全30件 (30件中 1-30件目)
1
JR東日本 215系:こんなところで編令和3年3月ダイヤ改正において職を失ってしまったJR東日本215系電車。地元を通る車両ではないためなかなか会う機会はないのですが、ひょんなところで出会ったことがありました。一つは既に『215系の点検蓋』でご紹介済みですが、同形式の引退を機に他の写真をご紹介したいと思います。平成24年6月22日 錦糸町駅にて外回りの仕事で亀戸から錦糸町へ移動。階段を降りようとしたら4番線にいきなり215系が入ってきました。何事か混乱する中、側面に「試運転」の表示。家に帰って確認したら、この時期、試運転で時折入線していたそうです。後年、東京地下ホームに215系が入線するようになり、錦糸町駅横の留置線で折り返しをしていたようですが、総武快速線のホームに停車するのは珍しかったようで。ほんの10秒ほどの出来事だったので、状況説明のできる構図で撮れなかったのは残念。平成28年5月28日 大宮総合車両センターにておおみや鉄道ふれあいフェスタで訪問した際、大栄橋から展示外の入場車両を偵察していた際に発見しました。当時の弁・・・『滅多にない機会なので、展示に参加させれば良かったのに・・・』。今でもそう思います。編成数が少ないために、「湘南ライナー」や休日運転の「ホリデー快速ビューやまなし」のような定期運転ばかりで、間合いで気の利いた臨時列車で使われることはほぼありませんでした。【中古】Nゲージ/TOMIX(トミックス) 98444JR 215系 近郊電車 (2次車) 4両基本セット【A´】スリーブ若干傷み[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98445 JR 215系近郊電車(2次車)増結セット(6両)【中古】Nゲージ/TOMIX(トミックス) 98445JR 215系 近郊電車 (2次車) 6両増結セット【A】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98444 JR 215系近郊電車(2次車)基本セット(4両)
2022.11.30
コメント(0)
EF621牽引 旧型客車:急行「妙高5号」「妙高」は、上野~直江津を横軽経由で結ぶ急行列車でした。設定はほとんど昼間で169系を使用していましたが、上り下りの最終は旧型客車を使用した夜行列車でした。(他に、169系使用の季節列車で夜行列車が存在していました。)昭和53年3月21日 横川駅にて EF621牽引 急行「妙高5号」編成は、郵便車、荷物車、A寝台、B寝台、普通車自由席で、グリーン車と普通車指定席は連結されていません。横軽を通過するので、牽引機はもちろんEF62です。写真は、中学2年の終わり頃、鉄仲間と何故か長野方面へ行くことになり、現地活動時間の節約できる夜行「妙高」に乗りました。上野発が23:58で、定期列車としては高崎線の最終列車でもありました。この「妙高」に乗ったとき、出発直前になって震度4程度の地震が発生し、安全確認が取れるまで抑止がかかり、日付が変わって0:20過ぎくらいに上野を出発したことを覚えています。そして、この日の牽引は幸運にもEF62のトップナンバー車でした。この夜行「妙高」は、上野発が深夜、上野着が早朝4:47でしたので、関東圏で走行写真を撮ることはできません。まして当時、京浜東北線の初電よりも早く上野に到着してしまうので、中学生には非常に厳しい列車でした。上越新幹線の開業以降も夜行急行「妙高」だけが残存しましたが、189系による運行となり、むしろそれまでの季節急行が定期化された感じでした。
2022.11.29
コメント(2)
国鉄 救援車:スエ309スエ30は、戦前型の17m客車を改造して造られた救援車です。救援車というのは、列車事故や線路災害があったときに出動する客車で、事故・災害現場で使用する機材などを積載した特別な車両です。備えとしては常に置いていたわけですが、実際にはそんなに事故とか災害があるわけではありませんので、古い客車の使いまわしで足りたのでしょうね。殆どは実際に使われないまま廃車になってしまったものが多いのではないでしょうか。昭和54年頃 東京機関区?品川客車区?にて スエ309種車は元スニ308らしいです。当時、首都圏ではなかなか見ることの出来ないダブルルーフ(二重屋根)車で、湘南電車や横須賀線に乗る度に見えたので非常に気になっていた存在でした。公開などでもまず出てくることがなく、電車の窓から写真を撮るという強行策で撮ったものです。この車両は、運良く横川の鉄道文化むらで保存になりました。
2022.11.28
コメント(0)
485系K60編成:急行「ぶらり鎌倉」急行「ぶらり鎌倉」は、福島県いわきと鎌倉を常磐線~武蔵野線経由で結ぶ臨時急行列車です。設定は鎌倉の観光シーズンに限定されており、年間の運転日数もわずかです。運転開始当初はE653系が使用されていたようですが、その後勝田車両センターのK60編成が充当され、専用のヘッドマークが用意されていました。平成20年11月22日 南流山駅にて 急行「ぶらり鎌倉」専用のヘッドマークがあったため、583系の回送列車を撮るついでに撮影したもの。まだデジカメに慣れていなく、早切りになってしまったのが残念。まだ当時はメインで使用していたM645で撮影した後部です。単レンズのみしかないので、駅撮りでは構図取りが難しかった。運転の設定数が少ないため、なかなか撮る機会がありませんでした。当時はまさかK60編成が引退するとは思っていませんでしたので、この写真が最初で最後のショットとなってしまいました。
2022.11.27
コメント(0)
103系 京浜東北線:クハ103「京浜東北線」HM京浜東北線103系の続きです。旧型国電73系から置き換えられ、スカイブルーがトレードカラーになった京浜東北線。既に懐かしい時代の京浜東北線の103系低窓車ですが、何の問題もないスカイブルーの車両に何故か「京浜東北線」と書いたヘッドマークが付いている変な写真があります。昭和51年頃 蕨~西川口間にてお見せするのに気が引けてしまうようなしょーも無い写真なんですがね・・・リコーオートハーフで撮った写真。大体ブレちゃうんですよ。この時代の1年間はこんな写真ばかりで・・・。1枚目の写真を見てお判りのとおり、行先は表示されていません。なんでこんなに変な設定の103系が走ったのかずーっと謎だったんです。運が良いことに、2007年3月号の鉄道ピクトリアル誌で京浜東北線の特集があり、ここにその経緯が記されていました。簡単に解説いたしますと、昭和50年度第3次債務により阪和線置き換え用の103系冷房ATC準備車を製造、これを下十条電車区へ配置、余剰となる103系非ATC準備車を冷房改造施工後、阪和線へ転出させることになりました。2枚目の写真で冷房改造が行われた様子がハッキリ判ります。この冷房改造完成後に直ぐに転出しなかった組が、転出するまでの間に再度京浜東北線に使用されたのですが、冷房改造と同時に方向幕(行先表示)を阪和線用に交換してしまったため京浜東北線として使用することが出来ず、已む無くステッカーを表示して走ったということです。同誌の記述によれば、ラインカラーが合っているのに、このようなステッカー表示をするのは大変珍しいとされています。ウ~ン確かに。もうちょっとちゃんとしたカメラで撮っていれば・・・と悔やまれる写真ですが、こんなんでも貴重な記録なため、捨てることなく取ってありました。ちなみに、京浜東北線の103系低運転台を撮っておかなければと思った時には既に大量のATC車が投入されており、付属3両側のクモハは遅くまで残っていましたが、クハ側は早めに居なくなってしまったため、低運転台のクハ103の写真はこれ位しか撮っていなかったようです。
