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489系非貫通型:特急「白山」(53・10改正後)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。同時に、181系により輸送力が不足していた特急「あさま」に対しても、一部列車ながら489系による共通運用で輸送力を確保しました。今回は、特急「白山」の昭和53年10月改正以降の非貫通型の写真を並べてみます。昭和54年 蕨~西川口間にて クハ489-700番台こちらは53・10改正後にイラストマーク化された「白山」。毎度ながらの定点写真です。昭和54年8月 上野駅にて クハ489-300番台こちらは、上野駅到着後、『据付け』と呼ばれる上野~秋葉原間の電留線に引き上げる「白山」を撮影したもの。181系「とき」や189系「あさま」など、高架ホーム発着の電車は尾久客車区に引き上げずに、同区間の電留線に引き上げるパターンが多かったですね。昭和56年 蕨駅にて 489-700番台「白山」と 165系「よねやま」ちょうどピッタリとすれ違いましたね。165系は編成が写っていませんが、列車番号から急行「よねやま」であることが判りました。東北・上越新幹線の開業前は、優等列車街道(過密地帯)の同区間でありましたから、このようなすれ違いは茶飯事だったでしょうね。今では優等列車がほとんどなくなってしまいましたが、その分普通列車の本数が格段に増加したため『カブった!』ってことは未だに良くありますが。本数的には3往復(廃止末期は2往復)走っており、「白山」の写真を捉える期間は少なくなかった筈ですが、何故か200番台も含めて、写真を撮った枚数は極端に少ないような気がします。ボンネット車が好きだったということもあるのでしょうが、実際の運用数もボンネット型の方が多かったのではないかという気がしてなりません。
2024.10.31
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茨城交通 キハ200形:キハ201茨城交通湊線の時代、同社には元国鉄のキハ20形が5両在籍していました。冷房改造されて最後まで残っていたキハ205(形式はキハ20形)が間もなく引退等あるようですが、他のキハ200形4両は既に廃車されています。廃車されたうちの1両であるキハ201は、廃車になってからも阿字ヶ浦駅に留置され、海水浴時の更衣室として使われていたそうです。※撮影は、平成18年4月30日、茨城交通阿字ヶ浦駅にて。キハ201は、国鉄から鹿島臨海鉄道を経由して茨城交通にやってきた車両で、鹿島臨海鉄道時代にヘッドライト及びテールランプが妻板ボックス化改造されており、前面の印象がオリジナルとはかなりかけ離れています。そんな印象のギャップが、写欲をそそられなかった原因でもあったと思います。キハ200形は冷房改造がされておらず、ワンマン化も行われていなかったため、この写真が撮影された平成18年までにすべて廃車されたようです。定期運用撤退からさほど時間が経っていないにもかかわらず、海が近いせいか痛みが酷く見えます。同車は平成21年まで使用され、3月に解体されてしまったということです。
2024.10.30
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国鉄・JR貨物:EF651040(EF652040)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651040(EF652040)です。1040号機は、昭和46年度に誕生した増備車で、昭和47年1月14日に落成しています。先日ご紹介いたしました1036号機や1037号機とは年次が異なりますが、やはり宇都宮運転所に配置に始まり、その後田端機関区を経て民営化後にはJR貨物所属となったのは同様となります。それまでの初期車は扇風機の搭載が無かったため、前面に通風孔が残るタイプとなっていましたが、この年次車からは扇風機が搭載されたため運転室上センターに出っ張りが出現し、前面の通風孔が廃されたスタイルとなりました。やはりナンバープレートは途中からブロック式になったようです。初期車の中では後期の車両となりますが、大型のPS17型パンタグラフを搭載した車両として、1036号機、1037号機、1050号機と共に2000番台化された希少な存在でした。※1050号機は、2000番台化前にPS22Bに換装されていた。平成23年11月12日 3055レ2000番台化される前に撮影した1040号機。他の初期車と同様、何故か1カットだけ確保できていた感じでした。平成24年10月5日 4094レ平成24年10月6日 7070レ平成26年5月17日 8050レ未更新車ということで、他の初期車と同様にブロック式の青プレートとなっていました。1050号機とは違い、PS22B化されることなく活躍していましたが、やはり未更新ということで平成27年度には除籍となってしまいました。
2024.10.29
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茨城交通 初代キハ11:キハ111~キハ113現在はひたちなか海浜鉄道湊線となっていますが、平成20年3月31日までは茨城交通が経営していました。今では殆どが新しい車両に置き換えが行われましたが、茨城交通晩年までは昭和30年代製造の国鉄や私鉄から払い下げを受けた車両ばかりが走っていました。昔は国鉄の路線や列車の写真を撮るのが精一杯で、地方のローカル私鉄までは手が回らず、訪れる機会もなかったのですが、国鉄時代に殆ど撮ることができなかったキハ10系が茨城交通に残っており、また、これらの車両が置換えになるということで、初めて同線を訪れました。平成7年11月25日 キハ112+キハ113平成7年11月25日 キハ113+キハ112茨城交通では、国鉄での役目を終えたキハ11型を3両購入しており、これもまた老朽化で引退することになったようです。後継車の導入は1両ずつ徐々に行われることになり、最初の廃車予定となったのがキハ113でした。その引退に合わせ登場時の青塗装に復元されたため、どうしても実車を見ておきたくなり、同線を訪れたものです。さようなら運転となったために日中は増結の2両運用となり、茨城交通塗装のキハ112とのペアで走りました。キハ113は、塗装変更後わずかで廃車になってしまいます。平成8年5月3日 キハ112+キハ3710キハ113がさようなら運転から直ぐに引退となり、キハ112が国鉄気動車の標準塗装となって走り出します。まさに自分がリアルに見てきた姿だけに心が躍り、翌年もまた同線を訪れました。この時は導入されたばかりの3710形との2連となりました。キハ112はその後も長く使用され、引退後にJR東日本が譲受し、大宮の鉄道博物館で復元の上保存されているのはご承知のとおりです。平成8年5月3日 キハ111+キハ223もう1両残っていたキハ111は、キハ113の後を継いで登場時の塗装が復元されました。この2両は同時期に存在したため、日によってはキハ11形2両で運用されたこともあったようです。キハ111は、廃車後に映画ロケに使用され、その際に解体されてしまったそうです。平成21年8月22日 キハ113→キハ48036廃車になったキハ113は、なんとJR東海が譲受し、佐久間レールパークにて登場時の塗装のまま保存されることになりました。佐久間レールパーク閉館の際に解体の危機もありましたが、再整備の上リニア・鉄道館に収蔵されることになりました。さすがにこの年代の気動車は既に限界を超えており、現役で動かすのは酷ですが、古き良き時代の姿のまま保存されていることをうれしく思います。
2024.10.28
