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昨日は台所に置いておいた観葉植物をようやく広めの鉢に植え替えた。 ポトスは最初に観はじめた根の孫の孫の孫の孫ぐらいの代になっていると思う。 毎年冬になると陽光が減り、鉢もぎゅうぎゅう詰めだったから、春になる前に、かなり身を細め枯らしていた。 そして春から秋にかけ元気を取り戻し、子孫を増やして義母や義妹に何度か鉢にして根分けしたりした。 去年秋に、一部大きめの鉢に植え替えたら冬に枯れ細ることなく春を迎えたので、今春は思い切って細長い容器に引越しさせた。 赤紫の花がついている植物の名がわからないので、赤紫ちゃんと呼ぶけれど、この子は二年前の秋に義妹がプレゼントしてくれた。元気に育っていたけど、一年以上も花をつけることがなかった。そんな時ネットで煎れたあとのフィルターに残った珈琲が植物の栄養になると知って、何度か上げたら花をつけるようになった。 でも赤紫ちゃんも鉢が小さくて一時元気を失い、枯れるかな。。。もうダメかな....っと思ってみていたことがあったけれど、生き残った。 根本の方から子孫を増やしていくようで、ひとつは枯らしてしまったが、二つは元気に伸びている。一番小さいのは今回別の鉢に独立させた。 細長い葉の一見雑草のような植物も二年近く前に義妹がたくさん友人から根分けしてもらったもののそのまた根分けで、長期間ほとんど世話をせず放ったらかしに狭いところに植えていた....にも関わらず枯れずにおり、珈琲肥料を上げたらこれも生き生きとしてきた。 まだ花を付けたことはないが、確か白い小さな蘭のような花だったのではないか?と思う。 息子の課題の豆の生育も順調(*^^*) 父は面倒を見すぎて、ポトスも枯らすような珍しく植物の育成に不向きな人だったけれど、父の母は花が大好きで、軒先に春夏秋冬たくさんの植木鉢を棚に並べて置く人だった。 祖母は東京の下町に生まれ育ち、伊豆の片田舎で生活するようになっても、下町の庶民の生活の美意識を保ち続けた人だった。 今は御先祖とともに、東京谷中の墓地に眠っている。とても優しくてユーモアだった父の長兄も、父も、母も其処に居る。 祖母は改名して 次枝 と呼ばれていた。そして枝を継ぐように、その 枝 (え)という音は孫の私の名にもさずけられたのだった。 にほんブログ村
2017年04月08日
遠い遠いむかしのこと、30年も昔のお話。背を向けられたわけでも、冷たい態度をとられたわけでもないけれど、凶器がわたしの胸を突き抜けたことがありました。別の誰かと手をつないでいるところを、偶然目にしたわたしに、彼は、にっこり笑って手を振ってバイバイしました。彼はわたしの彼ではなかったし、雨なんかふっちゃいなかったし、凍えるような寒い冬でもなかったし、しかもわたしに向けられたのは、飛びっきりの 彼の笑顔 であったけれど、笑顔が凶器にもなることを、わたしは知りました。彼の笑顔は、わたしの胸に大きな空洞をこさえ、そのあと大きな大きな石を、飲み込んだかのように、わたしは苦しくて苦しくて、声も、涙さえも・・・でなかったのです。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2014年12月16日
街路樹の葉がめったに赤くならないこの街でも、黄色に色づいた葉が、枯れて茶色に変わりつつあります。今年は降り続く秋雨がなかったせいか、この街の冬の訪れが遅いように、感じられます。私が育った町ではきっと、カラスウリと柿が、淋しげな去りゆく秋に最後の最後まで彩(いろどり)を添えようとしているかもしれません。お元気でいらっしゃいましたか。あなたからのお手紙、拝見いたしました。それでわかったのですが・・・このお手紙の前にも、もう一通あなたからいただいていたのですね。こんなに長い期間、まったく気がつかずにいた私をどうぞ、どうぞお許しくださいませ。あなたのお手紙は、希望という明日の輝きに溢れていました。過去も、未来も考える余裕もなく、一瞬、一瞬に対応するのも泣いたり、笑ったり、怒ったり、オロオロして過ごしている、頼りない私を、力づけようとしてくださったのですね。そしてもう一通のお手紙は、他の人にはなんともない、大したこともない道程を、不器用に、不注意に、よろよろ危なっかしく、歩いている私を、後ろから背中を押し、前から腕を差し伸べ、なんとか私を前進させようという、温かい思いでいっぱいでした。我侭で、ぶっきらぼうで、無頓着なわたし。土砂降りの暴風雨であっても、雨など気のせいなんだから、と傘も持たずに出かけていくようなわたしを、あなたは百もご承知で、遠くから優しくみまもってくださったのですね。わたしは時々、どうしょうもなく ふるさと が恋しくなります。ふるさと に抱かれたくて、抱かれたくて、身もこゝろも ふるさとに向かって熱い血潮が波打つのです。そしてあとから、あとから頬を伝う涙を、どうすることもできないのです。今年ももう、残りひと月半となりました。気がつくと、ひとつの季節が過ぎ去っていて、新しい次の季節の足音が、すぐ近くまで来ています。この一年、自分は一体何をして、どのように過ごしていたのか?っと思わないこともないのですが、敢えてそうしないことにします。あなたに感謝いたしております。あなたの言葉はわたしに、明日と希望を感じさせてくれました。これから益々寒くなります。どうぞどうぞ、お身体ご自愛くださいませ。2014年11月17日 にほんブログ村にほんブログ村
2014年11月17日
親愛なるあなたへ過去は過去です。未来も未来です。そして現在も現在ですが、過去・現在・未来はあっても、我々は、今という一瞬の中にしか存在を認識できません。本当は、過去も未来もなくても、人は生きていられるはずであり、一瞬、一瞬だけをみて生きることが、もっとも高次元と強く結びついた生き方である、っとわたしは思うのです。今までの過去はゼロにしてもいいのです。嫌な過去などは、記憶喪失かのように亡くしてしまってよいのです。それでも一瞬、一瞬のなかに実は、、、、悠久の時の中で得たもの、失ったものを、わたしは(あなたも・彼も) 体現しているのですから。 にほんブログ村
2014年11月16日
Wasabiさんより画像拝借テヘランでもところどころで、桜だけでなく、梅や杏の木が花をつけているのをみましたが、実がなってみないと、何の花なんだか?さっぱり私にはわかりません。果樹園に桜の木があります、林檎、アセロラ、杏、梨、桃、それぞれに、それぞれの美しさを兼ね備えた花が咲きます。果樹園がある方面はここより寒く、まだ開花には時間があります。そこは日本でいうと青森と同じぐらいの気候なのです。入学と桜 子供達の笑顔と桜・・・子供でなくとも、ピカピカのスーツを着た大学生、新入社員日本人はみな、桜の応援で 入学・入社をするんですね~。私自身は大学の入学式に大雪に見舞われ、最寄りの駅まで長靴を履いていった憶えがありますが、私が大学3年になったときに、入学した大学生の入学式は、(私の大学の入学式ではなく某大学の入学式でしたが、私はサークルの勧誘をしにそこへ行っていたのです)それはそれはよく晴れた、美しい日でした。真新しい背広やスーツを着た、大勢の新大学生がこの日の日差しと同調し、晴れやかな、輝かしい笑顔で大学の門をくぐってくるのを、私は遠くから眺めていた記憶があります。私は春の温かい日差しと、春の香りを感じるときにまっさきにこの日の光景が浮かび上がってきます。ふるさとに咲く桜だけではなく、輝かしい笑顔で入学・入社する日本人の姿も、私にとっては ”桜” なのです。
2014年04月08日
Oakさんより画像拝借<(_ _)> 日本の桜には、なんとも言えない想いがあります。イランの桜には感じません。日本に咲く桜に感じる特別の想いです。桜の花をみると、その年に生まれてくる子供たちの顔や姿と重なります。亡くなっていく命と、育まれる命と、散っても再び、春になると毎年花を咲かせる桜と重なるのです。刹那ですね、人の命は。刹那だと知って、なお力の限り生きる命はきっと桜のように美しいのだと思います。祖国の地で、震災で亡くなられた沢山の人々の魂が平安でありますようにと、毎年桜の季節が近づくたびに願わずにはいられないでしょう。(2012年3月記事再掲)にほんブログ村
2014年03月12日
