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Hiro Maryam

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2012年10月23日
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カテゴリ: 私見


愛を説いたジーザス・クライスト(キリスト)、
我が身を虎に投じた釈迦、
に・・・物申したい気分だ・・・
教えが悪いわけでは(絶対に)ないんだけど、
教えを間違って解釈する輩はあとを立たず、、、
そしてその弊害は、教えの有り難さと同じぐらい
大きくはないかしら?
ってね。

本当にこんなこと考えて 
”ワタシャなんて罰当 たり”  だと思うけど・・・

心臓がバクバクしちゃっているのは確か。
それぐらい驚愕した。
そこの部分は見ないで、
日々をやり過ごして生きて行けたら良かったのにと思う・・・

でも、見ちゃったんだ。

玉手箱は玉手箱で、目に入ったとたんに

それこそ

お開けなさいな!

って耳元で甘く囁くようにそこに存在していた。

もちろん、そこに置いたのは、

あの(サダメの)オッサン(失敬)!!


**************


義母の大きな間違いは、

情け(献身・忘我するほどの愛) と エゴ(我) をごっちゃまぜ にしているところだ。


義母は

絶対私があなた(義妹4)を幸せにしてあげる。
苦労は絶対に、絶対にさせないから!
それが私(義母自身)にはできる!って思い込んでいる。
私が生きているうちには、絶対にあなたに苦労させない!!
死んだあとでもなんとかできる(神様になっちゃた?!)って。

自分の心も欺いている。

義妹4にもそういって、自分を信じ込ませて、依存させている。
困ったことがあったらなんでも言いなさい。
私がすぐに解決してあげる。


彼女の心の裡は、これにまず間違いない。

確かに、義妹4が結婚してから、義妹4の不幸が始まってから、
義母は徐々におかしくなってきた。
自分の手元で好き放題、させて、
義母の一存で辛いことから、末娘(義妹4)を囲っていられたときには
彼女はまだ普通に近かった。娘を激甘やかしてはいたけれど。
それが結婚して女の幸せである結婚から
義妹4が、自身の手で幸せを得られない日常が開始されてから
義母はおかしくなっているんだもの。
義妹4が結婚という(結婚)相手との共同生活のなかの
妻として、母として、義妹4が立ち向かうべき苦難に、
義母が立ちはだかって、引き受け、
あらゆる方法で、お金、神の教えなどで、
結婚相手、義妹4の娘などを洗脳して、
その苦難や問題をとりあえずやり過ごそう・・・

という試みを続けるようになってから、
おかしくなっているんだよね。

最近は特にその傾向はひどく、義妹4を守るためには
義妹4の娘に対して、精神的虐待とも思われることをしても
自分は全く正しいことをした!
などと思っているし。

義妹4の夫婦問題にいつでも 麻酔 で対応しているようなもの。
たか~~~~いお金をその都度払って、捨てていて、
実際の肉体(夫婦関係)はもうボロボロになっていっている感じ。

義母の行為は、
義妹4は癲癇の持病があるから、
哀れな娘だから、ストレスがあったら発作を起こしてしまうから・・・

そう、、、私はそう思っていた。

義母は義妹4の発作を恐れて、庇っている、
哀れな母の愛情・・・


多分義母自身もそうすっかり思い込んでいるはず!
そして周囲も!!

でも違うの。

義母は唯唯、自分の一存で義妹4を
結婚させて、家庭を持たせ、子供を産ませ、普通の幸せを与えたかった。
(世間体やら見栄もあっただろう)
また、多分義妹4は結婚したら幸せになるし、
重荷を下ろせると自身に都合よく(エゴイスティックに)も考えたのだろう、、、

でも結婚生活に伴う苦労はさせたくないし、
いつまでも自分(義母)に依存させ、
彼女の手元に置いておきたい気持ちもあるの。
独立させたくもないわけ!!

もし私が、癲癇の持病のある娘を
それでも結婚させる心積もりがあったならば、
ある程度の年齢になったら、
ストレスに慣らすトレーニングをしただろうし、
そのトレーニング如何によっては
結婚は無理よ、結婚の実態を話して聞かせて、
それでも本人が希望したら、
それじゃ、それに向けて頑張りましょう・・・
というスタンスで娘を育てたと思う。
そのトレーニングの先に結婚があるかどうかは
サダメに任せたけれど。

でも義母は、この持病の発作が起きないように
ストレスを与えないように
なんでもやりたいことをさせ、
欲しいものを買い与えて育て、
その延長にお金をたくさん見せびらかして、
娘が一目惚れして、
気に入った相手をみつけて、
(義母は)掴んで離さず、結婚させたわけ。

そして、

お母さんに任せておけば大丈夫
苦労はさせないから!

お母さんの言うことを聞いていれば
あなたはいいのよ。
今までも、そしてこれからもね。



って言い聞かせて。


そうすることによって義妹4の結婚生活が、
人生そのものが、義妹4のものではなくなってしまう!
っていう大罪を犯していることには全く気がついていなかったし
今だって全く気がついてない!!
”哀れな娘を思う、哀れな母の愛情”
これ以上の”エゴ”ってあるのだろうか?
しかも母として娘に躾や教育と言う名のもとにもこれが行われていた?!
義母は自分が大罪を犯したことなんかこれっぽちも感じてもいない、自覚してもいない!!



私はこのことを理解したときに、驚愕した。
全身が震えて、心臓がバクバクした!!!

