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現地2019年4月15日の18時50分、パリのシテ島にある大聖堂、ノートルダム寺院で火災が発生した。ノートルダム大聖堂の火災は私にとっても非常にショッキングな出来事であった。特にパリの象徴の一つである大聖堂の尖塔のくずれ落ちる様を信じられ無い思いで見て居たのは私ばかりではないだろう。教会の歴史、そのものがくずれ落ちるような思いさえしたその映像は、世界中に衝撃を与えるものであったし、当然パリ市の皆さんの心情は計り知れない。泣きながら見ていた人もたくさんいたようだ。すぐさま再建の為の基金も設立されて、世界がノートルダム大聖堂の復活に協力を惜しまないだろう事は喜ばしい事だ。しかし・・。多くの職人の手がかかり、かつ熱烈な信仰心の元に建設された大聖堂は普通の教会ではない。フランス史に残る数々の祭典や葬儀、政治的イベントがこの聖堂で行われて来た。聖堂内部に入るとのしかかる歴史の重みは決して修復で蘇がえれるものではないのだ。元のロマネスク様式の聖堂の跡に大聖堂の建設が始まるのは1163年。教区の資金や王家の寄進の他に職人組合に属する市中の人々の労働力あっての着工である。※ 在位計算すると、建設支持を出したのは修道院で育ち、敬虔なクリスチャンであったカペー朝第6代国王であったルイ7世(Louis VII)(1120年~1180年)(在位:1137年~1180年)。と推測。石工、大工。鍛冶屋、彫刻師、ガラス工らが集まり、熱烈な信仰心の元で建設された。1159年、教区司教に任じられたモーリス・ド・シュリーは翌年から36年間、建設の祭式を執り行った。※ 当初計画された設計の完了は1345年。完成まで182年である。もちろんその後も改修や改築も多々行われている。それにしても、設計者が不明。当時、同時期に聖王ルイの指示で向かいにある王宮内のサント・シャペル(Sainte chapelle)を手掛けたフランスの建築家であるピエール・デ・モントルイユ(Pierre de Montreuil )(生年不明~1267年)が一時期建設指揮をとっていたのはわかっているが・・。※ サントシャペルは1248年に完成。何にせよ。たとえ形を取り戻しても、教会に染みこんだ中世からの人々の熱い信仰の思いや教会が見て来たドラマおよそ850年と言う歳月までは決して取り戻す事はできないだろう。火災による損失は建物だけではないと言う意味で残念なのだ。それでも、まだ日本の神社仏閣のように全部木造ではないから全焼はまぬがれた。石造りの教会は、何十年と言う歳月を費やして建設されるだけあって、そのぶんしっかりしている。不幸中の幸いにもノートルダム大聖堂は辛うじて原型はとどめているので大聖堂としてきっと蘇えってくれる事だろうと信じている。何年かかるかが問題であるが・・。10年ほど前にノートルダム寺院の特集をしたことがあり、今回アクセスが増えたのですが、みなさんのお目当ての奇跡のピエタ像の写真を見つけたので火災後と以前の写真を見比べる形で特集にしました。(前回はピエタの拡大を載せていませんでした。)そんなわけで「アジアと欧州を結ぶ交易路 3」の予定を取りやめて指し込ませていただきました。尚、火災の写真はAFPBB Newsの配信から借りてきています。世界に配信されたフランスの通信社のものです。ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)奇跡のピエタ(Pieta)焼け残った聖堂まるで爆撃のようだったと言うノートルダム大聖堂の尖塔の崩落。しかし、聖堂の中から金色の十字架とマリア像が見えた時、奇跡? と思った。下は火災前のピエタ像実は、このピエタは内陣の奥にあるので、一般人は近くから見る事ができない。トランセプトからの写真撮影である。聖堂内は暗いし、望遠がついているカメラでないととらえられないのだ。天気にもよるが堂はかなり暗いし・・。だから少しボケている。「ピエタ(Pieta)」は十字架から降ろされた息子キリストの亡骸を腕に抱く母マリアをモチーフとした聖母子を表現するものです。ピエタと言うとバチカンのピエタが有名です。2009年7月「ミケランジェロ(Michelangelo) 2 (ローマ時代) 」で紹介。リンク ミケランジェロ(Michelangelo) 2 (ローマ時代) ノートルダム大聖堂のピエタ(Pieta)はニコラス・クストー(Nicolas Coustou)(1658年~1733年)作。俗に「ピエタ(Pieta)」と呼ばれるが「十字架からの降下(Descent from the Cross)」がタイトルかも。ルイ13世の為にルイ14世が発注したものらしい。写真下に矢印したが、ピエタの後方にルイ13世とルイ14世の像もある。ノートルダム寺院はもともと聖母マリアに献堂した教会である。そもそも名称のノートルダム(Notre Dame)とはフランス語で「我らが貴婦人」と意味する。ルイ13世は結婚してなかなか子宝に恵まれず、ルイ14世となる子を得るのに23年かかったと言われている。待ちわびた王位継承者の誕生。王は我が子を「神の賜物(Louis-Dieudonné)」と呼んだと言う。