まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2017.10.21
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文芸評論家の加藤弘一は、
杉浦日向子の「百日紅」について、


後の渓斎英泉、女郎屋までひらいた男だよ。だまかすなといいたいね。


との批判を書いています。

杉浦日向子の漫画において、
お栄は、じゃりン子チエみたいに、
父の北斎を「テツゾー」と呼び捨て、
まるで現代の父娘のように対等に振舞っているのですが、
そのような娘としての態度のなかにも、
いわば女性性を拒んだままの「おぼこぶり」が見て取れるのかもしれません。

事実、杉浦日向子は、
お栄の絵に色気がなかったのは性的に未成熟だったため、
と解釈していたようで、
物語は、ある面で、お栄の女性としての成長譚になっています。



杉浦日向子の作品において、
お栄や善次郎が未成熟に描かれているのは、ある意味で当然です。
なぜなら、彼らの年齢設定が若いからです。

文化11年といえば、
北斎がようやく「北斎漫画」を描き始めたばかりのころ。
つまり、彼が独自の画風を確立するより前の時期であり、
23才に設定されているお栄や善次郎にいたっては、
人としても、絵師としても、まだまだ未熟だった時期です。

おそらく、杉浦日向子の作品の目的は、
彼らの画業を探求することでもなければ、
北斎父娘の歴史的な実像に迫ることでもありませんでした。

むしろ、杉浦の主眼は、
絵師としての地位を確立する以前の彼らの姿をとおして、
「江戸」という世界の諸相をファンタジックに描くことだったと思われます。

一説によれば、
昭和の現代を生きる女性としての杉浦自身の姿を、
お栄にむけて投影することを意図していたのではないか、とも言われます。



一方、朝井まかての小説は、
お栄が南沢等明に嫁いだあとから話が始まります。
つまり、お栄はすでに、物語の最初から、性的に成熟しています。

それにもかかわらず、
お栄の絵には「色気がない」と言われる。
なぜなら、それは一貫して変わらないお栄の画風だからでしょう。

実際、葛飾応為の絵には、
ある時点から色気が生まれたというような形跡もないし、
むしろ生涯にわたって色気とは無縁の絵師だったのであって、
彼女自身の性的な成熟とは無関係に思えます。



朝井まかての小説のはじまりは、
北斎が「北斎漫画」によって独自の境地に達し、
ついに「富嶽三十六景」を出版しようとする前夜の時期でもあります。

その物語は、
やがて「春夜美人図」や「三曲合奏図」を経て、
葛飾応為が最後に到達する「吉原格子先之図」へと向かっていきます。

北斎父娘の関係性も、彼らの画業の歴史も、
そうした作品群をもとにして想像されています。

もちろん、最新の研究成果も踏まえられているので、
時代考証における説得力でも、朝井の小説のほうが上回っています。

そこらへんが、朝井の小説と、杉浦の漫画との大きな違いです。



朝井まかての小説と、それを原作としたNHKのドラマにおいて、
非常に成功していたと思われる点があります。

それは、葛飾応為の「絵」の世界を、
言語や映像という方法で再現しえている、ということです。

これについては次回に書きます。




※現在、​ 音楽惑星さんのサイト ​にお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。






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最終更新日  2020.09.27 06:13:52


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