愛情という名のこんなにひどい エゴ って?!
(しかも末娘(義妹4)可愛い・・・の一心で
そのためには義妹4の上の娘の心すらも粉砕させて、得意になっている!!!
私はつくづく自分が大破したときに、別居や離婚を考えたけれど、
そうした後に、息子の心がどれほど彼女(義母)によって
ぶっこわされ、性格形成において大きな弊害をもたらす危険があっただろうか!!
ということがはっきりと見えてきた。)

愛娘(義妹4)が自分(義母)と同化してしまっている。
自分の威光(尊厳やプライド)をそのまま彼女に乗っけてしまっている。
だからあれほど、彼女の旦那を始め、
周囲のものが義妹4に尽くして当然と考え、
実際それを周囲に強いるの(幼い義妹4の娘にさえも強いるの!!!)。

あの子(義妹4)は哀れな子だから、
あの子に苦労はさせないで、
それは神の思し召しだし、
そうしないことは、神様に顔向けできないことなのよ!!

って吹き込むわけ。

本当に恐ろしい事実だと思う。
あれだけ信心深そうにしていても、それが本当の姿だった。

義母が見ているのは神ではない。
ただ自分の娘に対する自身の感情だけ。
それを天意や神に乗っけているだけ。



無我って、私欲を捨て、無償で、見返りを求めずに、人のために尽くす、
捨て身で尽くすこととイコールに思われるけど、
実はそうじゃないんじゃない?

無我って、自分の子供可愛いとか、かわいそうとか、哀れだとか
助けてあげたい とかそういう慈しみも愛情なども全部、
もっと大きな善 のためには 自己の感情や思い入れを遮断すること ではないか?
(もし可能であるならば)

なんてことが私の頭に浮かんだ。


自分の子供に対してさえも、
色眼鏡なしに見るなんてことができるの?(絶対無理!)
私は先日空手の審判をしていても、
それが非常に難しいことを感じたのに!!!!

無我の境地に至る、エゴを取り除く

ってことが 禅 で取り沙汰されるけれど、

それが人としての最高の境地みたいに言われているけれど、、、、


人に、私に、そんなことできるの?一体これはどういうこと?我 って取り除けるの?

私は、世 は捨てられたけど、 我 は捨てられなかったよ?

ってことでそのことを、私は否定しているけれど、

それを以前記事にしたら、反論もあったし、

無我の境地、捨て身や、無償の愛の姿を、

この世で最高の境地として賛美している人が世界に沢山いるわけでしょう??


大きな善 と書いたことは、それは・・・多分サダメの意思みたいなもの。
天意とか天命とかいう言葉になるのかな?
だから 無我 って、それ(大きな善)と己の意思を合体させられちゃうってことなのかな?

と私は思った。

大きな善 ってわかりづらい表現で申し訳ないのだけれど、
うまい言葉が見つからなくて、なんとか言葉にしてみたのだけど・・・

所詮そんなもの(大きな善)は、自分の主観(善悪の基準)から逃れられないし、

自分の好悪を感じないではいられないのだから
(これが多分宗教の教えの限界でもあるのだ!)

限界は見えているし、人としてはそれぐらいが関の山だとは思う。



大きな善 とか 天命 とか 天意 ってそれに近いものを人が持つことができたとしたら、

醒めた意識  というか・・・、冷徹な・非情な視点と言えるかもしれない。

多分それは 私 と あなた の関係なんだけど
私 と あなた の主観を乗り越えた先の先の先を
見通したものかな?
醒めた意識 に通じるものなのだろうし、 達観  っていう言葉が思い浮かんだのだけど。。。
多分それは サダメの領域 であるのだろう。
禅などではそれを目指しているのだろう と思われる。


でも、あまりその部分を強調しすぎると
人間としては ”クソつまらなくなりそう” でもある。


だって 私 ”サダメのクソジジイ!!”なんて言葉を胸の裡で数え切れないほど叫んだもの。

これはそのまま、 人間らしい感情を殺して(天)理に従え!

ってことだもの。
(サダメのクソジジ!!
でも、その私の反逆のエネルギーでさえ、
サダメの算盤勘定のような気がしている。)

そしてこの 

天意 とか 天命 とか サダメ に通じる大きな善 醒めた意識、 達観 とかは、
人に慈悲とか慈愛を垂れる、仏とか如来とか、観音とか地蔵とか、愛を説いたキリストなど、というものに、

真っ向から反してない?

な~~~んてことを私は思ってしまったわけ。

仏は、キリストは、

人を許せ という
人を愛せ という
人を慈しめ という

なんか、天命に耳を傾けるときの妨げとしか思えない!!!

って思ったわけ。

天の教え が 天の意思 に相反している というこの矛盾。

私がこれまで サダメのオッサンに 踏みつけにされてきたわけだ!!!!!!


しかも・・・
自分自身を 神 のように サダメ のように思っている
”エゴイスト”の方が、サダメのオッサンにちっとも痛めつけられていない!!
っという事実を目の当たりするにつけ、
不思議で、不思議でたまらなかったけれど、
なんのことはない・・・
彼らは、人を慈しむとか愛するとかじゃなくて、
己を天命だとか、神様だとか思っている点において、
他人には実に冷酷になれるんだろう、
だから、”自然力というか、天命に則してしまう部分”があるんじゃないか?

(もちろん彼らの全てが天命に則すわけではない、ある部分、ごく一部)

という話の筋道まで見えてきてしまって・・・

”私の心臓は爆発寸前” になってしまったのだった。


追記

私は多分この記事で、キリストや釈迦の教えは、人の教え、人の愛なのだろう、
と言いたいのだと思います。

そしてそれでいいのです。その教えは、人が対象・相手なのですから。
それ故、キリスト・釈迦の教えは、神(サダメ)のご意志・愛(宗教の教えの上を行く愛というか・・・愛のムチというか?)とは異なるものだと思います。

それが宗教の限界なのでは?と思ったのです。











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Last updated  2012年11月01日 04時35分19秒


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