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去る1月7日の夜、日本三大火祭りのひとつである大善寺の「鬼夜(おによ)」を見物に行ってきました。鬼夜とは、毎年1月7日の夜に大善寺玉垂宮で行われる鬼払い、つまり災難除けの祭事のことです(→→→くわしくはこちらです)こんな「のぼり」も飾られて雰囲気、盛り上げていますね。でも日本三大火祭りってあと何があるんでしょうか???「傘橋(からかさばし)」と呼ばれる、この赤い橋を渡って「鬼夜」が開催される大善寺玉垂宮(→→→こちらです)に向かいます。傘(からかさ)と呼ばれるのは、このように橋の真ん中にひとつだけ橋脚が建てられており、見た目が傘のようだからだそうです。川に入る階段のところに注連縄が置かれているのは、鬼夜の祭りが始まる時に「汐井かき」といって、この川からお清めの水を汲む神聖な場所であり、また奉りに参加する氏子若衆が禊をする場所という神聖なエリアという意味だそうです。こちらが玉垂宮の鳥居です。ややピンのボケた写真になってしまいました。鬼夜の神事が始まるのは、午後7時半なので、MoMo太郎が行った午後5時ごろでは、まだ参拝や見学の方はまばらでしたが、露店は営業開始していました。まずは、玉垂宮に参拝します。これもピンが甘い。玉垂宮の裏にある駐車場にも、もう車が一杯でした。こちらは、奉りに参加する氏子若衆のみなさんが松明の火をとったり暖まったりするためのたき火用の稲わらです。報道関係、それから写真愛好家のみなさんも脚立や三脚をスタンバイ完了ですね。こちらが鬼夜で燃やされる「大松明」です。全部で6本あります。全長13メートル、直径1メートル、重さは約1.2トンの大松明。後ろに結びつけられている太い縄は、尻引綱と呼ばれ松明を移動させる際に氏子が手にして引っ張るのに用いられます。大松明の芯は3本の孟宗竹で、その回りを真竹で包み縄で頑丈に巻かれています。松明上部は点火のために杉の枯葉を入れてあります。ちなみにこの大松明、下請け業者に作らせるのではなく、氏子のみなさんが自ら組み立てているそうです。また立てかけられている細い棒は、カリマタと呼ばれる3メートルほどの二叉の樫の棒で、この大松明を移動させる時に使います。正面の建物が鬼堂と呼ばれる建物で、この中に鬼が奉られているそうです。鬼堂の前には舞台が置かれ、この舞台の上で「鉾面神事」と呼ばれる、赤と青の天狗面をつけた演者が相対しつつ魔を祓う儀式が大松明に火が灯された時に行われます。こちらの桟敷は有料で2,000円を神社に払えば、ここに座って鬼夜の祭りが観覧てきます。陽も沈み始める頃に人も集まってきました。鐘楼にはスクリーンが張られ、鬼堂前の舞台の上に設置されたプロジェクターから、祭りが始まるまで、鬼夜について解説された記録映画が上映されています。神社なのに、なぜ鐘楼があるのかというと、明治2年(1869)に廃仏毀釈令がだされるまで、この玉垂宮には大善寺というお寺が神宮寺として併設されていたためです。【つづく】人気ブログランキング鬼夜(その1)
2018年01月10日
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来年のNHK大河ドラマ「西郷どん」に因み、西南戦争の激戦地「田原坂」を紹介しています。田原坂を登り切ったところにあるクスノキの大木です。この大木は田原坂の戦いも見ていたのでしょうね。このあたりは田原坂公園として整備されています。このクスノキの下にある「美少年兵士の像」です。美少年というよりも凛々しい若者という感じですね。どうして美少年兵士かというと、西南戦争を歌った民謡・俗謡の、「田原坂(豪傑節)」があるためです。こんな感じの歌みたいです。田原坂公園の中にある「田原坂崇烈碑」です。碑文には、当時の社会情勢や田原坂の戦いの推移などが刻まれています。こちらは田原坂と吉次峠の地形の模型で闘いの様子を理解しやすいようにしたものです。これは「西南役戦没者慰霊之碑」。背後にある石の壁には、戦没者の名前が刻まれています。官軍側の名前はもちろん反乱軍の薩摩側の戦没者の名前も記されています。こちらは熊本市の田原坂西南戦争資料館です。入場料は大人300円でした。展示物もなかなか充実しているので、見学して損はないと思います。入り口には顔ハメもありました。こちらも資料館の付属施設のようですが、無料で見学できました。この建物は元は田原坂の頂上付近にあったようですが、こちらに移された建物で、田原坂の戦の時に打ち込まれた弾痕の跡が今も残されています。これは「西南役・田原坂百周年記念碑」です。西南戦争に興味がある方にはおすすめのスポットであることは間違いありませんね。【了】人気ブログランキング
2017年12月16日
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来年のNHK大河ドラマは「西郷どん」(せごどん)、主人公は西郷隆盛。ということで西郷隆盛が起こした日本史上、最後の内戦「西南戦争」の激戦地、田原坂(たばるざか)を紹介します。西南戦争とは、1877年に鹿児島士族が起した,西郷隆盛を首領とする大規模な反乱のことです(→→→くわしくはこちらです)。また、田原坂の戦いは、官軍の守る熊本城を包囲した薩摩軍が、北から熊本への救援に向かう官軍を阻止するために、当時、熊本へ唯一の補給陸路が通じる要地田原坂を巡っての薩摩軍と官軍の銭湯です。北から南の熊本に向かう田原坂は一の坂、二の坂、三の坂とあり、麓のこの豊岡眼鏡橋との標高差は80mとなるそうです。豊岡眼鏡橋は享和2年(1802)に架橋された石造眼鏡橋で、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では熊本県最古のものだそうです。ここが最初の「一の坂」です。「一の坂」と書かれた鉄板(錆びて黒くなっています)とノボリが建てられています。一の坂付近にある田原坂の説明板です。熊本城を築城した加藤清正が、熊本防衛のため平地や谷の通行しやすいところではなく、このような勾配のある丘陵地の稜線に街道を作ったそうです。坂道の勾配は緩やかですが、このようにカーブしており、坂を登って攻めていく方としては、行く手に何が待っている加わかりません。また、防衛する方としては、左右の土手から銃撃ができるという利点もありますね。こちらが「二の坂」となります。二の坂の看板も錆びています。二の坂を過ぎても道はカーブし、そして、片側は竹林となっていますが、斜面となっています。二の坂から三の坂へ向かう途中に建立されていた「西南の役戦没者慰霊碑」です。こちらは「谷村計介の碑」です。この人は熊本城に籠城する官軍の兵士で、南下してくる官軍の増援隊への連絡役として派遣され、敵軍の中を抜け、味方へ熊本城の状況を伝え、その役割を見事に果たし、その後田原坂の戦闘で戦死したという人物です。ちなみに、谷村計介は薩摩軍の勢力の強い宮崎県の出身で同郷の者がほとんど薩摩軍に参加する中、官軍についたということです。ようやく、田原坂の頂上付近が見えてきました。ここから遥か彼方に雲仙岳も臨めます。田原坂から西側の谷をみたところで、向こう側の台地が、田原坂の激戦だった吉次峠に通じる二股台地です。激戦の末、この台地を占領した官軍は、ここから田原坂に陣取る薩摩軍を砲撃したそうです。そして、この付近が「三の坂」です。この付近の右手の斜面はミカン畑になっいました。ミカンが実っていました、美味しそうでした。三の坂を示すノボリがありました。斜面は整然とミカン畑として利用されていました。【つづく】人気ブログランキング田原坂(その1)
2017年12月15日
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北野天満神社の拝殿です。天神様(菅原道真公)はウソをいわぬ誠の神様をお奉りされる天満神社らしく、拝殿の両脇には、ウソ(鷽)鳥がありました。銀色のウソ鳥と金色のウソ鳥でした。きたの総合文化祭が開かれている「北野町生涯学習センター」です。人間、生涯かけて学習しろということですね。目的は、このお芝居「とこしま堰物語」の観劇です。吉本新喜劇でも劇団四季でもありませんよ。北野町にある金島小学校の生徒さんが演じられるのです。このお芝居、表彰式には、秋篠宮殿下もご臨席されるという格式の高い、2017年度の「日本水大賞」(→→→くわしくはこちらです)の大賞を受賞したという立派なものです。江戸時代、水不足に苦しむこのあたり農民を助けるため、庄屋さまと藩の武士が、暴れ川と呼ばれ、洪水をよく引き起こす筑後川から、かんがい用水を取り入れるための堰を作るというストーリーです。ここは、日照りで水不足に苦しむ農民たちが庄屋さまに問題の解決を嘆願しているところです。役を演じているのは、金島小学校6年生のみなさんです。こちらは、5年生で、お芝居で流れる歌を歌ったりバックグランドミュージックを演奏する楽団です。最後は、全員が舞台に上がってのご挨拶でした。1時間30分を超える長いお芝居での熱演、なかなか見事な出来映えでした。まあ、滑舌の悪いセリフの子供もいましたが、MoMo太郎なんか絶対、覚えきれない長いセリフを間違わずに演技されるところなど、金島小学校の生徒さんたち、みなさん優秀です。ちなみに、舞台の下手で背中を見せているのが伴奏のピアノの弾き手です。最初は音楽の先生が弾いているのかなと思っていて、先生のくせに下手な演奏と思いましたが、よく見ると生徒さんが弾いていたのですね。MoMo太郎も、来年は是非、ピアノの伴奏くらいでいいので出演したいです。【了】人気ブログランキング久留米市北野町に来たの(その2)
2017年11月20日
