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久留米市でありながら、筑後川を越えて、佐賀県側に飛び出している長門石地区をさるいてみました。北川原公園の中にある三つの石碑です。一番大きいこの石碑は、耕地整理記念碑でした。耕地整理の記念碑は、この地方ではよく見かける石碑です。農地の区画をそろえて、用水や排水を整えることを耕地整理というようです。石碑の台座には、この事業について色々と記されていました。真ん中の自然石のような石碑です。1893年(明治26年)には久留米市で蒸気機関によるポンプ取水が開始されたそうです。明治以後、動力ポンプによって水を汲み上げてかんがいに利用する先駆けとなったことを記念して建立された石碑のようです。成形された石碑ですね。目虫対策施設完成記念碑とありますが、目虫ってなんなんでしょう。農作物の害虫でしょうか?【つづく】人気ブログランキング久留米市長門石地区さるき(その2)
2018年09月23日
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久留米市でありながら、筑後川を越えて、佐賀県側に飛び出している長門石地区をさるいてみました。1604年(慶長9年)に筑後藩主田中吉政が 筑後川を直線状に掘削する工事を行い、長門石は佐賀県側に突き出たような形の島となったそうです。長門石にある長門石本村八幡宮です。ここには市指定の民俗文化財の碇石。そして、庚申板碑というものがあります。拝殿に行く途中にある太鼓橋。池には水はありませんでした。猿田彦大神の石碑がありました。これからも庚申信仰が神道の猿田彦神とも結びついていることが推し量れますね。こちらが本殿です。本殿の横にある板碑が「庚申板碑」(→→→こちら)です。本殿の後ろに碇石の標柱がありました。本殿の裏にあるこの石が碇石だそうです。地元の伝承によれば、この石が長門国の田(現在の山口県)から運ばれてきたので「長門石(ながといし)」の地名起源になったと言われています。本来、船の碇として使用されていたこの石が、後に船をつなぐための舫石(もやいいし)に転用されたのではないかと思われます。【つづく】人気ブログランキング久留米市長門石地区さるき(その1)
2018年09月22日
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放生会なので、やっぱり「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」という放生会の趣旨にそってお参りしないといけませんね。拝殿の前にある楼門の前、参拝客の行列が。この行列に並んで拝殿に行きます。ちょっと露出オーバーで撮影してしまいました。扁額には「敵国降伏」とありました。北の某国か隣の共産党国家のことですか? 記録によれば、平安時代の中頃である延喜21年(西暦921)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆(しんぴつ)を下賜されたそうです。また時代が下り、文永11年(西暦1274)蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が「敵国降伏」の宸筆を納められた事跡は有名で、ここに掲げられている扁額は、文禄年間、筑前領主小早川隆景が楼門を造営した時に、亀山上皇の御宸筆を謹写拡大したものだそうです。拝殿の前では雅楽が奉納されるのでしょうか。楽器が置かれていました。本殿・拝殿を囲む回廊には生け花が飾れていました。柱には、各界の著名人が書かれた文字が。この変なイラスト付きは、茶道表千家家元の千宗左氏のものです。お神輿も展示されていました。放生会のご神幸の時に使われるようですが、ご神幸は西暦の奇数年に行われるそうなので、今年は展示されているだけです。こちらは、南懐仁(フェルディナント・フェルビースト)の大砲。フェルディナント・フェルビーストとはイエズス会宣教師。清代の中国を訪れ、康熙帝に仕えながら布教活動を行った。漢名は南懐仁だったそうです。この人はヨーロッパの文明を清の時代の中国に伝えたことで有名らしく、この大砲も清国経由で手に入れたのでしょう。やはり敵国降伏のための神社ですから、こういうものは必需品ですね。神社に欠かせない白馬。作り物です。何と書いてあるのか読めなかった、華道家元、池坊専永さんの署です。こちらは、家元の代理で活けた、家元の生け花だそうです。ちなみに、ここに出展されたてるのはみなさん池坊流のお弟子さんの物でした。筥崎宮(はこざきぐう)、こういう人出のあるお祀りの時ではなく、人の少ない時に来て、ゆっくり散策したい神社ですね。【了】人気ブログランキング筥崎宮放生会(その3)
2018年09月20日
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筥崎宮(はこざきぐう)の放生会。筥崎宮の一之鳥居にやってきました。筥崎宮の鳥居は、本殿近くより数えて一之鳥居、二之鳥居と呼ばれています。 一之鳥居は慶長14年(1609)、藩主黒田長政が建立したそうですが、よく見ると鳥居の柱は三段に切れていました。地下鉄箱崎宮前駅1番出口付近にあるのが、ニ之鳥居です。また、国道3号線と参道の交差地点にも大鳥居があったそうですが、老朽化したため今は撤去されています。でも筥崎宮のホームページの境内案内図にはその鳥居が描かれていました(→→→こちらです)本殿脇に社務所にあった張り紙です。空くじなしのおみくじ?この「鳩みくじ」1回300円の割には旅行券とか当たったりもするみたいです。こちらは、スタンバイしている「博多町人文化連盟幕出し」のみなさん。幕出しとは、町人たちが炊事道具などを入れた長持ちを担いで参拝後、松原に幕を張って宴会を開いた行事のことだそうです。この一行、「博多長持唄」を歌いながら参道を往復して本殿前にやってきました。宴会用のグッズが入っていことになっている長持ちも行列の中に。着物がキレイな年上のお姉さま方も行列の中に。本殿前来ると、神職からお祓いを受けて。そしてみんなで記念撮影していました。【つづく】人気ブログランキング筥崎宮放生会(その2)
2018年09月19日
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海に面した鳥居、そして、埋め立てられた博多湾の一角に残された砂浜。ここが筥崎宮前の「お潮井」という砂浜です。ここの真砂(まさご)で身を清めるのだとか。博多祇園山笠の時も、各山笠の舁き手のみなさんが、この浜にやってきて、「お潮井(海砂)」を竹製のテボや升などに入れて持ち帰える儀式があります。この朱塗りの鳥居を抜けて筥崎宮の本殿に向かいます。ちなみ筥崎宮の祭神は、八幡様と呼ばれる応神天皇と、その母君の神功皇后、そして神武天皇の母君の玉依姫命となっています。そして、今日はなにやら沢山の人出が筥崎宮と表記しますが、このあたりの地名は箱崎といいます。「筥崎」では筥崎八幡神に対して恐れ多いという理由から「箱崎」と表記しているそうです。 沢山の露店が並んでいます。食事のできるお店も。子供の頃、祖父と一緒に西宮神社の十日えびすにきて、そこに出ていた露店の物を食べたいと言うと、祖父は「不潔だから」と言って食べさせてくれませんでした。だいたい毎年そういうやりとりがあったので、まあ、子供の頃は食べなかったのですが、高校生になって、友達と一緒に初詣に行った時、そこの露店で、たこ焼きを食べたら、帰りの電車でお腹の具合が悪くなり、途中下車してトイレに駆け込みました。その時、トイレでしゃがみながら、しみじみ思いました。「おじいちゃんの言うことは間違っていなかった」と。お化け屋敷までありました。こんなケーキ、東京で売ってましたったけ?そう、この日は、春の博多どんたく・夏の博多祇園山笠とならび博多三大祭りに数えられる筥崎宮放生会(ほうじょうや)でした。普通は「ほうじょうえ」と読むのですが、筥崎宮や特に福岡地方では伝統的に「ほうじょうや」と呼ぶそうです。放生会とは、「全ての生命あるものを慈しみ、秋の実りに感謝する」お祭りです。その起源は「合戦の間多く殺生すよろしく放生会を修すべし」という御神託によるもので、千年以上続く最も重要な祭典しかし、本当に人が多いですね。博多にはこんなに殺生している人が多いんでしょうかね。新ショウガを売っていました。どうもこれが名物だそうです。もう一つの名物がこの社日餅(やきもち)。白餅とよもぎ餅の二種類がありますが、試しに白餅を一個買って食べてみました。餡が入った素朴な感じのお餅でした。まあ、わざわざ買い求めに来ることはないかもしれませんが、放生会のお土産にはいいかもしれません。【つづく】人気ブログランキング筥崎宮放生会(その1)
2018年09月18日
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こちらの並んだ建物は、御廟(ごびょう)と経蔵(きょうぞう)だそうです。こちらが御廟。中にある五輪の塔石造の廟塔です。聖光上人をお祀りしています。こちらは三祖堂。聖光(鎮西)上人の発願による安産祈願の祈願所iになるそうです。三祖とは、この中に祀られている浄土教の開祖である善導大師、そしてこの善導大師の教えである浄土宗を日本に持ち帰えり伝えた日本での浄土宗の開祖、法然上人。そしてこの善道寺を開基した聖光(鎮西)上人になるそうです。こちらが本堂。やはり浄土宗なので阿弥陀如来が奉られているのでしょうね。国指定の重要文化財となっているそうです。こちらは釈迦堂。比叡山延暦寺の根本中堂の建築様式を調査して建てられたそうです。中に奉られている釈迦如来像です。善導寺、立派な寺院です。また、機会があれば、じっくり時間を掛けてお参りしたい寺院でした。【了】人気ブログランキング善道寺参詣(その4)
2018年09月17日
