全南大学の辺りでも軍は銃を使っていたのだ。「軍だけではない」と彼は言っているし、そうだとは思うが、道庁前だけではなかったのだ。ホントに市内全域が内乱状態だったのだ。駅内は、人権ロードになっていた。自治体が、たとえ金大中の影響とはいえ、こうまでも「人権」という言葉を尊重していることに、驚いた。もちろん、人権は福祉やその他大きな意味で捉えているようだ。フリーの書籍も置いていた。光州5.18運動は、「基本的人権」「生存権」「抵抗権」を認めさせた運動だった。それを一言で言えば、「人権」ということになるのだと思う。私は、次の日に、8.17の各施設でも、これらの認識が貫徹されていることに驚くのである。今になって言えば、韓国は「人権大国」なのだ。KTXは、今度はチケットを買うと出発まで5分しかなかった。充電ができるKTXだった。あっという間に着いた。時間があったので、龍山からニ村まで行って、中央博物館に寄った。観覧目的ではなく、図録を買うためである。「国立中央」なので、特別展その他の図録は豊富にあるはずだ。結果的に大きな収穫を得た。日本語版の図録を4冊、しかも「中央博物館ガイドブック」「中央博物館解説の土器編」そしてまさか発行されているとは思わなかった「金海博物館」と「光州博物館」の日本語版図録である。7.6万wと大きな買い物だったが、またこれからの荷物がかなり重くなったが後悔はしなかった。また、機会があれば中身を紹介したい。
2018年12月18日
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5.18運動記念館は、光州民主化運動記録がユネスコ世界記念遺産に選ばれたのを契機に開館した。昨晩充電に失敗して急きょホテルに戻って充電中でカメラがないので、スマホから撮った幾つかの写真のみ載せる。日本語パンフの中のユネスコ世界記録遺産国際諮問委員長(ロスリン・ロッセル博士)の「5.18民主化運動記録物世界記録遺産登録の意義」を全文載せる。5.18民主化運動は、不義な国家権力によって踏みにじられた国民の尊厳さと権利がどのような悲劇を呼び起こすのかを赤裸々に語ってくれる事件である。5.18民主化運動の記録物は、光州民主化運動の勃発と鎮圧、以後の真相解明と補償などの過程と政府、国会、市民、団体、そしてアメリカ政府などが作成した膨大な資料を含む記録である。5.18民主化運動は韓国の民主化は言うまでもなく、フィリピン、タイ、ベトナムなどのアジアの様々な国の民主化運動に多大な影響を与え、民主化の過程で実施した真相究明及び被害者への補償も他の国々の良い例となったという点で高く評価された。世界の学者らは、5.18民主化運動を「転換期の定義」という過去の清算で最も規範になる例であるという。南アメリカや南アフリカなどの地で発生した国家暴力や反人倫的な犯罪行為に対する過去の清算事業は断片的に行われた反面、光州では「真相究明」、「責任者の処罰」、「名誉回復」、「被害補償」、「記念事業」の五大原則が全て貫徹された。5.18民主化抗争は大韓民国の民主化の過程で中枢的な役割を果たしただけでなく、東アジアの様々な国での冷戦体制を解体し民主化を成し遂げるよう影響を与えた。1980年代以降、韓国の前例に従いフィリピン、タイ、中国、ベトナムなどの国々で民主化運動が起こった。“この記録遺産は、人間が経験できるもっとも残酷な死を照らし、描写できないほどに残酷な人権侵害について語ると共に、極度の逆境と迫害をものともしない人間勝利への記録物を含んでいます。彼らの訴えは絶対に忘れられてはいけません。人類の良心と記憶の一部として永遠に語り継がなければなりません。”これを、旅から帰って来てから読んで、私は今回の旅の意味を初めて覚(さと)った。光州民主化運動にしても、1987年民主化運動にしても、学ぶべきは、五大原則(「真相究明」、「責任者の処罰」、「名誉回復」、「被害補償」、「記念事業」)であり、韓国の歴史の教訓から勝ち取った「人権感覚」であったのだ。これこそが、日本に徹底的に欠けている部分である。エセ知識人たちがうようよ居る日本の官僚・政治家、報道陣に決定的に欠けている部分である。旅の至る所で、私はこれらを感じた。おいおいと書いていきたい。さて、写真はないけど展示の説明。一階は、印象展示。二階に主な展示がある。日本語の無料運動解説書はあったが、図録店はどうやらない。公式図録を聞いたが置いてないということだった。展示物としてはあったので、販売していないのは何故なんだろ。無料配布の「光州民主化運動」については、既に書いた。5.18を扱った作品は、映画では「26年」、90年代に「ペパーミント・キャンディ」「光州5.18」「タクシー運転手」である。漫画では、「26年」3巻と「アム?」がある。証言の採集も記念館の役割であるが、ビデオに出てくる男女がほとんど私と同じ年代ということにすくなからずショックを受けた。そうなのだ。「光州事件」は私が二十歳の時に起きたのだ。錦南路の道庁前にある光州YMCAの中に少し入ってみた。当時、抗争指導部が自主屋内集会を開いた場であり、銃器組立訓練を行っていた場である。道庁と並んで最後の抗争地だった。弾の跡がないか、見たが見つけられなかった。現役の事務所があるので、早々に去ったが、中は木造だった。道庁と噴水を錦南路側から撮る。文化殿堂を少し回って、宿で荷物をとって、地下鉄に乗った。
2018年12月17日
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11月末に光州とソウルを旅したレポート再開します。3日目は4回に分けて書く予定です。今までのレポートは左のカテゴリーの「韓国旅行2012」に収められています。11月27日(火)晴れ 3日目朝8時過ぎに、楊林洞歴史文化マウルに向かった。宿から歩いて10分ぐらい、光州川を渡るとすぐのところにある。昔からの家屋が多く遺されているらしい。これはマウルの外れにある南平文氏居宅。クラシックギター通り。しかし、私は完全に観光地化された住居群には興味はなく(時間的にも中まで入るのはむつかしいし)、その周りの普通の家を見て回った。これは入り口近く、壁絵。私はなかなかの傑作だと思う。光州は、ビアンナーレが開催されるだけあって、美術的にも優れた壁絵が多い。5.18を支えたお母さんたちの団結の場である建物があった。「5月のお母さんの家(오월어머니집 )」という。亡くなったのは、ほとんど若者だった。怪我をした若者はその数倍は居ただろう。だから、お母さんの心痛、そして子供を理解せずにいたことなど、そのあとの闘いに参加したお母さん、しなかったお母さんの心持ち、語り合うことは、金剛山ほどにはあるだろう。写真のオモニたちの笑顔が眩しい。後で記録館の本を読むと、1番最初に立ち上がったのは、お母さんたちだったと書いていた。オモニ偉大なり。そこから、少しまた路地に入ってみた。そしてペンギン村入り口にたどり着く。その入り口に光州従軍慰安婦像があった。ここには、少女とその成長したお母さん2人の像が居る。だから、ソウルのとは別物である。でも、まがい物も許してしまう。それが韓国なのだろう。ペンギン村は、それこそ、美術村である。また、様々な主張を表現する場でもある。少し、離れると、絵画的表現で優れた壁絵が多くあった。これなんか、好きだ。イチョウの葉が雪のように青い屋根に積もっている。これは観光施設の一つ、李章雨家屋。居宅なので、写真撮影だけが許されている。朝食は、途中のパン屋さん(楊林パン屋)で買ったパンとコーヒー。光州の4大パン屋の一つらしい。中は、ふわふわではなく、タマゴペーストに濃く詰まり、漉し餡が入っている。ボリュームもあるが、濃くもある。食べて居る時に目の前の木に「登るな!!!!」と、注意書きを書いている木を見つけた。確かに登れそうな木だ。でも、子どもはこういう木に登って落っこちて強くなるのである。でも、そんなことは言ってはいけない時代なのだろう。韓国の親の世代の現代化が垣間見れる現象だと思う。
2018年12月16日
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さて、日没まで散策だ。税務署前の光州ビアンナーレで作られたという「開かれた壁」という作品。戦災に逢っていないのか、古い建物が多い。旧光州赤十字病院。5.18では、負傷した市民を献身的に治療したところ。この場所は映画「タクシー運転手」でそのまま使われたはずだ。中はすっかり閉められていた。現在は西南大学の付属病院として管理されているようだ。そこから、目的地まで行く途中、気が変わって少し「路地」に寄り道した。メイン道路を外れると、道がぐにゃぐにゃ曲がって生活道路になっている。人々が銘々勝手に家を建て、道路はその後に出来た、自治体が全く関わらないで道路が出来た証拠だろう。こういう道はたいてい面白い。この壁絵は傑作だと思う。マーベルヒーローと子供が、共に幸せに生きている。背の低い屋根。これが韓国の屋根だ。幸せ野菜畑。ぐにゃぐにゃと路地は続く。通りに出た。食堂が表にパンチャン用の大根の干物をしている。光州全南大病院。ここも野戦病院だった。現在も現役の病院。自発的な市民の献血の列は、広場まで続いたという。南洞聖堂。21日の最も犠牲者が出た一斉射撃の後、1980年5月22日、神父と市民が集まり、犠牲を防ぐために収拾対策8項目をまとめた所らしい。また、7月から拘束者の釈放と真相究明を求めた月曜ミサが開かれた。夕食は名前が気にいって平和食堂(평화식당 )にした。カルビタン9000に9つのパンチャンがつく。ナスナムルとウリナムルは美味しい。パンチャンの美味いところは、ハズレがない。よかった。久しぶりにソジュ(焼酎)も頼んだ。卵焼きともやしナムルと薄蒲鉾は必ず入るのね。カルビは、骨付き肉。辛くはない。ご飯は食べずに後は完食。おばさんがパンチャンお代わりはいいの?と言ってきた。断ったけど、ちょっと後悔。締めて13000でした。ダイソーに寄る。韓国のダイソーは、1000、2000、3000、5000と価格はバラバラで、もう雑貨屋である。ちょっとお土産を買う。喫茶店で日記をつける。ストローがかき混ぜ棒になっている。8時半で追い出された。宿に帰る途中迷った道。祝島のような岩壁があった。祝島の壁は、朝鮮半島南部に広く作られている壁と同じだと思う。今日の費用朝食3800、コーヒー3000、KTX44500、宿60000、カードチャージ10000、夕食13000、ダイソー12000、コーヒー2500 計138800歩数18198歩やっぱり、本格的に日記をブログとして整理すると、かなり疲れることがわかりました。旅レポートはちょっとしばらくお休みします。
2018年12月05日
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バスで光州の文化殿堂駅まで行く(バスの表示の仕方を覚えたので1人でもスムーズにいけた)。着くと、以前は工事中だった建物があった。映画「光州5.18」 で決戦の舞台になった旧全南道庁が保存されているのである。前には当時の写真が並べられている。署名しているので、何か反対運動があるのかと思いきや、ここが入り口だった(月曜日なので諦めていたが、今日はここだけは開いていた)。在りし日の全南道庁。何故か文在寅大統領を持ち上げていた。映画 『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』の関係か、タクシーの写真展示もあった。何処かに弾丸の痕がないか、見たがなかった。80年のあと、しばらく使われていたので綺麗に修復したのかもしれない。日本ならばそれをも剥がして展示するところだろうけど、これは価値観の違いか。記憶室にあった当時の1980年代の雑誌。1987年の市民革命のとき、その発火点の光州でもソウルのような緊迫した戦いがあった。光州の特徴か、壮大なタクシーデモがあったようだ。1980年5.18の直前の5.16は、市民の運動は大きく盛り上がり、道庁前の噴水では立錐の余地もない集会が行われていた。つまり、学生の運動から始まった全斗煥政府反対運動は、市民的な闘いになっていたことがわかる。これを5.18に軍隊で潰したのである。決して市民暴動を鎮圧したのでは無い。その日から21日の集団発砲、27日に軍隊によって完全に鎮圧されるまで、自由と憲政守護を目的に、元兵士などが銃の扱い方を教え、市民が徹底抗戦をした。またこの道庁は、集団発砲から抗争指導部が活動し、市民収拾対策委員会が対策を練っていた市民共同体の中心地だった。道庁三階から、その噴水を眺める。他の道庁施設は、今日は入れない。全体像。尚武館も外観だけ眺める。隣人遺体安置所だったところである。小説「少年が来る」にも描かれていたけど、血の惨事の場からほとんど歩いて五分、タンカで運んで10分のところにあったのだ。抗争期間中は、闘士会報(民主市民会報)を作成したり、対策会議を随時開いていたらしい。だから、いろんな人が出入りしていた。あの小説の少年は、友人の遺体の確認に毎日のように訪れ、最後の日も危険だと言われたのに来て命を落とした。戒厳軍占領後の29日、遺体は清掃車に無造作に積まれ、望月洞市立墓地に埋葬されたそうだ。今年12月に、光州民主運動40年を記念して歌の集会「民族、民主、歌、40年」が開かれるようだ。市街散策。警察前の壁絵は、「生まれ変わった市民に優しい警察」をアピール。前見た絵よりもバージョンアップしている気がする。宿は市街にはほとんどない、と「歩き方」に書いていたので、諦めて観光ホテルに泊まる6万。流石に綺麗だ。一応のものは揃っている。そこから外を眺めると、モーテルがたくさん見えた。後の祭り。
2018年12月04日
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博物館の外に出る。もう、12時40分になっていた。少し焦る。でもこういう時に、カンが働くのか、結果まっすぐに目的の所に歩いていった。この噴水の向こう側に壁絵(壁のクリム)が見える。教育会館の壁に描かれていた。人の大きさと比べて欲しい。これが「韓国の民衆美術」を読んで、「見たい!」と切望していた絵である。誰が描いたのか、書かれていない。実際1人では描けない。「光州民衆抗争図」の説明書。英語の所は皆さんで読んでください。絵の下の但し書き。(自己流翻訳)「広場の様子を美術教育として描く。統一念願45年6月。90年学生会。2017年、全南大学同窓会と市民と共に複製した」この絵は、見事に1980年の「光州事件」を表している。市民は銃を持っている。戦う相手は、自国の軍隊なのである。それをサポートする市民のおばさんのたちだ。そして、市民からの物品カンパ。ほとんど戦争のように見えるが「戦争ではない」所に、この運動の素晴らしさと悲劇があるだろう。噴水の所に戻ると、これも民主運動を記念した像のようだ正門に帰る途中、遺物の野外展示をしていた。やはり支石墓は目立つ。昼食は学生街を探す。ランチということで、このプルコギ定食を頼んだ。あゝここは、全羅南道なんだと改めて思う。このパンチャンの数。安かろう悪かろうではない。ちゃんと美味しい。これでなんと6000wである。悪いくらいだ。
2018年12月03日
