1
昨日は、私は子育てや教育の最終的な目標は「感じる楽しさ、やってみる楽しさ、学ぶ楽しさ、つながる楽しさを伝えること」なのではないかと思っています。子ども達が「自分らしさ」に目覚めるのはその結果です。自立して生きることが出来るようになるのもその結果です。「生きる楽しさ」に目覚めるのもその結果です。と書きましたが、子ども達をただ遊ばせているだけではこのような状態にはなりません。確かに、子ども達の知性と、心とからだと、社会性の健全な成長のためには、「自然の中での仲間との自由な遊び」が非常に重要な役割を果たしてくれますが、それだけでは十分ではないのです。子どもの成長には「大人とのつながり」、「文化とのつながり」、「社会とのつながり」も必要だからです。これが抜けたまま、子どもたちをただ自然の中で自由に遊ばせているだけでは「大人になっても大人の社会に入っていくことが出来ない野生児」が育つだけです。「自然の中での仲間との自由な遊び」は、子どもの知性や、心やからだ、そして社会性の育ちの基礎を育ててくれます。でも、このような遊びが育ててくれるのはあくまでも基礎だけです。家づくりでも「しっかりとした基礎」は必要ですが、基礎だけ立派でも、上物が貧弱だったら快適に生活するのは困難になってしまいますよね。でも実際には、「基礎を無視していきなり上物を建て始める人」と、その逆に、「基礎だけを大切にして上物には関心がない人」が多いのです。基礎を育てる時には子どもの周囲の環境を整えてあげるだけで何とかなります。そこで必要になるのは親や、子どもの周囲の大人たちの「子どもの成長に対する理解」です。森の幼稚園のような活動はこの基礎作りで大きな役割を果たしています。それに対して、上物が育つ手助けをするためには「大人との関わり」が必要になるのです。子どもが幼い時にはお母さんの生き方から強い影響を受けています。お母さんが日本語を話していると子どもも日本語を話すようになります。お母さんが「子どもの言葉」に耳を傾けていると、子どもも「お母さんの言葉」に耳を傾けるようになります。お母さんが子どもとの関わりを避けていると、子どもは大人を信用しなくなると同時に、仲間との間にも良好な関係を築けなくなります。でも、9才ごろから子どもは親に対して反発を感じ始め、親以外の大人との関りを求めるようになります。そして次第に「親からの影響」よりも、「自分が憧れる大人(先輩も含まれます)からの影響」の方が大きくなっていくのです。それまでの親の影響は受動的なものでしたが、この頃から能動的に模倣し始めるのです。ですから、この頃から子どもを狭い「子どもだけの世界」から、もっともっと広い「大人の世界」と出会わせてあげる必要があるのです。でも、ここで問われるのが親自身の生き方や、子どもの周囲の大人の生き方なんです。親の生き方が、「子どもがどういう大人の世界と出会うことが出来るのか」ということに強い影響を与えているからです。お母さんやお父さんが音楽が好きで、いつも家で聞いていたり、歌っていたりすれば子どもは「音楽の世界」と出会う事が出来ます。お母さんやお父さんが山登りが好きでいつも一緒に登っていれば、必然的に子どもも「山登りが好きな大人」との出会いが多くなるでしょう。私は、子どもやお母さんたちとの遊びや、様々な表現活動をしてきました。ですから、私の周囲には遊び大好き人間や、ちょっと変わった大人達がいっぱいいます。そして、うちの子ども達はそのような「ちょっと変わった大人達」の影響を受けながら成長しました。
2024.12.01
閲覧総数 285
2
私は子育てや教育の最終的な目標は「感じる楽しさ、やってみる楽しさ、学ぶ楽しさ、つながる楽しさを伝えること」なのではないかと思っています。子ども達が「自分らしさ」に目覚めるのはその結果です。自立して生きることが出来るようになるのもその結果です。「生きる楽しさ」に目覚めるのもその結果です。でも実際には、多くの大人たちがその逆をやってしまっています。勝手に「良い子」、「良い生徒」の正解を作って、減点法で子どもたちのあら捜しばかりしています。ですから、お母さんたちに「お子さんの短所を聞かせてください」と聞くと山のように出て来るのに、「長所を聞かせてください」と聞くと急に静かになってしまいます。出てきたとしても、「お手伝いしてくれる」「ちゃんと片付ける」「下の子の面倒を見てくれる」など、お母さんにとって都合の良いことばかりです。でもこれは、「大人の価値観や都合で子どもを評価した時の長所」であって、「子ども自身が自分の人生を肯定的に生きようとするときに必要になる長所」ではありません。確かに、「お手伝いしてくれる」「ちゃんと片付ける」「下の子の面倒を見てくれる」ということは素敵なことです。でもこれだけでは子どもが自分らしく生きることが出来るようにはならないのです。大切なのは、「子ども自身がその行為を楽しんでいるのかどうか」ということです。それは子どもが「言われたことだけ」をやっているのか「言われたこと以上のこと」をやっているのかという点を見ていると分かります。「やらないとお母さんや先生に叱られるから」という理由だけでやっている子は最低限のことしかしません。「勉強しないとお母さんに叱られるから」という理由だけで勉強している子は、暗記は出来ても、感じ、考え、理解することが出来ないのです。そのため、どんなに長い時間勉強しても、そこから何も学べません。当然、成長にもつながりません。でも今、そのように「言われたことだけ」しか出来ない子、しようとしない子がすごく多いのです。会社でもそのような状態の新入社員が多いという話をよく聞きます。そういう子はすぐに指示を求めてきます。教室でも、山のように造形関係の本が置いてあるのに自分からは調べようとせずに、「先生、何をやったらいいの?」「次はどうするの?」と聞いてくる子がいっぱいいます。色々と考えた末にそのように聞いて来るのはいいのですが、ほとんどの子が調べようともせず、考えようともせずに反射的に聞いて来るのです。私はこの言葉を聞くたびに悲しくなってしまいます。そのような子どもたちに「やるべきこと」を指示しても、「自分がやっていること」を楽しむことも、その行為から学ぶことも出来なのです。その証拠に、そのような子は、再度同じ事をすることになった時にも同じ事を聞いてきますから。それで私は「最初は教えるけど、二度目は教えないよ」と突き放します。すると「イジワル」と言われます。それで私は「愛のムチ 愛のムチ」とか、「そうだよ、私はイジワルじいさんだから」と言い返します。そういう状態の子が一番苦手なのが「自由」です。自由を与えられても戸惑ってしまうのです。そのため、学校を出た後困ってしまうのです。子育てが始まったとき困ってしまうのです。「人生」にも「子育て」にも正解はないし、傍に付き添って指示を出してくれる人もいませんから。会社に入れば指示を出してくれる人はいますが、「言われたこと」だけしかやろうとしない人は会社でも評価されません。そしてそういう子は、失敗したり、思い通りに行かないとすぐに放り投げてしまいます。楽しんでいないからです。「子育て」は放り投げることが出来ませんから、苦しみ続ける事になります。
2024.11.30
閲覧総数 235
3
「子どもが学校に行けなくなった、学校に行かなくなった」と悩んでいる人がいっぱいいます。「子どもや子育てが思い通りにならない」と悩んでいる人も多いです。「子どもが勉強しない、成績が悪い」と悩んでいる人も多いです。そういう人たちの話を聞いてそれらの悩みを要約してみると、その多くが「子どもが大人の期待に応えてくれない」というものばかりです。子どもが「大人の期待」に応えてくれないから、どうしていいのか分からず途方に暮れ悩んでいるのです。確かに、子どもが大人の期待に応えてくれたら子育ても、教育も楽になるでしょうね。「学校に行きなさい」と言ったら、グズらず素直に学校に行ってくれたらお母さんは安心しますよね。「椅子に座っていなさい」と言ったら「立っていいよ」と言われるまで、ジーっと座っていることが出来たり、「静かにしなさい」と言われたら、おしゃべりもせずおとなしく出来たらお母さんも先生も助かりますよね。先生が「これを覚えなさい」と言ったら、ちゃんと覚える努力をしたり、宿題を出したら積極的に宿題をやってくれたら先生は助かりますよね。「ゲームは1時間よ」と言われたら、ちゃんと自分でチェックして1時間経ったら自分の意思でやめることが出来たら、お母さんは安心しますよね。でも皆さんは、そういう「大人の指示に素直に従う子ども」を望んでいるのですか?私だったら、そういう子どもは気持ちが悪いです。また、そういう子は大人になっても自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することが出来ないでしょう。それはつまり、自分の意思で自分の人生を自分のものとして生きることが出来ないということでもあります。子育てや教育は、何のため、誰のためにするものですか?どうも、現代人はその「子育ての根本」「教育の根本」の所が分からなくなってしまっているような気がするのです。私は子育ても教育も、「子どもの成長を支えるためのもの」と考えています。大人の役割は、子育てや教育を通して、子どもが将来自立して、自分の人生を自分らしく、幸せに生きることが出来るようになる手助けをすることだと考えています。ある程度は親の期待、大人の期待、社会の期待を子どもに求めるのは仕方がないことですが、それを優先してしまうことで子どもの成長を阻害してしまったらその願いも叶わなくなってしまうのです。子どもと親の間にしっかりとした信頼関係が築けていれば、親の期待を子どもに押し付けなくても、子どもは親や大人の気持ちをちゃんと受け取ってくれるのではないでしょうか。支えられて育った子は、他の人のことも支えようとするのではないでしょうか。そこで問われるのは「子どもに対して何をするか」ではなく「親自身の生き方」です。「学校に行くか行かないか」、「お母さんや先生の指示に従うか従わないか」ということも、このような視点で考える必要があるのではないかと考えています。「学校に行くか行かないか」よりも「子どもの成長」の方が大切なんです。「学校に行くことが子どもの成長につながるのかつながらないのか」、そういう視点で学校というものを考え直してみる必要があるのではないかということです。そもそも、先生や学校は「子どもの成長」を望み、その手助けをしようとしているのでしょうか。それとも、「先生の期待に応える従順な子」に育てようとしているのでしょうか。前者のような意識で教育に当たっている先生たちもいっぱいいます。そのような意識で作られた素敵な学校もあります。でも、後者の意識で教育に当たっている先生もいっぱいいるし、そのような意識で運営されている学校もいっぱいあります。そのような学校では「子どもの成長」よりも学級運営、学校運営の方を優先しています。両者とも同じ「学校」ではあるのですが、子どもに与える影響は正反対になってしまうでしょう。ですから、「学校に行くか行かないか」という視点ではなく、その選択が「子どもの成長につながるのかどうか」という視点で考えた方がいいような気がするのです。ただし、ベストを求めない方がいいです。ベターでいいのです。
2024.11.28
閲覧総数 746
4
日本では昔から、大工の仕事でも、武術でも、農業でも、商売でも、家事でも、何らかの技術を学ぶときには、まず、現場を見るところから始めました。現代では、まず知識を与えられ、お手本を見せられ、丁寧に教えられ、お手本を真似しながら学ぶようになっています。間違ったら丁寧に教えてもらえます。それは、学校のような場で行われている方法です。でも、昔の人は、最初のうちは下働きのようなことばかりをやらされて、その仕事をやらせてはもらえませんでした。教えてももらえませんでした。たとえば、大工の修行の最初の三年間はノミを研ぐことしかやらせてもらえなかったそうです。大工になりたくて大工の弟子に入ったのに、大工の仕事は教えてもらえなかったのです。だからといって、その間、ただノミを研いでいるだけのような人はその先に進めませんでした。「おれはノミ研ぎを学びに来たんじゃない」と文句を言うような人は追い出されました。いま、そんなやり方をしたらみんなやめてしまいます。今の若者は懇切丁寧に教えてもらうことに慣れていますから。でもそこにはちゃんと深い意味があったのです。本当にやる気のある弟子は、ノミを研ぐ合間に、先輩や師匠が言っていることに耳を澄まし、やっていることをよく観察して、技や呼吸を盗んでいたのです。そこにあるのは、受動的な学びではなく、能動的な学びです。そうやって「大工の仕事はこういうもんなんだ」という「全体」を理解していたのです。そして、大まかな「全体」が理解出来た頃から、「部分」の学びに入ったのです。職人の学びでは「全体から部分」へと入っていたのです。でも、現代の学びでは「部分」があるばかりで、「全体」がありません。だから「全体」を壊すようなことを平気でやってしまうのです。それは例えば、平気で「デザインは素敵だけど住むのには不便」という家を建ててしまうようなことです。昔は、子どもの遊びでも、小さな子は最初見ているだけか、特別ルールで扱われるだけで、まともに遊びには入れてもらえませんでした。現代でそれをやったら「いじわる」になってしまいますが、でも、その「見ているだけ」の間に、「仲間と仲間をつなぐもの」が分かってくるのです。そうして、自分勝手を言わなくなるのです。「遊び」は教えることが出来ても、「仲間と仲間をつなぐもの」は教えようがないのです。「部分」は教えることが出来ても「全体」は教えようがないのです。以前、大衆演劇で有名だった人の内弟子になっていた人の話を聞いたことがありますが、演劇がやりたくて内弟子になったのに、演劇のことを教えてもらえずに、お茶を出したり、お風呂を沸かしたりとか、そういう雑用ばかりやらされていたそうです。しかも、その雑用に対しても、理不尽な要求ばかりされたそうです。例えば、「お茶やお風呂はいつも同じ温かさにしろ」と言われていたので、いつも温度計で温度を測っていたそうです。でも、怒られるのです。温度計で同じ温度にしているのに、「今日のは熱い」とか「今日のは温い」などと言われて叱られるのです。それで非常に戸惑ったし、悩んだそうです。でも、ある時、「温度計を基準にしているからダメなんだ」と気付いたというのです。師匠は温度計で測っているわけではなく、自分の肌で感じているのですから、師匠のからだの状態を基準にして温度を設定しないと「同じ温度」にはならないということです。つまり「体感温度」を一定にしろということなのですから、夏と冬とでは温度を変える必要があったのです。からだを動かして汗をかいた後と、ジーッとしていたときとでも温度を変える必要があったのです。そしてそのような「相手の状態を読む感覚」が、大衆演劇では必要な感覚だったそうなんです。それは、観客の温度を感じて演技をするということです。現代人は、「じゃあ、最初からそう教えてくれればいいじゃないか」と思いますが、教えてもらった人は、そのことしか学ぶことが出来ません。それは単なる「知識」です。でも、自分で悩んで、苦しんで、考えてそのことに気付いた人は、他のことでも同じような気付きを得る能力を得ることが出来るのです。お風呂で学んだことを舞台で使うことが出来るのです。それは「一を知って十を知る」能力です。教えてもらった人の場合は「一」は「一」のままで、「十」にはならないのです。ちなみにこの「十」は、「一の十倍」ではなく、「全体」という意味です。これは造形でも同じで、人のを見て、自分の頭で考えて、失敗を繰り返しながら作ることが出来る子は、応用が得意です。「全体」が見えているからです。教えてもらわないと出来ない子は、「部分」しか見ることが出来ないので、同じ事を繰り返すことしか出来ません。部分しか見えない子は、不安が強いので、新しいことに挑戦することも出来ません。このようなことは子育てでも同じです。ちなみにシュタイナー教育でも「全体から部分へ」という方法を取っています。せっかく教えたことなのに「忘れてもいいよ」と言うのはそのためです。(むしろ忘れさせようとします。)でも、「部分から全体へ」という考え方に慣れてしまっている現代人には、そのやり方が理解出来ないのです。ちなみに、「部分」をどんなに積み上げても「全体」にはたどり着きません。手足や内蔵や骨などの全てのからだのパーツをつなぎ合わせても、「生命ある存在」にはならないのです。まず全体を統括する「生命」があって、その必要に合わせて、後からそこに手足や、内蔵や、骨格といったパーツが生まれてくるのです。そういう学び方を現代人は忘れてしまいました。30年ぐらい前にシュタイナー教育に出会った時、「シュタイナー教育にはそれがある」と気付いて、「ここには本物がある」と思ったのです。でも、「本物」は分かりにくいのです。
2017.08.05
閲覧総数 1179
5
小学校の低学年ぐらいまでなら、子どもの勉強に付き合っているお母さんは多いですよね。幼稚園ごろから子どもの知育教育に熱心なお母さんも結構いますよね。でも、お母さんは勉強を教えない方がいいですよ。「勉強が出来る子」に育てたいのでしょうが、結果は「勉強が嫌いな子」に育つだけですから。そして、「勉強が嫌いな子」は中学生頃から急に失速し始めます。また、勉強を教えようとするお母さんは、当然、子どもよりも自分の方がよく分かっている、自分の方が賢いと思い込んでいます。そのため、常に「上から目線」で教えようとします。子どもがなかなか理解出来ないと「なんでこんなことも分からないの」などとイライラしたり、叱ったりもします。そして「親子の関係」も悪くなります。そもそも、「子どもよりもお母さんの方が賢い」というのは大きな勘違いなんです。お母さんはただ「正解を知っているだけ」だからです。「どうしてそうなるのか」を理解しているわけではないのです。(もちろん全員がそうだというわけではありませんが、そういうお母さんの方が圧倒的に多いです。)「1+1=2」ということを知っているから、「そんなの当たり前でしょ」と言うのです。そして、子どもがなかなか分からないと、ミカンなどを持ってきて実際にやって見せて教えようとします。でも、「1+1=2」を理解しているお母さんはそんなこと言わないと思います。でもそのようなお母さんは少ないです。数学的な「1」と、「ミカン1個」は全く別のものです。これが同じものだと思い込んでしまった子は、分数や、小数点や、虚数が出て来ると途方にくれます。お母さんは、自分が知識として知っていることを子どもにも覚えさせようとします。でも子どもは「覚えようとする」のではなく「理解しようとしている」のです。お母さんは「1+1=2」を覚えさせようとしますが、子どもは「1+1=2」を理解しようとしているのです。だから手間がかかるのだし、お母さんと話が合わないのです。実は、お母さんよりも子どもの方がズーッと頭を使っているのです。そのことは知っておいた方がいいと思います。子どもが生きているファンタジーの世界も、子どもが自分の頭で自分が生まれてきた世界を理解しようとした結果です。ですから、大人がやっている空想とは全く別のものです。子ども達がお話しや、物語や、絵本が大好きなのは、そのような物語を聞くことが、「自分が生まれてきた世界」を理解する手助けになるからです。その際、ネコが長靴を履いていても、ウサギが人間の言葉を話していてもそれは大した問題ではありません。大事なのはそのようなお話しを通して、自分が生まれてきた世界が「つながり」によって支えられていることを知ることだからです。でも、頭を使わなくなって久しいお母さんはそのことに気付きません。そして、覚えるように強制するだけで、理解する手出すけを与えようとはしません。その結果、子どもは「考える楽しさ」「理解する楽しさ」「知る楽しさ」「想像する楽しさ」を体験することなく、暗記だけで対応するようになります。確かに、小学校のうちは「暗記に頼った勉強法」が有効です。暗記するだけで簡単に成績を上げることが出来ます。そのため、この勉強法の問題点に気づかないのでしょう。でも、暗記は楽しくありません。ただの作業です。いくらいっぱい覚えても、子どもの成長を支える働きもしません。また、知識をいくらいっぱい覚えても、理解する能力が育っていない子は、その知識を使いこなすことが出来ません。何か問題が起きても、ネットなどで知識を探すばかりで、自分の頭で考えようとしなくなります。こういう状態の子は闇バイトなどでもすぐに騙されてしまうでしょうね。また、子育てでも苦労します。子育ては、どんなにいっぱい知識を持っていても、ほとんど役に立たないからです。「1+1=2」を知っていても子育てには役に立ちませんが、「1+1=2」を理解している人はそれを子育てにも応用できるのです。子どもが何か問題行動をした時、子どもの立場に立って「なんでだろう?」と考えることが出来る人は、子育てを楽しむことが出来ます。でも、ネットなどですぐに対処法を探すような人は子育てを楽しむことが出来ません。子どもが「1+1=2」が分からない時、知識を教えるのではなく、子どもの視点に立って一緒に考えることが出来る人は、子どもの学びを支えることが出来ます。<続きます>
2024.11.01
閲覧総数 768
6
今、「新しい学校」を作りたいと思っている人がいっぱいいます。そして実際に「新しい学校」を作るために活動している人もいっぱいいます。私の周辺にもいます。ただ、その時に気を付けなければならないのは、熱心な人たちが、どんなに頑張って「その人たちにとって理想的な学校」を作っても、「理想は人それぞれ」だということです。「シュタイナー教育」が理想だと考える人もいれば、「モンテッソーリ教育」が理想だと考える人もいます。また、他の教育法が理想だと考える人もいます。理想よりも現実に合わせた教育を求める人もいます。「大人の理想」と「子どもの理想」も同じではありません。また、その時は「理想」であっても、学びや体験を経て「理想」が変わることもあります。「子どもの時の理想」が大人になったときも理想であるとは限りません。小説「大地」を書いたパール・S・バックは、若い時は「性善説」を信じていたそうですが、様々な体験を経て「晩年は生悪説に変わった」という話も読んだことがあります。それに伴い「理想」も変わったでしょう。また、「立ち上げた人たちの理想」が、必ずしも「その学校を受け継いだ人たちの理想」と同じであるとは限りません。会社でも、創業者には「創業者の理想」があり、二代目には「二代目の理想」があるかも知れません。まただから、キリストは一人でも、2000年以上の時を経て、今ではカソリック、プロテスタント、ギリシャ正教などの様々なキリスト教があるのです。また、お釈迦様は一人なのに、その教えを伝えた仏教は日本だけで、法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、 日蓮宗、などといっぱいあります。小乗と大乗にも分かれています。詳しくは知りませんが、シュタイナー教育でも色々な考え方をする人がいるようです。ですから、「万人向けの理想の学校」などと言うものは存在しないし、そのようなものを作るのは不可能なんです。ただ、この様に様々な形に分かれても、目指している所は、ほぼほぼみんな同じなのではないでしょうか。ただ、そこに至るまでの過程の理解と、方法論が違っているので、様々な派や宗に分かれてしまったのでしょう。その目指しているところは「幸せ」です。どの宗教もどの派でも、みんな「幸せ」を目指している点では共通しているのです。ただ、一人一人「求めている幸せの形」が違うのです。それは人が10人いれば、「10通りの異なった幸せの形」があるということです。社会的に成功することの中に幸せを求める人がいます。自己実現をすることの中に幸せを求める人がいます。お金をいっぱい得ることの中に幸せを求める人がいます。快楽の中に幸せを求める人がいます。愛する家族や仲間に囲まれることの中に幸せを求める人がいます。生命の真理、宇宙の真理を知ること、またそれとの一体化の中に幸せを求める人がいます。まただから求める宗教や教育法にも色々とあるのです。モンテッソーリ教育が目指している「幸せの形」と、シュタイナー教育が目指している「幸せの形」も違います。ただ言えることは、「自分だけ幸せになることは出来ない」ということです。お金をいっぱい得ることの中に幸せを求める人は、宝くじで高額が当たればその時は幸せを感じるでしょう。でも、その幸せは長続きしません。宮沢賢治は世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ないと言いましたが、私も同じ意見です。この世界には、色々な価値観、色々な考え方、色々な宗教の人がいます。そういう人たちがみんな幸せに生きることが出来るようになるためには何が必要なのでしょうか?どういう教育が必要なのでしょうか?私にも正解は分かりませんが、大切なのはそれを問い続けることなのではないでしょうか。私が学校や教育に求めているのは、「理想的な教育の形」ではなく、子どもの笑顔、周囲の笑顔を見ながら、「何が正しいのか、これでいいのかということを常に問い続けることが出来る学校や教育のあり方」です。また、その「問い続けること」を基本理念としてしっかりと据えた教育法が私にとっての理想の教育法です。「これが正解だから、これを覚え、この方法に従いなさい」と押しつけるような教育方法は私は嫌いです。
2024.11.29
閲覧総数 331
7