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境内に入って最初に目にした石碑「鎮西学園発祥之地」とは、熊本にある野球の強いあの鎮西高校のことのようです。1888年(明治21年)、福岡県久留米市善導寺町に浄土宗学鎮西支校として創立されたそうです。そして1901年(明治34年)に熊本市へ移転したそうです。立派な石像がありました。こちらは、筑紫筝碑。善導寺は「筝曲発祥の地」だそうです。こちらは、善導寺を開基された聖光上人像。顔ハメもありましたよ。境内案内図です。結構、建物がありますね。さすが大本山。善導寺開山、聖光上人のお手植えと伝えられている善道寺の大楠です。ということは推定樹齢は800年でしょうか。枝が重すぎるのか、下から支えています。天然記念物に指定されているのですね。お寺と言えば、やっぱり欠かせない鐘ですね。この梵鐘は福岡県の文化財に指定されているそうです。慶安二年(1694)の鋳造というのは、第二次世界大戦中の金属類の供出を免れたということですね。【つづく】人気ブログランキング善道寺参詣(その3)
2018年09月16日
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浄土宗大本山善導寺に参拝します。ちなみに善導寺の現在の敷地は約15000坪(東京ドーム1個分)だそうです。この駐車場案内板を見て気がつきました。一番遠い、右下の駐車場に駐車したことを。とりあえず、参道は長い。この案内板、下の字が消えていて読めませんこちらが大門。重要文化財だそうです。大門上に掲げられている山号、「終南山」は終南大師(善導大師)に因んだものだそうです。終南大師とは、善導(→→→こちら)という、中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶だそうです。さらに続く参道。善導寺は安産祈願で有名な寺だそうで、祈願に参詣された妊婦さんがこの参道の大門をくぐり三門まで歩く間に、最初に「男性に会えば男の子が。 女性に会えば女の子が産まれる」というそうです。でも、誰にも会えなかったら、どうなるんでしょう。そしてここが三門という門だそうです。三門の手前にあった幼稚園。コンビニの親戚みたいな「ランビニ」という名前、変だと思ったら。「藍毘尼」の意味だったのですか、藍毘尼(→→→こちらです)とはお釈迦様が生まれたとされるインドの村の名前ですね。山門と呼ばす三門と呼ばれている門です。三門と書くのは三解脱門のことで、悟りに通ずる3つの道を意味しているようですね。ここにある鎮西上人とは、この善道寺を開基した聖光上人のことです。ありました「下馬」の標石。ここからは馬を降りて歩けということですが、現在なら車を降りてということですね。三門を抜けて境内に入ります。下馬とあるのに、車で境内に入ってきているとは、なとんいうことですか。こちらにある南門から、車で入ってこれるようです。まあ、お年寄りや足の不住な方のためにもこれはいいのかも。【つづく】人気ブログランキング善道寺参詣(その2)
2018年09月15日
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久留米市東部、善導寺町にある浄土宗大本山の善導寺に参詣してきました。その前に善導寺の駐車場の近くにあった亀の甲八幡へお参りしておきました。善道寺も関係ある神社のようです。こちらが拝殿です。筑後川の氾濫でここまで水位が上がったという表示がありました。ここまで水が来たら、本当に大変です。ここから大善寺善導寺へ向かって歩くと、街灯の上に天女の飾りが、全ての街灯についているみたいです。善道寺の入り口に立つ薬師堂です。そして、ここが善導寺の入り口です。浄土宗大本山の善導寺、九州における浄土宗を広める拠点となっている寺院です。総本山は京都東山にある知恩院 (華頂山 知恩教院 大谷寺)だそうです。では<お寺の中へ入っていきます。【つづく】人気ブログランキング善道寺参詣(その1)
2018年09月14日
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9月8日と9日の2日間にわたり、久留米市にある東町公園で「第16回久留米焼きとり日本一フェスタ」(→→→こちら)が開催されていたので、9月8日、雨の中行ってみました。雨にもかかわらず、これだけの人が来ているってことは、晴れていたらもっとどれだけの人が圧なったのか。ステージも作られていて、今年の焼きとりフェスタのテーマは「ラブ・ダルム」?MoMo太郎は、こちらのMCのお姉さんにラブ焼き鳥買ってみました。出展店舗の裏側では、焼きとりを焼いています。どの店舗も三本セットで500円ですが、それぞれ串の内容は違うようです。ちなみにビールは一杯450円。近くのコンビニで缶ビール買って持ち込んでもよかったかな?これが、久留米人熱愛の「ダルム」。業界の人ならわかると思いますが、darm(ダルム)は「腸」のこと。東京の焼きとり屋さんなら、「シロ」ですかね。焼きとりフェスタのテーマは「ラブ・ダルム」だけにどの店のセットにも「ダルム」が入っています。焼きとりだけは足りない人に向けに、久留米ラーメンの有名店「モヒカンらーめん」や久留米人の常備食「筑後うどん」も出店しています。こちらが客席で、テントの下で焼きとりを食べることはできます。ラジオ局も取材に来ていました。ステージでは、地元高校生のダンスも披露されていました。ところで、どうして「久留米焼きとり日本一フェスタ」が久留米で開かれているかというと、久留米市は、人口比日本一の焼きとりの街だからそうです。なんと、1万人当たり7.46軒の焼きとり屋さんがあるそうです。さらに焼きとりメニューが多いのも久留米焼きとりの特徴で「ダルム(小腸)」、「ハルツ(心臓)」、「せんぽこ(動脈)」、「タング(舌)」など、ドイツ語に由来する名前で呼ばれています。まあ、久留米大学医学部というのがあるせいだとか。それに焼き鳥といっても、鶏肉だけではなく、何でも串を刺せば何でも「やきとり」になるのも久留米式。久留米市内の「焼とり 鉄砲」が「アスパラガスの肉巻」を日本で初めて手がけ、以来、市内各店でやきとりメニューを開発し始めたそうです。人気ブログランキング久留米焼きとり日本一フェスタ
2018年09月09日
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アサヒビール博多工場の工場見学です。工場の中は冷房が効いていて涼しい。博多工場で一年間で生産されるビールの量です。アサヒスーパードライの350ml缶で8億7千万本、缶をつなぎ合わせるとその長さは地球を2.7周するそうです。アサヒビールの工場、全国各地にあるので、それぞれがこれくらい作っているとすると、みんな結構ビール飲んでますね。こちらがビールの原料、手前の緑色のものがポップ。奥の茶色のものが大麦です。MoMo太郎のグループの説明員は、男性でしたが、他のグループは女性でした。こちらが、工場の施設。平日は24時間稼働し、日曜祝日は休んで、機械の洗浄、点検をしているそうです。こちらが、缶にビールを詰め込む機械だそうです。そして、ビール工場の見学といえば、試飲が欠かせませんね。ここが試飲会場です。これが試飲のビールとおつまみ。ビールはアサヒビールといえば、やはりスーパードライ。2杯飲むことができます。工場で出来立てを飲んだせいか、いつもスーパードライとは、風味が少し違いました。工場見学もできたウォーキング、楽しかったです。次回はいつ頃、どこへ行くのかな?楽しみです。【了】人気ブログランキングアサヒビール博多工場見学・散策コース(その3)工場見学
2018年09月06日
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西鉄のウォーキングイベント、レール&ハイクの続きです。新幹線の高架橋の下を抜けて、板付方面に向かって、進み、この陸橋を超えて行きます。陸橋の下はJR九州の鹿児島本線です。陸橋を超えると板付地区になりました。板付中央公園です。そして、御笠川に出ました。これが御笠川、この前日は雨だったので、すこし水は濁っていました。この御笠川沿いの道は桜の名所らしいです。このタンクは下水処理施設の御笠川浄化センターのタンクです。御笠川の支流、諸岡川に架かるこの橋を渡ります。廣田善太郎いう人がこの橋を架けたということでしょうか?橋の名前は「那珂沼口橋」、ということはこの辺りは、むかし沼だったんでしょうかね。地名も那珂というそうです。そして、ここにやって来ました。JR九州の竹下駅です。竹下通りもありました。これが福岡の竹下通りです。約7キロのウォーキングを完歩しました。ここが目的地のアサヒビール博多工場です。続いて、ビール工場見学に行きました。【つづく】人気ブログランキングアサヒビール博多工場見学・散策コース(その2)御笠川
2018年09月05日
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晴天の9月2日、日曜日、西鉄天神大牟田線大橋駅にやってきました。西鉄レール&ハイクの「アサヒビール博多工場見学・散策コース」に参加するためです。前回のレール&ハイクイベントは、7月の西日本豪雨で中止になったので、久しぶりのウォーキングイベントとなりました。出発時はペットボトルの水を配ってくれました。大橋駅を出発して、日赤通りに出ます。九州中央病院のところを右折して、南警察署の前を通り。那珂川に出ました。このまま真っ直ぐ行けば、目的地のアサヒビール博多工場なんですが・・・。那珂川にある堰です。むかし、このあたりにも水田が多かったのでその名残なんでしょうか。那珂川沿いの遊歩道を南に向かって歩いていきます。多少は汗を流した方が、ビールも旨くなるでしょう。転倒式の堰ですね。水を堰上げる時はこんな風に堰板が上がって、水位を下げる時は、この堰板が下流側に倒れるのでしょうね。堰全体も石張りにして、景観にも配慮していますね。そして、この橋を渡って、また那珂川の左岸側に戻ります。橋の上から、また堰が見えました。こちらの堰は、さっきの堰より高く堰上げていますね。中が沿いに佇む、カルガモ? 嘴全体が黄色いから違うカモ。また、那珂川を渡って、板付の方へ向かいます。【つづく】人気ブログランキングアサヒビール博多工場見学・散策コース(その1)那珂川
