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秦氏が歴史から消えて行った理由がなんとなく解りかけてきました。
一言では終わらないので、松尾大社、もしくは大覚寺を紹介する時の機会にします。
今回は別の案件ですが、やはりその歴史は古く、平安時代まで遡る変わった信仰のお話です。
古来、日本は大陸からいろんな物を受け入れてきた。それはほとんど来る物をこばまなかっと言っても良い。
特に宗教に関しては土着の神(カミ)がいるにもかかわらず、仏(ホトケ)をありがたく受け入れた。
仏教を積極的に受け入れた蘇我氏に対して、物部氏は、従来の神様に対して「申し訳無い。神が怒り災いが起きるのではないか?」と反対したらしい。
実は神と仏は全く別物だ。
神は存在自体は不確かなものであるが、我々の周りのあらゆる物に神が宿っていると考えられ、人は神をあがめ、祀った。それは現実的に考えれば、自然への感謝とみて良い。
一方仏教の方は、原始仏教に立ち返ると、釈迦が語ったのは、人の生きる道での精神論だ。
畜生とは異なる思考を持つ人間の苦悩。迷いや悩みや、苦しみからの解放の教えこそが、釈迦の悟りである。つまり人の心を支える教えが仏教なのだ。
仏像をありがたく拝む・・と言う行為は釈迦以後の後世の造り事。
人は拝むだけでは救われない。本来の仏教は非常に哲学的な思考のものなのである。
もっとも、渡来当時「人はなぜ生まれ、生きているのだろう?」などと考え悩んだ人達がどれだけいたか・・。
「神頼み」と言う言葉があり、神様はいろんなお願いを聞いてくれる。(かもしれない)が、仏様には自身の誓願成就を祈るお願いくらいしかできないのである。明らかに、両者は性質が違うのだ。
さて、話がそれかけたが、 大陸から伝播した宗教は仏教だけではない
。と言うのが今回の話に繋がる。
八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)
維新政府の宗教改革(振り回された神社)
八坂庚申堂(やさかこうしんどう)
庚申信仰(こうしんしんこう)とは何か?
庚申待(こうしんまち)とは?
庚申待(こうしんまち)の変容
庚申信仰にあやかる?
くくり猿が八坂庚申堂を救う?
日本初の暦
中国からは儒教や道教思想も持ち込まれた
。
孔子(こうし)が示した儒教(じゅきょう)は。「仁、義、礼、智、信」の五常が示すように人の倫理に関する指導書? である。
論語と共に日本に入ってきた儒教は、学問として限られた人達の中で浸透?
問題は道教である。
正式に誰が入れたわけでもない。 気付いた時には日本中に道教思想は広がっていたようなのだ
。
今でも 私達のまわりに残る民間伝承のほとんどが、そこからきていると言っても過言ではない。
七夕とか、てるてる坊主、なども道教由来のお話であるし、前に紹介 した「六道の辻」の
閻魔信仰もまた道教由来。本能寺で紹介した「三足の蛙」もまた道教由来。
方位としての「鬼門」のこだわりなども道教由来のものなのである。
何だか
庶民に広まった身近な信仰のほとんどが道教由来
かもしれないと言う事実に改めて驚いた
そもそも 道教自体の発生が、中国でも、各地の土着に発生した話が各地に伝播されたものとされている。 (内容に統一性が無い。)
だからこそ、日本においても庶民の生活に一番近く、受け入れ安くもあったのかもしれない
。
それらは半ば楽しまれて拡散して行ったのかもしれない。子供にする夜とぎ話にもちょうど良いし・・。
だが、庶民の中に浸透するにつれ、原型が失われ、不思議な変容をとげた信仰も多々あったようだし、それらが産んだ強い迷信は、もはや文明開化の中で「まやかし」の信仰とされたのも確かだ。
京都、夢見坂からの 八坂の塔(霊応山法観寺)
八坂庚申堂(やさかこうしんどう)はこの撮影場所より少し下がった右側。
維新政府の宗教改革(振り回された神社)
とにかく 日本人は、矛盾するようなものまで、何でも取り入れてきた。
それが神仏習合と言う、ユニークな寺や神社を産み出した のである
。
が、 明治の維新政府はそれらを否