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全南大学は光州駅の北側にある、おそらく光州一の大学である。ここから学生運動として、1980年の5月14日、全南大学の学生デモから始まり、瞬く間に全光州学生、教授へ広がり、そして3日間に市民に広がっていったのである。だから、5.18民主化運動の始まりは全南大学のこの正門と言っていい。壁絵を探そうとして、地図を見る。ひとつひとつ探せばまるまる一日かかりそうだ。ところが、この時博物館(반물관)の文字が見えた。大学博物館ならば、古代遺物展示があるかもしれない。全くノーマークだった。国立光州博物館はたいしたことなかった覚えがある(とずっと思っていて、かえってpcのなかを探すと、なんと光州博物館は行っていないことが判明した。交通の便が悪いので、避けてきたのだ)。ここはどうか。一階はブロローグなのに、なかなかのレプリカ遺物がある。支石墓や露天窯、甕棺墓である。これだけで終わらないよね。恐竜の遺物もなかなかすごそうだ。二階に上がる。おお、凄い。以下展示物。以下長くなります。考古学に興味ない方は、明日以降お楽しみに。正直、分かりやすい展示だった。以下、旧石器時代の遺跡。和順 牟山里遺跡の旧石器。7000年前に新石器時代になると、土器を作り、定住生活を始めている。しかし、この時代のどの段階で定住を始めたのかよくわからない。期間があまりにも長いからである(4000年間?)。麗水の土器と貝石器。青銅器時代。ここでは3000年前(BC10)から始まったとなる。ほとんど弥生時代にかぶるが、弥生中期ぐらいから鉄器時代も同時に始まる。弥生晩期ぐらいに原三国時代が始まっているようなのだが、厳密に知りたい。でも、この展示ではよくわからなかった。全部磨製石器、磨製鏃。紅陶。既に表面の飾りは無くなっていて、弥生土器とにているが、作成技術ははるかに朝鮮半島の方が上だと思う。和順の茶智里 支石墓群遺跡。磨製石剣さの美しさ。順天(순천)の西坪里(서평리)支石墓群遺跡。土器は割れているが、独特の彩文が既にある。宝城(보성)礼堂里(예당리)支石墓群群。何と言っても、石剣の独特の石紋が特徴だ。日本では見たことない。宝城(보성)松谷里(송곡리)支石墓群。こちらも石剣の模様が。そして見事な土器の彩文。原三国時代に移る。既に鉄器は製作しているし、青銅器も複雑になってゆく。光州なので、ほとんどは馬韓(마한)の遺跡の展示になる。赤いところが馬韓である。右下の人物は祭器を身にまとった族長のはずだ。あの像は全州博物館に行けば出会えるはずだ。青銅器製の何チャラ。鉾だったかなあ。すみません、メモ出来ていない。(←shunshunさんによると、左が銅剣、右が銅戈らしい)鉄板や滑車のコマ、ミニ土器(祭りに使うはず)、勾玉(倭国の影響?)、スプーン等々独特の遺物が出現する。宝城(보성)金坪貝塚(금평패총)。もはや、支石墓ではなく、貝塚の発掘になっている。占い用の骨、鉄板、青銅器の型などが出土。独特の土器がでてきました。馬韓の生活像。稲作の道具や布を作る道具が出るらしい。光州のこんな都市開発から出土したみたいだ。更に時代は下り、三世紀ぐらいから木棺墓になってゆく。鉄剣が出土。土器の形も変わっている。これは、함평ヒャンピョンの礼徳里(예덕리)古墳群。この丸いし、少しひしゃげている壺が特徴なのかな。既に焼き方は須恵器かかっている。巨大な甕棺墓群。羅州(나주)の甕棺墓(옹관묘)から出土。これは何処の甕棺墓か、メモ忘れた。馬韓の石室墓である。更に墓の系統図を作っていた。そこで全南大学の学術的な時代区分が明らかに。つまり、・1ー3世紀は、木棺墓、土坑墓、甕棺墓であり、馬韓時代。・4ー5世紀は、百済の間接支配のもと、石槨墓、甕棺墓、甕棺古墳。百済はソウルに宮があった時代だろうか。・5世紀後半は、石室墓に統一される。百済の間接支配であるが、公州に宮があった時代だろうか。どちらにせよ、ここは百済の支配地域であり、その意味でも、この後出てくる「前方後円墳風の古墳があるから、伽耶地域は大和の支配地域である」という論理はもともと破綻しているということになる。麗水の美坪洞(미평동)古墳群。銅鏡と首飾りと勾玉が気になる。百済の石室墓である。やはり古墳の系統図があるが、前の表とどのような関係にあるのか、イマイチわからなかった。羅州の伏岩里(복암리)1号墳。馬韓ー百済時代らしい。長城 鶴星里 古墳群。前に苦労してたどり着いた、韓国の前方後円墳と言われている、光州 月桂洞(월계동)古墳群のレプリカがあった。ここでは、前方後円墳ではなく、長鼓墳と表現されていた。見てわかるように、堀を巡らしていることや、周りをびっしり器台型埴輪のようなものを巡らしていること、横穴式石室となっていることは、前方後円墳と似ている。しかし、木製埴輪(?)や、傘型埴輪(?)の存在は、日本にはないだろう。そもそも五世紀段階ならば造り出し祭祀の跡が無いとおかしい。また、前方後円墳の形も日本にはあまりない歪さがある。これが、その問題の「墳周土器(분주토기)である。初めて見た。思いかけない収穫だった。埴輪型土器も、よくにているが、なんとなく歪さがある。馬韓の長鼓墳の説明である。翻訳が面倒なので、訳していないが、だいたい5世紀後半から6世紀にかけて馬韓地域に、長鼓型の古墳が作られたと書いているようだ。馬韓地域には、これほど存在している。光州よりもかなり北、公州近くにもある。他の土器も、明らかに須恵器型の技術になっているし、伽耶地域特有の土器が多い。このようなものも出土しているらしい。石室の作り方も、全然違って、むしろ公州遼寧王の石室そっくり。あとの時代はざっと流します。恐竜化石もファンがみたらすごいのだろうけど、ざっと流します。ものすごい量の写真を入れました。これでも三分の一以下に抑えたのです。本来ならば2回に分けて紹介すべき記事ですが、皆さんあまり興味無いと思われるので、一回で済ませました。明日はいよいよ、全南大学に来た本当の目的に迫ります。
2018年12月02日
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11月26日(月)第2日目 晴れ朝、6時40分宿を出る。鐘閣駅から龍山駅に向かい、KTXで光州に向かうことにした。バスよりも、1万w高いけど、1時間速いと思ったからである。街中に行くのも便利だ。朝の1号線はまだ空いている。やはり、車両に2席妊婦或いは赤ちゃん用のシートがある。また、聞いてはいたけど、全ての乗車乗り口は安全ドアになっていた。乗車中に、昔のように押売り婆さんは出てこなかったけど、車両のあらゆるところに広告シールを貼るおばさんは出てきた。今度はコソコソやっている雰囲気なので、あの販売方法は禁止になったのかもしれない。写真は朝の龍山駅。龍山駅で車両中に食べようと、弁当とコーヒーを買う。ところが、そのあと、チケットを買うと8時20分出発になっていた。1時間以上あるじゃないか。騙された気分だ。時間割を見ると、30分前に一本ある(7:49 MOKPO)。駅員が日本語がわからないと、意地悪をしたのか?それとも席がなかったのか。外国人は相席をさせない方針なのか?咄嗟に反応しなかったのを後で悔やんだ。1時間空いたのので、弁当を食べたあとコーヒー屋にしけこんだ。搭乗口前のコーヒースタンドは4.5千から5千以上するのに、こちらは安いので3千である。それにしても、韓国のコーヒーは一様に高い。KTXは一応映画「新感染」のロケ地と思えば、ちょっと得した気分。車両の真ん中にテレビを据えて、真ん中から席が反対方向を強制的に向かうようになっている。日本の新幹線を真似たはずだが、だいぶ違う。「新感染」では上の荷物置き場に登り、音だけに反応するゾンビの習性を活かして、すり抜けて行く。しかし、よく考えたら必ず荷物は置いていたはずだ。あれはやはりあり得ない設定だった。車両内も、かなり静かだ。これは意識してやっているらしい。席にこんなマークがあった。また、唯一絵に描いたようなお年寄り夫婦が大声で話し、そして大声で携帯を使っていたら、乗務員から注意されていた。韓国人の意識が変わろうとしている?五松( 오송 )駅近くからずっと霧が出ていた。昔も内陸部はそうだった覚えがある。なぜなんだろうか?益山駅の近くでは霧が晴れたが、また元に戻った。このアパートの高さ!地震がない国の自信である。韓国でも太陽光発電のパネル畑があった。チョンウム(井邑 정읍)駅。光州松汀駅に着く。観光案内所で光州の情報と全南大学に行くバスをおしえてもらったが、アバウトでよくわからなかった(ここは日本語は出来ない)。ともかく5.18運動の観光スポットは教えてもらった。その一つが松汀駅にもあるという。1913松汀市場に行く。5.18運動とは関係なく、100年以上の伝統のある市場らしい。こんな古いお店やこんなお店が現役で働いている。大型店出店で消えそうになったところを自治体が応援してなんとか持たせているらしい。ここが一番趣があった。最近のバス停は太陽光発電でまかなっているのか?バス停で全南大学の行き方を調べていると、若い「可愛らしい」女性が、私のメモを見て「全南大学へ行くんですか?」と聞いてきた。彼女は日本語が一切出来ない。でも、このバス停の反対側で待たないと行けないと教えてくれた(韓国ではよくあるミス。しかし、そのまま乗って行ってとんでもない方向に行き、下手をすると1日を棒に振ることもある)。そのあと、スマホの翻訳アプリで会話してきた。「(反対側へ)一緒に行って教えてあげます」「ホントですか?ありがとうございます。バスが到着したら運転手に教えて欲しいと頼みたいのですが」「それは私が言います」更には「どうして全南大学へ行くんですか?」「壁絵です。5.18、いや1987、いや1980ー1987かな」「歴史ですか?」「そうです」「全南大学には、歴史で見るものはありません」若い人には、そううつるのかもしれない。私は、大学に行った後に自分のブログアドレスを教えれば良かったと、後でものすごく悔やんだ。私がどれだけ初めて来た大学で、様々なことを学んだか、伝えたかった。この会話の直後にバスがやってきた。彼女は運転手に的確に(私は聞き取れなかった)伝え、バスは出発する。彼女が言っていたように、バスは「とっても遠くまで」走り、50分後に、運転手はきちんと到着したら私に教えてくれた。
2018年12月01日
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25日から29日まで、ソウルと光州を旅してきました。また、長い長いレポートを(おそらく不定期に)連載しますが、第一回だけは一日分を一回でまとめて載せます。少し重いかもしれませんが、この旅の性格をこれで判断してください。11月25日(日)晴れ 第1日目 6年ぶりの韓国への旅を始める。約10年ぶりぐらいに、岡山空港からソウルに飛ぶ。前回は大雪の中にソウルに降りた。今回は11月の比較的いい気候の時に行くことができる。今回は韓国古代遺跡を巡らない。たった4日の間に、最近の韓国の現代史を巡ろうと思っている。どうなることやら。搭乗までの短い時間に、小銭の527円をなくそうと思い、免税店でビールとツマミを買う。知らなかったが、不足分の数円をカードで賄えるそうだ。51円のカード使いを初めてやった(これが1円でもOKだったらしい)。大韓航空機この航空機では、サッチー本人が緊急時のパフォーマンスをしていた。低い雲と成層圏近くに、砂塵のような雲が薄く張っている。あれ、中国の砂塵じゃないよね。ずっと格安航空会社だったので、簡単な朝食が出てやはり嬉しい。コーヒーも飲めた。中国山地は雲の合間によく見えたが、昔見た見事な伯耆大山は見えなかった。しばらくすると朝鮮半島の東海岸上を通過。山は大丈夫だけど、平野は雪をかぶっている。また、雪に悩まされるのかと不安になる(結局旅の間、雪は大丈夫だったし、ずっと晴れだった)。写真では上手く写っていないが、まるで墓標のように韓国人はアパートを建てている。70ー90年代は、アパート住まいがステータスになっていたと聞いたが、それによって全国的に伝統的コミュニティは崩壊しなかったのだろうか?まるきり関係ないが、ぼんやり空を見ているといろんな「思いつき」が浮かぶ。少しメモする。(韓国では中国の影響で早くから国が出来、文字も導入された。文字に依っているので、遺物学問である考古学はあまり盛んではない。日本は、一万年も国が出来なかった。依って、文字が導入されたのは、早くて3世紀基本的には6世紀だろう。なぜこんなに遅れたのか。もっと真剣に考える必要があるのではないか?世界と比べて遅くない一万年以上前から定住生活を始めて、国を作らなかった。豊かだったからか。それもある。しかし、意識的に作ろうとしなかった、とう部分はないか?)空港でかなり迷う。「観光案内はあっち」と教えられて行くと無い。どうやら電光掲示板のことだったらしい。空港に観光案内所はないのか!諦めて、地下鉄でソウル駅に向かう。昼は食べれないと思ったので、残しておいた機内食を食べる。今回のレート。地下鉄で妊婦用の椅子を初めて見る。お年寄り用のは、今迄さんざん見て来たけど、こんな色使いと赤ちゃんをあやすためなのか、こんな人形はなかなかと思う。1車両に2席ある。ソウル駅でさらに迷って、観光案内所を探す。幸いにも若干日本語が出来た。そこで、「28日の宿は飛行機が早いために雲西に泊まりたいのだけど、泊まれるかどうか確かめて欲しい」と頼むと、「ここは、火災があってインターネットが使えない(後でニュースを見ると、ケーブルが謎の発火を起こしていたらしい)」と断られた。困っていると、自分のスマホで探してくれたが、ホテル名前と電話番号をメモしてくれただけだった。突っ込めなかった。行くつもりだった朴鐘哲記念館は、日曜日休みというのを着いてから気がついたので、急遽変えて以前「行って見たら」と聞いていた白凡(ペッポン)記念館へタクシーで行く。此処だ、と降ろされたので、公園の中に入るとどうも違う。人に尋ねてもわからない。少し迷って、辿り着いたが、とても立派な建物だった。どうやら独立運動の先生だったようだ。立派な冊子を無料で配っていた。子供たちが何十人と学習している。金の出処は何処なのか?よくわからない。貴族出身で、それなりの運動はしていたようだが、戦中戦後を通じて貧乏した跡が無い(はっきり言ってオススメしない)。バスで地下鉄駅まで行って、青丘駅で乗り換え鐘路3街駅に向かう。韓国には、事故や戦災の時に使えるように、全ての駅にガスマスクが常備されている。少しバリエーションが多くなった?鐘路3街で降りて、仁寺洞観光案内所で28日のホテルの空き状況を聞いた。日本語が出来なくて苦労したけど、どうやらたくさんホテルはあるので、空きが無いということにはならないようだ。もうそれで腹をくくるしかない。これは懐かしいタブコル公園の外。時間になって追い出されたはずなんだけど、みんなまだ外でたむろしている。鐘路から安国方面に行く途中にビルの地下を遺跡展示館として開館しているところがあった。大きな看板を掲げているのに知らなかったので、最近出来たはずだ。ざんねんながら、開館時間を少しだけオーバーして中に入れなかった。せめて、どの時代の遺物が出土したのか、知りたかった。万が一青銅器・鉄器時代ならば、なんとしてでももう一度行きたい。ホントは、この近くでモーテルを探すべきなのだけど、時間の関係でほかの日にはもう行けないだろうから行っておきたいところがある。日本大使館前の従軍慰安婦像(正式名称 平和の少女像)である。30分ほど歩いて、なんとか見つけた。安国駅を出て景福駅方面に歩いて近く。前来た時は、大雨の中の光復節(8.15)の水曜日集会で、一切像は見ることでなくて、心残りだったのだ。近くまで来ると、迷うことはなかった。