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パリのノトールダム大聖堂は、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の重要な起点の一つ。かつては隣接して巡礼者の宿泊所もあったらしい。※ スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)はエルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つであり、そこに至る巡礼路は決まっているのである。それは四国巡礼のお遍路さんの旅に近いかも。2011年5月から「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 」を書いています。ショートで1~14回です。事情があり、中断して中、別の物をはさみながら書いていますので6か月かかってしまいました。リンク先は3つだけのせます。リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1(巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 13 (聖ヤコブの棺、聖なる門)」リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)最初、南と北のバラ窓の写真の区別が付かなくて苦労しましたが、ちょっとした法則が解ってからはサクサク分類、一見同じに見えていたステンドグラスですが、新旧の差か? 技法の違いか? 作家の違いか? かなり異なります。写真の枚数を増やして細部を紹介したので今回も入りきりませんでした尚、写真は昔のを拾い集めているので季節も一緒くたです。一番近々に行った時はノートルダムに寄らなかったので残念な事をしました。良いカメラで撮影できていないのです。だから細部の拡大に限界があります。最もブログ用は解像度をかなり低くしているのでなおさらですが・・。ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)南の翼 側聖堂裏 側 後陣北の翼 側北翼のゲート(クロワートルのポルタイユ)ル・シュヴァリエのステンドグラス北のバラ窓前回、西の聖堂正面の紹介をしたので今回は南側面、聖堂裏、北側面とまずは外側の紹介から入ります。写真を選定する為に細部を見ていて気づいた事が幾つかありました。それはノートルダム大聖堂の一番の見所が北側とその翼にあったと言う事です。ノートルダム大聖堂ができた当初からのデザインがほぼそのまま残っている箇所が北の翼なのです。特に北のバラ窓は貴重です。(南は1841年以降の改修でできたようです。)そして今回の火災写真と照合して、南のバラ窓の上の小窓は枠ごと破壊されていて、下は恐らく無事。また北のバラ窓も恐らく無事。ただしこちらも上の小窓は枠(トレサリー)は残っているけど火災の衝撃でガラスは破損。そんな風に見受けられました。南の翼 側南の方は、前回1841年の修復問題で、ヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)の勝手なデザイン変更の事に触れましたが、まさに南のバラ窓は北とは大きくデザインが異なっているのです。誰かがヴィオレ・ル・デュクのデザインは偽ゴシックだと言ってますが、確かに南のバラ窓の枠はゴシックの意匠ではありません。内部のステンドグラスからだけだと解りかねますが・・。こちらはゴシック(Gothic)ではなく、例えるならレース編み(Lace knitting)のデザインのバラ窓の枠(トレサリー)です。残念ながらこちら南の翼のポルタイユは至近撮影できませんでしたが、聖ステパノに捧げられたポルタイユ(Portail du St. Etienne)がある。大聖堂建設前からここが聖ステファノ(St Stephen)に捧げられた聖域だったそうだ。聖ステファノはキリスト教、最初の殉教者である。確認していないが、ポルタイユのティンパヌム(tympanum)だけは13世紀の物らしいが、その周りやトリュモーの像などは19世紀の作品。尖塔の拡大写真がなくて残念でした。尖塔は意外にも鉛でてきていたそうです。火災で焼け落ちたのも道理。そしてその為に鉛害が発生しているらしい。(ステンドグラスも鉛で留められているけどね。)また、屋根の上、尖塔基部を囲むように1841年以降の修復で12使徒らの像が付加されていた。問題は、その聖人のモデルに自分を含む仲間達がモデルとなっていた事だ。