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西国街道、旧山陽道と言われる部分を歩いてみました。京都の羅城門跡から下関の永福寺まで。まとめてみると、下表の通り。GPSロガーを投入したのが高槻以降。そのため、京都~高槻間は地図上での計算距離。高槻以降はGPSロガーのデータ距離です。総延長606.7km。所要時間は121時間20分。時速はジャスト5km。昨年の8月から足かけ8か月。延べ23日かかりました。西宮から土山までは自宅から近いこともあり、出勤前に歩いたり、少しの時間を見つけて少しずつ歩きましたので、通常の1日30~40kmペースなら17~8日といったところでしょうか。伊勢本街道や熊野古道・中辺路ルートと比べると随分雰囲気が違いました。伊勢や熊野は昔から参拝のための旅の道。一方山陽道は参勤交代や庶民の移動のための生活の道。そのため、伊勢や熊野ではあまり感じられなかった人の気配がこちらではいろんな所で感じることができました。振り返ると、いろいろありましたね‥スタートの京都は35度を超える猛暑でしたが、松子山峠から八本松までは吹雪で凍えそうでした。ハンターさんに銃口を向けられたこともありましたし、崖のようなところをロープでよじ登ったりもしました。通行止ではないかとヒヤヒヤしながら峠に向かったり、相当荒れていて道かどうかもわからない、といった情報からかなり気合を入れて臨んだ峠が、キッチリ整備されていて拍子抜けだったり‥。個人的感想ですが、歩く道としては熊野や伊勢の方が面白かったと思いますが、距離がかなり長い分、達成感はこちらのほうがありましたね。さて。次はどこを歩こうかな。
Apr 25, 2011
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西国街道の続きです。いよいよ最終回です。ここの二股は右へ。民家の間の狭い道を歩きます。関門海峡大橋もハッキリ見えるようになってきました。どんどん道は狭くなります。完全に生活道路ですね。尾道の街を思い出しました。左のブロック塀と道の角度を見ていただくと、急な坂なのがわかると思います。ここは左へ。火の山ロープウェイの駅前に出ました。国道9号線に出ます。ここからはしばらく国道を下関駅方面に歩きます。みもすそ川公園には源義経と平知盛の像。傍らで紙芝居もやってました。壇之浦古戦場跡。関門海峡大橋を下から撮ってみました。大橋をすぎ、右手には立石稲荷神社。この辺りの9号線は下関駅に向かって右側に歩道がなく、この稲荷神社に行くには横断歩道を渡っていくしかありません。下関の街までもうすぐ。自然と足が早まります。壇の浦バス停の先から、国道の右側にも歩道があるようになりますので、右側の歩道に移動。右 上方道、左 すみよし道とかかれた道標。赤間神宮。亀山八幡宮の近くには床屋発祥之地の碑。なんでも鎌倉時代の中期、采女之亮が新羅人の髪結職から技術を学び、我が国初の結髪所を開き往来の武士や金持ちを客として生計を立てていたそう。その結髪所の奥に、亀山天皇と藤原家祖先を祀る立派な床の間があり、「床の間のある店」と呼ばれ、転じて「床場」、「床屋」と変化していったそうな。亀山八幡宮。ここにどうしても見落とせないものがあるのですが、なかなか見つかりません。どうしよう‥ありました。山陽道の道標。「ここは山陽道の起点 九州渡航の起地なり 山陽道第一番塚なり」と案内板に書かれています。ということは、ここがゴール。なのかよくわかりません。というのも別のところが終点だ、という説もあり、とりあえずそちらまで行ってみることにします。唐戸市場付近。「バドガールと楽しむビアガーデン」の垂れ幕が。どう楽しむんでしょうかね?さすが下関。マンホールもフグ仕様です。フグ屋さんもちょこちょこ見かけました。食べたいなあ。大正9年竣工の山口銀行旧本店。港町には洋館が似合いますね。永福寺前に到着。ここがもうひとつの終点。着きました。ようやく。ホントに長かったし、遠かったです。階段を登って本殿の前まできました。高台にあるため、関門海峡がよく見渡せます。本殿前の階段に腰をおろし、しばらく感慨に浸っていました。永福寺到着後、1つ行ってみたいところがあり、そこに寄るためバスで移動。この話はまた別途あげます。帰途につくため下関駅に移動。在来線で新下関駅へ。新幹線に乗り継ぐ場合、下関からは小倉まで出て乗換えるほうが、のぞみの接続本数も多く便利だし、早いのはわかっていたのですが、急ぐ旅でもなし、料金の安い新下関経由にしました。こだまで新山口へ。そこからはさくらで帰りました。帰りはモチロン一人宴会。厚狭駅から永福寺まで約35kmを7時間10分、47800歩でした。これで西国街道も終わりです。まとめは別途行います。とりあえず、無事に歩けたことに感謝。
Apr 23, 2011
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西国街道の続きです。清末の街を抜けると、急に民家がなくなり一面田んぼに。神田川を渡ります。横町に風呂屋があるわけでも、三畳一間の下宿があるわけでもありません。国道491号線を斜めに横切るように横断。正面に小さく見える楕円形の看板の左側の道に入ります。程なく、道は山陽本線に接します。道なりに行くと、四つ角の所に宇部の一里塚跡。ここでちょっと休憩。さらに行って山陽本線の踏切を渡り、この先ガードで国道491号線をくぐります。長府の街に近づきます。ガードをくぐってからはひたすら直進。やがて右手にはJR長府駅。やがて右側に八幡神社の御旅所。国道2号線を越え、調布の街に入ってきました。先程のガードをくぐってからここまで、ひたすら直線の道を約40分歩きました。単調であまり見るものもなく、ちょっと退屈でしたね。街に入ってすぐ、右手には大乗寺。この辺りは社寺が並びます。こちらは法華寺。この辺りは市の条例かなにかで、店の意匠も制限があるのでしょうね。ヤクルトさんもこんな店構えでした。すぐに正円寺。ここの境内には‥大イチョウがありました。五枝に分かれ、高さは13mもあるそうです。県の天然記念物。この角を右に曲がります。長府は昔の街並みが残るきれいな街です。やがて長府毛利邸。凄いお屋敷です。こんなお屋敷に住んでみたい気もしますが、掃除と固定資産税が大変そう。毛利邸の先、右手には功山寺。この左隣は長府博物館。さらに進んでいきます。博物館辺りまでは観光客がかなりいましたが、博物館の先に進むのは私だけ。県道246号線を歩いていきます。しばらく緩い登りが続きます。下りになると道が広くなりました。左手には新興住宅地が広がっているようです。深奥住宅地を過ぎると、道はまた狭くなりドンドン下って行きます。ここの二股は右側へ。郵便局の前を通ります。んんっ?? 遠くに見えるのは‥キタ━━━ヽ(ヽ(゚ヽ(゚∀ヽ(゚∀゚ヽ(゚∀゚)ノ゚∀゚)ノ∀゚)ノ゚)ノ)ノ━━━!!!!関門海峡大橋!!キチャ━━━ヽ(●´∇`●)ノ━━━ッタ☆ようやくゴールが見えてきました。しばらく行くと海も見えるようになります。前田の街にはいりました。街の雰囲気が海沿いの街ですね。家の屋根がこんなに近い。急な斜面に街があるのがわかります。ゴールまであと少し。感動?のゴールはまた後程。
Apr 22, 2011
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西国街道の続きです。先程の蓮台寺峠から先は舗装された道。峠から7~8分でご覧の二股。ちょっと悩みましたが、ここは右へ。少しいくと蓮台寺から降りてくる道と合流します。この写真は右後方から合流する感じです。なので、この写真は振り返って撮ったもの。この辺りで軽トラに乗ったおじいさんに会いました。「乗って行け!」とお誘いいただきましたが、趣旨を説明し丁寧に辞退。お気遣いありがとうございました。峠から16~7分で広い道と合流。ここは左で先に見えるトンネルをくぐります。しばらく行くと右手の小さな小川の向こうに庚申塚。吉田の街に入り、道はT字路に突き当たりますので、そこは左へ。T字路の右手には新旧2本の道標が並んであります。またT字路の正面は高札場跡。今は蛭子神社があります。T字路を左に曲がり、県道260号との交差点の左側には一里塚跡。進路はそのまま直進します。少しいくと川を渡り、渡ったところを左。左に向いてすぐがこの写真。真ん中の道(左の電柱の右)を行きます。すぐに木屋川にあたりますので、右手に見える吉田大橋で木屋川を渡ります。橋を渡り、木屋川を左手に見ながら県道33号線を歩いていきます。川の向こう側にはキレイな桜並木が。こちらサイドにはありませんでした。吉田大橋を渡ってから20分強で、ご覧の所に来ます。(上木屋バス停の先)ここを右斜めに上がる道へ。すぐに地道になります。右手の山肌の上になにかありました。地蔵さんのように見えます。道は下りになり二股が。ここは左へ。山陽道ではここが最後の地道となりました。程なく県道33号に再度合流。左手に木屋川を見ながら歩いていきます。小月製作所前バス停の先、ご覧の右斜め側道がありますので、その側道へ。左にため池、その先左手にある小月小学校を過ぎるとご覧の四つ角。ここは右へ。国道491号線を越え少し行くと右手の小月神社御旅所のところに巨大な庚申塚。案内板によると、高さ2.63m、重量7トンもある日本一ともいうべき巨大な塚。彫られた庚申の2文字の窪みに米を入れると2斗も入るそうです。庚申橋を渡り少し行くとT字路に突き当たります。T字路を左に曲がりますが、曲がってすぐ進行方向右側の歩道に小月の一里塚跡。一里塚の先、右 かみがた道、左 とよた道と書かれた道標。この道標の先の交差点を左折します。見廻り通りに入ります。案内板によると、下市から茶屋入口までの山陽道の一部で、下市は宿場街、茶屋町は歓楽街で栄えた。このため武士が庶民の暮らしや治安を見て廻った、そうな。なので見廻り通り。見廻り通りを道なりに行くと、やがて右手には孝行塚。孝行塚のすぐ先、ご覧の二股は左へ。道なりにどんどん歩いていきます。やがて右手には清末八幡宮の鳥居。またまた長くなってしまいました。続きは後程。
Apr 22, 2011
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ようやく迎えた西国街道の最終日。残りは34~5kmほどなので、アクシデントでもない限り到着するハズ。前日終了地点の厚狭駅近くの二股まで戻ってきました。朝の7時ちょうどにスタートです。厚狭駅の南側の一直線の道を西へ。綺麗に区画整理がされていますが、建物はあまりありません。一直線の広い道路が終わり、この先道は少し狭くなります。いい天気です。最終日にこの天気はうれしいですね。この日最初の二股。ここは左へ。右に行ってしまっても先では合流します。ここは右へ。すぐまた二股でここも右。上の二股の真ん中のところに道標がありました。右 吉田道、左 はぶ道と書かれています。明治10年のもの。正面にこんもりとした山野井八幡宮の杜が見えてきます。道は左にカーブしますが、小さな橋を渡り、正面に見える神社への階段方向へと歩きます。川を渡って階段の手前を左折。八幡宮を時計回りに回るように歩いていきます。いい感じの道になってきました。その後、県道225号線を横断し、道なりに歩いていきます。やがて道は山陽本線の線路と平行するようになります。この変形Y字マークは右へ。踏切を渡って山陽本線の下関に向かって右側へ。間違えてここをまっすぐいっても同じところにでます。山陽本線の右側に出たところで、ちょうど電車が走ってきました。高架で線路を越え、先ほどの変形Y字マークのもう一方の道に合流。道はまた線路の右側へ。そんなに行ったり来たりしなくても、とも思いますが‥少しいくと三叉路になります。写真ではわかりにくいですが、左に見えるカーブミラーの奥から左方向へ入ります。また線路の左側へ。しばらく線路の左側に沿って歩き、ご覧の二股へ。ここは右に行き、踏切を渡って線路の右側に出ます。