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ネットで…フランス発ファッソナブル×ジャン・コクトーのカプセルコレクションが発売!という記事を見つけた。南フランス・ニース発の感度の高いブランド、ファッソナブル(FACONNABLE)の2015年春夏コレクションより、芸術家ジャン・コクトーの作品に捧げるカプセルコレクションが登場。世界でも少数のセレクトショップのみで展開され、日本では、3月15日(日)まで、ランドオブトゥモローにて限定販売中。今回のカプセルコレクションは、ジャン・コクトー委員会を務めるピエール・ベルジェの支援と承認を得てスタート。ファッソナブルのディレクター、ダニエル・カーンズが、ブランド発祥の地であるフランスのリビエラとジャン・コクトーのシンボルである絵という2つの要素をマリアージュして、メンズとウィメンズのアイテムの数々を提案。リュクスなファブリックと精密なカッティングを彩るコクトーの作品。アートとファッションの美しく貴重なコラボレイションを、お見逃しなく。ファッソナブルというブランドは初耳。さっそくホームページに行ってチェックする。フレンチ・リビエラのイメージにぴったりな、ややアンニュイなリゾート感あふれるデザインに、素材の上質感が伝わってくる、洗練されたブランドのよう。こんな洒脱なショートフィルムまで作っているではないか。これは明らかに、ヴェズヴェレール家の別荘サント・ソスピール。キャロル・ヴェズヴェレールは、『ムッシュー・コクトー』の中で、個人でこうした文化遺産を維持していくことの難しさを訴えていたが、このフィルムを見る限り、コクトー作品の保存状態は良好のようだ。コクトーの好みそうな、「彫刻的な美男」を登場させ、鏡もちゃんと出てくる。ユダヤ人であったヴェズヴェレール夫人との友情の証しでもある星のマークも。コクトーの得意なフィルムの逆回しもやるし(1:50当たり。ここで青年の着ているプレーンなシャツの袖に施された星の刺繍が映るが、これは丸の内でも売られている)、『オルフェの遺言』でシンボリックな役割をもたせたハイビスカスの花もある。ニースに行かなくても、ジャン・コクトーのカプセルコレクションを入手できるとあれば、行かなくては、丸の内。ということで行ってきた。ジャン・コクトーのカプセルコレクションを扱っているのはここのみ。で、中に入ってみると、1階にウィメンズ、2階にメンズの、ほんのワンコーナーがコクトー・コレクションに割かれているだけで、しかも、アイテムはほとんどなかった。ネットで写真が公開されていた、白い太いラインで描かれた横顔を大胆に配した紺のカットソー↓は、女性用はもうすでに完売。男性用が1着残っているだけだった。男性用を見ると、イラストの線は単調ではなく、濃淡があり、写真から想像していた以上によかった。真っ先に売れてしまうのも頷ける。もともと数が少なかったのだろうが、それにても早い。やはり、ジャン・コクトーファンは、今もひそかにこの大都会に潜伏しているのだな(笑)。ウィメンズはホワイトコットンのシャツが数点残っているだけ。カラフルな刺繍を施したどこかアジアンテイストの半袖シャツと、コクトーのイラストをシャツと同色の「織り」で表現した丈の長いプレーンな長袖シャツと短いジャケット風のシャツ、それにコクトーのシグネチャーである星を袖に紺色の糸で刺繍しただけのシンプルなシャツがあった。吊り下がっているモノを見ると、とても値段に見合っているとは思えなかったのだが、「ジャン・コクトーお好きなんですか?」「よろしかったご試着を、ぜひ」という店員さんの笑顔につられ、着てみたら、あーら不思議。思った以上の素材の上質感に驚く。さすがに、世界中から目の高いバカンス客が押し寄せるニースに由来するブランド。シンプルで、控えめで、よくよく見なければわからないようなところに手をかけている。右の衿下にあしらわれたコクトーのシグネチャー。織りで星を表現。左の前身頃に、男性の横顔。言われなければわからないかもしれないが、片方の見頃いっぱいに横顔が織りで表現されている。ボタンが2つ着いた袖先のカフスの幅が広いのがクラシカルでエレガントな印象。下ボロは長く、剣ボロとカフスの中間にボタンが1つあしらわれている。そして、魅惑の(笑)Jean Cocteauレーベル。そういえば、ピカソが、「美容院にはコクトーのイラストばかり」と言ったとか言わないとか。当時からコクトーのイラストは人気だった。そして、ジャン・コクトーが亡くなったあとも、本人には断りもなく、彼のイラストは繰り返し、いろいろなアイテムとなって甦る。時の流れという川の水面に、浮かんでは沈み、沈んではまた浮かぶ泡のよう。コクトーは詩人だが、今はむしろイラストレーターとして、さまざまな人々の仕事を助けている。コクトーの名がつけば、Mizumizuみたいなコクトー・フリークが買ってくれるから。フランスにはコクトーの壁画の残る建造物や美術館もあり、観光客で賑わっている。今はコクトーの詩を読む人よりも、コクトーの絵を見る人のほうが多そうだ。フランスの街おこしにも大いに貢献している。ジャン・コクトー、彼の命はとっくにはなかく消えたが、そのポエジーはまたも蘇る。実に偉大な存在ではないか。
2015.03.03
ローラン・プティの初期の代表作であり、コクトーのバレエ原作の代表作でもある『若者と死』(1946年初演)。プティはこの作品を、ルドルフ・ヌレエフ、ミハイル・バリシニコフ、パトリック・デュポンといった限られたトップ・ダンサーにだけ踊る許可を与えてきた。日本にも熊川哲也という才能ある男性バレエ・ダンサーが出たことで、日本人の踊る「若者」を日本人が日本で見ることができるという幸運が生まれた。渋谷で熊川の『若者と死』をナマで観たときの感激は忘れられない。あまりの素晴らしさにぼうっとして、井の頭線(当時は久我山に住んでいた)への帰り道を間違えてしまったほどだ。ダンサーの踊りのテクニックが素晴らしいのはもちろんだったが、それ以上に、若者が生きている世界と死んだ後の世界――殺風景な部屋と華やかなパリの街のネオン――の視覚によるコントラスト、美しい女性の姿を借りて若者を誘惑する「性」と「死」のファンタジー、それにまるでこのバレエのためのBGMのように聞こえたバッハのパッサカリアの旋律の美しさに圧倒された。まさしく、原案、振付、音楽、舞台美術、そしてダンサー、すべてが足し算されて掛け算のような効果をあげている奇跡的な傑作バレエだった。このバレエにどのような人物が関わり、いかにして作られたかについては、いくつかの書籍、DVDに断片的な記録が残っている。もっともまとまった記録になっているのは、実は日本で発売された熊川版『若者と死』【グッドスマイル】 熊川哲也 若者と死(DVD) ◆25%OFF!に収録されたローラン・プティのインタビュー。プティによれば、もともとの言いだしっぺは、ボリス・コクノだったという。コクノは、1904年モスクワ生まれ。ディアギレフの秘書として渡仏した後、パリに定住し、振付師・演出家として活躍した。ジャン・マレーの伝記には、1937年、つまりマレーがジャン・コクトーと出会ったころ、コクトーが住んでいたホテル・カスティーユにボリス・コクノがクリスチャン・ベラールととともにしばしば遊びに来ていた様子が見られる。ベラールは後のコクトー映画のほとんどの美術を担当することになる舞台美術家で、コクノとはステディな関係だった。「ボリスは非の打ち所がなかった。まばらな髪はとてもよく分けられ、服装はきちんとし、靴はいつも新品同様に磨かれ、シャツは白く、ネクタイは品のよさと趣味の完璧さを示していた。黒く輝き、険しく皮肉な眼。剃り跡が青々と残るひげ。非常に形がよく、健康な赤い唇、青白い顔」「私は2人(=ボリス・コクノとクリスチャン・ベラール)が好きだった。オテル・ド・カスティーユの部屋は、彼らが来るとお祭騒ぎだった」(ジャン・マレー自伝より)そのボリス・コクノが、新進の振付家として注目を集め始めていた、当時22歳のプティに、「ジャン・バビレってダンサーがいる。背は高くないけど、とても強烈な個性をもっているんだ。彼を使って作品を作ろう」と持ちかけた。