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カザフスタンの首都名が再び変わりました。というか、ここは首都移転も含めて、首都名が良く変わる国です。カザフスタンの歴史を少し見てみましょう。モンゴル帝国の末裔の時代(カザフハン国など)を経て、19世紀くらいにはロシア人によるこの地域への干渉は大きくなっていました。当時はこの地域は「キルギス」と呼ばれており、この地域は大ジュズ、中ジュズ、小ジュズに分かれていました。この大中小は、大が小を飲み込む関係ではなく、簡単に言えばカザフスタンの東部を大ジュズ、中部を中ジュズ、東部を小ジュズと呼んでいました。ジュズとは部族連合を表す言葉ですが、結果として地域を表す言葉でもあるようです。そして1920年にキルギス自治社会主義共和国として設立されたのです。まだソビエト連邦が成立する前でしたので、ロシア社会主義共和国内で設立されました。この国と現在のキルギス共和国とは別の国です。この時の首都はビシュケクでした。このビシュケクもフルンゼに改名されましたが、その後またビシュケクに戻っています。1925年に国名がカザフ自治ソビエト社会主義共和国となって、首都もアルマトイに変わりました。そして1936年にカザフ・ソビエト社会主義共和国に格上げされたのです。この国がソ連崩壊まで続いたわけです。ちなみに現在のキルギスのルーツは、1926年にできたキルギス自治社会主義共和国であり、上記のカザフスタンの母体となったキルギス自治社会主義共和国とは別だというので、誠にややこしいのです。地図を見ればわかりますが、カザフスタンは非常に大きな国(日本の7倍以上)であるのに対して、キルギスは小さい国(日本の半分強)です。この時代ですから、国境を決めたのはロシア人です。これは噂に過ぎませんが、ロシア人は勇猛で戦闘力が高いキルギス人を恐れていたので、キルギスをロシアから離れた南の小さなエリアに押しやり、管理しやすいカザフ人の国をその北に大きくしたと言われています。確かに、キルギス人は中世のころからその戦闘力で有名だったようです。で、カザフの首都です。1991年にカザフスタン共和国になり、首都はそのままアルマトイでした。が、1997年にアルマトイからアスタナに遷都されました。そして2019年にアスタナの名称をヌルスルタン・ナザルバエフ前大統領の名前にちなんでヌルスルタンに変更したのです。ところが、そのわずか3年後の2022年9月に再びアルマトイに戻されたというわけです。しかも名前を変えたのも、名前を戻したのも同じトカエフ大統領だというのも変です。まあ考えられるのは、当初は圧倒的なナザルバエフに忠誠を誓うふりを見せて大統領になったものの、もうナザルバエフの影響力は心配不要となったので、首都名を戻したというところでしょうか?とはいえ、カザフスタンは首都や名前を変えすぎです。ここ100年ほどで、ビシュケク→フルンゼ(名前変更)→ビシュケク(名前再変更)→アルマトイ(遷都)→アスタナ(遷都)→ヌルスルタン(名前変更)→アルマトイ(名前再変更)と7回も変えています。ナザルバエフは「モンゴルはヨーロッパで有名で羨ましい」ようなことを言っていましたが、そもそも首都の場所や名前をこんなに頻繁に変えていては、ただでさえ関心の薄い中央アジアの国では誰も首都名を覚えられないでしょう。どんな影響があるか考えてみましょう。まずは教科書です。世界の地理の教科書です。印刷物ですから、変えたからと言ってすぐに世界の教科書が変わるはずはありません。数年はかかるでしょう。もしかしてちょうどヌルスルタンに切り替わったころでしょうか?それをまた変更しないといけません、世界中で。国連などの国際機関への届け出も変更が必要でしょう。各企業のパンフレットなどの印刷物も大変です。住所を記載するのに、首都名が変わるのですから、やはり変更しないといけません。Webページも変わっていることでしょう。役所の場合は看板も変えないといけません。もしかして道路標識も変更しないといけないかも。世界各地の飛行場の表示も変更が必要です。更に膨大な量の個人の名刺も変更しないといけません。要するに馬鹿馬鹿しいほどの労力をかけて、更に3年後に同じことをするという大統領の思考力のなさがよくわかります。まあ、カザフスタンは本当の民主主義国家ではないので、大統領は気まぐれで何をやっても許されるのでしょうけど。日本も1300年間で3回遷都しましたが、たった100年で3回は多すぎます。普通の国なら、金の無題使いと猛烈に批判されるでしょうね。しかも世界的な知名度はどんどん落ちるばかりだし。モンゴルの赤い英雄は確かに時代には合いませんが、赤い英雄のままでいいと思います。<追加訂正>本ブログの読者である、カザフ人さんから訂正が入りましたので、下記の通り追加訂正させていただきます。カザフ人さん、ありがとうございました。キルギス自治ソビエト社会主義共和国(1920—1925)の首都はビシュケクではなくオレンブルクでした。首都移動及び改名は下記の通り:1920-1925 - オレンブルク1925 首都移動->アク・メチェト1925 首都改名->クズロルダ1929 首都移動->アルマ・アタ1993 首都改名->アルマトイ1997 首都移動->アクモラ1998 首都改名->アスタナ2019 首都改名->ヌルスルタン2022 首都改名->アスタナ以上
2022.10.13
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先日の本ブログで書いたように、ブリヤードなどシベリア南部に住むモンゴル系やテュルク系民族が徴集され、ウクライナに送り込まれています。ほとんど戦争の訓練もされずに戦争という「人殺しの現場」に送り込まれていくのです。その結果どうなるのか?ウクライナ側は当然必死で抵抗します。国の存亡の危機ですから、ロシア軍に対して容赦はしないでしょう。それが結果として、プーチンの「もっと早くキエフを占領できると思った」ことが誤算につながったということなんだと思います。それは予想以上にロシア軍がたくさん犠牲になっているということの裏返しでもあるのです。要はたくさん死んでいるということです。開戦後2週間余り。ブリヤード共和国の首都ウランウデに荷物が到着し始めました。ウランウデというのは、もちろんモンゴル語です。ウデはウデ川が流れているところで、ソ連時代につけられた名前が「赤いウデ川」であるウランウデです。荷物にはロシアの隠語で200番と300番という荷物があります。300番は負傷者という意味です。最近、200番が100個届いたそうです。200番とは「死体」の意味です。つまり100個の死体がウクライナ戦線から送られてきたということです。もちろん、その過半数はブリヤード人とのことです。これを知ったモンゴル国のモンゴル人も大きく悲しんでいるとのことです。とはいえ、モンゴルは今ロシアに関して大きく分断しています。簡単に言えば親ロシア派と反ロシア派です。モンゴルのテレビなどのメディアは、その情報源のほとんどをロシアのプロパガンダとしているため、かなりの人が「ロシアは正義のために戦っている」「ひどいウクライナからロシア人を救い出そうとしている」と本気で考えているそうです。一方、海外留学経験者やSNSで海外の情報を入手できる人たちは、当然のことながらロシアに批判的というか、完全に反ロシアです。私がいたころから、なんとなく「親ロシア」の人はいました。多くは、親が社会主義時代の体制派だった人、ロシア語を勉強した人などです。彼らは本気で、ロシアが世界の中心で見習うべき国だと思っているのです。ですが、さすがに民主化してからはそういう態度はあからさまには見せませんでした。ですが、ここにきてあいまいな態度は許されなくなり、モンゴル人一人一人が自分の意見を明確にするべき時となりました。反ロシア派の人たちは、先日の国連総会での対ロシア非難決議でモンゴルが棄権をしたことを恥じるべきことと思っています。あいまいな態度をとっていた人民党も旧社会主義政党をルーツに持つ本性が現れ、ロシアに忖度して今回の棄権となりました。私の友人によれば、「ちゃんと世の中のことを分かっている奴だと思っていた友達が、今回のことでプーチンの行動を擁護したのには驚いた。あんな奴だとは思わなかった。」とそれまでの長い付き合いで、突き詰めて議論することもなかったお互いの考え方の違いが明確になったと言ってます。恐らく、こうした意見の相違、旧社会主義時代への懐古主義者らが一層鮮明になってきているのかもしれません。ニューヨークタイムスの記事にこんなことが載っていました。ウクライナにロシアが侵攻し人々を虐殺するのを見て、モンゴルの若者がスフバートル広場で抗議の声を上げデモをしようとしたら、それは阻止されたそうです。阻止をしたのは誰か?警察であれば、まあわかりますが、そうではなかったのです。阻止をしたのはモンゴルの一般市民のロシア・プーチン支持派の若者だったそうです。私もこの記事を読んだときは、そこまでロシアのプロパガンダに毒されている人がいるのかと驚きました。ロシアにとってのモンゴル国は重要です。今や、世界中にほとんど誰も友達がいないロシアにとっては数少ない「民主主義国家の友人」となりうるので、モンゴルに対する姿勢は結構優しいようです。恐らく人民党もかなりロシアの影響を受けているのでしょう。モンゴルの民間企業がウクライナを応援するためにウクライナの国旗を掲げたら、警察がやってきて取り下げるように言ったそうです。どこの国の国旗を私企業が掲げようとどうしようと警察は本来は関係ないはずです。こんな判断、指示ができるのは政治家しかいません。人民党は相当ロシアに対して従順姿勢を示そうとしているのだと思います。今、モンゴルではこんなジョークもあります。「ロシアへの制裁?」「ということは、モンゴルは長年ロシアから制裁を受けていたということなのか??」意味するところは、高関税や貿易制限尚です。モンゴルの肉や革製品などをロシアに輸出しようとすると40%もの高関税をかけられます。ガソリンの供給は気ままにストップするし、価格も完全な言い値です。電力だって、気に食わなければ止めることもあるのです。ですが、最近、モンゴル側も一矢報いているような事例もあります。モンゴルの北のロシアとの国境付近のロシア側の街では。とあるロシア側の小売店は「店にあるもの全て買ってくれ!」とモンゴル人にお願いするそうです。ロシアではルーブルが紙切れに近くなり、必要な輸入品が買えないのです。なので、モンゴル人に対して「ドルで全部買ってくれ」というわけです。モンゴルはドル交換は自由ですから、ドルを持って買いに行きます。結果、以前のほぼ半値程度で仕入れることができるというわけです。恐らく銀行送金を必要とする通常の取引は不可能なので、国境付近での現金取引だからできることだということでしょう。ロシアのウクライナ侵攻という、本来はモンゴルとは関係ない行為が、徐々にモンゴル国及びモンゴル民族全体に影響を与えているように感じます。
2022.03.13
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サイハンシンレーレー!!あけましておめでとうございます。今日はモンゴルのお正月ツァガンサルです。本来であればUBの街中を多くの人々が親せき、知人の家を行きかい、新年のあいさつをする日です。私が子供の頃は、日本でも親せきの家、知人の家へのあいさつは多くありました。サラリーマンだった父のもとへも、結構多くの人があいさつに見えましたが、もちろん今ではほとんどありません。都会であれば、特にそうでしょう。昭和のころは、正月3が日はほとんど仕事であいさつに回ることはありませんでしたが、4日とか5日の仕事始めには、お得意様回りあるいは銀行回りなどありました。そして7日くらいから15日くらいまでは業界団体の新年会など、まとめて新年の挨拶をする機会も結構ありました。ですが、その後平成になり、令和になり、更にはコロナになって、恐らくそんなものはほとんど誰もしなくなったでしょう。なんせ「たくさんの人が一か所に集まること」は悪いことなんですから。特に、公式行事っぽい新年会(業界団体など)はほぼ禁止でしょう。こういう習慣は、ネットや世代交代などで、基本的には年とともにすたれていくと思いますが、このコロナで2-3年やらなくなると、もうコロナが終わっても復活はしないんじゃないかと思います。基本的には「必要なこと」ではないのですから。やりたがるのは、その年に選挙がある政治家くらいなものでしょう。モンゴルも昨年に続いて、公的なツァガンサルの行事は中止です。街を行きかう人々も相当減ったそうですし、そもそもこの時期田舎に帰る人もかなり減ったことでしょう。まあ、近場に住む親せき同士で会う程度です。以前は各家庭で1000から2000個は作っていたホーショール(モンゴル式小籠包のようなもの、もっと肉が多いけど)も、今ではもちろん半分以下でしょう。昔からの伝統行事というのは、基本的にはどの国でもすたれて行くものだと思います。その理由はどの国も同じでしょう。一つは都市化。多くの子供たちが都市部へ移り住み、頻繁に家族で会う機会が減ったのはどの国でも同じです。第二には、それと共に地域コミュニティの緊密性はどんどん薄れていくことが原因でしょう。日本の場合はさらに地方の高齢化という問題もあります。今では、田舎で昔のような祭りをやるのは大変なことです。ですが、モンゴルでも日本でも平和な新年を迎えることができるというのは幸せなことです。先日、アフガニスタンの最近の情勢をニュースで見ていたら、今アフガンの人々は非常に生活に困っている、という報告がありました。タリバン支配になって、再び中世かと思うような世の中に戻り、殺人、虐待なんでもありの状態です。それに加えて、干ばつ被害がひどく、しかもタリバン政権になってから世界からの援助もほとんどなし。国民のほとんどが貧困層となり、苦しんでいます。更にコロナ・・・一体どこまで辛い運命にあるのかと思えば、まだ「普通のアフガン人」はましなんです。下には下がいるのです。それが「ハザラ人」です。ハザラ人については本ブログでも何度かお伝えしていますが、はっきり言ってほとんどの日本人には馴染みもなければ、同情もないでしょう。テレビでもほとんど見たことありません。ですが、そのハザラ人がひどい扱いをされているとの報道がありました。ハザラ人の祖先はモンゴル人です。チンギスハーンの時代に中央アジア一帯を支配した時に進出したモンゴル人の一部がアフガニスタンに残っていたのです。800年もたっているのですから、人種・民族的にはモンゴル系ですが言葉はすでに現地語になり、宗教もイスラムです。普通に考えれば、完全に現地化したと考えられます。日本だって、鎌倉時代に朝鮮半島や中国から来た渡来人は既に完全に日本人化しています。名前から、朝鮮や中国から来た人かな?なんて推定できる人なんて、全て明治以降に日本に来た人であり、それ以前の人たちがどこから来たなんて、今の私たちにはうかがい知れません。私自身、目が細いので(笑)恐らく大陸か半島から来た人がご先祖様ではないかと思う次第です。ですが、ハザラ人は違うのです。明確に「元モンゴル人」と認識され「アフガン人にとっては誰からも差別される人たち」なのです。ある種の、インドのカーストみたい、しかも最低層の人たちなのです。タリバン以前から、迫害、差別を受け続けてきたのです。ネットなどで調べると「シーア派とスンニー派」などともっともらしく宗教的な理由が書かれていますが、理由はもっとシンプルです。「800年前にお前らモンゴル人が来て、この地を蹂躙しただろう!?だから、今はその仕返しをするんだ!」ということです。これは辛いです。自分ではどうしようもないことですから。ハザラ人を殺しても殺人罪にはならない、というのも聞いたことあります。このように以前から、差別や迫害はひどかったのです。都市部の清掃員の多くはハザラ人だと言われています。それ以外の職業には就けないのです。そんなひどい扱いを受けていたハザラ人が、今回のタリバン支配でさらにひどいことになっているそうです。ネットニュースなどを見ると、もう書くに堪えない殺され方を日常的にされています。タリバンは一般市民に対してやり放題ですが、特にハザラ人に対しては何の躊躇もなく虐殺します。さらに問題なのは、ISです。あのイスラム国のISの生き残りが、アフガンに多いのです。ISとタリバンは敵対関係ですが、共通しているのはどちらもハザラ人へは簡単に虐待、虐殺するということです。それにしても800年もの間差別されてきたモンゴル系の人々がいるということには驚きです。ハザラ人にツァガンサルの習慣が残っているかどうかはわかりませんが、穏やかな新年ではないことは確かでしょう。モンゴル政府は何か助け舟を出せないものでしょうか?新年早々、辛い話ですいません。
2022.02.02
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年明けから、カザフスタンに関する情報が日本にも頻繁に入ってきています。日本に入ってくる情報をまとめると、「年明けから市民のデモが続いている」「デモの拡大を防ぐため、トカエフ大統領はロシアを中心とするCSTO(集団安全保障条約)に支援を要請した」「デモの理由は、燃料費の高騰に対する市民の怒りである」そして、「今まで退任後も影響力を持っていたナザルバエフ前大統領を安全保障会議議長から解任した」というものです。本ブログでもたびたびカザフスタンについてはお伝えしています。残念ながら私は一度も行ったことがないので、カザフについては書物、ニュースそしてモンゴル人の友人らからの情報程度しかわかりませんが、個人的にはかなり強い関心を持って見ています。なので、その程度の立場から今回の騒動を考えてみたいと思います。本ブログの読者である「カザフ人さん」からのコメントもあることを期待しています。まず言えるのは、今回のデモやそれに伴う暴動、鎮圧などが、単に燃料費が値上がりしただけが理由ではないだろうということです。カザフスタンは1991年以降2019年まで30年近くナザルバエフ前大統領が独裁的に支配していた国です。良いも悪いも含めて民主主義が定着したモンゴルとは政治体制上大きな違いがあります。その後任であるトカエフ大統領も前大統領との関係でなったわけで、大きな意味での政治体制は独立後30年以上もの間、ほとんど変わっていないと言えるでしょう。一部の報道で「カザフスタン、権威主義陣営へ」というものがありましたが、そもそもカザフスタンには西側諸国が言うところの民主主義になんかなったことは一度もないわけで、日本の報道機関がいかに中央アジア諸国に対して無知であるかを露呈したと思います。私が今回「単なる燃料費の値上げデモ」ではなさそうだと思うのはここにあります。単なる値上げのデモ程度であれば、強権的なカザフ政府であれば自国の力で抑え込むことができるはずです。それが困難になったのはなぜか?それはやはり、このデモの裏には政治的な動きがあるからだと思います。推測できる理由は二つ。一つは権力闘争、もう一つは民主化への流れ、です。この二つが合わさって、前大統領派、現大統領派そして第三の勢力(民主化勢力?)の政治家らによる権力闘争が根底にあるのかもしれません。更にはここに民族問題(カザフ人とロシア人)が複雑に絡み合います。現大統領の権威が以前と同じであれば、市民のデモ程度は自国の軍をもってすれば抑えられるでしょう。日本などの民主主義国と違い、市民の命の重さは現政権にとって大したことはありませんから。ですが、自国内での権威低下、軍を動かす力、が低下あるいは分散していたら、大きなデモを自力で鎮圧することは困難になります。最近やたらと「地政学」に関する本が出回っていますが、どれもこれも地政学を単なる「地理的要因で政治を考える」レベルでしか考えていないのが日本の現状です。元々確かに地理的要因が政治に影響を与えるという意味での国家概念は研究されてきましたが、現在の地政学の実質的な開祖はイギリスのマッキンダーによる「ハートランド」の概念から始まっています。そしてそのハートランドとはユーラシア中央部のことであり、現在でいえばその中心はカザフスタン及びその周辺と言えるでしょう。このハートランドに位置するカザフスタンは、独立後多面外交を続けてきました。旧ソ連であり、言葉や文化はすでにロシア化されていることから、ロシアの影響は免れません。ですが、ベラルーシのようにロシアべったりにはならず、常にロシアとは距離を保ってきました。ナザルバエフ前大統領とプーチンはよく喧嘩をしていました。プーチンは「カザフ民族なんてない。カザフなんてつい最近できた国だ」と揶揄したりすると「カザフは2000年の歴史を持つ民族である」と反抗している。恐らくカザフ人は突厥(テュルク)、更にはその前の柔然や匈奴などを念頭に民族の祖先として位置付けているのでしょう。ちなみに、モンゴル人の多くは匈奴(モンゴル語ではフンヌ)がモンゴルの原型だと捉えている人が多いです。またソ連支配の象徴であったキリル文字も、ラテン文字(いわゆる英語のアルファベット)に切り替える決定をしており、この点からもロシア文化とは距離を取りたいという姿勢がうかがえます。モンゴル的視点に立てば、「モンゴルもロシア、中国に囲まれているが、やはりモンゴル民族の文化、遊牧民の文化を大事にしたい。カザフのその流れは理解できる」となるでしょうが、カザフとモンゴルには決定的な違いがあるのです。それはモンゴルがほぼモンゴル人、多少の部族の違いはあっても、ほぼ「もともと遊牧民だったモンゴル系民族」が90%以上を占めているのに対して、カザフスタンは、独立時にはカザフ人よりロシア人のほうが多かったという事実があります。現在は、ロシア人のロシアへの帰国、中国からのカザフ人の帰国などにより、カザフ人が過半数を占めるようになりましたが、カザフの北部では今もロシア人のほうが多い地域があるのです。当然、過去は距離を置いていた中国の経済性も無視できず、カザフはこの距離を保ちたい両大国と、もっと近づきたいと願っている欧米との距離感を図らないといけないのです。このような構図の中で、トカエフ大統領は実質的にロシアにデモ鎮圧支援を要請した意味は大きいと思います。親ロシア勢力の台頭?、民主化勢力の意外な拡大などによって、自力では鎮圧できないと判断したのでしょう。もしこのまま放っておけば、ウクライナのような内戦状態に陥るかもしれないという危機感もあったのかもしれません。プーチンにとっては、「要請されての出動」ですから、国際的にもメンツが立ちます。これを機に、独裁的ではあったが対ロシアにやや反抗的であったカザフの立ち位置が変わっていくのかもしれません。私としては個人的にはちょっと残念ですね。
2022.01.08
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アフガニスタンから米軍が引き揚げ、タリバンが名実ともに全土を掌握してから4か月近くになろうとしています。この国は専門家の間では「帝国の墓場」と呼ばれているそうです。その意味するところは、「支配を狙う植民地主義や新植民地主義の外国勢力にとっての墓場になる」ということです。またある学者は「アフガンは占領しようとした外国勢力が逃げ出したくなるほど統治不能な国家をつくることで彼らを追い出した」と、まるでフグの毒のごとく、「進化論」的な皮肉を言うほど、統治不能な地域だと言ってます。近代的な意味での最初の「帝国」は大英帝国でした。イギリスは植民地インドと敵国ソ連との間にあるアフガニスタンを重要な拠点と考え、1839年(日本では天保10年)にアフガンに侵攻しました。資料を見ると、イギリス軍はほとんど抵抗もなく容易に首都カブールに入り込み、傀儡政権を樹立したとあります。ですが、そこからが大変で、イギリス軍は激しい抵抗を受け、1842年に2万人の兵をインドに引き上げようとしたが、その途中で部族勢力に襲撃され帰還できたのはわずか1人だとあります。その後、1878年と1919年にもアフガンに攻め入りましたが、結局は失敗しました。どうやら「負けた」というよりはイギリス軍が「疲弊した」ということが原因のようです。何か、今回のアメリカ軍の結果を示唆するようなことはもう100年前にアングロサクソンが経験していたということです。アフガニスタンはその後、共産主義国となりましたが、反共産主義勢力による反乱がおき、1979年にソ連が軍事介入をしました。アフガニスタンの共産化を防ぎたいアメリカの支援を受け、ソ連軍を苦しめました。アフガン人の死者は100万人に上り、ほかに400万人が住む場所を追われたのです。専門家は「ソ連は英国が1世紀前に達したのと同じ結論に行き着いた。つまりアフガンの直接占領は高くつくばかりで得るものはほとんどないということだ」と述べてます。疲弊したアフガンに現れたのがイスラム原理主義者タリバンでした。アメリカのサポートは、ソ連を追い出すことには成功したものの、タリバンを招き入れる結果につながったのです。そのタリバンはアメリカが供与した武器を使ってより強力になりました。タリバンがやったことは、テロリストへの隠れ場の提供、女性への残酷な処罰などが有名です。そして2001年9月11日への同時多発テロにつながり、アメリカ軍の攻撃を受けるようになったのです。タリバン政権は同年12月に崩壊し、2003年にはアメリカは「主要な戦闘は終了した」とほぼ全土を掌握した宣言を出したのです。しかしアフガン統治が難しいのはここからです。結果は今年の夏を見ての通り、イギリス、ロシアと同様に何の成果(利益)もなく撤退したというわけです。これほど統治の難しいアフガニスタンをモンゴル帝国はどう統治したのでしょうか?上手くやったのでしょうか?アフガンは当時はホラズムの一部であり、当時最強のモンゴル軍に徹底的に蹂躙されたことは確かのようです。残された有名な言葉があります。「彼らは来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」」というペルシャ語が残されています。その後、モンゴル帝国の衰退とともに、この地域は各部族が独立国家を作り分断されたようです。その統治の是非はともかく、今もモンゴル帝国の爪痕がアフガニスタンに残っています。それはハザラ人です。ハザラ人というのは、モンゴル帝国が支配した時にいたモンゴル人のアフガニスタンに残る末裔たちです。ハザラ人は今もアフガニスタンの人口の1割程度を占める、そこそこ大きな存在です。ですが、大きな、しかも公然とした差別を受けています。カブール市内の清掃業者はほとんどがハザラ人だと言われています。公然と差別されるとはどういうことか?それは法的にはどうかはわかりませんが、多くのアフガニスタン人にとっては「あいつらは差別されても仕方ない」「あいつらはこの国にいるべきでない」と思われ、一時期は「殺しても構わない」くらいの存在だったそうです。なぜか?それはなんとあのチンギスハーンの時代、13世紀、今から800年以上も前の出来事、つまりモンゴル軍が多くのアフガン人、ペルシャ人らを虐殺、蹂躙したことへの記憶が語り継がれ、その子孫たちが「てめえら、コノヤロー!」的に敵視、差別されているというのです。10年近く前にモンゴル人の友人のUさんがアフガニスタンを訪れ、ハザル人に会った時の話は鮮明に覚えています。Uさんはテレビの取材で訪れたのですが、現地で会ったハザル人たちは涙を流しながら喜んだと言います。「800年間、この日を待っていた」「先祖から、必ずモンゴルから迎えが来る。助けが来る。」と伝わっていたのだそうです。「私たちはこの国では、殺されても誰も気にしないような存在なのです。」とも言われたそうです。英ロ米の帝国支配も結局は上手く行きませんでしたが、それと比較しても800年前の帝国支配の辛い影響に比べればまだましです。そこに人が残っているわけではありませんから。ハザラ人の話は、今も昔も他人の土地を蹂躙してはいけないという教訓だと思います。