出産を祈願して聖母マリアに祈ったとも伝えられている事などからこのピエタを捧げたと言う事らしい。祭壇のあるサンクチュアリ、そしてクワイヤのさらに後方のアプスにある。だから皆さん写真が無いのかもしれない。撮影している場所が翼廊とのクロッシングの下。クロッシングの真上に尖塔(せんとう)があったものと思われる。祭壇前の燃え山は崩れ落ちた尖塔か? クワイヤの屋根か? 入り口からの望遠なのでちょっと距離感がつかめないが・・。アプスにあるので柱でちょうど助かったのかと思うとやはり奇跡である。下は大聖堂の構造図を元にザックリですが、ノートルダム大聖堂の配置図を載せました。黄色の翼廊(よくろう)の円の部分がクロッシングの位置で、その上に尖塔があったと思われる。実際ノートルダムは側廊にも二重に柱が並ぶ。そして外壁の外はフライングパットレスで補強され、外壁内も突出した壁で小さな祭壇のコンパートが並ぶ。外壁の造りは頑丈なのである。上は、沈静化した後に尖塔がなくなっているのが見える。下は在りし日のノートルダム大聖堂下の写真でもセーヌの川向うからの撮影である。上は正面、最後の審判のポルタイユのある入り口からの火災後の写真下は身廊から内陣方面の火災後の撮影。ノートルダムの屋根は木造だから燃え落ちたわけです。でも部分で天井を支えるヴォールト(vault)は生き残っている。下は尖塔が落ちて穴の開いたクロッシング部分の天井のヴォールト(vault)。※ ヴォールトは、アーチに組んだ特徴的な天井。下、青い矢印はクロッシングの天井。落ちた部分。黄色の矢印は翼廊部。上下共にかなり明るく修正しています。身廊はともかく側廊の方はせり出しの壁もありミニ礼拝堂がついているのでかなり薄暗い堂です。以前、iPodでEnigmaを聞きながらトリップしそうになった聖堂です。雰囲気ありすぎな教会の一つですからそれだけに惜しい。今後数年は観光は不可能だし、元に戻れるのか?絵画に描かれて印象に残るナポレオンの戴冠式もここで行われたのです。ナポレオンもきっと悲しんだに違いありません。それにしても、これから、数年は観光どこころか、信者でさえ中には入れなくなるでしょう。外壁もシートで覆われるかもしれません。在りし日のノートルダム大聖堂の写真をもう少し紹介しておく事にしました。次回もノートルダム大聖堂です。Back number ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年04月28日
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ラストにBack number追加しました。わずか10年で壮大な遠征をやってのけ、広大な領地を傘下に収め、大帝国を築こうとしたアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)。32歳11ヶ月と言う英雄の突然の死は、その後の世界を変えたのは間違いない。そして、その早すぎる死、故にアレクサンドロスは死後すぐに伝説の英雄となるのである。彼は軍事の天才としてあがめられ、闘いのスタイルなども模範とされた。後の多くの軍人等が彼に近づこうと真似て、求めてやまなかったのだ。その中にはかのナポレオン・ボナパルトもいた。アレクサンドロスはこの遠征に多くの学者を随行させ、遠征した先々の土地や風土、動植物に至るまで研究させている。まさにこれはナポレオンがエジプト遠征の時に学者を随伴させてロゼッタストーン(Rosetta Stone)を発見した下りに生きている。因みにこのロゼッタストーン(Rosetta Stone)は1799年、ナポレオン軍により発見され当初はフランスの所有であったが、1801年、エジプトに上陸した英国軍にフランスが負けると所有権は英国に移り現在に至りそれは大英博物館の所蔵品となっている。※ 2009年5月「ロゼッタ・ストーンとナポレオン」で書いています。(一部書き加えています。)リンク ロゼッタ・ストーンとナポレオンせっかくなのでペルセポリスにもう少し触れてから進みます。少し交易から離れましたが、意義はあるかと思います。アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスペルセポリス(Persepolis)高級板材、レバノン杉ペルセポリスとゾロアスター教ペルセポリス炎上の謎The KingからThe Greatにアレクサンドロスの帝国の東端ペルシャでの湾岸調査ペルセポリス(Persepolis)ペルセポリスは、古代ペルシャ王国発祥の地のパールサ地方にダレイオス1世 (Darius I)(BC550年頃 ~BC486年)が全土の反乱を鎮圧して勝利した記念(BC520年頃)に建設が始まった都である。そしてそれは同時に王国の権力と威信の象徴であり、壮大にして威厳のある立派な都市であった。アレクサンドロス王が破壊するまでは・・。下が「百柱の間(Place of 100 Columns)」の柱跡南北400m 東西300mの基礎の上に高さ12~14mに及ぶ列柱の並ぶ巨大な宮殿群が建てられていた。百柱の間の側壁謁見の間 アパダナ(Apadana)であり公式行事の行われる広間の収容人員は1万人と言われる規模。