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西武鉄道:ラッピング電車「DORAEMON-GO!」西武鉄道では、2020年に『ドラえもん』がコミック連載開始から50周年を迎えたことを記念し「DORAEMON-GO!」を同年10月8日から運転していました。そこから4年が経過した令和6年9月、同ラッピング電車が運行を終了することとなりました。公式PDF ラッピング電車「DORAEMON-GO!」運行終了のお知らせ同ラッピングは38101編成に施工され、西武新宿線で運転されていました。普段の通勤で埼京線と並走していますし、女房の実家も西武新宿線の踏切を通ったりしますので、何度も目にする機会はありました。しかし、写真となるとなかなか難しいです。※撮影は、令和6年6月14日、下井草駅付近にて。午前中の現場が終り、移動するため下井草駅に来ました。ちょうど踏切が下りてしまって待たされると、偶然にもドラえもんラッピング電車がやってきました。慌ててカメラを出し、発車して暗がりから出てきたところをGET。後部はロケーションが良くないのですが無理やり撮ろうとしたところ、ポンコツカメラのピントが合ってくれず、最後部に到達する前にシャッターが下りてしまいました、さらにその後もピントが定まらず終了・・・。昨年、今年と新宿線方面の現場が少なく、運転終了も知りませんでしたので、結局はこのショットが最初で最後となってしまいました。車内まで仕込みがあったようだったので、乗って記録を撮りたかったですね。
2024.10.27
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西武鉄道 E851牽引12系客車:さよなら運転西武鉄道に在籍した、私鉄最大の電気機関車E851。初めて見たのは中学生のオリエンテーリングの時でしたが、その時以来、好きな電気機関車でした。しかし、昭和の時代は国鉄の写真を撮るだけでも精一杯。モタモタしている間に貨物輸送は急速に減退し、比較的新しい機関車であったE851もまさかの引退となってしまいました。結婚前、西武の社員となった同級生や、その先輩、さらにそのお友達との付き合いが濃く、最後のE851を撮りに行く機会がありました。※撮影は、全て平成8年5月26日です。西武秩父線 東吾野~吾野間にて西武秩父線 吾野駅発車E851の廃止にあたり、貨物機であった同機に最後の花道として、JRから12系客車を借り入れという大胆な企画。私の古くからの友人でもある西武鉄道の社員でテツ分の強い方たちが企画したようです。まだ私たち夫婦に子供ができる前で、女房と2人して出掛けました。何故かこの時は川越線~八高線経由で現地入りしています。始発から見届けてはいなかったので、E851が重連で12系客車を牽く姿に興奮したものです。横瀬駅構内にて横瀬駅の構内は、貨物ヤードを利用した、さながら西武鉄道博物館のようになっており、かつて活躍した輸入払い下げ古典電機たちが展示されています。この広い会場では、主役となるE851+12系客車が展示され、誰にも邪魔されずにキレイに撮れるように配慮がなされていました。往路はヘッドマーク無しでしたが、展示と復路は「さよならE851」のヘッドマークが掲出されました。横瀬駅には旧塗装の101系も当たり前のように停まっていますが、今となっては懐かしい光景です。横瀬駅構内にてE33+E34とともに整備線に並ぶシーン。良く覚えていませんが、E851形の4両全機が集結していたと思いました。悲しいことに、E851形は正面にナンバーが無いので、どれがどの番号か分らないのが泣き所です。西吾野~吾野?撮影場所の記録が無いのですが、この方向のカーブに該当する場所がこの区間しかないようです。復路は前述のとおりヘッドマークが装着されており「最後」の行路であることを強調しているようです。撮影場所が見つからなくて、しかも日陰で暗かったこともあり、ややブレ前ピンと無様な写真になってしまいました。飯能駅にて飯能駅ではスイッチバックとなるため、方向を変えるための入換が行われます。後続の電車に乗って充分間に合いましたが、さすがにイベントとあってキレイに写真を撮るのは困難。いつの時代も執着テツに行く手を阻まれます。ホームの無い側線での入換なので、構図的には余裕があります。ここからはプッシュプルになったんですかね。記憶は無いのですが、先頭は単機になっており、その横にもさらにE851形を並べるという大サービス。西武職員のファンへの対応、こだわりに拍手です。その大きさが故に引き取り手が無く、その寿命を早めてしまったE851。中学生のオリエンテーリングのときに初めて見た、丸窓の赤いEF65Pのような姿に憧れた、この機関車が存在したことは一生忘れることは無いでしょう。
2024.10.26
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EF6438牽引:寝台特急「あけぼの」寝台特急「あけぼの」は、平成21年3月ダイヤ改正で、それまで牽引に当たっていたEF81からEF64に運用が変わりました。「あけぼの」の牽引には高崎区から異動したEF64の一般型が充当されることになり、茶色の37号機とともに今回ご紹介いたします標準塗装の38号機が牽引にあたることになりました。平成21年4月19日平成21年5月3日 北浦和駅にて平成21年5月5日平成21年5月9日平成21年6月27日平成21年7月19日平成21年10月3日冬場は撮影条件が良くない上、さらに雪害・風害による運休も多かったようでした。さらに、異動した当初からトラブルも多かったようで、茶色の37号機と比較して、出逢う機会が少なかったように思います。登場時からほとんどブルトレを引く機会のなかったEF64初期車。ヘッドマークステーさえ装備していなかった同車が得た晴れの舞台でしたが、寝台特急「北陸」の廃止とともに1000番台の運用に差し替えられ、その華やかな期間はたった1年のみに終わってしまいました。EF65牽引 20系寝台客車:寝台特急「あけぼの」EF81青森機牽引:寝台特急「あけぼの」ED75700番台牽引:寝台特急「あけぼの」EF6437牽引:寝台特急「あけぼの」EF65PF重連牽引:臨時特急「あけぼの52号」返却回送
2024.10.25
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国鉄 EF13形電気機関車EF13は、昭和19年に誕生した戦時設計の直流型電気機関車です。局面を凌ぐため、徹底した簡素設計となっており、電気機関車の中でもっとも曰く付きのカマと言えると思います。製造は戦中から戦後に掛けて行われ、EF15の製造の前までに31両が誕生しました。特徴のある凸型をしていましたが、戦後間もなく誕生したEF58が暖房装置を搭載する改造に伴って車体の載せ替えを実施するあたり、不要となる車体数が丁度31台あたために、この全てがEF13に流用されることになりました。私の世代では、もちろん凸型の車体を見たことはありません。写真をそこそこ撮り始めたころは既にEF13も活躍末期となっており、それほどの枚数は撮っていませんでした。今回は、私が撮影したEF13のうち、番号の判るものを掲載いたします。昭和53年8月頃 新宿駅にて EF132新宿駅の中線(待避線?)に停車中のEF132号機です。EF13の活躍も末期の頃、地元では何枚か撮った写真がありましたが、みんな広角レンズで、しかも条件が悪い時に撮ったものが多いらしく、まともに見られる写真がありません。そんな中、やっと標準レンズを手に入れた頃でしょうかね。私の撮ったEF13で唯一キレイに撮れていたものです。2号機は、戦時中の昭和19年11月21日に誕生、日立製。所属はあまりにも転々としているので割愛しますが、昭和52年に八王子、53年の9月に立川に配置となり、同年の12月9日付で廃車となっています。ボディーはEF5823号機のものを搭載していたようです。写真は新宿駅で撮影されていることから、立川機関区に転属になる寸前くらいに捉えたものと考えられます。この3ヵ月後には廃車になってしまったわけですから、ギリギリセーフのところだった訳ですね。昭和52年頃 EF1355号機は、昭和20年3月26日に誕生、日立製。最終が新鶴見区の配置で、昭和54年9月13日付で廃車になっています。ツララ切りが角ばり、他車よりも高い位置に付いており、EF13の中でもズバ抜けて特徴のある顔をしていました。昭和52年頃 EF132323号機は、戦後の昭和21年11月6日に誕生、日立製。最終が新鶴見区の配置で、昭和53年10月20日付で廃車になっています。昭和52年頃 EF132828号機は、昭和21年1月31日に誕生、東芝製。最終が新鶴見区の配置で、昭和53年5月29日付で廃車になっています。昭和52年頃 EF1329単機29号機は、昭和21年1月31日に誕生、東芝製。最終が新鶴見区の配置で、昭和53年11月9日付で廃車になっています。貨物用機関車のEF13ですが、昭和30年代頃には中央東線で普通客車列車も牽引していたようです。もちろん暖房装置を搭載していませんので、冬はマヌ34等の暖房車を連結する必要がありました。まだ一眼レフを手に入れたばかりの頃で、殆どまともな写真を残すことが出来ませんでしたが、それでも地元を走っていた記録が何枚かでも残すことが出来て良かったと思います。