2022.11.26
コメント(0)
103系 京浜東北線:クモハ103クモハ103と言えば、大前提が低窓車であることはご存知だと思います。京浜東北線においてはこのクモハ103が必ずと言っていいほど連結されており、特に7+3編成には必須の車両でした。その後増備されることとなるATC搭載車にはクモハがないため、京浜東北線のATC化の準備として、分割編成の6+4化が進むことになります。ここでの大きな動きとして、ATC化できない低窓のクモハ103とクハ103が6+4編成の中間に封じ込められることになってしまったのです。それまで103系なんて通勤車の写真はほとんど撮ったことがありませんが、ちょうど私が高校生になった頃、ATC化で見られなくなってしまう前にとそこそこの枚数を撮影していました。昭和53年頃 西川口~蕨間にてこれは少し時期が外れてしまいますが、クモハ103を流し撮りした写真です。中学生の頃で、まだATCなんて影も形も無かった頃です。前回アップしたときには気が付かなかったのですが、冷房改造されていないのにシールドビームに改造されています。京浜東北線の中では珍しい存在だったかもしれません。昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年頃 西川口~蕨間にて昭和55年7月 西川口~蕨間にてこれもシールドビーム2灯になっていますね。1枚目と同じ車両でしょうか?※良く見たら通風孔の蓋の有無が違いますね。昭和56年頃 西川口~蕨間にて昭和56年初頭? 蕨駅にて雪の中で撮ったクモハ103。ATC化に際して7連の内側クハと大宮方のクモハ+モハの連結位置を交換することによりATC搭載クハが両先頭に出ることになり、結果として低運クハやクモハが中間に封じ込められる形となりました。低運クハとクモハは全てがATC非搭載のため、ATC化後は先頭に現れることはなくなってしまいました。
2022.11.25
コメント(0)
国鉄 キハ58800番台:修学旅行臨東北新幹線の開業前、地元では架線の下を走る気動車急行として「おが」、「いいで」・「ざおう」、「出羽」の3往復がありました。時代によっては、これ以外にも臨時急行として「ばんだい」「ざおう」も設定されることがありました。キハ58系にも修学旅行色を纏った800番台がありましたが、それほど活躍の場を見出すことはできなかったようで、殆どが一般の急行運用に共通して使用されていたようです。それでも、特別な塗装は希少感があり、修学旅行色を見つけると嬉しくなったものです。そんな中、1度だけキハ58系による修学旅行臨を捉えたことがありました。昭和52年頃 修学旅行列車大体は急行列車に混結されたものしか撮影することは出来ませんでしたが、唯一この写真だけはホンモノの修学旅行列車でした。当時においても、気動車による修学旅行列車は見たことが無かったので、大変珍しいものだと思います。しかも下り方先頭がキハ58800番台でした。おそらく、秋田辺りから東京に向けて修学旅行に来たものではないでしょうか?その後、塗装合理化により一般色化されてしまい、外観からは区別が付かなくなってしまいました。おそらく、昭和57年くらいまでは使用されていた筈ですが、仮に写っているものがあったとしても、その判別は困難です。全国各地に配置されたキハ58系も形式消滅してから久しくなりますが、動態保存でいすみ鉄道に残っていた唯一の現役車であるキハ28がいよいよ引退となってしまうようです。現役最後のキハ58系列、いすみ鉄道のキハ28形が引退へ小湊鉄道・いすみ鉄道 キハ200・キハ28 房総横断・撮影会ツアー登場から50年近く経ちますので、部品等の維持が困難なのは当たり前のことです。結局訪問することは叶いませんでしたが、支えていただいた関係者の方々に感謝申し上げます。
2022.11.24
コメント(0)
103系 京浜東北線:クハ103 ATCタイプ旧型国電73系から置き換えられ、スカイブルーがトレードカラーになった京浜東北線。しばらくは低窓の103系と少数の101系で運用されていましたが、首都圏の通勤車において中央快速線の101系や山手線の103系に冷房車が導入されるようになります。昭和50年頃、小学6年生の頃だったと思いますが、クラスメイトT君が「浦和電車区に新しい京浜東北線が居た!」との情報を得て、みんなで自転車に乗って見に行ったものでした。山手線では先行改造の冷房車が導入されましたが、京浜東北線ではATC化の構想が既に始まっていたためか、先頭車には高窓ATC搭載の新車が導入されました。しかし、当時は身近な通勤車など興味が無いというか、フィルムが勿体ないとまずカメラを向けることはありませんでした。他に撮りたいものがいくらでもあった時代でしたから。そんなことで、京浜東北線の高窓ATCタイプは殆ど写真が残っていません。昭和54年8月 田町駅にて京浜東北線・・・好きというよりは邪魔者と解釈される方が多かったかもしれませんね。この写真なんかてき面ですが、撮った枚数が少ないとなると、こんな光景でも私的に貴重なシーンです。昭和54年頃 蕨~西川口間にて京浜東北線ですが、103系時代のスカイブルーと、山手線のウグイス色との混色編成です。昭和51年頃にも良く見られたのですが、カメラが良くなかったので、良い写真が残っていません。こちらは、ATC化に備えて車両のやりくりがあった頃と考えられます。特に、ATC化=冷房化の促進みたいな図式があったものと考えられます。昔は検査入場のタイミングが合わないと、旧色のまま転属して組成されるケースは珍しくなかったので、比較的このような混色編成を見ることができました。現在ではテープ方式になったためか、あらかじめ整備が終わってから転属、という風に徹底されているようで、特に東日本では混色が見られなくなりましたね。昔は比較的バリエーションの少ない通勤型でしたが、このような編成が走ってくれると、写真を撮る意欲が湧いたものでした。蕨駅にて昭和55年かちょっとビミョーです。昭和56年初頭かもしれません。雪の降った日、姑息にも写真を撮りに出掛けました。まだ貨物駅が稼働している時代です。昭和57年2月頃 下十条電車区にて(再掲)東北新幹線延伸の工事が始まった頃の下十条電車区。103系ATCタイプの電車が一番写っていた写真です。昭和57年 浦和電車区にて(再掲)見慣れない特急形の来客に住民の103系たちもさぞやビックリしたことでしょう。ここからはオマケ画像です。昔は、終点や基点の駅でいわゆる「方向幕」を回転させたときに、普段は見られないようなヘッドマークや行先が出ることがありますので、デジタル式には無い楽しみがありました。まずは、スカイブルーの「赤羽線」です。首都圏にお住まいでない方にはピンと来ないかもしれません。赤羽~池袋間の線路を指し、現在は埼京線としてスルー運転されておりますが、この区間の正式名称は「赤羽線」であります。もう少し時代を遡ると、この区間は「山手線」でした。赤羽線は比較的遅くまで101系が運転されており、赤羽駅で新幹線の工事が始まる頃、一気に103系に置換えになりました。