IMG_3240 (720x540) posted by (C)maryam f dアナタへ今朝、久しぶりにアナタのお姿をみることができました。 あの時を境に、きっとアナタは・・・ワタシに対してあまり良いお気持ちを抱いていらっしゃらないでしょうっと想っておりました。アナタは、いつだったか?遠い遠い昔、ワタシにアナタのお心を示してくださったことがありました。そして今朝、アナタはあの時と同じように、やっぱりワタシを背後から暖かく見守ってくださっていらっしゃいました。あゝ あの頃と変わらぬお気持ちでいらっしゃるのですね・・・ワタシは我に返った後も、しばらくの間、なんとも言えぬ、優しい、暖かい気持ちに包まれました。 ・・・・・・・・・・ワタシの気持ちはあの頃とはかなり違ったものになってしまいました。その上、あの頃とは異なり、物理的にもとんでもなくかけ離れ、全く関わりのない状態の、アナタとワタシであるのに、 不思議なことに、 今でもあの頃と同じ 距離 を保っているように感じられました。 ヒトは、自分の居場所でさえ決められないものなのですね。ワタシが今、此処にいることはワタシが生まれる、遥か前からサダメられていたのでしょう。アナタも勿論同じです。 もしかしたら・・・アナタにはそんなこと、あの頃からわかっていらしたのかしら? 変わらぬアナタの想いワタシを心配してくださる眼差しに対するちょうど良い距離 が、 ようやくワタシには理解できたようです。アナタが今、何処にいらっしゃろうとも、ワタシが今、何処に居ろうとも、いつ どこに アナタとワタシが存在しようとも、優しく暖かい光は”陽の光”が如く、 いつでも照らし続けているのですね。にほんブログ村
2013年10月10日
DSC00126 (481x640) posted by (C)maryam f d十年一昔・・・などという言葉があるが、このmackintoshは1995?6?年ぐらいのモデル。次姉が買ったものを97年に日本に滞在したときに買い受けた。(マウスは初期のものではなくて、買い換えたので黒になってしまった)私がHPを98年の2月だったか?に始めたときに使った初代PC。mackintoshでペルシャ語を打つのに、友人のKHJさんに手ほどきを受けながらも、大変苦労した思い出がある。十年一昔というならば、このPCはその上をいくもの。先日息子の部屋を掃除したら、息子がこれであそびたい!っといったので、久々に押入れから出された。まだ壊れてなかった!!にほんブログ村
2013年09月07日
この前あなたに差し上げたお便りは、まだ冬将軍が鎮座していた2月でした。その後いかがお過ごしでしょうか?こちらは、あの時の冬将軍様のお姿を垣間見したいほどに、暑い日々が続いております。あの手紙で私は、あなたにいただいた言葉、”感性でとらえるか、感情でとらえるかは品性による”に従って、自分の過去を見直したいと書きましたが、あれから今まで半年という期間、長かったのか?あっという間だったのか?言葉にできないような過ごし方をしております。どうやら私は、時間の流れの感覚を失いつつあるようなのです。過去 というのは、ないがしろ にしてもいけないし、こだわりすぎてもいけないということには、数年前に気が付いていました。しかし、過去・・・という言葉を使うと、どうしても私は、感情を揺るがされてしまうようなので、過去 というものの枠を、もっと大きく捉えてみようと思いつきました。過去と自分との間に距離を作るために、過去を ”歴史”という言葉に置き換えて眺めてみることにしたのです。過去という主観の入りやすいものに、歴史・・・遠く遠くへ過ぎ去ったもの、というマスクを被らせ、振り返ってみようと思ったのでした。すると、歴史(過去)とは過去の事実であるっと思わされているものを積み重ねて作られた ”壮大な物語”であり、物語には ”作者” が存在する ということに気が付きました。この作者というのは きっと己の場合もあれば、他の場合もあるのでしょうけれども。そして現代(今) と、思われているものが、歴史(過去)になったときその時のリーダー的な国々(人々)、その時の風潮・価値観による視点の歴史(過去)として存在する・・・それを 歴史(過去) と我々は思わされているようです。でもそれは、過去の事実とか どちらが善とか どちらが悪などと、とても とても 判断、理解できるものではなく、たとえ歴史(過去)の中で 善悪 に触れられていても、思い込みとか、思い込ませているものでしかないのであろう、と私は思っています。そういうことをふまえると、歴史(過去)を見ていく上で、何が大切になってくるかというと、a balance(一種のバランス感覚) だと私は思いました。おそらく、それがあなたのおっしゃる 感性 という言葉に当たるし、そして決して、感情や主観に惑わされることのない、バランス感覚 に優れるということが、品性 というものではないか?と。そして歴史(過去)の限界は、過去の事柄故に、 ”推測される・推量される”から離れられないことにあります。どれほど balance感覚 を行使しても、”事実はどうであったのか?”は確かめられることはないっということです。それが 歴史物語(過去物語) やいろんな 歴史観(過去の評価・批判) が存在する理由であり、でもそういうものは、○○史 と教科書や書籍として記されているものでさえも、所詮は”小説”と重なる部分が存在するということです。日本と韓国、中国では、同じ歴史的事柄(過去)を異なって捉えていることことが、明白な事実であるように。そして歴史だけなく、現在という時が、刻一刻と流れる様でさえ、我々一人ひとりは、己の心象とか、好悪、善悪などという、様々なフィルターを通してしかみられないし、しかもそれは、推測・推量の域を出ることはないということです。っということは、同じ過去の出来事を、私とあなた、彼、彼女、誰か にとってはそれぞれに捉え方が異なり、異なる過去(物語)になっているということを示してもいます。***************そういう限界があっても、それでも 歴史(過去)を振り返ることは大切なことであると私は思っています。日本人でも、韓国人でも中国人でも欧米、中東の人でも自分の視野、視点を広く、深く、大きくするためには如何にその人の balance感覚 を行使して過去(歴史)・現在、未来 を眺められるか?だろうと私は思っているからです。歴史(過去)は、その人(その国)の立場によって、コロコロと変わるものです。そして、それを 利用しよう という立場の人々も沢山います。日本書紀 でさえ、、、、歴史を利用した書物であり、歴史(過去の出来事)というものは、利用しようと思えばいくらでも、その国、その国民、個人の思想や価値観、善悪へ影響を与えることができるものであります。だからこそ、その国(その人)の歴史(過去)観 を見れば、その国(その人)の 品性 を理解することが可能である とも言えます。歴史教科書問題 というものが大きく取り沙汰されて久しいのですが、このことが大問題とされる理由は、歴史(過去)というものが現代社会・現代の人々に与える影響力の大きさにあるということなのだと思います。このことを別の言葉で言い換えてみると、世界的に認められている世界史観が、どこの世界、どこの国、どこの国の人々にとってもより普遍的で、よりバランス感覚に優れたものであれば、その時代の世界の質(品性)は高いものである と言えるでしょう。こう考えてみると、今の世界(世界状況)はまだまだ、どこの国も、自国にとって有利な世界観を押し付けようとしている風潮が明らかでは?と感じています。”地球はまだまだ、発展途上世界” といえるかもしれません。***************balance感覚 を行使して過去・現在、未来 をみる感性で物事を捉える言葉にしてみると、なんて簡単で素っ気ないのでしょうか!!・・・・・・・しかし、ここにも大きな落とし穴が潜んでいると私は感じているのです。客観に陥いることは、主観に陥るのと同じぐらい弊害がある と感じているのです。徹底的な客観に身を投じるならば、主観も徹底的に撲滅していかなければ、大変危険であると私は感じているのです。なぜなら、徹底的なbalance感覚が己(主観の元となるもの)に向けられたとき、己(主観の元となるもの)の拠り所とも言える、パーソナリティ というものを徹底的に批判し始め、それに大打撃を与えることになりかねないだろうと思うからです。****************夏という季節、まもなく日本は、原爆投下・終戦記念日ですね。私の脳裏には、炎天下と耳を劈くような蝉の鳴き声、汗を流しながら黙祷するふるさと(日本)の人々の姿が浮かび上がってきます。この歴史的事実を、個人が、日本が、世界各国 は如何に捉えるのか?感情的な主観によって捉えるのか?感性という一種のバランス感覚を行使するのか?戦争のない平和な未来 という言葉が示す状況が、夢のままなのか?現実となるのか?は、きっとこの辺にかかっているのでしょうね。以上が、”感性でとらえるか、感情でとらえるかは品性による”ついての現段階の私の考察です。あなたの口から、いとも簡単に飛び出してきた、たった一つ言葉の意味を理解するのも、私にはまだまだ、時 が必要なようなのです。にほんブログ村