私は現代人があまりにも「正解」にこだわっていることに危機感を感じています。以前、あるお母さんから「子どもは褒めて育てた方がいいのでしょうか、それとも厳しく叱って育てた方がいいのでしょうか」と聞かれました。その時私は「褒める時には褒めて、叱る時には叱ればいいのですよ」と答えたのですが、でも「それではどんな時に褒めて、どんな時に叱ったらいいのかが分からないので、どっちの方がいいのかを教えて欲しい」というのです。自分の頭で考えると言うことは、必然的に「不安」がつきまといます。私だって不安を感じながらこのブログを書いています。だから、何回も何回も読み直して校正しているのです。それでも、多少の不安は消えません。ですから、自分の頭で考えることに慣れていない人の場合は、「自分で考えなさい」などと言われてしまうと私以上に不安になるでしょう。そして、それが大部分の人の感覚だろうと思います。なぜなら、日本人は「自分の頭で考えること」に慣れていないからです。それは、日本人の能力が低いというより、そういう教育を受けていないからです。ちなみに私は「本を山ほど読むこと」、「幾何学」、「数学の証明問題」、「様々な表現活動」、「物理学の学び」、「造形活動」、「身体的なエクササイズ」、「文章を書くこと」などを通して、自分の思考力を育ててきました。というより、結果としてそのような活動が自分の思考力を育てるのに役に立ってきたということです。そして、これらに共通しているのは「正解がない」ということです。計算問題の答えには正解があるのですが、証明問題には「たった一つの正解」というものがないのです。だから、証明問題の答えを覚えても意味がありません。また、「答え」には正解がある計算問題でも、その解き方は一つではありません。ガウスという数学者は、子どもの頃学校で「1から100までを足した数を求めなさい」という問題が出た時、即座に答えを言ったそうです。他の子は「1+2+3+4+・・・」とまじめにやっている時に、あっという間に答えを出してしまったのです。日本の子どもなら「答えを暗記していた」という事なのでしょうが、ガウスは考えたのです。その計算式は「101×100÷2」です。お分かりになりますか。これなら暗算で出来ますよね。あるお母さんから聞いたのですが、その方のお子さんが自分なりのやり方を発見して数学の証明問題を解いたのに、先生が「正解集の解き方と違う」というだけの理由で「間違い」にしてしまったそうです。日本の教育は「正解」を覚えるだけの教育です。理科や数学の授業ですら同じです。音楽や絵画ですら「正解」を覚えるだけです。そういう授業しかやっていないので当然思考力は育ちません。それなのに、国際的な学力調査で日本の子どもの思考力が低下していると騒いでいます。自分の頭で考えることを否定するような教育をしていたら思考力が育つわけがありません。そんな当たり前のことが分からないほど日本の政治家の思考力は低下しているのです。だから、「大人の政治」が出来ないのです。自分の頭で考えることが苦手な人は「正解」を求めます。マニュアルを求める人も同じです。そして、正解やマニュアルがなくて、「自分の頭で考えなければならないような活動」には近寄りません。やむおえず、そういう活動をしなければならない時には強い不安におそわれます。最初に書いた母さんも「正解」を求めているのです。自分の頭で考えることが出来ないので、「正解」を与えてもらわないと不安になってしまうのです。ですから、色々な本を読んだり、講演会に参加したりして「正解」を求めているのです。でもそれが、もともと正解があることならばそれでもいいのですが、「子育て」には正解がありません。それで、不安を解消するために勝手に「正解」を作ってしまう人がいっぱいいるのです。特に自分の体験談だけで子育てを語る人にその傾向があります。世の中には色々な子どもがいて、色々なお母さんがいて、色々な事情や状況があるのにもかかわらず、自分が体験から学んだことだけを「正解」として言い切ってしまうのです。そして、多くの母さんがその「成功例」を「正解」として信仰します。そして、その正解から外れた子育てや子どもは非難の対象になります。みんな理想的な「正解」を求めるあまり、「目の前の現実」と向き合おうとしないのです。まるで宗教のように、「正解」を信じることで将来の「安心」を手に入れるのです。でも、その「正解」は「誰かさんの正解」かも知れませんが、少なくとも「あなたの正解」ではないのです。今、学校では子どもを叩きません。でも、昔の先生はよく子どもを叩きました。中にはそれで苦しんだ人もいるでしょうが、それでも大部分の子どもたちは「また叩かれちゃったよ」程度でやり過ごしていました。今の先生は叩きませんが、でも、だからといって先生と子どもたちの信頼関係が強くなったわけではありません。むしろその逆のような気がします。そして、暴力の代わりに先生の言葉で傷ついている子どもはいっぱいいます。ただし誤解しないで欲しいのは、私は「先生が生徒を叩くのは正解だ」と言っているわけではありません。ただ、「叩く」か「叩かない」かという見かけだけに正解を求めるのではなく、「学校は子どもを育てる場である」「教師は子どもを導き、育てる存在である」という認識に沿った行動であるかどうか、という視点で個々に判断すべき問題なのではないだろうか、ということです。今の学校の先生は叩きませんが、昔の先生よりこの視点が欠落してしまっているような気がしてならないのです。それは「叩く」、「叩かない」という問題より、学校の存在意義そのものに関わるほど重要な問題です。子育てでも「虐待はいけない」と言われます。実際、虐待で苦しんでいる子はいっぱいいます。死んでしまう子すらいます。子どもがそういうことで苦しまないように願うこと、そしてそのために活動することは大切なことです。でも、それを「お母さんを監視するような方法」で止めようとするのは間違っていると思います。「虐待はいけない」というのは、抽象論のレベルにおいては誰も反論できない「正解」です。でも、実際に「どのような行為が虐待に当たるのか」という具体的、現実的な状況においては正解などないはずです。そこで勝手に「ありもしない正解」を作り上げて、それを基準にしてお母さんを監視しようとするのは、「子どもを育てる」という視点において正しいことなのだろうかということです。結果として子どもが死んでしまったから「虐待だ」と非難されるだけで、そのまま成長してちゃんと一人前の大人になってしまっている人だっていっぱいいるのです。実際、幼児期に「虐待のようなこと」をやってしまったと証言するお母さんはいっぱいいます。そのような人の多くは、苦しみながらもその連鎖から逃れることが出来たのですが、その幼児期に「虐待」を通報されていたら、親子の関係はどうなっていたでしょうか。私は、虐待の監視を厳しくしてお母さんを不安にするより、「お母さんを孤独にしない」ような活動の方に力を入れるべきなのではないかと思うのです。でも、政治家はそういう事にはあまり関心がないようです。そして、そのためには学校教育から変える必要があるでしょう。クラスの中でさえ、仲間が助け合うことができないような状況の中で育った子が、子育ての時だけ仲間作りが出来るわけないからです。また、正解に依存せず、自分の頭で考える能力を育てるような教育にもっと力を入れるべきです。虐待に走ってしまうお母さんの多くは「正解」に縛られているような気がするからです。正解に縛られているから子育てが苦しくなってしまうのです。タバコの問題も同じです。タバコが体に悪いのは事実です。でも、それを「タバコを吸うことは悪いことだ」という正解を作り上げて、日本中から排除しようとするのはおかしいような気がします。吸っていい所と、吸ってはいけない所を分けるのは大切なことですが、タバコやタバコを吸う人を「悪人」にするのは見当違いのような気がするのです。「子育ての責任者はお母さんだ」というのも、誰かが作り上げた「正解」です。そして、多くのお母さん達がその「正解」に縛られています。民主主義や自由主義が「正解」だというもの、誰かが勝手に作り上げた「正解」です。その「正解」を証明することは出来ません。本来、正解のない世界では多様な価値観が共存していたのです。そして、正解はその価値観に基づいて、個々に存在していたのです。価値観が違えば、正解も違うのです。でも今、社会全体が「正義」の名の下に「価値観」を統一しようとしています。そして、それを「正解」として人々に押しつけています。今、新聞で話題になっている「ホメオパシー」の問題も同じです。西洋医学だけしか「正解」として認められなくなりそうな雰囲気です。代替医療に頼って、病院に行かないと、それだけで「虐待」として扱われそうな状況です。(うちもアトピーの時、病院に行かなかったのですがそれも虐待になるのでしょうね。)その原因は、ホメオパシーを信じている人たちが、ホメオパシーを唯一の「正解」にしてしまったからです。本当はその両者がお互いに補い合えばいいのに、自分だけを「正解」にしようとするから、問題が起きるのです。どうか、「テレビの言う正解」、「アメリカの言う正解」、「世間の言う正解」、「学校の言う正解」、「政治家の言う正解」、「学者の言う正解」をそのまま鵜呑みにしないで下さい。そのような「正解」は「事実や現実」から切り離されたものです。「自分の正解」は自分の事実や現実に即して、自分で決めるものなのです。「他人が作った正解」を信じていると、困ったことになりますよ。
2010.08.17
閲覧総数 1596
8
昨日も書いたように「共に」という生き方は、非常に難しいのです。私の個人的な考えでは釈迦も、キリストも、「共に」ということの大切さを訴えていたと思うのですが、どうもそれが「宗教」という形になってしまうと自分たちを守ることの方が優先され、「共に」という思想は失われて行くようです。釈迦もキリストも「みんなのため」に教えを説きましたが、宗教という形の中では教会でも寺院でも「自分たちのため」に教えを説いています。だから戦争に利用されてしまったのです。なぜそんなに「共に」が難しいのかというと、「共に」と言う生き方をするためには「自分」を捨てなければならないからです。自分の考え、自分の価値観、自分の善悪の基準にこだわる限り「共に」という生き方は出来ないのです。そこにはただ、「相手に寄り添う」という意識しかありません。でも、そんなことなかなか出来るもんじゃありません。私にだって出来ません。ところが、それをやっている人たちがいるのです。先日ご紹介した「凍りついた瞳」(椎名篤子原作)という虐待を扱ったマンガに出てくる人たちです。幼い頃に受けた虐待によって苦しんでいる人を救うために頑張っている人たちは徹底的にこの「共に」という関わり方をするのです。(ただし、当然のことながら、そうでない人もいっぱいいるようですけど・・・。)虐待を受けた人たちは「共に」を否定され、一方的に押しつけられてきた人たちです。ですから、その苦しみからそのような人たちを救い出すためには、徹底的に「共に」という働きかけが必要になるのです。でも、幼い頃から「共に」を否定され続けてきた人たちは、「共に」という関わり方をしてくる人を信じようとしません。ですから、徹底的にその想いを裏切るようなことをやってきます。そのようにして「共になんてあり得ないんだ」という自分の考えを確認しようとするのです。ですから当然、普通の人の善悪の価値基準を平気で壊してきます。その時、関わる大人たちが自分の善悪にこだわって、虐待を受けてきた人の行動を非難してしまうと、「やっぱり口先だけなんだ」ということになります。だからといって、その行為を肯定しろということではありません。そうではなく、「肯定も否定もしないで、ただその状態を受け入れ、想いに寄り添う」ということが大切になるのです。でも、これは非常に困難です。まったくもって困難です。それは道元禅師の仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。という言葉にも通じる世界です。その時に必要になるのが「信じる」ということです。神様や仏様を信じるのではありません。また、その相手を信じるのでもありません。「生命の働き」を信じるのです。そして実は、神様も仏様もこの「生命の働き」の中に存在しているのです。だからこそ、神様の言葉も仏様の言葉も私たちの心を打つのです。虐待を受けて苦しんでいる人は、その生命の状態において非常に不安定です。だから、不安も緊張も孤独も強く、その成長にも強い偏りがあるのです。そして、人を愛することも、助け合うことも、子どもを育てることも困難なのです。一般的に、虐待をしてしまう人は、「残虐な人」と思われていますが、全くそういうことではありません。生命の状態が不安定だから、必死になって自分を守ろうとしているだけなのです。相手を虐待しようとしているのではなく、ただ自分を守ろうとしているだけなのです。ただ問題は、子どもを守るべき立場のお母さんが、子どもに対してそれをやってしまったら虐待になってしまうということです。でも、お母さんには「子どもを虐待している」という意識はありません。そのようなお母さんにとって関心があるのは「自分の心」だけであって、「子どもの心」になんか最初から関心がないからです。ですから、虐待を繰り返しているお母さんにその虐待をやめさせるためには、そのお母さんの心に寄り添う「他者の心」が必要になります。そして、「一人で苦しまなくてもいいんだよ」というメッセージを伝える必要があります。そこで必要になるのも「共に」という意識です。虐待を受けて苦しんでいる子を救うときにも、虐待をして苦しんでいるお母さん(お父さん)を救う時にも、この「共に」という意識が必要なのです。「凍りついた瞳」の中に、児童相談所所長の河西という人の思いとして、父親や母親の心を変えようと時間をかけるより相手の努力を認めて現実的に何をすればいいのかを話し合うその方法なら数回の面接で効果が得られることが多かったということが書いてあります。ここには「共に」という考え方があります。そしてこれは子どもを育てるときにも大切なことだと思います。この言葉の中の「父親や母親の心」というところを「子どもの心」と置き換えて読んでみて下さい。
2012.08.12
閲覧総数 562
9
全ての生き物は「からだ」を通して、自分が生きている世界とつながっています。ここに例外はありません。もちろん人間も同じです。産まれるのも、成長するのも、学ぶのも、病気するのも、考えたり、喜んだり、笑ったり、泣いたり、色々と悩んだり、苦しんだり、老化したり、死ぬのも、全部「からだ」が引き起こす現象です。脳の働きも、意識や、思考力や、感情などの働きも全て「からだの働き」の結果です。思考は主に脳が使われますが、だからといって脳だけでは思考出来ません。脳はからだ全体とつながり、からだからの様々な情報を統合しながら思考するように出来ているからです。自動車は工場で作られますが、どんなに最新設備の工場で、工場には何のトラブルがなくても、周囲の世界とのつながりを断たれたら一切の生産が出来なくなりますよね。それと同じようなことです。またそのため、「からだの記憶」や「からだの状態」は、ダイレクトに「脳の状態」に影響を与えています。たとえば、「お腹がすいているときの思考」と「満腹の時の思考」は異なります。「椅子に座っているときの思考」と「歩いているときの思考」も異なります。「コーヒーを飲む前の思考」と「コーヒーを飲んだ後の思考」も異なります。野菜を多く食べている子の思考と、肉ばかり食べている子の思考も異なります。なぜなら「野菜を多く食べている子」と「肉ばかり食べている子」とでは「からだの状態」が異なるからです。最近、腸内細菌の状態がその人の感情の状態に大きな影響を与えることが分かって来ました。その腸内細菌の状態は食べているものの影響を強く受けています。そして感情の状態が異なれば思考の状態も異なります。思考は感情に導かれて働くように出来ているからです。当然、「からだの体験」も思考に影響します。森の中で遊んで育った子と、部屋の中でゲームばかりして育った子とでは思考の仕方が異なるのです。動物の脳は自分の生存環境に合わせて最適化するように作られているからです。その「からだ」は外部世界とやりとりするためのインターフェイスと、やり取りした情報を内部処理するための能力と、からだの働きそのものを維持するための能力によって支えられています。外部世界とやりとりするためのインターフェイスとはいわゆる五感のことです。この感覚能力には大きな個人差がありますが、その個人差は生まれつきの要素が強いです。色や音に対する感受性は人によって異なりますが、その違いは幼い子どもの頃からあります。でも、どんなに五感の働きに優れていても、五感の働きを通して得た情報を内部処理するための能力がなれば、その情報は存在していないのと同じことです。目で何かを見て網膜に映像が映っても、その映像を電気的に処理する働きがなければ、脳はその映像を見ることが出来ません。自分に向かってくる車が見えても、それが何を意味するのか分からなければ身を守る行動が取れません。音が聞こえてもその音が何の音か分からなければ、その音に対応することが出来ません。やり取りした情報を内部処理するとはそういうことです。その情報処理能力はからだの体験を通して育ちます。水辺で水に濡れた石に乗っかて転んだ経験のある子は、そういう可能性も含めて自分の歩く場所を選んで歩きます。でも、それを知らない子は、平気で危険な石にも乗ろうとしてしまいます。でも、映像で水に濡れた石に乗っかって転んだ子を見ても、その学びは出来ません。自分自身の体験ではないからです。そのような「自分自身のからだの体験」を通して育った情報処理能力が、その子の思考力の基礎部分になっていくのです。だから賢い子に育てたければ、様々なからだの体験を与えてあげる必要があるのです。お勉強は、基礎的な思考能力が育った後からにすべきなんです。体験を与えずお勉強をさせると、ただ覚えるだけの勉強しか出来なくなります。からだでの体験を与えずに、幼いときから知識を与えるだけのお勉強ばかりさせていると、理解する能力も、工夫する能力も、発見する能力も、創造や想像する能力も育たなくなってしまうのです。そのような状態の子は、中学に入った頃から勉強に追いつけなくなったり、社会に出てから誰かに依存しないと生きて行くことが出来なくなります。
2021.06.30
閲覧総数 1355
10
今日は、身近にある「ビニール袋」を使って作るものをご紹介します。このような「工作」は、雨で外に出られないような時などに非常に有効な「親子遊び」です。最初にご紹介するのは、牛乳パックの底の部分で出来た小さな箱からストローが飛び足しているだけのものです。このストローを吹くと、なかなかモワモワと何かが膨らんで出てきて「猫」になります。「猫」は台所で普通に使っている薄手のビニール袋で作っています。仕掛けはこうなっています。子どもは大好きです。同じ原理のもので、傘袋と紙コップを使ったものもあります。写真のものは「お化け」になっていますが、絵は何でもいいです。傘袋は雨の時などにスーパーの入り口に置いてありますから、2,3枚多めにもらってきて下さい。また、以下はビニール袋の口の部分に、鯉のぼりの口のように厚紙を丸くして貼ったものです。こうすることで、ぺっちゃんこにして放り投げても、以下の写真のようにパッと膨らんで落ちてきて、しかもちゃんと立ちます。パラシュートと同じ原理です。面白いですよ。袋に動物などの絵を描いておくと楽しいです。耳の部分はセロテープでちょっと細工しています。ちなみに、ビニール袋はそのまま膨らませても楽しい風船になります。普通のゴムの風船よりも、弾ませた時の音も感触も、昔懐かしい紙風船の感じになります。あと、45リットルのゴミ袋を二つつなげて空気を入れると、写真のような大きな風船になります。写真はカラーの袋を使っていますが、普通の白いやつでも同じです。口と口の部分を合わせて、空気がもれないようにしっかりとセロテープで貼ります。そして、角の部分を少し切ってドライヤーで空気を入れます。ドライヤーは「クール」でやって下さい。「ホット」だとビニールが溶けてしまいます。輪ゴムを二本使って口を止めます。子どもが上に乗ることがあるのですが、一本だと飛んでしまうのです。周りに絵を描くと楽しいです。あと、ビニール袋を切って「凧」を作る方法もあります。「グニャグニャ凧」などと言います。幼稚園や色々な所でも作る凧ですから、作り方は、ネットで探せると思います。簡単にできて、よく飛びます。
2014.10.12
閲覧総数 12041
11
多血質の人は適応能力が高く、周囲の変化に柔軟に対応するのが得意です。憂鬱質や胆汁質のように「自分」を守るために頑張ったり戦ったりはしません。それは才能であり能力でもあるのですが、他の気質の人には「優柔不断」「節操がない」「自分の哲学がない」というように見えたりします。また、自分の信念や哲学を持たずに周囲の人や、世間や、マスコミを基準にして生きていることが多いので、状況によっては自分が望まない迷路に入り込んで身動きが取れなくなってしまうこともあります。でも、「絶対的な方角を指すコンパス」を持たず、人や物や流行のような「動き変化するもの」を基準にして考えたり行動する癖があるため、一度迷路にはまってしまうとなかなか抜け出せません。また、いつも周囲のことを観察しているのですが、基本的に表面的なことにしか関心がありません。それと、周囲の変化に柔軟に対応する能力が高いが故に、落ち着きがありません。今何かに取り組んでいても、周囲で何かが変化したらそれが気になって仕方なくなってしまうのです。だから、多血質の子の成長には、「どういう人と関わるのか」「どういう環境で生活しているのか」ということが、他の気質の子以上に大きな影響を与えることになります。自分と似たような多血質の子とばかり遊んでいると盛り上がって楽しいのですが、その状態が強化されてしまいます。刺激が強い環境で生活していると、刺激と関わっている方が楽しくなってしまい成長への意欲が失われてしまいます。ちなみに、幼い子どもは全般的に多血質が強いです。(どの気質の子でも子どもの時には多血質が強いのです。)これが多血質の大まかな特徴なんですが、これらの特徴は多血質の人のからだによって支えられています。多血質の人は「柔らかくて弾力性のある筋肉」を持っています。それが軽快な動きを支えています。また、柔らかい筋肉は感覚や感受性の豊かさももたらしてくれます。筋肉が固まっていたら感覚や感受性が鈍くなるし、周囲の変化に柔軟に対応することも出来なくなってしまうのです。また、柔らかい筋肉は豊かな感情ともつながっています。逆に、胆汁質のように心の固い人(頑固な人)は筋肉やからだも固いです。感情にも偏りがあります。憂鬱質の子の筋肉は柔らかいですが多血質のような弾力はありません。また細いため力も弱いです。そのためクニャクニャするばかりで軽やかな動きは出来ません。粘液質の子の筋肉は憂鬱質の子と同じように弾力はありませんが、憂鬱質の子よりも太いです。そのため、力も強いです。また、多血質の人は重心がちょっと前寄りです。重心をちょっと前に出すことで首や腕が自由になるからです。話しもしやすくなります。多血質の人は話すときに落ち着きなく首や腕を動かしますが、重心が前寄りだからそういうことが出来るのです。こういうことはご自分でも試せますのでちょっと試して見て下さい。重心を前寄りにした場合と、後ろ寄りにした場合とでは、どっちの方が話しやすいですか。腕を動かしやすいですか。またその時表情も変わりますよね。*************茅ヶ崎駅の近くで毎月やっている「気質の勉強会」(土or日)と、「からだの会」(月)の生徒を募集しています。 いずれも10:00~12:00 2000円/回です。ご興味のある方は「ここ」までお問い合わせ下さい。「からだの会」では「からだの不思議と面白さ」を学んでいます。
2021.06.25
閲覧総数 1884
12
「家族」では生まれつき役割や力関係が固定されていますが、「社会」という「家の外の世界」では、そのようなものは流動的で、気質や、努力や、運によって大きく変わってきます。また、家族は「一つの価値観」によってまとまろうとしますが、社会には多くの価値観が存在しています。その「社会」を支えているのは、いわゆる「ルール」と呼ばれているものです。家族の中にも「ルール」はありますが、でもそれは、お母さんやお父さんが一方的に決めたものです。しかも、子どもには「守る義務」がありますが、お母さんやお父さんには必ずしも「守るべき義務」がありません。なぜなら、お母さんやお父さんが決めた「マイルール」だからです。そしてその「マイルール」は、お母さんやお父さんの価値観によっても異なるし、さらには気分次第でちょこちょこ変化したりもします。子どもには「約束を守りなさい」と言っておきながら、お母さんは平気で約束を破ったりもします。お兄ちゃんやお姉ちゃんには「弟や妹には優しくしなさい」と言いながら、自分は子どもに優しくしない場合もよくあります。子どもが他の子をぶつと怒るのに、自分は平気で我が子をぶちます。「ぶっちゃだめって言っているでしょ」と言いながら子どもをぶつのは矛盾です。でも、ルールを決めた人にはルールは適用されないのです。でも、そのような場合、子どもはお母さんと同じことをするようになります。子どもは、「お母さんの言葉」に従うことによってではなく、「真似をする」ことによって成長するように出来ているからです。「先祖代々受け継がれてきた家訓」的なものは家族全員が守るのでしょうが、でもそれは、その家族の中でしか通用しないルールです。それぞれの家族にはそれぞれのルールがありますが、でもそれは、親の気持ちや価値観だけで決められてしまっているので、社会的な意味での「ルール」とは全く異なるものです。社会的な意味での「ルール」とは、個人の気持ちや価値観を超えて、みんなが幸せに、安全に暮らすためのものです。「家族のルール」は子ども達に「親の価値観」を伝えるためのものですが、「社会のルール」は価値観の異なる人たちが一緒に暮らすためのものなのです。ですから、その両者は根本的に異なるのです。クリスチャンの家庭ではキリスト教への信仰を大切にしているでしょう。でも、社会に出たらクリスチャンの人ばかりではありません。だからといって、クリスチャンでない人を馬鹿にしたり排除してはいけないのです。それが「社会のルール」です。滑り台に乗るなら、子どもも大人もちゃんと並ばなくてはなりません。「ゴミを捨ててはいけない」というのも、「信号を守ろう」というのも同じです。それは、その人の宗教や価値観や国籍には関係がありません。それが「社会のルール」です。でも、家族の中にこのようなルールは存在しません。親は親の価値観を子どもに伝えようとするばかりで、「子どもの価値観」と「自分の価値観」を同等のものとは考えません。ですから、子どもは社会の中での体験がないと、「価値観の異なる人たちが共に生きるための社会のルール」が分からなくなってしまうのです。そしてこれは親には伝えようがないことなのです。そして、自分の個人的な価値観や「マイルール」を他の人にも守るように求めるようになるでしょう。モンスターペアレントと言われる人たちの言動はまさにそれです。私が実際に幼稚園の先生から聞いた話です。その先生の園では、お絵描きの時、マニュアル通りにみんなに同じような絵を描かせていたのですが、その先生は「それはおかしい」と思って、ある時、全く自由に描かせたそうです。そうしたら、子ども達一人一人の個性が出て素敵な絵が出来たので、それをお母さん達にも見てもらおうと思って発表会の時に展示したそうです。そうしたら、「絵が下手な子の気持ちも考えて上げて下さい」と文句を言ってきたお母さんがいたそうです。それでその先生は悩んで相談に来たわけです。家内が小学校に読み聞かせに行っていたときにも似たような話を聞きました。有志のお母さん達がボランティアで読み聞かせをしていたのですが、「読み聞かせに参加できないお母さんの子どもの気持ちにもなって上げて下さい」というようなものでした。子ども達に、「一人一人には個性があり、それは大切なものであって、他の人の個性を否定してはいけないよ」と伝えるのは大人や教育者としの義務だと思うのですが、それを我が子にも認めてしまったら、「しつけ」」が出来なくなってしまいます。だから、家族には「家族のルール」があるのです。それはそれでいいのですが、それを他の人にも押し付けようとする人たちが増えてきたのです。そのような人は「家族のルール」と「社会のルール」の違いが分からないのでしょう。以前教室に来ていた子ですが、言うことは聞かず、他の子の先品には手を出し、時間が来ても帰らない子がいたのでお母さんにそのことを伝えたのですが、お母さんの返事は「それがうちの子の個性ですから」というようなものでした。非常に驚きました。どうもそのお母さんは「個性」というものを勘違いしているようでした。「社会のルールを守らない」というのは「個性」ではないのです。そんな個性を大切にしていたら、社会は崩壊してしまいます。そしてそのように、「自分の価値観」を相手に押し付ける人たちは「話し合い」には応じません。それが「自分の価値観」を押し付ける人たちの特徴です。でも、「話合い」によって守られているのが「社会のルール」なのです。「家族のルール」にはそれがないのです。ですから、「話合い」が出来ないような人は「社会のルール」がよく分かっていないのです。そのような人は、「家族のルール」だけに支配されて、「社会のルール」というものを体験しないまま大人になってしまったのではないかと思います。
2014.07.14
閲覧総数 1871
13