定して宗教改革を断行。
国家の中心に神道を置く事で日本人のアイデンティティー(identity)を示したかったのだろうし
、意識の統一も計りたかったのかも・・。
まずはごっちゃになった神と仏の分離を始めた。(神仏分離)
明治政府は仏教を迫害したわけではなかったが、過激な者達により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こってしまった。
神社には国家からお金が出るようになったのに対して、寺の方は寺院の特権もはがされ寺領は減らされ、暗黒時代を迎えた。
とは言え、神社自体も調査時の176000社から、合併や排斥があり80000社が削減されたらしい。
素性の知れない祭神を祀っていた神社や、寺などはその対象になり随分閉鎖に追い込まれたり、前回触れたように祭神の置き換えが行われ、オリジナルが取り払われ変貌した所も多々。
結局、明治の維新政府は信仰を利用した国家戦略で国をまとめようとしたわけだが、 大戦での敗戦が決まると、日本統治に入ってきた連合国軍総司令部(GHQ)により、政府のしてきた国家神道の解体が進められた。
諸悪の根源は明治政府の打ち立てた国家神道のせいだ・・と理解されたからだ。
この時、維新の時と反対に、国家の庇護と援助金がなくなった神社に暗黒時代がやってきたのである。
だが、GHQの予想に反して、神道は消滅する事なく、神社は個々に生き残りの道をかけて再スタートしたようだ。(信仰の自由となり、オリジナルを取り戻した所も・・。)
事情を考慮してもらう為に前振りが長くなってしまいましたが、今回紹介するのは、明治政府によって「迷信(めいしん)」とされ、棄却された庚申信仰(こうしんしんこう)なのである。
※ 庚申信仰は今や絶滅危惧の信仰で、本もほとんど絶版。都内大手ショップにもなく、古本の取り寄せに時間がかかりました。そして、今回もまた、かなり長くなりました m(_ _)m
八坂庚申堂(やさかこうしんどう)
八坂庚申堂(やさかこうしんどう)は、排斥されたにもかかわらず、今に残る庚申信仰の地です。
しかも、 元祖、発祥の地らしい。
三猿即庚申尊
庚申信仰では三猿と青面金剛(しょうめんこんごう)が主に祀られている。
庚申信仰(こうしんしんこう)とは何か?
庚申信仰とは、そもそも宗教とは言いがたいものですが、 庚申(かのえさる)の日の夜に庚申の言い伝えにより「庚申待(こうしんまち)」の習俗(しゅうぞく)をしていた人達
を言います。
古くは平安時代に貴族の間で始まっていた?習俗
とされ、その話は枕草子の中にも出てくるそうです。
庚申待(こうしんまち)とは?
60日に一度の周期で来る庚申(かのえさる)の日、寝ずに一晩をやり過ごす・・と言う習慣
です。
それは、 庚申(かのえさる)の日、人の体に宿る三尺(さんし)と言う虫が、人が眠ると体を抜けだし天帝の所に向かい、その者の罪過を報告 に
行くとされ、
それを受けた、天帝は、その者の健康や寿命を操作
したと考えられていたからです。
報告されては困る、 身に覚えのある者達はそれを阻止するべく
、「
三尺(さんし)が体から出られないように、寝ずに庚申の晩が過ぎるのを待つ。」「庚申待(こうしんまち)」
なる奇妙な習俗(しゅうぞく)ができたようです。
そもそも 庚申(かのえさる)と言うのは陰陽五行、十干(じっかん)、一二支(じゅうにし)が組み合わさってできた古来の暦の57番目の日
をさしています。(60日で一周、同じく年も60年で一周して還暦となる。)北宋時代の道教類書、雲笈七籤(うんきゅうしちせん)には3 回守庚申すると三尺(さんし)は弱り、7回すると根絶できると書かれているらしい。
もしかすると、日本の各地にあった庚申塔や、庚申尊などの石塔は7回守庚申を終えた講(こう)の記念塔なのかもしれない。
三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)もいつの頃か庚申信仰に欠かせないアイテムに
中国より、天台系の僧により8世紀頃に日本に持ちこまれた三猿。
日光東照宮より先に庚申信仰で三猿は有名に?
