1

「人」というより「全ての生き物」は感覚の働きで、自分以外の他者や、周囲の環境や、自然とつながっています。感覚の働きがなければ、自分自身ともつながることが出来ません。そしてその感覚の働きは、体験によって育つように出来ています。例えば視覚ですが、外部の世界の映像が眼球を通して網膜に映し出され、そのデータが脳に送られるという所までは、特別に機能的な異常がない限り誰でも生まれつき持っている能力です。これは体験によって生まれた能力ではなく、DNAの働きによって生まれた能力だからです。でも、その視覚データがどのように処理され、そのデータの中に何を見て、何を感じるのかを決めているのはDNAではなく体験です。ですから、体験とつながっていないものは網膜に写っていても見えないのです。以前、子どもたちに小さな公園が写っている1枚の写真を見せて「何が見える」と聞いたことがあります。公園の写真ですから、子どもたちは、ブランコ、滑り台と勢いよく答えてくれました。でも、写真に写っている遊具の名前が一通り出たら、そこで発言は止まってしまいました。公園の上に広がっている青い空や、白い雲、公園の木々、道路の脇の自動車、そういうものが見えていないのです。それで、「それだけじゃないでしょ」と更に聞いたら、ようやくそういうものに気付く子が出てきました。小学校に呼ばれて音のワークをした時も、体育館に集まった子どもたちに「何の音が聞こえる」と聞いたら、まず最初に足音や、話し声や、ピアノの音や、自動車の音といった、人工的な音ばかりが出てきました。風が強い日だったので風の音も聞こえていたのですが、それに気付くまでにはかなり時間がかかりました。人間は、目で見て、耳で聞いているのではなく、体験で見て、体験で聞いているのです。それは言葉を聞くのと同じ仕組みです。全く知らない外国語は単なる「音」としてしか聞こえませんが、日本語なら「音」ではなく言葉として聞こえてきますよね。それと同時に、言葉の「音」としての側面は聞こえなくなってしまいます。鶏の鳴き声は日本人には「コケコッコー」と聞こえますが、英語圏の人には「クックドゥードゥルドゥー」と聞こえるそうです。それは、日本人は鶏の鳴き声を「日本語の音」で聞き取ろうとして、英語圏の人は「英語の音」で聞き取ろうとしてしまうからです。体験を通して感覚の働きがそのように調整されてしまっているのです。「木」という言葉はみんな知っていますが、木が身近なところにあり、木登りしたり、木の実を取って遊んでいる子にとっての「木」と、木との触れ合いがない生活をしている子の「木」は同じではないのです。「木」という「文字」も、「キ」という「音」も、「木についての説明」も知っていても、木との触れ合いがない状態で育った子は、「木についての情報」を知っているだけで「木」そのものは知らないからです。そのため、「木」についての話や、「木」が出てくる物語を聞いても本質的なところで理解することが出来ません。言葉が「言葉」として正しく機能するためには、その言葉とつながった体験が必要になるのです。そして、その体験を支えているのが感覚の働きなんです。感覚が働いていない子は体験も出来ないのです。大人達が、子どもたちに何かを体験させようとして何かをやらせても、感覚を働かせることが出来た子はちゃんと体験が出来ますが、マニュアル通りに作業しただけの子は体験が出来ないのです。例えば、包丁を使う体験をさせる時も、包丁や、自分が切るものや、手のひらの感覚や、からだの感覚を感じながら切ることが出来た子は、ちゃんと「包丁」を体験できますが、ただ動作を真似しただけの子は、「包丁」の体験が出来ないのです。そして、ちゃんと体験が出来た子は、その体験を通してさらに感覚の働きを高めることが出来ます。感覚の使い方を知らない子は体験も出来ないし、体験を通して成長することも出来ないのです。そのような子は、どんなに学んでもただ知識が増えるだけなんです。その違いが現れ始めるのが中学生頃です。小学校の間の勉強は覚えるだけでも何とかなりますが、中学生ぐらいになると考える能力が育ってない子はついて行くことが困難になってしまうのです。当然、勉強を楽しむことも出来ません。だからといって、東大に入るような子がみんな考える能力に優れているということではありません。受験やお勉強に特化した思考法はパターンが決まっているので、やる気があって、ある程度の体験的な素地のある子なら、その思考法を単なる技術として覚えることで何とかなってしまうからです。だから、小説「ビリギャル」で描かれたようなことが起きるのです。逆に言えば、「自由に考える能力」は日本の教育制度の中ではあまり必要がないのです。日本式の教育現場ではかえって邪魔になってしまうこともあります。実際、「自由に考える能力」が高いが故に、学校の成績は悪い子もいます。でも、その「自由に考える能力」がないと、自分の人生を自分のものとして生き生きと生きることが出来ないのです。もちろん、「子育て」も困難になります。その「自由に考える能力」が育つためには、7才頃までに感覚をいっぱい働かせながら、色々な体験をする必要があるのです。だから「森へ行こう」「仲間と遊ぼう」「自由に遊ぼう」ということを言い続けているのです。
2026.05.12
閲覧総数 64
2

現代人の多くが忘れてしまっている事実があります。それは、私たちの「今」は、何十年、何百年、何千年、何万年という過去からの連続した伝承の上に成り立っているということです。言葉、価値観、知識、技術、様々な生活文化、精神文化、文明、遊び、子育て、教育、社会形態の全てが過去からの伝承の上に成り立っています。そのつながりから切り離されたら、私たちは人種としては日本人であっても、「日本の文化を受け継いだ日本人」でも、「人間らしさを受け継いだ人間」でもなくなってしまいます。「今」は突然始まったわけではありません。「過去から切り離された今」など存在しないのです。ですから「今」の状態を冷静に評価し、その意味を知るためには、「過去」を学ぶところから始める必要があるのです。その「過去」を無視して、現代人の価値観や感覚だけで「今」を評価しても、「本当の現在地」も、「本当の状態」も、「本当の問題点」も、「本当の未来」も分からないのです。船に乗っている人が、船の中をいくら調べても、「船が今どこを走っているのか」、「どこから来てどこに向かっているのか」などということは分かりませんよね。向かっている先に滝があっても分かりませんよね。急流を流されているときには船が揺れるでしょう。そんな時、いくら船の中を調べても「船が揺れる原因」は分かりませんよね。もちろん、「本当の原因」が分からなければ「対処の方法」も分かりません。それと同じです。それなのに、現代人は、自分の知識、自分の記憶、自分の価値観だけで「今」を見て、色々と判断し、価値を論じています。教育の問題、子育ての問題、遊びの問題についても同じです。そういう人がいつも言うのが「時代が変わったんだから」「それが今時のやり方なんだ」「それが今時の普通なんです」などというような言葉です。それは「今時のやり方」が昔の基準では「-100」や「+100」でも、それが「今の普通」ならば「0」にしてしまうようなやり方です。「昔の子はこうだった」というような話をすると、「昔の子は昔の子、昔の子の基準で今の子を判断するな」などというようなことを言う人がいます。子どもがゲームでしか遊ばなくなっても、多くの人が、「それが今時の子どもの遊びなんだからそれでいいんです」とか、「森や自然の中で仲間と群れて遊ぶなんて昔の古くさい遊びに過ぎません」とか、「そんなもの、今の子には興味も、価値も、必要もない遊びです」などと言うようなことを言います。それでも、子ども達が生き生きと、幸せに、自分に自信を持って、自分の人生に希望を持って、自分の人生を前向きに生きることが出来ているのならいいのです。そういう状態ならば、子どもたちはちゃんと「自分の成長に必要なこと」を学び、体験することも出来ているのでしょう。でも、現状はそうはなっていないですよね。どうしてそういう事が起きているのかというと、社会は変化していても、人間そのものは変化していないからです。成長の仕組みも、成長に必要なことも、子どもの潜在的な能力も、自分の人生を生き生きと生きていくために必要なことも変化していません。確かに、社会の変化と共に「社会人として必要な知識や体験」は変化してきました。ですから子どもたちは、社会に出るまでにそれらを学ぶ必要があります。そして親も学校も、その社会の変化に合わせて子育てや教育をしようとしています。でも、「人間としての成長に必要な知識や体験」は10年前、100年前、1000年前から変化していないのです。それを忘れてはいけないのです。子育てや教育はまずそこから始める必要があるのです、そうでないと「社会人として必要な知識や体験」も学ぶことが出来なくなってしまうのです。
2026.05.11
閲覧総数 81
3

自然界は「多様性」に満ちています。それは誰でも知っていることですが、問題はその「多様性が存在している意味」を理解しているかどうかということです。「多様性」は単なる「バラバラ」ではありません。「みんなちがってみんないい」的な単純なものでもありません。人のからだは、目、鼻、口、耳、足、手、肌、内蔵、血管などといった様々な感覚器官や臓器などで構成されています。細かく分けたら切りがありません。それらの「人間を構成する様々な要素」は、形も、機能も、働き方も、素材もみんな違います。一人の人間を構成しているものなのに、肌を構成している素材と骨を構成している素材は全く異なります。でも、それら「全く異なるもの」がつながり合い、支え合い、統合的に働くことで、一人の生きた人間が活動することが出来るようになっています。というか、異なったものがつながり合い、支え合い、統合的に働かないことには、人間は人間として存在出来ないし、人間としての能力も発揮できないのです。それは機械でも同じです。機械がちゃんと動き働くためには、その働きを支えるための様々なパーツがお互いにつながり合い、支え合い、統合的に働く必要がありますよね。それが命の仕組みであり、自然界の仕組みでもあるのです。同じようなことが家族の中にも、様々な群れの中にも、社会の中にもあります。会社には様々な役職の人が居ます。まず、大きなことを判断し、決断する役割としての社長がいます。小さな判断は部下に任せますが、全体に関わるような大きな事は社長が判断します。それは「どう歩くか」とか「どう話すか」はからだに任せていても、「人間としてどう行動するのか」ということは頭が判断するのと同じです。でも、社長だけでは何も出来ません。お客を集める役割としての営業も必要です。どんなに良い製品を作っても、営業がちゃんと働かないことには会社はつぶれます。会社の内部を整える、経理や、総務といった役割の人も必要です。でないと、営業がいくらいっぱい注文を取ってきても、その注文を管理することも、品物を流すことも出来ません。さらには新製品を研究、開発する人が必要な場合もあります。このように、色々な役割の人が助け合うことで「会社」が一つの統合体としてちゃんと機能するのです。それが出来ない会社はつぶれるのです。社長だけが威張って、それぞれの役割の人を信用せず、否定し、細かいことにいちいち口を出しているような会社はつぶれます。家族も同じです。お父さん(お母さん)だけが威張って家族全員を支配しているような家庭は、家族として機能しません。子どもの成長を支えることも出来ません。また、お父さん(お母さん)が責任放棄して自分勝手なことをやっている場合も同じです。そして、「気質」は、人間の社会やつながりを潤滑に支えるための役割分担として存在しているのです。そして面白いことに、人は生まれつき、特定の役割にあった素質を持って生まれてくるのです。それが「気質」なんです。特別な訓練など受けていないのに、幼い頃からデリケートな感受性を持っている子どもたちがいます。音に対する感受性、色に対する感受性、形に対する感受性に優れた子どもたちがいます。特別な仕付けなど受けていないのに、人付き合いが上手な子もいます。人の心を感じ取ることが得意な子もいます。丁寧な仕事が好きで得意な子もいます。声が大きくて、活発で活動的な子もいます。いつもおしゃべりばかりしている子もいれば、いつもジーッとしている子もいます。いつもジーッとしているような子は、ひたすら見たり、聴いたり、感じたり、考えたりしている子どもたちです。内面の活動に没頭しているのでからだが動かないのです。力が強い子も、体が柔らかい子もいます。大人がそういう教育をしたからというのではなく、生まれつきそういうタイプの子どもたちが居るのです。もちろん教育によっても変わりますが、子どもたちは皆、生まれつき異なった「素質」(気質)を持って生まれてきているのです。それは子どもを何人も育てている人には当然の事実なんですが、一人しか育てていないと「子どもは生まれつきみんな違うんだ」ということが分からないのです。その結果、「育て方次第で子どもはどのようにも育つ」と思い込んでしまったり、「子どもの状態はすべて自分の育て方の結果」だと思い込んでしまったりするのです。そして、そこから子育ての苦しみが始まるのです。***************茅ヶ崎では毎月連続で気質の講座をやっています。土日の10:00~12:00です。からだの面白さと出会う「からだの会」というのも毎月やっています。月曜日が多いです。お問い合わせはこちらまで。「気質の勉強会」 4月18日(土)/5月16日(土)「からだの会」 4月20日(月)/5月18日(月)会場はいずれもJR茅ヶ崎駅の隣のビルです。***********アマゾンから「子ども発見」という本も出しています。ここにも気質のことが書いてあります。https://www.amazon.co.jp/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E7%99%BA%E8%A6%8B-%E7%AF%A0-%E7%A7%80%E5%A4%AB/dp/B07RD3HJNB/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E7%99%BA%E8%A6%8B&qid=1583367618&sr=8-1
2020.03.08
閲覧総数 1020
4

この世界にあるものは全て、自分が存在する世界のあらゆるものと常時密接に繋がっています。どんなに小さなものでも「宇宙のネットワーク」につながっているのです。これには例外がありません。というか、「宇宙のネットワーク」が全ての存在と働きを創りだしているのですからこれは当然のことです。私たちは宇宙というシステムの一部なんです。私たちの血が赤いのは、赤血球の中のヘモグロビンというタンパク質の中に鉄が含まれているからです。その鉄が酸素を吸収すると酸化して赤くなり、酸素を吐き出すと還元して青くなります。そして、私たちはその鉄を食べ物を通して大地からからだの中に取り入れています。地球にはいっぱい鉄があります。地球の中心は鉄で出来ています。では、その鉄はどこから来たのかというと、地球が生まれる前、太陽系が生まれる前、宇宙のどこかの星の核融合によって創られ、そしてその星の最後に起きた超新星爆発によって宇宙にばらまかれ、それが集まって太陽系がそして地球が生まれました。その鉄が私たちの命を支えています。ある意味で私たちは星の子どもです。でも、核融合で創られるのは「鉄」までです。「金」のような重い物質はまた別の働きによって生まれました。巨大な星の最後に生まれる中性子星と中性子星がぶつかり合った時に「金」が創られるそうです。他にも巨大なエネルギーを持った回転するブラックホールが関係しているという説もあります。いずれにしても、そんな途方もない出来事の結果、みなさんの指輪や装飾品の材料として使われている金は生まれたのです。で、地球も、太陽も、他の星もみんな磁気を帯びています。そして、血の中を流れている鉄は磁気に反応します。それは些細な力かも知れませんがゼロではありません。月や太陽の重力は地球にも、地球に暮らす生き物たちにも影響を与えています。女性の生理などは月の動きと関係しています。さらには、微弱にはなりますが、他の星や、他の銀河の影響も受けています。これらは人間と宇宙の関係ですが、地球上での出来事でも、全てがつながりあっています。地球の反対側で起きたことが私たちの生活や、心や、からだに影響を与えています。また、地球には重力がありますが、その重力は一様ではありません。海の近くと山の近くとでは重力が違うのです。また地殻の状態によっても重力は変わります。気圧も住んでいる場所や気候によって常に変動しています。そしてそういうものも人の心やからだに影響を与えています。さらに、人間の活動が人間に与える影響は大きいです。ビルなどの人工物、電磁波、農薬、プラスチック、薬、テレビ、ゲーム、社会のあり方、そういった様々なものが人の心とからだに影響を与えています。そして,何人もその影響から逃れることは出来ません。人が人に直接与える影響はさらにそれらを上回ります。お母さんの声や、表情や、仕草や、体調のちょっとした変化でも子どもの心とからだに影響を与えています。それが私たちの心とからだが生きている現実です。人はあらゆるものとのつながりの中で生きていて、そこから抜け出すことは出来ないのです。でも、困ったことに多くの人がその実際を知りません。そして、「私はわたし」だと考え、自分と他者を切り離したものの考え方をしています。人間は「自分は自分だ」という意識を持つことが出来た唯一の生き物です。そして、この意識の働きが、「人間と他者とのつながり」や「つながりの中の自分」を見えなくしてしまったのです。その考え方が「自分」を大切にする生き方を可能にしたのですが、でも、「自分」という意識にこだわりすぎると、他の人もみんなその「自分」を持っていて、それを大切に生きようとしていることを忘れてしまうのです。そして、自分の「自分」だけを守ろうとします。でも、みんながみんなそれをやってしまったらお互いに傷つけ合うだけになってしまうので、結局自分も傷ついてしまうのです。多くのお母さんが、「自分から見た子ども」のことはしょっちゅう気にしているのに、「子どもから見た自分」のことは気にしません。「自分から見たパートナー」のことには色々言うのに、「パートナーから見た自分」のことは意識しません。「自分から見た自然」のことは意識しても、「自然にとって自分はどういう存在なのか」という自然視点から自分を見ることはしません。星空を見上げて「星が綺麗だね」ということは感じても、「星と自分の関係」を考えることはしません。そして、つながりの中に存在している自分の命や心やからだの現実を無視して、つながりから切り離された「私」という意識だけに従って生きています。だから、色々なことがこじれてしまうのです。そしてみんな「自分が正しい」と言い張ってケンカするのです。ちなみに私は格闘技を学んでいますが、格闘技では「相手から見た自分」を意識できないと技が効きません。
2020.09.24
閲覧総数 3632
5

さていよいよ「感覚」について書いてみます。人間は様々な感覚を持っています。中でも皆さんがよく知っているのは視覚・聴覚・触角・味覚・嗅覚などのいわゆる「五感」と呼ばれるものでしょう。でもこれらは基本的に「外部の世界」を「内部」に取り入れるための感覚です。下等な生き物たちはその内部に取り入れた情報に反応しながら生きているだけなのですが、人間やサルのように高等な動物になると、ただ単に「外部から取り入れた情報」に反応しながら生きているのではなく、その情報をさらに咀嚼し、解釈し、意味づけをしてから自分の思考や行動なりにつなげています。つまり、「自分」というものが二重になっているのです。五感を通してまず「内側」へ情報を取り入れます。そしてさらに別の感覚を使ってその情報を感じ直し、大脳の活動へとつなげているのです。だからこそ、単なる「音」である「言葉」というものを理解することが出来るわけです。人間以外の動物たちも、聴覚があるので、人間の言葉を「音」として聞くことは出来ます。でも、その意味を理解することは出来ません。それは「音」から「イメージ」を抽出する感覚を持っていないからです。言葉を「言葉」として聞きとるためにはこのように二重の感覚が必要になるのです。ですから、人間でもその二次的な感覚が育っていなければ言葉を「音」として聞くことは出来ても「言葉」として聞くことは出来ません。実際に、脳に障害を受けることでこのような状態になることがあります。聞こえたから理解できるわけではないのです。理解するためには別の感覚が必要なのです。また、自閉症の子どもたちもこの感覚が不安定です。だから文字に書いて見せてあげれば理解できても、言葉で語りかけて説明してもなかなか理解が困難になってしまうのです。同じようなことは視覚においてもあります。二次的な感覚が育っていないと「視覚的には正常に見えていても、脳が処理することができない」という状態になってしまうのです。たとえば、生まれたばかりの猫の赤ちゃんを縦縞ばかりの檻の中で育てていると、横縞を認識することが出来ない猫に育ってしまうそうです。網膜にはちゃんと映っているのですが、その網膜に映っている情報を処理する感覚が育たないからです。R。シュタイナーはその二次的な感覚も含めて、「人間には12の感覚がある」と言っています。五感+生命感覚、運動感覚、平衡感覚、熱感覚、言語感覚、思考感覚、自我感覚の12の感覚です。でも、人間も生まれた直後には「五感以外の感覚」は持っていません。この五感によって取り入れた情報を感じ直す「二次的な感覚」は、育ちの過程での様々な体験や、他の人間とのかかわりによって育っていく感覚だからです。つまり、「五感」という感覚は、肉体という「ハード」に属し、その「五感」から取り入れた情報を処理する二次的な感覚は脳の神経回路によって作られる「ソフト」に属するということです。ですから、解剖してもそのような感覚器官は存在していません。だから見過ごされてしまうのですが、MRIなどの機器を使って脳の活動を直接観察していると、その二次的な感覚を処理している時に主に使われている脳の部位を特定することができます。そこが「脳の中の感覚器官」として働いているのです。有名なところでは「言葉は左脳で処理し、イメージは右脳で処理している」ものがあります。実際には言葉も、イメージも両方の脳の協力によって行われているのですが、中心となって働いている部位はそこにある、ということです。人が何かを見ようとする時には聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚も動員されます。人は視覚だけで物を見ているのではないのです。だから梅干しをみると、唾が出てくるのです。でも、中心となって働いているのは視覚です。つまり、そのようなことです。ただ問題は、上にも書いたようにこの「二次的な感覚」は、体験を通して育ちの過程で育っているものだ、ということなのです。ですから「縦縞の檻」の中で育てられた猫のように、偏った感覚ばかりの環境の中で育てられてしまった子どもは、人間としての正常な感覚が育たなくなってしまう恐れがあるということなのです。そして、現代の子どもたちの状況がまさにそれなのです。だから聴覚的に異常がなくても、言葉を理解することが困難な子どもたちが増えているのです。詳しくは明日書きますが、人間にはなぜ外部の世界を感じ取るために五つもの感覚があるのかというと、それは世界を複眼的、多次元的に理解するためなのです。ですから、この五つは常に協調して働いています。別々に働いているわけではないのです。そして、五つの感覚が協調して働いている延長に二次的な感覚が育っていくのです。でも、現代人は五感を別々に使うような生活をしています。だから迷子になりやすいし、騙されやすいのです。
2012.03.18
閲覧総数 10511
6

憂鬱質の子どもを育てるコツは、脅かさず、急がせず、結果より過程を楽しむことを大切にし、働きかけながらも温かく見守る、というようなものです。これは子どもを育てる時には、全ての気質の子どもに対して大切なことではありますが、特に憂鬱質の子どもの場合は「相手に反発する力」が弱いので、このようなことを心がけていないとどんどん自己肯定感が下がっていってしまうのです。そしてこれはまさに日本の昔の子育てそのものなのです。中世の頃から日本に来た欧米の人が一様に驚いたのが、日本の大人達が子どもたちに対して非常に寛大であったことです。欧米では「厳しく仕付ける」のが当たり前なのに、日本では子どもを甘やかして育てているように見えたのです。それでも不思議なことに子どもたちは大人しく、礼儀正しく、賢いのでそこでまた驚くのです。これは日本人全体が憂鬱質や粘液質が強い国民なので、歴史的にその気質を大切にするような子育て方法が生まれていったのだろうと思います。(日本人は「ノー」が言えない国民なんです。)でも、現代社会では胆汁質、多血質といった欧米的な気質の価値観が大切にされています。日本人の気質が変わったわけではないのに、社会の価値観だけが変わってしまったのです。でも、欧米的な胆汁質、多血質の価値観においては、日本的な憂鬱質や粘液質といった価値観はあまり肯定的には扱われていません。それはつまり、日本人は、日本人の気質を否定するような文化や文明の形を取り入れてしまったということです。日本では「出る杭は打たれる」といい、目立つことを諫められましたが、欧米では「自分をアピールしない人間は存在している価値がない」というような言われ方をします。また、日本では自分を虚しくしてでも「和」や「調和」を大切にしますが、欧米では「個」を大切にします。日本人の憂鬱質、粘液質な価値観と、欧米の胆汁的、多血的な価値観は、陰陽の「陰」と「陽」のように正反対なんです。日本人は、欧米社会を見習いながら、皮肉なことに自分たちの気質を否定するような価値観の社会を作り上げてしまったのです。それでも、戦後60年以上も経って、小さい時からその価値観にずっぽりと浸って育った若者の中には日本人らしくない気質の若者達も増えてきました。そのような若者達は、歩き方も、姿勢も、話し方も、考え方も欧米的です。それは、現代社会の価値観に適応できた若者達です。でも、その一方で自分の気質を否定されるような子育てや、教育や、社会の価値観によって、自分で自分を否定する若者達も増えてきました。あと50年もすればそのような若者はぐっと減り、欧米的な感覚の若者達が増えるのでしょうが、でも今は、憂鬱質、粘液質の若者は、欧米的な価値観によって追いつめられて、非常に苦しんでいます。今、世界中が欧米的な価値観を肯定する方向に進んでいます。「便利で豊かな社会」を支えているのは欧米的な価値観だからです。でも、実はそれは非常に危険な流れなんです。気質的に言うと、人類の精神的恒常性を支えてきた四つの気質のバランスが崩れてしまうからです。昔、西洋的価値観と、東洋的価値観がはっきりと分かれていた時代には、それぞれが別の文化圏でありながらお互いに影響しあいながら、新しい活力を生みだしていました。動きや、流れや、変化といったものは、相反する力が存在できるような状況でないと発生しないのです。立っているだけの人が歩き出すためには、どちらか一方の足の力を抜いてバランスを崩す必要があります。川の水が生きよいよく流れるためには高低差が必要です。世界が常に新しいものに生まれ変わるためには「陰」と「陽」といった相反する力が同時に存在する必要があるのです。動脈だけでは血は流れません。静脈だけでも血は流れません。血が流れるためには動脈と静脈が両方とも存在する必要があるのです。その「陰陽の循環」を支えているのが、「気質の働き」なのです。ですから、どれか一つだけが正しい気質なんて存在しないのです。憂鬱質や粘液質を否定する社会は活力を失い亡びてしまうのです。******************************私が書いた気質に関する手作り小冊子も新旧2冊あります。詳しくは冊子の紹介ページをご覧になって下さい。以下はワークのお知らせです。「気質の一日講座」 7月17日(土) 10:00~19:00「自分」を知る手がかりを得ることが出来ます。2~4才までの「親子遊び講座」(親子一緒)7月5日(月) 10:00~12:00家庭で簡単に出来る遊びのあれこれを、子どもと一緒に遊びながらお教えします。
2010.06.30
閲覧総数 1801
7

昨日書いたように、子育てで一番大事なのは「よりよい人間関係を作る能力」を育てることです。子どもにもし「幸せな人生」を送ってもらいたいと思うのなら、「将来のために」と英語や、お勉強や、サッカーといった習い事に子どもを追い立てるよりも、「今」を大切にして、家族や仲間との幸せな時間をいっぱい体験させてあげた方がいいです。なぜなら、子どもに「今」必要なのは、「将来のためのもの」ではなく、「今、心とからだが満たされるようなこと」だからです。そして、家族や仲間との幸せな時間をいっぱい体験することで、「よりよい人間関係を作る能力」が育っていくのです。「将来のためのもの」を学ばせようとしても、子どもの中にまだ「受け皿」がありません。だからどんなに追い立てても身につきません。子どもの成長において必要なものには、「それを学ぶために必要な時期」というものが決まっているからです。(ただし、この「時期」は、子どもの年齢に応じて大まかには決まっていますが、具体的には子ども一人一人違います)家づくりでも、しっかりとした基礎を作らなければいけないときに、「そんな悠長なことをしなくても家は建てられる」といきなり柱を立て、壁を作り、耐震性や断熱性を無視して、見かけだけ立派な家を作ってしまったら、すぐに家はゆがみ始めますよね。そういう、見かけだけを繕った住宅を欠陥住宅と言うのですが、みなさんはそんな「見かけだけ立派な欠陥住宅」に住みたいですか。住みたくないですよね。でもなぜか、その欠陥住宅を作るのと同じような考え方で子育てをしている人がすごく多いのです。ちなみに、その家に住人が実際に住み始める時期が、子どもの成長では「思春期」に相当します。自分の家が「欠陥住宅だ」と気づき始めるのもその時期です。そのような考え方の人は、「子どもが今必要としているもの」は与えず、お金をかけ、子どもを追い立て、人よりも早く、人よりも多く、色々なことを学ばせようとしています。子どもの将来のための準備にお金をかけることが「親の愛情」だと思い込んでいる人もいます。子どもが「ダッコ」と言えば「甘えるんじゃありません」と拒否し、遊んでいれば「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と追い立て、仲間と遊ぶ時間や場を与えず、毎日のように「○○教室」に追い立て、泣けば「泣くんじゃない」と叱り、走れば「走るんじゃない」と叱り、お母さんが自分の時間を作るために与えたテレビやスマホやゲームで遊んでいると「早く止めなさい」と叱られます。でも、愛情を求めてきた子どもに十分に応えてあげるのは「甘やかし」ではありません。「愛情」は子どもの心とからだの成長に必要な栄養素だからです。これは食事と同じで、お腹が空けば食べ物を求めますが、お腹がいっぱいになればそれ以上は求めないのです。命の働きに必要なものに対する要求は、満たされればそこで止まるように出来ているのです。走りたがる子どもを自由に走らせれば、しばらくすれば落ち着くのです。それに対して、甘いお菓子や、ゲームや、お金といった「快楽」や「欲」につながるものには限界がありません。一度はまってしまうと、際限なく求めるようになってしまうのです。そして、それを止めさせようとすると、イライラしたり、怒り出したり、精神的に不安定になったりします。「快楽」や「欲」につながるものには麻薬性があるからです。(実際に、「快楽」や「欲」が満たされると、脳の中で自家製の麻薬物質が作られるのです。)また、幼児期に「命の働きに必要なもの」が満たされて来なかった子ほど、快楽や欲につながるものを求めます。「成長に必要なものが満たされない心やからだの苦しみ」を、快楽や欲を満たすことで紛らわせようとするのでしょう。でも、麻薬性があるものだからこそ、子どもを思い通りに支配しようとする人には有効な道具になります。「1時間勉強したら1時間ゲームやっていいよ」というようにです。でも、一度「快楽」や「欲」につながるものに中毒になってしまった子どもは、「自分の成長に必要なもの」を求めなくなってしまうのです。「成長する喜び」を知らないからです。そして、「快楽や欲を満たすもの」ばかりを求めるようになってしまいます。また、10才前の子なら、アメとムチの原理が通用しますが、この頃までに親子の信頼関係がしっかりと築けていない子は、親の目を盗んで行動するようになります。平気でウソもつくようになります。「ウソ」は何かに中毒になってしまった人の特徴でもあります。(人は何かに中毒になると道徳的感性が鈍くなるのです。これはゲーム中毒でも同じです。)それで、そのように育てたのは自分だということは忘れて、親は子どものウソを責めます。そして、子どもはさらに苦しくなり、さらに親に隠れて「快楽や欲につながるもの」を求めるようになります。ちなみに「イジメ」や「虐待」は支配欲を満たしてくれます。どうか子どもを追い立てないで下さい。怖い顔や大きな声で子どもを脅迫しないで下さい。アメとムチで子どもをコントロールしようとしないで下さい。子どもの笑顔を奪わないで下さい。子どもの頃「幸せな子ども時代」を与えてもらった子は、大きくなってからお母さんやお父さんの幸せを考えるようになるでしょう。でも、どんなに「子どものために」とお金を使っても、「今」を否定され、「幸せな子ども時代」を奪われてしまった子は、親に恨み辛みを抱くようになります。どっちの親子関係を望みますか。
2019.06.22
閲覧総数 4188
8