2018年09月04日
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こちらは神代橋の近くにある「太郎原」、「だいろうばる」と呼ぶそうです。この近くに、太郎原一本杉史跡というのがありました。南北朝の時代、九州の北朝方と南朝方の勢力が筑後川をはさんで戦った大保原の戦い(→→→こちらです)で、南朝方の懐良親王は合戦をかろうじて制し、高良山に転進したが、村人は合戦で死んだ武士たちを悼んで塚を築き、塚の前に一本の杉を植えたそうです。それがこの太郎原の一本杉という史跡だそうですが、その一本杉、昭和31年の台風で倒れたそうです。そして、今ではbk石碑だけが残っていました。この変わった建物。河童をイメージした意匠のJR九州久大線の「田主丸(たぬしまる)駅」です。河童の本場の町なのでしょうか?河童の石像が駅前に飾られています。この河童、ちゃんとした名前があるそうです。楽太郎河童というそうです。またこの田主丸という地名の由来も書かれていました。ちなみに、この菊池丹後という人物は、慶長年間(1596-1615)にこのあたりの藪125間(1間は約1.818 メートル)つまり230メートルを開いて町筋を創建したのが田主丸町の始まりとされいるそうです。楽しく生まれる、田主丸。覚えましたか?人気ブログランキング続々・難読地名
2018年09月02日
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久留米で見つけた難読地名の続きを紹介します。神代と書いて「くましろ」と読みます。この神代橋、最近、新しくなったみたいで、これが新しい橋です。黒御影石なんか使って、デザインにも心配り。これが神代橋の歴史だそうです。「文永11(1274)年、鎌倉幕府の執権北条時宗は、元と高麗(こうらい)の連合軍の襲来にあたり、南九州の御家人に出兵を命じた。 久留米の豪族神代(くましろ)良忠は、「筑後川神代の浮橋、九州第一の難路の処、調略をもってたやすく打ち渡す」ということで、筑後川に舟を並べて浮橋(舟橋)をつくり、博多の警固に赴く薩摩・大隈・日向・肥後の御家人たちを対岸に渡した。幕府は、神代良忠の功績を讃え,感状を送った。」ということようです。幕府の表彰状からみてもこれは常設の橋のよう、鎌倉後期作と伝える「観興寺縁起」にも船橋の姿で画かれているそうです。それから、交通の要所として神代橋、洪水被害にあったりして、何回か架け替えられているようでした。こちらは古い神代橋。車がかろうじてすれ違える程度の幅でした。そして今は通行止めです。古い神代橋の近くにあった標石です。神代良忠の造った神代浮橋f史跡となっているようです。こちらにも神代橋の由来が記されていました。ちなみに、この神代という姓、筑後・高良大社の大宮司の家系だそうです。難読地名にもちゃんとした歴史があったのですね。人気ブログランキング続・難読地名
2018年09月01日
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久留米で見つけた難読地名です。普通に「はらこがまち」と読んでしまいそうですが、原古賀町と書いて「はらんこがまち」と読むそうです。こちらも引っかけ問題みたいな地名です。「かみかわはら」ではなく上川原と書いて「かみごうら」と読むそうです。「野伏間」と書いて「のぶすま」と読むようです。こちらは「上津荒木」と書いて「こうだらき」と読みます。ちょっと想像がつかない読み方ですね。この川も。「上津荒木川(こうだらきかわ)」という川です。もともと上津荒木(こうだらき)という村があって、1951年に久留米市に編入されたそうです。人気ブログランキング難読地名PS 最近、アクセス数が1,000を下回ることがなくなってきました。
2018年08月31日
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久留米市内にある「伊三郎ぱん」。食パン以外は全品100円(税別)でした。味は、普通です。人気ブログランキングへ100円パン
2018年08月30日
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早津江川を渡り、早津江川と筑後川にはさまれた福岡県と佐賀県にまたがる三角州に行きました。この三角州、筑後川最下流にある島で、島の北半分(福岡県域)を「大野島」と呼び、南半分(佐賀県域)を「大詫間」と呼ぶそうです。ひとつの島が2つの県にまたがるというのは珍しいです。北側にできた三角州の柳川藩領地、南側にできた三角州が佐賀藩領地となっていたが、二つの三角州の間にまた土砂が堆積して、やがて、2つの三角州は陸続きとなって1つの三角州になった。陸続きとなってからは再び領有が争われ、筑後川の上流から御幣を流してそれが漂着した地点を境界にすることで決着し現在の県境になっているそうです。さて、この松枝神社。鳥居脇の説明板には、柳川藩と佐賀藩の領地争いの顛末が書いてありました。松枝神社は佐賀藩主が大詫間の領有を主張するため建立した祠を移設した神社ということです。こちらが拝殿です。小さな神社ですが、歴史の重みがあるような。三角州の原野を開拓して農地にしたことを示すような「水功記念碑」という石碑。大詫間にあるこの住宅。山口家住宅という国の重要文化財だそうです。でも普通の民家で、人が住んでいました。葦ぶきの屋根に特徴があるそうです。この説明パネルによると、真ん中をヘコませた正方形の屋根で「じょうご造り」というのが特徴だそうです。棟が四方にまわっていて、その内側がじょうご状になり、雨水は中央に集まる。これを小屋裏の樋に受け西側面の軒下に導いて排水しているそうです。これが「じょうご造り」の模型です。このような建物は、筑後川河口付近の福岡県と佐賀県にのみあったそうですが、どうしてこんなつくりにしているのでしょうね。雨水を集めてためておきたかったからでしょうか?【了】人気ブログランキング肥前さが幕末維新博覧会(その4)
2018年08月27日
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次に訪れたのは、佐賀市川副町にある三重津海軍所跡というところです。幕末維新の頃に活躍した佐野常民記念館と併設されています。この建物が、佐野常民記念館です。この中に三重津海軍所に関する資料も展示されています。これが佐野常民氏胸像です。ちなみに佐野常民氏は、政農商務大臣、大蔵卿、元老院議長などを務めた政治家であり、日本赤十字社の創始者だそうです(→→→こちらです)。三重津海軍所とは<佐賀藩が1858年(安政5年)に設立した蒸気船等の船の修理・造船施設であり、西洋船運用のための教育・訓練機関も兼ね備えていたそうです。「明治日本の産業革命遺産 」として世界文化遺産にも登録されている有難味のある施設です。 こちらの石碑は、三重津海軍所の功績を称える石碑です。こちらはこの三重津海軍所を創設した曽我藩主、鍋島直正公の功績を「御祖業」とたたえる石碑です。三重津海軍所の歴史を記した石碑です。明治維新後、佐賀藩の海軍所は必要なくなったので、佐賀商船学校となりましたが、1933年(昭和8年)に閉校されたそうです。建物の入り口です。建物の背面から撮影した全景です。こちらが三重津海軍所跡地です。海軍所といいながら、筑後川の支流である早津江川に面しています。佐賀県は有明海に港がなく筑後川沿いに港があります。福岡県側もまあ同じですが。ここは海軍の稽古場跡で、航海に必要な技術を稽古したところだそうです。向こう側見えるクレーンは、有明海沿岸道路の橋梁工事の現場です。ここに船を浮かべて操艦訓練をした跡ということでしょうか。ここはドライドックの跡だそうです。ここで日本最初の木造スクリュー蒸気船である「電流丸」が建造されたそうです。こういうメイドインジャパンの軍艦を造ったというのが佐賀藩です。三重津海軍所(→→→こちら)なかなかのものだったようです。【つづく】人気ブログランキング肥前さが幕末維新博覧会(その3)
2018年08月26日
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肥前さが幕末維新博覧会に佐賀市まで来たので、ついでに周辺を歩いてみました。この白い建物は、佐賀県庁、その奥の建物は佐賀県議会議事堂です。このあたりは佐賀城址になるそうです。この風格のある建物は「徴古館」(→→→こちらです)。鍋島家12代当主直映公により昭和2年に創設された佐賀県内初の博物館ということです。この徴古館の横にある「弘道館記念碑」です。佐賀藩の藩校だそうです。明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身者だったそうです。でも弘道館って水戸にもありましたね。徴古館の横にあったのが「佐嘉神社」。佐賀藩10代藩主鍋島直正と11代藩主鍋島直大を祀っているそうです。10代藩主鍋島直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの幕末維新期に活躍した人材を育成し、鍋島直大は戊辰戦争で官軍として戦ったそうです。別格官幣社という社格は、国家に功績を挙げた忠臣や、国家のために亡くなった武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社のために設けられた社格です。やっぱり、国家に貢献したのは、戊辰戦争の時に官軍の兵器である大砲を作ったことによるものでしょうかね。これが神門。こちらが拝殿となります。佐嘉神社に隣接して、松原神社というのがあります。これがその鳥居です。樹齢おおよそ650年という大きな楠です。開運長寿、身体健全を願って手を合わせる人もいるとか。こちらが松原神社の神門。松原神社は鍋島家の始祖鍋島直茂を祀る神社として創建され、明治になって鍋島氏以前に佐賀を治めていた龍造寺家の隆信・政家・高房も祀られるようになったそうです。そういうことで、松原神社の方が佐嘉神社よりも古く、第10代藩主鍋島直正が明治6年(1873年)に祀られ、その後、佐嘉神社が造営され、そちらに祀られたという経緯のようです。扁額にある日峯大明神は、始祖 鍋島直茂の法号の日峯(にっぽう)に因むそうで、日峯大明神と呼ばれていたそうですが、明治5年、初代藩主・勝茂を合祀して「松原神社」となったそうです。【つづく】人気ブログランキング肥前さが幕末維新博覧会(その2)
