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京都は特に多いのでしょうが、茶室や古い町家に「円窓」がしつらえられているのを見かけます。 現在京都では「ダイナースクラブ京都レストランウィンタースペシャル2014」なる特別メニューを提供する催しが開催され、AKAGANE RESORTも参加させて頂いた、京都の一流店が名前を連ねています。このガイドブックの表紙を飾っているのが、京都のお寺さんの円窓で、ひと目見て京都らしく日本らしさを感じさせるものだからであるからでしょう。 あるお茶事に招かれた際に、中途半端に円窓が半分近く閉まっていました。なぜだろうと思い、先生に尋ねてみると、「今夜は、半月の夜。だから今夜の月の満ち欠けを表しているの。こういったところを風流と呼ぶのです。」 なるほどなぁ、と思う反面、なるほどと思えるところが日本人の感性なのでっすね。 外国人の方々はこの感性に非常に興味を持って下さいます。風景に「理」由を求める感性です。 円窓は風景を切り取る役割を持っています。庭が美しければ、窓を広く取って自分の目で見たいところを見ればいい、というものですがそれでは「余白」が際立ちません。 円窓の周りの壁、または暗がりは西洋絵画における額縁ではなくて、紙の余白です。壁は必ず四角形であるために、丸い窓を設ければ、必ず余白が生まれます。 京都の嵐山に龍安寺というお寺があるのですが、そこのお庭には15個の石が配置されています。石以外はほとんど白砂ばかりの枯山水ですが、このお庭には秘密があって水平方向どの位置から見ても、必ず他の石に隠れるようになっていて、15個数えることが出来ません。 余白の「理」由がそこにあります。 美術の場合においてもこの「切り取りの」美学が見受けられます。主たるものが、「書」です。一文字、あるいは複数であっても背景は紙の色、白い余白で合ったりします。 一方、西洋では「構築の美学」です。油絵は白い部分は白い絵の具を乗せますし、誰かの絵の上から再び描き上げた作品も珍しくありません。 マティスの「赤い部屋」という有名な作品がありますが、元々は「緑の部屋」という作品でした。一旦完成した後、再度赤い塗料を塗りなおして新たな作品として世に出たのです。 フランス料理のロジックは「構築の美学」そのものです。 英語でCooking、イタリア語で Cuccina、フランス語でCuisine。それぞれ「加熱した。火を通した。」という意味です。 火を通さないものは人間の食べ物ではなかったかのようです。流通も発達せず、冷蔵庫も無い時代、日本のような島国ではない大陸では火を通さずに食べる事は至難の業であったことが伺えます。 日本における「料理」。料とは「米」を「斗」することです。斗するとは、枡で量ったり、それこそ「切り取った」りすることです。 理はその「ことわり」です。美味しくする「理屈」「理由」と言った意味でしょうか。 フランス料理、例えば「牛のフィレ肉のステーキ」という料理があります。牛という動物がいて、肉にされてそこからフィレ肉の部分を取り出して、焼いてソースを添える。 ソースはこちらも牛の骨を叩いて出汁を摂ったフォン・ド・ヴォー。かくして牛は皿の上で再度「構築」されることに成ります。 SASHIMIと外国の方にはこちらの名前の方がポピュラーですが、京都では「お造り」と呼ぶ生魚の切り身。日本料理の「切り取りの美学」としては最たるもので、切り取ることに、板前の技量が発揮され、どこの部分が一番美味しくて、どこからどんな風に仕入れて、誰に提供するかかが重きを置く部分です。 食事を終えた後に「ごちそうさま」の言葉があります。ごちそうさまを漢字で書くと、「御馳走様」馳走とは料理をする材料をあちこち駆け回って集めてくることで、いわば流通です。集めて来てくれた事に対しての礼の言葉とも取れます。 かくなるように日本料理の本質では、もしかすると、まな板に乗るまでが勝負なのかも知れません。 21世紀が早くも15年の歳月が過ぎ、情報はすばやく世界中に発信されます。寿司は世界中のレストランで見られ、日本ではあまたのフランス料理店があります。 文化の違いを世界中の人が楽しむようになりましたが、その差異を発見して愉しむ感性は、日本とヨーロッパの「哲学」の違いにあります。 「料理道」と「料理学」の違いですが、都市、あるいは国の成り立ちにその起源を発します。つづく、、、
Feb 4, 2014