人間の感覚の働きは、その人の意識の状態によって大きく変化します。何かを見よう、何かを聞こう、力を入れようなどと集中すると、「部分」に対する解像度が高くなります。普段はアリの動きなど見ていないし、見えないでしょうが、意識してアリの歩き方を観察しようとすると、小さなものへの解像度が上がり何となく観察できるものです。虫眼鏡を使うともっとよく見えるでしょうが、集中して見ようとすると普段よりも目の解像度が高くなり目自体が虫眼鏡化するのです。でもその代わり、アリ以外のものが見えなくなります。その結果、アリを追いかけて溝に落ちたりとか、枝にぶつかったりということもあるかも知れません。そんな「集中」には緊張を伴います。だから疲れます。絵を描いたり、勉強したり、何かを作ったりするような活動でも、特別な才能がない人が集中してやっていると疲れます。だから長く出来ません。それが普通です。でも、ゲームではその「やめる」ということが出来ないのです。なぜなら、ゲームは一度始めるとゲームオーバーになるまではやめられないように出来ているからです。夢中でゲームをやっている子は、自分の意思で集中しているのではなく、無理矢理集中させられているのです。だから、「ゲームは一時間だけよ」などと約束させても守ることが出来ないのです。またそのため、ゲームは子どものキャパを超えた過剰な集中を子どもに強いてしまいます。だから疲れるのですが、でも、ゲームをやっている時の脳は興奮状態になっているので、そのことに気づかないのです。それは、大酒飲みの人が、「今日は少なくしよう」と思って飲み始めても、飲み始めたらお酒の力で脳のブレーキ力が弱まってしまい、止められなくなってしまうのと似ています。でもその疲れは確実に、子どもの心、からだ、神経の中に溜まって行きます。その結果、子どもは落ち着きを失い、自分の意思で集中することが困難になります。心とからだもガチガチになり、緩まなくなります。好奇心や思考力も低下します。そして、ノンベイがいつでもお酒を求めるのと同じように、脳が興奮するような強い刺激をいつも求めるようになります。そしてゲーム以外の遊びが出来なくなります。当然、勉強を楽しむことも出来なくなります。また神経が緩まなくなくなると虫眼鏡が固定されてしまい、小さなことばかりが気になるようになります。また、全体を観る能力が低下するので物事がうまく行かなくなります。相手の立場に立って感じたり考えたりすることも出来なくなるので、対人関係が難しくなります。物事を否定的に見るようにもなります。いわゆるノイローゼ的な状態です。ただし、7才までに自然の中で、仲間と、からだを使った自由な遊びをいっぱいやって育った子は、違う遊びも、広い世界も知っているし、対人関係能力も育っているし、心とからだの基盤も出来ているので、小学校に入ってゲームにはまっても、中学生頃になって自我の働きが強くなると、ゲームへの欲望を自分の意思でコントロールできるようになります。だからそんなに心配しなくても大丈夫です。問題は、そうでない子の方です。幼い時から狭い世界の中に閉じ込められ、強い緊張を強いられるような刺激的な遊びに慣れてしまった子は、自分の周囲に広がる、美しくて、刺激的で、魅力的な広い世界に気づかなくなってしまうからです。興味も感じません。それでも、「みんな一緒」、「みんな同じ」の流れに乗っていれば、普通の大人にはなることが出来るでしょうが、自分らしさを生かすことが出来るような人生の可能性や、「生まれてきたよかった」という喜びは失うことになってしまうでしょう。
2026.05.09
閲覧総数 106
9

昨日は子どもを比較し、追いたてる人がいます。そのような人は、「ありのままの子ども」を受け入れることが出来ません。だから子どもも「ありのままの自分」を否定し、常に他者と自分自身を比較しながら生きることになります。と書きましたが、ではその「ありのままの自分」に気づき、受け入れるためにはどうしたらいいのかということです。最近は「自分探し」などをする人もいっぱいいますが、「自分」は探しても見つかりません。なぜなら、その自分探しをしているのが、「自分」だからです。それはつまり、メガネをかけてメガネを探しているようなものです。そのメガネに気づくためには、メガネを探すことをやめる必要があります。メガネを使ってメガネを探すことをやめた時、メガネの存在に気づくのです。小さい時から比較されてきた人の意識は常に外側をむいています。意識が外側をむいているので自分のことが分りません。それで、人からの評価や、学歴や、収入や、社会的地位や、テストの点数などといった「他者の基準」によって自分の位置を確認しようとします。でも、「本当の自分」はそんな基準では測ることが出来ません。本来、自分にとって「自分」は唯一無二であり、比較不可能な存在だからです。自分の生命も、自分の心もからだも、自分の人生も、唯一無二であり、比較不可能な絶対的存在なのです。だから、比較しても無意味なんです。よく算数の問題で、「リンゴ3個とミカン5個を足したら、全部で何個でしょう」などという問題がありますが、本当はリンゴとミカンは足せないのです。そもそも、「リンゴ3個」という言い方自体が変です。一個一個異なるものを同じ基準で数えてしまっているからです。その3個は大きさも色も味も違うかも知れません。一個は大きいけどまずくて、もう一個はまだ熟していなくて、最後の一個は小さくても美味しいかも知れません。これが「現実」です。そして、子どもたちも、またジャングルの中などで未開の生活をしている人たちもこの「現実」の世界を生きています。だから「数」が分からないのです。文明社会に生きている大人は、全ての存在を社会的価値基準に従って抽象化し、一つ一つの違いを無視する習慣がついてしまっているから、全ての存在を簡単に「数」に変換してしまいますが、そのような習慣がない子どもや人たちにとっては、「物や存在を数に変換する」という発想自体が予想外のことなのです。現代人は簡単に「人間」まで数に変換してしまいます。そして人と人を「数」や「量」によって比較しています。そのため、現代人は「本来すべてのものは一個一個が絶対で、比較不能な存在なのだ」ということを忘れてしまっています。70億人の人間の世界を「100人の村」に変換することで見えてくるものもありますが、逆に見えなくなってしまうものもあるのです。本当は、その「見えなくなってしまうもの」こそが大切にされなければならないことなのです。70億人の人間の中には「私」も入っていますが、「100人の村」の中には「私」はいません。その「100人の村」には生命も喜びも悲しみもありません。その村の住人には名前すらないでしょう。あるのはただ数と量だけです。山を切り崩して1万本の木を伐採しても、別の所に一万本の木を植林すれば何の問題もないと考える人たちがいます。それは100人の人を殺しても、また100人産めば問題ないという考え方と同じです。逆にいえば、100人産んだなら、100人殺す権利があるということになってしまいます。それって正常な考え方だと思いますか。確かに、統計的、政治的、経済的にはその通りかもしれません。でも、それは人間の観念の中だけに存在する空想の世界の話であって、現実の世界の話ではありません。そんなことをしたら、現実の世界は狂ってしまうのです。ありのままの世界、ありのままの自分を受け入れることが出来ない人は「空想の世界」に生きているのです。そして空想の世界の中に「本当の自分」はいないのです。ちなみに、「文明」はその空想の産物です。ただ私はその「空想」(文明)を否定しているのではありません。空想と現実を取り違えてしまっている現代人の意識と、その意識によって支えられている現代文明を否定しているのです。ですから、決してその社会の中で不可抗力的にそのような考えにとらわれてしまっている人を攻撃をしているわけではありません。なぜなら、そのような人もまた被害者だからです。現代人は頭が作り上げた「空想」の方が「現実」で、生命が生きている「本当の現実」の方を「空想」だと思い込んでいます。だから平気で子どもが言うことを否定することが出来るのです。その「空想の世界」は「裸の王様」が着ている「立派な洋服」のようなものです。子どもにはそんな「空想」、見えません。だから「王様ははだかだ」というのです。物語の中の大人たちはその言葉で「現実」に気づくのですが、現代人は逆に、子どもに対して「間違っているのはお前だ」と押し付けています。王様に褒めてもらってご褒美をもらいたいからなのでしょうか。それとも、もう現実を見ることが出来なくなってしまっているからなのでしょうか。
2012.01.25
閲覧総数 692
10

人間には様々な体験を通して成長することができる人と、成長できない人がいます。成長できる人の心や感覚や思考は外の世界に向かって開かれています。そして、常に外の世界とフィードバックを繰り返し、状況に応じて柔軟に対応することが出来ます。それに対して、成長できない人の心や感覚や思考は自己中心的な世界に閉ざされてしまっています。そのような人は「自分の価値観」や「今の自分の状態」を維持することに精一杯で、自分が他者の影響を受けて変わってしまうことを恐れています。人間が成長するためには他者からの影響を受ける必要があるのですが、他者からの影響を拒否してしまうので成長することが出来ないのです。この違いはロボットの世界にもあります。ロボットにも様々な体験を通して成長するタイプのロボットと、最初に作られた時の能力のまま成長しないタイプのロボットがあります。自己成長型のロボットは多様な対象を扱うことが出来ます。そしてまた、多様な対象との関わり合いを通して成長していきます。最近のコンピュータや携帯電話やアイフォンなどはこの機能を搭載しています。でも、成長しないロボットは最初にプログラミングに組み込まれている対象や出来事しか扱うことが出来ません。そして体験から学ぶこともないし、相手の影響も受けません。朝の挨拶を「おはよう」という言葉で認識するようにプログラムされている機械は「おっはよう」とか「オッハー」と言われても認識することが出来ません。でも、自己成長型ロボットはすでに持っている知識にこだわらずに、状況によって意味を認識するように出来ているので、「オッハー」でも、「グッドモーニング」でも、何回か繰り返せば朝の挨拶として認識することが出来るようになります。自己成長するシステムは、状況に応じて柔軟にその意味を解釈し直すことが出来るのです。でも、自己成長しないシステムはその「状況に応じて」という判断が出来ません。常に自分の知識や価値観だけを絶対の基準にして物事を判断してしまうのです。この問題を、子どもの「どうして?」という問いかけに対する答え方で考えてみます。私がよく講演会などに持って行く絵本に「かぜは どこへいくの」(しゃーロット・ゾロトウ作)があります。一日楽しく遊んだ子どもが、夜寝る時にお母さんに「どうして、ひるは おしまいになって しまうの?」と聞きます。それで、講演会などでは「みなさんだったどう答えますか?」と聞きます。すると「地球が回っているからよ」とか、「夜が来るためよ」とか、「明日また新しい一日が始まるためよ」とか答えてくださいます。確かにどれも間違いではありません。でも、間違いではありませんが子どもの気持ちに応えることが出来ているかどうかは別の問題です。「地球が回っているからよ」という答えはお母さんが知っている知識です。このように答えるお母さんは、子どもの問いかけを「自分の知識に対する問いかけ」として理解しています。学校の先生はこのような意図で生徒に問いかけます。試験でも知識を問いかけられています。先生が「一足す一はいくつですか」と聞く時、先生はすでに答えを知っています。先生が分からないから生徒に聞いているわけではありません。(「長靴下のピッピ」は、“知ってるんだったら聞かないでよ”と言い返しますが、普通の生徒は真面目に答えます。)これは「リンゴはどうして落ちてくるの?」という質問に「重力があるからよ」と答える人も同じです。子どもの質問に対して、自分の知識を聞かれたと解釈しているのです。でもこれは、本当の意味での「対話」ではありません。このような時、この問いかけを「問いかけた子どもの気持ち」になって理解し、答えようとするとまた別の答えが必要になります。それがつまり「本当の対話」です。そしてそのようなことができる人は成長することができる人です。そこで、「この絵本の中の子どもはどうしてお母さんにこのような質問をしたのだと思いますか?」と聞き直します。すると、「楽しかった一日が終わってしまうのが寂しかったから」などと答えて下さいます。そのように聞かれて初めて子どもがなぜそのような質問をしたのかが分かるのです。それで「じゃあ、その気持ちに応えることが出来るような答えを考えてみて下さい」というと、先ほどの答えとはみんな違った答えを出してくれます。考える能力自体がないのではなく、相手の立場に立った視点がないから考えることが出来ないのです。これは東電も政治家も同じです。ただ自分の価値観を相手に押しつけようとする人は考えないのです。そして、成長することもできません。子どもの「なぜ?」に対して学校で学んだ科学的な知識ばかりで答えようとする人は自分の頭で考えない人です。そして、対話することも成長することもできない人です。子どもが「幼稚園(学校)に行きたくない」と言う時、そこには多くの意味が込められています。それは子どもの立場になって考えなければ分からないことです。でも、多くの人が「幼稚園(学校)は行かなくてはいけない所だから行きなさい」とか、「わがまま言うんじゃありません」とか、「勉強に付いていけなくなるよ」等と、ただ自分の価値観だけを子どもに押しつけようとしています。このような人は、最初にプログラミングされた通りにしか動くことが出来ないロボットと同じです。そのような人でも、「相手の立場に立って」という視点を持つことで心と感覚と思考が開放されて、成長することが出来るようになります。
2011.10.17
閲覧総数 267
11

五感の働きとしての「感覚」は、基本的に「生まれつき」です。でも、「味わう」という感覚の働きは、育ちの過程で育つものです。なぜなら、この「味わう」という感覚の働きは「心の働き」と密接につながっているからです。「味わう」という能力がなくても、人は生きていくのには困りません。でも、「味わう」という能力がないと、人は「人生」を楽しむことができません。「幸せ」を感じることも出来ません。でも、「味わう能力」を育てることが出来ないまま大人になってしまった人は、「味わう」という感覚世界があることを知りません。説明しても理解出来ません。確かに、そのような人でも「味」は分かります。「食レポ」のように、「美味しい」とか「不味い」という判断も出来ます。そしてそれが「味わうこと」だと思っています。でも、「おいし~」という「心に響く感覚」が分からないのです。テレビなどで「食レポ」をやっている人がやっているのは「味の分析」であって、心で感じる「おいし~」という感覚とは別のものです。本当に味わっていたら言葉化など出来ないはずだからです。極端なことを言えば、機械にだって食レポは出来るのです。「おにぎり」で有名な佐藤 初女さんという方がいらっしゃいます。ウィキペディアには佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 - 2016年2月1日[1])は、日本の福祉活動家、教育者。1992年より青森県の岩木山山麓に「森のイスキア」と称する悩みや問題を抱え込んだ人たちを受け入れ、痛みを分かち合う癒しの場を主宰。それ以前は弘前市内で自宅を開放して同様の活動をしており、こちらは「弘前イスキア」と呼ばれていた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しにより、からだから心の問題も改善していくことができると訴えた。と書かれています。(2016年2月1日に94歳で亡くなったようですが、90才の時に「これが最後になるかも・・・」と知り合いが企画した講演会でお会いしたことがあります。その後も、「これが最後かも講演会」が何回も行われたようですけど、お元気な方でした。)初女さんの所には、心やからだが病んだ人達がいっぱい来たそうです。初女さんはそんな人達に、心を込めてにぎったおにぎりを振る舞ったそうです。昨日私は、名古屋で「天むす」(天ぷらが入ったおむすび)を買って食べましたが、そんな贅沢なものではありません。梅干しを入れ、ノリを巻いただけの素朴なおにぎりです。でも、このおにぎりを食べただけで泣き出してしまった人がいっぱいいたそうです。五感の働きとしては「おにぎり」は、口の中にある「味覚」で味わうものです。でも、多くの人がこのおにぎりを「心」で味わったのです。初女さんの「おにぎり」には「心に響く味」があったのでしょう。同じようなことが、視覚や聴覚でも起きます。絵を見たり、音楽を聴いたりして、感動したり、泣いたり、幸せを感じる人もいます。このような現象は「五感の働き」だけでは説明できないのです。でも、今、そのような感覚が萎えてきてしまっている人が増えてきているような気がするのです。バックパッカーとして旅をしていた若い頃、ルーブルにも行きましたが、絵の前で立ち止まって、何分も、何分も絵と対話している人が何人もいいました。でも、ツアーで来ていた日本人観光客はみんな、確認し、説明を聞いただけで、次の絵に移動していました。団体行動が原則のツアーでは仕方がないことなのかも知れませんが、小さい頃からこういう活動に慣れてしまっていると、「味わう」という能力が育たなくなるのは明らかです。学校の授業でも絵を見たり、音楽を聴いたりはしますが、作者の名前や、作品名を覚えることが目的であって「味わう」ことが目的ではありません。物語や小説を読むこともありますが、これもまた、「文章を理解するためのもの」であって、「味わうためのもの」ではありません。ですから、「自分が感じた通り」に感想文を書くと×になります。さらに、ストレスを抱えている人、自分と向き合うことを避けている人、欲望に振り回されている人、不安が強い人、人目ばかりを気にしている人、いつも追い立てられている人、心やからだが疲れている人は、この「味わう」という能力が低下しています。人はそういう状態になると、何を見ても、聞いても、食べても、心が動かなくなります。すると世界が灰色に見えたり、食べるものが味気なくなったりします。そして、今の日本には、そんな状態の人がいっぱいいます。でも、そんな人でも、初女さんの「おにぎり」との出会いのように、「心で味わう」という体験が起きると、「自分」を取り戻すことが出来るのです。それが感動になります。そして人は変わります。絵でも、音楽でも、お料理でも、「味わう」という心の働きは、「自分との出会い」をもたらしてくれるのです。ちなみに子どもは、この「味わう」という能力を、お母さんやお父さんとの何気ない日々の中で育てています。安心と静けさがあるゆったりとした時間の中で、「美味しいね」「楽しいね」「嬉しいね」「いい匂いだね」「気持ちがいいね」と、お母さんやお父さんと感覚を共有しながら育っていくのです。こういう関わりが、子どもの「五感の働き」と「心の感覚」をつなげてくれているのです。
2017.04.23
閲覧総数 1516
12

私は、コントロールや、支配や、被支配を防ぐ唯一の方法は「対話」だと思っています。子どもへの虐待を防ぐためには「子どもとの対話」が必要です。少数民族への虐待を防ぐのにも、移民への虐待を防ぐのにも、イジメを防ぐのにも、国と国の意地の張り合いを防ぐのにも対話が必要です。夫婦間のDVを防ぐためにも対話が必要です。逆に言うと、だから相手を支配しようとする人は対話を拒否するのです。「対話」を受け入れた時点で、相手との間に対等な関係が生まれてしまうからです。ただ問題は、多くの現代人はその「対話の方法」を知らないということです。国会討論を見ていると絶望的な気持ちになります。お互いに自分の言いたいことを言い合っているだけで、「国民のための対話」がどこにもありません。また、どんな「立派なこと」を言っていても、「対話の能力」がない人にはその「立派なこと」を実現する能力がありません。子どもの頃から比較され、競争に追い立てられ、機械を相手に一人で遊び、お母さんや先生の指示や命令に従い、一方的に話を聞くだけの生活をしていたら、当然のことながら対話の方法を学びようがないのです。それは子どもたちと会話していても強く感じることです。最近の子は自分のことばかりを話そうとするばかりで、人の話を聞こうとしません。というか、「聞く(聴く)」という能力が育っていないのです。友人の「かめおかゆみこ」さんが「聴く」というワークを長いことやっていますが、実は「聴く」というのは結構な訓練を必要とするほどの非常に難しい作業なんです。確かに耳で聞くだけのことなら耳に異常がない限り誰にでも出来ます。そしてみんな、単に「聞こえている」という状態を「聞いている」と理解しています。お母さんが「ちゃんと聞いてるの!!」と子どもに言えば、子どもはブスッとした顔をして「聞いてるよ」と言い返してくるでしょう。でも、ほとんどの場合それは、単に「聞こえている」というだけのことです。ちゃんと聞いているのなら行動にも反映するはずだからです。分からないことや納得が出来ないことがあるなら言ってくるはずです。でも、ほとんどの場合子どもは聞き流しているだけです。そしてそれは、「聞こえている」という状態であって「聴いている」という状態ではありません。「聞こえている」と「聴いている」という状態は全く別物なんです。じゃあ、「聴くとか対話って何なんだ」と聞かれても、聴くことや対話が出来ない人にそれを説明することは困難です。「聴く」とか「対話する」というのは、「概念」や「知識」ではなく、「ダイレクトに感覚の働きとつながったスキル(技術・能力)」ですから言葉化できないのです。「自転車の乗り方」を簡単に説明しようとしたら、「サドルにまたがってペダルを踏めばいいのです」としか言いようがないですよね。じゃあ、その説明で乗ることが出来るようになるかというと、なりませんよね。それは説明が足らないのではなく、「ダイレクトに感覚の働きとつながったスキル(技術・能力)」の世界は、自分の体験によって感じ取る以外に身につけようがないことだからです。でも私たちは、簡単便利な機械を手に入れましたが、それと引き替えに「ダイレクトに感覚の働きとつながったスキル(技術・能力)の世界」を失ってしまったのです。そして、「そういう世界があるんだ」ということ自体が分からなくなり、「マニュアルさえあれば何でも出来る」と勘違いする人が増えて来ました。だから、「子育て書」に依存してしまうのでしょう。子どもの「聴く能力」を育てるためには、お母さんが子どもの言葉や表現に耳と、意識と、心を傾け、ちゃんと聴こうとする必要があります。お母さんにちゃんと聴いてもらう体験をすることで、子どもは「聴く」という能力を育てることが出来るのです。友達や兄弟の関係でも同じです。「ちゃんと話を聞きなさい」と怒鳴ってばかりいたら、聴く能力は育たないのです。幸せな人間関係を築くための能力は、幸せな人間関係の体験を通してしか育てようがないのです。でも今、その人間関係そのものが希薄になってしまっています。唯一「お母さん」だけが子どもにその「幸せな人間関係」を体験させることが出来る存在なんですが、子どもの頃に「幸せな人間関係」の体験がなかったお母さんには、それも出来ません。じゃあどうしようもないのかというと、そこで必要になるのが「待つ」ということなんです。「聴く」ことは「(心を向けて)待つ」ことから始まるのですから。一般的に、対話が出来ない人は待てないし、待てない人は対話が出来ません。でも、ちゃんと自覚と意識を持つことで「待つ」ことは出来るようになっていくのです。すると対話も出来るようになっていきます。
2019.08.09
閲覧総数 924
13

「死」に意味を持たせるのは「物語」です。一人の「死」が社会全体に大きな変化をもたらしたり、他の人を救うこともありますが、その出来事がどのように後の世につながっていくのかは、その出来事をどのような物語の中に組み込むことが出来るのかということで変わっていきます。新しい命を産むと共に死を迎える生き物は少なくありません。森の生き物たちの死は、大地に還り、新しい命を支える栄養となります。春、夏と産まれ育った命が、秋に種や卵の中に受け継がれ、また来年の春に目覚めてくることもあります。「死」は「永遠に続く命の物語」「自然の物語」の中の一過程に過ぎません。そこには、「悲しみ」はありますが、それ自体は単なる雨が降るのと同じ自然現象であって、不吉なものでも、汚らわしいものでも、隠すべきものでもありません。それを「汚らわしいもの」や「悲惨なもの」や「命の欠点」として隠そうとすることで、「命の大切さ」や「命の悲しさ」や、そして「自然の本質」が分からなくなってしまうのです。自分自身の命の大切さも分からなくなります。でも、現代人は「死は汚れていて、忌み嫌うべきもの」という物語の世界に生きています。現代人のそのような物語は、また、「失敗を恐れる」「失敗を怖がる」という感性にも表れています。そこが「死」や「失敗」が「終点」になってしまっているのです。そのため、失敗した時点で思考が停止してしまいます。そして、その「失敗が意味すること」や「失敗が教えてくれること」を理解しようとしません。その失敗から学ぼうともしません。研究の世界でも、経営の世界でも、また何かの活動の世界でも、その世界で成功した人は皆「失敗から学ぶ能力」が高い人です。潜在的にはその世界における高い才能を持っていたとしても、些細な失敗で挫折してしまうような人がその世界で成功するわけがないのです。逆に、元々はそれほど高い才能を持っていなくても、失敗から学ぶことを繰り返すことが出来るのなら、才能はあっても諦めが早い人など簡単に追い抜いてしまうのです。「失敗を恐れず、失敗から学ぶ能力」ほど、人が生きて行く時に必要になるものはないのです。それは仕事においても、勉強においても、子育てにおいても非常に大切な能力です。でも今、子どもの生活環境の中に、その「失敗を恐れず、失敗から学ぶ能力」を育てる場がないのです。学校も失敗を許してくれません。ただ評価するだけで失敗から学ぶ能力を育てようともしていません。昔の子は、自然の中での仲間との遊びの場で、「失敗から学ぶ能力」を育てていましたが、今、そのような遊び環境を持っている子は少数です。そのことが、生きることを困難にしているのです。子育てのワークをしていても、「私は上の子の子育てに失敗しました」と平気で言うお母さんがいます。「上の子は失敗したから、下の子は失敗しないようにしよう」ということで私の講座に来たのです。でも、「失敗作」としてお母さんから見捨てられた子はどうなるのでしょうか。それに、そのような考え方では、下の子もちゃんと育たないと思います。「失敗」は「あなたは今のままでいいのですか」という神さまからの問いかけでもあるのです。自己肯定感が低くて苦しんでいる人も多いですが、その苦しみもまた「あなたは今のままでいいのですか」という問いかけです。先に進むことが出来る可能性を、自分の未来を否定しているから苦しいのです。そんな時、ただその失敗や苦しみを否定するだけでは何も解決しないのです。「そこから何を学ぶことが出来たのか」、それが大事なんです。
2019.10.19
閲覧総数 710
14