踏切を渡ってすぐ、県道232号線にあたりますので、県道を左折。また、踏切を渡った正面が福田八幡宮。県道を200mほど行くとご覧の交差点。ここを右へ曲がります。曲がるところには小さな道標が。曲がって50m程で二股になります。ここは左へ。ここから蓮台寺坂を目指します。すぐに地道になります。田んぼの中の緩やかな登りを上がっていきます。地道になってから6~7分で、左に曲がるところがありますので左へ入ります。写真にも小さく見えますが、中国電力サンの「お願い!」と書かれたカラフルな看板があるところです。右は山、左は田畑といった風景がしばらく続きます。のんびりした道が続きますが、杖や歩行用のストックを持っていない方はそれに代わる棒を探しながら歩くのをお勧めします。というのも‥数十mほどですが、ぬかるんだ道になります。通称「ぬかるみ道」。そのまんま。前日までの天候にもよりますが、この日もかなりぬかるんでいました。拾った長い枝で地面の硬いところを探しながら一歩ずつ前進。このぬかるみ道があることは事前にわかっていました。どうしても通れない場合は持参した大きなビニールのゴミ袋で靴ごと膝下まで覆うつもりでしたが、なんとかそうせずにすみました。ただ、一歩ずつ確認しながら進んだので、ゴミ袋に足を突っ込み、ズブズブしながら進んだ方が早かったかもしれません。ぬかるみ道が終わり、しばらく行くと庚申塚と顕彰碑。本来、ぬかるみ道の先、右に入る二股がありそこを右に入る予定だったのですが、見落としてしまい、わかりませんでした。庚申の文字が正面に見えるように歩いてきたのですが、見落とした道へ行けば、庚申塚の右手からくる形になっていたはずです。ここが峠のようです。大きな石垣もありましたので、昔は家などもあったのかもしれません。ここから先は舗装道の下りになります。まだまだ続きますが、長くなってきたので続きは後程。
Apr 21, 2011
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西国街道の続きです。船木の高札場跡の標柱の反対側は岡崎八幡宮。さらに行くと、旅人荷付場跡。江戸時代、ここには駅馬15頭と人足十数人がおり、公儀役人や大名行列、旅の人々の世話をしていたそうだ。船木の街を歩いていきます。船木は本宿で、本陣や勘場もあったそうな。やがて右手に大木森住吉宮。小さな太鼓橋が可愛らしい。この先、茶屋の交差点で国道2号線に合流し、有帆川を渡ります。しばらく2号線を歩き、新川の交差点のところで左側の側道へ。側道を道なりに行くと、また2号線に戻るので、またしばらくは国道を歩きます。2号線の500kmポスト。思えば遠くへ来たもんだ。国道を15分程歩くと、右手の少し入ったところにこんな案内板が。木造十一面観音菩薩立像、千林尼の石畳路(一部分)、山陽街道(残存百米)と表記があります。案内板の左側の道に入ってみると‥少しだけ石畳がありました。これが千林尼の石畳路でしょうか?さらに行くと二股に。どちらか悩んだのですが、右側の坂の上に白い標柱の頭がちょっと見えたので、右側に行くことに。正解でした。ここからが山陽街道(残存百米)ですかね。歩いていくと、途中に二股が。ここも悩んだのですが右手に行ってみました。鳥居が現れました。どうもこの道は神社への参道のようです。ということは行き止まりの可能性が高いので、二股に戻り左側の道へ。しばらく歩いていると、県道225号線に合流。山陽街道(残存百米)の標柱のところからここまで5~6分かかっています。「残存百米」と距離が合いませんが、細かいことはいいとします。県道を登って行きます。西見峠。こちらの標高は57m。これで峠っていっていいものかどうか。西見峠から少し下って行くと、左斜めに入る側道があります。側道に入るところには、比較的新しい「左 旧山陽道」とかかれた道標。道標に従い、左の側道へ入っていきます。しばらく道なりに歩いていきます。この先右手に池があり、その先左手はFDK山陽工場。FDKの正門を過ぎた先の二股は右へ。少し行くと右手には鴨神社、左手には厚狭護国神社の鳥居が見えます。国道316号線を横断したあと、厚狭川を渡ります。厚狭川を渡ってすぐ左折し川沿いを歩きますが、その角には小さな道標。新幹線と山陽本線をガードでくぐります。くぐったあと、すぐT字路になるのでそこを右。また突き当たるのでそこは左。左に曲がってすぐ下の二股になります。街道は左へ行きますが、ここでこの日の予定は終了。約35kmを6時間45分、45800歩でした。右側の道に行き厚狭駅へ向かいます。厚狭駅。新幹線口側です。厚狭駅には一応ホテルもありますので、そこに泊まっても良かったのですが、いろいろ調べた所、新幹線が止まるというのに、駅前には食事をする場所が殆どなく、コンビニもない、とのことだったので、電車で別の駅に移動。一駅だけ乗り、小野田駅に来ました。駅前のホテルに宿泊。山陽道だけでなく、熊野や伊勢も含めて歩きで泊まるのは初めて。ずっと日帰りの記録が途絶えました。なんの意味もありませんがね。翌日はいよいよゴールに到達予定。もう少しだ。
Apr 20, 2011
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西国街道の続きです。厚東川を渡りすぐ左折し2号線を横断。横断してすぐ右手には秋葉神社。少し行くと庚申碑。この先で国道2号線に合流します。国道に合流して3~400mほど行き、ご覧の場所から右斜めの側道へ。旧道に入り2~3分で右手に瓜生野区公会堂があります。公会堂の敷地にご覧の標柱がありますので、その先の道へ入っていきます。標柱を曲がったところはこんな感じ。ここから「どんだけ道」を目指します。道はすぐ地道になります。2~3分行くと‥右手に大歳社。公会堂から歩いてきて、まっすぐ見るとこんな感じ。正面に横切っている舗装道の向こうに白い標柱が見えます。その標柱の横から登っていきます。標柱には「殿様道」や「玉木坂」の表記も。この道はいろんな呼び方があったようです。ご覧のような道を登って行きます。整備されており迷うことはありませんでした。坂を登りきるとご覧の二股。これは右へ。左に行くと墓地になります。二股のすぐ先、道の右側に変電施設があり、その先の道が分かれていました。ここでどちらに行くかちょっと悩んだのですが、方角からすると直進方向なので、そちらに進むことに。結果、正解でした。変電所の先、こんな道で下りが続きます。途中一か所、四つ角がありますが、そこは直進します。春日の集落まで下りてきました。交差点のところには「道路史跡 山陽道跡」の標柱。こちらの標柱には「どんだけ道」の表記が。標柱から直進し、大坪川を渡ります。その先、真ん中に見えるトタンの切れ目の所に入っていきます。大坪川と平行するようにこんな道が続きます。舗装された道に出ました。この先国道2号線に当たりますので、右折して2号線を西へ歩いていきます。右手にセブンイレブンのある下岡交差点の先、ここで左の側道へ。側道はUの字を書くように曲がって行きます。ここの二股は左へ。また2号線に合流します。ここは歩道がないところが多く、路肩も狭い。大型のトラックもガンガン来ますので、歩くなら気をつけて。唯一の救いは国道なので、まだ見通しがいいこと。車に早めに気が付いてもらえます。暗くなってからは歩かない方がいいかも。ダラダラとした登りを延々と歩いていきます。ようやく歩道が出てきました。国道を登り続けて20分ほど。吉見峠です。かなり登ったと思ったのですが、標高は90m‥ここから先は下り坂。峠から7~8分、右手の船木工業団地を過ぎた先に左へ入る側道がありますので、ここを入っていきます。ようやく危なっかしい国道からオサラバ。道なりに歩いていき、道路の下をくぐります。トンネルを抜けて左側には一里塚跡。さらにその先には船木の高札場跡の標柱。この辺りから船木の街になります。また長くなってしまいました。続きは後程。
Apr 19, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きです。県道335号線から側道に入り、すぐ右手には熊野神社。右手に大きな常夜燈。鳥居に石を投げて乗っけてあるのはよく見ますが、常夜燈に石が乗っているのは、あまり見かけませんね。また県道335号線と合流。が、すぐ右手の側道へ。ここは山陽自動車道の嘉川ICで、道路が入り組んでいてややこしい。建設中の高速道の下をくぐります。道なりに行くとまた335号へ。335号に入って右折。今度は新幹線の高架をくぐります。その後、2号線に合流。ダラダラとした登り坂を上がっていきます。峠の手前のドライブインには「おいはぎ峠」の文字が。昔は物騒だったんでしょうね。今も歩いている人は誰もいませんので、物騒といえば物騒なのですが。峠には周防、長門の国境碑。その傍らをよく見てみると‥「西国街道ぶらり旅」と書かれた板がありました。北京オリンピック、シンクロ銅メダルの原田早穂さんが、NHKのBSの番組で山陽道を歩かれたときのもののようです。私が同じようなものを残すと怒られるのでしょうね。峠を越えてすぐ、国号から分かれて、ご覧のラブホテルの前の道に入ります。カップルの車がこの側道に入れば、かなり羨ましい怪しいですが、オッサンが一人で歩いていっても、何も怪しくありません。国道の喧騒から離れた道になりますが、すぐ2号線に合流してしまいます。2号線を行くと、右手に大きな鉄塔が見えてきます。歩道は左側しかありませんが、鉄塔の下辺りで道路の右側に移るほうがいいです。というのも‥やがて右側の山肌がコンクリートで覆われているようになり、その切れ目のところに来ます。コンクリの山肌の向こうに看板の裏側が見えますが‥看板の裏側から奥をのぞくとこんな感じ。ここを入っていきます。道なんかないようにも見えますが‥中に入ってみるとこんな感じ。普通に歩けます。たぶん、どなたかが整備してくれたのでしょうね。歩きやすい道が続きます。道には一定間隔で杭のようなものが打たれ、丸太で簡易の橋を渡しているところもありました。ここも事前に調べたところでは、難所かな?と思っていたのですが、特に迷うことなく歩くことができました。視界が開けました。このまま道なりに左へカーブし、舗装道と合流します。国道2号線の上山中の交差点のすぐ手前の道へ入ります。上山中の集落に入り、すぐ右手には熊野神社。ここはツルマンリョウという植物の自生地で、県の天然記念物に指定されています。上山中の集落を抜けると、甲山川にあたります。ここは橋を渡らないで、右折して川沿いに歩いていきます。2号線を一度横断。その後は川に沿って歩きます。田んぼと川。いい雰囲気ですが、国道2号線がすぐ横なので音はうるさい。のんびりした感じです。小さな橋の袂には庚申碑。その後2号線に合流し、下山中の集落に入ります。建物の前に白い標柱があり、よく見ると山中本陣跡、とありました。その後はしばらく2号線を歩き、写真の車地の交差点を左折。そのうち厚東川に当たりますので、そこからは川沿いに南下。左手の「男山」の醸造元、永山本家酒造をすぎ、すぐの木田橋を渡ります。ここまででスタートから20km。3時間50分ほどと、いいペース。また長くなってきたので、続きは後程。