2013年08月07日
"感性で捉えるか 感情で捉えるか" この記事は、自分の過去を擬人化させて書簡形式で記述してみました。 感情(思い入れ)のために、振り返れなかった過去というものを、感性を使うことによって、対象(過去)を抽象化させて認識したかったのかな?そうすると過去を分析しやすく、感情がないぶんすっきりと、現在の私が認識できるんじゃないか? と思ったのです。 感性は物事を抽象化して感じる能力 ということかもしれません。 (感性の定義らしきものは、曖昧な、つかみがたい対象を直感的に認識する能力だそうですけれど・・・) 年を経るごとに過去とか故郷というものは いとしく(愛おしく いと惜しく) なっていくようです。 だからこそ感情ではなく感性に訴えたかったのです。 簡単にいうと、ノスタルジーという実に感傷的なものを、知覚のほうへ訴えたかったのかな。 ですから、私の生まれ故郷と生まれ故郷にかかわる方々、 そしてもっと大きく捉えると 日本 という母国に宛ててかいたのです。
2013年02月06日
お元気でしょうか? 山々は真っ白でまだ冬将軍が鎮座していらっしゃいます。山から吹き降ろす風が額を刺激するからでしょうか私の瞳からは涙がぽろぽろ、ぽろぽろ流れ落ちるほどです。朝がきて、夜がきて、私を含めた風景のなかで私の前にさしだされた言葉や事象に私なりの言葉を返し、対応をし、時が流れていっております。そんな時の流れの中の、目に飛び込んでくる自然の美しさに自分の姿をみたり、あなたの姿をみたりいたします。思ってもいなかった過去の一風景が脳裏に映ったりすることをひどく恐れていた時期もありましたが、この穏やかな時のなかでは”こんなふうに過ごした頃があったのね”っとふと笑みをもらせるようになりました。 私のように、生まれ育った環境を置き去りにしてきたような人間は、私の人格同様、私の過去も捻じ曲がっていたり、部分的にひどい傷がついていたり、ある部分が欠けていたりしていて、振り返るにはまずそれらの、途切れたり、折れ曲がったり、ヒビが入っている部分をつなげる作業をしないことには眺められないところも多々あるようなのです。 そういえばあなたが、こんな言葉を私に下さったことがありましたね。”感性でとらえるか、感情でとらえるかは品性による” 私はこれまでないがしろにしてきた、自分が過ごして来た時間というものを、あなたに頂いたこの言葉にしたがって眺めてみようっとそんな気がしてまいりました。 私にとってあなたは過去ですが、感性によって、現在の私の中に存在していただけたらっと思えるようになったからなのです・・・コメントはこちらへにほんブログ村
2013年02月04日
DSC00252 posted by (C)maryam f dDSC00257 posted by (C)maryam f d今年作った酢漬けですが、食べられるようになりました。上は、にんじん・セロリ・なす・カリフラワーにハーブとスパイスで作った。下は、アセロラのピクルス。甘酸っぱくて美味しいよ。どちらも自家製のりんご酢を使用。数日前にこんな夢をみたのを思い出した。寝室にいるのだけれど、なぜか父の神棚があった。父のために、お供えがしてあった。(実家は神道で、父がおいていたものとそっくりだったから。)その横にしらない、若いふっくらとした人好きのする女性が立っていた。彼女は私にこういった。貴女がお父さんのことを思い出してくれることをお父さんはすごくすごく喜んでいるんですよ~~~。お父さん泣いて喜んでいますよ。私は夢の中でお父さんに伝わっているのね?伝わっているのね?そして涙が溢れてきた。目が覚めた。泣いていた。そしてあまりにもナマナマしい夢で興奮していた。そして嗚咽して泣いてしまった。その時は寝ぼけていて頭が働かずにわからなかったのだけれど・・・これは、、、私が父の命日に食事を作ってアフガニスタン労働者に配った善行がしっかり父に届けられたのだと思った。そしてまたこう確信した。此岸も彼岸も繋がってる!!って。コメントはこちらへにほんブログ村
2012年11月09日
父の命日だったのでイラン風に料理を作ってアフガニスタン労働者に差し上げました。父との思い出を心に浮かべながら料理を作りました。 Gheimeh という、日本のカレーライス的存在のお料理です。ほとんどのイラン人に愛されている庶民的なお料理です。おこげが素晴らしい出来だったので、ひっくりかえして撮影致しました。 今朝、義母に褒められました。お世辞抜きだとわかります。私はそんじょそこらのイラン人主婦よりもよほどイラン料理が上手いです。(和食はダメ!作ったことない!!)自画自賛ですが、事実です。息子は友人宅で御飯を食べるのを嫌がる程です。 今回は9合御飯を炊きました。まだお料理のほうが残っているので 、今日は空手教室のあと、再び御飯を炊き、ポテトを揚げて、労働者に差し上げたいと思います。この寒空に身体を横たえる場所らしい場所もなく、日本の浮浪者に近い形で過ごす 、アフガニスタン労働者がテヘランにはたくさんいます。そういう方々に暖かい、美味しい食べ物を口に入れて、暫し、この世の憂きを片隅に追いやってもらいたい っと心から願って・・・・ コメントはこちらへにほんブログ村
2012年10月30日
私は自分では無意識に相手をびっくりさせ、呆れさせてしまう時があるらしい。これに気がついたのは多分、小学校の2年生ぐらいだったと思う。でも相手は幼かったからそれを私に突きつけたりすることはなかったけど、一瞬その場の空気を停止させてしまったのが私であることは、私も周囲もわかっていたと思う。そして、やっぱり、ちょっと変わってる、、、っていう結論が出ちゃうらしかった。私はその時、これが私なんだけど、あら、見られちゃった?って平然とするしかなかった。空気を止める事柄とはなんの事もない、大したことでもない。なんの気なしに口をついて出た言葉だったり、鼻歌が出たりして、それがこういう結果になることは良くある。でも、自覚してからは周りに迷惑かけないようにしているし、できるだけわからないようにはしている。それはいじめられるからとか、自分にマイナスになるから、気づかれないようにしているというよりは、面倒くさいから。いちいち説明するのも面倒だからだ。 なぜ、こういうことが起きるのか思いを巡らせてみると、おそらく私は幼少時から、自分の世界を持ちすぎたからだろうと思う。しかもその自分の世界とは、私にとって何より大切でそれがないと生きていけないのだ。 別に誰に理解してもらおう・・・とは思わないけど、私にはなくてはならないもの。その自分の世界のものを、ちょとしたきっかけとか弾みで、見せちゃうと、あるいは見られちゃうと相手はびっくりするらしい・・・・ 多分彼らが容易に忘れ去ったり、捨ててしまったものが私の中にあるんじゃないのかな。それで驚くらしい・・・多くの人はもっと日々を上手にやりすごす技を早くに修得していたんだろうな・・・と思う。私は自分の世界を大事に胸に秘めながら、ギクシャクと日々を暮らし、ストレスのため洗練されなくて、でも自分の世界には、過去に捨てられなかったものとか、忘れられなかった物が、ガラクタのように一杯なんだと思う。それをちょっとした拍子に見られるときっと驚かれるのだろう。しかし転換期がやってくる。。。自分のそういう部分を見せられるようになりこうやって書いて人に見せるようになったのは2010年末・・・私がボロボロになる直前にどういうわけか、どうしょうもなく 死 というものばかりが頭や、心を覆うようになってそれがたまらなくて、いてもたってもいられず、ここに書いた時からだった。その後、義妹3の旦那は倒れて、急逝した。私は大病して、そのまま心が破片のレベルに壊れ、そのついでに今まで大事に鍵をかけていた扉の閂がすっ飛んでしまったみたいなのだ。にほんブログ村