2021.12.03
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香港の民主化制圧に続いて、台湾征服を諦めていない中国共産党に関する記事はこのところかなり多いです。それとともに、新疆ウイグルへの民族弾圧も日増しにひどくなっているようです。少数民族への弾圧、漢化政策のそもそもの始まりは、漢人が数千年単位で恐れていた北の異民族、遊牧民族の現代の末裔であるモンゴル人弾圧でした。辛亥革命で清朝が倒れた後は漢人同士の争いもあり、「モンゴルの独立」とか「完全自治を認める」など甘い話をしていた共産党は、国民党を追い出すや否や、内モンゴル人弾圧に力を入れました。これに関しては、本ブログでも何度も触れています。1950年代から始まり、1960,70年代の文化大革命時代には特にやられました。「モンゴル人は殺しても罪には問われない」と言われたものです。内モンゴル人を弾圧し、骨抜き化に成功した共産党は、その矛先をチベットに向け、さらに今はウイグル人を徹底的に弾圧しています。やることは半世紀前と同じで「ウイグル人は殺しても罪には問われない」となっているようです。世界各地からの人権批判が出ても、この国の幹部には何も届かないというところでしょう。これらの漢人優位、中国周辺の領土は全部漢人のもの、という発想は、どこから来るのか?その原点ともいえる地図があります。これは国恥地図といって、「国の恥を描いた地図」という意味です。この地図は1933年の上海で発行された小学校用の地図の教科書に載っていたものです。これと実際の中国の地図とが比較されて載っていたそうです。その言わんとするところは何か?要するに本来の中国領土というのは、この地図の赤線に囲まれた偉大で大きな国なのに、今はこんなに小さくなってしまったんだよ、いつかは取り返さなくてはいけないんだよ、と子供に教育をしていたのです。これは国民党・中華民国時代に作られたものですが、中国共産党はその地図に関しては基本的な考え方を引き継いでいるのでしょう。つまりこれを実現することが習のいう「中華民族の復興」となるわけです。この地図をよく見ると、単に台湾を侵略するだけでは済まない意図が明確に見えてきます。この地図を現代地図で表してみましょう。内モンゴルどころではなく、モンゴル国全土は当然中国のものとなっています。それどころか、その北のロシア領バイカル湖手前まで中国領土だと主張しています。北東はハバロフスクどころか、なんと樺太/サハリンまでも中国だというのです。西の中央アジア諸国もほとんどが中国領であり、アフガニスタンも当然中国領という認識です。南はなんとインドシナ半島全域とボルネオ島北部までが中国領です。確かにこれを見ると、九段線(中国の赤い舌)全域が中国領と主張する根拠が見えてきます。東南アジア各国の独立は認めながらも、全然関係なさそうな南シナ海全域を自国領と主張するのは、この地図を信じているからなんでしょう。だったら、ベトナムにもタイにもブルネイにも「そこは中国の領土だ!」と主張すればいいのに、なぜかそれはしませんね。そこまで馬鹿なことは言えないということなんでしょうか?であれば、九段線も十分ばかばかしい主張なんですけどね。東を見れば、朝鮮半島は丸々中国領です。習がトランプに「韓国は元々中国だった」と「教えた」らしいですが、恐らくこのような地図をトランプに見せたんじゃないでしょうか?歴史を知らないトランプは、こうしたもっともらしい地図を見て「なるほど、確かに半島は中国領だな」と納得したのかもしれません。中国大好きの文大統領や中国の子分である金主席はこの地図を見て、何というのでしょうか?「宗主国様、よろしくね!」って言うんでしょうか?日本も他人事ではありません。沖縄はもちろん、よく見ると奄美辺りまでも中国だとなっています。ひどいもんですが、これが中国の領土的拡張野心の原点と言えるのでしょう。ですが、この地図は現在は使われていません。発禁?らしいです。当然、さすがの中国も「本当はこうなんだぞ!」と現代社会では主張はできないのでしょう。が、私は微妙に言いたくない不都合な真実があるからだと思います。この地図では、太線が旧時国界(昔の、本来の国境)で点線が現今国界(現在の国境)となっています。その現在の国境が問題なんだと思います。特に九段線が国境ではなく、南シナ海の領土が今の主張に比べ大幅に減少しています。しかもフィリピン付近は、本来の拡大国境すらありません。つまり、この頃には今の九段線が国境だという認識はなかったという証拠になります。だとすると、今の中国がやっていることは「本来は中国領であるべき九段線の領土は、この時点では領土ではなかったので、現在の活動は領土を取り返すためにやっている」ということになります。また、フィリピン近くの諸島は「そもそもどう拡大解釈しても中国の領土ではありませんよ」ということになります。これは現在の共産党の主張「九段線はずっと変わらず中国の領土であった。だから問題ない。」というのと矛盾します。もし「元の領土を取り返す権利がある」というのであれば、プーチンに対してハバロフスクや樺太を返せ!と言ってもらいたいものです。アフガニスタンは大混乱しているのですから、中国が直接乗り出して、タリバンと戦って領土を奪えばいいのです。まさに都合のいいところだけを解釈して、主張している共産党の特徴が良く出ています。モンゴルは、内モンゴルだけじゃなく、いつも狙われていることを良く肝に銘じてほしいですね。
2021.10.20
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日本人なら誰もが知っている「元寇」(1274年、1284年)ですが、こんなの知っているのは実は日本人くらいしかいないでしょう、と言う話です。明治以前の日本は長い鎖国政策もあり、ほとんど外国と争うことはありませんでした。もちろん、海賊船が出たとか、他国が魚を捕りに来たと言ったレベルの争いはあったでしょうが、国レベルの国際戦争はありませんでした。こんな国は実は世界史では珍しいのです。モンゴルなどの遊牧民と中国の争いは紀元前以前からで、まさに日常茶飯事でしたし、ヨーロッパも年中戦争してました。中東しかり、インドしかり。アメリカだって、対イギリスやメキシコと戦争してましたから。よく考えれば、日本は本当にのほほんと数百年の間戦争がない平和な島だったのです。同じ島国でも、年中戦争していたイギリスとは大違いです。そんな平和ボケの日本を襲ったのが鎌倉時代の元寇でした。この印象の大きさは、その700年後の太平洋戦争の「神風」という言葉で蘇って現れるほど、日本人の記憶に残り続けたのです。元寇については、「台風のおかげだ」とか「いや、実際に鎌倉武士が強かった」とかいろんな説がありますが、そんなことは全部に日本国内での話です。では、戦った相手国はどうなのか?ここで言う相手国とは、今の時代に置き換えれば中国とモンゴルとなります。どうなんでしょうか、小学生にとっての元寇は「中国が攻めてきた」と思っているのでしょうか?それとも「モンゴル人が攻めてきた」と記憶しているのでしょうか?私の記憶は曖昧ですが、「モンゴル人がきた!」方が強かった気もします。そのように日本では誰もが知る元寇ですが、相手国ではほとんど誰も知らないのです。中国上海に住む方の記事を読みました。その方が、周囲の人に聞くと誰も知らない。ネットなどで調査しても全く反応がない、のだそうです。「え?中国が日本を攻めたの?」とかの反応で、まず誰も知らないとのことです。それを聞いて日本人はがっくりくるということですが、私は「そりゃあ、仕方ないわな」と思います。中国は歴史的に年がら年中国内外で戦争していたわけで、しかも異民族との戦争では「負けたら国が滅亡する真剣勝負」がたくさんあったのです。そんな中、たかが他国へ侵略して失敗した程度の話は、教科書にも載せないくらいの「軽い出来事」なんだと思います。もし、元寇で日本侵略が成功したら、今頃、習は「日本は核心利益」「日本民族は中華民族の一部である」「武力を使ってでも、日本を取り戻す」なんて言ってるんじゃないでしょうか?その場合は、当然あの元寇は中国の歴史の教科書に大きく扱われるでしょう。中国の教科書で取り上げないのは、そもそもその王朝が「元」であったことも理由です。今の中国共産党にとっては、建前上はモンゴル人は中華民族の大切な構成員ですが、彼らもバカではないので、本音では「元は野蛮な異民族に乗っ取られた、恥ずかしい王朝」くらいの認識です。なので、元寇を語るとしたら、モンゴル人の漢人征服を語らねばならず、それはそれで漢人には面倒くさい話です。この筆者によれば、共産党による中国史の教科書では、中国共産党の「輝かしい歴史」がほとんどで、モンゴル人王朝の元なんかにはほとんど触れないそうです。習は「中国は自ら他国を侵略したことは歴史上一度もない」と、まるで歴史を知らないバカっぷり丸出しですが、そういう発言にとっても元寇はあってはならないのでしょう。中国はわかったけど、モンゴルはどうなのか?日本人観光客がウランバートルに着いてから、市内観光で必ず訪れるところがザイサンの丘です。ここにはいかにも社会主義!って感じの兵士らの絵が描かれた壁があります。ま、今の北朝鮮が書きそうな絵です。それを指差しながら、モンゴル人ガイドが「日本に行ったことがないとは信じられないほどの上手な日本語」で説明します。「これはハルハ河戦争での対日勝利を祝った絵です」「モンゴル・ロシア連合軍が対日戦争で勝利した記念の丘です」と。するとほとんどの日本人観光客は年齢に関係なく「えー!!??何それ?日本とモンゴルが戦争したの?」「元寇のこと?」と聞き返すのは、お決まりの反応です。要は、日本人は何も知らないってことなんです。ハルハ河戦争は日本では「ノモンハン事件」と意図的に「戦争」よりも矮小化させた「事件」という言葉を使って、なるべく隠したがるのです。まあ、どこの国も自国に都合が悪いことは隠すか、矮小化するかするのでしょう。ところが、何も知らない日本人ですが、今度は反対のことが起こるのです。モンゴル人ガイドがこう聞き返すのも、やはりお決まりのパターンです。「ゲンコウ?なんですか?」「えー!!??モンゴルが日本を攻めたんですか?そんなの知らない!」と。当然ですが、ほとんどのモンゴル人は元寇なんて知らないです。なので、今度は日本人ががっかりするというわけです。お互いの国を知り合うというのは、これほどかように難しいことであり、その国の「教育」がいかに関連しているかがわかります。大人になった今、小学校の教科書なんて誰も関心ないでしょうが、やはり子供の教科書はその国の意識・常識水準を決める大きな存在だということがわかります。中国は無理でしょうが、せめてモンゴルとは理解し合える国になりたいものです。
2021.07.06
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先週からこうしたニュースがネット上に出てきています。当初は在カザフ中国大使館が「新型コロナウィルスより深刻な肺炎」と警告を出すと、即座にカザフスタン政府が「正しくない」と否定していました。更には「中国発のフェイクニュース」と一蹴していたので、私もどちらの言い分が本当なのかはわかりませんでした。カザフの新型コロナ感染者は先週現在で、感染者数約5万5千人、死者550人とのことです。モンゴルとの人口比(カザフはモンゴルの約6倍)で計算すると、モンゴルはカザフと同じ人口だとしてもわずか1400人程度です。死者はゼロ。つまりカザフの感染者の比率はモンゴルのおよそ40倍ととんでもなく蔓延していると言えます。死者数で言えば無限大!同じ内陸国として考えれば、モンゴルの対策の方が数十倍も優れていると考えてもいいのかもしれません。私の推測では、モンゴルの方が「経済よりもモンゴル民族の存続」をより重視しているように思えます。カザフはモンゴル以上に、よりロシア化された国でありロシア人が多く対策も「ロシア並」と言えるでしょう。(つまり対策が下手ってこと)しかも経済的には一路一帯のメインルートということもあり、中国のとの結びつきもモンゴル以上に強いでしょうから。この両「世界最悪国」の影響をたっぷりと受けているのでしょう。で、この新しい肺炎ですが、その後も報道が続いています。現地メディアの報道では、この半年で死者数が1700人を超え、先月だけで628人もの死者数が出たんだそうです。1か月で628人はすごいです。日本で言えば、1か月で5千人も死ぬってことですから。ただ韓国での報道では「この新しい肺炎は、新型コロナである可能性が高い」とも報道されています。そうだとしたら、新型コロナの死亡者数が2000人を超え、これまた大変な事態です。元々の社会主義国で、内陸国で遊牧民族という似たような隣国が大きく経済的に発展してきたのは事実です。「発展途上の民主主義国家」は「独裁国家」より経済発展が遅いのかという疑問は常にありましたが、こうしたパンデミック対応を見ているとブラジルしかり、トランプのアメリカしかり、プーチンロシアに発生源である中国も同じですが、独裁国家の方が弱いのかもしれません。独裁トップが「それは危険だ。防止に努めよ!」とGoサインを出さない限り「我が国は問題ない」との立場しか出せないんでしょうね。
2020.07.13
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先日、NHKの番組でアイアンロードというのを見ました。シルクロードは有名ですが、それよりも古くからある北の草原にある東西を結ぶ道のことです。番組の詳細の紹介はここでは書きませんが、そこから得た示唆をいくつかご紹介したいと思います。まずはスキタイの東への広がりです。スキタイは遊牧民としては最も古い紀元前7世紀ころに黒海やカフカス地方にいた人々です。このスキタイは、製鉄技術を持った最も古い人々であるヒッタイト(今のトルコのある半島にいた)の技術を継承したのだそうです。ヒッタイトは紀元前15世紀頃ですから、その頃の日本は縄文時代であり、鉄どころかようやく土器を作っていた時代です。スキタイについては私もいくつかの書物を読みましたが、インドヨーロッパ系人ということもあり、かなり西方の国という認識でした。ですが近年の調査では、かなり東方、アルタイ地方までスキタイの勢力は延びていたということです。今で言えば、ロシアのトヴァやモンゴルのオブス県辺りまできていたようです。そしてその技術は、紀元前3世紀にできた匈奴に引き継がれたのです。この匈奴ですが、日本語ではもちろん「きょうど」ですが、当然ながらこれは完全な日本語読みです。モンゴル人は「フンヌ」と呼び、モンゴル人の祖先と考えています。フンヌは一般的にも使われており航空会社「フンヌエアー」は有名です。HUNNUの文字が見えます。漢字にすると「匈奴航空」となります。ですがもちろん匈奴という字は中国お得意の「悪字」です。「騒乱を起こす連中」の意味があるそうですから、北から攻められる漢人にとっては確かにそんな気持ちになるかもしれません。匈奴の軍事力が強かったことは有名ですが、そこに製鉄技術が大きく影響していたとは知りませんでした。鉄があるとなぜ強いのか?当然ですが、まず考えられるのは武器です。弓矢の先につけた鉄の矢じりの破壊力は半端なく、漢人が持つ青銅でできた盾をも貫き、その後ろにいる人間も殺傷するほどの力があったそうです。なるほど、今でもナーダムで弓が大切な競技の一つとされるのは、この弓矢による軍事力アップがあったということなんですね。テレビでは青銅の盾を貫く実験が映されましたが、確かに石でできた矢じりとはけた違いの強さを見せていました。ですが鉄が軍事力に重要なのはこれだけではなかったのです。騎馬です。騎馬民族なんだから当たり前だと思いがちですが、実は昔の遊牧民は確かに馬には乗っていたけど、それは羊を追う程度で、長距離を俊敏に走ることはできなかったのです。それを可能にしたのは「ハミ」です。ハミと馬具の一つで、馬を自在に扱う上での最大の発明とも言われています。鉄製のハミができるまでは、馬の首や頭に縄を巻いて制御してましたが、細かい人間の意思は伝わらず、馬は単なる移動手段に使うだけだったのです。木製のハミでは耐久性がなく、使い物にならなかったそうです。この鉄のハミができてから乗馬技術は飛躍的に伸び、これ以降近代兵器が登場する18世紀までは騎馬軍団が地球上で最も強力な軍隊であったわけです。つまりチンギスハーンも、ハミがなければとてもじゃないが、世界征服はできなかったというわけです。全く関係ありませんが、私の高校時代の世界史O先生のあだ名は「ヒッタイト」でした。ヒッタイトという聞いたこともないようなインパクトのある名前、語音が生徒らに強く印象に残り、その先生をヒッタイトと呼んでいたのです。先生の見た目とは全然関係ありません。今でも同窓会ではその先生のことをヒッタイトと呼ぶほどです。その「ヒッタイト」から「スキタイ」へ。「スキタイ」から「匈奴」へ。そして「匈奴」から「モンゴル」へ。なんだかこじつけのようですが、ちょっぴり私にも縁があるように感じてます。その匈奴は武力で大国漢を圧倒し、毎年莫大な貢物を約束させるなど、東アジアでは大きな存在となりました。ですが、漢の武帝の登場で匈奴は西域の一部を失い、北の草原に追いやられてしまったのは有名な話です。なんとこれにも製鉄技術が背景にあったのです。武帝は青銅器が鉄の武器に負けるのを見て、製鉄技術を向上させ、匈奴の鉄よりもより強い鉄を作り上げたのです。その上、情報戦で仕入れた内容を軍事に生かし、何度も匈奴を打ち負かしたというのです。今も昔も変わらないと思いました。企業は新技術の導入で優位に立つ。しかしその技術の革新を怠っていると、競合はよりよい技術を導入し、逆襲する。武器だけの世界ではなく、企業間競争も同じことが言えます。残念だと思ったのが、紀元前にはモンゴルに製鉄技術があったということです。その後どうなって消えてしまったかは不明ですが、当時土器をこねていた日本が近代になって世界最高の製鉄技術を持つようになったのです。モンゴルには鉄鉱石も石炭コークスもあります。でも、2000年以上前から持っていた製鉄技術は消えてしまいました。歴史の難しさを知るとともに、モンゴル草原のはかないその後の行方を思い巡らさないわけにはいきません。
2020.01.13
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少し調べてみて、なぜかわかりました。トゥバ族は元々は人種的にはモンゴル族でありしかもチベット仏教なのですが、言葉がテュルク系なのです。なので、現在のモンゴル人から見ると言葉が通じないので、今一つ親近感がわかないのかもしれません。ですが、もともとモンゴル族だったけど、その後テュルク系に変わった人たちはものすごく多いです。というか、もしかしたらそっちの方が多いかもと思ってしまうほどです。要するに、チンギスハーン後に西へ行ったモンゴル人の多くは今の中央アジアから西に残ったわけです。そしてそのほとんどが、言葉はテュルク系になり宗教はイスラム教になったわけです。そう考えると、このトゥバ族は完全なテュルク系に変わっていく途中の民族のようにも見えます。言葉はテュルクだが、生活様式(ゲル、オボー、ナーダム)はモンゴルのままだと。テュルク系の言葉とモンゴル語はどのくらい違うのか?モンゴル人に言わせれば「全然違う」と言います。私が「モンゴル語と日本語と同じくらいに違う?」と聞くと「そうだ」と答えますが、これはさすがにそうではないでしょう。まず耳で聞くとどうか?モンゴル人がいくら「全然違う」と言っても、私たち外国人にはそうは思えません。「モンゴル語と中国語」は全然違いますね。韓国語もそうですし、日本語ももちろんモンゴル語と間違うことはありません。ロシア語も英語もモンゴル語とは全然違うように聞こえます。ですが、番組内でトゥバの人たちが話していた言葉は、正直言ってモンゴル人が話しているのとほとんど同じように聞こえました。研究者の世界でもモンゴル語とテュルク系言語は同じグループの言葉とされています。なので、言葉を覚えるのも比較的簡単なのでしょう。現に、モンゴル国立大学で私の生徒だったバヤンウルギー出身のカザフ人の生徒は「モンゴル語と似ている」「モンゴル語は学びやすい」と言ってました。彼はモンゴル国生まれですが、カザフ語で育ち、モンゴル語は小学校6年生から勉強したと言ってました。更に今回発見したのは、実は私はトゥバ族と会ったことがあった。話したことがあったということです。フブスグル県の山の方にツァータン族という少数民族がいるのは有名です。こちらは本当の少数民族で、現在人口500人くらいだとか。ツァーというのはトナカイのことで、トナカイを飼う民族という意味らしいです。このツァータンはトゥバ族なんだそうです!懐かしい顔を思い出しました。更に、話の中で、「モンゴル人は寒がりだからのぉー」といかにもモンゴル人とは違うという話し方をしたのを覚えています。このおじいさんのことはよく覚えています。「あなたみたいに、ツァータンのことを聞いてくる外国人観光客に初めて会った」と言われました。ツァータン族訪問については、ご興味ある方はこちらをご覧ください。https://plaza.rakuten.co.jp/mongolmasami/diary/200907250000/トゥバ族とは、中国、ロシア、モンゴルそしておそらくカザフスタンの4つの国に引き裂かれた民族なのです。たまたま近代になって、あの辺に国境線を引いたから引き裂かれたのです。そう考えると、世界にクルド人のようにその民族中心の国を持たない、しかもその住居地域がいくつもの国によって引き裂かれた少数民族は非常に多いんだろうなと思います。特に陸続きで移動の多かった遊牧民にはそういう悲劇が多数あるのだろうと思いました。モンゴル族は引き裂かれてはいるけど、自分の国があるのは満足すべきことなのかもしれないと思いました。・・・あ、言い忘れてました。どうもアルタイ山脈に住むトゥバ族の地が、スキー発祥の地ではないかと思われる発見があったのです。この地のトゥバの人たちは、今も自家製のスキーで狩りに出かけます。スキーの滑走面は、馬の毛で「逆行しないように」蔽われているのです。そのルーツは1万年前とも言われています。スキーを使った狩りが描かれている洞窟の壁面です。「中央アジアがスキー発祥の地」「山岳民族が1万年前にスキーを発明!」なら、いいニュースに聞こえますけど、漢人とは何の関係もないのに「スキー発祥の地は中国!」とプロパガンダに使われるのは、非常に違和感があります。(完)
2019.11.01
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最近なぜかNHKBSでは民族っぽい番組が多くなっているように感じます。ですが、アジアで「少数民族」っぽい話はどうしても中国国内で「辺境」扱いされるのが少し気に入りません。そりゃあ、漢族が他民族の土地を奪った歴史があるので、場所的にもどうしても「辺境」になってしまいます。更に「正しい土地の獲得」すなわち「その民族の同意」があったわけではなく、侵略、略奪の歴史の結果なので、中途半端にその「少数民族」とやらが分断され、本当の少数民族になっているのが、中国の「少数民族」の定義だと思います。モンゴル族だって、モンゴルに来れば立派な「民族国家」ですが、内モンゴルは人口500万人もいるのに「少数民族」扱いだというわけです。とはいえ、そんな正論を吐いても何も変わらないので、NHKの言う通りの少数民族関連のテレビを最近多く見ています。今回見た題名は「中国秘境 謎の民「木馬氷上を馳せる」です。それらしい題名ですが、全く期待せずに見始めました。すると主人公は「トゥバ族」というではないですか。「えっ?トゥバ?トゥバ共和国ってロシアじゃないの?」と番組名を再確認したほどです。やはり間違いなく中国の少数民族です。中国には少数民族はたくさんいるし、そもそもカタカナ表現であることを考えると「同音異義語」である可能性もありましたが、どうやらあの「トゥバ共和国」のトゥバ族と同じ民族のようです。住居地域は新疆ウイルグル地区ではありますが、お馴染みのウルムチ(もちろん、モンゴル語!)やカシュガル辺りではなく、ずーーっと北です。モンゴルの地図を見ると、北にロシア、南に中国というのはお馴染みですが、西隣は?と気にしたことはありませんか?普通の地図では、バヤンウルギーの北はロシア、南は中国で西隣はカザフスタンに見えます。まるで4か国の国境が「点」でつながっているように見えてしまいます。ですが、そこを拡大すると、モンゴルはカザフスタンとは直接接していなくて、ロシアと中国が短い国境で接しているのです。そのロシア国境近くに中国のトゥバ族が住んでいるというわけです。その国境付近にあるカナス湖周辺に暮らしているのです。番組を見ながら、確かにモンゴル人とそっくりだと思いながら見ていました。もちろん遊牧生活で、住んでいるのはモンゴルのゲルとほとんど同じですが、名前はゲルでもパオでもなく「ユルタ」と言います。これは同じ遊牧民でもテュルク系はユルタと呼ぶのだそうです。建物の作り方も室内の飾り方もほとんどゲルと同じでした。オボーはオボと呼ばれていました。まあ、これは同じ言葉と言っていいでしょう。見た目も役割もモンゴルのオボーと同じです。ホーミーも同じ。馬頭琴も同じ。踊りだって、私の眼にはほとんどモンゴルの踊りと同じに見えました。更には夏には「相撲と競馬」のお祭りがあります。ナーダムはこれに弓矢も入りますが、田舎での様子はこれまたモンゴルとほとんど同じ。少年たちが長距離を馬で駆けるのも同じ。とまあ、ほとんどモンゴル族じゃないかと言いたくなるほどです。何が違うのか?それは言葉です。トゥバ族はテュルク系なのです。つまりトルコ語で、カザフやキルギスと同系列です。ですが、以前に、ロシアにある「トゥバ共和国はモンゴル系の人たちの国」と聞いたことがありますが、どういうことなんでしょうか?しかも、モンゴル人にとってはブリヤード人はモンゴル人の仲間だと明確に意識していますが、トゥバ人はそうでもありません。なぜか?(続く)