Apr 19, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きです。下関まで残り二桁kmになり、週末の2日を使い一気に踏破予定で出発。今まで現地までは車で行っていたのですが、最後ぐらいは贅沢に新幹線で。車だと、2時半起きとかになってしまいますし‥自宅から3時間ほどで前回終了地点の四辻駅前に到着。やっぱり新幹線を使うと早いし楽。駅から西に向かってあるくと最初の二股。これは左側の道へ。綾木川を越えしばらく行くと右手に春日神社。鳥居の横にこんな石が。建石とよばれるものですが、いつ・誰が・何のために建てたものか、石には文字が刻まれていないし、記述もないので不明だそう。その後、国道2号線と山陽自動車道を越え、これらの北側の道へ。百谷川を渡ります。橋の名前が「橋本橋」。海苔の山本山を何故か思い浮かべてしまいました。寄舟神社(艫綱の森)は元々2号線沿いにあったのだが、道路拡張工事に伴い移転。艫綱の森は、611年百済の皇子である琳聖太子が上陸したところと伝えられ、寄舟神社として祀られてきたそうだ。その先、右手には日吉神社。その後、県道335号線に合流。県道に合流してから200m強のここの角で右斜めに入ります。すこし登り坂ですが、たいしたことはありません。この池を時計回りに回るように歩いていきます。途中何度か左に入る道がありますが、曲がらないで池沿いをあるきます。山陽新幹線のガードをくぐります。この辺りで汽笛がなんどか聞こえてきました。それも蒸気機関車の。山口線が近いので、SLやまぐち号のものでしょうね。SLやまぐち号は2年ほど前に乗ってみました。 その時のブログはこちら。山陽自動車道を越えてすぐ、右手には一里塚碑。その後、椹野川を渡りまっすぐ西へ向かうと、左手には正福寺。JR山口線の踏切を越え、3つめの四つ角のところには道標が。右 京江戸、左 萩山口石見と書かれています。あともう一面には牛馬繋事無用と。馬や牛をつなぐな、ということだそう。当時の道標は工事中に破損してしまったため、これはレプリカのようです。先程の道標の四つ角を左折。県道214号を越えると、ご覧の五叉路。右側のカーブミラーの左側へ入っていきます。やがて国道9号線にあたります。これを横断して向こう側の側道に入ります。ちょうど道路工事中+渋滞で、そのまままっすぐ横断できましたが、工事が完成してしまうと、迂回が必要になるかもしれません。その後、県道335号線と合流し南下します。山陽新幹線のガードをくぐり、しばらく行ったここで左斜めの側道へ。しばらくはJR山陽本線、宇部線の線路沿いを歩きますが、道なりに歩いていると、やがて踏切で線路を渡ります。千見折川を渡ります。道は緩やかな登りの右カーブになり、やがて宇部線を高架で越えます。上嘉川の街に入りました。今度は山陽本線の踏切を渡ります。この日も何度か踏切を渡りましたが、一度も引っかかりませんでした。珍しい。この辺りが嘉川の市だったようです。その後、県道335号線を跨ぎ、県道の北側の側道へ。また335号線にすぐ戻りますが、すぐ今度は南側の側道へ。その後、左手に見える嘉川駅をすぎ、幸之江川を渡ったところには道標。県道335号に合流しますが、またすぐここで北側の側道に。いつものごとくまだまだ続きますが、続きは後程。
Apr 18, 2011
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ゴールの永福寺に到着。正確な距離は帰ってからになりますが、合計でいくと600km以上になりそうです。長かったなあ。下関市内でひとつ行きたい所があるので移動します。バスで。(笑
Apr 17, 2011
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関門海峡大橋。キター! ―ヾ( ∀ *) ―(σ* ∀ )σУ◎―!!あと少し。
Apr 17, 2011
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西国街道に残る最後の地道に入ります。これを抜ければ、あとは舗装道。ぬかるんでなければいいのですが。
Apr 17, 2011
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西国街道の続きを歩きます。ようやく下関にゴール予定。最終日にふさわしいいい天気になりました。やはり普段のおこないが。(笑
Apr 17, 2011
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一人宴会の開始です。今日は泊まり。歩きで泊まるのは初めてです。明日はゴールだ。
Apr 16, 2011
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厚狭駅に着きました。本日の予定は終了です。いつもなら、電車で車を止めている所まで戻るのですが、今日は車じゃないし、それに…
Apr 16, 2011
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2~3日前までは天気を心配していたのですが、いい天気になりました。ヨカッタヨカッタ。
Apr 16, 2011
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今日も歩きに行ってきます。今までずっと車で現地まで赴いていましたが、今日は贅沢にも、コレで向かいます。(笑
Apr 16, 2011
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西国街道の続きです。佐渡川を渡ってすぐ、トンネルで山陽自動車道、国道2号線を越えると玉祖神社。道なりにいくと二股が現れますので、ここは右方向へ。また二股。ここは左。その先、佐野の一里塚。そういえば、長いこと一里塚碑は見ていなかったような‥しばらく行くと右手に池が見えてきます。ここは池を回り込むように歩きます。2つのガードレールの間を歩く感じ。池の畔には「旧山陽道 岩淵←→佐野」と書かれた案内板もあり。池を回り込み、ここから左手の山道に入っていきます。いい雰囲気の道になりました。要所には丸太の階段もあり、キッチリ整備されています。防府ロータリークラブの方々が整備されたようです。助かりますね。ありがとうございました。6~7分で登りきることができます。登ったところは籠立場。見晴らしがいいことから、ここで籠を降ろして大名たちが休憩したところだそうです。籠立場の南側、下る舗装道があります。こちらの道は誤り。途中まで下っておかしいと気が付き戻りました。正しい道は籠立場の北側にある貯水施設の方に歩きます。よく見れば、防府RCの方が作られた看板がちゃんとあった‥山陽道の佐渡川SAを回り込むように山道は続きます。ところどころぬかるんでいましたが、丸太が渡してありました。助かります。籠立場から15分ほどで舗装道に合流。山陽自動車道が見えてきますので、高架をくぐります。また二股。ここは右へ。しばらく歩くと右手に周防三孝女 石川於石の碑。パッと見たとき、何故か「石川於石」が「石川啄木」に見えてしまいました。国道2号線をトンネルで抜け、反対側の道にでます。この先、左側のガードレールが切れているところから、左斜めの側道へ。大東の集落を抜けていきます。この先、一旦国道2号線に合流。ここの地点で左の側道へ入ります。側道に入ってもすぐ2号線に戻りますが、今度は反対側の右斜めの側道へ。車はガンガンくるのですが、信号や横断歩道はないのでご注意を。やがて長沢池。しばらく池沿いの2号線を歩き、左手にあるコスモGSの手前にある交差点を左折します。またまた二股。ここは右へ。この先で山陽本線の踏切を渡ります。また二股が出ました。ここは右。再度踏切を渡り、2号線に戻って左折。今宿東の交差点の手前、国道は右へカーブしますが、まっすぐに伸びる旧の国道があるので、そちら方向へ。さらに分岐が続きます。ここは左側の細い道へ。道なりにいくと旧の国道に戻ります。正面に見えるガードレールのところで本日の予定終了。トンネルをくぐり、線路の反対側に出た所が四辻駅の改札。無人駅でした。駅にあった時刻表。ところどころテープで隠してあるのがわかるでしょうか。この時は大震災の影響で、JR西日本も間引き運転中でした。山陽本線で徳山駅まで戻ります。約42kmを8時間15分、57300歩でした。計算上、下関まで残り70km。ここまでくると、さすがに日帰りはかなりきつくなってきました。70kmだと2回分。なので1泊して、一気に片付けようと計画中。それも現地までの移動は新幹線で。費用のかかる旅になりますが、最後ぐらいはいいかな、と思ってます。
Apr 9, 2011
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西国街道の続きです。富海の本陣跡の先、踏切を2度渡るとご覧のような二股へ。ここは右の登りのほうへ。横には「旧山陽道入口 橘坂」の案内板も。坂を登って行きます。この先、舗装道から地道に変わります。左手に海を眺めながら登っていくと、やがて手懸岩。案内板によると、この辺りで眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足を止め、この岩に手を懸けて休んだそうな。なので手懸岩。ということで、お約束。ご覧の通り、足を止めるに値する絶景です。しばらく行くと茶臼山古戦場。まだまだ旧道の雰囲気の道を歩きます。おこん川の砂防ダム、少しだけ残る石畳を過ぎると‥浮野峠の改修碑と案内板。明治4年に歩きやすい道に改修したそうな。改修碑から少し行くと、左手にご覧のような案内板。これは振り返って撮ったもので、私が歩いてきた方向からは裏側が見えます。矢印通りに入っていきました。なんとか道がわかる程度の道を歩いていきましたが、なんかおかしい。西へ向かって歩いているはずなのですが、時計と反対廻りに歩いています。おかしいな??と思いながらも歩いていると‥あらら‥ さっきの改修碑のところに出てしまいました。改修碑前には先ほどのような矢印の案内板がなかったので、間違えたようです。ということで、再び同じ道を逆戻り。浮野峠に到着。ここまででスタートから4時間ほど。峠の先はモチロン下り。旧道が終わり、舗装道に入る手前にこんなものが。「この辺りをゴミで汚す人には子々孫々に次々災厄が現れますのでご用心下さい」旧道→人気がない→見つからない→捨てるこんな図式でしょうが、信じられませんね。舗装道に入り、国道2号線を越えていきます。越えたところには浮野峠へ向かう案内板が。浮野の駕籠立場、又兵衛屋敷跡を過ぎて浮野の街に入ります。徳地屋(大名休憩)跡のところには、2本の道標。「こんひらみち」、「あじなみち」と書かれています。浮野の集落をすぎ、柳川のたもとには春日神社の御旅所。この近くにも「旧山陽道浮野峠入口」と書かれた案内板がありました。ただ、私が歩いてきた方向からはやはり裏側。どうも西から東へ歩く人向けに全て作られているようです。柳川を渡ります。川を渡ると防府の中心地に近づき、一気に都会の雰囲気へ。しばらく行くと、広い道を合流。合流してから少し行くと、左手にUNIQLOのお店がありますので、そこの交差点を右折します。周防国衙跡の真ん中の道を北上。周防国衙跡は大化の改新(646)によりおかれた周防国の国府跡。国衙跡をすぎ、再び西へ向かうと毛利氏庭園。さらにその先には佐渡神社。すぐ国分寺。防府天満宮。防府天満宮前にはこんなものが。萩往還道は、江戸の初めに萩城と毛利の水軍根拠地である御舟倉を結ぶ道。天満宮前が萩往還道と山陽道の分岐点だったそうです。天満宮の先、左手には宮市本陣兄部家。今の建物は寛政6年(1789)の大火により類焼した際、建てられたそうな。その先、右手の定念寺には宮市観音。その後、県道184、54号を越え、道なりに歩いていきます。これは何神社かよくわかりませんでした。やがて佐波川に出ます。川沿いをしばらく歩きます。15分ほど川沿いを歩くと大崎橋。この橋で対岸に渡ります。また長くなってきたので続きは後程。
Apr 8, 2011