2012年09月02日
5月9日が結婚記念日(結婚式挙げた日、入籍は半年前)だったことを、大切な友人が教えてくれた!私もすっかり忘れていたけど、夫も忘れていた。満16年が経過した。あっという間のような、長かったような。結婚した時は、言葉を覚えられなかったらどうしよう・・・って深刻に考えていたもんだ。結婚12年ぐらいまでは、とにかく必死だった。そして、そんな必死な自分に疑問を抱いたら、ものの見事にコケて、深い穴に陥った。結婚相手って夫だけじゃなかったのね!それが私の、自分の結婚に対する感想。イラン・イスラム・嫁ぎ先の諸々なこと、親戚、家風、文化、習慣、言葉イランに住むって決意したことで、こういうものと再び婚儀をした感じ。病めるときも、健やかなるときも・・・云々それに はい と答えたのは 自分 だったんだからね。明後日の金曜日は、イランの 母(女性)の日 。そして、今年は私の43歳の誕生日でもある。なんだかんだ、43年間生きてこられたんだな。私が生まれたのは日曜日。5月の第二日曜日。 やはり 母の日 だった。母が亡くなったのは2002年の2月。母の日であり、誕生日でもあるこの日は、 母の為に、感謝の気持ちをこめて、心から祈ろうと思う。 にほんブログ村
2012年05月09日
嫁いだからには 仕方がないことなのだけど・・・ 以前 義両親から 豚肉やアルコールなど食べている人たちは汚い とか 母を亡くした父のもとに 行きたい と思っても 父親のところへ行くなら 神の家 メッカ に行けとか 言われたことがあった それに私は はい と答えた 答えたのだ!!! 心の中では正反対のこと叫んでいた 悲しくて 怒りに 燃えていたのに それでも はい って言った 言いたいことも 思っていることも言えなくて そうやって過ごしてきた 日本に 日本の文化に 習慣に 伝統に 季節に 気候に 風土に 目をつぶって 自分の中から押し出して ここに染まろうとしていたんだろう 必死だから わからなかった それが一昨年 義両親に冷水をかけられて 壊れた 壊れて 自分の中が 無 だったことを知った 今まで築いていたものは 砂 だったんだってね そしてね イランとか イスラムというものを 追いかけるのをやめたくなったの 一昨年 自分が壊れたとき 自分が 無 だったことを知った 自分の感情を殺して 今まで生きてきたのに気がついた 私には 家庭があり 優しい夫 愛しい息子 温かい生活があった そういうもののために いつしか 自分 を削っていたのだろう 壊れたとき 無 だった 今まで私は 砂 を重ねていただけだと思った 現状を 維持することに あまりに必死で 我武者羅で そのことにさえ 気が付けなかった のだと 自分が手にしている 幸せ と言われるものでさえ 風の前の 塵 に思えた ただ、走っていた ひたすら 自分の怪我や体調や熱があることも忘れて そして 止まったら やっぱり大破した 喧嘩をするほどの覚悟がないと 思ったことが言えないのだ 私には これまで私は イスラムを砂を噛むように咀嚼して 少しずつ飲み込んできた でも 全く考えてもみなかったのだけれど・・・ ことあるごとに考えさせられて 大破したあと 自分を立ち上がらせる杖になったのも イスラム だった 敵でもあり 味方でもあった なんでも 受け取り方 使い方 なのだろうと思った・・・ 追記 片足を少し前に出し、 体重は左右の足にそれぞれ50%ずつかけ、 身体は斜め 45度、顔は正面 0度 これを空手で組手構(くみてがまえ)という。 このように構えると相手の突きなど、攻撃をまともに受けなくて済む。 にほんブログ村
2012年04月16日
日本の桜には、なんとも言えない想いがあります。イランの桜には感じません。日本に咲く桜に感じる特別の想いです。桜の花をみると、その年に生まれてくる子供たちの顔や姿と重なります。亡くなっていく命と、育まれる命と、散っても再び、春になると毎年花を咲かせる桜と重なるのです。刹那ですね、人の命は。刹那だと知って、なお力の限り生きる命はきっと桜のように美しいのだと思います。祖国の地で、震災で亡くなられた沢山の人々の魂が平安でありますようにと、毎年桜の季節が近づくたびに願わずにはいられないでしょう。にほんブログ村
2012年03月04日
実はこの前の 冥福を祈る という記事は ひなたぼっこねこさん の包丁に関する記事を拝見していて、思い浮かんだのです。私、、、どうして急に彼のことを思い出したのか?確かに彼の命日は近いのですが、、、、それは、ひなねこさんにコメントをしてから気がついたのです。それに、彼の命日にはまだ日があるんですよね・・・毎年、母の命日が近いので思い出しますが、母が亡くなる前でも私は彼の命日を不思議と、思い出します。ただ、もっと直前になると思い出したのです。今年は、母の命日より先に、何かが舞い降りたようにひなねこさんの記事を拝見して、彼のことを思い出したのです。そして、どうしても書かずにはいられなかったのです。彼との別れは一方的で未だに許せないし、一生許せないのですけれど・・・そんな辛い別れ方をしたけれども・・・彼とは今でも、思わず吹き出してしまうほど、可笑しい思い出があって、それは、彼の両親と彼をこよなく愛していたおじいちゃんにお悔やみを申し上げに彼のご実家を訪れた時に見た、日本海の寒く、厳しい表情とは、全く正反対の、、、底抜けに明るい、温かさで私の心に存在しています。これは、彼が私に残してくれた 救い です。本当にくだらない思い出なんです。でも笑っちゃうの。。。。彼はなんで一瞬の出来事だったのに、あんなことをした私の姿を見たんだろう?ってね。童心にかえった、小学生の同級のなんでも言い合える幼馴染ののように、私を冷やかす彼に、、、私は自分がそういう行為をした、その正当な理由すら、その時にあんまりにも、あんまりにも、笑いが止まらなくって、彼にちゃんと言えなかったのです。最後の最期までです。そこまで私を笑わせてくれ、私と一緒に笑っている彼の子供のような笑顔が・・・私の心に刻まれているのです。どうか、どうか、彼のために皆様も 冥福を祈って ください。にほんブログ村
2012年01月30日
母の命日は 2002年2月8日。そしてそれより前に亡くなった 彼 の命日は 1991年2月の7日・・・私は、、、新潟燕三条の包丁セットを大学3年生のときにいただきました。大学時代の友人が自殺して、そのご報告というか、、、最期に彼に会ったときの様子などをお話にいったとき、別れ際にご遺族(お父様)からいただいたのでした。私は彼がなくなる7ヶ月ぐらい前に、1度だけ同じ舞台で彼のギターで、歌ったことがありました。彼(友人)のギターの技術は素晴らしかったです。まったくどこにも 力 が入っていないのです。ギターは 彼の一部 で音を奏でているといった感じでした。そして、軽やかで、リズミカルで、羽をつけたような音色でした。いつも物事を斜視していたような、いっそ、そのプライドの高さと、譲れない高潔さのままに、世の中を見下し、笑い飛ばせたら自殺することはなかったんじゃないか?と私は思っています。でも、彼はそこまで、冷酷でもなかったし 図々しくも、我侭でもなかったし、なれなかったんだと思います。私が 日本海 をみたのはこの時が初めてで、その後、見ていません。2月の新潟、、、、とても寒く、高波で荒れていました。私の心の中を景色にしたようでした。その光景が未だに目に焼きついています。包丁は大切に手元にあります。○○ちゃん ご冥福を願っています。にほんブログ村
2012年01月30日