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11月18日、久留米駅から西鉄の甘木行各駅停車に乗って、そして、西鉄甘木線の北野駅で降りました。この駅の構内踏切、こんな光景を見ると、北野駅、今度駅間歩きで訪れてみたい駅です。駅前にあった高校の看板です。単純な市立ではなく、「久留米市外三市町高等学校組合立」っていうのがあったんですね。この「きたの総合文化祭」を見るために北野町まで来たの(キタノ)です。でも、開演まで時間があったので北野の町を散策してみました。道端にこんな石像がありました。なんとなく期待できる町です。道沿いにはコスモスなんか植えられていました。そして、ちょっとシブイ日本風の建物を発見。どうやら造り酒屋のようでした。大きな神社を発見。北野天満神社だそうです。京都にもこんな名前の神社があったような。とりあえず参拝します。由緒を読むとなかなか立派な神社のようです。(→→→くわしくはこちらです。)【つづく】人気ブログランキング久留米市北野町に来たの(その1)
2017年11月19日
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熊本県玉名市にある「玉名天望館」に行ってみました。天望館といってもこんな塔みたいなものです。天望館についての解説です(→→→くわしくはこちらです)天望館の上から見ると、遠く島原半島にある雲仙岳が見えました。ズームしてみました。眼下には有明海に注ぐ菊池川の河口と玉名市の市街地が見えました。人気ブログランキング玉名天望館
2017年11月17日
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久留米の中心、東町の東町公園にあるそろばん踊りの銅像です。2017年8月6日 のMoMo太郎のブログ(→→→こちらです)でも紹介したとおり、毎年8月4日には、水の祭典 そろばん総宿りが開催されます。そろばん踊りはこんな踊りです。(歌詞です)わたしゃ 久留米の機織り娘ヨ化粧ほんのり 花ならつぼみよ「あたしゃ さいの 久留米のひばたおりでございますもんのあたしがっさい ひばたがおりよりますとさいの村の若い衆が来て 遊ばんの 遊ばんの と言いますもんの一緒に遊ぶたぁ よござすばってんひばたがいっちょん おれまっせんもんの」惚れた惚れたがに まだ気がつかんかねわたしゃ 評判機織り娘よ通う心も 一つに結ぶヨ「あたしゃ さいの 久留米のひばたおりでございますもんのあたしがっさい ひばたがおりよりますとさいの村の若い衆が来て 彼氏はおるか彼氏はおるかと聞きますもんの彼氏はおるこたおりますばってん名前は人には言えまっせんもんの」心許したお方は一人だヨわたしゃ 年頃の機織り娘よ赤いタスキにあねさん被りヨ「あたしゃ さいの 久留米のひばた織りでございますもんのあたしがっさい ひばたが織りよりますとさいの村の若い衆が来て 嫁にほしか嫁にほしかと言いますもんの嫁に行くた よござすばってんまぁだ まぁだ つぼみでおりたかですもんの」その場限りの 浮気は ごめんだよ人気ブログランキング
2017年11月15日
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最後に訪れたのが、この「筑紫の誉」です。ここは蔵の中も案内してくれました。このイベント、城島を愛するという女性の方がボランティアのガイド役としてついて回ってくれましたが、いやこの蔵と同じで古いものほど味わいがあるものですね。これは、蔵においてあった4斗樽、でも随分上げ底ですね。こちらではサービスで、この酒蔵で作っている奈良漬も出されていました。この奈良漬、結構、道の駅や町内の温泉施設でも人気商品ですといってましたが、・・・。まあ、呑み助の男性中心のイベントかと思っていましたが、結構女性のグループの参加もありましたよ。普段は飲まない日本酒をいただき、改めて、日本酒もいいものだと感じました。【了】人気ブログランキング 城島郷酒街道をゆく(その3)
2017年11月14日
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酒造りで有名な町らしく、橋の欄干にもこんな装飾をされています。お酒をつくる杜氏さんですね。続いて訪れたのは、この橋の近くにある「比翼鶴」さんです。この蔵は地元の小学校に酒粕を贈っているようで、その酒粕を使った粕汁が美味しかったという、小学生からの感謝のお手紙が展示されていました。小学生の頃から酒粕を通じて日本酒に親しんでもらって、将来の日本酒好きを増やすという深謀遠慮、見事ですね。こちらは、ちょっと休憩で食事に訪れたうどん屋さんです。九州でうどんといえば、やっぱりこの「ごぼう天うどん」ですね。美味しかったのですが、結構、わかりにくところにあったので、また食べに行けるかどうか不安です。【つづく】人気ブログランキング城島郷酒街道をゆく(その2)
2017年11月13日
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11月11日、ポッキー・ブリッツの日に、ここ大善寺駅前に行き、このイベントに参加しました。久留米市城島町には多くの酒蔵があり、その酒蔵を巡るというイベントです。日本酒を飲むイベントなので、自動車は運転できませんから、駅からは無料のこのシャトルバスで移動します。最初に訪れたのはこの酒蔵「瑞穂錦」です。最初に300円払い(子供料金は設定されていませんでした、まあ、当たり前ですね)。お猪口と水をもらいました。一ヵ所の蔵でこのお猪口3杯まで飲めて、一杯飲むたびに、このカードにチェックされるということで、3か所の酒蔵が参加しているので、9杯飲めるというわけです。こんな感じで、それぞれの蔵の自慢のお酒を飲むというわけです。こちらは、飾られていた博多山笠の飾りです。【つづく】人気ブログランキング城島郷酒街道をゆく(その1)
2017年11月12日
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これは、なにか工場なのでしょうか。バイオマスセンター(→→→こちらです)だそうです。生ごみやし尿を集めてエネルギーにしているという、環境問題に取り組んでいるのですね。そのバイオマスセンターに隣接した「道の駅 おおき」です。ここでレールあんどハイクの参加者は、キノコのもきどり体験ができます。もぎとりを体験している参加者のみなさん。もぎとったキノコはお土産に持ち帰りができます。レールあんどハイクの参加者の歓迎でしょうか? タヒチアンダンスが披露されていました。クリークの中にそびえる送電線の鉄塔。このクリーク沿いにもケイトウの花が植えられています。そして、目的地はMoMo太郎が先週も訪れた大木町の温泉施設「アクアス」。このアクアスの無料入浴券ももらえました。ここがゴール地点です。ゴールでもらえた、乳飲料と粉末青汁とタウン誌。そしてレールあんどハイクのポイントカード。ポイントを貯めると記念品がもらえるそうです。この後、温泉で汗を流して、西鉄に乗って帰りました。駅で電車を待っている間に見かけた、大木町を「おお貴族」の駄洒落で宣伝している西鉄のラッピング列車です。大木町の特産品のキノコが宣伝されていました。町単独でこういうイベントを企画しても人集めに苦労すると思われますが、大資本の西鉄と一緒にやることで、久留米はもとより、福岡や大牟田からも人が来て、大木町の美しい風景と特産のキノコ、そして温泉も宣伝できたのは。大木町の「わが村を美しく―わが村には未来がある」作戦、なかなか上手なものですね。【了】人気ブログランキングわが村は美しく、わが村には未来がある(その3)
2017年11月10日
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クリーク(水路)沿い植えられた「ケイトウ」の花。これは地元の人たちのグループが、放っておくと雑草が伸び放題となるクリークを美しく維持管理するために植えられたそうです。クリーク沿いの道を歩いて行く参加者のみなさん、随分多いです。ドイツでは「わが村を美しく―わが村には未来がある」(Unser Dorf soll schöner werden - Unser Dorf hat Zukunft)というコンテストがあるそうです。つまり、農村を美しくすることで、その自然を楽しみ、多くの人が訪れ、また新鮮な農産物を消費してもらうことで、農村が活性化していくことを目指す活動しているそうです。美しいケイトウの花が咲く大木町を多くの人が訪れるのも、農村が美しいからなのでしょうかね。こちらでは、クリークの整備工事を行っているのでしょうか?こんな小さなクリークにもケイトウが植えられ、またハスの花が植えられているようです。とはいえ、この時期になるとハスの花も枯れていますね。夏はきれいだったでしょう。ということで、夏にまた大木町を訪れる人もいるかもしれませんね。大木町のような農村にも、ありますね。「イオン」。神社の森とクリーク、そしてケイトウの花、反対側の防護柵は白いガードレールではなく茶色い柵となっています。このあたりも景観を考えているのでしょうか?【つづく】人気ブログランキングわが村は美しく、わが村には未来がある(その2)
2017年11月09日