屋根の上にいる12使徒の1人、聖トマス(Thomas the Apostle)のモデルはヴィオレ・ル・デュク自身らしい。聖トマスは建築の守護聖人だから自らを重ねたのかもしれないが、同時に聖トマスは変わり者でもあった。聖画では、イエスが刺された脇腹に本当か? と手を突っ込んで確かめたと言うエピソードがあり、疑い深い人でもあったようだ南側のバラ窓も前回紹介した1841年以降の修復でヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)により新たに造られた火災後の写真で確認できる限りだが、上の小窓のステンドグラスは枠も破壊されていた。後で比較を載せるがヴィオレ・ル・デュクはなぜ北と違うデザインのバラ窓にしたのだろう。13世紀当初に復元するのが元の計画だったのに・・。聖堂裏側 後陣聖堂裏にあるジャン(ヨハネス)Jean-XXIII(23世)公園から撮影手前にあるのは1844年に建てられた聖母の噴水(Fontaine de la Vierge)かつては、この位置に大司教館が建ち並んでいたが、1789年の革命時に教会の全財産は没収。1831年、反王党派の者らにより破壊された。ノートルダム大聖堂はフランス革命のあおりで、一度滅亡していたのである。それにしても、昔からパリ市民はかなり気が荒く、暴力的だったらしい。かつて王の居城は同じくシテ島にあったが、暴動で王の寝室まで乗り込んだパリ市民により目の前で侍従が惨殺。王はショックのあまりシテ島の王宮を捨てている。北の翼 側ノートルダム創建の初期の姿が最も残っている部分。ポルタイユのゴシック装飾の切妻型のデザインなど正面ファサードの簡素さとは違って見事である。直径13mのバラ窓は正面ファサードのバラ窓よりも大きい。その下の長い窓と合わせると採光部は18mに達する。それは1248年、先にできた王宮に付随するサント・シャベルの経験が生かされ、より袖廊より採光が取り入れられるよう研究された結果らしい。※ サント・シャベルは、2017年2月「フランス王の宮殿 1~2 (Palais du Justice)」で書いています。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)北翼のゲート(クロワートルのポルタイユ)昔、教会北側(入口からは左手側)に高位聖職者の宿舎(舘)が建っていた事から北翼の入り口はクロワートルのポルタイユ( Portal du ]Cloître)と名前が残っている。クロワートルのポルタイユ( Portail du Cloître)とは直訳すれば回廊の門である。察するに、高位聖職者の舘は隣接していて、回廊でノートルダム寺院の北翼のゲートまで続いていたと思われる。※ 古い大きな教会ではよくある造り。※ ノートルダム回廊通り(rue du Cloitre Notre Dame)と前の通りに名前も残っている。このクロワートルのポルタイユは古く1250年、ジャン・ド・シェル(Jean de Chelles)の製作。ジャン・ド・シェル(working 1258年~1265年)は、ノートルダム寺院の建設に携わった複数のマスターメイソン(master mason)の1人で彫刻家。彼はいろんな大聖堂建設で指揮をとっている。※ マスターメイソン(master mason)は石工、フリーメイソンを束ねる親方。フリーメイソンの階位は上から、グランド・マスター、マスター(親方)、フェロー・クラフト(職人)、エンタード・アプレンティス(徒弟)となっている。※ 中世の本物のフリーメイソンと現在のフリーメイソンは全くの別団体。何カ所かで説明しています。リンク 神眼・・・プロビデンスの眼リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソントリュモーにあるマリア像は元は聖母子像だったそうだ。革命で幼子イエスの部分が失われたらしい。マリアの繊細な微笑みと気品。13世紀の最高傑作らしい。ル・シュヴァリエのステンドグラスステンドグラスは、やはり定期的に大きく換えられているようだ。資料でわかる範囲では、18世紀に、中世の物に変わって百合の花をあしらった白ガラス方式。(百合はブルボン王家の紋章)19世紀にグリザイユ方式。1965年、現在のステンドグラスは、ル・シュバリエ(Le chevalier)の手により中世の製作法と色彩が復活されている。※ ジャック・ル・シュヴァリエ(Jacques Le Chevallier)(1896年~1987年)は美術学校で学んだアーティスト。彫刻家であり、国立美術学校のステンドグラス・コースの教鞭もとっていたステンドグラスの第一人者。