息子が生まれて間もない画像を見ていてとても懐かしくなりました。息子は生後10ヶ月には体重が9キロありました。小錦のように首がなく、そういえば太腿もスペースがなく股ずれしていましたよ。亡父があまりに太っていると非常に心配していました。母乳で育てていたのですが、私の母乳とても脂肪が豊富だったのです。母乳がたまって胸が痛くなったときに器具で搾りそれを冷蔵庫に入れると上に生クリームのように脂肪が厚い膜を張ってましたから。そんなものをお腹一杯吸って育つとこうなります。上は生後3ヶ月の画像。下はたぶん1ヶ月未満だったと思います。しかし息子はその後、、、、5歳になるまで体重はそのまま10キロでした!!さすが私の遺伝子をもつ子。今でも5歳のときからきている長袖Tシャツを着ています。私も幼少時代、亡母から なんて経済的な子供なの!! って言われたのでした。にほんブログ村
2011年12月01日
皆様方へ義父は幸いなことに検査の結果入院は免れました。ご心配をおかけいたしました。ここのところしばらく、心身ともに衰弱していたので見苦しい記事ばかり続いておりました。その上時間までなくしたら見るに耐えないものになるだろうと思い、休ませていただきました。私がネット上に記事をアップするようになって初めてのことです。・・・・と書いても、以前はそれほどアップしていなかったので突っ走ってきたのは去年のちょうど今頃からです。私は昨年の11月18日から 死 ということばかり付きまとってました。そして12月18日に義妹の旦那が急逝いたしました。私自身は12月の10日すぎから体調を崩し、一ヶ月間に5キロ痩せました。回復するのに3ヶ月を要しました。悪性ウイルスの風邪(たぶんインフルエンザ)に疲労、心労が重なりその上自身と夫の多忙を理由に医者にもかからず悪化させました。冬は私には厳しい季節のようです。しばらく英気を養います。もちろん思い浮かんできた言葉は書き留めておきます。それほど長い期間にはならないはずです。皆様のブログにはもちろんお伺いいたします。そしてまたよろしくお願いいたします。maryam f dにほんブログ村
2011年11月17日
自分の人生を考えると一生懸命ではあるけれど、なんとまあ、、、全く根拠のない思い込みで成り立っているのだろうかと。私は幼い頃から結婚にはなんの夢も希望も抱いておらず、私が最も嫌う、、、平凡の繰り返し、現実的なものであるのだろうと思っていた。ただし、私は自分の子供だけは切望していた。理由はなかった。唯どうしても自分の子供が欲しいという”熱意”は小学生の頃から持っていた。高校だったか?大学生だったか亡き母にもはっきりと私は話していた。子供を30歳までには生みたいから結婚は30歳前にするから・・・と。私の結婚の目的は子供だった。シングルマザーという選択肢も考えたけれど、出来れば子供のために父親もいてくれたほうがいいかな?と。私は27歳の誕生日を迎える2日前にイランで結婚式をした。届けはその半年ぐらい前だったけれど。これも根拠のない思い込みだったのだが、、、私は自分はなかなか妊娠しないだろうということもわかっていた。結婚前、夫に 私は妊娠しないかもよ と明言していたから。そして結婚して1年たった頃からずっと不妊治療をしていた。イランでも日本でもずーっと。この治療によっても私の身体はずいぶん傷ついたと思う。(生まれつき体力は人並みの半分だったが)32歳のときにマレーシアへ旅行したことがあった。そこで中国系の女性手相観さんにみてもらったことがあった。彼女は手相と易で鑑定していた。夫は私より先に観てもらっていた。しかし、私たちは夫婦であると彼女には言わなかった。彼女は私にこういった貴方は普通の結婚では上手くいかないよ。貴方は日本人?日本の人とは上手くいかない。方角的には北、西がよい。(夫には全く逆 東、南が良いといっていた)そして色は 白、黒、そして金属、石そういうものと相性がいい。(夫は 緑、赤、木に囲まれていたり、木製のものがいいといっていた。)私は彼女が言っていることが良くわかった。夫に必要なのは 私が生まれつき備えた日本的なもの、私に必要なのは 夫が生まれつきそなえたイラン的な無味乾燥、”容易には発火しない火がつかない”そんなもの。(イランの家一つをとってみても、壁も天井もレンガやタイルや石。床も階段も石でできている。)そして夫を指差して この人と結婚するのがいいよ と言った。もうひとつもしも貴方が30歳前に結婚していたのならば子供ができる。今後の2年間は特に子供ができる可能性が高いよ とも言っていた。私はその後、すばらしく腕の立つ医者をイランでみつけ、初診から1年しないうちに息子を出産していた!(本当にすごい医者でした)不妊治療は1度でも経験のある人ならばご存知だと思うが辛い、お金がないと治療出来ないし、身体にかかる負担が重く、ストレスも重い。私にどうしても子供が欲しいという強い思いがなかったらきっと私は息子を授けてもらえなかっただろう。そして、現在の私にとって息子の存在がどれだけ大切なものであるか・・・ということもこの1年間 ”ヒシヒシ”と感じている。私は唯一息子の存在によって 自分では決して抑えられない衝動、性(さが)、本質のようなものを修正できるのではないか、、、というような”希望の光”を感じている。かといって私は 彼を自分の人生の支え にしているわけではない。彼は彼の足で彼の人生を、私がどう彼と関わろうが歩んでいかなければならない。そして、彼もそれを望むことも私にはわかっている。彼も私に似て独立心が旺盛だから。私にとって重要なのは 彼が私の息子としてこの世に存在し、私が彼の母であるという1点である。にほんブログ村
2011年09月30日
二つの記事で掲載した2枚の写真の頃のことをアップします。6面体劇場 より画像拝借何かに煽られて 2011年9月3日 記幸いなことに私は学生時代、私が好きだった人が女性と特別な雰囲気で会話しているような光景を目にすることがなかった。彼に対して好意を抱いているであろう女性の存在は気がついていた。それは私が少なからず彼に好意を抱いていたのだから自然なことだと思う。彼が私とAさん(当時私が一番話しをしていた人)のことをどのように思っていたのか私にはわからない。意外にもBさんとの電話のことには反応を示した彼だったけれどAさんのことには無反応であったから。私のことをお見通しだった彼のことだから、私がAさんとは深い関係にはならないとわかっていたからなのか?それともAさんのことを信頼していたから私が彼と特別な関係になったとしても何も言うつもりはなかったのだろうか?私にはわからないけれど。実際私はAさんとは、他の男性よりもいろんな話をしていたものの、帰路が同じ方向だったので、たまに一緒にW駅からT駅まで歩いて帰っただけの関係だった。一度だけAさんの身体に触れたことがあったけれど、Aさんが私の前でギターの練習をしていたときAさんの手の大きさにびっくりしてどのぐらい大きさに差があるのか単なる好奇心から、左手をを重ねたことがあっただけ。それも僅かに触れたといった程度のものだった。でも、その時にAさんが私の手に神経を集中していることが感じられた。それはそのまま私という存在に対するものなのだということが痛く(甚く)感じられた。だからその後はAさんとの距離が近づかないように会話にも気をつけるようにしたと思う。Aさんと私の関係に亀裂を生じたあの日、Aさんから彼(私が好きだった人)がある女性とお付き合いを始めたというようなことを聞いたとき、私は根底が揺さぶられ、そのショックを隠し平静を装うために、意識が完全にその場から離れてしまっていた。Aさんが自身の思いを私に打ち明けるまでには私が大打撃を被った後、おそらく1、2時間はあっただろうか。私にとっては苦痛の時間だったので長く、長く感じただけかもしれないけれど。私の心の半分は空を彷徨い、もう半分は奈落にあった。一人になったらいくらでもどっぷりと奈落の底を味わうから、せめてAさんと、Aさんの友人の前では平静を保ちたいと必死だった。心がある場所のほうが現実よりも現実である認識が強く、心の半分で、その自分の心をその時間だけでも自認しまいと打ち消していた。実際にみたり、きいたりしていたことが夢のような気がしていた。記憶が非常に曖昧でその時も、現在もその日のことをあまり思い出せない。Aさんに連れられて、Cさんに文学部の建物だとおもわれるところで会い(この時に私は、私が好きだった人とある女性とのことをAさんから聞かされた)その後、Dさん?だったか誰かの下宿所へ歩いて連れていかれた。もう一人ぐらい会ったひとがいたかもしれないけれど、、、憶えていない。私はその日もいつものごとくAさんと20分ぐらいT駅まで歩いて帰るだけだと思っていた。