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11月4日に福岡県三潴(みずま)郡大木町で西鉄主催の「レールあんどハイク」があり参加てときました。大木町には堀と呼ばれるクリーク(水路)が多くあり、それを巡るというウォーキングイベントです。もう、スタート地点の八丁牟田駅には、かなりの人が集まっていました。西鉄主催のイベントということで、久留米から西鉄に乗ったのですが、車内は足腰を鍛えて長生きしようという中高年の男女のみなさんで満員でした。そして、車内はあの中高年の特有の芳しい「加齢臭」が充満しておりました。いよいよスタートです。出発する時にはミネラルウォーターのペットボトル(無料)が渡されます。これは駅前にあった佐賀競馬場行のバスの時刻表。朝の9時30分出発とは、競馬場に行くのも早起きしないといけないのですね。堀(クリーク)では魚釣りしている人も、これは水田の脇にあった祠です。目的はこのクリークの土手に植えられた「ケイトウ」の花を見ながら散策するというものです。【つづく】人気ブログランキングわが村は美しく、わが村には未来がある(その1)
2017年11月08日
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田川市石炭・歴史博物館にあるこの石碑。この田川市が炭坑節発祥の地だったとは、炭坑節といえば、♪月が出た出た、月が出たヨイヨイ 三池炭鉱の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さま煙たかろ サノヨイヨイという歌詞ですから、三池炭鉱がある大牟田が発祥の地と思われますが、この田川市伊田炭鉱が発祥の地。田川のオリジナル炭坑節は、下の写真にあるように、♪月が出た出た、月が出たヨイヨイ 三井炭鉱の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さま煙たかろ サノヨイヨイまた、高い煙突、田川市石炭・歴史博物館にあるこの煙突です。本当に高いでしょ。敷地内には「これが、正調の炭坑節の歌詞」という石碑もありました。ということで、歌の初めからこの香春岳が歌いこまれています。ということで、福岡県田川郡川崎町出身の芸者歌手として紫綬褒章をいただいた赤坂小梅先生の歌う、正調炭坑節を聴いて下さい。なお、こちらが田川市で正式とされている炭坑節の歌詞です。♪香春岳から 見下ろせば 伊田の竪坑が 真正面 12時下がりの サマちゃんが ケージにもたれて 思案顔 サノヨイヨイ ひとやま ふたやま みやま越え 奥に咲いたる 八重つばき* なんぼ色よく 咲いたとて サマちゃんが 通わにゃ 仇(あだ)の花 サノヨイヨイ 月が出た出た 月が出た 三井炭坑の 上に出た あんまり煙突が 高いので さぞやお月さん 煙たかろ サノヨイヨイ 格子窓から 月がさす サマちゃんの寝顔の 愛らしさ はずした枕を すけさしょか 思案なかばに 明けの鐘 サノヨイヨイ※現在は、「八重つつじ」と唄われるのが一般的ですが、「八重つばき」がオリジナルの歌詞です田川市役所ホームページから引用。 【了】人気ブログランキングへ田川市石炭・歴史博物館 (その4) 炭坑節発祥の地
2017年11月07日
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韓国人強制徴用という問題、強制なのか、それとも日本国民だった韓国人の国民としての義務だったのか、それとも単なる出稼ぎだったのか、本当のところは別として、ここ旧三井田川鉱業所でも韓国から来て働いていたことは事実ですね。田川市石炭・歴史博物館の裏にはこんな石碑が建立されていました。韓国人徴用犠牲者慰霊碑です。碑文はハングル文字で書かれていて、よくわかりません。こちらは炭坑殉職者慰霊碑です。韓国からの労働者はこちらでは祀られていないのでしょうかね。殉職ではなく犠牲になった人もいるのでしょうか?こちらは何か立派な銅像です。空の向こうを指さす姿、田川市長だった酒田九十百(「つくも」と読むそうです)の銅像です。こちらの碑文には、坂田九十百氏の功績が記されています。筑豊炭田が閉山する中で、衰退していく筑豊地方にあって、閉山後の対策を「地方の現場を直視せよ」と、政府と官僚に迫って、2001年に廃止された産炭地域振興臨時措置法(→→→くわしくはこちら) など制定させ、この地方に工場誘致や公共事業を引っ張ってきた、利権誘導型政治を実践し地域を振興させた立派な政治家のようでした。【つづく】人気ブログランキングへ田川市石炭・歴史博物館 (その3) 炭坑の犠牲者
2017年11月06日
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炭坑というと、男性が働く場所というイメージが強かったのですが、ここ田川市石炭・歴史博物館 の庭に建立されている炭坑夫之像を見ると、男女の二人組の像になっていました。昭和22年に労働基準法が制定され、女性の坑内労働が禁止されるまでは、女性も炭坑の中で働いていたそうです。男女雇用機会均等法が施行された現在でも、女性の坑内での肉体労働は禁止されています。但し、女性技術者が坑内の管理、監督業務等に従事することができるようにはなりました。でも、美人の女性技術者がやってくると山の神さまは嫉妬するかもしれませんね。山の神様はなんといっても女神さまだそうですから。田川市石炭・歴史博物館から見た田川の街の景色です。右端に見える山が香春岳です。山頂が平らになるまで石灰岩が掘られた香春岳です。こちらは山頭火の歌碑です。かって筑豊地方を走っていた国鉄9600形蒸気機関車(→→→くわしくはこちら)。こちらは、旧三井田川鉱業所 第一・第二煙突です。炭坑の捲揚機および付属施設の動力用として蒸気機関が設置され、この機関の排煙用として築造された煙突てす。こちらは第二竪坑かあった跡地を示すモニュメントです。【つづく】人気ブログランキングへ田川市石炭・歴史博物館 (その2) 女性の坑内労働は原則禁止です
2017年11月05日
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筑豊炭田地帯を代表する町、田川市にある田川市石炭・歴史博物館(入場料 大人400円)です。建物の中の展示物では炭鉱の坑道内のジオラマや、炭鉱労働者の炭鉱内での作業の様子や生活の様子を記録画として残し、ユネスコ世界記憶遺産に登録されている「山本作兵衛コレクション」などが展示されています。(→→→詳しくはこちら)当然のことながら、館内の展示物の撮影は禁止されていますが、屋外の展示物を紹介します。筑豊随一の規模を誇った三井田川鉱業所伊田竪坑の跡地に建つ田川市石炭・歴史博物館を象徴する展示はこれです。旧三井田川鉱業所伊田竪坑櫓です。地下深部の石炭を採掘するための高さ約28.4mの鉄製の施設です。簡単にいうと、地下へ行くエレベーターです。このゲージと呼ばれるに乗って、地下深くまで人や石炭を運ぶ貨車が行き来していたそうです。屋外に展示されている坑道の中を走っていた電気機関車です。これは、炭鉱で働く人を乗せいた客車(?)ですこちらは、復元された炭坑住宅、炭鉱で働く人たちの社宅でした。こちらは明治時代の炭坑住宅。家の外に竃があったんですね。家の中は、一間でした。当然窓にガラスもないですね。こちらは昭和期の炭坑住宅、窓ガラスなんかもあって、まあ、現代の人でもなんとなく住めそうですね。中に台所があって、人形の奥さんもらしくここで調理しています。こちらは、炭坑で働いているお父さんの人形。過酷な労働の疲れを晩酌で癒やしていました。炭坑労働者、厳しい職場でじん肺(→→→くわしくはこちら)という肺疾患にかかる人も多く、その賠償を求めた裁判(石炭じん肺訴訟)に勝訴した記念の石碑「俺たちはボタじゃない」もこの田川市石炭・歴史博物館の敷地に建立されていました。こちらは、福岡県出身のプロレタリア文学作家の橋本英吉氏(→→→くわしくはこちら)の文学碑でした。【つづく】人気ブログランキングへ田川市石炭・歴史博物館 (その1) 竪坑櫓が目印です
2017年11月04日
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「香春岳は異様な山である。決して高い山ではないが、その与える印象が異様なのだ。」 これは、五木寛之氏の小説「青春の門」の冒頭を飾る言葉です。筑豊のシンボル・香春岳(カワラダケ)は、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と三連の峰がありますが、全体が高品位の石灰岩で出来た山のため、石灰岩の採掘のため、一ノ岳は高さが元の半分程度に低くなって、山頂は平らになっています。香春岳の手前に見える低い山、ボタ山とよばれています。ボタ山とは石炭の採掘で発生する資源として使えない捨石を積み上げてできた山のことです。<鉱山保安法においては捨石集積場と呼ばれるもので、いわば砂場で作った砂の山みたいなもので、崩れやすく、また石炭が含まれているので、自然発火することもあめそうです。筑豊炭鉱、華やかなりし頃の、一種の産業遺産ということで、このように植林して保存しているのでしょうね。こちらは、田川市のとなり香春町役場から撮影した香春岳です。山頂付近をズームすると、まだ、石灰岩の採掘が続いているようで、採掘所らしい施設がありました。こちらは、香春町総合運動公園の展望台から撮影した香春岳です。この総合運動公園も、かって香春町で操業していた北九州炭鉱㈱中津原鉱業所の炭鉱から出たボタで作ったボタ山です。【つづく】人気ブログランキングへ香春岳と青春の門
2017年11月03日