2018年08月25日
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肥前さが幕末維新博覧会(→→→こちらです)というのが、2018年3月17日 - 2019年1月14日まで開催されているので、ちょっと佐賀市まで足を伸ばしてみました。博覧会場は佐賀市内の何カ所かに分かれているみたいで、これを全部まわって観るというのも大変なので、とりあえず、メインパビリオンかなと思われる。幕末維新記念館に行ってみました。てもこの建物、博覧会用に建てたものではなく、市村記念体育館という既存の建物を利用しています。どうやら他のパビリオンというのも既存建物を利用しているみたいです。なんか、貧乏臭くないか?ちなみに入場料は800円です。ここの展示は、幕末維新期の佐賀の偉業や偉人などを最新の映像技術等により紹介してくれるという施設です。そういうことで、約40名を一つのグループとして、9分ごとにご入場するシステムになっているそうです。でも、行ってみたら40名も揃う前に9分過ぎたので、入場できました。中はこんな感じで、映像で幕末維新の頃の佐賀藩の紹介をしてくれる設定です。映像が終わると次の部屋に行きます。上映中は撮影できませんが、それ以外は撮影自由でした。こんな感じのところもありました。ここでは黒子の人がいてなんか講談風の説明をしてくれました。ここは最後に、佐賀藩出身で幕末維新の時代に活躍した偉人を紹介してくれます。どんな人がいたかというと、都の西北に大学を作った大隈重信、日本赤十字の創始者の佐野常民、まあそんなところですかね。佐賀藩の自慢は、このような鉄製大砲や軍艦を自前で作って、戊辰戦争で幕府軍を蹴散らしたということだそうです。感想としては、入場料800円の割には、ということでした。これは最後の、「志」ことのは結び、というコーナーで展示を見て持った志を書いて残すというところで書かしていただくました。【つづく】人気ブログランキング肥前さが幕末維新博覧会(その1)
2018年08月24日
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続いて、やって来たのは、この坂道。名島城址公園だそうです。坂道を登ってやってきたのは、こんな広場が整備されていました。名島城、ちょっと小高い丘の上にあって、向こうに大友氏の重臣・戸次鑑連(立花道雪)の居城だった立花山城のある立花山も見えます。そして、名島城址と刻まれた立派な石碑も建立されていました。この名島城は、立花山城の出城として築かれたのですが、九州平定を果たした豊臣秀吉が、毛利氏の重臣であった小早川隆景に筑前国や近隣諸国を与えたところ、 三方を海に囲まれたこの名島城を水軍の本拠としても利用できることから、名島城を大改修して居城としたそうです。この大木は、「不断梅」と呼ばれる梅の木で、栃木県足利市にある足利学校から持ってきた梅の木で、誓願成就、学問探求の古木だそうです。長い戦乱による人々の学問不足を嘆いた小早川隆景は、慶長元年(1596年)、足利学校にならって学舎、名島学校を設置し、聖廟を建て武士や庶民を問わず学問を奨励した。このとき隆景は、足利学校から僧侶を招き足利学校同様の教育を施すよう求めたそうです。 名島城址のとなりある名島神社です。ここからは博多湾が見下ろせました。名島神社への石段です。この下は海になっています。結構、長い石段でした。海辺から見たところです。名島神社の下に広がる博多湾です。そしてこの近くにあるのが、「名島帆柱石」です。よほどの名所なのか、石碑が2柱、そして説明板も設置されていました。名島の帆柱石はこの石碑の後ろの海岸べりにあります。この石の柱に囲まれて、ゴロンと横たわった円柱形の石が帆柱石です。直径は約60cm、分断されたものを合わせた長さが10mほどで、約3,500万年前のカシの樹木の化石、つまり珪化木が帆柱石です。なぜ帆柱石と呼ばれているかというと、神功皇后が新羅・高句麗・百済へ三韓征伐の出兵を行って凱旋した後に、この地に置かれたという軍船の帆柱が、化石となって残っているのだと伝えられいるからだそうです。そして、西鉄貝塚線名島駅に戻ってきました。名島城に因んでいるのか、駅舎が和風の造りになっていますね。【了】人気ブログランキング名島さるき(その2)
2018年08月22日
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香椎宮参詣にきたので、香椎から近くの名島地区周辺をさるいてみました。「さるく」とは筑後弁で「うろつく。周辺を散策する。」ことを意味します。さて、これからさるこうという名島地区は福岡市東区にある地区で、多々良川と博多湾、そして香椎の町に囲まれた範囲です。香椎宮から、千早駅に出ました、この駅はJRと西鉄が接続しています。ここは千早中央公園。公園の入り口に変わった鉄柱が建てられていました。むかしは、ここに北九州地区の炭鉱から運搬される石炭等の取り纏めをする操車場として「香椎操車場」というのがあったそうで、その広さは西側を併走する西鉄貝塚線の香椎宮前駅付近から名島駅付近に至り、直交幅は最大200メートル余りの広大な操車場だったそうです。その操車場を横断していたのが千早陸橋でした。昭和59年には操車場の使用停止、平成16年には区画整理事業に伴い陸橋も撤去され、当時の記憶を残すものとして陸橋の一部が「都市の記憶」としてここに置かれているそうです。国道3号線(バイパスが開通したので旧国道になりますかね)を超えるとこのような直線道路がありました。これは飛行場道と呼ぶそうです。かって「名島水上飛行場」という水上機専用の飛行場が名島にあったそうで、そこへ通じる道路だそうです。1930年(昭和5年)3月に開港し、日本航空輸送により大阪、中国、朝鮮、台湾方面への航空路が開設され国際空港として機能していたそうです。また、 1931年(昭和6年)9月17日には世界一周中のリンドバーグ夫妻を乗せたシリウス号が来訪したというなかなかの飛行場だったようですが、1934年(昭和9年)に定期便が終了してしまい、そのご埋め立てられたそうです。人気ブログランキング名島さるき(その1)
2018年08月21日
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日向神ダムの貯水がピンチということで、灌漑(かんがい)用水が心配されるところです。台風19号で被害が出ない程度に雨が降って欲しいところかも。そんな心配もありますが、矢部川流域には自前の灌漑用水用のダム「花宗溜池」(→→→こちら)を持っている花宗用水組合(→→→こちら)という組織があります。こちらが花宗溜池です。取水塔がお洒落な雰囲気ですね。こちらが、堤体となります。コンクリートではなくアースダムと呼ばれる土で造った堤体ですが、黒木町犬山にあるためか、「花宗溜池」ではなく「犬山ダム」と呼称されているそうです。堤高は29メートル。堤頂長は320メートルだそうです。池の端にこんなものがありました。水車で水をかき混ぜているような。水中に酸素を送っているのでしょうか。魚の養殖池などでもこういう装置よく見かけます。これは取水塔でしょうね。西洋の建物を思わせるデザインがいいですね。取水塔の横では水面に異変が。水の中から、泡が沸き上がってきています。これは???ところで、この池、かんがい用水を貯めておく以外にも、魚を養殖しているみたいですね。ブラックバスが釣れるのでしょう(→→→こちらです)でも、ボートを使っての釣りは禁止だそうです。花宗溜池の横にあった、なにやら意味ありげな祠と石碑です。文字がはっきりしませんでしたが、祠の中にあるのはお地蔵様で、ため池を造るときにここに移設したというようなことだと思いました。ため池周辺のこちらは、ため池の水位が上がった時に洪水を逃がす、洪水吐という施設でした。こちらはため池の水を取り出す樋管という施設でしょうか。石造りの随分立派なものですね(ため池の構造については→→→こちらを参考に)。「民生潤灌」とありました。多分、右から読んでいくのでしょうかね「灌(水をそそぎ)、潤して、民は生きる」という意味でしょうか。こうして水路につながって、水田に水を送っているのでしょう。人気ブログランキング花宗溜池です
2018年08月20日
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新聞にこういう記事が載っていたので、「日向神ダム 24日にも貯水量ゼロに 豪雨以降雨なく」(→→→こちらです) 矢部川流域に農業用水などを供給している日向神(ひゅうがみ)ダム(福岡県八女市黒木町大渕、有効貯水量1830万トン)では、7月初旬の豪雨以降はまとまった雨がほとんど降らず、8月16日午前9時の有効貯水率は10.9%(199万トン)で、このまま降雨がなければ、24日には有効貯水量がゼロになる見込みだそうです。ということで、日向神ダムへ行ってきました。8月18日時点の日向神ダムの貯水状況です。おそらく、湖岸の斜面の樹木が生えているあたりが、最大に貯水しているラインだとすれば、かなり水位が下がっているようです。日向神ダムへは国道442号線から、この狭いトンネル、乗用車がすれ違うことできない幅です。を抜けてやってきます。控えめな「日向神ダム」の銘板です。こちらがダムの上。移動式のクレーンが設置されていました。手前にあるレールの上を動くみたいです。こちらはダムのゲートの操作室です。ダムの上は県道になっているそうです。ダムの上から下流をみたところです。下流の風景、随分な山の中ですね。こちらは、ダムの説明板と慰霊碑です。ダムの堤体の上です。斜面の上に残る鉄橋のようなものは、ダム工事の時に使った設備の遺構でしょうか。そして、またこのトンネルを抜けて行きます。こちらはダム管理に浸かっている船と船着き場です。こちらはダム上流側の貯水池です。かなり水位が下がっています。ダムの横を通る国道442号線にある特産物販売所です。この直売所の横にある「天神湧水」。これが天神湧水です。学問の神様、天神様の湧水なので、毎日この水を飲むと学業向上にはご利益あるかも。国道442号線のダムに架かる橋。このトラス橋の鉄材、ちょっと錆びているような。日向神ダムの目的は、1)矢部川の洪水調節2)八女市・筑後市・柳川市・大川市・八女郡・山門郡・三池郡・三潴郡といった4市4郡の約12,000ヘクタールの農地へのかんがい。3)県営水力発電。だそうですが、ダムが空になるのは、洪水調節には有り難いことです。また、電力については鹿児島県の川内原子力発電所と佐賀県の玄海原子力発電所が地元の人の命がけの犠牲の上で、稼働していることもあり、大丈夫かもしれませんが、心配は、筑後平野、12,000ヘクタールの水田への灌漑ですね。こちらは、日向神ダムにある「ハート岩」、恋のパワースポットだとか。確かに岩の形がハート型ですね。人気ブログランキング日向神ダムに行ってきました
