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少女漫画の神様が萩尾望都なら、里中満智子は漫画界に君臨する女帝とも言える存在だ。漫画を描くだけではない、漫画家の社会的地位を高める、権利を守るといった社会的な活動でもリーダーシップを発揮している。漫画の文化的価値について、彼女ほど理路整然と語れる才媛はいない。高校生のときにすでにプロデビューし、すぐに売れっ子になるという稀有な才能の持ち主だった故に、「大学」という学歴はないが、これだけアタマのいい人にそんなものは必要ない。実際、大卒ではないが、大学の教授職も務めるというマルチぶりだ。この傑出した才能が、漫画家という職業を選ぶきっかけになったのは、やはり手塚治虫。里中満智子の凄いところは、自分がどのように手塚治虫の影響を受けたか、手塚治虫の何か凄いのかを、筋道立てて語れるところだ。機会があるごとに手塚治虫の偉大さを語る彼女は、藤子不二雄(A&F)と並んで、もっともすぐれた「手塚治虫の教え」の伝道師だ。なかでも、非常にまとまっていて素晴らしいのが以下の手塚るみ子氏との対談。https://www.asahi.co.jp/50th/satonaka.html手塚「里中さんは私の父、手塚治虫のことでいろいろお世話になっています。先日2月9日、父の十七回忌にもご出席頂きました。今日は里中さんから父、手塚治虫のことをお聞かせ頂こうと思います」里中「人生の恩師というと、やっぱり手塚先生が最大の存在です。私は運良く漫画家になりましたが、漫画家になっていなくても私の少女時代にとって一番大きな影響を与えてくれた存在として一生思い続けたと思います」手塚「一番最初にマンガと出会ったのは?」里中「昭和29年、小学校に上がったら毎月一冊少女雑誌を買ってくれることになっていて、選びに行ったんです。それで選んだのがちょうど創刊されたばかりの“なかよし”でした。それは巻頭に手塚先生の作品が載っていて、その絵が気に入ったからです。それがマンガとの最初の出会いです。でその作品が気に入って、貸本屋に行って手塚先生の作品を捜しました。そうしたらありとあらゆる本、というと大げさですが...に掲載されていました。それらをちらほら見ていてすべて気に入ってしまいました。ですから少女雑誌、少年雑誌に関わらず読みました。その中で一番気に入ったのが“鉄腕アトム”でした」手塚「いつぐらいから漫画家になろうと思ったのですか?」里中「小学6年~中学1年の時でした。それも手塚先生がきっかけです。小学4~5年の時に“子供には良い本を与える”という名目で、子供にマンガを読ませないという運動があったんです。悪い本の代表が“鉄腕アトム”でした。その理由が第1にマンガである。第2にロボットが感情を持つなどということはあり得ない。子供の科学の認識を誤る、ということでした。でも科学は想像が大事なのにと思いました。それがなければ飛行機やヘリコプターも世に無かったと思います。また大人達が与える本の中にはくだらない物が多かったんです。私にとって“鉄腕アトム”は心の肥やしでした。漫画家になろうと思ったのは世の中がマンガを滅ぼすと思ったからです。それを止めるにはマンガの味方が一人でも多い方がいいと子供心に思い、漫画家になると宣言しました」手塚「里中さんは16歳でデビューされていますが、実際に憧れの職業に就いてどうでしたか?」里中「自分の作品が初めて印刷された時に、お金があったら町中の本を買い占めたいと思ったぐらい、私はなんてヘタなんだろうと思いました。アマチュアの時はいくらでもやり直しが出来るのですが、プロになってしまうと自分の作品に責任が生じてしまいます。ですからプロになってからが苦しかったですね。でも好きなことだと苦労を苦労とは思えないんですね。それで18歳の時に出版社のパーティーで手塚治虫先生のお姿を垣間見ました」手塚「その時に初めの出会いだったのですね」里中「出会いではなくて一方的に見ただけです(笑)」手塚「初めて言葉を交わして覚えていらっしゃることはありますか?」里中「思ったよりも少し高い声をしていらっしゃるなという感じだけで、返事が出来るようになったのはそれから2年位してからです(笑)」里中「一番私が思い出に残っているのは、3時間ほど先生と二人っきりで過ごせたことです。それは大阪でのサイン会に行く時の新幹線の中でです。先生はいろいろなお話をしてくださる方で、その時は先生が新婚の時のお話ですとか...」手塚「そんなプライベートな話を...」里中「その他にもいろいろなお話をされていて、その内に“僕が本当に描きたい物は真のエロティシズムなんだ”と仰ったんです。でそれまで疑問に思っていた手塚作品の底に流れる微妙なエロティシズムの謎が解けました。それで“いつ頃描いてくださるんですか?”と聞いたら“そのうちね”と仰ったのでずっと楽しみにしていたんです」里中「先生がありとあらゆるテーマでマンガを描いていたので、後に続く作家はどんなテーマ、ジャンルで描いても良いんだと、当たり前のように思っています。良くアメリカの人に“なぜ50年ぐらいの間にマンガ文化が進んだんだ?”と聞かれます。それで説明しているのが面倒なので“我が国には手塚治虫がいたからだ”と答えています」今では、想像もできない話だが、「教育熱心な親」が漫画を燃やす…なんてことが本当に起こった時代があるのだ。里中氏のように、漫画が世間から糾弾され、憎まれていた時代のあることを知っている漫画家の証言は貴重だ。どんなテーマで漫画を描いてもいいという「自由」の根底にあるのが手塚治虫だというのも、慧眼としか言えない。皆が当たり前のこととして享受している権利は、実は手塚治虫のような先達が世間の矢面に立ち、それでも描くことをやめなかったからこそ得られたもの。こうした視点をキチンと指摘できる存在のあることは、手塚治虫という個人にとっても、漫画界全体にとっても、日本の文化にとっても、とてつもなく大きい。
2024.01.26
やはり焼失していたか…「誰かが持ち出してくれたかもしれない」――その希望は、読売新聞の「輪島出身の永井豪さんが義援金2000万円…焼失した原画「自分が生きていれば復活できる」という記事を見て打ち砕かれた。輪島の朝市一帯を襲った火災によって永井豪記念館が焼失。直筆原稿など計11作品109点、フィギュアなど立体物25点も焼失したとみられるとのこと。永井氏自身は「自分が生きていれば、(描き直すことで)復活させることができると思っている」と非常に前向きに語っている。本人が一番残念だろうに、永井豪は本当によくできた人だなぁ。確かに失われた作品を作った本人が存命だというのは非常に幸運なことではあるが、いくら本人とはいえ、30代に描いたものと70代で描き直したものは、同じではない。技術的に見ても、同一人物とはいえないぐらい違ってしまっているだろう。作品というのは、それが絵であれ文であれ、「その時」の作者を映すもので、その時描いたものは、その時にしか描けないものなのだ。それは手塚治虫の「新宝島」復刻版にも見える話だ。優れた漫画家の直筆原稿は、いまや日本を代表する芸術作品と言っていい、従ってその保存は個人や市町村レベルではなく、国が行うべきだという立場のMizumizuからすれば、今回の永井豪氏の原画焼失は、「こういうことが起こるからこそ」の事例になってしまった。永井豪氏の「人となり」は、今回の震災についてのコメントにもよくあらわれていると思うが、Mizumizuが氏の、さわやかで、しかも志の高い「人となり」に触れたのは、有名な「ブラック・ジャック創作秘話」を読んだ時だ。この「手塚先生の凄い一面」を知りたい方は、「ブラック・ジャック創作秘話」を読んでいただくとして、永井豪は「自分にとっての手塚治虫」を、次のようにまとめている。「4歳の時、初めて読んだ『ロストワールド』以来、全部好き」「僕は手塚先生の孫弟子だと思っています」「作風だけじゃなく生涯現役だったその姿勢もまねたいものです」。かつて一世を風靡した一流漫画家のほとんどが、「手塚作品を読んで漫画家を志した」と言っている。個人的には、永井豪までが、とは思わなかった。というのは、Mizumizuは永井豪作品をよく知らないのだ。漫画はまったく読んだことがない。アニメで作品やキャラクターを知っているだけで、そもそも絵柄をまったく受け付けられない。これはほとんど「生理的にダメ」の域の話で、永井氏には何の責任もない。あの絵がイイ、あの絵があったればこそ、というファンが多かったからこそ、記念館までできる漫画家になったのだ。漫画というのは、実はこれがネックだと思っている。どんなにうまい歌手でも受け付けない声質だと、聞く気になれない。それに似て、どれほど発行部数をのばしていようが、漫画通が「天才だ、天才だ」と称賛していようが、絵がダメだと読む気になれない。だが、そういう自分の好みとは別に、「国が原画を保存するに値する漫画家」は、いる。Mizumizuにとって永井豪が、まさにそれなのだ。追記:その後のニュースで永井豪の原画・フィギュアとも焼失していなかったと報道がありました。https://article.auone.jp/detail/1/5/9/266_9_r_20240125_1706185991840223奇跡!石川県輪島の永井豪記念館「原画およびフィギュアは消失せず現存」永井豪氏が発表「建設時の耐火対策が奏功」
2024.01.25
今度はこのような記事が出た。手塚治虫『新選組』なぜドラマ化? 萩尾望都も影響を受けた、知られざる“時代劇短編”の内容秋田書店の『手塚治虫全史』の解説によると、『新選組』は手塚が正統派の時代劇を意図して描いた作品なのだという。連載が始まった1963年は、新選組の前身である浪士組結成からちょうど100年目であったが、当時は今のような新選組の人気も知名度はなかった。そのせいか、雑誌では思ったような人気を得ることができず、打ち切りに追い込まれた不遇の作品であったとされる。だが、漫画好きの間では当時から評価が高かったようだ。漫画界の巨匠・萩尾望都も高校2年生の時にお年玉で『新選組』の単行本を買って深い感銘を受け、漫画家を志すきっかけになったと語っている。2022年に山崎潤子が手塚治虫公式サイト「虫ん坊」で行ったインタビューで、萩尾が当時の衝撃を語っている。いくつか印象的なコメントを引用しておこう。「そのときの自分の心情に何かこう、ストーリーがフィットしたのでしょうね。ものすごくのめり込んでしまって、1週間くらいずっーと、この漫画のことを考えていた」「進路やら何やらで、悩んでいた(注略)そんなときに、『新選組』に出会って、頭から離れなくなった。そして『こんなにもひとつの物語が人にショックを与えるものなのか』と感動しました」「人間には『やられたことをやり返す』という癖があるんです。だから、私も誰かにショックを与えたいと思ったわけです(笑)」萩尾望都はMizumizuが最も偉大だと思う少女漫画家だ。もちろん、ほかにも偉大な少女漫画家はいる(それについてはまた後日)。だが、萩尾望都は、その抒情性、幻想性、哲学性で少女漫画を芸術の域にまで高めた第一人者。独特のストーリー展開と作画の美麗さは、他者の追随を許さない。いつしか彼女が「少女漫画の神様」と称えられるようになったというのは、Mizumizuにとってはわが意を得たりといったところなのだ。萩尾望都が『新選組』を読んで漫画家を志したという話をMizumizuが知ったのは、浦沢直樹が自作『PLUTO』のアニメ配信にあわせて手塚治虫の天才ぶりについて萩尾望都らのゲストとともに語っている番組を見てのことで、ごく最近の出来事だ。萩尾望都は番組中、「(手塚先生)のセリフでこちらの妄想がぐるぐる広がっていく。でも、そのセリフって実はたった2行なんですよね」といったような発言をし、その発言にかぶせるように映ったのは『新選組』の一コマ。まさに2行だけのセリフだった。この発言にMizumizuは、文字どおり「ショック」を受けた。というのは、ストーリーが追うのが面白くて読んでいた漫画の、たった2行のセリフが、例えは悪いが「原爆の熱線」のように強烈に心に焼き付き、時間がたってストーリーを忘れても、そのセリフだけがいつまでも消えずに、やがてもとの作品の展開を離れた、妄想の別のストーリーを自分の中で作ってしまうという経験を、たった2度だけしたことがあるのだ。それが、手塚治虫と萩尾望都の漫画。もう両作品とも題名すら覚えていないが、2つとも読み切りだった(と思う)。手塚作品を読んだのはラーメン屋(苦笑)。大人向けのコミック雑誌で、今なら、いわゆる「手塚ノワール」に分類されるだろう救いのない結末だった(と思う)。おそらくどーしようもない悪女だった(と思う)女主人公が、風にさらされながら、つぶやく。「寒いわ。吹き飛ばされそう」そこで物語は唐突に終わっていた。萩尾作品のほうは、妄想でストーリーを違って解釈している可能性は高いが、いわゆる「サイコパス」の少女の罪と罰を幻想的に描いた作品だった(と思う)。もちろんサイコパスなんて言葉が世間一般に知られるより、ずっとずっと前のことだ。「罪ってなに? 私だけが悪いんじゃないわ」このたった2行のセリフ。いや、実は、本当はもうちょっと違う言い回しだったかもれない。自らの悪行をそうと認識できない少女のたどる、幸福とはほど遠い人生の結末。身勝手な主人公なのだから、ある意味勧善懲悪的なカタルシスを得ることも可能なはず。あるいは、「何言ってんだよ、コイツ」と単純に読み捨て、そのまま忘れる人も多いだろう短編。だが、Mizumizuがこの2作品の「たった2行のセリフ」から受け取ったものは、そのどちらでもなかった。作品に忍ばせてある世の中の不条理に視点を向けて考えたとき、認めたくない共感が自分の中に広がっているのに気づく。そう、誰しもが自分の中に強烈な悪をもっている。そして、生きている限り逃れられない「孤独」というものが、この世にはあることに気づく。それが人間ではないか。両作品の両主人公の強烈な「孤独」が、このたった2行のセリフとなって、こちらの心に突き刺さったのだ。萩尾作品のこのセリフのあるページの絵はうっすらと記憶によみがえることがあって、Mizumizuはごく稀にだが、唐突に、「罪って何? 私だけが悪いんじゃないわ」とつぶやきたくなるときがある。おそらくそれは、何らかの妄想の世界に入っているときなのだろう。萩尾望都が手塚作品から受けた自らの感動を、「ショック」と表現しているのも秀逸だと思った。手塚作品には単なる「感動」という言葉では表現しきれないものがあるのだ。浦沢直樹は『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を読んで、「この得体の知れない切なさは何だろうと」と思ったことが『PLUTO』を描くきっかになったと話していた。手塚治虫が出たおかげで、多くの才能が漫画界に集まった。彼らは漫画を描くだけでなく、折に触れて多くのことを語り出した。手塚治虫の名声を高めたのは、こうした後進の天才たちの証言があったからという側面も大きい。そこは見逃してはいけない点だ。手塚作品を読んで、妄想が広がる――それは、分野の違うクリエーターにとっては、自分の手で「手塚作品を舞台化したい」「手塚作品をドラマ化したい」「手塚作品を実写映画にしたい」「手塚作品をアニメ化したい」という野望につながるのかもしれない。…その多くは、残念ながら失敗している、のだが。上記の手塚・萩尾2作品のタイトルをご存知の方、ぜひご教示ください。メールアドレスはmizumizu4329あっとまーく(変換してください)gmail.com2024年2月4日追記:読者よりメールいただき、くだんの手塚作品は『人間昆虫記』ではないかと。単行本で確認したところ、確かに同作品のラストシーンでしたが、セリフは記憶と若干異なっており「私…さみしいわ。…ふきとばされそう」でした。コマの構図はだいぶ記憶とは違い、雑誌で見た時は、背景はなく、女主人の上半身のアップで体を抱くようにしながら風に髪をなびかせていた…と思っていたのが、単行本では、かなり写実的なギリシア神殿のコリント式円柱の間にたたずむ主人公の全身を俯瞰でとらえたシーンになっていました。記憶違いなのか、単行本化する時に描き替えたのかは、分からず。
2024.01.21
昨日、このような記事が出た。日本漫画の貴重な原画の散逸や劣化を防ぐため、文化庁は月内に、国内を代表する漫画家が保有する原画などの実態調査や、保存方法の研究に着手することを決めた。最初に「あしたのジョー」などの作品で知られる、ちばてつやさん(85)の協力を得て調査研究を始め、他の著名な漫画家に対象を順次広げていく。今回は3月まで、ちばさんから原画などを借りて実施する。目録作成や保管状態の確認・改善を進めるほか、将来的なデジタル活用を想定し、資料の一部の数十点を対象に写真撮影や画像保存の手法を検証する。日本の漫画資料をめぐっては、手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の原画が海外で高値で落札されるなど、国内外で価値が高まる一方、作者や遺族が個人的に保存しているケースが多く、散逸や海外流出の恐れが指摘されている。政府は喫緊の課題として、国による原画収集も含めた保存体制の整備を早急に進める方針だ。Mizumizuとしては、「ああ、ようやく」といった気分。というのは、世界を席巻しているといっていい、日本の漫画の影響力を見、そのルーツを鑑みるにつけ、いま真に残すべき芸術は、主に戦後の漫画原画ではないかと思うようになったからだ。その筆頭に挙げられるのはもちろん手塚治虫だろう。実はMizumizuは現在、手塚治虫にドはまり中。そのきっかけについては後日また書くことにして、手塚治虫のペンタッチの美しさに驚愕したのは、丸善 丸のノ内本店の「手塚治虫書店」コーナーに展示してあるアトムの原画を見たときだ。手塚治虫の作品展は没後すぐに美術館で行われたし、その後も多くはないが実施されている。そういった展覧会に足を運ばなかったことを後悔した(なので、2023年10月のブラック・ジャック展には行った→そして思った以上に見ごたえのある原稿をしげしげ見すぎて脱水状態になった)。里中満智子氏のように、こうした漫画家の原画の価値を訴え、その傷みやすさから国家による保存を訴えてきた漫画家もいるが、国の動きは鈍かった。それがここにきて、急展開を見せた背景には、記事にもあるように、パリで手塚漫画の原画が高額落札されたことがあるだろう。リアルタイムで報じられた記事はこちら。Une planche d'"Astro Boy" d'Osamu Tezuka fait exploser les enchères à Paris.La planche, rarissime, a été vendue 269 400 euros, soit cinq fois son montant estimé.Une planche rarissime du dessinateur de manga japonais Osamu Tezuka, représentant son célèbre petit robot "Astro Boy", a été vendue aux enchères au prix record de 269 400 euros, soit cinq fois le montant estimé, samedi à Paris, a indiqué la maison Artcurial. "C'est un record mondial pour cet artiste, dont il existe très peu de références sur le marché", a indiqué à l'AFP Eric Leroy, expert en bande dessinée chez Artcurial. Cette planche à l'encre de Chine et aquarelle, de 35 sur 25 cm, est issue du tome 4 de la série, publié en France chez Kana. Elle était estimée entre 40000 et 60000 euros. Datant de 1956-57 dans le magazine Schônen, elle était qualifiée de "pièce de musée" par la maison de ventes. "En 25 ans, c'est la première fois que j'ai (à la vente) une planche de Tezuka, le Hergé de la BD japonaise. Je n'aurais jamais cru en avoir une", a ajouté M. Leroy, selon qui "la rareté et le caractère exceptionnel" de cette œuvre expliquent le montant de la vente. L'acheteur est "un collectionneur européen qui en rêvait depuis longtemps". "Astro Boy est une œuvre emblématique, qui a bercé l'enfance de toute une génération de collectionneurs", a souligné l'expert. "Astro Boy" (ou en français "Astro, le petit robot") est l'œuvre la plus connue d'Osamu Tezuka (1928-1989) et un classique du manga. Créée au début des années 50, cette série a pour héros un petit robot redresseur de torts au physique d'enfant, grands yeux rieurs, houppette brune et bottines rouges capables de se transformer en réacteurs.La planche, qui comporte six cases, le met en scène en train de combattre un méchant. Astro a fait l'objet de plusieurs séries de dessins animés à la télévision, dont l'une a été diffusée dans le monde entier dans les années 80.La planche de Tezuka a donné lieu à la plus haute enchère de la vente. Parmi les autres lots cédés samedi figurait une planche d'Albert Uderzo extraite de La galère d'Obélix, partie au prix de 123500 euros (elle était estimée entre 100000 et 130000 euros). (訳したい人はDeepLで検索してコピペして訳してください。まぁまぁの訳が出ます――ちなみに、Hergéとは、ベルギーの漫画家。彼の作品「タンタン アメリカへ」の扉絵は2012年に133万8509.2ユーロという破格の値段で落札されている)。どうしても日本という国は「海外で評価」されないと、自国芸術の価値が分からないようだ。漫画は大衆のための娯楽であって芸術ではないと言う関係者もいるが、ホンモノの芸術はそうやって大衆の中から生まれるのだ。権力による保護もなく、ただ、名もない人々がひとり、またひとりと評価し、観客(読者)が集まり、名声が広がるうち、レベルが上がり、やがて作者自身も気づかなかった高みへと昇る。日本の漫画がまさにそれ。そして、その種をまいたのが、もう30年以上も前に亡くなった一人の超人的な漫画家、天才の名をほしいままにする「手塚治虫」なのだ。手塚治虫没後の回顧展にも行かなかったことが示すように、Mizumizuは決して同時代的な意味で手塚治虫の熱心な読者ではなかった。むしろ、Mizumizuが読んでいた作家や漫画家が「手塚治虫、手塚治虫」というので、「凄い人なんだなあ」と読むともしれず知っていたという感じ。それがコロナ禍もあって外出ができにくくなり、読み始めてどんどんハマってしまった。なにしろ図書館にかなりの蔵書があるので手が出しやすい。読んでいて単純におもしろい、深い、ということもあるが、「なぜ自分は手塚漫画にハマるのか」を追求するのも実はなかなかに楽しかった。手塚治虫研究、手塚治虫関連本はMizumizuが知らなかっただけで実に多いし、図書館でも借りることができる。そういった周辺本を読んでみると、「なぜ」の答えも少しずつ見えてきた。それについても書いてみようかと思う。
2024.01.19