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10月29日、台風22号の上陸を日本列島が心配する中、久留米市のお隣、福岡県三潴(みずま)郡大木町で開催された「大莞(おおい)さるこいフェスタ」に参加してきました。「さるこい」というのは、サルと鯉が合体した妖怪のことではなく、筑後地方の方言で歩き回ることを意味しているそうです。最初に、ここ大莞小学校の体育館に集まって、参加の手続き(参加料500円)をしました。もらったのは、コース図、途中で使える買い物券100円分、そして大木町にある温泉「アクタス」の入浴料の割引券300円分でした。挨拶している大木町の石川町長。この人も「さるこい」していました。後ろのお姉さんは、司会の人、声だけ聴くと、若い女性アナウンサーのようでした。このイベントの趣旨は、大木町大莞地区の農村を散策することです。まさに「さるこい」です。ただ歩くだけではなくて、地区内にある歴史ある神社にお参りしたり、美しいケイトウの花を眺めたり、また、途中で、地区の人が歓迎してくれて、もちろん案山子のみなさんも歓迎してくれました。そして、無料でお茶をもらったり、お菓子をもらったりして、接待してもらったり。地元の人が作った、工芸品を買い物したり、竹細工のみかんの皮むき器、なかなかの優れものですね。地元の人が作った料理を食べたり、この時に買物券が利用できます。子供向けにはスタンプラリーがあったり、これはちょっと変わった狛犬でした。神社の中に保存されている、古い絵画が展示されていたり、みんなでコマ回ししたり、最後には、抽選会がありました。そして、MoMo太郎はここで、一等賞のリュックサックを当ててしまいました。そして、さるいた後は、ここ大木の湯「アクタス」で汗を流して返りました。なかなか、楽しい一日が過ごせました。人気ブログランキング大莞(おおい)さるこいフェスタ
2017年10月31日
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西鉄柳川駅前の広場です。東京あたりだと、福岡県の柳川市というと、ドジョウの柳川鍋が有名だと思われているかもしれませんが、実は柳川の名物というと、うなぎなんですよ。とはいえ、ウナギも高いので、こんなものを買い求めました。これはヒシの実を煮たもので1パック400円で、木工まつりの会場で売っていました。ヒシとは池や沼に自生する一年生の水草のことです(→→→くわしくはこちらです)。最初、外側の川を剥くのかと思って剥いてしまいましたが、これはまだ殻で、殻を割ってみると、中には白い果肉があり、それを食べるのですが、食感はクリに似ていますが、クリほど甘くはないし、香りもなかったですね。自分の家の池に繁殖していて、それを採って、煮て食べるのなら、まあ、いいですけど、400円出して買うかどうかは、三菱関係者以外なら、・・・・ですね。さて、西鉄柳川駅から帰りの電車に乗ろうとしたら、偶然にも、西鉄の柳川観光列車「水都」(→→→くわしくはこちらです)がやってきました。車両の塗装もなかなかのデザインでした。【了】人気ブログランキング第68回大川木工まつり(その2) ヒシの実を食べました
2017年10月11日
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MoMo太郎が久留米のトランプタワーと呼ばれる高級アパートの広い部屋に住んでいるからといって、大川木工まつりへ家具を買いに行ったわけではありません。目的は、「木工まつりパレード」です。大川市のイメージキャラクターの「モッカくん」、歩くのは苦手なのか後ろから介添えのお姉さんに押してもらっていました。自衛隊の音楽隊。この人たちも普段は機関銃の射撃訓練をしているのでしょうか?大川市のエライさん達、写真左端の若い感じのお兄さんが、大川市長、倉重良一氏(40)です。昨年、故鳩山邦夫衆議院議員の跡目を継ぐために補欠選挙に立候補した前大川市長鳩山二郎氏の跡を継いで、市長に当選した方です。そして、筑後地方のイベントにはよく登場するタヒチアンダンスのみなさん。さらに九州各地のイベントにはよく参加される「日向ひっよとこおどり」の皆さん。なかなかコミカルで、こういうイベントには欠かせない、カレーライスの福神漬け的な皆さんです。この人たち、パレード開始前から入念にリハーサルされて気合十分でした。こちらが出発前の練習風景です。そして、地元からは、カールスカウトの美少女の皆さん。礼節を重んじる剣道の剣士の皆さん。しかし、このような人達がパレードのお目当てではありません。68回目を数える、歴史ある大川木工まつり、大物ゲストも登場しています。地元大川市出身のタンスを担げる演歌歌手、大川栄策さん。100枚目のNewシングル「夜霧の再会橋」(PVは→→→こちらですが10月25日に発売されるそうです。Musicステーションではあまりお見かけしませんが、かっての人気番組、黒柳徹子さんが司会していた「ザ・ベストテン」ではよく出演されていた記憶が・・・。そして「藤原紀香と結婚して離婚した(とMoMo太郎が思い込んでいた)」、俳優兼歌手の陣内孝則さんもフェラーリに乗って登場です。しかし、福岡にもMoMo太郎以外にフェラーリを持っている人がいたんですね。陣内孝則さん、大川市中原にある陣内木工所の「馬鹿息子」だったそうですね。でも中学は佐賀大学教育学部附属中学校に進学していたそうです。そして、最後は地方競馬通算700勝を達成した的場文男騎手(大井競馬場所属)です。さすが騎手らしく騎乗して登場です。この人の実家は、大川市下青木にある的場運送で、的場騎手が子供の頃は材木を馬で運んでいたということで、小さい頃から馬に親しんだ競馬の申し子ですね。パレード終了後は、大川中央公園の特設ステージでのトークショーです。これは挨拶する倉重大川市長。ちなみに市長の父上は福岡県農協中央会の会長さんで、ご本人も市長になる前は県農協の職員だったそうです。ということで農林水産省所管の競馬にも顔が効いて、的場騎手を呼べたのでしょうか?トークショーでの大川栄策さん御年69歳だそうです。トークショーでの陣内孝則さん紹介をしていた大川商工会議所理事長さんからは陣内智則と間違えて呼ばれたようです?的場文男騎手です。このトークショーでは、だいぶん的場騎手に儲けさせてもらった人からでしょうか、花束を贈呈されるとともに、市長から「大川市ふるさと大使」に任命されました。【つづく】人気ブログランキング第68回大川木工まつり(その2) お楽しみはパレードだ
2017年10月10日
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西鉄柳川駅まで行ってきました。ここ柳川市、戦国最強の武将と呼ばれ、初代柳川藩主になった立花宗茂(→→→詳しくは、こちらです)とその妻の誾千代を主人公にした大河ドラマの誘致に力を入れています。そこから、貸切バスに乗って、着いたところは大川市役所の前です。10月7日~9日まで、家具生産量日本一を誇る大川市の恒例の家具販売イベント「大川木工まつり」が開催されています。期間中には毎年約18万人が大川市を訪れると言われています。メイン会場は市役所前のこの緑色の大川産業会館です。ここでは家具の見本市、展示即売会が解されています。(※デジカメの逆光補正を使ったせいか、車が二重に写っています。)大川産業会館の表札ですね。関係者のみなさんそろいの法被を着て頑張ってますね。こちらは、大川市の家具産業に貢献のあった方の胸像です。こちらは、大川産業会館のそばにある大川中央公園の様子です。たくさんの露店が並んで賑やかですね。そして、こういう場所には必ずある太宰府名物の梅が枝餅のお店。そしてこちらは公園内に設置された屋外ステージです。まだ、朝早くてなにもやっていませんでした。そして、これは公園周辺にあるクリークと呼ばれる水路です。ちょっと公園風に整備されていますね。ちなみに、木工まつりで売られている家具、結構、お安くしているそうですが、IKEAやニトリで売っている家具よりは、当然お高かかったです。しかし、IKEAの家具はIKEAの値段の価値しかありませんが、大川家具は、値段以上の価値があると思います(多分)。【つづく】人気ブログランキング第68回大川木工まつり(その1) 大川家具が安い
2017年10月09日
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朝の通勤時間帯の西鉄久留米駅のバスターミナルです。バス通学の高校生で混んでいます。人気ブログランキングへ朝のバス乗り場
2017年10月02日
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駅間歩きの途中ですが、久留米焼き鳥日本一フェスタの記事をアップします。第15回久留米焼き鳥日本一フェスタが9月9日・10日、西鉄久留米駅前の一番街アーケード街にある東町公園で開催されました。下の写真はステージで踊る余興のタヒチアンダンス。地域のこういうお祭りには、地元有志の方がよく登場しますね。久留米市内にある焼き鳥屋さんが集まって、焼き鳥を販売するというイベント。なぜ久留米で焼き鳥かというと、久留米市の人口1万人当たりの焼き鳥店舗数は7.46軒と全国で最も多いのということで、それを町おこしの起爆剤にという目的のイベントだそうです。裏では、汗だくで焼き鳥を焼いていました。汗の味でお店で食べるより塩辛くなっているかもね。出展している焼き鳥屋さんは、東軍と西軍に別れて、食べた人は東軍と西軍のどちらが美味しかったと投票して雌雄を決するという趣向です。まさに日本一の焼き鳥タウン久留米のナンバーワンを決める焼き鳥業界の関ヶ原ですね。こちらは、購入した焼き鳥を食べるスペースで、ステージ上の余興も楽しめるます。これは、フラガールですね。なかなか、きれいにメイクをしていました。蛇足情報です。日本心理学会の大会が9月20~23日にかけて、久留米大学で開催されます。人気ブログランキング
2017年09月11日