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西国街道の続きを歩きます。約1か月ほど間があいてしまいました。前回終了地点の徳山駅を7時半にスタート。駅前の通りを歩いていくと、やがて新幹線の高架があらわれますので、高架沿いに右へ歩いていきます。県道347号線に当たります。県道を横断し、写真の中央にある赤い建物の裏側の道へ入り、しばらく道なりにまっすぐ。富田川を越え、しばらく行くと右手には大安寺。さらに行くと右手には永源山公園。右手に見えるお屋敷のようなものは、東ソーの寮。寮にしてはかなり立派。四つ角には道標がありました。道標のすぐ先には山崎八幡宮。このあと道なりに歩いていくと、T字路にあたるのでそこを左へ。T字路を左折したあと、道なりに歩いてくるとやがて山陽本線の北側に出ます。残念ながら電車はタイミングよく来ませんでした。その後、一旦県道に合流しますが、すぐに右斜めの旧道に入り福川の街へ。こちらは「男自慢」という造り酒屋さん。福川本陣跡。この門は天保9年(1838)に建て替えられたもので、昭和48年に改修されているそうです。県道347、山陽本線、県道172と続けて越えると夜市川へ。川は渡らず、川沿いに歩いていきます。川では漁をされていました。何がとれるんでしょうね?山陽自動車道の高架をくぐります。まだまだ夜市川に沿って歩きます。右手に見えるマックスバリュー、ダイナムを過ぎたところで川沿いから離れ、山陽本線、国道2号線を渡ります。赤坂峠を目指します。登りきったところが西徳山総合グラウンド。グラウンドの先は下り。下りの勾配のほうがキツいかな。阿高の集落に入って、右手には光西寺。戸田の集落に入るところには戊辰戦争凱旋記念碑。戸田の集落を越え、夜市川を渡ります。夜市川を越えてすぐ、国道2号線に合流。山陽自動車道を越えてすぐ、右側の側道へ入ります。いつものことですが、国道から1つ離れると殆ど車とも出会いません。その後、また2号線に合流します。2号線に合流してすぐ、ご覧のところで斜面を登って行きます。登るところには椿峠郡境碑の案内板があります。郡境碑。従是東都濃郡、従是西佐波郡と書かれてありました。ここからまた国道に戻って歩きます。国道は歩道がないので、ご注意を。郡境碑から6~7分で左へ入る側道があるので、そこに入ります。道なりに歩いていき、トンネルで2号線の反対側へ出ます。遠くには瀬戸内海が望めました。富海の集落に入ります。道なりに歩いていくと、やがて2号線にあたりますので横断します。下関までの残りはついに2桁。九州の地名まで現れました。春、ですね。富海の本陣跡。門だけが残っているようです。いつものごとくまだまだ続きますが、長くなってきたので続きは後程。
Apr 7, 2011
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歩きは予定通り終了。そういやJR西も4月から間引き運転でした。大震災の影響がここにも。
Apr 3, 2011
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防府天満宮まで来ました。ここはこれで3回目です。昨年の末も訪れて、その後お世話になりました。御礼申し上げます。
Apr 3, 2011
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約1ヵ月程、間が開いてしまいましたが、西国街道の続きを歩きます。下関までは今日を入れて残り3回。頑張ります。
Apr 3, 2011
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西国街道の続きです。生野屋の街を抜けていきます。左手の空き地の中には常夜燈。国道2号線をトンネルの歩道で越え、山陽新幹線、岩徳線と続けて越えます。この踏切を渡ってすぐ左折。道なりに西へ歩きます。雨はまだやむ気配はありません。右手には教応寺。立派な釣鐘もありました。花岡宿に入りました。昔の雰囲気を残す建物も見られます。右手に花岡ふるさと花壇があり、その奥は花岡勘場跡。案内板によると、萩本藩の役所があったところで、本陣もあったそうな。花岡八幡宮。本殿は奥の階段を登ったところ。その後、県道176、41号を続けて横断し、新幹線のガードをくぐります。末武川沿いを歩きます。この先桜並木がありました。桜の季節にはいいでしょうね。川沿いを歩き、国道2号線をガードでくぐり、和田橋で末武川を渡ります。道なりに歩いていき、この二股は左へ。そしてこの先すぐの二股は右(登り方面)へ。登り坂を登っていくと左手には順正寺。西光寺川を渡り少しするとこの交差点。ここは右へ。曲がると防長鶴山縣本店。造り酒屋さん。左手には冷たいビールとうまい焼肉、右手にはヒレカツ、ロースカツと疲れている時にはなんともたまらん中を抜けていきます。このあと桜木の交差点で一度県道347号線に出ます。ここで止めてJR櫛ヶ浜駅に向かう手もあったのですが、ここまでくれば徳山はもう少しなので、進むことに。県道に合流してすぐ、右斜めに入る道がありますので、そこに入ります。道は登っていく感じ。右手にある病院をすぎた先は下り坂。この坂の名前が早乙女坂。昔、田植えの時期、側を通行する人に「早苗打ち」といって、稲の苗を投げつけ、ご祝儀をもらうといった風習があったそうな。ある日、九州からの飛脚が通りかかった時、早乙女の一人が早苗を投げつけたところ、飛脚は無礼と激怒。早乙女を刺し殺してその場を去ってしまったそうな。近所の人が殺された早乙女を哀れみ、ここに塚を建てて供養したそう。風習の違いとはいえ、いきなり刺さなくても‥再び県道347号線に合流。すぐ右手にポストがありますので、その先の右斜めの側道へ。右手には遠石八幡宮。この辺りは八幡宮の門前町として、また山陽道の宿場町として栄えたそうです。古い建物も残っています。梅花川を渡りしばらく行くと右手には影向石。宇佐八幡大神が新馬に乗ってまたがり、この岩に降りたった。その時の神馬の蹄跡が岩に残っているそうな。さらに行くと右手に宝性寺があり、正面には「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と書かれた石柱が。この石柱の右側の細い登りの道に入ります。昔、坂の上に一畑薬師堂が建てられており、この狭い坂道を念仏を唱えながら昇り下りしたので、この狭い坂道は念仏坂と呼ばれていたそう。再び県道に合流。この先、県道から左に分かれるので、前に見える歩道橋で県道の左側の歩道へ。左側にきて右側をふと見ると、「最強濃厚とんこつ醤油らーめん」の文字。しまった。出光のGSの先を左斜めの道へ。ただ、このGSは閉鎖されていましたので、そのうちなくなって目印にはならないかもしれません。孝女阿米の像。12歳から31年間、病の父親を看病しつづけたそう。東川を渡り、徳山の中心地に入ってきました。この先はアーケードがありますので、ようやく傘を手放すことができます。徳山駅に到着。約44km、9時間弱で61100歩でした。いつもより少しペースが遅いですが、半分以上雨だったので仕方ありません。こだまで一駅、新岩国まで戻ります。この日は500系。この500系が登場したとき、新幹線もここまできたか、と思ったものです。ただ、久しぶりに乗ってみると、やはり車内が狭い。車体が円形になっているので、構造上仕方ないのですが‥快適性も求められる時代なので、こだまのみに格下げも仕方ないのかもしれません。残りあと3回。頑張ります。
Mar 24, 2011
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西国街道の続きです。道なりに歩いていると、今市宿の手前には正覚寺。その後、道はJR岩徳線をまたぐようになります。この交差点は一番左側の道へ。そろそろお昼前。食糧を調達できるところはないかと探していると、JAの直売所があり、テントでの出店もありました。オニギリかパンなんかないかと思い、寄ってみると手作りパンがあったので2個購入。こちらが関西弁だったので、「どっから来たの?」という話になり、西国街道を歩いている、というとビックリされてました。オカアサンが紅白のテントを指差し、「あそこで温まっておいで」というのので、紅白のテントにいってみると‥なんとしし鍋の無料試食が。小さ目の丼ぐらいはある器でいただきました。野菜もタップリはいっていて、体の芯から温まります。ずっと雨で体が少し冷えていたので、これは有難かった。ごちそうさまでした。元気になったところで、再び雨の中を出発。呼坂本陣跡。ここは代々庄屋を勤めていた河内家が本陣を引き受けていたそうです。吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別地の碑。江戸に送られることになった吉田松陰と弟子の寺嶋忠三郎が無言の別れを告げた所。その先の四つ角は直進。古市坂に入ります。道なりに歩いていくと、地蔵堂のあるT字路に突き当たるので、そこを右。写真のところで国道2号線と合流しますが、すぐ手前の旧道に入ります。側道に入りました。ここをしばらく歩き、上を通る道をガードでくぐり、しばらく行くと右手に踏切が見えます。あらら‥約1時間に1本しかない列車に捕まってしまいました。この踏切を渡ってすぐ左へ。やがて国道2号線に合流。少し国道沿いを歩きます。勝間の歩道橋の左にある側道へ。勝間の駅前をすぎ、再び国道2号線に合流。国道では、渡れるタイミングで右側へ移動したほうが便利です。遠見の交差点をすぎたところ、ここから右手の側道へ入ります。雰囲気のある道を歩いていくと‥未舗装道に。ここも怯まずにまっすぐ。竹藪になりますがなんとか歩くことができます。そのまま進んでいくと左にカーブし、2号線に合流。竹藪から2号線に合流した地点。ここからは再び2号線を歩きます。ダラダラとした登り坂をいき、山陽自動車道をくぐり登りきった少し先には熊毛郡と都濃郡の境界碑。ここから左斜めの側道へ。集落を抜けると、太い道に出ますがそのまま直進。とはいえ、またすぐ前方に見える道路に合流します。その後、周防久保の駅150mほど手前で右斜めの側道へ。側道に入り、一度県道140号線を越え、さらに道なりに進んでいくと再び県道140号線と合流。岩徳線のガードをくぐり、切山の交差点の先で左に入る側道へ。久保市の集落に入ります。川の向こうには由加社。この先の二股は右手の登り坂の方向へ。西蓮寺をすぎ、少しいくと左手には妙見宮の石燈籠。小さな祠と石燈籠がありました。どんどん道なりに歩いていきます。基本的には直進。ここの二股の左の直進方向へ。その後、一度2号線と合流しますが、すぐのここで左の側道へ。この先、生野屋の集落に入ります。ここまでで6時間45分ほど。そろそろ雨で足が重くなってきましたが、続きは後程。
Mar 23, 2011
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西国街道の続きです。緩やかな下りの道を歩いていきます。左手に見える欽明路駅をすぎ、道なりに歩いていくと、JR岩徳線を踏切で越えます。その後、丈六第五踏切で再び岩徳線の北側に出て、道なりにいくと国道437号線にあたるので、そのまま国道を横断。国道を越えてすぐ、写真のガードが左手に見えますので、このガードをくぐります。道なりにいくと、ご覧の二股。ここは右手へ行きます。細い道に入り、少し行くと右手の公園の中に義民田坂市良右衛門碑。この先、T字路に突き当たりますので、そこは右へ。玖珂駅前をすぎ、右手には明覚寺。水無川を渡り、右手には萬久寺。さらにその先、右手には菅原神社。もちろんここはゆっくり参拝。やがて道は岩徳線に沿うようになりますが、道なりに歩いていきます。妙見道の道標。妙見のふもとまで二十一丁。この先、ショッピングセンターやホームセンターの間を歩いていきます。東川を越え、高森の信号の先、左手には高森本陣跡。このあたりから心配していた雨がポツポツ落ちてきました。本陣跡の先には宇野千代の文学碑。その先、道は島田川にあたります。島田川にあたってすぐ右側には高森天満宮。ここもゆっくり参拝。島田川の堤防沿いを歩きます。この辺りで雨が本降りになってきました。レインポンチョが一番楽なのですが、カメラが防水でないので、写真を取ることが難しい。仕方なくレインウエア+折りたたみ傘を装備して歩きます。川沿いの堤防は米川橋のところでなくなりますが、そのあとは県道144号線を歩いていきます。天気予報では、「微雨」だったのですが、結構降ってます。国道も右手には孝行塚。県道はJR岩徳線と島田川の間を走っています。線路にはご覧の通り、柵もなにもなし。線路内立ち入り禁止の看板がありました。反対側にも同じ看板があり、その奥には1軒の民家。配達の人とかが通ってしまうのでしょうかね?蛍橋のバス停のところから左手の側道に入ります。この辺りには一里塚があったそうなのですが、なにも案内板はなし。側道にはいるとこんな感じ。ただ、5分程で再び県道に合流。やがて右手には天王社。本殿などはありませんでした。その先、この交差点は右斜め前方の細い道へ。その道に入ってすぐ、左手に県道142号線の表示があれば正解。右手には観音石仏。この石仏の前は二股になっているので右側へ。本来の古道は左から行くようですが、通行不可らしいので新道を行くことに。竹林の道を歩いていきます。なにもない道をひたすら登って、中山峠を目指していきます。御駕籠建場の跡。藩政時代、藩主や西国の諸大名が参勤や国内巡視などで往来の際、駕籠を止めて休息された場所だとのこと。さらに進んでいくと、玖珂郡と熊毛郡を分ける境界碑。ここが中山峠のようです。ここから先は周南市に入り、下り坂。まさか、今の時期は大丈夫ですよね???その後、ゴルフ練習場の横を通り、踏切を渡って左折。しばらくは左手に岩徳線を見ながら歩いていきます。この辺りでスタートから4時間半。雨が止む気配がありません。どこまで歩けるのやら。また長くなってしまったので、続きは後程。