そして、「バレエのアイディアはジャン・コクトーに聞くといい」とプティにアドバイスした。若き振付師プティは、コクトーのファンだった。プティはコクトーとアイディアを請うと、「いいアイディアがあるよ。とてもシンプルなんだ。たった5行さ。若者が女を待っている。女はやって来るが、彼女は彼を嫌い、冷酷に振る舞う。そして最後に(柱に)ロープをかけて、首を吊りたいならどうぞ、と行って去ってしまう。それだけだ」ダンサーのバビレは、コクトーから、「君はぼくたちのニジンスキー。だから、君のためにぼくたちの『バラの精』を作ろう」と言われたという(DVD『ジャン・コクトー 真実と虚構』から)。つまり、バレエ『若者と死』とは、ボードレール的主題をもつ、フランス版『バラの精』なのだ。上のインタビューの写真のバビレはダンディな老紳士だが、若いころのバビレは、たくましい肉体に、彫刻的な顔立ち。コクトーは原案を提供しただけでなく、稽古にも立ち会い、バビレによれば、観客の視点に立って的確なアドバイスをしてくれたという。「ローラン・プティが素晴らしいステップの振付をした。でも、すぐ次の動作に移ってしまった。すると、コクトーが、みんなを止めて、プティに言ったんだ。『今のは3回繰り返すべきだ。観客は1回目は動きを見る。2回目に全体を見て…』」。リハの様子はYou TUBEのこちらの動画の3分30秒ぐらいのところに一部ある。ちょうど同じ時期、コクトーは映画『オルフェ』の脚本を書き始めていた。『オルフェ』でも死神は若く美しい女性。『オルフェ』の撮影は1949年だが、実は『若者と死』と映画版『オルフェ』は同じ時期の作品なのだ。コクトーにとっての死神は、常に優美な姿をもつ女性だった。マレーも、ピアフとコクトーの死から4年たって受けたインタビューで、コクトーの女性観について、と言っている。1946年のコクトーからジャン・マレーへの手紙には、『若者と死』に関する言及がある。「バレエの方は、ボードレール的なテーマの、非常に素朴なものになるでしょう。タイトルは『若者と死』、まだ粗筋を示しただけの段階です。ダンスですが、舞台では、振付に使うのとは違う曲を演奏させるつもりです。たぶん、シュトラウスの代表的なワルツのどれかです」(『ジャン・マレーへの手紙』より)「振付に使うのとは違う曲を演奏させるつもりです」というのはわかりにくいが、プティの証言によれば、プティは最初自分が好きなジャズの曲でこのバレエの振付をしたのだという。だが、最終的にこの曲では駄目だ、有名なクラシック音楽を使うべきだということになった。それで、モーツアルトとか、コクトーの言うシュトラウスとか、いろいろな案が出たのだが、誰かが「バッハのパッサカリアはどうか」と言い、コクトーが賛成したことで、曲が決まった。それが初日のほんの数日前。当然、ジャズに合わせて踊るつもりだったダンサーは、非常にとまどっていた。そこでプティが、「曲に合わせて踊るのではなく、曲はBGMだと思って踊るように」と指示を出した。「もし、最初からクラシックの音楽に合わせて振付けていたら、ああいう作品にはならなかった」とはプティの弁。そして、舞台美術にも偶然が関与してくる。最初舞台はごくシンプルに、若者の部屋だけの予定だった。だが、ある日、舞台美術担当のジョルジュ・ワケヴィッチが、プティに、「ちょうど撮り終わった映画のセットで、エッフェル塔があってパリの風景が広がっているのがある。それを使ったらどうかな?」と申し出た。そして、若者が絞首台のような柱のある部屋で自殺したあと、後ろの壁が上がっていき、そこにパリの夜景が現れるという奇想天外な装置ができた。こちらが、壁が上がったときの舞台装置をイメージした、ワケヴィッチのデザイン原画。ボリスがプロデュースし、コクトーが物語のアイディアを出し、プティが振付け、ワケヴィッチが舞台美術を担当し、音楽を途中ジャズからクラシックに変更したバレエを、フランスのニジンスキー、ジャン・バビレが踊る――こうして、『若者と死』は、ミモドラム(身振り劇)と銘打って、1946年シャンゼリゼ劇場で初演された。なお、衣装には、クリスチャン・ベラールも協力している。ちなみにジャン・マレーは、『若者と死』のパリ初演は、自分の仕事の関係で見に行くことができなかった。彼がこのバレエを観たのは、ヴェネチアのフェニーチェ劇場。『ルイ・ブラス』の撮影の合い間だった。「バレエは素晴らしかった。ダンサーのジャン・バビレとナタリー・フィリバールは非常に見事だった」とマレーは自伝に書いている。プティは、熊川版DVDのインタビューの中で、『若者と死』を踊るにふさわしいダンサーの資質について、「まず男性的でなくてはならない。そしてちょっとクレイジーなところがなくてはならない。テクニック的には超絶技巧の持ち主でありながら、自然でなくてはならない」と言っている。ジャン・バビエ以降、『若者と死』は、限られた世界のトップ・ダンサーに踊り継がれてきたが、上のプティの言葉、そして彼の著作から推測すると、彼がもっともこの作品を踊ってほしかったダンサー、振付師プティにとっての最高の「若者」は、ヌレエフだったのではないかと思う。<明日へ続く>
2009.05.25
2009年4月27日に、パリの有名な競売場オテル・ドゥルオー(Drouot)で、ジャン・マレーの遺品の一部がオークションに掛けられ、トータルの落札価格は196万ユーロ(現在のレートで約2億5,480万円)に達した模様。高値がついたのは、やはりというべきか、マレーが所有していたコクトー関連の遺品。一番の目玉だったのは、コクトーが25年にわたってマレーに送り続けた書簡集。29万7,408ユーロ(約3,800万円、諸費用込み)でロイヤル・モンソー・ホテルのオーナー、Alexandre Allard氏が落札した。ロイヤル・モンソー・ホテルは現在改築中で、2010年にリニューアル・オープンするというから、それに向けての宣伝広告のための投資かもしれない。手紙の中にはイラストつきのものもあり、そのイラストが結構カワイイのだ。こうしたイラスト入りの手紙を展示すれば、人目を惹くだろう。この書簡集には、ブンガク的価値はたいしてないと思うのだ。ジャン・マレー自身、『ジャン・コクトー ジャン・マレーへの手紙』の序文で、「ジャン・コクトーの手紙は、いついかなるときにも、美しい文など書こうとしてない。そこにはいかなる文学もない」と書いている。実際…「ぼくのジャノ、愛しています」「手紙をください」「葉書1枚で大喜びなのですが」「君からの便りがない。泣きたい気分です」↑25年間、ほぼこればっかり。訳者の三好郁朗氏も、「(コクトーの手紙は)ただひたすら、『愛しています』を叫びつづける記号の氾濫であるかのようだ」と書いている。2010年5月には、コクトーとマレーが共同名義で購入したミリィ・ラ・フォレの別荘が、ジャン・コクトー記念館として開館するという(しかし、この話は延び延びになっているので、本当に2010年に開館にこぎつけられるかどうか、大いにアヤシイのだが)し、本来ならそうした場所で展示されるのが、一番ふさわしいと思うのだが、結局オークションに出したほうが、持ち主には金銭的なメリットが多いということだろう。コクトーの書簡集、売ったのは多分、マレーの養子になったセルジュ・マレー氏だろうなぁ…他にもマレーが生涯大切にしていた、ジョルジュ・ライヒの肖像画も売りに出された。これは5,576ユーロで落札。マレー自身が描いた絵画はたいてい、50万~100万円の間の値がついたよう。絵画作品の目玉もやはりコクトーで、1952年作のジャン・コクトー自画像が、1万2,000~1万5,000ユーロの予想価格に対して、3万5,000ユーロ(約455万円)、諸費用込みで4万3,372ユーロ(約564万円)で落札。詩人コクトーはいまや、画家・イラストレーターとしてのほうが人気があるかもしれない。1916年にピカソが描いたジャン・コクトーの肖像画が、諸費用込みで5万5,764ユーロ(約725万円)で落札。すべて生前にコクトーがマレーにプレゼントしたものだ。コクトーは手紙で、「君がぼくに関するものを手に入れるのに、君のポケットから何がしか出させるなんて許さない」と言っていた。それをマレーの養子が売り払う――しかも、相当大もうけ。オークションの予想落札価格と実際の落札価格を見ると、軒並み3倍から4倍、物によっては10倍の値がついている――とは…オークションのカタログを見ても、洗いざらい、かなり売りさばいている(苦笑)。セルジュ・マレーはお金に困っているのか?? こうやって、元来一箇所に保管されてしかるべきものが、どんどん拡散していく。コクトーが描いたマレーの肖像画も、ほとんど全部売られたのではないだろうか。おかしいのは、線画の場合は、コクトー作品でも50万円以下で買えるのが、ほんの1色でも色がつくと、価格がいきなり50万円ぐらいハネ上がる。白黒よりカラーのが高いというのは、アート市場ではありがちだが、こんなことなら、全部ジャン・コクトーにちょっちょと色をつけてもらえばよかったのに(笑)。マレーの遺品の中には、コクトーの著作『存在困難』の生原稿もあるはず。マレーの誕生日にコクトーが贈ったものだが、これが売りに出されたという話は聞かない。そのうちに出てくるのかもしれない。ただこれ、コクトー自筆のイラストつき私信ほどには、値がつかない予感。写真はネットで見つけたジャン・マレー(左)とジョルジュ・ライヒ(右)