「考える」ということは「判断する」ということでもあります。複雑な思考は複雑に判断を繰り返すことで成り立っています。その部分に関しては「人間の思考」も「コンピュータの処理」も同じです。コンピュータの動きを管理するプラグラム言語はその判断の仕方を記述するためのものです。でも当然違いもあります。それはコンピュータが判断の基準として使っているのが「デジタルデータ」であるのに対して、人間が判断の基準として使っているのは「アナログデータ」であるということです。コンピュータの世界には「0」か「1」しかありません。この「0」と「1」を組み合わせて複雑な計算をしているのです。そのため、データに曖昧さが全くありません。そして、元データに曖昧さがないので、答えにも曖昧さがありません。同じデータを与えればいつも同じ答えが出て来るのです。またそうでないと困ります。でも、人間の場合は、同じ問いかけに対して必ずも同じ答えが返ってきません。気分がいい時と気分が悪い時とでは異なった答えが返ってくることもあります。調子がいい時と調子が悪い時も答えは異なってくるでしょう。また、人が異なれば答えも異なるでしょうし、男性と女性でも答えが異なったりします。日本人とアメリカ人とでも答えが異なることもあります。どうしてそういうことが起きるのかというと、人間が判断の基準として使っているデータが「アナログデータ」だからです。そして「アナログデータ」は曖昧です。コンピュータは「0」か「1」の二種類を組み合わせたデータによって判断しますが、人間の場合は「0ぐらい、いや1に近かったかな、でも時々0にもなるし」というデータと、「1ぐらい、いや0に近かったかな、でも時々1にもなるし」というような曖昧なデータを組み合わせて判断しているので、当然答えも曖昧になるのです。だから人間の考えには客観性も正確性もないのです。だから、客観性や科学を大切にする社会では「価値がないもの」として扱われてしまうのですが、でも、「命の維持」という面においてはこの曖昧な考え方の方が圧倒的に有利なんです。なぜなら自然界そのものがアナログ的なので、アナログ思考でないと自然界では生きて行くことが出来ないからです。ニンジンの形や大きさも、ダイコンの形や大きさも一つ一つ違います。もちろん味も一つ一つ違います。でも私たちは、(よっぽど似ていない限り)一目見ただけでそれをニンジンであるか、ダイコンであるかを判別することが出来ます。そういうことができるのが、曖昧処理能力の特徴なんです。デジタルデータに基づいて作られている工業製品は製造工程も規格化されているので、同じ製造ラインで作られた製品は、形も、大きさも、機能も全く同じですが、自然界には「全く同じもの」は一つとして存在しないのです。同じ「人間」として分類されている動物でも、実際には一人一人全く違います。だから「曖昧」に対応した感じ方や考え方が出来ないと生きて行くことが出来ないのです。(自閉症の子はこれが苦手です)最近は「曖昧」を扱えるコンピュータも出てきましたが、実は「正確に計算する能力」よりも、「なんとなくこんな感じかな」と「大まかに計算する能力」の方が高度なんです。現代社会は、機械を中心に回っているので、機械と相性がいい「正確な計算をする能力」の方が高度なように思われていますが、実際にはその逆なんです。単純に正確な計算をするだけなら思考は必要がないのです。正確に作業するだけで正確な答えが出せてしまうからです。それは「ソロバン」を思い浮かべてみればすぐに分かることです。言われた通りにコマを動かしているだけで勝手に答えが出てしまいますよね。だから時に、普通の会話すら困難な知的障害を持っているのに、計算能力だけは異常に高い人もいるのです。心が邪魔をしないので正確な計算が出来るのでしょう。実は、曖昧な計算が出来るというのは非常に高度な能力なんです。音に関しても同じです。多くの人が「絶対音階」にあこがれていますが、進化的には「絶対音階」の方が古くて、「相対音階」の方が新しいのです。絶対音階を感じ分けるよりも、相対音階を感じ分ける方が難しいからです。ちなみに相対音階とは、実際の音の高さとは無関係に「ド」と言えば、その「ド」を基準にして、「レ・ミ・ファ」と続けていくことが出来る能力です。ピアノなどの音の高さとは合っていなくても、音と音の間の相対的な関係は合っているのです。ちなみに音痴の人はこの相対的な関係も作れません。この「関係性を理解し、関係性の中で判断する能力」こそが人間の非常に高度な能力なんです。そのためには「曖昧を理解出来る能力」が必要なのです。あと、人間や他の生き物には出来て機械には出来ないのが「目的に合わせて思考する」ということです。機械は言われたことをやるだけです。与えられた目的に合わせて結果を出します。学校のお勉強のようなものです。それに対して、人間だけでなく生き物は、自分で目的を見つけ、その目的に応じて考えます。それが出来ないと生きていくことが出来ないからです。でも、その「自分で目的を見つけ、その目的に応じて考える」ということが可能になるためには、「自由」が必要なんです。自由に感じ、自由に考え、自由に表現する自由です。その「自由」が与えられないと、人間は人間らしい思考が出来なくなってしまうのです。今のコロナの問題でも、一番大切なことは「うつさない、うつされない」ということですよね。だからこの目的のために何をしたらいいのか、何をしてはいけないのかを自分で考える必要があるのです。「不要不急の外出は避けて下さい」という一方的な要求は、「思考を停止しなさい」という事と同じ事です。でも、思考を停止したら、その部分では効果が出ても、別の部分で問題が出てしまうのです。一人一人みんな異なった価値観を持ち、異なった状況の中で生活しているのですから。その曖昧さの中で結果を出すためには、一人一人が自分の置かれた立場で、自分の頭で考えて、現実的な答えを見つけて行くしかないのです。正解のない問題に対しては、自分の頭で考えて対処するしかないのです。
2020.04.09
閲覧総数 1243
15

私は、自宅では自由に色々なものを作る造形教室をやっています。「自由」ですから、「作りたいもの」を決めるのは子ども自身です。そして、その参考になるような色々なお手本や本をいっぱい揃えています。教室を始めた30年くらい前にはそれでうまく行っていました。「ここは自由に創れるから楽しい」と言ってくれる子どももいました。でもいつのまにか、その自由をもてあましてしまう子ども達が増えて来ました。「自由に創っていいんだよ」と言っても、「わかんない」と言うのです。そして「なに、作ったらいいの?」と聞いてきます。そのくせ、色々なお手本を見せたり提案をしてもことごとく却下します。そして「たいくつだー」と言いながらブラブラしていたり、友だちとおしゃべりをしています。でも、そういう子ども達でもアニメやゲームの話になると盛り上がります。最近、そういう子が多いのです。そのような状態の子が増えるのは9才、10才頃からです。1,2年生の子は素直にこちらの提案を受け入れてくれます。でも、9才、10才頃から自分で決めたがるようになるのです。それ自体は成長に伴う自然な変化なんですが、最近の子は自分で決めたくても決められない子が多いのです。こちらの提案に対して「それは嫌だ」とは言うのですが「じゃあ何がやりたいの?」と聞いても「わかんない」という答えしか返ってこないのです。9才、10才頃から子ども達は「社会」というものに意識を向け始めます。少しずつ「自分の将来」のことも考え始めます。それまでの「夢」は単に想像するだけのものでしたが、この頃から「将来の目標」が「夢」になっていくのです。そして、「アンパンマンになりたい」などという非現実的な夢はいつのまにか消えて行きます。そんな時、「やりたいこと」を見つけられた子は子は、生き生きとしています。でも、それを見つけられない子は無気力になっていきます。9才頃までは楽しければそれだけで満たされていました。でも、9才を過ぎる頃から楽しいだけでは満たされなくなっていくのです。達成感や充実感が欲しくなるのです。まただから、現実の世界の中でそれを見つけることが出来ない子はゲームにのめり込んでいくのです。ゲームの中で達成感や充実感を得ようとするのです。そして、ますます「現実の世界」への興味を失っていきます。ゲームしか「やりたいこと」がなくなってしまった子は、「動くもの」には意識を向けることが出来ても「動かないもの」に意識を向けることが困難なようです。そういう子は、見て感じたり、見て理解する能力も低いです。本来はその頃から社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事に意識が向いていって、「自分の将来につながるような目標探し」が始まるのですが、家庭や学校に閉じ込められてしまっている現代の子ども達には、社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う機会がありません。それでも、本をいっぱい読んでいるような子は、本の中で社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う事が出来ますが、最近の子は幼い時から文字は読めても、本を読むことを楽しむことが出来ません。だから、その時期の子ども達を家庭や、学校や、テレビや、スマホや、ゲームの中に閉じ込めてはいけないのです。「9才の危機」を迎えた子ども達を生き生きとさせるためには、色々な所につれて行き、色々な大人や世界と出会わせ、色々な体験をさせてあげる必要があるのです。
2024.05.23
閲覧総数 5504
16

気質が違えば感覚が違います。感覚が違えば思考方法も行動様式も違うし、求めるものも、また「幸せの形」も違います。多血質の人はいつでも「楽しいこと」を探しています。「楽しいこと」を考えるのも大好きです。でも、基本的に受け身的です。また、いつでも「自分の感情」を基準に物事を考えるので論理に一貫性がありません。将来のことも過去のこともあまり考えず、「今のこと」を中心に考えます。それと自由が大好きで、責任が発生するような活動は嫌いです。全体的に柔らかな印象で、筋肉に弾力があります。子どもは一般的に多血的な要素が強いです。胆汁質の人は強い刺激や達成感を求め、自分の意志を実現するために行動しようとします。また、意識が外側に向かいがちなので自分の内側に意識を向けることが苦手です。そして他人に対しても、いつも、「相手の気持ち」より「相手の行動」の方に意識を向けています。ですから、まずやってみます。やる前に色々と考えるのは苦手です。やってみた結果で考えます。多血質と違って責任感が強く、責任が発生するような活動や立場が好きです。姿勢はよく力も強いですが、筋肉は固いです。粘液質の人は自分に対しても他人に対してもいつも冷静な観察者です。行動することよりも理解することの方が大切です。待つことは得意ですが、急ぐことは苦手です。また、激しい動きが苦手でゆっくりな動きの方が得意です。リズム感もあまり良くないので速いテンポについていくことが出来ません。内側には豊かな感情があるのですが、それを表現しません。自然の中に浸っているのが好きで、すぐにボーっとしてしまいます。筋肉は柔らかいのですが弾力がありません。憂鬱質の人は常に「自分」を意識しています。そして、安心出来る人、安心できる場所を求めています。強い刺激には恐怖心を感じます。デリケートな感受性を持ち、他の人が気付かないようなことに気付きます。また常に、物語的に物事を考える癖があるので、自分が体験したことを、ありのままの事実ではなく、自分なりの物語に変換して記憶します。その時、自分が創った物語の筋に合わせて、無意識のうちに事実を変えてしまったり、無かった事実を創り上げてしまうことがあります。でも、本人には何が本当で、何が「自分が創ってしまったこと」なのか区別することが出来ません。筋肉は細く弾力がありません。そのため力を出すことが苦手です。上に、簡単に四つの気質の特徴を書いてみましたが、ただし、これらはそれぞれの「気質」を、相対的に見た時に強く現れる特徴を強調して表現してあるので、本人の中の自覚としてはこの通りではない可能性があります。多血質の人も自分では「論理的に考えている」と思っているかも知れませんし、胆汁質の人も自分では「相手の気持ちを考えている」と思っているかも知れませんし、粘液質の人も自分では「感情を表現している」と思っているかも知れませんし、憂鬱質の人も自分では「事実を言っている」と思っているかも知れないということです。だから「自分の気質」はなかなか分かりにくいのです。また、気質は単体で存在しているのではなく、常に四つの気質がセットになって存在しています。ただ、ほとんどの人において、その四つの気質のバランスには偏りがあり、一つか二つの気質が優勢に働き、その人を特徴づけています。それを「その人の気質」と言っているだけで、胆汁質の人であっても、「胆汁質」しか存在していないわけではありません。図にするとこんな感じです。そして、その気質の混ざり具合によっては上に書いた特徴通りにはなりません。人間の気質は、朝・昼・夕・晩という時間帯や、春・夏・秋・冬という季節の影響を影響を受けています。春になったらウキウキして、夏になったら活動的になり、秋になったらメランコリックになり、冬になったら「まったり」したくなります。それは、その状況に合わせてその人の中の気質が働き出すからです。気質は人間の内側だけで独立して働いているのではなく、周囲の人や環境とつながって働いています。だから大好きな友達といる時には多血的になり、会社に行くと粘液的になり、家に帰って子どもを仕付ける時には胆汁的になり、家計簿簿を見て憂鬱的になったりします。そういうことは誰でも体験的に知っている事実ですが、その感情の変化とともに、感覚や姿勢や、筋肉の状態や、思考方法までも変化していることにまで気付いている人は多くないと思います。それはその「感情の変化」の背景には「気質の変化」があるからです。感情だけが変化しているわけではありません。そのようにいつも変化している気質ですが、それでも人には変化の中にも変化しにくい気質的な特徴というものがあります。九州にも四季があり、北海道にも四季がありますが、全体を通してみた時、その季節の状態には大きな違いがあります。北国にも春は来ますが、南の地方より短くて、劇的です。それと同じような違いが気質にもあるのです。でも、自分が生まれ育った土地の季節しか知らない人にはその違いは分かりません。そして、ほとんどの人が「自分の気質」しか知らないので「客観的に見た自分の気質」が分からないのです。北国を「北国」と呼ぶのは「北国」以外の地方の人なのです。 また、自然界にも気質があります。これはヨーロッパの気質の概念にはないと思います。ドイツに長くいた友人にドイツ語での「気質」の意味を聞いたら、ドイツ語で「気質」はTemperamentで辞書の中の意味は、1.気性、気質、性分 2.激しやすい気性、元気、活気だそうです。また、フランス語でも調べてくれました。フランス語で「気質」(temperament)は1.体質、2.気性、気質 3.官能的快楽に関する気質、肉体的欲望 4.(楽)平均律 5.(林)光や気候に関する樹木の反応6.(古)釣合い、平衡、[物体の]構成、緩和、妥協、中庸というような意味だそうです。でも、日本語では「天気」「人気」「地気」「神気」というように、人間以外の世界にも「気」という言葉を使います。若い女性達に人気のパワースポットは「霊気」が強い場所のことです。つまり、日本語における「気」の概念はスピリチャルな側面も持っているのです。ですから、パワースポットにも「気質の違い」があるのです。またその友人は古代ギリシアの医師「ガレノス」を調べてみたら、「プレウマ」という言葉が見つかり、たぶんこれが、西洋人にとっての「気」という言葉になるような感じがしました。参考までに・・・以下引用・・・Communicative Bodiesより古代・中世の西洋にはプネウマpneumaという概念がありました。プネウマは、「気息」とか「精氣」とか訳されます。このプネウマは、空気中に含まれる「活きた気体状物質」です。プネウマという概念はその意味するところや機能の解釈が時代時代で変化し、ラテン語では「スピリトゥス」 Spiritus、英語では 「スピリット」 Spirit (英語)、フランス語では「エスプリ」 Esprit と名を変えながらも共通した概念として残り続けました。 そんなところは、中国思想の「気」概念と重なります。とも書いてくれました。実は東洋の「気」の概念は、もともとこのプネウマと似たものなのです。ウィキペディアの「気」の項目には気はラテン語 spiritusやギリシア語 pneuma(プネウマ)、ヘブライ語 ruah(ルーアハ)、あるいはサンスクリット prana(プラーナ)と同じく、生命力や聖なるものとして捉えられた気息、つまり息の概念がかかわっている。と書いてあります。ということで、東洋人である私が扱っている「気質」はヨーロッパ的な概念の気質(Temperament)よりもスピリチャルな要素が強いのです。だから、シュタイナー教育における「気質」とは似ていますが、同じではありません。ヨーロッパ的な「気質」で扱っているのはあくまでも「現象」や「状態」であり、その現象や状態を分類して「○○質」と名前を付けています。でも、私が扱っている「気質」はその現象の背景にあるものであって、常に動的に変化しているものです。ヨーロッパの人は動的に変化しているものを静止させ、人間の意識を基準にして観測します。それは、野山に生えている草木を、実験室の中に持ち込んだり、スライスして顕微鏡で覗いて観察するようなものです。なぜなら、「意識」は動的に変化しているものをそのままの状態で扱うことが苦手だからです。それに対して、東洋の人は動的に動いているものは動的な状態のまま、「意識」ではなく「感覚」によって観測します。実験室に持ち込むのではなく、自分が現場に出かけていくのです。スライスなどせずにそのままの状態で観察します。だから、より事実に近い状態で「真実」を知ることが出来ます。でも、みんなつながった状態での感覚による体験なので、知的な分析や分類が出来ないのです。この辺の説明は難しいのですが、「西洋医学的な身体観」と、「東洋医学的な身体観」の違いのようなものです。西洋医学では「客観的なからだ」を扱いますが、東洋医学では「主観的なからだ」を扱います。また気質でも、西洋的には「これこれの特徴を備えているからこの人は○○質だ」と判断しますが、私の場合は「こういう気質の人だからこのような特徴が現れやすい」と考えます。因果関係の順序が逆なんです。そのためにはその人の「気の状態」を直接観察します。ですから一般的に「胆汁質の人は怒りっぽい」と言われますが、「怒りっぽい人が胆汁質だ」とは考えずに、「胆汁質の人は怒りっぽくなりやすい」と考えます。それはつまり、「怒りっぽくない胆汁質もある」ということを意味しています。それが私の気質に関する考え方です。しばらく「気質」について書きます。ただ、細かい説明ではなく抽象的な説明が多くなります。もう少し具体的に気質についてお知りになりたい方は私が書いた気質の冊子をお求め下さい。新旧2冊で800円、送料込みで1000円です。他のテーマでもいくつか出しています。詳しくはここをご覧になって下さい。
2011.02.17
閲覧総数 662
17

子どもは「物質が作り出す世界」の中に生まれ、大人との関わりを通して「感覚が作り出す世界」に目覚め、そして最後に「言葉が作り出す世界」を獲得します。「言葉が作り出す世界」は言葉の獲得と共に生まれます。「犬」いう言葉を覚えることで、「犬が存在する世界」を得ることが出来ます。「きれい」という言葉を覚えることで「“きれい”が存在する世界」を得ることが出来ます。逆に言うと言葉を獲得できないものは、その人が生きている世界には存在していないということでもあります。私たちは「お金」という言葉を知っています。ですから私たちの心の中の世界にも「お金」が存在しています。でも、「お金」という言葉(意味も含めて)を知らない子どもや部族の人は「お金」が存在していない世界に住んでいます。「空気」とか「無」とか「0(ゼロ)」などというようなものはその典型です。私たちが、「無い」という状態を認識することが出来るのは、その「無い」という状態を表す言葉を持っているからなのです。だから「0(ゼロ)」の発見は偉大なのです。ちなみに、ここで「言葉を知っている」ということは、当然の事ながら「意味や使い方も含めて知っている」という意味です。そして、その言葉の世界を使って、私たちは世界を認識しています。言葉を得ることでその言葉によって「自分の世界」が作られるのですが、今度はその「自分の世界」を基準にして世界を認識するようになるのです。ですから豊かな言葉を持っている子どもは、豊かな世界に住んでいますが、貧相な言葉しか持っていない子は貧相な世界に住んでいることになります。この両者が話し合っても話はかみ合いません。「言葉の違い」は、単に言葉が違うだけではなく、住んでいる世界から価値観まで全てが違うということを意味しているのです。だからこそ、「言葉の教育」は非常に重要なのです。でも、世間一般にこのことに対する認識がありません。そして子どもの言葉の教育はテレビなどのマスメディアや学校に任せてしまっています。でも、マスメディアを通して学ぶ言葉、学校で学ぶ言葉は「物質の世界」とも「感覚の世界」ともつながっていない、全く頭の中だけにしか存在していない言葉です。ですから、そのような言葉では、自分の感情や、感覚や、考えや、現実世界のことをリアルに語ることができないのです。ですから、あなたがもし自分のお子さんを「豊かな世界の住人」にしたければ、まず共に生活しながら、その時々で対話を繰り返す必要があります。お母さんはお料理を作り、子どもはテレビを見るか、勉強をしているというような、バラバラな生活では言葉を伝えることは出来ません。そんな時はお料理を手伝ってもらって下さい。それだけで、「切る」とか、「煮る」とか、「洗う」といったような言葉を「物質の世界」や「感覚の世界」とつなげて覚えることが出来ます。また、幼い時からいっぱいお話を聞かせてあげて下さい。その時には意味が分からなくても、ヘレンケラーが「手に感じる水」と「ウォーター」という言葉をつなげることが出来たように、その時が来たら分かるようになるのです。まだ幼くて、「勇気」という言葉の意味が分からなくても、その言葉を知っていれば、やがて分かる時が来るのです。言葉は体験の後からではなく、体験の前に出会っておく必要があるのです。そうでないと出会えないのです。意味は分からなくても言葉を知っているからこそ出会いがあるのです。でも、子どもたちは10才頃から、今度は「物質の世界」とも「感覚の世界」ともつながらない言葉を学び始めます。それが「抽象的な言葉」です。「国家」とか、「国境」とか、「経済」というようなものもそうです。そのような言葉が表すものに実体はありません。だから「国家ってなあに」と聞かれても言葉でしか説明できません。それに対して「石ってなあに?」と聞かれれば、石を見せることが出来ます。「温かいってどういうこと?」と聞かれれば、温かいものに触れさせることも出来ます。でも、「国家とは何か」ということは言葉でしか説明出来ないのです。(実は言葉というものは本来的に全て抽象なのですが、話がややこしくなるのでそれには触れません。)「物質の世界」とつながった言葉、「感覚の世界とつながった言葉」は10才前にもう学んでいます。でも、そういうものとつながらない言葉を学ぶことが出来るようになるのは10才頃からなのです。(意味がちゃんと分かるようになるのは、という意味です。)そして、この抽象的な言葉を学ぶことで「言葉が作り出す世界」の創世は終わります。ですから、大人になると人間は「物質が作り出す世界」と、「感覚が作り出す世界」と、「言葉が作り出す世界」の三つの世界にまたがって色々考え、行動し、生きることになります。でも、ここにも気質による偏りが存在しているのです。
2011.12.01
閲覧総数 57
18

昨日は、これからの人類はピラミッド型社会をやめて、つながりと循環によって支えられた社会を目指すべきなのだろうと思います。と書きました。「これからの人類は」などというと、非常に大きな話で私たち一人一人の生き方とは無関係に感じますが、そうではありません。ピラミッド型社会は「量」を基準にして作られています。その中でも一番強力な基準となっている「量」が「お金」です。その下に、「権力」や「学歴」や「成績」や「知名度」といった「量」が続きます。どの量が一番強い基準として採用されるかは、場によって異なります。学校では「成績」が基準として用いられ、会社では「役職」や「肩書き」が基準として用いられ、テレビ業界では「知名度」が基準として用いられています。そして、国民の豊かさを計る時には「収入金額」が、健康度合いを測る時には「平均寿命」などが用いられています。そして、それらの量の分布は「データ」として記録され、ピラミッド上位の人達が下位の人達のことを知り、管理するために使われています。そのことがまたピラミッドの中にいる人達の意識に影響を与え、ピラミッド構造を維持、強化する働きをしています。成績がよい子や、高収入の人がそうでない人達よりも学校や社会で優遇されていれば、そういうものにあこがれるのは当然の反応です。女性が男性を選ぶ時に「三高」と呼ばれる「高学歴」「高収入」「高身長」を基準にしているのもその現れです。でも、それらは「結婚の条件」にはなり得ても、「よい夫婦関係を築く条件」にはなりません。だから、その条件だけで相手を選ぶと後で後悔することになります。また、「分相応」かどうかも重要な問題です。こちらが基準の高い相手を求めれば、相手も高い基準を求めるので、「分相応」を忘れてしまうと結婚することが出来なくなります。人の幸せは必ずしも収入の高低とは関係していません。収入の高さよりもむしろ、人間関係を作る能力の方が幸せに生きるためには必要なのが現実です。でも、人間関係を作る能力は社会的な基準としては認知されていません。それは「質」に属するものなので、数量化できないからです。その人の人生が幸せなものだったかどうかは、寿命には現れません。若くして死んでしまった人より、90才まで生き延びた人の方が幸せだとは限らないのです。そこで大切なのは「何歳まで生きたのか」ではなく「どのように生きたのか」ということです。でも、この「どのように生きたのか」ということも数量化できないためその価値はピラミッド型社会では無視されます。有名なタレントが自殺してしまうことは珍しくありません。そのような人達はタレント業界ではピラミッドの上位に位置する「勝ち組」です。でも、「幸せ」を手に入れたわけではないということです。人の幸せは「量」として計ることが出来ません。「幸せ」は「質」に属するものだからです。社会的地位や収入によって「幸せ度」を表そうとするのはごまかしです。確かに、お金がないと生活が苦しくなります。生活が苦しくなれば余裕がなくなります。余裕がなくなればイライラします。だから、お金がないと幸せになることが出来ないように思います。必要以下の収入の状態でも幸せに生きることは可能ですが、でも、必要な程度の収入があった方がストレスは減ります。だからといって、必要以上の収入を求めてしまうと、それがまたストレスの原因になってしまうのです。物事にはその人の生き方に合った「ちょうどよい」という状態があるのです。それを越えて求めるのは「欲」や「不安」に支配されてしまっているということです。人類が今その状態です。「欲」や「不安」に支配されると、上限が消えてしまうのです。そして満たされることがなくなります。「質」は数量化できません。「質」はそのままの状態で感じるしかないのです。「りんごの味」も、「幸せ」もそのまま感じるしかないのです。それらを数量化してしまったら「質」は消えてしまうのです。よくテレビなどでは、「おいしさ」をその成分によって素量化して見せてくれますが、でも、実際に食べないことには「味」は分からないのです。そして私たちの生命にとって重要なのは数値化されたデータではなく、「味」そのものです。そして、生命が求めているものも「質」であって「量」ではありません。生命は多様性によって支えられていますが、それは「質」が異なる存在が支え合っている状態です。多様性を支えているのは「質」なのです。そして、「量」ではなく「質」を基準とする時、ピラミッド型から循環型に変化するのです。そしてそれは、「どれだけ財産を築いたか」「どれだけ有名になったのか」「何歳まで生きたのか」ということではなく、「どのように生きたのか」ということを大切にする社会でもあります。また、成長とは「量の変化」ではなく「質の変化」です。そしてその変化は不可逆的です。量の変化は元に戻ることもありますが、質の変化は元には戻らないのです。お料理に一度塩を入れてしまったら、塩を入れる前の状態には戻すことが出来ないと同じです。人生もまた同じです。文字を学んだり、「1+1=2」を知ることで子どもは後戻りすることが出来ない「質の変化」を起こすのです。そして前の「質」の状態の時のことを忘れます。そのことが分かっていないと、子どもの成長を支えることが出来ません。子どもは3才、5才、7才と質が変わっていくのです。その変化は数量化することが出来ません。目で見ることも出来ません。でも、感じることは出来ます。大人と子どもは「質」が違うのです。だからどっちの方が優れていて、どっちの方が劣っているなどということはありません。リンゴとミカンの優劣を比較しても無意味なのと同じです。その事実を認める時、お互いに謙虚になることが出来るのです。子どもたちは大人達が失ってしまった「質」を持っています。大人達は子どもたちがまだ持っていない「質」を持っています。だから子どもは大人から学び、大人は子どもから学ぶ必要があるのです。
2011.10.27
閲覧総数 96
19