2019.10.30
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先日、日本政府が観光誘致支援のために「中央アジア一括ビザを支援する」という記事が出ていました。モンゴル観光振興の立場からも、ちょっと気になるニュースです。記事によると「日本政府は中央アジア各国が外国人観光客を誘致する取り組みを支援する。観光客が域内5カ国を自由に行き来できる周遊ビザ「シルクロードビザ」導入を呼びかけ、年内にも一部の国との合意をめざす。」とあります。これは外国人観光客がどこか一つの国のビザを取れれば、域内5か国を自由に移動できるというものです。ヨーロッパのシェンゲンビザみたいなものでしょう。この5つの国とはどこか?記事には書かれていませんが、恐らくカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンのことでしょう。これらは地理的に言えば概ね、中国やモンゴルよりも西で、カスピ海よりも東のエリアといえます。歴史的には遊牧民が多く、言葉もテュルク系が多い地域です。(もちろん、細かく言えばイラン系とか多様ではありますが)またオアシスがあった場所でも有名ですから、「シルクロードの中心地」とも言えるでしょう。この5か国の一括ビザを可能にするという案です。日本人にとっては、これらの国への訪問にはビザはどうなんでしょうか?調べてみました。調べたのは民間のビザ専門会社のHPです。まず気になったのは「アジア」のパートに載っていなかったということです。この会社のHPは日本人向けの「ビザ要否一覧」を載せているのですが、それが地域別に載っています。アジア、中近東、東欧、西欧・・・とあるのですが、なぜかアジアには載っていません。モンゴルはもちろんアジアに載っています。どこにあるかと言えば東欧です。これは「旧ソ連国は全部東欧」と見なしているんじゃないかと思います。で、結果を見てみましょう。(基本は観光客です)カザフスタン 不要。ウズベキスタン 不要。キルギス 不要。タジキスタン 必要。トルクメニスタン 必要。という結果でした。ビザなし国が世界一多い日本人にとっても、タジキスタンとトルクメニスタンは必要なんですね。このシルクロードビザ制度ができたら、これらの国へも自由に移動できるということになります。この制度を導入すれば、「日本政府は域内各国と日本をつなぐチャーター便の増設を呼びかける。観光分野での人材育成を強化するため専門家を現地に派遣し、日本で研修を開く。水洗トイレの普及や公共交通機関の外国人対応などでも日本のノウハウを伝える。」と言ってます。これは意外と、観光無策のモンゴルにとっては大きな脅威になるかもしれません。そもそも今も、モンゴルへの日本人旅行者は数は少ないですし、モンゴル国としても大した振興策はやってません。モンゴル人は「この素晴らしい自然が売り物です」と言いますが、裏を返せば「特に何もしないので、興味があれば来てください」的対応です。私が長年日本人観光客を観察してきた感想を申し上げれば、モンゴルは日本人にとってはあくまでも非メジャーな、秘境とは言いませんが、優先順位の高い観光目的地ではないように見えます。一般的な日本人観光客にとっては、通常観光地を考えるときは「素敵で憧れのヨーロッパ」「身近でグルメも楽しめるアジア」「世界の大国アメリカ」などがまず浮かびます。地域でない切り口としては、「南の島でのんびり」とか「世界遺産を求めて(南米や中東など)もあるでしょう。モンゴルは残念ながら、少なくとも旅行初心者にはこれらのキーワードはひっかかりません。アジアなのに、ヨーロッパみたいに航空運賃が高いとか、アジアなのにグルメ目的とは言えない、有名な世界遺産と言える建造物がほとんどない、などがその理由と言えます。ではどういう人たちが来るのか?それは「既に世界中、いろんなところを回った。まだ行ったところに行ってみたい人」「アジアの歴史、大草原に触れてみたい」などが多いように見えます。日本人にとってのファーストチョイスではないけど、面白そうな国、未知の世界といったところじゃないでしょう。そうなるとこのシルクロード5か国ビザは強敵になるかもしれません。「遊牧民」や「大草原」という売り物は、モンゴルの専売特許ではなく、この5か国にも当てはまります。もちろんモンゴル人は「自分たちとは違う」と主張するでしょうが、日本人にとっては似たようなもんです。ネーミングの「シルクロード」もアピール抜群です。講演会などでも、地味なモンゴルの歴史話よりも、シルクロードと名付けた講演の方が圧倒的に集客がいいのは経験済みです。更にこの5か国にはイスラム系の宗教的建造物がたくさんあります。オアシスには文化の多様性を示すものも多いことでしょう。モンゴルに明確に劣るのは「知名度」くらいでしょう。このシルクロードビザにモンゴルも入れてもらう(日本人には関係ありませんが、モンゴルのビザが必要な国のために)とか、5か国内の移動の自由(今はモンゴルからは飛行機で直接行けません)のための交通網など、いろいろ考えた方が良いかもしれません。「いやいや、モンゴルはモンゴルの魅力だけで十分だ」なんて意地はっていると、新潟県みたいになってしまうでしょう。以前、本ブログ2014年2月16日付け、「モンゴルと新潟県の共通点」(https://plaza.rakuten.co.jp/mongolmasami/diary/201402160000/)にも書いたように、どっちつかずで孤立化するということです。「北陸新幹線記念北陸旅行!」とか「東北グルメの旅」なんてタイトルの旅行プランがあっても、新潟県はどっちにも含まれていないのです。新潟県は「北陸三県」でもなければ「東北路六県」でもない、孤高の県なのです。なので、観光庁が訪日外国人向けに設定した「昇龍道」(中部・北陸)コースにも「東北探訪ルート」にも載っていません。もちろん単独なんてあり得ません。モンゴルは政治面だけでなく、観光や人的交流面でももっと中央アジアと接近した方がいいと思います。新潟県を反面教師に。
2019.08.04
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今朝起きて本ブログの管理画面を見ると、8年前の記事がアクセス上位に来てました。「なんでこんなページに突然アクセスが増えたのだろう」と不思議に感じました。そしてニューサイトに移ると「真央さん、悲劇になぜ、どうして?」とありました。それは浅田真央さんが一緒に練習をしたことがあるカザフスタンのスケート選手が、母国で強盗にあって殺されたというものでした。読み進んでいくと、「テン選手は自分の車からミラーを盗み取ろうとした2人の人物を見つけ、争いになり、刺されたという。」とあります。「え?ミラー?まさか・・・」私は「サイドミラー 盗難」で検索してみました。するとなんと私のブログがトップページに載っているではないです。そのページとは2010年4月21日付け「サイドミラー、2度目の盗難」(https://plaza.rakuten.co.jp/mongolmasami/diary/201004210000/)です。これは8年前モンゴルで暮らしていた当時に愛車ランドクルーザープラドのサイドミラーがまだ明るい時間帯に盗まれたことを書いた記事です。しかもその時が2回目であり、その前にも盗まれていたのです。当時の友人のBさんのコメントによると「モンゴルでは車の部品の盗難は日常茶飯事ですから、気を付けてください」とありました。要するに転売目的の泥棒がよくいるということです。ですから今朝のニュースを見たときに、これはまさに他人事ではなくモンゴルでも十分に起こりうる話だと思いました。私の場合も、もし現場に犯人と出会ったらきっと大声で騒いでたでしょうから、その後どうなっていたかはわかりません。そう思えば、単なる盗難だけでラッキーだったと考えないといけません。「カザフスタンとモンゴルは全然違います」と言いたいところですが、普通の日本人にとってはどこが違うのかなんてわからないでしょう。だから、私のブログへのアクセスも急増したのでしょう。今回の事件は午後3時ころだそうです。つまり真夜中とかではない普通の時間帯であることを考えると、治安の悪さが感じられます。残念ですが今のモンゴルの治安を考えれば、モンゴルで似たような事件が起こっても驚きはしません。私の時も昼間でしたから。というか、今回は有名人の被害者なので世界的に報道されただけで、モンゴルでもカザフスタンでも類似の事件は普通にあると考えた方がいいとも思います。被害者のデニス・テンさんは韓国系カザフスタン人と紹介されたり高麗人と紹介されています。彼によれば彼の祖父が抗日義兵だったとありますが、具体的にどのようにしてカザフスタン人になったのかは不明です。ですが、ルーツをたどれば高麗人とカザフスタン人は同じ騎馬民族ですから、カザフの中にはそうした系統の人々はもともともいた可能性はあります。高麗人は朝鮮半島の北部から中国東北部(いわゆる旧満州地域)にいたツングース族がそのルーツと言われています。ツングース族は、騎馬・狩猟民族系でモンゴル人と同じグループで、満州人のルーツでもあります。カザフ人はトルコ系騎馬民族がそのルーツですから、太古の昔よりモンゴル高原の東西にまたがる遊牧地域を行き来し、混血も多かったことでしょう。テンさんはカザフスタン初の冬季オリンピックメダリストです。モンゴルはまだ冬季オリンピックのメダリストはいませんが、カザフでの存在感としてはモンゴル初のオリンピックメダリストである白鵬のお父さんのような大英雄ではないかと想像されます。25歳、若すぎる死。カザフスタンから世界への扉を開けてくれた若い英雄の死はとても残念です。ご冥福をお祈りします。
2018.07.20
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さきほど、内モンゴルも一緒に文字革命があった方がよかったどうかは、難しい問題だと書きました。それはモンゴル文字の継承です。半世紀以上もキリル文字を「使わせられて」いたわけで、社会主義時代には「チンギスハーンの否定」に始まり、モンゴルの多くの歴史や文化は否定されてきました。多くの学者たちも粛清されてきました。それは同時に、「モンゴルの歴史の記憶の消滅」「モンゴル文字の抹殺」を起こしてきたのです。今のモンゴルの年配の方々は「チンギスハーンは歴史上、世界最大級の極悪人」と教育されてきたほどです。モンゴル文字なんかもちろん使用禁止でした。こんな状態が半世紀以上も続いたら、そもそも「モンゴル縦文字に戻りましょう」と言ったところで、何をどうしたらいいか、どこから手を付けていいか、わからなかったでしょう。でも、内モンゴルには残っていたのです。中国だって相当内モンゴルにはひどいことをしてきましたが、文字の使用禁止はしませんでした。また既述のように、「キリル文字化」も認めませんでした。その結果が、こうして縦文字が生き延びれる大きな要因になったのです。ロシアも中国も、モンゴル人にとっては民族を分断したり、歴史を消し去ったり、それはそれはひどいことをしてきました。ですが、こうして別々に管理されていたことで、モンゴル縦文字の文化が生き延びたんだと思うと、ちょっと複雑です。もし、内モンゴルも一緒に清から独立し、その後ソ連傘下になったとしたら、もしかしてモンゴル文字は本当の「古典文学用の文字」でしかない存在になっていたかもしれません。最後に、「モンゴルもカザフスタンのようにラテン文字化すべきか?」というテーマです。私は、今のモンゴル人は「キリル文字を縦文字に変換する」のは簡単ではないですし、パソコン文字などのインフラも十分ではないと思います。が、ラテン文字化は既にルール化されており、モンゴル語のできな私ですらも、文字の変換ならほとんどできます。つまり、簡単ということです。もし転換されると、発音の種類が減っていくでしょう。OとӨ 、YとУなどが整理されて、母音が減っていく可能性はあるでしょう。ロシア文字をモンゴルに導入するときに、これらの複数の母音を追加したわけで、もともとキリル文字に母音がたくさんあるわけではありません。ラテン文字にするということは、より使いやすく、外国人にもわかりやすくということですから、これらはOとUだけに集約されていくと思います。日本語だって「いとゐ」「えとゑ」別々でしたが、集約されてきた歴史がありますから、モンゴルもそうなるかもしれません。ただ、この議論を国会でやりだしたら「キリルのままがいい」「ラテンがいい」「どうせやるなら縦文字がいい」など大きな論争になるでしょう。これを無理やり決めることは今のモンゴル(の国会)ではできないでしょうから、実現性は薄いと思います。文字というのは、言語の中の大きな要素ですから、決めるのは自分たちで決めたいというのは当然です。が、そこに歴史(浸透、書籍、文化)が絡んでくると、簡単には決められないということだと思います。(完)
2018.05.02
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ところが1941年に、これまたソ連邦の動きに合わせて、突然ラテン化をやめてキリル文字化に転換するという報告がツェデンバル(当時の党書記長、のちの首相)からあったのです。当然これは決定となり、この年の6月にはキリル文字でモンゴル語を教える最初の教師258人が養成されました。そして1950年からはすべての公文書は「新文字」で書くことになりました。面白いのは、この頃のキリル文字の表現が現代と少し違うことです。ウランバートルのように長い母音を表現するのは、現在ではУлаанбаатарとaを2つ続けて書きます。が、1945年頃の発行物を見ると日本語のローマ字のようにĀと文字の上に横棒を書いて長母音を表していたのです。なぜこの表現ではなくなったのかは、わかりません。この文字改革の時に内モンゴルも一緒の文字にした方が良かったのかどうか?実はこれは非常に難しい問題なんです。まず事実としては、当時ソ連と仲が悪かった中国内では、モンゴル伝統の縦文字をロシア式に転換することは認めませんでした。なので、現在に至るまで同じ言語を話すのに、文字がまるっきり違うという他の言語では見られないような現象が起こっています。モンゴル国立大学外国語学部にはモンゴル語学科もあって、そこでは日本人、韓国人をはじめとする世界各国からモンゴル語を学んでいる留学生がたくさんいます。モンゴル語の能力別にクラス分けがなされているのですが、一番驚くのが「完全にペラペラなのに、一番下の初心者コース」クラスに入っている人たちが何人もいることです。さて誰でしょう?それは内モンゴル人です。彼らにとっては国籍は中国とはいえ、言語のネイティブはモンゴル語です。チャハルの方言でハルハ語(現在のモンゴルの標準語)と違う部分が多少あるとしても、ペラペラはペラペラです。ですが、キリル文字が全く読めないので、初心者コースにいるのです。ほとんどの生徒が「サエンバエノー」くらいしか話せないのに、早口でペラペラと先生に質問する「初心者生徒」は非常に違和感ある存在だと言わざるを得ません。キリル文字への転換から半世紀後、ソ連邦は崩壊し、モンゴルは1990年から民主化運動がおこり、1992年に新憲法のもと民主化は完成しました。そこで再びこの文字に関する改革が話題になったのです。1989年の暮れからペレストロイカがモンゴルでも始まりました。なんと1990年1月の新聞には「今年の新学期から小学校の教科書はモンゴル文字で出版しよう」とあったそうです。そして実際にキリル文字表記からモンゴル文字表記への全面的な切り替えが計画され小中学校での教育が始まりました。ですが、一般国民の間では歴史と伝統・文化の象徴と見なされてはいるものの、「モンゴル文字」イコール「話しことばとは無関係の文語」というイメージが定着してしまっています。なんとなく、日本人にとっての古文や漢文みたいに「勉強はするけど、普段は関係ない」という感じでしょうか。また横書きができないという(現代においては致命的ともいえる)弱点を抱えていることもあって、今となっては日常的にはほとんど使われない文字となっているのが現状です。現実的には、現在はパソコンも携帯も、キリルかラテン文字を使うのが多いです。また発音などもキリル文字と縦文字とは違うようで、70年近くも使われてきた文字を自由主義(独裁者の命令ではない、という意味)の中で切り替えることは難しいと思います。文字を切り替えるということは、自国の文化遺産を放棄するようなものですから。公文書や小説、歴史書さらには流行歌の歌詞まで、20年後30年後の人たちが完全に読めなくなることを考えると、縦文字への完全切り替えはほとんど不可能ではないでしょうか?(続く)
2018.04.30
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前ブログでカザフスタンの文字について書いていたら、モンゴルの文字も気になりました。ということで、モンゴルの文字に関して考えてみたいと思います。このブログ読者にはモンゴル人の方もおられますが、そういう方々も恐らく全部わかっているわけではないと思うので、歴史的事実を参考に書いていきます。本ブログを書くにあったっては、ネット上の情報も参考にしましたが、「モンゴル 民族と自由」(田中克彦著、1992年出版)を参考にしました。キリル文字を使うようになったのは、1940年の末から1950年代にかけてです。が、(公文書や学校の教科書など)法的・制度的にはともかく本格的に普及するようになるにはずいぶん時間がかかったと思います。国交がなかった1957年当時、国際会議に参加するために日本に来たモンゴル人ジャーナリストらは縦文字でメモを取ってたそうです。中でもキリル文字政策推進の中心者であるダムディンスレン氏も会議でのメモの使用文字は縦文字だったそうです。それほど文字をどうするかは、政治的、歴史的経緯以外にも現実的な問題を考慮することが大事だということです。話はロシア革命後に遡ります。ソ連はロシア革命(1917年)後、それまで文字を持たなかった各種言語にキリル文字を与えて、多数の書き言葉を誕生させました。ところがそれだけでなく、既に文字を持っていた言語、今回のカザフスタンなどのテュルク系の言語もキリル文字に変えたのです。ブリヤード・モンゴル語もキリル文字に変えさせられました。この経験をもとに、ハルハ・モンゴル(今のモンゴル国)の言語もキリル文字に変えさせられたのです。モンゴルは当時から独立国でしたが、実態は16番目のソ連内共和国として扱われていたのです。なのでソ連の命令は絶対でした。ですが、縦文字からキリル文字に変わった以前に、実はラテン文字(ローマ字)化を本気で検討した時期があたのです。今カザフでやろうとしていることと同じです。革命後間もない1920年代にソ連内では「ロシア文字(キリル文字)は封建制や古い制度に結び付いた、旧弊で反動的な文字だ」と考えられていまた。こうした考えのもと、ロシア語も含めたすべての言語についてラテン化の方向が目指されたのです。つまりキリル文字を廃して、ラテン文字に使用ということです。このような流れの中、モンゴルでも1925年頃から言語改革の必要性が認識されました。この頃は文盲が多かったので、すべての人が読み書きをできるようにという願いの言語改革でした。考え方は二つあり、一つは伝統的な縦文字に改良を加えて普及させるというのと、もう一つは既にブリヤード・モンゴルで検討されているラテン化運動に倣うべきだというものです。そして1930年に人民革命党の党大会でラテン文字に移行することが決定し、党員や官吏たちは毎週土曜日に勤務終了後2時間ずつラテン文字を勉強し始めたそうです。更に1931年にはモスクワで、ブリヤード、カルムィク、それにハルハの外モンゴルの各代表が集まってラテン化のための会議が行われたのです。カルムィクというのは、遥か西方カスピ海の方にあるモンゴル系の人たちの国で、言葉もモンゴル語系で、顔もモンゴル人はもちろん日本人にも似ているそうです。地理的には完全にヨーロッパにあり、「ヨーロッパで唯一の仏教国」であるそうです。こんなところにも、13世紀からのモンゴル帝国の影響が残されているのですね。これはこれで、大きな研究テーマになりそうな「ロシア連邦カルムィク共和国」です。この会議が行われたころ(1930年ごろ)はモンゴル民族には大きな希望がありました。ソ連アカデミーでもブリヤードやモンゴルが共通にラテン文字化を進めるべきという論文も発表されたりしていました。このころの進め方は「ブリヤード・モンゴルの方言のうち、外モンゴルの言語になるべく近い方言を選んで標準語を定め、言語的な統一を図ろうとした」という、誠に画期的なプランであったのです。ですが、それを進めていくということは最終的に「汎モンゴル主義」(世界中の旧モンゴル帝国の連帯、みたいな感じ?)につながるとして、「反モンゴル」の最先鋒であるロシア人らが許すはずもありませんでした。統一モンゴル語を図ろうとした言語学者たちは、いずれも悲惨な運命にあったとのことです。今も昔もモンゴルは「民族自決」には程遠いところにいます。ですが、最終的にモスクワに倣って、1933年5月にモンゴルでもすべての公文書をラテン化することを決定しました。(続く)
2018.04.28
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新聞にカザフスタンが「2月、ラテン文字をもとに新たに開発した32文字を母国語に採用した」「ロシア語と同じキリル文字を捨て去る」とあり、ちょっと驚きました。ですが、ネットで検索すると昨年の10月の時点で、日本のニュースにも今回の変更について報道されていることを知りました。同じキリル文字を使うモンゴルにとっても、他人事ではありません。というのも、モンゴルも文字に関してはいろいろ考えさせる歴史があるからです。カザフに関して言えば、やはり旧ソ連の一員であったものの、ロシアの影響を遮断したいという気持ちが強いのだということですが、それに加えて「キリル文字ではスマートフォンの入力が煩雑」という現実的な問題もあります。この問題も、モンゴルでも同じです。新聞によれば、カザフは19世紀以降、アラビア文字やラテン文字(いわゆるアルファベット)を経て、旧ソ連編入後にキリル文字になったという経緯があります。長い時間をかけて国民に慣れ親しんだ文字を捨てるというのはよほどの覚悟が必要ですが、カザフスタンという国はその「よほどの覚悟」がある国なのです。もちろんもともと私がカザフスタンのことを知っているはずはありませんが、モンゴルとの縁をきっかけにテュルク系(トルコ系民族)の国々に興味を持ち始めて、いろいろ書物を読んでみると、モンゴルとは違ったカザフの対ソ連に対する苦悩や憎しみ、そして親近感という複雑な感情が読み取れます。カザフスタンが1991年に独立国家となったとき、核爆弾保有高はなんと世界第4位だったそうです。これは、イギリス、フランス、中国よりも多かったということです。ちなみに第3位はウクライナでした。ソ連は大きな核保有国でしたが、その実験はカザフスタンで行っていました。中国が新疆ウィグルやチベットを核実験や核のゴミ捨て場とするのと同じで、ロシア人は自分たちは安全な場所にいて、リスクのある核実験は大草原のあるカザフで行っていたのです。チェルノブイリ原発も同じ論理で、ロシアではなくウクライナで杜撰な原発運営をやっていたということです。カザフは独立時に核保有をやめる決断をし、すべて廃棄しました。核実験場では数世代にもわたり奇形児や難病に悩まされたと言います。こうした背景にはもちろんロシア人のアジア人に対する人種的偏見があるのは間違いありません。このような歴史的経緯があるからこそ、今回の決断に至ったのでしょう。とはいえ、ロシア語の方がカザフ語よりも通じると言われるカザフスタンですから、ロシア文字を捨てるというのは非常に難しい決断だったと思います。新聞には書かれていませんが、私はこれは独裁者であるナザルバエフ大統領だからこそ実施できたのかと思います。長年使ってきた文字を変えるということは、それまでの70年以上の中で発行された書籍と別れるということです。短期的には、今の人たちはまだまだキリル文字は読めるでしょうが、小学校の教科書も今年からラテン文字に変わるわけで、30年後、50年後は一部の人しか読めないものになっているでしょう。キリル文字を捨てることは議論しだしたら、賛成派、反対派の激論となり、決まらないと思います。ましてや、昔の歴史あるアラビア文字に戻るならまだナショナリズムという追い風もあるでしょうが、ラテン文字にするとなると、簡単ではないでしょう。それでも大統領の「ロシアとの決別」に対する強い執念があるのだと思います。こうした文化的、歴史的な意義とは別に、確かにスマホに代表される入力の影響も大きいと思います。私がモンゴルで使っているのはノキアの古い携帯電話ですが、入力はキリルではなくアルファベットです。モンゴル人から届くメールもキリルではなくアルファベット(ラテン文字)です。もちろん機種によっては、キリルもあるのでしょうけど、私の知っている範囲では皆私への携帯メッセージではラテン文字を使っています。なので、もしかしたら実質的にはそうした機器からは、キリルよりもラテン文字化している部分もあるのかもしれません。少なくともモンゴル人の場合は、ほとんどの人がキリル文字でもラテン文字でも使いこなせると思います。だからと言って、今のモンゴルで「ラテン文字に切り替える」「モンゴル文字に切り替える」ことができるかと言えば、それは難しいと言わざるを得ません。そもそもそんなことを民主的議論して決められるとは思えないからです。せっかくの機会ですので、モンゴルの文字の歴史について簡単な考察をしてみましょう。