玉座の間は帝国の富を見せる場でもあったらしい。下は復元図(「ペルシャ美術史」から)高級板材、レバノン杉百柱の間の柱の上には下のような彫像が乗り天井を支えていた。天井の板はレバノン杉。砂漠の多い地方で板材は貴重。昔はレバノン・シリアの高地にはレバノン杉の森が大規模にあったと言うが、商用としてエジプトやオリエントに売られて森は丸坊主。無計画な伐採で森は消滅して砂漠化した所も。まさにフェニキア人の都市テュロスもレバノンにあったが、フェニキア人はレバノン杉でガレー船を建造して航海に出ていたし、オリエントだけでなく、アフリカなど地中海全域にこれら木材を輸出していたと言う。レバノン杉がなくなるまで、レバノン杉材は売れ筋の交易品であった。レバノン杉はプトレマイオス王朝の頃はまだ貴族等の高級棺桶材に使用されていた事が解っている。(ミイラの入っている木棺がそうです。)写真はルーブル美術館からスサ出土 ペルシャ王は金のプラタナス、貴石でできた房を持つ金の葡萄の木の下に座って謁見したと言う。「謁見の間アパダナ(Apadana)」外観復元図(「ペルシャ美術史」から)復元の絵図で見ても壮大な宮殿であっただろう事は解る。実際の残存遺跡 下は正面と右の階段下は正面中央ゲート上に残る残骸謁見の間の階段には貢ぎ物をする者らのレリーフも描かれている。確かにペルシャ帝国の首都として属国からの使者がこの都にたくさん来ていたのだろう。この宮殿の周りには当然宿も必要。街も広がっていただろう事も想像できるし、交易の話に戻るなら。確かに国際色豊かに東西の品がここに集まって賑わっていただろう事も想像できる。つまりここペルセポリスはオリエントに広がる巨大帝国ペルシャの対外的な外交を目的とした国際都市として造られた都だったと解釈できるのだ。ところが、100年近い歳月をかけて完成されたペルセポリス(Persepolis)であるが、行政と経済活動の中心であったか? と言うと疑問らしい。実際本当にここが首都しとて機能していたかは判然としていないのだそうだ。行政ならむしろスサの方であり、ここはあくまで宗教的中心地としてのペルシャの都だった可能性が高い。つまりゾロアスター教の聖地として諸行事が行われる神殿を有する都として・・。イスラム教で言うならメッカみたいな位置づけか?下はテヘランのイラン考古学博物館からのレリーフでペルセポリスの謁見の間にあったものらしい。左はダレイオス1世。謁見の間 アパダナ(Apadana)の北側階段壁面おそらく宮中の召し使いと兵隊釈迦(シャカ)の頭の螺髪(らほつ)って、ペルシャ美術の影響なのかな?ペルセポリスとゾロアスター教ペルシャ人の王国はだいたいゾロアスター教(Zoroastrianism)を信仰していたが、このペルセポリス(Persepolis)はまさにゾロアスター教の儀式用神殿として機能していた。アケメネス朝はアフラ・マズダ神を始めミスラ、アナーヒタ女神などゾロアアスター教の神々が信仰され、帝王の保護、王権神授など宗教的要素も美術の中に繁栄されている。また碑文は楔形(くさびがた)文字で書かれ、アラム語、アッカド語、古代ペルシャ語が用いられ、アケメネス王朝文化の国際性を物語っていると言う。※ 主神はゾロアスター教であるが、ペルシャ人は他の宗教を信仰する者に対して寛容であったそうだ。下がテヘランのイラン考古学博物館から参考に持ってきた楔形文字(内容は不明)至る所に描かれているゾロアスター教の有翼の精霊。当初は人型ではなかったようだ。上はゾロアスター教の精霊で、人に宿る守護霊フラヴァシ(Fravasi)と認識していたが、アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)と解釈するものもある。混同されていてどちらが正しいのかわからない。有翼光輪を背にした王者の姿で表現されるアフラ・マズダー (Ahura Mazdā)はゾロアスター教における最高の崇拝神で、明らかにフラヴァシ(Fravasi)とは格が違うのですが・・。※ Ahuraという言葉の文字通りの意味は「主」であり、マツダは「知恵」。※ ササン朝ペルシャの時代にアフラ・マズダーの姿は有翼の人に置き換えられたらしい。ペルセポリスは刻まれた壁画からも明らかにゾロアスター教の神殿である。ところが、荒廃した中のどこが礼拝所か解らない。ゾロアスター教は、別名、拝火教(はいかきょう)と呼ばれるごとく火を礼拝する宗教である。ゾロアスター教の全寺院には教祖ザラスシュトラ(Zartošt)が点火したといわれる炎(不滅の法灯?)が、聖火台の上で耐える事なく燃えており信者は炎に向かって礼拝する。決して偶像に礼拝はしない。だから礼拝の聖火台と言うものが存在するはずなのだが、それらしき物がペルセポリスに見当たらない。ガイドブックにも無い。紹介の為に礼拝図をイランのペルセポリスの北にある巨岩の遺跡、ナクシェ・ロスタム(Naqš-e Rostam)の墓のレリーフから持ってきました。ナクシェ・ロスタムにはアケメネス朝時代の王墓4基が岩に掘られているのですが、そのレリーフ全てに同じ絵柄が刻まれている。その墓のレリーフこそがゾロアスター教の礼拝図なのですペルセポリスの北、ナクシェ・ロスタム(Naqš-e Rostam)の王墓台座の一つに王が立ち、一つの台座には燃える聖火台がある。