毎日重労働であったり、ストレスに晒されて生活していると疲れが溜まって、からだを動かすのも、感覚や頭を使うのも、考えるのも億劫になってしまいますよね。でも、人が疲れるのは、単に体力がなかったり、労働量が多いからだけではないのです。「意識の働き」と「からだの働き」が一致していないと必要以上に疲れるのです。からだが疲れると言うよりも神経が疲れるのです。そして神経が疲れるとからだを動かすのが億劫になります。そしてちょっと動いただけで強い疲れを感じるようになります。現代人特有の疲れの背景にはそのような「神経の疲れ」があるのです。そして「からだの疲れ」は寝れば取れてしまうのですが、「神経の疲れ」は寝ても取れないのです。だから溜まってしまうのです。「意識の働き」と「からだの働き」が一致していないというのは、例えば夕食のことを考えながら子どもの相手をしたり、子どものことを考えながら家事をしているようなことです。そういう心とからだの使い方をしていたら、大して重労働はしていなくても疲れるのです。「意識の働き」と「からだの働き」が一致していないということは、心が「今」「ここ」にないということです。でも、からだは常に「今」「ここ」でしか動けません。そのギャップでストレスが溜まり疲れるのです。急に何か重いものを持って腰を痛めるのも、ちゃんと「これから自分が持ち上げようとする物」に意識を向けていないからです。昔の人がナイフやノコギリなどの道具を使って仕事をしているときには、意識とからだがつながっていました。他の道具でも同じです。「道具」は「自分のからだ」ではありませんが、「自分のからだ」の延長として使うものです。だから、意識をからだに通さないことには使えないのです。それに、他のことを考えながらナイフなどを使っていたらケガをしてしまいますよね。これはホウキや、ハタキや、チリトリといった道具でも同じです。これらのものでケガをすることはないでしょうが、意識とからだをつなげて扱わないことには綺麗なお掃除は出来ません。基本的に、意識とからだをつなげないことには「手で扱う道具」は使えないのです。そして意識とつなげた状態でからだを動かしていると、意識とからだの間に矛盾がないのでストレスが溜まらないのです。だから手仕事や、ナイフで木を削ったり、陶芸などをしている時は時間を忘れて取り組むことが出来るのです。でも現代人は「手で扱う道具」ではなく「自動的に仕事をしてくれる機械」を使って生活しています。ホウキでお掃除するときは、自分が今やっていることにちゃんと意識を向けている必要がありますが、掃除機で掃除をするときには他のことを考えながらでもキレイに掃除をする事が出来ます。ロボットを使えば他のことをしている間にも部屋は綺麗になります。そのおかげで家事は格段に楽になったはずなのに、なぜか最近のお母さん達は、昔のお母さん達よりも疲れ、イライラしています。私の印象では、簡単で便利な機械に依存している人ほど疲れているような気がします。遊びでも同じです。コマや竹馬といった「からだを使って遊ぶ道具」でいつも遊んでいる子は元気ですが、毎日、簡単で便利に遊べるゲーム機で遊んでいる子はなぜか疲れています。からだを動かしていないのに疲れているのです。ゲームをやっている子は、ゲームの中では走っているのに、実際のからだは椅子に座ったままです。実は、この意識とからだのギャップがからだには強いストレスなんです。それで疲れてしまうのです。また、ゲームでばかり遊んでいると「現実世界でのからだの使い方」を学べないので、現実世界で何かしなければならないときにからだが思うように動かず、強いストレスを感じるようになってしまいます。いつもゲームで遊んでいる子が元気なのはゲームをしているときだけです。ゲームの世界の中にいると「からだ」のことを忘れることが出来るからです。神経が疲れているときはからだを動かしたくなくなりますが、むしろ思いっきりからだを動かしてからだの方も疲れさせて、神経の疲れとからだの疲れを一致させると神経の疲れからくる苦しみは和らぐのです。スポーツをしたりジムに通ってからだを動かすことでストレスが和らぐのはそのためです。そしてその状態で寝ると、からだの疲れが取れるときに神経の疲れも取れるのです。でも、スポーツなどしなくても、便利な機械に依存する生活を少し減らし、からだと道具を使って活動する時間を増やせばストレスが溜まりにくくなるのです。
2021.06.23
閲覧総数 1066
14
「頭と心とからだをつなげる方法」として、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」ということを書いてきましたが、あと大切なのは「ゆっくりと丁寧を心がける」ことです。だから、子どもを急かしてはいけないのです。大人でも同じですが、人は急かされると「頭」と「心」と「からだ」が対話できなくなり、「頭」でからだを道具として使うようになってしまうのです。その結果、頭と心とからだがバラバラになってしまうのです。でも実際には、お母さん達は一日中「早くしなさい」と子どもを追い回しています。お母さん自体の「頭」と「心」と「からだ」がバラバラになってしまっているので待てないのです。そして、自分自身も追いたてています。誰も追いかけていないのに、常に追われているような幻想にとりつかれているのです。だから心もからだも落ち着くことがないのです。自己肯定感が低いのも、頭と、心と、からだがバラバラだからです。そして、「発達障害と呼ばれるような子ども達」はみな一様に、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」というような活動が苦手です。こういうことを遊びを通してやらせてみようとすると、ただただ混乱が起きます。現代人は便利な機械に頼って生活しています。それは大人も子どもも同じです。そして機械の操作には「ゆっくり」も「丁寧に」も必要ありません。実際、子ども達はゲームをしているときはゲーム機を乱暴に扱っています。ボタンを押すときにはゆっくりも丁寧も必要ありません。ちなみに、学校から子ども達に貸し与えているタブレットが異常な割合で壊れているそうです。「落下」が多いそうですが、「ものを大切に扱う」という事が出来ない子が多いのです。その結果、修理する予算も、新しいタブレットを買う予算も足らなくて困っているそうです。昔の人は、「自分の代わりに仕事をしてくれる便利な機械」を持っていませんでした。だから人々は、頭を使い、感覚を使い、からだを使い、様々な道具を使って生活していました。お箸や、トンカチや、ノコギリや、包丁や、針などの「道具」は、「自分のからだの一部」として使うものです。ですから、からだを雑に使っていたら、箸で豆をつまむこともノコギリで木を切ることも出来ないのです。「機械」ではなく「道具」を使って生活していると、それだけである程度は丁寧が身につくのです。それは遊びでも同じで、丁寧が出来ないとコマも回せないし、竹馬に乗ることも出来ないのです。そういう状態の子ども達は「聞く」(聴く)ということも苦手です。対話も苦手ですが、それは聞く(聴く)ことが出来ないからです。まただから、学習も困難になってしまうのです。(特に、先生から直接学ぶ学習に於いて)もっと言えば、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」ということが出来ないのも「聞く(聴く)能力」が育っていないからなんです。自分の頭や、感覚や、からだと対話する能力が低いから「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」という事が出来ないのです。実際、「素話」のようなお話を喜んで聞くことが出来るような子や、ちゃんと相手の言葉に耳を傾けて対話できるような子は、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」ということも出来るのです。そして、子どもの聞く(聴く)能力は、お母さんの話しかけによって目覚めます。まだ何も出来ない寝たきり状態の赤ちゃんにお母さんがいっぱい話しかけることが、その後の「頭の使い方」、「からだの使い方」、「感覚の使い方」の育ちにも影響を与えているのです。でも、そういう視点が現代人には欠落してしまっています。そして「世話をする子育て」だけしています。保育園の先生も世話はしてくれますが話しかけてはくれません。結果、聞く(聴く)事が出来ない子が増えてきています。それでも、からだや道具を使って遊んだり生活したりしていれば、その状態もある程度は改善出来るのですが、便利な機械の普及がその改善を阻害してしまっています。「聞く(聴く)事が出来ない」という状態は目で見ることが出来ません。それが目に見える形で表れた時に、「型を学ぶ」とか「姿勢を整える」とか「ゆっくりと丁寧に」が出来ないということになるのです。どんな場合でも、「目に見える現象」の裏側には「目では見えない原因」がちゃんとあるのです。でも、現代人は「目に見える現象」しか見ようとしないし、「目に見える現象」だけを変えようとしています。
2023.07.14
閲覧総数 801
15
人間の社会や精神のバランスを整えるためには、相反する価値観の両方が必要なのです。「美」を求めるのなら「醜」も肯定する必要があります。「善」を求めるなら「悪」も肯定する必要があります。「光」を求めるのなら「闇」も肯定する必要があります。なぜなら、「美」も「善」も「光」も多様性の中でしか存在することが出来ないからです。「美」も「善」も「光」も、多様な世界の中での関係性によって生み出されているのです。100%善人だけの社会を目指してはいけないのです。そんなことをしたら、「悪人」はいなくなるかも知れませんが「善人」もいなくなります。そしてただ活力のない退屈な社会になり、やがて内部から崩壊していきます。ただ誤解しないで欲しいのは、私は「ゼロ」を目指してはいけないということを言っているだけで、「悪人」がはびこっている社会がいいということを言っているわけではありません。どこかで「許容範囲」を決めて、それ以上「純粋」を求めない方がいいということです。それが「大人の社会」だと思うのです。「純粋」を求める社会は危険です。キリスト教的な価値観は純粋を求めます。「善」とか「正義」しか認めません。でもだから、大量虐殺を起こしてしまったのです。イスラム教も同じように「純粋」を求めます。ヒットラーも同じでした。でも、「純粋」は実現出来ませんでした。なぜなら、人間は本質的に「善」と「悪」の両面を持つ生き物だからです。「悪」もまた人間の特性なのです。ですから「善」だけを肯定して「悪」を否定することは人間の半分だけを肯定して、半分は切り捨ててしまうようなものです。でもそれでは人間が死んでしまいます。また、「純粋」を求める子育ては子どもを追いつめてしまいます。子どもは「良いこと」もするけど、(まれに)「悪いこともする」という状態が正常なのです。その時、悪いことは「悪いこと」として教える必要はありますが、「悪いこと」をしたからと言ってその子を「悪い子」だと決めつけてはいけないのです。同様に、「イジメゼロ」「自殺者ゼロ」を目指すのも危険です。それに対して、仏教とか東洋的な考え方では「善」と「悪」を対立させませんでした。むしろ、「善」と「悪」を調和させ、それらを超越した状態を求めました。簡単にいうと、悪人に対してさえも優しくない人は本当の善人ではないと考えられたのです。地獄で苦しんでいる人達のことを忘れてしまうような人が天国に行けると考えるのはおかしいのです。そういうことに対して「じゃあ、悪いことをやってもいいのか」と考える人は自分を肯定することが出来ていない人です。だから仏様はキリスト教の神様のように裁きません。(イエス・キリストは仏教的な優しさも持っていましたが、ユダヤ教は徹底的に厳しいです。キリスト教徒でもイエス的な優しさを持った人と、ユダヤ教的な厳しさを持った人がいます。ですから本当は一概には言えません。)人が地獄に墜ちるのは自分が犯した罪の重さによって沈んでしまうのであって、仏様が地獄に落としているわけではありません。ですから、地獄で罪が清められればまた上がって行くことができるのです。上に、「イジメゼロ自殺者ゼロを目指すのは危険です」と書きましたが。だからといって、「イジメや自殺がいっぱいあってもいい」ということを言っているわけではありません。そういうものはクラスの状態や社会の状態の「結果」に過ぎないということです。ですから、「イジメゼロ」「自殺者ゼロ」を目指すのは「結果の帳尻合わせ」になってしまい、本質的な問題は何にも解決されないことになってしまう恐れが強いということです。「イジメ」をゼロにするのは簡単です。学校中に監視カメラを設置して四六時中子どもたちを監視していればイジメは消えます。学級崩壊をゼロにするためには問題児に朝、精神を安定させる薬を飲ませればいいのです。実際にアメリカなどではこのような方法も使っているようです。でも、そんなことをしたら子どもたちの活力は失われ、子どもたちは自立することも、仲間を作ることも出来なくなるでしょう。学校は子どもたちに知識を教える場所ではないはずです。子どもたちの成長を促すところです。知識はそのための糧であって、目的ではありません。その本質的なところが見落とされているから、イジメや学級崩壊が起きているのです。自殺者の増加も社会全体の状態の現れに過ぎません。だからそのことに目を向けず「自殺者ゼロ」を目指しても無意味なんです。現代人は多様性を肯定する心、許容するを失ってしまいました。だから非常に危険だと思うのです。そしてここが非常に重要なところなのですが、科学の世界では一つの価値観しか肯定されていないのに対して、物語の世界では多種多様な価値観が肯定されているということです。つまり私たちは「物語」を失ってしまったために、同時に現実世界でも多様な世界を失ってしまったということです。自然界の多様性が失われているのもそのためです。
2011.08.25
閲覧総数 330
16
昔は、子ども達の周りに普通にあった「お手伝い」や、「群れ遊び」や、「地域活動」や、「自然の中での遊び」といった「体験の場」が、あっという間に消えてしまいました。私は昭和26年生まれですが、子どもの頃はまだこのような「体験の場」が残っていました。でも、高度経済成長と共に急速に消えて行きました。「遊ぶ場」も「一緒に遊ぶ仲間」も消えました、「お手伝い」よりも「お勉強」を求められるようになりました。地域のつながりも弱くなり地域活動も少なくなりました。子ども達が自由に入って遊べる自然も減りましたが、簡単で、便利で、清潔で、強い刺激に満ちた遊び場が増え、そのような遊びの場での遊びに慣れてしまった子どもたち自身が自然の中で遊ぶことを好まなくなりました。また、一人で遊ぶことに慣れてしまった子どもたちは、助け合って一緒に遊ぶということが苦手です。昨日は、娘と仲間たちが「自然の中で自由に遊ぶ場」を企画して、私が民族楽器担当ということでかり出されたのですが、その場に集まった子どもたちはみんなで自由に遊んでいました。でも、そこに集まったのは、お休みの日に「お金をかけて遊ぶ施設」ではなく「自然の中で遊ぶこと」を選ぶようなお母さんやお父さんに育てられている子ども達です。実際、知り合いがいっぱいいました。そんな、「体験の場」が失われた社会でも、子ども達は「体験」を求めます。「体験が自分の成長につながる」ということを本能的に知っているからなのでしょう。親もまた、子どもに色々な体験をしてもらいたいと思っています。そこで、生活の中にあった「体験の場」が消えると共に、それを補うように「○○教室」なるものがいっぱい出来ました。無料だった体験が有料になったのです。私がやっている造形教室もその一つです。私が造形教室を始めたのは、当時5才と3才だった長女と長男に「作る楽しさ」を伝えたいと思ったからです。でも、作るにしても、歌うにしても、踊るにしても、それが楽しい活動になるためには「仲間」が必要になります。そして、周囲にそういう場がなかったので、自分で始めてしまったわけです。三番目の娘が生まれた時は「作る体験だけではだめだ、みんなで群れて遊ぶ体験もさせたい」ということで、「ポランの広場」という親子で一緒に遊ぶ活動を始めました。まだその頃は、私と同じようにそういう場を求めている人が多かったので、いっぱい生徒が集まりました。3月の時点で定員より溢れてしまい、4月以降の生徒の募集を締め切るほどでした。でも、最近では、子どもがまだ小さいうちから保育園を選ぶ人が増えてきたせいか、年々生徒が減ってきています。コロナの頃から特にその傾向が強くなっています。ここ数年は毎年「来年も継続出来るかな・・・」と手伝ってくれている人と話している状態です。(生徒募集中です)その保育園にも色々とあって、うちの活動と似た、子どもの遊びや群れや様々な自然体験を重視している活動をしている所もありますが、新しくできた都市型の保育園では、大人の管理の元、「子どもの自由な体験」よりも「安全の方を重視した活動」をしているところの方が多いような気がします。子どもに自由な体験を与えようと思ったら、当然、危険も増えます。うちの教室でもしょっちゅうノコギリやナイフや彫刻刀でケガをする子がいます。でも、うちの教室に子どもを通わせてくれているお母さんたちはそのことを了解してくれています。でも今、一般的にはそういうお母さんは少ないように感じます。今どきのお母さんの多くは、「自由な体験」よりも「安全」の方を大切にしているような気がします。実際、自由な体験をさせてくれる幼稚園や保育園よりも、安全で、しかも色々なことを教えてくれる保育園や幼稚園の方が人気があるみたいです。子ども達の生活の中から「子ども自身の意志に基づく自由な体験の場」が消えると共に、子ども自身も「子ども自身の意志に基づく自由な体験」を求めなくなりました。最近「教えてもらって当たり前」「手伝ってもらって当たり前」という感覚の子が増えて来ました。うちの教室でもすぐに「先生やって」「先生教えて」と言ってきます。それでも、出来るだけ自分でやらせるようにはしているのですが、どうしても無理なような場合は手伝います。でもそんな時でも、私にやらせるだけで子どもはそれを見て学ぼうとしません。私がやっている間どっかに行ってしまうのです。あと、気になるのは「何を作ったらいいの?」「何をしたらいいの?」といちいち聞いてくる子が多いことです。それで「自分が作りたいものを作りな」と言うのですが、それがないのです。そのような子のために造形関係の本を山のように揃えてあるのですが、最近の子は本を見ようとしません。「何か簡単に出来るものない?」と聞いてくる子も多いです。「ノコギリは疲れるからいやだ」とか、「ホットボンドは火傷するからいやだ」と言うくせに「木工用ボンドはすぐにくっつかないから嫌だ」などとも言います。昔は何週間もかけて大作を作る子が結構いましたが、今では全く少数です。箱や椅子のような立体的なものを作る時には構造を理解しなければならならないのですが、「考える」ということを面倒くさがる子も多いです。というか「考える」ということ自体がどういうことなのか分からないような子が多いのです。体験によって育つはずの想像力が育っていないのでしょう。昨今、闇バイトのニュースがいっぱい流れていますが、捕まっているのは20代の若者ばかりです。そういう若者が増えたのも当然のような気がします。そういう想像力が欠如した若者達に善悪や、倫理や、論理を説いても無駄なのではないかと思うのです。
2024.11.05
閲覧総数 443
17
憂鬱質の人は不安が強いです。自分に対して自信もありません。感覚が過敏です。特に「音」には過剰に反応します。「新しいこと」をやりたがりません。「新しいこと」をやらなければいけないときは、予め色々な情報を得たり、色々なことを考えて準備しようとします。そして、「新しいこと」をやる時、「新しい場所」に行くとき、「新しい人」と会うときは過度に緊張します。「表面的な世界」や「見かけ」を信じません。そして、「本当はどうなんだろう」とか「裏側はどうなっているんだろう」ということが気になります。成功したときのイメージはせずに、失敗したときのことばかりをイメージします。成功したときのことは覚えていないのに、失敗したときのことはよく覚えています。また「人の心」に敏感です。常に人の心を探ろうとします。これもまた危険を避けるためかも知れません。何かあるとすぐに心の中で「自分との対話」を始めます。と、憂鬱質の特徴について色々書くと、いいところなんて何にもないように思えますが、でも、これが憂鬱質の能力なんです。これらの能力は自分の身を守るために必要な能力でもあるからです。まただから、憂鬱質の人の言葉に耳を傾けると、将来起きるかも知れない危険性に対応することが出来るのです。多血質は目先の事にしか興味がありません。胆汁質は自分のやりたいことにしか興味がありません。粘液質は広く全体を見ていますが見ているだけであれこれ予想はしません。そんな中で憂鬱質の人は唯一「起こるかも知れない危険」を察知する能力が高いのです。安全に満たされた現代社会の中ではこの能力はあまり必要はありませんが、人間がまだ危険だらけの自然の中で暮らしていたときには、これは非常に役に立った能力だと思います。他の気質の人よりも先に、害を及ぼす動物や、様々な災害の予感を感じ、みんなに警告をしたでしょう。「見えないもの」と対話する能力も高く、シャーマン的な能力にも優れているので、色々な相談にも乗っていたでしょう。人間が安全に、幸せに生きるためには四つの気質全部が必要なんです。憂鬱質は「安全担当」のきしつです。必要がない気質なんて存在していないのです。<続きます>これから愛知と岐阜に行かなければならないので(泊まりです)、この続きは明日宿で書きます。
2021.06.26
閲覧総数 2970
18
現代人は、子どもも大人も待つのが苦手です。確かに、有名ラーメン店やディズニーランドのような場所ではみんな行儀良く待っていますが、でも、その間もゲームをしたり、スマホを見たりしています。ですからそれは、お料理などでタイマーをセットして、その間に別のことをしているのと同じであって、心の働きとしては待っているわけではありません。うちの教室でも、子どもたちは待つことが出来ません。待たされるとイライラするか、そのことを忘れて、他のことを初めます。そして、そのような「待つことが出来ない子」には一つの特徴があります。それは、受動的で指示待ちの子が多いということです。自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動することが苦手な子が多いのです。逆に、待つことが出来る子は、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動することが出来る子が多いような気がします。そしてこれは大人でも同じだと思います。正解ばかりを求め、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動するすることが苦手な人ほど待つことが苦手なんです。そのため、待たされるとイライラします。子どもにいつも「早くしなさい!!」と怒鳴っているような人はそのような人なのだと思います。でも、いくら怒鳴っても子どもはお母さんの期待通りの早さで行動することはありません。なぜなら、子どもの動きは「感情の働き」と密接につながった生理的な現象であって、大人のように頭によって支配されているわけではないからです。ですから、いくら怒鳴っても、叩いても、子どもは自分の動く速度を変えることは出来ません。どんなに「速く歩きなさい」と叱っても、無駄なんです。そしてそれは子どもの責任ではありません。オタマジャクシに「ジャンプしろ」と要求しているのと同じだからです。でも、待つことが出来ない人はそれを子どものせいにしてイライラします。相手の立場に立って考えることが出来ないからです。待つことが出来ない人は常に自分中心にしか感じたり考えたりすることが出来ないのです。だから待つことが出来ないのです。もし子どもを早く歩かせたいのなら、子どもの立場に立って子どもが楽しくなるような工夫をすることです。それは例えば「あそこの木まで競争しようか」と誘うような工夫です。そういう工夫がないまま追い立てられていると、子どもはいつもお母さんの機嫌ばかりを見るようになり、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動する能力を育てることが出来なくなります。また、現代社会は便利な機械と、便利な社会システムのおかげで、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動しなくても生活できるようになっています。その変化は、大人の生活だけでなく、子どもの「遊び」にまで及んでいます。昔の子どもたちは、「遊び」を自分たちの工夫と努力で創りだしていましたが、現代社会では「遊び」も「商品」になり、「お金を出して買うもの」になってしまいました。その結果、子どもたちは遊びにおいても受動的になってしまったのです。それが現代人の普通の生活なんですが、問題は、子どもでも大人でも「受動的な生活」に慣れてしまうと、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思で行動することが出来なくなってしまうということなんです。すると、ちょっと思い通りにならないとイライラしたり、相手のことを待つことが出来なくなります。これが子育ての苦しみの原因にもなります。じゃあどうしたらいいのかということですが、実は、待つことが出来ない人の感覚にはある種の特徴があるのです。それは感覚の働きが受動的だと言うことです。自分の興味や関心のあることは敏感に感じることが出来るのですが、興味や関心がないことに対しては急に鈍感になってしまうのです。ですから、人の話を聞いていても、「自分が聞きたいこと」だけを聞き、「相手が言いたいこと」を聞こうとはしません。これは子どもの話に対しても、講演会などに行っても同じです。「見る」という場合も、自分の興味があるものしか見ようとしません。そのため、「全体」が見えず、すぐに予想外のことが起きます。また、同じ失敗を何回も何回も繰り返します。でも、その原因が分かりません。そして苦しくなります。このような状態から抜け出すためには、能動的に感覚を使う訓練をするといいと思います。見たいものだけを見るのでも、聞きたいことだけを聞くのでもなく、大きなつながりの中で見たり聞いたりする訓練です。すると、見えること、聞こえることの意味が分かってくるのです。その一つの方法として「物語として世界を見る」という方法があります。意外かも知れませんが、人間においては「感覚」と「物語」は密接につながっているからです。人は自分が考えた物語に沿って感覚を働かせているのです。例えば、「あの人は私が嫌いなんだ」という物語を持っている人は、その人の自分に対する言動に目や耳の感覚をとがらせます。そして、「私のことが嫌いである証拠」を集めようとします。「もうすぐ大きな地震が来る」という物語を持っている人は小さな揺れにも敏感になります。そうですよね。子どもにも「子どもの物語」があります。子どもの笑顔や涙、ケンカ、そして手の汚れや洋服の汚れ一つ一つに物語が含まれているのです。そんな「物語」を想像してみると、不思議なことにそれまで見えなかったものが見え始め、聞こえなかった音が聞こえ始めるのです。物語の働きによって意識が変わるので、感覚の働きも変わるのです。すると、待つことが苦痛ではなくなるのです。*********昨日は、大勢の親子(11家族)で山歩きをしました。(秦野~鶴巻温泉)実際には「山」というより「丘陵」ですが、本来、二時間半ぐらいのコースを五時間かけてのんびり歩きました。最高のハイキング日和でした。
2022.05.29
閲覧総数 877
19
先日、森の幼稚園「もりわら」の浅井智子さんと松井和さん(音楽家/ 作家/ 元・埼玉県教育委員長)とのトークライブに行ってきました。そこでは、様々な実例を出しながら「今、保育業界、保育現場、子育ての現場が大変なことになっている」というお話しがありました。私自身も、お母さんや子どもたちとの関わりを通して、「子育ての現場や、保育の現場や、教育の現場が大変なことになっている」ということを少しは知っています。その表れなんでしょうが、私の周囲でも、「学校に行きたくても行けない子」、「自分の意思で学校に行かないという選択をする子」「学校に行かせないという選択をする親」が増えているような気がします。また、普通に学校に行っている子でも、精神的に幼い子がすごく増えて来ています。というか、そういう子の方が今では普通です。私の感覚では精神年齢が実年齢よりも3才以上は低い子が多いような気がします。小学3年生なのに幼稚園児を相手にしているような感覚なんです。そういう子には「人の話を聞くのが困難だ」とか、「自分よりも小さい相手や弱い相手に対しても優しく出来ない」いう特徴があります。実は、「優しさ」は精神的な成長の表れでもあるのです。そのため、イジメを楽しむような子は精神的な育ちが遅れているのです。そして今、その「優しさ」が育たないままの状態の子が非常に多いのです。そして、その遅れが取り戻されることなく、大人になっても精神的に幼い状態のお母さんやお父さんも増えて来ています。今、肉体的には大人になっても、精神的には大人になれない人が増えて来ているのです。そのような精神的に幼いお母さんやお父さんは、「親」になることも困難です。肉体的には親になっても、精神的に親になることが出来ないのです。本来、「親」の役割は「子どもを守り育てること」です。そのためには様々な犠牲も必要になります。でも、自分もまたそうやって育てられて来たのですからそれは理不尽なことではないのです。そしてまた、それが「親としての喜び」にもつながっているのです。でも最近の人達の中には、子どもを守るのではなく、子どもと同じレベルで我が子と利害の奪い合いをしている人が多いのです。昔の人は当たり前にやっていた「子どものために」という行動でも、「子どもの犠牲になるのはイヤダ」と訴え、拒否しようとする人も増えて来ました。そういう人は、「子どものために」=「子どもの犠牲になる」という発想をするのです。世の中が簡単で便利になるにつれて、いつの間にか、簡単便利が通用しない子育てが「喜び」ではなく「苦痛」になってしまったのです。「子どもはやってもらうばっかりでズルイ」というようなことを言う人もいます。でもこれは子どもの感覚であって、親や大人としての感覚じゃないですよね。大分以前ですが、お父さんが子どもとゲームの奪い合いをして、子どもを殺してしまったという事件がありました。もちろん子どもの主体性を肯定した素晴らしい子育てをしている人もいっぱいいます。すばらしい保育や教育をしている保育園や幼稚園や学校もいっぱいあります。でも今、そういう子育てをしている人や、園や学校はどんどん減ってきているような気がします。なぜなら、そういう園や教育をしている所では親にも様々な努力や義務や犠牲を強いて来るからです。保育園や幼稚園がちゃんとした保育や教育をするためには親との連携が絶対的に欠かせません。保育園や幼稚園は、親の代わりに子育てや仕付けや教育をしてくれるところではないので、それは当然のことなんですが、それを、「当然」とか「喜び」と感じる人が減ってきてしまったのです。私が子育ての勉強会をしても、「仕付けの仕方が分からない」「子どもが嫌いだ」「子どもから離れたい」と訴える人がいっぱいいます。どうやら私たちは、簡単便利な生活と引き替えに、人類が何百年、何千年、何万年と受け継いできた「子どもとの関わり方」や「子どもの育て方」を忘れてしまったようです。子育てや教育の現場で今起きていることは、私たちがこれまでやって来たことの結果に過ぎないからです。子育てや教育の世界に簡単便利を望んではいけないのです。子どもを管理したり支配することで、仕付けや教育をしようとしてはいけないのです。そういうことをするから、精神的に未熟な子どもや大人が増えて来てしまっているのです。*********************告知です。2022年度もやったのですが、続けて欲しいという声もあるので2023年もZoomでの子育て講座をします。名称は「ゆりかごオンライン」です。内容は子どものこと、子育ての事、子どもとの遊び方や関わり方、気質のことなどをお話しします。皆さんからの質問にもドンドン答えます。毎月第三金曜日の10:00~11:30(実際には12:00頃までになってしまいますけど)参加費 2000円/回録画もするので後から見ることも出来ます。参加申し込みやお問い合わせは「しの」までお願いします。以下は私が出した本です。アマゾンで買えます。