今季のフィギュアスケート、グランプリシリーズ女子シングルは坂本花織のための舞台といってもいい。素晴らしい流れと幅と、高さと、跳びあがってからの細い軸と速い回転と――加点要素をふんだんに備えた力強いジャンプに加えて、年々磨かれてくる女性らしい表現力。疑惑のロシア女子に対抗すべく高難度ジャンプに挑戦して、怪我に見舞われた他の才能ある女子選手を尻目に、トリプルアクセルも4回転も持たない坂本選手がタイトルを総なめにしている。「エビ1本食べてもお腹いっぱいなる」ほど食が細く、体も限界ギリギリと言えるほど細いのに、リンクに入れば驚異的なスタミナを発揮し、4回転ジャンプを次々決める。バレエ大国の整ったレッスンシステムにのっとって幼少期から表現力にも磨きをかけるから、ローティーン、ミドルティーンで大人並みの所作を見せる。だが、どこか、おかしい――なぜ彼女たちはあれほどまでに短命なのか。大きな大会で頂点を極めると、おはらい箱のアイドルのように、あっという間に跳べなくなり(それもみな同じパターンで、着氷で力なくヨロけるようになる)、次の女王がとってかわる。しかも、同じコーチのもとで同じパターンが繰り返される。こんな奇妙な女王量産システムに支配されては、フィギュアスケートそのものがダメになる。元来、フィギュアスケートでその人のもつ「味」が出てくるには、長い長い年月がかかるのだ。たとえば、宇野昌磨選手が20歳で引退していたら、今の宝石のようなパフォーマンスはなかった。今世界を魅了する彼の表現力も長い時間をかけたのちに出来上がったもの。もっと若いころの坂本選手は、かならずしも表現力で高い評価を得る選手ではなかった。だが、ジャンプでの高得点をテコに世界トップにのぼりつめると、少しずつすべての要素に磨きをかけ、歩んできた人生を想うとこちらも感無量になる演技を見せるまでになった。ショートカットの今の坂本選手の演技を見ながら、ポニーテールで一所懸命頑張っている「あのころ」の坂本選手の姿がダブる。それがまたこちらの胸をあつくする。女子の運動能力…というかジャンプ力が、ミドルティーンもしくはハイティーンで絶頂を迎えるにせよ、そこにフィギュアスケート選手としての演技力もピークを置くような、ロシアの「あるコーチの作り上げたシステム」は間違っている。さらに、それに追随するような採点運用も間違っている。時間をかけて選手が作り上げてきた世界、それも重視していかないと。ジャンプの回転数を追求し、追求し、追求したあげく、道々には才能ある選手の亡骸が累々、そしてやがては競技自体が高い崖から真っ逆さまに落ちる運命だ。そのアンチテーゼとして、坂本花織という選手がいると思う。「健康」を具現化したようなそのパフォーマンスは、見る人を幸せにする。彼女が今積み重ねている勝利は、これまでの狂った女子シングルへの警告だと、Mizumizuには映る。その意味で彼女は「フィギュアスケートの神の使い」にも等しい。ただ、ルッツがねぇ…今は気前よく加点も付けてるが、このままでは、いつか足をすくわれるでしょ…
2023.12.12
いやはや、いやはや…もはや誰も勝てない。グランプリファイナルのイリア・マリニンの演技を見て、ほぼすべての観客はそう思ったのではないだろうか。謎の加点で勝つわけでもなく、多分に主観的なプログラムコンポーネンツの爆盛りで勝つわけでもない。ジャンプの難易度に沿った、極めて分かりやすい勝利。フィギュアは基本的に基礎点重視の採点でいくべきだというのが持論のMizumizuにとって、今回のマリニンの勝利は、プルシェンコ独走時代の幕開けとダブる。時代が違うから、ジャンプの難度は当時とは雲泥の差があるのだが、世界中の一流選手を集めたワールドの場でも、「頭ひとつ抜けた確かなジャンプ力」のある選手。それがプルシェンコであり、マリニンだという印象。ほとんど誰も跳べない超高難度ジャンプである4Aの基礎点を下げるという、暴挙に等しいルール改正を受けて、「4Aは入れないかも」と言っていたマリニンだが、シーズンの幕があくと、このハイリスクジャンプをきちんと入れて、さらに、4ルッツ、4ループ、4サルコウ、4トゥループまで入れる。さらにさらに、3ルッツからの3アクセルという、すんげ~~シーケンスまで決めてみせた。あえてケチをつけるとすれば、フリップがないのが不満。4回転時代になってからのジャンプの偏りはずっと気になっているのだが、やはりここはルール改正が必要かなと思う。ボーナスポイントによる加点ではなく、アクセル、ルッツ、フリップ、ループ、サルコウ、トゥループをまんべんなく「入れなかった」場合に全体のポイントから減点をする、というのはどうだろうか。これならば多回転を競うだけではなく、ルッツとフリップの踏み分けができるか、高難度とされるジャンプは跳べても実は苦手とするジャンプがあるのではないか、という点が明らかになり、ジャンプの技術を見るうえで非常に有意義だと思う。ループを避け続ける加点爆盛り女王とか、アクセルが苦手なスケート技術絶対王者とか、要はMizumizuは個人的に、そ~いうのが嫌いなのだ(読者は分かってると思うが)。フィギュアスケートは世界レベルになればなるほど、莫大なカネが絡む。だからこそ非常に政治的意味合いが強くなる。タイムを競うような競技ではないから意図的な操作も可能だ。だからといって、「誰か」を五輪で勝たせるために、理不尽かつ無茶苦茶なルールをまかり通すなど、あってはならないことだし、いつまでもそれは言い続けると思う。ルッツとフリップの踏み分けと言えば、忘れられないエピソードがある。不正エッジによる減点という明確なルールができるずっと前、マリニン選手の母、タチアナ・マリニナ選手がNHK杯で優勝したことがある。表彰台の中央で喜びを全身で表すマリニナ選手。彼女に対する解説の佐藤有香の賛辞の言葉が忘れられないのだ。「トリプルジャンプ、トリプルジャンプと追い立てられて、ルッツとフリップを正しく跳べる選手がほとんどいない。マリニナ選手はきっちりアウトとインにのってルッツとフリップを跳べる選手」。記憶ベースなので表現は多分違うだろうけれど、そういった意味のことを言っていた。慧眼だと思う。話をマリニン選手に戻して、彼が「皇帝」の名にふさわしいと思う、もう1つの理由は表現力の格段の進歩だ。宇野昌磨選手の洗練を極めた表現とは比ぶべくもないが、マリニン個人としては昨シーズンに比べてぐっと「魅せる」プログラムになってきた。昨季までは、「あ~あ~、スタイルいいのに。やっぱりそれだけじゃないのね、フィギュアの表現力って」という感想だった。1年でこれほどブラッシュアップしてくるとは、素晴らしいの一言。回転力は神がかり的なので、もう少しスケートが伸びればよいし、ジャンプ以外の表現を磨いてほしいところだが、この1年での進歩を見れば黙っていてもやってくれるだろう。凄い選手が現れた。羽生選手が去り、ネイサン・チェンが去り、宇野選手も次のステージへ行く時期が来ている。それでも、次の輝かしいスターが生まれた。願わくば、怪我なく五輪まで行ってほしい。そしてその稀有な才能で、他の選手のレベルも引き上げてほしい。
2023.12.10
素晴らしい結果に終わったフィギュアスケート世界選手権大会。ペア、男女シングルで3つの金メダルなんて、「マジ、信じられない」。まずはペアの「りくりゅう」。木原選手が高橋成美選手と組んだのを見たときは、こんな輝かしい彼の未来は予想だにしなかった。いや、ペアで世界金が獲れる日が来るなんて、長らく想像さえできなかった。日本人のペアの場合、どうしても男性の非力さが目立っており、そのこと自体が越えられない壁になっていた。今の木原龍一選手の堂々たる体躯、力強いリフトを見たら、むしろそうした過去の逸話のほうが信じられないかもしれない。そして、三浦璃来選手という理想的なパートナー。身長差も程よく、技術力も高く、何より運命的に木原選手との相性がいい。試合の出来自体は…サルコウとスローループがね…どうしてもチャンピオンにはクリーンな演技を期待してしまう。次はすべてのジャンプをビシッと決めた、「りくりゅう完成形」が見たい。女子シングル。ワールド二連覇という、日本スケート史上初の快挙を成し遂げたのが、トリプルアクセルもクワドもない坂本花織選手だったということに、喜びと同時に不思議さも感じる。これを成しうる才能があるとすれば、それはむしろ紀平選手だと思っていた。しかし、大技と隣り合わせの怪我によって、彼女の姿はこの舞台にはなかった。坂本選手をこの快挙に導いたのは、彼女のもつダイナミックなジャンプとスピード感あふれるスケーティング。特に連続ジャンプのセカンドにつける3トゥループの質の高さと確実性が大きくモノをいった。課題だったルッツのエッジも年々きちんとアウトサイドにのれるようになってきていて、ショートは文句なし。フリーは…? 正直、最後にインサイドに流れ気味だったようにも見えたが、カメラの角度のせいかもしれない。女子シングルは、ジャンプに関しては停滞気味。トリプルアクセルをクリーンに決めてみせる選手がいない。ドーピングの疑惑なしに、この大技を含めたすべてのジャンプを決める逸材が現れるのは、もう少しあとになるかもしれない。改めて、トリプルアクセルの難しさを思い知らされる――そして、この大技を何十年も前に文句を言わせない完成度で成功させていた「レジェンド 伊藤みどり」の異星人ぶりを再確認する試合になった。そして、男子シングル。宇野選手は、もともとMizumizuの好みの選手。スケーティングの美しさ、表現の幅広さ、そして4トゥループ、4サルコウに加えて、その上のレベルである4ループと4フリップを跳べる技術力。宇野選手はクラシックでも、シャンソンでも、映画音楽でも、見事に音楽と溶け合う稀有な才能をもっている。「踊れる」という一言では言い切れない、見るものを幻視へと誘う魔法のような仕草・動き。他の舞踏芸術にはない、フィギュアでしか堪能できない世界観を構築することができる。加えて、演技全体から醸し出される、品の良さ。この上品さは、いったいどこからくるのか。どうして身につけることができたのか。誰か教えてほしいくらいだ。ランビエールというコーチを得たことで、「シルバーコレクター」で終わるかもしれないギリギリに立たされた選手が、日本人初のワールド二連覇という快挙を成し遂げるところまできた。つくづく、人生は出会いなのだと思う。スイスうそっぱち委員会は、この快挙を受けて、ランビエール侯を公爵に格上げし、「ランビエール公のいとも豪華なる時祷書with宇野昌磨」の製作を決めたという。と、(ほとんど誰にも受けないであろう)冗談はさておき、アイスダンスにも触れないわけにはいかない。村元・高橋組の演技は、アイスダンスという枠にとどまらない魅力がある。日本人のアイスダンスの演技で観衆がいっせいに立ち上がる。こんな光景は見たことがない。大ちゃんは人気があるから…という人もいるかもしれない。だが、「人気」などというものは、それ自体移り気なものなのだ。シングル選手として頂点を極めた高橋大輔が、まったく畑の違うアイスダンスの世界に飛び込んで、ストイックに自分を鍛えなおす。アイスダンスの日本と欧米のレベル差は大きい。年齢のこともある。こんな世界に飛び込むなんて、銃を構えて待っている人々の前に飛び出すようなものだ。彼は、その危険な賭けに勝ったのだ。、埼玉ワールドでのスタンティングオベーション、万雷の拍手がそれを証明している。彼らの演技は順位以上に観衆の胸に迫った。同時にアイスダンスという競技の可能性が広がった。この奇跡を天才・高橋大輔のエピソードだけで終わらせたくない。あとに続く日本人のアイスダンサーが、いつかこの二人を超える拍手を観衆から受ける日を、Mizumizuは夢見ている。
2023.03.26
フィギュアスケート史上最大のスター(By プルシェンコ)の新たな可能性を鮮烈にしらしめたパフォーマンス、『レゾン』。まさしく、誰も見たことのない氷上のショーナンバーだった。選曲にも驚かされた。氷上で表現するのは非常に難しい、コンテンポラリーな若者の歌を、動的で華麗な「羽生ワールド」に昇華させた、そのテクニックに完全に圧倒された。清冽な情熱、汚れのない官能、理性的な狂気――およそ、誰も見たことのない、想像もしたことのない世界が氷上で展開されていく。しなやかな腕の動きや、軽やかな飛翔、ブレない回転動作。そこに抜群のスタイルと、それを引き立てるシンプルで美しい衣装が加わる。魔力をもった白い鳥が、人間の姿を借りて舞い降りてきたかのよう。もちろん、『レゾン』を見たファンの熱狂は凄まじく、それはネット上で津波のように広がっていった。誰もが評論家になり、感動をさまざまな形で発信していた。このように人々の心を揺さぶる力。それを得るのは、五輪でメダルを獲得する以上に難しい。五輪でメダルを手にすると、それが力量のピークで、その後はフェイドアウトしてしまうスケーターが多いが、羽生結弦は例外なのだ。いや、例外というより、規格外。平昌で引退していたら、おそらくはこの圧巻のパフォーマンスはなかっただろう。明らかに、羽生結弦は金メダル後も進歩し続けた。その結果が『レゾン』だとも言える。勝つことにこだわり、点数を重ねる戦略を練って試合に臨むタイプだったから、羽生結弦は勝負師であり、アイスショーには向かないのではないかという意見もあった。だが、『レゾン』で彼はそのネガティブな予想を一蹴して見せた。今後は、羽生結弦の新しいショーナンバーを見るために、多くの人がアイスショーに押し掛けるだろう。それはMizumizuが長年夢見てきた、フィギュアスケートの新たな展開。メダリストのお披露目としてのショーではなく、氷上の舞踏芸術としてのフィギュアスケートの可能性。それを切り拓いてくれる才能が、またひとり日本から生まれた。
2022.07.21
有名なギリシア神話の逸話に「イカロスの墜落」がある。翼を得たイカロスが、父の忠告を無視をして太陽に向かって高みへ、高みへと飛んでいく。だが、太陽に近づきすぎたために翼を失い、墜落して命を落とすという逸話だ。これは西洋では、傲慢さへの戒めとして語られる。だが、そのイカロスのイメージを完全に真逆にして再構築した詩人がいる。西洋世界の伝統のくびきの外で育った日本人、片岡輝だ。西洋的常識の世界では、自分の力を過信した傲慢さから悲劇的な死を遂げたと解釈される存在を、彼は、誰も目指したことのない高みに到達しようとした「鉄の勇気」をもつ存在へと作り変えた。それが『勇気一つを共にして』だ。♪昔ギリシャのイカロスはロウでかためた鳥の羽根(はね)両手に持って飛びたった雲より高くまだ遠く勇気一つを友にして丘はぐんぐん遠ざかり下に広がる青い海両手の羽根をはばたかせ太陽めざし飛んで行く勇気一つを友にして必ずしも頑強とは言えない身体で、壊れやすい足を奮い立たせながら、4Aという人類未踏のジャンプに挑み続けた羽生結弦。選手生命が短いことで知られるフィギュアスケートで、五輪二連覇という偉業中の偉業を成し遂げながら、さらなる高みを目指して現役を続けた羽生結弦。北京五輪でメダルを逃した彼を見て、それが完成してもいないジャンプに固執したがための「墜落」だと冷ややかに見た人も少なからずいたことは承知している。ただでさえ恐怖をともなう前向き踏切の、足に凄まじい負担がかかる4回転半のジャンプ。下手をしたら二度と滑れなくなる怪我を負うかもしれない。たった一瞬で。五輪二連覇を成し遂げ、輝かしい栄光を手にしたまま引退することもできた羽生結弦が、そんなリスキーなことをする必要はなかったのだ。常識から考えれば。その常識を自らの意思で一蹴し、人類未踏のジャンプの完成、その先にあるさらなる栄光を目指して苛酷な練習を重ねた羽生結弦。それはまさに「勇気一つを友にして」高みへ飛翔しようとした、日本生まれのイカロスだったのだという気がしてならない。だから、片岡輝が作り上げた新たなイカロスの歌のエンディングを、羽生結弦のあとに続くスケーターたちに、そして、何かをやるべきか、やめるべきか、常に迷っている市井の人々に捧げたい。ぼくらはイカロスの鉄の勇気をうけついで明日(あした)へ向かい飛びたったぼくらは強く生きて行く勇気一つを友にして
2022.07.19
<こちらのエントリーから続く>猫の手術が終わるのを待つのはツライ。不測の事態があればすぐ緊急連絡があるはずだが、そこは何千という経験をもつ懇意の獣医師の先生。チャー子の手術も何事もなく終わったようで、スマホは鳴らず、安堵しつつ指定された時間に迎えに行くMizumizu。連れて帰ってキャリーケースから放す時も、実はツライ。フラフラしながら必死で逃げていくからだ。(その姿があまりにかわいそうに見え、チャー子の次からは女の子の手術後は臨時のケージを野外に設置することにしたMizumizu)。「ひどい目にあった! こんなところ二度と来ないからね!」と後ろ姿が言っているような術後の子たちだが、たいてい中3日ぐらいで、ご飯を食べに戻ってくる。1週間来なかった子(その子はオスだった)もいて、そのときは毎日毎日、本当に心配だった。チャー子はちゃんと戻ってきてくれるだろうか?1日経過、2日経過…不安が募る。チャー子の子どもの茶太郎とサビーヌはちゃんとご飯を食べに来ている。この子たちは母親の居場所を知ってる気がする。だから、大丈夫なんだろうな、と自分に言い聞かせる。だが、3日たっても現れない。心配で心配で、泣きごとメッセージを猫友にLineで送ってなんとかまぎらわすMizumizu。中4日が過ぎた翌日の朝!Mizumizuが外に出ると、見慣れた茶色の顔が門のそばにあった。こちらを見るなり、シャー!と離れたところから「火炎放射器」顔になっている。「わ~、チャー子ちゃん、おかえり~」急いで、家に入り、戻ってきたら出せるようにと用意していたチャー子の好物を皿に盛るMizumizu。手術前は、好物と見るや警戒心かなぐり捨てて走り寄り、がっついていたチャー子だったが、今回はシャー‼ シャー‼近づかずに、(見えない)火炎放射を続けている。「怒ってるんですからね! ひどい目にあわせて、あんななんか嫌い! でも、お腹がすいたので!」はいはい、分かりましたよ。そんな顔して距離取ってても、前脚を揃えてちょこんと座って、毛を逆立ててもいないじゃない。フードだけ残して家の中に引っ込むMizumizu。…こうしてチャー子との日々がまた始まった。しばらくは歩き方が変だったチャー子だが、食欲はあり順調に回復。子どもたちとの時間をゆったりと過ごすようになった。ふー、やれやれ。これにて、一件落着。↑くつろぐチャー子(左)と息子の茶太郎(右)Mizumizu主宰の地域猫の会は、広く寄付(お金ではなく、猫のフード)を募っております。完全匿名で贈ることができます。皆様のあたたかい善意をお待ちしております。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈る↓こちらはかぎしっぽの会のアフィリエイト。ここから買い物をすれば、売り上げ金の一部が寄付されるので、買い手に金銭的な負担は生じません。ネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2022.07.14
https://www3.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/20220712/4060014019.htmlより転載密閉された段ボール箱に11匹の猫 山口市11日、捨て猫の保護活動をしている山口市の旅館の近くに、密閉された段ボール箱に入れられた11匹の猫が捨てられているのが見つかり、旅館が新たな飼い主を探すことにしています。11日朝6時ごろ、山口市阿知須の「てしま旅館」の前の路上に、「子猫がいます」という紙が貼られた5箱の段ボール箱と、キャットフードが置かれているのを近くに住む人が見つけました。段ボール箱はガムテープで密閉されていて、旅館の関係者が開けたところ、中に4匹の大人の猫と7匹の子猫が入っていたということです。箱を開けた際に、大人の猫1匹が逃げ出して行方がわからなくなっていて、残る10匹については、社長が隣接する自宅で保護しています。この旅館では、6年前から施設の中庭をシェルターにして、捨て猫を保護する活動を続けていますが、毎年のように捨てられる猫がいて、シェルターは満室状態だということです。動物病院で検査したところ、猫たちはいずれも健康で、今週17日に、予約制で新たな飼い主を探す譲渡会を開くことにしています。連絡先は0836ー65ー2248です。「てしま旅館」の手島英樹社長は、「ショックでした。ペットを捨てるのは完全に犯罪だということは認識してもらいたい。新しく猫を迎えたいという人がいたらぜひ来てもらいたい」と話しています。
2022.07.13
<こちらのエントリーから続く>子育て中のチャー子の不妊手術を決意し、決行した日のこと――ウエットフードにがっついているチャー子の後ろに回り込み、すばやく抱き上げ、キャリーケースに入れる――つもりで、チャー子を抱き上げると!抱き上げられたチャー子の首が、まるでろくろ首のようにぐっとのびて、フクロウみたいに顔が真後ろに向いた!…わけはないのだが、そんなふうに思うほど、思いっきり首をこちらに振り向かせ、般若の形相でチャー子がMizumizuの手を――ガブリッ!毎回親切にご飯を出しているから、それなりに感謝してくれてるだろう、信頼関係もできてるかな?…なんてのは、こちらの勝手な思い込み。小さな体躯の猫にしてみれば、突然クレーンで宙づりにされた、ぐらいの恐怖感だったのだろう。軍手をしていたが、そんなものは役に立たず、歯がかなり深く食い込んだのが分かる。イテテ! 思わず手を離したところでチャー子が猛ダッシュで逃げていき、あえなく作戦は失敗した。獣医師に顛末を話すと一応、かかりつけ医で抗生剤をもらうようにとのことだったので、翌日、けっこう腫れた手を医師に見せて薬をもらった。幸い、噛まれた怪我は順調に治った。反省したMizumizu。やはり、捕獲機を借りることにした。だがしかし、捕獲機をしかければやすやすと入ってくれるほど猫はお人よしではない(うん、ヒトじゃなくて、ネコだから。あはっ!)。それにチャー子以外にも、チャー子の旦那のボス猫「まる」、それにチャー子の子どものサビーヌと茶太郎も、ごはんごはんと寄ってくる。そこで一計。捕獲機のストッパーをかけて、捕獲機にはあえて猫の好きな「おいしいモノ」を入れることにした。捕獲機に対する警戒心をといてもらおうというわけだ。やってみると効果絶大だったのが、やはりと言うべきか、ちゅ~る。特に無邪気な性格の茶太郎が、率先して捕獲機に入り、ちゅ~るをたいらげる。何度か繰り返すうち、あろうことか、Mizumizuの姿を見ると、どこからか突然現れ、みずから捕獲機に入って「はやく、ねぇはやく、あのおいしいやつ」とキラキラした目線で催促するようになった。無邪気な茶太郎とは対照的に、百戦錬磨のボス猫「まる」は遠巻きにして観察しているだけで、自分は入ろうとしない。チャー子は入るには入るのだが、チャー子が入るとすぐサビーヌや茶太郎もついて入ってしまう。ダメじゃん、これじゃ…ほとほと困り果てるMizumizu。しかし、ここは粘るしかない。粘っていたら、ようやくチャンスがきた。チャー子だけが現れ、子どもや旦那の姿は周囲にない。さっそく、おいしいモノを捕獲機に入れ、さりげなく姿を消すMizumizu。隠れて見ていると、チャー子のやつ、警戒心ゼロで捕獲機に入り、がっついている。そっと忍び寄るMizumizu。後ろを振り向きもせずにがっつき続けるチャー子。よし!捕獲機のストッパーをはずして、手動でドアを落とすMizumizu。できるだけ音がしないようにしたつもりだが、さすがに気づいて振り向くチャー子。そして、閉じ込められたと分かると、火炎放射器のような顔(どんな顔や?)になってシャーシャーと威嚇し、猛然と暴れ出した。さっそく布をかぶせて落ち着かせにかかるMizumizu。たいていの猫は布をしっかり被せると、おとなしくなる。まぁ、程度は猫によるが。やっとこさ捕獲に成功! けっこう長い道のりだったぜ。即日の手術に応じてくれる獣医師さんに電話。手術OKということで、車でチャー子を運ぶ。恐怖と不安で大騒ぎするチャー子。ごめんよ~、でも手術したら大手を振って地域猫としてご飯もあげられるし、捕まっても「殺処分」されることはなくなるからね。<次のエントリー(こちら)に続く>Mizumizu主宰の地域猫の会は、広く寄付(お金ではなく、猫のフード)を募っております。完全匿名で贈ることができます。皆様のあたたかい善意をお待ちしております。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈る↓こちらはかぎしっぽの会のアフィリエイト。ここから買い物をすれば、売り上げ金の一部が寄付されるので、買い手に金銭的な負担は生じません。ネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2022.07.04
オリンピックの本番が終わったあと、さっそくワールドを目指して練習を再開した宇野昌磨選手が、フリーをノーミスで滑ったというニュースを聞いて、大いなる期待を抱いたMizumizuだったが、それが現実になった。単独の4回転、連続の4+3を決めて首位に立ったあとのフリー。曲は『ボレロ』。名選手にしか滑りこなせない難曲だ。冒頭は格調高いポースが印象的な振付。ビシッと決まる宇野選手のポーズを見た時、奇妙なことにMizumizuはウクライナの生んだ偉大なチャンピオン、ヴィクトール・ペトレンコ選手を思い出した。重厚で風格ある滑りを得意としたペトレンコ。ウクライナに里帰りしているときに戦争がはじまり、キエフから脱出できずにいるというニュースが入ってきたばかりだ。その彼がこの場に舞い降りて、新たな伝説を紡む者を祝福しているようだった。それは単なる幻想かもしれない。しかし、アイスリンクには決して現れるはずのないものを見せてくれるのが、宇野選手の他の選手には決して真似できない表現力だ。例えば『天国への階段』では、宇野選手がふっと両手を差し伸べたとき、Mizumizuには天から降りてくる光が見えた気がした。観る者の想像力を刺激し、見えないものを見せてくれる能力――それは浅田真央選手にも、確かにあった。その意味で、宇野選手は浅田選手のもっていた、稀有な能力の継承者とも言える。別に統計を取ったわけではないが、おそらく浅田選手を愛するファンは、宇野選手のようなタイプのスケーターを評価するのではないかと思う。今回のフリー、とりわけ単独4回転の完成度が素晴らしかった。それも、ループ、サルコウ…なんと後半にフリップ。後半のフリップを素晴らしい完成度で降りたとき、宇野選手の勝利は決定的になった。そのあとは体力がもたなかった感がある。4トゥループで乱れ、3Aからの3連続は最後がシングルフリップに(3A+1Eu+1F)。それでも、失敗は最小限…という印象におさまった。お休みする間のない難曲、ボレロ。途切れない表現を重ねながら、これだけ難度の高いジャンプを決める、その体力・精神力には脱帽だ。さらに最後にもってきたステップシーケンスの独創的な動きに目が釘付けに。そして、突然やってくるドラマチックな終焉。芸術と技術の至高のマリアージュ。卓越した振付! 平昌のあと、表彰台落ちが続いた宇野選手を見たとき、「このままシルバーコレクター」として終わってしまうのだろうか、と危惧した。そのまま終わっていくのか、再浮上のきっかけをつかむのか。ギリギリのライン上で明らかにもがいていた宇野選手を救ったのが、ランビエール・コーチ。ワールドを複数制覇した名選手が、これほどの名コーチであることを誰が想像しただろう? 「昌磨はチャンピオンになれる」と断言し、導いたランビエール・コーチの手腕はもちろんだが、それ以上に、この2人の相性がとても良かった気がする。宇野選手もランビエール・コーチも、自分以外の誰かに対して「惜しみなく献身できる」という卓越したキャラクターをもっている。ひたすら自分のため、自分の栄光、自分の名誉だけを見据えて突っ走る人もいる。それはそれで素晴らしい能力だが、誰かのために努力するというのも、素晴らしく、しかも稀有な能力であり、才能だ。調子の悪いときの宇野選手は、単独ジャンプを決めても、連続ジャンプで失敗する。連続は決まっても単独で失敗する。あるいはその両方が重なる――という悪循環に陥っていた。それが今は、フリップ、ループ、サルコウ、トゥループの4回転の確率が格段に上がっている。それが連続ジャンプにも良い影響を及ぼしている。欲を言えばフリーの連続ジャンプ。これを試合でミスなく決める力を見せたとき、宇野昌磨のスケートは完成する。