像だけではなくて、布製アピールとテントまであった。机の上には、署名用紙とカンパ箱もある。ちょうど日本人のグループがやって来て、いろいろ話し出した。どうやら大学の歴史を学ぶ学生グループのようで、アメリカ人の先生は若干日本語韓国語が出来、それと1人女性が通訳をやっていた。男の子は「専従の給与を続けなくてはならないから、引くに引けない部分もあるらしいよ」とか、「歴史の決着なんて絶対つかない」と斜に構えて(韓国人には言葉はわからないだろうと平然と)感想を述べていた。女の子は、真面目に知ろうとしたようだ。テントの中の2人に説明をお願いすると、若い女性と先輩風の男が説明をしだした。像のひとつひとつの意味を丁寧に話していたようだけど、あまり興味はないので省略。ともかくたくさんの象徴的な意味があるらしい像の後ろに影があって、少女の影はおばあさんになっていて、胸のところには従軍慰安婦像の象徴であるチョウがとまっている。これは初めて知った。アメリカ人の先生は、先輩男性とお話していて、テントの2人は、学生で一ヶ月30人で回しているらしい。ということは、月に2回ボランティア当番がやって来るということだ。もう十数年毎日続けているわけだから、ものすごいエネルギーである。私は、知らないままで、斜に構えたことを言う人、特に男が嫌いだ。鐘路に戻りアベニュー162モーテルに入った。現金だと35000wだった。部屋はとっても綺麗だ。当たりだ。夕食を食べに行く。いろんな人が名店と認められる店は、日曜日夜にも関わらず、人でいっぱいだった。ここは、갈매기살전문 。残念だ。日曜日なのだ。名店の多くは閉めていた。結局、1人食事が出来そうなこの「スンデ専門店(큰맘할매순대국)」に入る。思った以上に美味しかった。マッコリは普通のチンスマッコリ。パンチャンも普通の白菜キムチとカクテギともうひとつ、酒もキムチも凄いことはない。でも、やっとソウルに来た!本場の味だった。そして、スンデ(頼んだのはチャンポンスンデ汁)。何がチャンポンなのかと思いきや、スンデと牡蠣と、シメジと、ラーメンと、キュウリ?だ。このスンデが、実はまるきり臭くないどころか、今迄食べてきたスンデの最高級だった。流石だ。流石、ソウルだ。私はソウルに来たのだ。ものすごく辛い。マッコリを頼んでよかった。この甘い酸味がとっても助かる。そして、ご飯にのせて食べるのが、最も理にかななった食べ方だと理解する。少しラーメンと汁を残すかもしれないけど、飲み干せないかもしれないと思っていたマッコリとご飯飲み食べ切れたのは、凄いと思ってください。ユジン食堂は開いていたけど、入ったら「アジョシ!もう閉店です」と言われてしまった。結局鐘路の名店は一軒も行けなかった。リベンジしたい。本のカバーを売っていた。買えばよかった。街の至る所に、何処からか光がおりて動く幻影を作っている。宿で、もう少し店て買ったビールとツマミで日記を書く。今日の費用ツマミとビール580円 カードチャージ10000w(以降全てw)タクシー3000宿35000 夕食10000 ツマミ4000 計62000+580円歩数 20550歩
2018年11月30日
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これは何か。紛うことなき、スニーカーである。しかし、買ったのは日本ではない。2013年の1月3日、韓国は釜山の国際通りの市場で、7万wを5万wに値切って買ったのである。あの頃はまだ円高だったので、多分実質4500円ほどだったと思う。あの時は、それでもまだ高いと思っていた。その頃私が買っていたのは、日本の靴のスーパーで安かろう悪かろうの運動靴だったので、だいたい1ー2年すると履けなくなるものばかりだったのである。約6年経って、これが現在のそのスニーカーである。私は靴2足を毎日交代に履く習慣を持っているので、3年間毎日履いて来た計算になる。釜山の靴屋のおっさんに「これはホントにメーカーもの?」と聞いたら酷く怒っていたのを思い出す。確かに品質は良かった。なんとか、今迄履いてこれたのだから。私のいつも買っていた靴よりも、3倍以上は長持ちをした。でも流石に表面に穴が開いている。裏を見ると、こんなにすり減っている。恥ずかしいが、私はこういう歩き方しか出来ないということだ。これはガニ股でずっと歩いて来た証拠だろう。認める他はない。靴底に穴が開いていて、雨の中水たまりを踏むと必ず濡れるので、最近は雨には履かないようにしている。買い替えなくてはいけないのだが、生来の不精でそれもしていない。今度、また韓国に行くことにした。もう20数回行っていたのに、最近は円安で尚且つ韓国の物価が高騰して、昔みたいに「お得感」がなくなっていた。尚且つ台湾に二回行ったこともある。韓国の遺跡で、だいたいの所には行ったという感覚もあった。次回いくとしたら、やはりまた一ヶ月ほどの日程で、それこそディープな遺跡巡りをしなくては満足出来ないほどの所には、これまで行って来た。それでは、何故今回行くのか?下関まで往復2日かけて行って、安いフェリーで行くのと同じぐらいの安さで、岡山-ソウルの往復航空券をゲット出来たからである。これで東京に行くのよりも安く韓国を旅できる。最近の80年代の韓国の市民運動の映画、そして幾つかの韓国の運動の現状を記した本を読んで、ムクムクとその方面への韓国熱が持ち上がって来たからである。今回は遺跡巡りは、おそらくしない。博物館は、遺跡目当ての所には、(わかんないけど)行かない。今、日程が近づいて、ワクワクしている。またスニーカー買おうかな。
2018年11月20日
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1月5日(土)晴 下関→倉敷 昨夜のことなんだけど、ここに書きます。フェリーの中で「チャンコロは‥」とのたまう男に出会った。同室の男と少し飲んだ時の話である。(※チャンコロは中国人の蔑称であるが、この男は朝鮮人を指して言っていた) 「朝鮮は儒教の国だと言うけれど、とんでもないことだね。親や公式の前ではいい顔するけど、町に唾を吐くわ、モノを片付けないわ、部屋を汚してもお構いなし。酷いもんだよ。日本人のように品というものがないんだ」 彼は韓国の友達はたくさんいる。たくさんの人間と直に付き合ってきたことから出した結論だと、さも説得力があるかのように言う。 途中まで反論したが、言うのはやめた。 果ては彼は 「上空侵犯されたら、即武力攻撃できないようではダメだ」 「2人殺したら、即死刑は当たり前だ。判決のあとに即刑を執行しないから、死刑予定者があんなに溢れかえるようなことになるんだ」 「公務員は遊び過ぎだね。即1/3にしないといけない」 絵に描いたような「小橋下」である。あゝこれが新自由主義にかぶれた男の成れの果てか。朝鮮人は嫌いだと言いながら、何度も韓国に渡り、凝り固まった思考で「わかりやすい言説」にしか飛びつかない。 下関港に着いた。8時下船なんだけど、再入国の時には税関だけが列になる。私は幸い最初の頃に通ったので、日本の外の空気を吸ったのは8時5分ころ。 「やっぱり日本は暖かい」 それが帰国最初の実感です。 8時12分の新山口行の電車に乗った。今までで最速の帰宅の途だ。(←夕方に用事があるため)しかし今日は乗り継ぎが多く、新山口、徳山、岩国、三原と途中で四回も乗り継ぎをしないといけない。もちろん、もう札束が入った封筒を落とすようなヘマはしないと自分に言い聞かす。徳山駅では30分も間が空いたために、初めて徳山駅の外に出てみた。駅舎に市民交流センターみたいなものがあって、おかげで寒いプラットホームで待たなくて済んだ。 交流センターには「地元をおいしく食べよう」というコーナーあり。郷土料理レシピを持って帰れるようになっていた。蕎麦がきは鹿野の名産なのかな?今度やってみよう。 広島や一部都市部を除いて、山陽線の上りはそんなに混んではいない。しかし、最近の日本人は混んでないところならば、隣に荷物を置いて隣に座らせないようにする人が非常に多い。昨日の「新自由主義」のおっさんに言いたい。これでも儒教の国の韓国人よりも日本人の方が礼儀があると主張するのか。 そして何よりも悪いのは、幾人かはそれでも自分の荷物を退けて席を空けているのに、そこに座ろうとせずに、立ちん坊を選ぶのである。つまり他人の隣には「怖くて」座れない老若男女が多数存在するのだ。新自由主義のおっさんよ、これが「品のある日本」なのだ。韓国人ならば、「その荷物を退けて座らせてくれ」と堂々と次から次へと言いそうだ。いや、言う前にみんな荷物を退けるだろう。 倉敷駅に着いた。 駅前の喫茶店で遅い昼食を食べる。喫茶店の店員が大荷物を持っている私を見て、プレートを席まで運んでくれた。こういう細かい「気配り」が出来るのも、「品のある日本」なのだとつくづく思う。(この日記を書いて9ヶ月後に、この気配りを「おもてなし」とも言うようになったが、私は意識してそういう言葉は使わないようにしている) 「品のある日本」は、他の言い方をすれば「おびえる日本」でもある。相手の気持ちを言葉で確かめずに、あれこれ想像して、かってに自分で判断する。その時にわかりやすい言葉があれば、それに飛びつくだろう。そんな時に上空侵犯があったり、領海侵入があれば「軍隊でもって叩け」と言った方がわかりやすくていいだろう。おびえる犬ほどよく吠える。 では、どうすればいいのか。それはこの小さな旅行記の任ではない。 青春切符2500円 昼食540円 バス340円 計 3380円 これで、私の韓国旅行のストックは全てなくなりました。少なくとも来年の正月までは韓国へは行かないと思います。でも韓国は日本の 未来を考える上で、貴重な合わせ鏡なのです。 ずっと注視していきます。
2014年01月12日
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倭国は決して採用しなかった「殉葬」の実態がどうやら少しづつ解明されて来ているらしい。これは殉葬時のジオラマ。 4-5世紀の新羅・大陸系と1ー3世紀の王族とは、明らかな断絶がある。それが象徴的に分かるのが、野外展示場である。29号木槨墓を壊して39号木槨墓が作られている。この間の時間差は100年余り。その間に広開土王の南征があり、金海は手痛い打撃があったという。そのあと、傍若無人な王を据えて、殉葬という文化の違いとはいえ屈辱的な犠牲者を出す墓制も取り入れざるを得なかった。 殉葬は、1人の王につき5人が供えられた。これは大成洞博物館の展示。王の傍らには一振りの太刀が置かれ、王の側面を囲むように臣下が殺されて(?)一緒の墓の中に入れられていた。 足下にも人が殺されて(?)横たわっている。この人には装飾品はかけられていない。 殉葬があった墓で、57号墳墓からの人骨を三体復元していた。人骨A.B.Cの平均身長は149.7センチ。20-30代の女性であった(!)AとCは、1-2回の出産経験があり、成長期に栄養不足を経験した(←つまり、奴隷階級から側女に選ばれた、ということか?)。また、女性でありながら、脚の筋肉が発達しており、重労働に従事していた身分であった可能性が高い(日本語の説明では更に現代韓国人が好む顔かたちではなく、丸顔(←ブスであると言外に言っている!)だということを強調していた)。高麗の王が入ってきて、金海の女性たちは酷い扱いをされたことが想像出来るのである。 大成洞博物館と国立博物館との間に金海中央観光案内所という建物が出来ていたので、行ってみた。去年幼稚園を改装して作ったらしい。 金海の歌というCDを無料でくれた(^-^)/。 国立博物館駅へ。 ここの階段には、「右側通行をしましょう」という珍しい表示。韓国は右なのか、左なのか、ずっと悩んでいたのでこれは助かる。博物館駅出発は4時30分だった。フェリーのチケット交換時間は6時までである。果たして1時間半で行けるのか、二回乗り換えて、中央駅からは重たい荷物を引きずって国際ターミナルまで歩かなくてはならない、急に不安になる。 10分前に着いた。結局バタバタの帰国になった。 出国フロアーは今日から新年営業ということで、すごい人出である。 これでしばらく韓国は見納めだ。 靴50000 朝食5000 DVD10000 チャージ5000 Wi-Fi 7700 みやげ29100 本 12000 港使用料14500 夕食 11000 計 129800w 歩数 10641歩 ちなみに、今回韓国滞在5日間で使ったウォンは合計448750wでした。日本でのフェリー代と電車往復に約2万5 千円なので、7日間で約6万5千円だったということになります。一ヶ月滞在の旅よりもコストパフォーマンスは遥かに悪いけど、一般の外国旅行よりも遥かに安い。 あ、旅はまだ終わりませんよ。日本に着いてから、いろいろと物思いにふけった記録が残っています。
2014年01月11日
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大成洞(テソンドン)古墳群に着いた。ここは、半年前に発掘して王陵級の発見があったらしい。韓国のことだから、未だ発掘が終わっていないのではないか、と期待したのである。 (参考12.8ハンギョレ新聞より) 大成洞(テソンドン)で4世紀の木棺墓2基など確認 4世紀 金官伽耶時代と推定される大型王陵級古墳が慶南(キョンナム)、金海、大成洞古墳群で発見された。 金海、大成洞古墳博物館は去る6月から行ってきた大成洞古墳群に対する7次学術発掘調査で、4世紀前半に作られた王陵級の大型木棺墓2基と5世紀後半頃の石槨墓5基を確認したと7日明らかにした。 発掘された古墳の中で注目されるのは88号と91号と名付けられた木棺墓で4世紀に中国東北地方鮮卑族系統の銅椀(銅製の器)と銅鈴(青銅鈴),殉葬人骨などが確認され、墓の性格を巡って学界の関心が集まっている。 シン・ギョンチョル釜山大教授は「墓の規模や殉葬跡などから見て、王陵級であることが明らかで、中国・日本系統遺物が一緒に出てきていることから古代東アジア古墳遺物編年に重要な根拠資料になるものと見られる」と話した。 博物館側は8日午後3時に現場説明会を開く計画だ。 しかしそれらしきものはない。 野外展示場の少し南側に土の色が変わっている処があった。おそらく此処が発掘現場なのだろう。 この古墳群の小さな丘。いつもは芝に隠れて見えないのだが、此処だけはむき出しの土が出ている。発掘の跡を見ていると、まるで貝塚のように貝が散らばっていた。 墳墓の周りに貝塚があるなんて聞いたことがない。(←あとで博物館の日本語ガイドの人に聞いたら、その人も見学した時にビックリしたと言っていた。韓国でも滅多にある事ではないのだろうか) 土器も幾つか落ちていた。 大成洞博物館には久しぶりに入る。 この博物館に入ると、正面に兵士たちの階層がわかる人形たちがズラリと並んでいる。大将は立派だけど、 隊長クラスになると突然馬はおろか、鎧は簡素になり武具も少なくなる。 歩兵になれば、鎧もない。これはおそらく5世紀あたりの服装だと思うが、倭国の影響も受けていたことを考えると、日本も同じような感じだったのではないか。 今回ゆっくり見たせいか、展示にボタンで日本語説明案内がある事に初めて気がついた。全ての解説文には日本語もあるし、図録の日本語版もある。この博物館はホント日本人に優しい。 以下、紀元前から3-5世紀ぐらいの三国時代の土器の変遷。 倭国との交流を示す日本の新聞記事を二つ展示してあった。今回殉葬について、わりとゆっくり観たのでのの成果は次回に回します。