山手線のカナリヤ色101系を使用していた由来から、103系導入時においてもカナリヤ色を使用していましたが、車両が足りないためでしょうか、当初はウグイス色編成や先頭車のみウグイス色といった編成が使用されていました。しかし、スカイブルーの「赤羽線」が運転されたという話は聞いたことがありません。さて、こちらは「根岸線」の表示です。京浜東北線に乗っていると、大船行きなどは特に「根岸線廻りの大船行きです。」という車内放送を聴くことが多いと思います。ご存知のとおり、「京浜東北線」という路線は昔から存在しません。大宮~東京は東北本線、東京~横浜(昔は桜木町)は東海道本線、横浜~磯子経由~大船を「根岸線」と言います。もし、行先表示をしないで横浜~大船を往復する電車があれば、この「根岸線」という表示をする可能性もあったのでしょうが、基本的に横浜始発の京浜東北線というのは聞いたことがありません。とすれば、やはり行先表示をするのが常となるでしょうから、結局は出番がなかったのではないかと思いますが・・・実際にあったという情報も。この写真は、赤羽駅折り返しの電車を見ていたときに回転させていたもので、面白くて撮っておいたものです。これを目撃したのが大人になってからでは、おそらく写真にまで撮らなかったと思います。このあとJRとなり、209系と交代することになります。ちなみに、末期に走っていた205系の京浜東北線、1枚も撮っていませんでした。
2022.11.23
コメント(0)
EF651049牽引 12系オク座:団体列車「与野市民号」「与野市民号」は、昭和60年10月17日に運転された与野駅で集約した団体列車です。当時の赤字国鉄は、各駅で競い合い、企画列車を打ち立てていました。集客に躍起になっていたようです。私は運転職場(ホーム)にいましたので、知らない間に営業サイドで「与野市民号」なる団体列車を計画していたようです。昭和60年10月17日 東大宮~蓮田間にて EF651049牽引「与野市民号」運転日ギリギリになって助役から知らされ、運転時間を確認するとともに、ヘッドマークを取り付けるということもあって撮影に出掛けたものです。ちょうど明け番か休みの日だったんですね。お座敷列車はオク座こと12系お座敷客車「なごやか」で、その後、斜めのストライプが入り、最後は水色系に塗色変更されましたが、この頃は完全オリジナル塗装の登場時の装いでした。多分、当時はこのようなダイヤも公表していなかった可能性が高いので、撮影していた方は少なかったと思います。行き先は忘れていましたが、日光だったかな。フツーに温泉に行ったと記憶しています。
2022.11.22
コメント(0)
旧型国電 80系:信越本線(高崎駅)私がまだ中学2年生くらいのときでしょうか、EF12の写真を撮りに両毛線へ行き、帰りに立ち寄った高崎駅で偶然にも80系電車に遭遇しました。後で知ったことですが、信越本線に1往復のみ80系の運用が残っていたらしいです。撮影は、おそらく手元に残っている乗車券の日付の昭和52年3月12日ではないかと思われます。高崎方はクハ76300番台でした。後期車でシルヘッダーのない美しいデザインです。飯田線でもこのタイプが使用されていました。2両目がモハ80300番台で、その他のモハ・サハ3両は0番台だったようです。0番台は旧型客車と同様のスタイルのまま電車化されたデザインで、やはり古さを感じさせます。この写真を見て初めて気が付いたのですが、0番台と300番台はドアの下辺の位置が違っており、おそらく台枠の厚みが違っているのではないかと思われます。上辺の高さが揃っていることからドアの大きさが異なっているのは明らかで、互換性が無いことが判ります。模型化されるとこの辺りもポイントになりそうですね。長野方は改造車のクハ85300番台になっており、こちらはカラーで撮っていました。フィルムが無くなってチェンジした後なのかもしれません。こちらも拡大して見てみるとドア下辺の高さの違いが判ります。高崎駅も新幹線の開業によって大きな連絡橋ができてしまいました。ホーム自体は面影があるようですが、空の広さがすっかり変わってしまいましたね。こちらは6×6判で撮った写真です。隣には両毛線の70系も写っていますね。この写真は編成が異なっているので、別の日に撮影したもののようです。両毛線の70系がもう一度撮りたくて、単独で高崎まで行ったような記憶があります。時期的には同じ昭和52年だと思われます。跨線橋も木造で、大宮駅も同様でしたが、新幹線の建設で大きく変わりました。この頃から既に旧型国電の淘汰のために115系1000番台の製造が始まっており、70系新潟色を皮切りに置換えが進められました。当時は碓氷峠や未だ新型電機の部類であったEF63自体に興味がありませんでしたので、もちろん碓氷峠を行く80系の写真はありません。もう4~5年くらい残っていれば、間違いなく横軽に行っていたことでしょう。横軽を行く80系も見てみたかったです。
2022.11.21
コメント(0)
183系OM車:臨時快速「とちぎ秋まつり」とちぎ秋まつりは、栃木県栃木市で行われる山車を引き回す祭りらしく、歴史は戦前に遡りますが、現在は隔年で開催されているようです。今まで全く関心がありませんでしたが、平成22年の祭りにおいて臨時快速列車が設定されたため、休みということもあり狙ってみました。平成22年11月13日 183系OM102編成 臨時快速「とちぎ秋まつり」2日間運転の1日目。なんと専用のヘッドマークを掲げてきました。何の絵だか判らないので後ろを撮ってみたのですが、結局は良く判らず、ブレましたし。平成22年11月14日 183系OM102編成 臨時快速「とちぎ秋まつり」翌日も同じスタイルで運用に入りましたが、あまり天気が良くなく、ヘッドマークもスッキリしません。上が送り込み回送、下が本運転です。平成24年11月10日 大宮駅にて 183系OM102編成 臨時快速「とちぎ秋まつり」これは翌々年に設定された臨時快速「とちぎ秋まつり」で、またもOM102編成でした。送込み回送で「回送」マークを確認していましたので、ヘッドマークが付かないのは分かっておりました。本運転は案の定「快速」幕でした。ヘッドマークが付いたのは運転初年度だけで、2回目以降はこんなもの。平成26年も設定されると思っていましたが、OMの183系はすでに引退。185系で「臨時快速」幕と想定していたものの、まさか運転そのものも設定されませんでした。
2022.11.20
コメント(0)
EF651000番台牽引:東武鉄道5070系(新製甲種回送)国鉄時代、与野駅に約2年勤務しておりました。大宮操車場勤務とは違い、局報などの運転情報をいつでもタイムリーに見ることができたので、珍しい列車などを探すため、毎月の発行を楽しみにしていました。そんな折、当時はダイヤ情報でも得ることのできなかった東武鉄道の甲種回送を捉えたことがありました。昭和59年頃 与野駅にて EF651000番台牽引 東武5070系 新製甲種回送プリントからのスキャンなので画像が不鮮明です。カマ番も判別できませんが、PF後期車の牽引です。この写真を撮影した時は、東武8000系の甲種回送だとばかり思っていたのですが、宮オオ様からのご指摘により、当該編成は旧型車改造により誕生した5070系5071Fではないかと言うことが判明しました。なるほど、翌々台車を見てみると、確かに旧型ですね。5000系列で改造当初から冷房車があったのは知りませんでした。当時はなんちゃって新性能車に興味を示さなかったため、5000系の写真は1枚も撮影していませんでした。ある意味、私自身としても貴重なワンカットということになります。