2022.03.27
2022年のフィギュアスケート世界選手権、女子シングル。坂本花織が金メダルに輝いた。シーズン初めには想像さえできなかった結果だ。しかも、ショート&フリーともミスらしいミスのない、1位+1位の「完全勝利」。ロシアの根深いドーピング問題に揺れ、ウクライナ侵攻という想像を絶する暴挙に翻弄された今季のフィギュアスケートだが、坂本選手という、実にフツーに成熟した美しい体形の選手の、長年積み上げてきたスピード感あふれる素晴らしいスケーティングと、その流れを止めることなく跳ぶ高さと幅のあるジャンプを見ると、フィギュアスケートが本来もっている魅力、その醍醐味を再認識させてもらった気分だ。細い軸の高速回転で高難度ジャンプを跳ぶ、ロシアの少女たちが席巻してきた昨今の女子シングルだが、ここで「健全な競技に戻れ」という見えざる神の手が働いたかのよう。そもそも、最近のシングルはやたらクルクル回りすぎる。いつの間にか滑る競技から回る競技になってしまったかのよう。それによって、「長年滑り込むことでしか体現できない」スケーティングそのものの味わいを損ねてきたのも事実だろう。しかし、この勝利がフィギュアスケートの原点に戻るきっかけになれば、これほどうれしいことはない。そしてもう1つ。多くの有力選手が、さまざまな理由でこの舞台に立てなかった。オリンピック前は「(ロシア女子の)唯一の競争相手」と称されてきた紀平梨花選手。Mizumizuもロシア女子がコケた場合、表彰台の頂点に立てるのは紀平選手だろうと思っていた。坂本選手はトリプルアクセル以上のジャンプがなく、しかもルッツのエッジに不安がある。だが、ワールドが終わってみればトリプルアクセルを武器にしようとした選手は軒並み回転不足判定に泣き、大技はもたないものの、ジャンプの質が抜群によい坂本選手がぶっちぎりの点数を叩き出しての勝利となった。いかに、トリプルアクセルが女子にとって難しいか。その難しいジャンプを軽々跳ぶ一部ロシア女子選手がいかに疑わしいか。回転不足による減点の厳しさについては、Mizumizuは常に反対の立場だ。この厳しさが女子に過重なまでの減量を強い、選手生命を短くしている。体重が軽い、若いというよりもはや幼いといっていい時代の女子選手なら回転不足なく跳べるが、年齢を重ねるにしたがって、軒並みこの判定に苦しむようになる。回転不足を厳しく見ること自体には反対しないが、減点はもっと抑制すべきだ。エッジ違反の減点がひと頃より抑制されたように、回転不足の減点ももっと抑えるべき。だが、悪法だからといって、それが現行の法ならば、それにそってジャッジするのは審判の立場に立てば当然のこと。今回の坂本選手の勝利、いろいろな要素があるが、最大の理由はセカンドに跳ぶ3Tの確実性と質だったと言える。リザルト(プロトコル)を見ると分かるが、3回転+3回転のセカンドジャンプは多くの選手が回転不足(<やq)を取られている。坂本選手は「セカンドに跳ぶ3回転」を後半に2つも入れてきて、その落ちないスピード、回転不足になりにくい幅(高さももちろんあるが、セカンドでは特に幅が大事だ。垂直跳びに近くなると回転不足になりやすい)を見せつけて、高い加点を引き出した。欠点であるルッツに関しては、判定が好意的だった。ショートではエッジ違反を取られずに加点、フリーでは「!」にとどまったことで、ここでも加点を引き出した。クライマックスにもってきた得意の3ループはいつもよりは慎重だったかもしれないが、チャンピオンを決定づけるにふさわしいドラマチックなものになった。そして、なんといっても後半になっても落ちないスピード。連続ジャンプは、ファーストがむしろ抑え気味でセカンドを高く、遠くへ跳んでいる。前後のスピードもまったく落ちない。この跳び方は高く評価されるスタイルだ。やれと言ってできるものではない。高難度ジャンプを入れることで顕著になってきたジャンプの種類の偏りもない。アクセル、ルッツ、フリップ、ループ、サルコウ、トゥループ…全部跳べる。まさにジャンプ構成のお手本。こういう選手こそ女王にふさわしい。五輪後は調整が難しい。にもかかわらず、五輪以上のパワフルな滑り。これは坂本選手の体力、つまりは健康の勝利だと言える。逆に、深刻なのは河辺選手。ルッツにもフリップにも「!」…これはエッジの使い分けが曖昧だというメッセージだ。トリプルアクセルは不安定、セカンドに跳ぶ3回転ジャンプも回転不足気味…。これだけ技術に突っ込みが入ると…
2022.03.26
北京五輪、男子シングルが終わった。金メダリストは4ルッツと4フリップを完璧に決め、当然のように4サルコウと4トゥループを入れたネイサン・チェン。銀メダリストは4ループ(少しだけ回転不足)、4サルコー、4トゥループを決めた鍵山優真。大きな武器である4フリップを失敗しながらも、4ループと4トゥループを決めた宇野昌磨。実に納得しやすい順当な順位となった。つまりアクセル→ルッツ→フリップ→ループ→サルコー→トゥループという、フィギュアの「伝統的な」難易度の順位付けに忠実な結果になったという意味で。かねてからフィギュアは全員に公平な基礎点中心でいくべきで、主観で操作できる加点や演技・構成点を重視しすぎるべきではない、というのが持論のMizumizuにとって、この男子シングルは理想に近い形での競技会になった。基礎点重視といいつつも、やはり「モノにできていない」ジャンプを跳べば、点は伸びない。その意味でも、非常に健全な採点がなされたと思う。金博洋(ボーヤン・ジン)の低得点を除いては…だが。金博洋選手の演技・構成点の低さは信じられない。平昌五輪での中国人審判の「身びいき」不正が、尾を引いてしまっている気がする。4ルッツをきれいに決め、4トゥループも2回決め、ステップもスピンもレベル4の選手に、演技・構成点の5コンポーネンツで9点台を出したのが一人しかいないというのは、いったいどういうことか。中国は明らかにシングルを捨てて、ペアに力点を置いているようだ。自国の「推し」がなければ、こういうことになる。金選手の採点に対しては怒りをおぼえるが、日本人としては、日本人選手が2位、3位、4位に入ったのは素直に嬉しい。国内大会3位の選手が、上の2人を押しのけて、しかもオリンピックという大舞台で2位になるなんて、日本男子はいつの間に、これほど層が厚くなったのか。全盛期のアメリカのようだ。だが、ひとつ気になる点がある。それはジャンプ構成の偏り。4回転時代に突入して、複数の4回転を持てば、必ずしもバランスよく6種類のジャンプを跳ばなくてもよくなった。一番有利なのは、(4アクセルは今はまだ夢のジャンプなので)4ルッツと4フリップを跳べる選手だから、ロシアなどは、ことさらルッツとフリップを強化している感がある。だが、真の王者、真のオールラウンダーとは、「苦手なジャンプがない選手」だ。ネイサン・チェンは4フリップを2回跳び、4ルッツと3ルッツを入れているがループを入れなかった。彼の名誉のために言っておくが、ネイサンは別にループが苦手ではない。ただ、今のルール上、入れる必要性を感じていないのだろう。鍵山選手の場合は少し事情が異なるかもしれない。彼の3ルッツには、明確なアウトサイドという印象がない。構えているときはアウトにのっているが、踏み切る直前に少し中立に戻ってしまう。グッとアウトエッジにのって跳べるルッツがないから、試合に入れていないのかもしれない。羽生選手の場合は、足首の状態もあるのだろう。彼は決してそれを言い訳にしないが、フリーでのサルコウでのあのコケ方は…それぞれの事情はあるにせよ、今回の男子シングル、上位選手のジャンプ構成を見ると偏りがやはり気になる。もちろん選手の立場に立てば、今のように回転数で順位が決まるとなれば、基礎点のより高い、自分にとって得意なジャンプを多く入れるようになるのは自然なことだ。以前にもあった提案で、結局は通らなかったが、3回転以上の6種類のジャンプをすべて入れて回り切った選手にはボーナスポイントを出すというのはどうだろう。それも高いボーナスポイント、4回転1回分に匹敵するような点を。ジャンプのバランスの良さは高難度ジャンプに匹敵する、もしくは凌駕するくらいの価値があると、Mizumizuは思う。また、こうしたボーナスポイントがあれば、複数の4回転がなくても、別の要素や舞踏的な表現力に優れた選手がより闘いやすくなり、ジャンプ大会と化していくのをある程度抑制できるのではないか。五輪で上位にくる選手は決してジャンプだけではない。というか、「滑る」技術が優れているからこそ、スムーズにジャンプが跳べるのだ。とはいえ、フリーを見ると、選手はたくさんのジャンプを跳ぶことに体力を取られ、それ以外の表現を抑制せざるを得なくなる。表現という意味での面白さ、フィギュアの醍醐味は、今回は各選手とも、むしろショートプログラムのほうがフリーに勝っていたかもしれない。
2022.02.10
北京五輪の男子シングルが始まった。今日はショートプログラム。羽生選手は残念だったが、宇野選手、鍵山選手がベストな滑りを見せてくれ、大いなる感動をもらった。「また4-3が4-2になるかな~」と心配していた宇野選手も片手をつきながらも4-3が入ったし、鍵山選手は若さ溢れる生き生きとした演技で、しかも高難度ジャンプを危なげなく決めた。羽生選手の4アクセルと三連覇ばかりに注目が集まったのも、プレッシャーがかからなかったという意味で宇野選手、鍵山選手にはよかったのかもしれない。五輪になると、その前の全日本よりパフォーマンスが落ちるのが日本選手の恒例だっただけに、これは嬉しい結果だ。羽生選手は氷上の穴にはまってしまったよう。練習では軽々と決めていた4サルコウだけに、悲しい気持ちになったが、人生とは得てしてこういうものだ。喘息があり、コロナ禍ということで北京入りをどうするかなど、羽生選手は難しい決断を迫られたはず。五輪の悲劇は思わぬところで、思わぬ選手に起こる。4年前はネイサン・チェンのショートプログラムだった。あの思いもよらない結果に、本人だけでなく、多くのファンが落胆したはずだ。アメリカのテレビ局は、チェンのメダルが絶望的と知るや、さっさとフィギュア男子の中継をゴールデンタイムから外してしまった。フリーのネイサンは素晴らしかったというのに!今回のネイサン・チェンは、4年前の悪夢など微塵も影響していないパフォーマンスだった。練習から調子がよく、失敗するイメージがこちらもほとんど持てないほどの仕上がり。本番でも、その実力をいかんなく発揮してくれた。後半に4ルッツ+3トゥループを持ってくるという、「そこまでリスキーなことしなくても、勝てるでしょ?」の高難度構成。それをきれいに軽々と決めた。この瞬間、「もう誰もネイサンには勝てない」ことがはっきりしたと思う。プルシェンコが、「平昌で勝つために4回転ルッツは必要ない。北京では必要かもしれないが」と言ったとおりの展開になった。宇野選手も鍵山選手も点数の上ではいいところにつけているが、4回転ルッツを120%決められるネイサンの敵ではない。最も難しいジャンプを跳ぶ選手が勝つ。北京大会はスポーツとしてのフィギュアの王道をいく大会になりそうだ。ストイコに「フィギュアスケートが死んだ日」とまで言わしめた、バンクーバーの暗黒時代から、ロシアを中心に求めてきた「スポーツとしてのフィギュア」への軌道修正は、ネイサン・チェンというたぐいまれな才能の持ち主を得て、ついに完全な正常化に成功した。今のシングルはジャンプ大会になっているが、トップにくる選手は決してジャンプだけではない。それは女子シングルでも同じだが、大きな弊害も出ている。それは特に女子に顕著だが、それについてはまた別途書こうと思う。ほとんどの選手が試合に入れることさえできない4ルッツを軽々と決める。それだけなら金博洋選手のほうが先駆者かもしれないが、チェン選手は4フリップもショートに入れて、簡単に決めてしまう。4ルッツと4フリップを完璧に装備しているという点で、今回の五輪王者にふさわしいのはやはりネイサン・チェンしかいない。ジャンプがあまりにすごいので見逃されがちだが、ネイサンのもつ美しさも、実は破壊的なレベルだ。氷上でポーズを取っただけで、その均整の取れた細身のプロポーションに目を奪われる。奇妙に聞こえるかもしれないが、Mizumizuはネイサン・チェンの足首が、すっと伸びたその瞬間が好き。その足首のやわらかさ。ブレードが氷に貼りついているよう。まさに「足先まで神経が行き届いている表現力」の好例だ。4年前のネイサンの「ショートの悲劇」を見たとき、果たして次の五輪で彼はまだ4回転を跳べるだろうか――と密かに危惧していた。4回転という大技を長きにわたって跳ぶのは非常に難しい。ケガも付き物だ。だが、その後のネイサン・チェンの快進撃はとどまるところを知らなかった。そして、4年前以上に洗練されたジャンプとスピンとステップを携えて、彼は堂々と五輪の舞台に戻ってきたのだ。これほど五輪王者にふさわしい選手が他にいるだろうか? 金メダルにもっともふさわしい選手が、実力をいかんなく発揮して栄光をつかむ。その姿はその選手がどこの国に属していても、嬉しい。
2022.02.08
行政に登録し、地域猫活動をはじめて2年目、2021年の春先。ある朝ふいに新顔の茶トラがやってきた。珍しいメスの茶トラ。しかも、お腹が横に張り出している。妊娠しているらしい。とても用心深く、警戒心丸出し。フードを用意してこちらが離れれば、食べるのだが、近づこうとするとパッと逃げてしまう。この子を連れてきたのは、コイツ↓ボス猫としてこの地域に君臨している「まるちゃん」、またの名を「ドン・ファン」。この子の子供を産むメス猫は、知ってるだけでこの新顔茶トラちゃんが3匹目だ。数年前は愛らしい目をした仔猫だった。それがいつの間にか、でっぷりと太り、いかにもふてぶてしい狡猾な野良となった。他のオス猫がこのあたりに入り込んでこようものなら、獰猛な表情で音もたてずに忍び寄り、バッと飛び掛かって、取っ組み合いのケンカに持ち込む。だから、このあたりからは野良のオス猫の姿がめっきり減った。しかも、その狡猾さをある種の人間の前ではうまく隠す術も身につけていて、近所の老夫婦は、「まるちゃんはおとなしい紳士」と思い込んで可愛がっている。彼らの前では遠慮がちで控えめなかわいい猫ちゃんらしい。私が他のオス猫に襲い掛かる話をしたら、心底驚いて、目をそれこそまんまるにして、「信じられない!」を連発していた。去年ドン・ファンの子供を産んだメス猫の「しまちゃん」は、とても懐っこい性格だったので、我が家で保護して完全家猫にした。しまちゃんがいなくなったら、まるちゃんのやつ、この茶トラちゃんに乗り換えて、ちゃっかりくだんの老夫婦のところにも連れていったらしい。ついでに言うと、ドン・ファンはしまちゃんとイチャイチャしていた時期に、しれっとしまちゃんの娘のミケちゃんにも種をつけていたのだ!「困ったことになったなあ」――中絶になる不妊手術を施すのが地域猫を管理する側としてはベストだが、慣れていない新入りの野良猫を強引につかまえて中絶させると、その子はもう二度とこの餌場に来ないかもしれない。術後の経過も見てやれないかもしれない。とりあえずは「チャー子」と名付けて見守ることにした。最初のうちはフードを食べに来たり、来なかったり。できるだけはやく信頼してもらいたいから、チャー子が姿を見せたときは気前よくおいしいフードを用意した。ウェットが好きらしく、それを食べているときはかなり警戒心というものを忘れるよう。これなら、手で捕まえられるかな? でも、お腹はあっという間に、どんどん大きくなっていく。「出産間近の野良のメス猫ちゃんを手術に連れていったら、亡くなってしまったことがあったの…めったにないことだけど、『心拍数が上がってこない』って獣医師の先生に言われて…こんなことになるなら産ませてあげればよかったなって…」かぎしっぽのベテランさんの悲しそうな声が蘇る。同時に、一緒のチームで活動している別の方の声も聞こえてくる。「野良猫は生まれても、なかなか育たないから。4~5匹生まれても、5匹が3匹になり、3匹が2匹になり、とうとう2匹が1匹になり…その子を守ろうとして親猫が交通事故に遭って亡くなったこともあるのよ」同じ経験をMizumizu自身も昨年している。「ミケちゃん」のケースだ。4匹いた子が気づいたら3匹に。そして、大雨のある日、ずぶ濡れの子猫を意を決して保護することにした。ところが2匹の黒白子猫に逃げられた。とてもすばしっこかった。逃げられなかったのは、一番発育が悪かった茶トラの子。目の状態もおかしくて、あきからに何らかの病気に感染していた。そして…今は母猫のミケちゃんと、その茶トラの息子だけが我が家で家猫になっている。チャー子はどうすべきなのか? 迷っているうちに出産は明らかに、もう間近に。今回は産んでもらって、野良のまま見守り、乳離れしたところでチャー子の手術、生まれた子も育ったところで手術、という路線でいくことにした。お腹が大きくなるにつれ食欲も右肩上がりに増していくチャー子。毎日来るようになった。そして、ある日、ふっと来ない日が。翌日も姿を見せない。ああ、多分、どこかで出産したのだな。この近所で猫好きは、むしろ少数派。「物置で野良が子供を産んだから、目がひらかないうちに用水路に子猫を捨ててやった」などと猫好きの老夫婦に平気で話したという猫嫌いの老女もいるのだ。もちろん普段は普通の市民だが、猫にとってはとんでもな存在だ。そんな人のところで産んでないといいのだけれど…数日後、チャー子は現れた。体はスリムになっている。子猫を連れてくるのはまだ先だろう。授乳期だから、たっぷり栄養を摂ってもらわねば。チャー子が来るたびにフードをせっせと出すMizumizu。しばらくすると、道端で授乳するチャー子の姿をたまに見るようになった。Mizumizuが見たときは子猫は4匹いた。だが…やはり日を追うにつれ、子猫の数は減っていく。最終的に茶トラ(茶太郎と命名)とサビ(サビーヌと命名)の2匹になり、我が家にご飯を求めに来るように。ただ、サビーヌはとても発育状態が悪い。しょっちゅう目を腫らしているし、細くてプロポーションも悪い。それでも、うちでご飯を食べる習慣が定着していからは、なんとか育っていった。逆に茶太郎のほうは健康優良児。猫にはよくあることなのだが…そして2ヶ月半が経過。そろそろチャー子の次の妊娠が怖い。というのは…ミケちゃんが昨年、出産後すぐまた妊娠してしまったのだ。もちろん、ドン・ファン(猫かぶってるときは、紳士のまるちゃん)の仕業。ミケちゃんはしまちゃんの娘で、ドン・ファンと仲良しでしょっちゅう一緒にいたのは母のしまちゃんのほう。しかも、しまちゃんも娘と同時期にドン・ファンそっくりの子猫を複数産んでいた。チャー子はドン・ファンとしょっちゅう一緒にいる。餌場にドン・ファンがやってくると、スリスリ~チュッチュとご挨拶。ただ、まだ子猫はお乳にふるいついてくる。この状態で母猫を手術していいものか? またも逡巡するMizumizu。獣医師の先生に相談すると、2ヶ月過ぎればほぼ授乳期は終わったとみてよいとのこと。もう一つのMizumizuの懸念は天気だった。今年の初夏は雨が多く、天候不順だった。心配だ…と獣医師の先生に言うと、大丈夫だと即答。野良猫はちゃんと雨に濡れない隠れ家を持っているし、この時期なら手術の傷の治りもはやいのだという。それより、次の妊娠のほうを心配すべきだとのアドバイス。それでも、なるたけ晴れている日を選ぼうとするMizumizu。気温も高すぎないほうがいい。天気予報とにらめっこの日々が続く。チャー子は、ウェットフードをあげているときは、触っても逃げなくなった。決して人間に背を向けてご飯を食べることのないドン・ファンと比べると、警戒度はダダ下がり。数日晴れそうだというある日、ついに捕獲する決心をした。チャー子がウェットフードにがっついているのを見計らって後ろから持ち上げ、すばやくキャリーケースに入れる作戦。去年は、このやり方で、しまちゃんとミケちゃんを手術に連れていった。チャー子も慣れたみたいだし、大丈夫だろう。と思ったのだが…甘かった! 動物の生態を甘く見てはいけない。そう思い知る顛末が待ち受けていた(以下、次のエントリーに)。Mizumizu主宰の地域猫の会は、広く寄付(お金ではなく、猫のフード)を募っております。完全匿名で贈ることができます。皆様のあたたかい善意をお待ちしております。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈る↓こちらはかぎしっぽの会のアフィリエイト。ここから買い物をすれば、売り上げ金の一部が寄付されるので、買い手に金銭的な負担は生じません。ネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2022.01.02
コロナ禍で地方へ「疎開」したMizumizuが、今一番力を入れているのが地域猫活動。野良猫を捕獲して去勢・不妊手術を施し、住み慣れた場所に戻して、餌やり・排泄物の処理をしつつ、一代限りの命を見守る活動だ。こちらには「かぎしっぽの会」という大きめの保護団体があり、そこに直接・間接的にぶら下がるように小さなチームが点在している。というのは、手術には公的な助成金制度があり、支援を受けるためには3人でチームを作り、地域猫の会を立ち上げればよいから。去年はまだ始めたばかりで、よくよく慣れた野良猫、3匹の手術をするのが精いっぱいだった。今年は7匹。8匹申請したが1匹はとうとう捕獲できず申請を取り下げた。去年は、慣れた猫だったから、申請から捕獲、手術まで、「ふむふむ、わりあい簡単だな」と思った。が!それは、あくまで人に慣れる(野良としてはむしろ珍しい)タイプのコたちだったからだった。今年は捕獲そのものに苦労した。3人でチームを作ったとは言っても、別の2人はすでに個別でかなり活動しているので手助けしてほしいとも言えない状況。実は猫好きにはこのパターンが多い。助成金に頼らず自腹でTNRをする羽目になったり(なぜそうなるのかについては、また後日)、結局は家猫として保護し、それも1匹ではおさまらず、めいっぱい飼ってしまったりする。チームメンバーの2人はモロにこの手の方々で、Mizumizuの手を借りずにどんどん手術などの活動を進めていく。なので、Mizumizuも申請から捕獲、手術、リリースまで、基本一人でやっている。チーム内の連携はフードの融通や情報交換といったところ。で、どんな苦労があったのか…何が問題で、助成金を受けてのTNR活動が難しくなるのか、については次回以降のエントリーで述べるとして、まずは去勢・避妊手術をしないとどうなるか…その現実を見てほしい。Mizumizuが贔屓にしている福岡のCafe MOKAさん。You TUBEにチャンネルもあり、頻繁に拝見しているのだが、最近、団地で「多頭崩壊」(増えすぎて面倒が見切れなくなる状態)に陥った59匹の猫のレスキューの動画が上がった。https://youtu.be/DRyW0Gsnm5I↑こちらがその動画(コピペすれは視聴できます)。最初はもっと凄惨な状況を想像したのだが、思ったより猫の健康状態がよくて、そこはめちゃくちゃ安堵した。飼い主の方…ぎりぎりまで頑張ったのだなあ…本音を言えば、もっと早い時期に保護猫活動のベテランに相談してほしかったが、それでも、飼い主が直接連絡をくれたということで、なんとかしなければと決心してくれたことはありがたい。そして、この状況を責めることなく、なんとかしようと動き出している善意の人々がいる。ここまで手際よくレスキューを進め、ボランティアの方たちに猫たちを(全頭は到底無理だが)振り分けることができるのは、長年の活動経験があってこそ。本当に頭が下がる。「かわいそうだから」「自然のままがいいんだ」「手術にはお金がかかるから」と言っているとこういう状況に陥ってしまう。もともとは猫を救おうとした善意が、不幸の連鎖を生んでしまう。猫に去勢・不妊手術をするなんて、本音を言えば、誰だって嫌だ。だが、もともと過酷な自然状況下で生きぬいてきた猫は、繁殖力がとても強い。人間が餌をやることで、狩りから解放されて栄養状態が良くなれば、どんどん繁殖のほうへ行ってしまう。だから、去勢・不妊手術は必要なのだ。不幸な猫の連鎖を防ぎ、同時に人間から憎まれる存在にならないために。Cafe MOKAさんの動画を再生すると、収益につながります。また、概要欄には寄付金の送付先や匿名で必要物資を贈ることのできるアマゾンのほしいものリストも記載されています。長年、猫の保護活動に取り組まれている信頼できる方なので、皆様のあたたかいご支援をお願いいたします。また、Mizumizu主宰の地域猫の会でも、広く寄付(こちらはお金ではなく、猫のフード)を募っております。完全匿名で贈ることができます。こちらも皆様のあたたかい善意をお待ちしております。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈る↓こちらはかぎしっぽの会のアフィリエイト。ここから買い物をすれば、売り上げ金の一部が寄付されるので、買い手に金銭的な負担は生じません。ネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.29