Union of Modern Artists設立メンバーでもあり、本来はモダン・アート専門だったのかもしれないが、ステンドグラスアーティストとして、また、デコレーターとして彼は多くの国内外の聖堂のステンドグラスを手がけている。しかし、修復は壊れたところが優先される。実際ル・シュヴァリエがどの部分を修復したか解らない。聖堂バックヤード、上方のステンドグラスステンドグラスに関しては解像度を少し上げました。ちょうど中心にキリストと聖母マリアのようです。素敵な絵です。火事後の写真で見るからに、これらは生き残ったようです。このあたりはル・シュヴァリエ作品かもしれない。北側袖廊北側のバラ窓13世紀のスタイルがほぼ残っているようです。それゆえ、採光は弱い北側ですが、見どころは本来こちらのバラ窓です。南のステンドグラスと異なり、トレサリーなどもちゃんとしたゴシックのバラ窓です。中心には聖母子、その周りには16人の聖人が描かれている。16人? 12人じゃないので誰が選ばれているのか不明。こちらはかなり古いステンドグラスかもしれません。マリア様がちょっと険しい顔してます。バラ窓の下に並ぶ縦長のステンドグラス。合わせて窓の開口部が非常に広く、建築的にも難しい部分。それなのにずっと破壊から守られてきた北側翼です。北のバラ窓下のランセット窓 (Lancet window) 並ぶのは18人。でも聖人ではないようです王冠を被り、ユリの王笏(おうじゃく)を持っているので、おそらくフランス王です。カロリング朝、カペー朝と続く歴代の王が描かれているのかも・・。前に書きましたが、パリ・ノートルダムの建設費は王室もかなり出している。それ故、王室につながっている部分も大きく、フランス革命の時には市民に目の敵にされたのかもしれません。行った事が無い方も行った気になるよう写真を多く載せる事にしました。その為にまた押し出されました。次回、南のバラ窓とキリストの冠について触れて終わる予定です。結局、全4回ですね。f^^*) ポリポリ Back numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題 ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年05月18日
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1991年、ユネスコ世界文化遺産として「パリのセーヌ河岸(Paris, rives de la Seine)」が登録された。その中でシテ島にあるノートルダム大聖堂など、エッフェル塔の間をつなぐセーヌ川沿いのに点在する文化遺産がまとめて登録されている。ノートルダム大聖堂は単体で、登録されている訳ではない。ところで「Notre-Dame de Paris」と表記されるのは他にもノートルダム寺院がたくさんあるからなのである。実はノートルダムと名の付く教会堂は驚く程多いのだ。フランスの司教座聖堂だけでもパリ以外にランス、シャルトル、アミアン、ルーアン、ストラスブール、アヴィニョンとあるし、バシリカ聖堂や小さな教会まで入れるともっとある。また、元フランス領であったベルギーにも司教座聖堂が3件。聖母マリアに捧げられたノートルダム(Notre-Dame)は世界各地のフランス語圏の都市に建設され続けてきたからだ。前回、ノートルダム(Notre Dame)とはフランス語で「我らが貴婦人」と紹介したが、同じ「聖母」の意味でサンタマリア(Santa Maria)やマドンナ(Madonna)と言う言葉がある。サンタマリア(Santa Maria)は聖マリアそのもの。そしてマドンナ(Madonna)は、古イタリア語「ma donna」から「我が淑女」と言う意味でノートルダムと同じ意味を持つ。マドンナ(Madonna)の語源のルーツは、中世の騎士道精神から生まれた尊敬する淑女や貴婦人への呼称から来ていると言われている。ノートルダムのネーミングも同じ所から派生しているのだと思われる。カトリックにおける聖母の位置づけは、キリスト教が公認され、統一の教義が造られた中にすでに確立されていたが、聖母信仰は特にゴシック期からルネッサンス期にかけて高まり、まさに騎士道が華やかなりし頃、比例するように各地に聖母の為の堂が献堂されて行くのである。それはまさに母への思慕に重なるのかもしれない。ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題聖母崇敬ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)1841年の大聖堂修復ヴィオレ・ル・デュクのファサードヴィオレ・ル・デュクの改築問題薔薇・バラ窓(Rosace)ファサードのバラ窓フランスが国家として基盤が整うのはカペー家に入ってから。