2018.04.25
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廖先生は私が「モンゴル派」であることも理解してくださり、いろいろ話してくれました。福建省出身の先生は、私が以前福建省の福清や厦門(アモイ)に行ったことある話をすると、厦門の先の金門島の話をしてくれたり、先生が客家出身だと教えてくれたり、話題を私に合わせてくれました。そんな先生との話で驚いたのが二つ。一つ目は、「中国人の大学の先生」(講師などを含む)と言われる人は、恐らく日本全国で3000人くらいいるだろうということです。3千人!ものすごい数です、大学での中国語の語学専門の先生を除いても1500人はいるだろうとのことです。語学学校の先生も入れたら、優に1万人は超すんじゃないでしょうか?教授や准教授となると7-800人くらいだろうとのことです。ちなみに華人教授会のメンバーは100人ちょっととのことです。いずれにしても、日本の隅々の大学まで広く中国人の先生がいるということです。実際、私が挨拶したほんの数人でも、山梨県や北九州市から来ている先生もいました。この厚みというか、日本への浸透度はやはりモンゴル人とは全然違うと思いました。モンゴル人の大学の先生は日本にどのくらいいるんでしょうか?モンゴル語の先生はいるかもしれませんが。このブログでもご紹介した楊海英さんは内モンゴル人ですから、モンゴル国出身の先生は私の知っている人を含めてもほんの数人かもしれません。また私の限られた経験ではありますが、大学の先生という点では残念ながらモンゴル人の先生たちよりも華人の先生の方が話が通じるというか、洗練度が高いと思いました。敢えて言えば、モンゴルの先生はどこかまだソ連の先生というか、世界的な一般常識の範囲が昔のままの先生のように見えました。また意外ではありますが、モンゴル人の先生の方がナショナリズムを感じます。中国人の先生は、本音はわかりませんが、私と話している限りでは感情的にならずにフェアーに話しているように見えました。短い時間ですから、本当のところはわかりませんけど。もう一つが、今回のブログの一番のメインテーマです。ちょっとお待たせしちゃいましたね。廖先生が教えてくれました。中国語、特に北京語を英語でMandarin(マンダリン)と言います。これが現在の中国語の標準語になっているわけです。当然ですが、東京弁(江戸弁)がその後の日本の標準語になったと同じような話だと思っていました。ですが、どうも違うようなのです。現在の北京語(Mandarin)の原型は、清の時代にできたそうです。このブログをお読みの方ならわかると思いますが、清はもともとは満州に住んでいた女真族、その後は満州族と呼ばれる人たちによって作られた王朝です。満州語はもちろん、中国語とは違います。どちらかと言えば、モンゴル語の方に近い言葉ですし、満州文字もモンゴル文字から変化したものです。満州族の清が中国を支配し、北京にある紫禁城に入りました。そこは当然、官僚以下全部中国人ですので、次第に入場した満州人も中国語を話すようになったそうです。ですが、当然それは変な発音の中国語であり、一部には満州語も混ざっていたことでしょう。それは紫禁城の中だけの言葉として発展しました。ですが、次第に紫禁城の外にも満州式中国語が漏れていきます。紫禁城外の普通の人々にとっては「なんだかちょっとおかしな言葉だな」と思ったものの「でも、皇帝や高貴な貴族たちの言葉なんだ」「高貴な人や高位の官僚の話す言葉なんだ」と受け止められ、やがて「貴族の言葉」「高級官僚の言葉」となって広まっていったそうです。これが後の北京語すなわちマンダリンになっていったんだそうです。ですから、もとはと言えば「満州人によるブロークンチャイニーズ」なわけです。でもそれがやがて13億人の標準語になるのです。マンダリンの意味は満州人の(マンジュリアの言葉)という意味なんだそうです。満州人の変な中国語が、今では全中国の標準語になったというのは、本当に驚きです。だからよく「マンダリンと上海語は全然違う」などと言うのですね。こんな北京語→満州語→モンゴル語というつながりがあるのには、驚きました。やはりこうした交流は大切だなと思いましたね。朱先生と乾杯です。(完)
2017.10.16
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会場は、びっしりでした。 会場係の人に聞いたら、本来は東大・山上会館のこの部屋は100名ちょっとの定員なのですが、実際には当日予約なしの人も含めて膨れ上がり、臨時の椅子を大量に用意したとのことでした。大学の先生のシンポジウムにしては、随分と人気だなと思いました。以前、やはり朱先生に誘われて華人教授会の集まりに参加した時にもおられた先生ですが、金堅敏先生の講演は面白かったです。金先生は、大学教授ではなく、唯一日本企業の人として講演されました。富士通総研主席研究員ということで、ビジネスの現場で実際に何が起きているかを脅威深く話してくれました。中国と日本のIOTやイノベーションについて話してくれた金先生です。さすがに民間的な現場感のある話でした。全体の感想としては、華人の先生たちは本当に日中友好を期待している、あるいは推し進めなければならないと思っているんだろうなと、ということです。もっと言えば、日本人以上に「日本よ、もっと頑張ってくれ!」と願っているように感じました。そりゃあそうです。そもそも学問なんていうのは、平和であることが大前提ですし、日中が友好関係にあることが、先生たちの自由な研究には一番大事な要素ともいえるからです。プレゼンは、ヘルスケアなどにも及びました。これは旧字の医が持つ、いろんな意味を解説したスライドです。シンポジウムが終わって、本郷の中華料理屋さんに行きました。ほとんど貸し切り状態です。恐らく60人以上の中国人の先生たちでいっぱいになりました。ここでは、どのテーブルも当然ですが中国語で話しています。でも全員、日本語は上手なので私が話しかければ日本語で返ってきます。とはいえ、私が知っているのは朱先生だけで他の方は全く知りません。そんな中、華人教授会の会長さんである廖赤陽(日本語読みで、りょうせきよう)先生と話せました。(続く)
2017.10.15
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朱建栄先生からのお誘いで「日本華人教授会議第14回年次国際シンポジウム」に行ってきました。場所は本郷の東大です。当然ですが東大といってもかなり広く、余裕を持って出かけたつもりでしたが、なんとか走って間に合ったというほど、会場を探してしまいました。午後1時からスタートしたシンポジウムは、関係者の挨拶の後丹羽宇一郎さんの基調講演から始まりました。丹羽さんはご存知の通り、元駐中国特命全権大使であり、現在は日中友好協会会長です。ですが、経営コンサルタントの私にとってはやはり「元伊藤忠商事会長」という方がイメージしやすいです。私がコンサルタントとして直接お目にかかったのは、伊藤忠の社長時代でしたからもう10年以上も前のことです。ですが、今ではすっかり「親中国派」のご意見番といった感じです。私はここ数年で何度か、元中国大使としての丹羽さんの講演を聞く機会がありましたが、基本的には「もっと中国と仲良くしろ」「中国の発展を前提に付き合え」というものです。いつも思いますが、丹羽さんは細かい数字も含めて一切原稿を見ずに、すらすらとファクトデータとともにお話をされるので、結構納得感は強いです。伊藤忠の社長時代から「電車通勤」で有名で、とにかく実直な方ですから、聞く方も素直に聞けます。確かに怖いものなしでしょうし、その分政治家もコントロールできないから、扱いづらいのかもしれません。この日のシンポジウムでの話を全部書いていたら、ブログが何日にも渡ってしまいますから、私の感想を中心に書きます。ちなみに、私は自分でも「モンゴル代表」のつもりで参加しましたし、私を誘ってくださった朱先生も、他の華人の先生に私を紹介するときも「モンゴルに詳しい先生です」と紹介していましたので、立場的にはモンゴル人です。(笑)まず思ったのは「やっぱり華人(中国人)と日本との交流の厚みが全然違う」ということでした。丹羽さんの前に、中国駐日大使公使が挨拶されましたが、日本語もほぼ完ぺきで、話す内容も日本人が聞いても違和感のない話し方です。在日モンゴル大使館の大使や公使も日本語は上手ですが、なんというか、洗練度合いが全然違います。中国人の方が断然「鍛えられている」「日本人が自然に受け入れられる」話し方なのには、ちょっと驚きました。あまり上手くいってない日中関係なのに、それもちゃんと避けずに、しかも日本人が聞いていも嫌みがないように話すのを聞くと「やっぱりモンゴルよりは一枚上手だな」と思ってしまいました。13時スタートで18時ころまで続きました。司会、あいさつ、プレゼンテーション、パネリストなどぜーんぶ合わせて延べ16人の中国人の先生たちが登壇しました。全て日本語で、しかも皆上手です。よく「モンゴル人の日本語は上手だが、中国人の日本語は下手だ」と耳にしますが、この日の先生たちに限っては、駐日モンゴル大使館のモンゴル人たちよりも上手だと思いました。朱先生も北朝鮮情勢と日中米について話されました。(続く)
2017.10.14
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言葉以外で感じたことを書きます。まずは「踊り」です。番組の中では、村でみんなが集まった時にお祝いとして村人たちが楽しそうに踊っているシーンがありました。あれはまさにモンゴル人の踊りと同じです。特徴は、肩を小さく上下に揺らしながら両手を動かす独特の踊り方です実はこれと同じシーンを前にも見たことがあります。司馬遼太郎のNHK番組「街道を行く」のモンゴル編を見た時のことです。当時、司馬さんは直行便がなかったので、新潟からハバロフスク経由でモンゴルを訪れました。その時、今は極東ロシアとなっているハバロフスク近郊に住む先住民に会いに行き、そこで出会ったのがまさにモンゴロイドでした。多分韃靼系の民族だと思います。その先住民族の踊りがまさにモンゴル人の伝統的な踊りと同じだったのです。モンゴル人にも見てもらいましたが「同じだね!」と驚いていました。今回のカザフ人の踊りは、その時と同じ気持ちで見ました。民族衣装もそっくりです。モンゴルでよく民族衣装を展示していたり、民族衣装を着ているモンゴル人女性を見たことがあります。モンゴルではハルハ人(モンゴルの主流民族)以外にも、たくさんの民族がおり、それぞれ独特の民族衣装を持っています。が、外国人である私から見れば「皆同じような素敵な民族衣装」に見えます。中国っぽくもなく、韓国っぽくもないけど、彼らの衣装には共通したデザインや雰囲気があります。そういう意味では、このカザフの民族衣装も「草原の民」の民族衣装という点では共通していると思いました。民族衣装を身に着ける女性はほとんど髪飾りを付けていますが、それもまたモンゴル人のそれと似ています。髪から頬に連なるように垂れ下がる装飾品は、私にはほとんど同じ様式に見えました。一説には頬の骨の出っ張り(副鼻腔の張りと言われている)を隠すために、頬の前に垂れ下がるような装飾が多いと聞いたことがありますが、本当かどうかはわかりません。更に馬乳酒も人気のようです。モンゴルといえば馬乳酒とされていますが、これもやはり草原の民に伝わる飲み物で、恐らく広くユーラシアには存在するのでしょう。そしてモンゴルを代表するアイコンでもあるゲルですが、これも名前は違えど同じようにフェルトで作った移動式住居です。「これもゲルです」と言われれば、そうかなと思うほど似ています。とまあ、挙げて行けばキリがないほど、「外国人である私の目」から見ると、カザフとモンゴルは文化的にも言語的にも似ていると思いました。地図を広げ、歴史を遡れば当然と言えば当然です。モンゴル帝国時代のみならず、それ以前もそれ以後も、テュルク人もモンゴル人も現在の国境なんか関係なく、ユーラシアを駆け巡っていたのですから、文化的に似てくるのは当然です。ただ、現代のモンゴル人は旧社会主義時代の影響もあるのかもしれませんが、あまり「ユーラシアの人々」や「他の草原の国々」を意識したりすることはないように見えます。というか逆に、「モンゴルこそが世界に冠たる草原の国で、遊牧民の歴史を持っている国」と「他の国なんて知らない」というモンゴル第一主義的な雰囲気を感じます。でも現実には、こうして見てもわかるように、同じような文化を持つ国は、ユーラシアにはたくさんあることでしょう。カザフスタンだけでなく、多分、キルギスやトルクメニスタンなどでも似たような光景が見られるのではないでしょうか?シベリア南部にも当然たくさんいることでしょう。そうした草原文化、遊牧文化のグローバルリーダーを自ら宣言するのもモンゴルのあるべき姿じゃないかと思います。「モンゴル固有の文化」などと言わず「草原・遊牧民サミット」をウランバートルで開催する方が、ずっと世界的には注目されるような気がしますね。今回のカザフスタンについてのテレビを見ただけですが、ユーラシアの広がりと独自性のある文化を感じることができました。思ったこと・・・いつかカザフスタンに行ってみたい、ということです。(完)
2017.10.07
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番組を見ていてまず感じたのが、言葉が似ているということです。もちろん私はカザフスタン語はもちろんモンゴル語もわかりません。ですが、モンゴルとの関係は長いので「話している言葉がモンゴル語かどうか」は、比較的容易にわかります。場合によっては知っている単語でわかることもありますが、モンゴル語っぽい語感と言いますか、聞いた雰囲気や語調でわかります。例えば、多くの日本人には韓国語も中国語もわからなくとも、聞けばその違いくらいは分かる人はたくさんいると思います。アジアに限らず、全く話せなくともフランス語とドイツ語の違いを理解できる人はたくさんいるでしょう。その程度の経験ですが、カザフスタン語はかなりモンゴル語に近く聞こえるのです。多分、モンゴル語を正確に理解している人は、逆に「カザフ語は全然違う」と言うかもしれませんけど。カザフスタン語は恐らくトュルク系の言葉でしょうから、モンゴル語とは同じアルタイ語系の仲間ですから似たような言葉もたくさんあることでしょう。現代の両国人同士の言葉が通じることはないでしょうが、遠い昔はつながっていたことは間違いありません。先日のBCGのアルムナイパーティで元コンサルタントのトルコ人がいたので、私は思わず「え!トルコ人ですか?私あのー、モンゴル、いや私は日本人なんですけど、モンゴルと親しいんですけど、トルコということはトュルクですね?」などと支離滅裂な話をしてしまいました。もちろん、日本語で。「はい、トュルクです」と答えてくれたので、思わず嬉しくなっちゃいましたが、周囲の日本人はちょっと引いたでしょう。私は本物のトルコ人と話すのは初めて(もちろん、六本木などのトルコ料理屋さんでは話したことありますけど)で、その方の戸惑いも気にせずに私は話を続けました。「トュルクの人にとって、モンゴル高原はそのルーツがあるというか、故郷があるのはご存知ですか?」と聞くと「はい、もちろん!」と答えてくれました。モンゴル人側はほとんど「モンゴル高原にはもともとトュルク系の人がいた」とは知りませんが、トルコではやはり自国の歴史をきっちり教えてくれるようです。で、私が続けて「すいません、トルコ語で水はなんと言いますか?」と聞くと「ス」ですというではないですか。発音的には私には「ス」の前に軽く母音(ゥかォか何か)があるように聞こえました。私が「モンゴル語ではオスなんです」と言うと、驚いた顔をしていました。じゃあ「手」は?「血」は?と聞こうと思ったのですが、私の方に別方面から声がかかってしまい、泣く泣くその方と離れてしまいました。というわけで、ちょっとネットで調べてみました。すると、あるわあるわ。多分、99%以上のモンゴル人は知らないでしょうね、こんなに似た言葉があるなんて。以下に、ネットで調べたモンゴル語とトルコ語の類似単語をいくつか書いてみます。ちなみに、現代トルコ語とこのブログの主人公であるカザフスタン語がどのくらい近いのか、あるいは離れているのかはわかっていません。でも、同じ系統の言語であることは間違いないと思います。まずは、今申し上げた水です。su ス 水ус オス 水上段がトルコ語、下段がモンゴル語です。モンゴル語はキリル文字。ulus ウルス 国民、民族улс オルス 国、人々これもほとんど同じですし、歴史的な言葉ですから、類似性を感じます。çiçek チチェック 花цэцэг ツェツェッグ 花これはすごい。モンゴルでは女性に多い名前ですが、トルコ語とそっくりです。sandalye サンダルイェ 椅子сандал サンダル 椅子これは私がモンゴル語の授業で覚えた単語ですが、なんとトルコ語もそっくりです。altın アルトゥン 黄金алт アルトゥ 黄金これも昔からこの地域に重要な言葉です。アルタイ山脈にも通じることから考えると、やはり同じ地域にいたんじゃないでしょうか?er エル 男эр エル 男これも同じです。とにかくキリがありません。詳細は言語学者にお任せするとしても、これだけ共通の単語があると信じざるを得ませんね、昔の結びつきを。というわけで、カザフスタン人の発音から、モンゴルとトュルク(現トルコ人)との遠いつながりが垣間見えたような気がしました。もちろん、他にもたくさん文化的な関係が見えました。(続く)
2017.10.06
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現在ではカザフの一人当たりGDPはモンゴルの3倍程度となっており、大きな差となっています。過去の推移を見ると、独立後10年を経た2002年ではカザフは既にモンゴルの2.5倍に達し、直近のモンゴルのピーク時である2013年でも3.1倍にもなっています。国際順位では、1992年当時はモンゴルは78位でカザフは157位!!(この頃の国数を考えると、世界最貧国の一つだったのでしょう)。それが2013年にはモンゴルは110位と民主化直後の大混乱の時代よりも下がっているのに対して、カザフはなんと57位です。順位を100位も上げたのです!モンゴル応援団としては、考えさせられる結果です。独立・民主化直後はモンゴルの5分の1だったのが、わずか10年で逆転どころか、2.5倍にも達したということは、単に2011年以降の新興国資源ブームに乗ったからだというのではなく、国家運営力の差だと見なすしかありません。モンゴル人の友人のBさんの言葉を思い出します。「独裁者のもと、経済発展するのがいいのか?未熟だけど自由がある民主主義がいいのか?この違いです。我々は民主主義を選びました。その方が最終的には発展できると信じています。」と。私もそれには賛成でした。しかしながら、モンゴルは民主主義になってからもう25年も経っています。日本の戦後で言えば、昭和45年です。オリンピックもやり、高速道路も新幹線もでき、経済大国への道を走っていました。政治家の不正もあったでしょうが、対外的な約束は守り、国民を豊かにする政策をした上での、おこぼれを掠めていた程度です。今のモンゴルは民主主義を勉強する期間としてはもう十分な時間は経たと思います。その上で、今も変わらず、対外的には嘘を平気でつき、政治家たちも「国民を豊かにする政策のおこぼれ」ではなく「国民そっちのけで、私利私欲に走る」政治をしています。カザフとモンゴルの両国で仕事をした大手商社マンの方は、どっちが仕事しやすいという私の質問にこう答えました。「そりゃあ断然カザフスタンですよ。カザフは対外的に約束したことは必ず守りますから。モンゴルは政治家自ら平気で嘘をつくし、下っ端役人が賄賂や何やらで勝手に反故にすることもあります。ビジネス環境は全く違います。」と。Bさんは今年に入ってからの政治家たちのアホさ加減を見て「そう信じてたんですけどねぇ。モンゴルの25年間は一体何だったんだろうかって思うんですよ。」と嘆きます。NHKの映像ですから、首都アスタナの素晴らしい景観、立派な建物などは割り引いて考えるにしても、どう控えめに見てもその発展ぶりはウランバートルの比ではありません。現在のカザフスタンは「東南アジアのシンガポール、中東のドバイのような国を目指す」と言っています。これは私がモンゴルにいた時から、モンゴルの生きる道は「人口が少なくとも、教育水準が高く、法律も整備され、外国人投資家から安心できる国だと認められれば、中央アジアのハブ国になれる!」と主張していたこと、そのままを言っています。モンゴル人はそんな展望を無視しましたが、わかっている国はちゃんとそれを目指しているんですね。残念です。確かに、シンガポールのリークアンユーは開発独裁でしたし、ドバイも王族が支配しており、いわゆる民主主義国家とは言えません。でもいつまでたっても、1000年前の部族争いみたいなことに明け暮れているモンゴルの政治家には、シンガポールもドバイの成功は遠い出来事です。そんなことを思いつつも、カザフスタンの文化にも見入ってしまいました。(続く)
2017.10.02
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日曜日の夜、何気なくテレビ欄を見ていたら「草原の国」という文字に目が行きました。草原の国と言えばモンゴルの代名詞ですから。ですが、その欄には「草原の国を行く」としか書かれていませんでした。NHK・BS1のその番組は「大越健介 激動の世界を行く カザフスタン」というものでした。我が母校(新潟高校)出身の大越キャスターがカザフスタンをリポートするという内容です。これは面白そうだと、番組を見ました。午後10時からの番組を気楽に見ようと思ったら、なんと午前零時近くまでの2時間番組でした。そういう意味では、相当気合が入っている番組でした。日本人にはモンゴルよりももっと馴染みのないカザフスタンを、これだけ時間を使って紹介した番組はあったでしょうか?中央アジアが注目されることは大変良いことだと思います。番組は、核問題からスタートしました。カザフスタンと言えば、ロシアの宇宙ロケットソユーズの発射基地として有名でしたが、旧ソ連時代にはロシア人たちは危険な施設はロシア外で行っていたことが多いです。原発事故で有名なチェルノブイリも旧ソ連によるものですが、場所はウクライナです。自国民族を安全な場所に置き、危険なものを植民地に置くというやり方は、ロシア人と中国人共通のやり方です。中国も核などの面倒な施設は、チベットや新疆ウィグルなどに設置します。この世界2大わがまま自己チュー大国は、独裁制といい、他民族をないがしろにする気質といい、本当によく似ています。ロシアはカザフスタンで何をやったのか?それは核実験です。なんと400回以上も核実験をしたのだそうです。もちろんそれはモスクワの指令であり、それによって多くの人が死に、100万人以上の人に人体被害が出たそうです。しかもその核実験場となった街は秘密の街として地図上には存在しないことになっているのだそうです。当然、ロシア人にとっては今のチベット人と同じく、カザフ人に対しては「人権」という概念はありませんから、被害者たちは泣き寝入りしかありません。日本は世界で唯一の被爆国であり、そのことは世界中で有名です。それもあってか、日本人は心のどこかで「日本人が一番核を反対している」「反核の中心地は日本だ」という思い込みが、私を含めてあると思います。カザフスタンはそんな大声を出さずとも、心の底から核に反対しているのです。旧ソ連が崩壊して、カザフスタンは25年前に独立しました。独立時には、この国はなんと世界で第4位の核保有国だったそうです。しかしながら、カザフスタンは敢えてこの膨大な核を全廃しました。そして平和国家を目指すことを国是にしたのです。言うは易しですが、実際に膨大な核を持っていながら、それを自ら全廃したというのは、相当強いリーダーシップが必要だった思います。カザフといえば、ナザルバエフを語らないわけにはいきません。カザフスタンは独立後から今日までずっとこの人が大統領です。要は独裁者です。この独裁者をどう見るかは、意見の分かれるところでしょう。NHKとしてもその辺の距離感には気を使ったようで、批判的にもできないし、かといって礼賛するわけにも行きません。私は番組中、ずっと「独裁者のもとで発展するカザフスタン」と「未熟な民主主義の下で混迷・停滞を続けるモンゴル」とを考えていました。私の記憶では、25年前の旧ソ連崩壊時(カザフ独立、モンゴル民主化)は両国とも経済的には非常に厳しい状況となり、一人当たりGDPもほぼ同程度で低い字水準でした。実際データを見ると、1992年の統計では、カザフスタンが一人当たりGDP169ドルであったのに対し、モンゴルは847ドルとカザフの5倍以上でした。(続く)追伸:この番組の再放送が10月7日土曜日午後1時からNHK・BS1であります。ご興味ある方は、是非ご覧ください。
2017.10.01