2014年01月10日
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人に聞いてロッテマートの場所を探す。 肉は安いと思う。 豚肉バラ100g(64円?) しかしスーパーの野菜は高い。 卵もそんなに安くない。種類は多いなあ。 市場と比べて、パックする手間はあると思う。比較的衛生管理もいいのだろう。だから少しは高くなるのはわかる。しかし、それならば徹底するべきだ。この野菜などは、キズモノが相当混じっていた。スーパーの技術は日本よりも相当低いと見るべきだ。これが未だに市場が流通の多くを担っている理由なのだろう。反対に言えば、キチンとした企業が流通を担えば、韓国の台所はもっと安く衛生的になる。 レジは一応最新的なPOSシステム導入。 結局これだけ買って29100w(約2700円)。袋は有料です。このあと、金海に向かった。 チャガルチから中央駅まで行って、そこで(国際ターミナルに行くにはここから歩いてゆくため)荷物をロッカーに入れ、また地下鉄で沙上駅へ。そこから金海軽鉄道で金海に向かう。金海空港の南側に巨大な「街」が出来上がりつつある。ほぼ外観は出来ていて、全ての建物の上に太陽光発電がある。 商業都市のようでもあり、工業都市のようでもある。しかし一挙に街を作って、それで人が集まるものだろうか。 金海空港は軍事基地も兼ねているので、軍用機も停まっている。詳しい人がいたなら、機種を教えて。 首露王陵駅に着いた。そこから鳳凰台が見える。 金海自転車教育センター。韓国には何かの教育センターが異様に多い。 大成洞(テソンドン)古墳群に着いた。
2014年01月09日
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年を越しましたが、2012-2013年の「年越し韓国の旅」を終わらせます。お忘れの方もいるかもしれませんので、前回2013年1月3日のおさらい。大邱、馬山、釜山と極寒の中歩いた私は見事に風邪をひき、suzuさんから熱さましの薬を貰ってチャガルチの宿で爆睡したのでした。 1月4日(金)晴れ 釜山 朝だいぶダルさがとれた。これならば、外に出ても大丈夫そうだ。それでも、ゆっくりと支度したために10時ごろになる。 ここの部屋は505号室で、前回の503号室と比べてバスタブがない。少し寒そうだったので、お風呂は諦める。 先ずは国際映画通りに出て、いつもは直前でバタバタするので、今回は午前中に(自分用の)土産物を買っておこう。 靴屋さんで運動靴を買う。これでも7万wを5万wに値切りました。 suzuさんオススメの豆腐屋さんで遅い朝食。「豆腐家」。 ドアには「あけましておめでとうごさいます」の文字が。 小綺麗な店なんだけど、美味しい定食が食べれるらしい。 豆腐飯を頼むと先ず小さなヤカンに入った豆乳が出てくる。コクがあって美味しい。 そしてあつあつの麦ごはんに豆腐とキャベツを和えた熱飯と、オカズが5品もついてくる。これで5000w。流石suzuさんの目利きは確かだ。 ここでゆっくり次の予定を練ろうとしたら、またWi-Fiルータがいう事を聞かなくなった。街中でこうもしょっちゅう必要なときに通信障害を起こすようなら、使えない。ollehKTはダメだ。
2014年01月08日
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今日は忙しい。馬山(マサン)行のバスがすぐに出るので、キンパブを一個包んでもらう。 馬山行のバスは3列の綺麗なバスだった。1時間40分かかったけど、爆睡した。 高速バスセンターについたけど、ここは釜山行きもない小さなバスセンターだった。ともかくインターネットで調べたルートで市立博物館に行こうと見ると、一回通じて突然通信が途切れた。 オーレKTの店を探して街中をウロウロする。相当歩いて無くて電気屋に行くと、「馬山駅の近くの店に行け」という。しかしあとでわかったが、そこから馬山駅まではバス停留所3-4つもあるような遠方なのだ。そんな遠くに歩いて行け、と外国人に言ってしまうのが韓国なのである。ともかく芯から冷えていたので、暖かい店に入ってこれからのことを考えていると、突然通信が戻った。バスはそこからすぐ近くから出ていた。それにしても、こんな街中でWi-Fiが繋がらないとは、いったいどういうことだったのだろう。 KT西馬山センターという停留所で降りて、そこから山の上まで歩いていかなくちゃならない。どこにでもある独立運動を讃える記念公園を通り過ぎ、 蒙古のお店があった。ちょっと覗いたらおじさんとおばさんが机に座っていた。 「すみません、店ではないんですね」 「そうだよ」 モンゴル人のための事務所なのかな。 そう言えば、道で会う人みんなモンゴル人の顔つきをしている。韓国にこんなにもモンゴル人の移住者が多いとは。そう言えば、昔モンゴル人と結婚する詐欺に出会うコメディ映画(スエ主演)を観たことがあった。彼らの生活はあまりよくないようだ。少し寂れた村中を歩く。 これは日本から輸入したたこ焼き車か。日本人相手じゃないと、訴求力は少ないと思うんだけど。 なんとか山の上まで歩いて行くと、建物だけは立派な市立博物館があった。 ただし、展示物は慶北大学よりもしょぼいものだった。それもそのはず、古代から現代まで一フロアで全部展示しているので、一つの時代はアリバイ的にしか物を置いていない。 これは近世の地図かな。安威の辺りが馬山だと思う。昔は釜山よりも交通の要所だったのかもしれない。 しかし、ほとんどしょぼいモノだったことは否めない。これは博物館から見た景色。苦労に苦労を重ねて、ここまで歩いて来たのである。それでこういう物を見せられた。さすがの私もへこんだ。この時初めて身体が重いことに気がついた。風邪の引きはじめである。疲れに疲れた。もうタクシーでバスセンターまで行こうかと、真剣に考えたのではあるが、生来の貧乏性、気がつけば歩いてバス停留所まで戻っていた。1330に電話して、釜山行きのバスは市外バスセンターという来た所と別のセンターに行くことを確かめてバスに乗る。 馬山市外バスターミナルでは釜山行きは5-10分間隔で出ていた。何か腹に入れてバスに乗ろうとしたら、何故か食欲がわかない。身体がだるい。食べれない、というのは、私としては異常事態ではある。まずい。 釜山まで約40分、爆睡した。 西部バスターミナルに着いた。ともかく食べて休んだら元気になるかな、とフードコートに行っても、どうしても食欲がわかない。南浦洞まで地下鉄で戻った。 suzuさんに電話して、「今日の夕食は風邪気味なので、辞退します。休んで元気になったら、真珠食堂に顔をのぞかせます」と伝える。伝えたら、ホッとして少し元気が出た。宿の近くでビビンククスを食べる。2500w。安くて美味しかった。 宿では31日に先払いをしていたことを忘れられていて、少しトラブったが、なんとか部屋に入ることが出来た。6時半に部屋に入り、10時過ぎまで爆睡する。やはり3日間のほぼ睡眠2-3時間だったことのツケと、今日の零下10度の中でずっと歩き通したことのツケが溜まっていたのだと思う。目が覚める。喉が異様に渇いている。身体のダルさは少し治ったかもしれない。意を決して真珠食堂へあいさつだけでもと、顔をのぞかせる。 真珠食堂では、もう宴は終わりかけていた。ハヨンさんがちょうど帰るところで、他にはsuzuさんコバちゃん、他に新しい女性3人が来ていた。料理はオデン鍋だったようだ。 ここで十分にお水をいただく。自分でもびっくりするぐらい飲んでも飲んでも喉が渇いていた。冷たい水がホントに美味しい。suzuさんから熱さましの薬をいただく。 suzuさんたちにお別れを言い、11時半ごろ宿に戻り風呂にも入らず爆睡した。 地下鉄2400 バス1200 キンパブ1500 大邱→馬山7200 バス2200 馬山→釜山3800 ヒビンククス 2500 Wi-Fi7700 計 31500w 歩数 16852歩 今年中に旅レポート終わらせたかったのですが、やはり無理なようです。あと2日分は来年にいたします。
2013年12月28日
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1月3日(木)晴れ 大邱→馬山 なぜかゆっくりテレビを見出したら、目が冴えてしまって眠ることができなかった。明け方少し眠って9時に宿を出る。今から考えると、夜更かし癖が2日間の「飲み」でついてしまい、そのまま睡眠不足をやらかしてしまったと思う。3日続けての睡眠不足は、自分の自覚以上に身体に堪えていたことをこの時はまだ気がついていなかったのでした。 さて、大邱はー10℃だそうだ。地下鉄で先ず七星市場駅に行き、そこから慶北大学博物館に行くという計画である。 駅でインターネット地図検索をすると、歩いて30分ほどだという。それならば、どうせ博物館は10時からしか開かないのだから、歩いてゆくことにした(←芯から冷えた)。ちょいと下町っぽい街中に大学はあった。 噂では野外展示場が充実しているということだったので、この建物かと思ったら違っていた。 こういう普通の建物が博物館だった。 古墳が移築されていた(若木古墳。三国時代、5世紀)。 博物館の中に周辺の地図があった。赤い点は全て古墳群である。大邱の場所と池山洞古墳群のある高麗の場所は、私の汚い文字で示しました。見えるかな。不老洞古墳群の場所は、丸く囲みました。 ここは三国時代の遺跡の出土品を主に展示してあった。少し私の関心からずれていて、あまり興奮しなかった。大邱の伏賢洞古墳の(名称失念)この箱は、朱色である点で非常に珍しい。 4-5世紀(らしい)この筒型器台も見たことない。 若木古墳の出土物が並んでいるが、そんなに目を引くものはない。 バスで七星市場駅に戻り、東大邱駅に帰って、気になっていたシニア展示体験館に入ってみる。これは、バスセンターの二階から四階にかけて作られた半官半民の介護博物館とでも言うべき施設である。 福祉・老人介護の道具を展示し、実際に体験出来る施設だそうだ。曜日の関係で、体験はできなかったが、見学だけは出来る。見学したいというと、わざわざ職員がついて来て説明をしてくれた。彼としては張り切っていろいろ説明したがったのだけど、如何せん詳しいことは聞き取れない。 介護道具には詳しくはない(これでもヘルパー2級は持ってます)。詳しい人が見たなら、いろいろ勉強になるんだろうな。 浴槽施設である。 これは坂がある処をキャタピラで登っていける車椅子。これは流石に日本にはないのではないか。道路事情の悪い韓国ならではの開発だろう。 老人用の直ぐに履ける靴を各国ごとに比較して展示していた。 介護学校が主導し、政府や民間が支援して作られたそうだ。介護関係者や学生にとっては無料で最新の機器を利用出来るし、企業にとっては反応を聞くことが出来る。双方にメリットがあるのだろう。こういう施設、日本にはあるのだろうか。ないような気がする。
2013年12月27日
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啓明大学の行素博物館。二階の常設展示場です。住居の変遷史。新石器時代(~5700年前?)。ホントに既にこんな建物だったのだろうか。何処まで学術的に検証しているのか、確かめようがない。しかし、三内丸山遺跡のことを考えると可能性はある。櫛紋土器文様の一覧。絵を見ただけで、何を表しているのか良く分かる。住居。青銅器時代になると、バリエーションは広がるらしい。支石墓の大きな石はこのように運んだらしい。鉄器時代の慶州ファンソン洞製鉄遺跡での製鉄の様子。送風機がなんか最新式のような気がする。武士の復元がかなりリアル。その他、いろいろ写真は撮ったがしつこくなるのでこれぐらいで。あっ、そうそう。高麗時代のこういう怪獣の置物もあった。どこかで見たと思ったら映画「グムエル」の姿だった。こんなところから借りていたんだ。ついでに高麗時代の文様もこのようにバリエーションが広がったらしい。白磁の展示もあった。つるつるの白色ではない。奥の深い「白」なのである。地下の喫茶室で少し休む。ケーキセットが4000wと安かった。このあとの帰っている途中で、前々回に5万wで買った革製の高かった手袋を片方落としたことが判明。よっぽど引き返そうかと思ったが、寒いし、あるとは限らないし、泣くなく諦める。大邱はダイソーの本社があるみたい。至る所にダイソーがある。韓国版ダイソーは1000w均一ではなく、必ず値札が付いていて1000〜5000wと、様々なバリエーションがある。特徴は機能性よりも、可愛らしさや遊び心がある。ということ。私は支持する。東大邱に戻って、suzuさんお勧めのターミナルマクチャン(ホルモン焼き屋)に入る。豚生マクチャン7000wを頼んだら、美人のママさんから2人前からと言われた。あとには引けないので、それをお願いする。突き出しが出てきた。おや、ポンテギが出てきた。美味しく頂きました。マクチャンは腸のホルモンだったのね。ぐずぐずしていたら、ママさんが焼いてくれた。不老マッコリも頼む。旨味があって美味しい。(この前日本の居酒屋でマッコリを飲んで見たけど、韓国が恋しくなった)こんな風に野菜に巻いて食べます。宿に戻って、久しぶりにゆっくりした。KTX14400 バス2400 宿30000 Wi-Fi7700 昼食5000 地下鉄2400 ケーキセット4000 ダイソー4000 夕食17000計 86900w歩数 13521歩
2013年12月26日
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地下鉄で啓明大学に行き、行素博物館を再訪した。前回は30分ほどで慌ただしく見たので、今回はじっくり見たかったのである。これは韓半島で1番大きい無文土器(新石器時代、高さ90センチ)らしい。一階フロアにどんと据えてあった。今回特別展をしていて、新石器時代を中心に展示品をまとめていた。울진 죽변리チュクピョニ遺跡や金泉 松竹里遺跡の展示品が中心だった。土器としての機能は、日本の縄文時代のそれとは大差ないけど、日本のように意匠の凝ったものは無い。また、形や「紋」も同じものを見つけることはできなかった。朝鮮半島と日本列島、土器はどのように分岐して、どのように発展していったのか。研究すれば、物凄く面白いんだろうな。日本とは全く違う円板形土製品。松竹里遺跡の石斧、石刀。松竹里遺跡の櫛文土器。2階に常設展示室がある。博物館では1万の遺物を収蔵していて、常時2000のそれを展示しているらしい。その量も大学博物館では空前絶後であるが、解説が写真と絵を多用していて、大変わかりやすいのである。私の訪れた大学博物館の中ではベストワンのそれである。これは、新石器時代後期の土器文様を写真で説明している。これを見て、私は縄文時代の文様とはまた違う系統の文様があるのだと思ったものである。少し疲れたので、もう一回に分けて展示品の紹介をします。
2013年12月25日