Mar 22, 2011
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西国街道の続きです。以前に書き溜めて、備蓄していたものを放出します。前回終了地点の御庄小学校横から朝の7時にスタート。前回はこの交差点を右からきて終了。なのでここを左折します。錦川鉄道のガードをすぎ、御庄川沿いの県道1号線に合流。しばらくは県道1号線を南下していきます。錦川鉄道の列車を遠くからですが見ることができました。思案橋。昔、山陽道を旅していた人が、錦帯橋に寄ろうかどうか思案したという橋。錦帯橋は以前に行ったことがあるので、今回はパス。思案橋の先から歩道がなくなります。場所によっては狭い所もあるので、注意が必要。桂野の駅をすぎ、下市橋で御庄川を渡ります。桂野の集落に入りました。右手には教法寺。教法寺の先、この二股は右側へ。桂野の集落を抜け、上市橋で再び御庄川を歩いていきます。やがて御庄川は2つに分かれるので右手の古宿川のほうへ。民家の裏手に千体仏がありました。千体仏とは、信者が寺で法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び、これを本堂に移し位牌とともに仏壇に飾って読経を乞い、帰りに再び元の位置に納めて退出したそうな。これは江戸中期のもので最初は千体あったが、現在では795体残っているそう。古宿川沿いに歩いていきます。いったん県道にぶつかりますが、交差点をそのまま直進し、古宿川沿いにいきます。右手に見える松尾製作所の先で古宿橋を渡り、今度は川の左側を歩きます。なにもありません。人が歩いていないのはもちろん、車も滅多に通りません。この後、ガードで県道をくぐり、県道を左手に見るように歩きます。欽明路トンネルの右側から欽明路峠を目指します。トンネルを抜ければ楽なんですがねえ。西国街道だけでなく、ほかの街道でも見かける光景。信じられん。欽明路峠への道は、写真でもお判りいただけるようにかなり急な坂。道には滑り止めの切込みが入れてあります。道の切れ込みが終わると、その先は下り坂。ただ、ここは欽明路峠ではなく、途中の中峠。この二股は左方向へ。先程の二股にはこんな案内板が。ただ、これは振り返って写したものなので、私が歩いてきた方からは、この案内板の裏側が見えます。この先、緩やかな登りになり、その頂点が欽明路峠のよう。ただ、なんの案内板もありませんでした。欽明路峠をすぎ、坂を下って行くと、ご覧の二股になるのでここは右側へ。その後、山陽道を欽明路橋で渡ります。その後も下りが続きます。急な坂によくあるヘアピンカーブの連続。急な坂道を下りきったところに旧山陽道の案内板。ここから先は緩い下り坂になります。右手の高台には欽明寺。ここまででスタートしてから1時間40分。まだまだ続きますが、長くなってきたので続きは後程。
Mar 21, 2011
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結局、雨は止みませんでしたが、当初の予定通り歩いてしまいました。また新幹線で一駅だけ戻ります。500系がデビューしたときは「カッコいい」と思いましたが、いまや乗れるのは「こだま」だけですね。
Mar 6, 2011
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雨が降ってきてしまいました。結構シッカリ降ってます。せめて30kmは歩きたいのですがねえ…
Mar 6, 2011
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前回、抜けていた有年峠を歩きましたが、本来の続きに戻り、新岩国から西へ。今日はどうも天気がよくないみたいで…どこまで歩けるかな?
Mar 6, 2011
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西国街道の続きです。ここから有年峠を目指します。この日は獣除けの柵が開いていました。ちゃんと「開けたら閉めろ」と書いてあるのに‥柵の左側、坂折池の畔には西国街道の案内板が。平成22年10月とありましたので、つい最近建てられたもののようです。道はすぐ地道になります。右側にはヤブツバキが等間隔に植えられていました。近くの有年小学校の生徒が植えてくれたようです。こちらにも2010年10月の文字がありました。どうも昨年の秋に一気に整備されたようです。入山者へハンターに誤射されないための注意喚起。蛍光色を着ろ、とか、二人以上で行動し大声でしゃべりながら歩け、とか。白っぽい服装は鹿と間違えられる可能性があるので、ダメだそうです。私もここでピンクのウィンドブレーカーを取り出し着用。なんせ、以前銃口を向けられたことがありましたので、念のため。こんな雰囲気のいい道を歩いていきます。どこかで銃声がしないか、犬が吠えていないか、耳をすませながら‥この日は水は流れていませんでしたが、ちゃんと丸太で橋も作ってあります。切り株を見てみると、やはり最近切ったもののようです。以前歩いた熊野や伊勢と比べると、山陽道を歩かれている方はかなり少ない。そのため、最近の情報がなかなか得られませんでした。この有年峠はとにかく荒れていて、途中で諦めて引き返した方、全然違うところへ出てしまった方など、普通に歩かれたという情報は見つかりませんでした。なので、かなり気合を入れて来てみたのですが、よかったというか、拍子抜けというか、道がキッチリ整備されており、なにも問題ありませんでした。この先がどうも峠のようです。峠には標柱もなにもありませんでしたが、そのうち案内板のようなものが整備されるかもしれません。峠の先、下りの道も迷うようなことはありません。最後も獣除けの柵が。これは針金でガッチリくくってあります。これがなかなか固く締められ、しかも何カ所もくくってありました。一つずつはずし、通ってからまた全部締めていきます。最初の獣除けのフェンスから、こちらのフェンスまでちょうど30分でした。なんの問題もなく、有年峠を越えることができました。整備していただいた方に感謝ですね。国道2号線を横断し、1つ目のこの角を左折します。梨原宿の遺跡。当時ここは「宿」だったようですが、今はなにも残っていません。道なりに歩いていくと、右手には船坂神社。一旦国道2号線に合流しますが、すぐ先の右側にある踏切を渡ります。引っかかりました。しかも貨物列車‥踏切を越えてすぐ、この二股は左側へ。船坂峠を目指し、登り坂を歩いていきます。この道は車は通行禁止のようなので、安心して歩けます。峠には「縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣」と書かれた石柱が。ここが兵庫と岡山の県境ですね。あとはは下っていくのみです。2号線と合流。合流して5~6分歩くと‥ここのところから右手の道に入ります。すぐ踏切を渡ります。踏切の右手には今越えてきた船坂峠を抜けるトンネルが。道沿いにあるいていくと、石垣の上に三石一里塚跡の案内板。「深谷瀧道」と書かれた道標。どこに通じる道ですかね?左手に小川を眺めながら歩いていきます。三石駅前に到着。ここにも三石の一里塚跡の碑があります。どっちが正しいんだ?相生~三石間は2回に分けてあることになりましたが、ようやくこれで1本につながり、心の閊えがとれました。2回併せて22kmと少し、4時間10分で29800歩でした。次回は、続きに戻り、新岩国から先を歩きます。
Mar 2, 2011
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西国街道を西へ西へと歩いていますが、一部未踏破の区間がありました。相生から三石の区間。以前にも書きましたが、この区間にある有年峠の道が、荒れ放題だわ、マムシはうじゃうじゃだわ、ということで後回しに。植物は枯れ、動物は冬眠しているこの時期に回さざるをえませんでした。ようやく歩くことができたので、戻る形になりますが、挙げてみます。相生駅前を出発。足元にはペーロン祭のタイルが。相生のチームは確かアジア大会にも出られてましたね。JR山陽本線、新幹線のガードをくぐり、国道2号線に合流。この先の交差点で国道を渡り、側道へ入ります。5分程で再び2号線に合流。ダラダラとした長い登り坂。歩道は立派ですが、こんな所を歩いているのは私だけ。竜泉の交差点の先で右斜めの側道に入ります。しばらく行くと、右手には金毘羅神社。その後、鶴亀の集落を抜け、また2号線に合流。合流後、この歩道橋のところで左斜めの側道へ。側道に入り、左手には円立寺。またまた2号線に合流し、向こう側に見える側道へ。側道に入り、しばらく行くと右手に天満神社の参道。ここの神社は一度訪れたことがあります。若狭野小学校を過ぎ、しばらく行くとまた2号線。ここからはもう1回側道へ出入りしますが、基本2号線を歩きます。歩道がないだけでなく路肩も狭い。歩いている横をガンガン大型トラックが通ります。大型トラックが横を通るたび、体が風圧で揺れます。かなり危ない。まあ、こんなところを歩く人は滅多にいないのでしょうが。山陽本線を高架で越えていきます。線路を越えてすぐ、右の側道に入る道がありました。危ない国道から逃げるように側道へ。また2号線と合流。すぐ左斜め前の側道へ入ります。有年村の道路元標。ここを右にいけばJR有年駅。実は昨年の10月中旬に相生~有年間を歩き終えていました。そのため、ここに戻ってきたのは4か月ぶり。有年の街を抜け、再び2号線へ。しばらくは2号線を歩きます。左手には池魚塚と地蔵。池魚塚の由来は近づいていないので、よくわかりません。千種川を渡ります。川を渡ったところを左に入り、道なりに歩いていきます。やがて右手には有年宿番所跡。この先T字路に突き当たるので、そこを右折。また2号線を越えますが、越えたところの角には八幡神社。この鳥居は1744年建立だそうです。有年家の長屋門。この辺りの地名である有年は「うね」と読みますが、有年家は「ありとし」と読みます。どっちからどうかわったんでしょうね。有年小学校のところの二股は左側へ。その後、道なりに歩いていくと、県道にぶつかるので、中野橋で川を渡り、西中野の集落へ入っていきます。営業が金・土・日の3日で、しかも時間が11~2時という、難攻不落な蕎麦屋さん。ただ、ここを通ったときは、営業時間内のハズなのですが‥しばらく行くと、右手に大避神社。また2号線に当たりますので、斜めに横切ります。しばらく行くと、金網に囲まれるようにして西有年向山の五輪塔がありました。そのうち、墓地に当たります。ここを左折。墓石に囲まれるようにあった西有年宝篋印塔。鎌倉末期か南北朝初期のものだとか。案内板がなければ、墓と間違えそうです。すぐ先、左手には一里塚跡。立場跡。宿場間の休憩所の跡だそうです。この先、有年峠が待ち構えますが、長くなってきたので続きは後程。