2009.05.12
ヌーベルバーグのさきがけとされる映画が、ジャン・コクトー原作の『恐るべき子供たち』(監督はジャン・ピエール・メルヴィル)だということはすでにご紹介したが、この作品を繰り返し見て、バイブルのように思っていたフランソワ・トリュフォーとコクトーの交流も心あたたまるものだ。トリュフォーが『大人は判ってくれない』の収益をコクトーに提供してくれたことで、コクトーは『オルフェの遺言』を撮ることができた。トリュフォー作品には、小道具として「コクトーもの」がちょくちょく登場するのがおもしろい。たとえば『華氏451』では、圧制者によって燃やされる書物の中に、ジャン・コクトーの本がちゃんと混じっている。『アメリカの夜』では、なぜか、(ほんの一瞬だけ)コクトー・タオルが登場する! ジャン・コクトーの足跡をたどった『ジャン・コクトー 虚構と真実』で、コクトー作品を長々と分析しているのは、ジャン・リュック・ゴダールだ。一方、俳優ジャン・マレーとヌーベルバーグ監督との相性は、明らかにあまりよくない。ヌーベルバーグの「新しい芸術」がスクリーンを席捲していた1950年代末から1960年代後半にかけては、マレーはほぼ徹底して、『怪傑キャピタン』のような騎士道シリーズ、続く『ファントマ』シリーズと、ヌーベルバーグとは対極にある「たわいもない」娯楽作品に出続けた。「たわいもない」とはいっても、このころのジャン・マレーの活劇のロケは相当命がけ。ココ↓に、ファントマのロケ模様が出ているが、下で見物しているパリジェンヌが「落ちないで~」とばかりに祈るようなポーズで見上げている。http://www.dailymotion.com/video/x3vph0_tournage-de-fantomas-avec-jean-mara_shortfilms最後にインタビューがあるが(そこでやっと音声が出てくる)、当時のジャン・マレーは最愛のコクトーを失った直後で、「もう生きるふりしかできない」と思っていたころ。もちろんインタビューではそんな心中はおくびにも出さず、ひたすらにこやかに愛想よく応じている。ヌーベルバーグとは別の道をいったジャン・マレーだが、ジャック・ドゥミー監督とは例外的に補完的で良好な関係を築いている。ドゥミーもトリュフォーと同じくコクトーを尊敬しており、1957年にはコクトー作『美男薄情』を映画化している。そして、同年、ジョルジュ・ルキエ監督、ジャン・マレー主演の『SOS ノローニャ』では助監督を務めている。『SOS ノローニャ』を見たコクトーはマレーに、「あの映画の君は本当に生き生きとしていて、まるで記録映画でも見ているように、ぼくは君の身を思って震えました」(1957年6月3日)と書き送っている。コクトーが「震えた」のは、この映画のロケで溺死したスタッフがいたため。それほど危険を伴う撮影だったのだ。『SOS ノローニャ』撮影当時は駆け出しだったジャック・ドゥミーだが、その後『シェルブールの雨傘』などで名監督としての地位を確立する。そして、ヌーベルバーグの波が去った1970年に、マレーはドゥミーの『ロバと王女』に出演している。この映画はコクトー作品へのオマージュだとも言えるが、実際ドゥミー監督自身、と言っている。モンマルトル美術館で開催中のジャン・マレー展には、『ロバと王女』の撮影時の写真も展示されていた。左がジャン・マレー。右がジャック・ドゥミー。しかし、この写真、左右逆に焼かれている。実際の映画では、こうなる。玉座はサンリオ製(←ウソ)。そして、撮影合い間のショットは王子役のジャック・ペランと。楽しそうに語り合っている。王子様ったら、このカッコでタバコを手にはさんでチョイ不良風。ペランは『ニューシネマパラダイス』で大人になったトトを演じたことでも有名だが、プロデューサーとしても『リュミエールの子供たち』『WATARIDORI』などの傑作を世に送り出している。追記:2009年2月には、『恐るべき子供たち』の室内オペラがパリで再演された。読者の方からいただいた情報によると、音楽を手がけたのはフィリップ・グラス。出演者はピアニスト3人と歌手4人。グラスは『オルフェ』(1993年)と『美女と野獣』(1994年)のオペラも手がけており、『恐るべき子供たち』(1996年)と合わせて3部作となっている。http://blog.lefigaro.fr/theatre/2009/02/les-enfants-terribles-ou-cocte.html
2009.03.15
時代というのは、ときに一般人の予想を超えたスピードで急激に変わる。人類史に残るような大きな出来事が起こったときでも、同時代に生きている人々はその意味をしばらくは理解できないでいることが多い。今の金融危機もそうだ。アメリカのサブプライムローンが問題視されはじめたのは、アメリカの不動産価格が下がり出した2006年の秋ぐらいだと記憶しているが、そのときはまだ、「アメリカ全体の経済規模に対してサブプライムローンの比率などわずかなもの。たいした問題にはならない」と専門家の多くは楽観的だった。だが、2008年10月のアメリカ株式市場の大暴落を受けて、一挙に悲観論が世界を覆いつくした。今は「100年に一度の経済危機」とまで言われ、この状態が1929年10月に起こり、結局は戦争でしか完全には解決できなかった大恐慌と同じなのか違うのか、誰も予想がつかないでいる。1939年、25歳だったジャン・マレーも、当時世界で起こりつつあったことをまったく理解できないでいた1人だ。その年の初めには、舞台『恐るべき親たち』の成功を受けて、映画のオファーが多く舞い込み、いよいよスクリーンにも本格的にデビューしようとしていたのがマレーの個人的状況。コクトーは『恐るべき親たち』の映画化を決め、セットを組んでカメラテストもしたのだが、ヒロインの配役をめぐって出資者とコクトー&マレーが対立し、映画化は流れてしまう(『恐るべき親たち』の映画化が実現するのは1948年)。プライベートでもアツアツだったコクトーとマレーは、「映画はまた作ればいいさ」とばかりにはさっさと諦めて、サントロペにバカンスに出かける。このときのバカンスが「私の人生で最上のもの」だったとマレーは自伝で回想している。そして1939年9月、第二次世界大戦勃発。サントロペで開戦を知ったマレーは、パリへ戻ると自分がすでに動員されていたことを知る。それでも若いマレーはまだ、何が起こったのか、起こりつつあるのか理解できない。「私には現実が少しも信じられなかった。戦争が起こったとは考えられなかった。そんなことは大ぼら吹きのだまし文句だと思ったのだ」(ジャン・マレー自伝より)。マレーは「1週間で帰れる」つもりで出征する。「この戦争が理解できなかったし、ましてや受け入れられなかった」(ジャン・マレー自伝)もちろん戦争が1週間で終わるわけはなかった。マレーが動員解除になるのは戦争勃発からほぼ1年後。だが、出征中もマレーの頭にあるのは、コクトーに何とかして会いたいということと、次に上演を企画している芝居の役のことだった。