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1月2日(水)晴れ 釜山→大邱昨日の夜床に就いたのが午前4時過ぎだった。やはり7時に起きることは出来なかった。9時過ぎに起床。急いで支度して地下鉄で釜山駅まで。KTXで大邱に行くチケットを買う。なんとか10時出発のチケットが取れた。バスで行けば、時間はこの倍はかかるはず。ちょっと高いけど、KTXで正解だった。あっという間に東大邱駅に。車窓からは雪景色!晴れているからいいけど、2日前にツルツル転んだ記憶が蘇る。観光案内所で不老古墳群の行き方を教えてもらい、東大邱の停留所からバスで行く。不老地区はまだ道路が凍っていた。なんと観光案内所が設置されていたが、残念なことに、12月と1月は開いてないとのこと。こんなに寒くちゃあね。せめてパンフだけはもらいたかった。説明板にはこのように書いてある。210もの古墳がある5-6世紀の古墳群である。大伽耶地方に入るのだろうか。池山洞のように、小高い丘の上に円墳が集合して造営されている。墳丘の上に登って、当時の景色を想像する。東大邱に戻って、suzuさんオススメのヨンビン(young bin)モーテルにチェックイン。確かに綺麗です。冷水とお湯の出る機械も付いているし、テレビは薄型に替えているし。3万wクラスとしては掘り出しモノだと思う。モーテル前の中国料理店で昼食をすることにした。チャンポン飯を注文。中華丼みたいなモノを予想していたら、海鮮汁のご飯付きだった。中国料理店でどうしてこんなに赤くしなくちゃいけないんだろ。あまりに辛くて、ほぼないことなのですが、少し残しました。
2013年12月24日
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映画を観に行く。物凄い行列。 「タワー(타워)」という映画。ソル・ギョング、ソン・イェジン、キム・サンギョンという三大スターや、アン・ソンギなどの大物脇役を配した韓国版の「タワーリング・インフェルノ」です。(監督キム・ジフン、邦題「ザ・タワー 超高層ビル大火災」) ソウル江南にどうやら超高層ツインビルが出来ているらしい。クリスマスの夜、そこにタワー上層階で馬鹿らしい理由で火災事故発生。火は瞬く間に取り残された5700人に迫って行く。消防士、施設管理チーフ、フードモール・マネージャーという登場人物や話の構造や落ちの付け方含めて、これでもか、というほどかの名作を真似しています。40年後にもう一回作る必要はあったんだろうか。 さすが正月映画。さすが元旦。大きな会場に観客はほぼ満員。家族連れが多かった(岡山は11月30日からシネマ・クレールで上映)。 映画がはけて、長い行列に並ぶのは少し躊躇したけど、気になっていたホットクを食べることにした。15分並んで出て来たのは、出来たてのホットクの上を切ってカリカリの豆らしきものを入れたモノでした。この様に韓国のホバクは屋台ごとに工夫があって、屋台ごとに味が変わるという特徴がある。 熱くてあっという間に食べてしまった。 6時からsuzuさんと待ち合わせて独島という店に入る。牡蠣の美味い店だという。他のブログでは(ギャグで?)店名を自粛しているみたいですが、私は堂々出します。美味しいモノに国境は無い。 メニューです。 今日は昨日のふらうさん夫婦とコバちゃん、ハヨンさんにヒロ(?)さんが参戦。 最初の突き出し。 それから、ビックリするほどいろんなパンチャンが出て来た。あと2人参戦。 そして見事な盛り合わせ。鯛やヒラメ、カレイなどの踊り食い。 そして出ました。から付き牡蠣。人数も多かったけど、物凄く安かった覚えがある。1人旅では決して味わえない豪華な「韓国の」海の幸を頂きました。浦島太郎が竜宮城へ来た気分。これでも、飲みは終わらない。 真珠食堂に移って、いつもの突き出し。お酒はビールと白のセンタッ(マッコリ)。 スンドゥブ(スジェビ入り)。この濃さ。普通と違う。他では真似出来ない。 卵焼きかと思ったらトーフステーキでした。 ラーメンを入れて締め。 更にご飯を入れて焼き飯。写真がボケボケですみません。 最後に出たのは大根のサラダ! まるで梨のような甘さでした。 品種が違うのか?ビックリ! 気がつけば、3時を過ぎていた。 明日は7時起きなのに!起きれるのか? コーヒー3500 昼食5000 電話代1000 コーヒー1000 映画7500 Wi-Fi7700 ホバク1000 夕食30000 計 56700w 歩数 12242歩
2013年12月22日
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釜山の東岸、海雲台の海水浴場から初日の出を拝みました。 2013年1月1日(火)晴れ 釜山 朝5時50分起床。睡眠時間は約3時間。ええ、根性で起きました。モーテルとの約束で荷物はいったんフロントに預ける。どうやら時間貸し用に部屋は空けとくらしい。正式な元旦ではないけど、今日は祝日、刈り入れどきなのだろう。一日3万wの安さはダテじゃない。 地下鉄は西面駅から満員電車になった。7時15分海雲台に到着。ものすごい人出である。 7時25分海岸に着。人ばっかりだ。催しものがあると言っていたが、そんなものは一切見えず、ただ、ただ人が海岸から道路にかけて埋め尽くしている。 風船が20-30個飛んだ。何か手紙みたいなものがついていた。願い事でも書いて飛ばしたのかな。黒いのは全部人です。 7時35分ごろ、海から綺麗に日が昇り始めた。 みんな一斉にカメラで撮りだした。船が通り過ぎる。 ヘリの初の日の出飛行って、ただ飛んだだけ。 でも実に綺麗だった。 驚いたことに、誰一人として「拝んでいる」姿はなかった。お互いに写真を撮っているだけ。 2万人以上はいたと思うが、ただ初の日の出を見て、写真を撮って、なんかの行事があると聞いただけで、こんなに人が集まるものだろうか。8時30分ごろ、みんなてんでに帰りだす。 私はコーヒーショップを探して市場をそぞろ歩き。人気店には行列が出来ていた。 小さな喫茶店で相変わらず高いコーヒーを飲む。 初の日の出を(私だけ)拝んだ海雲台で高い朝食を食べる気が全くしなかったので、南浦まで帰って来た。途中突然Wi-Fiが全然繋がらなくなる。 1330にかけてサービスセンターを呼んでもらったら、正月休みで居ないって。チャガルチ前も、たくさんある携帯屋が全部休み。このまま、この旅の間インターネットが出来ないのか?それは困る。(←結局、一つだけ開いていた携帯屋で治してもらった。原因はわからない。これがWi-Fiのケチの付き始めだった) suzuさんお勧めのテジクッパの店に行く。 しっかりしたパンチャンとしっかりした豚肉が入って5000w。 パンチャンをいろいろ混ぜて自分なりのテジクッパ作成。美味しく頂きました
2013年12月21日
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梵魚寺から佐川洞に移動。旧洞窟チブ(店)という、昔の洞窟(防空壕?)が飲み屋になっている処を探していたのである。しかし、とうとう見つけることができなかった。(あとで聞くと、廃業したという噂)仕方ないので、南浦に行ってsuzuさん情報の우리보리밥(ウリポリパブ)という店に入った。此処は4000w(約320円)でこんなポリパブ定食が出る。麦ごはんに野菜のおかずがいっぱい!これだけで、一日分の野菜は充分。そのあと、suzuさんにとって貰ったトンミョンモーテルにチェックインしようとしたら、「予約ありません」「え?予約ですよ、予約!」「ええ、ありません」なんの間違いだろ。急遽駅の公衆電話に戻って、suzuさんにかける。「@!$#×♪」あれ?どうやら公衆電話が混線している。10分静かに気分を落ち着けて、もう一度かける。やっとつながった。「え?ちゃんと予約したよ。ちょっと一緒にいってみようかね」というわけで、suzuさんと半年ぶりの再会。私の勘違いで、一階下のカラオケ屋に行ってしまっていたのでした(←すみません)。無事にチェックイン。そんなこんなで、怒涛の年越し釜山に突入したのでした。서래(ソレ)という焼肉屋へ。パンチャン(オカズ)もシンプルながら、美味しかった。カルメギサル(갈매기살)という、豚の横隔膜の肉らしい。とっても柔らかい。suzuさん、コバちゃん、ふらうさん夫婦、ハヨンさんが集合して乾杯。そのあと真珠食堂に店を移し、いつもの美味いパンチャン。おでんとスジェビ、じゃがいもの特製鍋。クァメギ(과메기)という秋刀魚の寒ざらし。魚のそういう食べ方があるということを含めて、初めての体験。寒い地方に発達した食文化。味が濃縮されているけど、やはり私は焼いて油がジュワッと出た秋刀魚がいいな。ふらうさんは感激して、真珠食堂のおばちゃんに持ち帰り用を注文していた。韓国でもNHK紅白をやっていた。チラリとは見たけど、一生懸命見ることはなかった。その頃にわかファンになっていたAKBとSKEの出番はみたかったけど、拘らなかった。日本の家では録画しているはずだからだ。ところが、帰国して判明したのであるが、予約は済んでいたけど「録画ボタン」を押さずに「視聴ボタン」を押していたのである(つまり見ること出来なかった。今年はAKB、SKB、NMB全部見るぞ!)。ムーダン(巫女)が描いてくれたらしいおまじないのお札。11時を過ぎて流石に真珠食堂は閉めるという。そして更に店を替える。ホルモン屋。でも何故かホルモン焼きは出ない。そして遂にここで6人揃って新年を迎えた。明けましておめでとう!세복 많이 받으세요!近くの龍頭公園では花火を打ち上げていたらしく、音が聞こえる。誰かが持って来たお屠蘇を飲んでみる。いやあ、釜山でお正月だ!誰かが持って来た黒豆や煮しめも頂いた。ありがとうございます!何やかんやで2時ごろまで飲んでいました。が、私は次の日は初日の出を拝むという野望があったので、早々に早引けしたのでした。パン800 Wi-Fi 7700 チャージ10000 昼食4000 宿(3日分)90000 夕食28000計 140500w歩数19372歩
2013年12月19日
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金井山城(クムジョンサンソン)とは。長さ17,337m、城壁の高さ1~3m、総面積は8213平方km。釜山市の4つの区、そしてお隣の梁山(ヤンサン)市にまたがる韓国最大の城壁。現在残っている山城は「文禄慶長の役」で多くの被害を浴びた後に、避難と抗戦を目的に、無くなっていた城を再度建て始め、朝鮮時代に完成したと言われている。その後、旧日本軍により破壊されてしまったものの、1972年に東門と南門、1973年に西門、1986年に北門を復元し、現在も続けて復元作業が行われている。さて、私はひたすら北門に向けて歩いている。もはや私はこの山城を一周する積りは全くなくなり、いかに途中で降りるかばかりを考えていた。地図を見ると、北門から降りて梵魚寺(범어사ポモサ)があったのでそこへ降りて行こうと決めていた。何回か道行く人に「この方向でいいのですか?」と聞いてOKを貰っていたのだが、行けども行けどもそれらしき道にならない。その間にもアップダウンは続く。私はこの時にすでに深く後悔していたが、山道を甘く見ていた。冬山を甘く見ていた。私の履いていたのは、スーパーで買った1980円の運動靴、底はツルツルである。滑る滑る。転んで打ち所が悪ければ、大怪我もする。下手をすれば命にも関わる。何度か転び、その度に筋を痛めたのではないか、とヒヤヒヤした。北門に着いた。東門と比べると、かなり小さい。ともかくホットした。その直ぐ側にビジターセンターらしき建物があった。何か温かいモノを売っているかもしれない。せめて暖ぐらい取れるだろう。せめて地図ぐらい置いてあるだろう。せめてくつろげる処だろう。と思って行って見ると、無駄な登山服とかが展示されているだけで、登山者は外で食事していた。非常にガッカリする。トイレだけはあった。この北門から梵魚寺に降りる道が、実は1番怖かった。全て斜面で全てカチンコチンに凍っていた。一瞬でも気を抜いたら、転ぶ。いつ谷川に落っこちるか。緊張しっ放しで写真は一枚もありません。たった一キロ程度の坂道がどんなに遠かったか!もう二度と韓国の冬山には登らないと心に決める。梵魚寺は禅寺。いくつか、有難そうな寺はあるのだが、よくわからなかった。信徒らしき人が熱心に拝んでいる。この熱の入れようは日本とは温度差がある。旧正月が本式の正月とはいえ何らかの行事はするのか、大晦日と正月に向けて、延々とぼんぼりのお飾りを付けていた。門番の立像(?)は合計四体居る。インド風?バスで梵魚寺駅のバスセンターまで戻り、3時ごろになっていたけど、佐川洞まで行って食事をしに行った。
2013年12月18日
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12月31日(月)晴れ 釜山 釜山港に着いた。−6度だそうだ。耳が痛い。 この日の為替。為替相場は12900w。8月よりも相当低くなっているが、仕方ない。 先ずはWi-Fiルータを借りる。KTの方が若干安かった。しかし一日7700w。前回の5500wと比べると高い。11日以上借りたり、予約をすれば安かったのだが。そして、安いこの機種を選んだことがあとで裏目に出る。 朝食はパンで。 今日は博物館は全て休みなので、金井山城に行くことにした。朝鮮式の山城を見たかったからである。 温泉場駅から203番バスに乗って、山に登ってゆく。どこで降りていっていいか、わからなかったので、東門という処で降りてみた。山の上はやっぱり寒い。 少し登って東門。案外雪は積もっていない。これなら登れそうだ。岡山の鬼の城との関連がないかと期待していたのだが、登って分かったのは、こっちのは秀吉の朝鮮侵略以降、防塁のために作られたとのこと。8世紀と17世紀では、比較するにも遠すぎる。 石壁の作り方も(復元だけれど)相当洗練されている。 雪だるまが所々作られていた。 親子の雪だるままであるのが、韓国の特徴かな。 しばらく行くと、道が雪と氷になって来た。嫌な予感。 一気に見晴らしが良くなる。山城の遺跡意義にもはや魅力は感じないが、見晴らしは素晴らしい。遠くに見えるのは洛東江だろうか。 霜柱を久しぶりに見た。 以下絶景三連発。 此処で引き返すという手段ももしかしたら、あったかもしれない。あとで分かったのではあるが、バス路線を終点まで行けば、とても美味しいマッコリを作る村にたどり着いたので、そこで昼食をとる旅になればとても楽しいものになったと思う。しかし、私は同じ道を引き返すという旅は不効率だけでなく、発見がないという理由で九割かた採用したことがない、というどうでもいい「プライド」があった。その決断は、一時間後、大いに「反省」することになるのであった。
2013年12月17日