早く一人になりたいと切望しつつも、どこへ行くのか?何をしたいのか?どれぐらい時間がかかるのか?Aさんに尋ねることすらできなかった。自分の心をAさんと分かち合っている空間に引っ張りたくなかったから。耳から受けた大きなショックの後でさえ、それが事実とは思われなかったのだが、もしかしたら事実だったのかもしれない。ただ彼(私が好きだった人)が女性(私自身も含めた)と真剣に交際するであろうとは私には考えられなかっただけかもしれない。それはともかく、私にとって重要だったのは、それが事実であっても事実でなくてもそういうことを聞いた後に、私が受けた大衝撃だけは紛れもない事実だったということ。私が彼に近づけなかった、近づこうとしなかった理由をその瞬間に身をもって知った。(私は彼に指一本ふれたことはなかった、話もいつも突然始まり、突然終わるといった会話とは言えないものだった)Aさんからこんなことを、彼に関する根も葉もないだろうことを聞かされただけでこの大打撃・・・これほどまでに彼のことが好きなのかと、認めたくないけど認めざるを得なかった。結局私は彼と一緒にいたら、彼の音楽や創作活動に対してさえも嫉妬するであろうと思った。嫉妬の気持ちを自分のなかに抱えこむことだけは避けたかった、耐え難かった。しかも相手は人ではないのだから・・・そんな情けない、惨めな、虚しい自分の本当の姿を彼に知られること、それを、自分に対して許すことが私はどうしてもできなかったのだと思う。もちろん当時の私にはこんなにはっきりと自分の気持ちを認識できたわけではない。ただただ、彼以外の人のことだったら全くたいしたことではない情報をきいて自分がこんなにも動揺したということしかわからなかった。もっと自分のことをはっきりと書くと、、、もしも、彼の友人としてAさんと知り合わず、Aさんと結婚し、結婚後も彼が音楽活動を続けたとしても私は音楽にも、極端な話、、、Aさんの女性の交友関係にもきっと嫉妬をしなかっただろうと思う。(私がAさんの好意、誠意に応えなかったのは唯、Aさんと私が好きだった人が友人だったことが理由だった)Aさんが別の女性と特別な関係があったと知ったら、私は何の迷いもなく自分の心を冷やすことができたし、結婚生活にも終止符をうつこともできただろう。でも彼が相手の場合は、それができなかったのだろう。Your swelled thing flies...Your swelled thing flies...Your swelled thing is a virgin,at first, it's love.君の心を揺さぶるものは飛んでいった君の心を揺さぶるものは飛んでいった君の心を揺さぶるものとは 純潔、そしてまずそれは 愛これは あの日私とAさんの関係に亀裂が生じた日のことをAさんが書いた詞なのだと思う。私は長い間、Aさんはあの日の私の中に何をみてこんなことを書いたのだろうか?愛とは?純潔とは?・・・わからなかった。でも、 swelled(膨張させる というのが元々の意味。感情の高まり、ある思いがこみ上げる、一杯になるという言葉に置き換えられるだろう)という言葉は 煽られる という彼(私が好きだった人)の詞の言葉に通じるものであると最近感じた。踊れ、踊れ、踊れと 何かに煽られて ( 花 音楽 ”かなheaven” より)何かに煽られて・・・全くその通り、これ以上の言葉もこれ以下の言葉も私にとって彼という存在に対する言葉はない。それは、おそらく彼にとっても同じことが言えるのだと思う。そしてそれが ガラスの壁の正体。突き放そうにも突き放せず抱きしめようにも抱きしめられず彼が当時言っていたように限りなく抱きしめるために、限りなく突き放す こういう矛盾が生まれたのだと思う。潮の干満を生む月よ満ちたり欠けたりするが決してなくならない月よ月よ、月よ美しい今宵の月を愛でよう、遠い異国から、遠い日本の月 を思いながらにほんブログ村
2011年09月12日
今日は日曜日です。日本は台風の被害が大きいようですね。お見舞い申し上げます。浸水した家の後始末は大変でしょう。雨はあってもなくても被害がでる農家の方々、その心境はきっと複雑であることでしょう。こちらは十日ほど前の雷雨がテヘランの周囲の峰を白くしました。テヘランは春と秋が関東に比べ短いです。あっという間に暑くなり、あっという間に涼しくなります。今、姉とスカイプで画像をみながらおしゃべりしました。姉が携帯を変えたので常時スカイプに接続するようになったので連絡がとり易くなりました。本当に便利になったものです。一時期200以上もあった姉の血圧は薬でおさまっているようで良かったです。私はリュウマチのステロイドの薬で血圧が高めになっても100-110ので、薬をのんでいなかった頃は100前後で、風邪などひくと90でした。私は血圧が130になるとフラフラして息切れがします。低すぎても同じような症状になります。一卵性双生児として生まれても環境や生活習慣でこれだけ異なる体質になるのでしょうね。110904-105539 posted by (C)maryam f d今日のテヘランの空。台所から毎日眺めている景色です。(webcamの粗悪な画像で失礼いたします。)私はどうも坂の町に縁があるようです。眼前に広がる光景は全くことなるけれど育ったところも標高90メートルから海が眺められた。横浜の高台にも4年住んでいました。海が恋しくなりました~~~~。にほんブログ村
2011年09月04日
私は両親と縁が薄い娘だった。 それを自ら望んだ部分もあったので スマナかったなあーーー と思う。 父は高校卒業したら、地元で就職して結婚してほしかったのだと思う。 勉強して夜遅くまで起きていたりすると怒鳴られた記憶があるほど。 私は県立の女子高出身だけど、そこの出身だったら、地元では就職も結婚も困らないだろうと言われているような高校に通っていた。 毎朝5時におきて片道2時間ぐらいかけて。。。 無理することはない、背伸びすることはない、もっと楽な人生をこの自然豊かな美しいところで生きられるだろう? っという父の思いは痛いほどわかっていた。 でも、私にとっては、そんな自分の人生は一度も考えたこともない全くありえないことだった。 今思うと当然かな、、、 日本を通り越してイランにきちゃったんだものね。。。 にほんブログ村
2011年08月08日
IMG_0101 posted by (C)maryam f dこの母の字は私の字よりも、双子の姉の字に似ている。母はときどき、、思い出したように俳句をつくっていた。母方の祖母が一番沢山作っていたと思う。その次は母の姉、、、伯母は今でも作っていると思う。(母がこんな歌まで作っていたとは。。。姉たちにこれを送ってもらうまで知らなかった。)大学1年のときこんなことがあった。2日ほど前に姉に手紙を出していた。郵便受けをみたら、、、あれ?あて先間違えたのかしら?っと思ってアパートの中に入った。しばらくしてからどうしてかな?と手紙をみたら・・・よくみてみたら、私の字ではなく姉の字だった。姉と私は同時期に、数あるレターセットの中から同じものを選んで手紙を書いていたのだった。私と姉は母の字を元に似たような字を書いていたから・・・ぱっとみはよく似ていた。この字はぱっとみると 姉の字 に見える。母の母は、、、母が交通事故で亡くなったあと10日後に亡くなった。入院していたので母の死はしらせなかったが、母が運ばれたのが祖母が入院していた病院だった。祖母は何かをかんじたのだろうしきりに 洋子はどこ?洋子はどこ、、、どこ?っと看護婦に尋ね、連絡をしたがったそう。母は祖母の看護をして疲れ、少し休むために家に戻る途中で事故で亡くなった。にほんブログ村
2011年08月07日
元同僚だった年配の(私の両親よりも御歳が上の)書家の先生の夢を3回みたのだが。。。この間の日曜日に3回目の夢をみてとてもとても気になって、気がかりで、その衝動は抑えがたくどうしてもどうしても我慢できなくなって・・・先生の電話番号もっているの思い出し、手帳をさがして、電話しました!!!先生は私などが電話してよこすなどとは全く思いもしてらっしゃらなかったのでしばらくきっと記憶をフル回転に遡っていらっしゃたことでしょう。。。お元気そうでした。すごくびっくりなさっていました。よく電話番号を。。。ともおっしゃった。先生は私が退職したあと2年後に定年退職なさって、都内から地方へ、ご自身の出身地へ引っ越されていたから。私はもう75歳なのよ、毎日が日曜日になっちゃったのよ とおっしゃった。私は40歳で息子と空手はじめましたといったら私も一時期 剣道 がやりたかったけど、、、まあーーーそうなのそうなの。。。今日 HIRO ちゃんの声きいたから明日から頑張るわっておっしゃってくれたのでした。にほんブログ村