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昨年の11月になりますが、全日本メートル・ド・テル連盟主催「冬の食材探求旅行」に参加して「ツキノワグマ」を食す機会がありました。 冬の訪れがいよいよ始まることもあって、熊は寒さを凌ごうと秋に多くの食べ物を摂取し、脂が赤身と同じくらいの層になっているのが分かります。 味は、ツキノワグマがそもそも雑食の動物で、果物なども多く摂っているからか、肉の味に臭みはありませんでした。食肉の風味とは、何を食べているかで随分と変わってきます。 脂に独特の風味があります。同じ環境にいるキジの脂身の薫りに近い感じがありましたが、牛や羊ともまた違う風味です。 今シーズンのジビエも、2月を迎えそろそろ終わりに近づいています。 現代において、またフランス料理において「ジビエ」とは狩猟した鳥獣類を指し、また、そういった食材を使った料理はジビエ料理と呼ばれてます。 四季を重んじる日本の風習に倣って、冬になるとあちこちのホテル、レストランで「ジビエ料理」が供されています。 希少で高価でもあり、シェフの経験と腕が非常に重要な食材でもあります。 「ジビエ」は狩猟した野生の動物の事ですので、鹿や鴨、猪やウサギ、もちろん狩猟すれば熊、狸、狐なども含まれる事になりますので、それぞれの味も全く違ってきます。 そもそもジビエが重んじられるのは、特に冬の一定期間のみ狩猟が許されず、野山の植物などを食べて育ったその野生味が美味とされるところからです。 しかし、一方で、日本人が季節ものとしてとらえるのとは少々事情が異なり、ヨーロッパ中世において、そもそもジビエは一般庶民の口に入るものではありませんでした。 古代から中世へと変化を遂げた西暦5世紀から9世紀に至るまで、現代のフランスはまだフランク王国と呼ばれていました。もともと狩猟民族であったフランク族は戦闘訓練の要素もあった「狩り」を好みました。 狩りの一つの形態として「ハヤブサを使った鷹狩り」があり、当時のフランク族語でgabaitiと呼ばれていました。後にこの言葉がジビエ(gibier)と変化します。ジビエは本来「狩りをすること」の意で、英語圏においてはゲーム(game)と呼ぶのも同じ意味からの派生です。 古代フランク族の末裔である、フランス王、フランス貴族たちは狩りを行うことを高貴な義務とし、一般の庶民が狩りを行うことを許しませんでした。それは、狩りを行なうための獲物の減少を防ぐ目的もあったのですが、彼ら曰く、「野生の動物は自由であり、自由な生き物を捕えることが許されるのは、自由が保障された身分である貴族だけである」といった考えからです。そのため、ジビエは古い文献のグランドキュイジーヌの中にも多く現れます。しかしその後のフランス革命によって、貴族社会は崩壊。後に現れる様々な「レストラン」において、ジビエの味が引き継がれることになったのです。つづく
Feb 4, 2014
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AKAGANE RESORTの庭には大きな柿の木があります。 DININGでお食事を楽しんでいただくと目の前に、たわわに実った柿の実が眼に入ります。 地球の温暖化の影響でしょうか、結実が随分と遅くなったせいもあって、2月に入っても鮮やかなオレンジ色の実がたくさん成っています。 当初夏ごろには、この柿の実のことを誰も意識しませんでした。秋が来て実が成って、枝々の隙間からちらほらと実が垣間見れるようになり、やがて緑の葉は総て落ちて実だけが残ると、鮮やかな橙色の果実がたくさん現れてきたのです。 露になるときは堂々としたものです。 -露堂々 元々そこにあったのは、明らかでした -明歴々 「明歴々 露堂々」とは禅の講話などに出てくるお話です。AKAGANE RESORTは京都高台寺にほど近いのですが、高台寺でよく話される内容で、茶会などを催されると必ず禅の教えに絡めてされる有名な逸話です。 要は、人は意識しないものには「気付かない」ということなのですね。 見えていないから、「無かった」、ではなくて、「元々そこにあったのに気付かなかった。」だけなのです。 見えなかったものを、仏の心と感じるか、あるいは人の才能とするかは受け取った側の解釈しだいですが、「気付く」という点において人材開発の技法のひとつ「コーチング」と相通じます。 コーチングで、重要視されるのは「気付き」です。気付くためには、自分の中に内在するものをあらためて見直して見なければなりません。 外部から何かを植えつけるものではなく、誰しもが持っている「実」を堂々と露わにするための技法であるといえるのでしょう。 禅宗の言葉を顕した先人にあるように、四季の移ろいを何気なく見ていたのでは無く、そこに真理の破片を見出す。 「気付き」によって見えていた世界が変わり、自分が変わることもあるのですが、それが自然体であることが最も望ましい姿であると、庭の柿の木が「気付かせて」くれました。つづく、、、