2023.01.15
閲覧総数 774
20
現代人は、昔の人に比べて「道具」を使いません。道具とは、包丁、箒、チリトリ、洗濯板、スキやクワ、桶、柄杓、トンカチ、荷車などというような「人が手やからだを使って自分のからだの延長として使うもの」です。子どもたちが遊びの場で使っていたナイフや、様々な道具を使って自分たちで作った竹馬や、コマや、凧なども「道具」の一種です。「遊ぶための道具」です。これらの「道具」の特徴は、使う人の能力に合わせて便利になったり、全然役に立たなかったりするということです。下手な使い方をすると役に立たないどころか怪我をしてしまいます。現代人はそういう「道具」の代わりに「機械」を使います。「道具」と「機械」の違いがどこにあるのかというと、「道具の能力」は「それを使う人の能力」に依存しますが、「機械の能力」は「使う人の能力」ではなく「機械自体の能力」に依存するということです。それはつまり、同じ機械を使えばベテランがやっても初心者がやっても同じ結果を出せるということです。ベーゴマが回せるようになるためには練習が必要ですが、ベーブレードを回すために必要なのは説明書を読むことだけです。また、「道具」はからだの動きや能力を拡大してくれます。でも、拡大してくれるだけで代わりにやってくれるわけではありません。それに、拡大してくれるのでからだを正確に動かさないと被害も大きくなります。素手で殴るよりトンカチで殴った方が怪我はズーッと大きくなりますよね。熟練した人がよい道具を使えば、思い通りに作品を作ることができます。でも、初心者はどんなに良い道具を使っても思い通りに作品を作ることができません。逆に道具を壊してしまいます。先日、教室の子どもが数人、ナイフで木を削ってスプーンを作っていたのですが、ナイフなどほとんど使ったことがない子どもたちばかりですから、全然思い通りにいきません。まず、ナイフをコントロールするために必要な指や、手首や、腕の力がありません。また、指や、手首や、腕に意識を向けることができないのでナイフを思った通りにコントロールすることも出来ません。というかどうやって手を動かしたらいいのかすらわかりません。「木」と対話する能力もないので「木の目」や「木の特性」を読むことが出来ず、力もないのに、力ずくで何とかしようとしてしまいます。結果、やればやるほど「スプーン」から遠ざかっていきます。怪我もします。それでも諦めない子は上達していきますが、ほとんどの子は、思い通りにいかないということが分かった時点で「疲れた」と言って諦めてしまいます。それでも、普段から「からだを使った遊び」をいっぱいやっているような子はなかなか諦めません。普段の遊びを通して「自分のからだを使って木やナイフと対話するコツ」が分かっているからなのでしょう。対話が出来るから面白くなるのです。また上達もするのです。でも今、そういう子は多くありません。昔の子どもたちは生活の場でも、遊びの場でも、道具を使ったり、からだを使ったりすることで「からだの使い方」を学んでいました。そして、「からだの使い方」を学ぶ過程で「自分のからだ」や「自分が関わっている相手」と対話する能力も育っていたのです。「ナイフで木を削る」という遊びを通して「木と対話する能力」も育つのです。そしてその能力は、相手が木でなくても使うことが出来ます。木を相手にして学んだことが人間を相手にした場合でも使うことが出来るのです。自分のからだや木と対話できる子は、人とも対話できるのです。それはつまり、上手に道具を使いこなすことが出来る子は、人と対話する能力も高いということです。まあ、素質も影響しますからイコールということではありませんが、相関関係はあります。
2024.07.15
閲覧総数 417
21
現代人は効率や簡単・便利を大切にする考え方が大好きです。そして、色々な機械を使うことで、家事や仕事や子育てなど、生活の様々な場面で効率化、簡単・便利化が進みました。問題は、じゃあそれで人間は幸せになってきたのか、楽になったのか、生活すること、仕事をすること、生きて行くこと、子育てなどを楽しめるようになったのかと言うと、実際にはその逆のような気がします。現代人はみんな時間に追い立てられています。「楽しむための時間」まで奪われてしまったからです。また、作業を機械に依存するようになることで作業を通して学ぶことも出来なくなりました。機械は賢くなりましたが、体験を通して学ぶ機会を失ってしまった人間はますます愚かになってきました。でも、機械のおかげでちゃんと出来てしまうので、自分が愚かになってしまっていることに気付かないのです。裸の王様状態です。でも、そのような状態の子どもや大人を、機械が使えない状況の中に連れて行くと、その愚かさが露呈します。日ごろ、部屋の中でおもちゃやゲームなどで遊んでばかりいる子を、遊具もオモチャもゲームもない森や自然の中に連れて行っても何も出来ません。ただ退屈するばかりです。親子キャンプで色々な家族でキャンプに行った時は、お父さんたちに火おこしをお願いします。でも、普段からキャンプに行ったり、野外活動をしているようなお父さんなら問題はないのですが、簡単で便利な機械に囲まれた生活しかしていないようなお父さんは「冗談でやっているとしか思えないような方法」で火を起こそうとします。以前、見て笑ってしまったのは、まず薪をそのままの状態で並べ、その上に束になったままの新聞紙をボンと起き、バーナーで火をつけようとしたお父さんたちを見た時です。新聞紙の上の方は燃えます。それを見てお父さんたちは「火が付いた」と喜んでいましたが、あっという間に消えました。で、またバーナーで火をつけてということを繰り返しているのです。でもそれではご飯も焚けないし、お風呂にも入れないので途中で私が助け舟を出しましたが、簡単で便利な機械に囲まれた生活は、私たち人間の知性の原点である「感じ、考え、工夫する能力の育ち」を阻害してしまっているのです。子育てでも同じです。何回言っても無駄、何回やっても無駄ということが分かっているのに、毎日毎日同じことを繰り返しているお母さんがいっぱいいます。思考が停止してしまっているのでしょう。エンデが書いた「モモ」という小説に出て来る「時間泥棒」にみんな「自分の時間」を奪われてしまっているのです。「自分の時間」が奪われているのに、「簡単になった」、「便利になった」と喜んでいるのです。それは入り口を入ったらすぐに出口から出てくることが出来るような状態です。中身がないのです。でも、「学び」は「自分の時間」の中でしか起きないのです。私は時々「ソロキャンプ」に出かけますが、キャンプでは鋳鉄で作った小さなお釜でご飯を炊いています。自分の感覚でお水を量り、自分の感覚で火加減を調節し、自分の感覚で炊きあがりを判断します。でも、そうやって美味しいご飯が炊けるとすごく満足した気持ちになるのです。「レトルトご飯」を使うこともありますが、味気ないです。簡単ではありますが、何の気付きも学びもありません。タモリのように山登りが嫌いな人は、「苦労して登って降りてくるだけなのに何が楽しいんだ」と言いますが、山登りはその、「苦労して登って降りてくる過程」が楽しいのです。ですから、車で上って、車で降りてくるだけでは「山登りの楽しさ」を知ることは出来ないのです。「山」の体験が出来ないですからね。「山登りは苦労して登って降りてくるだけ」と言うのなら、人生は「生まれて死ぬだけ」のことです。生まれてから死ぬまでの過程には価値がないことになります。現代人は結果を急いで「過程」を排除しようとします。でも、その「過程」こそが「中身」なんです。そのため、簡単で便利な機械を使ってその過程を省いてしまうと、外見は立派でも中身が空っぽになってしまうのです。これは子育てや教育でも同じです。タブレットや様々な便利な機械を使って勉強させれば効率はいいかも知れません。最近では実験ですら、映像を見せるだけのところも多いそうです。でも、そのように簡単・便利に学んだことは身につかないのです。そして学んだことが身につかないのなら、教育としては意味がないのです。子育てや教育の目的は子どもの成長をサポートすることです。テストで良い成績を取らせることじゃありません。そこは間違えない方がいいです。
2024.11.26
閲覧総数 376
22
28日に「気質のワーク」も含めた「自分を想い出す」というワークをやります。詳細は本文の下に載せておきました。ご興味のある方はご参加下さい。茅ヶ崎です。************************昨日は「胆汁質」と「憂鬱質」は逆の特徴を持っているということを書きました。そして、逆だからこそお互いに非常に気になるのです。胆汁質の人は憂鬱質の人を見ているとイライラしてきます。何もされていないのに、見ているだけでイライラしてくるのです。そのため、胆汁質の人は普段から表現が強いので攻撃的に見えることも多いのですが、憂鬱質の人を見ると余計に攻撃的になりやすいようです。空腹のライオンが鹿を見つけた時のような感じなのでしょうか。憂鬱質の人の方も胆汁質の人を強く意識しています。ですから胆汁質が強い人はすぐ分かります。そして、傷つくことを恐れて近づこうとはしません。胆汁質の人が何も攻撃しなくても、憂鬱質の人は胆汁質の「強さ」や、「固さ」や、「無神経さ」が怖いのです。うちの四番目は憂鬱質が強いのですが、幼稚園の年中の時担任だった胆汁バリバリの先生を怖がっていました。からだが大きく筋肉質で、全く体育会系で、パワーにあふれた先生でした。でも、明るくいい先生でしたから多血質の子ども達には人気があったと思います。でも、うちの子には刺激が強すぎたようで、「○○せんせい こわい」と言っていました。うちの子は最初一ヶ月以上ひと言も言葉を話さなかったそうです。年長になると、粘液質が強いおっとりした先生が担任になり、安心して幼稚園に行けるようになりました。それでも、幼稚園はあまり好きではありませんでした。多分、騒々しいのが苦手なのだと思います。ちなみに、このようなことは憂鬱質の人から見た胆汁質の人の状態であって、胆汁質の人本人は自分がそれほど強いとも、固いとも、無神経だとも、攻撃的だとも思っていません。これは全ての気質に言えることなんですが、「気質の特徴」は別の気質の人から見た時の特徴であって、本人はその特徴を自覚していないものです。それは、日本人が「日本人らしさ」を自覚していないのと同じです。多血質の人は落ち着きがありませんが、それは多血質以外の気質の人から見た多血質の特徴であって、多血質の人本人は「自分には落ち着きがない」などとは思っていないものです。ただ、「周囲がみんなそう言うからそうなんだろうな」と思っている程度であって、そのことを実感しているわけではありません。実感できているならそれを変えることも出来るわけですから。ですから、気質の学びを通して周囲の人の気質が分かるようになっても、自分の気質だけが分からないのです。自分の気質を知るためには自己表現を通して自分自身と向き合わなければなりません。自己表現を通して「他者としての自分」と出会うのです。自己表現をしなければ、いくら考えても分かりません。外国の人は日本の空港に着くと「日本の匂い」に気付くそうです。私も外国を歩いていた時は町ごとに匂いが違うことに気付きました。でも、日本から外に出たことがない人がいくら考えても、「日本の匂い」を知ることは出来ません。自己表現をするということは、自分が「自分」から出て行くということでもあるのです。だからこそ、私の「気質のワーク」では「表現」ということを多く取り入れているのです。「胆汁質」と「憂鬱質」の話に戻ります。昨日も書いたように、この二つの気質の特徴は正反対なのですが、それ故に非常に似ているところもあるのです。それは、「木」などで、地上から天を目指している幹などの地上部分と、地面の中に隠れている根っこの部分がよく似ているようなものです。木を引き抜いてひっくり返しても、「木」に似た姿になるものです。ただ、幹は「上」を目指し、「根」は「下」を目指しているだけです。では、どのような点が似ているのかということですが、両方とも頑固です。胆汁質の人も頑固ですが、憂鬱質の人も頑固です。そして、両方とも人の意見をあまり聞き入れません。憂鬱質の人は人の話は聞くのですが、でもそのことで自分を変える気はありません。メールなどで来る「子育ての相談」で一番多いのが、胆汁質や多血質の人からの「憂鬱質の子どもに関しての相談」と、胆汁質や多血質の子どもに関する「憂鬱質のお母さんからの相談」です。その憂鬱質のお母さんからの「相談メール」の特徴はとにかく長いということです。開けたとたん、思わず「後にしよう」と思ってしまうほど長いメールが多いのです。それだけいっぱい考えているのでしょう。子どもの状態や、今まで自分がやってきたことや、自分の気持ちなどが延々と書き込まれています。それで最後に「どうしたらいいのでしょうか」と質問で終わるのですが、このようなお母さんに、「ああしたらいいよ」とか「こうしたらいいよ」と言ってもあまり聞いてもらえないものです。このようなお母さんは、もうすでにいっぱい考え、いっぱい学んでいますから、「どうしたらいいのか」ということに関する「自分なりの答え」は持っているのです。ですから、それ以外の答えを言ってもはねつけます。でも、不安なんです。このようなお母さんが求めているのは「それでいいんだよ」という安心だけです。また、胆汁質の人も憂鬱質の人も「自分の世界」にこだわり、守ろうとします。両者とも「こだわり」が強いのです。でも、そのこだわりの質や方向性が正反対なのです。胆汁質の人は物質世界や現実世界にこだわります。でも、憂鬱質の人は思想や観念にこだわります。胆汁質の人は「現実」を求め、憂鬱質の人は「理想」を求めます。だから、戦いが起きてしまうのです。でも、多血質や粘液質の人は「感情的、感覚的喜び」を求めるだけです。一つのことにこだわることはしません。ですから対立や戦いは起こりません。ですから、多血質の人や粘液質の人だけのグループでは戦いもなく平和的で安定しています。でも、進歩も発展もありません。*********************<ワークのお知らせ>★「自分を想いだす」(詳細はリンク先をご覧になって下さい。)4月28日(日) 10:00am~17:00pm「大人は誰も始めは子供だった。しかし、その事を忘れずにいる大人は、いくらもいない・・・」これは、有名なサン・テグジュペリの「星の王子さま」の冒頭の一節です。私は「子どもの育て方のあれこれ」を細かく言うのが嫌いです。なぜなら、星の王子さまではありませんが、子育てがうまくいかないのは「みんな自分が子どもだった時のことを忘れてしまっている」からなのではないかと、単純に思っているからです。ビー玉のきらめき、水たまりの不思議、雲の魔法、泥んこの気持ちよさ、そんなことを覚えている人は、きっと子どもともうまくやっているのではないかと思うのです。あなたが、もし子育てに行き詰まっていたり、自分を見失って苦しんでいるのなら、そんな子どもの時のことを想い出しにいらっしゃいませんか。「本当に大切なこと」に気付くと思いますよ。気質についてもお話しします。自分の気質のことを知ることで、自分のことを肯定的に見ることが出来るようになります。時間が長いワークですが、絵を描いたり、時には再現劇をやったり、また、皆さんのお話も聞きながらゆっくり進めたいと思っています。連絡先はこちらです。
2013.04.24
閲覧総数 1235
23
昨日も書いたように、人間の思考や心や精神やからだは、「意識」と「無意識」という二つの働きによって支えられています。緊張すると呼吸が浅くなったり、声が出にくくなったり、表情やからだが固くなったりするのは「無意識」の働きの結果です。子どもを叱らないように自分を抑えていても、「気付いたら叱ってしまっていた」というようなことも「無意識」の働きの結果です。人間は、「意識の世界」の中で起こっていることは自分自身でも知ることが出来るし、意識の働きで関わることも出来ます。手を上げようと意識して手を上げた時には、自分の心とからだの状態を意識しながら手を上げることが出来ます。ですから、「もっとゆっくり」とか「もっと早く」と言われれば、そのように動くことも出来ます。でも、怒ったり、びっくりなどして手を上げるような場合には、その動きをコントロールすることは出来ません。無意識が働いているからです。私は結婚後、数年間ですが妻と二人で茶道を学んでいました。鎌倉に宗家がある「宗編流」という流派です。その時、よく先生から注意されたのは、「引く手が汚い」ということでした。茶碗を出す時には注意深く出すのですが、茶碗を置いて手を引く時に意識が外れて、無意識的な動きになってしまうため、美しくなくなってしまうのです。茶道でも武道でも、日本の「道」と呼ばれるようなものはみんな無意識の世界と向き合うことを求めています。日本人にとっては、その深さが「美」なのです。欧米の文化では「意識の世界」に美や文化を求めましたが、日本では無意識の世界の中に浸ることの中に美や文化を求めてきました。それは「コントロール」や「人智」を超えた「あるがままの世界」です。「無為の美」です。茶道において、「侘び寂び」(わび さび)と呼ばれるものもそのようなものです。なぜなら、「生命の世界」は「無意識の世界」の中にこそ感じる事が出来るものだからです。ちなみに、「古代神道」は「生命の世界」を神とする宗教です。欧米は「動の文化」で、日本は「静の文化」であるというような言い方も出来るかも知れません。私がいつも、「自分を取り戻すためには、ゆっくり丁寧に動くことを心がけて下さい」と書いているのもそのためです。実は、人は早く動いている時には意識は他者に向かうため、自分自身の心やからだに意識を向けることが出来なくなり、無意識の働きに支配されてしまうのです。それに対して、ゆっくりと丁寧に動いている時には、自分の心やからだや動きに意識が向かうため無意識の働きを感じやすくなり、「無意識の働き」に支配されにくくなります。そして「意識」と「無意識」の間の矛盾や対立が減り、心とからだが安定します。でも、現代社会はそれとは正反対の方に向かっています。だから頭でっかちになるばかりで、心とからだの生命力が萎えてきてしまっているのです。その状態から抜け出すためには、「ゆっくり」と「丁寧」を生活の中に取り戻す必要があります。私はいつも「からだを使って下さい」と書いていますが、それは「運動のため」ではありません。そうではなく、「自分」と向き合うためです。ですから、「ゆっくり」と「丁寧」が必要になるのです。などというようなことを言うと、「忙しくてそんな悠長なことなんかやってられない」とおっしゃるかも知れませんが、人間が人間らしく生きるために必要なことはそんなに多くはないはずです。無駄なことをいっぱい詰め込んでしまっているから忙しくなってしまうのです。【無為】(KOTOBANKより)道家思想の根本概念の一つ。道家思想では,一切万物を生成消滅させながらそれ自身は生滅を超えた超感覚的実在ないしは天地自然の理法としての〈道〉のあり方を体得することを窮極の目的とするが,その〈道〉のあり方を示すのが〈無為〉という概念である。〈無為〉とは人為の否定を意味するが,けっして何もしないということではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定したうえで,天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現することであり,正確には〈無為の為〉なのである。日本語本来の「自由」とか「自然」という言葉の意味は、この「無為」の思想とつながっています。それは、「束縛」に対する「自由」ではないし、「人工」に対する「自然」でもありません。「対立する他者」が存在しない世界です。
2014.01.29
閲覧総数 3936
24
「子どもはなぜ大切なのか」という問いかけに大勢の人からコメントを頂きました。有り難うございます。量が多いので一人一人へのご返事は出来ませんがここでお礼を申し上げます。「子どもは大切な存在だ」ということに対して異論を唱える人は多くないと思います。でも、「その理由は?」と問うと、こんなにも多くの理由があるのです。実はみんなが「当たり前」だと思っていることほど、一人一人そのものへの考え方や想いは異なっているものなんです。でも、みんなその「異なっていること」に気付かないまま、それを「当たり前のこと」として話をしているので、話がかみ合わないのです。幼稚園や学校などで子どものことを話していても、何となく話がかみ合わないことがありませんか。そんな時はその人とあなたの「子どもはなぜ大切なのか」という理由が異なっているのです。子供はなぜ大切なのか?それは、自然そのものだから、と思います。(まいんさん)という想いを持った人同士は感覚も、意見も合うのです。想いを共有しているからです。でも、「大切だということは分かりますが、子どもなんか嫌いです」という人とは話が合わないでしょう。理屈では大切だと分かっていても「私には大切ではない」という人もいっぱいいますから。でも、この「なぜ子どもは大切なのか」という問いに、正解はありません。皆さんが書いてくださった全ての「想い」や「考え」が正しいのです。ですから、私はこの中から正解を選ぶなどというようなことはしません。それは「世界で一番うつくしい花」を決めるのと同じように無意味なことだからです。それは一人一人違うのです。でも、それで終わってしまったら、この問いの続きを楽しみにして下さっている方に申し訳ないので、皆さんの「想い」や「考え」に少し分析を加えてみます。頂いたコメントを分析してみると「私にとっての意味」と「私たちにとっての意味」に分けることが出来ます。そして「私にとっての意味」はその全てが「私の想い」や「私の体験」から生まれています。「せいてんさん」の子どもの澄んだ心・無邪気さは、親や大人にとって、私はご褒美だと思っています。(幼稚園くらいまでは・・ですかね)とか、「あいあいさん」の私は、自分が「生きる」ことを映し出す鏡みたいなもの、おかげでたくさんの気づきをもらっていると感じています。もし、こどもがいなかったら・・・今の自分はどんなだったのか?と思うと、想像できません。などもその「私にとっての意味」です。この「私にとっての意味」は全く人それぞれです。その人の今まで生きてきた人生そのものがその「私にとっての意味」の中に含まれているからです。当然、正解などあるはずがありません。それに対して「私たちにとっての意味」という視点もあります。「亮月庵さん」が書いてくださった 私は一本の糸を想像しています。その糸は血のつながり、家族のつながりの系譜です。糸はいろいろな色に染められています。一本の長い糸は一族が伝えてきた文化です。その時代時代でさまざまな色を見せます。たくさんの糸が並ぶ織物、横糸の並びに浮かぶ模様はその時代の文化です。縦のつながり、横のつながりがやがて大きなタペストリーになって行きます。それが歴史です。という「理由」は、「私たちにとっての意味」です。でも、その「私たちにとっての意味」にも二種類あります。それは「事実」と「想い」の二種類です。「亮月庵さん」が書いてくださったことは一つの「事実」です。ですから、他の人もこれを認めないわけには生きません。それに対して、「のりまきターボさん」が書いてくださった、「子供は神の子だからです。全ての子は神の使命を帯びてこの世に生を受け、その使命の実現が人の社会をより良い方向に動かすから」ということも「私たちにとっての意味」ですが、その内容は「事実」ではなく、「想い」です。その「想い」を共有している人には「事実」ですが、その「想い」共有していない人に対して証明できることではありません。そして、「私にとっての意味」と「私たちにとっての意味」の両方において「想い」を共有出来る人たちは「仲間」です。ですから、この「仲間」の間でなら言葉が通じます。でも、「想い」を共有できない人との間では話し合いが出来ません。「想いを共有できない人」と話し合うためには、「事実」を基に話し合いをしないことには対立が深まるばかりです。この三つの視点はどれも大切です。「私にとって」という意見や感想や考えを持つことは、人が自立して自覚的に生きるために必要なことです。「私たちにとって」という「想い」を持つことは、仲間とつながり、共同体を支えたり、社会や世界を変えていくために必要なことです。でも、それだけでは「異なる想いを持つ人たち」との間で対立が深まるばかりです。だから「平和への想い」が、逆に戦いを生みだしてしまうことがあるのです。自分とは異なる想いを持つ人たちと対話し、理解し合うためには「私たちにとって」という視点に立った「事実」が必要なんです。自分の想いをその事実とつなげて話をすることが出来る時、人は自分の想いを他の人にも伝えることが出来るのです。このような視点は、仲間内だけでしか自分の考えを語らない人には必要がないかも知れませんが、幼稚園や学校という場で、みんなで子どものことを話し合うような時には絶対に必要になります。そうでないと、人間的な力関係だけで議論が流れてしまい、子どものためにならない結果につながってしまうことがあるからです。政治家達もそれぞれ「子どもへの想い」があり、それに基づいて政策を決めているのだろうと思います。でも、その想いは「実際に子どもが生きている事実の世界」とはつながっていません。だから子どもたちが苦しくなってしまっているのです。「大人の想い」は大人だけのものであって、それにこだわっている限り「子どもの想い」は見えてこないのです。そして時として「こどもの想い」と対立してしまいます。そして、「こんなにもあなたのことを心配しているのに」と子どもに「想い」を押しつけることになってしまいます。その「子どもの想い」に気付くためには、一度「大人の想い」を忘れて、「実際に子どもが生きている事実の世界」に気付くことから始める必要があるのです。「ねずみさん」が私達の未来だから、そして失った自分=自分がこどもの頃に得られなかった安心を与えることができる(または与えられる可能性のある)希望の存在だと思います。と書いてくださった「想い」など子どもは理解できないのです。むしろ時として、子どもはその「大人の想い」に束縛を感じて苦しくなります。念のために書いておきますが、だからといって、その「想い」が間違っているということではありません。その「大人の想い」が大人の心を支えているのですから。ただ、それは「大人の想いに過ぎない」ということです。ということで、「なぜ子どもは大切なのか」ということに対する私の考えは明日書かせて頂きます。私は「子どもの想い」の中に、「子どもはなぜ大切なのか」という理由を探してみたいと思います。「子どもの想い」は基本的に世界中で共通しています。ですから、「子どもの想い」は「想い」でありながら、個人的なものではなく人類が共有している「事実」でもあるのです。その事実に目を向ける時、「なぜ子どもが大切なのか」ということに対する、新しい「意味」が見えてきます。