昨日告知した「子育てワーク」についてのお知らせを、最後に載せてあります。また、昨日新宿で、かめおかさん企画の「出版記念ミニ講演会」が無事終わりました。少人数だったのと、知り合いが多かったので雑談的に色々話が飛んでしまいましたが、その時の録音がダウンロード可能です。かめおかさんの「このサイト」をご覧になって下さい。*****************************あおさんから昨日自分の書いたものを見て思った …嘘だな。 もうただ単に疲れるんですよ 育児って。 外に出て一緒に走りまわって、ボールけって。 公園で一緒にアスレチックやって 一緒に虫を見て、海でカニとか捕まえて。 水で遊んで風船割って。もう、ヘトヘトなんだ。私…楽しめないんです。私が虫を好きなわけじゃない。粘土や絵は好きだから付き合えるけど… ザリガニがいたら捕まえたいけど… 毎日毎日何をすればいいのかって。 飽きませんか? 私は飽きる。カニなんか別にほしくない!捕まえて飼うとか無理!…とは言えないから結局飼ってるし。カニ触りたくないわ。私は…。暗くなるまで遊んだ後はご飯!お風呂!絵本! しんどいです。家の中は散らかってる。 だからテレビに逃げる日がある。 もうね、本気でずっとテレビのが気楽です 息子はかわいい。世界一かわいい。 けどやっぱりヘトヘトなんです。というメッセージを頂きました。あおさんのように「頭の中の理想」や、「想い」や、「社会的常識」と、「自分の現実」が一致せず苦しんでいる人はいっぱいいます。その原因は様々です。また、「分かっているけど出来ない」という人と、「最初からやる気がない人」とは原因が全く異なります。私の勘ですが、「分かっているけど出来ない」という人のからだの中には「自分と他者に向けられた怒りの塊」があるのだと思います。時として、「怒り」は行動のためのエネルギー源になります。でも、その怒りが自分自身にも向けられているとき、それは行動を妨げるブレーキになります。そのような人は、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような生き方をしているのでしょう。だから疲れるのです。「最初からやる気のない人」の場合は、「怒り」よりも、「寂しさ」や「孤独」の感情が強いのだと思います。「寂しさ」や「孤独」は人を孤立させます。そして、孤立している人は「自分の世界」を閉ざし、全てに対して受け身的になります。後者の状態の人の心を開くのは非常に困難です。でも、前者の人の場合は、「自分の中の怒り」に気付き、そこから「何か」を学ぶことで、怒りのコントロールが出来るようになります。すると動くことが出来るようになります。「何も出来ない」という状態と、「何もしない」という状態とでは、結果だけ見れば同じなのですが、その原因も解決法も全く異なるのです。「分かっているけど何も出来ない」場合には、頑張ろうとしてアクセルをふかしても、それと同時にブレーキも働き出してしまうので、頑張っても無駄なんです。そんな時は、その「出来ない自分」を肯定してあげることです。「自分の現実」の方を大切にして、無理をしないことです。無理をしても無駄です。じゃあ、子どもはどうでもいいのか・・・というとそういうことではありません。まず、一人で全てを背負おうとすることを止めた方がいいでしょう。そういう状態の人は全てを一人で背負おうとする傾向があるのです。でもだから、何も背負えないのです。(「最初からやる気のない人」の場合は、何にも背負いたくありません。)人は自分が背負える分だけ背負えばいいのです。自分で背負えない分は他の人に背負ってもらえばいいのです。それが「遊び」であれば、遊びが大好きなお母さんや、少し年齢の大きなお兄ちゃんやお姉ちゃんや、お父さんに任せてしまえばいいのです。世の中には、子どもと遊ぶのが大好きなお母さんもいっぱいいるのです。でも、そのためにはお母さんの仲間作りが必要になります。実は、子育ての苦しみの多くは、助け合い、支え合うことが出来るような仲間がいれば消えてしまうのです。でも今、そのようなつながりを作ることが苦手な人が非常に増えています。そのような人は、そのようなことが得意な人を探して、まずその人とつながりを持つことです。そうすれば、少しずつ変化が始まります。また、最近はシングルマザーがいっぱいいます。そのような人は、「自分は母親の役も、父親の役もやらなければならない」と言います。でも、それは止めた方がいいです。お母さんがどんな気持ちを持っていようと、子どもから見たらお母さんは「お母さん」なんです。「お父さん」の役を一生懸命にやっていても、「お父さん」には見えないのです。そして子どもは、お母さんには、「お母さん」から与えてもらえるものしか求めないのです。それがいわゆる「母性」というものです。それは「安心」であり、「温かさ」です。でも、お母さんが一人で「母性」と「父性」の両方を与えようとすると、子どもは何にも得ることが出来なくなってしまうのです。じゃあ、「父性」と言われるような、厳しさや社会性はどのように与えたらいいのかというと、子どもを集めて色々と活動しているような場や人に任せてしまえばいいのです。そして、自分は「お母さん」でいることです。そうすると子どもは安心するのです。今日書いたことは、あおさんのコメントから始まりましたが、一般的な話としてということであって、あおさんに対してということではありません。ご了承下さい。*******************<子育てワーク in 茅ヶ崎>子育てに関しては、一般的には「講演会」という形で扱われることが多いですが、子育ては「理論」ではなく「実技」ですから、いくら話を聞いて、感動して、納得しても、それだけで子育てが変わるわけではありません。例えば、講演会などで有名な登山家から「山登りの方法」を聞いても、それだけで実際に山に登れるようになるわけではありません。これは当たり前のことです。実際に山に行ってトレーニングを積まない限り、どんなに知識を蓄えても、山に登ることはできないのです。そうですよね。講演会で「子どもにはお母さんの笑顔が必要なんです」と言われて納得しても、実際に子どもの前で素敵な笑顔を見せることが出来るかどうかは別の問題です。むしろ、理想的な話を聞けば聞くほど自分の現実とのギャップの苦しむことになります。ワークショップでは、参加者の子育ての場で実際に起きていることを話してもらい、色々な視点から話し合ったり、その状況を再現してみたりします。そのことで、現実に即した気付きを得ることが出来るのです。日 時: 7月15日(月)「海の日」 10:00~15:00会場は茅ヶ崎市民文化会館「練習室4・5」(和室)です。参加費 3000円、定員 20名です。 ・申し訳ありませんが保育はありません。 ・動きやすい服装でおいで下さい。
2013.06.08
閲覧総数 121
20

その人が使っている言葉にはその人の人生が含まれています。「その人が何を見、何を体験し、何を学んで来たのか」ということがその人の言葉を作っているからです。そしてこれは子どもでも同じです。「歩くこと」や「スマホの使い方」のような「目で見ることが出来るもの」は、特別教えなくても子どもは自分で見て勝手に覚えます。「遊び方」も見ているだけで学びます。でも、「言葉」はそういう訳にはいかないのです。「言葉」は周囲の人が話しているのを聞いているだけでは学ぶことが出来ないのです。実際、何年も外国に暮らしていても、生活に必要な言葉しか覚えません。私はスペインに半年いました。当然のことながら周囲のスペイン人たちはみんなスペイン語を話していました。じゃあ、そのような環境で暮らすことで私のスペイン語が上達したかと言えば、やはり「必要な言葉」は覚えましたが「必要ではない言葉」は全く覚えませんでした。これは子どもも同じで、自分にとっての必要が存在していなければ、子どもは周囲の大人が話している言葉を学ぶことは出来ないのです。一日中テレビを見ていても、それだけでは子どもは言葉を覚えることが出来ないのです。音楽のように「音」として覚えることは出来ます。でもそれは「オウムの言葉」と同じで、「人間の言葉」ではありません。なぜなら、言葉は「器」に過ぎないからです。中味を入れるために「言葉という器」の必要性が生まれるのです。「熱い」という感覚体験を入れるために「熱い」という言葉を覚えるのです。ですから、他の人が「熱い」と言っているのを聞いても、それだけではその中味が分からないので「熱い」を「自分の言葉」として学ぶことが出来ないのです。ただし「音」として覚えることは出来ます。毎日テレビを見ている子は「音としての言葉」は覚えます。難しい言葉も覚えます。そして大人は、そのような子に「言葉が達者だね」と言ったりします。でも、自分自身の体験につながっていない言葉は「空っぽの言葉」です。そして、その「空っぽの言葉」では心が育たないのです。思考力も、理解力も、共感力も、コミュニケーション能力も育ちません。だから「空っぽの言葉」しか持っていない子は、自分の行動を自分の意思でコントロールできないのです。ゲームをやって覚えた言葉も同じ「空っぽの言葉」です。ゲームの中ではいっぱい色々な言葉が使われていますが、それらの言葉はゲームの世界の中でしか通用しない言葉です。ゲームとやりとりするための言葉なので、その言葉を使ってゲームを知らない人と会話することは出来ないのです。「空っぽの言葉」しか持っていない子は、自分の感覚で判断し、自分の頭で考える能力が育たないのですから、何が正しくて、何が正しくないのかを判断できません。大人の指示や命令がないと「何をしたらいいのか」「何をしてはいけないのか」が分からないのです。だから、困ったことをしないように厳しく仕付けなければならなくなってしまうのです。でも、自分自身の体験を通して言葉を学ぶことが出来ている子は、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来ます。また、周囲の人とのつながり方も知っています。なぜなら、「つながり」を通してしか言葉を学ぶことが出来ないからです。「言葉」は誰かに伝えてもらわない限り、自分一人で発見することは不可能なんです。だから、言葉が育っている子は、大きな声や怖い顔で子どもを脅かして厳しく仕付けなくても、そんなに困ったことはしないのです。私は、それが本当の意味での「人間の仕付け」なのではないかと思っています。じゃあ、具体的にどうしたらいいのかということですが、別に難しいことをする必要はありません。毎日の生活の中で「共に」ということを大切にすればいいだけのことです。お料理作りやお掃除を一緒にするだけでも、いっぱい言葉を覚えることが出来ます。「その隅の方をちゃんと掃いてね」と言えば「隅」という言葉を感覚的に理解し、覚えることが出来ます。でも、テレビとゲームと勉強しかしていない子に「隅」という言葉を伝えるのは困難です。片付けもお母さんと一緒にやることで、お母さんの言う「ちゃんと」という言葉の意味が分かります。「ちゃんと」の中味が分からない子に「ちゃんと片付けなさい」と言っても無理なんです。「お鍋、熱いから気をつけてね」と言えば、「熱い」という言葉に中味が入ります。お散歩の時にも、「タンポポさんが咲いているね」と話しかければ「タンポポ」という言葉を、「タンポポ」が咲いている状況とセットにして覚えることが出来ます。その「タンポポ」は図鑑で覚えた「タンポポ」と同じではありません。「お空の雲が動いているね」と空を見上げて話しかければ、子どもは「雲」とか「動く」という言葉に中味を入れることが出来ます。それは、テレビや、図鑑で覚えた「雲」と同じではありません。
2019.12.30
閲覧総数 779
21

昨日、コロナウィルスの蔓延を防ぐために隔離状態になっているクルーズ船に乗り込んで、そのあまりにもずさんな実体を告発した岩田教授が、テレビのインタビューに答えているのを見ました。そこで強調されていたのが「チームワークが取れていない」ということでした。確かに、何人も専門家は乗り込んでいるのですが、ただみんな、その場に行って個人的に頑張っているだけで、専門家としての知識や技術が、現場での活動全体には反映されていないというのです。本来、このような状態の時には、現場の責任者は何よりも専門家の意見を聞いて、それに従って全体に指示を出していく以外にないと思うのですが、どうもここの責任者は、専門家の言うことを聴くことなく、素人が、素人判断だけで指示を出しているようなのです。そして、専門家を頭脳として活用するのではなく、単なる労働者として扱っているようです。当然、私はその現場を見たわけではありませんから、岩田教授の言っていることが本当かどうかは分かりませんが、でも、多分本当だろうと思います。なぜなら、それが「日本の当たり前」だからです。近代的な意味での学校は、校長や、管理職や、普通の教員や、さらには生徒や父兄までも含めて、みんなで話し合い、チームとして、みんなで「子どもの教育」を考えなければいけない場のはずなのに、実際には教員はただの労働者として使われているだけです。子どもの意見も、親の意見も無力です。先生の意見も校長には無力です。さらには、校長ですら一労働者としての責任しか負っていません。自分の役割に従って、管理し、指示を出す仕事はしていても、全体をつなげ、まとめるという「リーダーとしての仕事」をしている校長は少ないような気がするのです。先生も同じです。「教える」とか「子どもを管理する」という仕事はちゃんとしていても、クラス全体をつなげ、まとめるという「リーダーとしての仕事」をしている先生は少ないような気がするのです。そのような先生は子どもや親の意見を肯定的に聞きません。そのため、子どもも親も「言っても無駄だ」と諦めています。このような教育ではいくら英語を教えても、国際社会で活躍できる人材は育たないと思います。いくら英語の発音が綺麗でも、自分の意見をちゃんと言うことが出来ないような人は、国際社会では役に立たないのです。ですから、本当に国際社会で活躍できる人材を育てたいのなら、英語を教えるよりも先に「自分の意見を言う能力」を育てる教育をすべきなんです。今時、英語は翻訳機があれば何とかなってしまうのですから。でもそのためには先生や、校長が、ちゃんとリーダーとしての役割を果たす必要があります。そうでないと、意見を言わせるだけではバラバラになってしまうからです。そしてそのためには政治家もまたリーダーとしての自覚を持つ必要があります。でも、日本の政治家にはこの自覚が全くないようです。官僚や役人が「あうん」の呼吸で動いてくれるので、わざわざみんなをつなげ、まとめる必要がないのでしょう。今時の家族では、「お父さんはお金を稼いできて、お母さんは子どもの世話と家事をして、子どもは大人の言うことに従いお勉強をして」というように、自分の役割をちゃんとこなしていれば、家族同士のつながりがなくても何の問題も感じません。日本の社会は、話し合ったり、議論したり、コミュニケーションを取り合わなくても、自分の役割に従って、自分のやるべき事だけをやっていれば、後は「あうん」の呼吸で何とかなるように出来ているのです。だから、みんなをつなげまとめるための特別な立場のリーダーは必要がないのです。でも、このやり方では、危機に対応できないのです。変革も、進歩も出来ません。子どもの遊びでは、リーダーがいなくても鬼ごっこは出来ます。縄跳びも出来ます。ごっこ遊びも出来ます。でも、リーダーがいないと「基地作り」の様な活動が出来ないのです。一つの目的に向けて、みんなで助け合うということが出来ないのです。平面的な活動は出来ても、しっかりとした構造が必要な立体的な活動が出来ないのです。子育ての場でも、お母さんはリーダーシップを発揮することなく、子どもに合わせようとばかりしています。その結果子どもがリーダーとしてお母さんに命令するようになります。それでも、一人目の時は何とかなるのですが、二人目が産まれるとどうしようも出来なくなってしまうのです。その時点で、「どうしたらいいんでしょうか?」と聞かれても、もうすでに「子どもがリーダー」という親子関係が出来てしまっているとそれを変えるのはなかなか難しいのです。だから、「お母さんがリーダーになって下さい」と言っているのですが、「分かりません」「出来ません」という返事ばかりが返ってきます。なぜなら、リーダーには「哲学」が必要なんですが、今の日本にはその「哲学」を持っている人が少ないからです。親も先生も「よい子」を育てることばかりに熱心で、「哲学を育てる」という意識を持っている人は滅多にいません。その「哲学」は「なんで?」「どうして?」を大切にするところから生まれます。
2020.02.21
閲覧総数 1060
22

昨日は「感覚の働き」の大切さを書きましたが、その「感覚の働き」にも2種類あります。「受動的感覚」と「能動的感覚」の2種類です。「受動的感覚」の方は肉体に備わっている感覚器官によるもので、特に障害がない限り誰でも持っています。赤ちゃんでもお母さんの顔を見て、声を聞いて、ぬくもりや触れられていることを感じることが出来ます。味や匂いも感じることが出来ます。そういう感覚能力が働いていないと、自然界では生きて行くことが出来ないからです。でも、これらの「受動的感覚」は無自覚的なものです。道を歩いている時でも、私たちは色々なものを見、色々な音を聞き、色々なものを感じています。だから事故に遭わずに歩くことが出来るわけですが、だからといって、自分が見ていたもの、聞いていたもの、感じていたものをいちいち自覚はしていませんよね。特に、自分にとって必要がないものは見えていても見えず、聞こえていても聞こえません。でも、立ち止まって「鳥の声」や「風の音」に耳を澄ましてみると、それらが聞こえて来ます。私たちの周りには、「聞こうと意識することで始めて聞こえてくる音」がいっぱいあるのです。また、ただ歩いている時には「雲」は見えていても見えていませんが、「雲」を見ようとすると雲が見えてきます。無意識の世界にあったものが意識化されるのです。「何かの動物に似ているかな」という意識で見ようとすると、「何かの動物」に見えてきたりもします。この世界には、「見ようとしなければ見えないもの」もいっぱいあるのです。そして、人間が持っている全ての感覚について同じことが言えます。これが、私が言っているところの「能動的感覚」です。そして、この「能動的な感覚の育ち」が「人間らしさの育ち」と密接につながっているのです。なぜなら「能動的感覚」が働かないことには「真・善・美」につながる世界が見えないし、聞こえないからです。「真・善・美」につながる世界は、見ようとしなければ、聞こうとしなければ、感じようとしなければ見ることも、聞くことも、感じることも出来ないのです。「真・善・美」と言われても抽象的で分かりにくいかも知れませんが、例えば棒などの真ん中を感じる感覚も同じです。真ん中に印でもついていれば受動的な感覚でも見ることが出来るのですが、そうでなければ能動的な感覚を働かせないことには「真ん中」が分からないのです。フリーハンドで真っ直ぐな線や○を描く時も同じです。感覚を能動的に働かせないことにはこういう活動は出来ないのです。そして今、そういう活動が苦手な子どもたちが増えて来ています。簡単で便利な生活やオモチャは、感覚を能動的に働かせる必要を求めないからです。そういう状態の子に、棒を見せて「真ん中ってどこだと思う?」と聞いても、当てずっぽうな答えしか返ってきません。「真ん中」の意味を頭では分かっていたとしても、印がない状態の棒の「真ん中」を知るためには能動的に感覚的を働かせる必要があるからです。音の高低の比較、重さの比較、触覚の比較などでも同じです。コーヒーの空き缶などを並べて底を叩くといい音がします。それで楽器を作ろうと子どもたちに「音の低い順から並べてみて」と指示を出しても、その違いが全く分からない子がいっぱいいます。受動的な感覚で音自体は聞くことが出来ても、高低の比較は能動的な感覚を働かせないことには出来ないからです。ピアノを習っている子でも出来ない子は出来ません。「音の高低を感じ取る能力」は「ピアノを楽譜通りに弾く能力」とは別のものだからです。微妙な重さの比較や触覚の比較も苦手です。でも、このような「能動的な感覚」が育っていないと、「自分の行動の意識化」が出来ません。自分が言ったりやったりしていることを自覚化出来ないのですから。その結果「セルフコントロール能力」が育たなくなります。子どもの育ちにおけるこの「能動的な感覚の育ち」の重要性に気付いたのがモンテッソーリ教育を始めたM.モンテッソーリと、シュタイナー教育を始めたR.シュタイナーです。能動的な感覚が育つことで、子どもは指示や命令に依存しなくても、自分の意思で動くことが出来るようになるのです。道徳教育は全く無意味です。*************ZOOMでの気質の講座の金曜と土曜のクラスは定員になってしまったので、今期の募集は終了します。また7月以降に新しい講座を企画します。3月27日(土)の茅ヶ崎での1日講座(10:00~16:00、6000円)はまだ空きがあります。ご興味のある方は<こちら>までお問い合わせ下さい)茅ヶ崎で毎月やっている講座も募集中です。それと、手作り冊子全種類4冊ずつ注文して下さった方、連絡下さい。メールがどっかに行ってしまって誰から注文を受けたのか分からなくなってしまいました。申し訳ありません。
2021.03.15
閲覧総数 950
23

人は、歩かなくてもよくなれば、歩かなくなります。その結果、歩く能力が萎えたり、育たなくなったりします。人間の様々な能力は、必要に応じて目覚め、育ち、維持されるように出来ているのですから、その「必要」が消えれば、その能力を維持することも、育てることも出来なくなるのは当然の結果です。ですから、考えなくてもよくなれば、考えなくなります。そして、「考える能力」が萎えたり、育たなくなったりします。感じる必要がなくなれば、感じようとしなくなります。そして、「感じる能力」が萎えたり、育たなくなったりします。また人は自分自身が直接見たり、聞いたり、体験したことがないことを学ぶことは出来ません。ここで大切なことは、直接見るとか、直接聞くとか、直接体験するということです。テレビやyoutubeではダメなんです。テレビやスマホ越しでは感覚が反応出来ないからです。テレビに映っている人がナイフを持っていても怖くないですよね。でも、側にいる知らない人がナイフを持っていたら怖いですよね。動画を見て理解出来る子は、自分自身でも様々な体験をしている子です。何にも体験していない子に動画を見せても理解出来ないのです。実際、普段はゲームばかりしていて「ノコギリを使っているところ」を動画で見ただけの子に、ノコギリを渡しても全く使えません。やって見せても自分の何が悪いのか理解出来ません。でも、いつも木登りなどをしてからだを使って遊んでいる子は、ノコギリは初めてでも、すぐに使い方を自分で発見して、使えるようになります。動画を見ても理解出来ます。いつもからだを使って遊んでいる子は、「からだと脳の間のフィードバック機能」が育っているので、動画で見ただけでも、その視覚情報を自分の体験とつなげて解釈し、自分のからだで再現することが出来るからです。でも、その元となる「自分自身の体験」がない子にいくら動画を見せても無駄なんです。テレビなどで言葉を話している人を見ても、直接自分に話しかけられた体験がない子は、言葉を「人と人をつなぐもの」として使うことが出来なくなります。それはZoomやテレビ電話でも同じです。下半身はパジャマで、上半身はスーツでZoom会議に出ることが出来るのは、脳がちゃんと状況を理解しているからです。Zoomは「半リアル」であって、リアルそのものではありません。VRのような没入型の体験で感じるリアルは、脳が虚像とリアルを錯覚してしまうからなのですが、リアルな体験が乏しい子どもたちがそれを繰り返していると、次第にリアルの世界の方からリアル感が消えて行ってしまうのです。「VRの中の人間」がリアルになっていくのではなく、「現実の世界に生きている人間」の方がリアルを失って行くのです。でも人は、自分が失ってしまったものに気付きません。育ち損ねた能力がなんだったのかなど知るよしもありません。自分の子がどんな能力を失ってしまっているのか、ほとんどの親は知りません。である時、「え! うちの子はこんなことも出来ないの、こんなことも知らないの」と唖然とするのです。でも、そのことに気付くようになってからその能力を取り戻すのは非常に困難です。早い時期から、その「自分が失ってしまったもの」「育て損なってしまったもの」に気付き、それを取り戻すためには、そのような能力を必要とする活動に取り組んでみるしかないのです。子どもたちを自然や森の中に連れて行ってみて下さい。自由な時間、自由な空間を与えてみて下さい。もしお子さんがそういう場で、「退屈だー」「つまんない」「ゲームがやりたい」「ボールはないの」などと言って何も動き出さないようなら、何が育っていないのかをよく考えてみて下さい。それは「遊び能力の欠如」だけの問題ではなく、「学習能力の欠如」の問題でもあるのです。多くのお母さんにとってはショックかも知れませんが、学習能力が高い子は、あまり「たいくつだー」などと言わないものなのです。これは大人でも同じです。
2021.08.03
閲覧総数 1013
24

昨日は「〝ゆるめる〟とは気持ちがいい状態にすること」ということを書きました。3週間前ぐらいには「〝ゆるめる〟ということは力を抜くことではなくつなげること」ということを書きました。そして、しつこいですが、今日もまた〝ゆるめる〟ということについて書きます。なんで、こんな風に同じテーマで何回も書くのかというと、一つの物事には多様な側面があるからです。さらに、どんなに言葉を尽くして説明しても「一面」しか語ることが出来ません。「言葉」では全体を語ることが出来ないのです。それが「言葉」の限界です。「全体」は様々な「一面」を受け取った人が、自分の頭や心やからだの中で合成するしかないのです。で、今日書きたいのは〝ゆるめる〟の別の側面です。それは「〝ゆるめる〟とは自由に動ける状態にすること」ということです。「力」を入れれば当然のことながら「力」は出ます。ですから、重いものを持ち上げたり押したりするときには「力」を入れる必要があります。強い力を出すためには強い筋肉が必要です。だから、力と力がぶつかり合うようなスポーツとしての格闘技では、筋トレなどをして筋肉を付けます。そうしないと戦えないからです。そして観客は、力と力のぶつかり合いを見て楽しみます。スピードも必要ですが、「力を出す筋肉」と「スピードを出す筋肉」は別の筋肉です。ですから「力を出す筋肉」を付けすぎると、スピードが落ちたりします。この「強い力を出すためには強い筋肉が必要だ」というのは分かりやすいですよね。でも、日本の武術などでは「筋トレなんか必要がない」と言われています。時代劇なんか見ていても筋トレをやっているシーンは一切出てきませんよね。ストレッチもやりません。時代劇で「これから戦いだからストレッチをしよう」などというシーンはあり得ないのです。なぜなら、スポーツでの「からだの使い方」と武術での「からだの使い方」は全く異なっているからです。スポーツでは腕にかかる負荷は腕で受け止め腕で処理します。だから腕の筋肉が必要になるのです。そしてこれが現代の普通の人のからだの使い方でもあります。でも、武術などでは腕にかかる負荷を、からだの構造を変えて腕ではなく腹や足で受けたりするのです。すると、力を入れている時には筋肉が固まっているので自由には動かせなかった腕が、力を入れる必要がなくなって自由に動かせるようになるのです。それが「緩める」という状態でもあります。「え!そんなこと出来るわけないじゃん」などと思うかも知れませんがそれが出来てしまうのが「からだの不思議」なんです。ただし、緩めるためには力を抜くだけでなくからだの構造を変える必要があります。筋肉ではなく骨格を使うのです。だから「姿勢」が重要になるのです。筋肉ではなく姿勢で力を処理するのです。ただし、この方法は「受け」には使えますが「攻撃」には使えません。これは日本の武術の特徴でもあります。武術の技は攻撃してくる相手には使えるのですが、攻撃してこない相手には使えないのです。ですから、武術は基本的に「自分の身を守るための技」です。そこで大切になるのは「どう逃げるか」「どう避けるか」ではなく「どう受けるのか」ということです。システマでも似たようなことを言われました。でも、西洋で生まれたスポーツでは「受け」よりも「攻撃」の方が重視されます。相手が攻撃してくるのを待っているだけだったら指導を受けてしまいます。お互いに相手の攻撃を待っていたら何も始まりません。だから合気道なんかでは攻撃役と受け手を分けて練習しているのです。
2026.05.06
閲覧総数 89
25

昨日も書いたことですが、非常に強く伝えたいことなので今日も繰り返します。「成功体験が大切だ」と言われますが、本当は「成功体験」が人を育てるのではなく、「失敗体験」が人を育てるのです。人は、「失敗」によって挫折するのではなく、「失敗」を否定されることで挫折するのです。今の子ども達は失敗することを非常に嫌がります。「失敗するぐらいなら最初から取り組まない」という子もいっぱいいます。小さいときから「失敗」を否定され続けてきたからなのでしょう。そして、私の目から見たら大したことがないようなことでも「失敗したから止める」と言います。「うまく出来ないのならやる意味がない」と思っているようです。そのため、組み立てるだけで「素敵なもの」が出来上がるようなものなら取り組みます。その場合、難しい部分はみんなキット化されているので、マニュアル通りに組み立てれば、誰でもみんな失敗することなく、高度で素敵な作品を作ることが出来ます。それが今の学校でやっている工作です。でも、それは正確に言うと「作った」のではなく「組み立てただけ」です。ですからそこに「個性」はありません。失敗を肯定されるような場でなければ、「個性」を出すことは出来ないのです。それは、ロボットでも、また誰にでも出来る単純作業です。仕事で言えば、アルバイトの子が任される程度の仕事です。そんな単純なことで、すごい作品が出来てしまうので、子ども達は自分の本当の能力を勘違いしてしまっています。ハサミも、トンカチも、ノコギリも満足に使えないのに、「自分は何でも作れる」と思い込んでいる子も少なくありません。うちの教室に来はじめた子の中には、「ロボットが作りたい」、「コンピュータやゲーム機が作りたい」、「ラジコン飛行機が作りたい」などと平気で言う子がいます。実際、高い材料費を取って、そのようなものを作らせてくれる教室もあります。電子部品などがレゴのようなキットになっていて、それを組み合わせ、組み立てるだけでロボットが出来てしまうのです。大人達は、それを「成功体験」と思い込んでいるのでしょう。お絵描きでも、多くの幼稚園がマニュアル的な方法で絵を描かせています。ですから、どの子でもあまり失敗せずに、それなりに「素敵な絵」を描かせることが出来ます。でも、そこに子どもの個性はありません。そんなもの「絵」でもないし、子どもは絵を描く度に、「自分」が否定されていることを感じるばかりです。でも、うちでやっているのはそういうものではなく、昔の子ども達のように、自分の頭で考え、自分の手や感覚を使い、素材のレベルから作ることです。ですから、そういう体験のない子は最初は面食らうようです。作り方を教えてもらい、キットのようなものを組み立てるだけだと思い込んでいたのに、まず、「何が作りたい?」「どうしたらいいと思う?」と聞かれ、さらにハサミやノコギリを使って、自分で材料を切らなければならないと聞いて鳩が豆鉄砲を食らったような顔をします。椅子を作るというので材木を出して「ここを切って」と言うと、「え、ぼくが切るの?」と真顔で言います。昔は、そんな指示を出す必要もなかったのですが、最近の子はどこで切ったらいいのかを自分で考えることが出来ないので、線を引いてあげます。また、本物のようなゲーム機を作れると思っている子に、「じゃあ、この空き箱で作ろう」「絵は自分で描くんだよ」というと、「そんなのならいらない」などと言ったりします。うちに来る子は、それなりにみんな「ぼくは作るのが好き」と言って入ってくるのですが、でも、殆どの子が「作るってどういうことなのか」ということを知らないのです。そして、「思い込み」と「現実」のギャップが大きい子ほど、失敗を嫌がり、ちゃんと出来ないようなものには手を出しません。そのため、いつまで経っても上手になりません。失敗を繰り返さないことには上手になるわけがないのですが、失敗するのが嫌なので、いつまでも何も出来ないままなのです。そのくせ、口では「やれば出来るんだけどやらない」と言い訳をします。現代社会はどんどん、簡単便利になっています。そのため、現代人の能力は本質的なところではどんどん低下してきているのに、逆に自分の能力を誇大妄想的に過大評価してしまっています。その現実を思い知らされるのが「子育て」という現場なんです。子育ては「100%手作りの世界」です。現代社会に生まれ生きているお母さんでも、子どもを立てるために必要な能力は、基本的に一万年前のお母さんと同じなのです。なぜなら、子どもは一万年前と同じ状態で生まれてくるからです。現代風にキットを組み立てるようには出来ないのが「育てる」という世界なんです。でも、現代人はそのことが分からなくなってしまっています。そして、失敗を恐れ、子どもから逃げています。でも、失敗を恐れ、子どもから逃げようとしてしまうから、子どももお母さんも成長することが出来なくなり、結果として失敗してしまうのです。造形なら思い通りにならなければ途中で止めることができます。でも、子育てでは、どんなに思い通りにならなくても途中で止めることが出来ないし、また途中で止めてはいけないのです。だからこそ「失敗から学ぶ智恵」と「失敗を肯定する心」が必要になるのです。これを、心がけていれば、子育てはズーッと楽しいものになり、子どもも、そして自分もどんどん成長していくのです。人が成長するためには「失敗」が必要なのです。失敗は「宝の山」なんです。「自分を肯定する」ということは「自分の失敗も肯定する」ということでもあるのです。「子どもを肯定する」ということは「子どもの失敗も肯定する」ということでもあるのです。でも、小さいときから「成功」ばかりを求められ、失敗を否定され続けてきた人にはそれが出来ないのです。そのような人は「不安」が強いです。
2013.07.30
閲覧総数 566
26