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去年年末の生涯初めての年越し韓国レポートを今始めます。大変お待たせしました。でも一日目はまだ日本です(^_^;)。2012年12月30日(日)雨 倉敷→下関急遽韓国への旅を決めました。仕事が長期の休みを許さなくなるようなので、これが最後の機会だと思い至り、初めて年越し韓国を決意しました。5日間しか韓国に滞在することが出来ません(あと2日は日本国内移動)。そのうち、31、1日は月と祝日ということであらゆる博物館は休み。4日は最後の日ということで、釜山から出港するのであまり動けず、実質主な遺跡巡りをしたり、行きたい処へ行くのは、2日と3日しかない。今回は遠出も出来ない。あまりこのレポートに期待しないでくださいね。というわけで、気分はあまりウキウキもしておらず、雨の出発、いつもの通り、バスで倉敷駅まで行く。倉敷駅では、ショッピングセンター「アリオ」と三井アウトレットモールが御出迎え。今まで何度も登場した駅裏の景色ですが、どんどん景観が変わっています。2007年にはバブル時代に計画されたチボリ公園がまだ稼働していました。やがてそれが閉園。さらに更地になり、何やら工事をしていたと思います。そして、2011年、結局大きな商業施設が建ったわけです。ただし、開店一年ほど経って思ったほど人は入っていない。結局この事態の責任は誰もとっていない事実に、私はときどき愕然とする。「企画を立てた市長は既に故人となっているのだから」責任追求はしないというのだろうか。きちんと責任追求が出来ていないから、またぞろ現市長の伊東某はこの倉敷駅を一千億円20年かけて高架にするという。それで儲かるのゼネコンだけで、地元には雀の涙しか恩恵がない。数億円で福祉・教育に回した方がよっほいい。いつまでこんな政治が続くのか。旅レポートと話が完全にずれました。申し訳ありません。閑話休題。倉敷駅にはこんなオブジェがあった。すわ、韓国と同じように日本でも遂に駅構内に竹島(独島)領土主張を始めたか!と思いきや、ちょっと形が違うようだ。うーむ、どうやら桜島か屋久島のようだ。JRの九州宣伝だ。AKBのゆきりん(柏木由紀)が鹿児島出身なので、宣伝大使を勤めている。いつもそうではあるが貧乏旅行なので、一日かけて下関に行き(青春切符使用)、フェリーで釜山入をする。よって旅程は8:15倉敷駅発 9:22糸崎着 9:49糸崎発 12:05岩国着 12:06岩国発 15:44下関着という合計 7 時間29分の旅行になる。糸崎駅の乗り継ぎ時間でビールを買おうとして、初めて糸崎駅の外に出た。少なくとも山陽本線では1番有名な乗り継ぎ駅なので、コンビニぐらいはあるだろうと踏んだのである。ところが見当たらない。駅前の小さな食料品店に寄ってみた。「ビールないんですか」「ないのよ。ごめんね。周りにも売ってないわね。スーパーが駅前にあったんだけど潰れちゃったしね。コンビニは今ちょうど建設中よ。乗り継ぎのお客さんが時々来るんだけど、一月になったらコンビニがあるからね」こんな寂れた町がどうして電車の乗り継ぎ駅になっているのか。山陽本線の七不思議の一つであろう。広島駅の5分の停車時間で無事ビールをゲットした。岩国駅で乗り継いで、持って来た野菜炒めを肴にしてゆっくり飲もうとしたら、かつてないほどの混み様だった。そうか、今日は年末でした。郷里に帰る人たちでいっぱいです。それでも隙をついて食べてビールも飲んだのでした。下関駅に着。ダイソーで(韓国用のプラグがひとつしかなかったので)タコ足を買う。序でにカメラを首から吊るすための紐も買った。下関国際ターミナルも、前回竹島問題で閑散としていた8月とは打って変って人でごった返していた。チケットは行きは9千円、帰りは8千円だ(港使用料、燃油サーチャージ別途1800円)。帰りは釜山で買った方が安いのだが、今回はソールドアウトの可能性があったので往復予約をしてしまった。船室は二等の112号。寝床はこんな感じです。なぜか何時もだいたい112だ。お風呂場の隣である。今回は行が韓国船だった。私はコンビニがあるので、その方がすきだ。カップラーメンとビールで夕食。バス340円 電車2600円 船代18800円 お茶120円 ビール218円 ダイソー262円 カップラーメン1500w ビール1850w計 22340円+3350w歩数 5446歩
2013年12月16日
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下関駅では電車の待ち時間が一時間もあったので、昼食をとった。サブウェイのセットです。 13時過ぎの電車に乗って、接続が悪くて7時間以上かけて倉敷に帰った。 電車に揺られながら、気がついた事が三つ(ちなみに電車から海が見えたのでパチリ)。 一つは韓国人と日本人の顔つきの比較である。もう混血も進んで長いので、こっちに帰って来ても違和感ないと思っていたのであるが、約一ヶ月ぶりに日本の電車に乗るとみんなことごとく「日本人だなあ」と思ってしまった。頬が角張って、顎が無くて、鼻が低く、彫りが深い人がほとんどなのである。或いはその幾つかの特徴を持っている。日本人の顔は基本的には朝鮮人とは違うのだ。でも、若者は瓜実顔が多くはなっている。これは、人種というよりも食生活の影響か。 一つは、礼儀の問題である。 岩国駅で乗り換えたとき、座席は隣だけが空いている席がほとんどだったので、(隣に荷物を置いていたけど)若い男が座っている処を荷物を退かせて座った(自分から荷物を退かせようという気配は皆無だった)。一駅過ぎると、彼の方が怒った様に席を立って違う車両に移って行ったのである。自分の意に反して隣に人が座ったのが、ガマンならんことだったらしい。若者の自己中といえばそれまでだが、韓国ならば年上の私のために席を譲る若い男女カップルがいても全然おかしくないし、こんな事で腹を立てる若者は間違っても1人もいない。自己中の若者がいないわけではないだろうが、公共の場で自分の律し方は、明らかに韓国の若者の方が訓練されていると思う。(写真は岩国駅の前に延々続いているレンコン畑。そういえば、岩国レンコン有名です) それは「若者が悪い」のではない。日本人全員が悪いのである。 「お座りください」だけでは無く、 「座らせてください」が言える日本人が少な過ぎる。 電車の他の場面では、多くの席では2人席の多くは荷物も置かずに「空いて」いた。しかし、何人かの女性や若者は決して座ろうとはしない。日本人は何を怯えているのだろうか。 一方では、満員電車の時は割と安心して隣に座る。或いはこれは電車が岡山県に入り、金光駅に着いた時に起きたのであるが、私が四人がけのイスに1人で座っていた時にドヤドヤとおばちゃんが入って来て当然の様に三人で座り、私が倉敷につくまで耳を塞ぎたくなる様な大声でお喋りを始めたのでした(^_^;)。 気がついたことの三つめ。つくづく日本の建築技術は優秀である。 電車は高速で横に移動しているので、全ての景色は水平に横に流れる。そうやって見ると、全ての建築物は、小さな家も巨大な建物も全て水平をとって作られている事がよくわかる。また、屋根瓦の綺麗なこと!ガタガタになった屋根瓦は廃屋以外には無かった。特に広島県の一定地域は見頃な橙色の屋根瓦が統一して使われている。建築は10年や20年では変わらない。たとえSAMSUNGに日本が敗れようと、その底力は決して韓国には負けないだろう。 この旅最後の食事は、倉敷でラーメン屋を最初に始めたと言われている「又一」で締めた。 私が子供の頃親に初めて食べさせて貰ったラーメン屋もここだった。しかし、店主は代替わりして若者に変わっていた。辛味の漬け物だけは一緒だが、味はコクがなくなり締まりがなくなっていたのはショックだった。まあ、こんな終わり方もいい。 朝食1600w コインロッカー300 電車代2300 昼食500 夕食500 バス340 計3940円+1600w 万歩計記録不備 韓国旅レポート後記 ここで、去年の私の26日間に渡る生涯最長の韓国への旅を閉じさせて頂きます。 数えてないけど、多分80回ぐらいの記事になったのではないかな。不定期連載なのに、辛抱強く読んでくださった方、ホントにありがとうございました!もし、読んでなくて興味と時間をお持ちの方がおられたら、左のカテゴリーの「韓国旅行2012」の中にまとまっていますので、9回ぐらい前に辿ると最初から読めるはずです(^_^;)。 ここに書いている「気づき」はあくまでも帰る途中の電車の中の思考の記録です。この旅では、ホントに様々なことを教わりました。旅から帰って先ず感じて同時に「ウンザリ」したのは、(竹島問題で)「今韓国を旅すると、日本人パッシングで危ない」という根拠のない韓国パッシングです。韓国への修学旅行をとんでもないことの様に批難する女性議員もいてビックリしました。この旅で私は韓国の観光地ではない至る処へ行きましたが、嫌なことを言われたことは一回たりともありませんでした(それはそれで物足りなかったけど)。それよりも、初めて会った私に「そんなことまで」という親切が何回も何回もありました。道を聞いて一緒に付いて来てくれるというのは私にとっては「ありふれている」ので、この連載の中でさえ書きませんでしたが、日本人は滅多にしないことだと思います。ソウルで、和順で、筏橋で、釜山で、至る処で受けた様々な出会いと親切。それが韓国パッシングに対する私の根拠のある反論です。 もちろん、私は韓国マンセーじゃありません。そのことの詳しいこともこの旅レポートの中に書いてあると思います。 ちょっとあと一年ぐらいは一週間以上の休みすら取れそうな気がしないので、あの筏橋の再訪はずいぶん先になりそうなのですが、こんなことになる前に急遽行った今年正月の釜山旅レポートがまだ出来ていません。何とか、来年の正月までには完成したいな(^_^;)。
2013年09月11日
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上の山古墳(跡)から、さらに道を行く。一昨年の九州旅行の最後に寄った下関市立考古博物館に着いた。前回は時間が無くて、30分ぐらいで駆け足で回ったけれども、今回はゆっくり鑑賞しようと思う。ここは、綾羅木郷や梶栗浜遺跡から出土した遺物を中心に、おそらく日本有数の考古博物館になっていると思う。中国地方では、出雲の次に優秀な博物館かもしれない。この地域を代表する形の弥生前期の土器である。実は見たかった土器のひとつだった。この土器の肩の処に草形模様がある。綾羅木郷地域で発達した土器模様の意匠である。私はこの模様は草の形ではないのではないか、という仮説を立てた。最初に模様を作った弥生人は純粋に幾何学的な動機からこの模様を作ったのではないか、と。というのは、×をして◯と◯を重ねて行けば、この形を作ることが出来るからである。どういう風に模様を描いたかは、仔細に実物土器を観察すれば分かると思った。土器なので、ヘラの動きは残っているからである。しかし、実物を見ると、×を書いて◯を書いているのは皆無だった。×の動きは一部に認められた。もしかしたら、この土器はあまりにも立派なので、この模様の創成期のものではなかったかもしれない。私は博物館学芸員の人に果敢にも質問をしてみた。少し若い女性研究者だった。学芸員は云う。「あの模様が木葉文様かどうかは、現在の私たちが仮の名前を付けているだけで、本当の意図はわからないのです」それは当然そうでしょう。私は、模様が具象化を意図したのでは無く、純粋抽象化の意図だったことを証明したいのです。「模様の意図を知るためには、証拠がなさ過ぎるのです」それでも、創成期の模様がどうだったのかは、後でメールで知らせてくれることになった。直ぐにメールは無理というので「返事は一年でも待ちます」と言って別れたのですが、ホントに一年経っても全然メールが来ません。あの学芸員はめんどくさい考古オタクを無視した可能性が高い。その他、前回急いで回った時には気がつかなかった興味深い展示物がたくさんあった。梶栗浜遺跡の遺物、この細形銅剣ど多鈕細文鏡は明らかに朝鮮半島で作られたモノだ。この地域が直接朝鮮半島と交流があったことが、この遺物で証明出来るのである。朝鮮系無文土器。これもそうだ。これは中国由来の朝鮮経由の馬車の部品である。私は博物館を出た後に綾羅木郷駅で電車を待つ前に、梶栗浜遺跡を訪ねた。それをもって、私はこの古墳巡りを締めた。私の韓国旅行の遺跡巡りの締めが、日韓交流の重要遺跡だったことは、少し出来過ぎの結果だったような気がする。
2013年09月10日
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9月1日(土)晴れ 下関→倉敷昨日の夜は少し飲みすぎて、船の揺れもあいまって辛かった。下関に着くと、それもすっかり治り、デッキに出た時あゝと後悔した。もっと早朝に起きていれば、壱岐対馬を見ることが出来たのだ。下関フェリーでは壱岐対馬を見ることが出来るのは、朝早く明ける夏の旅しかないのであった。朝食は韓国の小銭を整理するために、フェリー内のコンビニでパンと牛乳を買う。コンビニがあるのは、帰りのフェリーのみ。下関駅のコインロッカーに荷物を置いて、午前中は行のときに出来なかった下関古墳巡りを決行する。日本は快晴である。行の下関はうだるような暑さだった。今日は意外と涼しい。結局午前中は涼しかった。どうやら耐え難い夏は通り過ぎたようだ。韓国を巡って遂に日本のようなうだるような暑さはなかった。おかげで私は、2013年の夏に「初めて」耐え難い日本の夏を経験した。古墳巡りの最初の辺りは、前回歩いた処をなぞる。途中立派なお屋敷があった。日本的家屋ってこんな感じですよ、韓国の皆さん。韓国の戦前の人たちにとっては、こういうお屋敷を建てた人は、日帝の特別な人間に見えたかもしれない。しかし、日本においては、こういう屋敷は(立派ではあるが)特別ではない。秋根古墳に再会。横穴式石室の円墳だったらしい。6世紀後半築造。前回はこの古墳の直前で撤退をした。移築された観音堂古墳である。石室の大きさは、幅2.3m、奥行き2.8m、成人3人が埋葬されたみたいだ。少し小山を登る。見えて来たのは、国指定史跡の仁馬山古墳である。前方後円墳。全長74.8m。国指定なのに、草茫々の中にある。この辺りが韓国の史跡と日本のそれとの違いである。韓国ならば、この規模ならば、たいてい管理事務所が建っているだろう。前方部から後円部を眺める。非常に簡単に登れた。これならば、前方部で、数十人の関係者を呼び、盛大な王位継承の儀式を執り行う事が出来ただろう。4-5世紀の築造らしい。韓国南海の前方後円墳・龍頭里古墳はこれより少し小ぶりだった。形は似ているが、前方部の傾斜はきつかった。しかし、時代的地域的なことを考えると、龍頭里古墳の埋葬者が朝鮮半島に里帰りした時に、ピカピカの仁馬山古墳を訪れ、この形を参考にした可能性はあるのである。後円部から前方部を眺める。高低差は意外とあった。今は藪に覆われているが、この円頂部からは、周りの平野を見渡す事が出来ただろうし、遠く富士山形の神奈備山にしてもいいような形のいい山が二つ見る事が出来る。王墓の位置としてはピッタリの処にあると感じた。そこから20分ほど歩いて、上の山古墳の「跡」に行く。今は跡形もない。なぜならば、1909年(明治42年)地域の3つの神社を統合し、川北神社が作られた際に破壊されたからである。現在社があるところが後円部。鳥居のあるところに前方部があった。100mを越える前方後円墳だったらしい。仁馬山古墳の規模を越えている。仁馬山古墳の頃から100年以上経った頃のこの地域をまとめる首長墓だったのだろう、とのことである。三輪玉や六鈴鏡等の豪華な副葬品だけが、東京国立博物館に保存されているらしい(そういう意味では、東京国立博物館は地域から掠め取ったお宝が山ほどある処なのである)。この地域に南方熊楠は居なかったようだ。神社の狛犬(高麗犬)である。可愛いタイプ。明治時代の作成か。
2013年09月09日