2024.10.24
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京成電鉄 新AE:スカイライナー50周年京成電鉄の有料ライナーとして活躍する「スカイライナー」が運転開始から50周年を迎えたそうです。成田空港の開業が大幅に遅れ、初代AE 車は空港特急としての目的が殆ど達成できない状態だったのですが、外国からの観光需要拡大や、競合JRの不便さ、旧新幹線用地の利用によるスカイアクセス線の開業などの追い風の元、成田アクセスに関しては敵なしの成長を遂げました。2024年3月、スカイライナー50周年と5000万に利用達成が重なり、新AE車各1編成に記念ラッピングを施して運転が行われています。撮影に集中する気もなく、出会いも特になかったのですが、この度偶然にも捕捉できましたのでまとめておきたいと思います。※撮影は、令和6年10月18日です。青砥~お花茶屋間にて集合時間に1時間も早く着いてしまい、喫煙所と線路際を往ったり来たりしていた時、カメラを出していないタイミングで撮り逃してしまったラッピング編成。午前中の仕事が早めに終わったために線路際に居たところ、偶然に撮ることができました。堀切菖蒲園~お花茶屋間にて午前中が早く終わってしまったので時間はたっぷりあります。この日は他にもレアな車両たちを目撃していたため、上野折り返しも狙ってみました。同じ場所では反対向きのアングルが撮れないため、堀切菖蒲園方へ移動。側面に旧AE車のステッカーがあったことを思い出し、慌てて側面も。せっかくの機会でしたが、とにかくコンデジがいい加減な動きをする上、天気が悪い中でISO爆上がり。勿体ない仕上がりになってしまったのが残念です。
2024.10.23
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国鉄・JR貨物:EF651036(EF652036)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651036です。1036号機は昭和45年度に誕生した増備車で、昭和45年8月26日に落成しています。国鉄時代は宇都宮運転所に配置となり、その後田端機関区を経て民営化後にはJR貨物所属となりました。他のPF初期車が次々と廃車になる中で、比較的に最後まで残った初期車として有名でした。特にこの年度の個体までは扇風機の搭載が無かったため、前面に通風孔が残るタイプとして稀少でした。また、ナンバープレートは途中からブロック式になったようです。その中でもこの1036号機と次にご紹介予定の1037号機は、新たな保安装置を搭載した車両の番号を識別のための2000番台化されることになり、2000番台の最若番車として活躍しました。平成23年6月4日 3055レ2000番代化される前に撮影した1036号機です。まだそれほど原色ではないEF65の写真を撮っていなかった頃で、結局はこの写真が同号機1000番代時代唯一の写真でした。平成24年10月20日 7071レ平成25年9月17日 2073レ平成26年7月23日 2085レ平成26年8月3日 遅3070レ平成24年度から2000番台となりましたが、平成27年度から地元におけるPFの定期スジが壊滅状態となってしまったため、記録は平成26年で途切れてしまいました。同機も未更新車であったことが災いし、他の未更新機と同様に平成27年度には除籍となってしまいました。
2024.10.22
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20系寝台客車(ナハネフ):寝台特急「あけぼの」上野~秋田・青森を結んでいた寝台特急「あけぼの」。登場時から20系寝台客車により運転されており、20系が老朽化により廃車にある中で、最後まで定期特急列車として運転された寝台特急として歴史に刻まれています。子供の頃から20系が大好きで、身近な線路を走る20系寝台特急である「あけぼの」が大好きでした。まだ中学生くらいの時に撮った写真が中心ですが、今回は20系寝台客車のうち客車部であるナハネフ22及びナハネフ23に絞ってご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて ナハネフ22 「あけぼの」の並び昭和50年代の上野駅では、上信越・高崎線が上のホーム、東北線は地平ホームの仕切りがありましたが、いくつかの例外もありました。下りの「あけぼの」は地平ホーム発ですが、上りは高架ホーム着で、時間が近いため隣同士で並ぶシーンが毎日展開されていました。おそらく、早朝の地平ホームは、常磐線の夜行列車が多数到着しているため、本数の多い東北スジの夜行を飲みきれなかったんでしょうね。その割には「越前」が地平ホームに到着していたりしましたが・・・。昭和52年3月頃 上野駅にて ナハネフ22とナハネフ23の並びこの頃になると、20系の特急列車からの撤退、急行への格下げ、状態の悪い車両の廃車など、動きが顕著になってきました。それが影響してか、本来は中間に封じ込められて、首都圏では末端に顔を出すことがなかったナハネフ23が付属編成にも登場するようになりました。昭和52年3月頃 上野駅にて ナハネフ23上の写真のナハネフ23をチューボーカットで撮影したもの。ナハネフ21「日本海」に会って以来、この顔の虜になってしまっいました。このピンク色に染まったテールマークに極限の魅力を感じました。昭和55年頃 大宮駅にて ナハネフ23)久し振りに撮ったナハネフ23「あけぼの」でしたが、異常なほど真っ赤なテールマークに違和感を感じました。もっとほんのりした色だったような・・・。朝6時くらいで真っ暗なところを見ると、冬場に撮った写真のようですね。昭和55年3月 青森駅にて ナハネフ23こちらは初めての北海道撮影行で乗り継ぎの際に撮影したもの。青森着の「あけぼの」は、途中秋田駅で付属編成を落としてきますので、必然的にナハネフ23が顔を出すことになります。逆にナハネフ22は撮影できないと言うことですね。写真のテールマークはひらがなが白地、ローマ字が赤地でガチャ目になっています。ひらがなの方は書体がおかしいので、盗難にでもあって手作りで作ったものでしょうか?だとしたら悲しいことですね。こうして見ると、一番撮影できた筈のナハネフ22が殆どありませんでした。「いつでも撮れる」ヤツはいつもこうなっちゃうんですね。「あけぼの」の20系は昭和55年10月まででしたので、最後まで残った特急運用ではありましたが、私的にはそれでも高校2年生だったことになりますから、有名撮影地などで走行写真を撮ったりするのは厳しい状況でした。結果的に駅撮り写真ばかりとなってしまいましたが、大好きな20系客車を間近で見ることが出来て、記録に残すことが出来ただけでも満足に思います。
2024.10.21