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実際、トルコはモンゴルにかなりの経済援助を行っています。突厥関連の史跡がある地方には、すごく田舎であるにも関わらず、立派な道路があったりしますが、それはトルコの資金でできたそうです。またモンゴルの中心部には、トルコ建国の父「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の像が、トルコが贈ったモニュメントと一緒にあるそうです。ても、モンゴル人は一切そういう教育をしてない、むしろ「このモンゴル高原はフンヌ以来、ずーっとモンゴル系民族のものだった」と教わってきているので、友好的というよりは「ムカッと来る」感じなのです。でも、正解はトルコ人の方で、モンゴル高原はずっとモンゴル系に支配されてきたわけではないのです。モンゴル人研究者だって、さすがに突厥のことは知っていますからわかっていますが、それを国内では言いにくいというか、発表もできないのです。私たちからすれば「同じ遊牧民なんだから、1000年以上前にトルコ系に支配されていたっていいじゃない」と思うのですが、そうはいかないのです。モンゴルの西の端に、モンゴル国内としては少数民族であるカザフ人が住んでいます。これはいろいろ事情があって、20世紀になって住んでいる人たちです。はっきり言って、モンゴル国内では少数民族として差別というほどではないのですが、ハルハ人(現在のモンゴル国の主要種族)からは「住まわせてやってる」的な雰囲気があります。それなのに、チンギスハーン以前は実はトルコ系=カザフ人が支配していたなんてことになったら、「本来は、この辺はトルコ系=カザフ人の土地だったんだ」となってしまいます。それには対しては、多くのモンゴル人が「そんなはずないだろう!」と強く拒否反応を起こしてしまうのは目に見えてます。だから、突厥碑文は遊牧民の歴史上非常に重要であるにもかかわらず、モンゴル人研究者たちは今一つ積極的になれないのです。なったとしても、積極的に発表できないのです。更に、歴史的事実は、もっと厳しい事実を突き出してくることもあります。モンゴルと中国が歴史的に争いが絶えないことは、このブログのご覧の方々なら大体わかると思います。そしてその多くの場合、北の遊牧民が南の中国を襲うとか、元朝に代表されるように中国そのものを支配するという話がほとんどです。(元以外にも、実に多くの北方遊牧民が中国王朝となっています)もちろん、勝った負けたはいろいろですし、元朝が明に滅ぼされたりしたこともありましたが、その時も元朝は北モンゴル、つまり今のモンゴル辺りまで戻っただけで、完全に滅ぼされたわけではないのです。つまり、モンゴル人の意識の中には、モンゴル高原では上記のように「トルコ系に支配されたことはない」のと同じく、「モンゴル高原で漢人系中国軍に負けたことはない」ということになっています。でも、歴史的事実として、漢人系中国軍がモンゴル高原にまでやってきて、モンゴル系民族の軍を破った事実が判明したらどうなるのか?その時は、ちゃんとモンゴル人研究者はそれを事実としてモンゴル国内で発表できるのか?・・・ま、無理でしょうね。モンゴルの歴史研究が進むほど、モンゴル人研究者の悩みは増えます。結果として、なかなかモンゴルにおける歴史研究がなかなか進められないということになるのです。自国の研究のリーダーシップを取れないのは、モンゴル人研究者たちだけのせいではなく、国を挙げた歴史に対する強烈なナショナリズムが壁となっているのです。今回の講座では、今月中にモンゴルに赴任されるという方も来られていました。しかも、この私のブログの読者の方でした。これから寒くなりますが、モンゴルでいい思い出を作ってもらえればと願っています。(完)
2017.09.19
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モンゴル人は中国のことを「チュウンフォア」とか「シナ」「チャイナ」などと似たような言葉では呼びません。こんな言葉は皆最近の言葉ですから。モンゴルでは「ヒャタッド」と呼びます。これは「キタイ」が変形した言い方で、要するに契丹と言っているのです。中国人を自分たちと同じ遊牧民族である呼び名で呼ぶのはなんか不思議です。ちなみにロシアもこのモンゴル的な呼び方の元となった「キタイ」と呼んでいます。今の中国的読み方ではなく、はるか昔の非漢人の国「契丹」を中国と呼んでいるのです。もう一つの例は、香港を起点とする世界的な航空会社キャセイパシフィックです。このキャセイも「キタイ」「カタイ」から来た言葉で、意味は同じく中国です。なのでキャセイパシフィック航空は「中国太平洋航空」という意味なのです。これはちょっと「なるほど」ですね。とまあ、こんな風に昔のことがいろいろ解明されてくるわけです。なので「突厥碑文は中央ユーラシアの歴史が詰まったタイムカプセル」とも言われているそうです。こうした歴史研究に、今のモンゴルはどう対応しているのでしょうか?本ブログの8月2日付け「モンゴルの歴史は誰が書いて残す?」(1-3)にも書きましたが、やはりモンゴル人が研究するにはナショナリズムの壁が大きいように見えます。前回も書きましたが、モンゴル人のハートランドであるモンゴル高原(ほぼ現在のモンゴル国の領土)は、匈奴(モンゴルではフンヌと呼ぶ)が支配して以来、支配者はいろいろ変わってもすべて「モンゴル系民族」が支配してきた場所であるという共通認識は、モンゴル人の間には非常に強いです。非常に強すぎて「疑問の余地もない」のです。つまり「議論の余地もない」ですし、それを覆す事実は「ありえないこと」なのです。人々が心の中でそう思うのはいいけど、モンゴル人研究者までそうした「言い伝え」あるいは「信仰」に近いものを持っていると、例えば「匈奴(=フンヌ)は元々モンゴル系かトルコ系か?」というテーマすら研究できなくなるのです。匈奴については「モンゴル系ではない」という客観的証拠はないからまだいいのですが、突厥となるとやばいです。そもそも名前が突厥=トュルク=トルコですから、トルコ系に決まっているわけで、この突厥が6世紀ごろモンゴル高原を支配していたのも、既に歴史的事実となっています。つまり、チンギスハーンの時代と匈奴(フンヌ)の時代の間にモンゴル系ではない時代があったということは、モンゴル人にはなかなか受け入れられないのです。他方、現在のトルコ共和国はモンゴルのそんな懸念にはお構いなしで、現代教育では「モンゴル高原がわがトルコ民族のふるさとである」という教育を子供たちにしているんだそうです。私はこの事実を聞いてなるほどと思う記憶がありました。モンゴル人は「トルコ?全然関係ないよ。」とか「あんな遠い国がこの辺にいたはずないでしょ!」とトルコ系がいたことを否定したり、更にはそういう話(噂)が元で、「トルコ人嫌いになる」人が多いようなのです。具体的には「以前、アメリカでトルコ人と会った時、ああ、モンゴルは我々のふるさとなんだよね」みたいなこと言われて、何言ってんだこいつ!」と思ったというのを、直接モンゴル人から聞いたことあります。トルコ人からすると、子供の時からの歴史教育でこの地域に親しみを持ち、モンゴル人とは遠い親戚くらいに思って親しみを感じるのです。(続く)
2017.09.18
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なぜ読めるかというと、突厥文字はアルファベットのような表音文字だからなのです。具体的には、突厥文字の1文字1文字がアルファベットにほぼ対応することが、研究によって解明されたのです。これがその対応表です。この表の1番から38番までの突厥文字が、アルファベットに対応しているという表です。この表の下に、私が書いたメモがあります。突厥文字はアラビア語のように右から左へ表記しますが、ここではそれを右から左に修正しました。一番左の文字hみたいな文字は18番ですので、tとなります。同様に次は4番でuの上に・・がついてます。これはュウみたいに発音するそうです。次が噴水マークみたいな16番でrです。4番目が22番でkです。これをそのまま表記するとturk(uの上には・・あり)となり、トュルクと読めるのです。もちろん、これが突厥のことでああり、トルコのことでもあるのです。その後、遊牧民はいろいろな文字を使うようになりましたが、この突厥文字も含めてその源流は中東を起源とするアラム文字(紀元前9世紀)がその大もとのようです。アラム文字はアラビア文字やフェニキア文字の起源でもあります。アラム文字がソグド文字となり、それがウィグル文字となり、その影響でモンゴル文字が誕生しました。そのモンゴル文字をもとに満州文字ができたのです。同じアラム文字起源とはいえ、モンゴル文字と突厥文字との間には直接の関係はないとのことです。ですが、突厥文字には今もモンゴル語につながるいくつかの言葉も載っています。突厥碑文には「カガン」というのがあります。漢字では可汗と書きます。これがその後「カン」「カーン」「ハーン」になっていったのです。意味は同じで、遊牧民の君主、王を表します。もう一つ興味深い文字もありました。「キタン」というのがありました。キタンというのは、中国北部を支配した遼という国を作った人々のことです。日本では「契丹」(きったん)という名前で知られています。この契丹人は漢人ではなく、モンゴルと同じ遊牧民(或いは狩猟)です。ですが、北の遊牧民から見れば農耕民族の漢人だろうが、それを支配する遊牧・狩猟民族だろうがどうでもいいことで、要するにモンゴル高原から見て南の国(今で言えば中国)のことをキタン、更には「キタイ」「カタイ」と呼ぶようになったのです。これがその後どうなったのか?(続く)
2017.09.17
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このブログでも時々ご紹介する、モンゴルのインディジョーンズことモンゴルの歴史研究家であるSさんイコール鈴木宏節さんの「築地本願寺銀座サロン・Kokoroアカデミー」の講座に行ってきました。こうした一般向け講座にしては題名が「モンゴルから考える歴史講座・遊牧民とはじめての文字」というかなりマニアックな内容です。もちろんその分、モンゴルや中央アジアに関心がある人には、かなり満足度が高い内容と言えるでしょう。今回は、特に遊牧民で最初に文字を使った人たち突厥(とっけつまたはとっくつ)と突厥文字の話でした。そして鈴木さんの強調した副題が「今のモンゴル=昔のトルコ」でした。突厥というのは、要するにトルコ(発音的にはトュルク)の古代の漢字表現です。ちなみに、現在の中国語では土耳其と書きます。突厥という国は、6世紀(大化の改新よりも1世紀ほど前)にモンゴル高原を含むユーラシア大陸草原地帯の大半を支配していました。その突厥がオリジナルの文字を使用したのが突厥文字です。わざわざオリジナルの文字というのは、東アジアの多くの歴史は当然ですが、漢字で書かれており、そこには漢人の世界観から見た差別や偏見がたくさん含まれています。文字を持たない遊牧民としては、その内容におかしいとは思ってもなかなか反論できなかったわけです。反証する記録がないわけですから。ですが、モンゴル高原における突厥文字の発見、解読により遊牧民のいろんな面が見えてきたというわけです。鈴木さんは日本でも(世界でも)数少ない、突厥文字の解読者であり、現在も大学の授業の合間を見つけては、モンゴルに行って大草原の中で突厥碑文を探し求めているのです。これが「モンゴルのインディジョーンズ」と言われる所以です。まず驚くのは、トルコ語使用国の地理的広がりです。いわゆるトュルク系と言われる中央アジアの国々(カザフやキルギスなどのスタン系)はどこも今もトルコ系言語(あるいはその方言)を話しています。ですから、地図を広げると東はモンゴルの隣のカザフスタンから西はユーラシア草原・乾燥地帯を含め西端のトルコ共和国まで、多くの人々にトュルク系言語が話されているのです。モンゴル語とトルコ語は違う言語ですが、言語学的には共にアルタイ諸語に分類されます。このモンゴル語系には、歴史上の国の言語ではありますが、鮮卑語、契丹語も含まれます。アルタイ諸語には女真語(女真族の言葉)、それと似た満州語もツングース語系として含まれます。アルタイ語の特徴は、膠着語(こうちゃくご)と言われています。簡単に言うと「てにをは」のような助詞を使うということです。ですので、日本語も当然膠着語の一つです。なので、今はどうかわかりませんが、以前はウラル・アルタイ語系と言われてました。このうちウラル系言語はフィンランドたハンガリーなど、ヨーロッパにありながら周辺国と全く違う言語の国で有名です。今回の講義では、この突厥文字を碑文(草原に立っている大きな石版、例えば高さ3m幅2mとか)に書かれている突厥文字を直接読もう、という内容でした。全く知らない未知の言語、しかも1400年も前の文字を今の我々がのんきに講座を聞きながら読めるのかと思いましたが、確かに解読できました。(できる気になりました)(続く)
2017.09.16
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実際には、漢人の領土は清のたったの25%しかないのです。しかも漢人は被支配階層でした。台湾などを入れない数字ですから、正確に計算すればもっと小さい領土でしょう。支配階層は満州人で、文化的(言語、騎馬)にも人種的(DNA)にも近いモンゴル人が準支配層、モンゴル人や満州人に宗教や教養で貢献したチベット人も藩属国として、一定の独立運営を許されていました。それに対して、漢人は完全に被支配階層でした。習が言っている「中華民族の夢」というのは、当たり前ですが「漢人の夢」であって、仮によくある外国人(日本人を含む)のように清を中国と見るならば、そんな夢を持ちたがっているのは領土ベースではたったの25%の部分に住んでる人のことであり、75%の地域の人にとっては「どうでもいいこと」「我々はその中華民族なんかなじゃいし」と思っているわけです。そもそもそんなに大昔から中国の一部なんだったら、なんで漢字を使わないのか?遠い日本にだって伝播させるくらいのパワーがあるのに、3000年も4000年も前から中華の一部なら漢字使ってない方がおかしいです。逆に、ウィグル文字、モンゴル文字、満州文字は基本的には同じルーツです。漢人というのは、漢の国という意味ですが、大ざっぱに言えば「漢字を使う国」です。北京人も上海人も四川人も広東人も見た目や言葉は違います(日本の方言どころではなく、全く通じない)が、唯一繋がっているのはこの漢字です。だから、漢字を使う人たちを「漢人文化圏」「漢人の国」というのは一定の理屈はあります。現在の共産党中国の支配下として計算すると、上記の計算からモンゴル国を除くことになりますから、若干数字は変わりますが、それでも漢人オリジナル領土は30%にも届かない、29%でしかありません。更にモンゴルはチベットや満州、更にはその先のインド文化圏とのつながりがあるのです。それは名前です。話しが脱線してしまいましたが、ここで再び今日の日経新聞に戻ります。そこには「インドの外相がネパールでブータンのドルジ外相と会談、とありました。ドルジというのはチベット語で「強い、無敵」という意味で、モンゴルでも男性に多い名前です。強い、無敵と言えばあの朝青龍ですが、彼の名前はダグワドルジです。ダグワもチベット語で神様の名前であり、「真の」という意味です。つまり朝青龍は「真に強い」という名前を持っているのです。ちなみに日馬富士の名前はビャンバドルジと言いますので、やはりドルジがついてます。ビャンバは土星、土曜日とか週末という意味ですから、週末に強いってことなんでしょうか?ま、日本人もあまり名前の意味を追求しすぎると、何を言ってるかわからない場合がありますから、あくまでも名前は名前です。モンゴルでなぜチベット語の名前が多いかといえば、それは昔は(今も?)お坊さんが名前を付けたからです。こうしてチベットを介して、ブータンや満州にもモンゴル人と同じような名前があるのです。モンゴル人の名前をネットで調べてみました。おなじみの名前が並んでいますが、その多くはチベット語だったり、サンスクリット語だったりします。サンスクリット語といっても、おそらくインドから直接モンゴルに入ってきたのではなくチベット経由でしょうから、非常に多くの名前がチベットからきたということになります。元々がチベット語の名前は以下の通りです。もっとたくさんありましたが、少なくとも私が一回は聞いたことある名前を取り上げます。baasan 「金星・金曜日」byamba 「土星・土曜日」dabaa 「月・月曜日」myagmar 「火星・火曜日」nyam 「太陽」suren 「守護」tsebeg 「永遠の」tseren 「長寿の」白鵬の名前はダワージャルガルですので、月曜日の幸せという意味ですが、白鵬もチベット語の名前なんですね。元々がサンスクリット語の名前は以下の通りで、同じく私が聞いたことある名前だけを載せます。badma 「蓮」erdene 「宝物」ochir 「金剛」ちなみにモンゴルにはテュルク語やウィグル語を起源とする名前も多くあります。習がそんなに「4000年前から中華民族である」と主張するなら、モンゴルやチベットに漢字名や中国名があるかを示してほしいですね。モンゴル人はこれだけ多くの「外国語由来の名前」を使っているにもかかわらず、中国由来なんて聞いtことありません。中国はそんなインド文化、チベット文化に挟まれた桃源郷のような国ブータンをも札束攻勢で乗っ取ろうとしているという記事でした。こうした小さな記事からも、アジアの歴史が垣間見られるということですね。(完)
2017.08.22
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今日の日経新聞に「中国、ブータンに接近」という記事が載っていました。中国とインドの両大国の間には、いくつかの国がありますが、歴史的にはそれらはインド文化圏あるいはチベット仏教文化圏と言えます。具体的にはチベット、ブータン、ネパールです。これらの国々は、元々インドとの関係が深く、近代史で見ても防衛とか外交と言った分野でもインドとの結びつきが強かったです。ですが、中国のあくなき領土拡張の野心により、どんどんこの地域も浸食されています。まず最初のターゲットになったのはチベットでした。チベットは数千年の歴史の中で一度も漢人中国の領土になったことはありませんでした。現在の中国はバカでかい国ですが、元々の漢人中国は「現在の中国ー(マイナス、という意味)満州人の国ーモンゴル人の国ーテュルク人の国(東トルキスタン、いわゆる新疆ウィグル)-チベット人の国」であり、現在の領土の到底半分にもならない大きさです。非常にざっくりと分かりやすく言えば、人口ではなく面積で言うと、漢人、満州人、モンゴル人、ウィグル人、チベット人の5民族の領土はさほど変わらない大きさなのです。元々はそれぞれ言葉も文化も宗教も異なる別々の国でした。が、満州人の清がこの国々を支配したことが、共産党が「この辺りは全部漢人中国のものだと」と主張する根拠になっています。清は中国語では大清と書き「ダァチン」と呼ばれています。いかにも大きな清国ですから、日本人のほとんどは「なるほど、大きな清国。まさにそうだな。」なんて思ってしまいますが、語源は全然違います。ダイチンはモンゴル語で戦士の意味であり、ダイチンは戦士の国と言う意味です。なので大清は単なる当て字なのです。外来語への当て字ってことは、米国がお米と関係なく、仏国が仏教と関係ないのと同じで、中国語的には何の意味もないのです。こうしたところから、多くの日本人は「清国が中華民国になって中華人民共和国になったから、中華人民共和国が清国の領土を引き継いでも問題ない」と思ってしまうのです。そうではなく、元々は別々の国であったものが、ヌルハチという満州人がこれら5国を手中にしたので、清は大きくなったのです。漢人はそのなかのほんの一部の領土を持っていたにすぎないのです。ここで本当にそうなのかを試算してみましょう。(面積の数字はWikipediaから引用しています。)まずは清国の国別面積です。これは時期により大きく変わりますし、台湾など現在の中華人民共和国以外の領土も含れるので、正確なところわかりません。が、現在の中華人民共和国をベースに考えると、大体1,100万平方キロ程度と推測されます。(台湾、ウィグルよりも西域は除き、モンゴル国を足す)この当時の面積比はどうなっていたか?支配階層である満州人の領土(日本人が作った満州から内モンゴル部分を除く)は清国の14%でした。準支配階層であったモンゴル人の領土(現在のモンゴルと内モンゴル)は25%と4分の1を占めていました。ウィグル人の領土は現在よりも西方にもっと大きかったのですが、ここでは現在の新疆ウィグル自治区とします。つまり小さく見積もっているのですが、それでも15%を占めます。そしてチベット人の領土です。現在のチベット自治区は中国政府が勝手に決めたもので、実際のチベット人の領土の半分くらいでしかありません。漢人は省を作るとき、チベットの半分をあたかも昔からの漢人の領土であるかのように見せるために、省としたのです。例えば青海省はほとんどチベット人の土地でした。現在インドに亡命しているダライラマ14世が生まれたのも、この青海省です。青海省と聞けば、なんとなく元々中国だったように聞こえますからね。そこが狙いです。チベット仏教の最高峰の転生者が漢人の国で生まれるはずもないし、そもそも漢人の国にはそんな宗教も習慣もありません。なので、当時のチベット領土という意味で計算すると清国の22%を占めます。こうして計算していくとお気づきだと思いますが「え?それじゃあ漢人の国ってどのくらいなの?半分もないかな?」と思ってしまうでしょう。(続く)
2017.08.21
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日経新聞にシャーマンの記事が出ていました。が、気になったのはそのタイトルです。「ロシアのシャーマン、民俗宗教の実態を語る」とありました。読んですぐ「なんじゃ、この記事は。また日経記者の知識不足で書いた記事か」と思ってしまいました。なぜなら、最初の書き出しが「ロシアのシベリアが源流とされる民俗信仰シャーマニズム」とあったからです。ロシア?シベリア?それは違うだろうと思ったのです。もちろんシャーマニズムには諸説あるのは知っていますが、ロシアってことはないでしょう。記事はインタビュー形式になっており、聞き手は日経の記者、答えているのは「ロシアの政財界でも知られる高名なシャーマン、ユーリー・バルダノフ氏」とあり、モスクワ在住だそうです。そんな疑問を持ちながら読み進むと「シャーマンになる際には天(テンゲリ)に誓いを立てます。」とあるではないですか!テングリはモンゴル語の天そのものです。ですが、インタビューの中には一言も「モンゴル」という言葉が出てこないのです。唯一出てきたのは、ブリヤードなど東シベリアにこのシャーマンがいたということです。まず思ったのは、やはりロシアという国は、相当モンゴルが嫌いというか、なんでも自国のものにしたがるってことです。ブリヤードというのは、ブリヤード・モンゴル人が住んでいる地域で、ヘンティ県の北側辺りです。もちろんいわゆるモンゴル民族の地域です。が、昔ロシアに取られてしまったので、今ではロシアの領土となっています。領土は仕方ないことにしろ、テングリというモンゴル語とブリヤードというモンゴル人地域の名前を出しておきながら、全くモンゴルの名前を出さないのは不自然ですし、意図的に怪しいです。「タタールのくびき」(非常に長い間ロシア人はモンゴル(タタール人と呼ばれていました)に支配され、かなりつらい思いをした時期があったことを、こう言います)の悪夢のせいか、「モンゴルの伝統」とか「モンゴルの地場宗教をモスクワの偉い人が信じている」という構図が気に入らないのでしょう。なんせロシア人にとっては、チンギスハーンは史上最悪の悪人と言うことになっていますから。だからこうしたインタビューでも、かなり「意図的に」モンゴルの名前を出さないようにしているのです。私が今月初旬の本ブログ「モンゴルの歴史は誰が書いて残す?」で「中国人もロシア人も、まともなモンゴル史は書けない」と書いたのはこういうことなのです。韓国人に「日本史を書いて、世界に向かって発信してください」というのと同じことで、とても中立的なことは書けないのです。次に思ったのは、やはりこの日経新聞の記者の基礎知識のなさです。何も知らずにたまたま聞いたと言うならわかりますが、「シャーマンにインタビュー」することがわかって会っているわけです。となれば多少は下調べ位するんじゃないでしょうか?せめて「テングリ」とか「ブリヤード」と言われたら「それはモンゴルと関係ありますか?」くらい聞いてほしいですね。ま、日経新聞の記者が全然勉強しないことは、前から良く知ってはいましたが・・・私は「モンゴルだけがシャーマンの発祥地だ」と言っているのではありません。諸説あるのも知っています。ですが、そもそもシャーマンの語源はツングース語の「シャマン」(知る人)とされているのですから、満州語や女真語に近く、モンゴル語とも同じ系統とも言われています。ですから、諸説あるにしてもモンゴル高原またはその周辺であることは間違いないでしょう。このシャーマニズムが、朝鮮半島や樺太、アイヌにも渡り、日本の神道にも影響を与えたと言われています。いずれにしろ、中国はもちろん、ロシアも「歴史的事実も自国優先」で発信する国であることは間違いないです。とはいえ、現在は世界的にシャーマニズムが存在することになっていますが、その源流である「シャーマン」がモンゴル高原周辺で発祥したことは日本人にもあまり知られていないようです。
2017.08.20