2018年08月19日
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香椎宮の奥には色々あるみたいですから行ってみましょう。勅使が来られて植樹された杉の木です。さらに、古宮と呼ばれる仲哀天皇の営んだ仮宮「橿日宮」と伝えられる史跡や不老水と呼ばれる泉があるようです。歩いてすぐのところにあった、ここが古宮です。さらに一段高いところに、大きな椎の木が立っていました。仲哀天皇の棺を掛けたという神木「香椎」(棺掛椎<かんかけのしい>)というそうで、「香椎」の由来は椎の木に仲哀天皇の棺を掛けたときに異香が漂ったことに由来するそうです。もう少し、奥に行くと「仲哀天皇大本営御旧蹟」という碑が建立されていました。仲哀天皇8年に天皇は熊襲征伐のための西征でこの地に行宮を造るものの、志なかばにして仲哀天皇はこの地にて崩御されたということです。さらにこの古宮から奥の山の方に向かうと、住宅地となっていますが。ここに不老水の井戸があります。住宅地の中の路地を入っていきます。ちょっとした社があってここが不老水です。仲哀天皇・神功皇后に仕えた武内宿禰が、この泉の水を汲んで食事・酒を調えて300歳以上という長寿を保ったことから「不老水」と呼ばれているそうです。また、この一帯に武内宿禰が居住したので「武内屋敷跡」と呼ばれているそうです。こういう注意書きがあったので、持ってきた空の500mlのペットボトルに入れて持ち帰りました。また、置いてあったコップでそのまま水を飲みましたが、特になんともありませんでした。これが不老水の井戸です。最後にもう一度、綾杉を見て、JR九州の香椎神宮駅に向かいました。神社の名前は「香椎宮」なのに駅の名前は「香椎神宮」なんですね。【了】人気ブログランキング香椎宮参詣(その2)
2018年08月18日
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前々から参詣したいと思っていた香椎宮に行ってきました。西鉄貝塚線の香椎宮前駅で降りて、香椎参道を歩くと「官幣大社香椎宮」と刻まれた立派な石碑がありました。官幣大社とは、日本において官(朝廷、国)から幣帛ないし幣帛料を支弁される神社ということでなかなか格式のある神社ということになるのでしょう。この石碑の横には「香椎参道」との道路標識がありました。楠が並木として続く、いい感じの道路です。この道は勅使道(ちょくしどう)とも呼ばれており、現在も香椎宮は勅祭社として10年に一度天皇からの勅使の参向を受ける神社だそうです。しばらく歩くと、香椎宮という看板がありました。安産祈願の神様なのでしょうね。石の鳥居、重々しい雰囲気を醸し出しています。御祭伸は仲哀天皇と神功皇后。神功皇后といえば、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めたという方ですから、安産祈願もなるほど、という感じですね。境内に入ってすぐのところにあるこの池はハナショウブで有名だそうです。この石段を登っていきます。この楼門も重々しいですね。桜の木が植えられていたので桜の季節は、また一層華やかさが出るのでしょうか。楼門を抜けるとこの大きな杉の木が。御神木の綾杉です。古今和歌集「千早振 かしひの宮の あや杉は 神のみそぎに たてる成けり 」(詠み人知らず)で有名だそうです。稲荷神社と鶏石神社(けいせきじんじゃ) が境内社としてありました。二つ並んで建立されています。稲荷神社はやっぱり狐ですね。鶏石神社はニワトリですね。本殿にお参りするにはもう一段<石段を登ります。日本唯一の香椎造と呼ばれる様式の本殿です。また本殿の前には拝殿がありますが、香椎宮では古来より勅使が幣帛を捧げる場所であるとして「幣殿」と呼ばれているそうです。勅使といえば、忠臣蔵の発端ともなった朝廷から使者。受け入れる香椎宮の方でも気をつかうでしょうね。【つづく】人気ブログランキング香椎宮参詣(その1)
2018年08月17日
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イオンモール筑紫野です。この間の休みの暑かったので、ここで一日中涼んでいました。ちょっした避暑地です。また暑い日があったら涼みに行こうかなと思っています。それから、やっぱり夏は献血してくれる人も減るので、献血車も来ていました。若い頃、手術で輸血してもらったMoMo太郎は献血できないので、こんなこと言うのも、どうかと思うのですが、みなさん、できるだけ献血して下さいね。人気ブログランキングここが避暑地です。
2018年08月11日
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前回の防火灌漑用水として樋江用水に高良川から水を引いているとあったので、その水源となっている高良川の取水堰を7月7日に確認しに行ってみました。その日は九州北部をはじめ西日本全域に大雨が降った翌日だったので、かなりの水量が高良川に流れていました。下流側から堰を見たところです。右岸の上流側から堰を見たところです。取り入れ口付近のズームです。この高良川からの取り入れ口と国分町にある遊水地とのつながりは途中で途切れて探しきることができませんでした<m(__)m>。このあたり上津バイパス(野伏間~東合川線)の沿いにあった駐車場です。ここにちょっと面白いものがありました。「新装オープン記念」と書かれた記念碑です。どうやら国分南水利組合という組織があり、組合の副収入として駐車場を設置したそうです。右側の古い石碑の文字は読み取れませんでしたが、やはり駐車場に関連するものでしょうね。「補水池記念碑」という石碑もありました。この場所に自然湧水の貯水池を設け、背後の小屋にある電動ポンプによって、この用水を国分西部地区水田30ヘクタールの灌漑用補水としたそうです。樋江用水とともにこのあたりが農村だった頃の用水減だったのでしょうか?「浦水水源地改修記念」と書かれた石碑です。上津バイパス工事に伴い水源地の改修工事として水平ボーリングを行ったそうです。おそらくこの道路工事の補償でしょうね。そしてこの石碑も道路の事業主体からの補償金で建立したのでしょうね。この井戸のようなものが水源地です。以上で池町川巡検を了します。【了】人気ブログランキング池町川巡検(その14) 高良川と補水池
2018年08月10日
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池町川源流を探す巡検、そろそろ水源地ではないかと思います。住宅地の中を抜けてきた水路、子供たちが水遊びをしているくらい、澄んだ水のようです。再び池町川源流は暗渠になっていました。そして、小さな公園のようになった水路がありました。ここには石碑が2柱とポンプ施設がありました。低い方の石碑には「樋江(ひごう)用水水源地」とありました。池町川源流と思っていましたが、実は樋江用水という用水路だったんですね。このあたりは高良川の扇状地の扇端部になり、湧水があるようで、その湧水が樋江用水の水源となっていることがこの石碑の背面に記されていました。もう一つの石碑には「防火灌漑用水記念碑」です。この背面の碑文には、防火用水、灌漑用水の不足のため高良川から表流水を引き防火用水と灌漑用水の確保したことが書かれていました。この石碑の少し上流にある橋のです。このあたりから水が流れていました。水が橋の下から落ちいてるようですが、さきほどのポンプで地下水をくみ上げてここで放流しているのでしょう。右側の水路の取り入れ口が池町川へつながる水路です。この橋の上流は、水路が行き止まりなっていました。多分、このあたりは高良川の扇状地の扇端部となっているため、地下水が豊富なのでしょう。その地下水が湧水がとなって池町川に流れて行くのですね。今回は下の地図の右下の周辺の紹介でした。【つづく】人気ブログランキング池町川巡検(その13) ここが水源地でした
2018年08月09日
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池町川源流を探す巡検を続けます。水路は曲線を描きながら住宅地と住宅地の間を流れています。そして、このドラッグストアの裏当たりに出てきました。水路はこんな雰囲気になっています。そして、このうどん屋さんの脇を流れています。なにかゴミが目立つような雰囲気になってきました。さらに上流に行くと、また住宅地の間を抜けています。ここで住宅地の中にある水田を見つけました。このような住宅地の中の水田ですが、ちゃんと耕作されていました。水路は幅が狭くなってきました。どうやら、このお宅の敷地の中に流れ込んでいます。でも、またこのお宅の中からこの水路がつながっています。国道3号線とJR線の交差している付近から国分町の中を通って行きました。下の地図でご確認下さい。【つづく】人気ブログランキング池町川巡検(その12) 水源を探して(Ⅳ)
2018年08月08日