三猿は庚申の使いになっている。
庚申待(こうしんまち)の変容
陰陽五行の暦なので陰陽道(おんみょうどう)に由来すると思われている人もいるようですが、
もとは中国(唐時代)の道教の祭り、一陽来復を願 う守庚申の行
事
に由来
するらしい。
※ 唐の守庚申は、日本の正月に似たものだったらしい。
日本では最初(平安の宮中で)、僧や貴族がそれにならった「庚申の御遊」が始まり、後に陰陽道(おんみょうどう)の中で「延命長寿」あるいは「疫病退散」の呪法が取り入れられたのではないか?
さらに、一般民衆に伝わるうちに、その手法は元の形から大分変化したと思われる。
最初は一人で寝ずに真面目に朝待ち。
いつしか複数の友達と歓談しながら寝ずに朝待ち。
やがて酒を飲むように。
人が集まり講(こう)なる集団が結成。村落単位もあったと思われる。
やがてそれは60日に一度、大酒を飲める大宴会に発展? したのだろう。
もはや災厄から免れる祈りの行事と言うよりは娯楽色が強い。
明治政府はこれを悪しき習慣と位置
づけたようだが、排斥されても娯楽の無かった山間ほど残ったらしい
。
何だか女性が多い気がする。
開基 浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)? 様かと思ったが、
十六羅漢の1人、賓頭盧尊者(びんづるそんじゃ)の木像らしい。
内容的には巣鴨の「とげ抜き地蔵尊」のように、悪い所をなでて拝むと良くなる・・と言う事らしい。
なぜここに仏教が? と疑問であったが、 八坂庚申堂の正式名称は「大黒山金剛寺庚申堂」
つまりここは今は寺になっていた。
それにしても庚申信仰が廃絶されたのに、なぜ八坂に残っているのか不思議であったが・・。
実は 大阪にも四天王寺庚申堂が現在も存在
する。
しかし、そこもかつては四天王寺 境内にあったものが明治の神仏分離で外に出された・・と言う経緯がある。
八坂庚申堂は、庚申信仰を捨て、
寺として明治に生き残こり、敗戦後の宗教の自由により復活したのかな?
本堂前
現在の本堂は1679年江戸時代の再建
本堂の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)で、秦氏が渡来したときに持ち込まれたもの・・とされているが・・。
三 尺(さんし)の虫を食ってくれるとも言われ中世以降は庚申待ちの時に青面金剛に祈る風習に変わった?とも
言われる。
庚申信仰にあやかる?
青面金剛(しょうめんこんごう)が秦氏が持ち込んだもの・・との説はちょっと疑問。
何しろその信仰は中世かららしいし、実は仏教の仏像の中に青面金剛(しょうめんこんごう)はいない。
どうも仏教由来の像ではなさそう。ひょっとするとバラモン教の神あたりから由来しているのではないかと思う。
※ 冥界の神ヤマ(Yama)はバラモン教からヒンドゥー教に融合され、道教に入って閻魔天を指す。
青面金剛(しょうめんこんごう)の姿はバラモン教の像の方に近い気がする。
とにかく 庚申待ちの盛んになった江戸時代には庚申信仰にのっかるべく、神社仏閣がその人気に乗っかったらしい
。
三猿も青面金剛(しょうめんこんごう)と同じく祀られたが、それは庚申(かのえさる)の猿に由来しているらしく、後はそれらに引っかけて? 神道系では猿田毘古神(さるたひこのかみ)が祀られている。
人気のあやかり系では、柴又の帝釈天も江戸時代には庚申詣で有名
だったそうだ。
一時行方不明になった本尊の帝釈天像が庚申の年の庚申の日に見つかった・・と言う御縁かららしい。
庚申の日には多くの人が詣で、縁日が出て「弾き猿(はじきざる)」なるオモチャも売られたそうだ。
神仏習合のチャンポン文化は、この頃さらに加速している
のである。
それにしても平和の安定した江戸時代の文化は華やかだ。
流行の先端を行く江戸の庶民は賑やかなイベントが大好き。
何か今の若者たちに思考が似ているかもしれない。
かつてはかなりの規模だったようだが今は狭い。
それでも驚くのは、近年また人気が出たのか? 人が非常に多かった。
くくり猿が八坂庚申堂を救う?