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そして3つ目が言葉の問題です。現在古代東アジアのモンゴル高原も含めた大陸に関する歴史的記述書の大半は、圧倒的に漢字で書かれています。上記の突厥の文字を読むのも大変ですが(モンゴル人で読める人はほとんどいないそうです)、研究者としてはそのエピソードの事実確認や石碑文の背景を知る必要がありますが、そのためには漢文が読めないとできません。最近でこそ中国語を勉強するモンゴル人が増えましたが、基本的には古代中国語を読めるモンゴル人はほとんどいないでしょう。大人になってから漢字を学ぶのは大きなハンディとなりますし、ましてや古代中国語の文字なんてちょっと勉強すれば読めるということは、まずないです。結果として、民主化以降のモンゴル人研究者はロシア語に翻訳された中国の古代本などを参考にするしかないのです。最近の若い研究者は英語の本だそうです。いずれにしろ、日本人研究者のように一次的な情報からではなく、他国で作った二次情報に頼るしかないということです。これら3つの要素を考えると、やはりモンゴルに関する研究は世界的に見て日本人が一番進んでいるといえるのではないかと思います。日本は戦前からモンゴルを研究してきた歴史もありますし、東京外国語大学モンゴル語科の開設は1911年ですから、100年以上の歴史を持っています。文献の豊富な中国の研究者は?共産党に限らず、中国は歴史は時の政府、王朝のためのものであり、客観的な研究はできません。なんせ「ヨーロッパに進出した最初の中国人!」がチンギスハーンだというのですから、話になりません。ロシアは?既に述べた通り、憎くてたまらないチンギスハーンの造った国を、偏見なく歴史研究できるはずありません。私が「ドイツも結構モンゴル研究やってますね?」とSさんに聞くと、確かにやっているそうですが、結局は漢字の壁があって、自分たちで直接文献を読むことができないので難しいと言ってました。こう見てくると、やはりモンゴルを「客観的」に「深く研究」できるのは日本人しかいないということになります。その辺をSさんにも直接聞いてみました。「モンゴル研究に関しては、やっぱり日本が世界一ですか?」と聞くと、Sさんは「少なくとも2000年くらいまでは日本が最先端でしたね」と答えました。結果として、モンゴルに関する優れた文献も日本人の手で書かれたものが多いのです。ここで日本人としての義務というか責務を果たすという考えが浮かんできます。1つは、Sさんが既にモンゴル関係者から言われていることですが「中立的な立場から、真のモンゴルの歴史を書き、世界に発信する」ことを日本人にやってほしいということ。もう1つは、「清朝末期以降の近代史をモンゴルの若者になんらかの形で知らしめる」ということです。この2つは、日本人がモンゴルへの貢献としてやるべきことだと思っていますが、それを誰がやるのか、しかもほとんど無報酬でできるのか?(ほとんど売れない本となるのは明確ですから)この偉大な歴史を持つ国が、自国の歴史において十分な蓄積、知験が持てていない現状は、非常に残念なものがあります。(完)
2017.08.05
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ロシア人にとっては、チンギスハーンは史上最も憎むべき歴史上の人物ですから、モンゴル人がチンギスハーンの研究をするなんて許されませんでした。その前は清朝ですから、歴史研究などというレベル以前でしょう。つまり、モンゴルの歴史をモンゴル人自身が研究することができるるようになったのは、1991年以降なのです。民主化後の混乱を考えると、せいぜいここ20年程度の経験しかないでしょう。ですが、20年と言っても20年前に研究を始めた人にはモンゴルの歴史を知っている先生がいないし、書物もほとんどありませんから、ほぼゼロから始めるしかなかったでしょう。しかも、多少なりとも残っていたモンゴル語資料はモンゴル文字やウィグル文字でしたから、キリル文字に転換されてしまった当時のモンゴル人には読めないという大きな問題があります。研究を禁止されていた、禁止が解けても研究の積み重ねがないので教えてくる人もいなかった、その上文字の一貫性がなかったので資料が読めないという厳しい状況だったと思われます。結果として、ほとんどのモンゴル人研究者は皮肉にもロシア語の資料をベースに学ぶしかありませんでした。あるいは、モンゴル秘史などの学術的にはやや「神話」的な本のみがベースになっていることもあります。そういう背景があるからなのかわかりませんが、モンゴルの若者は驚くほどモンゴルの歴史を知りません。「チンギスハーンに関するストーリー」は結構知っていますが、もっと客観的な事実はほとんど知らないように見えます。また古代のみではなく、清朝末期以降の近代史もほとんど知られていません。2つ目はナショナリズムです。私はこのことが、モンゴル人がモンゴルの歴史を研究する上で、一番大きな障害になると思っています。多くのモンゴル人は、モンゴル高原は古代よりモンゴル系民族が支配してきたと信じています。チンギスハーン以降はそれでもいいのですが、それ以前は様々な人々がいたわけですが、そこがなかなか受け入れられないのです。例えば突厥はテュルク、つまりトルコ系民族で、言葉もトルコ系です。トルコ語とモンゴル語は同じアルタイ系で、似たような語彙もありますが、現在は全く違う言葉になっています。ちなみにお隣カザフスタンはテュルク系です。そして今も一部ではあるでしょうが、カザフ語とトルコ語で意思疎通ができるんだそうです。要するに1500年をぐっと縮めて言えば、「トルコ人の祖先の地はモンゴル高原である」「トルコ人がいなくなった後、モンゴル人の土地になった」となってしまいますが、それは彼らには受け入れられません。言い方が変ですが、こういう流れだと「かつてはモンゴル高原は(テュルク系の)カザフ人の土地だった」という流れになってしまい、現代モンゴル人には絶対に受け入れられない論理となってしまうのす。モンゴル高原は「モンゴル族」ではなくとも「モンゴル系」の人々が大昔からこの地を支配していたというのが、彼らの強いアイデンティティなのです。現代モンゴル人の「モンゴル人のアイデンティティ」は「血」「モンゴル語」そして「モンゴル高原」の3つを拠り所にしています。私は一般国民がそういう気持ちを持つことには何の問題もないと思いますが、モンゴルの場合、歴史学者まで調査や文献などの客観的事実とは関係なく「それはあり得ない」と思っている場合が多いのが、研究を難しくしている原因の一つだと思います。仮に研究者が客観的事実を理解しても、モンゴル人社会ではそんな研究結果は受け入れられないでしょう。(続く)
2017.08.04
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突厥文字など、古代モンゴルの研究をしている友人Sさんの大学の研究室にお邪魔しました。Sさんはナーダム直前、つまり大統領選挙でバタバタしている頃に、バヤンホンゴルなどへ遺跡というか碑文調査に行ったので、その調査結果や新しい発見などを伺ってきました。正式な研究発表前ですので詳細は避けますが、モンゴルのゴビや草原にはまだまだ1000年以上も前のもので、未発見(?)の石碑などがあるんだなと、感心した次第です。もちろん未発見と言っても学術的な意味での未発見であって、地元の人は「ああ、あれは前から知っているよ」と言うかもしれません。ただ、突厥文字で書かれたようなものはモンゴル人には読めませんから、意味合いはわからなかったと思います。Sさんの話を聞いていると、モンゴルや中央アジアでの考古学的な研究は相当広範な基礎知識と語学力がないと、とてもじゃないが研究はできないということを改めて知りました。どういうことか?1000年や1500年前の石碑にある文字ですと、当然モンゴル語ではありません。チンギスハーンが登場した1200年代にはモンゴルには文字がなく、その後ウィグルの文字を母体にしたモンゴル文字が生まれたのです。なので例えば、突厥文字で書かれている場合はどうするか?突厥というのは、1000年以上も前にモンゴル高原にいたトルコ系民族ですので、言語的にはトルコ語系です。(テュルク系)もちろん、今のトルコ語とは違いますが、文法などは同じだそうです。その突厥が使っていた文字が突厥文字です。で、Sさんはまず突厥文字を読むところから始めます。突厥文字は表音文字であり、漢字のような表意文字ではありません。敢えて言えば、アルファベットのように子音と母音からなっているとのことです。が、表記では子音だけの表記のことが多く、Sさんはそれを一種の発音記号のようなもので読みやすい文字表記に変換します。その上で、その内容を読み込みます。内容はいろいろあるようですが、1000年、1500年後にも残るような石碑には、大体の場合大きな出来事、エピソードが記されているようです。例えば、ある国(部族)とある国(部族)が戦って、どっちが勝ったとか。それを他の資料で、裏付けを取るのだそうです。中国の「史記」のどこそこにそのことが書かれていたとか。となると、古代中国語(要するに古い漢文)も読めないと、その石碑に書いてあることが本当に何なのかは証明できないのです。またそれに関連する論文などが、英語で出ている場合はそれも参考にするのでしょう。私は兼ねてから思っていたことをSさんに聞いてみました。「モンゴルの歴史研究者は、本当にモンゴルの歴史がわかっているのか?」ということです。私の疑問には3つの意味合いがあります。誤解があるといけませんが、ここでいう「本当に」とは「客観的」という意味です。「神話」や「民族に残る言い伝え」ではなく、物証や科学的根拠(DNA調査)などに基づく歴史という意味です。1つ目は、モンゴル人自身による歴史の研究の蓄積がないことです。1991年に民主化するまでは、ソ連管理下の社会主義でしたので、まともな研究はできるはずありません。(続く)
2017.08.02
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神田の古本屋さん街に行ってきました。場所が近いこともあり、時々ぶらりと行きます。神田は全国一の古本屋街と言われていますが、世界的に見てもこれだけ密集している場所はないと聞いたことがあります。元々は大して古本には興味はなかったのですが、ぶらぶら歩いていて店先のを覗いたら古いモンゴル関係の本を見つけたりしたので、その後は意識して行くようになったのです。モンゴルに関する本は、普通の本屋さんで買って読むことが多いですが、さすがに古い本はおいていませんし、そもそもどんな本があるのかもわかりませんから、アマゾンなんかでも探せません。やはり手にとって読んでみないとわかりませんからね。例えば、2000年に発行された「モンゴルの歴史と文化」という本があります。これは17年前に日本で発行された本ですが、1964年にドイツ人研究者ハイシッヒによって書かれた本の翻訳本です。完全な社会主義時代の本ですが、本書はその当時にモンゴル国内を広く旅し、モンゴルに残る多くの古書を収集し研究するという内容です。後でモンゴル研究の専門家のSさんに聞いてわかりましたが、この本は世界的に見てもモンゴル学の基本的な良書として有名なんだそうです。こんな本は、神田でもないと出会わなかったでしょう。あるいは、チベット関係の本もあります。神田で見つけたのは「チベット潜行十年」という木村肥佐生の書いた本で、初版が昭和57年、つまり1982年の本です。これは昭和18年(1943年)つまり、戦時中に内モンゴルからチベットに潜行し、10年余りチベットにいた人が書いた本です。書いたのが日本人だというのも驚きですが、著者はなんとモンゴル人僧侶を装い、ラサに潜入したのです。なので、モンゴル人僧侶としてばれないほどモンゴル語が堪能で、モンゴル人との生活を3年近くやった後で、チベットへ行ったというちょっと考えられないような実話なのです。こんな本も、神田以外では出会わないでしょうね。こうした本を読むと、「なるほどなー」と思える話がたくさんあります。そんな話もいつかこのブログで紹介できたらと思っています。ですがなんせ、読んでいるときは「面白いな!」と思っても、そのまま読み進めてしまうので、具体的な内容やページはすぐ忘れてしまうのです。今日も5冊ほど買ってきました。全部足しても1000円にもならないのが、古本の魅力です。買った中に1冊だけ雑誌というか、「週刊朝日百科世界の地理」という、わずか30ページほどの薄っぺらい写真付き雑誌があります。チベット、新疆ウイグルそしてモンゴルが載っている75号です。1985年発行ですから、当然社会主義時代のモンゴルが載っています。いろいろ興味深い写真もあります。例えば「ウランバートルの旧住宅密集地」と題した写真。説明を読むと「市の北方や南方には、まだまだこうした古い住宅密集地が残されている」とありますが、現在のゲル地区の原型なのです。しかも密集地と書かれていますが、今と比べると「整然とした住宅地」と言えるほど、全然ごちゃごちゃしていません。なんせ当時の人口はモンゴル全体で180万人、ウランバートルはわずか45万人(1981年)でしたから、のどかなもんです。当時のデータを見ると面白いです。羊は1500万頭なのに対して、山羊が500万頭と3分の1です。この比率が、長年の遊牧の経験から出てきた最適比率と言えるのでしょうが、最近はほぼ1対1(2400万頭ずつ)、あるいは山羊の方が多い地域もあります。これはもちろんカシミヤ人気の影響が大きいのですが、それによってモンゴルの大地の砂漠化が早まっているという話も聞きます。一人当たりGDPは780ドルと、今の4000ドルに比べるとかなり低いのがわかります。ですが、一番驚いたのはトゥグルグです。現在のレートは、ざっくり言えば100トゥグルグ=5円となりますが、この当時のレートだと、なんと100トゥグルグ=7800円となるのです。つまり1トゥグルグが78円ということです。当時のトゥグルグは随分価値があったんですね。なので最小単位はトゥグルグではなく、その下のモンゴがありました。1トゥグルグ=100モンゴです。今でも「お金」という意味でモンゴは使われますが、通貨単位としてはありません。日本の銭みたいなものでしょう。ちなみに、モンゴは銀という意味です。昔は銀がお金だったということなんでしょう。あと気になったのは、テレビ局は1社だけ(多分、今の国営放送のことでしょう)、電話は100人当たり2.4台(1981年)、大学は7つだけ。今は170くらいかな?などです。社会主義時代の様子はこれだけでわかるものではありませんが、モンゴル人の友人らが「昔は1トゥグルグも立派なお金だった」と言っていたのに、納得しました。
2017.06.12
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もう一つの、ソグド人とモンゴルの関係は文字です。ソグド文字はアラム文字をその起源としています。アラム文字とは紀元前から使われていた古代アラム語の文字で、中東系文字の大部分は、このアラム文字から派生しました。フェニキア文字、ヘブライ文字そしてアラブ文字などが有名です。この文字は、イラン系の文字にも派生し、ソグド文字となりました。ソグド語は、イラン系言語ですが当時のユーラシア内陸部の商業ネットワークの中心がソグド人であったため、この地域の国際商業語としての地位を持っていました。それがその後のウイグル文字となり、ウイグル文字からモンゴル文字ができたのです。更に、モンゴル文字をベースに満州文字ができたというわけです。こうして、モンゴル高原にいた遊牧民はシルクロードの繁栄やモンゴル文字形成にあたって、ソグド人と関係があったというわけです。ソグド人は、唐の時代に積極的に漢人地域(今のウイグルはもともと漢人中国ではない)までネットワークを広げ、土着化しました。当時は「安」「康」などの名前の多くはソグド人だったようです。面白いのは、同じソグド人でも出身都市(オアシス国家は面ではなく、点在というイメージ)によって、名字の漢字が異なるのです。有名なサマルカンド出身者は「康」、漢人地域に入った最も多いソグド人の出身地といわれたのがブラハで、その人たちは「安」でした。有名なタシケント出身者は「石」でした。恐らく、現代中国人の名前のルーツの一つと言えるでしょう。この唐の時代に漢人は西域からの文化・物質を多く取り入れました。西域全般、特にソグド人のことを「胡」と呼んだので、ソグド人が漢人に紹介した西域の珍品の多くにこの「胡」がついたというわけです。ソグド人が持ってきた瓜が胡瓜、ソグド人の座り方が胡坐、ソグド人が持ってきたスパイスが胡椒というわけです。そして恐らく、漢人から見るとソグド人は商売上手というか、値段もあってないような売り方をしていたので「なんか、こいつらうさんくさいな」と思われたのでしょう。だから「胡散臭い」となったのです。他の漢語と違って、日本人にとって音読みでも訓読みでもしっくりこないのは、漢人にとっては外来語であったので、読み方と漢字の間にロジカルな対応がなかったことが原因かもしれません。結局、日本に入ってきたときはこの文字を当て字のように使って、読み方は「やまとことば的」としたのでしょう。これだけ活躍したソグド人でしたが、唐の時代に「安史の乱」という一種の唐との戦争を引き起こし、それをきっかけにこの地域はウイグルの支配が強くなり、次第にソグド人は周辺民族に吸収されていきました。また、ソグド人の祖地であるソグディアナ地方は、ペルシャの王朝の勢力が強くなり、イスラム化、ペルシャ化してしまいました。というわけで、オアシスに生まれたソグド人はユーラシア大陸の物質のみでなく、文化や文字、更には多様な人々を東西に運んで大きく繁栄しましたが、最終的にはオアシスの幻のように消えてしまったのです。中国やペルシャの文献にも多く登場したこれらの人々は、チンギスハーンが登場するころにはほとんどどの文献からも消えてしまっていたようです。ですが、彼らは「モンゴル文字」「満州文字」を通じて、現代の人々とつながっており、更には胡瓜や胡椒などの文字で、我ら日本ともつながっているのです。まさに、幻の民族と言えるでしょう。(完)
2017.03.14
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モンゴルと縁ができてから、モンゴルの歴史、更には遊牧民の歴史などに興味を持ち、ユーラシア大陸に住む人々の歴史に関する本を読むようになりました。そんな関係の本も既に20冊を超え、少しずつ内陸の民族たちの様子が理解できるようになってきました。モンゴルに行く前から、もともと民族などへの関心は強かったのですが、明確にモンゴルの歴史を知ろうと本を探しているうちに、その対象範囲が広がってきたというわけです。そんな中で「へー、そうなんだー!」と思うようなことがいくつも出てきました。そんな気づきやトレビアを今後、機会を見ては本ブログでも紹介していこうと思います。ですが、その道の研究家でも専門家でもないですし、本ブログの読者の方もあんまり突っ込んだ話には興味ないと思いますので、そういう話の中から「モンゴルにつながる話」「今の私たちの生活につながる話」などを少しずつ書いていこうと思います。せっかく始めるので、新しいカテゴリー「ユーラシアの歴史」を設定していきますので、興味のある方はご高覧をお願いします。で、今回はその第1回目です。恵比寿に胡桃という和食屋さんがあって(今もあるのかな?)、深夜までやっているということで以前は何度かお邪魔したことがありました。その時「胡桃」という店名を見て、「なんて読むんだろう?くるみでいいのかな?」と思った記憶があります。漢字2文字ですから、いわゆる漢語なんでしょうが、どう見ても「こもも」ならわかりますが、「くるみ」とは読めません。「あぐらをかく」というのは、完全に日本語だとは思うのですが、あぐらで変換すると胡坐になります。「こざ」ではなく「あぐら」なんですね。不思議だと思いませんか?野菜にもあります。スイカは西瓜、カボチャは南瓜というのは有名ですね。では、きゅうりは?そうです、胡瓜と書き、これまた「胡」です。「なんか嘘っぽい話ばかりする怪しい人」みたいなのを「うさん臭い」と言いますが、これも漢字で書くと「胡散臭い」なんですね。「こさん」じゃないんです。これらに共通しているのは「胡」という漢字です。もう一つ共通しているのは「読み方に全く規則性がないというか、当て字的な使われ方をしている」ということです。この「胡」を使って、「こ」「ご」と発音する単語もあります。ゴマは胡麻、高級店のオープン時には欠かせない花である胡蝶蘭もこの字です。更には、中国の楽器、二胡もそうです。ま、きりがないですね。これだけ日本人の現代生活に入り込んでいるこれらの言葉に共通している「胡」についての話です。答えを言うと「ソグド人」のことを指します。中国では古代から西方の民族を「胡人」と呼んできたのですが、その中でも有力な民族としてソグド人がいたため、胡というのは実質的にソグド人を指すこととなったのです。ソグド人の存在は、紀元前5世紀ころから既に書物にも登場しており、かなり活発に活動していたようです。このソグド人は、カザフやキルギスなどのテュルク系(トルコ系)でもモンゴル系でももちろん中国系でもなく、ペルシア系でした。ですからもちろん言葉はペルシャ系の言語でした。ソグド人はいわゆる中国の西、イランの北、今でいうウズベキスタンとか新疆ウイグルなどがある西域の中のオアシスと言われる地域に都市国家(というほど大げさではないが、点在していたという意味)のように存在していました。その地域は昔は、ソグディアナ地方と呼ばれていました。彼らの存在は、その後のモンゴル、更には中国文化を輸入した日本にも影響を与えたというわけなのです。ソグド人は古代よりオアシス地域に分散して存在していましたが、そのネットワークは非常に強く、それゆえ商業を中心に栄えてきました。この辺りの言葉は基本的には今もテュルク系(トルコ系)やモンゴル系が多いのですが、そんな中でペルシャ系言語を話す人々だけの独自のネットワークを持っていたのです。ソグド人は、唐の時代に中国西部の漢人の地域まで入り込み、漢人文化・製品と西のペルシャ更にはアラブの文化・製品を結び付けていたというわけです。これが「シルクロード」と世に言われる通商の原点です。そしてこの道が遊牧民の力で大きく発展しました。なぜか?普通に考えればわかることですが、シルクロードをキャラバン隊(ラクダをメインとした通商隊)には金銀財宝に絹や奢侈品をたくさん積まれていましたから、その沿道ではそれらを狙う盗賊がごろごろしていたわけです。しかもこの長いロードには様々な国、民族が関わっていますから、ルールなんてあってないようなものでした。ですので、キャラバン隊は命がけで物資を運ばないといけないので、こうした通商行為はあったものの、大きな発展には至らなかったのです。そこへ登場したのがモンゴル高原を中心に東西に巨大な国を築いた突厥(とっくつ)です。この巨大な帝国は、シルクロードのほぼ端から端まで一国で支配していたので、その安全度は格段に上がりました。とはいえ、さすがに無防備でいいというわけにはいかないので、キャラバン隊を遊牧騎馬民族が保護しながら進んだというわけです。もちろん、遊牧騎馬民族も報酬を得て護衛したわけですが、キャラバン隊からすれば途中で盗賊にあうリスクを考えれば、遊牧系騎馬民族の保護のもとで運ぶ方がずっといいわけです。なので、シルクロードの発展には騎馬民族=遊牧民の貢献が大きかったのです。後のチンギスハーンは、遊牧騎馬民族のパワーでこのシルクロードを一層発展させたというわけです。(続く)
2017.03.13
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プラハが美しい街だというのは、何度も耳にしたことはありましたが、やはり百聞は一見に如かずというのでしょうか、素晴らしい街です。(今回の写真は、順不同でプラハの風景を載せています)ヨーロッパでは、パリの街並みに感激し、ブラッセルの400年前からの市庁舎に驚き、ジュネーブの荘厳さに驚きましたが、それらと比べてもプラハは別格のように思えました。他の有名な都市にも、昔から残る素晴らしい街並みは多いのですが、プラハはまさに「都市全体が中世のまま?」と思えてしまうような凄みがあります。日本も含めた普通の街であれば、一つか二つ数百年前からの荘厳な建物があれば、十分にその都市は、美しいと称されるでしょうが、街全体がそうなのですから、世界遺産になるのも当然だと思いました。ウィーン、ブラスチラバ、プラハと駆け足で巡って感じたのは、ヨーロッパの底力と言いますか、経済も文化も力強く世界に発信しているように見えました。東欧というと、どうしても「ソ連崩壊後に西側と一緒になった」というイメージがあり、ドイツ企業をはじめとする西側企業による低コスト生産地という感覚がありましたが、実態はとんでもない、もう昔の輝きを取り戻した立派なヨーロッパ先進国の一員だと感じました。オーストリアは、ソ連崩壊後は名実ともにヨーロッパの中心地域となり、冷戦前からあった東西ヨーロッパをつなぐ役割が一層強化、機能しているように見えました。停滞する日本などをしり目に、経済成長を続けており、豊かな生活を享受しています。チェコもスロバキアも本家のロシアが経済的苦境にあえぐ中、立派に経済復興を成し遂げたように見えます。翻って、アジアは「世界経済の成長センター」と言われながらも、東南アジアも中国経済も平均的にはまだまだこの地域には及びません。アジアのケイオスな(混沌とした)街並みと対照的な整然と美しい街並み、戦後のアジア同様に苦しい環境から立ち上がりながらも、高いレベルに達した経済力などを見ると、正直言って「なんでヨーロッパってこんなに底堅く、豊かなんだろう」と単純に思ってしまいます。同じ社会主義国だったモンゴルから見えれば、さらにこれらの国々の発展ぶりの偉大さがよくわかります。ソ連時代には「プラハの春」などでひどいめにあっただけでなく、経済的にも停滞・疲弊していたことは容易に想像できるだけに、単純にすごいなと思います。ベルリンの壁崩壊直後に東ドイツとポーランドに足を踏み入れた経験があります。もちろん今回訪問の国とは違いますが、やはりどう贔屓目に見ても貧しさや時代遅れ感は否めませんでした。ですが、あれから四半世紀余り、ヨーロッパにはもう経済的な意味での東も西もないのかな、と思うほどになっています。東アジアと違い、自動車の生産で競うわけでも、テレビやPCの生産台数を競うわけでもなく、地道に地域の発展を目指してきたのでしょうが、その辺の秘訣は残念ながら今回掴むことはできませんでした。が、やはり民主主義とキリスト教文化を共有化するヨーロッパ各国、特にドイツの役割は大きかったのだろうと思われます。残念ながら、モンゴルはまだ「もう十分に発展した。見違えるようになった。」といえる段階には来ていません。旧社会主義国の発展の道筋は、きっとモンゴルも参考にできるのではないかと感じました。
2016.08.03
