[Stockholm syndrome]...be no-w-here

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2021.05.20
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カテゴリ: 宝塚
これが最後の公演だからなのか、今回の【桜嵐記】では先行画像の段階から、珠城りょうの顔付きがこれまでとは違って見えた。
何かを達観したかのようなその表情は、敗ける(死ぬ)と分かっていても戦う事を選んだ楠木正行の生き様とも重なり、美しくも儚い印象を僕に与えた。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な言葉がある。
これは武士達に死を要求するものではなく、武士として恥をかかずに生き抜くためには、死ぬ覚悟が不可欠であるという武士の教訓(心構え)として説かれたものだ。
この言葉には、意訳ながら以下のような続きがある。


 武士道とは、生きるか死ぬかの選択を迫られた時、
 迷わず死ぬ方を選ぶという事に過ぎない
 余計な事は考えず、腹を据えて邁進するのだ

 渦中においては、自分の判断が正しいかどうか知る由もない
 人は誰でも、死ぬよりは生きる方が良いに決まっている
 だから、少しでも生きる方に理由を付けようとするだろう

 しかし、目的も果たせぬまま生き残れば、ただの腰抜けである
 この紙一重が大きいのだ
 逆に、死ぬ方を選び、志半ばで力尽きたとしても、
 「犬死だ」「馬鹿だ」と謗られるかも知れないが、恥にはならない

 これこそが武士道の根幹である
 これを極めるには、常に死を覚悟して事に当たる必要がある
 そうして、何事も死ぬ気で取り組んでいれば、
 武士道が自分のものとなり、落ち度なく家職を全うする事ができる


楠木正行の決意も、これに近かったのではないだろうか。
父・正成の遺志に従い、己の道を自ら決しようという時、彼は武士道に殉じたのだ。

戦争映画やドキュメンタリー番組を観ながら、よく考えた事がある。
「特攻や玉砕を命令された兵士達は、何を思って死地へ向かったのだろうか…?」と。
好きも嫌いも、良いも悪いも無く、ただ死なねばならなくなった時、人は何を思うのだろうか。

それは、やはり国の未来であり、愛する人や家族の幸福だったのではないかと思う。
少なくとも、そうでも思わなければ、僕は死に切れない。
それは決して「滅びの美学」などではなく、飽くまでも未来への「希望」であり「礎(いしずえ)」である。

上田久美子がこの物語に託した想いも、同じだったのではないだろうか。
彼女も、楠木正行の生き様に希望を見出だす事ができたからこそ、珠城りょうのサヨナラ公演にこの演目を選んだ。
雪組【fff】とは真逆の結末でありながら、どちらも「希望」を感じさせる演出だった事は、あっぱれと言う他ない。
(花組【アウグストゥス】に足りなかったものが、この【桜嵐記】にはある)

人物造形も見事で、真面目で心優しい楠木家の嫡男・正行に対し、戦好きでやんちゃな三男・正儀(まさのり)、戦よりも料理好きで愛妻家の次男・正時と、三者三様のキャラクターが物語の展開にしっかりと絡んでいる。
また、自ら父の仇を討とうとする気高さはあるものの、基本的には世間知らずな弁内侍(べんのないし)とのやり取りも、それぞれの人間味が活かされているからこそ、自然に笑いが生まれ客席を和ませてくれる。
光月るうによる軽妙な導入部から、出陣式を最後に持って来るストーリー構成まで実に上手く練られており、悲劇ながらも爽やかな余韻を残す傑作だ。

上田久美子が珠城りょうと出逢ってくれた奇跡にも感謝したい。

ありがとう!!



キャスト別の感想を書くつもりが、思わぬ話題で盛り上がってしまった(笑)。
続きは、次回に改めて。





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Last updated  2021.06.12 20:12:56


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