王は炎に対して礼拝する。レリーフ上の浮遊する有翼の精霊は先に紹介したフラヴァシ(Fravasi)? orアフラ・マズダー (Ahura Mazdā)? であり、王を祝福している。実際には見えない精霊を具象化して表現したものだろう。ところで、なぜペルシャにゾロアスター教なる宗教ができたのか?それは中東と言う地政学的問題がある。石油の産出である。自然の荒野に天然ガスが吹き出し、雷などで自然発火すれば人は驚くだろう。それは超自然現象であっても、神の到来に見えたかもしれない。アレクサンドロスはペルシャでタールの池を見ている。燃える液体のタールを少年の体に塗って火を付けたりしている。もちろん熱くて火傷するなんて知らなかったのだろうが・・。石油で燃える炎を美しいと思ったようだ。つまりペルシャでは、タールがすでに活用されていたと言う事だ。燃える液体は善なる神のもたらす恩恵か? そしてペルセポリスは恐らくガスか? タールか? そのどちらかがあり、聖所として神殿が建設された可能性が高い。ペルセポリス炎上の謎ペルセポリスはアケメネス朝ペルシア帝国の帝都とされた場所。アレクサンドロスのペルシャ遠征では、ペルシャ門を突破した王はBC330年1月末にペルセポリスを占領。4ヶ月滞在して彼の部隊は略奪の限りを尽くしている。その金額はスサの3倍に及んだそうだ。※ スサでは貴金属1000~1250トン。ペルセポリスでは貴金属3000トンを手にしている。そしてBC330年5月、逃げたダレイオスを追撃する為にこの宮殿を離れる前にペルセポリスに火を放ち燃やしたとされている。それが「ペルセポリス宮殿炎上事件」と言われる謎である。※ 現在の発掘調査でも、意図的に焼かれたのだろう事が解っている。なぜこの壮大な宮殿を焼いたのか? 後々アレクサンドロス自体がそれを後悔していたとも伝えられるが・・。この宮殿はそれ以降現在にいたりずっと廃墟になってしまった。被害があまりにも大きかったったのだ。アレクサンドロス王が宮殿に火をつけた理由も諸説あるがどれも判然としていない。もしかしたらゾロアスター教の神殿であったからこその火災と言う事も考えられる。宗教的な嫌悪があったのかもしれないし、無知故の事故の可能性もある。あるいは、ペルシャ人を完全に屈服させる為の最終手段としたのかもしれない。実際ペルセポリスは確かにオリエント最大のペルシャ帝国の帝都であったのだから・・。何にしても惜しいThe KingからThe Greatにアレクサンドロスがヘルセポリスを出立してダレイオスを追撃。しかしダレイオスは部下の反逆にあい暗殺される。BC330年7月の事だ。アレクサンドロスは自らペルシャ王に手をかけなかったので、アケメネス朝ペルシアの王位を継いだのである。だからアケメネス朝ペルシャは確かに滅んだが、アレクサンドロスの意向で、ペルシャの体制も人もアレクサンドロスの治世にほぼ継承される形となった。しかし、元のペルシャ人等に多くの役職をまかせた為に元々のマケドニア軍やギリシャ軍の兵士らから反感が生まれ後に彼が若くして亡くなった事で、暗殺説が生まれたのである。アレクサンドロス王(The King)が大王(The Great)となるのは、広大なペルシャ帝国の王になった事で付いた称号なのだ。下はバビロンからインダス川までの範囲のアレクサンドロスの進軍と帰還のルート。アレクサンドロスの帝国の東端さらに討伐に東進した? 冒険を続けた? アレクサンドロスであるが、たくさんの問題をはらんでいた。当然だが、マケドニアから従って来た兵士らは故国への早い帰還を望んでいた。戦士が常に足り無いのである。当然だが、領地が増えれば統治の為に軍隊を駐屯させ続けなければならず、次の戦い向かう為にもっと多くの兵士の補充が必要になる。軍費は遠征で巻き上げた資金があるので傭兵もたくさん雇ってはいたが、途中食事に困る事もしばし・・。痩せた土地で食料が手に入らず、飢餓におちいる場所もあったらしい。止めどないアレクサンドロスの野望にさすがに皆が彼を止めた。仕方無く彼はインダス川を船で海洋まで下るのである。(途中侵略しながら・・。)インダス川デルタ地帯の街パッタラに駐屯して武装化を図る。そしてクレタ出身で友人のネアルコスに船と水夫を任せて自分は陸路帰途につく。ペルシャでの湾岸調査?ただ帰還しないところが彼らしい。アレクサンドロスの軍団は地勢の調査をしながら進む。陸地のみならず海洋からの地形調査もしている。船が停泊できる入り江があるか? 港が造れるか? 船で航海した時の実際の状況を掴むためにネアルコス(Nearchos)(BC360年頃~BC300年)に帰還の船団をまかせた。とは言えアレクサンドロスも陸路、ネアルコスの食料を調達しながらできるだけ湾岸に沿って併走。道々井戸も掘りながら水を調達して船団に供給。バビロンに帰還するのである。前回触れたが、アレクサンドロスの進軍は当初ほぼ隊商ルートに沿っていた。しかし、さらに拡大した領土のルート確保は必要事項だ。彼の開拓した陸路や河川を含む海の航路や新たな港の建設。またその為の要塞となる街の建設など湾岸調査は後世の物流に大いに貢献した事となる。海路のコースはやがて海のシルクロードとして表に出る事になる。※ アラビア海の季節風と言う問題もこの航海で発見している。上はイランであるが参考資料です。インダスからの帰りペルシャ帝国内でもケドロシアは不毛で軍隊は飢餓に苦しんだと言う。道無き道を最初に作って進む人は凄いなと思う。それにしてもアレクサンドロスの特集ではありませんでしたが、関係してくるのでずいぶん詳細になってしまいました。彼は本当にThe Greatでしたね。次回、紅海ルートから始める予定です。次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンまだ書きかけ中です。