アイスダンスと並んで、世論を二分した…かもしれないフィギュアスケート女子シングル五輪代表3枠目。候補に残った三原舞依選手と河辺愛菜選手の点差はわずかで、しかも、三原選手のフリーの内容はさほど悪くなく、ただ連続ジャンプを跳びすぎたために点数ロスが大きかったというもの。2人の表現力は相当な差があるように感じたが、得点を見ると演技・構成点の2人の点差は2点とわずか。個人的にはもっと表現力の差を点数に反映してほしかったが、昨今のジャンプ重視の採点の流れから言えば、どうしても主観が入る演技・構成点では「順位はつけるが、点差はつけない」ほうが、無難…というか公平な採点になる。では、代表にふさわしいのはどちらの選手か? 実績から言えば三原選手だが、今シーズンの河辺選手はとても調子がよい。とりわけトリプルアクセルの安定度は大きな武器だ。高難度ジャンプを「跳べる」といっても、高い確率で認定され、GOEプラスの評価を得られるジャンプを跳べなければ、得点上は意味がない。今の評価システムでは、重要なのは回り切っているかどうかであって、着氷したかどうかではないのだ。この価値観にMizumizuが必ずしも同意できないのは、過去に何度も述べているので繰り返さないが、そういうルールになっている以上、それにもとづいて得点が与えられるのは当然のことだ。Mizumizuは樋口選手のトリプルアクセルに期待していたが、全日本が終わってみれば、樋口選手のそれは1回でGOEはマイナス評価。河辺選手は2回入れてどちらもプラス評価だった。認定されるトリプルアクセルを跳ぶことができ、かつGOEでもプラスの評価を得たことが河辺選手の大きなアドバンテージになった。心情としては苦労を重ねてこの舞台に立った三原選手を五輪に送ってあげたいが、まだ若く将来性があり、かつ難度の高いジャンプを跳べる河辺選手を派遣しようという結論は、今の選手評価傾向からすれば、妥当かなと思う。河辺選手は、「私はまだ実力不足」と控えめだが、どうしてどうして、ショートのトリプルアクセルを降りたあとの微笑みには女王を予感させる雰囲気があった。フィギュアスケートでは技術だけではなく、その選手のもつ個性も大事だ。河辺選手はまだ純白で自分の色が出てきていないようにも思える。だが、若いわりには落ち着いていて、どこか神秘的な表情は、「これから」に大いなる期待を抱かせる。注目は先輩の2人に集まるだろうから、外からのプレッシャーはそれほどでもないハズ。自分にあまり重圧をかけず、伸び伸びと五輪のリンクで滑ってほしい。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈るネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.27
高橋大輔選手のアイスダンス転向でにわかにメディアの注目が集まったのが、去年。正直、昨季の段階では、小松原組とのレベル差が大きすぎて、注目が全日本優勝カップルにさっぱり集まらないことに腹立たしささえ感じた。だが、今季の「かなだい」組には、心底驚かされた。なんといってもRDの「ソーラン節」の革新性。ひと昔前なら、「ダサい」と若者に敬遠されたであろう日本の伝統的な楽曲が、えらくカッコよく、オシャレなモダンダンス曲になったことに衝撃を受けた。振付が斬新、だから見ていて面白い。衣装のデザインは、特にカラーリングが極めてハイセンス。You tubeに上がったかなだいの「ソーラン節」に、リピが止まらない。コメントを読んでも同じように感じた人が多いらしく、これで間違いなくアイスダンスを見るファンが増えるだろう。これまでアイスダンスは、シングルと抱き合わせで売らないとチケットがさばけないようなお寒い状態だった。ヨーロッパでは「かつて」は人気があったのだが、その人気もある時期を境に急降下し、どん底まで来て、下げ止まったかどうか、という状況。だが、アイスダンスのもつ「成熟したスケートの魅力」「氷上の舞踏藝術としてのポテンシャル」は、元来、他の追随を許さないものだったはずだ。稀代の名振付師もアイスダンス出身者が多い。そこに登場したのが、世界を魅了する氷上のダンサー、高橋大輔。彼を強く勧誘したのは、小松原組以前にはリード氏と組んで全日本覇者だったアイスダンサー村元哉中。メディアの注目先行だった昨シーズンとはガラリと変わり、その急速な「進化」ぶりには驚きを通り越す衝撃があった。もともと村元選手はリード選手と組んで、小松原組以上の成績をワールドでおさめているし、実力はお墨付き。課題は高橋選手にあったのだが、なんというか、天才はやはり天才なのだな、そうとしか言えない。かなだいの魅力は、きわめてフェミニンな身体のラインを持ちながら、どこかしら、ひどく「漢」なものをもっている村元選手と、この1年で肉体改造と言えるぐらいの筋肉をまとい、きわめて男性的なボディを手に入れながら、どこかしら、守ってあげたいようなかわいらしさを失わない高橋選手の個性の相乗効果にある。村元選手は、「ソーラン節」の始めでは巫女的な神秘性を強く印象づける。「ラ・バヤデール」の始まりの彼女のポーズは極めてたおやかでうっとりするほど美麗。ところが、演技に入ると、古典的な性差の境界がぼやけてくる。その意味で、このカップルはとても先進的なのだ。対照的なのが「ココ」こと小松原美里/小松原尊組。とてもオーソドックスでアイスダンスの王道をいく演技。フリーの「SAYURI」では、「美里を美しくみせたい」と力強く抱負を語るちょ~ハンサムな夫。アメリカ出身ながら、日本語を話し、さらにルーツを日本古来の伝説にまでさかのぼることのできる「尊(たける)」という名を選ぶという知性派。おまけに伝統的なアメリカの好青年の典型で、常に前向きで努力を怠らない。メディアの注目が結成2年目のライバルにばかり向く中で、くさりもせずに自分たちの課題を見つけ、1つ1つそれを克服しようと研鑽を積む姿は本当に尊敬に値する。多くの日本の若者にも見習ってほしい。全日本でココ組が着たフリーの紫の衣装は素晴らしく美しかった。演技もNHK杯より確実に良かった。ただ…もう少し…かなだい組を突き放す点をフリーで出せていれば、五輪代表は確実だっただろう。勝ったとは言っても、かなだいとの点差はわずか。昨季のワールドの実績も19位と、やや期待外れだった。といって、かなだいにも今回のRDに見るような不安定さがつきまとう。2人の個性はそれぞれ際立って素晴らしいが、アイスダンスのキモであるエフォートレスな(に見せる)一体感という意味ではココ組には及ばない。選考結果は間もなく発表になるが、日本中が、どちらも応援したい気持ちでいるのではないか。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈るネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.26
圧巻、神の領域、史上最高…あらゆる賛辞のはるか上をいくパフォーマンスだった。羽生結弦選手の2021全日本、ショートプログラム。度重なるケガ、コロナ禍という特殊な状況、台頭する若手、スターゆえのアンチによる誹謗中傷…なにより、すでに五輪二連覇という、栄光をきわめた選手がどうやってモチベーションを維持するのかという問題。羽生選手がここまで現役を続けてきた、それだけで「圧巻」なのに。それは誰も行ったことのない砂漠に一人で足を踏み出したようなもの。どこにオアシスがあるか分からない、どこに誰がいて、どんな危険が潜んでいるかも分からない。そんなところへ「行く」など、常識的な大人なら止めるはずだし、「蛮勇」ではないかとネガティブに捉える向きも多いだろう。それでも彼は行き、そして、結果を出した。それが今回のショートプログラムだったと思う。Mizumizuはかつて羽生選手を「凄いジャンパー」だと評した。むろん、今もそうだ、だが、ジャンプだけだったらすでに羽生選手以上の難度のジャンプを跳ぶ選手がいる。しかし、このショートプログラムは…誰も到達できない域、もはやこの世のものではない出来だった。とりわけ凄味を帯び、壮絶な美を見せつけたのは、後半のステップ。ステップだから足さばきで魅せるのが王道…そんな常識をぶち壊す、羽生結弦にしかできないムーブメントの連鎖。目が釘付けになる、鳥肌が立つ…あらゆる形容がいっそ陳腐になる世界観だった。選曲はロンド・カプリチオーソ。曲自体はフィギュアスケートではありふれている。名選手なら一度は演じたことがあるのでは、というくらいよく使われる曲だ。ところが羽生選手の場合は、バイオリンではなくピアノ。「あれ? あれ?」と思っているうちに、演技が進む。耳慣れた曲のはずなのに、どこか違う。しかも、羽生選手の動きにぴったり。音がついてくるかのように一体となっている。それがオリジナル編曲(清塚信也氏による)の羽生バージョンだと知ったのは演技後だったのだが。この作品の「初演」が五輪を控えた全日本だったというのも運命的だ。初披露のインパクトが、ミスのないパフォーマンスとあいまって、感動の嵐をさらにすさまじいものにした。Mizumizuの好きなオペラ作品にモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」があるが、これの初演はプラハのエステート劇場だ。今後フィギュアスケートのプログラムが1つの芸術作品として認知されるようになってくれば――そして、それを町田樹氏のような逸材が実現しようとしている――原曲・編曲・振付・演技者の名とともに、初演の場の名称も歴史に刻まれるかもしれない。それほどに、語り継ぎたい「初演」だった。これほどのものを見せてしまって、羽生結弦にこの先があるのだろうか? 凄すぎてそんな懸念が生まれるほど。そもそも27歳という、シングルのフィギュアスケーターとしてはもう若いとは言えない年齢で、どうしてあれほどしなやかで細い、アンドロギュノス的なプロポーションを維持しているられるのか。男性の場合は筋肉が「つきすぎても」跳べなくなるという。本人が並外れた節制をしているのかもしれないが、それにしたってプロポーションというのは天賦のもの。それだけで神に選ばれた存在としか言いようがない。すべてが奇跡――あのパフォーマンスをあの場で生で観た方々は、一生の誇りにしていい。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈るネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.25
紀平選手の欠場で、一部で「主役不在」とも書かれた全日本フィギュアスケート女子シングル。ロシアのメディアにいたっては、「唯一の競争相手だったのに…」などと、すでに「日本女子眼中になし」宣言をしていた。確かに、トリプルアクセル以上のジャンプを次々に投入してくるロシア女子には、現在のところ「(日本女子は)歯が立たない」だろうというのが大方の見方だ。今のシングルは事実上のジャンプ大会になってしまっており、フィギュアスケートが元来もっていた多彩な魅力が損なわれている。北京五輪の女子シングルで誰が女王になろうと、その後あっという間に跳べなくなり、あっという間にいなくなる、ソチ、平昌の女王と同じ道をたどるだろうことは目に見えている。にもかかわらず、と言うべきか? その五輪を目指す国内大会、全日本は常に、いつも、素晴らしい。今年の女子シングル、ショートも期待を裏切らない大会になった。上位を争う選手にミスが少なく、「ショートは失敗しないことが大切」というフィギュアスケートシングルのセオリーをきちんと踏まえた演技を披露したうえで、それぞれの個性が花開いていた。首位に立った坂本花織選手のスピード、迫力のある大きなジャンプは、予想以上だった。最初のダブルアクセルからもう…、「すごい」としか言いようがない。トリプルアクセルや4回転がなくても、それに匹敵する感動があった。これぞフィギュアスケートにおけるジャンプの醍醐味だろう。2位は樋口新葉選手。トリプルアクセルを期待したが、ショートではダブルに。だが、その他の要素やフリーとは対照的なプログラムの雰囲気を見事に演じて、円熟味すら感じさせる出来だった。もともと世界選手権で銀メダルに輝いた実力者。前回の五輪が「不運」だっただけに、是非ともこの五輪には行ってほしい。そして、あの、理想的な放物線を描くトリプルアクセルを決めてほしい。3位は宮原選手…ではなくて、河辺愛菜選手だった。トリプルアクセルを決めたのが大きい。ジャンプ重視の今のシングルの「潮流」を象徴するような順位。そして、4位の宮原知子選手。個人的に最も感動した演技。ちょっとした膝の使い方だとか、腕を使った表現だとか、スムーズな滑りや緩急のメリハリ、それに正確で上品なスピン。あらゆる要素が「これぞフィギュアスケートのお手本」という技術から成り立っている。しかも、技術一辺倒のつまらなさはなく、情感も豊かで、表現力もピカいち。全日本を何度も制覇し、世界選手権でも上位を争っていたころより、宮原選手は何倍も成長し、魅力的になった。とにかく、美しい。10代から20代にかけて、これほど美しく成長した選手も珍しい。かつてメダルの常連だった宮原選手だが、あのころの彼女のアイスショーには、特段行きたいとは思わなかったが、今の宮原知子なら、まずまっさきにアイスショーに駆けつけたい。時間をかけて磨いてきた技術が美として開花する。まるで精緻な工芸品を見るような宮原選手の演技。だが、今の採点傾向では、ジャンプが足りないと点数は出ない。こうしてますます女子シングルの選手生命が短くなる。残念なことだ。5位の三原舞依選手の表現力も見逃せない。リンクに立ったとたん、周囲の空気が浄化されていくような透明感、清潔感。この世のものとは思えないような儚げな佇まい。技術は正確で、基礎の確かさが伝わってくる。ジャンプはとても丁寧に跳んでいる。すべてが決まるフリー、それぞれの花が開くとき。ワクワクするし、ドキドキする。そして、アイスダンス!革命ともいえる「かなだい」の登場については、またゆっくり。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈るネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.24
不幸な野良猫を減らそう!Mizumizuがミントチョコなるものを初めて食べたのは、10代後半。ヨーロッパ帰りの父が免税店で買ってきたお土産でだった。そのころは日本にはほとんどミントチョコなんてものはなかった。で、当時、初めて、一口食べての感想は…――うへっ、なにこの歯磨き粉みたいな味! チョコレートが台無しじゃん!という、ありがちなものだった。それから時は流れ…今はミントチョコはかなり好き。でも、ミントチョコアイスはもっと好き、になった。いつ嗜好が変わったのか、よく憶えていないのだが。コロナ禍の中、山口県への「疎開生活」が始まって、庭の隅にミントを植えてみようと思い立った。ネットで調べると、ミントはえらく繁茂するから庭に植えるのは要注意とあったので、裏のあまり日の当たらない場所に植えてみた。この場所がほどよかったのか、手がつけられないほど生い茂るということもなく、といって枯れてしまうほどでもない。特に今年は、新しい茎も出てきて若い葉が採りやすい。本当はスペアミントを植えたかったのだが、たまたま園芸店になかったので、買いに行ったときに入手できたホワイトミントにした。背が高くなってしまうと葉も暗い緑になり、そうなると香りも渋くなり、煮出すと苦みが出やすくなる。アイス用にさわやかな香りを出すためには、なるたけ若い葉を選んでむしり、弱火でゆっくり煮出すのがよいようだ。最初はミントリキュールの助けを借りずに、生のミントの葉だけで香りづけをしたものを作ってみたが、出来はイマイチ。なので、今はミントリキュールも併用している。こちらのほうが緑のきれいな色が出て、いかにもミントアイスという感じにもなる。余談になるが、山口市内でミントリキュールを探すのにちょっと苦労した。最初はリキュール ドーバーミントグリーン 100mlこの手の小さな、製菓用のを買いたかったのだが、これが全然見当たらない。仕方ないので、酒屋でボルス ペパーミントグリーン 24度 700ml 箱なし 【 リキュール お酒 ギフト カクテル プレゼント ミント 洋酒 酒 bols ペパーミント ミントリキュール 内祝い 結婚祝い 誕生日 女性 記念日 誕生日プレゼント お返し 贈り物 母の日 花以外 】【ワインならリカオー】これを買った。頻繁に作るので結果オーライだった。製菓チョコレートも、山口だと入手できるものが限られているので、市販のチョコを使うように。一度、よくある板チョコを使って、あまりに板チョコの味で失敗したので、【卸価格】カレ・ド・ショコラ<カカオ70>101g(21枚)×6個入り1BOX【森永製菓】今はこれを使っている。カカオ70の苦いやつ。カカオ分を自由にできるのも自家製ならでは。レシピは以下。卵を使わず、ヨーグルトを隠し味にしたさっぱり系。シャリッとした食感が楽しめる。生クリームもあまり乳脂肪分の多いものは使わず、35%のものを使用。うまく作るコツは、とにかく急がないこと。ミントの葉にゆっくり火を通し、ゆっくり冷やしてから生クリームを泡立て、冷蔵庫で冷やしてからチョコを刻んで混ぜ込む。材料ミントの葉 8g牛乳 170cc砂糖 40g生クリーム 200gヨーグルト 大匙1ミントリキュール 45ccチョコレート 40g1)ミントの葉をあらく刻み、牛乳に入れてゆっくり火を通す。沸騰直前で止め、冷やしてから冷蔵庫へ。2)砂糖を入れた生クリームを泡立てる。3)リキュールとヨーグルトを入れ、ザル等で葉を取り除いた1)も入れてよく混ぜる。4)容器に流し込み冷凍庫へ5)1時間ほどしたら、取り出して混ぜ合わせる。6)チョコレートを刻み(Mizumizuはあらめに刻む)、5)に入れて混ぜ合わせ、再び冷凍庫へ。完全に固まるまでときどき、混ぜ合わせる。
2021.04.11
不幸な野良猫を救おう!やはり、という感じ。拙ブログで「予言」したとおりになった(こちらの記事の最後を参照)。スウェーデンで行われたフィギュアスケート世界選手権、坂本選手のショートプログラム。ルッツのエッジに「E」が付き、GOEで減点され、「ルッツを跳ぶ意味のない」点になってしまった。後半にもってきて得点アップを狙った3+3も着氷が乱れて加点が稼げなかった(このジャンプ、いつものような大きさがなかったように思えたのは、カメラの位置のせいだろうか?)。紀平選手の大技にも容赦ない「q」判定。これで加点が稼げなくなり、得点が伸びず仕舞い。(リザルトはこちら)日本開催の、あまり重要な大会でなければ、あっさり認定+派手な加点で盛り上げるのに、肝心の、オリンピックの出場枠がかかる大会だとコレ。なんだか、あまりに「いつものパターン」で、見ているのもバカバカしくなってくる。で、オリンピックが終わった直後の世界選手権だと日本選手が好成績をおさめるというパターンね。こういう採点がさらにファン離れを招いていく。回転不足を厳しく取れば、女子選手はより体重を落とそうとするから、ますます摂食障害が増える。悪循環だ。…にしても、トゥクタミシェワ選手は見事。3Aに加えて、3Lz+3Tという、女子では最高難度といっていいジャンプを入れ、両方とも認定→加点。彼女は一貫して回転不足対策を重視し、ショートではより確実に跳べる3T+3Tでくることが多かったが、この大事な試合で3Lz+3Tを入れて成功させた。好調・不調の波のある選手だし、これまでオリンピックに波長が合わずにきたという不運はあるが、彼女こそ「女帝」の名にふさわしい、女子フィギュアスケート史上、稀に見る名選手だ。しょーじきに言ってしまうと、トゥクタミシェワ選手の今回の3Aも3Lz+3Tの3Tもかなり回転はギリギリだと思った。着氷時に氷の粒がだいぶ飛んでいたし、特に3Tは飛距離が出ずに詰まってしまって、相当回転はアヤシイ。でも、認定→気前のよい加点(苦笑)。若くしてオリンピックの金メダルを「勢い」で獲ると、必ず選手生命は短命に終わる。この悪しき伝統をなんとかしてほしい。ルール策定とその運用の工夫で、いくらでもできるはずなのだが、女子フィギュアの流れは残念ながら、「少女潮流」を加速させている。トゥクタミシェワという超ド級の才能が、この流れに逆らって大輪の花を咲かせてみせるのか。トゥクタミシェワ選手のショートの好調ぶりを見て、今回のワールドでのMizumizuの期待は、そこに移った。
2021.03.25
不幸な野良猫を救おう地域猫活動に携わると、「穏健」「やさしい」「他者への敬意にあふれている」といった日本人の表向きのイメージとは違う、弱い存在に対する冷酷さ、残忍な無関心に出会うことも多い。別に特別な人ではない。普通の市民として暮らしている、普通の住民だ。だから、「川に落ちた猫をウーバーイーツの配達人が救出」なんていうニュースを見ると、うれしくなってしまう。炎上し、沈没していく漁船から猫を救出するために、海軍兵が泳いで行き、見事背中に乗せて助け出した、なんていうニュースは、なおさら琴線に触れる。いいニュースだ。ニュースソースはこちら。漁船の乗組員が救助されたあと、船に取り残された猫たち。不安そうにこちらを見ている。泳いで救出に向かった海軍兵の背中にしがみつく猫。
2021.03.05
Mizumizuは猫好き。どのくらい好きかというと、『班猫』を見に美術館へ行ったり、マンハッタナーズというブランドのバッグや財布を揃えたり、猫がデザインされた衣服やアクセサリーを好んで身に着けたり、毎朝ジャン・コクトーの猫のマグカップもしくはダヌーンのサバトラのマグカップでコーヒーを飲んだり、羽生結弦選手が慰問先で猫をナデナデする姿、その手つきを見ただけで、「ウム、彼はデキる(本物の猫好きだな)」と見抜けたりするくらい。実家には元野良猫が四匹。全員「ワケあり」。エイズキャリアの子、生まれたばかりの子猫時代にひどい猫風邪でしかもお隣のクルマにひかれかけた子とそのヤングマザー、出産を繰り返して将来が危ぶまれる肝っ玉母さん猫――それぞれがそれぞれの理由で手がかかるが、全員が愛しい家族だ。だから、地域猫の面倒を見ている方々の苦労はひじょーによく分かる。ほっておけばすぐ増えてしまう(そして人知れず悲惨な末路をたどる)野良猫を増やさずに、しかも殺処分をせずに地域猫として見守るための活動に、「TNR」というものがある。もちろんすべての猫を保護して、里親をさがしてあげるのが理想だが、数からいって、それは無理な相談なのだ。Mizumizuも実家のある山口市で小規模ながら地域猫の会を立ち上げ、行政の認可を得てTNR活動を始めたのだが、これがメチャ大変。まず、野良猫を捕まえるのが大変。そして獣医師のところで去勢(避妊)手術をしてもらうのだが、その調整と費用がまた大変。行政からの支援もあるが、補助金をいただくための手続きと野良猫確保のタイミングを合わせるのがなかなか難しい。補助金が出ても、手術代がそもそも高いので(特別に安くしてくださる獣医師もいるが)、持ち出しがバカにならない。Mizumizuの立ち上げた会はメンバー3人の小規模なものだが、大きめの組織もあり、ここで捕獲器を借り受けたり、アドバイスをいただいたりしている。それが「かぎしっぽの会」。この会に入って、長年にわたって活動を続けている方から、「やっと独立したホームページができました」というご連絡をいただいた。TNR活動について説明したページもあり(こちら)、そこからページ下部の「かぎしっぽを応援する」をポチると、支援ページに飛べる。それがこちらだが、ここからアマゾン、ヤフー、楽天、Qoo10で買い物をすると、「かぎしっぽの会」に支援金が届けられるという仕組み。もちろん、買い手は何も負担する必要はない。通常のアフィリと同じだ。猫好きのあなた、野良猫問題には心を痛めているが何もできないでいるあなた――どうぞあなたの気持ちを、買い物のときにひと手間踏むことで、自分の時間と費用を使ってボランティアで活動している方々に届けてください。
2021.02.24