2022.11.19
コメント(0)
185系:特急「ホームタウンとちぎ」東北新幹線開業後、新幹線が停車しない駅の速達利便性の確保から新たな特急列車が誕生します。それが185系を使用した新特急「なすの」でした。しかし、実際は急行「なすの」を特急化しただけのような存在の列車であり、所要時間の短縮も無く実質料金が値上げされたようなものでした。そのため利用率は極端に低く、後に増発される快速列車へとシフトしていくことになります。平成2年3月の改正において、新特急「なすの」は新宿~黒磯間を残して快速列車へシフト、たった1往復のみの存続となってしまいました。平成4年3月改正では、上り1往復が宇都宮~新宿間に増発され、1.5往復体制となります。平成7年12月の改正において、新幹線の列車名が整理され、那須塩原発着の各駅停車タイプを「なすの」とすることになり、名称を奪われた新特急「なすの」は上りを「おはようとちぎ」、下りを「ホームタウンとちぎ」改称します。また、平成14年12月の改正において、新特急の種別が廃止となり、特急列車となっています。少しだけしかありませんが、下り列車の「ホームタウンとちぎ」の写真を並べます。平成22年11月1日 赤羽駅にてそれまで撮ったことがなかった「ホームタウンとちぎ」。時間帯があまり良くないのでなおさらです。しかし、夏場の陽の高い季節であれば、なんとか撮れなくも無かったはず。廃止が発表されたのがかなり急でしたので、慌てて撮影を挙行しました。平成22年11月12日 新宿駅にて勤務時間の関係で、いつもですと平日に撮ることはできません。外回りで際どいタイミングのときだけ撮ることができます。そんな日がもう1日だけありました。話題性としてイマイチなのか、テツの姿は少ないです。自分もそういう立場に居ましたので、他人のことは言えません。一番さびしい思いをしていたのは「ホームタウンとちぎ」本人だったことでしょう。平成22年12月3日、「おはようとちぎ」とともに東北本線の185系特急が消滅しました。
2022.11.18
コメント(0)
485系:特急「やまびこ」 53・10改正後「やまびこ」は、上野~盛岡間を結んでいた特急列車です。特急列車としての起源を辿ると、上野~福島間を「つばさ」に併結していた盛岡編成ということになり、上野~盛岡間の特急としては気動車特急としての運転が最初でした。昭和38年12月のことです。昭和40年、東北本線の盛岡電化開業に伴い、電車での特急列車が運転開始となります。481系交直両用型特急電車として実績が認められ、50Hz版の483系が登場し、東北特急として初めての電車特急「やまびこ」が誕生します。登場当初はボンネット型により運転されていましたが、青森電化に際して青森運転所が開設、ボンネット型の「やまびこ」は早々に姿を消すことになります。※青森運転所の開設当初はボンネット型の配置があったらしく、「白鳥」「いなほ」にボンネット型が使用された実績があるようですが、当時小学2年生くらいでしたので、そのような列車の記録は持ち合わせておりません。今回は、特急「やまびこ」のうち昭和53・10改正~東北新幹線大宮暫定開業前日までの画像をまとめました。昭和55年頃 川口駅にて昭和56年 蕨駅にて昭和56年1月5日 白坂駅にて母親の田舎に行く際、単独行動で寄り道して撮った写真。急行の止まらない白坂駅ですが、特急の追い越し待ちで運転停車する例が多く見られました。昭和57年1月4日 豊原~白坂間にて景色の良いところで最後の勇姿を撮ろうと一大決心で、豊原~白坂間を踏破しました。しかし、雪ならまだしもずうっと雨・雨・雨。参りました。上下線が離れているのであまり効率が良くなく、「やまびこ」はたった2枚しか撮れませんでした。昭和56年 蕨~南浦和間にて昭和57年6月 大宮駅にて北海道初の電車特急「いしかり」の781系化により北海道を追われた四つ目の1500番代は、初期の配置区である青森運転所へと里帰りし、この「やまびこ」以外にも、「はつかり」「ひばり」「いなほ」に運用されるようになりました。いずれも共通運用であったため、いつ、どの側に連結されているかは全く分かりませんので、シャッターを押した時に何が連結されていたかと言う感じでしたね。で、まあ偶然にもこの2枚が写っていたというわけです。北海道を追われたのが昭和55年、この「やまびこ」が新幹線開通により廃止されたのが昭和57年ですから、この姿を見ることが出来たのはたった2年だけだったということになります。昭和57年6月22日 貝田~越河間にて在来線特急「やまびこ」としての最終日です。国鉄に入社して間もない頃でしたが、出番を合わせてもらって友人と最終日「やまびこ」の撮影に臨みました。この日限りでなくなってしまうなんて信じられない気持ちでした。走っている「やまびこ」たちは何の装飾もなく、いつもどおりに東北本線をかっ飛ばして行きました。昭和57年6月22日 宇都宮駅にて 上り最終「やまびこ8号」そして、とうとうお別れの時がやってきました。全ての撮影の行程を終え、最終の「やまびこ8号」へ乗り込もうと福島駅で待っていると、入線してきた列車には「さようなら やまびこ」の大きな装飾がされていました。カメラを構えていなかったため、写真を撮ることができず、上野駅ではパニックだろうし、写真は撮れないと思っていたのです。しかし、途中の宇都宮付近に来たところで、東北本線が送電故障だか忘れましたが、運転見合わせになってしまったんです。確か、宇都宮駅で30分以上は止まってしまったと記憶しています。そんなトラブルのお陰で、真っ暗な中、勘でスローシャッターにより撮影したのがこの写真です。なんとか、ギリギリ画像になった感じですが、とても思い出深い最後となりました。最終日「やまびこ8号」に乗車したときの特急券10-1129 KATO カトー 485系後期形 2両増結セット Nゲージ 鉄道模型(ZN87760)485系200番台 6両基本セット 【KATO・10-1479】「鉄道模型 Nゲージ カトー」スマホカバー専門店 ドレスマ送料無料◆10-1479 KATO カトー 485系200番台 6両基本セット Nゲージ 鉄道模型(ZN87759)
2022.11.17
コメント(0)
485系リゾートやまどり:快速「リゾート上越」485系「リゾートやまどり」による快速「リゾート上越」は、上野~水上間に運転された列車です。平成25年11月2日 快速「リゾート上越」何の変化も期待できない列車でしたが、この日は他の臨時列車も運転されたようで、浦電横に張り付いていたようです。表示は案の定「臨時」でした。何回も設定された列車と思っていましたが、調べてみるとこの「リゾート上越」として運転された実績は過去になく、この1日だけだったようである意味貴重な列車だったようです。
2022.11.16
コメント(0)