昨日からの続きです。昨日はよきリーダーの素質として「自分で判断することと、みんなのやる気を引き出す能力」をあげましたがそれに、「メンバーを成長させる能力」も付け加えます。以前、テレビを見ていたら、ある人が監督としてのビート・タケシを「名監督だ」と評していました。その理由を問われると、その人は「彼の映画に出ると役者が成長するから」というようなことを答えていました。単に生徒たちの成績を上げるのではなく、生徒達の人間としての成長まで促すことが出来る教師は生徒たちに尊敬されます。この「尊敬される」というのは優秀なリーダーとしてはかなり重要な要素です。尊敬されているから信頼され、理屈を超えてその先生に従うのですから。その「尊敬される要素」の中に、ものぐさ父さんが書いて下さった「精神的な強さ、ぶれないこと、任せる度量」なども含まれると思います。でも、そのようなことが実際に「リーダーに対する尊敬」につながるためには、やはりそのリーダーによってメンバー一人ひとりが成長していくことを実感できることが大事な要素になるのではないではないかと思います。ただ単に「まとめるのがうまい」というだけのリーダーは尊敬されません。業績を上げるだけでも尊敬はされません。でも、自分を成長させてくれるリーダーは尊敬します。その時、リーダーはお手本であり、あこがれになります。そういうリーダーを持っているグループは生き生きとしています。メンバーの一人ひとりが自己肯定感を持つことが出来ます。そして、失敗もあるかもしれませんが、失敗からも学ぶことが出来るでしょう。今の日本人が持っている一般的な「リーダー」のイメージは、「まとめるのがうまい人」「業績を上げることが出来る人」というようなものだと思います。「優秀な親」や「優秀な教師」というようなものもそのようなイメージだと思います。そこで必要になるのは「管理者としての能力」です。でも、子どもの成長にとって必要なのは「尊敬できるリーダー」なのです。それは「子どもと共に成長することが出来るリーダー」です。子どもの言葉に耳を傾け、子どもから学び、子どもと共に成長しようとする人を子どもは「リーダー」として尊敬するのです。大人の場合も同じですよね。リーダーとは「自ら手本を見せながら、先頭に立って導く人」のことだからです。ただ単純に、「指示命令を出す人」のことではありません。メンバーを成長させることが出来るリーダーは、メンバーとともに成長することが出来るリーダーでもあるのです。そして、今の日本にはそういうリーダーが育つ環境がありません。小さい時から競争にあけくれて育った子には、「ともに育つ」という感覚が分らないのです。「子育て」も「子どもと共に育つ」という意識で向き合えば苦しくなくなるのです。そして子どもはお母さんを尊敬するようになるでしょう。「ちゃんと育てなければ」と思うから、子どももお母さんも苦しくなるのです。そして、子どもはお母さんから逃げようとするようになってしまうのです。
2012.01.07
閲覧総数 194
27

皆さんは「人は何のために生まれてくるのだろうか」ということを考えたことがありますか。世の中には、「人が生まれてくることに意味なんかない」と考える人も、また何らかの意味を一生懸命に探そうとする人もいます。「人が生まれてくることに意味なんかない」と考える人は、自分中心に物事を考え、「見える現実だけが全て」、「物質世界が全て」、「今のこの人生だけが全て」と考え、物質的に満たされた人生だけを求めているのではないでしょうか。そして、「人間としての成長」よりも、「競争に勝つこと」だけを大切にしているのではないかと思います。これは、宗教や精神文化を失い、科学や物質だけに依存している世界の人間の特徴かも知れません。そして、女性よりも男性にこのような人達が多いような気がします。また、日本では敗戦の後、急激にこのような人達が増えました。戦争中、人々は天皇や神様が自分たちを救ってくれると信じて、死にものぐるいで戦ってきました。どんなに形勢が不利になっても、最後には神風が吹いて日本は勝利するものだと信じていました。でも、その努力はまったく報われませんでした。報われなかったどころか、騙されていたことに気付きました。そのため、当時の人達は「この世界には神も仏もいないんだ」「頼れるのは自分だけだ」ということを強烈に感じました。だから、敗戦後の人達は物質的に豊かになること、競争に勝つことを非常に強く求めたのです。明治維新の頃は欧米の物質文化だけでなく、精神文化にも強くあこがれました。でも、敗戦の後の日本人はアメリカの豊かな物質文化だけにあこがれたのです。石原慎太郎などはその世代です。それに対して、今でも「人が生まれてくることにはきっと大切な意味があるのに違いない」と考える人達もいっぱいいます。そのような人の多くは、宗教は信じていなくても「見えない世界」を信じ、その「見えない世界」で全ての人や出来事はつながっている、と考えています。このような人達は祈ることを大切にします。祈りが「見えない世界」に働きかけて、何らかの結果をもたらしてくれると信じているからです。このように感じているのは男性よりも女性に多いような気がします。それは、女性の感覚の方が、男性よりも「生命」とつながっているからでしょう。「生命」はつながりの中に生まれ、つながりの中で生き、つながりの中で死んでいきます。「生命」は、生まれる時から死ぬまで、「つながり」の中でしか存在することが出来ないのです。また、心とからだがつながっていることも女性は男性よりも強く感じています。男性は心とからだを分離しやすいのですが、女性はそれをなかなか分離することが出来ません。だから論理的、客観的に考えることが苦手で、感覚的、感情的に考えてしまうのです。機械や物質の世界では「つながり」は与えられたものではなく、人間が作り出すものです。でも、生命の世界では、「つながり」は最初から与えられています。ですから、女性だけでなく男性も、その「生命の世界」に触れている人は、「この世界は全てがつながりの中にあるのだ」ということを知っています。そのような人は、原発のような最先端の科学的な存在ですら、「生命のつながり」と無関係には存在することが出来ないということを知っています。だから、反対してきたのです。そして、その「つながり」は悲しい現実として実証されてしまいました。でも、「つながり」を感じることが出来ない人にとっては、それは全く想定外の事だったのだろうと思います。人々がまだ自然と共に生きていた時代には、男性もまた「生命の世界」と触れていたので、「この世界は全てがつながりの中にあるのだ」という考え方は特別なものではありませんでした。でも、人々の生活が「自然」から離れ、機械文明に依存するようになるに従って、その「つながり」を感じることが出来る人が減ってきました。それは男性だけでなく、女性もまた「つながり」を感じることが出来ない人が増えてきました。だから成績や競争ばかりを大切にする母親が増えたのかも知れません。私たちはもう一度、どこかで自然とのつながりを取り戻す必要があるのではないでしょうか。今、「人間だけの間のつながり」を考えている人はいっぱいいます。でも、もっと大きな世界とのつながりにも意識を向けないと、「人と人のつながり」の意味も分からないのではないかと思うのです。「人と人がつながる」事には、単なる「助け合い」以上の意味があるのです。それが分からないと「自分が生まれてきた意味」も分からないような気がするのです。
2011.05.29
閲覧総数 1203
28

日本人にとって「芸術」とは主に見たり聞いたりして観賞するものです。それ以外の「芸術」はほとんどありません。あったとしてもごく一部の人たちだけが行っているだけです。日本には「職業」としての芸術活動や、商品としての「観賞用芸術」は存在していても、親から子へ、また人から人へと直接伝える形での、「文化としての芸術的創作活動」というものが存在していないのです。確かに、学校では絵を描いたり、歌を歌ったり、何かを作ったりします。でもそれは、常に「評価」の対象であり「上手」を求められています。そんなもの「芸術」ではありません。本来、「芸術」とは「評価しえないもの」だからです。当然のことながら、芸術にも個人の感想として「好き」「嫌い」「合う」「合わない」はあります。それらを競うことも可能です。でも、それはあくまでも個人の感想に過ぎません。それはその、「創作されたもの」の価値とは異なります。子どもが「ピーマンが嫌い」と言ったからといって「ピーマンには価値がない」などという判断を下す人はいませんよね。それと同じです。芸術的創作活動によって創造されたものは、唯一無二であって比較のしようがないのです。そういう意味では幼稚園児が作った粘土の動物と、有名な作家が作った粘土の動物も同じなのです。だから真に偉大な芸術家は常に初心者なのです。そしてそのような人は、作者がどんな有名な芸術家でも「いい加減に作ったもの」は馬鹿にしますが、作者がたとえ初心者であっても「真剣に作ったもの」は馬鹿にしないものです。そこにはただ第三者による「商品価値の違い」があるだけです。そして現代人は「商品価値」と、「芸術としての価値」を混同してしまっています。ですから、本来は「芸術のコンクール」というものもありえないのです。世界には、ピアノコンクールとかダンスコンクールというものがありますが、あれはあくまでも「表現の技術」を競うものであったり人気投票のようなものであって、一等になったからといって芸術的に素晴らしいとか、落選したから芸術的に価値がないということではありません。ただ単に「審査員のお眼鏡にかなった」というだけのことです。それは芸術の歴史が証明していることです。その作家が生きている時には全く評価されなかったのに、後世になって評価されるようになった芸術家などいっぱいいます。当然、その逆の「生きている時には高い評価を得ていたのに、現在では評価が低い芸術家」もいっぱいいます。さらにまた、将来その評価が逆転するかもしれません。私は、コンクールのようなものも芸術を堕落させてしまった一因だと考えています。多くの人がコンクールが芸術の社会的価値を引き上げ、その評価基準を一定化させ、芸術の振興に役に立っていると考えているようですが、でも、そのコンクールのせいで芸術が庶民のためのものではなくなってしまったのです。そして、経済活動によって商品化され、「管理されるもの」になってしまったのです。子どもたちやお母さんたちに「絵を描こう」とか「歌を歌おう」などと言うと「私は下手だから」と言って拒否します。劇やダンスなどはもっと強く拒否します。「次回は劇をやるからね」などというと参加者がガクンと減ります。でも、本来芸術の世界に「うまい・へた」はないのです。本来の芸術的な活動においては、その創造的世界の中に入ることが出来るか、創造的活動を楽しむことが出来るかということだけが大切なんです。芸術活動とはただ単に絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりすることではなく、創造的な活動のことなのです。ですから、芸術家と呼ばれる人でも、ただ技術だけでそれを行っているなら、それは職人的な行為であって、芸術家としての活動ではありません。逆に、職人と呼ばれる人でも、常に最高のものを目指して活動をしているなら、その行為は芸術的な行為です。それはジャンルを選びません。サラリーマンでも、常に最高の仕事を目指して仕事をしているなら、その人の仕事は芸術的な行為です。勉強でも、勉強方法を自分で工夫して勉強をしている子は芸術的な行為をしていることになります。どんなに下手くそであっても、自分の頭で考え、自分の心や感覚で感じ、自分の意志で活動しているならそれは立派な芸術活動です。芸術的行為、創造的行為とは「無」から「有」を創り出す行為のことです。絵を描く時は真っ白いキャンバスから始めます。歌を歌う時は無音の状態から始めます。価値のないものに価値を与えさりげない動きを表現に変え古いものを新しくし意味を失ってしまったものに、新しい意味を与えまだ存在していないものに姿を与え見えないものを見える形に変え聞こえない音を聞こえる音に変えます。だからこそ、自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で活動する必要があるのです。自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で活動することが出来ない人には「見えないもの」は観えません。「聞こえない音」を聴くことも出来ません。だから、それらを「見える形」「聞こえる音」に変換することも出来ないのです。よく「自分が生まれてきた意味が分からない」などと言う人がいますが、それは真っ白いキャンバスを前にして、「何が描いてあるのか見えない」と言っているようなものです。自分が生まれてきた意味は自分で創り出す以外にないのです。つまり、「生きる」ということそのものを「芸術的な活動」に変えていかないことには、「生まれてきた意味」は生まれないのです。「生きる」とは真っ白いキャンバスに絵を描いていくようなものなのです。そして現代の教育や社会に欠落してしまっているのは、その芸術的活動なのです。だからみんな依存心ばかりが強くなり、無気力になってしまっているのです。今、20代の働き盛りでありながら生活保護を申請する人が増えてきているそうです。社会に出て、ちょっと頑張ってみたけどレールに乗り損ねてしまった若者が、非常に安易に生活保護に依存しようとするのです。ネットには、若者たち向けに「働くよりも生活保護の方が利点が多い」ということを説明し、簡単に生活保護を申請するためのマニュアルが流布しているそうです。指示命令に従って生きてきた若者たちは、自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で行動することが出来ずに、すぐに何かに依存しようとします。脱法ドラッグのような麻薬も同じです。そのような若者は「創造する生き方」が出来ないのです。そしてそのような若者が増えてきたら必然的に社会は崩壊します。
2012.05.23
閲覧総数 717
29

物事を考える時の方法として、大きく二種類の方法があります。一つは「部分」について調べたり考えたりして、その「部分」を合成する形で「全体」を考えるという方法です。そのため、「部分」をどこまでも小さな「部分」へと細分化し、分析しようとします。科学はこの方法を使っています。そして、一般的に欧米の人たちはこのような方法で考えます。このような、物事を細分化して考えようとする方法は、科学を進歩させ、様々な機械を生み出しました。機械は部品を作って組み立てて作るものですから、この考え方がそのまま使えるのです。欧米の言葉もまたそのような構造になっています。それに対して、「部分」というものは、「全体」とつながってその役割を果たしている時にのみ、その「意味」が表れるため、「部分」を全体から切り離して調べても意味がない、という考え方があります。そのように考える人たちは、常に「つながり」の中で物事を見ようとします。そして部分を分離し、分析しません。これは主に東洋において支持された考え方です。このような考え方は、「機械」ではなく「生命」を扱うことに優れています。機械は部品(部分)を組み立てて製品(全体)を作りますが、生命は最初にまず「未分化の全体」があり、その「全体」が、「全体」とのつながりの中で必要に応じて「部分」を生み出していきます。「全体」から「部分」が、その「全体」の「一部」として分化するのです。海で泳いでいた頃の生命には「脚」は必要がありませんでした。でも、陸に上がるようになると、「脚」が必要になりました。そのため、生命の働きが「脚」というものを生み出したのです。そのようにして考えるからこそ「脚の意味」が分かるのです。部分としての「脚」を研究すれば「脚の機能」については分かります。でも、「全体」とのつながりの中で考えないと、「脚の意味」は見えてきません。それと、欧米のように、「まず部分が作られ、それらが統合されて全体が作られた」と考えると、「生命」も「この世界」も、それを作った存在が必要になります。「誰かが人を作り、草木を作り、大地を作り、それらを組み合わせてこの世界を作った」と考えないと、なぜこの世界に「人」や「草木」や「大地」が存在しているのかの説明が付かないからです。それで、「創造主としての神様」という存在が想定されたのでしょう。欧米の考え方では、神様が「機械を作る手順」と同じ手順でこの世界を作ったことになっています。それに対して東洋では、この世界は、「宇宙の法則」(道-タオ)の働きによって、「無」の状態から必要に応じて生まれてきた事になっています。ですから、「創造主としての神様」は必要がありません。誰かが「手」を作って、人間にくっつけたのではなく、「手」という働きが必要になったので「手」が生まれてきたのです。この考え方では、この世界にあるものには全て何らかの「意味」があるということになります。「悪」にも「病気」にも「死」にも意味があることになります。でも、「神様が作った世界」ではそれらは「罰」として与えられたことになっています。そうでないと、そういうものが存在している理由が見つからないからです。世界には大きく分けてこの二つの考え方があるのですが、皮肉なことに科学の発達は、東洋的な考え方の方を支持するような方向に進んできています。それは、「生命も、この世界も、誰かが作ったものではなく、何らかの働きによって全体の中から生み出されてきたものだ」という考え方です。「地球」は誰かが作ったのではなく、宇宙の中に生まれてきたのです。だから今、世界中で「神様」の力が衰え始めているのですが、科学的な考え方に慣れてしまった現代人は、「全体」という視点を持つことが出来ないため、バラバラになってしまった世界を再統合することが出来ません。ちなみに私は、東洋的な発想で「気質」について考えています。気質には「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つがあるとされています。そして、この四つはギリシャ時代にこの世界を構成していると言われていた「風・火・土・水」の四大要素に対応していると考えられています。ウィキペディアではこの「四大要素」の現代的解釈として 「空気」は気体、「水」は液体、「土」は固体と対応づけられる。(これらは現代の用語では「物質の三態」に相当する。) 「火」は、何らかの化学変化を起こしている状態と言える。と説明されています。私はギリシャ人達はそんなに馬鹿ではなかったと思っていますから、この解釈には賛成しませんが、ウィキペディアにはそのように説明されています。でも、この考えではこの四つの要素の「全体の中での関係性」が分かりません。また、これだけでこの宇宙が成り立っているとも思えません。生命や宇宙といったものが存在するためには、これらの要素をつなげ、調和させ、バランスを取っている働きが必要だからです。実は東洋にも「四大要素」と似たような考えがありました。ただし、「四大要素」に「空」を加えた「五大要素」です。ウィキペディアでは以下のように説明しています。 地 - 大地・地球を意味し、固い物、動きや変化に対して抵抗する性質。 水 - 流体、無定形の物、流動的な性質、変化に対して適応する性質。 火 - 力強さ、情熱、何かをするための動機づけ、欲求などを表す。 風 - 成長、拡大、自由を表す。 空 - サンスクリット語: आकाश, Ākāśa(アーカーシャ)の訳。虚空とも訳される。仏教の思想のサンスクリット語: शून्य, śūnya(シューニャ 訳語は空)とは異なる。西洋の考え方では、四大要素のそれぞれの要素は「存在を構成するもの」として理解されていましたが、東洋の考え方では、それぞれの要素は「働き」として理解されています。「目に見える存在」は、「目に見えない働き」の結果として生み出されるので、「目に見えるもの」を「世界を構成する要素」にはしないのです。ここから先は、私の個人的な考え方が入ってくるのですが、ここで重要になるのが「空」の働きです。この「空」があるからこそ、四つの働きがお互いに支え合い、補い合ってこの世界を支えているのです。そして、「空」には「地・水・火・風」の四つの要素を自在に変換する力があります。 「空」は生命の働きそのものであり、ここから全てが生まれてきたのですから。そして、私の「気質」の考え方も、「地・水・火・風・空」の五大要素を基にしています。その点が、西洋の「気質」の考え方とは違っていると思います。「空」が加わることで、「なぜ気質が存在しているのか」ということや、「気質の意味や大切さ」が理解出来るのです。
2013.04.20
閲覧総数 1624
30

(「子育てワーク」のお知らせが一番下にあります)*********************昨日、あおさんが結局子供は安心さえできれば多少間違えてもなんでもいいと思う 間違えてもまた戻ればいいんだ勉強が大事なんじゃないと思う 勉強も大事なんだと思う一生懸命になりすぎないのが実は一番しんどかったりするんですよねこんなんいってたらダメかなぁ… とコメントを入れて下さいましたが、毎回ブログに書き込んで下さるあおさんの文章を読んでいて感じたのは、「あおさんは子どもの頃からずーっと“いい子”だったのではないか」ということと、そして今、子育てを通して、その「いい子」に疑問を感じ、「いい子」から抜け出そうとしているのではないかということです。でも、そのような気持ちを自分の中の「いい子」が否定してくる・・・、あおさんの文章からは、そんな葛藤と思春期の少女のような心の揺れを感じます。あおさんはみんな分かっているのでしょう。でも、その「分かっていること」に疑問を感じている。だからそれを否定しようとするのだけど、「じゃあどうしたらいいのか」ということも見えず、反発しながらも「正しい」と教え込まれてきたことの正しさも理解出来てしまう。今、あおさんが向き合っているのは、「我が子」でも「自分の子育て」でもなく、「子育てを受けていた頃の自分」なんだろうと思います。子ども達がケンカをしていると、お母さんや先生は「どうして仲良く出来ないの、仲良く遊びなさい」と子どもを叱ります。そのような「みんなと仲良くしよう」という言葉に異論を唱える人は多くないと思います。実際、お母さん達も先生達もみんなこのようなことを言っています。でも、確かにその言葉自体は間違っていないのかも知れませんが、そういうことを子ども達に押しつけることはおかしいのではないでしょうか。などというと「じゃ、子ども達が仲良くしなくていいのか」というような反論をしてくる人もいるかも知れませんが、私が言っているのは、その言葉の内容の是非ではなく、どんなに正しいことであろうと、それは子ども達自身が自分の体験と感覚で気付くべき事であって、「仕付け」と称して大人が押しつけることではないのではないかということです。本当の仕付けとは、「子ども達が自分自身の体験と感覚でそのようなことに気付くように導くこと」であって、「言葉だけで結論を押しつけること」ではないのです。また、そのように定義すれば「仕付け」と称した「虐待」は成り立たなくなるのです。「虐待」を「仕付け」と言い訳することも出来なくなるでしょう。言葉だけで結論を押しつけるのは非常に簡単です。自分が手本を示す必要もありません。しかも、内容が正しければ誰も反論できません。多くのお母さん達が「仕付け」と称してやっていることも、学校で「道徳」と称してやっていることも同じです。でもそこには、「子どもの成長を支える」という発想がありません。ただ、「大人の言うことに素直に従うよい子」を育てようとしているだけです。よく聞くのは、「イジメは良くない、みんなで仲良くしよう」と指導している教員の世界には、結構イジメがあるという話です。「仲良くしなさい」と言っているお母さん達は仲良く出来ているのでしょうか。「ケンカしない=仲がいい」とごまかしているのではないでしょうか。「タバコはからだに良くないからタバコを吸うな」と指導している先生が、職員室でタバコを吸っている所を目撃された、という話も聞いたことがあります。「なんで約束を守らないの」と叱っているお母さんが平気で子どもとの約束を破っています。日本人は昔から「見かけだけ整えればOK」「本音と建前を使い分けるのは正しい」という価値観を持っています。「本音」は見えないけど、「建前」は見えるから、そこだけ整えておけばOKということです。それは、封建社会の中で、支配され、抑圧されてきた人々が、「本当の自分」を守るための智恵だったのかも知れません。でも、日本人はその支配者が消えてしまった後でも、「きれい事の社会」を維持しようとしています。そして、親も先生も中味がなく空疎な「きれい事」ばかりを求めています。その姿は封建時代の支配者のようです。日本の社会には「きれい事」だけで事を済まそうとする人たちがいっぱいいます。テストもまた同じだと思います。点数だけ良ければ、学んだことが子どもの成長とつながっていなくても、OKなんです。勝手に「点数が良い=ちゃんと学んだ」という公式を作って、それで満足しているのです。「良い子=人間的に素敵な子」というインチキ公式もあります。日本人には「ラベルや容器が立派なら中味は問わない」とか、「中味について問うのは失礼だ」という無意識の感性と習慣があります。だから、箱物行政が盛んなんです。スウェーデンなどに政治家や教育関係者がよく視察に行くそうですが、でも、彼らは資料を読み、箱物を見て回るだけで、実際にそこで働いている人たちの話を聞いたり、その人達と対話することはないそうです。興味があるのは制度や箱物だけであって、中味には興味がないのです。このことに対する反省がない限り、日本はどんどん沈没していきます。*******************<子育てワーク in 茅ヶ崎>子育てに関しては、一般的には「講演会」という形で扱われることが多いですが、子育ては「理論」ではなく「実技」ですから、いくら話を聞いて、感動して、納得しても、それだけで子育てが変わるわけではありません。例えば、講演会などで有名な登山家から「山登りの方法」を聞いても、それだけで実際に山に登れるようになるわけではありません。これは当たり前のことです。実際に山に行ってトレーニングを積まない限り、どんなに知識を蓄えても、山に登ることはできないのです。そうですよね。講演会で「子どもにはお母さんの笑顔が必要なんです」と言われて納得しても、実際に子どもの前で素敵な笑顔を見せることが出来るかどうかは別の問題です。むしろ、理想的な話を聞けば聞くほど自分の現実とのギャップの苦しむことになります。ワークショップでは、参加者の子育ての場で実際に起きていることを話してもらい、色々な視点から話し合ったり、その状況を再現してみたりします。そのことで、現実に即した気付きを得ることが出来るのです。日 時: 7月15日(月)「海の日」 10:00~15:00会場は茅ヶ崎市民文化会館「練習室4・5」(和室)です。参加費 3000円、定員 20名です。 ・申し訳ありませんが保育はありません。 ・動きやすい服装でおいで下さい。
2013.06.10
閲覧総数 381
31