【中古】羽生結弦新たなる飛翔 / 羽生選手の全日本V奪還で終わった男子シングル。あまりの「神々しさ」に、どれほど羽生結弦という存在が突出しているか、そして長いフィギュアスケート史上においても、もっとも輝かしい星として語り継がれる選手になるであろうという話を書こうと思っていたのだが、ショートのスピンがノーカウント(無価値)とされたことが大騒ぎになっていることをネット上で知って、正直驚いた。 なので、フィギュアスケートの採点について常に疑問点を呈してきたMizumizuとしては、この問題をまずは取り上げないわけにはいかないだろうと思う。 個人的には、このショートのスピン「0」は、さほど驚くことではなかった。最初にレベルがついたのが、技術審判(日本スケート連盟では「技術役員」と言うようになったらしいので、以後はこれにならうことにする)の審査のあと、ノーカン(無価値)に変更されたという経緯を見ると、たぶん「姿勢」が保持されていなかった、もしくは保持されていたとしても、回転数が足りなかった(とみなされた)ぐらいのことかな? と思っていた。 今季最初の試合だし、こういうことはまま、ある。いわゆる「取りこぼし」だ。ステップでも、「ターンが不十分だとみなされた」ことで、ステップに定評のあるトップ選手がレベルを取りこぼすこともある。こうした取りこぼしは、たいていの場合、トップ選手ならすぐに修正してくるし、修正が可能なミスだ。 すぐに修正できそうに見えて、実際にはなかなか修正できないジャンプの回転不足とは違う。 だから今回も、むしろMizumizuには技術役員の「親心」に見えた。次の大事な国際試合では、しっかり姿勢を保持して、規定回数をしっかり回ることに注力してね、というような。羽生選手ほどの技術力をもつ選手なら修正は容易で、全然心配はいらないはず。 ところが、そうは思わないファンも多く、連盟に問い合わせが殺到したらしい。この行為自体は、言論の自由が保証された社会では特に非難されるものではないが、他の選手でそういうことが起こっても、何の関心も払わない人たちが、羽生選手となると、「おかしい! 説明しろ!」と急に騒ぎ立て、行動を起こし、それがレフリーの事後説明という結果につながるほどの「大波」になったということに驚かされた。 つくづく羽生結弦というスケーターの影響力はすごい。 この問題が「大波」になった背景にあるのは、スピンの点数がノーカンになったことで、またそれが羽生結弦という世界トップのスケーターだったということで、海外のフィギュア関係者も「なぜ?」と理由をさぐろうとし、SNSですばやく自身の見解を発信したこと、そして、発信した人はそもそも「判定がおかしいのでは?」と思う人たちなので、性急に判定の根拠を独断で決めつけてしまったことだ。 メディアも小塚氏や織田氏に質問をして、彼らも答えているが、そもそも技術役員が見るようなビデオを見ることができないまま「答え」を急に要求されても分からない場合があるのは当然だ。フィギュアの採点は技術役員(レベル認定をしたり回転不足などの要件を審査する)と審判員(GOEをつけたり、演技・構成点をつけたりする)が分業で行うのに対し、解説者の立場で見ている元トップ選手は、この2つの分業を統合した解説が求められるから、スピンの回転数まで技術役員と同様の判断がすぐにできるわけがない。 それでも、スケーター関係者は、だいたいが「直前のツイズルがステップとみなされた」「シットポジションでの回転数が足りなかった」の2つの可能性――表現はそれぞれ少し違うものの――に言及していたように思う。別にいろいろな人がバラバラな可能性に言及していたわけではない。 で、試合後にレフリーが説明をして、技術役員の判断そのものはすぐにクリアになった。 https://news.yahoo.co.jp/articles/4abf36452d8302fc3bc15402d0b8749d383cc570 関連するルールは『シット・ポジションのためには、回転脚の大腿部が少なくとも氷面に水平』『スピンの姿勢が成立するのは連続した2回転が必要』『足換えあり一姿勢のスピンの場合にはSPではどちらか一方の足で姿勢が成立していなければノーバリュー(0点)になる』で、これらは、今季からの新ルールというわけではありません。羽生選手の足替えシットスピンについては、足換え前はシット・ポジションが成立していますが、足替え後は2回転連続したシット姿勢がなく、シット・ポジションが成立しておらず、ノーバリューという認定になりました」 これ以上ないくらい、とても明快。 これまではファンや一部の関係者が騒いでも、公けに判定の根拠を明らかにしてこなかった連盟だが、さすがに、憶測が一般人の誤解を呼び、それが陰謀論につながっていくのは(しかも、ネット時代になってそのスピードが驚異的になった)まずいと判断したのか、あるいは判定に間違いはないと確信して、これなら公けに公表しても大丈夫と思ったのか、フィギュアスケートとしては「異例の」事後説明となった。 「説明しろ」の声に応えるのがまずいのは、それが際限なく広がってしまうことへの危惧もある。多くの選手の「ノーカン」の説明を事後に行うとしたら、関係者の疲弊ははかりしれない。また、説明したところでその判定に納得しない人もいる(納得しないのが間違っているという意味ではない)ので、そうした人たちから審判員を守る意味もあるかもしれない。 しかし、これは他の競技を見ても、明らかに時代錯誤の考えだ。 そもそもフィギュアは、細かい要件を定めているわりには、判定に使うカメラの数や精度も含めて十分ではなく、おそらくは「見逃されている」場合も多いと推定される。ショートでは、要件を満たすかどうかで減点も厳しい。 たとえば、今回の「羽生結弦スピン0点問題」だが、「おかしい」と騒ぐファンは、どこをおかしいと思ったのか、それを分析してみただろうか? ●スピンの名手、羽生結弦のスピンがいきなり0点になるなんておかしい、絶対sage採点だ! という結論になったとして、もしそれが、「見た目に工夫のあるステキなスピンだったのに、0点なんて、宇野昌磨をageるための忖度だ」というだけでは、ただの思い込みで、まったく説得力がない。トップ選手はスピンにもいろいろな工夫をこらすがゆえに、そちらに気を取られ、基本要件を満たさないことだってある。 ●解説者も含めて、すぐに分からないミスで「0点」はないんじゃない? これはある程度、Mizumizuも同意する。フィギュアの採点は要件が細かく定められており(ロシアの重鎮、タラソワもアイスダンスの規定に関して、「つば吐きたくなるほど」と批判している)、しかも、頻繁に要件が変わるため、ますます分かりにくい競技になり、それがファン離れを招いている。 同じミスでもショートとフリーでは減点が違う場合もある。これは旧採点時代からの伝統を受け継ぐ意味もあるかもしれない。一般のファンには、ショートとフリーは単に短いプログラムと長いプログラムに見えるかもしれないが、実際には意味合いが違い、ショートでは「求められる要件を失敗なく」行うことが厳密に求められている。 これはこれで筋は通っているのだが、Mizumizu個人としては、それをもっての大きな減点には反対だ。たとえば、女子の宮原選手はショートでループが2回転になってしまったため、「0点」になってしまっている。ジャンプの点数は非常に大きいから、2回転ジャンプの基礎点すらもらえないと、もはやその1つの失敗で「優勝」の可能性はほぼ(100%ではないが)消えることになる。 ショートでの1つのジャンプミスで優勝の文字がほぼ消える。これはまさに旧採点時代もそうだったから、フィギュアスケートはそういうものだ、と言えばそのとおりだが、見ているほうには勝負の面白さをそいでいるとしか言えない。旧採点時代と違って、積み上げた点数で勝負が決まる今のルールでは、なおさら、ショートでの大減点に意義は見いだせない。 そもそも、最近はトップを争う選手たちの点差が何十点と開きすぎる。それもこれもジャンプの基礎点に問題がある。2回転、3回転、4回転の基礎点をもっと接近させるべきで、加点・減点をこれほど派手にする必要はない(5段階に細かく分けることには反対しないが、「重みづけ」に問題があると思っている)。 ●本当は、羽生選手はちゃんと2回転回っていたのに、ミスジャッジだったんじゃない? この可能性は、指摘された箇所をスロー再生して見れば、限りなく低いと思う。 「羽生選手の足替えシットスピンについては、足換え前はシット・ポジションが成立していますが、足替え後は2回転連続したシット姿勢がなく」 というのが今回の判定の根拠だった。足かえ前の姿勢についてもやや不安定だったので、それが判定に影響したのではと指摘している人もいたが、実際には問題になったのは足かえ後。2回転せずに姿勢をほどいてしまったということだ。 確かに、少しだけ2回転には足りなかったかもしれない。それを2回転回ったと判断することもできたかもしれないが、レビューで「やはり足りていない」と判断したということ。 そこに忖度が介入していく余地は多いにあるが、だからといって、2回転回っていないものを回っていないと判断しただけの技術役員を非難するのは間違っている。 今回、技術役員は細かく見て、しっかり彼らの仕事をした。全員のスピンをまったく同様に厳しく見たかと聞かれれば、それを「そうだ」と証明するものは何もないが、今回の案件に関しては、ミスジャッジとは言えない。 だから、結論を言えば、今回の「0点」問題は、問題があるとすれば、技術役員のジャッジングの問題ではなく、非常に細かいミス、普通に見ている分には、スケートのプロでさえ分からないミスで、ショートではいきなり「0点」にしてしまうルールにある。 でもさ…それって今更だと思うのだ。これまでだって、そういうことはあった。Mizumizuは何度も、要件認定での減点が大きすぎる。技術役員が「厳しく」見ることに反対はしないが、人間である以上、見逃しも、あるいは政治的な意味での忖度もないとは言えないのだから、それに対する減点や加点の反映割合をもっと抑えるべきだと主張している。 今回、ファンの声に押されて連盟が「異例」の公式説明を行ったが、これが時代錯誤の「フィギュアスケート村の論理」に穴をあける役割を果たしたのなら、一歩前進ではないかと思う。 説明したがらない理由も「村民」の立場になれば分かる。一番は回転不足判定だが、技術役員がその場その場できちんと判断しているつもりでも、実際には全員を公平に見ているかといえば、おそらくそんなのは人間の能力を超えることなので、「このジャンプは何度足りてないと判断しました」と「説明」したら、じゃあ、こっちのジャンプはどうなんだ、と玉石混交の「検証ビデオ」がYou TUBEに大量にアップされるだろう。 AIを導入しろという意見も増えているが、離氷場所、着氷場所をポイントで規定することから始めなければならず、ジャンプの種類も多く、しかも見る方向によって違って見えるというフィギュアスケートのジャンプの特性を考えると、非常に困難だと思う。 回転不足を細かく見ることに関しては、ISUは絶対に譲れないらしく、「q」マークまで導入され、技術役員の仕事はますます大変になっている。 同じ主張に戻るのだが、技術役員が「細かく」あるいは「厳しく」見ることには、Mizumizuは反対しない。忖度が介入するかもしれないし、ミスもあるかもしれない。ただ、「フィギュアで何が大事か」という点を明確にするうえでは、欠かせないジャッジングだろうと思う。問題は、その重みづけなのだ。基礎点のバランス、派手な点差を生む減点・加点。これらを見直すべきだと、この考えに変わりはない。
2020.12.27
【中古】 フィギュアスケートを100倍楽しく見る方法 /荒川静香【著】 【中古】afbコロナ禍の中、開催されたNHK杯フィギュアスケート。観客はマスクをつけ、静かに着席。エントリーも日本人選手が中心で国際大会の華やかさには欠けたが、シングルの演技は世界トップレベルの技が堪能できる良い大会だったと思う。フィギュアスケートの人気が高まるのはファンとしても歓迎すべきことなのだが、あまりに商業化されすぎて、このところ選手に過酷がスケジュールを強いる傾向がなかなか抑制されなかった。コロナで練習もままならないというのは悲しむべきことだが、行き過ぎた選手の酷使に少し歯止めがかかる役割を果たしたとすれば、すべてが闇に閉ざされた時代ということでもないかもしれない。女子フリーは、日本人選手の素晴らしさを再確認できる試合だった。樋口選手がついに決めたトリプルアクセルも見事だったが、覇者となったのは坂本花織選手。圧巻のフリーだった。特に度肝を抜かれたのが、最後にもってきたコレオシーケンスで見せたスパイラルと大得意のトリプルループ。羚羊のように長く美しい足がジャッジを蹴り上げるがごとくに掲げられ、ジャッジ席の至近距離をものすごいスピードで滑り、あっという間に去っていった。見てるほうは「ジャッジに当たっちゃうんじゃない?」とヒヤリとしたほど。だが、もちろん当たらないようにちゃんと練習しているのだ。その正確性と野性味があまりに斬新だった。そして、それからリズミカルな回転に続く、途切れのないトリプルループ。もともと坂本選手の大きな武器であるトリプルループ(こちらの記事参照)。今回はショートではずし、フリーでもなかなか見せない。最後の最後、クライマックスにもってきて見るものの目をくぎ付けにする、見事な構成だった。坂本選手のジャンプの大きさには定評があるが、今回は、多くの女子選手が回り切れないセカンドのトリプルジャンプもきっちり回り切って降りてきた。トリプルアクセルや4回転といった大技がないかわりに、加点を多くもらって高得点を出す。樋口選手との点差が思ったより開いたが、現行のジャッジシステムで重視される、スピードのあるダイナミックな滑りと質の高いジャンプ(スピードを落とさずに入る、入り方にも工夫がある、ジャンプは幅の長さとそれに伴う高さがあり、回り切って降りてきてきれいに流れる)が点数に反映されていたように思う。個人的には樋口選手の表現力やステップの細かな技術をもっと評価してほしかった。坂本選手のダイナミズムも素晴らしいが、ところどころ粗さも目立つ。樋口選手の、率直でナチュラルな感情表現や身体の中からそのまま出てくるようなエネルギーは坂本選手にはない「味」だし、細かな部分での配慮は坂本選手以上になされていた。樋口選手の表現は「密度」が濃い感じ。演技構成点での2人の点差がちょっと開きすぎている。技術点の加点の出方の違いがそのまま反映されてしまっているよう。この傾向は男子シングルのトップ選手に対する採点にも見られる。若手でジャンプ「だけ」の選手は、エレメンツの加点は出ても演技構成点を抑えられるというのがパターン化していて、それは正しい傾向といえるが、その段階より上の選手に対しては、もう少しエレメンツの質と全体的な表現力の評価を分けて見る努力をすべきかなと思う。そうでないと公平感に疑問がつく(まぁ、いまさらフィギュアの採点が徹頭徹尾「公平」だと信じてる人もいないかもしれないが)。坂本選手の不安要素である3ルッツも、「う~ん」という感じ。今回加点をもらっているが、ループのように足を交差させて跳ぶルッツは、エッジに不安のある選手がよくやる「手」だが、ショートはともかく(見る角度にもよるので何とも言えないが)フリーはテレビで見ていても、最後の最後にエッジが中立になっていないか? やや不安が残った。日本で開催される大会だと甘くつけてくれるが、もっと格式の高い大会だといきなりてのひらを返す。そうなる悪寒が少し、ね。
2020.11.29
竹内栖鳳【電子書籍】[ 近代絵画研究会 ]Mizumizu母と山種美術館に行ったのは、竹内栖鳳(たけうち・せいほう)の『班猫』を見たかったから。だが、それ以外の作品も素晴らしく、竹内栖鳳という日本画家の天才ぶりを再認識させられた。『班猫』にはモデル猫がいて、栖鳳はこの猫と沼津(静岡県)で出会っている。八百屋で飼われていた猫の寝姿に魅せられた栖鳳は、飼い主から譲り受けてこの猫を飼い、観察を続けたという。このまなざしにはゾクッとさせられた。宝石のような瞳の奥に猫の野生と魔性が宿っている。毛づくろいしながら、観察する人間を猫もまた警戒心をもって観察し返している。観察しながら、自分に興味をもつ人間になにかしらのアピールをしているようにも見える(「なんかいいもんでもくれるの?」)。これは猫がよくやる行為だ。ある程度距離を保っていれば、猫は自分の作業を続けるが、危険水域まで人間が近づいてくるとサッと逃げる。猫好きはやたら猫を「かわいく」デフォルメしがちだし、昨今はそんな猫の絵が多いが、そこは王道の日本画家、徹底した観察力と卓越した技量で、猫の持つ神秘性までも描いているようだ。猫が目当てだったのだが、『緑池』という蛙の絵も素晴らしかった。写真でもなく、動画でもなく、人が絵を見たくなる理由、その答えがこの作品にある。日本画の良さを再認識して、大満足で展示室を出たあとは、「おいしい」と評判のカフェへ。確かに、おいしい、ここのカフェ。Mizumizuが頼んだのは、チーズケーキ。満足なり。Mizumizu母は、さっぱりとした柚子シャーベット。絶賛でした。ここのカフェは、実は和菓子を売りにしているようで、テイクアウトしたのだが、個人的には洋菓子のほうが好きだった。山種美術館は、コロナ禍での収入減に立ち向かうべくクラウトファンディングを立ち上げている。寄付は順調に集まっている模様。こういうニュースを聞くと実に嬉しい。日本画はあまりもてはやされることはないが、根強いファンがいてくれる。来ていた客はシニア層オンリーだったが、若いころは興味がなくても、アートに親しみながら年齢を重ねた人々の「受け皿」になってくれる芸術だろう。しかし、厳しい道だよなあ…。いや、本人は好きだから、そうネガティブには考えなかったかもしれないが。竹内栖鳳が『班猫』を描いたのは60歳。この域に達するまでに一人の画家が費やした時間、長い道のりを考えると気が遠くなる。この道を追ってくれる画家が、どうか絶えませんように。
2020.11.06
【中古】 万葉の人びと 新潮文庫/犬養孝(著者) 【中古】afb采女の袖吹き返す明日香風 都を遠みいたづらに吹くAstonish! アスト、おめでとう!
2020.11.05
ホテルルートイン東京阿佐ヶ谷今は東京にいる。コロナが落ち着いてくれるのを祈りつつ、山口で隠遁生活(?)を送っていたが、待っていてもコロナは終息しそうにないし、長い間留守にしている東京の家も心配。いい加減しびれを切らして東京に戻ったのが先月のアタマ。山口にいると、東京は「コロナが渦巻いている」あぶないところ…のような気がすることもあったが、戻って生活してみれば、いたってフツー。もちろん外ではほとんどの人がマスクをしているし、店に入れば必ず消毒薬がおいてある。そこはコロナ前とは変わったが、みなフツーに出歩き、フツーに買い物し、フツーに働いている。飲食店の対策は正直言うと、結構店によって差がある。物凄くしっかりしているところと、「大丈夫か、ココ?」というところもある。しかし、やはり東京のモノの多さ、飲食店の多彩さは、凄いと思う。東京に戻ってすぐに、広尾の山種美術館にMizumizu母と行った。素晴らしい日本画を鑑賞したあと、駅までの下り坂をぶらぶら歩いて、途中で見つけたこじんまりとしたイタリアンの店に入ったのだが、ランチの安さにたまげた。料理2品に飲み物がついて、1800円ですと? やっす!広尾で、こんな値段でやっていけるのか? しかも、料理は実に本格派だった。前菜に選んだサラダ。野菜に加えて生ハムやサツマイモなども入っている。いろいろな具材のハーモニーが楽しい。一緒に行ったMizumizu母は、サラダ大好き人間。それも野菜だけでなく、フルーツやナッツ、肉などとアレンジしたサラダに目がない。そのMizumizu母が、ドレッシングも美味しいと絶賛していた。プリモのチーズリゾット。イタリアを思い出させるアルデンテでチーズたっぷり。黒コショウも効いている。量は少ないが、シェフの腕の確かさが実感できる一皿だった。あ~、やっぱり東京は凄い。しかも、なに? この安さ。あとで調べたらこの店(オステリア・ルッカ)のオーナーシェフは、それなりに有名人らしい。好みはあるだろうけれど、腕は確かだ。山口は案外、外食が高いのだ。いや、安い店ももちろんあるが、そこそこの味のものを食べようと思うと、決して安くはない。驚くほど腕のいい作り手のいる店も稀にあるが、そういうところは総じて高い。家のある中央線沿線駅にも、さまざまな飲食店がある。以前東京にずっといた時は、あまりそういう意識もなかったのだが、山口にしばらくいて、出てきてみると、その豊富さ、多彩さに改めて圧倒される気分だった。山口ではあまりお目にかかれないタイ料理やベトナム料理の店だって、選択肢はかなりある。もちろん、イタリアンやフレンチ、ラーメンもあるし、カレーもある。肉料理や魚料理や… ランチだったら1000円以下で、いろいろな店でいろいろなものが食べられる。ということで、Mizumizu母が短期間で山口へ帰ったあとは、Mizumizuはもっぱら外食ばかり。やっぱりねえ、東京の消費文化は凄いし、捨てがたい。コロナで田舎に避難した人たちも、そのうちまた戻りたくのではないかな。
2020.11.03
5月後半に収穫量が落ちてきたイチゴ。6月に入って、量は少ないが大きめで形のよいものが採れ始めた。1日3~4個程度だが、不思議なことにたくさん採れていたときより味がよいよう。3個に1つぐらいは相当甘くてジューシーなイチゴに当たる。そう言えば、去年苗を買ったとき、2種類(5月収穫と6月収穫)のものを買ったような気がする。品種名は「あまおう」だったか「とちおとめ」だったか。あるいは「紅ほっぺ」だったか――。よく聞く名前だったが、家族の誰もはっきり憶えていなかった。採れる量が減ってしまったので、イチゴアイスには足りない。今イチゴは、スーパーでは安いものならひとパック300円ぐらいで売っている。それで、スーパーのパック売りのイチゴに自家製を数個混ぜて砂糖漬けにしてアイスにしてみた。結果は…100%自家製イチゴアイスに「やや」軍配。あまり違わないと言えば違わないのだが、スーパーのは、そもそも生で食べても味があまりなかったので(味も自家製イチゴの「3個に1つ」に軍配)、アイスにしても果実的な酸っぱさが足りなかった。色味も自家製のほうがきれいなピンクになり、スーパーものはやや白っぽかった。このごろ市販のイチゴって全般的に味が落ちた気がするのはMizumizuだけだろうか? 見た目は整っていて表面はきれいな赤色だが、甘みも強くなく、大味なものが多いような。自家製イチゴは、そういう意味では、植えて正解だった。美味しいアイスが何度も楽しめたし、今回はアイスばかりだったが、プリザーブにしてイチゴジャムとして食べてもいいだろうし、イチゴソースも作れたと思う。ランナーも伸びてきて、また来年も(ほったらかしても)収穫できるかな…と都合のいいことを考えていたら…炭疽病が出てる葉っぱがある!と書くと、もともとイチゴの病気について詳しいみたいだが、葉っぱに変な斑点があるのに気づいてネットで調べて分かったのだ。慌てて炭疽病(か、もしかしたら輪斑病)の出ている葉だけ切ってみたが、よくよく見ると、それほどひどくなくても、ポツポツとかなり広がっている。あらら…季節も梅雨っぽくなってきていたし、ほったらかしで茂りすぎていたのが原因のよう。イチゴの実が地面につかないよう、紐でひっぱって茎にくくったのもよくなかったようで、くくった茎の葉に多く斑点が出ていた。行き当たりばったりの素人栽培の当然の帰結のような感じ。ランナーから伸びた新株もよく見ると、斑点の出ている葉がある。こりゃダメだ…今のところ枯れてる株はない。ただ、ランナーから健康な株が育つかどうか分からない。しばらく様子見だ。イチゴは育てやすいが、美味しいイチゴは育てにくい、というのはよく言われることだが、やはり病害にも注意が必要なんだな、当たり前のことだが。2年目の株が病気にならずに、うまく収穫まできたのはラッキーだったが、2匹目のドジョウ…ならぬ3年目のイチゴは、さすがにほったらかしではダメそう。つくづく、農家は偉大だ。←結局、結論はコレ。ストロベリーガーデン 100g 【ロンネフェルト】 かわいいイチゴの甘酸っぱさが香ります
2020.06.06
ひところ、各地にできた地ビールを売りにする観光施設。山口にもある。ロケーションはなかなかだ。一部で岩肌がむき出しになっている、(ちょっとだけ)日本の里山離れした山の中腹にど~んと建てられたヨーロッパのシャレー風の建物。すぐそばに滝もあり自然豊か。 車で来て遠方から見ると、かな~りステキな場所に見える。ウェブサイトの宣伝写真も相当きれいに撮ってある(こちら)。 かなり大きな施設だから維持費もかかりそうだ。そのせいか、プライスは高め。しかし、時間の経過とともに苦戦し、さびれていく地ビール施設も多い中では、かなり頑張ってやっているほうだと思う。 数か月前、まだ新型コロナがひどくなる前のことだが、平日の午後にここに家族で立ち寄って、ビール(を飲んだのはMizumizuオンリーだったが)とカプレーゼ、それにじゃがいものラクレットを頼んで、非常においしかった。 特にMizumizu母は、カプレーゼが気に入り、「また食べたい」と何度も。そこで、コロナが落ち着いたこの日曜日に行くことにした。 駐車場にはかなりの数の車が停まっている。ちょうどバラのシーズンで、レストランの周囲にはさまざまなバラが咲き乱れていた。手入れもそこそこ。ものすごく行き届いているとは言えないものの、それなりにきれいに保っている。 「こういう植物の手入れって大変だよな~」と、にわかガーデナー(実際は草取りメイン)は思いつつ、レストランへ。重い扉を押して入ると… シーン だっれも出てこない。非常事態宣言が解除されてまだ間もないし、実はお客さんいないのか? と思って客席をのぞくと、結構、入ってるじゃないですか。2~3人ではなく、5~6人で来ている人が多い。コロナ対策のためか、テーブルの数が減らされていたが、それでも駐車場の車の数に納得するお客の数。 お客がいないのではなく、スタッフが足りなかったと見える。その証拠に、空いたテーブルに食べ終わった食器やグラスがそのままになっている。 片付けてもらうまで待ち、席につく。結構待ったわりには、テーブルは拭き残しがあり、こちらが紙でもう一度テーブルをぬぐうハメに。 カトラリーは置きっぱなしのケースに入っていて、あれじゃ、不特定多数の客がベタベタ触ってしまう。コロナ対策、いまいち不十分なり。 見れば顎マスクで接客しているスタッフまでいた。トホホ… 窓からの眺めも、(ちょっとだけ)日本離れしている。庭のバラ、洋風の灯り、それに遠くの山が美しい。 奥にあるガラス張りのテラス席のほうを選べば、滝が遠くに見える。自然に囲まれた周囲の環境も抜群なので、テラス席を選ぶ人も多い。 さっそく、前回気に入ったカプレーゼ、じゃがいものラクレット、それに季節のソーセージを頼む。すると、ラクレットについて、笑顔で「平日はお席でおかけするのですが、週末は厨房で」と言われる。 そうそう、前回は大げさなワゴンに巨大なチーズの「ゆりかご」みたいなものをスタッフが持ってきて、熱を入れて溶けたチーズを、(おおげさな装置のわりには)ちょっぴり垂らしてくれたのだ。 イメージはこんな感じ。ただし、リアルの量はこれの10分の1(←印象)。 もちろん厨房でかけてもらうことに何の異存もなかった、のだ、このときは。しか~し、運ばれてきた料理は、前回とはまったく違ったモノだった。 これが今回のじゃがいものラクレット。上にかかってるチーズは、固まってしまい、ビニール状にめくれあがっている。下から熱を入れるのだが、弱すぎて、固まったチーズは全然溶けず、じゃがいものほうが焦げてきたので、慌てて火を止める。 ヒドイじゃありませんか? とろ~りとろけるラクレットをアツアツのじゃがいもにのせて食べる…ハズが、固まってビニールと化したチーズが、じゃがいもと分離するのを、なんとか同時に口に運ぼうと四苦八苦。 厨房でチーズかけた作り置きを出してきた感じ、明らかに。 そして、Mizumizu母がうわごとのように賛美していたカプレーゼもまた、前回とは別物が出てきた。 見てのとおり、カプレーゼなのにバジルじゃなく、ミントがのっている。前回は、(明らかに自家製の)フレッシュなジェノベーゼペーストを使っていて、かかっているソースもオリーブオイルを中心にした、だがちょっと複雑な味のソースだった。なのに、今回はただのオリーブオイルとしか。 極めつけは、「トマトがまずい」。前回はトマトがとても美味しかった。野菜だから、出来不出来はあるだろうけど、カプレーゼにコレは、ちょっとひどくないですか、という味だった。 同じ店で、同じメニューなのに、なぜ!? にわかには信じられないレベル差に愕然とするMizumizu+Mizumizu母。前回は、奪い合うようにペロッと食べたカプレーゼを、今回は「コレ、食べない?」と押し付けあうハメに。むろん誰も食べず、注文したMizumizu母が責任を取りました。 こちらは普通にGOODだった季節のソーセージ。しかし、「ゆず」と「桜」と…あと何だったかな、何かを練り込んでいるとかで、まー、ハッキリ言って、「ソレ要らないから」と思った。ふつーの、ベーシックなソーセージで十分だと思う。 このレストラン、やたらとメニューが多すぎるのだ。ハンバーグからピザからパスタから、「マルゲリータ釜飯」なんていう面妖なものまである。デザートもやたらとある。Mizumizuは以前パスタを何度か頼んで、どれも口に合わなかったので、それからは単純なビールのおつまみ的なものを頼むだけにしている。 日曜日は明らかに人手が足りていなかった。緊急事態宣言が解除されて間もなくの週末なので、それほど客が来ないと思ったら、予想以上に来てしまったのかもしれない。実際、支払のとき、たまたま前で払っていた人の注文数が「21点」となっているのが見えて、目が点になった。 そんな数の注文をあの明らかに少ないスタッフでこなすのは大変だ。1つ1つの料理の味が落ちても当然だろう。…にしても、あんまりだったが。 食レポが当てにならないのは、こういう理由もあるのだろう。同じ店で同じメニューを同じ人間が頼んでも、前回なら絶賛、今回なら酷評だ。 ビールも前回と同じくヴァイツェン。この味は、さすがに同じだった。 この店は、すいてそうな平日に来るのがオススメというオチかな。 それでも、ここに来ると(まぁ、実際にはそんなに来ないけど)お土産のオリジナルソーセージの詰め合わせを買って帰る(下にアフィリエイトバナーあり)。これは普通に美味しい。 ちなみに、店から山に続く道を車でのぼっていくと、ちょっとした驚きがある。結構な渓谷を左手に見ながら細く急な道を行く。すると山をのぼり切ったその先に、平地が広がっているのだ。平地といっても高原という雰囲気ではなく、田んぼになっているが、こんな不便なところまで農地にしたのかと驚く。ちょっとした天空の里、と言ったらさすがにオーバーか。 「名水」が湧き出ているあたりまでなら車で行ける。その先も細い道が続いているが、土地の人間でないなら、行かないほうが無難。 送料無料 山口地ビールとソーセージのセット|60958|