マレーは駐屯地からしょっちゅう姿をくらまし、パリへ舞い戻ってコクトーと密会していた(それでいいのか? おフランスの兵隊)。コクトーのほうも戦場のマレーに、「2週間も君に会えないなんて耐えられない(オイオイ、相手は出征中だよ)。なんとか近くまで行くから」と手紙を送っている。マレーの出征が長引くにつれ、生活に窮したコクトーは、マドレーヌ広場の広いアパルトマンを出て、モンパンシエ通りの小さなアパルトマンを借りた。コクトーが戦場のマレーにあてた手紙には、「ぼくはいま、ささやかなアパルトマンのペンキ塗りに懸命です。君がいつも話しているあの年月、ぼくたちの出会いにふさわしいものになってほしいあの未来のために、エデンの園を用意しておきたいのです」(『ジャン・コクトー ジャン・マレーへの手紙』三好郁朗訳 東京創元社)とある。その2人の「エデンの園」がココ。門の左にはこんなプレートがある。実際にマレーが動員解除となり、パリへ戻ってきて、コクトーと一緒にここに住むのが1940年の9月。マレーは1948年にこのアパルトマンを出るが、コクトーは死ぬまでここをパリの生活拠点とした。もともとは裕福な家庭に育ったコクトーだったが、当時の経済状況は最悪で、マレーが動員解除になるころにはスカンピンになっている。Mizumizuが特に気に入ってるのは、このころ、つまり1940年7月にコクトーがマレーに送った手紙の一節。「確かにぼくたちは破産です。やむをえません。また取り戻しましょう」せっかく芝居が大ヒットしたと思ったら、戦争が始まり、パリはドイツに占領された。そして、2人は一文無しに。それでも、「また取り戻しましょう」というのが、ふるっていてイイ。マレーのほうも破産でクヨクヨしているふうでもない。パリでコクトーが用意してくれた「エデンの園」を見たマレーの印象。「モンパンシエ通りのアパートは中二階にあり、ビーバーと呼ばれる半円形の窓がついていた」「このアパートはすぐさま、私がこの世でいちばん好きな場所となった」(ジャン・マレー自伝より)アパルトマンは、パレロワイヤル庭園を囲む回廊と、モンパンシエ通りに挟まれた建物で、地下鉄利用だと「パレロワイヤル・ミュゼ・デュ・ルーブル」からもすぐ。ルーブル美術館と逆方向に行くだけ。パレロワイヤル庭園を囲む回廊は日本人はあまり来ないが、フランス人観光客の姿はよく見る。この回廊は時代に取り残されたような雰囲気があり、骨董品とか、ずいぶんと流行遅れのドレスとか、えらく高い革の手袋(たぶんパリの職人の手作りで、モノはすごくいいんだろうけど)とかを飾ったショーウィンドウが並んでいる。誰がいまさら買うんだろう? 回廊の北側にあるのは、ミシュランの星つき高級レストラン「ル・グラン・ヴェフール」。とっても入りにくい雰囲気だ。ミシュランの星が今いくつなのか知らないのだが、ミシュランはミシュラン、盲目的に信仰するほどのものではない。フランスでも日本でも、一部の人間がミシュランの星の数で騒ぎすぎている。このレストランのために、コクトーはオリジナルの絵皿をデザインしている。コクトーのレストランとも言われているが、実際には、ここの料理は少し凝りすぎているとコクトーは思っていたらしい。キャロル・ヴェズヴェレールによれば、コクトーが病気になったとき、ヴェフールのシェフが、何か作って持っていきましょうと申し出た。体調どん底のコクトーが、「目玉焼きが食べたい」と言ったところ、有名シェフは戸惑って、「目玉焼きですか! 私もいつか目焼きが作れるようになりたいと思ってはいるんですよ」と答えたという。最晩年に出版した『私のジャン・コクトー』の中で、マレーはモンパンシエの2人の愛の巣を次のように述懐している。「アパルトマンは、庭園の地面の照り返しで間接照明されている地下室のような感じだった。目を覚ますとすぐ、私たちは電灯をつけなければならなかった」「モンパンシエ通り36番地の小さなスペースを、私たちは『恐るべき親たち』の中でと同じように、家馬車と呼んでいた。ある魅力が私たちと一緒に棲んでいた」(『ジャン・マレー 私のジャン・コクトー』岩崎力訳 東京創元社)マレーは同書で、このアパルトマンへ帰っていくとき、「禁断の町へ入っていくような気がした」と書いているが、今もその雰囲気が強く残るのは、リシュリュー通りからモンパンシエ通りの北の端へ抜ける小さなパッサージュ。アーチの上でかしいだ、鉄製のランタンの表情がいい。モンパンシエ通りのほうが、賑やかなリシュリュー通りより低い場所にある。小さなパッサージュは狭く暗く、そしてとても短い。知らなければ見逃してしまいそうなひっそりとした抜け道だ。ここを通って階段を降りていくと、湿った日当たりの悪い、そして静かなモンパンシエ通りの看板が見える。現実には、細い抜け道から裏通りに出るだけなのだが、騒から静へ、陽から陰へ、その鮮やかな変化は、まさに「禁断の町」へ立ち入っていくかのよう。たまたまここで、カメラをもった高校生ぐらいの一群に会った。日本風にいえば修学旅行生といったところ。彼らは屈託なく、禁断の町への階段を駆け抜け、パレロワイヤル庭園のほうへ走っていった。モンパンシエ通りは「閉ざされた通り」で、パレロワイヤル庭園の周囲を廻るだけで、他に行き場がない。リシュリュー通りは開かれた通りで、サン・トノレ通りからモンマルトル大通り(地下鉄リシュリュー・ドルーオ駅東)まで長々と続いている。パレロワイヤル庭園からリシュリュー通りに出れば、観光客に人気のギャルリー・ヴィヴィエンヌもすぐ。ここはパリでもっとも美しいと言われるギャルリー(ショッピングアーケード)で、これまた有名なサロン・ド・テ、ア・プリオリ・テでちょっと休むのもいい。ギャルリー・ヴィヴィエンヌの紹介は、こちらのブログがとてもよく書けている。http://salut.at.webry.info/200706/article_1.html地図もついていてわかりやすいです。
2009.03.12
1938年4月、ジャン・コクトー作、ジャン・マレー主演の舞台『恐るべき親たち』がパリでセンセーショナルな成功をおさめると、コクトーとマレーは同棲生活に入る。2人が初めて一緒に住んだのはパリの一等地、マドレーヌ広場にあるアパルトマンだった。「ジャン・コクトーと私の2人は、マドレーヌ広場19番地に住んでいた。それまでの数年間というもの、ジャンの住居はこの広場の周囲を廻っていた。まるで魔法使いの杖で示された、一定の神秘の場所を探求するかのように。そこは『ポトマックの最期』にある謎のアパートだった。私はその場所での彼が幸福だと考えていた。私は完全に幸福だった」(ジャン・マレー自伝『美しき野獣』 石沢秀ニ訳 新潮社)その「神秘の場所」がココ。お高いウマイモノ店の並ぶマドレーヌ寺院の西側、ブランドショップの立ち並ぶフォーブル・サントノレ通りにも近く、今でも観光客が行き交う場所だ。1階にはソニーの店が入っている。ポータルをはさんで左側の店は高級トリュフを扱う店「メゾン・ドゥ・ラ・トリュフ」。軽やかで繊細なレリーフに縁取られた門構えのアパルトマンは、見るからに家賃高そう(苦笑)。写真を撮ろうとカメラを出したら、住人らしき人が入っていった。戦争が始まるまでの短い間、ここでコクトーはマレーのために詩を書き、マレーはコクトーをモデルに絵を描いて、熱い蜜月時代を過ごしている。だが、広いサロン、書斎、ダイニング、コクトーとマレーそれぞれの部屋をそなえた贅沢なアパルトマンは、当時の2人の経済力を超えていた。戦争が始まると、まもなくコクトーは家賃を滞納するようになり、結局はモンパンシエ通りのパレ・ロワイヤル庭園に面した、もっと小さなアパルトマンに2人の居を移している。ドイツ軍による占領を経て、ジャン・マレーは『悲恋(永劫回帰)』『美女と野獣』でフランスを代表する美男スターとして一世を風靡する。コクトーとマレーがマドレーヌ広場で暮らしたのはその前の、わずか1年半にすぎないが、2人のプライベートな関係でいえば、一番幸福な時間だったかもしれない。マドレーヌ広場のウマイモノ店の代表格といえば、今も昔も、やはりエディアール。場所は、旧コクトー&マレーのアパルトマンの隣。入り口に、日本でよく見る「傘ぽん」があると思ったら…まぎれもない「傘ぽん」でした。