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国鉄・JR東日本:EF651017EF65PFシリーズで、今回はなつかしい国鉄時代とJR化直後のEF651017です。1017号機は、昭和44年11月29日落成の1次車に該当します。他の初期車と同様に新鶴見機関区に投入後、宇都宮運転所に配置されますが、3次車が導入された昭和45年頃に一時的に下関運転所へ異動したようです。その後、比較的早い時期にPF形は宇都宮運転所に集中配置となり、一時期は東海道・山陽のブルトレ牽引をしたことのあるPFも関東に戻ってくることになり、東北本線を中心とする運用に使用されるようになりました。なお、1017号機は、2次車や3次車とともに下関時代にナンバープレートがブロック化されたのも外観上の特徴となっています。昭和54年頃 蕨~南浦和間にて EF651017牽引 「北海ライナー」1017号機が牽引する下り「北海ライナー」です。牽引されるコンテナ車はもちろんコキ10000系で、東北本線で最も優先された貨物列車です。コキ10000系では、空気バネ台車等の使用により多くのエアを供給する必要があることから、東北本線ではPF形やED751000番台による牽引が固定されていました。昔はこの区間も背の低いコンクリート柵となっており、どの位置からでも写真を撮ることができました。昭和63年11月14日 栗橋~東鷲宮間にてEF651017牽引 団体列車「オリエント・エクスプレス '88」民営化により、1017号機はJR東日本に継承され、当時はまだ多数残っていた客車ジョイフルトレインや12系化以降の急行列車の牽引にも使用されました。外観は国鉄時代のままで、側面にJRマークが貼付された程度の変化となっています。そして、当時の一大イベントとなったオリエント急行の牽引にも充当されました。※「オリエント急行」に関してはリンク先をご覧ください。同機は、宇都宮運転所に戻って以来、関東を離れることなく客車列車の牽引に活躍し、平成8年11月17日に除籍となっています。
2024.10.20
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小田急電鉄 7000形LSE:特急「スーパーはこね」※本記事は、2013-10-15に投稿したもので、当時の表現になっています。小田急電鉄のロマンスカーも世代交代が進み、HiSEやRSEがなくなって寂しくなったものです。現在の最優等スジとしてVSEが優先して「スーパーはこね」に運用されるわけですが、検査の都合により時として7000形LSEが充当されることがあります。普段利用しない私鉄にあって、このような機会を捉えるのは大変難しく、まして現場仕事のなくなった今となっては偶然に捉えることなどまず考えられません。今回、LSEが代走する事前の情報があったため、この機会を逃すわけにはいかないと思い、連休中でありながらも通勤駅となっている新宿まで出掛けてきました。※撮影は、平成25年10月12日です。南新宿~参宮橋間にて 7000形LSE「スーパーはこね」ワンポイントで1枚だけの写真。今まで会う機会もなく、やっとのことで撮影することができました。VSEもカッコいいと思いますが、昔ながらのロマンスカー色で、LEDや液晶のような撮りづらいヘッドマークではない、昔ながらのスタイルがやはり良い。
2024.10.19
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489系:特急「あさま」「あさま」は、上野~長野・直江津を結んでいた特急列車。181系によって運転を開始しましたが、碓氷峠を通過するに当たり8両までという編成両数の制限がネックとなっていました。これを解消するため、165系電車によるEF63との協調運転の試験が実施され、その成果からまずは489系が落成、金沢行きの「白山」が誕生するとともに「あさま」にも使用されるようなりました。特急「あさま」の使用車両はあくまでも189系が中心であり、489系編成は2~3往復程度であったと記憶しています。「白山」との共通運用であったため食堂車が連結された時期もありましたが、食堂車は営業していませんでした。昭和51年 上野駅にてまずはボンネット篇です。ボンネット車用のヘッドマークは181系と共用で使用されていました。昭和52年 上野駅にてこちらは連結器むき出しの500番台。ヘッドマークには2種類のフォントがありました。昭和52年 上野駅にてこちらはタイフォンがスカートに付いた初期タイプ。一時期、屋上のホイッスルカバーの外された車両が存在しました。昭和54年5月 蕨~西川口間にて クハ489-353・10改正でヘッドマークのイラスト化が実施されました。ボンネット型への採用はしばらく見送られていましたが、「とき」「白山」「はくたか」には昭和54年くらいからイラスト化されたボンネット車用のヘッドマークが用意されました。しかし、何故か「あさま」ようは準備されなかったようです。時刻表を見ると、53・10改正以降の489系は1往復のみとなってしまったようです。その後は489系の食堂車がなくなり、189系編成とは時刻表上の区別が付かなくなってしまいました。昭和51年 赤羽駅にて昭和51年 大宮駅にて昭和51年 上野駅にて酷い写真ですみません。中学1年の時、オートハーフで撮った写真です。走行写真はホントどうにもならないくらいブレちゃうんです。文字マークが懐かしい、古き良き時代です。昭和58年8月17日 大宮駅にて昭和54年か55年くらいから489系の運用がなくなってしまったため、イラストマークの489系「あさま」の写真がまったくありませんでした。昭和58年夏、臨時の「あさま」に489系が充当されることが判り、夜遅い時間だったのですが、わざわざ大宮駅に出向いた記憶があります。489系の復活と共に、イラストマークの入っている489系「あさま」を初めて撮りました。平成8年9月28日 横川~軽井沢間にて クハ489-200番台その後も「あさま」への定期運用は無かったのですが、JRになってから489系が長野所に取り残されることになり、直流区間専用の489系が配置されました。金沢局の車両も変な塗装にしちゃってくれましたが、長野所の489系も189系グレードアップ「あさま」と同様な塗装がされ、異様な雰囲気で189系と共に活躍しました。貫通扉の改造工事をしたのでしょうか、ただでさえ狭い貫通型のヘッドマークが、さらにひと回り小さくなっています。平成8年11月2日 信越本線 御代田~信濃追分間にて長野新幹線の開業も近くなり、碓氷峠への撮影が活発になっていった頃です。平成9年10月1日、長野行き新幹線の開業と同時に碓氷峠(横川~軽井沢)間が廃止になりました。在来線特急の「白山」は廃止、「あさま」も新幹線にその名を譲って終わりを告げます。さらには、長野に残ったJR東日本の489系も用途廃止となり、ひっそりと廃車されました。489系には非貫通型車両も存在しましたが、何故かこの「あさま」の写真はありませんでした。
2024.10.18
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ジョイフルトレイン:485系 「ジパング」本記事は、2021-09-04に投稿したもので、当時の表現になっています。485系ジョイフルトレインの残党として主に宮城県を中心に活躍していた「ジパング」がとうとうラストランとなるようで騒がしくなっています。485系「ジパング」は、元々高崎車両センターに所属していたお座敷電車「やまなみ」と「せせらぎ」がリニューアルにより「やまどり」として6両編成で再組成された際に余剰となった先頭車2両を活用したもので、中間電動車に485系1ユニットを組み込んで4両編成としています。両先頭車はお座敷電車時代の外観を保っていてジョイフルトレインらしいデザインですが、組み込んだ電動車ユニットは鋼体改造をしていないため凸凹編成となっており、登場した当時はなんて無様な編成だと思っていました。いずれはなんらかの手を入れると思っていたものですが、結局はこの体裁のまま引退を迎えることになるとは・・・。運転区間は殆どが宮城を中心とするJR電化線のみであり、関東へ顔を見せることはなく、このへんてこりんな編成を撮りたいと思っても実現することは非常に難しい編成でした。平成26年11月15日 尾久車両センターにてそんな中、1度だけ実物を見る機会がありました。「第14回ふれあい鉄道フェスティバル」に召集されたもので、ブルトレの廃止により目玉が無くなりつつある同イベントにおいて、個人的には最高の目玉と出掛けて行きました。しかし、編成の殆どを車庫に突っ込むという最悪の展示方法で、最大の特徴である凸凹編成すら記録することができず、こんな写真を1枚撮っただけで終ってしまいました。いずれは東北に出向いて、などと目論んでいたものの、なかなかそのようなゆとりもなく、結局はこれが最初で最後の記録となってしまいました。