国鉄 165系:サハ164国鉄165系で随一の変形車であるサハ164。サハ164は、昭和41年、中央東線急行「アルプス」等の増発に対応するため、ビュフェ車サハシ165に代わる車両として2両のみが誕生いたしました。形態的には中間付随車のサハ165に似ていますが、車端に売店を設置し、さらに荷捌き用の扉を設置しているため、165系群の中では唯一の3ドア車となっているのが特徴です。中央東線の急行列車で活躍しましたが、最後までビュフェを営業していた中央東線では列車の統一性を欠くことなどから、新潟区のサハシ165と交換のため転出となり「佐渡」「よねやま」などに使用され、さらにサハシ165の運用離脱とともに活躍の場を失うと大垣区へ移動し、東海道本線の「東海」や間合いの普通列車としても利用されました。昭和52年頃 蕨~西川口間にて 急行「よねやま」に運用されるサハ164-2上野~直江津間を上越線経由で結ぶ急行「よねやま」は、上野~新潟間の急行「佐渡」と共通運用でした。サハ164はサハシ165と共通運用で、当時は13両編成の6号車に連結されていました。画像が荒れて見づらいですが、客窓を挟んで1対になっている扉が客用で、一番左端にある600mmの扉が荷捌き用のものとなります。遠くから見るとパッと見ではサハ165と区別が付き難いのですが、何とも個性的な窓ドア配置となっています。昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」に連結されたサハ164-2偶然にも同じ-2でした。記憶は定かではありませんが、大垣区の153系が撤退を始めた頃、165系で不足するサハを補うために連結し、東京へ姿を見せるようになったものと思われます。急行「東海」にも使用されましたが、間合いで運転される静岡行きの普通列車などにもそのまま運用されていたようです。たった2両のためあまり遭うことができず、写真はどうもコレだけしか見つからないようです。売店という画期的なアイディアだったにも拘わらず、その構想が少し早過ぎたために時代の波に乗れず、風潮が着いて来た頃には急行列車は衰退してしまいました。さらには、売店を設置したための定員減も災いし、結局は本来の用途の使用もされないまま地味で流転の一生を送り、昭和58年1月12日付で廃車、その一生を終えています。
2022.11.15
コメント(0)
415系800番台:七尾線(旧塗装)平成3年、七尾線電化に際し、普通列車用に導入された電車が415系800番台。北陸本線では交直流の急行形電車が多数在籍しましたが、客車列車の電車化により余剰車がいなかったため、485系電車の直流化により捻出された交流機器を113系に搭載し、国鉄時代から通しても異色の交直流電車が誕生しました。しかし、113系初期車が種車となっているため既に50年余年が経過し、令和3年3月のダイヤ改正で521系100番台に置き換えが決まったようです。北陸地方へは何度か撮影に行きましたが、必ずしも金沢を拠点として撮影する機会があった訳ではないため、あまり出会う機会がなかった415系800番台。1度だけ旧塗装の写真を撮ったことがありました。平成20年4月22日 415系800番台 七尾線普通列車登場時からの塗装は、先頭車と中間車の色が違うという、ジョイフルトレイン的な趣き。昔から415系を知っている身からすれば、415系とは認めたくない車両でした。ただ、奇抜な塗装故に上手く車両の古さを隠せているな、という感じはします。その後、JR西日本では塗装の合理化が行われ、七尾線では平成22年頃から赤一色へと塗装が変更。七尾線オリジナルの同色は消滅することとなりました。
2022.11.14
コメント(0)
185系:団体企画列車「新幹線リレー号」(その2)昭和57年6月、東北新幹線の大宮暫定開業に伴い、上野~大宮間の連絡列車として、新鋭185系200番台による「新幹線リレー」号が運転されるようになり、これに昭和57年11月の上越新幹線大宮暫定開業が加わり、東北・上越方面の在来線が本格的に新幹線輸送へと移行しました。あれから40年の月日が流れ、新幹線リレー号用に誕生した185系200番台もわずかな数を残して廃車・解体されてしまいました。5年前にリバイバル列車が運転された際は、40周年まで持たないだろうと思われた185系。40周年記念としてまた花を咲かすことができました。令和4年7月2日に185系:団体企画列車「新幹線リレー号」と東北新幹線を軸とした団体企画列車が運転されたのに続き、上越新幹線大宮暫定開業である11月の休日に合わせ、上越新幹線を軸とした新幹線リレー号が運転されました。今回の「185系 新幹線リレー号(ツアー)」の時の企画とは大きく変わり、東大宮出庫から大宮→上野、そしてあまり時間を置かずに上野→大宮→入庫と、往復でも1時間ちょっとの短い設定となりました。さらに、今回はリレー色への復元が施されたことが大きな動きとなっています。※撮影は、令和4年11月12日、編成は宮オオC1編成です。9552M 「新幹線リレー号」今回は送り回送無しの1往復のみ。順光のチャンスも1回のみとなります。特に上りは本線下りと交錯する可能性が高かったのでヒヤヒヤもの。撮影を終わって1分かからないくらいの際どいタイミングでした。サイドがちょっと撮りづらい立ち位置だったので、トリミングしています。ヘッドマークがロール?設定のように変わったためリアルに。横サボは整備を見送ったのか、ステッカー式となっていました。9551M 「新幹線リレー号」返しは駐輪場から。手前の柵を気にし過ぎて、後ろが切れてしまいました・・・。先行列車が往復とも回送だったので、スピードが上げられないようです。特に返しは60km/hも出ていないようなスロー運転で、後部も楽に撮れました。今回はリレー色への復元が施されましたが、実車はC編成で実は0番台。それでもJNRマークの掲出、タイフォンカバーの取付等、色々と細工されていました。さすがに切り抜きナンバーの移設までしないかw。今回はリレー色の復活とあって前回よりも大幅に人出が増え、普段は人が居ない場所にも人だかりが発生していました。さて、検査までの残り期間、なにかイベントがあるのでしょうか?団体列車 東北新幹線開業35周年:185系「新幹線リレー号」185系:アクセス列車「新幹線リレー」送料無料◆98792 TOMIX トミックス 国鉄 185-200系 特急電車 (新幹線リレー号)セット (7両) Nゲージ 鉄道模型(ZN95577)[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98792 国鉄 185 200系特急電車(新幹線リレー号)セット(7両)
2022.11.13
コメント(0)
JR東日本 115系:初代長野色国鉄の分割民営化以来、従来からの国鉄色を様々な地方色に塗り替えることが行われました。個人的にはこのようなことは好きではなく、蒸機のみの撮影に終始しており、撮影した機会は殆どありませんでした。そんな中、平成6年に長野地区に設定された「SLアップル号」を撮影するために長野を訪れた際、たまたま115系長野色の写真を撮っていました。平成6年11月4日 信越本線 三才~豊野間にて新長野色がかなり出現してきており、当時まだ現役だった165系&169系の旧色を撮りたかったですが、残念ながらこの115系だったわけです。結局165系の同色を撮ることは出来ず、115系もこの1枚だけでした。そのくらい、既に旧色は激減していたんですね。平成10年の長野オリンピック開催を目指して新長野色へと移行され、この後間もなく、初代長野色は消滅しています。
2022.11.12
コメント(0)