2020.05.28
バイオレット 1kg 小麦粉 薄力粉 お菓子用 クッキー ケーキ タルト シュー生地 スコーン パウンドケーキ スポンジケーキ 紫 業務用 皆さんは馴染みのスーパーですんなりバターが買えてますか? あるいは、生クリームや小麦粉は? Mizumizuはすんなり買え「ない」ことがほとんど。バターはずいぶん前から国産品に品薄感があったが、最近はそれに拍車がかかっている感じ。 だが、実のところバターに関しては、「ない」わけではない。あくまで北海道の大手ブランドのお手頃バターがないだけで、業務用スーパーに行けば大型サイズのバターはかなり豊富にあるし、ちょっと高めのバターやフランスのエシレバターなんかは、品薄のわりにはあまり売れてる気配がなく、山積み…はオーバーだが、かなり残っていたりする。 生クリームは、ないところはいつ行ってもない。あるところにはたいていあるが、やはり一番の売れ筋であろう乳脂肪分35%前後の200mlのものはなくなってることが多い。 これって全国的な状況かな? と思ってツイッターや個人ブログをキーワード検索で辿ってみたら、やはり欲しいと思ったときになくて困っている人が多いようだ。 意外なのは、ホットケーキミックスや小麦粉も品薄らしい。新型コロナ流行を抑えるためのStay home政策で、家でお菓子作りを始める人が増えたのが原因だとか。 牛乳は余っているとかで、「もっと牛乳飲んでください」と行政がさかんに訴えている。そのくせバターや生クリームが足りないって、ずいぶん小回りのきかない国だ。 個人的にはバターは何とかすべきかな、と思う。ずっと品薄が続いてるから。牛乳はたいてい余り気味。牛乳が余ってきたらバターに回して、余剰分は行政が買い上げて冷凍保存。品薄になってきたところで放出。そういう仕組みを作るべきかと。 一方で、「生クリームありません!」と不満をぶちまけている消費者の声は…それほど真面目に聞かなくていいのでは。どうせ一過性のマイブームでお菓子作ってるだけだし、いつも行く店に自分が買いたいと思ったときになくてネットに八つ当たりしてるだけ。 今回たまたま買う人が増えたからといって増産したら、お菓子作りに皆が飽きたころに余ってしまい、生クリームは足がはやい分、廃棄処分が増えそうだ。 確かに「欲しいな」と思ったときに、生クリームの陳列棚がからっぽだとがっくりくるが、どこかには売ってるし、何日も何軒もスーパー回ってない、というほど品薄でもない。バターはかなり必須の生活必需品に近いが、生クリームなんて贅沢品だから、基本はなくてもいい。 ホットケーキミックスも同様。子供が家にいるから作ろうか…というような動機が多いだろうから、学校が始まったり、あるいは子供が飽きてきたら、もうパッタリ作らなくなる…というパターンが多そうだ。 小麦粉の品薄はかなり予想外だった。だが、これは案外、「品薄だからもう一袋余計に買ってストックしておこ」という買いだめ派が多いのではないだろうか。 スーパーで数回手に入らないとツイッターやブログでヒステリー起こす人も多いが、いつでもなんでも手軽に手に入るということは、余分に出回っているということで、廃棄になってる食品が多いということ。 ホットケーキミックスなんて、なんとなく煽られて買いだめしたあげく、使わずにほったらかし→いたんで捨ててしまう、なんて人も多いのでは。 生活必需品がいつまでも手に入らない状況なら憂うべきだが、そうでないものについては、ちょっと品薄かな、ぐらい騒ぐことでもないと思う。買いだめも、もちろんもってのほか。そういう「自分さえよければ」の行動が品薄を招き、あげく「転売ヤー」を増やすことになる。
2020.05.21
「白ワインのゲビュルツトラミネールが好き」というエントリーを上げたのは2008年。もう12年前だ(そのときの記事はこちら)。当時はアルザスのゲビュルツトラミネールで、「これは」というものは日本ではほとんどお目にかかれなかった。Mizumizuはフランスやイタリア、それにドイツにも頻繁に行っていたが、アルザスは行ったことがなかった。だが、日本人の情熱的なバイヤーのおかげで、アルザスからあまり外部に出なかったゲビュルツトラミネールも日本で入手可能になった。知ってみれば、やはりアルザスのゲヴュルツトラミネールは素晴らしかった。花と果実を想わせる香りも、1つ1つ違うといっていいほどの幅があるし、味も、かなり濃厚で個性的なものから、すっきりと爽やかなものまで、驚くほど裾野が広い。深みのある芳醇な味わいのゲビュルツは、値段もそれなり。ゲヴュルツトラミネールなんてマイナーな種だ。それでも、いつの間にか、これだけ色々なゲヴュルツトラミネールを購入できるようになった。本当に、日本人の「美味しいもの」を求める貪欲さは凄い。コロナ禍でバイヤーの活動が急激に制限されてしまっただろうけれど、落ち着いたらまた、世界中のローカルな、でも高い水準の美味しいものを探し出してきてほしいもの。このエチケットを見て、Mizumizuがゲビュルツを好む理由が「解明」できた。エスニックに合うワイン。カレーとも相性バッチリ。そう、Mizumizuはカレー大好きのカレー星人なのだ。こちらは1000円ちょっとで買えるお手頃ゲビュルツだが、バターチキンカレーと合わせたら最高だった。2019 Japan Women's Wine Awardsで「Gold」を獲得したらしい。このアワードでGold獲得したワインはめちゃくちゃたくさんありすきて、有難いのかそうでもないのか、よく分からない賞だけど(苦笑)。確かに女性好みの甘やかな香り。ただ口当たりは甘ったるくなく、すっきり飲める。自家製バターチキンカレーでさらに美味しくなるアルザスのゲヴュルツトラミネール。同時にカレーの味も一段と引き立つ。まさに幸福なマリアージュ。残念ながらナンは自家製ではなく既製品。ドメーヌ ジンク ゲヴュルツトラミネール GC アイヒベルグ 2013 白 750ml/12本DOMAINE ZINCK GEWURZTRAMINER GC EICHBERG2264e完熟したゲヴュルツトラミネルから造られるジンク自慢の逸品。硬質なミネラル感を伴ったリッチで贅沢な口当たり。レオン ベイエ ゲヴュルツトラミネール ヴァンダンジュ タルディヴ 1983 700ml ※ラベル不良 フランス 白ワイン アルザス2008年 ゲヴュルツトラミネール ヴァンダンジュ・タルディヴ / トリンバック フランス アルザス 750ml 甘口白*●アンリ・オットマン ゲヴュルツトラミネール アルザス 2015 白 750ml【5月〜9月はクール便配送となります】コノスル ゲヴュルツトラミネール レゼルバ エスペシャル 750ml [SMI/チリ]
2020.05.19
ホットサンドは好きですか? Mizumizuはかな~り、好き。朝食は味噌汁とごはんより、ホットサンドとコーヒーのほうが好み。 料理器具はあまり増やすと置き場がなくなってくるのだが、楽天で安くてコンパクトなホットサンドメーカーがあったので、買ってみた。 【5月20日限定★エントリーでポイント最大27倍】【数量限定品】新津興器 そのままホットサンドシングル SSH60 値段が安すぎてやや不安だったが、1つだったら問題なくできる。2つ目になると、機械の温度が上がりすぎるのか、結構長い間電源ランプがつかなくなり、手早く焼くことができなくなる。 ただ、そんなにたくさん一度に作ることはないので重宝している。コンパクトなので、使い終わったら立てて棚の中に収めておけるので場所も取らない。 シンプルにチーズ+ハム。パンには少しだけバターをのせておく。朝食には十分。 バターをのせて、ハム+薄切りのきゅうり+同じく薄く切ったトマト+マヨネーズというパターンもなかなか。 これでますますカフェから足が遠ざかりそうだ。
2020.05.16
<昨日のエントリーから続く>まだまだ1日平均10個程度収穫できる、ほぼほったらかしの家庭菜園のイチゴ。残念ながら、味はよくない。そこで、そのまま生食するのはやめて、砂糖漬けにしてイチゴアイスクリームを作ってみた。結果は、大成功! 甘酸っぱく香りも良いアイスに仕上がった。作り方も簡単だし、たっぷりできる。材料イチゴ 300g砂糖 100g生クリーム(乳脂肪分35%前後のもの) 200mlヨーグルト 80gレモン汁 こさじ1作り方1)イチゴを洗ってキッチンペーパーでやさしく水分を取り、ヘタを切って、4分の1から半分程度に切る。2)イチゴをボールに入れて、砂糖をまぶし、ラップをかけて一晩(もしくは半日程度)おく。→こうやってしばらく寝かせることで、砂糖がイチゴにしみこむ。また、自然に赤い色の水分が出てきて、アイスクリームがきれいなピンク色になる。3)イチゴをフォークであらくつぶす。4)生クリームを6分立てに泡立てる。5)ヨーグルトとレモン汁、それに(1)のイチゴを(3)に入れて、よく混ぜる。6)タッパーに流し込み、冷凍庫に入れ、1時間おきにかき回す。注*イチゴは流水で洗ってはダメ。ボールに水を張り、そこにイチゴを入れて、手でかき回したあとに、やはり手で取り出す。イチゴについた汚れはボールの底に落ちる。**生クリームは乳脂肪分45%前後のものより、35%前後のもののほうがアイスには向いている(これは私見ね、あくまで)。***このレシピだとヨーグルトの酸味がかなり強い。ヨーグルトを少し減らせば、クリーミーさがもっと強調されるアイスになりそう。****白砂糖が苦手なMizumizu連れ合いのために、自作のスイーツでは「てんさい糖」を使っている。今回のアイスも。カップアイス アイスクリーム ジェラート 東京いちご いちご 苺 イチゴアイス 甘くて酸っぱい苺の味を最高に引き出したシャーベットです 魁ジェラート
2020.05.13
<昨日のエントリーから続く>Fragole con pannaに欠かせない生クリーム。山口ではもっぱら白バラ大山純生クリーム/48%【200ml×1本】 クール便/鳥取/ケーキ/国産/チーズケーキ/生クリーム/お菓子/パン材料 ホイップクリーム生クリーム生クリーム 業務用↑こちらを使っている。なんでもある東京だが、鳥取や岡山のメーカーの乳製品は少ない。関東・東北圏のメーカーや北海道の大手ブランドで飽和状態なのか、西日本のメーカーはあまり入り込む余地がないようだ。特に東京のスーパーの生クリーム事情は、案外お寒い。上記の大山純生クリーム48%と同レベルの商品はほとんど手に入らない。これは10代後半に東京に出て感じたことでもある。イチゴのショートケーキ作りが得意だった母の影響で、Mizumizuも同じレシピで手作りしていたが、東京の生クリームは最高レベルのお値段のものを買っても、山口で愛用していた(当時は岡山のメーカーが出していた)最高級生クリームに比べるとちょいアブラっぽかった。東京では知られていないが、西日本の乳製品のレベルは非常に高いのだ。山口の乳製品ブランドで最近気に入っているのは、「きらら牛乳」。【山口県】【下関市菊川町】【やまぐち県酪】山口県産生乳100% やまぐち きらら牛乳200mlX10本さっぱりしていて、ほのかな甘みも感じる高品質牛乳。最初は、「あっさりしてるな」ぐらいで、それほどと思わなかったのだが、だんだんにハマってきた。なんというか、あっさりはしてるが水っぽくないのだ。コクはさほど感じないが、その分しつこくない。中国自動車道の美東サービスエリア上り線には、このきらら牛乳を(多分)使った、「きららソフト」が売られているが、ハッキリ言って、東京の某有名チェーン店があちこちで出している、やたら甘くて水あめみたいにねっとりしたソフトクリームなんかよりよっぽど美味しい。同じサービスエリアにはクレミアのソフトもあるが、最近はどこにでもあるクレミアより、ここに来たら「きららソフト」が絶対におすすめ。今日の収穫。今日のFragole con panna。さすがにそろそろ飽きてきた。今度はイチゴアイスでも作ろう。
2020.05.10
2020.5.9新型コロナ、中国からの第一波を瀬戸際でどうやら乗り切りながらも、欧米からの第二波は防げなかった日本。「他人との接触8割減」を目標に全国的な自粛生活に入ったものの、そう簡単に目標は達成できず、緊急事態制限は延長。が、ここにきて自粛の効果が出てきたのか、感染者数が減ってきた。この傾向が続いてくれるとよいのだが。さて、Mizumizuはといえば相変わらず、半隠遁生活を続けている。「8割減」は個人的には達成できていると思う。2月末からずっと日常品の買い物と散歩以外は外出していない。3月あたりはどこかに遊びに行きたくてウズウズしていたのが、この生活が長くなるにつれ、なんだか、「どこかへ行きたい」気持ちもしぼんでしまった。リモートワークなんてもう15年もやってるから、いまさら。コロナで仕事は減ったが、なくなるというほどでもなく、ボチボチ。田舎暮らしの楽しみと苦痛は、庭仕事。「楽しみ」は、次々に咲く花(今はスズランがきれいだ)をめでることと、ハーブやイチゴを摘んだりすること。「苦痛」はなんといっても雑草取り。寒い冬の間はあまり雑草取りもする気にならなかったので、夏が来る前になるたけ取っておきたい。あまり真剣にやると、また腱鞘炎が復活することは間違いないので、これもボチボチと。イチゴは去年、苗を4本ぐらい買って植えてみた。が、どうやら肥料をやりすぎたようで、葉ばかりのびてほとんど収穫できなかった。2年目の今年は、元株のランナーから派生して育った株がたくさんできて、イチゴもかなり実っている。冬の終わりに、気の早い実が小さいながらも赤くなって、食べてみたら甘みと酸味がぎゅっと濃縮されたようなおいしさがあった。5月になってたくさん採れ始め、売り物のようなきれいな形のイチゴもできるようになったのだが、味はバラバラ。甘いものもあるし、酸っぱいのもあるし、あまり味のないものも。形のよいものは、たいていあまりおいしくない。甘さが少なく大味な感じ。おそらく、毒々しいぐらい赤みが強くなってから食べればいいのだろうけれど、大きくなると、頭を垂れてしまって土につきそうになり、少し引っ張ってやらないといけないのが面倒だし、なによりナメクジという大敵がやってくる。忌避剤は、石の裏などの吹きかけるようにとのことなのだが、イチゴ畑になっている家庭菜園には土しかないし、忌避剤の成分をみるとりんご酸とあるので、土の上にそのまままく気にもならない。仕方ないので、キッチンペーパーを細く切って忌避剤をしみこませ、夜出没するナメクジを撃退すべく、夕方に実ってきたイチゴの株の根本のあたりに適当に置くという、自己流のやり方を考案した。…あまり効果的とも思えないやり方で、誰にもおすすめしないが、まぁ、ナメクジ出没率は減っている、ように思う(夜中にパトロールしているのだ)。追記:後日、液体の忌避剤はやめて、土壌にやさしいという粒状の忌避剤に変えた。粒状のほうが効果的だった。う~ん、「楽しみ」だろうか、コレ? 特に家庭菜園好きというほどでもないMizumizu。たいして世話しているわけでもなく行き当たりばったりなのだが、それでも結構面倒だ。しかし、実ったイチゴをチョキチョキ切って食べるのは、それなりに楽しい。こんな感じのものが、ここ数日は毎日10個以上採れる。最初のうちは、そのまま食して、「これはすごくおいしい、これはそうでもない」などと家族で品評会をしていたのだが、「すごくおいしい」イチゴはそうはできないと気づいて、方向転換。Fragole con pannaで食べることにした。このイタリア語で画像検索していただければ、いくらでも写真が出てくると思うが、要はFragole(イチゴの複数形)をpanna(生クリーム)と一緒に(con)食べるというだけのデザート。初夏のイタリアでは、ちょっとしたカフェにいくらでも置いてあった。たいていイチゴは小さくて硬く、酸っぱいが、生クリームが上質で軽く、甘く味付けされていたので、MizumizuもMizumizu母も大いに気に入ってよく食べていた。自家製イチゴでFragole con panna。こういうことが気楽にできるのも、田舎暮らしのベネフィット。そういえば、カミュの『ペスト』が累計発行部数100万部を超えたとか。
2020.05.09
ペスト(新潮文庫)【電子書籍】[ カミュ ] 戦争が勃発すると、人々はいう――「こいつは長く続かないだろう、あまりにも馬鹿げたことだから。」 そしていかにも、戦争というものは確かにあまりにも馬鹿げたことであるが、しかしそのことは、そいつが長続きする妨げにはならない。 愚行は常に頑強なものであり、人々もしょっちゅう自分のことばかりを考えていなければ、そのことに気づくはずである。 わが市民諸君は、この点、世間一般と同様であり、みんな自分のことばかりを考えていたわけで、別の言い方をすれば彼らはヒューマニストであった。 つまり、天災などというものを信じなかったのである。 天災というものは人間の尺度とは一致しない、したがって天災は非現実的なもの、やがて過ぎ去る悪夢だと考えられる。 ところが天災は必ずしも過ぎ去らないし、悪夢から悪夢へ、人間の方が過ぎ去っていくことになり、それもヒューマニストたちがまず第一にということになるのは、彼らは自分で用心というものをしなかったからである。 わが市民達も人並み以上に不心得だったわけではなく、謙譲な気持ちになるということを忘れていただけのことであって、自分たちにとって全てはまだ可能であると考えていたわけであるが、それはつまり天災は起こりえないとみなすことであった。 彼等は取引を行うことを続け、旅行の準備をしたり、意見を抱いたりしていた。ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。 彼等は自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがある限り、何びとも決して自由ではありえないのである。アルベール・カミュ『ペスト』宮崎 嶺雄訳より *改行はMizumizu
2020.04.12
<昨日のエントリーから続く>今日の愚行民のニュースは神戸の警察。警察署長の歓迎会で感染拡大 約120人が自宅待機神戸市の1つの警察署で新型コロナウイルスに感染した警察官などが合わせて7人になり、このうち3人は先月末に異動してきた署長らの歓迎会に出席していたことが分かりました。(ソースはこちら)。今度は歓迎会ですか。ヤレヤレ。どっかの大学生が卒業前にヨーロッパに旅行し、発熱したのに卒業式に出たとか、東京は不安だからと地方の実家に脱出して、あげく家族が感染とか、毎日のように出る愚行民のニュースにうんざりだが、これが「今日は500人亡くなりました」なんていうニュースに取ってかわられていないだけ、まだ救いがあるのかもしれない。感染確認者数の異様な伸びを見れば、つまり、統計の「数字」だけを追えば、東京がニューヨークの二の舞になるのは時間の問題としか思えない。だが、日本人の多くはまだ「そうならないかもしれない」という可能性をどこかで信じていると思う。なぜなら、東アジアの多くの国では(というか、中国以外ではほとんど)、欧米のような死者累々の国がまだ出ていないからだ。地理的な近さや人の結びつきという面で見れば、イタリアのロンバルディアやニューヨークより先に、日本の東京や大阪がオーバーシュートに見舞われていなければおかしい。ところはそうはならなかった。地理的に近いのに、一方の国では死者累々、もう一方ではそれほどでもないという現象はヨーロッパでも起こっている。それがスペインとポルトガルだ。スペインはヨーロッパの武漢となってしまったイタリアとまったく同じ道をたどってしまった。4/10時点でのスペインの死者は1万5843人。ポルトガルは435人だ。4/1時点でポルトガルの死者は160人だったから、10日で275人の増加に留まっている(1日だと20人~60人の増加)。ヨーロッパで最も統制の取れた国の1つであり、医療水準も世界最高レベルを誇り、かつ新型コロナの検査にも積極的なドイツでさえ、4/1から4/2の1日の死者数増加は143人だったのが、4/9から4/10の1日の死者増加数は258人に増え、このままではイタリア、スペイン、フランスの後追いになってしまいそうな勢いだ。アメリカに至っては、4/1時点で4081人だった死者が4/10で1万6686。この数字に近いのがフランスで、4/1の死者数3532人→4/10で1万2228。国によって人口がかなり違うのだから、死者数だけ並べても死亡率は分からないが、それにしたってポルトガルの死者数の少なさは群を抜いている。しかも、今に至るまでその増加曲線は極めて緩やかだ。各国の死亡者数(国により国際データに反映されるまでのタイムラグが違うので実際より少ないこともある) 4/1→→4/2→→4/3→→→4/4→→→4/5→→4/6→→→→4/9→→4/10イタリア12428→13155→13915→14681→15362→15887→→→17669→18279ドイツ 788→→931→→1111→→1275 →→1444→1584→→→→2349→2607日本 57→→→57→→63→→→→69→→→77→→→85→→→→→94→→99アメリカ4081→→5116→5949→→7159→→7574→→9653→→→14817→16686フランス3532→→4043→→5398→→6520→→8496→→8093→→10887→→12228ポルトガル160→→187→209→→→246→→→266→→295→→→→380→→409この差の背景にあるのはBCGワクチンを接種しているか否かにある、というのがここに来て有力視されている説だ。BCGワクチンが、なんらかの作用で新型コロナウィルスの感染、もしくは重症化を抑制しているのだとすれば、欧米であれほど死者が爆発的に増えているのに、東アジアでは同じ現象がまだほとんど起きていないことの説明としては非常に筋が通っている。東京は感染者の数字だけを見れば、2~3週間後にはニューヨークのような惨状が繰り広げられていてもおかしくない。というか、そうならないほうがおかしい。だが、BCGワクチンが防護壁の役割を果たしていてくれるなら、そうならない可能性もある。これまで日本人は清潔好きだとか、挨拶にキスやハグをしないお辞儀文化だとか、土足で家に上がらないのがいいだとか、いろいろな生活習慣の違いが言われてきたが、どうももうひとつ説得力に欠けていた。BCGワクチンと言われたほうが、よほど納得できる。それから、もう1つの希望は、アビガンのような薬。催奇性があるとはいえ、死亡率の高い高齢者の重症化を防いでくれるなら、これはもう日本発の奇跡ということになる。欧米がとんでもないことになっているのに、我関せずとばかり愚行を繰り返してきた愚行民だらけの日本。それでも医療崩壊が起きずに、緩やかな死者数の増加で食い止めていけたとしたら、もうそれはほとんど、神風のおかげだ。
2020.04.11