Mar 1, 2011
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かなり覚悟して挑んだ有年峠でしたが、全く問題なかったというか、拍子抜けというか…詳細はまたここであげます。ということで、本日は終了。
Feb 26, 2011
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道なき道に入っていきます。事前に調べたところによると、相当荒れているようなのですが…頼りはコイツかな。
Feb 26, 2011
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今日もテクテク歩きます。といっても、前回終了の新岩国の先ではありません。マムシがうじゃうじゃいる、と言われて後回しにした、相生の西にある有年峠を越えてみます。時間にしたら3時間程で抜けられるハズ。道を見失わなければ、ですが。
Feb 26, 2011
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西国街道の続きです。山口県に入り、吉田松陰の歌碑のところから集落を抜けていき、小瀬峠を目指します。店口川沿いの舗装道を登っていきます。途中、ヘアピンカーブが2つ続きますが、1つ目のカーブの頂点のところで、旧道に入ります。写真のガードレールの右端に見える白い棒がその案内板。ここも竹林の気持ちいい道。ただ少し勾配がきつく、ちょっとしんどい。5分ほどで先程の舗装道に合流。反対側から歩くと、案内がなくわかりにくいかも。再び舗装道を登っていくと、峠の手前、右側にまた白い案内柱があるので、ここも旧道へ入っていきます。結構急な登りが続きます。ここの二股は左の下りの方へ。10分弱で三度舗装道と合流します。合流してからは下りの一本道。関戸宿に入り、本陣跡の案内板。横には吉田松陰の東遊記念碑もありました。やはり山口では人気ですね。関戸宿の先、すぐ国道2号線と合流。しばらく国道を歩きます。ついに下関の名も登場。だいぶ来たなあ。でも、まだ151kmも残っています。国道をしばらく歩いていると、左手に岩国コンクリートの工場があります。その正面、歩いてきて右側の金網に「旧山陽道 岩国往来」の案内板。左側の赤い矢印が左斜めになっています。金網と左側のコンクリート壁の隙間をのぞいてみると‥奥にも「旧山陽道 岩国往来」の案内板が見えます。ということは、ここを入れ、ということか??狭い隙間に無理矢理体をねじ込み、コンクリート壁の裏側を沿うように10mほど歩くと‥1本のロープが現れました。ロープには握りやすいように等間隔で結び目が作ってあります。ということは、ロープを使って登れ、ということか??ロープがなければ、とてもじゃないけど登れないぐらいの急な坂。坂というより崖ですな。距離にすれば数十mなのですが、かなりキツイ。ロープで登りきるった所に、先ほどの「旧山陽道 岩国往来」の案内板があったので、やはりこれで正解のようです。でも、こんな崖みたいな道、当時の籠や馬はどうしたんでしょうね?それとも2号線を作るときに山肌を削ったのでこんなに急な斜面になってしまったんでしょうか。ロープで登った先は普通の旧道。少し行くと、忠魂碑がありました。この辺りは案内板がキッチリ整備されていますので、それに従って進んでいきます。再び2号線に合流。合流したところの反対側には多田の一里塚跡。錦川の手前、国道は右に曲がりますが、このまま直進。横断歩道がないので、交差点右にある歩道橋を使って交差点を渡ります。錦川を御庄大橋で渡ります。渡ったら川沿いに北上。新幹線の高架の手前で左折、突き当りを右折して新幹線の高架をくぐります。すると右手に蓮乗寺。少し離れた所に見える新岩国駅を回り込むように歩いていきます。写真のガードは錦川鉄道のガード。御庄小学校の先、この交差点でこの日の予定終了。無人駅だったので、錦川鉄道の御庄駅に入ってみました。タイミングが合わず、電車を見ることができなかったのは残念。新岩国駅前。39kmを9時間ちょっと、54900歩でした。峠越えが多かったのと、昼食購入で寄り道したので、いつもより時間がかかりました。新幹線で広島駅まで戻ります。新幹線は一区間だと特急料金が安く設定されているので、助かります。五日市から新岩国まで歩いて9時間。一方、新幹線だと乗っている時間は16分。ゆっくりと休む間もありません。この区間は当時の姿を残す場所も多く、なかなか楽しめた区間でした。山口県に入り、ゴールも見えてきました。あと4回ぐらいかな‥
Feb 25, 2011
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再び西国街道の続きです。隧道を抜け、玖波の街に入りました。ここも昔は本陣等があったそうですが、特になにも案内板などはありませんでした。JR玖波駅の手前で右折し、ガードを越えて線路の北側に出ます。恵川を川木橋で渡り、高速道の手前に平行して走る道まで行きます。写真の正面に見えているのは病院と老健施設。高速道沿いに歩いていると、太い道に合流。大膳川を渡り、左手に酒屋さんがある交差点を左折し、踏切を越えます。久しぶりに踏切に引っかかりました。踏切を越えてから、国道2号線の手前の道を右折し、小方の街に入ります。この辺りでは取り壊された住宅の跡がかなりありました。ここの少し先に、三井化学の大きな社宅もあったのですが、今は使われていませんでした。この先、苦の坂を越えていきますので、ここで街道から少し離れたショッピングセンターに向かい、食糧を調達。高速道の手前で新町川を渡ったあと、右折し高速道をくぐります。くぐったらすぐ左折し、苦の坂を目指します。ダラダラとした登り坂を登っていくと、やがて右手に橋姫神社。もとは別の場所にあったのですが、山陽自動車道の建設に伴い、ここに遷座されてきたそうです。どんどん登って行きます。すると‥この階段から苦の坂に向かうのですが、全面通行止めの看板。舗装道も土砂崩れで通行止。私よりも先に歩かれた方のHPなどを見ていると、通行不可という方がほとんど。西国街道の場合、熊野古道と違って通しで歩かれている方の絶対数が少ないため、直近の情報をなかなか見つけることができませんでした。ネットで探しに探してようやく昨年の11月に通った、という情報を見つけ、それを信じてきてみたのですが‥足場階段が設置されていて、通行できるようになってました。ヨカッタ。ここまで来て、やはりダメで迂回するとなると、相当のタイムロスになるので‥。実は不安だったので、2月の頭に通ることができるか大竹市にメールで問い合わせをしたのですが、残念ながら返信なし。しかし、ここを歩いた翌日に、「通れます」との返信が。なんともタイミング悪い‥仮設の階段を登ると、一気に古道にタイムスリップ。竹林の気持ちのいい道を登っていきます。仮設階段のところから5~6分で苦の坂の峠に到着。安政の大獄で囚われの身になった吉田松陰は、安政6年(1859)五月、この峠を越えて江戸へ送られたそうな。峠の先は下り坂。大きめの石がゴロゴロと転がっていて歩きにくい。峠から10分ほど下ってくると、小瀬川が見えてきて麓まで降りてきました。降りきったところにも苦の坂の案内板。慶応二年(1866)の幕府軍と長州軍との戦いの様子が詳しく書かれています。小瀬川沿いの国道186号線を延々南下していきます。小瀬川は山口県サイドからの呼び名で、広島県サイドからは木野川と呼ぶそうです。ちなみに、国が定めた名称は小瀬川。遠くに見える両国橋を渡るのですが、そのまま直進し、木野川渡し場跡へ。両国橋から300mほどで渡し場跡に到着。当時、木野村(広島側)と小瀬村(山口側)から出された「渡し守」が二人一組で交替して渡しを行ったそうな。渡し賃は、江戸初期は米一合、中期ごろからは二文。ただ、武士階級は無料だったそうな‥川に近づいてみると、水量も少なく、ジャブキャブ歩いて渡れないこともないぐらいですが、ここは大人の対応で自粛。両国橋まで戻り川を渡ります。、ついに山口県に突入です。小瀬川沿いに南下しここを右折。ちょうど木野川の渡し場の対岸ぐらい。この角には吉田松陰の歌碑と、旧山陽道の案内板。「夢路にも かえらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」と刻まれています。安政6年(1859)、幕府の召還を受けた吉田松陰が籠で護送されながら小瀬川に差しかかり、防長二州と最後の別れをする時に詠んだ歌。その後、彼は江戸で処刑されますが、享年なんと30歳。この日歩いた区間は見どころが多く、また長くなってしまいました。ということで、続きは後程。
Feb 24, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きです。雰囲気のある道にはいり、しばらく行くと右手には新宮神社。その先、左手に高庭駅家跡・濃唹駅家跡の石碑。細い道を道なりに歩いていくと、舗装道にかわり、新幹線の高架にあたります。しばらくは高架沿いを歩いていきます。中津岡川を渡り、すぐ右手には西教寺。大野小学校の角に、右 宮島 廣島道 左 宮内 妹背瀧道 と書かれた道標がありました。JR大野浦駅前には一里塚跡。これを見落としてしまい、少し行ってから気が付き慌てて戻るはめに。街中を抜けていくと、太い道に合流します。ここは左前方のやや登りの道へ。ここで左に入ります。ここに案内板がありました。この舗装の下には当時の石畳道が保存されているそうです。対岸に見えるのはかの有名な宮島。先程の石畳の舗装道を登っていくと、また太い道にぶつかります。正面に小さな案内板のようなものが見えますが‥案内板の左の道を入ります。案内板はかなり劣化していて読みにくい。当時の石畳が残っている部分がありました。ホンの少しですが。農道のような道を歩きます。その後、高速道の高架にあたるので、高架をくぐらずに高架沿いの道を歩きます。4~5分でご覧のような所に出ます。ここで高架をくぐり四十八坂と呼ばれる道を行き、残念さんへ向かいます。案内板があるので、すぐわかるハズ。二股になりました。真ん中に案内板がありましたが、塗装がはげ落ち、ほとんど読めません。残った塗装をじーっと見てると、どうも左っぽい。基本登っていくことになるので、登りの右のような気もしますが、とりあえず左側へ。正解でした。この青い案内板はいくつか途中にありました。残念さんに到着。案内板によると、慶応2年(1866)、四十八坂を単騎で西に向かって馳やる幕府軍の武士がいた。これを見た長州軍は戦闘員だと勘違いし狙撃。その武士は「残念」といって倒れた。その武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で、軍使として長州軍営に赴く途中であったことがわかり、長州軍は遺憾の意を表した。残念社は、村人が伴蔵の戦死を悼んで祀ったものだそう。残念社の先には吉田松陰の腰掛石。案内板が出ているのは有難いのですが、この「区民ふれあい道路」というのが曲者。ふれあい道路に行くと間違いになります。ふれあい道路に(西国街道)の文字が付いたものは正しい道案内。ちょっとややこしい。道なりに歩いていくと、高速をくぐる感じになりますが、ここはくぐらずに右折し、高速沿いに歩きます。一番高い所では、高速の先に宮島がきれいに見えました。その後、住宅街の中をぬけていきます。ここの二股は左側へ。すぐ石畳の道が現れました。いい感じですね。しばらくはこんな感じの道を歩きます。やはり舗装道よりはこっちのこうがいいですね。膝にもやさしいし。JRのトンネルの出口の上を越えていきます。かなり細い道なので、落ちないようちゃんとフェンスがありました。ただ、トンネルを越えてから少し線路に平行して歩くのですが、こちらはフェンスなし。ここは要注意。落ちると新聞に載るのは間違いありません。道なりに歩いていくと、国道2号線に出ます。目の前は海。一気に潮の香りがしてきました。国道でなく、玖波隧道を抜けていきます。トンネルが抜けるまでは、あの高い崖を登っていたのでしょうか?このあと、玖波の街に入りますが、また長くなってきたので続きは後程。