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赤村の主な産業は、やっぱり農林業でしょうね。このような田園風景が広がっています。「基盤整備記念」という大きな石碑がありました。何の基盤を整備したのかな? 隣の石碑を読むと「同和」(→→→こちらです)と書いてありました。そういう問題がここにはあったのですね。赤村農産物流通・加工施設というのがあり、ここで赤村の農産物を販売していました。最近はこういう施設も増えてきていますが、手っ取り早くお土産を買うにはいいですね。そして、赤村を流れる清流今川。赤村緑と水に恵まれた「赤」るい農村です。【了】人気ブログランキング赤村へ行こう(その8) お土産も忘れずに
2017年09月08日
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これが、平成筑豊鉄道田川線の油須原(ゆずばる)駅です。赤い丸ポストが似合う、懐かしい風情の駅舎です。入り口の手荷物、自転車預所の看板も、いい味ですね。駅舎の中も雰囲気ですね。昭和の国鉄の駅のようです。改札口のところも雰囲気があります。でも、こん運賃表や。この時刻表、平成筑豊鉄道田川線のものではありません。本当の運賃表と時刻表はこちらです。無人駅なので、そのままホームへ出てみました。なつかしい国鉄のローカル線のイメージがそのまま。遮断機もない構内踏切があり、往時は駅員さんが、乗客の誘導をやっておられたんでしょうね。こちらの駅名標、「森商事」とは? ネーミングライトがあるのでしょうかね。柱の駅名標もむかしのままですね。駅前にはこんな句碑がありました。瓜生敏一(→→→こちらです)という赤村出身の俳人がおられたようですね。【つづく】人気ブログランキング
2017年09月07日
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自然公園「源じいの森」には「源じいの森温泉」が併設されています。入り口にある「ゆ」のモニュメント。わかりやすいです。温泉の幟(のぼり)です。こちらが温泉の入り口です。泉質はアルカリ性単純温泉だそうです。入浴料は大人600円です。会員になると500円、ただし会費は、個人会員 20,000円、 団体会員 100,000円で2年間有効でみたいです。源じいの森には平成筑豊鉄道田川線の駅、「源じいの森」があります。ふるさとセンター「源じいの森温泉」と自然公園「源じいの森」を利用するには便利な駅ですね。次は油須原(ゆずばる)へ向かいます。人気ブログランキング赤村へ行こう(その6) 源じいの森温泉
2017年09月06日
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福岡県道34号行橋添田線を赤村から行橋市に向かって、京都郡みやこ町との町村境付近には、「源じいの森」という自然公園があります。手前にある石像が「源じい」なんでしょうね。しかし、そういうお爺さんの名前に由来して「源じいの森」というわけでなく、「源」は赤村や源じいの森周辺を乱舞する源氏ホタルの「源」、「じい」は赤村の村花「春蘭(シュンラン)」を方言で「じいばば」といいその「じい」を取り、「森」は赤村の70%が森林なのでそれを全部あわせて「源じいの森」と言うそうです。こちらが「ほたる館」、宿泊施設、研修・会議室・運動やコンサートのできる多目的ホール・食堂があるそうです。さらに奥へ進んでいくと、こんな看板が、車掌者「ヨ9001」(→→→くわしくは、こちら)が展示されています。道路輸送への対抗や、旅客列車の電車化による速度向上にあわせて、貨物列車も高速化するために開発された貨物列車用の車掌車ということですね。こちらが、源じいの森に保存されているヨ9001です。もともとは門司機関区の東小倉貨物駅にて保管されたそうですが、最初は計画廃止で、工事が未完成のままだった油須原線を復活させて貨物列車を走らせようと計画して赤村へやってきたのですが、結局、油須原線は本格的な鉄道ではなく、先日紹介したようなトロッコ列車となったためこの源じいの森に保存されることになったそうです。さらに赤村には貴重な文化遺産が、それが「石坂(いっさか)トンネル」です。このトンネルは九州で一番古い鉄道トンネルで、ドイツの技術協力により、1895年(明治28)に建設されたもので、1999年(平成11年)11月18日に、昨日紹介した内田三連橋梁とともには国の登録有形文化財に登録されたました。田川線は将来の複線化を目指していたので、このトンネルは複線対応の幅になっています。こちらは「石坂(いっさか)渓谷」です。鉄道ができる前は、物資の輸送は水運が主力で、田川郡の赤村から行橋へ流れる今川が利用されました。そのために舟運の難所であったこのあたりの川幅を拡幅などの工事を行ったそうです。こちらが、石坂渓谷です。【つづく】人気ブログランキング赤村へ行こう(その5) 源じいの森
2017年09月05日
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赤村役場から福岡県道418号英彦山香春線(赤村には高速道路は言うまでもなく、国道さえ通っていません)を北上していくと、平成筑豊鉄道田川線の赤駅 - 内田駅間にこの「内田三連橋梁」という三連のアーチ橋があります。この橋、地元では「みつあんきょ」とも呼ばれています。説明板が設置されていました。筑豊地方の運炭鉄道網拡充のために設立された豊州鉄道株式会社が油須原-香春間に建設した橋長17mの煉瓦造3連アーチ橋。上流側壁面には切石が貼られているが,下流側は複線化を考慮し凹凸をつけて煉瓦が積まれており,結果として装飾的になっている。(文化遺産オンラインより引用)なんと、1999年(平成11年)11月18日に、国の登録有形文化財に登録されいる、貴重な近代化産業遺産でもあるのです。こちらが下流側で三連の橋梁の両端が道路。真ん中が川になっています。またレンガが凸凹になっているのがわかります。これは将来の複線化を見込んでいたということですので、それだけ筑豊地方の石炭産業には勢いがあったのですね。内部の天井です。レンガを見事にアーチ状に積んでいます。いい仕事してますね。【つづく】人気ブログランキング赤村へ行こう(その4) 内田三連橋梁
2017年09月04日
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赤駅の近くにある赤村住民センター全景です。綺麗な花壇で飾れていました。標高95m、北緯33度37分、東経130度52分、これで迷うことなく行くことができます。赤村住民センターには役場も併設されています。赤村民憲章です。こちらは赤村のガイドマップ。結構、観光ポイントもありますね。キャッチコピーは「ようこそ清流とほたるの里へ」ですか。子供たちも元気に野球に取り組んでいました。村おこしとか地方創生とかいいますが、赤村にこそ「わが村は美しい、わが村には未来がある」という赤るい村になって欲しいですね。【つづく】人気ブログランキング赤村へ行こう(その3) 赤るい村
2017年09月03日
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もう一度、赤駅の駅舎を見てみると、駅前に線路があるのに気がつかれましたか。この線路、ずっと続いています。線路はこんな感じで、軌間は狭いです。610ミリのトロッコ軌道ですね。本格的な鉄道用ではないみたいです。実は、これは赤村トロッコ油須原線という観光鉄道の線路です。詳しくは→→→こちらをご覧下さい。戦後間もない頃、筑豊の炭坑地帯で採掘された石炭を、行橋方面に運び、そして苅田港から出荷するという計画があり、そのために油須原線が建設されたたのですが、完成間近にして筑豊の炭坑は衰退期を迎え、この油須原線の鉄路は実際に使用されることも無く未完成のまま放置されていました。しかし、赤駅開業とほぼ同時、平成15年(2003)10月5日から、赤村トロッコ油須原線が開業したそうです。営業距離は復約3.4km(片道約1.7km)、毎日営業しているわけではなく、3月から11月まで月一回営業です。乗車料金は寄付金として大人(中学生以上)/ 300円 子供(小学生以下)/ 150円だそうです。赤駅から北に向かって行くと、本村跨線橋というのがありました。この橋の上から、赤村トロッコ油須原線が見えます。下に降りて跨線橋を撮影しました。この先に、トンネルがあり、フェンスがあります。フェンスの隙間から中を撮影すると、トロッコ列車に使われるバッテリー機関車がありました。今度、チャンスがあれば、スケジュールを調べて、このトロッコ列車に乗ってみたいですね。【つづく】人気ブログランキング赤村へ行こう(その2) 赤村トロッコ油須原線
2017年09月02日
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福岡県田川郡赤村をご存知ですか?場所は下の地図にあるとおり、福岡県東部、北九州市から真南へ約30km、行橋市から南西へ20kmの位置にあります。実はここ福岡県に2つしかない村の一つで、もう一つは九州北部豪雨で甚大な被害を受けた東峰村になります。人口はおおよそ3,000人くらいの山間部の小さな村です。その赤村へ行ってきました。赤村には平成筑豊鉄道田川線が通っています。その中で村の中心となる赤駅の駅舎です。この赤駅は、旧国鉄の田川線を平成筑豊鉄道が1989年(平成元年)10月1日に引き継いだ後、2003年(平成15年)3月15日 に新設された駅です。というわけで、赤駅といかにも赤村を代表するような名前の割には、駅前に村役場、中央公民館、保健センターなどの村の施設が集中しているものの、駅周辺に大きな集落や商店はありません。村の中心地は隣の油須原駅のようです。ホームに立ってみると、単線ののんびりとしたローカル線の雰囲気があります。こちらは行橋方面です。こちらは田川方面です。駅のホームの反対側へは、構内踏切を渡ってそのまま行けるようになっていました。駅舎には赤村商工会のオフィスも併設されていました。【つづく】人気ブログランキング赤村へ行こう(その1) 平成筑豊鉄道田川線「赤駅」