「ゆりかご」(0才~2才までの親子遊びと子育ての連続講座)のチラシを作りました。夏休み造形ワーク「ゴム動力で作ろう」のチラシを作りました。いずれも会場は茅ヶ崎駅周辺です。**************************昨日は人は、孤独が生み出す苦しみから逃避するために事件を起こすのです。そして、現代人は重度の「孤独という病」にかかってしまっています。と書きました。実は人間にとっては、この「孤独」こそが一番苦しいものなのです。いじめられた子が自殺するのも、単に、ぶたれたり、意地悪されることが苦しかったからだけではなく、誰も助けてくれないという孤独の苦しみに耐えることが出来なくなったからなのです。ですから、イジメによる自殺の場合、「いじめた子」だけではなく、それを「傍観していた子」達にも非常に大きな原因があるのです。イジメの問題を話し合うと、必ず「あんなイジメは昔からあった」と言う人がいます。それはその通りです。ぶったり蹴ったりというイジメは昔から在りました。私の友達もよくいじめっ子から叩かれていました。でも、その「いじめられている子」がクラス全体の中で阻害されることはありませんでした。いじめている子は特定の「いじめっ子」と、その子をリーダーとする「いじめっ子グループ」だけで、他の子はそのいじめられている子に対して「普通の友達」として接していたのです。周囲の子ども達が「巻き添えを恐れて付き合わない」などと言うことはなかったのです。だから、いじめられる苦しみはあったでしょうが少なくとも孤独ではなかったのです。そのため、「いじめられたから自殺した」という話はあまり聞いたことがありません。現代における「イジメ」の本当の問題は、「いじめた子」だけの問題ではなく、「いじめた子と」と「いじめられた子」という個人対個人の問題だけでもなく、「クラスという一つの社会単位」の中の全体的な人間関係の問題なのです。そしてそれは大人の社会の縮図でもあります。今の子ども達を見ていると、昔の子ども達に比べ、子ども達一人一人のつながりが脆くなり、人間関係が不安定になってしまっています。うちの教室の子ども達を見ていても、20年前の子ども達は一緒に遊ぶことですぐに「仲間」になっていましたが、今の子ども達は一緒に遊ぶこと自体が苦手です。そして、一緒に遊んでいても「仲間」という関係にはならないようです。子ども達が遊んでいるところを見ていると、お互いに助け合うのではなく、みんな自分の利害ばかり主張しているのです。そして、自分の主張が受け入れられないと、「じゃあぼくやらない」と引き下がってしまうのです。大人の組織でも同じような状態です。学校の役員決めでも、みんなが逃げ回ってなかなか決まらないのは誰でも知っていることです。大人も子どもも、みんな自分を守ることだけに一生懸命なんです。そして自分だけ損をしたくないと思っています。このような人間関係の中でイジメが起きると、「かわいそうだな」「嫌だな」とは思っても、巻き添えを嫌って積極的な関わり合いは避けてしまいます。基本的に、今の子ども達はみんな孤独ですが、周囲が関わり合いを避けることで、その孤独がすぐに絶望に変わってしまうのです。じゃあ、「子どもや現代人がその孤独から抜け出すためにはどうしたらいいのか」ということです。実は、「孤独」は「心の問題」である以前に「からだの問題」なのです。赤ちゃんは暖かいぬくもりや、抱かれたり、触れ合いが少なくなると不安を感じます。でもそれが一時的なものなら、「一時的な不安」で終わってしまうのですが、日常的にそのような状態が続くとそれが「孤独」に変化していくのです。「継続的な不安」が人を孤独にするのです。そして、一度「孤独」が定着すると、なかなか抜けなくなります。「不安」そのものは一時的なものなのですが、「孤独」は持続的なものなのです。そして、「孤独」を感じるようになってしまった人は、どんなことにも不安を感じるようになります。そういうからだの状態になってしまっているからです。この状態になると、憂鬱質の人でなくても、憂鬱質の人と似たような状態になります。でも、本来の憂鬱質の人と違って、その状態がただ苦しいばかりで「憂鬱質の世界」を楽しむことは出来ません。そのような人は「聴覚」よりも「視覚」に依存しています。味わうことが出来ず、判断するだけです。全体を見ずに部分だけをみます。待つことが出来ません。待っていると不安になってしまうのです。ちなみに、これは「一人が好き」という状態とは異なります。一人が好きな人は孤独ではないか、孤独との向き合い方を知っている人です。そのような状態から抜け出すための一番簡単な方法は、まず呼吸に意識を集中していっぱい歩くことです。一見「歩くこと」と「孤独」とは無関係なことのように思われますが、実は歩く事には、「バラバラになった心をからだを統合する」という働きがあるのです。孤独な人は心とからだがバラバラになってしまっています。そして心とからだがバラバラになってしまっているから不安が強くなってしまうのです。ですから、それを統合する必要があるのです。こういう所にもお遍路さんの意味があるのです。「遍路」というのは昔の人の体験的な智恵なのだと思います。(ヨーロッパにもあります)呼吸法や瞑想も効果的ですが、指導者がいないとなかなか難しいと思います。また、歌うことや踊ることにも大きな効果があります。意識が「部分」から「全体」へと広がるからです。いっぱい歌ったり、いっぱい踊ったりすると、しばらくは小さいことが気にならなくなるものです。あと、色々なことに感謝の気持ちを持つことです。「自分一人だけの力で生きているんだ」と思っているから孤独になってしまうのです。「感謝の心」は「支えられている存在としての自分」への気付きを促します。素直に、色々なことや人に感謝できる人は孤独ではないのです。でもそのためには何らかの「学び」も必要になるでしょう。ここに書いたようなことは全て、豊かさや便利さと引き替えに、現代人の生活の中から失われてしまったものばかりです。
2013.08.19
閲覧総数 532
32

人間の社会は、「文化」と「文明」という二つの要素によって支えられています。このうち、いまだに「文明」を持っていない人々は存在していますが、「文化」を持っていない人々は太古の昔から存在していません。ジャングルの中で自然と共に暮らしている人たちも、立派な「文化」を持っています。それはつまり、現代人が絶対的に価値を感じている「文明」というものが、「人間が人間であるために必要な絶対条件ではない」ということです。むしろ、現代人があまり大切にしていない「文化」の方が、人間の人間らしさを支える絶対条件なのです。その、「文化」の最小単位は「家族」です。その「文化」が親から子へと受け継がれることで、親と子、先祖と子孫という「縦のつながり」が生まれます。「文化」そのものは「横のつながり」を支え、「横のつながり」の中で働くものですが、それを受け継ぎ伝える時に「縦のつながり」が生まれるのです。言葉を伝え、物語を伝え、家の作り方を教え、仲間との関わり方を教える過程で「縦のつながり」が生まれるです。子ども達の「群れ」においても、この「縦のつながり」によって遊びが伝承されてきました。「遊び」そのものは「横のつながり」の中で共有されたのですが、それを伝承する過程で「縦のつながり」が生まれたのです。そして、伝承によって受け継がれるものだから、それを責任を持って伝える役割として、「リーダー」というものが必要とされました。ですから、子ども達を大勢集めて自由に遊ばせても、大人から子へ、年長者から年少者へと受け継がれてきた「伝承」というものが存在していないグループには、「支配者」は生まれても、「リーダー」は生まれません。必要がないからです。その場合、「仲のよい子」は生まれるかも知れませんが、仲間としての「横のつながり」や「縦のつながり」は生まれません。遊びも「思いつき」を超えるような複雑な遊びを発見することはありません。子ども達をいっぱい集めて遊ばせても、「わらべ歌」のような遊びは、決して子ども達には創り出すことが出来ないのです。笹舟も、弓矢も、ヒゴ鉄砲も、竹とんぼも、竹馬も、陣取りも、縄跳びも、お手玉も、誰かから伝承されない限り、子ども達だけでそういう遊びを発見することは出来ないのです。そして、毎回、同じ遊びだけを繰り返すことになるでしょう。それは「文化」から切り離された世界です。「子ども達だけを集めて遊ばせていれば自然とみんなで一緒に遊び出す」というのは、そのような遊びを受け継いでこなかった大人の幻想です。大人には「伝えられてきたものを伝える」という役割があるのです。私は、「むかしあそび大辞典」という本を持っていますが、厚さ3cmぐらいで、昔の子ども達の遊びがびっしりと紹介されています。昔の子ども達にはそんなにもいっぱい遊びがあったのです。しかもそれらは、非常に良く工夫された遊びばかりです。だてに、何十年、何百年と伝承されてきたわけではないのです。「子どもの遊び」は、子どもの成長衝動の中から生まれ、子ども達によって工夫され、伝承され、より楽しく遊ぶことが出来るように形が整えられてきました。ですから、そのような「伝承されてきた遊び」には子どもの成長を支える力があるのです。その長い年月の積み重ねによって作り上げられた智恵を、せいぜい2,3才しか違わない幼児たちに創り出せるわけがないのです。このような「文化」の特性に対して、「文明」の方は少し様子が違います。「文明」というものは、非常に多くの人数が集まった社会の中でしか生まれません。だから、ジャングルの中で同族だけで生活しているグループには「文明」は生まれないのです。なぜなら、必要がないからです。「文明」の基本原理は「管理」です。大勢の人が集まるような場では、あらゆる面での「管理」が必要になります。人々を管理し、自然を管理し、物を管理し、政治を管理し、経済を管理するのが文明です。機械やロケットが「文明」の本質ではありません。自分で獲物を捕ってきて、自分で解体して、自分で食べるというような生活をしている人たちには「管理」というものは無縁でしょうが、獲物を捕ってきてそれを売り、そのお金で別のものを買って来て生活しているような人が生きている社会には、秩序を維持するための「管理」が必要なのです。ですから、「文明」は「権力」が作り出す「縦のつながり」によって支えられ、成り立っています。そして、「横のつながり」はあまりありません。多くの場合、文明が生み出すものは、「独占するもの」であって「共有するもの」ではないからです。だから文明社会では、「競争」というものが成り立つのです。また、文明化された社会は、上から下へと指示命令が伝えられることで支えられています。そして、これが現代人が生活している社会です。少数の天才と、少数の技術者がいれば、知識も技術も何にも持っていない人でも(「お金」さえあれば)文明の恩恵に浴することが出来るのはそのおかげです。歌を知らない人は一緒に歌えませんが、知識などなくても、知識を応用した技術を使うことが出来るのです。それが、「文明」の便利なところです。でも、そのような社会に生きているために、現代の大人達は子ども達を管理しようとするばかりで、育てようとはしなくなってしまいました。「管理すれば何でも出来る」と思い込んでいるか、「管理」という方法しか分からなくなってしまっているのでしょう。そのことに違和感を感じる人たちは、子どもを管理しないで育てようとしますが、多くの人が「管理」という文明的なやり方を排除するだけで、「共に」というつながりを支えるための「文化」を与えません。でも、「横のつながり」を支えてくれる「文化」を失った子は、結局、「文明」という「縦のつながり」に依存するしかないのです。
2014.07.01
閲覧総数 124
33

対象が子どもであろうと、宇宙であろうと、自分自身であろうと、何かを観察する時に大事なことは「先入観で見ない」ということです。これは絶対的に必要な条件です。先入観を持ったまま向き合っていたら、何も発見できないからです。子どものことで相談に来るお母さんのほとんどが、「うちの子はこういう子だ」と決めつけてしまっています。でも、そういう先入観を持ってしまっていると、本当の子どもの姿が見えなくなってしまうのです。「子どもをよく観察して下さい」と言っても、自分の先入観に合うような事実しか探せないからです。そして、悩みや苦しみに囚われている人ほど、強い先入観に囚われてしまっています。というか、「自分は絶対に正しい」と思い込んでいるから、悩みや苦しみから抜け出すことが出来ないのです。これは、自称「自己肯定感が低い人」も同じです。自分で「私は自己肯定感が低いんです」という人がいっぱいいますが、それもまた思い込みに過ぎません。そのような人は、「自分が自己肯定感が低いのは絶対に正しい」と思い込んでいるのです。おかしなことにその部分だけは自分の考えを肯定しているのです。でも、そのような人はいつも「思い込みの中の相手」としか関わろうとしないため、目の前にいる「現実の相手」とつながることが出来ません。また、「現実の変化」に対応することも出来ません。相手との出会いから何も学ぶことが出来ません。だから、何をやってもうまく行きません。だからいつまでも悩みや苦しみから抜け出すことが出来ないのです。その状態から抜け出すためには、「自分」を観察することで、「自分が思い込みに囚われている」ということに気付く必要があるのです。また、子どもは変わります。見違えるように変わってしまう子もいっぱいいます。幼稚園の時には「乱暴者」で困っていた子が小学校5年生ぐらいになると、下の子の面倒を見る、しっかりとしたお兄ちゃんになってしまうこともあります。幼稚園の時には「よい子」だったのに、4,5年生ぐらいから不安定になり、問題を起こすようになる子もいます。私は仕事柄、2,3才から小学校高学年、時には中学、高校まで連続して見ている子どもが多いので、「子どもは変わる」「決して先入観で見てはいけない」ということを実感として知っています。本当に子どもは大人の予想を超えて変わっていくのです。だから決めつけてはいけないのです。それに、決めつけてしまうと、その決めつけたとおりに子どもは育ってしまいます。「この子は悪い子だ」だと決めつけてしまうと、成長と共に「本当に悪い子」になってしまうことが多いのです。じゃあ、子どもと良い関係を築けている人はどうしているのかというと、そのような人は「子ども」を決めつけずに、子どもとの関わり合いを楽しんでいるような気がします。先入観で子どもを見たり、子どもを自分の価値観に従わせようとせずに、子どもが言うことを聞かなくても「へー、そう来たか」と楽しみ、いたずらをしたら、「へー、そういうことをするんだ」と楽しんでいるのです。子どもの遊びを見ていても「子どもって面白いね」と子どもが繰り広げる世界を楽しんでいます。ここには発見があります。そして、それが「観察する」ということでもあるのです。そして、観察があるから「どうしたらいいのか」も見えてくるのです。お母さんの思い込みに従わせようとするのではなく、子どもに合わせた関わり方が出来るのです。だから、一方的に押しつけるよりもうまく行くのです。自分の心やからだを観察する時も同じです。自分の心やからだを楽しむようにするのです。子育てでは、「関わりを楽しむ心」を育てることが、観察力を高めることにつながるのです。イヌと関わるのが好きな人は、イヌに対する観察力が高いです。自動車と関わるのが好きな人は、自動車に対する観察力が高いです。そうですよね。「観察する」というと「遠くから見ている」的な印象が強いですが、実際には、見ているだけでは何にも分からないのです。
2017.04.16
閲覧総数 2213
34

物事を見るときには色々な基準があります。実用性、デザイン、意味、他のものとの関係性、耐久性、構造、歴史的価値、社会的な価値、自分にとっての価値、まだ他にも色々な基準があると思います。そして人は大抵そのうちの一つか二つを特に大切にします。工作の場では男の子達は「機能」を重視します。「ちゃんと動くか動かないか」です。でも、女の子達はデザインを重視します。ですから、普通は最初から作るものが違うのですが、同じものを作っても似たような違いが生まれます。以前、幼稚園のお母さんお父さんを対象に「オカリナ作り」をしたことがあります。ただ色を塗るだけではなく、ちゃんと粘土を成形するところからやりました。そして、ちゃんと焼いてお返ししました。その時、お父さん達は「音が出るか出ないか」にこだわりました。デザインを気にするお父さんはあまりいませんでした。ですから、最終的にはみんな音が出るようになりましたが、ほとんどの作品が「ただの音が出る粘土の固まり」のようなものになりました。でも、お母さん達はデザインにこだわる人が多く、お父さん達とは逆に、「飾りとしては素敵なんですけど音は出ません」というものを平気で作る人がいっぱいいました。「息を吹く穴」も「音が出る穴」も全く無視して作る人も多かったです。そのような人は、「音が出る原理」には全く関心がないのでしょう。というかそういうものが存在していること自体を知らないのかも知れません。それでも、可能な限り音が出るように手直しはしたのですが、どうしても無理なものは「飾りとして使って下さい」とお返ししました。このように男性と女性は「大切にしているもの」が異なります。ただしこれは個人差もありますから、「全般的に見て」ということです。特定の個人においてはこの限りではありません。そして、気質で扱っているのもこの「意識や価値観の違い」であって、「性格の違い」ではありません。日本人は日本人である種の共通した意識や価値観を持っていますが、性格は人それぞれですよね。問題は、異文化の人と接したことがない人には、「自分たちが大切にしている日本人固有の意識や価値観」のことに気付いていないと言うことです。外国の人が「日本人とは異なった意識や価値観」を持っているということは知っていても、「自分たちがどういう意識や価値観を持っているのか」を知らないのです。そして、「自分がどういう意識や価値観を持っているのか」ということを知らない人は、「自分とは異なった意識や価値観」を持っている人と話をしても、話がかみ合いません。言葉の翻訳が出来ないからです。デザイン重視でオカリナを作っている人に、「それじゃあ音が出ないよ」と言っても、何を言われているのか理解出来ないのです。人は「自分に関心があることに対する言葉」なら理解出来るのですが、「関心がないことに対する言葉」は理解出来ないのです。脳の中に「関心のない言葉」を処理する回路がないからです。まただから関心がないのです。夫婦げんかなども、このすれ違いが原因のことが多いです。(少なくとも我が家ではそうでした。ただし、今はあまりケンカしません。)子どもの仕付けや早期教育に夢中になっている人に、「人間としての成長も考えた方がいいよ」と言っても、何を言われているのか理解出来ないのです。「正しいことを言えば理解してもらえるはずだ」というのは、単なる思い過ごしに過ぎません。当然その逆もあります。9日のブログにちなみに、粘液質や多血質の人は状況に合わせて判断し、行動することが出来ますが、胆汁質と憂鬱質の人は「自分」にこだわるのでガンコです。と書きましたが、では、「粘液質や多血質の人はどういう意識と価値観を持っているのか」ということです。実は、多血質や粘液質の人が大切にしているのは「自分」ではなく、「周囲との関係性」なんです。だから人と対立することが少ないのです。胆汁質と憂鬱質が「自分」を基準にした「絶対的な物差し」で物事を見たり判断しているのに対して、多血質や粘液質の人は「関係性」を基準にした「相対的な物差し」で物事を見たり判断しているということです。これはどちらの方が正しいということではありません。音楽の世界にも「絶対音階」を持っている人と、「相対音階」を持っている人がいますが、音楽を楽しむためにはどちらでも何にも問題はないですよね。ちなみに、みんながあこがれる絶対音感の方が進化論的には古い感覚です。実際、全部かどうかは知りませんが人間以外の動物の多くは絶対音感だそうです。ネコも絶対音階を持っています。相対音階の人は絶対音感の人をうらやましがりますが、実際には相対音感の人の感覚の方が新しいのです。絶対音階の人は「ド」なら「ド」に対応した感覚(感覚細胞)しか働かないのに対して、相対音階の人は、自分に聞こえた音を「他の音との関係性」の中で解釈するのです。だから応用性が高いのです。私の考えでは気質でも、絶対音感的な「胆汁質」や「憂鬱質」の方が古い気質のような気がします。なぜなら、この二つの気質は「生き延びるために必要な気質」だからです。それに対して、多血質や粘液質は社会性とつながっている気質です。だから、人間が群れて生活するようになってから人間の中に広く定着していったのではないかと思っています。
2018.09.11
閲覧総数 1057
35

今朝MSNのニュースを見ていたら、以下のようなタイトルの記事がありました。「ゲームをする子は集中力が高い 禁止ではなく時間制限が重要」で、 加えて2017年に朝日小学生新聞が行った調査では、「ゲームOK」の家の子供の方が集中力が高く、勉強と遊びの切り替えも早いという結果になっている。特に、親と一緒にゲームをする子は、成績のいい子が多いという結果は目を引く。こういうことが書かれており、最後に「ゲーム禁止」はもはや“過去の教育方針”とさえいえる状況になっている。と締めくくっています。この記事から読み取れるのは、「勉強や成績に影響がなければ問題ない」「成績がよいなら大歓迎」的な感覚です。つまり、「成績」のことしか関心がないのです。子どもの「人間としての成長」や「なんのために学ぶのか」「教育はなんのために存在しているのか」という発想が全く消えてしまっているのです。そして、多くのお母さん達の意識もこの記事を書いた人と同じです。小学生のお母さんからの相談の大部分は、「宿題をやらない」「勉強をしない」「忘れ物が多い」「ゲームを止めない」「言うことを聞かない」などと言ったようなことばかりです。「ゲームを止めない」というのも、勉強をしないから問題になっているだけです。逆に言うと、ちゃんと勉強をして、成績も良くて、忘れ物もしなければ、他の時間はゲームばかりやっていてもなんの問題も感じないということです。みんな「どう学校の期待通りに子どもを育てるのか」ということにしか関心がないのです。「学校という価値観」の中だけで世界が閉じてしまっているのです。でも子どもはやがて学校を卒業していきます。「学校という価値観」が通用しない世界に出て行き、そこで生きなければなりません。これは例外がありません。だから、それまでに「学校の外の世界で生きていくための能力」を身につけなければならないのですが、学校の教育目標自体が学校内部だけで完結してしまっているので、「学校で学んだこと」の大部分が学校の外の世界では役に立たないのです。社会に出て役に立つのは、「授業で学んだこと」ではなく、「休み時間に子どもたち同士で遊んだ体験」ぐらいなものです。実際、多くの子どもたちが、友達と遊べる休み時間のために学校に行っています。勉強は、やらないと親や先生に叱られるからやっているだけです。どう考えたってこれって変でしょ。でも、それを「変」だとは感じない人が大部分になってしまっているのです。本来は、学校は子どもが「社会で生きていくための能力」「自分の人生を自分のものとして生きる能力」を育てる場であるはずです。親や家庭の役割は、「子どもを学校に都合のよい子」に育てることではなく、「生きるって楽しい」という感情や、「他の人とつながる能力」や「精神的、経済的に自立して生きて行く能力」を育てることです。でも実際には、学校では社会で生きて行くこととは無関係なことばかり教え、成績で競争させることで「子どもと子どものつながり」を阻害し、競争意識ばかりを煽り立て、評価を気にする意識を植え付け、「言われたことだけを覚え、言われたことだけを考え、言われた通りに行動する訓練」ばかりをしています。家庭でも、学校が求めてくることばかりを子どもに押しつけ、学校の手先のような状態になってしまっています。そして、社会で生きていくときに必要になる、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」は育てるどころか、むしろ「邪魔なもの」として否定されています。この選挙期間中、若者達に「選挙に行こう」と呼びかけているポスターや記事を多く見かけましたが、学校で「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」を否定しておきながら、「選挙に関心を持って下さい」「投票に行って下さい」と求めるのは、全くのナンセンスです。選挙はまさしく、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」の結果であるべきだからです。そうでないと、マスコミに操作された情報だけで投票してしまいます。民主主義は、本来「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」によって支えられているのです。だからこそ、民主主義の国では教育が非常に大切になるのです。というかそのために教育があるのです。日本の学校では「正解」を押しつけそれを覚えるように求めていますが、民主主義というものが生まれた欧米の学校では、「正解」がないディベイトや、様々な表現活動が大切にされているのもそのためです。「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」を失った人たちが行うのは「衆愚政治」と呼ばれるものです。「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」を失った子は、人間関係を作るのが苦手です。試行錯誤したり、色々工夫するのも苦手です。人の話を聞いたり、自分の考えや感じたことを相手に分かるように伝えるのも苦手です。精神的に自立するのも困難です。最初の記事で「ゲームをやっている子は集中力が高い」ということが書かれていますが、それは裏を返せば、「ゲームをやっている子は、やるように言われた指示に従うことが出来る」という事でもあります。「やるように言われたこと」に従うとストレスが溜まります。でも、そのストレスをゲームで発散できる子は、「やるように言われたこと」に従うことが出来るのです。それだけのことです。それは本当の意味での集中力ではありません。機械は24時間働くことが出来ますが、それは集中力とは無関係ですよね。ゲームも放っておけばいつまでもやっていますが、それも集中力とは無関係です。「集中しているから続けている」のではなく、単に「止められないから続けている」だけだからです。それは「中毒」と同じ現象です。タバコを止められない人も集中して吸っているわけではありませんよね。私は、自由な造形や遊びの場で子どもたちと関わっていますが、ゲームばかりやっている子ほど、そういう自由な場では何をしたらいいのか分からず途方に暮れてしまいます。作ること、遊ぶこと、工夫することを楽しめないのですぐに飽きます。集中してやれば楽しくなるのですが、集中力が育っていないのでその集中も出来ません。それに対して、「本当の集中」では、それ自体が喜びなので、別の場でストレス発散などする必要がありません。勉強が大好きな子は勉強に集中する事が出来ます。「ゲーム」のような娯楽でストレス発散する必要がありません。だから「たまには勉強しないでゲームでもやったら」ということもあり得るわけです。皆さんだって大好きなことをしているときには、それ自体がストレス発散ですから、他にストレス発散の場を必要としないですよね。記事の中に書いてある「ゲームOK」の家の子供の方が集中力が高いというのは、裏を返せば「ゲームでストレス発散しないと集中力が低下する」ということでもあります。それはタバコ中毒の人がタバコを吸っていないと集中できないのと似ています。ゲームをするから集中力が育っている訳ではありません。でも、その勘違いをしている人が非常に多いのです。それだけのことです。だまされないで下さい。
2019.07.22
閲覧総数 2182
36

現代人は「感覚」とか「からだ」という視点が分からなくなってしまったため、「心」についても分からなくなりました。そのため、心に何かトラブルがあると、カウンセリングのような形で、相手の心と関わることで何とかしようとしています。コーチングと呼ばれる方法も基本的には同じです。確かに自分以外の誰かに話を聞いてもらったり、人に話をすることで心の交通整理が出来ます。自分の心に対して俯瞰的な視点を持つことも出来ます。そのことで、こんがらがっていた問題がほぐれることもあります。迷路の出口が見つかることもあります。ですから、意味がないことではないのですが、これらの方法で解決できるのは問題意識を持っている人や、自分の悩みを自覚している人の問題だけです。それはつまり、これらの方法では「心の中の問題」は扱えても、「心そのものの問題」は扱えないと言うことです。例えば、気質が違えば心とからだの状態が違います。この違いは本人達も自覚していません。問題意識も持っていないし、また問題でもありません。そのため、その人の心の苦しみがその人の気質に起因している場合、カウンセリングをしてもコーチングをしても無駄です。それはまた、「コマの回し方が分からないんです」という人の悩みは解決できても、「コマが嫌いなんです」という人の問題は解決できないし、また解決する必要もないということです。そもそも、「コマ」が嫌いな人はコマが回せないからと言って悩んだりはしないものです。それが悩みになるのは周囲からコマを回すように強制された時です。でも本人は、コマを回したいのではなく、強制されたくないだけなので、コマの回し方についてカウンセリングやコーチングを受けても意味がないのです。というかそういうものを受けたいとも思いません。また、子育てや教育の場でも、悩みを相談してきた子の問題を解決する場合には、カウンセリングやコーチングという方法は有効ですが、「子どもの心そのものをどう育てたらいいのか」という問題に対しては無力です。それに対して、感覚やからだという視点を持てば、相手がまだ言葉を話すことが出来ない赤ちゃんや幼い子どもであっても、「心をどのように育てたらいいのかと」いうことが分かります。発達障害と呼ばれる「ちょっと変わった子」との関わり方も分かります。鬱病や統合失調症のような状態で苦しんでいる人との関わり方も分かります。ただし、「治せる」ということではありませんからね。そもそも「心の問題」は治す必要がないことも多いです。実際、周囲が理解してあげるだけで問題が問題ではなくなってしまうことも多いのです。でも、心理学や、心理学に基づく方法では、このような問題で苦しんでいる人を扱うことが出来ません。そのため、すぐに「薬を使って、症状を落ち着かせる」という方法を使おうとします。心理学は「心の問題」を「心の中の問題」として扱おうとします。でも慢性的な「心の問題」の本質は、心の外側にある「感覚やからだの問題」なので、心理学では扱いようがないのです。「心」は「感覚やからだの状態を映し出すモニター」として働いているだけだからです。私の周囲にはゲシュタルト心理学にはまっている人が多いですが、ゲシュタルト心理学も部分的にですが、感覚やからだという視点も取り込んでいます。そうしないと説明できないことがあるからです。でも、ゲシュタルト心理学が「心理学」であるかぎり、本当の全体は見えません。心理学では、人間の世界を超えた問題は扱うことは出来ないからです。「人間の中の問題」は扱えても、「人間という存在の問題」は扱えないのです。発達障害という現象を扱う場合も、「人間の中の問題」として扱われることが多いです。だから「みんなと一緒」が出来ない子は、「障害児」として扱われることになってしまうのです。でも、発達障害を「人間という存在そのものの問題」として考えた時には、それは単なる障害ではなく、「警告」や「可能性」として扱うことも可能になります。それと、発達障害の子は独自の感覚を持っています。感覚や思考能力が不良品のように壊れているのではなく、ちゃんと機能している独自の感覚や思考能力を持っているのです。ですから、人間社会の「普通」を「正常」として基準にしたら「障害」になってしまうのですが、でも、その感覚や思考能力の個性を受け入れてしまえば、障害ではなくなってしまうのです。それはまた、人間が自分自身を相対的に理解するきっかけにもなるでしょう。それは、外国に行って始めて、日本のことを客観的に理解出来るようになるのと同じです。
2019.09.17
閲覧総数 792
37