2009.12.18
閲覧総数 2031
25
世に言う「洗脳」と、子どもの育ちに必要な「教育」の違いが分かりますか。その一番大きな違いは、「洗脳」では疑うことが許されないのに対して、「教育」では疑うことを大切にしていることです。つまり、「そんなの当たり前だろ」「そんなの常識だよ」という態度を育てるのが「洗脳」で、「なぜ?」「どうして?」「不思議だね」を大切にするのが「教育」だということです。それはまた、誰かが決めたことを覚え込ませ、信じ込ませるのが「洗脳」で、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、実際の体験や活動を通して自分の力で学ぶ力を育てるのが「教育」だということです。「洗脳」では知識を覚え、それを信じればそこで終わりですが、「教育」では、知識は自分の頭で考えるためのきっかけや道具に過ぎないのです。一度洗脳されるとそれがなかなか抜けないのは、洗脳されると「なぜ?」「どうして?」という感覚を失い、自分の考えていることを疑うことが出来なくなってしまうからです。そのため、他の人にも自分が信じていることをそのまま押しつけようとします。また、洗脳された人間は、マニュアルや誰かの指示がないと動くことが出来ません。自分の頭で考えることが出来ないからです。でも、上の方から指示を与えられると、その内容の是非の判断をせずに、素直に従います。極端な場合は、「敵を殺せ」とか「サリンを撒け」と言われたら、「分かりました」とそのまま行動に移すのです。そして、罪悪感を感じません。自分の頭で考えず、自分の意識で判断しない人は罪悪感も感じないのです。それはロボットと同じです。またそのような人は言われたことしかしないし、出来ません。自由に作ったり、描いたり、歌ったり、踊ったりというような、創造的で人間的な「趣味」を楽しむことも出来ません。人は洗脳化されると、人間性を失ってしまうからです。だから怖いのですが、だから、支配欲の強い人ほどこの方法を使いたがるのです。教団の教祖とか、一国の独裁者といったような特別な立場の人でなくても、普通のお母さんや普通の先生でも、子どもを思い通りに支配しようとする人は、子どもを洗脳しようとするのです。そして、自分の頭で考えることや、自分の感覚で感じることを許さず、お母さんや先生の言うことに従うことだけを求めるのです。そのような人は、子どもが自分の価値観とは異なることを言ったり、したりすると、子どもの言葉には耳を傾けずに、一方的に「反抗的だ」「悪い子だ」と非難、否定します。そして、叱ったり、怒鳴ったり、時には叩いたりもします。また、自分にとって都合の良いことをした時にはすごく褒め、そうでない時には無視することもあります。そうやって、大人の都合の良いように支配しようとするのです。それを繰り返されていると、子どもはお母さんや先生の顔色を見て行動したり、お母さんや先生に褒めてもらうために積極的に行動するようになります。洗脳の成功です。そう見ていくと、残念なことに、日本の教育の現状は「教育」というより、「洗脳」に近いものです。日本の教育現場では、「なぜ?」「どうして?」は受け入れてもらえません。それを言えば、反抗と受け取られてしまいます。そして常に「お上が決めた正解」を覚えるように求められるだけで、自分の頭で考えることは求められていません。それでもそれを「洗脳」と感じる人が少ないのは、今のところ覚えさせようとしている内容が勉強に限られているからです。でも、その方法は洗脳と同じ方法を使っています。それは戦争中と同じ方法です。戦争中と今とでは「教える内容」は変わりましたが、「教え方」は変わっていないのです。だから自分の頭で考えることが困難な人が増えてきてしまっているのです。でも、方法が変わっていないのですから、為政者の判断次第では簡単にその内容を戦争中に戻すことも出来ます。その時、「教える内容」に反対してもあまり意味がないのです。「何を教えるか」も大事ですが、それ以上に「どう教えるのか」ということがもっと重要な問題なのです。でも、その議論は聞こえてきません。もっと根本的なところから議論を始めないと、同じ歴史が繰り返されるだけです。
2016.07.15
閲覧総数 4204
26
私たちは、新しい機械などを操作する時にはマニュアルを読みます。もしくは、操作方法を誰かから聞きます。それと同じような感覚で、子どもが生まれたお母さん達は、「子どもの扱い方」を知るために「子育て書」を読んだり、ネットで情報を探したり、講演会や勉強会に行ったりします。でも、そういう方法で知った「子育ての方法」が役に立つのは「ヤダヤダ期」が始まるまでのことです。「ヤダヤダ期」が始まると、急に子どもは自己主張を始めます。一人の人間としての扱いを要求してきます。そして、それまでは世話をするだけで済んでいたのに、急に子どもとの間に困難な人間関係が生まれるのです。それは、「ヤダヤダ期」が始まるのは「人間としての心」が目覚め始めた現れでもあるからです。そして、子どもに「人間としての心」が目覚めてしまうと、ハウツー的なマニュアルは全く通じなくなってしまうのです。ですから、その時期の様々な問題に「どうしたらいいんでしょうか」と聞かれても、「問題を解決する方法」をお教えすることは出来ません。「心の問題」に「方法」は通じないからです。こんな時に役に立つのは「子どもをなんとかする方法」を知ることではなく、「子どもの成長の流れ」について知ることと、「人間としての子ども」のことを理解することなんです。この幼児期に目覚めた「人間としての心」は大人になって、老人になって、死ぬまで連続した心です。皆さんの「心」もこの頃に目覚めたものです。「子どもの頃の心の状態」と、「大人になった今の心の状態」は大きく異なりますが、それでもそれは一つにつながったものなのです。例えば、「種」の状態と芽が出た「双葉」の状態は全く違いますよね。「双葉」の状態と「木」として成長した後の状態も全く違いますよね。でも、姿形は変わってもその中で流れている命は「たった一つのもの」ですよね。それと同じです。この頃から「子育て」が単なる「肉体労働」だけでなく「精神労働」にもなってきます。子どもの存在や自分自身の存在を否定するような苦しみもこの頃から生まれます。我が子の「心」と出会うことで、自分の中の「子どもの頃の心の記憶」が目覚めてしまうからです。心の目覚めの時期に幸せに過ごせた人は、幼い子どもを見ることでその幸せの感覚が蘇ります。でも、寂しさと苦しさの中で過ごしていた人は、その寂しさと苦しさを想い出してしまうのです。そして、途方に暮れます。その苦しみから抜け出すために、さらに子育て書を読んだり、ネットで情報を調べたり、セラピストの所に行ったりするのですが、それがさらに子どもを寂しく、苦しくさせ、状況を悪化させていきます。方法や知識を求めてばかりいると、お母さんの心がどんどん目の前の子どもから離れて行ってしまうからです。むしろ、そんな状態の時に役に立つのは「子育ての方法」などではなく、「子どもなんてみんなそんなもんよ」などという、その方法自体を否定するような先輩お母さん達からの言葉だったりします。ヤダヤダ期の子どもに手を焼いて、自分の子育て能力の低さに自信を失い、色々な方法を探し求めているお母さんはいっぱいいますが、先輩お母さんから「そんなものハシカと同じで、心配しなくてもすぐ過ぎちゃうわよ」と言われることで救われた人もいると思います。そんな時、逆に「こうしたら」、「ああしたら」と丁寧に「方法」を教えられたら、余計に迷路から抜け出せなくなってしまうものです。「私はこうやったらうまく行ったわよ」などと教えてくれる人もいますが、その人の子と我が子は同じではありません。また、その人と自分も同じではありません。ですから、同じようにやっても失敗します。昔のお母さん達の周りには、親や近所のおばさんなど「子育て経験者」が身近にいっぱいいて、「子どもなんてみんなそんなもんよ」と教えてくれましたが、最近ではそういうつながりを失ってしまった状態の中で子育てをしているお母さんが多いので、子どもの状態を全部自分の子育ての結果だと思い込んでしまっている人が非常に多いのです。子どもがヤダヤダ言うのも、食事の時に落ち着かないのも、食べ物で遊ぶのも、約束を守らないのも、お片付けをしないのも、歯を磨かないのも、戸を閉めないのも、おしっこを教えないのもみんな、「自分の育て方が間違っていたからなんだ」と真剣に悩んでいるお母さんがいっぱいいるのです。でも、子どもはみんなそんなもんなんです。確かにちゃんと挨拶出来る子もいます。積極的な子もいます。友だちと仲良く遊ぶことが出来る子もいます。ブランコが得意な子もいます。落ち着いている子もいます。でも、その多くは「育て方」よりも、「生まれつきの気質」の問題であって、お母さんの育て方の問題ではないのです。子どもはお腹の中にいる時から一人一人違うのです。生まれた直後の泣き方も、おっぱいの吸い方も違います。子育てを始める前から子どもは一人一人違うのです。その背景に「気質」の違いがあるのです。そして「気質」はしつけでは変えることが出来ません。(でもその状態をこじらせてしまうのは育て方の問題です。気質をこじらせてしまうと気質の特徴が「短所」として固定してしまいます。でも、気質を肯定して育てていると、その気質の特徴が「長所」として成長してい行きます。)私は今まで1000人を越えるお母さん達に同じ事を聞いてきました。それは「お母さんに早くしなさいと言われて早くする子はいますか?」という質問です。でも、今まで一人も「うちの子は早くしなさいと言えば早くします」と答えられた方はいません。子どもとはそんなもんなんです。ですからそんなことでイライラしても無意味なんです。むしろ、叱れば叱るほど、親子の信頼関係が崩れていくばかりです。9才頃から「早くしなさい」と言えば早く出来る子も出てくるかも知れませんが、多分そういう子には笑顔がないと思います。またそういう子は、親の前でだけ「いい子」を演じている可能性が高いです。
2016.11.24
閲覧総数 1358
27
最初にちょっと。茅ヶ崎駅の近くで毎月やっている「気質の勉強会」(土or日)と、「からだの会」(月)の生徒を募集しています。 いずれも10:00~12:00 2000円/回です。ご興味のある方は「ここ」までお問い合わせ下さい。「からだの会」では「からだの不思議と面白さ」を学んでいます。******************「気質の違い」は「性格の違い」ではなく「からだの違い」です。「性格」には具体性がありません。また、評価する人によっても変わってしまいます。親の目には「落ち着きがない」だけの子を、「好奇心が旺盛な子」と評価してくれる人もいれば、「いつも乱暴なことをしている子」を「元気な子」と評価してくれる人もいます。「消極的な子」を「よく見てよく考える子」と評価する人もいます。そして「○○君はこういう性格だ」と固定されてしまいます。「性格分類」は「人を分類するための方法」でもあるからです。それに対して「からだの違い」によって生まれている「気質の違い」は常に変化しています。なぜなら「からだ」が常に変化しているからです。人は疲れてくると動きたくなくなるし、また素早く動くことも出来なくなります。のんびりしたくなります。それは、人のからだは疲れてくると粘液質が強く出てくるように出来ているからです。お腹いっぱい食べたときも同じです。「命の働き」が外の世界や身体的な活動に向かうのではなく、「からだの内側のメンテナンス」の方に向かっている時、人は粘液質的な状態になり、外の世界に向かう活動が抑制されてしまうのです。そして、普段からこのような働きが強い人を「あの人は粘液質だ」と言っているのです。でも、粘液質が強い人でも、からだの状態が変われば胆汁質的、多血質的、憂鬱質的な状態になることもあるのです。でも、その変化は一時的で不安定です。ですからしばらくすると粘液質に戻ります。逆に、粘液質以外の人でも疲れたり、お腹いっぱい食べた後は粘液質的な状態が強くなります。でも、からだの状態が元に戻れば自分本来の気質に戻っていきます。どうしてそういうことが起きるのかというと、人は皆最初から「四つの気質」全てを持っているからです。そして、からだの状態に合わせて隠れていた気質が目覚めるのです。「四つの気質」は色で言うところの「原色」と同じようなものです。世界中の色は全て「赤・青・黄(緑)」の三色と「明暗」の四つの要素の組み合わせで生まれてきています。このたった四つの組み合わせで世界中の全ての色が生まれているのです。そして、私たちの身近にある色は全てこの四つの要素全てを含んでいます。「赤」に見える色も「赤」だけで出来ている訳ではないのです。また、「昼間見た赤」と、「夜見た赤」では物理的には異なった色です。同じ「赤」に見えるのは脳の錯覚に過ぎません。また、赤いバラの花でも、咲いたばかりの時の赤と、盛りの時の赤と、散る間際の赤は異なります。気質もまた同じで、人はみな最初から「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つの気質全部を持っているのです。そして、その人のからだの状態に合わせて「優勢的に表れる気質」が変わるのです。「あの人は胆汁質だ」という場合も、単に「あの人は胆汁質が強い傾向がある」と言うだけのことであって、実際には、からだの状態に合わせて、四つの気質の間を揺れ動いているのです。<明日に続きます>
2021.06.24
閲覧総数 951
28
自然界にはライオンやクマやオオカミのようにからだが大きくて、力が強い動物もいれば、ウサギやネズミやリスのように、からだも小さく、力も弱い動物もいます。からだが小さく力も弱いウサギや、ネズミや、リスが、正々堂々とライオンやクマやオオカミと戦ったら100%負けます。時には殺されて餌になってしまいます。だから「力の強いもの」が増え、「力の弱いもの」が減るように感じますが、実際にはそうなっていません。数だけ比べたらからだが大きく力が強い生き物よりも、からだが小さく力も弱い生き物の方がいっぱいいます。それは、弱いものは弱いものなりの生存戦略と能力を持っているからです。まず、「憶病である」というのは非常に大切な能力です。強いものにとっては「憶病」は短所かも知れませんが、弱いものにとっては「憶病」は長所なんです。弱いものは逃げて、隠れて身を守るのです。それを卑怯だというのは強者の論理です。ウサギや、ネズミや、リスが「臆病者!」と言われて「僕は憶病なんかじゃない」と、正々堂々とライオンやクマやオオカミの前に出てきたら、簡単に食べられてしまいます。弱者が自分の身を守ろうとするなら、強者の論理に支配されてはいけないのです。「頑張れば何でも出来る」などというのも「強者の論理」です。世の中には頑張りたくても頑張れない人も、どんなに頑張っても結果が出せない人も、そもそも頑張り方が分からない人もいるのですから。また感覚が鋭敏である必要もあります。相手が自分の存在に気付く前に、こちらの方が先に相手の存在に気付く必要があるからです。中でも「音」に対する感受性は重要です。次に「匂い」です。視覚は最後の最後に相手を確認する時にしか役に立ちません。これは人間も同じで、視覚は「確認のための手段」なんです。そのため、「視覚」は「心」や「からだ」ではなく「頭」とのつながりが一番強いです。また、獲物を追いかける時にも視覚の働きが重要です。実際、鷹の視力はものすごく高いです。逆に、逃げる場合は「音」に注意する必要があります。追いかけてくる相手を目で見ながら逃げたら簡単に追いつかれてしまいます。他の動物が食べない竹を食べることで生き延びて来たパンダや、毒を持っているユーカリの葉を食べることで生き延びてきたコアラは、競争相手がいないため粘液的な特性を持っています。逃げるのではなく戦って生き延びてきた動物は吠えるなど相手を威嚇する能力を持っていますが、逃げることで生き延びてきた動物は吠えて相手を威嚇しようとはしません。また、群れることで身を守っている動物たちもいます。そのような動物たちは仲間とのつながりを大切にします。仲間の一頭が襲われたら、別の仲間が助けに入ることもあります。ただ、集団心理で行動しているので、集団で崖から落ちてしまうこともあります。自然界に生きている動物たちは自分たちの特性に合わせて生き延びるための様々な能力を身につけてきました。その能力の中にも四つの気質がちゃんと揃っているのです。人間は人間だけの群れの中で生きていますが、そこにも様々な生存競争があります。そのため、その生存競争を生き延びるための能力として、様々な気質を持った人達がいるのです。だからこそ、人は自分の気質を生かした生き方をする必要があるのです。弱いものが強いもののマネをしたら、絶対に強いものには勝てないのですから。また、年齢によっても能力は変化します。幼い子ども達は逃げる能力も戦う能力もないため、群れたり、他者に依存することで身を守ろうとします。そのため多血的です。自我が育ち、筋肉も、骨格も、体力も付いてくる思春期になると胆汁的になってきます。体力も気力も落ちてくる中年頃になると、憂鬱的になってきます。さらにからだが動かなくなって、自分で自分を守る能力が衰えてくると、子どもと同じように他者に依存せざる終えなくなります。仕事もなくなるのでボーッと粘液的に過ごすしかなくなります。いわゆる「ご隠居」です。ただし、今はそんな優雅なことを言っていられない社会になってしまったので、不安が強いご老人が増えて来ました。
2021.06.28
閲覧総数 1185
29
自分を変えたいと願っている人がいっぱいいます。特に、自分に自信がない人ほど自分を変えたいと思っています。そして、自分の心と向き合い、「こんな自分じゃダメだ」と自分の心を否定し続けています。でも、自分で自分を否定し続けていたらいつまで経っても自分に自信が持てるようになどなるわけがないのです。当然、自分を変えることも出来ません。でも、「私は自己肯定感が低いんです」「私はアダルトチルドレンです」などと自称する人ほど、延々とこういう無駄な作業を続けているのです。例えて言うと、そのような人は自分の部屋(心)の中に閉じこもったままで、自分が住んでいる家のリフォームをしようとしているようなものです。確かにインテリアを変えるとか棚を作るとかなどの「目に見える部分」だけならそれで直せるかも知れません。でも、雨漏りは直せません。家の歪みも、使いにくい家の構造も直せません。部屋の中が暗かったり、湿気が多くて土台が腐っていても直せません。そのためいくら目に見える部分を素敵なものに変えても、すぐにカビが生えてきたり、剥がれてきてしまいます。この場合の「家」とは「からだとして存在している自分自身」です。「心」(部屋)はその中の一部に過ぎません。その「からだ」には、「使おうとしないところは育たない」し「使わないところは使えなくなり」というという特性があります。また使い方を変えると「からだの状態」が変わるだけでなく、同時にその中にある「心の状態」も変わります。ズーッと椅子に座ったまま仕事やゲームばかりしている人が毎日散歩するようになれば、からだが変わります。そしてからだが変わるとその中にある心も変わります。それをズーッと椅子に座ったまま心だけを変えようとしても無理なんです。「自分の心」を変えようとすることで「自分の心への執着」が生まれます。だからそれは逆効果なんです。本当に「自分の心」を変えたいのなら「自分の心」のことを忘れる必要があるのです。実際、他の人から見て自信に満ちて自己肯定感が高い人ほど「自己肯定感」などということは気にもしていません。自分の心にこだわってもいません。ただ「自分に出来ること」をやっているだけです。「自分の心」を変えたいのなら、「今の自分に出来ること」をやればいいのです。新しく、今までやってこなかったことを始めればからだが変わります。散歩しなかった人が散歩するようになればからだが変わります。背中を丸めて歩いていた人が、背中を伸ばして遠くを見て歩くようにすればからだが変わります。「心」が変わるのはその結果に過ぎません。運動やストレッチをすれば「からだの状態」は変わりますが、別に運動やストレッチなどしなくても「からだの状態」を変えることは出来ます。下ばかり向いていた人が空を見るようになるだけでからだは変わります。食べ物を変えるだけでからだが変わります。部屋の中のインテリアを変えるだけでもからだは変わります。新しい習慣を始めるだけでもからだは変わります。繰り返しますが、「心」が変わるのは「からだ」が変わることの結果です。「自分の心」の中に籠もっていくら自問自答しても「心」は変わらないのです。
2021.07.01
閲覧総数 1001
30
一般的には、自己肯定感が低い子に対しては「成功体験を積ませたり、ほめて育てることが必要だ」などと言われています。でも、「大人がやらせたいこと」をやらせて成功しても子どもは嬉しくありません。褒められても嬉しくありません。当然、自信にもつながりません。勉強が嫌いな子は100点取っても嬉しくないのです。いつも「勉強しろ」と追い立てられているような子の場合は、喜びよりも「叱られないで済む」という安心の方が大きいのではないでしょうか。でもその安心はすぐに「また100点取らなければ」という不安につながります。それに対して、「どろ団子作り」のような、大人から見たら下らないことでも、子ども自身がやりたいと思って取り組んだことなら、子どもはその成功を素直に喜びます。誰からも褒められなくても嬉しくなります。失敗しても自己肯定感は下がりません。「木登り」でも、自分の意思でチャレンジしたのなら、たとえその時は登れなくても、それは「成功への過程」であって、「失敗」ではないのです。自己肯定感も下がりません。大事なのは「成功したか失敗したか」ではなく、「本人の意思で取り組んだかどうか」なんです。本人の意思で取り組んだことだから、失敗しても、なぜ失敗したのかを考え、今度は失敗しないように色々と考えるのです。その過程で、自己肯定感も育っていくのです。「自己肯定感が高い子」とは、失敗した時でも「なぜ失敗したのかを考え、次はこうしようということを考えることができる子」でもあるのです。そういうことができるから、自分に自信を持つことができるのです。そういう子はまた「工夫ができる子」でもあります。そして、幼い子どもたちは、自分の意思で選んだ能動的な遊びの中でそういう能力を育てているのです。大人から見たら意味不明で取るに足らない遊びの中で、子どもたちは自己肯定感を育てているのです。でも今、自由にそういう遊びができる場が消えてしまいました。そういう遊びを温かく見守ってくれる大人も少なくなりました。音が出て反応してくれるおもちゃや機械に慣れてしまった子は、反応してくれないおもちゃや遊びを楽しめなくなりました。自分で遊びを探さなくなりました。日々、そういう状態の中で育っていたら当然、自己肯定感も育たないでしょうね。また、そういう状態の中で育っている子ほど「失敗」を恐れます。現代の子どもたちは、自分の意思で能動的に、そして自由に遊ぶことが出来ない状態の中で、常に大人の目や評価を気にしながら生きています。自己肯定感を高めるために必要なのは「成功体験」ではなく「自分の意思に基づく自由な遊び」なんです。現代社会ではそれが失われてしまっているから、自己肯定感が低い子が増えてきているのです。
2023.07.19
閲覧総数 915
31
昨日は、ただ話しが長くなるのでこのくらいでこの話しは止めておきますが、「中身から始める方法」にも短所があります。「形から始める方法」にも長所があります。大切なのは、「いずれの方法を採るにしても、その短所と長所のことをちゃんと理解した上で、状況に応じて自由に考えた方がいいですよ」ということです。と書きましたが、実は子どもの成長には「中身」も「形」(型)も両方必要なのです。ただし、学ぶ順序に気を付ける必要があります。9才、10才頃までは中味を充実させた方がいいです。その頃までは形や型に囚われないで自由に学び、自由に遊び、自由に踊り、自由に作り、自由に動くことで、「学ぶって楽しい」「遊ぶって楽しい」「踊るって楽しい」「作るって楽しい」「動くって楽しい」ということをからだに浸みこませる必要があるからです。これが「生きるって楽しい」という感情と「前向きに生きるための意志」を育ててくれるでしょう。でもその頃から、子ども達はもっと上を目指すために「形(型)」に興味を示し始めます。自由なやり方、楽しいだけのやり方だけではどうしても限界があるからです。そのため、この頃になると、先人たちが学んできたこと、やってきたことにも興味を示し始めます。そしてそこに形や型を探ろうとするのです。ただ自由に描いてきただけの子が、「セザンヌの描き方」「ルーベンスの描き方」「クレーの描き方」に興味を示し始め、真似をし始めるのです。9才、10才ごろになると、抽象化する能力が目覚め始めるので、そういうものが見えるようになってくるからです。子ども達に「形」(型)を教えるのはその頃からでいいのです。でも、いつまでも「形」(型)にこだわっていたら、自由になれません。自分らしさを発揮できません。それで、成長が一段落した20才ごろから、子ども達はそれまで学んできた「形」や「型」を自ら壊し始めるのです。(ただし、言葉や、生活の場での形や型は幼い頃から学んでおく必要があります。遊びの場における遊び方やルールも形や型の仲間です。その形や型が学べなかった子は仲間ともつながることが出来なくなります。形や型は「他者とつながるための言語」でもあるからです。)でも、壊しても感覚やからだの中に染み付いた形や型は抜けません。だからこそ、先人が築いてきたものを土台にして、「自分らしい表現」「自分らしい生き方」が出来るようになるのです。その形(型)学べなかった子は、自分勝手に考え、行動する事になるでしょう。多くの一流の絵描きたちが「子どもの自由な表現」を褒めます。棟方志功も、私が絵を学んだ里見勝蔵も、子どもの絵を褒めていました。でも美術館には、棟方志功の絵も里見勝蔵の絵もありますが、「子どもの絵」はありません。美術館に絵が飾られるような人が褒めているのに、その人達が褒めている「子どもの絵」は飾られていないのです。なんでだか分かりますか。それは、子どもの絵には命の輝きと、常識にとらわれない自由さと、その子らしさはありますが、人類がこれまでに発見し、積み上げてきたものがないからです。子どもの絵のすばらしさは、自然のすばらしさと同じなんです。自然の中で咲いている花の美しさと同じなんです。絵描きはその自然の素晴らしさに驚きあこがれ、それを自分なりの解釈で絵にしようとします。その絵の中には、その絵を描いた人の生き方や、感覚や、心も表現されています。そしてそれが、絵を見る人の生き方や、感覚や、心に響くのです。でも自然はただそこにあるだけです。その「ただそこにあるだけ」のものの中に隠された「真実」や「美」を読み解き、自分のものとして表現するためには何らかの訓練が必要になるのです。形や型の学びはその時に必要になるのです。茶道には細かい型の決まりがあります。でも、それを究めた千利休は茶の湯とはただ湯をわかし茶をたててのむばかりなる事と知るべしと言いました。論語を書いた孔子は70才を超えて「心の思うところに従えども矩を踰(こ)えず」と言いました。それは、徹底して形や型を学んだ結果としてたどり着いた、形も型もない自由な境地です。不自由になるためでなく、自由になるために形や型を学ぶのです。
2024.10.31
閲覧総数 461
32