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池町川巡検の途中ですが、ちょっと寄り道して西国分小学校の裏にある堂女木池に立ち寄ってみました。池町川源流と並行するようにJR久大線を横断する水路があります。この水路の先は、この橋が架かっていて、橋の手前にゴミ除けのスクリーンが据え付けられています。そして、堂女木池という池が広がっています。池の周りは公園となっていて、桜の季節には花見の名所だといわれています。この池のそばに立つ、記念碑です。第18師団記念碑と刻まれていました(→→→こちらです)。この第18師団は別名「菊師団」、旧日本陸軍で最強の師団と僭称していましたが、実際はどうなんでしょうね。国内最強でもワールドカップで10人の相手チームに1勝しただけで、あとは2敗1分で決勝トーナメントに出て、2点先制しても結局逆転負けしたのどっかの国のサッカーチームみたいなものだったかもしれませんね。でも、古代から防人、鎌倉時代には元寇、と国防に努めてきた九州男児が中心のこの師団。プライドだけはあったかもしれませんね。今回紹介したのは、国道3号線とJR久大線が交差する付近にある池、堂女木池です。下の地図でご確認下さい。(おまけ)8月5日は筑後川花火大会がありました。花火の写真も久しぶりに撮影したので、ちょっと載せてみます。三脚使わなかったせいでしょうか?ちょっとブレていますね。【つづく】人気ブログランキング池町川巡検(その11) 寄り道 堂女木池
2018年08月06日
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そして、この「諏訪野地区雨水地下貯留施設」に流れ込む川や水路があるはずですから、それを求めて国道3号線の方に向かって進んでいきます。この道路の下に水路が流れているのでしょう。この地点で直角に折れて南の方に向かっています。住宅と住宅の間なので大きく迂回して歩いていきます。水が流れていませんが、雨が降ったりすると流れるのではないでしょうか。住宅の間を流れる池町川源流はここに出てきます。完全に人の家の中を流れているみたいです。国道3号線に出ます。国道3号線に架かる歩道橋です。国道3号線を潜り、さらに南に向かってこの歩道の下を流れているようです。西国分小学校の敷地に沿って、JR久大線の方から流れてきているようです。ほとんど道路の側溝という感じですね。住宅と住宅の間を流れる池町川源流です。向こうに見えるのがJR久大線の盛り土です。板でできた蓋が架けられています。JR久大線の下を抜けると大きな池(草が生えていて池には思えませんが)です。この池で終わりかと思いましたが、さらに上流から水が流れ込んでいるようです。かなりの水量が流れそうな水路がさらに続いていました。今回は、国道3号線を超えて、JR線の横にある池のところまでを紹介しました。下の地図で確認して下さい。【つづく】人気ブログランキングへ池町川巡検(その10) 水源を探して(Ⅲ)3
2018年08月04日
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さらに池町川源流を遡ります。水路は住宅地の中を流れています。家の間を抜けたりして、また、道路をくぐって、さらに住宅街の中を流れて行きます。右側の建物は久留米市立諏訪野中学です。そして、再び暗渠になって、道路下を流れているようです。多分、この歩道下が池町川源流の水路になっているのでしょう。この池町川、左側の地盤が高い方を流れているみたいです。普通、河川は地番の低いところを通るので、この池町川、ここでは河川というより人工的な水路なのかもしれませんね。一部、水路が姿を現す場所がありました。道路沿いを真っ直ぐに行きました。この空き地にぶつかります。この空き地、ポンプ施設があるようですが、実は、「諏訪野地区雨水地下貯留施設」(→→→こちらです)になっているそうです。今回は西鉄路線の下から、福岡県道753号一丁田久留米停車場線付近まで紹介しました。下の地図で確認して下さい。【つづく】人気ブログランキング2
2018年08月03日
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筑後川から導水される池町川浄化用水があるとしても、これは人為的な水源ですから、やはり川本来の自然の水源を探しみることにします。起点の近くにあるこの合流点、ここを遡ってみます。向こうに見える大きなビルは、パチンコ屋さんです。ここは川ではなく、その上に蓋をかけて駐車場として利用していました。広又通りを渡ります。道路の片側がコンクリートで覆われています。おそらくこれが暗渠(→→→こちら)になった池町川の源流だと思います。この水路からこちらの水田に水を送っているようです。池町川、むかしは農業用水路だったのでしょうね。暗渠になった池町川源流は、西鉄天神大牟田線の高架下まで続いています。高架下を抜けると水路が見えてきました。今日は、西鉄線のところまで紹介しました。下の地図を参考にして下さい。【つづく】人気ブログランキング池町川巡検(その8) 水源を探して(Ⅰ)
2018年08月02日
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池町川の水源を探してみたいと思います。もう一度、池町川起点の様子を確認してみましょう。池町川の起点付近はこのような市街地です。どうしてここから川が始まるのかちょっと不思議です。こちらが池町川の起点。暗渠が二つに分かれていますね。アオサギゴイサギがいるこちら、地下から水が湧き出しているような。そんなに湧水がここにあったのでしょうか? MoMo太郎はますます謎が深まりました。ヒントはこちらの「導水前の水質」。つまり、池町川の水、どこからかキレイな水が導水されているようです。筑後川にかかる宮ノ陣橋の近くにあるこの施設。河川から取水するための樋管と呼ばれる施設です。「池町川浄化用水樋管」と書かれた銘板です。この樋管で筑後川の水を池町川に送っています。樋管の傍にあるこの建物。表に回ってみると、「池町川浄化揚水機場」と書いてありました。筑後川の水を引いてくることで、元々の水質の良くない池町川の水を薄めてキレイにしているのですね。実はこのようなことは、東京都の隅田川でも行われているようです(→→→こちらです)。【つづく】人気ブログランキング池町川巡検(その7) 池町川浄化用水
2018年07月31日
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池町川が金丸川になりましたが、巡検を続けます。巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では。Field Excursionsといいます)です。こちらが久留米市中央゜浄化センターの施設です。途中の橋から上流側に向かって撮影しました。大きな魚が悠然と泳いでいました。金丸川の左岸側に広がる農地。そして、ちょっとよくわからない建物。ポンプ場のようです。大きなアンテナのあるこの建物は、「独立行政法人水資源機構筑後川総合管理所」だそうです。信号機にも看板が付いているってことは、相当有名な施設ってことですかね。それとも観光名所だったりして。金丸川を古賀坂交差点から上流に向かって撮影です。川の横の白い建物は、古賀坂排水機場です。写真の右の水門が金丸川の排水門。そして手前の左側の水門が古賀坂排水機場からの排水門です。この水門を出た水は、筑後川に向かって流れて行きます。この施設は筑後大堰です。池町川巡検、起点から筑後川までが終わりましたが、まだ、池町川の源流を調べていませんね。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね池町川巡検(その6) 金丸川
2018年07月29日
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池町川の巡検を続けます。巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では。Field Excursionsといいます)です。もう一度分岐点に戻って、本流をたどることにします。赤い欄干の橋です。住宅街の裏をひっそりと流れる池町川。川沿いには、住宅が立ち並んでいますね。途中で池町川に流れ込む水路です。久留米の中心部を流れていた時とはやや趣が違ってきました。川族に土砂が貯まり、小さな中州ができていました。実はこのあたりでカワセミを見かけたのですが、撮影できませんでした。でも、カモは撮影できました。工場が立ち並ぶ横を流れて行く池町川です。久留米市中央浄化センター、下水処理場ですね。こんな建物でした。多分ここが事務所なのでしょうね。浄化センターの横を流れて行きます。ここで金丸川と合流しています。写真左手が池町川で右が金丸川です。池町川は金丸川となってさらに流れて行きます。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね池町川巡検(その5) 本流をたどる
2018年07月28日
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池町川の巡検を続けます。巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では。Field Excursionsといいます)です。池町川がJRの線路を抜けたところです。このさきで池町川は大きくまた左方向にカーブしますが。ふた手に分かれています。こちらの分かれている方はどこへ行くのか調べてみます。こちらは川の水位が一定以上になったときに流れるよな仕組みなっています。この道路の下をトンネルのようになって流れて行くようです。この下に水が流れるトンネルがあるとは思えませんが、とりあえず行ってみました。これが巡検の醍醐味かも?パチンコ屋さんです。由緒のありそうなお寺もありました。そして、これが久留米水天宮の境内の入り口です。そして、ここが筑後川です。水天宮の入り口の横に、この「排水ポンプ制御盤」がありました。ここにあるポンプで池町川の水をくみ上げて、このコンクリートの構造物が樋管なのでしょうか、この中を通って、池町川の水が筑後川に排水されるのでしょうね。こういう仕組みがあって久留米の町が池の町になるのを防いでいるのでしょうね。池の町になるのを防ぐ池町川ですね。こちらは筑後川の水位観測所です。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね池町川巡検(その4) 水天宮方面にも流れています