2017年09月01日
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雑餉隈で忘れてはいけない名所は、ここではないでしょうか。雑餉隈が生んだ著名人、武田鉄矢さんの実家のたばこ屋さん。行った日が日曜日だったので、店が閉まっていたのか、それとも営業していなかったのかよくわかりませんが、たばこ屋さんにしては間口が広いですよね。このたばこ屋さんの近くにある神社です。説明版を見てみると、元は千数百年前から大宰府神社に祭祀されていた、由緒正しいえびす様らしいですね。これが、稚児えびす様のご神体なのですね。【了】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その6)
2017年08月29日
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春日市、民間人のベッドタウンという以外にも自衛隊のベッドタウンでもあるようでした。ちょっとわかりにくいですが、自衛隊のトラックが並んでいます。陸上自衛隊の駐屯地です。おそらく、このような自衛隊関係施設が航空自衛隊の駐屯地もあって、そのため色々な交付金などが国からもらえて春日市の財源は豊かなのかも。それで、この打出の小槌を渡さないように、市町村合併などしないのでしょうね。基地の周りには、自衛官募集の広告が、自衛隊、BIG STAGEだそうです。確かに、自衛隊、東京都議会議員選挙の場だけに限らず、福岡県朝倉市への災害救助派遣、さらには安全保障関連法により「駆けつけ警護」などの名目で世界中に派遣できるようになったので、まさに大きな舞台が準備されていますね。再び、西鉄の雑餉隈駅に戻ると、こんな看板が。自衛隊福岡地方協力本部、専用の建物まで持っているようです。自衛隊福岡地方協力本部では、自衛官の募集、退色職自衛官の再就職のあっ旋、自衛隊音楽隊の興業まで手配するみたいですね。【つづく】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その5)
2017年08月28日
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JR南福岡駅近くの博多寄りの踏切です。南福岡駅、隣接して南福岡車両区があるため、ゆっくり南福岡車両区へ出入りする車両が徐行で移動します。さらに、南福岡駅からの回送電車は、上り待避線ホームへ到着ののち、運転方向を変えて博多方に設置されている引き上げ線へ進み、再び運転方向を変えて南福岡車両区の留置線へ入るため、3回、この踏切を通過するので、「開かずの踏切」状態になっています。この電車区には、在来線を走る特急列車も配置されています。つまり、JR九州の中心といってもいい電車区なんですね。JR九州885系電車の特急「かもめ」も電車区への入選のためにホームに停まっていました。開かずの踏切を超えると、大きなマンションが立ち並んでいました。ここからは福岡市博多区ではなく、春日市になります。春日市、福岡のベッドタウンですね。【つづく】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その4)
2017年08月27日
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銀天町を抜けると、なんか、今は使われていないようなNTTのビルがありました。そして、南福岡駅入口という標識に誘われて、JR九州の南福岡駅の方へ行ってみました。街路樹が切り倒されていました。さかな整骨院・鍼灸院・整体院、ちょっと面白い名前です。駅舎の上にマンションがあるこの近代的な建物が、南福岡駅でした。ちなみに、この駅名もむかしは「雑餉隈」だったそうです(→→→くわしくはこちらです)。駅前にあるお弁当屋さん。ここのお弁当食べると、美味しくて食べ過ぎてイラストのおばさんみたいな体型になるかも?まさか・・・。【つづく】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その3)
2017年08月26日
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「飲食店や風俗店が多い」と久留米の人々の間では信じられている雑餉隈駅周辺ですが、どちらかというと、住宅街の町というイメージで、福岡では割と見かけるスーパーマーケットもありますし。福岡のあっちこっちでみかけるお菓子チェーン店もあります。そして、庶民派のこんな商店街があります。訪れた時は七夕の時期だったので、こんな飾りも。いかにも博多的なノリのネーミングの青果店こだわりの豆腐店。こちらも「こだわり」を売りにしたパン屋。九州では、鶏肉のことを「かしわ」と言うのですね。銀天町というのも、いかにも市場として縁起の良さそうな町名ですね。銀が集まる街だけに、銀行の支店もありました。【つづく】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その2)
2017年08月25日
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福岡市博多区にある雑餉隈(ざっしょのくま)。この難読地名の町、興味があったので、再び訪れてみました。西鉄大牟田線の雑餉隈駅で降ります。こちらが雑餉隈駅の改札口。しかし、「雑餉隈」、不思議な名前ですね。雑餉隈どいうのはどういう由来の地名なのでしょうか、「雑餉」の「餉」というのは「夕餉(ゆうげ)」とか「朝餉(あさげ)」という食事を意味する漢字ですね。つまり「雑餉」とは、「饗応のための酒や食物」のことです。さて「隈」は、九州ではよく地名に使われています。例えば、福岡市内でも、月隈、金隈、七隈、干隈、隈元、隈副、田隈、尾の隈、大隈という地名があります。筑後地方では、隈、篠隈、小隈、乙隈、横隈、山隈、湯ノ隈、隈江、今隈という地名があるそうです。これらの土地、動物のクマが出るような山奥の地名ではなく、川の流れが曲がっている、あるいはまがった川に囲まれた、土地のすみの方、奥まったようなところです。つまり、雑餉隈というのは、「饗応のための酒や食物が提供される、すみの方の土地」という意味かもしれません。確かに、この場所、福岡から大宰府に向かう途中の旅人に、食物を提供する飲食店みたいなものがあったところかもしれませんね。久留米で職場の職場の人に聞くと、たいてい「雑餉隈には、飲み屋が多い」というのですが、行ってみると確かに、こんな飲食店なんかもありました。また、ちょっとピンク系のお色気が売り物の店もありました。フィリッピン系、今は珍しいような気もします。居酒屋の上には「麻雀大学」という教育機関(?)も。麻雀大学を卒業すれば、こちらの「重役室」を目指して、麻雀の腕を磨いて下さい。、と、色々ありましたが、でも、期待したほど、こういう飲食店や風俗店があるわけでもなく、この程度なら普通の郊外の町と大して変わりはないように思いました。【つづく】人気ブログランキング雑餉隈(ざっしょのくま)をブラブラ(その1)
2017年08月24日
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今日、NHKの人が家に来た。受信契約をして欲しいとのこと。「すみません、テレビ持っていないので(これは本当です、久留米に来る時、テレビを持ってこなかったのです、なくても職場のテレビでニュースくらいはチェックできますから不便ではありません)」と断ると、「携帯電話はお持ちですか」と聞かれた「携帯電話も持っていません」そうして、ようやく帰ってもらった。確かに、バカッと折りたためる懈怠電話はもう持っていません。それに携帯電話を持っていることと、NHKの受信料を払うことと関係するのでしょうか、わかりません。携帯電話ってテレビ見る機械じゃないですよね。さて、久留米市に江戸屋敷という地名があります。れっきとした住居表示です。さらにバス態にもあります。久留米にありながら、なぜ「江戸屋敷」なのか? 江戸時代、各藩が江戸に出張所として屋敷をもっていて、それを江戸屋敷と呼んでいたことは時代劇などでもご存知の方は多いはず。では、なぜ久留米に江戸屋敷があるのか。こんな立派な石碑まで建立しています。幕末になると、各藩の江戸屋敷が廃止され、それぞれ国許に戻ることになりました。そこで、久留米藩では、江戸に勤務していた家来で帰参してきた人たちを城下町に住まわせるような屋敷もなかったので、城下町より少し離れたこの地に屋敷地をつくることにしたそうで、ゆえに、この地は、江戸から帰ってきた人たちが住んでいる屋敷地という意味で江戸屋敷と呼ばれるようになったそうです。碑文には、こう記されているそうです。我が郷土の江戸屋敷は、明治元年二月、お国勝手と称して久留米藩主有馬頼咸公に従って、江戸より帰郷した江戸常住の藩士百余戸の住宅として創設された所である。その地域はこの碑を起点として南方5町、東方4町に渡る梯形の一廓で、上下新町と言われた。当時は黒門構えの邸宅であった。 其れから70年が経ちその間、人去り家移って概ね畠となってしまった。歳月が経てば将来又原野になる事を慮り、碑を建てようという事になった。後世の人々、関係の有無を問わず、永遠に保存される事を記して碑録に代う。 昭和11年 5月吉日 総代従七位勲八等 富沢 豊象 撰書この近く、久留米市の南部になりますが、拙と同じ名前の川を発見しました。こんな川でした。人気ブログランキングへ久留米市江戸屋敷、ついでに桃太郎川も発見