「肉体の成長」は外側から見える部分も大きいので、ある程度なら多くの人が認識しています。でも「運動能力」や「からだの使い方」などの成長に関しては、外から見ただけでは分かりません。それを見る能力がある人が見れば、「歩き方」や、「日常の動作」や「からだの使い方」を見ればある程度は分かりますが、そのような能力がない人はそういうものを見ても気づきません。説明されても理解できません。それでも、スポーツや様々な身体的な活動をやらせてみると、その発達状態を知ることが出来ます。でも、「肉体の内側」に隠されている「感覚の成長」や「心の成長」となるとさらに難しくなります。そのため、それを気にする人は多くありません。シュタイナー教育ではそのような成長を大切にしていますが、普通の教育においては、「学力の成長」や「社会性の成長」にのみ力を注いでいます。でも、「感覚」や「心」もまた肉体と同じように成長しているのです。だから「子どもの心」と「大人の心」は違うのです。だから、大人たちは「子どもの言葉の意味」、「やっていることの意味」が分からないのです。ただ、「感覚の成長」の仕方と「心の成長の仕方」は同じではありません。子どものうちは「苦いもの」が苦手です。「うまみ」よりも「あまみ」の方を好みます。でも、成長と共にそういうものを美味しく感じるようになるのです。これは「肉体の成長」に伴う「感覚の変化」です。また「心の育ち」によって目覚める「感覚の成長」もあります。それは「真・善・美」を感じる感覚能力の成長です。これは「変化」ではなく「成長」です。でも、「肉体の成長」は誰にでも起きますが、「心の成長」の方は個人差が大きいので、「真・善・美」の感じ方においても個人差が大きいです。そんなもの感じていないように見える人もいっぱいいます。「心の成長」においても「変化」はあります。「異性に対する意識」「社会に対する意識」などは「肉体の成長」に伴って変化していきます。それに伴い「子どもの心」から「大人の心」へと変化していきます。ただ、その「変化」が単なる「変化」(置き換わり)だけで終わってしまうのか、それとも「成長」につながるのかは人それぞれです。幼い子ども達は「自分のこと」だけを考えています。でもそれは自己中だからではなく、まだ意識の働きが「自分のことしか見えない状態」だからです。でもやがて「他の人」のことも見えるようになってきます。その変化は段階的に訪れ「七・五・三」や九才、14才といった成長の節目ごとに変化していきます。1,2歳の頃は「お母さん」が全てです。でも、3,4歳の頃からそこに「お父さん」が加わります。5,6歳の頃からは「仲間」が加わります。そして、9、10才くらいになると「社会的につながっている人たち」も見えるようになってきます。14才ごろになると、時代や地域に囚われないで古今東西の人たちのことも見えるようになってきます。でも、9,10才以降の「心の成長」は個人差が大きいです。「仲間」だけで終わってしまって「古今東西の人」まで意識できるようになる子は少ないです。意識の視点が水平移動しているだけの子は、自分の感覚で直接体験できる範囲までしか認識できないのです。それはどういうことかと言うと、「お母さん」が「お父さん」に置き換わり、「お母さん」や「お父さん」が「仲間」に置き換わるような変化です。そのような成長をする子にとっては、「お母さん」「お父さん」「仲間」が別個の存在なんです。そのような成長状態の子は、成長しても「お母さん」だけを選んだり、「お父さん」だけを選んだり、「仲間」だけを選んだりします。これは成長というよりも変化に過ぎません。でも、「お母さん」が「お母さんとお父さん」へと変化し、さらに「お母さんとお父さんと仲間達」へと変化する子もいます。「世界」が移動するのではなく広がっていくのです。(表現が難しくて申し訳ありません。)このような成長をしている子は「つながり」を認識することが出来ます。というか、「つながり」の中で育てられているから、このような成長が起きるのでしょう。<明日に続きます>
2024.11.11
閲覧総数 363
33
幼い子どもは「自分」のことしか分かりません。でも、様々な体験や学びを通して、次第に「相手」のことも分かるようになってきます。これは「肉体の成長」に伴う「生理的な成長」の結果です。そんな時、虐待などを受けているような子は「自分の視点」ではなく「相手(一般的にはお母さん)の視点」を推測して、物事を感じ、考え、行動するようになります。「自分」が「相手」に飲み込まれてしまうのです。そうして子どもは自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動することが出来なくなっていきます。この「自分」から「お母さんへ」という視点の変化(視点の移動)は「変化」であって「成長」ではありません。「生理的な成長」の結果、「お母さんの視点」が分かるようになったのですが、「自分の視点」が「お母さんの視点」に飲み込まれてしまうのは「人間としての成長」ではないのです。「自分の視点」も「お母さんの視点」も同時に大切にした上で「さてどうするのか」ということを考えることが出来るようになるのが「人間としての成長」なんです。「自分」を見失ってしまったら「人間としての成長」は止まってしまうのです。そして、それが可能になるためには「視点の上昇」が必要になるのです。それは、「私だけ」という一次元で考えていたのを「私とあなた」という二次元でも考えることが出来るようになるということです。地表にいて見ていた世界を気球などに乗って上から見てみるというようなことです。子育てに苦しんでいるお母さんの多くが、「子どもの幸せのために自分を犠牲にするか」それとも「自分の幸せのために子どもを犠牲にするか」という二者択一で悩んでいます。でも、「自分の幸せ」と「子どもの幸せ」を両立させる方法もあるのです。でも、そのことに気付くためには「人間としての成長」が必要になります。まただから、多くのお母さんが子育てを通して成長していくことが出来るのです。人間として成長して第三の選択肢を見つけ出さないことには、「子ども」か「自分」のどちらかが犠牲になるだけですから。さらに生理的に成長すると9才を過ぎたころから「社会の視点」ということも分かるようになってきます。すると今度は「自分の視点」を捨てて「社会の視点」に合わせて生きるようになる人もいます。そのような人は、テレビや、政治家や、周囲の人たちの意見に洗脳されやすいです。第二次世界大戦が始まり、国が「鬼畜米英」と言ったとき、それまでお手本にしてきた欧米を急に「鬼」と罵るようになった人がいっぱいいましたが、そういう人は「自分の視点」を国や社会に簡単に明け渡してしまったのです。幼いときから「自分の視点」を大切にするような育てられ方をしてこなかった子は、簡単に「視点」を乗っ取られてしまうのです。あなたがもし「子どもの心」に対して、「変化」ではなく「成長」を求めるのなら、子どもが「自分の視点」をしっかりと持つことが出来るように関わる必要があるのです。そのためには、「子どもが感じていること」「子どもが考えていること」「子どもがやりたいこと」を大切にしてあげる必要があります。でも、ただほったらかしておくだけではダメです。色々なことを感じることが出来、色々なことを考えることが出来、色々なやり方を知りそれを試して見ることが出来るような自由な場と、それを共有する仲間が必要になるのです。ゲームしか知らない子に「何をして遊びたい?」と聞いても無意味ですよね。「ここ」しか知らない子に「どっか行きたいところがある?」と聞いても無意味ですよね。そして、そういうことを子どもに問いかける大人との関わりも必要になります。人は問いかけられることで自覚が目覚めるのですから。皆さんは何を感じ、何を考え、自分の人生で何をしたいのですか?その自覚が目覚めないことには「移動」は起きても「成長」は起きないのです。
2024.11.13
閲覧総数 358
34
じゅりママさんから以下のような質問(でいいのですよね?)を頂いたので、今日はそれに答えさせて頂きます。さっそくですが、質問があります。年末に読んだある教育雑誌に書かれていたシュタイナー教育について。公園など出かけて、帰る時に「もう帰ろうか」と子どもに聞くのは子どもに主導権を握らせてしまう。「もう帰るよ」と言わなければいけない。というようなことが書いてありました。前に先生に胆汁質の子どもにはリーダーが必要。母がリーダーに、という指導を受けました。でもなかなか「リーダー」というのが難しく、ともすれば「支配」になってしまいます。主人はこの「主導権を握らせない」という考えには同意してくれません。子どもの自主性を育てようと思っている人には、この「子どもに主導権を握らせない」という考え方はなかなか理解しがたいことかも知れません。実際、「うちでは、自立した子どもに育てるために色々なことを自分で決めさせています」と自信たっぷりにおっしゃるお母さんも多いですから。でも、ちょっと考えてみてください。あなたが今まで全く知らない会社に入って、全く知らない仕事を任され、さらにいきなり「自分で考えて決めなさい」と言われたらどうしますか。しかも、どんなように決めても、「OK」を出されたら、余計に心配になりませんか。あなたはそのような仕事で何を学ぶことが出来ますか。何も学べないのではありませんか。そのような扱いをされた新入社員(子ども)は、好き嫌いだけで物事を決めるようになり、自分勝手に行動するようになるでしょう。でも、その一方、会社(家)の外では不安で萎縮してしまうようになるでしょう。「何も学ぶことが出来ない」ということは、子どもの自己肯定感を奪い、不安を与えるからです。さらに上司(親)に対する不信感も感じるようになってしまうでしょう。初めてピアノに触れる子に、「どんな風に弾いてもいいんだよ。あなたが自分で考えて弾くことが大切なんだよ。」などと好き勝手に弾かせる指導者などいないはずです。ただし、だからといって「ああしなさい」、「こうしなさい」と子どもに指示命令を出して子どもを支配しなさい、ということを言っているわけではありません。ただ、「子どもにはお手本が必要だ」ということです。子どもにしっかりと決める大切さを伝えたいのなら、大人がまずしっかりと決める必要があるということです。子どもは大人の判断力を体験したり、自分自身でいっぱい色々な体験をし、色々なことを学ぶ過程で判断力を育てているのです。幼い時から自分で決めさせられるばかりで、お手本を与えられていない子どもは、(親の思いとは逆に)正しい判断力が育たなくなり、自立できなくなってしまうのです。実は、「判断する」というのは非常に知的で難しい行為なのです。それは「ミカンとりんごとどっちがいい」と選ばせるようなものとは違います。蟻の前に「砂糖」と「塩」を置けば、蟻は「砂糖」を選ぶでしょう。でも、これは「判断」ではありません。蟻はただ好きな方を選んだだけで何にも判断などしていません。園庭に遊具がいっぱいある幼稚園と、ただの野原のような幼稚園を見せて「どっちの幼稚園に行きたい」と聞けば、子どもは蟻が砂糖を選ぶように、「遊具がいっぱいある幼稚園」を選ぶでしょう。でも、これは「判断」ではないのです。物事を判断する時には、様々な知識や、体験や、総合的な視点が必要になります。その状況における、それぞれの長所、短所を比較して決めていくことが「判断する」ということです。でも、まだ体験も知識も乏しく、さらには総合的な視点など持っていない幼い子ども達にそんなことが出来るわけがないのです。子どもはただ自分の好き嫌いだけで物事を決めてしまいます。それは「判断」ではありません。でも、大人がそれを「判断」として肯定していると、子どもは好き嫌いだけで物事を決めるようになり、「本当の判断力」が育たなくなってしまうのです。そして困ったことに最近は大人でもこの「判断」が出来ない人が増えてきています。電車の中でお化粧をする人、ヘッドフォンで大きな音を流している人、床に座り込む高校生などは、自分で判断できない人達です。彼らはただ、自分の趣味、興味、価値観だけで自分の行動を決めています。「その状況における適切な判断」というものが出来ないのです。小さい時から自分で決めさせているとそのような大人になってしまうのです。ただし、だからといって「何でもかんでも、一方的に大人が決めなさい」ということではありません。子どもの趣味や興味に関する部分は子どもが決めてもいいのです。ミカンを食べるか、りんごを食べるのか、ということは子どもが決めればいいのです。でも、知識や体験を通して総合的に判断しなければいけないようなことに関しては、しっかりと大人が決めなければいけないということです。それまで子どもに決めさせようとしてしまうと、子どもは「判断する」ということのお手本を体験することが出来なくなります。また、子どもの判断力を育てるためには、からだを使った様々な体験をさせる必要があります。「判断力」というものは一つの「技術」であって、それはお手本を見、実際の体験を通してしか身につけることが出来ないものだからです。いっぱいゲームをやっていれば、ゲームの世界の中での判断力は育つでしょう。でもその判断力はゲームの世界の中だけでしか通用しません。現実の世界の中で通用する判断力は、現実の世界の中で色々な体験をすることによってしか育てようがないのです。そして、高度な判断力を育てるためには、絶対的に「お手本」が必要なのです。また、人間関係における判断力は、様々な人間関係を体験する以外に学びようがありません。そして、子ども時代には「群れ遊び」こそが、子どもの判断力を育てる絶好の体験なのです。
2011.01.13
閲覧総数 7322
35
「あーやん」さんが学習支援ボランティア講座の講師の方(大学の先生)から聞く話では、先進国においては、障がい児と健常児を分ける「分離教育」から、個性に合わせて学ぶ「共生教育」にシフトしているそうです。また日本は一斉授業形式がほとんどですが、諸外国では様々な新しい授業形式を取り入れているようです。日本の場合は江戸時代の「寺子屋」のほうが、それに近かったような・・・?と書いて下さったので、今日と明日でこのことについて書いてみます。コメントを頂くと助かります。イジメや虐待のことを言うと、必ず「そういうことは昔からあった」と言う人がいます。確かに、そのようなものは時代、文化にに関わらず、昔から世界中であったと思います。でも、そのほとんどが「個人としての問題」でした。ですから、いじめる子もいたし、それを止める子もいました。また、いじめている子もそれを「悪いこと」として認識していました。だからといっていじめをしなかった訳ではないのですが、叱られたら「叱られた理由」ぐらいは分かったのです。昔の中高生もタバコを吸っていました。でも、隠れてです。「悪いことをしている」という認識があったからです。でも、今の中高生はその罪悪感が薄いようで、公民館のロビーなどで平気でタバコを吸っている子もいるそうです。それで職員の人が注意するのですが、「なにが悪いの?」とポカンとしてしまう子もいるそうです。我が家は家の前に自転車を置くスペースがあるのですが、今までそこから自転車を3台も盗まれました。鍵をかけていなかったのが悪いと言えば悪いのですが、「盗んだこと」より「鍵をかけていないこと」の方が責められるのはおかしいです。(今、困っています。それで鍵をかけるようにしました。通りに面しているとはいえ、家の敷地の中に置いてあるのに鍵をかけなければならないことに違和感を感じます。)公園で親子で遊んでいて、子どもが石に躓いたり、木登りしてケガをしたら、昔は「次は気をつけようね」で済んでいたのに、今では公園の管理責任の問題になってしまいます。万引きでも、昔は「悪いこと」という認識がありましたが、今では「欲しがるようなものを置いていることや、取りやすい状態で置いていることの方が悪い」と開き直る人も増えてきているようです。子どもたちも「ゲーム感覚」で万引きをしているようです。公園の花壇のお花をシャベルで抜いているおばちゃんを見かけたこともあります。それで「何してるんですか」と言ったら、コソコソとどっかへ行ってしまいました。散歩途中のような普通の身なりのおばちゃんです。そこにも罪悪感がありません。確かに、そういうことは昔からありました。また、罪悪感の薄い人もいました。でも今、日本人全体の感覚がどんどん麻痺してきているような気がするのです。簡単に言うと、みんな「自分のこと」ばかりしか考えなくなって来てしまっているのです。「個人として」ではなく、「社会全体が」ということです。「個人の問題」だったものが「社会の問題」へとレベルが変化してしまっているのです。自分のことしか考えない人には「罪悪感」は必要がありません。見つからなければいいのです。そのためネットでの悪口はひどいものです。匿名なら「見つからない」と思っているので、言いたい放題です。学校などでは、そのためネットなどを使う時のルールやエチケットなどを教えようとしているようですが、罪悪感が薄い子どもたちにルールやエチケットを教えても無意味です。今、家庭の中でも学校でも、子ども達は競争に追い立てられています。そして、「仲間とと共に」とか「お母さんやお父さんと共に」という体験をすることが出来ないまま成長しています。実は、「罪悪感」と呼ばれるものは、その「共に」を喜ぶ感覚の育ちと共に育つものなのです。自分のことしか考えない人、競争のことしか考えない人には「罪悪感」など必要がないのです。だから、小さい時から競争に追い立てられている子が「罪悪感」を育てることが出来ないのは当然なのです。でも実は、子どもは「競争」が嫌いなのです。それは競争をすると仲間を得ることが出来ないのと、競争の中では育つことが出来ないからです。それは本能的な嫌悪感だと思います。その逆に子ども達は「共に」が大好きです。その証拠に、「仲間と共に」、「お母さんやお父さんと共に」というつながりの中で生活している子ども達はニコニコ、生き生きしています。そして、心もからだも知性もバランスよく育っています。でも、大人達はそんな子どもの感性を無視して、子どもにも大人の社会と同じ「競争」を求めています。だから、子どもは自分を守ることに精一杯になってしまっているのです。そして、「自分を守ることだけ」に精一杯な子は「罪悪感」を否定します。「自分を守ること」と「罪悪感」が両立しないからです。(でも、自分に危害を加える人のことは非難します。自分も同じようなことをしていてもです。)ここいらで「新しい社会の形」「新しい教育の形」を模索していかないと、日本は非常に困ったことになってしまうと思います。自分を守ることしか考えていない人は、人の命のことも、自然のことも、地域のことも、日本のことも考えないからです。そこで重要になってくるのが「共に」というキーワードなのです。家庭の中に、地域の中に、学校の中に、どのようにしてこの「共に」を取り入れることが出来るのかが重要なのです。
2012.10.28
閲覧総数 2656
36
私は「優しさ」には二種類あると思っています。それは、「母性的な優しさ」と「父性的優しさ」の二種類です。「母性的な優しさ」とは、「許し・寄り添い・励まし・支え・共に歩む優しさ」です。これは「共に生きる仲間としての優しさ」であり、「あなたはあなたのままで素敵だよ」という「ありのまま」を肯定する優しさでもあります。もう一つの「父性的な優しさ」はこれとは違う優しさです。それは、「目標を与え・成長を促し・生まれてきた意味や生きる意味を自分の意志で創り出すように促す優しさ」です。「母性的な優しさ」を持った人は共に歩んでくれます。そして、倒れそうになったら支えてくれます。お腹が空いたら食べ物を与えてくれます。「父性的な優しさ」を持った人は「ここまでおいで・こっちへおいで」と、その人が迷子にならないように前に立って歩いてくれます。そして、危険を近づけないように周囲に意識を向けています。側にはいてくれませんが、父性的な優しさが守ってくれているから、母性的な優しさが意味を持ってくるのです。ですから、この二つの優しさはお互いに補い合うようになっています。どちらか一方だけでは「人間らしさ」を育てる事は出来ないのです。私は、この二つの優しさを説明する時、二つの絵本を紹介しています。母性的な優しさを紹介する時には「てん」(ピーター レイノルズ著・谷川 俊太郎 訳) を使います。これは絵が描けなくて絵を描こうとしないワシテという女の子が、一人の先生から「あなたはあなたが出来ることをやればいいのよ」「それが素敵なことなのよ」というメッセージを伝えられ、それをきっかけに絵をどんどん描き始め、次第に自信を付けていくというお話です。(絵本の中に実際にこのようなメッセージが言葉で書かれているわけではありません。でも、ワシテに対してこのようなメッセージを込めた対応をするのです。)父性的な優しさを紹介する時には「びゅんびゅんごまがまわったら」(宮川 ひろ著・林 明子 絵)を使います。ある小学校の隣に素敵な森があり、子ども達はいつもその森で遊んでいました。でも、どこにでも危険なことにチャレンジする子どもはいるもので、ある日その一人が大けがをしてしまい、それ以来その森で遊ぶことを禁止されました。でも、子ども達は森で遊びたいので、丁度新しく赴任してきた校長先生にお願いに行きます。するとその校長先生は「これが出来たら考えてもいいよ」とビュンビュンゴマを回して見せます。今時の子ども達はそんなもので遊んだことがないのですぐには出来なかったのですが、それでも練習してみんな出来るようになり、校長先生の所に行きます。すると校長先生は、両足で一つ、両手で一つ、合計二個のビュンビュンゴマを同時に回して見せ、また「これが出来たら考えてもいいよ」と意地悪なことを言います。前よりも難しかったのですが、それでも子ども達は頑張って練習して、二つのビュンビュンゴマを同時に回せるようになり、校長先生の所に行きました。すると校長先生は三つのビュンビュンゴマを同時に回して同じことを言います。三つが出来るようになっても、四つのビュンビュンゴマを同時に回して同じことを言います。この時の校長先生の意地悪そうな顔が素敵です。最終的には一人だけしか出来るようにならなかったのですが、その頑張りが認められ子ども達は森で遊ぶことが許されました。この校長先生は子ども達に意地悪をしていたわけではありません。この出来事を子ども達の成長につなげようと工夫していたのです。この時重要なのは、この校長先生のように「自らが手本を示す」ということです。これが父性の基本です。「あそこまで行きなさい」と子どもを追い立てるのではなく、「ここまでおいで」と自らが目標になってあげるのです。昔の異年齢の群れでは年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんがこの役割をしていました。子ども同士の群れではみんな仲間ですから、お母さんのように優しく教えてなどくれません。ですから、年上の子が得意そうになってやっていることを必死になって真似して頑張るしかなかったのです。異年齢の群れの中では父性的な優しさが働いているのです。だから子ども達は目標を見つけやすいのです。同年齢の仲間だけでは、みんな同じレベルなので居心地はいいでしょうが、ただ大騒ぎするだけで前に進むことが出来ません。そして、子どもはお母さんには母性的な優しさを求めます。お父さんには父性的な優しさを求めます。本能的にそのように出来ているのです。その子の親ではない第三者が出来ることも父性的な優しさの方です。ただ、母性的な優しさを充分に与えられていない子は、他の人にそれを求め始めます。簡単にいうと甘え始めるのです。でも、「甘え」というのは親子の関係の中だけで許されることです。だから、親は甘えさせて上げていいのです。それを学ぶことが出来ないと、子どもは困った大人になってしまいます。それでも、幼児教育の場ではまだまだ許されることもありますが、小学校に入ったら普通は許されません。甘えることを許されないまま育った子は常に寂しさを抱えています。そのため、そのような子は母性的な優しさを与えてくれるお母さんを見つけるとまとわりつきます。でも、その人がどんなに頑張っても、子どもの心は満たされません。本当は「本当のお母さん」に甘えたいのですから。ですから、頑張れば頑張るほど子どもの甘えは拡大して行きます。そんな時は、「父性的な優しさ」を与えるようにした方が、子どものためになるのです。またそうしないと、自分の方がどうしようもなくなってしまいます。簡単に言えば、それは「ルールを守る」ということを伝えることです。それを伝えることも優しさなのです。
2014.04.03
閲覧総数 2336
37
今日は、気質に関連する子育ての悩みについて少し書きます。子育ての悩み相談で一番多いのが胆汁質の子どもと憂鬱質の子どもに関してです。胆汁質の子どもの相談は胆汁質以外の気質のお母さんから来ます。どういう内容かというと、簡単に言うと“手に負えない”というものです。胆汁の子どもが素直に言うことを聞くのは“尊敬している人”だけです。胆汁の子(大人も)は、めったに人の言うことは素直に聞かないくせに、自分が尊敬している人の言葉に関してはものすごく素直なんです。この場合の尊敬は、学歴とか身分などということには関係ありません。その人の実績に対して尊敬しているのです。つまり理屈だけでなく“ちゃんと出来る人”にあこがれているのです。そして、ほとんどの場合お母さんはその中には入りません。子どもたちが群れ社会に生きていた頃にはそのリーダーがあこがれでした。そして、そのリーダーにいつもくっついていて、いっぱいそのリーダーから学ぼうとしました。そいう点ではすごく素直で、勤勉なんです。(ですから、親の言うことは聞かなくても、年上のお兄ちゃんやおねえちゃんの意見は素直に聞くことがあります。)でも、自分が尊敬できない人に関しては全く逆の態度をとります。平気で無視するのです。(胆汁の親分は身内には思いやりがありますが、身内以外だと自分が尊敬できる人以外には厳しいです。)ある幼稚園で講演した時、講演のあと相談に来たお母さんがいました。(質問時間には手を挙げないのに、終わると列が出来るのです。)そのお母さんは粘液質のような感じでした。そして、やはり“手に負えない”子どもの相談でした。「ある時、子どもがいたずらをして怒ったのですが、子どもが言い返してきて親子げんかになって、それでラチがあかないので“もういい!”と、怒るのをやめてお便所に入った」と言うのです。そうしたら、しばらくして子どもがトイレのドアをノックしたので、“謝りに来たのかな”と思ったそうです。でも、子どもは“もう許してあげるから出てきていいよ”と言ったそうです。粘液質のお母さんは怒り続けることが出来ません。途中でエネルギーが切れてしまうのです。それで、“もうやめた”と、お便所に入ったのですが、それを胆汁質の子どもは“勝った”と思ったのでしょう。よく、お店などで大きな声で叫んでいるのは胆汁が入っている子が多いと思います。(自閉症の子も時々そういうことがありますけど・・・)周囲の人は、どうしてお母さんは怒らないのだろうと思うのですが、多分お母さんは“怒っても無駄”だということを知っているのでしょう。そして、そのようなお母さんは、普段は子どもの言いなりになっているのだろうと思います。いいなりになっている方が子どもが大人しくしていてくれるからです。実際、胆汁以外のお母さんは胆汁の子どもの怒りのエネルギーに太刀打ちできないのです。でも、そのようなお母さんでも実際問題としてそう何でもかんでも言いなりになっているわけにはいきません。時には、“ダメ”と言うでしょう。すると、普段は言いなりになっているお母さんが言いなりにならないので、かんしゃくを起こすわけです。そのようなことは特に公的な場で起きます。家庭の中ではいいなりでも済ますことができますが、公的な場ではそうはいかないからです。ですから、その場だけ怒っても、かえって子どもの騒ぎは大きくなるばかりです。お菓子が欲しくて泣いているのではなく、お母さんが言うことを聞かないから泣いているのですから。こんな時、“知らないおばちゃん”に叱られると大人しくなることがあります。それで、そのおばちゃんは、“ほれ、叱らないからだだをこねるんだ”とお母さんに言うかも知れません。でも、それは“知らないおばちゃん”に怒られたから大人しくなったので、お母さんが怒っても多分無駄です。多分、その“知らないおばちゃん”は胆汁です。ですから、そのお母さんはその“おばちゃん”と同じように怒ることができません。それと、そのような子は学校や幼稚園などでは大人しい場合があります。(もちろん学校や幼稚園でもわがままな子もいます。)でも、そのような場合かなり無理して自分を押さえています。ですから、家に帰ってまた荒れます。そのような子は胆汁に憂鬱が入っているのではないかと思います。胆汁質の子には、普段から毅然とした態度を示すことが必要なんです。強く叱る必要はありません。ちゃんと信念を通せばいいのです。叱るより、こちらの方が胆汁質の子には有効です。そのように、お母さんが普段から毅然とした態度を取っていれば、胆汁の子だってそんなに騒ぐものではないのです。そして、そのように関わることで子どもは暴走する感情を行動へと転換できるようになります。意志が目覚めるからです。そして、これは気質の問題だけではないと思います。私にはお母さんの生き方の問題のように思えます。人の目ばかり気にしている人、自分の生き方に自信のない人、子どもと信頼関係が築けていない人などは毅然とした態度をとることができないでしょう。つまりこの問題は、“子育ての問題”でも、“子どもの問題”でもないのです。お母さんの生き方の問題です。胆汁質の子はいつでも生き方を問いかけてくるのです。そして、特に強い意志を持って生きることを要求してきます。胆汁質の子は意志の力に感応するのです。憂鬱質の子どもの相談は、長くなりそうなので明日にします。
