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<きのうから続く>
ヴィルフランシュのサン・ピエール礼拝堂壁画のなかで、Mizumizuがことに心惹かれるのは、この天使だ。
天空を自由奔放に駆け回る天使たちの多くには目も鼻も口もないが、地上でつんとポーズを取るこの立像の天使は、冷めた視線を横たわる聖人に向けている。この表情を見て、直感的に思い出したのが、ジャン・コクトーの詩の一節。
「君なんて死んでも平気、僕は自分が生きたいよ」
こんな不実を詩人に言うのも、彼の天使(=詩神)なのだ。「彼(=詩人)」が「彼(=詩神)」から遠ざかろうとするや、引き戻しにかかり、すぐに突き放し、彼を深い夜の静寂(しじま)に落としこめる残酷な天使。
その無垢な残酷性を絵で表現すれば、こんなふうになるのだろう。
さらに、このヴィルフランシュの残酷な天使に極めて似た人物像が、コクトーの過去のドローイングの中にある。それは、1949年にジャン・ジュネの『ブレストの乱暴者』の挿絵のために描いた水兵の習作のうちの1枚。
コクトー先生、お尻がリアルにエロすぎます。
その頭部のアップがこちら。
横顔の輪郭の描き方はそっくりだし、身体のポーズにも連動性がある。ほぼ、お尻の向きを逆にし、腕の位置を変えただけだと言える。上半身を覆うタンクトップがなくなり、かわりにむき出しの臀部が布で覆われる。そこにマサカリのような翼が追加される。こうして水兵から天使へのメタモルフォーゼが行われたのだ。
同じモデルを使った水兵のドローイングで、ヴィルフランシュの残酷な天使と目玉の描き方がそっくりなものもある。
ヴィルフランシュの残酷な天使は、横顔の輪郭は上の作品、目の描き方は下の作品というように、2枚のドローイングを合成させたものだ。俗世そのものである帽子や髪の毛は水兵が天使へと昇華する時点で消滅している。
コクトーは『ブレストの乱暴者』の挿絵にかこつけて、あられもない姿の水兵のドローイングを多く描いている。あえて「かこつけて」と書くのは、過激でエロチックなこうしたドローイングの多くを、コクトー自身は世に出すつもりは毛頭なく、死後になって「発見」されたものであること、それに、もともと水兵というのはコクトーにとって、極めて性的な存在であったことが、『白書』を読むと明らかだからだ。
『白書』に登場するのは、南仏の港町ツーロンの水兵。彼らは「秋波には微笑で答え、愛の申し出を決して拒まない」魅惑のソドムの住人だ。
「君なんて死んでも平気、僕は自分が生きたいよ」
こんなことを平気で言って詩人を苦しめる残酷な天使は、同時に、詩人を性的に誘惑する恋の相手でもある。横たわる聖人をシニカルな横目で見やっている天使の原型が、描き手にとって極めてセクシャルな存在であった若き水兵だったとしても不思議はない。
そして詩神(ミューズ)とは、表現芸術への渇望の象徴でもある。それは、特定の人間にとっては、宿命でもあり、やむにやまれぬ行為だ。詩神の虜にならなくてすむ者、詩神の誘惑から逃れていられる者は幸いかもしれない。天使とともに描く壮大な浪漫はなくても、深い闇に何度も落とされる精神的危機もない。
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