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信濃川改修工事 その13の諸工を採用する。外に用水樋管補足工事一箇所ある。前者は管理者新潟県、補助率二分の一、後者は管理者信濃川分水北部普通水利組合(蒲原用水)、補助率三分の二にして、共に当所の直接施行とするのである。 〇・・・・・・工事及び工費 上述の如き計画の下に信濃川改修工事は時の沖野内務技監その他その当時の土木界の衆智を集め、最新の土工機械即ち蒸汽掘鑿機、蒸汽機関車、蒸汽ショベル等を使用し、工費予算金一千三百万円を以て明治四十年度より十四ヶ年の継続事業として内務省新潟土木出張所がその工事の直営施行を担任し、爾来技監には沖野、原田、市瀬の三代、所長は小柴、渡邊、新開の三氏を経て、所長は所内に、或は現場に一体となり、櫛風沐雨(しっぷうもくう)工事の進捗を図って来た。その間天災地変のため進工を阻害せられ、又数多人命の犠牲を出し、当事者を苦しめた事である。即ち大正三年二月六日大河津信濃川分水山間部開鑿右岸山肺土量約百万立坪の崩壊があり、大正八年一月十五日再度の地辷りの厄に遭い、土量約三〇万立坪が掘鑿法内に辷り込み、加えるに世界大戦の影響を受けて諸物物価及び労銀の暴騰及び欠乏によって工費予算に不足を来したので、大正八年度より同十三年度の迄の五ヶ年間に金千十万余円の増額をなすと共に、施行期間を同十四年度まで繰り延べたが、大正十二年九月一日関東大震火災のため更に一箇年度を延長した。かかる内に大正十三年十一月前同地辷り箇所において第三回の地辷りが突発したので、これを取り払うため更に大正十四年四月四〇万円を追加増額して、結局信濃川改修工事(大河津分水工事並びに信濃川河口改良工事)に総工費予算額二三、五四一、九〇五円(内新潟県負担金六一二万九千円)を支出する事となった。信濃川改修工事は大正十一年殆ど竣工して、同八月信濃川の出水を機として旧堤左岸を爆破しては始めて新分水路に通水して以来、完全にその機能を発揮していて、なお工期は工事の都合上施行年限を更に一ヶ年度を延長して昭和二年度に竣工する事となっていたが、不幸にして昭和二年六月の災害によって更に大河津分水応急工事名 工事予算 千円 信濃川改修工事 二一、五三八 大河津分水応急工事 八七〇 信濃川補修工事 四、四六一 信濃川上流改修工事 五、六六〇工事工費金八六万円、又昭和二年十二月より工費予算金四四六万円(内新潟県負担金七八万一千円)を以て信濃川補修工事を起し、中川技監は市瀬技監の後を受け、余は新開前所長に次いで信濃川改修工事を竣工せしめ、又大河津分水応急工事は不眠不休の奮闘を以てその工を了え、更に信濃川補修工事は信濃川改修工事に起こりし災害を一日も早く補修せんがために、係員の献身的努力によってほぼその功を終える事を得た。又一方大河津より上流における信濃川上流改修工事は大正十二年度より工費予算金六六〇万円(内新潟県負担金一三四万九千円)を以て工事を進めつつあるが、国家財政の都合上工費は削減せられ、その竣工予定年度も繰延に繰延を重ね昭和十四年度になっている。なお信濃川改修事業の工事に要する工費は左表の通りである。(略) かくの如くにしてこの改修事業成るの日は従来の水害地である新潟県三島、古志、南蒲原、中蒲原の五郡沿岸広大の沃野は洪水の氾濫を免れることが出来るので,従って農作物の腐敗流亡、田園宅地の荒廃、人情の死傷、交通の杜絶等諸般の損傷は全くその跡を絶ち、生民塗炭の苦を免れるのみならず、該地特有のツツガムシ病の有害地域を縮小してその被害及び恐怖を減ずる事が出来る。而して各支川筋の逆流防止或は圧迫軽減等によりその水利状態が改善される結果、沿川地方住民の精神的不安を除き、殖産の興隆、文化の促進、衛生状態改善等の効果を齎す事は期して待つべきものがあると信ずるのである。(終わり)
2024.02.27
信濃川改修工事 その12六〇㎝を限ってコンクリート及び張石コンクリートをを以て被覆するのである。 隔壁天端の標高は可動堰より上流七〇mの区間は低水護岸に兼用するが故に、これを(+)一〇m九五として長さ六mの鋼矢板を打ち込み、可動堰より第一床固堰頂付近に至る延長一二四m八の区間を(+)一二m五として長さ九m及び一一mの鋼矢板を使用し、最下流延長六五m二の部分は(+)一一m八三より(+)九m一五まで六、七㎝宛四 に低下せしめる、この部分はさきに異常なる洗堀を蒙りたる箇所なるが故に、長さ一二mの鋼矢板を打ち込む事にした。隔壁背面の洗堀を防止するためには、可動堰より固定堰に至る百mの区間に幅員六mの単床を施工したる上に、約二五‰(パーミル)勾配に玉石を張上げて裏埋工とするのである。 又固定堰右端に設けたる魚梯は下流河床低下の結果としてその用をなさざるに至ったので、下流彎曲部延長二三mを破砕除却した上、新たに五〇m五五を補足延長して、入口底面の標高を(+)六m五に低下せしめ、最渇水時と雖も魚族の遡上に支障なからしむるので、これは鉄筋コンクリート構造にして勾配四‰内法幅三m三、下流端はこれを四mに拡大するのである。 