Feb 23, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きです。この日は広島県をすぎ、山口県に突入予定でスタート。広島駅の近くに車をとめ、五日市駅まで電車で移動。前回終了地点を7時40分にスタートです。しばらくいくと、楽々園駅の近くには旧街道時代の並木松が残っています。五日市には5本の松が残っているそう。岡の下川に突き当たったところに壱里標。川沿いに少しだけ南下し、踏切を渡り海老橋で岡の下川を越えます。川を越えたらすぐ川沿いに南下。次の三筋橋のところで右折。国道2号線を越え、しばらくいくと佐方の一里塚跡。ずいぶん立派な碑です。こちらも並木松。ここは廿日市ですが、廿日市にはこの1本しか残っていないそう。廿日市招魂社、正連寺とすぎ、やがて右手には廿日市天満宮。天満宮の本殿は見上げるほどの高台の上にありました。その廿日市天満宮の前には廿日市宿の本陣跡碑。広電廿日市市役所前駅の手前で、踏切を越え線路の北側へ。この日はタイミングがいいのか、まだ踏切に引っかかることはなし。住宅街の狭い道を歩きますが、ここの二股は右側(減速の方)へ。JRをこの陸橋で越え、その奥のバイパスの手前で左折し、細い道へ。県道をガードでくぐり、道なりにあるいていくと、やがてJR宮内串戸駅へ。駅の横にはスーパーがありました。このあと、街道沿いにはコンビニ等があまりないので、調達が必要なものはここで済ませるほうがいいかもしれません。駅前をすぎ、突き当りを右折し、その後は御手洗川沿いに歩きます。2号線のバイパスをくぐり、写真に見えるJRの高架もくぐっていきます。しばらく行くと交差点の手前、右手には専念寺。左手には宮内の一里塚跡。宮内交番前交差点で県道を横切り、写真に見える砂原大橋で御手洗川を渡ります。その後、県道30号線に合流。ここからは県道から側道に入っては県道に戻り、また離れては戻り、を繰り返します。都合4回県道から出入りします。ここは3回目。左に入ります。1・3回目が左側へ。2・4回目が右側へ。つまり、県道を縫うような感じで歩いていきます。ここ畑口橋交差点で左折。まっすぐいくと津和野街道。ガードで2度山陽道をくぐり、山陽道の西側に出ます。あとはダラダラした登り坂をいき、四郎峠を目指します。四郎峠付近。特に案内はなにもなく、宮内・大野の村境の碑だけありました。峠をすぎればしばらく下り坂。山陽道をくぐっていきます。右手に疣観音堂が見えてきました。ここを右折します。今川貞世の歌碑。足利義満により、九州探索を命じられた今川貞世がこの付近の景色を詠んだもの。しばらく水慶寺川沿いに歩いていくと、左手に中山の一里塚跡。その後、集落に入っていきますが、基本的に直進します。ここは道なりだと左方向ですが、細くなる直進方向へ。ここもさらに道が細くなりますが、直進します。舗装道から未舗装に変わろうが直進。やがてこんな雰囲気のある道になります。ようやく旧道らしくなりました。いつものパターンですが、長くなってきたので続きは後程。
Feb 23, 2011
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今日も無事予定終了。アップダウンがかなりあり、結構疲れました。こんなものを使って戻ります。一駅だけですが。
Feb 20, 2011
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通行止。どうする?引き返すか?どうしたかは詳細報告の時にでも。(笑
Feb 20, 2011
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旧道っぽい雰囲気になってきました。今日はこんな雰囲気の場所がいくつかあるので、楽しみです。
Feb 20, 2011
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今日も頑張って歩くとしますかね。調子よく行けば、山口県に入る予定なのですが…
Feb 20, 2011
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再び西国街道(旧山陽道)の続きです。京橋川を渡ります。京橋川を渡り、少しまっすぐ歩くとご覧の石標があり、ここを左折。かっこいい路面電車。路面電車っていう呼び方は似合わないですね。その後、ネオン街を歩きます。昼間に歩くネオン街って何故か淋しい。アーケードの商店街を通りながら、中央通、鯉城通を越えていきます。原爆ドーム。改めてここで語る必要はないと思います。広島にくると、必ず立ち寄る場所。平和記念公園。奥に見えるのが原爆資料館。平和記念公園を抜けていきます。本川を渡ります。水の都と書かれた案内板がありました。広島で水の都と言われても、関西の人間には少し違和感があります。お好み焼きカープ。これこそ「The 広島」ですね。天満川を越えると、右手に天満宮があり、旧山陽道の石碑がありました。その後、中広通を越えます。正面に見えるのは広島西郵便局。太田川を渡ります。川では水上スキーをしている人も。川を渡り、JRの線路の手前で左折。右手にJR西広島駅、左手に広電西広島駅を見ながら南西方向へ歩いていきます。この踏切、どうみても個人の住宅に入るためだけにあるように思うのですが‥その後、JRを踏切で越え、西広島バイパスのガードをくぐります。さらに行くと、祠に入ったお地蔵さんと「是ヨリぢぞう道」と書かれた道標。広電の古江駅前。ここでスタートから6時間45分。再びJRを踏切で渡り、しばらく行くと右手に鷺森神社。被爆建物、と書かれた案内板がありました。爆心地から4930mの距離だそう。草津の街に入りました。この辺りはいろんな説明板や案内地図が出ています。草津まちづくりの会の皆さんによるもの。広電の線路を越え、一旦2号線に接しますが、すぐにこの風見鶏のある建物の右側の道に入ります。また広電の線路を越えます。今日は本当によく引っかかるなあ。JR新井口駅の手前。このガードをくぐり、すぐ右手斜めの道へ。その後、広電井口駅の手前で、道は線路と平行するようになります。しばらく行くと右手に塩釜神社。昔は今の場所より少し右奥にあったそうです。さらに進むと、八幡川の少し手前で餓鬼の首地蔵。暴風雨で亡くなった船頭の家族が供養のため祀ったもの。八幡川を越え、少し行くと左手が五日市駅前。ここを通り過ぎ、少し行ったところでこの日の予定終了。JR五日市駅前。次回の時のため、駐車場を探したのですが、長時間停めても安くすむ駐車場は見つからず。ここから車を停めてある八本松まで戻ります。八本松~五日市間、39.5kmを約8時間、53500歩でした。次回はここから始め、山口県に突入予定です。
Feb 17, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きです。県道274号線は安芸山陽道の名前がついていました。安芸山陽道をひたすら道なりに歩きます。安芸山陽道に入って30分程で左手にJR東中野の駅。そんなに強調しなくても‥。間違える人が多いのでしょうか?地元の人しか通らないと思うのですがねえ。どんどん歩いていくと、右手に鳥上の一里塚跡。マエケン登場。さすが広島県。やがて右手には専念寺。この先JR安芸中野駅をすぎ、踏切でJRの南側へ。安芸山陽道は瀬野川に沿うようになります。すぐ中野砂走の出迎えの松。参勤交代を終えた安芸国の藩主を家来や村人たちがこの松のあたりまで出迎えに来ていたことから、出迎えの松というそうです。その後、安芸山陽道は瀬野川から離れ、畑賀川をわたり、山陽新幹線、山陽本線を越えていきます。その後右手には春日神社。まだまだ安芸山陽道を歩いていきます。やがて海田の街へ。海田は宿だったところ。御茶屋跡(本陣)の案内板があったので入ってみると‥案内板だけで、ホントに跡でした。ここ海田の街だけではありませんが、よくお好み焼きの暖簾を目にします。広島の有名なソースメーカー、オタフクソースさんのHPによると、お好み焼きの店舗数県別Best3は、大阪・兵庫・広島の順だそう。ただ、1店舗あたりの人口で考えると、広島がトップだそうです。公民館のところには脇本陣跡の案内板。そのすぐ先には江戸時代、天下送り、宿送り役や年寄、組頭などの役職を勤めていた千葉家の住宅。この家は江戸中期のものだそう。海田の街を歩いていくと、右手に海田市の一里塚跡。その後、安芸山陽道は緩い登り坂になり、船越峠を越えていきます。船越峠付近。峠と言っても車がガンガン走る道なので、あまり峠の雰囲気はありません。峠を越え、1つ目の左へ入る側道へ。その後また県道に合流。案内板にも広島駅が。広島市内の中心まであと少し。永田の交差点で新幹線の高架をくぐり、左斜めに伸びる道へ。八幡川にあたったところで左折。県道84号線と合流し、府中大川を渡ります。その後JR芸備線をトンネルでくぐり、曙5東の交差点で右斜めの側道へ。側道が突き当たった所を左。ほどなく三本松。豊臣秀吉が九州から大阪に帰る途中、この街道の両側に松を植えさせた名残りだそう。また歴代藩主が鷹狩を行う際、ここに陣幕をはり指揮の場にしたとも伝えられているそうです。市内中心部に近づき、右手には愛宕神社。広島駅のすぐ東にある大きな踏切を越えます。路面電車を見ると、広島に来たんだな‥と実感しますね。猿猴橋で猿猴川を渡ります。ちなみに「えんこう」と読むそうです。川を渡ったところに西国街道の案内板がありました。このあと、市内中心部を抜けますが、また長くなってきたので続きは後程。
Feb 16, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きです。この日はようやく広島市内を抜ける予定。前回終了地点の八本松駅前に車をとめ、朝の7時にスタート。まずは駅の北側の道を西へ。一つ目の踏切で山陽本線の南側に出て、国道486号と合流します。ショッピングセンターの前には長尾の一里塚跡の石碑が。この石碑の正面に国道から左斜めに入る側道があるので、その道へ入ります。住宅街の中を抜けていきます。この二股は右側へ。曲がり角にはこんな案内板が。これなら迷わずにすみますね。瀬野方面に向かいます。このガードをくぐっていきます。ここにいも案内板あり。ガードをくぐって突き当りを右折、すぐにこの案内板があるので、案内板通り左折し、大山峠を目指します。しばらくは舗装された道を登っていきますが‥すぐに山道になります。ここは大山駅跡の案内板がありました。山の中に駅、というのも、少し首をかしげるところもありますが‥とても歩きやすい道です。二股のところには案内板もありますので、迷うことはありません。大山峠に到着。江戸時代ここには憩亭があったそうです。峠から先はここからはゆるい下り坂。水が流れて道が削られたのか、ところどころ歩きにくいところも。大山清水、伝大山刀鍛冶の墓をすぎ、どんどん下っていくと、左手には賀茂安芸郡境の碑。いまにも倒れそうで、小さな石柱でなんとかもってる感じですが、なんか仲がよさそうにも見えます。旧山陽道 代官おろし跡の石碑。どんなエライさんでも、ここで籠を降りて歩いたそうな。代官おろしのところで舗装道に変わります。峠からここまで15分ぐらい。その後、集落を抜け、国道2号線と合流。この時点の気温は-2度。この先で左の側道へ。その後、JRのガードをくぐり、国道2号線を横断し、瀬野川沿いを歩きます。正面に見える松が二代目三本松。しばらく旧道をいくと、右手に凉木の一里塚跡。その後、一旦国道2号線と合流しますが、すぐ右に離れ、JRの踏切へ。踏切に引っかかりました。貨物列車だと待ち時間が長い‥その後、またJRを踏切で越え、2号線を横断。上瀬野の街に入ります。各家庭の軒先に種田山頭火の句がかかれたものがぶら下がってました。昭和8年、山頭火が瀬野川流域を行乞行脚し、上瀬野に一泊し俳句を詠んだそうな。上瀬野の街を抜け、2号線を横断し、JRを越えて線路の北側へ。またひっかかった‥その後、瀬野小学校の手前で踏切を渡り、2号線に合流。またかよ‥しばらく2号線を歩き、左手の瀬野小学校を過ぎたところで左斜めの側道へ。瀬野の街に入りました。瀬野駅の少し手前には落合の一里塚跡。ゴミステーションと一里塚跡がセットって多いような気が‥瀬野の街を抜け、瀬野大橋東詰の交差点で2号線を渡り、県道274号線へ。ここまでで八本松から約2時間。このあと県道274号を歩いていくのですが、長くなってきたので続きは後程。