2011年08月04日
ハーブを1キロ、サラダを作る。そして本日必要ではないディルも購入していた。ハーブも今日の人数だったらこの半分で十分だったはず。2時間かかった。(この後まだ接客、後片付け、皿、鍋洗いがある)よほど私に仕事をさせたいのか?一ついえることは昨日お客がきていて、膝の水をとり、注射してから日が浅くこういう状態の自分の娘には決してこういうことはさせないであろうということ。私は息子の世話さえほとんど義母に頼まなかった。ほとんど!彼女も愛娘の義妹4がちょうど息子とは7ヵ月半違いの娘がいたためこの孫の世話を良く見ていた。私が義母を心から必要に思ったときは1度だけ。そのたったの一度の機会さえ彼女は助けてくれなかった。私はその日24時間泣き続けていた。息子は母乳に満たされず、ひっきりなしに泣いていた、亡くなっていた実母がいてくれたらと、、、泣いていた から。息子は病院の器具の中にいた。イランの病院は女性の部屋(二人部屋とか複数の部屋の場合)は男性は入室が制限されている。夫は手伝いたくても手伝えなかったのだ。私は、身体を横にすることもできなかったし、そして50時間以上睡眠もとれなかった。出産して1週間も経っていないときだった。帝王切開で出産した私のおなかの傷口はほんの少しからだを動かしただけで激痛が走っていた。夫は子育てを助けてくれたと断言できる。私はきっと、ずっとこのことが心の底にあったのだろう。今書いたことで、この義母に対する心の底にある思いが消えてくれるといいと心から願う。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011年07月18日
これが、私が愛してやまない海と空、 故郷の景色です。2008年6月から1年間日本に居たときに撮影した画像です。画像が置いてある場所画像下にあるリンク場所へいくと元の画像の大きさでご覧いただけます。美しい国から 青空みたい (花 音楽より)IMG_0081 posted by (C)maryam f dIMG_0070 posted by (C)maryam f dIMG_0069 posted by (C)maryam f dIMG_0068 posted by (C)maryam f dIMG_0061 posted by (C)maryam f dにほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011年05月24日
おばばさまの思い出に甚く感動したここ数日、そして友人のコメントにも触発された故、学生時代の思い出を少し私も書こうとおもった。夜が怖い、、、私は確かに大学時代までそうだった。大学の3,4年のときに住んでいたのは、都内の安アパートのしかも1階(2階のほうが家賃が高かったから)でクーラーも扇風機もなかった。肝の座った私でもさすがに夏、窓を開けっぱなしのまま寝ることは、侵入者が怖くてできなかった。アイスノン一つを頭にものすごい暑さと湿気のなか、どうにか、こうにか、眠りにつくか?あるいは夏休みなどは夜中は読書したり、書道の課題を作業したり、物書きしたり、音楽をきいたりして過ごし、(この間窓を開けていた)そして朝7時のニュースをみて午後まで眠りに就くといった生活をしていた。当時の私は生きることに疲れて、飽きていたし生理的欲求というものを嫌悪していた。食べること、排泄に対しては恨めしいような思いを噛み締めていた。できればこんなことはしたくない、、、みたいな。だから夏は アイスコーヒーときゅうりに味噌をつけて飢えさえ感じなければいいと思っていた。ある日いつものように食事?らしきものをしたあとしばらくして立ち上がったとたん、、、、胃痙攣だろうとおもうのだが、、、、お腹を抱えずにはいられず、うずくまって、うめき、うなり、倒れ込み、痛みはますます増し、あまりの痛みに気絶した。。。。。ということがあった。それ以後はコーヒーには牛乳をいれ、あまり冷たくしないように気をつけた。たまに素麺も食べるようにした。以下は大学生になってまもなくの話であるが、、、、都内に住んでいた従姉妹夫婦の家に数日泊まったことがあった。彼らの家の2階へあがる階段はかなり急だった。低血圧の私は目覚めは悪くないのだが、呆けーーーーが普段よりも一層ひどい。ある日目が覚めて階下へ降りようとしたら上から一つ目か二つ目の階段からものの見事に足を踏み外した。すべる様に落ちるという表現がふさわしかった。ボケた頭でも、指令し、必死に左(利き手側)の肘でスピードを落とそうと思うのだがそんなもんではブレーキは効かず、スピードはどんどん加速するばかり結局最後の一段まで落ち続けた。肘は打ち身と一枚皮が擦りとられ、、、、それよりなにより、鞠が弾むように階段に打ち付けられたお尻の痛み、、、、そして痛みだけではなかった。猿のお尻のようにまーーるく大痣ができていた。風呂がなく風呂屋に通っていた私は当時は、、、恥らい多き乙女であった一応あった私は非常に恥かしい思いをして、それでも週に1,2回は(普段は、ほぼ毎日通っていた)銭湯に通ったのではないかと思う。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011年05月21日
今朝は夫の大学の同級の話から、古い記憶を呼び覚ました。イランでは今現役の大学生というのは少ない。職業や家庭をもった30代、40代の人々が結構な割合を占める。夫(47歳)のように50歳近い人もいる。なぜならこの世代のイランの人々はイスラム革命のあとイライラ戦争があって学業どころではなかった世代だから。私の夫も兵役を、戦時に過ごした一人だ。私は日本もこうなっていくと言いと思う。学歴の肩書きが欲しくて、あるいは親の言うままに大学生をしている人々が私の時代にも沢山いたから。夫のある級友は、テヘランの地下鉄の火災時に作動するスプリンクラーシステムの管理者の肩書きを持つ人で夫曰く、良い地位にもいる人、家庭があり、子供もいる、体格の良い、立派なおじさん。。。とのこと。ある日彼が自分の演習の番のときに、女性教授に弱々しく、、、私は前ではなくて、自分の席で演習をしたいのですが、と願い出たそうだ。彼女はそれを許可した。ところが自分の席に座って演習をしようとしている彼を夫がみると。レポートの紙を持つ手はガタガタと震え、声と唇はその手よりももっと震えていたということだった。あまりのその様子に笑うどころか哀れに感じたと夫は言った。私と息子がその話を聞いていて。私は息子に君は、今やたらに人前にでると恥かしがるけど。。。今はまだ小さくて、かわいくて、、可愛そうに恥かしがりやなのねですまされるけど、、、立派な体格して、ヒゲでもはやして、恥かしそうにモジモジしてたら、、、全くいただけないよ。。。。。と言う言葉が口を突いて出た。それである光景を思い出したのだ。。。。それは遠い記憶で私が小学4年生だったときのことだった。私は身体が小さく、痩せていたが マルス(火星)のような性格でスピードがあり、行動的、ガサツ、思ったことははっきり言う、男の子ような性格だった。同級の男の子に 身体は大きく体格も良いのだがとても繊細なデリケートな子がいた。私はその子にまったく悪い思いをもってなかったのだが、誰かの言葉に言い返しもせず めそめそ する態度に、自分の気持ちをはっきり言わない ウジウジ な部分は彼のためにはならないと常々思っていた。ある日私はそのことを彼にはっきりと言った。何がきっかけでそんなことを言ったか覚えていなかったが。彼も私も毎朝、ほとんど誰もきていないうちから教室にいたので、そのときを狙って彼に言った。おそらく私たちのほかにはあと一人か二人教室にいたように記憶している。私が言い終わったあとに彼は、、、私から一番離れてみえない机の下の中にもぐって大きな身体を窮屈そうに縮めて泣いていたのだった。私は・・・・たまらない気持ちになった。泣くならなぜ私に何か言わないのか?