まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2017.10.28
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杉浦日向子の漫画において、
お栄は父のことを「テツゾー」と呼び捨てていますが、
朝井まかての小説では「親父どの」と呼んでいます。

ここでの「親父」というのは、
”父”の意味ではなく、いわば”親方”というような意味です。

お栄が幼いころ、
北斎工房に出入りしていた弟子たちは、
親方である北斎のことを「親父どの」と呼んでいました。
幼い日のお栄もまた、彼らと同じ視点から、
北斎のことを「お父っつぁん」ではなく「親父どの」と呼ぶようになった。

つまり、
幼いころに、みずから絵筆を握ることを要求したお栄は、
すでに北斎のことも「絵師」として見ていた、というわけです。

そのときから、お栄の中には、
絵師である北斎に対する尊敬と、彼の娘であることへの誇りが生まれ、
同時に、絵師としての理想に届かない自身の苦悩にも脅かされるようになる。

これが、朝井まかてが仕立てた、お栄の人物造形です。



杉浦日向子の漫画は、
「江戸」という世界を描くことには成功していますが、
北斎や応為の描いた絵の世界を、
漫画という手法で再現することは目的としていません。

かりにそれを目指した面があったとしても、
杉浦は、みずからの漫画家としての技量に不安をもっていたようだし、
実際、それに成功しているとは言いがたい。

そもそも、杉浦にかぎらず、
北斎の絵がもっている傑出した躍動感を、
漫画や映像という手法で再現するのは至難の業であり、
ほとんど不可能に近いといっても間違いじゃないと思います。

しかしながら、
朝井まかての作品では、小説という手法によって、
すくなくとも、
娘・応為の浮世絵の世界に迫ろうとはしています。
さらに、それを原作としたNHKのドラマは、
応為の絵の色彩と陰影の世界を、
見事な映像表現によって再現しえていると思います。



別の面からみると、
杉浦日向子と、朝井まかてのあいだには、
浮世絵そのものに対する考え方の違いもあったかもしれません。

おそらく、杉浦日向子は、
浮世絵というものを、
文字どおり、浮世の「商売」と見なしており、

それに対して、朝井まかては、
浮世絵を限りなく「芸術」に近いものに見たてようとしている。

たしかに、江戸時代の浮世絵というのは、
あくまでも職人の生業にすぎないものであり、
西洋的な意味での「芸術」ではなかったかもしれません。

しかしながら、朝井まかては、
幕末から近代に向かう時代を生きた葛飾応為の中に、
日本における「芸術」という概念の萌芽を見ようとしたのではないでしょうか。

そのことが、
杉浦の漫画と、朝井の小説との、
描こうとする世界の違いとなって表れたように思います。



※現在、​ 音楽惑星さんのサイト ​にお邪魔して「斉藤由貴」問題を考えています。






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最終更新日  2020.09.27 06:06:19


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