2018年07月27日
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池町川の巡検です。巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では、Field Excursionsといいます)です。池町川のほとりに大きなお寺がありました。「旧池町」と書かれた石柱があります。この石柱に池町川の由来が書かれていました。池町川は、江戸時代初めの頃は、苧扱川と呼ばれていました。池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことで、城下町の地名であった「池町」にちなんで池町川へ呼ばれるようになったそうです。やや川幅が狭くなったような気がします。この橋の欄干には、こんな看板が掛かっています。やっぱり、コイを放流しているのですね。橋柱には、コイの姿まで作られています。一見、木の欄干のようですが、実はコンクリートでした。ここで池町川、さらに左にカーブしています。九州新幹線の高架橋が見えてきました。ここでも、川に落差を作っていました。向こうに見えるのは、新幹線の高架橋です。もうすぐJR線の下を潜っていくようです。下が、JR在来線の橋、そして上が九州新幹線です。鉄道の下を抜けていきます。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね池町川巡検(その3) 池町川の名前の由来
2018年07月25日
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池町川の巡検を続けます。巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では、Field Excursionsといいます)です。ここで国道209号線と交差しています。大きなビルが見えていますね。このあたりは六ツ門町です。藻が茂っています。川は右にカーブしています。ここで明治通り(→→→こちらです)と交差しています。久留米市の中心市街を東西に走る大動脈の明治通り、道幅は広いです。明治通りの手前で川に段差がついています。流れを緩くするための工夫でしょうね。石積みの護岸で景観に配慮されているようです。このあたりは久留米いや筑後地方を代表する夜の繁華街、文化街の近くを流れます。夜の文化街で、偶然、大牟田から飲みに来ている同業者と隣り合わせて飲んだことがありました。その先生、タクシーで久留米から大牟田まで帰って行きました。タクシー代いくらなんだろう?左岸側(川は上流から見て左手にある方を左岸といいます)は、三本松公園です。1970年までこの三没松公園に久留米市動物園があったそうです(→→→こちらです)。池町川がここで左にカーブしています。川に降りて水に親しめる空間がありました。川は三本松通りを潜っていきます。三本松通りには中央分離帯に、銅像が展示されています。三本松通りを超えると住宅街という雰囲気の街並みになりました。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね池町川巡検(その2) 文化街の横を流れています
2018年07月24日
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久留米の市街地を流れる池町川を巡検してみました。巡検とは、実地調査、現地調査を意味する地理学、地質学の用語(英語では、Field Excursionsといいます)です。池町川の起点は、西鉄久留米駅近く、この市街地からです。河川の名前を示す看板です。この起点付近は、ちょっとした公園風に作られています。この地点が、一級河川池町川の起点となっているようです。水源はこんな感じです。もう少し近づいてみると、地下から水が湧き出しているようなところと、この起点から上流からの水が来ているようでした。かなりの水量がこの川を流れているようです。川の両岸は散策を楽しめるように、ベンチやら日よけのパラソルが置かれていました。池町川に合流する水路もありました。合流する水路も結構大きな川みたいな感じですね。また、川底に降りれるような階段も設けられています。階段を降りるとせせらぎの音が聞こえます。町の中を流れる川にしては意外と水がキレイでした。川に架かる橋の欄干には、魚の飾りがあります。こんな看板があるということは、お魚の住む川なんですね。でも落書きもされていました。本当に美的センスがない人もいるものです。せめてここで獲った魚の魚拓でも落書きすればいいのに。がんばって、この池町川でお魚も生活しているそうです。魚のレリーフがまたありました。レリーフだけでは本物の魚も棲んでいます。観賞用の鯉を放流しているのですね。ちなみに鯉は外来生物だそうです。疲れたら休憩できるホテルもありました。さらに下流に向かって巡検を続けます。【つづく】 人気blogランキングに参加しています。よろしかったらクリックしてね池町川巡検(その1) がんばってます!池町川の魚たち
2018年07月23日
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福岡市営地下鉄に乗って終点の「姪浜」までやってきました。こちらは駅の南口です。南口にはこんなモニュメントがありました。このモニュメントは龍王うさぎ伝説に基づくもだそうです。その昔、西区姪浜にある興徳寺を開いた「大応国師」が学問を修めた宋の国から帰国の途中、山中にて狼に追われたウサギを助けたそうです。その後玄界灘をわたる船が暴風雨に遭い、難破しようとしたときにウサギが身を躍らせて海中に飛び込むと、荒波が鎮まり無事に姪浜の港に着いた。空を見るとウサギが金色に輝き竜王に姿を変え天に消えていったという伝説によるものです。 因幡の白ウサギといい、このウサギといい、結構、ウサギって義理堅い性格だったんですね。こちらが駅の北口。特にモニュメントはありませんでした。姪浜駅は福岡市営地下鉄空港線とJR九州の筑肥線の2路線のそれぞれの起点駅となっています。ここから先は唐津に向かって筑肥線が伸びています。もっと古いことをいえば、1983年(昭和58年)3月22日 に 筑肥線姪浜-唐津間の電化が完成し博多 - 姪浜間は廃止となり、同時に福岡市地下鉄空港線が開業し国鉄(当時)筑肥線との相互直通運転開始されたそうです。ちなみに、廃線となった筑肥線博多-姪浜間は今の地下鉄の路線より南側、市営地下鉄七隈線の路線の近くを通り、今の西鉄天神大牟田線の平尾駅と交差しては博多駅につながっていました。筑肥線について付け足すなら。博多 - 姪浜間は廃止と同時に筑肥線は虹の松原からいったん山側に入って山本という所を迂回して唐津につながっていたのですが、これょ廃止して、虹の松原から直接、唐津につながるようになりました。【つづく】人気ブログランキング福岡さるき(その1) 姪浜「さるく」とは筑後弁で「うろつく。周辺を散策する。」ことを意味します。(→→→こちらです)
2018年07月14日
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テレビを持っていないので、一体どれだけの災害が起こっているのかわかりませんが、ラジオなどの情報では、大変みたいですね。久留米のMoMo太郎がいるところは、浸水とか山崩れとかもなく平穏でした。本当にラッキーという感じです。さて、久留米の夜の歓楽街、文化街。この街に最近、大衆演劇の劇場「楽笑演劇殿」がオープンしました。なんか楽しそうなので、一度観劇してみたいですね。【つづく】人気ブログランキング久留米の町さるき(その14) 楽笑演劇殿
2018年07月08日
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昨日、一昨日の雨、一年前の九州北部豪雨以上の大雨だったかも、被害を受けられた方には心よりお見舞い申し上げます。久留米市津福にある金丸川と湯ノ尻川の合流地点には二本の橋が架かっています。湯ノ尻川に架かる橋は女橋金丸川に架かる橋を男橋といいます。川の両側から男女が来て落ち合うようなロマンチックな、七夕にふさわしい、橋の名前の付け方だと思われる方も多いかもしれませんが。実はとっても悲しい橋だそうです。このあたりは昔は久留米藩の処刑場で、男橋女橋とあるのは刑に処される男はここまで、女はここまでと決められていた。橋のたもとで家族と引き離され、そして刑場に向かい刑に処される。そこは一本の川が二本に分かれる場所で川が分かれる三角形の頂点近くの所は草がぼうぼうと生えたままの荒れ地のようになっていました。【つづく】人気ブログランキング久留米の町さるき(その13) 男橋と女橋
2018年07月07日
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気がつけば、アクセスカウンターの数字が2百万回を超えていました。さて、久留米出身の女優、吉田羊さんのどうでもいい情報です。信愛女学院への通学用自転車をこの自転車店で購入したそうです。その自転車さんの近くのこの店で、子供の頃、よく買い物されていたそうです。実は、この酒屋さんの裏に「めぐみのその幼稚園」が併設された久留米キリスト教会(→→→こちらです)というのがあり、どうやら吉田羊さんそこにいたようですね(情報源→→→こちらです)。以上、地元の噂に基づくどうでもいい情報でした。【つづく】人気ブログランキング久留米の町さるき(その12) 吉田羊情報
2018年07月06日