2005.11.16
閲覧総数 1248
38
子どものグループには「リーダー」はいても「支配者」はいません。これは動物の群れでも、また自然の中で暮らしている部族の人達のグループでも基本的には同じです。そしてそのリーダーは、群れをまとめたり、群れを守ったりする役目を果たしています。時には群れを守るために命を賭けて戦うでしょう。だからこそみんなから「リーダー」として支えられているわけです。それに対して、「支配者」というものはその群れを私物化し、自分の思い通りに管理しようとするばかりで、「群れをまとめるとか」、「群れを守る」ということにはあまり関心がありません。自分の地位を守るために「群れ」をまとめようとすることはありますが、それは「群れ」のことを思っての行為ではありません。ですから、「群れ」にとっては、そんな人は迷惑なだけで必要がない存在なのですが、強い社会的権力や、強い腕力や、豊富な財力を持っているので、そのようなことが可能になるわけです。そしてそれは、人間が階層によって組織化された社会を持つことで生まれた、非常に人間的で非自然的な存在なんです。その「支配者」という存在は、基本的に「人の言葉」に耳を傾けません。自分の地位を守るために「聞く振り」をすることはありますが、基本的に「自分を守ること」や「相手を思い通りに支配すること」が支配者の目的なので、それに反するようなことは無視するのです。当然のことながら、「群れを守るために、生命を投げ出す」などということもしません。その「群れ」が崩壊しそうになると、ただ逃げるだけです。そして、「支配者」という存在が、社会やその群れの状態を歪めます。でも、現代社会では、この「支配者」はどこにでもいます。国家や、ママ友や、会社や、地域や、家庭の中にもいます。地球上では「人間が全ての生命の支配者」として振る舞っています。他の生き物たちはそんなこと認めてはいないでしょうが、人間には「高度な科学力」という力があるため、他の生き物にはどうしようもできないのです。また、なぜか近代化された社会では、「リーダー」が減り、「支配者」が増える傾向があります。権力や富が偏るからでしょうか。権力や富が偏った社会は、欲望が支配する社会でもあります。だから「支配者」が生まれやすいのかも知れません。そのような社会現象まではどうしようもできませんが、少なくとも家庭の中ではお母さんもお父さんも「支配者」にはならずに、「リーダー」になって欲しいのです。支配者によって支配された群れでは、「助け合い」が失われてしまいます。そのため子どもの育ちにも悪い影響が出ます。でも、リーダーによって統合された群れでは助け合いが生まれるのです。これは学校でも、家庭でも、社会でも、国家でも同じです。先生が「良きリーダー」になっているクラスではイジメは起きないのです。お母さんが良きリーダーになっている家庭では「心が傷つくような兄弟げんか」は起きないのです。(子どもが小さいときは、子どもにとってはお母さんがリーダーで、お父さんは遊び相手です。というか、こういう状態だと子どもは安心するようです。でも、子どもが6,7才ぐらいになると、お父さんがリーダーになった方が子どもが落ち着きます。子どもが小学生になっても、子どもとゲーム機の奪い合いをしているようなお父さんだと、子どもは不安になります。)「あんたのため」といって、仕付けや勉強に子どもを追い立てることも「支配」です。これは自分が逆の立場になって見れば簡単に分かることです。大人が素敵な生き方をしていれば、子どもは「あんな大人になりたい」と思うので、押し付ける必要などないのです。また、家族が助け合う生活をしていれば、子どもの問題行動も少なくなります。子どもが知らないことや出来ない事は、「支配者」のように叱るのでも、指示や命令に従わせようとするのでもなく、「良きリーダー」として教え、育て、導いて上げて下さい。子どもは奴隷でも、召使いでもないのですから。「子ども」はあなたの「生きた証し」であり、あなたを「継ぐもの」なんです。だから、自分を大切にするように子どもを大切にするのです。自分に自信が無いから支配しようとするのです。その子どもは、「自分の育ちに必要なもの」がちゃんと満たされているなら、その子に一番良い状態で成長して行きます。確かに、「支配」によって見かけ上の体裁を整えることは出来ます。でも、本質的な部分に歪みが生じるので、長い目で見たら状態を悪化させるだけなのです。これは、国家の問題でも、家庭の問題でも同じです。子どもを否定し、支配しようとする社会はやがて崩壊します。同時に、子どもを守ろうとする母親や女性を否定する社会も崩壊します。
2015.02.12
閲覧総数 1360
39
昨日からの続きです。「憂鬱質」-杓子定規憂鬱質の人はあまり変化を好みません。先が読めなくなって不安になってしまうためです。また、仕事の手順でも、ものを置く場所でも、人との関わり方でも、他の気質の人には理解しがたい「こだわり」があって、いつもそれに従っています。ドアの閉め方、ものを片付ける場所、遊ぶおもちゃ、遊び方、その他生活の様々なことに対して、他の人には理解出来ないこだわりがあって、それを守ることが出来ないとパニックになってしまうこともあります。憂鬱質の子を育てていると、その「こだわり」には悩まされることになります。「お母さんよりも先に入ってドアを開ける」というこだわりがある子は、お母さんが先に入ってしまっただけで大騒ぎを始めます。そして、やり直しも受け入れません。「憂鬱質+粘液質」-哲学者粘液質には「物事を俯瞰的に見る」という特性があります。また、不安も少ないです。これは不安が強く、小さな事にこだわる憂鬱質とは反対の特性です。実際、粘液質の人は四つの気質の中で一番こだわりが少ないです。そのため、憂鬱質の人は粘液質の人といると安心します。何にも押しつけてこないからです。一番「押しつけ」が強いのは「胆汁質」です。その憂鬱質と粘液質が組み合わさると、憂鬱質の「不安」や、「自分自身へのこだわり」が弱まり、興味が外の世界の方に向いていきます。そして、「外の世界のことを理解したい」という意識が働き始めます。「こだわり」は強いままなのですが、「こだわり」の対象が変わっていくのです。「粘液質+憂鬱質」-先生憂鬱質が入っている人は「人の心」に敏感です。また、粘液質も強いのでこだわりや押しつけも少ないです。考えたり学んだりすることも好きです。また、待つことも出来ます。丁寧でもあります。そういう意味で「先生」が向いているということなんだろうと思いますが、だからといって「他の気質の人は先生に向いていない」ということではありません。先生といっても色々とありますから。私自身は「先生」と「哲学者」の間の気質だと思っています。「粘液質」-歴史年代記編纂者一般的に、粘液質の人はあまり自分を表現しないように思われていますが、それは勘違いです。確かに、粘液質の人は、からだや行動で直接表現することは苦手です。でも、絵や言葉などで間接的に表現するのは得意なんです。じっくりと考えてから表現することが出来るからです。身体的な表現が得意な多血質の人は、逆にじっくりと考えて表現することは苦手です。ですから、粘液質の人の表現を理解するためにはじっくりと、ゆっくりと付き合う必要があります。でも、他の気質の人はそれが苦手なんだと思います。胆汁質の人はそのゆっくりさにイライラするようです。また、「こだわり」が少ないため、考え方が偏らず、常に俯瞰的に物事を見たり、考えたりすることが出来ます。だから、歴史年代記を編纂に向いていると判断されたのだと思います。特定の人や、特定の主義や、特定の価値観にこだわる人が歴史年代記を編纂したら、偏って歴史が作られてしまうと思います。「粘液質+多血質」-講演者そんな粘液質ですが、そこに多血質が入ると人と話すのも好きになります。さらに、粘液がベースなので、偏らない見方や、じっくりと考えて話すことも出来ます。そういう点で、昨日の図を考えたゲーテとシラーは「講演者に向いている」と判断したのでしょう。でも、それは実際に何かしらの講演ができるということではありません。また、講演をよくやっている人が「粘液質+多血質」ということでもありません。「多血質+粘液質」-詩人多血質の人は豊かな感受性を持っています。さらに、粘液質が見たり聞いたりする能力と、落ち着きを与えてくれます。それで、詩人っぽい感性を持っていると考えられたのでしょう。粘液質の子や多血質の子は子育ても楽です。適応能力も高いので、それほど幼稚園や学校とトラブルを起こしません。でもそのため、面白いエピソードはあまりありません。とここで、「四つの気質と個性の仕組み」の図の説明は終わりますが、実際にはこの図には書かれていない組み合わせもあります。それは「多血質+憂鬱質」と「胆汁質+粘液質」です。でも、この二つの組み合わせの場合、それぞれ反対の性質を持ったもの同士の組み合わせなので、混ざることはありません。でも、交互に出ることはあるようです。「多血質+憂鬱質」の場合、多血質が出ている時には憂鬱質は引っ込んでいます。でも、憂鬱質が出ている時には多血質が引っ込んでいます。「家の中では明るく元気で、外に出ると全く憂鬱質」という子の場合は、この気質に相当するかも知れません。「胆汁質+粘液質」の場合は、会社では胆汁バリバリなのに、特別にやるべき仕事がない家の中では、テレビの前でゴロゴロして粘液質になっているかも知れません。そんなタイプです。
2016.09.11
閲覧総数 1540
40
多くのお母さんが「いいお母さん」になろうとして頑張っています。「自分にはいいところなんて一つも無い」と、自信を持って(?)断言する自己肯定感の低いお母さんもいっぱいいます。でも、これは評価されることに慣れてしまった人の感覚です。小さいときから親や先生から評価され続けているうちに、親や先生から褒められるために、自分でも自分を評価する癖がついてしまったのです。だから自己肯定感が低いのだし、また、「いいお母さん」にこだわるのです。でもこれは、優秀な部下、優秀な生徒、優秀な子どもの感覚です。少なくとも、優秀な上司やリーダーの感覚ではありません。評価を気にするような人は「いいリーダー」にはなることが出来ないのです。なぜなら、そのような人は、自分の子どもや部下を守ることよりも「自分」を守ることの方を優先してしまうからです。それどころか、自分の評価を上げるために子どもや部下を利用しようともしてしまいます。子どもの成績が良くなったり、子どもが「周囲から褒められるようなよい子」に育てば、親の評価も上がります。逆に、子どもの成績が下がったり、裸足になって泥んこで遊んでいると先生や周囲のお母さんからの評価が下がります。だから、自分の評価を上げるために、子どもが小さいときからお勉強をさせ、「子どもらしくないこと」がちゃんと出来るように仕付けようとしてしまうのです。そして、その期待に添うことが出来ない子は、親から嫌われたり、時には虐待されてしまうことも少なくありません。でも、子どもでも大人でも、人は「自分を守ってくれない人」をリーダーとは認めないのです。他者の評価に立ち向かってでも、自分を守ってくれる人をリーダーとして受け入れるのです。「指示や命令を出してリードしようとする人」をリーダーとして受け入れるのではないのです。でも実際には、自分に対する評価ばかりを気にして、「子どもにとってのリーダー」になっていないお母さんが非常に多いです。子どもがお母さんを「リーダー」として受け入れていないのですから、遊びの場でも当然お母さんの介入を嫌がります。それは、部下だけの飲み会に、上からの評価ばかりを気にする上司が自分も参加したいと言い出すようなものです。そんな上司が来たら本音で話すことが出来なくなってしまうので酒が不味くなるばかりです。自分に対する評価を気にするお母さんは、子どもの本音を大切にしません。子どもが大きな声を出せば、「大きな声はやめようね」と言い、走り回れば「走り回らないようにしようね」と言い、泥だらけになると「汚さないように遊ぼうね」と言います。管理者としての自分の評価が下がるからです。これは、管理者としての態度であって、リーダーとしての態度ではありません。他の人に迷惑をかけている時には、ある程度は子どもの行動を抑える必要はありますが、そうでないときには子どもの欲求が満たされるように見守って上げて下さい。子どもの行動の背景には生理的な欲求があって、それは子どもの成長とつながっているものだからです。だから夢中になって遊ぶのだし、また遊びに旬があるのです。毎日のように「泥んこ遊び」をしていた子が、お母さんから禁止されたわけでもないのに、急に「泥んこ」から卒業してしまうことがあります。それは成長の段階が一つ上に上がったからです。逆に言うと、それまでは「泥んこ遊び」が必要だったのです。子どものそのような欲求に沿った関わり方をすれば、子どもはお母さんをリーダーとして受け入れるのです。そのためにはまず、お母さんが「自分らしさ」を取り戻す必要があります。他人からの評価を気にしながら子育てをしていたら、子どもはお母さんをリーダーとは認めないのです。**********************今日は、私の周辺のお母さん達に人気の山上亮さんの本をご紹介します。「からだ」という視点から子育てを見直してみるのには最適な本だと思います。子育てに対する意識が変わるかも知れません。私が整体を学んだ(初級だけですけど)、故・岡島瑞德先生も「子どもの問題行動の多くは整体で治せる」と言っていました。子どものこころにふれる整体的子育て [ 山上亮 ]整体的子育て(2(わが子にできる手当て編)) [ 山上亮 ]子どものしぐさはメッセージ こころとからだを育てる整体ワークブック [ 山上亮 ]
2017.07.05
閲覧総数 2138
41
私の親しい知り合いに、元小学校の先生で、宮沢賢治の研究家としても活動している人がいます。その彼が強く尊敬していた校長先生がいました。その校長先生がいた学校では先生達はみな生き生きとして、様々な活動に取り組んでいたそうです。つまり素晴らしいリーダーだったのです。その校長先生はいつも、「親や地域に何かを望むのではなく、学校が親や地域に何が出来るのかを考えなさい」と言っていたそうです。つまり、「誰かに助けを求める前に、自分の方から人を助けなさい」ということです。「人を助けようと頑張っている人」の回りに人は集まるものです。面白いことに、「助けを求めている人」がいても知らんぷりしてしまう人は多いのに、一生懸命に助けようとしている人を見ると、なぜか多くの人がその「助けようとしている人」を助けようとするのです。何かしら感動するからなのでしょうか。もしくは、「最初の一人」になるためには勇気が必要ですが、二番目以降の人にはその勇気が必要ないからなのでしょうか。いずれにしても、それは「自分のことだけを考えている人」や「待っているだけの人」の回りには人は集まらないということでもあります。この言葉を聞いただけで、その校長先生がなかなかの人格者だったことが分かりますが、じゃあ、リーダーとしてはどのような指導をしたのかということです。 実は、この校長先生、何もしなかったのです。この先生は常々、「君たちは好きなようにやっていいよ。責任はみんな私が取るから。」と言っていたそうです。それで先生達は、常識的な束縛に囚われずに、色々なアイデアを出し合い、みんなで工夫し合ったそうです。校長先生はただ、「すごいね」「おもしろいね」「やってみようか」と言うだけで、特別な指導はしなかったようです。でも、そういう校長先生の元では、当然先生達は生き生きしますよね。すると学校全体が生き生きします。生徒も父兄も生き生きします。世の中には色々なリーダーの形がありますが、私はこの校長先生の姿に「教育者としてのリーダー」の理想を感じるのです。まず、この校長先生は先生や生徒達のことを徹底的に信じていました。信じていたからこそ任せることが出来たのです。先生達の中には失敗した先生もいたと思います。でもその時には校長先生が盾になって守ってあげていたのでしょう。だから、先生達もまた校長先生を守ろうとしたのです。それと、先生達の活動を楽しんで喜んでいたということです。子どもも大人も、自分が大好きな人、尊敬する人に喜んでもらうことで、さらに頑張ろうとするものです。そして、これは「お母さん」にも通じることなのではないかと思うのです。まず、我が子を信じる、そして、子どものやることを素直に楽しみ、喜ぶ、そして共感する。時には一緒にやってみる。その時は子どもから学ぶ気でやる。 子どもに教えてもらったっていいのです。そうすれば、子どもはお母さんのことをリーダーとして認めるのです。お母さんが特別に「リーダーらしいこと」をしなくても、子どもの方がリーダーとして受け入れてくれるのです。 ただし、「責任を引き受ける覚悟」が必要になりますけどね。(今日もこれから愛知県の春日井まで行くので、アフィリエイトを選んでいるヒマがありません。)
2017.07.06
閲覧総数 988
42
胆汁質の人は目的や目標を立てて行動するのが好きです。その際、最短距離を進もうとします。途中に障害物があっても回り道をしようなどとは考えません。自分の邪魔をするものが居たら戦うだけです。むしろ、邪魔をするものが居ると燃えます。社会には様々な社会のルールがあります。人間関係にも様々な人間関係のルールがあります。そして多くの人はそのルールに従って生活しているのですが、胆汁質の人は他の人が作ったルールに従うことが嫌いなんです。自分のルールは自分で決めたいのです。なぜなら、他の人が作ったルールに従っていたら、自分が行きたいところに行けないからです。さらには、その「自分が作ったルール」を他の人にも押しつけようとします。そうやって自分のやり方を正当化させようとするのです。でもだから胆汁質の人は「新しい道」を切り開くことが出来るのです。そして大勢の人が、その新しく切り開かれた道を通って付いていくことのです。結果、胆汁質の人はリーダー的な立場で行動することになります。最初から「リーダーになりたい」という目的があるわけではないのですが、人の言うことは聞かないし、自分がやりたいことには躊躇がないので、結果リーダーになってしまうのです。また、「やりたくても出来ない人たち」のあこがれにもなります。会社の創業者や、新しい分野のパイオニアと呼ばれるような人にはそのようなタイプの人が多いような気がします。ただし、そこに憂鬱質が混ざってくると少し状態が変わってきます。昨日も書いたように、多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質といった四つの気質は原色なので、実際には色々な気質が混ざり合っているのです。胆汁質に憂鬱質が混ざってくると、「リーダーになりたい」という欲が生まれるのです。そして、リーダーになること自体が目標になり、リーダーになるために全力を尽くすようになります。ルールは無視します。そういう点ではしっかり胆汁質なんです。リーダーになること自体が目標なので、支配的にもなります。みんなを自分の個人的なルールに従わせようとします。すると、「ヨイショ」する太鼓持ちばかりが周辺に集まるようになります。また、憂鬱質が入っているので疑り深いです。人の心を読んで操作しようともします。憂鬱質の度合いが強くなるほど疑り深い支配者になっていきます。それと、憂鬱質の人は自分の素顔を見せるのを嫌うので、人前に立つ時はお面をかぶります。ヒットラーはこのようなタイプだと思います。ヒットラーは演説が非常に上手だったそうですが、一人で熱心に練習していたそうです。つまり、あの演説は演技だったのです。それがつまり「お面」ということです。自分の地をそのまま出すだけでは演説が出来なかったのです。某国の総理大臣も胆汁質+憂鬱質のように見えますが、ただ、某国の総理大臣の方が憂鬱質が強いので、お面をかぶるのではなく人前に立つこと自体を避けようとします。「官僚が書いた文章だけを読む」というのは、自分を隠すための方法です。でも、自分がリーダーでいることには徹底的にこだわります。そしてリーダーシップを取っているかのようなパフォーマンスはいっぱいやります。そして、「裸の王様」でも「王様の権力」を持っていることには違いがないので、みんな王様のパフォーマンスに合わせて動きます。というか、動いているふりをします。誰も「王様、王様は裸ですよ」と進言したりはしないのです。そんなことを言ったら、何をされるか分からないからです。でも、結局は一人芝居に過ぎないので、結果につながりません。さらに、憂鬱質が強くなって「憂鬱質」の方が「胆汁質」よりも強い状態になってくると、「リーダーになりたい」という欲求は減ってきます。でも、心の中には満たされない欲求がいっぱい溜まってきます。また、自分の中の胆汁質が、自分の中の憂鬱質を否定します。自分で「自分の否定」を始めるのです。それは一般的に言われる「自己肯定感が低い」というような状態よりももっと積極的に、「自分のことが嫌い」という状態です。そして、自分を支配しようとします。その結果、自分自身の中の矛盾に苦しむことになります。気質にも色々なタイプがありますが、このタイプが一番苦しいです。でも、このタイプの人は自分の中の憂鬱質的なところを隠そうとするので、周囲の人はその人の「内側の苦しみ」には気付かず、ただ単純に「活動的で元気な人」だと思い込んでいます。私が知っているこのタイプの人には表現者が多いです。舞踏や、絵画や、文章などで自分を表現しようとしている人が多いです。自分の内側の苦しみを表現という形で外に出すことで、それを客観視し、自分の心のバランスを取ろうとしているのではないかと思います。ゴッホなどもこのタイプのような気がします。ただ誤解しないで欲しいのは、「この気質の人はみんなこのような状態になる」ということではありませんからね。そうではなく、「このような状態になりやすい傾向がある」ということなんです。そこが「性格分類」と呼ばれるものとの大きな違いです。「性格分類」では今現在の状態を分類しています。でも気質が分類しているのは素質なんです。だからこそ、子育てや教育の場で役に立つのです。
2020.03.06
閲覧総数 1046
43
昨日からの続きです。岐阜の「有松」という所にいます。昨日は豊橋のプレイパークで遊び、今日は気質の勉強会です。***************そんな憂鬱質のからだは比較的貧弱です。大人の場合はトレーニングをすることで、比較的がっしりしたからだの人もいますが、特に何もしなければ貧弱です。特に憂鬱質の子どものからだは貧弱な場合が多いように感じます。骨格も華奢で、筋肉も細いです。細いだけではなく弾力がありません。見かけ的には太っている子もいますが、筋肉質ではありません。そのせいかどうか分かりませんが、骨を変な風に曲げる芸を持っている子もいます。柔らかいというより骨がうまく固定されていない感じです。からだだけでなく声も細いです。大きな声を出すのも苦手です。見るからに弱々しいです。そのためイジメの対象になりやすいです。でも、その弱さ故に、誰よりも先に危険を察知し、戦わずして身を守る能力に優れているのです。まず、感受性全般が高いです、特に「音」には敏感です。そのため、大きな音、乱雑で乱暴な音、大きな声などに恐怖を感じ、からだを固めます。憂鬱質の子は予想外のことや理解できない状況などと出会うと、からだを固めて自分を守ろうとするのです。そして一度固まると、表情も消え、言葉も発しなくなります。安心できる状況では多血質のように明るくて楽しいのに、突然、正反対の状態になってしまうのです。このようにすぐにからだを固める傾向があるので、安心に満たされない状況の中で生活している子のからだは、固まったまま緩まなくなります。表情も動きも固くなります。ということで、すみませんが明日に続きます。有松は街並みが素敵な所なのでこれから散歩に行ってきます。
2021.06.27
閲覧総数 1103
44
胆汁質の子は頑張るのが好きです。達成感、充実感を求めて行動する傾向があります。ただしそれが「良い方向」に向かう場合も、「悪い方向」に向かう場合もあります。また、承認欲求も強く周囲から認められたり、褒められるとさらに頑張ります。ウダウダ考えずにすぐ行動する実行力もあるので、周囲から頼られることも、逆に叩かれることも多いです。周囲から頼られるとさらに頑張りますが、自分の努力や存在が肯定されないと、みんなの注目を集めるために問題行動を起こすようになることもあります。いずれにせよ「目立つ存在」なので周囲に人が集まる傾向があります。その結果、「良きリーダー」になることもあれば「手が付けられないガキ大将」になることもあります。あと、勝ち負けをはっきりさせたがる傾向がありスポーツが好きな人が多いです。また、「白か黒、善か悪、敵か味方」というように物事を対立させて考える人が多いです。そして、「戦って勝つ」的な話が好きです。絵本や物語でも「戦って勝つ」的な物語や、「人の役に立ってみんなから褒められる」というようなストーリーが好きです。一方で、「曖昧な話」や「曖昧な結論」は苦手です。胆汁質の人の世界に「グレー」はないのです。グレーは「どっちつかず」ということで一番嫌います。また結果には興味がありますが、過程には興味がありません。頭が固く融通が利きません。小回りも苦手です。人の言葉に耳を傾けず、自分の思い込みだけで突っ走る傾向があります。「目に見える世界」や「社会的なこと」には強い関心がありますが、「人の心」や「自然」や「目には見えない世界」の事にはあまり関心がありません。「人の心」よりも「その人の行動や何をしたのかという実績」の方が気になるのです。気質の勉強でも、粘液質や憂鬱質の人は「自分のことや子どものことをもっと深く理解するため」という動機が多いですが、胆汁質や多血質の人は「人をうまく操れるようになるため」的な動機が多いです。考えるより先にからだが動きます。そして動きながら考えます。だからこそ素早く動けるのですが、同時に勘違いも多いです。でもそんなこと気にしません。ちなみに、多血質の人は胆汁質と同じように考えなくてもからだが動きますが、胆汁質は動きながら考えるのに対して、多血質はいつまでも考えません。考えるとしたら終わってしまった後からです。そして後悔します。憂鬱質の人は考えるだけで行動しません。粘液質の人は考えて納得できれば行動します。そのため出遅れます。また、胆汁質に憂鬱質が混ざっている場合は、権力欲や支配欲も強いので支配的なったり、自分勝手になったりすることも多いです。それが否定されると問題行動を起こすこともあります。そのような子が権力競争に勝ち抜いてそれなりの立場になると「困ったリーダー」になりやすいです。そして、困ったことに日本の偉い人にはそういうタイプの人が多いです。ただし、「胆汁質に憂鬱質が混ざっているとみんなそうなる」ということではありません。そうなりやすい傾向があるということです。その子が実際にどういう大人になるのかは、「周囲の大人がその子どもの気質とどう関わってきたのか」ということで変わってきます。胆汁質に粘液質が混ざっている場合は「一匹狼」になることもあります。胆汁質に多血質が混ざっている場合は「クラスの人気者」になることもあります。そんな胆汁質の子どもたちのからだは筋肉も骨格もしっかりとしています。目つきも声も強いです。強い意志とパワフルな行動はそのようなしっかりとしたからだに支えられているのです。また、いつでもからだに力を入れて臨戦態勢を取っています。粘液質の人はからだを緩めているので柔らかい雰囲気がありますが、胆汁質の人は見るからに固いです。そのため存在感があります。粘液質の人はいてもいなくてもそんなに変わりませんが、胆汁質の人の存在は場の雰囲気を変えてしまいます。実際のからだは小さくても大きく見えます。逆に、憂鬱質の人は実際のからだは大きくても小さく見えます。また、チマチマした細かい作業が苦手です。細かい力のコントロールも苦手です。また、筋肉からの雑音が多いので、感覚の働きも鈍いです。特に「味わう」というような感覚の使い方が苦手です。「見る能力」には優れていても、「見て味わう能力」はあまり強くないのです。**********茅ヶ崎でやっている「気質勉強会」と「からだの会」(からだの面白さ、不思議、楽しさを感じる活動をしています)の生徒を募集しています。原則大人だけです。一才以下の赤ちゃんはOKです。2000円/回です。ご興味のある方は「ここ」にお問い合わせ下さい。