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これはなかなか言いにくい話ですが、加害者側は忘れても被害者側はなかなか忘れないという言い方があります。身近なところでは、アジア諸国の対日感情です。台湾やベトナムのように既に大きく改善されている国もあれば、中韓のように向こう100年は変わらないんじゃないかと思える国もあります。モンゴルの対日感情はもちろん前者です。モンゴルでは民族の象徴として尊敬される、世界最大の帝国を作ったチンギスハーンですが、すべての国がそれを称賛しているわけではありません。昔一緒に仕事をしていたベルギー人のパートナーに聞いた話があります。ちなみに彼と私は同じ歳です。「昔、子供のころ、悪いいたずらをすると、おばあちゃんから「そんな悪いことすると、モンゴル人に殺されるぞー!」と言って、目の両端を指で引っ張り、目を細くしながら低い声で子供の私を脅したんだ。」と。そしてその殺し方がいかに悲惨かを身振りで示すのだそうです。そう言いながら、物置に放り込まれるわけです。日本でいえば、「言うこと聞かないと鬼に食べられるぞー!」とか「閻魔様に舌を切られるぞー」みたいな感じでしょうかね。ある意味、おばあちゃんは孫の道徳教育のためにチンギスハーンやモンゴル人を使っていたわけです。私は驚いて「え?チンギスハーン?それってもう800年も前の話でしょ?」と聞くと、西ヨーロッパでは誰もが恐怖に怯えていたので、そんな話が伝わっているというのです。その後、別のベルギー人に「実は私の友人がこんなことを言ってたんだ・・・」とその話をしたら「そうだよ、うちもおばあちゃんにその話聞かされてたよ。悪いことをすると、モンゴル人が来るぞーってね。」。更に、今度はフランス人の友人にその話をしたら、なんと同じ答えが返ってきたのです。まったくもってびっくりです。そういう意味では、「モンゴル」という名前は、ヨーロッパにかなり浸透している言えます。第二次大戦後のアジアの領土分割で、中国はどさくさ紛れに「チベットもモンゴルも全部中国のものだ!」と主張したとき、「え?モンゴル?それは全然違う国じゃないか。800年前から別の国でしょ?」とヨーロッパ諸国から異論が出たという話もあったとか。当時、チベットのダライラマはまだヨーロッパでは無名でしたので反論は出なかったのですが。モンゴルのチンギスハーンは絶大な知名度を誇り、それゆえわれらが(北)モンゴルは救われたという話もあります。チンギスハーンは2度民族に貢献したということです。13世紀にモンゴル軍はヨーロッパを攻め、パリまであと300kmというところで、チンギスハーンの死により撤退したとされていますので、西ヨーロッパ諸国は実際に殺戮の被害はありませんでした。が、その当時からチンギスハーンは「広報活動」の効果を知り、「モンゴル軍がいかに強く、残虐であるか」を意図的に触れ回らせたそうです。そうすれば、敵対する軍隊も恐れを持つでしょうし、各国政府も戦わずしてひれ伏す可能性があるということです。その広報戦略の対象となったのがベルギーやフランスなどの大陸西ヨーロッパ諸国というわけです。その効果はてきめんだったということなんでしょう。なんせ800年たっても語り継がれているのですから。噂だけで終わった西ヨーロッパと違い、実際の被害にあったのが東ヨーロッパです。最初に狙われたのが、ハンガリーであり、そこを傘下に収めて更に北進、西進したというわけです。その最前線にあったのが、ここスロバキアだったというわけです。そもそもスロバキアは、隣国であるハンガリーとは近い関係で、一時は同じ国であった歴史もあるほどです。そのハンガリーが東から来た大軍に国が滅ぼされているわけですから、その緊張感は非常に大きかったでしょう。ガイドブックの「地球の歩き方」を見ても、そのことが明確にわかります。スロバキアの世界遺産であるスピシュ城は中央ヨーロッパ最大級の城だそうです。その解説には「そもそもタタール人(モンゴル人)の来襲に備えて1209年にロマネスク様式で建設が始まった。」とあります。残念ながらこの世界遺産は、首都からかなり離れているので、訪れることはできません。また同じく東方に位置するレヴォチャという人口1万4千人の市については「レヴォチャは1242年のモンゴル軍の侵攻後、ハンガリー王が防御線としての機能を持つ町として建設したのが起源」とここでもモンゴルが登場します。そんな遠いところまではいけないので、私はブラティスラバから西に10kmほど離れた場所にあるデヴィン城に行ってみました。これは1809年のデヴィン城です。すでに1世紀のころからドナウ川とモラヴァ川の合流地点という戦略的な場所に、この城は築かれたそうです。川の地形を城造りに反映させるのは、日本と同じです。その後、幾代にも渡って城は巨大化され、最終的にはナポレオンが率いるフランス軍に攻め落とされ、廃墟となったのです。今はその廃墟となった城一帯を整備して、多くの観光客が訪れるスポットとなっています。内部に資料館のようなものが併設されていました。そこにいた係員に私は「この城へは昔モンゴル軍もやってきたのでしょうか?」と聞いてみました。彼女が「それは十分にあり得ますね。あの、なんって言ったかしら・・・なんとかハーン?」というので、私が「チンギスハーン?」と言うと「ああ、それそれ、チンギスハーンはこの国全体を襲ったから、この城でも戦ったのだと思います。」と言ってました。周囲は、平和そのものといった風景です。東ヨーロッパに残るモンゴルの名前は、おそらく私たちが想像している以上に、各地に残っているのではないかと思います。もちろん、それらは歴史の1ページであって、今のモンゴル人と結び付けて話す人はいませんけ。多くの場合、その当時はモンゴルという名前よりは、タタールという呼び名が主流でしたし。
2016.07.29
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ウィーンで1泊して、今日はスロバキアの首都ブラティスラバに移動です。移動手段を検討していた時に驚いたのが、ウィーンとブラティスラバの距離の近さです。その距離60kmです。確かに地図を見ると、ブラティスラバは横長のスロバキアの西端にあります。首都同士がこんなに近い国ってあるのでしょうか?シンガポールだって、マレーシアの国境は近いですが、首都クアラルンプールまでは遠いです。外国人がブラティスラバへ行く場合は、ウィーンの方が国際線の便数は多いので、ウィーン経由でバスや電車で訪れるケースの方が多いようです。成田から都心だって60kmですから、同じようなものです。その両首都はドナウ川でつながっているので、船でも行けるのです。その名も「Twin City」という名前のクルーズ船です。今回はこの船で行くことにしました。夏の観光シーズンだからでしょうか、船は満席でした。日本で予約しておいてよかったです。インターネット予約は本当に便利です。予約した時はまだ空席はたくさんありましたから、その後埋まったのでしょう。日本人には「ドナウ川のさざ波」という曲で有名です。と言いながら、どんな曲だか忘れてしまいましたので、今ユーチューブで聞きましたら思い出しました。モンゴルでは何というのでしょうか?英語名はWaves of the Danubeと言い、ワルツの素敵な曲です。この船で1時間半ほどでブラティスラバに行くのですが、その際の風景にはいくつか印象的というか、驚いたことがあります。ウィーンを出発すると、ほんの10分ほどで両岸には何もない森林というと大げさですが、民家が全然ない自然状態になります。私の田舎新潟には日本1の信濃川と5位(私の記憶では)の阿賀野川がありますし、もちろん田舎を延々と流れていますが、両岸に民家も道路も何もない状態がこんなんい長く続くような場所はありません。私の経験で敢えて似ている光景といえば、西表島(イリオモテジマ、石垣島から船で行くところ)の西表川に近い風景ですが、あそこは日本で唯一の熱帯雨林で囲まれた川ですから全く条件は違うのですが、そのくらいしか思いつきません。モンゴルにだって、あれだけ緑が両岸に続く川はありません。テレルジの方へ行けば、美しい光景がありますが、水量や長さは全く違います。次に見たのは、両岸に点在する小さな家々です。家々というと連なっているようですが、そうではなくまさに点在です。最初は社会主義国に多い(もちろん、モンゴルにも多い)サマーハウスかなと思ったのですが、よく見るとそれよりは明らかに小さいです。船上のガイドさんに聞いたら、漁師さんの家だそうです。もちろん常時住んでいるのではなく、漁の時だけ来るのでしょう。でもどうやって来るのでしょうか?道路も何もないように見えます。実際、たくさんの小さな家を見ましたが、ただの一度もその付近に車が止まっていたり、人がいる様子は見えませんでした。そして一番驚いたのは、橋がないことです。ウィーン市内にはもちろんありましたが、風景が両岸森状態になってからずっと橋がないのです。途中、1本だけ人が渡れる程度のがあっただけで、車が通れる橋がないのです。そしてそれはずっと続き、なんと橋が最初に出てきたのはブラティスラバに着いてからです。つまり60km近く、この大河には橋がないのです。一体どうやって、両岸の交流があるのでしょうか?途中に渡し船らしき場所もありませんでした。60kmも距離を同じ国の中なのに、両岸が分断されているということなんでしょうか?これについては、結局わからずじまいです。新潟でいえば、新潟市から長岡市の両都心部以外に、信濃川に一本も橋がないということです。実際には無数にあるでしょうけど。というわけで、ドナウ川のさざなみのイメージとはちょっと違う、街や人家がほとんど見えない航行でした。ブラティスラバは、旧市街が小さくまとまっており、その旧市街地全体が歩行者天国状態になっている散歩しやすい街でした。ホテルへは午前中に着いてしまいました。もちろんチェックインは午後なんですけど。そのこじんまりとしたホテルへ入って、「すいません」と声をかけると、なんと「Mr.Tazaki?」と言うではありませんか!多分、今日ここへ来る予定のアジア人は私一人なのでしょう。すぐにスーツケースだけ預かってくれ、「チェックインは午後2時です」と伝えてくれました。ウィーンのホテルもそうでしたが、シンプルだけど暖かい対応だと感じました。
2016.07.27
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ウィーンに来ています。中央ヨーロッパは初めての訪問です。会議があるので、それに絡めて夏休みとしていくつかの国を回る予定です。成田からはウィーンまでオーストリア航空の直行便があり、便利です。なのですが、どうやら私にとってのオーストリア航空は最初で最後の経験になりそうです。というのは、9月上旬をもってオーストリア航空は日本から撤退するのだそうです。ウィーン空港で団体客のガイドさんが話されていましたが、日本路線を撤退して中国路線を増便するのだそうです。いやー、まさに時代を反映した変更です。ですが、今回の便は満席でした。それでも赤字路線なんでしょうか?そのガイドさんが説明するには夏の観光シーズンは日本人には人気なのでたくさん乗ってくれるそうですが、日本人の場合は観光客中心なので冬がガラガラなんだそうです。それに対して、中国の場合はビジネス客が中心なので年間を通して安定しているのだとか。訪日観光客3000万人達成とか言ってますが、裏ではこうしてナショナル・フラッグ・キャリアの撤退もあるんだなと感じました。ところで、ここウィーンはつい先日の新聞にも出ていましたが、グローバル企業の駐在員にとって世界で一番住みやすい都市なんだそうです。すごいですね。まだ着いたばかりで、街の様子はわかりませんが、十分想像はつきます。要するに世界的に見て「観光したくなる都市」と「ビジネスに魅力的な都市」と「住むのに快適な都市」は全く別だということでしょう。観光したくなる都市の代表は、京都やパリでしょう。ビジネスではロンドン、香港、東京などです。でも、住民として住む場合は、これらではない街が選ばれるのは当然だと思います。私が思うには、「周辺人口入れても80万ー200万人程度で、巨大すぎない」「グローバルレベルのエンターテインメントやフードサービスが整っている」「比較的短時間で自然に触れ合える環境にある」というあたりがポイントかなと思います。そういう意味では、アメリカではサンフランシスコやボストン、ヨーロッパではデュッセルドルフやミュンヘン、日本では福岡、札幌あたりでしょう。ここウィーンは芸術もあるし、食もいいし、自然に囲まれているということなのでしょう。まだ空港からホテルに来ただけの体験しかないのですが、観光客に優しいというか、街のフレンドリーさを感じることができました。まず入管です。ありがたいことに、多くの国々では日本人へのチェックはあまり厳しくはありませんが、こんなに簡単に入ったのは空港の入管としては初めてでした。まず、パスポートを渡します。普通は一応端末とつなげて何かチェックしますけど、なーんにも見ません。パスポート開いてハンコ押しておしまい。「え?なんか画面とか見ないの?」と思いましたが、そのままスルーです。今回はタクシーではなく、電車でホテルまで行ってみることにしました。とはいえ、初ウィーンですから、何もわかりません。ホテルの住所片手に「すいません、ここへ行きたいのですが、地下鉄はどこですか?」と聞くと「地下鉄はありませんが、電車があります。地下階へ行って、切符売り場でこの駅までを買ってください。3.9ユーロです。」と教えてもらいました。切符を買ってホームに行くのですが、改札がないのです。「あれ?改札がなかったな。車内改札かな?」と思ってましたが、それもなし。目的の駅(ウィーンの中心駅)に着いたので、降車。ホテルはどっちの出口かなと探していると、そのまま出口に来ました。「あれ?改札なかったな?」つまり入るのも出るのも改札がないのです。北海道にある無人駅ではなく、大きなウィーン駅です。一体どうなっているでしょうか?お互い、信じあっているってことなんでしょうか?それとも、私が知らずに何かを見落としたってことなんでしょうか?ホテルも街のカフェも、外国人には慣れている感じで、簡潔でスマートな対応をしてくれます。まずは、いい感じのスタートとなりました。ホテルも名前がクラシックホテルというだけあって、本当にクラシックです。鍵を開けるのも締めるのも鍵が必要なのです。カードではなく、内側からかけるものもなく、いわゆるあの金属製の鍵をいちいち使うのです。部屋を開けるのはもちろん、部屋に入ったら内側からロックしますが、それもあの鍵を使うのです。なんかこういうホテルって、初めてのような気がします。ところで、東欧や中欧は、モンゴルと深い関係にあります。と言いますか、今のモンゴル人にはあまり馴染みはないでしょうけど、こちらの方々には「モンゴル」というのは、必ず記憶の片隅にある名前なのです。その辺のことはまたいずれ。写真を載せたいのはやまやまですが、今回カードリーダーを持ってくるのを忘れたので、日本に戻ってから載せようと思います。
2016.07.26
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昨日の夜は、友人のUさんとUさんの友人らとビールを飲んでました。Uさん含めて、総勢6人の男性だけの飲み会でした。類は友を呼ぶとでも言うのでしょうか、皆非常にオープンマインドな人たちで、それぞれがそれぞれの場で活躍している人ばかりでした。(モンゴルとしては)大企業を辞め、起業した人。大企業で幹部になっている人、研究している人さらには有名な歌手もいました。「モンゴル人に言えば誰もが知っている有名な歌手なんですよ」とのことでしたが、もちろん私は知りませんでした。初対面でモンゴル語も話せない私を気持ちよく迎えてくれ、楽しい時間を過ごせました。日本で同じ状況?30代後半のエリートさん??たちの飲み会に、なんの前触れもなく突然日本語も話せない外国人が参加しても、これだけ打ち解けてくれるかは疑問です。やはりモンゴル人のオープンさはモンゴル人の良さだなと実感しました。そんな中に、カザフ人が一人いました。バヤンウルギー県からやってきたカザフ人です。私は以前モンゴル国立大学で、一人の優秀な生徒のことを思い出し、その話をしました。その生徒は、当然モンゴル語を話していたのですが、なんと彼は10歳くらいになってモンゴル語を学び始めたというのです。え?カザフスタン国ではなくモンゴル国内で生まれ育ったんだよね?モンゴル語を勉強した??どういうこと?その生徒は、カザフ語で育ち、モンゴル語は全く使っていなかったそうです。ですが、10歳くらいの時、非常に優秀なので将来ウランバートルで勉強させようとモンゴル語の勉強を始めたというわけです。まるで外国みたいな話です。周囲の生徒に聞くと「モンゴル語は非常に上手で、何も問題ないけど、生まれ育った言語でないことはわかる」とのことでした。カザフ人に関してはこの生徒以外にも、夏になるとUBの街にやってくるバーベキュー屋さんも思い出されます。モンゴル人は確かに羊をよく食べますが、そのほとんどはボーズ、ホーショール以外では、スープにして食べます。あるいは、ゲルでのご馳走ホルホグ(羊の丸ゆで)にしたりとか。ですが、焼くという食べ方は伝統的にはないようなのです。焼くというのは、焼き鳥のように火や炭で直接焼くという意味です。ところが夏になるとUBのあちこちに羊の串焼きの匂いが立ち込めてきます。思わず引き込まれて食べてみると、これがおいしいのです。なんでいつもこれを提供してくれないのかなと思うほどですが、モンゴル人の友人に言わせれば「あれはモンゴル料理じゃなくて、カザフ人が夏だけやってる食べ物」と言って、さほど興味は示しません。まあ、こんな私の経験をそのカザフ人に話しました。すると、今まで知らなかったいろんなことを知りました。まず、なぜモンゴルにカザフ人がいるのか?そりゃあ陸続きだし、遊牧民族なんだから隣の国の人たちと混ざり合うのは当たり前で、疑問にも思っていませんでした。が、そんな「自然な」「長い歴史の結果」ではないのです。古くは帝政ロシア、その後は清朝によって、カザフ人たちは結構弾圧されていたんだそうです。清朝末期には、今の新疆ウィグル辺りにも結構なカザフ人が住んでいたんだそうです。それが清朝から中華民国、更には中国共産党国家になったことで、とても住めない場所になってしまったんだそうです。もちろん、今もイスラムの人たちには住みたくない場所ですけど。Uさんは「今のシリアみたいなもんですよ」と、当時の難民みたいな存在だったと話してくれました。それでいろいろいきさつがあって、モンゴル側がモンゴル国内の一番西の端をカザフ難民を受け入れるために用意したんだそうです。ですから、数百年前からそこにいたというのでは全くなく、20世紀になってから移住した人たちがたくさんいるんだそうです。なので、カザフ人はその固有の文化や言語を大切に守っているんだそうです。私が「それはわかったけど、でもいくら西の端でも、昔からその辺にもモンゴル人が住んでいたわけでしょ?その人たちからすれば、なんだか土地を奪われたって気になるんじゃないですか?」と聞きました。特に、同じ遊牧民ですから、お気に入りの土地はどうしても重なってしまうでしょう。「そうなんです。だから、その辺のモンゴル人にとっては複雑な気持ちが残っているんです」と言われました。それを聞いて、なんとなくピーンとくるものがありました。串焼きの話もそうですが、モンゴル人の友人にカザフの話を振ってもなんとなく他人事のように話す場合が多いのです。一種の差別かなとも思える雰囲気も感じたことはあります。立場も経緯も全然違いますが、日本における在日コリアン問題に近いのかもと思いました。もちろん、今のUBでそんなことを口にする人はいませんし、その彼もいい仕事をしています。ですが、やはりよく見ると顔も少し違いますし、名前はモンゴル人の名前と違いますから、モンゴル人たちから見ればすぐにわかるのでしょう。そのカザフ人と話して、長年の疑問が解けました。モンゴル語ではX、英語書きにするとKHの発音です。これは日本人にととても真似のできない発音なんですが、「ハ」と「カ」の間の発音で、しかも喉の奥から出てくるような音なのです。このKHの発音は、日本人はもちろん苦手ですが、アメリカ人だって苦手です。ですので、多くの国では「ハ」か「カ」で発音してしまうのです。日本でも、チンギスハーンもあればジンギスカン鍋もあります。(もちろん、この鍋料理はモンゴルとは全く関係ないのは、本ブログの読者ならおわかりでしょう)で、この発音をカザフ人にしてもらったら、なんと「カ」に近いのです。モンゴルでは普通はどちらかと言えば「ハ」に近い発音を耳にしますが、カザフ人では明らかに「カ」に近い発音をするのです。この「カ」に似た発音が、ロシア経由で世界に広まり、アメリカなどでは「カ」の方が多くなったってことです。バヤンウルギー、一度は行きかけたことがありましたが、その時は行けませんでした。いつか行ってみたいと思います。
2016.04.03
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アメリカでプロのガイドさんの説明を受ける機会がありました。日系人の方ですが、日本にも住んでいたことがあり日本語も完璧です。その方が、アメリカの歴史などをお話しされた時になんとモンゴルの名前が出てきたので、私は耳をダンボにして聞きました。話しの半分は、以前から知っていたこととほぼ同じでしたが、後の半分は新しい話がありました。その話というのは、ネィティブアメリカン、あるいはアメリカ先住民と呼ばれる人たちのルーツのことです。私たちの子供の頃はインディアンと呼ばれていた気もしますが、今はそのような呼ばれ方は少ないようです。彼の説明によると、現在アメリカで確認される先住民はおよそ600もの種族からなっているそうで、数十万人の居住区を与えられた種族もいれば、ほとんど消滅しかかっている種族もいるそうです。確かにウィキペディアを見ただけでも、無数の名前が出てきます。彼らは数万年前にアメリカに渡って来てそれぞれの種族が別々の場所で生活してきたので言葉も習慣も違い、一口にネィティブアメリカンとくくれないほどだそうです。ですが、その600もの種族を分類して行き、煎じ詰めていくと大きく2つのグループに分かれるとのことです。一つは、北方ルートでやってきた人たち。彼らは数万年前(5万年前?)にモンゴルからまだ陸続きだった(或いは、諸島伝いで)ユーラシア大陸からモンゴル人の祖先がやってきたのです。彼らの特徴は、身体が比較的大きく、狩猟や遊牧生活をしていました。住居も移動に適したもので、モンゴルのゲルとは違いますが、基本的な作りは似ているそうです。つまり長期住居型ではなく、短期的な移動に適していたと。そして彼らは集団生活はしなかったのです。それはモンゴルと同じ理由です。集団で同じようなところに住んでいては、飼っている家畜たちの草がすぐに無くなりますから、できるだけ他人とは離れて暮らししてたそうです。その点から、今も集団行動は得意ではないそうです。なんだか聞けば聞くほど、モンゴル人の末裔に違いないと思いました。もちろん、蒙古斑はあります。この北方ルートの話は、私もよく知っている話でした。モンゴル高原の人々を祖先に持ち、ある人は樺太から北海道北部、アリューシャン列島に住みつき、アイヌと呼ばれました。更に北に進みアメリカ大陸に渡って、そこに留まった人たちがイヌイットです。そして多くの移動民がたどり着いたのが、アメリカ大陸の西側、ロッキー山脈近辺でした。もちろん、カナダ全土やアメリカ東海岸にもたくさん移り住みました。もう一つが、南方ルートだそうです。これもモンゴル人を祖先とする人たちですが、南側から来たそうです。具体的にはモンゴル人が南下して太平洋諸島に移り住んだ人たちがやってきたんだそうです。なるほど、だからミクロネシアやハワイの先住民たちはアジア顔なんですね。モンゴル人は大陸を南下して、フィリピンやインドネシアなどに渡り、そこからパラオとかサモアとか経由で南アメリカに渡って来たんだそうです。この人たちは、基本的に農耕民族で集団生活をするそうです。体型は北に比べ比較的小さい人が多かったそうです。ですので今聞けば、現代のモンゴル人の特徴とは少し違うかも知れませんが、こちらも蒙古斑があり、モンゴル人を祖先としてます。ちなみに、漢人(中国人)はモンゴル人とは異なる民族であり、蒙古斑もありません。(現在の中国人には混血が多いので、中国人にも蒙古斑があると誤解する人もいますが、もともとはありません)さすがに数万年の時を経て、モンゴル人も農業を営み、集団で生活でる人たちに変わって行ったのでしょう。この人たちが、南アメリカ大陸から中米を経由して北アメリカ大陸に住みついたんだそうです。一つのエピソードを聞いて、一層なるほどなと思いました。それは髪の毛を「記憶物」と捉える、ということです。髪の毛にはその人の生きてきた記憶が残っているので、切ってはいけないという習慣があったのだそうです。なので、先住民たちは男性も女性も髪を大事にし、ほとんど切らずに伸ばしていたとのことです。これはモンゴルにも通じる話です。もちろん、今のモンゴルはそうではないですが、昔の人は「髪をやたらに切ってはいかん!」と口にしていたと聞きます。逆に、大人の女性でも髪を全部切って坊主頭にすることもあります。細かい理由は忘れましたが、やはり生まれ変わるみたいな意味だったと記憶しています。そのガイドさんは、その考え方は一部日本人にも残っていますと言いました。日本では、何か大失敗しをしたとか、大きな反省をした時に「頭を丸めて、出直します!」ということがあります。あるいは、若い女性が突然長い髪を切ったりしたら「失恋でもしたの?」と聞かれることもあるでしょう。そんなことを気にもかけたことはありませんでしたが、考えてみれば西洋人がそんな発想をするとは思えません。髪にまつわる「何か」がこうして数万年の時を経てもどこかでつながっているんだと思います。今では北系と南系どっちの人たちが多いのか?資料によると、その昔はあまり人口に大きな差はなかったそうです。が、ヨーロッパ人が「発見」し「入植」してからは、大きな違いが出たそうです。北ルートの人が生き残り、南ルートの人たちの多くが死んだんだそうです。その理由は?ヨーロッパ人が持ち込んだ「伝染病」です。アメリカ先住民たちは全く免疫がなかったので、簡単に死んでいったそうです。北ルートの人は遊牧型で集団生活しませんから、仮に感染してもその家族が亡くなるだけでした。が、南ルートの人は農耕型で集団生活でしたので、種族全部が消滅した例もあるそうです。なんだかモンゴル人が少ない人口でも今もモンゴル高原で元気に走り回っている理由を垣間見たような気がしました。最後にそのガイドさんは、以前日本に留学しているモンゴル人二人と出会ったことがあるそうで、その時に聞いたモンゴル語の響きがネィティブアメリカンの言葉の響きに良く似ていたと言ってました。モンゴル語とネイティブアメリカンの多様な言語。おそらくまだ本格的な研究者はいないんじゃないかと思いますが、なんか太古のロマンを感じさせてくれる話だと思いませんか?