183系1000番台:特急「白根」吾妻線初の特急列車として運転を開始した特急「白根」。前回は『157系:特急「白根」』で157系時代をご紹介いたしましたが、車体の劣化の激しさから特急「とき」の181系を置き換える目的で登場した183系1000番台を田町電車区にも投入することになり、昭和50年12月から臨時特急であった「白根」も置き換えることになりました。昭和51年 上野駅にて183系1000番台に置き換わって間もない頃の「白根」。ヘッドマークが文字式の時代です。まだ鉄道の知識も浅い頃だったので、157系でなくなった「白根」は非常にショックな出来事でした。昭和55年冬 東京駅にて 「白根」回送特急「白根」は、157系時代から伝統で田町電車区の車両が使われており、東京~上野間の回送線を通って車両の送り込みが行われていました。写真は東京駅の11番線(機回し線)で、これから尾久客車区へ向かうところのようです。回送列車ですが、既に「白根」のマークが準備されており、もちろん53・10改正後ですので、白根山のお釜をデザインしたマークに変わっています。昭和57年11月13日 大宮駅にて確か、この日がダイヤ改正前の最終運転か、もしかしたら最終前日だったか・・・。157系でなくなったことからショックで写真はあまり撮っておらず、上越新幹線大宮暫定開業のために撮影に行った際、185系化される前にと撮影したもの。ホームには同様の輩が群がる様子が判ります。「白根」という愛称自体は上越新幹線の開業後も存置されたのですが、「白根」は急行「草津」の特急格上げも含めて定期列車となり、本数が増えました。しかし、全ての列車が185系200番台となったため、183系1000番台による運転は終了することになりました。
2022.11.11
コメント(0)
配給回送:クモヤ+クハ481-800+クモヤ国鉄時代末期に撮影した、関東ではかなり珍しい編成の写真をご紹介いたします。撮影日未調査 東大宮~蓮田間にてプリントからのスキャンなので画質が良くないのはご勘弁を。クハ481を挟んでクモヤが回送する写真です。今まで、クモヤ143+クハ481-800+クモヤ143だとばかり思っていました。しかし、改めて見ると、前後はクモヤ145ですね。この時代、関東はATCを搭載したクモヤ143ばかりでしたので、クモヤ145と言えば中京~関西独特の牽引車でした。地元ではまず見られ無い形式です。まだ私が国鉄職員の頃の写真で、クハ481簡易貫通車800番台の改造車を輸送する情報を得て撮影に行ったものと記憶しています。しかし、簡易貫通車はクハ480を名乗っており、特急「くろしお」の電化用として誕生した形式であることから、それは昭和52年頃の話なので、時代背景と辻褄が合いません。今回、改めて調べましたら、状況がなんとなく見えてきました。特急「くろしお」用として改造によって誕生したクハ480でしたが、「くろしお」を全381系化することによって不要となった485系は、福知山線電化によって必要となる特急「北近畿」で活用されることになりました。この際、短編成対応としてCP・MGが未搭載で誕生したクハ480では転用が出来ないため、CP・MG搭載工事を行い、形式をクハ481-800にすることになったようです。その工事を担当したのが大宮工場であることが分かりました。大宮工場は、それまで機関車・客車・貨車の整備を行っていた工場でしたが、分割民営化に備えて電車の改造工事を実施するようになっていたようで、当時は全く知りませんでした。これは大船工場の廃止などの計画を見据えたものだったのかもしれません。写真を見ると、テールランプの状況から大宮を出て北上していることになります。回送先となる関西とは逆向きのため、もしかしたら本線試運転の可能性も否定できませんが、それでしたら牽引車に関西のクモヤ145と伴走する必要もありませんので、場合によると蓮田折り返しで南下という可能性もあります。この点については記録も無く、当時の記憶もありません。クハ481-800は大宮工場によって2両が誕生し、うち-802はクハ183-802へ再改造され、-801は特急「雷鳥」に使用され、廃止されるまで活躍しました。情報の検索が便利になって、今やっとほぼ正しいと思われる当時の状況が見えてきました。この時代にならなければ、誤解したまま保存された情報写真になっていたかもしれません。
2022.11.10
コメント(0)
国鉄 釧網本線:混合列車昨日の記事の前に、こちらをアップしておくべきでした。昭和50年代半ば、まだ高校生でしたが、春休みに北海道へ2年続けて行ったことがあります。それまでは時刻表の中だけの趣味の世界。厳寒に閉ざされた真っ白な大地は、それまで経験をしたことがなかった雄大な、しかも厳しい白い世界。直ぐに魅了されてしまいました。特にローカル線の味わい。何気ない時間つぶしのような流れに、突如として飛び込んできた風景は、それまで生きてきた経験をあっさりと塗り替えてしまうような光景でした。昭和55年3月 釧網本線にて私たちが乗ったのは急行「しれとこ」、キハ22の2両編成でした。運が悪いことに、2両編成で席に座れなかったのは私だけ・・・非常に屈辱的でした。そして、どこの駅かで座れたんですかね。こんなシーンに出逢ったのです。どこの駅だったか全く覚えていません。急行であるこちら側が先に到着し、対向列車をまっていました。最初はただの客車列車だと思っていましたが、なんと、貨車を連結していたんですよね。そう、混合列車との初めての出逢いでした。メチャクチャ動揺しましたね。こんな列車が走っているなんて、全く知らなかったもので。慌てて窓を開け(もちろん、外は氷点下!)撮影した写真です。タブレット区間では、後に到着した列車が先に出て行きますので、急行列車を差し置いて、混合列車が先に出発して行きます。最後尾コトラ45000形かな?無蓋車。無蓋貨車の特徴で、テールランプの引っ掛けが1つしかないので、「目玉のおやじ」よろしく一つ目となります。たまらんですね~。安定したデザインを好む年頃でしたが、この違和感はサイコーの快感に変わりました。当時は気にしませんでしたが、スユニ60も懐かしい。当時はキャノンA-1を持っていったのですが、このカメラ、SPCの反応がやや遅く、半押しなしでシャッターを切ると露出オーバーになってしまうんですよね。しかもリバーサルだったので致命的な写り方になってしまったのですが、今のデジタルはスゴイですね。なんとか見られる写真になりました。98787 TOMIX トミックス 国鉄 北海道貨物列車 (黄帯車) セット(8両) Nゲージ 鉄道模型 【12月予約】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98787 国鉄 北海道貨物列車(黄帯車)セット(8両)
2022.11.09
コメント(4)