2021.06.29
閲覧総数 914
45
昔は「遊びの場」や「生活の場」で無料で手に入った「体験」が、今では「○○教室」などという形で有料で買うものになってしまいました。「体験」が有料になったせいで、経済格差がそのまま体験格差につながるようになってしまったのです。その体験格差がまた、「自己肯定感」や「人間関係を築く能力」や「社会とのつながり方」の違いとしても現れるので、「体験格差」は「子どもの自立能力」の育ちにも大きな影響を与えてしまいます。学校から帰ったら「一人で自分の部屋でゲームばかりして育った子」と、「○○教室で色々な大人や仲間と関わりながら育った子」とでは「自立能力の育ち」に大きな違いが出るのは当たり前のことです。なぜなら、「自立」は「他者とのつながり」の中で実現するものだからです。周囲に人がいない状況の中で育っていたら「自立」する必要自体がないのです。でもだからといって「お金で買う体験をいっぱい与えれば子どもはちゃんと育つのか」というと、そういうことでもありません。「お金で買う体験」には「体験の偏り」があるからです。「遊びの場での体験」や「生活の場での体験」のような「汎用性」がないのです。そして、その「体験の偏り」がその「○○教室」のウリでもあります。特殊化され偏っている体験だからこそ商品として売ることが出来るのです。それに対して、「遊びの場での体験」や「生活の場での体験」には汎用性があります。でも、汎用性があるがゆえに「何の役に立つのか」が分からないのです。「サッカー教室」に行けばサッカーが上手になります。「ピアノ教室」に行けばピアノが上手になります。「水泳教室」に行けば水泳が上手になります。そして、その対価としてお金を払っているのです。でも、自然の中で自由に仲間と一日中遊んでいても、「社会的に価値がある特別な能力」が育つわけではありません。そのため、お金を出してまで「遊び」を体験させようとする親は少数です。だから、「遊びの大切さ」を知っている人の多くがボランティアで活動しているのです。でも、「遊びの場や生活の場での自由な体験」を通して、子ども達は「偏ったこと」を「偏った形」で教えている「○○教室」では育てることが難しい、より基本的で根底的な能力を育てているのです。それは「人間関係の作り方」、「コミュニケーション能力」、「助け合う能力」、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する能力」などです。また、後から色々なことを学ぶようになった時に、その学習能力の違いとしても現れます。小さい時からお勉強をいっぱいやらされてきた子よりも、小さい時は自然の中で、仲間と一緒に、心やからだを思いっきり使って遊んできた子の方が、中学生以降の学習においては学習能力が高いのです。ただし、学習能力が高いからといって成績がいいとは限りません。「生活の場」や「遊びの場」で育った学習能力は、自分が興味を感じたものにしか発揮されない可能性が高いからです。まただから、お母さんたちの多くが遊ばせるよりも勉強をさせようとするのでしょう。でも、子どもが「自分がやりたいこと」を見つけ、自分らしく生きようとするときには、子どもの頃に生活や遊びの場で育てた能力が役に立つのです。ただし、子どもの頃いっぱい遊んだ子でも、「自分がやりたいこと」を見つけることが出来なかった場合、その能力は発揮されません。ですから、10才ごろから「遊び」とは異なった体験が必要になるのです。それは「自分が生きている世界との出会い」という体験です。
2024.11.06
閲覧総数 406
46
先日、「ゆずり葉学舎」(群馬県富岡市にあるオルタナティブスクール)という所で、「竹であれこれ楽器を作ろう」というワークをして来ました。現地は竹林が傍にあるので、竹は必要に応じてすぐに集めることが出来ます。広いし、周りは山や畑だし、多少大きな音を出しても周囲から苦情が来るようなことはありません。ものすごく恵まれた環境です。そんなにも恵まれた環境なのに、それまでは、竹を使った楽器作りや工作をあまりして来なかったようです。竹には非常に大きな可能性があります。楽器だって何十という種類の楽器を作ることが出来ます。(正確に言うと、「音楽を演奏するためのもの」ではなく、「つながりを創り出す音を生み出すもの」ですけど。)オモチャだって何十と作ることが出来ます。もったいないことです。もっと言えば、「土」にも、「水」にも、「火」にも、「風」にも大きな可能性があります。実際、オモチャやゲームもなく、相手をしてくれる大人もいなくて、自然や仲間しか遊ぶ相手がいなかった昔の子ども達は「草木」や、「土」や、「水」や、「火」や、「風」や、「生き物たち」を相手に遊んでいました。それは、見方を変えると「遊びを通してそういうものたちの可能性を探っていた」ということでもあります。それはまた「自分自身の可能性」に気付き、拡げる体験でもありました。今でも昔と同じように草木も、土も、水も、風も普通にあります。火だけは子どもから遠ざけられ、虫は減ってしまいましたが、その他のものは家から出てちょっと歩けば子どもの生活空間の中にいっぱいあります。でも、最近の子はそういうものを相手にして遊ぼうとはしません。大人もまたそういう遊びを伝えないし、そもそも知りません。もったいないことです。最近の子ども達のオモチャやゲームなどの「遊び相手」は、最初から「子どもの遊び相手」として作られているものなので、「遊び方」を自分たちで工夫したり発見したりする必要がありません。便利になったものです。でもその結果、子ども達は「自分自身の可能性に気付き、拡げる体験」をすることが出来なくなりました。もったいないことです。ちなみに「もったいない」という言葉の本来の意味は以下のようなものです。私もこの意味で使っています。<AI による概要>「もったいない」という言葉の本来の意味は、仏教用語の「勿体(物体)」に否定の言葉である「ない」が合わさったもので、「ものが持つ本来の価値をなくしてしまうことが惜しい」という意味です。「勿体」には「重々しい」「威厳」という意味があり、仏教の教えである「すべての物事は互いに関係し合って成り立っており、存在することが当たり前ではない」という思想が込められています。この思想から、日本にはものを尊敬し感謝する精神が根付き、ものを大切にし、無駄にしないという「もったいない」の文化が生まれました。私が茅ヶ崎でやっている、親子で遊び「ポランの広場」(4月以降も参加できる生徒募集中です)という活動では、しょっちゅうお母さんたちに無茶ぶりをしています。いきなり、「歌って」とか「踊って」などと言うこともあります。昨日は、子どもとお母さんが自分たちで作ったものを売り買いして遊ぶ「お店屋さんごっこ」だったんですが、今の時代「自分で工夫して工作をする」という体験がないお母さんの方が多いので、最初はみんな戸惑います。でも、いざ、ちゃんと取り組んでみるとみんな出来てしまうのです。「即興劇なんか出来ない」とうじうじしていたお母さんが素敵な即興劇をやって見せてくれることもあります。やったことがないから「出来ない」と思い込んでいるだけの人が凄く多いのです。子どもも同じです。私は「この子なら出来る」と思うから「やってみない」と誘うのですが、「やったことがないから出来ない」と言って手を出さない子が多いのです。もったいないことです。「人生」とは「自分に与えられた時間」のことです。そして、その「時間」には「やったことがないこと」しか存在していません。毎朝目覚める朝は、みんな「始めての朝」です、「初めての一日」です。そこには可能性がいっぱい溢れているはずなのに、新しいことに挑戦せず、昨日と同じような毎日を過ごすことだけに夢中になっているのはもったいないことです。何もしなくても一生はあっという間に過ぎてしまいます。たとえ失敗しても、色々なことにチャレンジしてみれば色々な発見と、色々な学びと、沢山のつながりを得ることが出来ます。現代人は、子ども達も含めてみんな失敗を恐れていますが、失敗することが問題なのではなく、失敗から学ぼうとしないのが問題なんです。自分の時間、自分の命、自分の一生を無駄にしたくないのなら、やりたいと思ったらチャレンジしてみて下さい。「やりたい」と思ったときがベストチャンスなんですから。
2024.11.20
閲覧総数 410
47
軽い気持ちで始めたブログですが、いつの間にかかなり重くなってしまっていましたね。気質の勉強会に出てくださっている多くのお母さん達が、会うたびに“見てますよ”、“読んでますよ”と黄色い声援を送ってくれているので、つい気合いが入ってしまいました。それでも、ここのところちょっと理屈っぽくなってしまっていますから今日は抽象的な話しだけでなく、具体的な話しも入れていきますね。読者が少なくなっては困りますから・・・。ということで、今日は「胆汁質」の話しです。「胆汁質」(火・赤)胆汁質の話しは面白いですよ。(憂鬱質もです)それだけで1時間、2時間は簡単に過ぎてしまいます。どうして面白いのかというと、極端だからです。胆汁質の人は考え方も、行動も極端なんです。真っ直ぐで、邪魔をする者は蹴散らし、妥協はせず、人の話しは聞かず、頑固で、協調性はなく、褒められるのが大好きで、自己中心的で、目立つことが大好きで、大きな声で話し、大きな声で笑い、大きな声で怒鳴ります。とは言っても、これはかなりおおげさに表現していますから、そのまま受け取らないでくださいね。これだけ聞くと“とんでもないやつだ”と感じるかも知れませんが、でも会議などでは胆汁質の人がいないと話しが進みません。胆汁質の人は目的志向型なので、なんのための会議なのか忘れないのです。そして、場を仕切ってくれます。でも、胆汁質の人が複数いると、紛糾してまとまらなくなる危険性もありますけど。これが、多血質の人ばかりの会議だったら、“楽しかったね、でも何の会議だったっけ”ということになってしまいます。目先の話題に引っ張られてすぐに本来の議題を忘れてしまうのです。粘液質の人たちだけで会議をしたら、何の紛糾も、盛り上がりもなく多分最短時間で終わるでしょう。でも、常識的な結論しか出てこないと思います。粘液質の人はあんまり突拍子もないことを考えないのです。憂鬱質の人ばかりで会議をしたら、誰も発言しないまま会議が進まなくなる恐れがあります。胆汁質の人にはこのようにみんなを引っ張っていく力があります。影響力が強いのです。よくいう“ワンマン社長”という人たちも胆汁質の人が多いようです。それと、料理人のような火を使う人たちも、政治家も、医者、新しい活動を始める人、エアロビの先生達なども胆汁質の人が多いように思います。(上半身の筋肉が発達している人はエネルギーが上昇しがちなので、胆汁的になりやすいです。そういう場合は、下半身をしっかりさせることで落ち着いてきます。)一般的な傾向として、“使命感に燃えているような人”は胆汁系の人が多いようです。(胆汁系とは、胆汁質に+αとして他の気質を持っている人のことです。)胆汁系の人は“燃える”のが好きなんです。そして、勝ち負けがはっきりしているようなスポーツも好きです。また、からだを鍛えることも、色々なことに挑戦することも好きです。ちなみにテレビで“気合いだ!”と叫んでいるおじさんも胆汁質です。ただ、その“挑戦するのが好き”という気質が、どのような形で出るかは人それぞれです。自分自身に挑戦する人もいるでしょうし、記録に挑戦する人もいるでしょうし、自分の目標に挑戦する人もいるでしょうし、実際に戦いの場で相手に挑戦する人もいるでしょう。ですから、ここに書いたような胆汁質(胆汁系)の人の特徴は、“そういう傾向がある”というだけで、胆汁質の人が全てそのようであると言うことではありません。実際の状態には、「胆汁質+α」のαの影響が大きいのです。ちなみに、使命感に燃えて偉大な活動をしたマザー・テレサのような人も胆汁質が強かったのではないかと思っています。(彼女は「胆汁質+憂鬱質」のように思います。)謙虚な胆汁もあるのです。(自分が立ち向かうべき相手をちゃんと知っている人はそうでない人には謙虚になれます。)そして、その“挑戦する目標”を見つけることが出来た胆汁質の人は幸せです。でも、実際にはそんないいことばかりではありません。胆汁質の気質がこじれるとちょっと難しいことになります。プライドは強く、人の言うことは聞かず、支配的で“女王様”のように振る舞う人もいます。そういう人には、だれも忠告できません。また、子どもならかなりのいたずらっ子になります。とにかく目立つのが好きなので、いたずらや悪さもわざと目立つようなことをやるのです。時には子分を引き連れていたずらします。目立たないように、こそっとやるいたずらには興味がないのです。でも、子どもの場合は目標を持たせてあげると非常に伸びます。叱るのは逆効果になります。もっとも、叱っても言うことを聞かないと思いますけど。胆汁質は本当に社会のエネルギーなんです。色々な分野で一線で活躍している人たちには胆汁系の人の割合がかなり多いと思っています。(でも、協調性も弱いので、トラブルメーカーにもなりやすいです。)以下に、簡単に胆汁質の人の特徴をまとめてみました。でも、上にも書いたように、胆汁質の人がこの全ての特徴を備えているというわけではないのでご了承下さい。(+αの気質によって大きく違うのです。)本当は、もっともっと面白い話しがいっぱいあるのですが、書ききれないのでここらでやめておきます。<胆汁(たんじゅう)質>・反抗心が強く、目的志向型、意志が強く協調性は弱い、一匹狼とかリーダーを好む。・活動的で意欲的、影響力も大きい。・いつでも“正しいのは自分の方だ”と思っている。・チャレンジするのが好き・頑固、思い通りにならないのはイヤ。・頑張り屋、強い色、はっきりした形が好き。・集中力はあるが気に入らないとやらない。・自分でやりたいことが決まっていることが多く、先生や他の人の意見に従うことを嫌がる。・動きはきびきびしていて、姿勢が良く、声も大きくてよく通る、まっすぐに人の目を見て話すこと ができる。目に力がある。・からだ(骨格)ががっしりしていることが多く、比較的力が強い。特に上半身が発達している。・目的がはっきりしないことには興味を示さない。・先生や上司や周囲から認められることが嬉しい。・人のために何かをするのが好き。おせっかい、世話焼き。・怒られると反発するが、あまり根に持つタイプではない。その場限り。・何でも自分で決める。・見えない世界にはあまり関心がない。(憂鬱が入っていない場合)・だらだらと理屈っぽいのは嫌い。単純明快が好き。でも、論理的。・あまり言葉に頼らない。行動で物事を解決する。・目標がないと行動する力が出ない。障害があると燃える。・すぐに白黒をつけたがる。・思いこみで行動する傾向がある。(話しを最後まで聞かない)・丁寧というのが苦手。(憂鬱が入っていない場合)・後悔ということをあまりしない。・現実重視。・人前でもあまり恥ずかしがらない・思いこみで行動する。
2005.11.07
閲覧総数 1135
48
動物が危険や恐怖を感じた時には「戦う」、「逃げる」、「固まる」という中のいずれかの行動を取ります。人間もまた危険や恐怖を感じた時にはこの三つの中のいずれかの行動を取ろうとします。気質との絡みで言うと、胆汁質は戦い、多血や粘液は逃げ、憂鬱質は固まる傾向が強いような気がします。ピノコさんのお子さんの状態は、この、憂鬱質の「固まる」という反応だろうと思います。その時、自分の気持ちを説明するために「人が見ているから~するのがイヤだ」と言っているのだろうと思います。それはまた、幼稚園の中で自分が受け入れられていないように感じていることの表れでもあると思います。これは「自我意識」と似ていますが、「自我意識」ではありません。しいて言えば「自意識」です。「自意識」が強い人は人の目を気にします。その時、自分の意識は自分の中に閉じ籠もりっきりです。相手の立場に立って考えているわけではありません。自意識が強い子は、絵が上手に描けなくたって誰も文句も、非難もしないし、笑われもしない状況でも、勝手に自分の中に「文句を言う存在」「笑う存在」を作り上げて、怖がるのです。つまり、自分で作った物語に縛られてしまうのです。それに対して、「自我意識」とは「人目」を気にすることではありません。そうではなく、「自分自身のことを冷静に見る」意識のことです。ウィキペディアには「自己を対象とする認識作用のこと」と書いてあります。ですから、「自我意識」がしっかりとしている人は、「相手の立場に立って物事を考える」ということができます。そしてこれは人間にしかない能力です。この能力があるから人間は客観的に物事を見たり、考えたりすることが出来るわけです。そして、この能力は思春期が近くなると目覚め始めます。ですから幼稚園児にはありません。ちなみにこの自我意識の目覚めには個人差が大きく、大人になっても自分のことを客観的に見ることが出来ない人もいっぱいいます。また、何らかの精神的なトラブルでそのような状態になってしまう人もいます。そのような人は「思い込み」だけで自分のことや他の人のことを判断してしまいます。そして、「思い込み」と「現実」を区別することが出来ません。幼児は全くこの状態です。(大人にとっては困った状態ですが、幼児にとっては自然な状態です。)それがひどくなると「統合失調症」になります。これを「自我意識の障害」と呼ぶようです。ですから、このような人が一度悩みや苦しみにとらわれてしまうと、なかなか抜け出すことが出来なくなります。そして、他の人を非難、攻撃し始めます。自分を見つめることが出来ないので、苦しみの原因は全て他の人のせいだと思い込んでしまうのです。それに対して、「自意識」は人間以外の動物にもあります。動物達も他の個体の目や人目は気にしています。だから猿などでもボスの前では小さくなって、自分より下位の相手に対しては態度をでかくするのです。臆病な犬が知らない人に吠えるのも同じです。自我意識がしっかりとした人は人目がなくても、自分で自分をコントロールすることが出来ます。人目に振り回されません。それに対して、「自意識」だけで動いている人は、人目に合わせて行動するばかりなので、人目がない状態ではどうしていいのか分からなくなります。つまり、「自由にしていいですよ」と言われると困ってしまうのです。現代人は「自意識」ばかりが強くて「自我意識」があまり育っていません。だから「幼児化」してしまっているのです。そしてそれが学力の低下や、科学嫌いとつながっているのです。全ての学問は「自我意識」の産物だからです。また、自分のことを客観的に見ることが出来ないから子育てでも、子どもを虐待してしまうのです。では、この「自我意識」をどのように育てたらいいのかという問題です。実はここで必要になるのは「学ぶこと」(入力)と「表現する」(出力)ことなのです。学ぶだけでは自意識ばかりが強くなります。他者による正解ばかりが多くなるからです。表現するだけでは思い込みばかりが強くなります。自分だけの正解ばかりが多くなるからです。でも、この二つがつながる時「考える」という働きが目覚めます。科学について学びます。そして、それを実験(表現)で確かめようとします。でも、事実は知識通りにはなりません。それで考えます。そして、また学びます。そしてまた実験します。この繰り返しで、「事実とは何か」ということを見る目が育っていくのです。そして、その繰り返しが「自我の育ち」を支えてくれるのです。このように見ていくと、どうして今の日本の子どもたちの自我の育ちが遅れてしまっているのかがよく分かります。家庭の中にも教育の中にも「表現能力」を育てる場がないからです。
2010.09.04
閲覧総数 7564
49
今日先生から以下のようなコメントを頂きました。 いま、リーダー育て、これが大事なのですね。リーダーとは、責任を持てるもの。教師もその意味では、リーダーなのですね。リーダー育て、真剣に考えないとですね。今、このことは多くの人が多くの所で言っています。でも、そのようなことが語られる時、何か勘違いしている人が多いのです。それは、今日先生のブログでも時々取り上げられている三浦朱門の以下の言葉にも表れています。(以下は今日先生のブログからコピーさせて頂きました。)『戦後はできないやつのために手間と暇をかけすぎた。落ちこぼれにかけすぎた手間をこれからは有能なエリート候補に振り向ける。彼らが日本を引っ張ってくれる。無才、非才にはただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ』『エリート教育がゆとり教育の目的。それを言うと抵抗が大きいので、ゆとり教育とまわりくどく言っただけだ』* 三浦朱門氏・・・・80年代半ばに文化庁長官も務めた作家で、教育改革国民会議の有力メンバーである。やはり作家の曾野綾子氏を夫人に持つ三浦氏は、"ゆとり教育"を深化させる今回の学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた最高責任者である。これは物事の全体とその間のつながりを見ることが出来ない人の言葉です。エリートがエリートという理由だけでリーダーを勤めることが出来るのは軍隊や会社のような縦型社会だけです。(でも、そういう軍隊や、会社はもろいでしょうけど・・・)一般の社会ではエリートだからと言ってリーダーになどなれないのです。そのそもエリートとリーダーとは何の関係もありません。エリートとは大衆から切り離された特別な存在のことです。でも、リーダーとはその大衆のつながりの中で先頭に立つことが出来る人のことです。つまり、リーダーとは大衆の中にいて、その人達をまとめることが出来る人のことなんです。これは地域の中でも、学校の中でも、家庭の中でも同じです。場が違えば場の数だけリーダーが必要なのです。多くの場合お父さんは、会社ではリーダーではなくても家庭の中ではリーダーとして家族をまとめる必要があります。それはお母さんでもいいのですが、とにかく家庭の中にもリーダーは必要だということです。ただし、リーダーとは支配し、命令する人ではありません。みんなの話を聞いて意志決定が出来る人のことです。支配者がいても、このリーダーがいない家庭は分裂します。もちろん、学校の先生も生徒をまとめるリーダー(のはず)です。(支配者のように君臨している先生も多いようですけどね・・)また、クラスの遊び仲間の中にもリーダーは必要です。さらには、一人で活動している時にも自分が“自分”のリーダーとして活動する必要があります。人目や、人の意見ばかり気にしている人は自分の心のリーダーにすらなることができません。そういう人は、もちろん他の人をまとめるリーダーになどなることができません。つまり、リーダーとは特別な人のことではないのです。これがエリートとは決定的に違う点です。ですから、優秀な一部の人を集めてエリート教育をしても、決して優秀なリーダーなど生まれるわけがないのです。優秀なリーダーは優秀な大衆の中からしか現れないのです。(だとすると、優秀なリーダーのいない今の日本には優秀な大衆もいないということになります。)リーダーが倒れた時にはすぐに次のリーダーが現れてグループをまとめることが出来るような人たちの中から本当のリーダーは生まれるのです。リーダーが倒れた時、右往左往してしまうようなグループなら、そのリーダーも大したことはないのです。そして、自分で責任を取りたくない、自分の頭で考えないような人たちばかりのグループなら、力で支配する無能なリーダーしか現れないのです。もし、本気でリーダーを育てようとするならば一人一人の全ての子どもをしっかりと育てることです。それはつまり、一人一人の子どもを自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動できるように育てることです。全ての子どもにリーダーとしての教育を行うのです。グループの全員がリーダーの役割を知っているからこそ、みんなでリーダーを支えることが出来るのです。そして、そういうグループのリーダーだからこそ優秀なリーダーシップを発揮することが出来るのです。そして、そういう人たちが増えてくれば、家庭も地域も変わっていくでしょう。
2007.12.23
閲覧総数 636
50
多くの人が、毎日「目の前の出来事」に追われ、過去のことに苦しみ、未来のことに不安を感じながら生きています。でも、そうでない人達もいます。そのような人は「自分の人生の意味」を知り、「生きる目標」を持って生きています。「自分の人生の意味」を知り、「生きる目標」を持って生きている人にとっては、そうでない人にとっては「苦しみ」や「悩み」以外の何ものでもないものでさえも、「試練」や「自分を育てるもの」として受け取ることが出来ます。そして時には、「そのこと(人)のおかげで今の自分がいるんです」と感謝までする人もいます。中国杯で事故に遭いながらも奇跡的な復活をしたフィギャースケートの羽生結弦くんなども、「自分の人生の意味」を知り、「生きる目標」を持って生きている人です。だから、あんな事故に遭いながらも、「わたしはなんて不運なんだ」などと卑屈にならずに、更に強くなって生まれ変わることが出来たのです。でも、普通の人はそこでくじけてしまうでしょう。同じ出来事に出会っても、そこから「学べる人」と、「学べない人」がいるのです。そして「学べる人」は困難に出会っても泣き言を言わず、常に前向きです。一般的には、そのような人を「強い人」と言いますが、でも実際にはそのような人は「強い人」ではないのです。むしろ、「自分の弱さを知り、それを受け入れることが出来ている人」なのです。だからこそ、その「苦しみ」によって学ぼうとするのです。そんな時、いつも困難から逃げ回り、不平や不満ばかり言っている人には、その姿が「強さ」に見えてしまうだけです。「苦しみ」は、逃げても逃げても、どこまでも追いかけてきます。決して逃げ切れないのです。むしろ、雪原で雪の玉を転がすようにドンドン膨らむばかりです。私は弱虫ですからそんな怖いことは出来ないのです。強いから逃げないのではなく、逃げたらもっと苦しくなることを知っているから逃げないだけなのです。それに、逃げずにしっかりと向き合えばその「苦しみ」は多くの学びをもたらしてくれます。「喜び」はその「苦しみに耐える力」を育ててくれますが、人は「喜び」からよりも「苦しみ」からの方が多くを学ぶことが出来るのです。でも、その仕組みが分からず、逃げる癖がついてしまっている人は、「弱さ」を口実に、簡単に逃げます。そのうち、何から逃げているのかも分からなくなりますが、逃げていないと不安なので逃げ続けます。そして、やがて人生の最後を迎えます。そのような生き方をしてきた人は、人生の最後にどのような「自分の人生」が見えるのでしょうか。「本当の苦しみ」は、外側からやってくるのではありません。実は、「逃げ回ることばかり考えること」こそが「苦しみ」の根本的な原因なのです。人は、自分で「自分の苦しみ」を生み出しているのです。そのように逃げ回るだけの人は、「自分の人生の意味」を知らず、「生きる目標」を持つていない人です。だから、「目の前の苦しみを避ける」という生き方しか出来ないのです。「自分の人生の意味」と「生きる目標」を持っている人には、感覚的に「逃げたらもっと苦しくなる」ということが分かるのです。では、どうやったら「自分の人生の意味」と「生きる目標」を見つけ出すことが出来るのかということです。それが、昨日、茅ヶ崎でやった「自分史を語ろう」というワークの課題でした。(「表現ワーク」というテーマで、土曜か日曜の月1でやっています。参加費は当日払いです。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。会場は、JR茅ヶ崎駅近辺の公共施設です。)チラシはここです。
2014.12.15
閲覧総数 8213