2024.10.17
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185系OM車:特急「あかぎ」デッドヒート編「あかぎ6号」は、「スペーシアきぬがわ2号」と大宮発時間が近接しているため、地元では両者によるデッドヒートが繰り広げられることが多くありました。今回は、特急「あかぎ」のうち、両者(それ以外も)が1画面に写っているものを集めてみました。平成24年6月3日 「あかぎ6号」&「スペーシアきぬがわ2号」平成24年7月28日 「あかぎ6号」&「スペーシアきぬがわ2号」「スペーシア」が先行してしまうと「あかぎ6号」がブラインドされてしまいますので、意外と両者が写っているシーンは多くなかったです。平成24年7月17日 「あかぎ6号」&「スペーシアきぬがわ2号」このようなドンピシャ併走もなかなか難しいですね。京浜東北線が顔を入れてきたので、引き気味で3列車を写すことが出来ました。平成24年2月5日 「あかぎ6号」平成24年3月20日 「あかぎ4号」平成24年4月8日 「あかぎ6号」平成25年2月3日 「あかぎ4号」「あかぎ4号」及び「あかぎ6号」共にですが、併走する湘南新宿ラインのダイヤ乱れなどで競合するシーンも多々あったようです。数撮っていればこのようなシーンに出会うこともしばしばですね。
2024.10.16
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ED75牽引:寝台特急「ゆうづる」寝台特急「ゆうづる」は、昭和40年10月1日ダイヤ改正で誕生した、上野~青森を結ぶ寝台特急です。1年早く誕生した「はくつる」とは異なり、常磐線経由となっているのが特徴。登場当初は20系客車を使用していましたが、その後24系、25形化も行われています。また、583系電車寝台との複合体系を持ち、最盛期には7往復が設定されていました。EF80からバトンを受けた「ゆうづる」は、常磐線~東北本線をED75に牽引され、一路青森を目指しました。昭和55年3月 青森駅にて ED751015牽引「ゆうづる」一夜を明かし、青森に到着した「ゆうづる」。24系の整った編成でした。ただし、ヘッドマークがなかった時代ですので、魅力には欠けました。昭和62年8月初旬 撮影地不詳 ED75729牽引「ゆうづる1号」昭和62年8月初旬 撮影地不詳 ED75716牽引「ゆうづる3号」翌年の青函トンネル開業を控え、車両の動きが活発になっていました。「北斗星」に使用する車両を予備車から改造するため、改造が終るごとに「ゆうづる」の編成へと充当されるようになり、この時期の「ゆうづる」にも一部金帯車が登場しました。昭和63年2月23日 千曳~野辺地間にて ED75牽引「ゆうづる」せっかく雪景色の中を走る良いシーンだったのですが、何を血迷ったかメチャクチャ早いタイミングでシャッターを切っており、これでもかなりトリミングして大きくしています。しかも、カラーバランスが非常に悪く、修正があまり利きませんでした。青函トンネル開業間近で、直前にはA寝台「ツインデラックス」さえ連結され、「北斗星」への移行準備がなされました。平成21年11月14日 尾久車両センターにてこちらはおまけですが、東北本線の非電化時代、DD51が「ゆうづる」を牽引していました。確か重連仕業だったと思います。EF80牽引:寝台特急「ゆうづる」24系寝台客車編:寝台特急「ゆうづる」EF81(展示):寝台特急「ゆうづる」
2024.10.15
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国鉄 スハ43系:スハフ432031かつては普通列車が客車列車ばかりであった東北本線黒磯口の交流区間。東北新幹線の開業により455系の余剰が大量に発生。電車化を前に、機会があれば旧型客車の写真を撮っておくようにしていました。昭和58年10月5日 黒磯駅にて スハフ422031モノクロプリントからのスキャンで、画像がイマイチなのはご勘弁下さい。スハ43系緩急車のスハフ422031。普通列車の中間に連結されていました。プリントの色調から体質改善工事施行車の青塗装と思われます。これらの体質改善工事施行車は、主に急行列車に使用されていたと思われますが、この時代ですと殆どの旧型客車による急行列車は12系化又は廃止となっていますので、オハ60系淘汰の玉突きにより普通列車への使用が多くなっていたと思います。その後、黒磯口にも急行からの転用455系や583系改造の715系などが投入され、終焉を迎えることとなります。盛岡局の配置となっていたようですが、所属の客車区が良く分かりません。検索しますと、急行越前さんのブログがHITしましたので、参考にご紹介させていただきます。1982年10月10日釜石~宮古
2024.10.14
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東武鉄道 8000系:8568F復刻塗装同一形式最大生産量を誇った東武鉄道8000系。初回登場から既に50年を経過し、かなりの数が淘汰されましたが、野田線や東上線北部、亀戸線・大師線など2両編成路線では未だに活躍しています。このうち、亀戸線や大師線で運用される2両編成については、平成28年から復刻塗装が誕生しています。3編成の塗装変更車誕生しており、インターナショナルオレンジにミディアムイエロー帯ノ8577Fとイエローにインターナショナルオレンジ帯の8575Fは未だに活躍していますが、試験塗装の1つである緑色にジャスミンホワイト帯の8568Fは令和6年3月に廃車となってしまったようです。町会コミュニテイーの防災研修時、本所のセンターに行くついで、亀戸まで足を伸ばして亀戸線の撮影をしており、この時の8568Fを撮っていました。以上 令和元年8月17日 亀戸~東あずま間にて 8568F令和5年2月25日 亀戸水神~亀戸間にて 8568Fこの1枚だけ現場回りの際に捉えたもの。昼の移動時間だったので1枚だけ。令和6年度の現場ではあまり亀戸近辺の現場が無いため、他の2編成も含めて、捉える機会がなくなっています。
2024.10.13
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EF65牽引 20系・24系25形寝台客車:寝台特急「瀬戸」「瀬戸」は四国連絡特急として、急行「瀬戸」の格上げにより誕生いたしました。設定当初から東京~宇野間を走り、急行時代には次世代寝台車として誕生した14系寝台客車を試用したことでも有名です。特急格上げに際しては、当時最もメジャーであった20系により運転されています。「瀬戸」の特急化は、「出雲」と同じく昭和47年の改正と遅い部類に入りますので、誕生時からEF65500番台が牽引に当たっていました。昭和51年初頭頃 東京駅にて EF65510牽引「瀬戸」初めて撮った特急「瀬戸」の写真。ポケットカメラでオマケに夜間ですから、ブレるわ的は外れるわで悲惨な写真ですが、どうも他に500番台の「瀬戸」は撮っていないようです。小学生~中1くらいの年齢では、夜発・早朝着の「瀬戸」「出雲」の写真撮影は困難でした。しかし、神田方から東京駅に入線する機関車に向かってフラッシュを焚くなんて、今から考えれば無謀な行為をしていたものです。当時の機関士さん方、大変申し訳ありませんでした。昭和52年頃 東京駅にて カニ21「瀬戸」昭和47年の誕生以来、昭和52年頃までは20系客車が使われていました。東京口では、この「瀬戸」と「あさかぜ」が最後の20系使用定期特急となりました。昭和53年8月 東京駅にて EF651097500番台から1000番台への切替えの頃。この日は来る列車によってまちまちでした。この日の「瀬戸」は1000番台の牽引。できれば500番台に来て欲しかった。ヘッドマークは、誕生から廃止になるまで変わることはありませんでした。昭和54年 東京駅にて EF651111牽引「瀬戸」東京駅に到着した上り「瀬戸」。右に写っているのは横須賀線で、昭和55年までは地上区間を走っていました。昭和54年 東京駅にて オハネフ25100番台「瀬戸」昭和54年で、上の写真と同じ頃のようですが、こちらは夜の下り列車のようです。まだイラストマーク化される前なので、夏休みくらいに撮ったものでしょうか?今となっては懐かしいシーンです。20系も淘汰が進み、状態が良いものは急行列車や波動輸送用として転用されました。昭和54年だとまだブルトレが辛うじて隆盛にあった頃でしょうか。ブルトレブームも一段落したとはいえ、まだカメラ小僧がホームを走り回っていますね。「瀬戸」は東京発着の時間が撮影に適していなかったので、走行写真は残念ながら無かったようです。平成21年5月23日 大宮車両所にて「JRおおみや鉄道ふれあいフェア2009」で展示されていたときの「瀬戸」。こうしたイベントで「瀬戸」のヘッドマークが登場するのは珍しいですね。昔からこれくらいきれいに撮れる技量があれば・・・。昭和52年ごろ 東京機関区にてこれは、東京機関区の一般開放の際に撮った写真です。当時、同区がどの程度このような催しを実施していたのか不明ですが、あまり鉄道機関の車庫や工場の開放といった行事はなく、大変珍しいことだったように思います。ま、私の知っている限りEF58が特急「瀬戸」を牽引したことは無いと思います。