Feb 15, 2011
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前回の続き。しばらく歩くと右手に浄水場。この手前辺りから雪が降ってきました。集落を過ぎると、遠くに西条の街が見えてきました。西条は造り酒屋が多いので有名ですね、こちらは賀茂泉さん。福美人さん。西条四日市宿の本陣(御茶屋)跡。通常、大名が宿泊する本陣は、その土地の名士が営んでいましたが、ここだけは重要な大宿駅だったので、浅野藩が直営していたそうです。西条駅前。かなり気温が下がってきました。携帯を操作しようと手袋を外してみたのですが、あまりに寒くてすぐ操作をやめました。一旦国道486号線と合流。風が正面から吹き付け、顔が痛いぐらいです。途中2つ側道に出入りし、友待橋の交差点を左折。左折してすぐ、ゴミステーションのところに時友の一里塚跡。住宅街の横の坂を登っていきます。飢坂(かつえざか)を登ります。飢坂の由来は2つあり、昔、牛万匹という長者がいた。長者の田植は一番東の端の歌謡坂からはじまり、夕方この峠にたどりつく頃、腹が減ってたおれそうになるので飢坂、という説と、大飢饉で飢えに苦しむ人々が食べ物を求め街道は行列をなしており、この峠に達するや力つきて、たおれ死ぬ人も多く出た、という説。ふたつある池の真ん中を道が通ります。池を過ぎると山道へ。歩いていくと、遠くに人影が‥オレンジの蛍光色のベスト。ということはハ、ハンター?もう少し近づいてみると、間違いなくハンターでむこうを向いて銃をかまえていました。照準をのぞきながら、今にも打ちそうな感じです。ど、どうしよう?声をかけるか、構えを解くのをじっと待つか、もう少し近づいてみるか、引き返すか。今はまだ銃を向こうに向け、こちらには気が付いていませんが、足元の道は枯葉がたまっており、歩く度にガサガサと音がします。不用意に音を立てると振り向いてぶっ放される危険も‥不意に声掛けてビックリされるのも嫌だし‥悩みながら、1、2歩足を動かすと‥バキッ!!太めの枝を踏んで折ってしまいました。するとその瞬間、銃口がこちらを向きかけたので、あわてて‥「に、人間です!!」と両手を上げて叫んでしまいました。すぐ気が付いてくれ、打たれることはありませんでした。ヨカッタ‥「ここ、抜けていきたいのですが、ダメですかね?」と聞いてみると、「ここから向こうの住宅街まで5分ほどで抜けられますよ。」「10分は打たないからゆっくりどうぞ。」と言って通してくれました。あ~びっくりした。銃口を向けられたのは生まれて初めてですが、やはり向けられると無意識に両手を上げるもんですね。ハンターさんに出会ったすぐ先には飢坂の碑。撮影もそこそこに、足早に立ち去りました。ハンターさんの行ってた通り、5分で住宅街へ。その後、シャープの工場の横を通り、しばらく行くと清水川神社。ミニ八十八箇所巡りの石仏。軒先にはちいさな氷柱ができていました。寒いハズだ。八本松駅前。もう少し先まで進んでもよかったのですが、かなり寒かったので、この日はここまで。JR八本松駅。約34kmを7時間ジャスト、47200歩でした。電車で車を停めている三原まで戻ります。雪にはガンガン降られるわ、道なき道は何度もあるわ、銃口をむけられるわ、いろいろあった一日でした。次は広島市を抜けていきます。
Feb 8, 2011
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前回の続き。往還の名水 茗荷の清水。あまり名水には見えませんが‥田万里の集落へ入りました。この家には「明治時代最初の郵便取扱所 後の郵便局跡」との案内が。「旧山陽道田万里市 旅籠跡(宿屋)」と書かれた家もありました。猪の捕獲用ワナ。結構そこいらで見かけました。よく出るんですかね?日が当たらない道路はご覧の通り真っ白です。ここで一旦国道2号線に合流しますが、すぐまた左の側道へ。ここまででスタートから3時間半弱。また田万里川沿いに歩いていきます。国道から分かれてすぐ、左手に重井工業があり、そこに自販機があります。この先、西条の街まで自販機もありませんので、水分補給が必要な方はここで。石立神社を過ぎ、しばらく行くと右手にご覧のような棚田が見えます。この棚田が風呂ヶ迫の縄文遺跡。さらに行くと左手に「旧山陽道 茗荷清水跡」の碑。先程のは茗荷の清水。こちらは茗荷清水。よく違いがわからんがまあいいか。この先、舗装された道をあるここともできるのですが、本来の旧道はここを上って行きます。また道なき道が登場。といってもホンの数十mほど。かなり急な坂(というより単なる斜面)を登ると国道2号線の東行バイパスに出ます。横断歩道はありませんが強行突破。また道なき斜面を登ります。今度は西行の一方通行。ここもそのまま横断し正面に見える舗装道へ。この二股は左側へ。この先にも二股がありますが、そこも左。しばらくは舗装された道が続きます。「西国街道(旧山陽道)田万里へ←→西条へ」と書かれた案内板。この先、ところどころにありました。東広島郷土史研究会の方々が設置されたのですが、迷いやすい場所なので、本当にありがたい。東広島・呉自動車道の手前、左側の窪地の下に日向一里塚跡の碑。東広島・呉自動車道をガードでくぐります。ガードをくぐりすぐ左手の高台にはご覧のような復元された一里塚跡が。右手にはご覧のような小さな舗装された道があります。ここがこの日一番の難所の松子山峠の入り口。道はホンの数十mほどで地道になります。まだ道がわからない、というほどではありませんが、倒木が多く、乗り越えたりくぐったりが結構忙しい。嫌がらせの様にある倒木。とはいえ、進まないわけにはいきません。途中、いくつか先ほどの東広島郷土史研究会の方々が設置してくれた案内板があります。本当に心強い。ここはトゲがある木がかなり多かったです。草木をかき分けながら歩く所も多いので、夏場でも半袖や半ズボンはやめた方がいいと思います。この日は上下ともウインドブレーカータイプの表面がツルっとした素材だったので、そんなに引っかかることもなく、助かりました。あと手袋もしておいたほうがいいかもしれません。もうひとつ、地面がかなりぬかるんでいます。小さな川の様になっている所も。歩いていくと左手に池が見え、目の前にコンクリートの壁が見えてきます。写真の真ん中下に見える倒木のようなものもコンクリート。ここは躊躇することなく、正面の壁を無理矢理よじ登ってまっすぐ進みます。よじ登ったところに東広島郷土史研究会の案内板があり、よじ登る手前からも確認できます。その先はもうはっきり道はわかり、迷うことはありません。コンクリート壁の左にあった池の先、もうひとつ左手に池があり、それを過ぎると松子山峠の石碑。ここも峠というほどの高低差はありませんでした。あとは道なりに緩やかな下りを進んでいきます。一般道が見えてきました。無事松子山峠越えが終了。かなり覚悟して臨んだのですが、冬場で草木が少なかったためか、特に迷うことなくあるくことができました。熊野の王子谷越えのほうが勾配もきつかったし、苦しかったかな。このあと、ハプニングがあったのですが、長くなってきたので続きは後程。
Feb 8, 2011
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西国街道(旧山陽道)の続きを歩きます。午前6時半に三原駅に到着。電車で前回終了地点の本郷駅に向かいます。前回終了時点を朝の7時にスタート。まだ薄暗いです。本郷の街を抜け、沼田川に架かる本郷橋のたもとには大きな常夜燈。川を渡り東洋製缶の工場前を過ぎると、ご覧の地点にきます。横断歩道の先の分岐を右斜めへ。この辺りは古墳が多く見つかっているようです。先程の分岐を右にはいってすぐ、菅公手掘井戸。太宰府へ左遷された菅原道真が、移動の途中にここへ上陸したところ、人々が水不足で大変困っていたそうな。みかねた道真サンが自ら井戸を掘るとこんこんときれいな水が湧き出し、人々を救ったのだとか。こんな話が残っているぐらいですから、当然のように近くには‥道真サンを祀る甑天満宮があります。天気はいいのですが、かなり寒い。手袋が外せませんでした。本郷中学校に西隣には梅木平古墳への入り口。広島県内で最大の横穴式石室があるそう。舗装されていない所は、雪なのか凍ったのか白いまま。お地蔵さんも寒そうです。南方の集落を抜け、歩いて行くと宗長神社のところで国道2号線と合流。国道は一度大きく右にカーブし、数件のラブホテル前を通り過ぎるとご覧のようなところに来ます。旧道はここを左へ。宗長神社のところで国道に合流してから、ここまで10分ぐらい。一気に旧道っぽくなりました。事前に調べた情報では、ここから次に国道と合流するまでは、「道なき道」とのことでしたが‥やっぱり道なき道でした。ただ、真冬だったのが幸いだったのか下草もあまりなく、道に迷うほどではありませんでした。丁度中間地点あたりで、一度視界が開けて一軒の民家が左手に見えます。その民家の前を通り、右手の方に進んでいくと‥「道はなんとなくわかる道」へ。後半の方がよりわかりやすかったです。サテライト山陽(競輪の車券売り場)の裏に出ます。国道から分かれてここまで20分弱。特に迷うことはありませんでした。サテライト山陽を抜け、国道2号線を横断し県道49号へ入ります。県道へ入る交差点のところには旧山陽道の案内板が。-5度の表示が。寒いはずだ。県道に入り、1km弱のところで右斜めに伸びる側道へ。しばらく行くとご覧のような高架が。これをくぐり、瓦坂峠を目指します。この道も事前に調べたときにはここもかなり荒れているという情報もありましたが、ご覧の通り、全く歩くのには問題なし。途中、「森のおさるさん」というNPO法人ののぼりがいくつかありました。帰ってから調べてみると、この辺りの里山の環境整備をされているよう。たぶんその方たちが整備してくれたのでしょう。峠、といっても勾配はそんなに感じるほどではありません。やがて横大道の集落へ。東 大坂 西 廣島 と書かれた道標。瓦坂峠でなく、河原坂峠、と書いてあった案内板もありました。ま、どちらでも「かわら」なのでいいか。この先、国道432号線を横断し、国道2号線の北側に平行する旧道を歩きます。遠くに見えるのは湯坂温泉郷。そういや、のんびり温泉に入ったのって、いつだっけ??やがて道は自然に左に曲がり、国道2号線を横断する形になります。国道を横断し、田万里川を渡ってすぐ右。ここからは田万里川沿いに行きます。「旧山陽道 これより田万里往還」の標柱。町おこしの一環でしょうか。この先しばらく、いろんな所で標柱や案内板をみかけました。日があたらないとかなり寒いですが、田万里川沿いをどんどん歩いていきます。ちょっと長くなりそうなので続きは後程。
Feb 7, 2011
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広島市内に入りました。街道からは少し離れているのですが、こちらに来てみました。広島に来れば、必ず来てしまいます。
Feb 6, 2011
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