子どもは成長を必要としています。また、成長を求めています。それが子どもの本能でもあります。でも、当然のことながら、食べて、寝て、テレビを見ているだけでは成長しません。そこにゲームが加わっても同じことです。衣食住が足りていれば体は正常に成長しますが、それだけでは、意識や、思考や、感覚や、からだや、心の働きが成長しないのです。ではなぜ、子どもは成長する必要があるのかというと、大人になった時に、一人前の人間として、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動できるようになるためです。多くの人とのつながりの中で、自分の人生を「自分のもの」として、自分らしく幸せに生きるためです。それが人間としての自然な姿なのでしょう。だから子どももそれを求めるのです。でも今、多くの子どもにおいて、それが満たされなくなってしまっています。なぜなら、多くの大人が求めるように、良い成績を取り、良い学校に入り、良い会社に就職するだけだったら、知識を溜め込めばいいだけのことなので、人間として成長する必要がないからです。そして今ではそれが日本の子育てや学校教育の「普通の姿」になってしまっています。でも、子どもの頃は大人が作ったシステムの中で、大人の指示命令に従って生活していれば済むのですが、学校を卒業して社会に出たら、突然、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動することを求められるのです。「社会に出る」と言うことはそういうことなんです。そこで求められるのは「自由を生きる能力」です。でも今、多くの子どもにその能力がありません。そういう学びをしてこなかったからです。そのため、社会に出ても、指示や命令を出してくれる依存先を探します。それがうまく見つかった子は会社からの指示命令に従って、退社するまで従順に働きます。死ぬまで働かされる子もいます。退職した後も、自分から積極的に動こうとしないので奥さんが困ります。就職が出来なかった子は、アルバイトや派遣になって、やはり同じように指示命令に従って生活します。それにもなじめない子は、ニートになったり、引きこもったりします。それはそれでまともな感覚のような感じもしますが、でも人間は仕事をしないことには生きて行くことが出来ません。指示や命令に従うことが嫌ならば、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動することで、自分の力で仕事を創り出すことは出来るはずなのですがそれもしません。というか出来ません。また、後継者がいなくて困っている仕事も山のようにあるのに、そういうものを探そうともしないし、そういう世界に入ろうとも思いません。テレビで見ている限りでは、そういう仕事の大部分は、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動する能力を必要とする仕事が多いような気がするのですが、そういうことも関係しているのかも知れません。今の日本の教育システムが創り出しているのは「労働力」としての人間だけです。日本の教育システムは「人間を育てるためのもの」ではないのです。だから、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動する能力を育てる必要がないのです。それよりも、「先生の言うことに従順に従う能力」を育てる事の方が重要なんです。でも子どもは、そのような状態の中に押し込められてしまうと、「成長したい」という欲求が満たされなくなり苦しくなります。人間にとって「成長」は本能なんですが、その本能が出口を失って苦しくなるのです。その苦しみが様々な「イジメや」「万引き」のような問題行動につながったりします。私は、学級崩壊もまた、子どもの「成長への欲求」が満たされないことによって生まれているのではないかと思っています。学ぶのが嫌だから騒ぐのではなく、ちゃんとした学びが出来ないから騒ぐのです。学級が崩壊すると学校は厳しい先生を投入して、厳しく管理することでその状態を押さえ込もうとします。でも、それで表面的には大人しくなっても、その「成長出来ない苦しみ」が消えたわけではありません。そのため、その苦しみが仲間に対するイジメや、叱らない優しい先生に対する攻撃という形で表れることもあります。学級崩壊を押さえるためには、子どもの「学びたいという欲求」を満たす授業をしてあげればいいのです。「学ぶって楽しい」ということに目覚めさせてあげれば子どもは落ち着くのです。先生が優しいからと言って、なめたり攻撃的にはならないのです。学校が本来の「子どもを育てる場」「子どもが育つ場」になれば、子どもは落ち着くのです。そうではなく、「子どもを管理する場」になってしまっているから、子どもが苦しみ言動が荒れるのです。これは子育てでも同じです。多くのお母さん達も、学校の先生達と同じように指示と命令だけで子育てをしています。子どもの「学びたい欲求」や「成長したい欲求」に気づき、それを支えてあげようとしているお母さんは多くないような気がします。それでいながら、「これを学びなさい、あれを学びなさい」と「学び」を強要しています。「子どもが必要とする学び」は与えずに、「大人の理想に合わせた子どもを育てるための学び」を押しつけるのです。その苦しみの中でゲームの中だけが子どもの救いの場になっています。そこまでは大人が追ってこないからです。また、ゲームの世界の中には擬似的な体験があるので、擬似的な成長もあります。それが楽しいのです。でも、現実の世界以外の所に自分の居場所を作ってしまうと言うことは、それはそれで別の問題につながるのです。では、「子どもの成長を支えることが出来るような子育て」とはどのようなものなのか、それを明日書きます。
2019.11.02
閲覧総数 976
38

最近、「社会人」としては問題がなくても「親」としては問題がある人が増えて来ているような気がします。1才の我が子をエアーガンで撃って遊んで、結局は死に至らしめてしまったというニュースをテレビで見ましたが、やることが実に幼いのです。最近は「趣味はゲーム」という大人も増えて来ましたが、精神性が子どものまま大人になってしまっている人が実に多いような気がするのです。(子どもも大人も、〝ゲームも好き〟というのならいいのですが、〝ゲームにしか興味がない〟というのは問題です。)幼児性が抜けないまま小学生、中学生、高校生になっている子も増えて来ています。というかその延長に今の大人の状態があるのですから、それは当然のことなのでしょう。「バイトテロ」などをする若者も同じです。犯罪を犯しているところを自撮りしてSNSにアップしたり、仲間をいじめているところを動画で撮ってアップしたり、死んでしまうような危険を冒しながら自撮りをして、結局死んでしまう子も結構います。やることが実に幼いのです。昨日も書いたように昔の若者は反社会的な行動をすることが多かったですが、今の若者は「反」ではなく「非」社会的な行動をします。つまり、「社会」というもの自体に対する理解が足らないのです。そのような子どもたちは指示や命令があれば行動できるのですが、自分の頭で考えて行動しなければならないような場面では途方に暮れてしまうのです。自分で目的を見つけて、計画的に考えて、自分の責任で行動するということがなかなか出来ないのです。確かに昔から困った子どもや困った大人はいっぱいいました。幼児虐待だって昔からいっぱいありました。イジメだって昔からありました。(学級崩壊はありませんでしたけど・・・)だから「昔の子や大人の方が素晴らしかった」などと言うつもりは全くありませんが、でも、最近の問題行動をするような子や大人の特徴はとにかく「幼い」のです。「悪い考えを持った悪い子だから問題行動をする」のではなく、幼さ故に自分が何をしているのか分からないまま欲求に従って行動してしまうのです。学級崩壊はその表れのような気がします。私が子どもの頃は「悪いことをする子」は、(変な言い方ですが)ちゃんと問題児でした。成長して「ヤクザ」になった子もいました。でも、今では、一対一で話をしていると普通のいい子なんですが、悪意もなく普通の感覚で困ったことをしてしまう子が多いのです。万引きも、仲間イジメも、教員イジメも「遊び」に過ぎないのです。教員による生徒イジメも同じです。相手が苦しんでいるのに悪意がないのです。だから、いじめられてしまった子が死んでしまっても「なんで?」という感覚しか持てないのです。また、周囲が困っていてもその事に気付きません。指摘されても「わざとじゃないから、自分のせいじゃない」などと言います。また、失敗すると誰かのせいにします。「嫉み(ねたみ)」の感情も強く、「ずるい」などということもすぐに言います。平等にしても「ずるい」と言うし、平等にしなくても「ずるい」と言うのです。とにかく、自分が一番でなければ「ずるい」と言うのです。昔から、兄弟の間ではこういうことは良くありますが、今では、結構普通にみんなこんな感覚なんです。(ネットのコメントを見てみると、この感覚に溢れています。)「仕付け」と称して、子どもを裸でベランダに立たせたり、食事を与えなかったり、ぶったり叩いたりしても、「それは子どもが悪いからであって自分のせいではない」と平気で言います。それでいて、自分の子がレストランで騒いでいるような時に他の人に注意されると、「私の子育てに干渉するな」と怒ったりします。他の人に我が子が叱られると、普段自分はそれ以上のことを言い、それ以上のことをやっているのに、「子どものやることなのに」などと食ってかかってきたりします。昔の子が他の子に暴力を振るう場合は、そこに何らかの原因や目的がありました。大人が困ったことをする場合にも、そこには何らかの原因や目的がありました。でも最近は、単に「気に入らないから」とか「自分がやりたいから」という理由だけで平気で周囲が困ることをしてしまう人が多いのです。そして、この自己中心的感性こそが幼児性の表れでもあるのです。このような子どもや大人でも、指示や命令を与えられればそれなりに行動することは出来ます。だから、学校生活や社会生活も普通に営むことも出来ます。でも、指示や命令がなく、自分で考え、自分で感じ、自分で判断して行動しなければならないような場では気分だけで行動してしまうのです。今、政治家も幼児化しています。教師も幼児化しています。親も、親でない人も幼児化しています。もちろんそうでない人もいっぱいいますが、そういう人がどんどん増えて来ているような気がしてしょうがないのです。英語の受験問題のアタフタ、オリンピックの問題のアタフタなどを見ていても「大人のやること」とは思えません。この流れを何とかしないと、大変なことになります。大人になりきれていない親に育てられている子どもも苦しいですが、自分で判断できず、どうしていいのか皆目分からない状態で子育てしている親もまた苦しいのです。大人になってからでも遅くはありません。大人になりましょう。
2019.11.09
閲覧総数 1068
39

昨日は「つながり」を失ってしまってしまった社会では、「学ぶ」ということ自体の意味も消えてしまったのです。ただ、「孤独を紛らわすための娯楽」さえあればいいのです。という所で終わりました。今日はその続き(になるかどうかは分かりませんけど)です。ちなみに「芋掘り」は大収穫で「こんなに採れちゃってどうしよう・・・・」というくらい採れました。八百屋さんを超える農協レベルです。*********人はなぜ学ぶのか、なぜ学びたくなるのか、なぜ学ぶことを楽しむことが出来るのかというと、学ぶことで世界が広がり自由になることが出来るからです。皆さんも、旅行に行く時には現地のことを色々と調べますよね。どういう名産があって、どういう料理が美味しくて、どういう観光名所があって、見所はどこかということを調べますよね。そういうことを知らないまま旅行に行っても自由に行動出来ないし、深く楽しむことも出来ませんよね。知ることや学ぶことで目的が発生するのです。そして、その目的に向かって活動し、困難を解決しながら前に進もうとすることで自由を手にすることが出来るのです。行く場所のことを知らされないまま旅行に連れて行かれても、旅を楽しむことも、自由に行動することも出来ませんよね。以前キャンプに行った時、隣のサイトからズーッとピコピコとゲームの音が聞こえていたことがあります。お父さんやお母さんは「外に出て遊べ」と言っているのですが、小学生位の男の子は、虫がいっぱいいて、汚くて、どう遊んだらいいのか分からない外の世界には全く興味がないようでした。そして今、多くの子どもたちが「遊び」に関しても「自分の人生」に対しても同じような状態になってしまっています。大人達は、「子どもが生まれ、生きて行く世界」のことを教えてくれません。その世界の素晴らしさや面白さを教えてくれません。見聞きすることも、ましてや体験することも出来ません。教えてくれるのは「何の役に立つのか分からない知識や技術」や、「知っていても使うことができない知識や技術」ばかりです。大人達自身も苦しそうに生きています。お母さんもお父さんも苦しそうです。一部の政治家(と信じたい)のように、自分の私利私欲を満たすために生きている元気な大人はいっぱいいますが、それは子どもには魅力のない大人の姿です。そういう大人しか知らない子どもに「自分の人生に希望を持て」と言っても無駄なことです。希望を持っていない大人に「希望を持て」と言われて希望を持てる子はいないと思います。むしろ、子どもはそういう大人を馬鹿にすると思います。また子どもたちは、外国の文化への興味も関心もない状態のまま外国語を学ばされています。大人も「技術としての外国語」を学ばせる事だけを考えていて、「その言葉を使って生きている人」や「その人達が創り上げてきた文化」のことは教えようとはしていません。というかそもそも知りません。そのため「試験のためだけの外国語」になってしまっています。そんな外国語を学んでも旅行以外の場面では使えないと思います。子どもたちは、自分が生きている世界との関係が分からないまま、算数や国語や社会を学ばされていますが、それは外国のことを知らないのに外国語を学ばされているのと同じ事です。それは、どこに連れて行かれるのか分からないまま、あれを持て、これを持て、こういう準備をしろと追い立てられているようなものです。それで言うことを聞かないと叱られます。行きたくないといえば、大人から非難されます。だから子どもは叱られない程度の最低限のことしかしません。そして、ゲームの世界に自分の居場所を作って、その中だけで自由に遊びます。子どもの学びに必要なのは、まず「現場」に連れて行く事なんです。それは全てがリアルで、みんなが真剣に生きている現場です。そこで生き生きと楽しそうに生きている大人達と触れ合うことで、そのような大人になりたいと思います。そこで、自分の意思でそのための勉強をするようになるのです。お子さんが「学校に行きたくない」と言ったら「しめた」と思って下さい。そして色々な現場に連れて行き、色々な大人と出会わせ、色々な体験をさせてあげて下さい。ゲームでも何でも好き勝手にさせるだけのフリースクールに行くよりは、その方がズーッと子どもの成長を支える力になります。
2019.11.18
閲覧総数 1037
40

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、全国すべての小中高校などを週明けの3月2日から臨時休校にするよう求めた政府の方針が出ました。いやー、大変なことになりましたね。前代未聞の事態ですね。4月、5月までに終息宣言を出さないとオリンピックが開催できなくなるので、暴挙に出たのでしょうね。米ロイターが「安倍はどこだ?」と書いたので、存在感を見せたかったのかも知れませんね。でも、政府のやり方には論理性も計画性もありません。これはクルーズ船の時から一貫して表れている政府の姿勢です。(というかズーッと昔からですけど・・・)また、ネットニュースで見ている限り、政治家達の間に緊張感もないようです。水に浮いたゴマを、目の粗いザルですくい上げるようなことしかしていないのに、「政府も頑張っているんだ」というアピールだけはしっかりとしています。それでも多分、新型コロナの流行はそう簡単には止まらないと思います。スーパーマーケットに買い物に行くだけでも感染してしまう可能性が高いのですから。スーパーマーケットでは不特定多数の人が集まり、誰が使ったのか分からないお店のカゴを持って、誰が触ったのか分からない品物を手にとって品定めをして、また棚に戻して、レジの人は素手でそれらの商品を扱い、素手でカードを受け取り処理します。いちいち品物やカードをアルコール消毒してから扱っているお店などないと思います。テレビでは「正しい手の洗い方」などを説明していますが、実際には、誰が触ったのか分からない「お店で買って来たもの」まで全て消毒しなければ意味がないのです。でもそんなこと出来ません。だからといって、スーパーやお店を一律にお休みにさせることは不可能です。買い物を止めさせることも出来ません。そんなことをしたら暴動が起きます。でも、冷静に考えてみて下さい。新型コロナウィルスに感染しても大部分の人は大した症状が出ないのです。だから、簡単に二次感染、三次感染が起きてしまうのですけど・・・。それに、人類だけでなく全ての生き物は、太古の昔から身の回りにいるウィルスや細菌と共存して生きて来たのです。ウィルスは生物の進化にも大きな役割を果たしてきました。私たちのからだにも無数の菌が住み着いています。住み着いていると言っても、人間に寄生しているのではなく人間と共生しているのです。どんなに清潔志向の人でも、からだには菌がウジャウジャいます。人間のからだから全部菌を取り去ってしまったら、人間のからだは正常に働かなくなってしまうのですから。腸の中の細菌は人間の心にまで影響を与えています。それでも私たちの免疫力がしっかりとしていれば、滅多なことでは病気になどならないのです。でも、免疫力が低下すると、生活の周囲にいるウィルスや菌との力関係が崩れて、病気になるのです。ウィルスや菌が一方的に人を病気にしているわけではないのです。だからウィルス自体をそれほど恐れる必要はないのです。それにウィルスや菌は排除しようとしても排除できないのです。「人間の世界」の中にウィルスや菌がいるのではなく、「自然」という「ウィルスや菌によって支えられている世界」の中に「人間の世界」があるのですから。海に浮かんでいる船の中に潮風が入ってくることを防ぐ事なんて出来ませんよね。それと同じです。問題はバランスなんです。それよりも、子どもから喜びを奪い、部屋に閉じ込め、ゲーム三昧にさせる方がよっぽど危険なんです。免疫力が低下してしまうからです。不安や運動不足は免疫力を低下させます。過剰な除菌もまた免疫力を低下させます。適度に太陽の光に当たらなくても免疫力は低下します。社会全体の流れはどうしようも出来ませんが、せめて、子どもたちや自分自身の免疫力を下げるようなことだけはしないようにした方がいいです。それが自分で出来る一番安全なウィルス対策です。学校がお休みなら、自然の中で思いっきり遊ばせてあげて下さい。
2020.02.28
閲覧総数 3408
41

私の生き方のモットーとして「転んでもただでは起きない」というものがあります。ネットの「故事ことわざ辞典」には「転んでもただでは起きない」を以下のように説明しています。 【意味】転んでもただでは起きぬとは、たとえ失敗しても、そこで利益になるものを得ることのたとえ。また、どんな事態になっても必ず何か自分の利益になるものを見つけ出すという、欲深い人間のたとえ。きっと私は「欲深い人間」なんでしょうね。私は滅多に怒ったりはしませんが、それでもまれに腹が立つ時があります。で、そういうことは滅多にないので、「シメタ」と思って、「怒っている時のからだ観察」をするのです。「人のからだは怒っている時どうなっているのか」を知るのに、こんなにも便利な方法はないからです。風邪を引いている時も、「シメタ」と思って、自分のからだを観察します。風邪を引いた時には「からだのどこがどんな感じなのか」、「意識やからだの状態はどのように変化していくのか」ということに興味があるからです。また、頭が痛い時もよく観察します。「痛みが頭の中でどのような空間を占めているのか」ということを観察していると、病気の経過に従ってその位置や大きさが移動していくことが分かります。色も変化しているかも知れません。からだのどこかが痛い時も同じです。わざと痛くしてみることもします。どうやったら更に痛くなって、どうやったら痛みが軽くなるのかを調べるのです。で、わざと更に痛い状態を作って、呼吸でその部分を緩めるようにしたりします。すると多くの場合、痛みは消えていきます。そうやって観察しているとからだは面白いですよ。今は「足の裏を感じる」というのをやっているのですが、足の裏を感じながらからだを動かすと、足の裏の筋肉?筋?がグニュグニュ動いているのが分かるのです。また、歩いてる時にちょっと手の指の状態を変えるだけでからだが軽くなって歩く速度も速くなったり、逆に、急に歩きにくくなったりします。何を見ているのかという違いもダイレクトにからだの状態に違いを与えています。垂直なものを見ている時と水平なものを見ている時とではからだの状態が違うのです。赤い色を見ている時と、青い色を見ている時もからだの状態は違うのです。対象と同時に自分のからだを観察するようにしているとそういうものが分かってくるのです。木を見ながら同時に自分のからだも観るのです。音に関しても同じです。ピアノの音とバイオリンの音とでは「からだへの働きかけ方」が違うのです。ただし、これは「私のからだ」を観察して分かったことなので、「皆さんのからだ」でも同じかどうかは分かりませんが、私が人類として「特別なからだ」を持っているのでなければ、多分、皆さんも似たようなことを感じることが出来るのではないかと思います。ちょっと話がずれてきてしまいましたが、どんなに嫌なものからも、必ず人は何かを学ぶことが出来るのです。今日はそれが言いたかったのです。皆さんも「転んでもただでは起きない」と欲深く生きてみませんか。そうすれば、今のこの状況からも「学ぶことが出来ることは」いっぱいあるともいます。こんなこと体験できるなんて、滅多にないことなんですから。ただ嘆き悲しみ、頭を下げて、からだを丸めて、早く通り過ぎるのを待つだけではもったいないですよ。
2020.05.02
閲覧総数 1254
42

木曜日は「気質の一日ワーク」をしたのですが、最初にいらした男性が扉を開けて開口一番に言ったのが、「椅子がないんですね」という言葉でした。そう、基本的に私のワークでは机も椅子も使いません。自由が失われてしまうからです。でも、この男性だけでなく、結構多くの人が机や椅子がないと戸惑ってしまうようです。普通、私は参加者が集まる前から会場にいますから、参加者が扉を開けて入ってくるところからその反応や行動を観察しています。そして、机や椅子がある場合はみんな当たり前のように場所を選び、座ります。そこに戸惑いは感じません。でも、何にもない会場だと入り口で一瞬固まってどうしようかと考えてから入ってくる人が多いのです。そして、あまり奥の方には入って来ずに、いわゆる「壁の花」状態で、入り口付近の壁のあたりに立ったり座ったりしている人が多いです。そして指示を待っています。時には、人がいるいないに拘わらず、平気でズカズカと奥の方にまで入ってくる人もいますが、胆汁質が強いかワークに慣れている人以外ではそういう人は少ないです。その時、人がいるところを選んで行く人もいれば、人がいないところを選んで行く人もいます。憂鬱質が強い人は人があまりいないところを選ぶ傾向があります。でも、憂鬱質でも、胆汁質でも、粘液質でも、多血質が強く混ざっているような人は群れたがります。粘液質が強い人は窓の近くを選ぶ傾向があります。一人でも気にしません。胆汁質が強い人は壁からも人からも離れた場所を選びます。と言っても、あえてそういうものから離れた場所を選んでいるのではなく、最初からそういうものには関心がないのです。このように、自由に考え、行動できる場ではその人の気質が見えやすくなるのです。そのためそういう指摘をして上げると、自分の感じ方や、考え方や、行動の仕方に対する傾向を知ることが出来ます。それが自分の気質の理解につながります。でも、座るべき場所や「やるべきこと」が決められているような場所や状況では、人は自分の気質ではなくその場のルールに従って行動してしまいます。そして、相手や場の要求に合わせて感じ、考え、行動しようとします。その時、胆汁質の人は「その場のルール」に従っていることに窮屈感を感じますが、そのほかの気質の人はルールがあることで安心感を感じます。そしてこれは多くの日本人が持っている感覚です。お母さん達も、忙しい忙しい、大変だ大変だと言いながらも、実は「やるべきこと」が決まっていることで安心感を得ているのです。だから、愚痴を言うだけで本気でその状態を変えようとはしないのです。「子育て」にも「家事」にも正解はありません。だから本当はもっと自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、もっと自由に子育てをしてもいいはずなんです。というか、子どもは一人一人違うので、自由に感じ、自由に考え、自由に工夫しないことには子育てなんか出来るわけがないのです。また、そのように子育てをしてもいいのです。それなのに多くの人が正解を求めています。また、誰が決めたか分からない「母親としてやるべきこと」に束縛されています。だから「苦しい」と感じているのでしょうが、でも、その状態は自分で選んで、自分で作っているのです。目の前には広々とした世界が広がっているのに、「知らない世界は怖い」「どうしていいのか分からないから怖い」と言って、壁際にうずくまって動ごかず、「狭い」、「苦しい」などと言っているようなものです。子どもはその広い世界の住人です。その広い世界の中で自由に行動しながら自分の可能性を広げ、世界との関わり方を学び、命の世界を発見しています。でも、お母さんは「自分で作った自分の砦」から出てくることが出来ません。出ようと思えばいつでも出れるのですが、「自由な世界」が怖いので出て行けないのです。そのため子どもの方をその自分の砦の中に閉じ込めようとします。そして、「外の世界は怖いんだよ」と教えます。恐怖心で子どもの行動を支配し、お母さんの砦の中から外に出ていかないようにするのです。その結果、子どももまた「自由で広い世界」を怖がるようになります。でも、逆にお母さんの方が子どもに合わせるようにすれば、その狭い砦から出て、自由な世界に出ていくことが出来るのです。すると子育てが日々発見の連続になり、「楽しいもの」に変わります。ただし、これをするためにはご主人の理解も必要になります。もしかしたら、これが一番難しいかも知れません。でも、そのご主人も「自分が選んだ人」ですよね。都知事の小池さんの言葉ではありませんが、「出来ない理由」を探すのではなく「どうやったら出来るのか」を考えるのです。そしてそれは誰にでも出来ることです。それをしようとしない人は自分で今の状態を選んでいるのですから、愚痴や文句を言わずに。今の状態を肯定的に受け入れることです。苦しくても、それは自分で選んだ生き方なんですから。自分が子どもの頃の出来事のせいにはしないことです。
2016.11.05
閲覧総数 1206
43

私たちは日常的に「感じる」とか「感覚」という言葉を使っていますが、その意味と役割と働きについて知っている人はほとんどいないと思います。だから、これほど早期教育や知育教育がもてはやされているのでしょう。そこに気づいたのが教育者としてはモンテッソーリとシュタイナーの二人でした。でも、二人はその感覚の捉え方においては全く異なっています。簡単に言うとモンテッソーリは感覚を「関わり合いによって育てるもの」と考え、シュタイナーは「環境の中で育つもの」と考えていたと言うことです。ただしこれは「極端に言うと」ということであって、その境界は曖昧です。環境を整えるのも間接的な「関わり合い」ですし、「関わり合い」もまた「環境」の一部ですから。そしてモンテッソーリは「関わり合いの方法」を創り出しました。それが「モンテッソーリメソッド」と呼ばれるものです。でも、シュタイナーはそのような具体的な方法を創ることはしませんでした。そのかわり、子どもの感覚が育つための環境をどのような視点に立って整えたらいいのかという思想を創りました。その「環境」の中には、大人の話し方や、立ち居振る舞いや、生き方や、住環境までも含まれます。だから「方法化」することが困難なんです。そのためモンテッソーリ教育では「大人が子どもを教育する」という立場を取りますが、シュタイナー教育では「大人は子どもの育ちの導き手」ではあっても、「教える」という立場の存在ではないようです。ですから、一般的にシュタイナー教育の先生は教えません。自分で気づくように環境や体験を整えるだけです。(ここに書いたことは学者でもない素人の私が、個人的な学びによって感じた感覚なので、もし専門に勉強なさっている方で、「ここは間違っている」という点がありましたらご指摘下さると嬉しいです。)そのためこの両者は同じように「感覚」に着目して、「子どもの感覚育て」を大きな柱にしているのですが、結果として子どもの中に育っていく感覚の質が異なっているような気がします。モンテッソーリ教育で育つ「感覚」は「外部を感じ取る感覚」がメインになると思います。そして一般的には「感覚」とはこのような認識で受け止められています。普通、「もっとちゃんと感じなさい」と言うときには、外部を感じる感覚を指しています。それは音であり、色であり、変化であり、動きであり、味やにおいや気配などです。ところが、(私が理解している)シュタイナー教育では、「(自分の)内部を感じる感覚」が育つような気がします。それは、快・不快の感覚であり、真・善・美の感覚です。「赤」と「青」を見分ける感覚ではなく、「赤」を味わい、「青」を味わう感覚です。「色」を見分けるのはそれほど難しくありませんが「音」を聞き分けるのはなかなか難しいものです。大人でも出来ません。違う「音」を並べてもらえば「違う」ということは分かりますが、時と場所を変えて聞かされると、比較できないために区別が困難になるのです。(本当は「色」も難しいのですが、色には「名前」があるので認識しやすいのです。)そんな時、自分の感覚やからだに響く感覚を味わうことが出来る人は、自分の感覚やからだが物差しになって、違う場所で聞いた音の違いを感じ分けることが可能になります。それはある意味で、「絶対感覚」というようなものだと思います。それに対してモンテッソーリ教育で育つのは「相対感覚」というようなものだと思います。ただし、この両者に好みの違いはありますが、優劣はありません。人間の生命や生活にとっては両方共が必要な感覚です。音楽の世界でも「相対音感」と「絶対音感」は両方共に必要なものです。ただ、芸術家などは「絶対感覚」がないと活動が出来ないと思います。でも、社会活動に必要なのは「絶対感覚」ではなく「相対感覚」のような気がします。心が病んでしまった人に対しては、シュタイナー的な「絶対感覚」を目覚めさせることが治癒につながります。「絶対感覚」が目覚めることで「自分」というものをはっきりと認識することが出来るようになるからです。心が病んでいる人でも「赤」と「青」を見分けることは出来ます。でも、赤い色を見て「赤」を味わい、「青い色」を見て「青」を味わい、その感じを言い表すのは困難なような気がします。そこには「自分との対話」が必要だからです。ですから、シュタイナー教育では「治療教育」というものに非常に力を入れています。この能力は社会生活には必要ありませんが、自分の生命を自分の意志で生きるためには必要な感覚だと思います。でも、現代社会ではこの感覚が完全に忘れられてしまっています。だから、心を病む人が増えているような気がするのです。ただし、しつこいようですが、私は「どちらが正しい」とか「どちらの方が良い」ということを言っているわけではありません。それよりも、物事を二つ以上の視点から複眼的に見ることの方が大切な気がします。どちらか一つだけに偏ると、「自由」を失い、長所も短所に変わってしまうものです。かといって、いわゆる「いいとこ取り」という考え方で、自分の立場をはっきりとさせないまま行うと、両方とも台無しになります。「自分の好み」に合わせただけの「いいとこ取り」は、「複眼」ではなく「単眼」だからです。
2012.03.15
閲覧総数 4566
44