根室本線 混合列車:混441レ&混444レ※ 2021/6/23 8:43のリバイバル記事のため、表現が当時のものになっています。今回は写真ネタではないのですが、ちょっと身近で話題になっている時刻表ネタからご紹介します。『国鉄 釧網本線:混合列車&客車列車』において、北海道の混合列車をご紹介したことがありました。資料によると、SL時代にはこの釧網本線だけではなく、石北本線や宗谷本線なども含め、北海道の幹線では至る所で設定されていたようです。私が初めて北海道に行った昭和50年代半ばにおいても、根室本線では混合列車が走っていたようなんですが、当時はそのような情報を知る由もなく、非常に勿体ないことをしてしまいました。今回話題になったのは、その根室本線の釧路~根室間に設定されていた客車列車。これがあまりにもすごい列車なので、写真が無いのが非常に心苦しいのですが、記事にしてみたいと思いました。交通公社時刻表 昭和54年4月号より拝借札幌~釧路間を走っていた夜行急行「狩勝」(のちの「まりも」)から、終点の釧路で接続するように、客車列車の441列車根室行きが設定されていました。時刻表からはその接続を確認するだけに留まってしまわざる得ないのですが、実はこの列車が非常にクセものだったというお話。この列車、他の方の記述によれば、旧型客車2両に郵便車1・荷物車1を合わせた4両編成が基本となっていたようです。しかも、その編成は、急行「狩勝」から寝台車をすべて外したものがそのまま根室に行くらしく、言い換えれば根室行きの急行「狩勝」と言ってもおかしくないわけです。ただ、その1本前に急行「ノサップ」が接続していますので、旅行客は何もこの遅い列車を選択することはないでしょう。逆に、この441列車は、途中から通学客でかなり乗車率が良かったようです。そしてこの郵便車+荷物車ですが、隅田川から青函連絡船に乗り遥々とやって来た長距離ランナーで、急行「ニセコ」から引き続き「狩勝」となり、441レとなって根室まで来ていたというのだから凄いですね。さらにもう一つ、最大のサプライズはこの列車に「北海ライナー」のコキ10000が2両連結されていたということ。ただし、441レの記録があるのか、上りの444レだけだったのか、この辺りは調べきれませんでした。100km/hの高速で走ることのできるコキ10000が、最果ての地で混合列車となって根室までやって来ていたというのは想像できませんでした。北海道に何回も通っていながら実物を見ることができなかったのが非常に残念でなりません。まあ、過去のことを今更悔やんでも仕方がないので、こんな良いネタをどうしたいか?と考えた時、真っ先に模型で再現できるじゃないか!となる訳ですね。実編成の写真を色々と見てみたいと思うのですが、この根室本線の混合列車に関してはあまりHITしないんですね。コキ10000は連結されていても2両だそうですので、もうちょっと貨車を足しても有効長に収まりそうな感じです。北海道らしさということであれば、レム5000やトラ、石油系のタキとかでも良いかもしれません。なかなかレアモノだったんですね。98787 TOMIX トミックス 国鉄 北海道貨物列車 (黄帯車) セット(8両) Nゲージ 鉄道模型 【12月予約】[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98787 国鉄 北海道貨物列車(黄帯車)セット(8両)コキ10000形(コンテナなし)【TOMIX・2757】「鉄道模型 Nゲージ トミックス」A3158 コキ10000 登場時 コンテナ5個積 2両セット[マイクロエース]《02月予約》[鉄道模型]マイクロエース (Nゲージ) A3158 コキ10000 登場時コンテナ5個積 2両セット
2022.11.08
コメント(2)
485系リゾートやまどり:快速「ググっとぐんまやまどり」平成25年10月5日、485系リゾートやまどりを使用した快速「ググっとぐんまやまどり」が運転されました。遡っての記憶はありませんが、上野発の快速で桐生行きという設定は珍しいように思います。天気が悪いにもかかわらず、車内を見ると結構な乗車率であり、浦和・大宮からの乗車を考えると満員御礼だったかもしれません。平成25年10月5日 9833M 臨時快速「ググっとぐんまやまどり」かなり天気が悪いので、画質も荒れてしまいました。ヘッドマークは「臨時」です。リゾートやまどりもヘッドマークがLED化されて以来、手を抜いた表示しかしなくなりましたね。せっかく気の利いた愛称を付けているにもかかわらず、どこにも出てこないのは非常に残念です。
2022.11.07
コメント(0)
旧型国電 牽引車:クモヤ22112クモヤ22は国鉄時代に使用された職用車で、主に電車の牽引車として使用された車両です。20m級のクモヤ90に対し、17m電車の改造等により牽引車としたものにクモヤ22の形式が与えられ、種車の違いから0番台、100番台、110番台、150番台、200番台が存在しました。首都圏における牽引車はほぼクモヤ90となっており、クモヤ22は中京~関西圏に配置されていたようです。そのため、私自身はまったく遭遇機会のない形式でした。そんな中、1度だけクモヤ22に遭遇したことがあります。昭和58年6月29日 浜松工場附近にて クモヤ22112クモヤ22112は、運転台無しのモハ10を両運転台に改造しクモヤ22となった車両で、晩年は浜松工場で牽引車として使用されていたようです。しかし、鉄道ブームに乗って旅客用に復元、クモハ12041として飯田線を走りました。本来、クモハ12としては仙石線に存在した12040がラストナンバーとなりますが、元々クモヤ22112はクモハ12としての原番号を持たなかったため、このラストナンバーの追番号を名乗っていました。事業用車然とした前面に「クモハ12」としての風格は感じられず、違和感アリアリであったことも原因となり、大好きな飯田線にはまったく訪問することはありませんでした。
2022.11.06
コメント(0)
E653系勝田車:臨時特急「とき」E653系勝田車:団体列車「リバイバル特急ひばり」号に続き、同じく勝田車を使用した臨時特急「とき」が上野~新潟間に運転されました。E653系 特急とき 運転「ひばり」の時は団体ツアーだったのですが、今回の「特急とき」はJR東日本が設定した秋臨として一般発売されています。11月3日(祝) 9079M 上野 8:30 新潟13:4711月6日(日) 9078M 新潟12:46 上野17:35通常であれば日帰りダイヤか土日で1往復が一般的ですが、今回の設定は平日1日を挟んだ4連休客を狙っているようです。働き方改革の表れでしょうか?直流型電車で運転されていた特急「とき」に交直流型を充てるというのは無理過ぎですが、JR東日本ではすべての国鉄直流型特急電車が引退した今となっては致し方なしと言うところでしょう。E653系勝田車 9079M 臨時特急「とき」この時間の設定は大逆光であり、E653系だけを撮ってもヘッドマークがある訳でも無し、どのように撮るか困りました。結果、再開発事業が再開されて変貌するであろう蕨駅方面の景色を入れたほぼ風景写真としてみました。右端に写っている空地は工場があって、洋品のリサイクル市のようなことをやっているのを見掛けましたが、いつの間にかなくなってました。昭和57年 181系 上り特急「とき」(再掲)アングルは違いますが、蕨駅付近の写真。今では本線のみ6本と一部残存した留置線(保線車両用)のみとなった蕨駅も、昭和59年2月の貨物大削減までは貨物営業を行うそこそこの規模の駅でした。その昔はさらに日本車両蕨工場もあり、相当賑わっていたことでしょう。
2022.11.05
コメント(0)