思いっきり日本語!KASAPONとローマ字表記もあるけど、日本人以外には意味不明だよねぇ。その隣には、ワインショップのチェーン店、ニコラ。ニコラのドアには、これまた見慣れた「クロネコヤマト」のシールが…クラクラ… ここはどこなんだ?エディアールでも、ガレットを買ってみた。13.4ユーロと値段は高め。ガレットとパレットが入っている。パレットはガレットを厚くしたようなお菓子。個人的にはパレットは好みではないので、ガレットだけのものが欲しかったのだが、カンの箱入りはすべてガレットとパレットの組み合わせだった。ガレットは「サクサク系」と「しっとり系」があるが、エディアールは「サクサク」系。もちろん好き好きだが、ブランド名と値段のわりには味は平凡だと思う。ラ・メール・プーラールその他のブランドのほうが好き。しかも、エディアールのこのカンの箱入りガレット&パレット、空港の免税店で山積みになっていた(がっくり!)。空港では13ユーロだったか14ユーロだったか、値段はハッキリ憶えていないが、街中と免税店の違いはどちらにしろ1ユーロぐらい。この手のお菓子、免税店のほうが必ず安いということもないのだが、持ち運びの手間を考えたら、エディアールのガレット&パレットに関しては、街中でわざわざ買ったのは、完全に失敗だった。エディアールでは素直に、果物の砂糖漬けなど買ったほうがよいかもしれない。
2009.03.11
ワインの味というのは、たいてい値段と比例する。高いワインは、たいがい文句なく深い。だが、ときどき値段のわりにはビックリするぐらいおいしいワインに当たることがある。そういうときの感動は、高いワインを飲んでうならされたとき以上のものがある。モンマルトル美術館で、テキトーに棚に陳列されていた「Cuve'e Jean Marais(キュベ・ジャン・マレー」。値段をきいたら、たったの7ユーロ(約840円)というので、試しに買ってみた。飲んでみて、ビックリ! 相当うまいゾ、コレ。フルーティなのだが、少し重めで、大地の香りがするような、典型的地ワイン。使われている葡萄品種は、グルナッシュ・ノワール、カリニャン、ムルヴェードルだという。大量生産では出せない味だし、日本ではそもそもこの構成のワインはあまり出回っていないと思う。小さなワインメーカーのこだわりを強く感じる。これで7ユーロとは、素晴らしいの一言。ジャン・マレーワインがあることは、情報としては知っていて、なんとなく、マレーが晩年別荘をかまえたヴァロリスのワインかと思っていたのだが、違った。生産地はFitou。フランス南西部ランドック地方、スペインに近い場所にある村だ。スペインとフランスの国境近くの村々というのは、あまり日本人には知られていないが、そもそも北から南までうまいもんの宝庫。モンマルトル美術館で受付兼販売員をやっていたにーちゃんが、ワインのエチケットに描かれたマレーのイラストを指差しながら、「ジャン・マレーがこのワインを気に入って、テーブルクロスにこれを描いたんだよ」と説明してくれたのだが、そのときはイマイチ意味がわからなかった。有名俳優とワインメーカーのコラボレーションといえば、商業主義的なニオイがプンプンする。俳優の名前のついたご当地土産は日本にもたくさんあるが、たいてい「販促のために名前だけ貸しました」然としたもので、味はたいしたもんじゃない。だが、それも誤解だった。エチケットに描かれたジャン・コクトー風のイラストと「友へ Vidal ここでボクはとてもハッピーだった ジャン・マレー」という走り書き。ワインには「キュベ・ジャン・マレー誕生の逸話」が書かれた小さなパンフレットがついてきた。それによると、ジャン・マレーが友人と一緒に、Vidal家が家族で経営するレストランへやってきた。そこでハウスワインを飲んだジャン・マレーは、「とてもおいしいね」と褒めたという。マレー一行が去った後、Vidal家の人々は、マレーが紙のテーブルクロスにこの直筆のイラストとメッセージを残してくれたことに気づいた。Vidal家のママは、それをことのほか喜び、暖炉の上に飾った。その後、何年かたって、Vidal家のThierry氏はこのワインをよりフルーティで完成度の高いものに仕上げ、マレー直筆のイラストをエチケットに使い、「Cuve'e Jean Marais(キュベ・ジャン・マレー)」として売り出すこと許可をジャン・マレーに求めたところ、マレーは快諾してくれたという。「売らんかな」のための名前貸しプロジェクトではないということだ。たまたま立ち寄った田舎の家族経営の小さなワインメーカーのワインを気に入った有名俳優が、直筆のイラストとメッセージを残した。喜んだ家族はそれを大切に飾った。彼が「おいしい」と言ってくれたワインの味を家族は数年かけて、さらに磨きあげた。「Cuve'e Jean Marais」はそうやって生まれた。きっかけはあくまでパーソナルな、旅先での出会いなのだ。マレーはジャン・コクトーについて、「彼は常に(才能のある)友人のチャンスになりたいと願っていた。そのためにさまざまな支援をしたが、ほとんどすべて善意からで、金銭目的では決してなかった」と言っている。そうしたコクトーの生き方を自分も実践したのだ。直筆のイラストも、深く考えて描いたものではないことは明らか。というのは、コクトーのイラストの影響があまりに顕著だからだ。(Bunkamuraザ・ミュージアム編、「ジャン・コクトー展 美しい男たち」カタログから)コクトーは線にこだわった人で、一見、さらさらと一筆描きで仕上げたイラストのように見えるが、マレーへの手紙で、1枚のドローイングを仕上げるのに、「100枚は下描きを描いた。それでやっと生きた線が描けた」と言っている。コクトーのドローイングには、線そのものに生気が宿り、不思議な色気がある。一方のマレーの描く線には、そこまでの力量はないが、Cuve'e Jean Maraisのイラストを見ると、厚ぼったい唇とか、キュビズム風の目とか、描かれたパーツに不思議な色気がある。モンマルトル美術館で買えるキュベ・ジャン・マレーは、間違いなくオススメ。しかし、日本に持ち込むには制限があるので注意。テロ対策として、現在のところフランスからショップで買ったワインを機内に持ち込むには、店で密閉されたビニール袋に入れてもらわなければならない。もちろんモンマルトル美術館には、そんなサービスはない。だから、買ったらフランスで飲んでしまうか、空港のチェックインカウンターで預けるしかなくなる。飛行機に預けるための割れ物用の箱が10ユーロ(高い!)で売られていて(チェックインカウンターとは別の場所にあるガラスで覆われたスペース)、それを買うと専用のカゴに入れて飛行機に積み込むので、よっぽどの乱気流にでも巻き込まれなければたいてい大丈夫だが、そうはいっても手荷物としてそばにおけないので、万が一割れてしまっても文句は言えない。
2009.03.04
<きのうから続く>モンマルトル美術館で開催中のジャン・マレー展には、当然ながら映画のポスターも多く展示されていた。個人的に一番好きなのは、コレ。ジャン・コクトー監督『双頭の鷲』から、エリザベート女王役のエドヴィージュ・フィエールと。エドヴィージュ・フィエールのファッションがまたいいのだ。革の手袋は手首の細さが際立つよう、手首の内側でぴっちりとボタンで留めている。折り返した袖と襟のギザギザの縁飾り。胸元のリボンのつやつやした布の質感。ドレス自体がシンプルなので、リボンや縁飾り、ボタンなどのディテールが引き立つ。とても上品で、ヨーロッパの古き良き時代の香りが漂ってくる。おまけに蜂のような細腰。イマドキの女優でここまで細いウエストが作れる人は、もうほとんどいないだろう。カタログに収録されていないのは残念なのだが、展覧会ではジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールの晩年のプライベート写真も展示されていた。Mizumizuが中でも気に入ったのは、フィエールが油絵を描いていて、イーゼルの前で、「どう?」という感じで胸をそらしている。それを、マレーが「どれどれ?」とのぞきこんでいる写真。2人とも70歳は超えているように見えたが、非常に自然で、親密な雰囲気が漂っていた。