2024.10.12
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489系:特急「白山」(53・10改正前)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。同時に、181系により輸送力が不足していた特急「あさま」に対しても、一部列車ながら489系による共通運用で輸送力を確保しました。今回は、特急「白山」の昭和53年10月改正以前の写真を並べてみます。カメラが良くないので、画像・構図とも見苦しい点はご了承下さい。昭和51年頃 尾久駅にて クハ489 0番台多分オートハーフで撮った写真ですね。ブレちゃってます。北陸から持ってきたボンネットの鼻先の雪をそのまま北陸へお持ち帰りって感じですね。隣で待機している10系座席車も懐かしいです。昭和52年 大宮駅にて クハ489-500番台こちらの写真は、上野方に連結されるEF63連結側の500番台です。他の流美なボンネット車と違い、連結器を剥き出しにした荒々しい顔が特徴です。ところで、この写真を見て異変を感じませんか?昭和52年 西川口~蕨間にて クハ489-502上の写真と同じ500番台ですが、こちらは写真から-502の判別できます。こちらも上の写真と同じ車両のようです。異変と言うのは・・・屋上ヘッドライトのライトケース(ホイッスルカバー)が付いていないんです。鉄道雑誌の資料を見ると、金沢の489系は何かしらの異変が発生しており、このライトケースの取り外しを始め、スカートのグレー化などのイレギュラーが発生しているんです。やはり、あるべきものが無いと違和感がありますね。その後に聞いた話では、ツララによる破損があったとかないとか。晩年の急行「能登」も同様にライトケースが付いていませんでしたね。昭和51年 上野駅にて クハ489-200番台直江津向きの貫通型は200番台で、機関車の連結が無い側です。クハ481-200にならって同じ番台を使用しています。製造時期が485系と全く重なっているため、モハ488も集中型クーラーに変更されています。隣にクハ183-1001が写っていますね。昭和52年 上野駅にて クハ489-600番台こちらは東京方の横軽でEF63を連結する側です。こちらは貫通型で600番台が付番されています。ジャンパ栓の違いくらいしか分かりません。昭和51年 大宮駅にて クハ489-300番台色調がおかしくてスミマセン。オートハーフで撮った写真っていうのは大概において変な色に退色してしまっています。昭和52年 上野駅にて クハ489-700番台定番の高架ホームで撮った「白山」。6・7番線では「とき」と並ぶシーンが有名ですが、こちらは8番線側ですね。9番線に停車中の高崎線普通列車との並びとなりました。デカ目の115系も今となっては懐かしいですね。多客期には指定席券が入手困難であったといわれる特急「白山」。隆盛を誇ったまま、昭和53年10月の改正を迎えることになります。
2024.10.11
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国鉄 ED16形電気機関車(南武線)ED16は、国産の量産第1号となった直流型貨物用電気機関車です。18両と少数ですが、戦前型としては標準的な製造量であり、同機に適した路線が存在したためか、50年もの長きにわたって活躍することができました。今日はED16を撮影した写真のうち、南武線のものを少しですがご紹介いたします。昭和51年7月4日 立川機関区にて ED162EF57以来旧型電機に目覚め、友人たちと次の獲物として狙いに行ったED16です。このときが初めてのED16の撮影でした。この頃は写真さえ撮れれば、パンタが上がってなかろうが、走っていなかろうが、何でも良かったんです。この2号機の後には、EF1013(一次形)が連結され、奥の機関庫にも3次形と思われるカマがいます。いずれも昭和52年8月 浜川崎操車場内 発車待機中のED161号機(撮影会実施のため、団体で許可を取っています。)何の機関車でもそうですが、1番とかトップナンバーで感動しますよね。儲かった気分がします。昔「EF571」や「EF131」を見るとすごくうれしかったです。この歳になってもそうなんですから、どういうことですかね。奥多摩工業の石灰石輸送が廃止になって久しく、後に連結されたホキも既に懐かしいと言える貨車になってしまいました。昭和57年5月 府中本町駅にて ED166牽引 ホキ貨物列車これは、マミヤM645の試運転時に撮影したものです。さすがにネガが大きいので、非常にシャープに写っています。浜川崎で荷を卸した貨車は、空車回送となって再び奥多摩の山奥に登っていきます。同形式のホキを連ねた列車は、秩父や熊谷貨物タ、そして、この南武・青梅線くらいでしか見ることの無い限定品でした。私が国鉄時代、大宮操車場で入れ替えをしておりましたが、ホキ9500など青梅線用のホッパー車は、大宮工場への入場車くらいしか見ることは無いので、稀に自分の持ち番線に(ハンプの坂から)落ちてくると非常に緊張しました。(ブレーキを扱う位置が特殊なんです。)昭和58年3月20日 立川駅にて ED1614+ホキさよなら運転を撮影に行った日、立川駅の側線に留置されていました。ED1614は初撮影で喜んだものですが、それまで装着されていたスノープラウが外されており、大変ガッカリしたものです。土日だったため、運休に伴う留置だったのでしょうか?貨車をつなげたまま?このほか、青梅線で撮影したものがありますので、別の機会にご紹介いたします。
2024.10.10
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209系1000番台:中央快速線常磐緩行線の信号システム変更に伴う増発用として、平成11年に2編成が導入された209系1000番台。平成30年度のさよなら運転で役目を終えたのち、中央快速線のグリーン車組み込み計画に伴う編成不足の補充として、ラインカラーをオレンジに貼り替えの上、活躍の場を移しました。ただし、車体幅がE233系と異なるなどの理由から、事故による運用変更を除き、ラッシュに影響しない運用に固定されていました。まずは平成31年3月25日に中央快速線での初対面から。2年間、大手町に通っており、主に神田駅を利用していました。この大手町勤務から新宿勤務へ戻る間近、詳しい運用が分かるサイトを見つけ、この日は神田でダブルゲットの最後を悟り、出勤時間を遅らせて撮影してみたものです。まずは上りT81編成、898Tの到着。こんなに切焦っているのは、私の真横に3番線到着の北行ケトが居るためです。このケトに停車シーンを邪魔されました。逆光だけど初めてなので後部も。予定時間なのに現れないのでガセかと思ったが、この日は5分くらい遅れていたようだ。下り999T は、遅れていたためか、直ぐに折り返してきた。振り替えると、後続のT82編成による896Tが既に到着してきて慌てて撮影。後ろはまだ停車していないT81編成。まさかここで交錯するとは思っていなかった。電車の動きを見ながら、T81編成とT82編成の顔並びをGETすることができた。