2017年08月22日
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この久留米市美術館というか、石橋文化センターには広大な庭園があります。庭園を散策してみました。ハスの花が咲いていました。この清らかな花が咲くのも泥水があるからですね。美術もドロドロとしたものがあるから、人を感動させる作品が生まれるのでしょうか。こちらはスイレンです。スイレンとハス、併せて「蓮華(レンゲ)」として仏教では呼んでいると聞いたことがあります。こちらは坂本繁二郎旧アトリエだそうです。坂本繁二郎といえば、久留米出身の「近代洋画の巨匠」と呼ばれる画家です(→→→こちらです)。その坂本の八女市(久留米の南にある町)にあったものを1980年に移設したそうです。日本庭園といえば、このような池がありますね。奥に見える建物は「楽水亭」というカフェ&ギャラリーショップです。園内には、なぜか太宰府名物の梅ヶ枝餅の売店がありました。【了】追伸このブログを詠まれている方にも「善良な市民」の方がいるのですね。「流木が被害を増長させたので、植林をやめさせるようにした方がいい」、という意見を正論と考えている方がいました。植林しようがしまいが、日本では山に木が生えてくるので、天然林でも人工林でも大規模な斜面崩壊が起これば、根こそぎ持っていかれて、土砂と一緒に流木となります。また、植林がないと、はげ山に木が回復するのは時間がかかるので、はげ山の間、土砂は崩れやすくなって、土石流はひどくなるでしょうね。まあ、善良な市民である前に賢い市民になる必要がありますね。人気ブログランキング久留米市美術館(その2)
2017年08月21日
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昨日、「筑後川防災施設(くるめウス)」(→→→ こちらです)という国土交通省が運営している施設で、今回の九州北部豪雨被害に関する講演会があり、九州大学の河川工学の先生や国土交通省 九州地方整備局 筑後川河川事務所の人が今回の災害に対する説明をしてくれました。参加者は、善良な市民として、〇〇川の自然を守る会、とか災害ボランティアに参加している人が多かったですが、講演の後の意見交換会で、こういう人から。「山奥の住民の少ない地区は復旧工事などせず、住民を移住させて森に還してしまった方がいい」とか、「流木が被害を増長させたので、植林をやめさせるようにした方がいい」、「洪水で浸水するような土地に家を建てている人は移住させろ」といった趣旨の発言が多かったです。まあ、大学の先生のような教養ある人は、「災害の多い日本に住むことはやめろ」と言われたらみなさんお困りでしょというような感じで、そういう極論をやんわりと否定してくれたが、こういう善良な市民の皆さんが、きっと、「失業が増えたのはメキシコからの移民せいだ」「ミサイルが発射されると、北朝鮮は炎と怒りに見舞われる」というようなことを言い立てる、〇〇ファーストな人に投票したのかもな、と思った自分ファーストなMoMo太郎の感想です。さて、先日、夏休みの思い出作りに久留米市美術館に訪れてみました。昭和31年に開園した石橋文化センターの中核施設である石橋美術館(平成28年9月閉館)が、平成28年11月に久留米市美術館として生まれ変わりました。 美術館では、石橋美術館の伝統と歴史を受け継ぎながら、「とき・ひと・美をむすぶ」美術館として、多彩な展覧会や関連イベントを実施していきます。 (久留米市ホームページより引用)株式会社ブリヂストンの創業者であった石橋正二郎氏が創設した、石橋文化センターや石橋美術館を久留米市に寄贈してもらったわけです。「世の中の人々の楽しみと幸福の為に」こういう美術館を作ったそうですが、これって石橋正二郎氏の税金対策?しかし、寄贈された市の方も運営経費なんか大変かも。ということを考えるわけはないですよね。小便小僧君。石橋美術館が久留米市美術館に変わりました。こちらが久留米市美術館本館の入り口です。こちらの建物は、美術館の別館だったそうですが、今は、石橋正二郎記念館として石橋正二郎氏の生涯を通じて久留米市の発展に尽くした功績や、ひととなりをご紹介しいるそうです。【つづく】追伸昨日、競艇選手の学校が柳川市大和にあることを書きましたが、その他の競技の選手の学校は以下のとおりです。競輪選手の学校は、伊豆にあります。(→→→こちらです)。オートレースの選手の学校は、茨城県下妻市、筑波サーキットの近くにあります。(→→→こちらです)人気ブログランキング久留米市美術館(その1)
2017年08月20日
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)有明海に向かって、人々は土地を広げる干拓という営みを繰り返してきたようです。昭和の時代にもここで干拓と呼ばれる、海を農地に変える工事があったようで、平成には諫早湾干拓という同様な工事があったようですが、諫早湾干拓の方は色々とあるようですね。これは、むかし干拓地の堤防だったのが、さらに海に土地が広かったため道路を造るために切り崩された後なのでしょう。干拓地を流れる水路です。その水路の脇にあった石碑です。この干拓地は「大和干拓」というそうです。大和干拓は、塩塚川及び矢部川の河口に拡がる干潟地を延長 5,473mの防潮堤で囲み、331haを干陸したものです。当初は福岡県が基礎調査を進めていましたが、その後、農林省によって全体実施設計が行われ、昭和33年に着工しました。昭代工区同様、有明粘土といわれている超軟弱地盤上に堤防が築造され、昭和45年9月に完成しています。(九州農政局ホームページより引用)福岡県知事による記念碑もありました。これは何を意味するものかよくわかりません?こちらは矢部川の河口で対岸はみやま市です。大和干拓の先は有明海です。干拓地には、広々とした農地が広がっています。干拓地の最も海側にこんなプールがありました。この施設は、日本モーターボート競走会「やまと学校」です。つまり、競艇の選手および審判員を養成するための日本で唯一の専門学校です。以前は山梨県富士山麓の本栖湖にあったそうですが、平成10年から、ここに移転してたそうです。昭和44年に完成した大和町地先の国営大和干拓が、その後、日本農業の構造転換や予期せぬ地盤沈下による土地利用の方向変換を迫られる中で、平成9年に旧大和町が地域浮揚の起爆剤として誘致したそうです。競艇で町おこし、なかなかのギャンブルですね。学校の中をちょっとだけ撮影してみました。人気ブログランキング大和干拓と競艇学校
2017年08月19日
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)江越海岸灯台の近くにある神社です。江越八幡宮というそうです。参道が長いです。こちらが本殿です。江越八幡神社には、「東御風流」というお祭りがあり、海上交通の安全と豊作を願うそうです(→→→くわしくはこちらです)。緑の羽根の募金、こんなところにも使われていたんですね。神社にはありますね「忠魂碑」。人気ブログランキングへ江越八幡宮
2017年08月18日
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)柳川市大和町皿垣にある慶長本土居跡と江越八幡海岸灯台に行ってきました。慶長本土居とは、筑後藩主田中吉政(たなかよしまさ)は、大川新田(大川市)から柳川~渡瀬(わたぜ/三池郡高田町)までの有明海沿岸32キロメートルに及ぶ慶長本土居を築きました。このうち大川新田から鷹尾までの25キロメートルは、山門(やまと)・三潴(みづま)・下妻(しもづま)3郡の領民を総動員して、慶長7年(1602)8月6日から8日までのわずか3日間で完成させました。吉政は佃町(つくだまち)新田の潮止め口の完成後、慶長12年(1607)に本土居上に新田龍神の石の祠(ほこら)をつくり、田33アールを寄進しました。 ( 柳川市ホームページより引用)つまり、有明海沿岸に堤防を構築して海潮の侵入を防ぎ、湿地・干潟地を農地に開発したという歴史的な土木施設です。こちらは隣にある江越八幡海岸灯台の説明板です。これは、この土地の漁師たちが、船着場の目標にしていたと云われる常夜灯(灯台)であったそうです。右が江越八幡海岸灯台です。左は龍神宮社と書いてありました。上の写真の後ろにある高架道路は有明沿岸道路です。この道路があるあたりに慶長本土居跡があったそうで、江越灯台付も本土居上に立っていたが、沿岸道路建設のため現在地に引っ越してここに灯台公園として整備されたそうです。 しかし、この龍神さまが奉られている理由は不明です。こちらが、江越八幡海岸灯台です。明治12年8月の紀年銘があるそうです。人気ブログランキング慶長本土居跡と江越八幡海岸灯台
2017年08月17日
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)久留米市から柳川市に向かう県道23号線沿いにある、「御塚・権現塚史跡の広場」という公園があります。こちらが、公園として整備されている広場です。この公園は、「御塚古墳(おんつかこふん)」と「権現塚(ごんげんづか)古墳」の二つの隣接する古墳を整備したものだそうです。「御塚古墳」と「権現塚古墳」は、5世紀後半から6世紀前半ごろにつくられたと考えられているもので、日本書紀に登場する豪族:水沼君(みぬまのきみ)のお墓だと言われているそうです。こちらが隠塚古墳です。こちらが権現塚古墳の説明板です。こちらが権現塚古墳の全景です。こちらは、権現塚の入り口です。この石柱は、1931年(昭和6)に国の史跡に指定されたことを示すものです。古墳の周りには、このような堀がめぐらされていました。堀を一周してみました。御塚古墳と権現塚古墳について詳しく知りたい方は(→→→こちらです)。人気ブログランキング史跡 御塚古墳と権現塚古墳