2019年04月18日
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ラストにBack number追加しました。実は、当初は欧州での高級磁器誕生のルーツを探り、マイセンやロイヤルコペンハーゲンの紹介に入る予定でした。その為にいつくらいから磁器が欧州に輸入され、賛美されたのか? を特定する為に交易ルートを探っていたのですが、全然そこにたどり付けないどころか、全く違う方向に行き書き始める事になりました。どうも、交易品には、時代に伴うルート、そして需要があるようで、古くはシルクロードにて生糸や絹織り、香などが運ばれたり、海洋貿易が盛んになる頃は香辛料がメインの需要とされていました。そもそもルートが案外たくさんあったのにも驚きましたが、政変によりルートの変更が余儀なくされたのも事実。そのルートの複雑さも迷走の一つです。最初は東インド会社から入ったのですが、結局、紀元前に遡り、長い歴史を探っても、陶磁器だけが主だった交易品リストに入っていない事も解りました。つまり、最初に陶磁器が欧州にもたらされた時代を正確に特定するのは困難だと結論したのです。しかし、欧州で必要があり生まれた高級磁器は、東洋の磁器がお手本です。マイセン誕生の方の歴史から遡れば、王侯貴族に磁器ブームが来るのは、各国の東インド会社の貿易が盛んになる頃です。ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダなどが危険な航海を押して貿易に出たのは香辛料など東洋の物産欲しさです。白い肌の光輝く美しい上質の陶磁器は、その頃に副産物として欧州行きの船に乗ったのではないかと言うのが今の所の推測です。本来なら、これをイントロにマイセンの紹介に入るのですが、迷走しているうちに興味が交易自体の方に移ってしまいました。でも、交易路の話にするにしても東インド会社からでは中途半端。初期のアジアと欧州を結ぶ交易ルートを遡っていたら、紀元前のフェニキア人にらよる地中海交易にまでたどりついたのです。※ それ以上前は遺跡程度の資料しかないので不明。それにしても壮大なスケールの話しをコンパクトにできるのか? 迷走している間に本が積み上がっています。1~3回くらいになりそうな予感。 ← 20回くらい行きそうですm(_ _;;m 今回、写真は考えた末にイランとチュニジアから持ってきました。アケメネス朝ペルシア帝国の都だったペルセポリス(Persepolis)からアジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンシルクロード(Silk Road)最初のオリエント・ルート開拓者ベドウィン(badawī)地中海交易の覇者(はしゃ)海のベドウィン フェニキア人(Phoenician)シクロードの西端(アジア西端)の都は?最初の紅海(こうかい)(Red Sea)の交易路フェニキアとアレクサンドロス王との攻防ペルセポリス(Persepolis)のラマッス(lamassu)シルクロード(Silk Road)生糸や絹織物の交易に使われたと言うシルクロード(Silk Road)は中国を横断して欧州世界との交易に利用された歴史的隊商ルートを指している。近年、それら交易路はユネスコの世界遺産に登録されつつあり、長安から天山回廊を経由するルートは2014年に登録されている。このシルクロード(Silk Road)と言う名称は1877年、東西交流における絹の重要性を指摘してドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen)(1833年~1905年)がその著書において使用したのが最初らしい。※ 現在では北緯50度線付近のステップを横断する「ステップ路」、北緯40度線付近の水脈を求めオアシス群を辿る「オアシス路」、南方の海からアクセスする「南海路」(紅海経由)の3つに分類されるそうだ。下はウィキメディアコモンズから借りてきたシルクロードのおおよそのルート図です。赤いのが陸路。青が海路。※ この地図については時代が特定されていないので、長いスパンのルートが全て表示されていると思われます。同時に全てのルートが存在していたと言う訳では無いと言う事です。地図を見ればいかにも・・だが、このルートを最初から最後までの行程で行商に出る者はいないし(今は可能だが・)、またそう言う類いのルート図でもない。このルート上のあちこちに点在する開けた都市の市場で商品は取引され、西から東、あるいは東から西に運ばれたのである。