国鉄 クモヤ191系:架線・信号回路試験車クモヤ191系は、国鉄初の新性能架線・信号回路試験車として、昭和47年5月に181系の改造により誕生しました。種車は、クモヤ191-1がサハ180-5、クモヤ190-1がモハシ150-11です。架線試験のほかにも、ATSや踏切回路・信号回路など、様々な電気系の検測が可能な車輌です。外観は当時流行の特急型に準じた高運転台のスタイルですが、前面はフラットになってやや中途半端な感じがします。おそらく種車が中間車のため、台枠との合わせや車体長を考慮した結果でのことでしょう。lineさんご提供写真これは津田沼電車区ですかね?面子的には停留線ではなく留置線のようです。101系の試運転やクモヤ90も懐かしいです。191系も登場して間もない頃でしょうか、かなりキレイに見えます。lineさんご提供写真 クモヤ190-1元ビュッフェであった窓の特徴を良く残しており、大変貴重な資料となります。公式側では種車にあったセンターのドアが残存していますが、非公式側では機材搬出入用の出入り口に改造されてしまっているようです。昭和52年頃 宇都宮運転所にて クモヤ190-1+クモヤ191-1この写真は、休車中のEF57に逢いに行ったとき、偶然に宇都宮運転所に来ていたところを捉えました。(配置は田町電車区。)田町電車区では同車がお休み中のところを何度も見掛けていますが、写真を撮ったのは残念ながらこの時の1回限りでした。山手線・京浜東北線のATC化により検測が出来なくなってしまうため、後任にクモヤ193系が新造されています。クモヤ193は、ATC導入前の昭和55年に製造されており、クモヤ191が廃車になったのが昭和58年頭ですから、1年強の間は2編成で同居していたということになります。種車時代を含めればそれなりの年月を走行したことになりますが、それでも20年強という期間から考えれば、181系自体が比較的短命に終わった形式ということになりますね。
2022.11.04
コメント(0)
181系(元161系):特急「とき」今回は、181系「とき」の中から元161系改造のクハ181-40番台を先頭車とする編成の写真が3枚ほどありますのでご紹介したいと思います。161系は、昭和37年に上越線特急「とき」用として、151系こだま型を踏襲して製作された特急用車両です。151系による試験走行の結果から151系とは足回りに違いがあり、ギア比は157系と同様に設定されたようです。1編成分9両と予備車6両の総勢わずか15両という小世帯の形式となりました。151系との最大の違いは、スノープラウ取り付けに伴って短くなったスカート、上越国境越えの連続勾配に備えた勾配抑速ブレーキの装備、そして、それを識別するためのボンネットへの帯が入れられたことです。その後、151系・161系の全ての車両を出力アップする計画により、181系へと改造されることになります。元161系の車両は40番台として181系に編入、製作中に161系→181系と変更された3両についてもベースが161系であったことから、161系を名乗ること無く181系40番台として新製されました。ちなみに、オリジナルの181系は全て100番台として誕生しています。昭和52年頃 御徒町駅 電留線にて粒子が良くなくて車番が曖昧です。台車のTR58とスカートのタイフォン形状で40番台の識別が可能です。昭和53年頃 西川口~蕨間にて クハ181-44車番が確認できた車両です。44番は、前述のとおり181系化計画後に落成した車両であるため、161系スタイルのまま181系で誕生した希少な車両です。外観は161系の先行落成車と全く同じスタイルになっています。昭和56年5月 蕨~西川口間にてヘッドマークがイラストとなり、1年半後には上越新幹線大宮暫定開業が迫った晩年のころの写真です。正面がちで車番の確認は不能ですが、外観の特徴から明らかにクハ181-40番台であることが判ります。後にはモロ181・180改造のモハ181・180-200番台が続いており、中間の481系転用サロとあわせて最後を凌ぐ苦心の編成であることが分かります。追加生産を合わせてもわずか18両という小世帯の形式でしたが、クハ181-45が鉄道博物館に収蔵され往時を偲ぶことができます。上越形オリジナルとして誕生した唯一の特急車両であり、数的にも希少な車両が保存されていることは、何物にも代え難い幸運であると言えるでしょう。
2022.11.03
コメント(0)
183系幕張車:快速「ムーンライトえちご」新宿~新潟間を結んでいた臨時夜行快速「ムーンライトえちご」ですが、平成22年3月のダイヤ改正により、臨時化された急行「能登」に485系新潟車を運用することとなったため、幕張区の183系が使用されるようになりました。しかし、平成24年3月の改正では臨時急行「能登」が廃止されることになり、改正前日の3月16日の運転を最後にまた新潟車のK編成による運用に持ち替えが行われることになりました。平成22年8月17日 新宿駅にてその走行時間帯から、撮影が難しい快速「ムーンライトえちご」。偶然に遅くまで残業した時でもないと、このように姿を捉えることはできません。これも、帰り道で偶然に見つけ、ケータイで撮影したものです。平成22年4月29日 平成23年4月30日いずれも東大宮へ戻される快速「ムーンライトえちご」の回送。快速「フェアーウェイ」としての出番が無くなり、夜まで昼寝するだけの運用となりました。せめて、ヘッドマークを掲出してくれたまま回送してくれると良かったんですが・・・。485系新潟車の動きに翻弄され、たった2年間のみで終ってしまった幕張車による「ムーンライトえちご」でした。
2022.11.02
コメント(0)
183系1000番台:特急「とき」(遠征編)「とき」は、言わずと知れた上野~新潟を結ぶ特急列車。『183系1000番台:特急「とき」(地元編)』に続き、遠征して撮影していた183系1000番台の写真からご紹介いたします。昭和57年1月5日 八木原~群馬総社間にてこの頃は景色を重点に撮る写真が多かったです。柱ド~ンさえなければ結構お気に入りのアングルなのですが(笑)。昭和57年1月5日 八木原~群馬総社間にて写真はリバーサルからのダイレクトプリントをさらにスキャンしたもので、退色した写真と言うわけではありません。ヘッドマークがイラスト化された際、多分ですが、1編成だけハッキリ黄緑と言えるヘッドマークを搭載した編成があったのです。写真はバリ順で色が定着してしまっているので、緑が薄ボケたように感じますが、夜間にヘッドマークの行灯が点ると、明らかな黄緑色となります。昭和57年9月6日 土合~越後中里間にて遠征でスキー場に無断で登って撮った写真。(すみません。)これだけの大俯瞰だと、12両編成の「とき」も短く見えます。時間帯が悪く、181系の写真は撮れませんでした。昭和57年11月6日 上牧~水上間にて利根川の上流「諏訪峡」を行く183系1000番台「とき」。紅葉にはちっと遅かったようで・・・。昭和57年11月6日 湯檜曽~水上間にて天気も良くないようで、スッキリしない写真ですね。ここの鉄橋は水上駅から徒歩で10分くらいで行けるので、もっと撮っておけば良かったなと思いました。この日の撮影の帰路では、181系として最初で最後のさよなら乗車をしてきました。昭和57年11月14日 上野駅にてところ変わり、上野駅にてこちらは183系1000番代も含め特急「とき」として最終になった日。他にも多数の列車が愛称を消すことになり、多くの鉄道ファンで大混乱となりました。右側に写っているのは、同じ日に消滅した寝台特急「北星」です。翌日からは、上越新幹線「とき」に生まれ変わります。
2022.11.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1