フィエールはマレーを相手役にした『双頭の鷲』の再演を熱望していたが、マレーは自分の年齢を理由にこの申し出を拒み続けた。だが、1980年の『嘘つきさん』(バーナード・ショー原作、ジャン・コクトー脚色)ではフィエールとともに舞台に立っている。そして、フィエールは、ジャン・マレーが亡くなった5日後に、まるで後を追うように亡くなってしまった。もう1人、ジャン・マレーにとって大きな存在の女優がミシェル・モルガン。もともと『悲恋(永劫回帰)』で、監督のジャン・ドラノワはマレーの相手役にモルガンを使いたかった。マレー+モルガンでどうしても映画が撮りたかったドラノワは、その後何度もモンパンシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンを訪れては、マレー+モルガンを想定した映画の脚本を書いてくれるようコクトーに懇願している。だが、ちょうど長編の詩作に取り掛かっていたコクトーは、脚本を書く気になれず、別の脚本家を紹介する。そしてモルガンとマレーの初共演となったのが『思い出の瞳』。ジャン・マレーはモルガンについて、「私が本当に恋することのできた唯一の女性」と自伝で書いている。マレーは晩年になって、モルガンに舞台での共演を申し込んでいる。もともと映画出身のモルガンは舞台に乗り気ではなく、なかなかOKしなかったが、1993年になって、とうとうマレーとの共演で、コクトーの『聖なる怪物』の舞台に立った。このときの2人のポスターも展示されていたが、顔を寄せ合った白髪の2人は、若いころのポスター以上に素敵に写っていた。80歳近いマレーが、モルガンの後ろにいて、肩口に手を添えている。いくつになっても女優を引き立てることに心を配っている、騎士的なジャン・マレーの性格がよく表われている。モルガンのブルーの瞳の色とまったく同じ色の素材が衣装のアクセントとして使われ、それが一番印象的で、オシャレだと思った。マレー+モルガンの舞台『聖なる怪物』が、大きな成功を収めたことは言うまでもない。これは↓ジャン・マレーの死を受けての特別追悼番組。http://www.dailymotion.com/video/x6fox7_hommage-a-jean-marais_shortfilmsマレーがコクトーの言葉をつなぎ合わせて執筆した1人芝居『コクトー/マレー』の台詞から、マレー自身のナレーションが入る。「大変悲しいニュースを伝えなければならない。ぼくが死んだ」「生者と死者は近くて遠い。ちょうど硬貨の裏と表のように」「生と死は向き合っている」そして、マレーの愛したミシェル・モルガンが壇上で挨拶するというニクイ演出。さらにもう1人、日本語版ウィキペディアではマレーと結婚したことにされてしまったミラ・パレリイ。もちろん、この情報は嘘だ。どうしてこんな間違ったことがウィキペディアに書かれてしまったかというと、もともとはcinema databaseのJean Maraisのプロフィールに誤情報がのったためだと思う。マレーは1945年、『美女と野獣』の撮影の話が進むなか、フランス解放戦線に参加し、戦場にいた。コクトーは打ち合わせのために、マレーに戻ってきてくれるよう何度も促すのだが、なかなか休暇がもらえない。そんなとき、「結婚すれば休暇がもらえるらしい」という話を聞いたマレーは、以前ちょっとだけ付き合っていた女優のミラ・パレリイにプロポーズしてみた。するとパレリイのほうがマジになってしまい、マレーは困惑する。結局、結婚の話はナシになり、パレリイは1947年にレーサーと結婚した。だが、若いころ抱いた真剣な想いは、パレリイの中でずっと消えなかったようで、こんな熱い写真を晩年のマレーに送っている。「愛しています。私のジャノ。ミラ」そしてテーブルには犬と写っているマレーの写真。マレーのほうも、晩年に書いた自作の児童小説で、美しい王女の名前を「ミラ」にしている。しかし…この場合、ミラの旦那さんの立場は?ともあれ、ミラがよき妻だったことは間違いない。彼女の結婚は一度だけだし、レーサーの夫が事故で重傷を負うと、その看病のために、すっぱり女優を引退している。追記:マレーとフィエールの関係については、2008年5月20日のエントリー参照。マレーとモルガンの関係については、2008年6月3日のエントリー参照。マレーとパレリイの関係については、2008年5月5日のエントリー参照。
2009.03.03
劇団四季のミュージカル『壁抜け男』で日本人にも注目された、モンマルトルのマルセル・エイメ広場の彫刻。作品のタイトルは、ズバリ「壁抜け男」。モデルは原作者のマルセル・エイメ。そして彫刻家は誰あろう、ジャン・マレーその人。ミュージカルにちなんで紹介されることが多いので誤解されているが、この彫刻をジャン・マレーが作ったのは1989年。ミシェル・ルグラン作曲のミュージカル『壁抜け男』の初演が1997年だから、ミュージカルより彫刻のほうが8歳も年上なのだ。ちなみに、エイメが小説『壁抜け男』を発表したのは1943年。歩行の邪魔にしかならないような、東京の街に散らばる意味不明の「オブジェ」と違い、モンマルトルの瀟洒なアパルトマンの前の小さな広場に完璧に調和した彫刻作品。このさりげなさがとてもいい。まさに街並に溶け込むアート。しかも、彫刻家もモデルもモンマルトルにゆかりの人物というのが、またニクイ。現在開催中のジャン・マレー展では、この彫刻制作に取り組むジャン・マレーのスチール写真も飾られていた。制作中の姿にも妙に華がある。彫刻家というより、彫刻家を演じている俳優の映画のワンシーンのようだ(苦笑)。だが、呆れたことに、このジャン・マレー作品にはイタズラがされていた。爪がピンクに着色され、膝のところには白っぽいペンキがかかっていた。昨年テルトル広場の近くの小さな広場が、「ジャン・マレー広場」と命名されたときも、広場名を示すプレートにわざわざスプレーでバツマークを入れた不届き者がいたが、同じ精神構造を持つ輩の犯行だろう。ピンクのマニキュアと膝にかけた白っぽい液体なんて、いかにもホモフォビアが思いつきそうな最低の嫌がらせだ。『ブロークバック・マウンテン』以降に、ヒース・レジャーが公けの場で、執拗に水鉄砲をかけられて嫌がらせされたことがあったが、こういう最低の行為に及ぶ連中の根底にあるものも同じ。ジャン・マレーは、常にこうした攻撃にさらされてきた俳優だった。たとえば、彼が「生きるギリシア彫刻」だった1944年。ジャン・マレーは演出・衣装・舞台装置をすべて自分で手がけた古典劇『アンドロマック』を上演するのだが…当時のパリは、ドイツ占領下。メディアを牛耳っていた対独協力派の妨害で、6日で上演禁止に追い込まれてしまう。このときもジャン・マレーの不道徳な「ホモ的芝居」は、新聞でいっせいに叩かれた。だが、「本当の観衆」は好意的で、この芝居を高く評価していたのだ。「真の観衆は喝采してくれた。しかし、芝居を見ている間ずっと彼らは鼻と目にハンカチをあてていなければならなかった。というのもこの機会に動員されたPPF(フランス愛国党)の党員たちが悪臭弾と催涙弾を客席に投げつけたからである。観衆の愛情をあれほど強く感じたことはない。私の評判を落とそうとする意図が明らかだっただけに、その愛はなおのこと強烈さを証拠立てていた」「しまいには親独義勇隊の連中が機関銃をかまえて押し込んできて、観衆の帰宅を妨害した」(ジャン・マレー著 『私のジャン・コクトー』東京創元社)このエピソードには、現在の日本にも通じる2つの側面がある。1つは特定の権力と結びついたメディアの偏向報道。もう1つは、よいものをよいと認め、讃えようとする一般のファンの意識の高さだ。だが、欧米のホモフォビアの敵意(時には殺意)に満ちた嫌がらせと、日本での異質な者に対するイジメは似て非なるものだと思う。美輪明宏が昔、「お化け」と言われて石を投げつけられたのと、ジャン・マレーやヒース・レジャーに対するキリスト教の教義をタテにした社会からの攻撃は、一緒にすべきではない。どうも、そのへんをこのごろの日本の若者(中には大して若くもないのもいるが)はゴッチャにしているのが気にかかる。日本は基本的にひとさまの性的な好みに対しては大らかで、欧米、特に英米ほど後進的ではないのだ。