ノートルダム大聖堂は国を挙げての式典を執り行う聖堂として存在してきた。しかし、それはパリのノートルダムではなく、ランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims) なのである。ランスのノートルダムはフランク王国、初代国王のクロヴィスが洗礼を受けて以来、歴代フランス国王の戴冠式が執り行われてきた。王家に因縁の大聖堂は本来パリではなくランスだった。前回ナポレオンの戴冠式はパリのノートルダムで行われたと紹介したが、フランス王家ではルイ16世まではでランスで戴冠式が行われていたのである。今はフランス王家は無くなり、むしろランスよりもフランスの政治の中心地であるパリのノートルダムの方が有名になったのかもしれない。1841年の大聖堂修復市民の強い信仰心の元で建設された大聖堂であったのに、フランス革命の時には聖堂は散々な目にあっている。ジャコバン派により彫像は引きずり落とされステンドグラスは割られ・・。その修理に一役買ったのがヴィクトル・ユゴー (Victor-Marie Hugo)(1802年~1885年)の小説。ノートルダム大聖堂を舞台にした悲劇の物語「ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)」である。1831年出版。市民の気持ちの高まりもあり7月王政は1841年大聖堂のに修理に着手。修理は1864年まで続いた。しかし、この改修工事でいろんな部分が元と変わっているのである。この改修では本来13世紀当時の姿に復元すべく案が決まり、建築家はコンペでヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)に決まっていた。ところが、当時のカトリック教会の希望? 「元より立派なものにしたい」と言う要求が追加されたようだ。例えば今回崩れ落ちた尖塔はこの時に元のデザインよりも10m高くして約90mとなりデザインし直して取り付けられているらしい。さらに尖塔基部の彫像もこの時に新たに付加されたもので、全体にかなりの現状変更となったと言う。そしてそれらは一任されていた建築家のヴィオレ・ル・デュクの独断的な造作であり、そこに当然批判が集中する事になった。火災による今後の修復であるが、尖塔はヴィオレ・ル・デュクのデザインに戻すのか? 13世紀初期のデザインで造り直すのか? どうするのだろう? 間違いなく今後の修復計画の問題点の一つになるだろう。ヴィオレ・ル・デュクのファサード西のゴシックの彫刻はランス、シャルトル、アミアンの各聖堂にあった彫刻を参考にして1841年以降の修復で造られたそうだ。ノートルダム大聖堂パリの仕様全長128m (420 ft) 幅48m(157 ft) 聖堂への収容人数6500人ファサードの2つの塔の高さ69m(226 ft)尖塔の高さ91.44m(300 ft)正面ファサードには3つのポルタイユ(正面門)があり、ポルタイユにはそれぞれデザインの異なるティンパヌム(tympanum)が付いている。※ ティンパヌム(tympanum)は扉の上の半円の装飾。フランス読みではタンパン(tympan)。右 聖アンナのポルタイユ(聖アンナは聖母マリアの母)中央 最後の審判のポルタイユ左 聖母マリアのポルタイユ 実はこちらのファサードも中世の物とはほぼ別物。ヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)がかなりイメチェンしている。全体にランスの大聖堂に近い。ランスの方が凝っているが・・右の扉 聖アンナのポルタイユのティンパヌム(tympanum)上2段は1170年頃の作でノートルダム・パリでは最も古い彫刻に当たる部分。最も1841年の改修前のポルタイユはもっと小さかったらしい。中央の扉「最後の審判」がデザインされたポルタイユのティンパヌム(tympanum)中央のトリュモー(扉口の中央基柱)のキリスト像は19世紀に取り付けられたもの。また、両サイドの12使徒もヴィオレ・ル・デュク作。 足下に悪徳。上方に美徳の彫刻キリストの下段、2たつもヴィオレ・ル・デュク作左の扉 聖母マリアのポルタイユのティンパヌム(tympanum)こちらは中世からのものらしい。最も美しいとされるレリーフ。上からのマリアの戴冠。中 聖母の眠り下 マリアの先祖にあたる諸王トリュモー(扉口の中央基柱)の聖母子は近代の作品聖母マリアのポルタイユの脇を飾る聖人と天使もヴィオレ・ル・デュク作首を持つのはフランスの守護聖人である聖ドニ。