簡単に言えば別々に誕生した東西の文化圏が、その枠を超えていつしかつながり、知らぬ間に文化融合をおこしていた。その要因となった「道・ロード・Road」である。「絹・シルク・Silk」の名称は、便宜上付いた名称で、必ずしもシルクが主だった取引だけではなかったはずだ。だから道はある程度決まっていただろうが、諸事情により、ルートは毎回変わったかもしれない。それにしても、「シルクロード」とタイトルする本を見るとほとんどが西安から天山山脈あたりまで。私が知りたいのはその先のインド、オリエントから地中海へと抜ける交易ルート。案外本が無い。調べたら書けない理由も見えてきました。ウズベキスタン、タジケントに向かう飛行機からのアライ山脈? 新疆ウイグルもそうであるが、ウズベキスタンもインド・ヨーロッパ語族系のお顔立ちが多い。東西で分けるなら西寄りだ。最初のオリエント・ルートの開拓者ベドウィン(badawī)これら古代のルートは、地域の政情により変遷しています。特にオリエントは歴史に名を残す大きな文明のある国が幾つか誕生。現イラン、イラク、シリアあたりを通るオリエントの内陸ルートを最初に開拓したのはおそらくベドウィン(badawī)のアラム人(Aramaeans)ではないかと思います。彼らの古代アラム語が商業語として古代オリエント世界に普及したと言われています。BC11世紀、ユーフラテス川上流に定住していたアラム人はラクダなどによる隊商を組んでシリア砂漠を越え内陸交易をしていた事が解っている。彼らは古代オリエントの遊牧民でした。イメージ写真・・ラクダはチュニジアからです。地中海交易の覇者(はしゃ)海のベドウィン フェニキア人(Phoenician)上のシルクロード地図には出ていませんが、地中海周辺(北アフリカ側から)の交易ルートを造ったのはフェニキア人です。地中海東岸、レバノンあたりに定住したフェニキア(Phoenicia)人はBC12世紀にはアフリカ大陸沿岸からイベリアにかけての地中海の島々との海上交易を盛んに行った海の商人です。彼らはしばしば海のベドウィン(badawī)と称されていました。※ ホメロスの叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」では「船を操る職人や商人の集団」としてフェニキア人の事が語られている。上はフェニキア人の植民都市と交易路 ウィキメディアから借りてきました。※ 年代が入っていないのですが、BC12~BC8世紀頃かと思います。フェニキア人(Phoenician)は優れた航海術と文明を持ってボスポラス海峡沿いにイタリア、シチリア、スペインと北アフリカ沿岸に住み着きカルタゴなど幾つかの植民都市も建設。彼らはその街の支配者に助言する立場となり商売をしていた。彼らは行った事が無い場所は無い? かのようにどこにでもいて、商売し、BC15世紀頃からBC8世紀頃に歴史の表で繁栄を極めていたそうだ。BC9世紀からBC8世紀頃、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア(Phoenicia)の諸都市は政治的な独立を失って徐々に衰退していく。アッシリア(Assyria)の滅亡後は新バビロニア(Neo-Babylonia)、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)と次々オリエントの支配者が変わる中、それでも彼らの開いた海上交易は衰えず服属しながら続いていた。彼らフェニキア人の滅亡の始まりはアレクサンドロス大王の遠征だろう。※ アレクサンドロス大王の遠征の最初期の被害者がフェニキアの本拠だったテュロス(Tyros)の都市。アレクサンドロス大王の遠征では、大国アケメネス朝ペルシャもギリシャの勢力下に入りヘレニズム世界の中でフェニキアの街もフェニキア人も消えて行くのである。※ フェニキア人の最後の都市カルタゴ(Carthage)だけは共和政ローマに併合されるBC146年まで残った。そのカルタゴ(Carthage)は現在のチュニジア、チュニス近郊に存在。下はチュニスのバルドー美術館(The National Bardo Museum)古代フェニキア人を描いたモザイク画古代のフェニキア人の商取引を現したモザイク画も多い。ヌミディア王国 (Numidia)(現在の(Bulla Regia)の遺跡跡のモザイク画から因みにフェニキア人が交易する為に生み出したと言われるフェニキア文字がアルファベットのルーツと言われている。先ほどの古アラム語もフェニキア文字から派生している。シクロードの西端(アジア西端)の都は?フェニキア人の交易都市の中でも最大で、BC10世紀には首都となっていたのがテュロス(Tyros)orティルス(Tyrus)と呼ばれる都市です。レバノンの南西部、地中海に面するテュロス(Tyros)は地理的要所であり、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に至る交易のハブ都市として長らく繁栄。シルクロードの西端はどこか? アジアの西の端はどこか? と言う答えが実は出ていないようなのです。地中海に出られる街はみんなその可能性がありますからね。※ 政変などですぐに変わったのかもしれない。