それなのに、英米のほうが進んでると勘違いして、「日本の社会から性的マイノリティへの差別と偏見をなくしたい」などとトンチンカンなことを言ってるソッチ系の青少年を見ると、「オイオイ、違うだろ」と言いたくなる。『アンドロマック』でオレストに扮したジャン・マレーの写真は今回初めて見たが、これが物不足の占領下の舞台衣装かと、その豪華さ、質感の高さに感嘆する。胸のところでキッチリゆわえたラメ入りの布がひどくセクシーだ。このときのマレーは決して経済的に豊かではなかったが、それでも自腹を切り、かつ友人から出資を募って『アンドロマック』の上演にこぎつけている。衣装制作に当たっては、布地を扱う店の店主が、若い役者集団のために、非常に安く布を譲ってくれたという。パリはよく、「冷たい街」などと言われるが、どっこい、こうした人情はどこよりも篤い街だったのだ。モンマルトルの旧ジャン・マレー邸の近くには、開催中のジャン・マレー(L'e'ternel retour)展の宣伝も兼ねて、マレーの60年におよぶキャリアの中から選りすぐった写真がポスターになって飾られている。ちょっとしたベンジャミン・バトンだ。映画『ルイ・ブラス』時代のイケメン俳優・マレー(左)と赤いマフラーをなびかせた晩年のマレー(右)。マレーには赤が似合うと、コクトーも言っていた。ジャン・マレーがフランス演劇界から尊敬されているのは、美男スターとして一世を風靡したということ以上に、その長いキャリアを通じてフランスの映画・舞台文化を支え続けたことだろう。ジャン・マレー自身によれば、「入念に準備したにもかかわらず、期待したほどの成功は得られなかった」舞台も多かったというが、思った以上に評価されたものもまた、多かった。舞台では、「ジャン・コクトーもの」以上に、古典劇(とくに悲劇)を得意としていた。こちらは1978年に演じた、シェークスピアの『リア王』。猛禽類の爪のような、グロテスクぎりぎりの美を備えた、ユニークなフォルムの王冠が、いかにもジャン・マレーらしい。こちらは、ご存知『オルフェ』。このナルシズムは確かに、ジャン・マレー演劇の1つの頂点。だが、ジャン・コクトーの『白書』を読めば、このシーンのルーツは、若いころコクトーがこっそり通いつめた、いかがわしい店の男娼の行為にあったことがわかる。コクトーはモロなエロを、そこはかとない芸術的エロスに昇華させるのが巧みだった。こちらは、超美青年時代のジャン・マレー+ブロンドの荒川静香(似てないか?・苦笑)。別にいかがわしいことは何もしていないのに、なぜかどこかしら妖しげなジャン・マレーのやること。上の青年のパンツの布の量がヤケに少ないような… (ちなみに下の人がジャン・マレーね)。いたいけな少年が「すげ~」ってな視線で見てる。いいのでしょうか(別に悪くはなかろう)。追記:ナチ占領下のパリでの舞台『アンドロマック』をめぐる大騒ぎについては、2008年4月28日のエントリー参照。
2009.03.02
<先日のエントリーから続く>ジャン・コクトーもジャン・マレーも、青年や少年をモチーフにした絵が多いという点で共通している。長くジャン・コクトーと暮らしたせいか、あるいは一芸術家として心酔していたせいか、ジャン・マレーのドローイングはコクトーの影響が顕著だが、2人の描く人物は明確に違う部分がある。ジャン・マレー作品には多分に、自分を投影している少年・青年像が多いということだ。これは、晩年に書いた児童小説『ノエル』(日本では『赤毛のギャバン』として刊行)のための挿絵だが、もともと物語が自分と愛犬ムールークの実話を下敷きにしているせいか、主人公の少年は、ジャン・マレーの分身のような存在だ。マレーは実生活でも、トルコやイタリアで出会った貧しい少年を養子にしようとして、周囲に反対されている。実際に養子にしたセルジュ・アヤラも、当時19歳の身寄りのないジプシーの青年で、本人の意志に反してジャン・マレーに売られようとしたのが2人の出会いだった。こちらは実際に愛犬ムールークを肩にのせたジャン・マレー。マレーの作品には、しばしば「非常によく似た男女」が登場する。たとえば、『アダムとイブ』と題された油絵。様式的には、新古典派+素朴派÷2といったところ。描かれた男女は、双子のようによく似ている。そして、男性は、大きな眼といい、たくましい肉体といい、どこか若い日のジャン・マレーと共通する。肌の表現はなまなましくはなく、どちらかというと陶器か何かのよう。裸体もまとわりつく蔦も、同じような質感で描かれている。一方のジャン・コクトーは、憧れを追求した素描家だった。コクトーのドローイングには、ダルジュロス、水夫リシャールといった、過去に強く惹かれた男性たちの身体的特徴が常に表現されている。『白書』で、少年の「私」は、全裸の青年の肉体の「黒々とした3点」に強烈な磁力を感じている。そして、コクトーが愛する人の寝顔を好んだことは、マレーの自伝からも、コクトーがラディゲ・デボルト・キル・マレー・デルミット全員の寝姿を描いていることからも明らかだ。これは、そうしたコクトーの嗜好がはっきりと表われた作品。有機的な線で描かれた眠る青年の表情は神秘的で、崇高ですらある。それがたくましい肉体の「黒々とした3点」の生々しさと鮮やかな対比をなしている。もう1つ、ジャン・コクトーが男性の肉体で好んだもの。それは当然のことながら、「神秘の隆起」。『白書』の「私」は、少年時代、使用人のその部分に惹かれて、「突進した」とある(困ったガキだ…)。だから、その部分は、常に入念に描かれる。このドローイングには、「ツーロン」とある。ツーロンは、『白書』で「私」が「魅惑のソドム」と呼んだ港町。コクトーが、24歳のジャン・マレーを最初の旅行に誘ったのもこの街だった。一方のジャン・マレーのドローイングは、もっと装飾的だ。男性あるいは女性の肉体の性的な部分に着目している様子はほとんどなく、むしろ華やかな衣装のおりなす襞とか、背景のディテールの美しさに心惹かれているようだ。ジャン・マレーの描く線は、コクトーのような有機的なメリハリには欠けるが、均一に力強く、緻密な様式美の中に、奇妙な「歪み」があり、それがなんともいえない魅力になっている。これなど、ビアズリーの影響もあるように思う。そして、描かれた人物はどこか奇妙に歪んでいる。多くの友人(愛人)と長期・短期に一緒に暮らしたジャン・コクトーと違い、ジャン・マレーが一緒に暮らしたといえるのは、ジャン・コクトーとアメリカ人バレエダンサーのジョルジュ・ライヒしかいない。それぞれ10年ずつと、スパンも長い。この2人の特別な人との思い出を、ジャン・マレーは晩年まで大切にしている。これはモンマルトルの自宅のアトリエでのジャン・マレー。マレーがモンマルトルに引っ越してきたのは1980年、65歳のころ。壁にジョルジュの肖像画、イーゼルにコクトーの肖像画をのせている。いずれも自作の作品だ。晩年のジャン・マレーは絵画・彫刻・陶芸制作に打ち込み、多くの友人と親しく交わっているが、コクトーやライヒとの関係のような密接なつながりを誰かともとうとした気配は一切ない。コクトーがそうだったように、マレーも人生の特に後半を「友情」に捧げた。そして、マレーは、そういう自分は「とても幸福で幸運な人間」だと、亡くなる5年前の著作『私のジャン・コクトー』で胸を張っている。追記:ジャン・マレーとジャン・コクトーのツーロン旅行については、2008年3月26日からのエントリー参照。
2009.03.01