サン・ドニ(聖ドニ)(Saint Denis)は、3世紀のガリア布教の為に派遣された司教で、250年頃に剣で首を切られて殉教した聖人。彼はシテ島からほど近い丘で斬首される。丘は古フランス語で「殉教者の山」という意味でモンマルトル(Montmartre)と呼ばれるようになった。伝説では自分の首を拾って説教しながら歩き続け、果てた場所にバシリカ(教会堂)が建てられた。現在のサン・ドニ大聖堂である。※ サン・ドニ教会堂(Basilique de Saint Denis)は王家の墓所として有名な教会だが、司教座聖堂に認定されたのは1966年。つまり大聖堂と名称が付くのは近年の事。窓の3体の像は天使かと思いきやサイド2人は羽根があるのにアダムとイブらしい。こちらの像も追加されたものです。ヴィオレ・ル・デュクの改築問題直径10m近くあり、長らく史上最大の大きさを誇ってきていたと言うこちら正面のバラ窓であるが、枠は1220年にできた当時のまま700年寸分たがわず維持されてきたらしい。ステンググラスは1841年の改築にてヴィオレ・ル・デュクにより新たに入れられている。下に並ぶ28体の諸王が並ぶギャラリーの像は革命後に全て落とされ破壊されたり埋められていたので、こちらも全て1841年の改築にて造りなおされた。後に一部発掘され美術館にある。つまり、こちら正面ファサードも1841年以降の工事で、修復というよりは改築に近く変わっているようなのだ。1841年の本来は修復であったが、責任者ヴィオレ・ル・デュクの独断で予定にはない改築があちこちされているらしい。ステンドグラスの絵も昔の作品を再現したものではない。尖塔の高さの問題もある。大聖堂は13世紀の時代と全く違うようだ。それ故、今までは批判だけであったが、今回の火災事故により再建するのであれば、ヴィオレ・ル・デュクが加えた部分が変更され戻される可能性が十分ある。それだけに専門家は検討する時間を多くとりたいわけで、フランス大統領が5年以内に再建したいと言うのは無理な話しなのだ。これはただの建設工事ではないので・・。今の時代の流れでは、当初に戻すのがベスト。しかし、正面ファサードのようにヴィオレ・ル・デュクの作品でも被害が及んでいない部分はそのまま残すのか? 下は中央の最後の審判のポルタイユの内部側と正面ファサードのバラ窓バラ窓の下にはパイプオルガンのパイプが並ぶ。110の音管列を持つフランスでも有数のオルガンらしく、今回の火事でかろうじて無事だったのは不幸中の幸いである薔薇・バラ窓(Rosace)ロマネスク及びゴシック様式の教会にみられる丸形の大きな窓をバラ窓(Rosace)と呼ぶ。ハッキリした起源は不明なのである。バラ窓はゴシック建築の発展の中で技巧を増し大きくなって行く。その形は車輪とか、星とか光、また薔薇を象徴するそうだ。そしてステンドグラスで彩られた美しいバラ窓はしばしば聖母マリアを暗示すると言う。ファサードのバラ窓は西に位置し、まさに中心には幼児イエスを抱く聖母の姿である。ファサードのバラ窓聖母を囲むように12使徒が描かれているが、残念ながら、誰が誰だかまでは推察できるような絵ではない。基本的にバラ窓は地上からでは肉眼で細部は見えないからねこちらのステンドグラスはやはり1841年以降の修復でヴィオレ・ル・デュクが作らせたもの。これに関して言えばエナメル色絵付けのガラスのようだ。ガラスはすでに何度か差し替えられている。何しろガラスは永遠ではない。特に昔のガラスは材質もよくないし、降雨にさらされる屋外のガラスの耐久性はかなり低い。800年前のステンドグラスがそのまま使用されているなんてありえないだろう。もし1220年当初のステンドグラスが残っていたなら、それらはすでに博物館入りです。ノートルダムをしのんで今回紹介しているが・・。以前紹介しているパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)にある王家のプライベート礼拝堂であったサント・シャペル(Sainte chapelle)のステンドグラスの方が質は高い。お金のかけ方も違ったのだろうが、修復もあちらは完璧である。リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)まだ載せたいステンドグラスなどもあるのでここで切ります。ノートルダム大聖堂の悲劇 は3に続く。Back numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年05月06日
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