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불안駅に戻って金海空港に向かう。 この旅でたいへん、たいへんお世話になったWi-Fiのルーターを返すためである。 これは金海空港の様子。ここからは日本に帰るまでインターネットは出来ない。 昼食は南浦駅まで帰り、3年ぶりぐらいにシジミ専門店ソムジンガンで食べることにしよう。 メニューである。値段は1000w値上げして7000wになっていた。 やっぱりここの定食はすべてのオカズが美味しいし、このサバの味は絶品! suzuさんにカメラを返す。思えば、8月11日、陜川の(多分)パトカーの中にカメラを落として以降、写真もないつまらない旅レポートになりそうだった私の人生最長の韓国の旅を救ってくれたのがsuzuさんでした。「うちのを使えばイイちゃ」次の日の全州で合流した時に、出会って二回目の私のために事も無げに言ってくれたあの申し出がこの旅をどれだけ助けたか。suzuさんには清州で買ったSDカードと筏橋で買った宝城のお茶と一緒に宿の前でカメラを返したのでした。よってこれ以降はカメラで写した写真はありません。ただし、スマホで写した写真がいくつかあるので、それを載せます。 このあとは怒涛の土産物買い。 屋台のハッピンスを食べて見る。「美味しい!」と言ったら、屋台のおばあちゃんが汁を注ぎ足してくれた。 ついでに、屋台のレモネードもゲット。水分は全部レモンという贅沢さ。これで2500w。 この旅の時には、韓国のスマホはiPhoneの小っちゃい奴は少数派で、むしろこの写真のような幅広が主流だった。日本と違う、と思って写真にとったのだが、何だか日本もこれに近づいている気がする。 買い物を終えて重たい荷物を引きずって釜山国際旅客ターミナルに着くと、なんと別れたばかりのsuzuさんが立っていた。私は返すときに「充電器」を返し忘れていたのである。 「ごめんなさい!」 最後の最後まで迷惑をかけ通した私でしたm(_ _)m フェリーは帰りも二等室。同室は、私と同じで岡山から来た男性だった。友人と2人で車で下関まで来て釜山市内を回った定年2人組らしい。それと、オーストリア男性の1人、この四人だけだった。 定年2人組は旅の途中で知り合った女子学生を部屋に招待して一緒に飲み出した。私もお相伴を授かる。ロッテデパートで買ったというイカの塩からが旨かった。二等客船は、この様に旅の話で見ず知らずの人と知り合いになるという余禄もある。 チャージ7000 朝飯1500 コインロッカー1200 コインロッカー1200 昼メシ7000 雑貨35630 服10000 服8000 土産14000 便秘茶10000 五味茶10000 CD20000 Wi-Fi5500 かき氷3500 レモネード2500 ジュース5000 旅客運賃(コミコミ)110200 計 259930w 歩数. 22460歩
2013年09月08日
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去年の夏に決行した韓国一周の旅レポートも、気がつくと終わってから一年以上経ってしまいました。すみません、終わらせます。31日が釜山最後の日で、9月1日が日本での移動日です。8月31日(金)晴れ 金海、釜山5日間お世話になった温泉場旅館をあとにする。駅のコインロッカーに荷物をいれて、午前中は金海の礼安里遺跡を見にゆく。沙上の軽鉄道に乗って先ずは朝食。豪雨や台風に祟られたこの旅ではあるが、釜山最後の日が見事に晴れた。ピーカンの青空。金海に向かう軽鉄道に乗る時はいつもそうだ。金海空港の回りは一律の形式で作られた何百という店のような建物そして住居のようなモノが建設中である。空港の周りに、また無理やり「街」が出来つつある。礼安里遺跡に行くには、金海の中心地まで行くと行きすぎ。途中の불안駅で降りて、125番バスに乗って 장지停留所で降りて500mほど歩いたところである。ところが、バスの運転手に「着いたら教えてください」と言っていたのに教えてくれなかった。一つ停留所を行きすぎてしまう。まあ、いい。こういう時は歩くまでだ。かえってこの地域の様子がよくわかる。ここから見える形のいい小山が、ちょうど聖なる山のようにぽっかり浮かんでいる。まるで日本でお盆を伏せたような山が神奈備山(かむなびやま)としてよく聖なる山となり、弥生墳丘墓や古墳が数多く営まれた様に、この山が怪しい。礼安里遺跡は予想通りその小山の麓にあった。説明板によると、4-5世紀の遺跡だったみたいだ。この神奈備山から礼安里遺跡の住民たちが住んでいたであろう里の辺りを眺める。奥の山は鉄が産出したという山だろうか。この遺跡の近くでは牛が水を飲んでいた。花ニラの畑もある。遺跡自体には何にもない。この雰囲気を眺めるだけで、私は満足するのである。さて、行きの時に通り過ぎたバス停留所に戻り、30分もしないうちにバスがやって来た。(記事を書く段になって気がついたが、停留所の名前が장지ではなく、장시だった。だから運転手はバスを止めなかったのか!)
2013年09月07日
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今回でまたもや少しお休みします。とは言っても、釜山最終日と日本での移動日を残すのみなんですが(^_^;)。 朝鮮通信使歴史館から駅方面に戻る。 釜山に特有の細長いビル。最初に道が有り、そのあとに建物を作る。最後はケンチャナヨで作る。 釜山鎮支城の麓には、裁縫屋(?)さんが多い。 地下鉄で南浦へ向かい、映画を観に来た。映画館の前にはホットクの有名店が列を成していた。食べるために並ぶことを韓国の人はあまりしない。けれども、店ごとに全く味が違い、並ばないと手に入らないこういう店は例外である。 お土産モードです。自分用の韓国DVD。1959年の名作と言われる「馬夫」とアン・ソンギ出演なので名作だと踏んだ「ホワイトページ」、そして最近の作「モーテル・カクタス」。見るのが楽しみだ。3本で10000w(700円)。→結局今観たのは「馬夫」のみ。社会派リアリズム作品。 マクドナルドで時間つぶし。私はこの超安セットを頼みたかったのに 出て来たのは何故かチキンバーガ一個。ちくしょう、このリベンジは必ずしてやる!(と、思ってそう日記に書いているのだけど、今一度上の写真を見てみると、写真はセットだけど、文書はセットだとは書いていない。と云うことは、単品が午後はお買い得2900wということだったのか⁉) 映画「공모자들(共謀者たち)」(邦題「共謀者」)を観た。最初何の話なのか、全然見えなかったのだが、臓器売買の話だと、途中でわかった。とてもオススメ出来る作品ではありません。韓国でも中国という国は無法地帯だと思っているのかな。作りは一見重厚なようで、結局は安直な設定だったと思う。どんでん返しに次ぐどんでん返し。話に意外性があれば、話に奥行が出るとでも思っているのだろうか。まさかこれが日本に輸入されるとは思ってもいなかった。 そのあと、真珠食堂に行くと居ました、suzuさん。マッコリの上澄みで乾杯!ニラチヂミを頼む。ニラが半端ない。やっぱり美味しい。 ちょっと写真は汚いけど、オカズは美味しい。キュウリの和え物と目玉焼き。 この時、すずさんという女性がsuzuさんのブログを見て、「噂の真珠食堂はここに違いない」ということで入って来た。ご承知のように真珠食堂は店の名前ではなくて、日本人用の通り名。興味本位の一見さんを防止するためにつけた名前である。ブログから「ホルモン屋ではない店」とかいろいろ推測して辿りついたらしい。うーむ、その推理と勇気に乾杯! 場所を移してトースト屋へ。 ビールで乾杯! こんな風に、道路へ椅子や机を出して涼みながら、食べたり飲んだりするのがチャガルチの屋台です。 ここのトーストは分厚い。ここのママさんは気さくで社交的。ここに来たのは2回目。前回の写真はカメラと共に紛失しました(^_^;)。いわゆる韓国の夜の屋台を、ここで初めて体験させてもらったのでした。suzuさんが常連客で、夜が更けたらたらかなりの確率でここにくるようなので、まさかこの時がこのママさんとのお別れになるとはつゆとも思いませんでした。このあと数週間後、ママさんの最愛の息子が交通事故死、絶望して店を畳んだそうです。 11時40分に私は退去。バスも地下鉄もギリギリ。一瞬の判断で地下鉄を選ぶ。一号線は難なく乗れたけど、西面駅で二号線への連絡は12時5分発の最終、走り込んでギリギリセーフでした。危なかった。 チャージ5000 コーヒー400 小皿 7000 昼食10500 敷布3000 布巾1300 靴下4000 マクド2900 映画 7500 夕食16000 Wi-Fi5500 合計 63100w 歩数 12051歩 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月15日
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駅構内の展示館に戻り、気になっていた敷物「幸福」購入。だんだんと(自分用への)お土産モードに入っている。手元の掃除ようにこんなものも買ってみる。(結局一度も使ってない)靴下は毎年韓国で調達している。ここのが比較的大きなサイズの割には安かったので購入。凡一駅で降りる。もう雨は止んでいた。しかし、吹き返しの風が台風並である。市場は全部品物が濡れないように布で覆っていた。女性の髪も、ぐちゃぐちゃになっていた。この駅で降りたのは釜山鎮支城にくるためだ。説明は以上。小山に上がってゆく。これは日本式の石垣だろうか。下に降りると朝鮮通信使歴史館に出逢う。最近出来たのか、完全に予想外の嬉しい出会い。ここの展示は全て日本語でも読めるようになっている。展示コンセプトが日韓交流なので、その視点で作られている。やればできるじゃないか、と思う。徳川家康は日韓交流を進めたイケメンとして描かれている。遺物は少なかったが、展示解説に読み応えがあった。日本人はもっと来て欲しい展示館である。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月14日
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8月30日(木)雨 またもや、台風が釜山北を一日かけて通ることになった。いろんな処へ行こうと思っていたテンションは下がって、雨にあまり濡れないコースをたどることにした。9時半に宿を出る。フェリーの明日の予約を公衆電話でする。「明日は必ず出港します」と力強い御言葉。 先ずはカメラを無くした為に写した写真も無くした東菜村城壬辰倭乱歴史館に寄った(←写真は既に載せたので、ここへは一枚だけ載せます)。 寿安駅から東菜駅へ。そこで一号線に乗り換え。駅にはたいてい300-400wのコーヒー自販機が置いてある。朝飯は食べてないので、甘いこれを飲む。昼メシ夜メシと酒を飲むつもりなので、自主規制である。 電車の中で。迷彩服の若者と恋人がイチャイチャ。厳しい訓練の合間の逢瀬なのかもしれないが、腹が立ったので、パチリ。 梵魚寺駅に着いた。私は今だにこの駅で降りたことがなかったのだ。寺に興味がなかったためである。しかし、これほど釜山を訪れているのだから、一回は来ないとね。すると、駅構内に展示館があった。博物館フェチの私はいそいそと入る。 晴れたならば、梵魚寺はこんな感じらしい。 歴代の座主のお顔らしい。 必ずある半跏思惟像。なんでかなー。 ここでもやはり経典の印刷作業をしていたらしい。 今日は雨(台風)なので、寺まで行くつもりはない。本当の目的は、ここで生産しているという美味しいマッコリを飲みに来たのである。と、その前に私としては珍しく焼き物屋に入ってみる。 干支の置物があった。私は子年なので、かなり真剣に購入を検討したのだが、表情がイマイチ気に入らない。 でもって、この小皿を買った。オカズ入れによさそう。7000w。 駅前は餅屋が多かった。 食べ物屋で同時に目当てのマッコリを置いてある店を選んで入る。この山城マッコリである。銘酒と言われている。確かに濃い。しかも酸味が強い。この味の濃さがあるから、この酸味が生きているのだろうか。管理がむつかしく、この地域と限られた酒屋しか置いていないと聞いている。 メニューはこの通り。普通のマッコリが2500wなのに対して、山城マッコリは3500wです。それでも、私がいた間に近くの人なのか、その山城マッコリを二本買って帰りました。持ち帰りだからといって安くなるわけでもなさそうです。 この店は豆腐に拘った店みたいだったので、豆腐キムチをつまみに頼んだ。国産大豆で作っていると謳ってはいるが、それ程特別な味とは思えなかった。 でも、酒が美味しかったので、オカズも満足のお店でした。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月13日
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金海に回ろうかと思ったが、バスが無くなっていた(実際礼安里遺跡に行く時間はとうていなかったろう)。残念だけど、釜山に逆戻りだ。釜山の朝の鳶職人は順調に作業を続けていた。ね!命綱つけてないでしょ?ホント危ない。いったん宿に戻って部屋の掃除を確認。よし!よく出来ている。宿のとなりの気になっていたカルククスの店に入る。1番安いカルククス4000wを頼む。具にジャガイモが入っているのが新鮮。麺のコシはまったくないけど、非常に美味い出汁がとれていた。今度はもっとグレードの高いやつを頼もう。西部バスセンター横のロッテシネマで映画を見る。今日は水曜日で、開店記念セール最終日の5000w(350円)均一デーなのである。観なきゃ損!「바람과 함께 사라지다(風とともに去りぬ)」です。某米国映画とは何の接点もありません(^_^;)。朝鮮時代の悪大臣にひと泡吹かせるために立ち上がった11人の一癖二癖ある者たち。コメディタッチの時代ものです。会場は笑いに包まれていましたが、観た端から忘れるような作品に思えました。「猟奇的な彼女」のチャ・テヒョンが主人公。構造は仲間ぎ集まるまでが前半の「七人の侍」構造。夜食は前々日に食べたテジカルビの店で、今日はマッククスを。これも大変美味しかった。パンチャンにはスンデが出た。肉厚で良かった。宿2日分50000 朝飯2300 釜山・昌原往復7400 バス1100 昼食9000 夕食4000 映画5000 夜食6000 つまみ1000 Wi-Fi5500計 91300w歩数 18832歩 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月11日
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城山貝塚は街の南側、工場群の中にある小山の上に展開されている。 工場群を歩くのは初めて。ひとつわかったのは、建物の造りがとても丁寧だということ。このレンガなんか、目地が向こうの方まで全て線が通っている。 ブロックも日本の水準でいうと完璧じゃないけど、釜山の個人住宅のそれとは雲泥の差がある。 この飾りレンガは頑張っている。けれどよく見ると、左の下から8番目と10番目だけ数ミリ寸法が合わなかったのか無理やり入れているので歪んでいる。あとはよく出来ている。韓国の職人は大企業には弱くて個人住宅にはいいかげんな仕事をすると云うことではないか。やれば出来るのにしないのはどういうことか(♯`∧´)。 城山貝塚遺跡は小さな小山の中に資料館が二つもあった。一つは野窯館。製鉄作業所がテーマのもの。 と、思ったら閉まっていた。おいおい。 その上の城山貝塚遺跡物展示館まで閉まっていたら切れるゾと思いながら上がって行った。なんとか開いていた。管理人は1人もいない。建物だけは作るが、あとは野となれ山となれ、これはいつも通りである。 青銅器時代から新羅時代まで営まれた貝塚だったらしい。 赤丸が新石器時代の貝塚、三角が初期鉄器時代の貝塚らしい。なぜか青銅器時代の貝塚の表示がない。上の説明と違うぞ?どちらにせよ、日本のように縄文時代だけに貝塚が集中しているわけではなさそうだ。 昌原市内の地図。赤丸がすべて貝塚である。どうやら保存されたのはこのひと山ある城山貝塚ぐらいで、あとは道路や用地の開発で破壊されたらしい。 この写真のようなひと山削るような、大掛かりな発掘だったらしい。 残念ながら、展示品はあまり見るものがなかった。これは無文土器である。 これは砥石。バリエーション多く出土していた。韓国の磨製石器はこのような砥石が大きく関与しているのだろう。 こういうジオラマもある。ここまで作るのならば、もう少しそれに関係する遺物も展示して欲しかった。 三韓時代の土器群。 三国時代の土器群。 謎の石製品。 城山から工場群を眺める。このように工場地帯が整然と整備されている。 さて、バスセンターに帰ろう。おや、大通りのところに韓国では珍しい駐車禁止を知らせる紙が貼ってある車。罰金は10万w(0.7万円)だそうだ。韓国国民にとっては高いんだろうな。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月10日