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福岡県三井郡大刀洗町の「大刀」という字には「刀剣」という意味で使われる「太刀」というように「´」がつきません。この大刀洗町山隈にある公園の名前も大刀洗公園です。 この大刀洗公園にあった武将「菊池武光」(→→→こちらです)の銅像です。そもそも、大刀洗という町名の由来は、傷ついた菊池武光が己の太刀についた血糊を小川で洗った事から「太刀洗」の故事が生まれたことに始まるそうです。どうして、菊池武光は血糊ついた太刀を小川で洗ったのでしょうか?南北朝時代にさかのぼります。1359年、現在の久留米市から小郡市にかけて、「大保原(大原)の合戦」(筑後川の戦い)(→→→こちらです)という激しい戦いがありました。 菊池武光は、南朝方の武将として懐良親王とともに、少弐頼尚が率いる北朝軍と、大宰府、九州の覇権を争って戦いを繰り広げました。菊池軍4万、少弐軍は6万の両軍合わせて約10万の大軍が戦い、北朝方では副将の少弐直資(当主頼尚の嫡男)が討死、一族23名、その他名のある郎党400余り、3000名を超える者が討たれた結果、全軍が大宰府にまで退却したのである。一方の南朝方も、主将の懐良親王が3箇所も深手を負い、主力の菊池勢も1800もの死者を数え、敵の退却を追うだけの余力もなくこちらも現在の大刀洗町山隈のあたり(この公園のあるあたり)で進撃をやめました。 そこで、菊池武光は小川で血のついた刀を洗い、川はたちまち朱に染まったといいます。そこから「太刀洗(大刀洗)」という地名が生まれたそうです。 しかし、どうして太刀洗町ではなく大刀洗町にしたのでしょうか。単純な「´」を付け忘れるミスだったのか、それとも太刀なんていう物騒な言葉を避けたかったのか。よくわかりません。こちらが菊池武光が太刀を洗ったとされる「大刀洗川」です。大刀洗公園に建立されている石碑です。この大刀洗町には、旧日本陸軍の大刀洗飛行場(→→→こちらです)があったことから、戦争に関わりの深い「忠魂碑」がありました。こちらの忠魂碑は自然石を生かした表面ですね。そして「秩父宮来訪記念碑」というのもありました。秩父宮殿下が大刀洗飛行場を訪問されたのでしょうね。こちらは久留米市宮ノ陣(「大保原(大原)の合戦」(筑後川の戦い)際に懐良親王が陣をおいたところから名付けられた地名です)にある五万騎塚です。「大保原(大原)の合戦」では、5000以上の遺体がその場に放置されたそうで、しかも季節は夏であったことから、腐敗した遺体の悪臭が高良山まで届いたという。やむなく高良山の僧が敵味方の区別なく遺体を集めて一箇所に埋めて供養した。これが五万騎塚の始まりであるそうです。この塚は、九州自動車道の建設にあたって、昭和47年(1972)に現在地へと移されたそうです。人気ブログランキング「´」がつかない大刀洗町
2018年07月04日
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長崎県と熊本県の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録さることになりました(→→→こちらです)。ということで、福岡県三井郡大刀洗町(太刀ではないことに注目)にある今村カトリック教会(今村天主堂)というのも、潜伏キリシタン関連施設なのです。このお洒落な教会の建物は、今村天主堂として2015年(平成27年)7月に国の重要文化財に指定されています。この建物は、長崎を中心に多くの教会堂建設を手掛けた、長崎県五島出身の大工の棟梁、鉄川与助の設計・施工により大正2年に完成したものです。 ちなみに、鉄川与助の手がけた青砂ヶ浦天主堂(新上五島町・明治43年築)、田平天主堂(平戸市・大正7年築)、江上天主堂(五島市・大正7年)、頭ヶ島天主堂(新上五島町・大正8年)が、すでに国の重要文化財に指定されいます。見学は無料でできますが、中の撮影は禁止されているので、この説明板の写真で想像して下さい。ステンドグラスはフランス製、柱は福岡県久留米市にある高良山の杉、瓦も同県久留米市城島町の「荒巻」という工場で製作したもの、レンガは隣りの佐賀県神崎市(旧千代田町)迎島の五工場に特注したもの、石材は主に福岡県浮羽市山北産、内部に掲げられてあるキリスト受難の14枚の聖絵はフランス製ということだそうです。教会の横にあった司祭館という建物です。こちらは現代風の建築でした。この胸像は第4代主任司祭本田保 神父で、1896年(明治29年)9月に着任し、建物の設計を鉄川与助氏に依頼し、1912年(明治45年)の着工から、軟弱な地盤を克服する苦心の工事であったが、信徒の労働奉仕も受け、1913年(大正2年)12月8日に完成させたそうです。この大刀洗町今地区(以下、今村と呼ぶ集落)は、江戸時代に隠れキリシタンとして信仰を守った人々が多く暮したという歴史を持つそうで、起源はわかりませんが、キリスト教信仰は戦国時代にさかのぼると思われます。徳川幕府による禁教令以後も、今村の信徒たちは浦上の信徒たちと交流を持ちながら隠れキリシタンとして信仰を続けていたようです。幕末、隠れキリシタンの発見とカトリック教会の正統な信仰への復帰に努めていた長崎・大浦天主堂のベルナール・プティジャン神父は、1867年(慶応3年)に、信徒たちと共に、今村のキリシタンたちを「発見」したそうです。隠れキリシタンが多かった九州でも、平野部でのキリシタン発見は極めて稀なことであったようです。そして、1873年(明治6年)のキリシタン禁令解禁ままで、今村の信徒と大浦天主堂は密かな連絡を保ち、信仰を守ったそうです。そして、1879年(明治12年)10月、大浦からジャン・マリー・コール神父が今村の信徒の司牧に着任し、この教会が設立されたようです。教会の敷地の隅にあった石積み。この穴の中のは、マリア像がありました。ここで隠れキリシタンの信仰行事をやっていのでしょうかね。人気ブログランキング世界文化遺産登録決定、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
2018年07月03日
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7月7日といえば、七夕ですね。福岡県小郡市には「七夕神社」があります。この看板の下には、ちゃんと織姫(織女)と彦星(牽牛)の銅像がありました。ここで改めて、七夕の伝説を説明すると、「天の川の西岸に織姫という姫君が住んでいました。織姫は機織りの名手で、美しい布を織り上げては父親である天帝を大変喜ばせておりました。そんな娘の結婚相手を探していた天帝は、東岸に住む働き者の牛使い彦星を引き合わせ、二人はめでたく夫婦になりました。ところが、結婚してからというもの、二人は仕事もせずに仲睦まじくするばかり。これに怒った天帝が、天の川を隔てて二人を離れ離れにしてしまいました。 しかし、悲しみに明け暮れる二人を不憫に思った天帝は、七夕の夜に限って二人が再会することを許しました。こうして二人は、天帝の命を受けたカササギの翼にのって天の川を渡り、年に一度の逢瀬をするようになったのです。」ということで、一応、カササギも登場です。この小さな鳥に乗れるって、織姫も彦星も小さな宇宙人だったんですね。ちなみに、MoMo太郎の高校では、女子とデートすることに忙しく、部活を休んだり、勉強をしない男子生徒のことを七夕野郎と呼んでいました。さて、七夕神社の前には、七夕神社の石柱と説明板がありました。この説明板によると、七夕神社の正式名称は「媛社(ひめこそ)神社」。祭神は、媛社神(ひめこそのかみ)と織姫神(おりひめのかみ)。織姫神は、機織りが上手な神様ということで、機織りをする女性からの信仰が篤かったようです。そして、7世紀に中国から伝わった「牽牛・織姫」の故事と、日本の「棚織女(たなはたつめ)」信仰がひとつになって誕生したのが七夕神社となったようです。鳥居の前には、織姫と彦星の石像が並んでいます。鳥居は二つありました。ダブル鳥居ですね。最初の鳥居の扁額は「媛社神社」となっていますが、二つ目の鳥居には、「磐船(いわふね)神社」「棚機(たなばた)神社」と記された扁額がありました。色々な名前を持つ神社なのですね。こちらが拝殿です。拝殿の横には、こんなものがありました。「恋人の聖地」だそうです。まあ、カップルでお参りするといいことがあるのでしょうね。認定しているのはウエディングドレスのデザイナーの桂由美さん(→→→こちらです)。ここにお参りにきて、結婚まで行ければ、結婚式関連の商売されている皆さんも潤いますね。七夕といえば天の川、愛し合う二人を隔てる川がないと、それに相当するのが七夕神社の東を流れるこの宝満川、筑後川の支流です。この宝満川には、この稲吉堰という古い歴史を持つ取水堰があります。それについては「筑後川を行く」シリーズで改めてご紹介したいと思います。宝満川の西側にあってる牽牛を奉るのが、この老松宮(牽牛社)です。もともと牽牛社は別のところにあったのですが、水害と周辺の圃場整備のため大正12年に稲吉地区にある老松宮に移され、合祀されたということです。こちらが拝殿です。拝殿には、むかしは極彩色で多少色が落ちいてる奉納額がありました。こういう大きな奉納額があるということは、この老松宮もなかなかの神社だったのかもしれませんね。人気ブログランキング七夕神社
2018年07月02日
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久留米の町でみかけた気になるお店です。これは六ツ門にあるうどん屋さんの看板。店名が「蛙屋」というので、「ひっくり返る」と掛けているみたいです。こちらは、歴史を感じさせる食堂で、なんか期待できそうな感じも余りしませんが、夜の10時頃から店が混み始めて翌朝3時まで営業しているという、久留米の深夜食堂です(→→→くわしくはこちらです)。【つづく】人気ブログランキング久留米の町さるき(その11) 気になるお店
2018年06月02日
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