現代社会は競争社会です。日本でもかなりすごいのに、話に聞くと韓国やシンガポールなどはもっともっとすごいようです。当然のことながら、競争意識が強い国では小さい時から子どもを追い立てます。子どもが嫌がっても、追い立てて他の子よりも早く社会的に有利な能力を身につけさせないと、落ちこぼれてしまい、不幸になってしまうという不安があるからなのでしょう。シンガポールの病院で赤ちゃんを産んだ人の話では、生まれたばかりの赤ちゃんにも「頭が良くなる薬?」を飲ませているようです。それでその人がその薬を拒否したら、「赤ちゃんの時から競争は始まっているのよ」と脅かされたそうです。子育てにおいては子どもを追い立てても決していいことはありません。確かに、早期教育をすれば、お金を得るための能力は身につくかもしれませんが、心もからだも不安定になり、「幸せを感じる能力」や「幸せに生きるための能力」は確実に育たなくなるでしょう。もっとも、競争意識が身についてしまっている人は「お金こそが幸せなんだ」「お金がなくても幸せだなんて嘘だ」と思い込んでいるでしょうから、『「幸せを感じる能力」や「幸せに生きるための能力」など誤魔化しだ』と言うでしょうけど・・・。そのような人は「お金こそ幸せ」なんでしょうから、それはそれでいいのかも知れませんが、ただ確実に言えることは、競争社会では一部の人しか「幸せ」を手に入れることが出来ないということです。競争社会では勝ち組は少数しか存在することが出来ないのです。逆に言うと、そのことを知っているから、みんな競争するわけです。それはつまり、少数の「勝ち組の幸せ」は多数の「負け組の不幸」の上に成り立っているということです。私にはそれ自体が不幸な状態だと思えるのですが、「お金がすべて」という価値観の人は「自分さえよければOK」と思い込んでいるのでしょう。そのように過度の競争意識に支配されてしまっている国に共通しているのは、自分の国の歴史や文化を喪失してしまっているということです。具体的に言うと、欧米化される以前の歴史や文化が消えてしまっているのです。なぜなら、それ以前の歴史や文化を否定する形で欧米化を進めてきたのですから。自国の歴史や文化を否定しないことには欧米に追い付くことが出来ない、という焦りがあったのです。日本でも明治維新の時や戦後それは徹底して行われました。「風の交響曲」という大好きな映画があるのですが、その映画の中ではタイの民族楽器やそれにつながる文化を守ろうとする人々の姿が描かれています。タイでも、戦争中は徹底的に「古いもの」は否定されたのです。音楽や楽器すら否定されたのです。ただ、日本と違うのは(映画を見る限り)タイでは軍部の圧力で「古いもの」を捨てさせたのに、日本では日本人自らが喜んで「古いもの」を捨ててしまったということです。日本人は自ら進んで「根なし草」になったのです。その根なし草は、競争に勝つことによってしか、自分の位置を固定させることが出来ません。足場として存在していた大地を失ってしまったため、今度は仲間を足場にするのです。それはつまり、他者の犠牲の上にしか自分の立場を築くことが出来ないということです。ヨーロッパに行って感じるのは、300年前の人たちの生活と、現代人の生活がつながっているということです。田舎の方に行くと町の風景すらも300年前からそれほど大きく変化していません。そこでは、人から人へとちゃんと歴史や文化がつながっているのです。そのような社会では過度の競争は起きません。なぜなら、過度の競争は人と人のつながりや、社会や文化の多様性を崩壊させ、せっかく守ってきた歴史や文化を失うことになってしまうからです。「守るべきもの」を受け継ぎ、伝えようとする意識を持っている社会の人々は無駄な競争などしないのです。言い換えると、いくら「競争をやめよう」と訴えても、「守るべきもの」が存在していない社会や状況では競争はなくならないということです。これは個人でも同じで、「守るべきもの」を受け継いでいる人は無駄な競争などしないのです。「守るべきもの」を持っていない人は自分自身のアイデンティティーにおいて不安だから競争するのです。だから誰かを競争させようとする人は、その人が大切にしていることを否定するのです。そして、子どもを競争に追い立てている人は、「子どもが大切にしているもの」を否定するのです。この競争社会を終わらせるためには、子どもが大切にしていることを大切にしてあげることです。それが「幸せな社会」を作るための第一歩です。そして、自分自身もまた「本当に大切なこと」に目覚めることです。それが「幸せな人生」を生きるための第一歩です。
2012.05.31
閲覧総数 587
45

全ての生物の中で、人間だけが自分の意志で「自分」を変えることが出来る能力をもっています。でも、それが人間の素晴らしさであると同時にもろさでもあります。なぜなら、その能力は自分を「良い方向」にも「悪い方向」にも変えることが出来るからです。そしてもし、多くの人が「自分中心」の価値観だけで、「自分のことばかり」、「人間のことばかり」、「自分の国のことばかり」「大人のことばかり」「健常者のことばかり」「元気な人のことばかり」を考えるようになってしまったら、人々の意識も、感覚も、世界も閉ざされ、「心の中の光」も「他者とのつながり」も失われ、社会も、世界も、未来も、「悪い方向」へと流れていくでしょう。それでもそのような価値観の人たちは「他の人」を責めるばかりで、「自分自身の生き方」を反省しないでしょう。そのような社会では、子育てや教育は「人間としての成長」という視点が失われ、単に「飼育」や、「調教」や、「訓練」と同じような意味しか持つことが出来なくなります。そして、「子どもの笑顔」が消え、この世界は「支配するもの」と「支配されるもの」だけに分けられるようになるでしょう。私は、そんな社会は大嫌いなのですが、でも困ったことに、人々の意識も社会全体の流れもその「悪い方向」に動いているような気がします。そんな流れの中で、社会が「悪い方向」に向かわないように色々な活動をしている人たちがいます。私の周囲にも多くの「賛成派」や「反対派」がいます。そして、署名活動をしたり色々な活動をしています。でも、私はいわゆる「賛成派」にも「反対派」にも与(くみ)しません。私は、「原発のない社会」「戦争のない社会」を望みます。ですから、そのような活動をしている人を応援はしています。でもだからといって、私自身は「○○反対」とか「○○賛成」といった活動には参加しません。私は、結果の如何に関わらず、両者がお互いの意見を尊重し合い、ちゃんと話し合い、対話し、その結果出た答えを尊重します。「勝ち負け」だけで出た答えは危険です。戦いだけで勝ち取った安全や平和は独りよがりであると同時に不安定です。それは歴史が証明していることです。そして私は、両者がお互いの意見を尊重し合い、ちゃんと話し合い、対話すれば、人間は「原発」や「戦争」を選択しないと信じています。なぜなら、人間はその本質において「幸せや平和を望む賢い生き物」だと思うからです。じゃあ、どうしてこんな社会になってしまっているのかというと、それは現代社会が「対話を否定する社会」だからです。実は、人間の賢さは「対話」の中で育ち、「対話」の中にこそ現れるのです。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がありますが、人間は対話することで仏様に匹敵するほどの智恵を得ることが出来る不思議な存在なのです。でも、「対話」を失った人や社会は、その賢さを育てる事も発揮することも出来なくなり、「人間」よりも「野生動物」に近い状態になってしまいます。なぜなら、「人間の賢さ」は遺伝子に書き込まれたものではなく、「対話」を通して育ちの中で学ぶものだからです。また、自分で「自分」を「良い方向」に変えようとする場合にも、多くの人との対話が必要になります。自分一人だけでいくら考えても、多くの場合「自分」を否定する方向にばかり考えが進んでしまうため、「自分」を変えることが出来ないのです。「自分」という世界を閉ざしたままでは、決して「良い方向」へは変わらないのです。「対話」には、その「閉ざされた世界」の扉を開く働きがあるのです。多くの子ども達と接していて感じる事ですが、自分の頭で考え、自分の感覚で感じることが出来、心が落ち着いているような子は一様に「対話が出来る子」です。多分、家庭の中にも対話があるのでしょう。でも逆に、自分の利害損得ばかり主張し、平気でみんなが困ったことをするような子や、自分の頭で考えたり、自分の感覚で感じたりすることが苦手な子とは「対話」が困難です。家庭の中にも対話がないのでしょう。その背景には、テレビや、ゲームや、ネットや、携帯といった「直接的な人と人の対話」を否定する道具の進歩と、家庭内への浸透があるのだと思います。また、「便利な機械」が「自分との対話」までも奪ってしまいました。私が20年以上前に教室を始めた時に一番驚いたのが、この「対話が出来ない子ども達」との出会いでした。そして今、この「対話が出来ない子」が普通になってきてしまっています。そのような子は親になっても、子育てが困難だと思います。子どもは「自分の言葉に耳を傾けてくれる人」の言葉には耳を傾けますが、「言葉をただ押しつけてくる人」の言葉は無視してしまうものです。また、「子どもから学ぼうとする人」からは「良いところ」を学ぼうとしますが、「子どもを調教しようとするばかりの人」からは「悪いところ」ばかりを学ぼうとします。ちなみに、コメントに色々と書き込んで下さるのも一つの「対話」の形です。
2014.01.02
閲覧総数 90
46

昔は、子どもには「子どもの文化」と、「子どもの社会」がありました。そしてそれは、「大人の文化」や「大人の社会」の中に取り込まれることなく、同時並行的に存在していました。ですから子ども達は、大人と一緒の時には大人の文化や価値観に合わせていましたが、子どもだけで遊んでいるときには、そういうものと全く関係のない「子どもの文化」や「子どもの価値観」の中で「子どもらしく」遊ぶことが出来ていたのです。これは、男性と女性も同じで、昔は男性には「男性の社会」と「男性の文化」があり、女性には「女性の社会」と「女性の文化」がありました。それは、それぞれに時代を超えた「縦のつながり」が受け継がれて来ていたからです。それが社会の変革を阻害する保守性の原因でもありましたが、同時に、子どもや、男性や、女性を守るシェルターとしても働いていました。子どもには子どもの群れの中でしか出すことが出来ない自分があり、男性には男同士の飲み会のような場所でしか出せない自分があり、女性には女だけの井戸端会議のような場所でしか出せない自分があるのです。でも、現代社会は、男性と女性を区別しません。そして、両方とも、同じ「労働力」として扱われています。確かに、人間を単なる「労働力」という視点だけから見てしまえば、「男性」と「女性」を分けて考える意味はなくなります。それをすれば「差別」にもなりかねません。そして、「労働力としての自分」に誇りを感じている人は、「男だけの社会」「女だけの社会」を嫌うでしょう。ちなみに、「お金を稼いでいる自分」に誇りを感じていると言うことは、「労働力としての自分」に誇りを感じているのと同じ事です。そこには、「人間としての自分」という視点がありません。子どもや、男性や、女性は「人間」ですが、「労働力」は必ずしも「人間」を意味するものではありません。だから簡単に機械に置き換えることが出来ます。労働をマニュアル化するのは、人間を機械化するのと同じ事です。そこには、「仕事を通して人を育てる」という発想がありません。近代社会は、人間を非人間化することで成り立っているのです。そして、その人の「人間としての価値」は、「労働者としての価値」と同じものとして扱われるようになりました。実際、交通事故などに遭ったときの賠償金額には、その「労働者としての価値」が大きく影響しています。事故で、「仕事をしていない年取った女性」を死なせてしまった場合と、「若くて社会的地位も高くて、バリバリ働いていた男性」を死なせてしまった場合とでは、同じ「一人の人間の命」ではあっても、明らかに賠償金額は異なります。本来、「生命の重さ」に差はないはずなのですが、現代社会は人間を「労働力」として扱っているので、必然的に「差」が生まれるのです。そして昔は、子どもには子どもの文化、女性には女性の文化、男性には男性の文化が代々受け継がれていましたが、現代社会では、「文化」は「子どものもの」も、「男性のもの」も、「女性のもの」も全部一緒くたになってテレビから流れてくるようになりました。そのため、「子どもの文化」を失ってしまっている子ども達は、「大人の文化」に強く影響を受けるようになりました。そして、子ども達は「子どもの文化」に触れることなく、一気に「大人の文化」に触れ、大人化し始めました。今、子ども達が夢中になっているのは「子どもから子どもへと受け継がれて来た子ども文化」ではなく、「大人達が商売のために作り出した子ども文化」ばかりです。それらは全て大人の価値観で作られています。子どものための番組でも、ちゃんと仕付け的な要素が配慮されています。昔の子どもは蛙やヘビを解剖したり、火薬を使って危険なことをして遊びましたが、そういう遊びを紹介する子ども向け番組は存在しません。そんな番組を作ったらすぐに親からクレームが来ます。「クレヨンしんちゃん」ですら「子どもに見せたくない番組」になっているのですから。大人も「大人の文化」を失っていますから、楽しそうで、可愛らしく、夢がある「大人が作った子どもの文化」に強く影響を受けるようになりました。大人の社会から夢が消えてしまったので、大人達が「子どもの世界」に癒やしを求め始めたのでしょう。昔は、大人の社会とは無関係な存在であった、アニメや、ゲームや、コスプレ文化のようなものが、堂々と大人の文化の中に入り込み始めたのです。その結果、子どもと大人がやることに大きな違いがなくなりました。男性と女性の違いも消えてきました。そして、多様性と生命の活力が失われました。ただ私は、このような現代社会を否定しているわけではありません。否定したところで全く意味もありません。歴史は元には戻せないし、戻したからといった今よりいい状態になるとも限りません。大切なのは、このような状態をちゃんと理解した上で「未来のこと」を考えることなのです。そのためには、「得たもの」もあるけど、それと引き替えに「失ったもの」もあるのだということに気付く必要があるのです。私たちは「失ってしまったもの」を忘れてはいけないのです。なぜなら、子育てではその「失ってしまったもの」が必要になるからです。社会は変わってしまっても、子どもは何万年も前と同じ状態で産まれてくるのです。ですから、その育ちに必要なものも何万年前と基本的には同じです。それは、「肌と肌を触れ合わせる温もり」であり、「目と目を見合わせる共感」であり、「心と心を通わせる対話」であり、「世界を理解するための物語」であり、「ボタン一つで結果を出すこと」ではなく、「発見すること・工夫することを楽しむこと」であり、「感覚やからだを使い仲間と共に自然の中で遊ぶこと」などです。そのようなものに満たされることで、原始の状態で生まれてくる赤ちゃんは、人間らしさを育てる事が出来るのです。それが、人類が文化や文明を進歩させてきた要因でもあります。また、そのことを忘れてしまうと、何万年も前と変わっていない私たちの「心」と「からだ」にも問題が発生します。古代人と現代人が大きく違うのは「知識」と「意識」という「脳の中の世界」だけであって、脳そのものも、心も、からだも、生命の仕組みも古代人と同じなのですから。
2014.07.08
閲覧総数 155
47

みなさま、夏休みもあともうわずかですね。お子さんは今頃宿題に追われていますか。(うちの子どもたちも必死でやっています。)いっぱい、遊びましたか。ところで、先日息子に付き合って茅ヶ崎の中央公園にセミの羽根を拾いに行ったのですが、なぜかアブラゼミの羽根しか落ちていないのです。木々にはアブラゼミだけでなくいっぱいミンミンゼミも鳴いているのに、そのミンミンゼミの羽根が落ちていないのです。そもそも、セミの死骸が落ちていません。みんな鳥の食料になってしまっているのでしょうか。また、なぜかアブラゼミとミンミンゼミばかりで、ヒグラシも、ツクツクホーシも、ニイニイゼミもいません。クマゼミはいます。どうしてなのでしょうか。それと、子どもと一緒に歩いていて驚いたのはセミが逃げないのです。私が子どもの頃はソーッとソーッと近付かないと、パッと逃げてしまったはずのセミたちが、すぐ側まで行っても全然逃げないのです。それで、息子に“セミが逃げないね”と話しをしていたら、息子がセミに“おうべいか”とセミの頭1cmくらいの所まで手を振り下ろしたのに、それでも逃げないのです。これは「驚き桃の木山椒の木」でした。それで、“これじゃ手で簡単に取れちゃうじゃん”と手を伸ばしたら、案の定置いてあるものを掴むのと同じ感覚でセミをつかまえることができるのです。逃げる気配がないのです。これも、驚きました。そして、ミンミンゼミ、アブラゼミ、クマゼミと簡単につかまえることが出来ました。もちろんすぐ逃がしましたけど。驚きました。でも、そのように色々と試していくとまれにパッと逃げるセミもいるのです。大部分のセミは逃げないのに、パッと逃げるセミもいる、この違いはどこから来るのでしょうか。考えられるのはつかまえられる体験をしたセミが逃げて、まだつかまえられる体験をしていないセミが逃げないのではないかと言うことです。昔の子どもたちの夏の遊びと言ったら虫取りばかりでした。そして、夏休みの提出は「昆虫標本」ばかりでした。昔の子どもはみんな虫を追いかけて遊んでいたのです。だから、セミもすばしっこかったのでしょう。でも、今では公園でセミを捕っている子どもがあまりいません。大体、小学生くらいの子どもたちのグループを公園で見かけることがあまりありません。これは海にいっても、山に行っても同じです。子どもがいても多くは親子連れか、何らかのグループでの活動です。でも、さらに不思議なのは、こんなにも昆虫天国なのに、昔と比べて昆虫の種類が激減してしまっていることです。私が子どもの頃には海にも山にももっともっと色々な種類の生き物たちがいっぱいいました。でも、今では同じ種類の生き物ばかりがいっぱいいるのです。多様性を支える自然界のシステムが狂って来ているのかも知れません。生命は多様性が支えているのですから、このことは他の生命全てにも大きな影響を与えているのでしょうね。
2007.08.21
閲覧総数 708
48

今日先生から以下のようなコメントを頂きました。 いま、リーダー育て、これが大事なのですね。リーダーとは、責任を持てるもの。教師もその意味では、リーダーなのですね。リーダー育て、真剣に考えないとですね。今、このことは多くの人が多くの所で言っています。でも、そのようなことが語られる時、何か勘違いしている人が多いのです。それは、今日先生のブログでも時々取り上げられている三浦朱門の以下の言葉にも表れています。(以下は今日先生のブログからコピーさせて頂きました。)『戦後はできないやつのために手間と暇をかけすぎた。落ちこぼれにかけすぎた手間をこれからは有能なエリート候補に振り向ける。彼らが日本を引っ張ってくれる。無才、非才にはただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ』『エリート教育がゆとり教育の目的。それを言うと抵抗が大きいので、ゆとり教育とまわりくどく言っただけだ』* 三浦朱門氏・・・・80年代半ばに文化庁長官も務めた作家で、教育改革国民会議の有力メンバーである。やはり作家の曾野綾子氏を夫人に持つ三浦氏は、"ゆとり教育"を深化させる今回の学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた最高責任者である。これは物事の全体とその間のつながりを見ることが出来ない人の言葉です。エリートがエリートという理由だけでリーダーを勤めることが出来るのは軍隊や会社のような縦型社会だけです。(でも、そういう軍隊や、会社はもろいでしょうけど・・・)一般の社会ではエリートだからと言ってリーダーになどなれないのです。そのそもエリートとリーダーとは何の関係もありません。エリートとは大衆から切り離された特別な存在のことです。でも、リーダーとはその大衆のつながりの中で先頭に立つことが出来る人のことです。つまり、リーダーとは大衆の中にいて、その人達をまとめることが出来る人のことなんです。これは地域の中でも、学校の中でも、家庭の中でも同じです。場が違えば場の数だけリーダーが必要なのです。多くの場合お父さんは、会社ではリーダーではなくても家庭の中ではリーダーとして家族をまとめる必要があります。それはお母さんでもいいのですが、とにかく家庭の中にもリーダーは必要だということです。ただし、リーダーとは支配し、命令する人ではありません。みんなの話を聞いて意志決定が出来る人のことです。支配者がいても、このリーダーがいない家庭は分裂します。もちろん、学校の先生も生徒をまとめるリーダー(のはず)です。(支配者のように君臨している先生も多いようですけどね・・)また、クラスの遊び仲間の中にもリーダーは必要です。さらには、一人で活動している時にも自分が“自分”のリーダーとして活動する必要があります。人目や、人の意見ばかり気にしている人は自分の心のリーダーにすらなることができません。そういう人は、もちろん他の人をまとめるリーダーになどなることができません。つまり、リーダーとは特別な人のことではないのです。これがエリートとは決定的に違う点です。ですから、優秀な一部の人を集めてエリート教育をしても、決して優秀なリーダーなど生まれるわけがないのです。優秀なリーダーは優秀な大衆の中からしか現れないのです。(だとすると、優秀なリーダーのいない今の日本には優秀な大衆もいないということになります。)リーダーが倒れた時にはすぐに次のリーダーが現れてグループをまとめることが出来るような人たちの中から本当のリーダーは生まれるのです。リーダーが倒れた時、右往左往してしまうようなグループなら、そのリーダーも大したことはないのです。そして、自分で責任を取りたくない、自分の頭で考えないような人たちばかりのグループなら、力で支配する無能なリーダーしか現れないのです。もし、本気でリーダーを育てようとするならば一人一人の全ての子どもをしっかりと育てることです。それはつまり、一人一人の子どもを自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動できるように育てることです。全ての子どもにリーダーとしての教育を行うのです。グループの全員がリーダーの役割を知っているからこそ、みんなでリーダーを支えることが出来るのです。そして、そういうグループのリーダーだからこそ優秀なリーダーシップを発揮することが出来るのです。そして、そういう人たちが増えてくれば、家庭も地域も変わっていくでしょう。
2007.12.23
閲覧総数 904
49

もう大晦日になってしまいましたね。今年は1月に父が亡くなり、葬儀や、実家の片付けや、売却などがあり、色々忙しい年でしたが、無事、年の最後を迎えることが出来ました。感謝 感謝 です。皆さまにも今年一年有り難うございました。来年もよろしくお願いします。********************************人が何かを無くしたときは、まず「普段の目線」で、「ありそうな所」を探しますよね。それは、いつも置いているところ、いつも行っているところに置き忘れたか、落としたかと考えるからです。でも、それでも見つからないときには、同じことを繰り返しても無駄です。それで次は「視点」や「目線」を変えてみます。何かの下になっているのではないか、下に落ちているのではないか、誰かが片付けたのではないかと考えるのです。また、下ばかりではなく、部分だけでなく、上の方や全体を見回してみる必要もあります。「ここにあるはずだ」という思い込みだけで探していると、いつまで経っても見つかりません。「ここにあるはずだ」というところを探しても無かったわけですから、「あるはずがないところ」を探すしかないのです。「あるはずだ」にこだわっていると、いつまで経っても見つかりません。また、人を疑うことにもなるでしょう。それでも見つからないときは、他人より先にまず自分自身を疑ってみましょう。自分よりも先に他人を疑うとトラブルが増えるばかりです。人は普段から、自分でも気付かない行動をしているものだからです。私の場合は大抵この時点で見つかります。そんなところに置いたつもりはないのですが、何かをするときに手に持っているのが邪魔だったので、無意識に側の棚の上に置いてしまい、そのままになってしまってしまうようなことが時々あるのです。人は無意識的な行動の記憶はありません。それが「無意識」と呼ばれるものの特徴です。ですから、それが無意識的な行為なら、いくら想い出そうとしても想い出せないのです。だから、「想い出すことが出来ないところ」も探す必要があるのです。そして人間の活動の大部分は無意識的に行われています。ですから、「自分のことは自分が一番よく知っている」というのは間違いです。人が自分のことで知っているのは、「想い出せる記憶」の中に残っていることだけです。それは「思い込みの自分」であって、「ありのままの自分」ではありません。人は、「想い出せる記憶」が「自分の全て」だと思い込んでいますが、実際には、それは「思い込みの自分」に過ぎず、その人全体のほんの数パーセントにも満たないものなのです。だから、人は自分で自分が思い通りにならないわけです。「忘れ物」も見つからないし、子育ての悩みも解決出来ないのです。自分のことを100%知っているなら、「悩み」なんか簡単に解消出来てしまうはずです。何か問題が解決出来ない状況に苦しんでいる人は、「人は自分で自分のことを知らない」ということははっきりと知っておいた方がいいです。このことを知らないと、「子育て」でも「自分育て」でも、同じ所をグルグルと回るだけになってしまいます。人間の活動の大部分は記憶には残らないか、無意識の働きによる「想い出せない記憶」なんです。例えて言うと、「意識」は「闇夜の懐中電灯」のようなものです。闇夜に懐中電灯を持って歩くと、当然のことながら照らされているところしか見ることが出来ません。それは世界全体のほんの一部にもならないような小さな範囲に過ぎないのですが、でもその光に頼っている人は、その「小さな範囲」だけが「世界の全て」のように錯覚してしまいます。人は「見えるところ」しか見ることが出来ないのにも関わらず、「見えた世界」だけが「世界の全て」だと思い込むように出来ているのです。そして、その「小さな範囲」の中だけで物事を考えたり、探したりしています。だから迷子になってしまったり、どん詰まりに詰まってしまい、身動きが取れなくなってしまうのです。「今までのやり方」でうまく行かないときには、「新しいやり方」を探して、試してみるしかありません。それは懐中電灯に頼ることを止めてみると言うことでもあります。その時、強い不安を感じますが、でも大丈夫なのです。なぜなら、あなたが足を踏み出せば、そこが照らされるからです。言っている意味が分かりますか。実は、あなた自身が「光」なんです。その「自分の光」に気付かないから、小さな懐中電灯に依存して、狭い範囲の中から出てくることが出来ないのです。実は、私たちが持っている「懐中電灯」は、親や先生や大人達によって与えられたものなのです。「勉強しなさい 勉強しないと・・・」と言われ続けていると、そのような見方、考え方しか出来なくなります。そうやって「懐中電灯」が作られていくのです。「自分の光」に気付くために、その懐中電灯を一度消してみるのです。それは不安を伴います。勇気も必要です。でも、「本当の自分」に出会い、「自分の可能性」に目覚めるためには、今までの自分の考え方ややり方が通用しないことにチャレンジしてみるのが一番手っ取り早いのです。それは「暗闇の世界」の中に一歩踏み出すということでもあります。人は新しい状況の中に置かれたとき、自分の中に隠れていた「自分でも知らない自分」が目覚め、「本当の自分」と出会うことが出来るからです。それは簡単なことでも構いません。いつもは通らない道を通ってみる。いつもと違う叱り方をしてみる。いつもと違う話し方をしてみる。何でも自分でやるのではなく、人に任せてみる。いつもすぐに叱ってしまうようなことでも、叱らないで静かに見てみる。いつもは着ないような洋服を着てみる。そんな簡単なことでも、「新しいこと」をやると、「新しい自分」が目覚めるのです。それがあなたの中の「光」であり、「可能性」でもあるのです。実は、「自分が知っている自分」よりも「自分が知らない自分」の方が遙かに大きいのです。人は誰でも「可能性の固まり」なんです。でも、その可能性は新しいことに挑戦しない限り暗闇の中で眠ったままなのです。
2014.12.31
閲覧総数 763
50

かあさん3年生改め、かあさん4年生が私が自分に合った心の使い方を見つけてそれを体現できるようになるまで、これからたくさんの時間を費やしてしまうでしょう。その間にも娘はどんどん大きくなります。まだ間に合うのか…と新しい不安も抱えつつ新年を迎えることになりそうです。と書いて下さったので、しつこいようですがこれもちょっと取り上げさせて頂きます。ここには大きな勘違いがあります。そして、かあさん3年生改め、かあさん4年生のような勘違いをしている人は多いと思います。焦れば失敗します。しかも、その失敗を繰り返します。そして、子どもは失敗しているお母さんを見続けることになります。そして、失敗することを学んで行くでしょう。どんなにお母さんの心の中の理想が高くても、子どもが見ているのは「お母さんの日常」だけなんです。そして子どもはその「日常」からのみ影響を受けているのです。このような状態の人は、「今の自分に出来ること」を探そうとせずに、「今の自分には出来ない事」ばかりを探しています。「出来ること」に挑戦するなら、努力すれば成功しますが、「出来ない事」に挑戦したら失敗するのは当然のことです。「ちいさな努力を積み重ねる」という発想をせず、いきなり「完璧な結果」を求めるのです。そして、それが「自分に自信がない人」の一般的な発想です。どうしてそのような発想をするのかというと、そのような人が望んでいるのは、「今の自分」を成長させることではなく、「違う自分」になりたいだけだからです。「今の自分」が嫌いだから、「違う自分」になりたいのです。だから無意識的に「今の自分」には出来ないような理想を求めるのです。でも、冷静に考えれば分かる通り、それは不可能なんです。人に出来ることは「今の自分」を成長させることだけなのです。だから「今の自分」を肯定するところからしか成長は発生しないのです。今の自分にでも出来ることをちゃんと知り、それに丁寧に取り組んでいくのです。「大したことがないような小さなこと」を一つ一つ丁寧に積み上げていくのです。朝、ちゃんと起きる。ちゃんと食事を作り、ちゃんと食べる。ちゃんと子どもやパートナーと挨拶を交わし、ちゃんと会話する。頭だけでなく、心や、感覚や、からだもしっかりと使って生活する。そういうさりげないことをしっかりと丁寧にやっていくことが大切なんです。すると子どもは、「自分を肯定し、目標に向かって努力する」という心をお母さんの姿から学ぶことが出来ます。「目標に達した姿」は見せることが出来なくても、「目標に向かって努力する姿」を見せることで子どもは成長するのです。その姿がどんなにかっこ悪いものでも、人は「努力する姿」に感動し、影響を受けるのです。そして、それは今日からでも出来ることです。確かに、お母さんが目標にたどり着く頃には子どもは大人になっているかも知れませんが、でも、子どもは毎日のお母さんの姿から「人として生きて行くために本当に大切なこと」を学ぶことが出来ます。それでいいのじゃありませんか。そして、人にはそれしか出来ないのです。
2014.12.29
閲覧総数 918