2017年08月16日
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(この記事は平成29年7月5日から6日に九州北部地方で発生した九州北部豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)福岡県小郡市内をはしる県道738号線沿いにある「名馬池月塚」を訪れてきました。味坂地区にある老人ホームの裏にある竹林。この中に、名馬池月がありました。こちらは、馬ではなくヤギですが。この横を通って竹林の裏手にいくと、お墓のような石碑のようなものがあります。石碑をよく見てみると、何やら文字が。石の表面には「池月塚」石碑の横にある説明板です。大まかな説明の内容源平の戦いにおいて、宇治川の先陣争いで有名な、鎌倉時代の武将である佐々木高綱は、源 頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、渡河に成功し、宇治川合戦を勝利に導いた。平氏征伐の軍功により筑後国の鯵坂庄に所領700町歩を賜った佐々木高綱は愛馬の池月とともにこの鯵坂の地に移り住んだ。 そして、ここに城を築き、嫁をもらい一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名付けた。高綱は鎌倉幕府の命によって、一子利綱と池月をこの地に残し、鎌倉に帰った。 この地にいる時、高綱は、名馬「池月」に鞭打って領地を乗りまわっていたが、利綱もまた、父の意思を継ぎ、名馬「池月」を我が子のように大切にしたそうである。 領民たちも、領主の名馬「池月」をこの上もなく愛し、領地をかけめぐる「池月」を仏の再来として信仰したそうである。 名馬「池月」が死亡すると、その遺体をこの塚に葬り「名馬池月塚」と称した。源平の合戦で、木曽義仲と義経の激突となった宇治川の合戦は、よく知られていますが、その時に活躍した佐々木高綱にこんな後日談があったとは知りませんでした。人気ブログランキング名馬池月の塚
2017年08月15日
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福岡へ行く時は、たいてい西鉄を使うのですが、なぜかJRを使ってみたくなりJR久留米へやってきました。ここがJR久留米駅です。久留米の駅名標、JR九州はひらがなを使うのですね。それと久留米を象徴するつつじの花と赤い三角がポイントでしょうか。使われている車両もちょっとモダンな感じです。こちらは817系という電車ですね。この小倉行快速電車に乗りました。こちらは813系です。博多は、やっぱり「博多祇園山笠」のマークがポイントですね。とりあえず、駅の外へと行ってみたら、こちらは筑紫口でした。目的は大博通りの方なので、こちらの博多口から出ないといけません。余り知らないところへ来ると結構、迷うものですね。博多口には福岡藩主黒田長政公の家臣で大酒豪の母里(もり)太兵衛の銅像。福島正則からもらった、秀吉伝来の名槍「日本号」を抱え、右手に一尺の大杯を持つ、堂々とした立ち姿です。ちなみに2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、母里太兵衛役を、速水もこみちが演じていましたね。こちらは、博多芸妓の像、花柳界の座敷唄のひとつ、三味線をとって歌う正調「博多節」の舞いポーズだそうですが、肝心の解説が書いてある台座が蔦に覆われてわかりませんね。MoMo太郎のうっすらとした記憶では、30年近く前、MoMo太郎が博多に来た時にも、今の博多駅前とは様子は違いますが、この二体の銅像、駅前にあったと思います。人気ブログランキング博多へ行きました
2017年08月07日
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夏の久留米といえば、筑後川花火大会と「水の祭典久留米まつり」市民あげてのサマーフェスティバル。そのフィナーレを飾るのが、「1万人のそろばん総踊り」です。この日の久留米のメインストリート、明治通りは一日中、歩行者天国、おまつり用の提灯もスタンバイ。踊りに参加する人も屋台で買い食いしてエネルギー充填中です。これがセンターステージです。このお姉さんが、まつりの司会者です。これが、そろばん踊り。民謡調のリズムに合わせてそろばんを振って踊ります。こちらは、そろばん踊りの振付を覚えるビデオです。その他にもアップテンポの「そろばんバンバン」と「サンバでそろばん」という曲もあります。それぞれのグループの最後部には、熱中症予防のための飲み物や踊りに使う小道具などを運ぶ手押し車がついています。地域の自治会や会社など団体が参加しますが、こんな団体も参加していました。弁護士会、久留米には馬奈木昭雄という、水俣病問題で国から賠償金をもぎ取り、さらに諫早湾干拓問題では、多額の漁業補償金に加えて、毎日、漁業者に1日45万円というお金を払わせているという凄腕の弁護士がいますから、そろばんは得意なのかも(馬奈木昭雄弁護士については→→→こちらです)。やはり、そろばんといえば、銀行でしょう。銀行も踊りに参加していました。そろばん踊りといいながら、銀行のみなさんそろばんは持っていませんでした。今や銀行もそろばんは使わないのですかね。というわけで、そろばん以外の小道具を使う団体も多いようです。こちらは中央ステージで華麗な踊りを披露してくれたダンススクールの生徒さん達です。もちろん、にしてつグループも参加。いつも行くにしてつストアのレジ係りのお姉さんも踊っていたりした。こういう山車まで準備しているグループもありました。こちらは久留米にある自衛隊幹部候補生学校からの参加です。きっと稲田前防衛大臣も応援していることでしょう。また、所々にこんなステージがあって、参加しているグループの代表が踊っていました。こちらは、ちびっ子中心の団体でした。沿道に並ぶ屋台も盛況ですね。というわけで、「1万人のそろばん総踊り」、なかなか楽しいフェスティバルでした。人気ブログランキング水の祭典久留米まつり そろばん総踊り
2017年08月06日
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(この記事は7月5日~6日にかけて福岡県・大分県に発生した豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)嘉麻市には遠賀川という河川の源流があります。遠賀川といえばこの歌で有名ですね。嘉麻市を通る国道211号線を日田市に向かって南下していく途中にある「遠賀川源流の地」です。なかなか立派な石碑があります。そして、顔ハメも。また、横には渓流の水を引いた手洗い場もありました。ここで汗を拭くのもいいですよ(ただし飲用不可です)。源流点入り口とありましたので、源流点を目指して出発です。この森の中を進みます。イノシシなんか出てきそうですね。一応、道は整備されていますが。ところどころ、こんな苔が生えていたりして、足元はトレッキングシューズなどで固めていたほうがいいかも。遠賀川源流点に到着しました。源流点の標柱の根元には、なぜか一円玉が散乱していました。この滝が遠賀川の源流点となるそうです。大河の始まりのある嘉麻市、なかなか魅力的な町でした。【了】人気ブログランキングOH!嘉麻市(その3) 遠賀川源流
2017年07月18日
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(この記事は7月5日~6日にかけて福岡県・大分県に発生した豪雨災害の前に訪れた時のものです。被害に遭われたみなさまには心からお見舞いを申し上げます。)市役所の近くにあった「道の駅うすい」です。建物はこんな感じの多角形のデザイン。ここで嘉麻定食550円をいただきました。かけうどん、かしわおにぎり(鶏肉の炊き込みごはんをおにぎりにしたもの)、魚のフライ、刺身こんにゃく、そして漬物もついてこの値段はお得ですね。大坂冬の陣や夏の陣で活躍した後藤又兵衛ゆかりの地だったんですね。福岡藩黒田家の支城益富城がこの嘉麻市にあり、そこの城主を努めていたのが後藤又兵衛だったそうです。で二代目藩主の黒田長政とソリが合わなくて浪人したそうです。そして、大坂城の豊臣軍に参加したというそうです。そして、真田丸、昨年のNHKの大河ドラマだったですね。哀川翔が演じてましたね。その前は2014年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」では塚本高史が後藤又兵衛役でした。この嘉麻市出身者には、NHK第21代会長 籾井 勝人氏がいます。郷土の英雄、後藤又兵衛が活躍するドラマを作るということは、NHK職員のみなさん、会長への「忖度」でしょうか?その他にも、出身有名人には、将棋名人 加藤一二三劇作家 つかこうへい画家、二科会理事長 織田広喜俳優 瀬戸康史とそうそうたる顔ぶれではないでしょうか?そして、この人、おすぎさん???いえ!違います。出身というわけではなく「おかま」つながりで嘉麻市の観光大使となっているそうです。【つづく】人気ブログランキングOH!嘉麻市(その2) ゆかりの人物
2017年07月16日
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