パリには大小さまざまな美術館があり、いろいろな展覧会が開かれているのも魅力の1つ。現在モンマルトル美術館では、「Jean Marais, L'e'ternel retour」展が開催中だ。2009年5月3日まで。L'e'ternel retourはネットでは「永遠の復活」展などと訳されているが、これはニーチェの哲学用語「永劫回帰」。つまりジャン・マレーの最初のヒット作、映画『悲恋(永劫回帰)』にちなんだものだ。俳優としての業績を辿ると同時に、彫刻家・画家・陶芸家の顔をもっていたジャン・マレーの作品を紹介するユニークな展覧会で、行ってみたら、想像以上にたくさんの人が来ていた。客は圧倒的に超シニア層かと思いきや、そうでもなかった。聞えてくる言語もフランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語・英語。もっとも多かったのはやはり60歳超のご夫婦だったが、それだけではなく、若者から中高年まで、幅広い世代の人が来ていた。日本人も3人見かけた。20代ぐらいの若いオシャレな女性が2人で来て、「ここは国立ですか?」とチケット売り場で聞いていた。いえいえ、ここはプライベート美術館。パリ・ミュージアム・パス(カルト・ミュゼ)は使えません。もう1人は、やはり20代ぐらいのほっそりと中性的な男性。声は聞かなかったが、日本人だということは明らか。日本人は中国人(や韓国人)と顔が似ているが、態度や振る舞い、雰囲気が全然違う。とても「おとなしい」感じなのだ。ヨーロッパで「この人は日本人」とアタリをつけて間違ったことはほとんどない。特に男性は。さてさて、ジャン・マレー展も非常におもしろかったのだが、まずは、ジャン・マレーの自画像から紹介しようと思う。マレーが絵を描き始めたのは、まだ20歳そこそこのころ。叔母さんに、「映画の仕事がしたいなら、まず絵を描くことだよ」と、よくわからない(苦笑)アドバイスをもらって真に受けたことがきっかけなのだが、その後俳優になり、人気が出ても、マレーはずっと絵を描き続けていた。これは1935年、マレー22歳のころの自画像。ジャン・コクトーに出会う2年前。この作品は今回初めて見た。この顔を見て思い出したのは、1944年生まれのヘルムート・バーガー。この顔とか、この顔とか、似てるような…ヴィスコンティは、まだ映画監督になってもいない、そもそも映画を撮りたいなどと周囲の誰にも話していなかった1938年、コクトーの長期旅行中に駆け出し俳優・ジャン・マレーをイタリアに連れて行こうとしている。この肖像画を見て、ヴィスコンティの誘惑をやけに納得した。肖像画には『クロエのいないダフネ』という題名がついている。本人がつけたものではなくて、コレクターがつけたのではないかと思うが、洒落ている。ダフネはギリシアのヤギ飼いの少年。泉で裸になって身体を洗っている姿を見て、幼なじみの美少女・クロエが彼に恋をする。若き日のマレー=ダフネに恋したクロエは多かっただろう。多くのクロエを虜にした銀幕のダフネが、ジャン・コクトーの愛人じゃ困ると考えた映画のプロデューサーは、必死こいて、ありもしない共演女優とのスキャンダルを作り上げてばらまいたりしている。そのコクトーの1925年の自画像がこれ。自身がつけた『生は1つ』というタイトルがついている。(Bunkamura ザ・ミュージアム編 ジャン・コクトー「美しい男たち」展カタログから)。コクトーは、愛するラディゲを失って阿片に走ったが、1925年のこのころには解毒治療を受けている。半分ヌードで、半分正装をした自分を見つめるコクトーの視線にはどこかしら、若きジャン・マレーと共通する感性、類似の精神があるようにも思う。マレーがジャン・コクトーという名を初めて意識したのは、コクトーの詩や戯曲を読んだときではない。そうしたコクトーの「本業」に触れる前、自分とそっくりな青年が描かれたコクトーの素描を見て、マレーは、「お金もちになったら、この人のデッサンを買いたい」と思った。ジャン・コクトーの描く線が、マレーの感性に響いてきた、それがマレーのコクトーとの最初の出会いだったのだ。そして、マレーが晩年に、コクトーの言葉をつなぎあわせて構成した1人芝居『コクトー/マレー』の台本には、次のような言葉がある。奇跡――それはこの大きな謎を前にして、2重の生を生きること、しかも1つでしかないこと。ぼくたちの顔立ちが織りあわされる。類似は別種のもの。類似は精神から発散する。もう1人のジャンが、ぼくにかわって姿を現す。君はぼくだ、ぼくは君だ。マレーがその魂でぼくを照らし、ジャン・コクトーになりかわる…追記:ヴィスコンティとマレーの若き日の出会いについては、2008年3月17日のエントリー参照。マレーがコクトーのデッサンを初めて見た日のいきさつについては、2008年9月11日のエントリー参照。
2009.02.27
「男性を描いたコクトーの素描はピカソの女性像に迫るものがある」と言ったのは、ジャン・コクトー研究の第一人者山上昌子氏だが、まったく同感。春画そのもののピカソのエロチックなドローイングを見ていると、自然とコクトーを連想する。こちらがピカソ、1968年の作品。(Picasso et Les Maitres展カタログより)アラビックなエロスを、浮世絵的な手法で線描している。そして、ジャン・コクトー。コクトーの死後発見されたドローイングには、エロチックなものが多く含まれていて、繊細なブルジョア詩人コクトーのイメージとのあまりの落差に人々を驚かせた。そのほとんどがたくましい男性美を讃えるもの、「カラミ」も男・男に限られている。中でもお下劣度ナンバーワンだとMizumizuが太鼓判を押すのは、コレ。(Cocteau Sur le fil, Francois Nemerより)何をしてるのでしょうか、この2人…。深く考えるのはよそう。コクトーのヌードには、ちょっとしたこだわりのようなものがある。それはモデルがしばしば、オールヌードでありながら、靴下だけは履いている(ことが多い)ということだ。これは1940年ごろの作品。こちらは1948年の作品(この2つはBunkamura ザ・ミュージアム編 ジャン・コクトー「美しい男たち」展カタログより)。モデルは明らかに、エドゥアール・デルミット(コクトーとはパレ・ロワイヤルの画廊で偶然出会い、その後『恐るべき子供たち』に出演。最後にコクトーの正式な養子となった)。さりげない(?)ポーズが、あまりにエロチック。でもやっぱり靴下を履いている。そしてこちらは、コクトー永遠のミューズ、ジャン・マレーをモデルにした「鏡抜け」の連作写真(1938年ごろ)。もちろんこの原案はコクトー。(Jean Marais, L'eternel retour展カタログから)コクトーとマレーが出会ったのが1937年だから、2人のコラボレーションとしてはごく初期の時代の作品。鏡を通過して黄泉の国に向うというコクトーのビジョンは、名作『オルフェ』で世界中に強いインパクトを与えた。特にハリウッド映画に与えた影響ははかりしれない。ヒース・レジャーの遺作となるテリー・ギリアム監督作品“The Imaginarium of Doctor Parnassus”では、ヒース演じるトニーの代役を、ジョニー・ディップ、コリン・ファレル、ジュード・ロウが務めるというが、それもトニーが鏡を通過して別の世界に移動するというファンタジックな設定から、別人が同一人物を演じても違和感なしとして撮影続行が決まったという。この未公開作品にも、コクトーのビジョンが地下水脈のように受け継がれている気がしてならない。“The Imaginarium of Doctor Parnassus”でヒース・レジャーが鏡を抜ける姿を見るのは来年になりそうだが、ジャン・マレーはすでに1930年代に鏡を通り抜けていた。コクトーの理想でもあるギリシア彫刻のような美を備えた青年・マレーが、これまたコクトーの妄執でもある「鏡抜け=死」を演じている。さすがにフルヌードではないものの、ここでもやはり、なぜかマレーは靴下を履いている。ジャン・マレーは当時、「頭のてっぺんからつま先まで、ミケランジェロのダビデ」と評されたが、デザイナーのジョルジオ・アルマーニに、「現代のダビデ(デビット)」と言わしめたのが、サッカー選手のデビット・ベッカム。アルマーニのアンダーウエア広告写真。パンツの薄さでは、ジャン・マレーの勝ちかな(どういうショーブやねん?)。ミケランジェロのダビデを男性美の理想とするヨーロッパの美意識の潮流は、永遠に不滅のよう。追記:デルミットと映画『恐るべき子供たち』については、2008年7月7日のエントリー参照。ジャン・コクトーとジャン・マレーの出会いについては、2008年3月19日のエントリー参照。ジャン・コクトーの「鏡抜け」については、映画『オルフェ』を取り上げた2008年6月1日のエントリー参照。
2009.02.26
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