どうも SNSで最近若い女性の間で人気のスポットとなっているらしい
。
その理由は カラフルなくくり猿と写真映え
。
さらに、くくり猿は、それ自体は庚申尊(青面金剛)の分霊の入った「御守」らしいが、くくり猿に願い事を書き、自分の欲を一つガマンすれば願い事が叶うとされているらしい。
だからこの寺のあちこちに絵馬に相当するくくり猿がカラフルにくくられている。
くくり猿とは、手足をくくられて動けなくなった猿の姿を現した物。
人の欲の姿を猿に置き換えた物らしい。
つまり欲求のままに走り回る猿の行動。人の内にある欲望も同じ。
その欲望を固定して欲求をセーブ。
庚申さんによって猿がくくりつけられている姿と言う事らしい。
「くくられた猿」とは微妙ではあるが、見て可愛らしい造り。もちろんお持ち帰りしても良いそうだ。
境内にくくられたカラフルなくくり猿。
本当はカラー毎に願いの意味があると思うのだが・・。
どれを見ても恋愛成就。あるいは「彼女、彼氏ができますように。」中には「息子にカワイイ彼女ができますように。」何てのもあった。
SNSで拡散? 八坂庚申堂はなぜか恋愛成就の祈願場所になった?
どうりで女性が多くなったはず。そして着物女子も増えたわけだ。
ご近所の軒先にくくられている。5匹のくくり猿
「御縁があるように」とか「家庭円満」の願掛けがあるらしい。
都
内にも庚申塚なるものが幾つか残っているので私も名前くらいは知っていたが、それら塚は全国に無数にあったにもかかわらず、ほとんどが明治期に破壊されたそうだ。(明治政府の廃仏毀釈があったから)
地域で多少ムラがあるのは、厳しく取り扱われたか・・と言う事?
東京でも入谷(いりや)に庚申堂があったらしい。昭和初期に探した人がいたらしいが、すでに無かったとか・・。
それにしても 地方独自のアイテムもいろいろ出て来るので庚申信仰は面白い
。
何より 今もずっと進化し続けている所がまた面白い
。
くくりザルは八坂庚申堂だけ? かもしれない。
四天王寺庚申堂では庚申の日に七色菓子、昆布、蒟蒻(こんにゃく)を売っていたそうだ。
もはやお参り帰りのお土産としか思えないが・・。
調べていたら広がり過ぎて、盛りだくさんに。
これなら他の庚申堂にも、また違う庚申信仰の方法が出て来るかもしれない。
確かに学者さんはそこそこ厚い本を出版されている。
一朝一夕(いっちょういっせき)に語れる内容の話では無いのである。
少なく見積もっても1200年は続いているはずなのだから・・。
日本初の暦
日本最初の暦が作られ配布されたのは第33代推古天皇の治世。604年(推古12年)正月の事。
日本書紀によれば、当初の日本の暦は百済から招いた暦博士が編纂したものだったらしい。
602年に(推古10年)に百済から僧、観勒(かんろく)を招くと、暦法や天文地理を帰化系の子弟らに指導してもらい、604年(推古12年)。完成にいたったとされている。
※ 推古天皇の治世である、摂政は聖徳太子なので、渡来系の子弟とは、おそらく当時太子のブレーンをしていた秦氏らを中心とした者たちだったと推察できる。
※ 帰化系の子弟ら・・と言うのは言葉の壁もあったのかもしれない。
※ 日本書記には百済とあるが、ひょっとすると来日したのは新羅の僧であった可能性もある。
当時の暦は太陰太陽暦の暦法を用いた中国の暦、元嘉暦(げんかれき)であったとされる。
※ 元嘉暦(げんかれき)には朔日の問題があり、後に定朔法を用いた儀鳳暦(ぎほうれき)に併走しながら代わる(697年)
庚申信仰の元となる暦はこれらの暦からきたもの。
1.五行・・・き・ひ・つち・か・みず
※ 木・火・土・金・水(もく・か・ど・こん・すい)だけど組み合わせの読み方は(き・ひ・つち・か・みず)となる。
2.十干(じっかん)・・・甲乙丙丁戊己庚辛壬葵
3.一二支(じゅうにし)・・・子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
この3つの組み合わせで月日や年は構成され60で一周になる。
2017年9月「 四天王寺庚申堂」も書いています。
リンク 四天王寺庚申堂
長 くなりついでに日本初の暦についても載せました
。
しばらくお休みさせてもらいます。(9月末くらいには再開予定。)
その為に今回内容的には3回分くらいを詰め込んでしまいました。 m(_ _)m
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