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韓国の生協に希望はあるのか。ざっと見た限りでは、この最新の店も坪数が少なすぎてとうてい台所の全てを賄い切れる規模に達していない。価格もまだ高い。多分今はまだ韓国の持ち家世帯で子どもが小さく添加物や環境問題に関心があるようなお母さんだけが利用するような店なのだろう。パンフももらったが、理念は日本の生協と同じ理想を求めているように思えた。パンフには安全性を主張する産直の記事に多くを割いていた。日本と違い、共同購入よりも通信販売によるコープ商品の販売に力を入れている。しかし、チラシをみてもまだまだ数が足りない。コープ商品の開発はまだこれからという気がした。アイコープは2011年売上額3000億ウォン、組合員世帯数15万5000人を記録した。 毎年10~20%の高成長を続けている。 「2018~2019年には全世帯の3%を組合員に引き込む」というシン・ソンシク アイコープ生協経営代表との意見もある。(ハンギョレ新聞より)従業員は1500人程度。日本の県単位の中堅生協と同じぐらい。多分全国組織なので、これがあと10倍ぐらいになれば韓国の流通は少しは変わるかもしれない。そうなった時、(企業の論理に取り込まれなければ)スケールメリットを活かした高品質低価格の商品を手にするのと同時に地域の発展にも寄与する「生協らしい」流通が実現するかもしれない。期待したい。昼飯はこの高級住宅街で食べてみたい。ユッケビビンバを頼んだ。9000wなので一見豪華なのだが、パンチャン含めて、味はいただけなかった。やっぱりお客が入っていな店に入るもんじゃないね。この一帯、食堂の価格は一様に1000wほど高い気がした。やっぱり高級住宅街なのだ。バスに乗って城山貝塚へ。低ステップバスだった。妊婦にも優しい構造。日本でも増えている。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月08日
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この昌原では、韓国の生協を見てみようと決めていた。ホームページを調べて、やっと昌原という地方都市に最近オープンしたばかりの生協の住所を確認したのである。バスを乗り継いで、なんとか辿りついた。 なぜ生協なのかは、あとで述べる。 昌原は街全体が住宅地のような気がする。この辺りは高層住宅がいくつも立ち並んでいる。 その隣町には一軒家の住宅が立ち並んでいる。ソウルではあまり見かけない住宅地である。 生協の店に入り、こっそり写真を撮った。客層は完全に若いママたちである。日本で言うと、ミニストアに位置づけられると思う。自然食品がよく揃っている店という感じ。 野菜は品数が少ない。 肉売り場も店頭で切り売り出来るようになっている。 魚売り場がなかった。卵の値はこんな感じ。ただし、下の数字が会員価格だそうだ。そう見ると、少しは安いかも。 パン売り場が充実している。ピザが作れる窯もあった。注文ピザを焼いているのだろうか。パンも焼いているのだろうか。こんな小さな店で、それはあまりにもやりすぎではないか。 全体の雰囲気はこんな感じ。 なぜ私が韓国の生協に注目するか。韓国の流通は現代でも昔ながらの伝統市場が支えている。いわゆる零細個人商店だ。安いけど、品質の安定性はない。何箇所も店を選んで、品選びと交渉に時間をかける。買い物をするにも一仕事だ。もう一つの流通を担っているのは、イー・マート並びにいくつかのビックマートだろう。品質管理は一応できている。しかし、スケールメリットがあるはずなのに、日本のダイエーのような「価格破壊」は起こらず、むしろ伝統市場より高いものが並んでいる。そして、無理やり市場のそばにこれが建つと地域を壊すということで問題を起こしている。 なぜそうなるのか、私はロッテなどの大企業が食品流通を独占しているからだと思っている。競争がないから、自分の都合のいいように価格を調整出来るのである。 私は、消費者が自分たちで商品を作り売り消費する生協ならば、それらの矛盾を解決する道が開けるのではないかと期待しているのである。もちろん、企業競争に取り込まれた日本の生協の現実もあるので、理想とおりいかないのはわかる。しかし、ゼロから始めるというのは、希望があるということでもある。 韓国の生協に希望はあるのか。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月07日
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小銭は手に入れたので、公園を横断したところにあった停留所でしばらく待ち、昌原大学に向かった。大学はたいてい小山の上にある。弥生墳丘墓をちょっとした小山に作るのと同じ意識が働いているのだろうか。博物館は、学生に聞いたらすぐに場所を教えてくれた。図書館の中に併設されていた。博物館はなかなか充実していた。古代の金海湾である。緑の筋は現在の洛東江。釜山は海の中だ。もみ殻を入れる土器。磨製石剣と砥石。骨で作られた刀子の柄。牛の足跡。韓国で鴨形の土器は本当によく出てくる。分布は南に限られているのかな?説明板には(朝鮮の)「三国史」の記述を紹介していた。死者を祀る儀礼を研究する上で貴重な土器なのである。そうして(今気がついたが)この土器は日本で作られることは遂にはなかった。日本でも祭りに鳥のお面を被っていたり、トリ自体は神の使いだった可能性が高い。しかし、倭国は技術やその精神の中枢は輸入しても、おそらくその文化をまるごと輸入することはなかったのである。それは即ち、倭国が韓半島の住民によって「征服」されたことがないことを裏付けてはいるだろう。土器の地域比較。土製首飾り。透かし彫りのカップ。蛇の模様がある土器。すべて出土遺跡と時代をかかれていないように思えた。そういう意味では不十分な博物館だった。外に出る。韓国の大学には立て看はない。立て看文化ではなくて、張り布文化?なのである。たいていは布で張って知らせる。そういうのばっかり見ていると、このような掲示板の(多分)部活のお知らせを見るとホッとする。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月06日
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幹線道路を隔てた向かいは非常に大きな公園になっていた。何か遺跡の碑みたいなものを発見!遺跡のあとか?急いで行ってみる。遺跡ではなかった。しかし、昌原という地方都市の開発物語がよくわかる「碑」であった。その碑文に云う。「70年代昌原公園造成のために失郷した海亭地区の人首丘初心の気持ちを明らかにするために建立した。30名の海亭会会員と本部落出身の在日同胞李昌稿氏の支援で竣工した。海亭人よ!この契機に篤い兄弟愛と永遠なる心の故郷を高く간직하소서! 2002年4月14日海亭会会員一同」40年前の一斉立ち退きのことを想って建てた碑でした。婉曲に書いているけど、「恨み節」ですね。韓国の地方都市は、70年代から80年代にかけて朴正熙の時代に漢江の奇跡と言われるほどに高度経済成長をした。しかしそれは独裁政権が土地を強権的に取り上げ、再開発し、幹線道路と巨大な公共施設と、工場群を誘致することが出来たから可能だったことなのだろう。(←古里原発もおそらく同じ)写真はそこに住んでいた人たちなのでしょう。永遠なる海亭人。上が父親、下が息子でしょうか。全員の名前が入っているかどうかは不明。そして出来た、無駄に大きな公園。こんなゴルフ練習場もあります。当然海亭地区だけが立ち退かされたのではなく、斗大地区も記念碑を作っていました。サッカー場もあります。いくらなんでも、立退料はもらったとは思う。しかし、スズメの涙ほどではなかったか。韓国の高速道路の利用料が怖ろしく安いことから、私はそう思う。もちろん経済的なことだけではなく、フクシマの例にもあるように、強制立ち退きは住民たちのアイデンティティの喪失の危機にも繋がるだろう。韓国の人たちは、その「恨」をどのようにして「解いて」いるのだろう。小銭は手に入れたので、公園を横断したところにあった停留所でしばらく待ち、昌原大学に向かった。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月05日
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8月29日(水)晴れ また台風が近づいている。今日は貴重な晴れ間だ。頑張ろう! 沙上バスセンター前に出来上がっていたお店みたいな喫煙室。バスセンターでは吸うな、ということですね。 今日は昌原に行って大学博物館と生協を回って、出来たら金海の礼安里遺跡まで行くぞー! 朝飯はコンビニで買ったおにぎりと牛乳。最初5万w札を出したら、コンビニのお兄ちゃんが慌てたので可哀想に思いありったけの小銭を出したら足りてしまった。これがのちに今日の旅に大きな影響を与えるとは、この時は思いもしなかったのでした。 バスから見えたビルの作業場と作業員。どう見ても命綱はしていない。下に板を通していないこのような組み立て場であんな作業をしたら、日本では違法です。韓国の建設技術は確かに荒いけど、安全環境も荒い。労働者を大切にしないということは、技術が継承されないということだ。それが周り回って、商品の質の低下につながる。それは決して対岸の火事ではないだろう。 昌原のバスセンターに着いて、昌原大学行きのバスに乗ろうとしたら、小銭がないのに気がついた。5万w札ではバスは受け付けないのは確かめるまでもないだろう。こういうときに限って周りにコンビニはない。本当はバスセンターに戻って売店で両替すればよかったのだろうが、この時は少しでも初めての昌原を楽しもうと当て所もなく歩き始めた。まさか一時間も歩くとは思わずに。 機械部品街を通り過ぎて、今度は工場街になった。コンビニはない。諦め掛けた頃、ある流通センターに小売店の小さな看板があった。 そこは流通センターの職員用の食堂だった。 職員が食事しているところをおじゃまします(^_^;)。 「ジュースが欲しいんだけど、お釣りある?」 快くお釣りを出してくれました。 こういう小売店でした。 幹線道路を隔てた向かいは非常に大きな公園になっていた。何か遺跡の碑みたいなものを発見!遺跡のあとか?急いで行ってみる。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月04日
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南浦でsuzuさんと合流。豚足(チョッパル)の店오륙도족발に連れて行ってもらう。乾杯~流石にsuzuさんオススメの店だけあって、オカズが美味しい。これはドングリのコチュジャン和えかな?うまうまのスープサラダやスパゲティなどのいろんなオカズ、そして大盛りの豚足!中を頼んだのだけど、結局飲んでばかりで食の細いsuzuさんのせいか、2人で食べきれなかったよ。シシトウに見えるこれは、洛東江流域ではオカズに何度も出て来て実は案外辛くない、ということは既に何度も書いた。と、思い私はsuzuさんの忠告を振り切り一口齧って一部飲み込んでしまった。そうしたら、もっとも辛い青唐辛子だった!!!しばらくのたうちまわった。口の中で辛いうちはまだいいけど、胃の中に入れてしまったら、長いこと苦しむものなんですね。suzuさんのいうには、見た目には区別出来ないので、食べる前に必ず臭いで確かめること、だそうです。勉強になりました。以後気をつけます。このあともなんか飲んだような気もするのですが、写真がありません。多分バッテリーが切れた。ここで今日はお開きです。チャージ10000 昼食7000 コーヒー3000 夕食19000 Wi-Fi5500計 44500w歩数 21215歩 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年07月01日
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まだ夕食まで時間があったので、釜山鎮駅の周りを散歩することにした。1番出口を出てすぐのところにあった義足店のショーウインドウ。 その店の向かいに豆毛浦倭館跡記念碑があった。家康の時代、日韓国交は回復し、本格的には1678年に草梁倭館が開館して貿易などは本格化するのであるが、そのつなぎとして1607年にここに倭館が出来たらしい。 倭館跡は実際は市場の周りだと説明の地図に書いてあったので、その辺りを歩いてみる。道が複雑に曲がっている。 グニャグニャした細道を歩いてゆくと 台風をやり過ごしてホッとした感じの市場に出た。この時は完全に雨は上がっている。 さらにこの辺りをぶらぶらすることにした。釜山という町のもっとも猥雑性が残っているのがこの辺りだろう。戦後、次々と人が住み出し、無計画に家を作る。表面が剥がれ落ちたこの壁のつくりを見ると、素人が作った土台に、素人が作ったブロック塀を積み重ねているのがわかる。 そのブロック塀を反対側から見ると、モルタルでノリのようにくっ付けているだけなのがわかる。単なる寄木細工だ。多分震度5くらいで簡単に崩れるだろう。 屋根の修理が出来ないので、布で覆っている。 これは有名な日本式家屋の中の様子を、なんとか撮ろうとしているところ。図らずも、壁の瓦の修繕がいい加減なのがわかる。 なんとか撮った。さすが玄関前は日本式。 そんなところよりこのボロ屋の方が、韓国式のオンドル煙突はあるものの、よっぽど古そうだ。 この一帯は、ハングルの看板さえどければ、戦前昭和の雰囲気がそのまま残っている。 この修繕店(?)も見事に昔のつくりが残っている。さて、いい時間だ。チャガルチに行って、suzuさんオススメのチョッパル店に行こう。 地下鉄で移動。電車とプラットホームの間のドアの電動化が進んでいた。 produced by 「13日の水曜日」碧猫さん
2013年06月30日
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