考えられるのは、東アナトリア(トルコ)、シリア・レバノン沿岸の地中海に面する海岸線がその一つだったのは間違いない。中でもBC10世紀にはテュロス(Tyros)がシルクロードの西端だった可能性は大です。ローマを西とする説もあるようですが、アナトリアにしてもシリア・レバノン海岸にしても、北アフリカにしても、荷物はそこから船の輸送に切り替わり、地中海各地に運ばれたとみるべき。だからシルクロードの西端は、これらのいずこにあったと言うのがシンプルです。最初の紅海(こうかい)(Red Sea)の交易路実はフェニキア人の交易は紅海の交易にも関わっています。BC9世紀、首都テュロスを中心にフェニキアの貿易網はスエズ湾方面にまで及んでいる事が解っている。ピンクで囲ったのが紅海 青の★がフェニキアの海港都市テュロス(Tyros)。現在名スール紅海は北がシナイ半島に続くアラビア半島の西岸にあります。海のシルクロードの欧州に入る入り口が紅海です。しかし、海のシルクロード、紅海は地中海まで抜けていません。1869年11月スエズ運河(Suez Canal)が開通し地中海と紅海(スエズ湾)がつながるまでは地中海と紅海の間は船からいったん荷降ろしされ陸路を行くしか無かったのです。この紅海のルートは、東インド会社がアフリカ喜望峰航路を回る頃にはイスラムの元にあったので西洋側からのルートは一端消えていますが、実は思う以上に古くから存在していたのです。古代ギリシャの歴史家ヘロドドス(Herodotus)(BC5世紀頃)の「歴史(historiai)」によれば、フェニキア人によるアフリカ就航伝説や、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世(Darius I)(BC550年頃 ~前486年)に仕えたギリシャ人によってインダス川河口からを紅海を経て地中海に出る航路と経路が試されていた事が記されているらしい。※ 歴史(historiai)はBC5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシア諸ポリス間の戦争(ペルシア戦争)からペルシア及びオリエントの成立。そして拾い集めた各地の歴史、風俗や伝説がまとめられた地誌。どちらが先にルートを見つけてトライしたかはわかりませんが、地中海世界とオリエントを結ぶ紅海経由の交易路はアレクサンドロス大王の遠征以前から存在し、以降重要ルートになったようです。イスタンブール考古学博物館のアレクサンドロスの像(海外版のウィキメディアから借りてきました)アレクサンドロス3世は、英語名でアレクサンダー大王(Alexander the Great)(BC356年~BC323年6月10日)フェニキアとアレクサンドロス王との攻防アレクサンドロスの遠征では、隊商ルートを利用して進軍している。イッソス(Issus)でバトルはあったが、シリア・レバノン沿岸沿いのフェニキア人の街(Byblos,Sidon,Tyros)には敬意を表しながら占領はしない代わりに協力を要請してまわったらしい。協力とはお金の事と想像できる。アレクサンドロスの遠征では、バトルは案外少ないのだ。しかし、フェニキア人の街、テュロス(Tyros)はしくじった。彼らが従来の王達と異なる若いアレクサンドロス王を見誤ったのだ。強気な断り方をした彼らにアレクサンドロスは考えた末に7ヶ月の下準備をして街攻めのバトルをし、2000人の男子を貼り付けにし、3000人の婦女子、老人は奴隷として売lり、テュロス(Tyros)の街を滅ぼした。いつもなら、捕虜を人間的に扱うのにこの時の王は敢えて残忍な仕打ちをしてフェニキア人に、そして他の国の者らへの見せしめとしたのだろう。すでに1000年の歴史を持つ彼らのプライドと神話はこの時崩れ去った? その後の彼らは、まるで遊牧民のように海洋を漂白し、辛うじてカルタゴは残ったが、フェニキア人は歴史の表から消えて行くことになる。※ そもそも彼らフェニキア人は国家を持っていなかった。遠征最初のアレクサンドロスのルート左上の紫の★がマケドニアのペラ(Pelle)。ピンクの★がテュロス(Tyros)。まさにフェニキア人の都市をめぐっているようなコース。フェニキア人は港町には大概住み着いていた事を考えると、戦費をまかなう為にアレクサンドロス王は意図的にそれら交易都市を巡ったのかな? と思える。彼の進軍した交易ルートはどこもお金を蓄えていたからだ。それにフェニキア人とギリシャ人は商売でライバル関係にもあったからね。ところで、なぜシルクロードの話でフェニキア人の交易の話を出したか? と言えば、シルクロードのその先の商品の流れです。シルクロードの中継点で品物は中国からオリエントの隊商に引き継がれ、地中海沿岸都市まで辿り着いた品物は、フェニキア人により、北アフリカやギリシャ、イベリア半島の諸都市まで運ばれて完結したと思ったからです。チュニスのバルドー美術館には、商人らが、マダムにネックレスを売る姿や鳥や牛を売り買いする者らの姿がモザイク画で残されている。下はやはりバルドーからワインを売る男の絵図です。フェニキア人は根っからの商売人? そして彼らは海を専門としてどこまでも遠征。想像以上にフェニキア人の存在意義は大きく、シルクロード交易の一端として活躍したのは間違いない。