とも思ったが、それよりなにより 彼の心を傷つけてしまった罪悪の気持ちがあった。なぜなら、彼に涙は止められなくて、私の手前彼は泣く事を恥じていたから。私は彼に あんた 泣いてるの? もういいよ、出ておいでよ。と言ったら彼は、ごそごそと外へでてきて顔をしきりに手で拭いていた。そしてううん、汗かいたんだ。と言った。少しは私が言いたかったことが伝わったのだろうか?自分の気持ちが彼に伝わっているといいなあ。。。と私は思った。彼とはその後も普通に仲たがいもせずに中学卒業までごく普通の友だったと思う。彼がこのような性格になったのには彼の異様に過保護な母親の影響が大きいと小学生の私は思った。クラスの別の子は 彼の母親の彼に対する過保護ぶりを声色を真似て彼をいじめていたことがあったから・・・しかし私はそういうことには絶対加わらなかった。なぜなら彼は毎朝誰よりも早く学校にきて校庭を何十週となく走っていた。勉強もずば抜けてはいなかったが出来ないほうではなかった。そして彼はその一年でおそらく自分の体重を5-10キロも減量したように思う。私は毎朝、黙々と校庭を走る彼の姿に幼心にも感心していた。なぜなら私には 忍耐、辛抱、継続 ということが欠けていたから。私は集中力があるし、凝り性ではあるが決して辛抱強くはない。私が何か一つのことに熱中し、継続しているとしたらそれは断言できるが 忍耐 からではないということ。私が空手でも組み手でもきついことが出来、続けられるのは単に 好き だからだ。でも彼の努力は、粘り強い、我慢強いそういうタイプのものだった。彼は今何をしているのだろうか?お願いだから 妻や子供のいいなりに、あるいは上司の顔色を伺うばかりの生活だけは送っていてほしくない彼の忍耐が裏目に出ていないといいが・・・・と思うけれど・・・・にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011年05月05日
私は21歳のときにも打ちのめされ、最後の崖から落ちて、奈落に突き落とされるようなことがあった。その時私は一人ではなかった。そして私よりも下へ、奈落の底へ、突き落とされたその人は私のその時の姿をdespair という言葉で表現した。Ear-hole is similar to a skin.To tell the truth, similar to despair.The old woman applying eye lotion is similar to a virgin.....(他人の文章なので以下省略するが)彼は誰よりも私を理解しようとしてくれた人だったと思う。そしてそれは好奇な気持ちからでなく純粋に私を救おうという気持ちからだった。彼は私との距離をちょうどよく保ち、彼の広さ、深さ、暖かさは私にとってとても心地よく、安心できた。これほど一緒にいて気持ちの良い人はいなかった。ずっとそんな関係を彼との間に保てたらどんなに幸福だっただろうと思うがそれは許されなかった。彼と私は帰途の方角が一緒だったのでたまに一緒に駅まで歩くことがあった。その日もそうだった。ただ、その時の彼は普段とちょっと違った様子で落ち着きがないように感じられた。そしてその時は突然やってきた。彼の口からある言葉が発せられた。彼はその言葉に私がそんな反応を示すとは全く、夢にも思わなかったことであろう。彼は真剣に私を理解しようとしてくれた人ではあったが、結局彼も私を理解できなかった人の一人であった。でもそれは彼のせいでも、私のせいでもない。人は所詮孤独なものなのだ。私はその言葉を聞いたとたん、心が肉体を離れ、思考がとまり、自分を彼の前にいる間だけでも平常に見せるために現実を突き放してその場をごまかそうと必死に、本当に必死にしていた。しかしそのことを理解しなかっただけでなく、全く私の心を逆に解釈した彼は私をとうとう最後の崖から落とし(彼は私に近づこうとしたのだが)私の精神はまるでねじを巻きすぎた時計のように粉々に壊れた。私はただ(こんなに打ちのめされた私を貴方は、それでもまだ足りないと奈落へ突き落とすの?)と心を一切亡くしボロボロになった人の形をした人では無いもののように彼をみつめることしかできなかったその日は彼にとっても私と同じ、否、あるいはそれ以上に(なぜなら彼は私に対して、私よりも弱い立場にいたから)恐ろしい体験であったと思う。私は誠意には誠意で対応するのだけれども、彼に対してだけは彼との友情とか優しさとか思いやりを仇で、彼を奈落の底に突き落とすことで返した。The old woman applying eye lotion is similar to a virgin.....私はその時泣いていると自覚してなかった。心は肉体を離れていて、肉体のほうは条件反射のように涙を流していたのだろう。しかし心を亡くした涙は涙とは言えない代物だったのだろう。彼はそのことを正確に見抜いていた。だからこういう表現が生まれたのだと思う。にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011年01月08日
ここで生活しているとふと目の前に思い出す海。小学生までは夏でなくてもよく遊んだ海。中学のときは部活のランニングだと言って学校を抜け出し行った海。そうすると知らないおじさんがモーターボートでしぶきをあげて、沖まで乗せてくれたりした。今考えると危険なことをしていたと思うけど、当時は善良な人が多かったのか、危険をこれっぽちも感じなかった。小学生の頃は神社の木にお弁当を持ってよじのぼり眺めた海。私の木登りはこの年になって始まったことではない。今回は滞在が長かったので、この海の写真を撮って持っていたいと思った。今私のパソコンのデスクトップを飾っている画像だ。
2009年07月14日
子供を育てていると子供だった頃のむかーーーしの今までおもいだしたことがなかったことまで思い出される。息子のおむつをとるときは、お店で息子におしっこをさせながら、、、かかえてちーっとと、、、、とかシーーーーーとかいいながら、そういえば私も母にこうしておしっこをさせられたなーーーーなどということが頭に蘇る。。。息子が絨毯の模様をみながらある図柄に飛び渡って移動しているのを見ると、、、私も父の洋服ダンスの図柄を眺めていろんな想像をしていたことが蘇る。。。。昨日はふと小学一年生だったときに、はじめての父兄参観日に先生が反対言葉をいいなさいということで、、、大きいー小さい 長いー短い、高いー低い 早いー遅い、、、、という質問をしていた。私は反対という言葉の意味を言葉そのものを反対にすると思っていたのでなんでみんなが挙手してつぎつぎに答えていくのが不思議でたまらなかった。私は 大きい → いきおお と答えたかったのだ。反対言葉というのはあまり良い表現ではないと現在でも文句をつけたくなる。。。反対言葉ではなくて 反対の意味の言葉とでも先生がいってくれれば私は容易に理解していただろうと思う。。。。。でもその経験のおかげで私は小学一年生にして自分の頭脳が人様とは異なる、、、アブノーマルであることが幼心にもなんとなくわかった。良きにせよ悪きにせよこういうちょっと変わった思考と発想をする人は日常生活で一般的な受け答えに多少苦慮することが多々あると思う。私が教師という職業が好きだったにもかかわらず長続きしなかったのは結婚もあったが、私の多少人様とことなった思考回路というのも原因があったと思う。今イランにいていいとおもうのは私が一般常識にはずれた行動や発言や、受け答えをしても外国人だから、、、ということであまり大げさにされないことだ。日本にいたら少なからずいろいろ人付き合いで苦労したかもしれないと思った。
2007年07月10日
母の命日のちょっと前あたりからなんか日本に帰りたいと思うようになってしまいました。結婚して10年以上も経ち、イランにはかれこれ、7年くらい滞在していて一度もそんな思いになることはなかったのにねえ。。。。このごろ益々その思いが強くなって来ていますぅ。。。夫の仕事は前の建築の仕事にくらべて時間的にも、金銭的にも苦しくて日本にいくのがほとんど無理だと思われます。昔のことや、日本での思い出がみょうーに頻繁に頭に浮かんでくるのであります。
2007年02月14日
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