恐れていたことが、ますます現実に近づいているような気がします。世界中の人々が新型コロナ感染症で苦しんでいます。日本でも多くの人が苦しんでいて、これまでみんなで自粛しながら頑張ってきました。でもなかなか患者さんの数が減ってきません。多分それは日本という国が自由で、それぞれの判断に任されているからだと思います。そして、いよいよ歯止めが効かなくなって感染爆発(オーバーシュート)の可能性が出てきました。自由は日本のいいところだと思っていますが、このままでは自粛どころではなく、都市閉鎖(ロックダウン)やら、本当に窮屈になってしまうこともないとは言えません。今から6週間、皆さんが誰からもうつされないように頑張れば、東京は大きく変わります。もちろん、みんなで頑張ってみても、すでに起きているクラスターからは患者さんが出現するでしょうし、外国からだけではなく、東京に持ち込まれてくる可能性はあります。でもそれに対応する方法はあります。だから東京都内で、近くの人や人混みで移されないようにしさえすれば、東京は大きく変わり、窮屈な自粛から解放されることになります。たった6週間です。誰からもうつされないように頑張りましょう。これは東京都医師会尾崎会長のこちらのメッセージから一部抜粋したものだ。迫りくる医療崩壊に対する危機感、なんとしてもそれを防ぎたいという強い責任感が伝わってくる。ところが、この時期にあっての一部の日本の医師・研修医のふるまいには驚きや呆れを通り越して、もはやボーゼンとするばかりだ。それでは、日本発:三大バカ医師・研修医軍団による、信じがたい「愚行」を見てみよう。京大病院 医師や研修医116人の自由すぎるオフタイム2020年4月8日 京都大学医学部附属病院の医師や研修医など合わせて116人が、新型コロナウイルスの感染対策として病院が自粛を求めている会食や国内旅行を行っていたなどとして、これまでに自宅待機を命じられていたことがわかりました。(ソースはこちら)116人も自宅待機ですと? この時期に会食や旅行ですと?? Mizumizuは感染者が非常に少ない県にいるが、それでも専門家会議による「瀬戸際」発言からずっと、外食も控え、国内旅行どころか県内の観光客が集まる施設も避けている。ほとんど引きこもりだ。あ~、せめて県内旅行、日帰りでいいからしたいよ、まったく。だが、こんなことで驚くのはまだ早かったのだ。慶応病院の研修医たちによる、小ズルすぎる懇親会での羽目外し慶応病院(慶應義塾大学病院)の研修医による懇親会での新型コロナウイルス集団感染。この懇親会の場で、研修医たちがキスなどの濃厚接触を繰り返したり、会の開催について口止めしていたことがわかった。研修医40人が参加した「お疲れ様会」なる懇親会が、都内のダイニングバーで開かれたのは、3月26日。前日には、小池百合子都知事が緊急会見し、外出自粛を呼びかけ、当日には、慶応病院でも入院中の患者4名の陽性が確認されていた。この日、予定されていた初期臨床研修医の修了式は中止となっていたが、研修医たちは懇親会の開催に踏み切ったという。ただ、幹事は、会の真っただ中の21時54分に、こんなLINEを送り、“口止め”していた。〈今回ですが、慶應でコロナインシデントがあったため・SNSへのアップをしない・医療従事者であることを言わない・手指衛生をするでお願いいたします〉(ソースはこちら。)コロナインシデントだって…(苦笑)。西欧では1日に何百人と亡くなっているというのに、そしてその数字に限りなく近づいていっているというのに、自分たちにはカンケーないと思っているのだろうか? どういう選民思想なのか、はたまた想像力の欠如か、もはや理解不能だ。「医療従事者であることを言わない」って口止めをしてるってことは、ヤバイことをしている自覚はあったということだ。バレなきゃイイでしょって、その小ズルさが気色悪い。これらはまあ、研修医だから、まだ若さゆえのバカさだと言えばそうかもしれない。しかし、行く場所が多少お高くなるだけで、バカはやっぱり少し大人になってもバカらしい。金沢の精神科医が、岐阜まで行ってナイトクラブ利用で感染石川県や岡部病院によると、30歳代の男性医師は3月26日に勉強会で岐阜市を訪れ、同日夜にナイトクラブを利用。県内に戻った後、3月27日と30日~4月3日に病院で勤務した。4日に岐阜市から連絡を受けて同席者の感染を知り、7日に検査したところ、陽性と判明した。男性医師は気管支炎で軽症だが、ほかの医師2人は38度台の発熱があり、入院患者の女性は肺炎と診断されて中等症だという。女性は治療のため、8日に別の医療機関に搬送された。感染の判明を受け、同病院は8日から、全ての外来診療とデイケア、訪問看護を中止。また、感染した医師らと食事などをともにした50歳代の女性医師と、60歳代の男性医師の2人を自宅待機とした。同病院では、医師9人を含む計約250人の職員と約280人の入院患者について、発症した医師との接触歴などの調査を進めているが、現時点で病院再開のめどは立っていないという。(ソースはこちら)クラブに行って感染し、最も起こしてはいけない院内感染を引き起こすって… 言葉もない。これら三大バカに加えて、今夜富山から飛び込んできたニュースこの時期に16人も集まって送迎会の愚県が会見で感染を発表したのは、県立中央病院麻酔科の医師で富山市に住む60代の男性です。男性医師は、今月5日の勤務後に発熱したため、それ以降は自宅待機していました。そして9日、熱が下がらないため県立中央病院に入院し、検査の結果、陽性と分かりました。男性医師は先月27日、所属する麻酔科の医師15人と看護師1人の合わせて16人で送別会を行いました。濃厚接触者はこの16人を含む25人で、送別会出席の医師1人が9日夕方から発熱し、自宅待機しています。県立中央病院は、一般の外来は10日から1週間取りやめます。(ソースはこちら)この時期に送別会? 16人も集まって?? なぜ「やめておかないか」と言う人が一人もいなかったのだろう。これが日本人の「同調圧力」ってやつですか?富山では市民病院でも看護師に感染者が出て、外来診療を10日休止になってしまった。ある意味、これはすでに医療崩壊だ。<次のエントリーに続く>
2020.04.10
<昨日からのエントリーに続く>千葉の福祉施設で58人の集団感染発生。嫌なシナリオが現実になってきている。さて。昨夜はNHKに山中伸弥氏が出演し、新型コロナもワクチンや治療薬が開発され、数年以内に「季節性インフルエンザと同様に、お年寄りが掛かったら危ない病気がひとつ増えた」程度までもっていけるのではないかと、割に明るい表情で述べていた。ところが、同じような未来予想でも、岩田健太郎氏は悲観的な表現をしている。https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202003/0013222026.shtml一番悲観的な見方としては、終息しないで、ウイルスとともに生きていくしかないという最悪のシナリオも準備しておかないと。ワクチンや治療薬が開発されても、流行そのものを遮断する保証はない。新型インフルも一緒に生きていく覚悟を決めた。同じようになる可能性がある。このウィルスが、おそらくは撲滅できないというのは、素人でも感じていることだと思う。突然高熱が出て他人に移す前に本人がぶっ倒れるような感染症とは違って、自覚のないまま感染してウィルスを運ぶ人も多い。ほとんどの人は軽症で済むが、突然重篤化するというやっかいな特徴もある。だが、考えてみれば、インフルエンザだって突然重症化することはあるだろう。そもそも季節性インフルエンザだって、年間死亡者数は、世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されている(https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html)。これだけの人が1年に亡くなっているのに、季節性インフルエンザで医療崩壊したというニュースは聞かないし、ロックダウンなんてありえないし、国同士で入国禁止措置なんて取らない。新型コロナは、「まだ」全世界で亡くなった人は3万人に届かない。それでこの騒ぎだ。欧米の主要都市がカラになり、入国拒否が世界的に広がり、イベントは次々中止となり、巷の飲食店は壊滅状態だ。日本も1万人亡くなるインフルエンザはニュースにもならないのに、新型コロナは連日何人感染した、何人亡くなったとテレビが伝える。「まだ」49人しか亡くなっていないのに、オーバーシュートが迫っていると日本中に緊張感が走っている。こうした、数字で考える世界と実際に目で見る現実の世界とのあまりの落差に、時々「これはおかしいんじゃないか。ここまで経済を犠牲にするほどの病気なのか。世界中が狂ってしまったのではないか」と思うこともある。だが、イタリアや、イタリアを後追いしているスペインの惨状を見れば、ロックダウンも渡航制限も入国拒否も当然の措置に思える。それでもおそらく、完全な意味での「封じ込め」はできず(せいぜいできたとして、クラスターの封じ込め)、だから撲滅は不可能で、終息に向かったとしても、いずれどこかでまた発生するだろう、それは「当然のシナリオ」に思える。岩田健太郎氏がなぜそれを「最悪のシナリオ」と言ったのか、その真意まではこのインタビューからは分からないが、このウィルスが今後も多くの死者を出し続ける(例えワクチンや治療薬ができたとしても)ということを想定しているからかもしれない。これもみんな薄々気づいていることではないかと思う。新型コロナはまるで長生きに対する罰のように高齢者を狙い撃ちしてくる。10代の少女が亡くなったとニュースになったが、それはただの風邪でだって、季節性インフルエンザだって起こりうること。基本、このウィルスが黄泉の国へ連れていくのは、何か病気を抱えた、免疫力の弱った人間だ。今、政府が国民に外出を控えるように言い、人と接触しないことで感染を防ごうとしているのは、近い将来に治療薬が見つかり、数年経てばワクチンもできるだろうという希望があるからだ。そこまでの時間稼ぎをしている。だが、ワクチンも薬もあるインフルエンザで毎年大量の人が亡くなることを思えば、新型コロナも毎年少しずつ変異して流行し、季節性インフルエンザと同等以上の死者を出すのが常態化するかもしれない。ピークの山をずらしたところで、多くの人が亡くなるだろうという未来は見えてしまっている。どのくらいの数になるのかは、今は誰も「当てる」ことはできないように思う。誰が2020年3月にイタリアで連日500人以上の人が同じ感染症で亡くなっていくと想像できただろう?新型コロナで起こる一番の問題は、大量の重症患者が一度に多く発生することによる医療崩壊だ。だから、重症化をある程度防げる薬(あるいは薬の組み合わせ)が見つかれば、それでこのやっかいなウィルスは季節性インフルエンザの扱いに近づけることになる。季節性インフルエンザ扱いに近づければ、経済を犠牲にしなくても済むようになるはずだ。経済を回し始めれば感染者はまた増加してしまうだろうけれども、世界中の人々が次々破産するよりはましだから、どの国も、感染者が出て、重症者もある程度出る、すなわち死者も出ることを承知しながら経済を止めることは極力避けるようになるだろう。ものすごくシンプルな言い方になったが、結局のところ世界はそういう道筋を目指すしかない。山中伸弥氏の言い方は今の状況よりはるかに、段違いにいい状況になるという意味で希望を語る言い方になったのかもしれない。岩田健太郎氏は、撲滅もできず終息もしない、常にどこかでコロナ死が、それも毎年大量にある世界になるという面をとらえて「最悪」と言ったのかもしれない。だが、本当はもっと最悪の未来予想があると思う。新型コロナよりずっと毒性が強く、感染力も強いまったく未知の新型インフルエンザの登場だ。そうなればカミュではなく小松左京の『復活の日』の世界。だが、カタストロフィはそれこそ、来年起こるかもしれないのだ。
2020.03.29
<昨日のエントリーから続く>ほんの1か月前までは、「(コロナで)東京オリンピックができないなら、ロンドンで」などと一部の不謹慎な政治家が口走っていたイギリス。あのころの余裕ぶっこいた「他人事」態度はどこへやら。今やコロナ死423人で、日本の43人をはるかに抜いてしまった。医療崩壊を恐れたイギリス政府はこれまでの方針を大きく転換、外出禁止令を発令。といっても、通勤電車はいつもと同じかそれ以上に混んでいるよう。https://www.bbc.com/japanese/52018068イギリスで、新型コロナウイルス対策による外出禁止が始まった。ボリス・ジョンソン首相は23日夜、必需品の買い物や治療、絶対的に不可欠な仕事への通勤などごく一部の理由によるものを除く外出が禁止されており、警察は違反者を取り締まることができる。しかし24日朝、ロンドン地下鉄は通勤者で混雑していた。利用客の中には、運行制限のせいでいつもより混んでいると訴える人もいた。ジョンソン首相の声明は、ストレートに心に響くものだった。加えて、このウィルスの「何が」脅威なのかも明確に国民に伝えていた。基本的に、イギリスがやろうとしていることは日本の戦略と同じだ。感染拡大のスピードをなるたけ抑え、医療体制がパンクしないようにピークの山をずらしていく。もし、ここで人々が自由に外出し、感染が広がって急激に重症者が増えれば、イタリアのようにあっという間に医療崩壊が起こる。日本でも、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の脇田座長がNHKで同様の説明をしていた。オーバーシュートが起こってしまえば、「誰も何もできない」という脇田座長の「警告」。イタリアがどうして短期間にああなってしまったのかがよく理解できた。医療キャパを超えた重症者が一度に出てしまったときのインパクトは想像以上だ。検査、検査と毎日毎日煽っていたメディアは万死に値する。あの、ほとんど反政府プロパガンダのおかげで、人々がこのウィルスの「一番の問題点」が何かを理解するのに、ずいぶんと遠回りをしてしまった。感染のスピードを遅らせ、ピークをできるだけ後ろにずらして山の高さを低くする。日本の戦略は最初から正しかった。この疾病は8割の人にとっては、ただの軽い風邪と変わらない。ところが、特定の条件を持った人には致命的になる。おまけに症状は急変することが多い。人口の割合から言えば高リスクの人は少ないが、彼らが次々と罹患してしまった場合、感染する病気だけに、その防疫も含めて受け入れる医療側の負担は想像を絶するものになる。そもそも医療関係者が対処しなければならない「死に至る病」はコロナだけではない。日々、生と死がせめぎあう医療現場に、キャパ以上の重篤患者が担ぎ込まれれば、他の助かる命まで助からなくなってしまう。ヨーロッパの惨状を見るにつけ高齢者の割合が世界一の日本が、ここまで持ちこたえているのは驚異的だ。だが、それも非常に危うい状態にある。専門家会議から出された指針を一般人も厳格に守るべき。熱が出てもすぐに医療機関へ行ってはいけない。これが厳格に守られているのだろうか? 今はそれが心配だ。「検査してもらえなかった」とか「たらい回しにされた」とか言ってる人の行動をよく見ると、熱が出るやいなや駆け込んでいる(あるいは駆け込もうとしている)人が案外多い。専門家会議からの「瀬戸際」発言があったころは、人々は外出を控えていたが、このところの山口市の状況はと言えば、道は普段のように渋滞だ。Mizumizuは外出を控えていて、今のところ買い物ぐらいにしか行かない。スーパーには消毒薬が置かれ、トイレのジェットタオルを休止させて紙タオルを置いているところもある。なかなか対策頑張っている。逆に疑問に思うのが、処方箋を扱う薬局の対応。窓があるのに、閉めっぱなしで、空調をきかせ、密閉性バッチリ。病気の人が来るのだから、もっと換気に気を遣うべきではないだろうか。窓をあけて、寒いようなら人間が厚着をしたらいい。街中のスーパーの気の遣いぶりに比べて、処方箋薬局の密閉空間ぶりは際立っている。おかしい。首都圏では、さいたまスーパーアリーナで6,500人も集めたK-1イベントが強行されてしまった。そして早速、観戦者から発熱症状が。怖いのは、観客の中に高齢者施設や医療機関に勤務する人がいて、そこから高リスクの人へと感染が広がってしまうケース。専門家が今の段階で一番怖いとしていた「メガクラスター」への直線コースだ。法的拘束力のない自粛要請はもう限界にきている。強制的にやめさせなければ、またこういう愚行に走る輩が出てくる。倒産するとか生活費が稼げないとか言って、政府からの要請を拒否して興行を強制した者が儲けるような世の中はおかしい。その愚行を、集まった者たちの「感動」で取り繕おうとするのは、もっと悪い。愚の骨頂だ。例えば、誰も大声を出すわけでもなく、それほどの数の観客が集まるわけでもないクラシックコンサート。これを軒並み自粛したせいで、楽器演奏者の生活がおびやかされている。みな自分の生活を犠牲にして協力している。倒産しそう、生活費が稼げない――同じ条件の人はいくらもいる。人の命がかかっているから、我慢しているのだ。強制措置を急がなければ、3/28日には後楽園ホールでまた「強行開催」するつもりらしい。https://twitter.com/k1wgp_pr/status/1242642820071972864/photo/1早く政治決断を!!Mizumizuの意見に賛同される方は、こちらから東京都にメッセージをお願いします。追記:3/28のイベントは都との話し合いにより、ようやく本日の夕刻に、無観客試合で行うことが決まったとのこと。
2020.03.25
<昨日のエントリーから続く>昨日の政府専門家会議の会見は、非常に分かりやすかった。尾身茂副座長の説明は網羅的だったし、重要ポイントを何度か繰り返して読み上げてくれたのがよかった。Mizumizuが知りたかったのは、現状を専門家会議がどうとらえているかということと、これからジワジワと感染が広がっていった場合、軽症ながら1)基礎疾患を抱えていて重症化リスクの高い患者・2)高リスクの同居家族がいる患者を、どう「隔離」していったらいいのか、その指針だった。前者については、イタリアで感染爆発が起こる前は、尾身氏は日本は「踏みとどまっている」としながらも、かなり抑え込みに手ごたえを感じている様子が見えたので、今回はもっと肯定的な見解を示すのかと思ったのだが、特に都市部でリンクの追えない感染者が増えていることなどを挙げて、「オーバーシュート」の可能性に言及。イタリアの信じられないような状況を見ているというのもあるのだろう、予想以上に厳しい表情が印象的だった。後者に関しては、自宅以上・病院以下のような施設を行政側が用意すべきとの提言。これは大いに頷くとともに、「オーバーシュート」を防ぐうえでも是非ともやってほしい施策だ。折しも観光客が減っている。ホテルを借り上げるといった方法があるだろうし、協力が得られればと、こちらは願うばかりだが。さて、まさしくオーバーシュートの渦中にあるイタリアだが、WHOのライアン氏が、その原因について「イタリアの高齢者率の高さ」と「多くの人が病院に押し掛けて対応できなくなった」こと、つまり、すでにMizumizuが書いたことをテレビで言っているのを聞いた。素人でも分かることを今更言ってるのも、「なんだかな~」だが、とにかくこのウィルスは高齢者を狙い撃ちするのだから、イタリアを超える世界一の高齢者割合の国、日本https://www.stat.go.jp/data/topics/topi1135.htmlもイタリアのようなオーバーシュートに見舞われ、高齢者がバタバタと亡くなっていく(イタリアの死者は94%が60歳以上)可能性があるということだ。一方で、日本では検査対象を絞り込み、初期の段階から医療崩壊が起こらないように国主導で備えたことも幸いし、今までのところは「多くの人が病院に押し掛ける」現象は起こっていない。さらにイタリア化を防ぐ上での、心強い条件も見つけた。こちらの記事https://news.yahoo.co.jp/byline/takerodoi/20200317-00168187/によると、人口千人当たりの医師数でみると、イタリアのほうが日本より多いのだ(イタリア:4.0人、日本2.4人)。ところが、その医師の平均年齢が問題。医師のうち55歳以上の人が占める割合がイタリア:55%、日本:37%。これには少し驚いた。イタリアの医師が半分以上が55歳とは。さらに、人口千人当たりの看護師の数イタリア:5.8人、日本:11.3人。看護師という仕事は激務で知られていて、日本でも決して数が足りているとは言い難い。その日本の半分ぐらいしか、イタリアでは看護師がいないということ。これは医療崩壊の大きな引き金になりそうだ。千人当たりのベッド数もイタリア:3.2床、日本:13.1床。この差も凄い。ちなみに、アメリカは2.8床、イギリスとカナダは2.5床、スウェーデンは2.2床。医療体制の整ったイメージのある北欧のスウェーデンの2.2床には驚いたが、アメリカもずいぶんと少ない。こうしてみると、日本がいかに恵まれているか分かる。同時に、これが財政を圧迫しないわけはなく、将来的にこの恵まれた医療体制が維持できるのかと考えると、諸外国の状況を見ても、とても無理だろうと思わざるをえない。幸いなことに、私たちは今、未来ではなく現在に住んでいる。感染者が増えていっても、イタリアより日本のほうが受け入れ態勢に余裕があるということは言える。専門家会議の戦略どおり、感染拡大のスピードを抑え、ピークの山を低く抑えることができれば、イタリア化は免れる。さて、2週間の外出制限など、厳しい措置の取られているフランスだが、日本との奇妙な一致がある。フランスは日本と同様(そして、イタリアと違って)、感染拡大の初期から検査数を抑える方針を取っている。発熱があっても自宅療養を推奨し、なるたけ医療機関には来ないように通達を出し、コロナが疑われる場合は、専門家が対処する。今のところイタリアのような医療崩壊は起こっていないようだが、死者数は急激に増え、371人。感染者数が10891人。ここから計算した致死率は3.4%。日本は3/20付けで、1016人感染、35人死亡。ここから計算した致死率はフランスと同じ3.4%だ。数日前も、フランスと日本の計算上の致死率が近いことを指摘したが、今日はぴったり一致した。だが、6699万人しかいない国で371人亡くなるのと、1億2000万人以上いる国で35人が亡くなるのでは、医療体制に与えるインパクトは段違いだろう。この371人という数字、少し前のイタリアもそうだった。それがあれよあれという間に、1000人を超え、2000人を超え、3000人さえ超えて世界一になってしまった(ただし、中国の出している死者数が本当であれば、だが)。フランスがイタリア化せずに踏みとどまってくれるかどうか。ヨーロッパでも進んだ医療体制を誇る国だけに、フランスまでがイタリア化してしまったら、それこそ世界中の先進国も危うい。それと、ドイツ。ドイツは感染拡大も比較的遅かったが、日本以上に踏みとどまっている国だ。感染者数は16290人と非常に多いが、これは検査を広範囲にやっているということだろう。それに対して死者数がわずか44人。致死率はわずか0.27%。これはアメリカの専門家が少し前に予測した「実際の致死率(0.2%程度になるだろうという予想)」に非常に近い。ドイツも高齢者の多い国だ。人口に占める高齢者の割合は日本、イタリア、ポルトガルに次いで第四位。その高齢者大国でもあるドイツで、死者数がこのまま増えずに踏みとどまってくれるなら、まだ感染拡大に見舞われていない国々はおそらく「ドイツ式」をお手本として感染防止に取り組めるだろう。
2020.03.20
この週末(2020年3月14-15日)の山口は、1週間前より人が外に出ていた。1週間前は道を走る車も少なかったのだが、この週末はもういい加減みんな我慢できなくなったのか、市内は渋滞になっていたし、スーパーは普通通りでモノがあふれており、トイレットペーパーも豊富にあった。マスクをしている人も返って減った。マスク不足もあるのだろう。マスクは全然手に入らない。こんなことになるのなら、買い占めを早めに規制してほしかった。次の新型コロナ、もしくは新型インフルエンザの流行に向けての課題だろう。中国人観光客が店のマスク全部買い占めていく、というニュースは1月ぐらいから聞いていたが、あのころはまだ日本人もこんなことになるとは予想もしていなくて、余裕があった。まさかその後、中国人が転売して荒稼ぎするなんて想像もしてなかったのだ。本当にお人好しというのか、間抜けというのか。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200207-00000016-pseven-soci2/7(金) 16:00配信中国人旅行客の「マスク爆買い」、段ボール数箱分買い占めも「マスクはずっと品切れ。朝の開店時には入荷していることが多いが、中国の方がすぐに全部買ってしまう」(銀座のドラッグストア店員) 購入個数の制限をかける店がほとんどだが、なかには珍客も。「マスクの箱を大量に抱えてレジにきた中国人の方に『1個までです』と断わると、何度もレジに並び、段ボール数箱分も買った。『タクシーを呼んでくれ』と言われたが、一体どうやって持って帰ったのか……」(浅草のホームセンター店員)山口県は下関で3人家族の感染が発表されて以来、感染者の数は増えていない。まさか3人しか感染していないなんてことはないだろうが、スーパーに行ってもせき込んでいる人はいないし(むしろコロナが騒がれる前のほうがくしゃみやら咳やらしている人が、ふつーにいた)、いたって平穏。毎日毎日、どこどこで「感染が確認されました」とニュースでやっているが、あれ、そろそろもうやめませんかね。どのみち実態を反映していないし、世界中に広がった今となっては、感染者を何人確認したかより、重症者の治療をスムーズに進め、死者を抑えるほうが大事。ニュースでわざわざサンプル抽出みたいな感染者数を、逐一報道する意味はないと思う。山口は高齢者の多い県なので、高齢者向けの施設で集団感染が出ると思っていたが、今のところ問題になるようなクラスターは発生していないよう。これってなにげに凄い。中国人の観光客が大挙して押し寄せた博多等の九州の有名観光地にも近く、韓国人も多く住んでいるから半島との往来も多い。下関と釜山はフェリーで簡単に行き来できる。中国からはるかに離れたヨーロッパ――今のところはイタリア、フランス、スペインだが――で、死者がうなぎのぼり状態だというのに、一人の死者も出ていない。万が一、検査拒否された高齢者が突然重症化したりしたら、そしてその数が多かったら、救急車が走り回りそうなものだが、全然見ないし、音もまったく聞かない。これにはちょっとびっくり。というのは、コロナのない頃、東京の杉並では結構頻繁に…というのは大げさかもしれないが、しばしば救急車が走っていくのを見ていたからだ。近所に来たことも何回もある。人口が圧倒的に違うから、そういうものかもしれないが、一部ネット民が騒いでいるような「検査拒否され自宅で重症化→コロナ突然死→隠蔽」は、やはり現実にはありそうもないなというのがMizumizuの肌感覚。山口のあまりに平穏な日常を見た目で、テレビに映し出されるパリやミラノの様子を見ると本当に驚く。ついこないだまでは、コロナ=アジア人で、差別がどうとか言ってたのに、今ではパンデミックの中心地だ。パリでは15日からいきなりレストランやカフェ、映画館など「生活に必要不可欠でない集客施設」が営業停止になったよう。突然のことに、シャンゼリゼで右往左往する観光客を見て、かわいそうになった。シャンゼリゼのPaulに行列ができていた。あそこのパンだけでお食事じゃ悲しすぎる。バゲットやクロワッサン類、それに甘いパンはあったが、日本人に見慣れた惣菜パンの類はほとんどなかった。Mizumizuも軽くパンで食事をすませようと入ってみたことがあるが、おかずなしでお米だけ食べるようなものだという気がして、買うのをやめた思い出がある。日本のPaulのほうが(少なくとも日本人には)、ずっとまし。メトロで少し移動すれば、もっとちゃんとしたパン屋があるが、パリはメトロ移動だとえらく疲れる街だ。ドゥモの前に観光客がいないミラノ、ガラガラのローマのスペイン階段…ほとんど信じられない。と言うか、パリ、ミラノ、ローマといった西ヨーロッパの主要都市は、あまりに観光客が増えすぎた。白黒時代のフランス映画やイタリア映画で見た街並みに戻ったようで、これが本来の「街」の姿なのかもしれない。日本がフランスやイタリアのような強制的な営業停止にまで至っていないのは本当にありがたい。しかし、日本の小規模店舗や飲食店、イベント関連業者など、多岐にわたる分野の経営者やフリーランスの受けている痛みは、おそらく「強制停止」と同等か、もしかしたらそれ以上だ。追記:なんとフランス全土で2週間外出禁止になった模様。https://www.asahi.com/articles/ASN3K2FX2N3KUHBI002.html17日から少なくとも2週間、仏全土で外出を禁止する方針を明らかにした。例外は買い物や診療などに限られる。仏政府は14日に飲食店の営業や人々の集まりを禁止したが、感染拡大を抑えられていない上、「決まりが守られていない」(マクロン氏)として、より強い措置に踏み切った。10万人の警察官や憲兵を動員し、違反者には罰則も科す。しかし、なんで日本は感染拡大を抑えられてるんだろう? 良いことではあるのだが、逆にますます分からなくなってきた。