折り返しの997Tを撮影して出勤。予定より少し余計に待たされたが、初対面での記念撮影は満足の行くものでした。令和2年2月27日 新宿駅にて T82編成 898T令和2年2月27日 新宿駅にて T81編成 896T新宿勤務に戻ってしばらくは出会う機会はありませんでしたが、新型コロナの襲来で、時差通勤を強要され、1時間遅い出勤となりました。このことで、しばらく会わなかった209系1000番台に会うきっかけが再来します。令和2年2月28日 新宿駅にて T82編成 896T令和3年9月16日 新宿駅にて T82編成 中央特快 1699T年度によって、微妙に運用が変わってきました。その中で、久し振りにサイトを見たら、中央特快の運用に入っていることを知りました。時間休を取って、駅撮りで記念撮影。令和5年6月12日 拝島駅にて令和5年4月から10年振りに現場回りのあるセクションへ出戻り。都内各地に出掛けるようになり、特に令和5年度は中央線方面の現場が異常なくらい多く割り当てられました。この日は午後から拝島の現場でしたが、朝方のダイヤがかなり乱れていたようでした。一旦橋上に上がって昼食をどうしようか考えていたところ、普段は下りの到着する2番線に東京行き快速の表示があったので、何か珍しいことが起きているのかと思って行ってみると、拝島折り返しの列車が到着してきました。それも209系1000番台。とにかく写真を撮ろうと思って1番線へ行ってGETしたあとよく考えたら、青梅線の定期運用はない筈で、非常に貴重なシーンだったんだと理解できました。残念だったのは行先が既に「快速東京」になっていたことで、「快速拝島」だったらメチャクチャレアだったんですよね。令和5年6月23日 神田駅にて T81編成大手町の現場の後、なつかしい喫煙所で一服して、ついでなので歩いて神田からの帰途。中央快速上りで偶然にも209系1000番台がきたので、折り返しを待って撮影。この記録が最後となりました。写真は撮っていませんが、新宿では出勤時ほぼ毎時見掛けていたし、現場回りになってからも良く遭遇しました。新宿ではほぼ絵にならないし、急に遭遇してもカメラ間に合わないし。実際に乗車できたこともありましたが・・・。令和6年9月6日を最後に運用から外れ、内装広告の撤去なども終了し、さよなら撮影会等も告知されています。まだ今後の予定や廃車の有無などの発表はありませんが、車齢や使い道、保守の問題から復活することはなさそうですね。
2024.10.09
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小笠原海運:「おがさわら丸」(2代・3代)東京と小笠原を結ぶ一般では唯一の営業路線となる小笠原航路。小笠原海運が運行するおがさわら丸は、1隻のみで片道24時間を掛け、往復しています。現在の「おがさわら丸」は3代目であり、2016年7月から就航しています。リーズナブルな2等から、かなりお高い特等までバラエティー豊かです。令和6年9月11日 小笠原 二見港にて片道は24時間ちょうど。2代よりも1時間半早くなりました。2代よりも1・6倍の11000tになったそうです。乗船したのは1等室。特1等だとシャワールームもあるのですが、1人貸切で使っているだけに文句言えません。1人だと本当に楽でした。搭乗券やルームキー。鍵はカード式でした。搭乗券も今の時代ですから、QRコードが導入され、旅客の利便性よりも業務の効率化の方が大きいと思います。搭乗券は下船時に回収されてしまうため、残念ながら手元には残りません。平成22年9月3日 小笠原 二見港にて おがさわら丸(2代)こちらは2代目のおがさわら丸で、平成22年に行った際に夜間撮影したもの。1997年2月に就航し、2024年6月末の運航を最後に引退しています。6700tで、説明を見ると1等船室の数が全然違いますね。大きさがバラバラですみませんが、当時の1等船室搭乗券です。こちらは印刷式の連綴券で、乗船時に半券、下船時に残りを回収されたと記憶しており、こちらも現在と同様に手元には残らないのが残念です。2代の時は片道25時間半であり、この時は同僚と2人1室であったため、非常に窮屈に感じました。当時も今と同様に、船室内でBSを見られる(東京~八丈島間くらい)ので、時間の潰し方は然程変化が無いと思いますが、14年振りの乗船では往きも帰りも「死ぬほど退屈」という感じはしませんでした。1室1人か2人かでも随分違うのでしょうね。金と時間があれば、仕事以外で特1等とかで往復したいものですが、海外旅行よりも高いくらいの金額になってしまいますので、多分、もう一生行くことはないと思います。
2024.10.08
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小笠原村営バス:日野リエッセ・ポンチョ・トヨタハイエース東京都小笠原村。都心から1000kmも離れた小笠原村がなんで東京都か・・・というのは自分で調べてください。観光が主な資源となる小笠原村ですが、主要となる父島では2000年末から唯一の公共交通機関である村営バスが運行されています。人口がそれほど多くなく、大半の島民が主要港である二見港近くに居住しているため、バス需要もそれほどないと思います。そのため、民間事業者の投入は難しく、村営になっているものと思われます。実は今年9月、出張で小笠原に行ってきました。(誰も行きたがらないので行かざる得なかった・・・。)今回の行程では休日もなく観光することもできなかったため、仕事一辺倒。行きたがるれと言われても無理。趣味の鉄道もない場所で、唯一興味を示せるのはバスだけ。ということで、バスの写真だけ撮ってきました。令和6年9月10日 日野ポンチョ 品川200は330小笠原村も日野ポンチョが導入されていたんですね。多分マイクロバスで十分なんでしょうけど、乗降の利便性から今の時代ではポンチョの一択でしょうか。同車は2010年導入車ということで、実はもう1台2021年導入車が居たそうなのですが撮り損なっています。令和6年9月12日 トヨタハイエース 品川200さ1230同車は、先代の日野リエッセとの交代で、2015年5月から運行されるようになったそうです。ナンバーを見ると大型車になっており、これは乗客定員が13名となっていることからと思われます。平成22年9月3日 日野リエッセ 品川200は99小笠原出張は2回目で、以前来た時のことはすっかり忘れており、リエッセは撮っていなかったと思っていたのですが、初代ブログを確認したらちゃんと撮っていました。同車は第二期の導入車ですが、トヨタハイエースの導入と交代で廃車になったそうです。撮っておいて良かった。
2024.10.07
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231系3000番台:八高線全線開通90周年ヘッドマーク八高線が全線開通してから90周年を迎えたそうです。全然知りませんでしたけど・・・先日、現場回りで横浜線沿線まで行ったのですが、八王子で降りるときに何気にヘッドマークを付けた八高線が停まっているのを見つけました。昼の移動は京王に乗ってしまうので、時間の余裕もあり八高線ホームへ行ってみました。※撮影は、令和6年10月4日、八王子駅にて。「90」を見て「ああ、そういうことか・・・」と直ぐに納得。不調のカメラですが、このときは1発で撮れてくれたので安心して撤収・・・と思ったのですが、もしかして反対側は違うデザイン?と気が付いて早歩きで後部で移動。案の定違うヘッドマークでした。しかし、こちら側は防護柵が邪魔して写真を撮れない。発車を待つしかないけどどうしよう?と思ったらなんと考える間もなく発車してしまいました。悲劇は続き、こちら側はピントが合ってくれず、無理やり押したのがこれ。確認したら、なんとか写ってくれていました。電化区間と非電化区間でそれぞれ1編成ずつの取付だそうで、なんとも良い機会に恵まれました。ヘッドマークの取付は10月31日までだそうで、多分、二度と会うことはないでしょう。
2024.10.06
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コレクション館で久し振りに更新しました。2024/09/24 「国鉄」見つけた!