実際、後々フェニキア人らから奪った交易ルートなど諸々が、ギリシャの各ポリス、プトレマイオス朝、ローマ帝国へとそのまま引き継がれて行くのである。今回東西交易を探る前までは気づきませんでしたが、アレクサンドロス王の存在意義も大きい。彼の東への遠征は、ヘレニズムと言う芸術分野にとどまらない東西文化の融合を生み、交易に限って見ても以前と以後、劇的な転換点となっている。※ フェニキア人の築いた古代都市カルタゴ(Carthage)についてはかなり古いですが以前紹介していました。カルタゴ(Carthage)は、現在のチュニジアにあったのです。2010年4月1日「チュニジアン・ブルー 1 カルタゴ(Carthage)」リンク チュニジアン・ブルー 1 カルタゴ(Carthage)2010年4月1日「チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)」リンク チュニジアン・ブルー 2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)2010年02月25日 「スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)」リンク スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)下はアレクサンドロスの遠征ルート図全体です。ピンクの矢印がバビロン(Babylon)です。アレクサンドロス王はそこを帝都にする予定でした。赤い矢印がインダス川のラインです。インダス川の上流がガンダーラです。仏教に仏像ができた(BC1.5世紀頃)のは、まさにアレクサンドロスの遠征で、ガンダーラがギリシャ支配に入った事によるギリシャ世界との交流故(ゆえ)です。アレクサンドロス王のペルシャ進軍は、半分はペルシャ戦争(BC492年~BC449年)の報復だったかもしれない。バビロン(Babylon)の後にスサ(Susa)を征服してペルセポリス(Persepolis)に向かう。そこはダレイオス1世が建造したアケメネス朝ペルシア帝国の儀式用の神殿群のある街。今回はアレクサンドロス王の特集ではないのでここはザックリと終わりますが、アレクサンドロス王の遠征の成功はペルシャを手中に入れた事。このアケメネス朝ペルシャ帝国の帝都とされたペルセポリス(Persepolis)攻略こそが重要なポイントになる。それ以降のインド北部への進軍は単に興味だったかも・・。下はペルセポリス(Persepolis)のクセルクセス門(Xerxes' gateway)遺跡は、どこに行ってもこんな感じで荒廃が激しい。巨額なお金をかけて修復する財力も無いからなのだろうが、18世紀後半から欧州で起きた遺跡発掘のブームがより荒廃を後押しをした。19世紀になると個人の金持ちまでもがかってに発掘に出かけ、遺跡はより荒廃する。だから本家の博物館よりもルーブル美術館や大英博物館、またメトロポリタン美術館などの方が状態の良い品があるのである。ルーブルから完品の写真を持ってきていますから見比べて想像して見てもらえるともとの遺跡の美しさが多少なりとも想像できると思います。ルーブル美術館のオリエント部門からペルセポリスからのお持ち帰り品の人面獣身有翼像です。人面獣身有翼像は、人間や動物を部分的に折衷した空想的怪獣です。これらは、メソポタミア文化では古くから用いられたスタイルで、アッカドを経て,アッシリア,アケメネス朝ペルシアに継承された超自然的な威力、魔力を象徴する精霊のようなものだそうです。アッシリア帝国の宮殿にも守護神像として、同じ人面有翼牡牛像のラマッス(lamassu)が一対あったとされ、ペルセポリスのそれは明らかにそれら図像を踏襲したものだそうです。※ 人面有翼牡牛像は、アッカド語でラマッス(lamassu)と呼ばれる。知性を象徴する人の頭部,鳥の王鷲を模した両翼。半身は雄牛。豊穣・富を代表する家畜の典型的存在たる牡牛の身体(蹄)を持つが、時に足はかぎ爪となり、超絶的な威力・魔力を表現する場合もある。かぎ爪は砂漠の支配者たるライオンの意匠となるのだが、ペルセポリスのそれはルーブルと同じ蹄。因みに、大英博物館にあるラマッス(lamassu)の足はかぎ爪である。話がそれるが、参考までに大英博物館のかぎ爪のラマッス(lamassu)も紹介しておきます。大英博物館のそれはアッシリア帝国の首都ニネヴェ?からの出度品らしい。いずれも足が5本なのは視覚的表現の問題だそうです。書きながら横道にそれて、さらに迷走していたので長くなってしまいました。一応を交易をタイトルにしたので次回アレクサンドロス王の遠征以降の交易路を紹介して、後にポルトガルが喜望峰回りの航路を発見し、各国の東インド会社設立の大航海時代の交易に及ぶストーリー展開で行く予定です。(それは壮大なストーリーの最後です) 次回リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィンまだまだつづく
2019年04月01日
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