2020.03.17
【中古】 デカメロン(5) 岩波文庫/ジョヴァンニ・ボッカッチョ(その他) 【中古】afb<昨日のエントリーから続く>前回のエントリーはきっこ氏のデマに焦点を当てていたので、英語ができない読者は、「デマは分かったけど、日本が封じ込めに成功」は、やはりおかしいのでは? と思った人がいたかもしれない。だが、この日のWHOの会見の、特に質疑応答部分を聞けば、あの時点でのWHOの評価にさほど違和感はない。「封じ込め」という日本語の語感の問題だけだ。この日の質疑応答は、パンデミックがおそらくは避けられない状況になってきた段階のもので、それでもこの感染症は「コントロールが可能だ」という希望があるという話をしている。ライアン氏の問題になった発言部分では、at various points(さまざまな節目で)という言葉を差し込んでいて、つまり、「中国、シンガポール、韓国、日本が、それぞれの節目で危機を克服している(=封じ込めている)状態であることが大きな希望」と言っているのだ。続いて女性が、それぞれの国が自国の社会、コミュニティ、医療のキャパシティに応じた包括的な対応をとっていくことが大事だということを話している。「後手後手」「検査拒否」といった批判の多い日本の対策だが、死者数を見ると、後から流行が始まった欧米主要国があっという間に日本を追い抜いていってしまったことからも、日本のやり方が、ベストではなかったかもしれないが、ほとんどの国よりベターだったことが分かる。「いきなりYou Tube」で大騒ぎになった感染症の専門家・岩田健太郎氏も、3/12付のインタビューで概ねそのことを言っている。https://toyokeizai.net/articles/-/335971?page=7からいくつか関連する発言を拾ってみる。日本のやっている対策は、ほかの国の現状を考えるとおおむねうまくいっている。これだけ押さえ込むのが難しいウイルスをかなり上手に押さえ込んでいるというべきだ。和歌山県などは1回起きたアウトブレイクを完全に収束させた。受け入れ体制を考えると、今の日本政府がやっていることがいちばん正しい。要は、「軽症者は家で寝ていてくれ」ということ。症状がない人や軽症の人を指定医療機関で入院させるのは、医療リソースの無駄使いだ。このように、批判はあれどベターなやり方で死者数を抑えてきた日本だが、ここにきて愛知県(それも名古屋市)が危ない。今夜の一番新しい発表で、感染者は121人、死者は11人。分母が実態を反映していないので意味がないと知りつつ単純計算した致死率がなんと9%。先日計算した、ダイヤモンドプリンスで「症状の出た感染者数」を分母、「死者+現在も重症の方が亡くなってしまったと仮定した数」を分子として単純計算した致死率の8.4%を超える異常な数字だ。日本全体はどうかというと、感染者721人、死者21人で2.9%。奇妙なことに、現在のフランス――フランスは検査を増やすのではなく、重症者の治療に力点を置くという日本と似たアプローチを取っている――が3672人、79人で2.1%。日本と近い数字が出ている。ちなみに、3/11時点でのイタリアが感染者数9172人、死者数631人。単純に計算して致死率6.8%。3/14時点で感染者21157、死者1441人で、致死率はやはり6.8%と変わっていないのが不気味だ。もう一度思い出そう。イタリアは検査をしすぎたことで、多くの重症者が手厚い治療を受けられないという事態を招いた。なのに、大村知事は検査を拡大すると言っている。https://hicbc.com/news/article/?ref=tw&id=0004D3D8「愛知県と名古屋市の衛生研究所で検査しているがフル回転。民間にも声をかけて協力いただけるよう話をしている。お願いして広げていく」(大村秀章・愛知県知事)そもそも検査は、精度が低いことが知られている。偽陰性もあるし、偽陽性もある。だが、感染しても8割は自然治癒。そこへもってきて、確立した治療法はない。そして、愛知県は「まだ」クラスターはつかめている状態だ。亡くなる方が急に増えているのは、高齢者利用の多い施設でクラスターが発生したため。こういう状況で、どこに力点を置くべきなのか。感染症の専門家の意見を聞きながら、それこそ「着実」に対策を進めてほしい。検査数を増やせば分母が大きくなるから、数字上の致死率は下がる。だが、そうやって9%が例えば6%台に下がったとしても、それがイタリア化の始まりでは意味がない。民衆のほうは、買いだめに走ったり、パニックになって誰かを責め立てたりするのではなく、なるたけ外出を控えて自宅でじっとしていることだ。毎日毎日、おんなじようなメンツを呼んで、感情的な総理批判を繰り返してるワイドショーなんかを見るより、イタリアの「デカメロン」や「婚約者(いいなづけ)」でも読むほうがよっぽどいい。もちろん、カミュでもジャレド・ダイアモンドでも。政府の専門家会議のメンバーは、「検査」「検査」の左翼メディアからの攻撃に耐えて、ここまで死者数を抑えてきた。その実績と諸外国の状況を見て、民衆も理解し始めている。ここで民衆の不安に答えようと道を誤ると、せっかくここまでコントロールできてきた国が、あっという間にイタリア化してしまうかもしれない。
2020.03.15
文庫 銃・病原菌・鉄 下 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎 (草思社文庫) [ ジャレド・ダイアモンド ]WHOがパンデミックを宣言する直前(3/10)に日経新聞に出た記事に、「WHOは日本やシンガポールなどは封じ込めに成功しているとし、『勇気づけられている』と対策の成果を評価した」というのがあり、個人的にちょっと驚いた、というか気になった。発言者はライアン氏だと書いてあるが、「封じ込めに成功している」と彼が言ったとしたら、疾病あるいはウィルスの「封じ込め」を英語でどう表現したのだろうか、という点と、「封じ込め成功」はちょっと評価しすぎではないだろうか? という個人的な印象だ。で、つらつらツイッターを見ていたら、センセーショナルな「告発」を見つけた。左派系の政治ブロガーで本も出している「きっこ」というハンドルネームの人のツイートだ。きっこ氏が自身で検証したものではなく、リツイートという形だが、元のCAN氏のツイートにはラインマーカーを引いた英文があり、「これは酷い虚偽で、正確には」云々とある。が、一目でコレ、「ちょっと待て!」と思った。引用元をしっかり示す意図で、発言者の肩書を示す部分をきちんと載せているのは立派なのだが、記事にあるマイク・ライアン氏のコメントじゃない。おもいっきり、Director-Generalとあるから、(テドロス)事務局長のオープニングでの発言だ。この日のWHOのDaily News Briefingは最初に書面をテドロス事務局長が読み上げ、それから質疑応答に入っている。その時にライアン氏が頻繁に答えていて、それは原稿を用意した発言ではない。これだけで「酷い虚偽」と書いてる方が酷い虚偽だと分かる。では、記事にあたるライアン氏の発言はどこだろうか?https://www.youtube.com/watch?v=aJqb44WD7h4この動画を聞いていくと、1:48:35あたりに、記事のもとになったと思われる発言がある。そのことに気づいた人もいて、きっこ氏がリツイートしたCAN氏の元ツイートに指摘が入っている。T.Katsumiという人が "to be quite frank…”からがこの記事のもとになったと指摘しているのだが、「捏造報道であることは論を待たない」と、ものすごくアタマよさそうな言い方で断定している。が、またもや一目でコレ、「ちょっと待て!」と言いたくなった。この2人は、ライアン氏が明確に言っている”turning a corner"のaをないことにして、「折り返し地点」→「転換点」だと内輪で結論づけ、日経記事は「やっぱり捏造だよね、捏造」という、自分たちが「そうしたい」結果に持っていっている。ちょっと待て!なんでturning a corner が「転換点」よ? (marking) a turning pointなら転換点だけど。turning a cornerはただのイデオムだ。辞書でcornerを引けば、turn the cornerのほうが、より明確なイデオム(病気などの峠を越す)であることが分かると思うが、turn a cornerでも、病気の話をしているなら、やはり「峠を越す」とか「危機を脱する」の意味になる。それを「折り返し地点」と思いっきり誤訳したうえ、さらに飛躍した誤訳の「転換点」のが、より適した訳語だと決めつけて、結果、ライアン氏の発言とはかけ離れた内容に「編集」してしまっている。これじゃ誤訳の三段跳びだ。ヤレヤレ… どっちが捏造ですか、まったく。さらにこの2人は、日経の記事が「ここだけ」を抜き出して書いたものだと思い込んでいるようだが、ライアン氏の発言には続きがあり、いろいろ話したあとに女性にバトンタッチする直前の発言を聞くと、(ウィルスを多くの国に拡散させない)というチャンスの窓は閉じられつつあり、パンデミックという妖怪がたちのぼってきているが、同時に別のチャンスの窓が開きつつある(かもしれない)。で、その開きつつあるという窓が何かというと、「アジアのいくつかの国のデータと経験」で「それらの国では、明らかな(数値の)きざしがある」。どんなきざしかというと「できうる限りの要素やあらゆる戦術を使った、社会全体にわたるシステマティックな政府主導の施策を駆使することで、この病気を好転させることができると思われる(seems to be able to turn this disease around)」というきざしだ。Mizumizuが上に書いた日本語は、英語の構文に沿った直訳だが、これでは意味は分かっても日本語の新聞記事にはそのままは使えない。そこでもっと日本語らしく、端的に記者がまとめたということだ。「勇気づけられている」は「私に大いなる希望を与えてくれる」の部分の意訳だろう。後者のように書けば正確な翻訳だが、これじゃ直訳すぎて日本語としては変。「これには勇気づけられた」と言う人はいても、「これは私に大いなる希望を与えてくれました」なんて言う人はそうはいない。だが、言わんとすることに、この2つはそうは差がない。「シンガポールや日本など」としたのも、「など」が入っているので別に間違いではない。限られた新聞記事の中では、あまり例示の羅列はしないほうが文字数を抑えられる。ライアン氏の発言は原稿を読んでいるものではなく、質問に答えているものなので、つらつら長く、文字にそのまま起こすと分かりにくいが、聞いてる分には、まあまあ素直に頭に入ってくる。「対策の成果」もto turn this disease aroundまでの流れで聞くと、確かに評価している。そう直接的な言い方をしていないだけだ。しかも、専門性が高い慎重な言い方をしてるので、普通の人には分かりにくいかもしれない。そのつらつらした専門性の高い発言を、翻訳調ではなく、自然な日本語で端的にまとめているという点で、この日経の記事を書いた人は「手練れ」だな、というのがMizumizuの感想だ。最近はトランスクリプションはある程度自動でやってくれるが、この会見があってから日経の記事が出るまでの時間は短く、その短い時間の中でこれだけきれいな日本語にできるというのは、「技」だと思う。あとは「封じ込めに成功」という言葉の「印象」の問題。あくまで個人的には、だが、少し書きすぎているかな、というのはMizumizuも思うが、それは印象論の域を出ない。「危機を脱している」と言っているのだから、それを「封じ込めに成功」と書いても、少し筆が走りすぎの感は印象としてはあるが、飛躍した誤訳ではない。明らかな誤訳をしてるのは、イデオム知らない(あるいは似たようなイデオムをごっちゃにしてる)告発者のほうだ。そもそも、ライアン氏の発言なのに、テドロス氏の原稿を持ってきて、マーカーまで引っ張り、「酷い虚偽」だと決めつけてツイート。さらに、それをリツイートして、「日本経済新聞が安倍政権にゴマスリするために捏造記事を報じました。皆さん、日経新聞のデマに騙されないように」とまで煽り、さらにそれが何百もリツイートされて拡散していくって何なんだろうね。「安倍政権にゴマするために」とまで書いてしまうのが、匿名の個人の発言の自由が、日本では相当の程度まで守られていることに胡坐をかいた悪行だろう。そして、口汚く罵れば罵るほど、キャッチーで人目をひき、メッセージは単純で分かりやすくなり、人々の負の感情と結びついて、それを増幅させていく。権力の中枢である安倍政権は「まったき悪」で、それに立ち向かう名もない、しかし勇気ある個人、という、ネットならではの安上がりなヒロイズムが醸成され、その界隈に特定の人ばかりが集まってくる。そういう人から見れば、自分たちがこんなに分かってることに盲目な多くの人々(それはつまり安倍政権を長期政権にした多数の日本人だ)は、騙されている可哀そうな人たちで、自分たちが彼らを啓蒙しなければ、と躍起になる。新聞記者も間違いはあるし、それがデマのもとになってしまうことも多々。だが、この日経の記事を検証してみると、書き手のレベルは高い。ネット時代になり、素人の書き手もプロの新聞記者もフラットな世界に投げ出されたことからくる、いわれなき中傷だ。もちろん素人がプロの間違いに気づくことも多々あるが、この件に関しては、日経の記者に同情する。で、蛇足だが、ライアン氏の発言、"window of opportunity"(チャンスの窓)というのが好きだ。この比喩の中にある知性と少しのロマンチシズムがこちらの琴線に触れてくる。Mizumizuならこれは敢えて日本語では「希望の窓」と訳したい。少し情緒的にはなるが、「希望の窓は閉ざされつつあり、パンデミックという亡霊が立ち上ってきてはいますが、同時に別の希望の窓も開きつつあります(その希望の窓が開いた先にあるのは、中国、シンガポール、韓国、日本といったアジアの国々の経験とデータ)」というふうに。そしたら、Mizumizuに日ごろ反感を持っていて、何かというと揚げ足取りたい人が、「opportunityは希望じゃない、とんでもない捏造だ!」などと言い出すというわけだ。
2020.03.13
<昨日のエントリーから続く>イタリアで一体何が起こっているのか。ここ数日、100人単位で死者数が増加している。他国と比べても異様としかいいようがない。イタリアが「ヨーロッパの武漢」になってしまった理由については、概ね以下のようなことが言われている。1)中国とのビジネス交流がさかん。2)中国からの直行便を止めたことによる油断。3)ハグやチークキスなどの習慣。4)高齢者が多い(65歳以上の高齢者の割合は日本に次いで2位)。1)と2)については、ウィルスが入ってきてしまい、知らない間に広がってしまったということの説明にはなる。しかし、この数日の他国に比べても異様に急激な死者数増加は、これだけでは説明できない。3)の習慣なら、フランスやスペインだって負けていない。4)の社会構造の問題なら、「割合」でいえば日本のが高いし、高齢者の「数」でいえばドイツのが多い。特に気になるのは4)の社会構造。日本とイタリアは似たところがあり、高齢者が家族と暮らしている割合が高い国だ。3)の習慣は日本にはないが、1)については日本だって中国への経済依存は深く、経済のことを考えて中国からの入国を初期段階でストップできなかった。2)のイタリアの取った措置には抜け穴があったにせよ、日本の初期段階の中国に対するザル政策よりは厳しいものだ。この条件だけを見ると、地理的にも近く、中国人の入国も多かった日本がイタリアのようになっても不思議ではなかったはずだ。実際、イタリアでのコロナ流行、あるいは流行の発見は日本より遅く起こった。にもかかわらず、あっという間に死者数が増え、日本どころではないアウトブレイクとなった。一体、なぜ? イタリアで何が起こっている?イタリア人の友人(南に住んでいる)にメールで聞いてみたが、詳しいことは分からないという話だった。中国人のせいだということと、イタリア政府がいい加減だという感想は書いてよこした。今現在、分かっているのは、北部の一部の街の封鎖ではアウトブレイクを止めることができず、短期間のうちに全土で人の移動を抑制する措置が取られるまでに至ってしまったこと。イタリアでの、これまでのところの致死率も明らかに他国と比べて異常だ。感染者数9172人、死者数631人。単純に計算して致死率6.8%にもなる。感染者数というのは、検査をどのくらいやるかによって変わってくるので、今の段階で致死「率」を出しても、意味はあまりないことは重々承知なのだが、「ウィルスの培養船」になってしまったと、さんざん日本が叩かれたダイヤモンドプリンセスの特殊な状況と比べる意味はあるように思う。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000164708_00001.html#houshin3月9日18時時点でのダイヤモンドプリンセスでの感染者数696(無症状保有者328)、重症者24、死者7。単純に感染者と死者数で出した致死率が1%。仮に、だが、現在重症者が全員亡くなってしまったとしたら、4.5%ということになる。さらに、無症状の方を検査対象から外して(そうすると感染者は368人)、現在重症者の方が全員亡くなったとしたら(34人)、そこで致死率は8.4%、やっと現在のイタリアを上回るのだ。こうやって考えると現在のイタリアでの人の亡くなり方がいかに異様か分かる。ダイヤモンドプリンセスという特殊な環境、おそらく高齢者も多かった、そして発病から時間も経っている。それでも死者は7人で、24人が現在も踏みとどまっている。ところが、イタリアでは日を追うごとに死者数が増えている。イタリアがダイヤモンドプリンセス以上のホットスポットになってしまった感がある。ここから推察できるのは、イタリアでの医療体制が持ちこたえられなくなり、「命のトリアージ」を始めている可能性だ。実際、そのような報道もちらと目にしたが、ダイヤモンドプリンセスの重症者が現在受けているような治療をイタリアの(おそらく)高齢者が受けることができずに、亡くなっている可能性。もしくは、人類にとって最悪のシナリオだが、ウィルスが強毒性に変異した可能性。だが、それだったら、距離的にロンバルディアに近いスイスやフランス南部、あるいはベネトに近いオーストリアやスロベニアでも、多くの死者が出てきてもよさそうなものだが、そうなってはいない。また、ウィルスの旅路については専門家がモニターしているから、ウィルスが大きく変異したとなれば、報告が上がってくるはずだ(それが一般人に知らさせるかどうかは別として)。そうなるとWHOなりが、もっと危機的なステートメントを出すはずだが、それもない。そして、イタリアの状況を見ると、日本の死者数の少なさが逆に異常ではないか、とも思えてくる。検査数が少ないのは確かで、それは態勢が整っていなかったというのもあるが、薬がない以上は軽症者は検査せずに治癒を待ち、重症者や感染の疑いが濃厚な人に限って検査を行うという方針のためで、それ自体は、この死者数が「本当」ならば、成功していることになる。だが、先日のエントリーで書いたように、コロナ死も通常の肺炎として処理されカウントされていない可能性はどうだろう。日本が嫌い…というより、安倍政権をなんとしても許せない人たちは、さかんにそれを言い出している。本当はコロナで死んだのだが、検査せず、別の死因にしてコロナでの死者数を少なく見せている、と。だが…もし、日本でイタリア並みのコロナ死が起こっており、それを肺炎その他の死因にして隠すとしたら、医療現場がそれをやっていることになる。自分たちが感染するかもしれないのに、だ。もしそういう例が何十件、何百件あったとしたら、なぜもっと院内感染が起こらないのだろう? それも隠蔽しているのだろうか? あまりに非現実的だ。名古屋で死後にコロナ感染が判明した例も、きちんと公表されている。疑わしきは罰せずでコロナ死に入れなかったとしたら<追記:その後のニュースで、死後陽性判定されコロナ死にカウントされた症例はあることが判明>そこでデータ集計上の問題は起こるが、そういう例が何十件、何百件あるとは、どうしても考えられない。ただ、イタリア側が言っている、「合併症で亡くなった人もカウントに入れている」という発言。これがもしかしたら、死者数の異常な増加と関係があるかもしれない。コロナ陽性で合併症で亡くなった場合は、それはコロナ死か、否か。あるいはこういった症例を日本は「否」にしているから、死者数がデータ上少なくなっている可能性はあるのかな、とも思う。そもそも、国によってどういう区分けをしているのか、それがイマイチはっきりしない。西ヨーロッパでもドイツでの死者は非常に少ない。感染者は日本の2倍以上だが(つまり検査数が多いということだろう)、死者数はまだ2人(日本は10人)。いずれにせよ、イタリアの情報がもっとほしい。そして、他の西ヨーロッパ諸国がイタリア化せず、踏みとどまってくれることを祈りたい。3月11日の追記https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56646890Q0A310C2000000/名古屋市は10日、新型コロナウイルス感染者2人の死亡を確認したと発表した。遺族の意向などとして、いずれも年代、性別を明らかにしていない。1人は既に公表済みの感染者で、もう1人は10日に死亡後、遺伝子検査で陽性が判明した。市は10日、このほかに50~90代の男女9人の感染を新たに確認。愛知県も40代の男女3人の感染を確認した。いずれもこれまでに感染確認された人と接触があった。愛知県内の感染確認は計99人(うち3人が死亡)となった。市によると、死亡後の検査で判明した1人は、7日に発熱があり、医療機関に救急搬送され入院。9日に医師から帰国者・接触者相談センターに遺伝子検査について相談があった。
2020.03.11
新型コロナ、Mizumizu連れ合いがネットニュースを見て、「イタリアで1日に死者が3倍になったって」と言った。「え? 嘘」と、思わず声に出すMizumizu。毎日https://gisanddata.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/bda7594740fd40299423467b48e9ecf6でデータをチェックし、ここ数日はイタリアを特に注意して見ていたが、日々の死者増加数は100人足らずだったはず。Mizumizu連れ合いが示してくれた情報ソースは、天下のAFPBB Newsだった。https://www.afpbb.com/articles/-/3272269国家市民保護局(DPC)によると、ウイルスによる死者は8日、366人となり、前日の133人から約3倍に急増。これを見て、すぐ嘘だと分かった。前日7日のデータも見ていたが133人でなかったのは覚えている。細かい数字は控えていないが、200人台だったことは確かだ。なんでこんな嘘を書いてるんだ?疑問はNHKニュースを見て解けた。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200309/k10012320431000.htmlイタリアでは北部のロンバルディア州を中心に感染が広がっていて、8日、新たな死者は133人増え、366人となりました。亡くなった人が1日で100人を超えたのは初めてです。つまり、「133人増えた」というのを、「前日(の死者が)133人だった」と取り違え、そこに「約3倍」という独自計算を加えてしまったから、デマになってしまったのだ。イタリア全土で1日に、ある感染症によって133人が死んだ――この数字が多いのか、実はそれほどでもないのかは横に置いておいて、「前日から死者数が(いきなり)3倍になって366人」と書くのと、「前日の死者233人、今日の死者366人」と書くのでは、インパクトが違う。ましてやこれは「はやり病」だ。わーイタリアってどんだけ悲惨な感染爆発が起きてるのよ、という恐怖を読者に呼び起こしかねない。そもそも3倍という計算をする必要があったのだろうか? 1人が3人になっても3倍、10人が30人になっても3倍だ。これは死者が1日で「3倍に急増」というキャッチーなタイトルを作りたくて(そして読者を呼び込みたくて)つけたものだろうが、そんなことに頭を使うより、記事を公表する前に、データと突き合わせて内容の正確性をチェックするほうが大事だろう。個人のブログじゃない、れっきとした正規の報道機関でコレ。いかにネット上のデマが多いか、それによって無駄な恐怖が増幅されているかよくわかる。このAFPBB Newsの記事が意図的なデマとは思わない。小さな間違いに、独自のキャッチーなタイトルをつけてしまったというミスだ。だが、こうやって小さな間違いがデマとなり、デマがあたかも事実のように固定化されていく。AFPBB Newsのキャッチーなタイトルはすぐに人々に記憶されるが、それは真実ではないということを後から証明しようとなるととても大変だ。デマはすぐに潰さないと、人々の感情と結びついて真実以上に重要なものになってしまう。世界的に有名な報道機関の記事ですら、ろくにチェックもせずにどんどんニュースとして流している。やはり、ネット上で飛び交う情報については、そのソースの信頼性の高さだけではなく、たとえ信頼性が高いソースであっても、数字や解釈に間違いがないのか、常に疑ってかかるほうがいい。
2020.03.09
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