Feb 3, 2014
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私の先輩諸兄を含め、長年サービスに携わった方々には人を見抜く眼が養われるようです。 ひと目見て、また、二言三言話を交わしただけで、お客様の好みだとか、今日レストランにいらっしゃった目的、ワインが好きな方か否か、社会的地位が高い方なのか、、、「君はどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」とはフランス革命期の美食の大家、ブリア=サヴァランの言葉ですが、人を見抜くテクニックや、「ピンとくる」「勘がはたらく」といった要素はそもそも生まれてから身に付けた「知識」の一部であることが知られて来ました。 「知識」というものを、分類すると、言葉やヴィジュアルに置き換えて他の人に伝える事の出来る「形式知」と頭で分かっていると言うより、首から下、身に着けた、と例えられる「暗黙知」があります。 「暗黙知」私はちょっとこの字面がダークな感じがして気に入らないので、タイトルには「あんもくち」と書き換えました。 「暗黙知」は総括した知識という概念の中では、大きな割合を占めています。 ちょうど海に浮かぶ氷山が、見えている部分よりもはるかに大きな氷の塊を水面下に沈めているように、人が備えている知識とは、形式知よりも暗黙知がはるかに多いのです。 形式知には伝える力があり、暗黙知には産み出す力があります。 ジャパン・ミラクルと世界から呼ばれた当時の日本企業には、個々が持つ「コツ」や「勘」などの「暗黙知」が組織内で代々受け継がれていく企業風土・企業文化を有していました。そうした暗黙知の共有・継承が日本企業の「強み」でもあったのです。 しかし経営環境は著しく変化していく中で、労働環境の変化により「同一の企業文化の中で育ったほぼ均等な能力を持つ職員が継承していく」といった前提は崩れてしまいました。このため現場任せで自然継承を待つだけでなく「形式知」化していくことが必要とされる。 私が京都で勤めているからという事もあるのでしょうが、「おもてなし」という言葉をよく耳にします。 つい最近では、次回東京オリンピックを誘致するにあたり、プレゼンテーションで、「お・も・て・な・し おもてなし」のフレーズが、使われ「おもてなし」だけに何かウラがあったんじゃないかと勘ぐってしまいましたが、この「おもてなし」こそが、暗黙知のそのものでは無いかと感じるようになりました。 「おもてなし」は日本人なら誰もが知っているような言葉に見えて、誰もがその実態を知らない不思議な言葉です。 例えば、ある会社の社長が、「今日からわが社も、マニュアルにおもてなしの心を取り入れるぞ!」と張り切って宣言したとします。 おもてなしをマニュアルにする。形式知に落とし込む作業ということになるのでしょうが、いかんせん「おもてなし」の極意は「一期一会」、100人のお客様がいれば100通りの手法があるということです。 100通りくらいならば、マニュアル化することは可能でしょう。実際、ディズニーランドのマニュアルは不測の事態にも対応できるよう、1000通りの対応が想定されているそうです。 一期一会は、1000通りのみならず、10000人、1億人の客人に対しても「一期一会」の心持で臨む事こそ「おもてなし」であると唱えているのです。 これではマニュアル化は非常に困難です。おもてなしは学問ではないのです。 暗黙知を形式知に転化していこうとする試み、ナレッジ・マネジメントと呼ばれたりしますが、いわゆる学問「~学」です。 おもてなしは日本人が古来より培ってきた、剣道王、茶道、華道に見られる「武道・芸道」と同様な「おもてなし道」といえるでしょう。 「道」とは何か。「道」を求めるのに最も必要とされるのが「残心」です。 残心とは日本における美学や禅に関連する概念ですが、平たく言えば「すきこそ ものの じょうずなれ」といったところでしょうか。つづく、、、
Feb 1, 2014
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