2014.12.29
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愛新覚羅と聞いて、ピンとくる人がどれほどいるでしょうか?そもそも読めない人もいると思います。・日本語ではこれを「アイシンカグラ」と呼びます。モンゴル人には満州語の発音「アイシンギョロ」(Aisin Gioro)の方がわかりやすいかもしれません。愛新覚羅は、清朝王室の姓(いわゆる名字)で、ラストエンペラーとして有名な溥儀(フギ、満州語ではアイシンギョロ・プーイー)の名前で知っている人も多いと思います。その王族の最後の一人が亡くなったとの記事が新聞に出ていました。 清朝、最後の皇帝などからして、既に歴史上の人物かと思いきや、その一族の最後の人、愛新覚羅顕キ(ケンキ、キは王偏に埼のつくりの部分。文字はインプットできるのですが、楽天ブログでは表示できないのです)が先日北京にて95歳で亡くなったとのことです。愛新覚羅顕キは清朝の皇族であった粛親王(第10代)の末娘(第十七王女)として生まれたそうです。同じ母親の姉の一人が、あの有名な川島芳子(第十四王女)なんだそうな。満州関係の小説には必ず出てくる、日本人なのか満州人なのかわからない上、男なのか女なのかもわからないような設定で出てくることがある女性です。この顕キは、壮絶な人生を送った溥儀にも負けないほど、凄まじい人生を送ったんだそうです。戦前は日本に8年も留学(学習院女子、日本女子大学)した「お姫様」でしたが、帰国後は共産党が天下を取り、その生活は一変しました。右派分子として15年間投獄され、更に7年間の農村での強制労働を経て、毛沢東の死後釈放されたそうです。1996年からは日本政府の支援の下、日本語学校を設立し、日本語教育に力を注いだそうです。そして今週月曜日に、北京の病院で亡くなったとのことです。1986年には『清朝の王女に生れて - 日中のはざまで』を顕キ自らが日本語で書いた自伝本を日本で出版しました。著書の中でも恨みや批判的なことは書かれておらず、どこまでも精神の自由を失わない女性だったそうです。早速私もこの本を買おうとアマゾンを見たら・・・なんと現在は在庫切れです。販売ランキングも総合82位で、アジア史1位、歴史1位、中央文庫BIBLO1位となっています。恐らく、このニュースをきっかけに売れているのでしょう。一般の日本人はともかく、モンゴルに関心のある日本人は「清朝と漢人中国は全く異なる国である」ことを理解しないと、モンゴル人との意思疎通上、大きな誤解が生じる可能性があります。このことは、このブログでも何度も言及している通りです。日本のみならず、ほとんどの国では清という国が中国だと認識しています。その清に代わったのが中華民国であり、共産党中国であると。確かに地理的にはそういう部分が多いのは確かですが、国としては全く違います。清朝は、女真族をルーツとする満州人によって建国され、その後、漢人中国、モンゴル、ウィグル、チベットなどへ領土を拡大しました。が、国はあくまでも満州人の国の延長なのです。なので、モンゴル人にとっては、「親せきみたいな民族」である女真族に支配はされていたのは事実ですが、「中国に支配されたことなんか一度もない!!」という意識でいます。もっと言えば、中国とモンゴルは同じような立場で満州人に支配されていたのです。中国がモンゴルを支配したのではないのです。それを中途半端な知識で「モンゴルは中国から独立したんですよね」などと言おうものなら、「我々は中国に支配されたことは一度もない!」と怒りを誘うのです。モンゴルと満州は同じ騎馬民族をルーツに持ち、長年良い関係でした。争いはしても、それは「同じ親戚同士の争い」みたいなものであって、完全なる異民族である漢人との争いとは全く違います。満州文字は、モンゴル文字をベースにしています。そのモンゴル文字はウィグル文字からできてます。モンゴルにはチベットの文化や言葉がたくさん入っています。私がいつも言う「中国の周囲国であるチベット、ウィグル、モンゴル、マンジュリア」は横のつながりが強く、文化的にも交流してきました。これらは明らかに漢人中国とは異なった文化、言葉、文字を持ち、漢人中国とは相いれない風土を持ち続けてきました。こうした歴史が、今のウィグル問題につながっているとも言えます。しかし、この周囲4国も漢人中国にほとんど打ちのめされようとしています。満州人は漢人と同化し、既に満州語はほとんど死語になっているそうです。チベット、ウィグルはご存じの通り、漢人中国の植民地となり、文化そのものを消されようとしています。モンゴルは、南半分が漢人中国の植民地となり、北半分がかろうじて独立国として生き延びているのが現状です。そのモンゴルも、国家としては完全な独立国ですが、経済的には「最早、中国なしでは生きていけないほど」中国経済に組み込まれています。どんなに威勢のいいことを言ったところで、中国が買う石炭価格が半分になっただけで、外貨準備は底をつき、航空会社が一つ消え、最大手財閥でもリストラが始まり、大手銀行にもよからぬうわさが流れるほどになっています。今や、周囲国の文化をきちんと伝えていける可能性があるのはモンゴル国だけなのです。清朝の最後の末裔が消えてしまった中、漢人の都合良い歴史ではなく、正しい歴史を伝えていく義務がモンゴル人にはあると思います。モンゴルでは、この愛新覚羅顕キ死亡のニュースはどのように伝えられているのでしょうか?合掌
2014.05.30
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ここで主たる論拠になるのが「以前はここは中国だった」という論理です。モンゴルに関係深い方々はよく耳にすると思いますが、「清は中国か否か」の問題が大きいと思います。外国人からすれば当たり前のように「清は中国」と考えています。そういう私も日本の教育にどっぷり浸かっていたので、モンゴルの人の友人のBさんが「モンゴルは中国に支配されたことはないんですよ。そこはちゃんとわかってください!」と念を押されました。日本人を始めとする多くの欧米人も含め、清=中国ですから、モンゴルも中国から独立したと思っている人が多いです。が、中国の周囲の国々は、必ずしもそうではありません。モンゴル人は「清は満州人の国」という意識が強いです。満州人の清が漢人中国とモンゴルを支配していた、と考えています。現代的に言えば「親会社清の下に漢人中国とモンゴルが並列で子会社になっていた」というわけです。ウィグルやチベットもその並列子会社の一つに過ぎませんから、漢人中国に支配された覚えはないのです。ですが、共産党中国は「清の時代の領土は全部中国のもの」という意識があるのです。なので、大清帝国が一番大きかった時の領土をベースに考えていますから、現代になっても「まだ足りない」と拡張しているのです。周辺国の多くは「領土の膨張」に見えますが、共産党中国は「失われた領土を回復している」と捉えているのです。恐らく中国での教育もそうなのでしょう。なので、チンギスハーンについても「あれは中国人」と疑いもなく言いのけるのです。彼らの理屈では「中国という国の少数民族であるモンゴル族出身であるから、漢人ではないが中国人である」ということになるのです。これはチベットもウイグルもインドも同じ論理です。要するに被征服民族だった漢人が、征服民族(満州人:満州人は民族的には騎馬民族のモンゴル人に近い)の成したことを都合よく解釈して「全部、俺のもの」と主張しているわけです。こういう思考回路はなかなか日本人は理解できないようです。既述のように、日本人も「清は中国」と学校で教わってきましたから。もし、もしもですが・・・これだけたくさんの国々・民族と争いを抱えている中国に対し、全ての国々・民族が団結して反旗を翻したらどうなるのでしょうか?アメリカ政府は、反旗を翻した人々を非難するのでしょうか?日本政府は?中国としては「同時多発民族・国境紛争」だけは避けたいでしょうね。(完)
2014.05.17
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ベトナムで反中活動が活発になっているとの報道がありました。これは南シナ海のベトナム沖で中国企業が石油掘削作業をしていることへの反発です。最近の中国の海洋進出欲はすさまじく、日本のみならずフィリピンやベトナム付近へも大量の漁船などを送り込み、領土化しようとしています。一連の報道で新聞等でご覧になられた方も多いと思いますが、中国の主張する「自国領土」の範囲はものすごく広いです。しかもその領域は「不自然」なまでに他国近海まで広がっています。南シナ海の地図を見ると、中国は南シナ海の北の端っこに存在するだけの国で、せいぜい海南島が南シナ海の北に浮かんでいるかなという程度です。この海南島はフィリピンやベトナムよりも北に位置しており、ここから南のほとんどの海が中国領土だとはとても思えません。ですが中国はそういう国際的常識とか倫理観というものを持ち合わせていない国なので、理屈抜きの論理で南シナ海一帯を支配したいのでしょう。そんな中、ニュースの内容を見て、まさに尖閣国有化による中国での暴動と同じ構造だと思いました。その記事というのは、「反中国感情が高まっているベトナムで14日、反中国のデモ隊が暴徒化し、中国人6人が暴行を受けて死亡したことなどを受けて中国外務省の報道官は15日午後に行われた会見で「ベトナム国内の反中国勢力がデモ行為を容認することが直接の原因だ」として、ベトナム政府を強く非難した。」です。これは、そのまんま日本と中国にも当てはまります。反中国を反日本に替え、中国を日本に、そしてベトナムを中国に替えるとどうなるか?「反日本感情が高まっているベ中国で14日、反日本のデモ隊が暴徒化し、日本人6人が暴行を受けて死亡したことなどを受けて日本外務省の報道官は15日午後に行われた会見で「中国国内の反日本勢力がデモ行為を容認することが直接の原因だ」として、中国政府を強く非難した。」となります。そして中国のある人民日報系ニュースサイトでは、「ハノイ(ベトナム政府)は知るべきだ。街中であのようなふざけたことを中国のような大国に対してすれば、遊びではない結果になる。」と、事の正否は国の大きさできまるような20世紀的大国意識丸出しで論じています。中国は同時に「中国外務省・華春瑩報道官「我々はベトナム政府が責任を持って(デモの)主導者を厳重に処罰し、損害を賠償するよう求める」と政府の責任を追及しています。なぜか?それは中国政府自身が、尖閣の時の反日デモが政府による呼びかけの結果であることを知っているからです。同じ共産党国家として「あんなのが民間の勝手でできるはずないじゃないか。政府公認に決まっている」とわかっているからです。元々、反中国感情の強いベトナムですから、こうしたことで一旦火が付いたら、なかなか落ち着かないでしょうね。中国は一体、どれほど隣国と問題を抱えているのでしょうか?顕在化した問題以外にも、力で抑え込まれている潜在的な問題も含めるとたくさんあると思います。日本とは尖閣問題、韓国とも蘇岩礁・丁岩礁問題、フィリピン、ベトナムとある南シナ海問題にはブルネイ、マレーシアとも対立しています。他にもインドとの国境紛争、ミヤンマー、タジキスタンなどほとんどの隣国と問題を抱えています。ロシアとも長い間紛争が続いていました。そして中国はその全ての問題では「全て中国だけが正しくて、他国は間違っている」との強い姿勢を持ち、話し合いの余地はないとの立場です。(大国ロシアのみ例外)これら以外にも、そもそもの大問題であるチベット、ウィグル、内モンゴルの問題もあります。とにかく、中国はほとんどの隣国に領土問題で喧嘩を仕掛けては、奪っていくという方法を取っています。ここで主たる論拠になるのが「以前はここは中国だった」という論理です。(続く)
2014.05.15
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ウイグルは歴史的に見ても、ほとんど漢人・中国とは関係のない国でした。民族的にはトルコ系(ということは、モンゴルとはほぼ同根)民族でこの地で独立した国でしたが、チンギスハーン以降はモンゴルの属国になったり、チャガタイハン国になったりしていましたが、漢人の国になったことは全くなかったのです。 満州人(漢人ではなく女真族という歴史的にモンゴルに近い民族)の清国が侵攻したこともありましたが、漢人がこの地を侵攻したのはなんと1911年だそうです。つまり長い歴史のほとんどは漢人・中国とは関係ない国だったということです。 中国の占領後は、内モンゴル、チベットと全く同じパターンです。ちょっとでも逆らうものは、拷問の上殺害します。豊富な資源は全て漢人経営者が中国へ持っていきます。子供に対する自民族の歴史教育は禁止され、宗教弾圧も受けます。 あまりにも同じパターンなので、民族弾圧についてはマニュアルがあるかのようです。この「マニュアル」は文化大革命の時に内モンゴル人を強烈に弾圧して「おとなしくさせた」成功経験が基になっていると思います。 この地には1000万人近いウイグル人がいるので、より少ないチベットや内モンゴルよりも漢人支配は手こずっているようです。が、こんなに巨大強国になってしまった中国軍を打ち破ることはできそうにありません。 1990年以降でも何度も独立運動がありましたが、その度に大量の殺戮を行い鎮静させてきました。宗教、習慣、価値観すべてが漢人と異なるウイグル人が独立を諦めることはないでしょうが、かといって中国軍が「参りました」と言うわけもありません。 例えはおかしいかも知れませんが、イスラエルと同じようにこれから数百年、数千年の抗争が続くのでしょうか? 中国側の切り札は、武力ではなく民族同化のようです。既に若いウイグル人女性は「就職」を名目に中国国内へ強制移住させられているそうです。100年前はこの地に20万人もいなかった漢人が今では1千万人です。将来はなんと漢人2億人移住構想もあるそうです。 日本をはじめ、アメリカやドイツ(世界ウイグル会議の本部がある)のなどの応援も期待したいところですが、日本が何か言って意味あるのか?尖閣ですら危ないというのに、あんな遠い地を守れるのか?そもそも日本も欧米も地位のある政治家は「内政干渉」の名のもとに口出しすらできません。クリミア半島もあと10年もすれば、ロシアから「内政干渉するな!」と言われちゃうんでしょうか? 中国人から聞いた言葉が忘れられません。ちなみにこの人は、日本留学をし日本をこよなく愛し、世界情勢がわかっている人です。その人が「中国で教育を受けた中国人は全く違う考え方を持っている」と言っていたのです。ですから、以下のことはこの方の意見ではありません。そういう教育があったということです。 「人間も自然界に属している。自然界は弱肉強食であり、これは自然の摂理である。弱い民族が淘汰されていくのは仕方のないことではないか?」 「優秀でない民族やその言葉を保護して残すことにどんな意味があるのでしょうか?」 「西洋人は多数決という民主主義の概念を持っています。中国人もこの概念には賛成します。多数が強いのです。」 中国の周囲国にはこんな国が隣国にあるということは、全くもって災難としか言いようがありませんね。日本も隣国であることは同じです。(完)
2014.05.05
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ウイグルやウルムチのことをネットで見ていたら、やっぱりこの地はモンゴルと関連深いことを再確認しました。特に地名にはモンゴルの跡がいくつも残されているのにはびっくりしました。読んだものが日本語(カタカナ)であることや私がモンゴル語を知らないことを考えると、わかる人が見ればもっとたくさんの関連性があることがわかるでしょう。例えば天山山脈。これは中国の有名な山脈で、私も小学校か中学校の地理で学びました。テンシャンと中国読みで覚えたほど当時は中国であることを疑う余地もなかったですが、この語源はなんとテングリというモンゴル語なのです。ウイグル語でテングリ・タグというのです。テングリはモンゴル語で天(及び天の神様)のことを言いますから、まさに意味的にも合っています。タグは私に知る限りでは蓋です。天の蓋??他の意味があるかもしれませんが、天と覆い隠すような山脈という意味かなと勝手に解釈しました。この山脈はなんと7000m級の山がつらなるところだそうで、二番目に高い山はハン・テングリという名前です。ここでもテングリが。ハンはハーンのハンなのか、壁という意味なのかわかりません。が、ウィグル語では天の王を意味するとする説もあるようです。これだとすれば、チンギスハーンのハンでしょう。一方、急峻さから天山山脈の最高峰と言われていたとあるように写真を見ると絶壁がすごい山です。天に向かう壁のような山ということを意味するとも考えられます。ちなみに天山山脈は世界遺産にもなっています。キルギスとの国境にある峠の名前はなんとトルガト峠です。このプログでも時々出てくるビジネスパートナーのモンゴル人Tさんと同じ名前です。またウイグル人には名字はなく父親の名前を使うとのこと。これもモンゴルと同じで、びっくりです。肉は漢人の好きな豚肉ではなく羊肉を食べますから、これもモンゴルや他の中央アジア諸国と同じです。更にはウイグルで深刻なチャガン・ゾドがあったとあります。ゾドはモンゴル語で雪害で大量の家畜が死ぬことを言います。チャガンは私レベルでは不明ですが、これは所詮日本語のカタカナです。これがツァガンだとすれば白い雪害となり、真っ白な雪に覆われたゾドとなり、よくわかります。ちなみにゾドで大量の家畜が死ぬのは、多くの場合寒さで死ぬというよりは、地面が雪に覆われてしまい、食べ物(草原の草)が何もなくなって死ぬ場合が多いそうです。私もモンゴルの田舎で見たことありますが、遊牧民の財産が大量に亡くなるのは本当にショッキングなことです。歴史的に見ても、ほとんど漢人・中国とは関係のない国でした。(続く)
2014.05.04
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ところで、その中心地であるウルムチというのは、どうやらモンゴル語からきているようです。もちろん、諸説あるようでウィキペディアではジュンガル部の言葉で「美しい牧場」という説もあるようです。 ですが、モンゴル人ならモンゴル語だとピンとくるようです。ウルムというのは、モンゴル特有のバターと言いますか、牛乳を沸かしてかき混ぜた上澄みの部分、バターのような部分の名前です。チはモンゴル語初心者ならわかると思いますが、人を表します。(店員さんはゾクチですね)なのでここは、乳製品を持ち寄り分けたりした人・場所、という説もあります。 いずれにしろ、当然のことながらモンゴルとは深い関係にある場所です。旧モンゴル帝国ですし、その後もずっと「ハーン」がいた国でもあります。モンゴル文字(縦文字)だって、元々はウィグル文字から来たものです。 内モンゴル、新疆ウィグル、チベットは漢人国家中国の3大周囲国だったのですが、それを全部共産党に武力で占領されたので、皆民族弾圧から逃れたいと願っているのです。ですから、ウィグル問題はチベット問題と原因は一緒です。この占領された3大周囲国で一番最初に民族弾圧を受けたのが内モンゴルです。文化大革命というと、なんだか文化的な活動に見えますが、一番最初の狙いは中国の資本家や富裕層ではなく、内モンゴルのモンゴル人でした。ここでの「弾圧成功」が、のちのチベット武力弾圧につながったのです。 中国は大変広い国と思われていますが、本当の漢人・中国は現代の地図よりもかなり小さいのです。中国の行政区で一番大きな地区は、新疆ウィグル地区で160万km2でなんと日本の4倍以上もあり、今のモンゴル156万km2よりも少し大きいくらいです!! 二番目に大きいのはチベット自治区122万km2、三番目がモンゴル自治区の118万km2と全て日本よりもずっと大きな面積です。この3地区だけで現代中国の41%にもなります。しかも、ここには隠された数字があります。 チベット自治区などともっともらしい名前を付けて、まるでここだけが昔のチベット領土のように見せかけていますが、実際には甘粛省、四川省などに及び、全部合わせると現在のチベット自治区の2倍ほどになります。 これを基に計算すると、現代中国の半分以上がこれら異国の地なのです。この3大周囲国は、どこも日本の3倍以上の領土を持ちながら、占領され「少数民族」として激しい弾圧と差別を受けているのです。 またこの3大周囲国は歴史的に繋がりが強く、遊牧民が多く、衣装もデールに似たものを着ています。言葉も漢人の言葉とは異なり、元々中国とは別の国だったのですから当然です。 とまあ、こんなことを日本から叫んだところで何の助けにもなりませんが、民族自決の日が来ることを祈っています。 それにしても共産党はとんでもないものを敵に回しましたね。外国に対しては、軍事強化などで強さを見せつけていますが、国内民族問題は解決の糸口もなく、泥沼に入っていくように見えます。イスラエルなどの宗教問題について詳しくは知りませんが、いくら武力で制圧しようとしても解決なんてできないことは明白です。周囲国は、ある意味「大国」とも言えます。これら異民族大国を漢人が弾圧し、資源などを収奪し、漢人だけがうまい汁を吸おうとするやり方が今後もずっと続くとは思えません。中国に異変が起こるとしたら、経済問題なんかではなく民族問題だと思います。 (完)
2014.05.03
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新疆ウィグル地区で厳しい情勢が続いています。中国当局は「テロ」と言ってますが、もちろん中国人以外はみんなわかっているように、いわゆるテロではなく漢民族による「弾圧」への「最後の手段」としての抵抗です。それにしても中国は便利な言葉を見つけました。9・11以降アメリカが「テロとの戦い」という旗を挙げて世界中のテロと戦っているのをいいことに「いやー、アメリカさん、私たちも同じ気持ちですよ。私たちもテロとの戦いをしているんです。」ともっともらしい言い方をして、民族弾圧を続けています。日本の報道機関もあまり実情を知らないせいか、なんとなく「共産党・大本営」の発表をそのまま「テロ発生」などと報じています。日本は尖閣問題、南京問題などについて中国の世界に対する発表を「でっち上げのプロパガンダ」と批判していますが、国内の報道を見るとそういう中国・大本営の発表を真に受けているケースが多いようです。私から見れば、「今、目の前に困っている人、死に行く人」がいない分、ウィグルやチベット問題は日本の問題よりずっと深刻だと思います。歴史認識や無人島の所有権などは、目の前の民族弾圧に比べれば大したことないでしょう。韓国はこうした民族弾圧に対してなぜ黙っているのでしょうか?韓国の説によれば、「弾圧されている状態では、殺人を犯してもそれは犯罪者ではなく英雄だ」ということになっています。まさに、今のウィグルの人たちは伊藤博文を暗殺した安重根ではないですか!是非とも「おお、素晴らしい!民族を侵略した漢人を殺すのは英雄だ!!」と褒めてもらわねばなりません。こういう時に、ウィグル族の誰かが「我々は、現代の安重根である」という声明を出したら、一体どんな反応が出るでしょうか?中国は安重根の記念碑を作ることに協力すると言っていますから、基本的には安重根という名前に対してはポジティブなのでしょう。その名前を声明文に使ったら・・・?「いやいや、日本に弾圧されていた朝鮮の場合とは違う。」と言うでしょうね。でも、どこが?なぜ?という疑問が出ます。中国はなんとでも言えるでしょうが、韓国はどう違いを説明するのでしょうか?「朝鮮の場合は不当に植民地とされたので、民族を解放するために要人を暗殺したのは英雄的行為である。が、ウィグルは元々中国の領土なので、これは単純な国家反逆罪だ」とでも言うのでしょうか?もしそうなら、「なるほど、新疆ウィグル地区は昔から中国の領土だったんですね。つまり満州東部の朝鮮族が住む地域同様、大昔から変わりない中国の領土だったのですね?」と聞きたいです。きっと韓国としては「いいえ、それは違います。満州東部の朝鮮民族の居住地域は、元々は高句麗の頃から韓国の領土でしたが・・・」とかなんとか言うかもしれません。要するに、その場その場で定義を適当に使い分けているということでしかありません。新疆ウィグル地区はずっと昔から、漢人の国とは言葉も文化も習慣もすべて違う国でした。それを清朝末期のどさくさに占領されたのち、東トルキスタン国として独立しました。が、結局、共産党に武力で占領されてしまいました。1000年を超す長い歴史の中で、漢人の国になったことは現代の共産党支配以外ではほとんどなかったのです。これはチベットもモンゴルも同じことですが、全く違う文化や民族です。ところで、その中心地であるウルムチというのは、どうやらモンゴル語からきているようです。(続)
2014.05.02
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