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腐った鯛の金の鯱
という記事をご覧になられてもお分かりだと思いますが、
私にとっては、外観より、名前より、中身が大切なんです。
金のしゃちほこの中身が腐っているんだったら、
それこそ、 鉄やら鉛やらでできた魚で、愛嬌があったり
するほうが、
私にとっては価値があります。
そしてこれは私の価値観であって、それ以上でも、それ以下でもありません。
しかも金の鯱の中身が腐っている鯛と判断しているのは 私だ ということです。
他の人にとってはそうじゃないことも多いでしょう・・・
金だそ?鯱だぞ? お前馬鹿か?
って言葉を投げつけられることもあるでしょう。
それもわかっていますが、
私は、イヤ!ってなったら、もうイヤ
なんです。
そういう点では私は自分の価値観がはっきりしています。
私が自分を 大層ワガママな人間 と思っているのはこの点です。
もちろん個人的なこと以外は、好き嫌いで物事を判断しないようにしています。
それは社会人としては当然のことですから。
私は自分の記事の中に於いてあるいは、誰かに何かについてどう思う?
ってコメントを求められたら
はっきりと自分の価値観というか、私ならこういう選択をします・・・
ということを示します。なぜなら記事とは自分の考えを示すものであり、
コメントを求められるとは、自身の意見を求められていることだと思うからです。
それでも、
私の意見やコメントはサンプルです。
参考になるかどうかは、貴方様次第で御座います。
っていうことを前提で、私は書いているのだけれども、
書き方がキツイのか、押し付けのように受け取られることが多いようです。
私の中では
”皆それぞれ意見や考えが微妙に異なるってある意味 当然でしょう?”
っていうことが原則としてあるのです・・・
だって、あなたと私では、立場も、環境も、いろんな面で異なることばかりでしょう?
って。
答えは はい か いいえ しか存在しないんだけれど、
はい のエリアには数え切れない はい があり、
いいえ のエリアにも同じぐらいの いいえがあり、
その数は、人の数ほどに存在すると思っています。
しかも私は、自分の意見をはっきりと、強く示す傾向がある上に、
意見を求められた内容が、
私が現在対峙している、戦い中の事柄 だったりすると
穏やかには書けず、益々力がこもってしまいます。
私は 人様 から投げかけられた質問でも、
自分が対峙しているように、その問題にのめり込むこともあります。
そうするといつも私がある難しい問題に突き当たったときに
自分を突き放す
ということをするんですけれど、
そういう 突き放し の部分が私の意見の中に入り込みます。
(私はそうやって 自分を突き放して物事を見ます。
そうすると自分の視点以外の視点が見えてくるからです
。)
そうすると相手の方はまるで、私に突き放されたように感じるようです。
でもこうするのは、その人が憎いからでも、意地悪をしているわけでもなくて、
こういうことは他人様にだけじゃなくて、自分の息子に対しても私はしています。
息子には、これをしてはいけません、迷惑です、嫌がられますってことは、
厳しく叱ってきましたが、あとは行儀作法ぐらいで、躾らしいことはしてません。
躾って、、、自分はしているつもりでも、ちっとも躾になってないことが多かったりしませんか?
私は、息子には自分のスタイルを示しているだけです。
私ならこう思う、私ならこうするっていう、 一番身近にあるサンプル
みたいな感じにです。
もちろん絶対許せないこと、やってはいけないこと、行ってはいけないこと、
ある行為をすることの悪を教えることは、また別問題ですけれども。
彼がこのままだと後悔しそうなことを目にしたら、
それを口にして、語りかけることだけです。
でも、私の意見やコメントはサンプルで、参考になるかどうかは、君次第だからね。
だって、 君と私は親子であってもこんなに考えは異なるでしょう?!
っていう姿勢は全く変わりません。
だから母親らしさはないと思います。
母親というよりも、
”普通に日々を過ごす努力をしていながら、やっぱり ズボっと抜けちゃう人
”
っていう感じを、息子は私に抱いていると思ってます。
熱の球 2017年11月21日
蜘蛛の巣の空 2017年06月12日
螺旋 (二) に記事を更新致しました 2017年01月10日
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