2024.10.05
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185系元チタB編成:特急「あかぎ」平成25年3月ダイヤ改正において、田町車両センターが廃止されることに伴い、通勤車が国府津へ、特急形が大宮へ転属となりました。これに合わせ、既存の185系OM車も、方向転換及びグリーン車の連結位置を変えるなどの作業が行われることになります。185系OM車は、ごく一部が改正前からこの作業に取り掛かりましたが、1日で切り替えるわけにも行かず、元チタ車のB編成を動員し、改正直後の高崎線特急やホームライナー等に充当されました。平成25年3月20日 185系B3編成 「あかぎ4号」平成25年3月20日 185系B6編成 「あかぎ6号」改正と同時に、ヘッドマークはOM車と同一のものに交換されたようです。改正直後はOM車よりも運用に入る数が多かったように思いますが、OM車の切り替え作業が終わるごとに運用に入る数も少なくなり、以前の運用にほぼ戻ってしまいました。平成25年11月24日 185系B1編成 「あかぎ6号」平成26年1月5日 185系B1編成 「あかぎ6号」平成26年1月13日 185系B1編成 「あかぎ6号」しばらくはOM色と元チタ色が混用されると思った矢先、元チタ車を中心にグリーン車を外す作業が行われました。これは185系自体を波動用に転向するためのものであり、気が付いたときには、写真のB1編成が唯一湘南カラーのグリーン車連結編成として残るのみとなっています。今思えば、これだったら何もOM車のグリーン車連結位置を変える必要はなかったのでは?と思う次第です。完全に読みが外れました。平成26年3月の改正では、上野口の高崎線特急列車がすべて651系に置き換わりますので、これらの変遷も185系史の中ではほんの一瞬の出来事でしかありませんでした。185系OM車:特急「あかぎ」(その1)185系OM車:特急「あかぎ」(その2)185系OM03編成:特急「あかぎ」
2024.10.05
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東海道新幹線:500系「のぞみ」(その2)続きで、新幹線500系「のぞみ」の第2部です。平成19年11月23日 田町駅にて 「のぞみ9号」回送平成19年11月23日 田町駅にて 「のぞみ9号」平成19年11月23日 小田原駅にて 「のぞみ2号」平成19年11月23日 小田原駅にて 「のぞみ17号」平成19年11月23日 小田原駅にて 「のぞみ10号」平成19年11月23日 新横浜駅にて 「のぞみ33号」平成19年11月23日 新横浜駅にて 「のぞみ187号」平成19年11月23日 品川~新横浜駅にて 「のぞみ41号」平成20年1月26日 小田原駅にて 「のぞみ17号」東海道新幹線:500系「のぞみ」(その1)74261-2 サロ110 350番台[KATO]《発売済・在庫品》74261-2 KATO カトー サロ110 350番台 Nゲージ 鉄道模型(ZN130934)KATO カトー サロ110 350番台 74261-2 発売前予約 再生産 キャンセル不可
2024.10.04
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103系:武蔵野線101系1000番台によって営業運転を開始した武蔵野線。101系の撤退により103系化され、永らく活躍した103系でしたが、玉突きにより205系化されました。武蔵野線では、首都圏でも比較的に遅くまで103系が走っていました。平成14年5月12日 三郷~南越谷間にて 高窓車 府中本町行平成14年5月12日 東浦和~東川口間にて 高窓車 南船橋行平成14年5月12日 東浦和~東川口間にて 低窓車 快速「むさしのドリーム」号 東京行平成14年10月27日 京葉線葛西臨海公園駅 快速「むさしのドリーム」号平成14年10月27日 京葉線葛西臨海公園駅 快速「むさしのドリーム」号平成15年5月3日 西船橋駅にて 低窓車 南船橋行武蔵野線では、終盤まで低窓・高窓車が走っており、また、ご覧のような自然に囲まれた景色の中を行く103系を撮ることができました。また、京葉線全通後は乗り入れも行われるようになっため、意外に撮っていたなという感じです。最後はオレンジ色だけの武蔵野線でしたが、103系化された頃には、オレンジに混じってカナリア・スカイブルー・エメラルドグリーンと多彩な色のまま走っていました。それらの時代には殆どの通勤車を撮影していなかったのが残念です。101系1000番台:武蔵野線
2024.10.03
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東海道新幹線:922形ドクターイエローT2編成ドクターイエローと言えば、今でこそ子どもやママさんテツにさえ常識的に理解されている新幹線の総合試験車ですが、ドクターイエローという呼び名さえ知らない時代から活躍していた試験車がありました。昭和56年5月頃 田町駅にてネガに光が入ってしまったため、プリントされずに放置されていた写真です。フィルムスキャンにより陽の目を見ることになりました。時代的にT3編成とばかり思っていたのですが、良く見ると窓が大きい。4両編成ではないことを記憶していますので、消去法によりT2編成だったんだ、と言うことになります。ブルトレなどを撮影している際に急に現れたと記憶しており、後部を後追いで撮るのがやっと。露出以外はマニュアルの時代ですから。自家現像なので出来も悪く、見苦しい画像ですが、私にとっては貴重なショットでした。
2024.10.02
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東海道新幹線:0系新幹線と言えば0系。昭和の時代、世界にその名を知らしめた「SINNKANSEN]は、戦後の復興を遂げた日本文化の代名詞と言っても良いのではないでしょうか。さらにその新幹線の代名詞と言えば、0系と言って良いでしょう。でも、子供の頃、新幹線と言えば迎え入れるべき友ではなく、どちらかと言えば敵的存在でしかありませんでした。新幹線のお陰で、数々の著名な優等列車が過去のものへと追いやられた訳ですから。そんなこともあって殆ど写真にも撮ったことがなかったんですが、暇つぶしに撮ったような写真がありました。昭和53年9月 田町駅にて 大窓の0系編成夕方のブルトレ撮影の際に撮っていた写真。普段は撮らないのに、待ち時間が暇だったんでしょうね(笑)。性能の良くないレンズで撮っていたので、解像力も悪いし、夕方だったのでブレて鮮明には写っていませんでした。(ネガカラー写真)昭和55年頃 品川駅にていかにもなんとなく撮った写真。昭和55年頃 品川駅にて 300mmレンズによる流し撮り実験品川駅で臨時列車などを期待して張り付いていたときに、やはり暇と見えてこんな写真も撮っていました。自分でも驚くほどピタリ止まっている写真で、画像では分かりにくいですが、表示の小さい形式-番号も見事に止まってハッキリ見えます。(ちなみに22-81となっています。)このころは視力もそれほど悪くなかったので、300mmレンズを手持ちで振り回してバシバシ撮っていました。今では絶対に不可能ですが・・・。(エクタクロームからダイレクトプリント)昭和56年9月 品川駅にて 小窓の後期0系こちらも暇つぶしの流し撮りでしょうか。上下にブレてしまい成功といえる写真ではありませんが、小窓車であることは判りますので、まぁ何とか・・・といったところでしょうか。(モノクロネガTri-Xから紙焼き)敵視していた新幹線車両ですし、撮影の手段としても乗り飽きていましたから、まともに撮ったのはありませんでした。今になって「もっとカッコ良くと撮っておけば良かった」なんて思ってしまいます。100系もスタイルは良かったし、500系も近未来的なスタイルがカッコ良いと思いますが、東海道新幹線はやっぱり「0系」・・・なんですね。
2024.10.01
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