第一床固工 旧自在堰基礎を補強改造して最頂標高(+)一〇mの 固を造って河底の低下を防止すると共に、新可動堰に対する副堰堤の作用をなさしむるものであって、旧自在堰の鋼扉、ビーヤ、鉄塔の類はこれを除却し残有せる基礎コンクリート下の空洞には 筒を用いて砂詰を行い、コンクリートの破壊陥没して河底の洗堀せられたる部分は 及び捨石を以て填充して、切込砂利を以て充分に目つぶを施せる上に、コンクリートを被覆するのである。上流の洗堀部は上層に粗朶沈床、下層に木工沈床、コンクリート方塊、捨石を用いて幅員六〇mの区間を一二‰の勾配に固め以て下流水叩の油足とし、新可動堰鋼扉より第一 固下流端に至る幅員約一九一mに達せしめ、これを可動堰に対する 続的水叩とみなし得るものとするのである。 第二床固工 新信濃川流路の一般的地質は細砂又は粘土であって、流水のためには容易に侵蝕洗堀されるが、その終端三島郡寺泊町地先の間山部は土丹(どたん)岩の露出せる所があって、辛うじて水蝕に耐えつつあるの現状なるを以て、一はこの岩盤を保護すると共に、他は上流河床の低下を防止せんがために、堰高四mのコンクリート堰礎を造る事にした。径間一八〇m、 矢二〇m、総長約一八五mの同孤形に造り、堰頂標高は低水路において(+)五m、高水敷部において(+)六mとし、下流間は勾配五〇‰に仕上げるのである。 堰堤個所の土丹岩は軟質にして風化、水蝕の危険あるが故に、取堤下流水叩き八五mの区間は岩盤を切 したる土をコンクリートを以て被覆し、その末端は最大深度(-)四mまで岩盤内に巻き込み、以て下流岩盤の水蝕された場合にもコンクリート水叩きの崩壊を防止するの用意とするのである。 堰堤流下水の水勢減殺のためには水叩きコンクリートの表面に割石を植え込む外、水叩き流端と下流端には高さ一―二m、断面七五㎝角、鉄骨コンクリート造パツフル・ビーヤ二列宛を配列するのである。なお魚族の遡上を助けるためには幅員三m八、勾配八‰の魚梯を築造する。 床留工 上記両床留と相俟って新信濃川河床の低下を防止せんが為に、 大河津橋上流約三五三mの位置に五千石床留工、同橋上流に大河津床留工、越後線鉄道橋下流九〇〇mの位置に新長床留工、 渡部橋下流に石詰床留工を施行する。粗朶沈床、本工沈床、鉄線籠、コンクリート方塊及び捨石工法により主として土砂掩留の用に供するのである。 附帯工事 低水工事の目的は洗堰下流において流水の幅員を制限し、その流速を利用して自然的に土砂を洗掃せしめ、以て航路を維持すると共に灌漑用水に不足を訴えざらしむるようにするのである。洗堰より中之口用分派口に至る延長八㎞の区間に亙り、敷幅上流部おいて八〇m、下流部において百mの水路を平均勾配三千分ノ一に浚渫し、両岸には水 兼用の護岸及び制水を施すものであって、護岸、制水とも粗朶沈床、同単床、鉄線猪之子枠、包柴籠、杭柵、石堤等
2024.02.25
信濃川改修工事 その11上記橋脚橋に吊して、各径間ごとに十馬力電動機直結巻揚機一台を備え、而して右岸堤防上運転機械室内にはディーゼル機関直結四五馬力発電機を据え付けて、遠方制御装置により水位の変動に応じて同機械室内にあって鋼扉の開閉をなさしめるのである。鋼扉昇降速度は毎分一mにして、最大昇降高七m五である。別に橋台の一部に量水升を設け電気通信機によって可動堰上流の水位を運転機械室に自記せしめ、以て鋼扉開閉による水位調節の的確を期するのである。 堰堤上流は幅員二〇mの区間に亙って下層に粘土褥及び粗朶沈床、上層に七五㎤、重量一トンのコンクリート方塊を列べたる間に割石を填充して床固とし、下流は幅員一〇m、厚さ五〇㎝のコンクリート水叩を設け、その上流端には長さ六mの鋼矢板を打ち込んで天端を水叩コンクリート上装面より高める事七五㎝とし、これより上流に水深七五㎝の水褥を作って可動堰下流の流勢の減殺に努め、又水叩きコンクリート下流旧自在堰に至る平均距離五〇mの区間は、下層に粘土褥及び粗朶沈床を施工して耐水層を作って、上層には七五㎤コンクリート方塊を列べたる間隙に割石コンクリートを填充し、以て流勢の減殺と洗堀防止とを計るのである。 固定堰工 新信濃川通水貫末固定堰溢流水のために下流高水敷の洗堀される事甚だしく、かつ河底低下の結果として溢流水はそのまま高水敷を流下する事なく、これを断崖に削刻して斜に低水路に流入して既設水叩捨石胸壁コンクリート、鉄筋コンクリート沈床の崩壊流失が甚だしくなったので、これが補強改造をするのである。総長を五七二mとして、左岸寄三七〇mは現堰を利用して、これを補強し、右岸寄二〇二mはこれと新可動堰左端とを斜めに連絡して新たに築造する計画を樹てたが、後設計を変更して全長約五二二mに亙り全部現堰を補強する事に改めた。即ち堰堤下流法先の杭 は腐朽の兆しあるを以てその頂部を切断し、この線に沿うて長さ五mの鋼矢板を打ち込んで浸透水による土砂の移動を防止すると共に、下流水叩における捨石の流失せしものはこれを補給して、切込砂利及びコンクリートを以て目潰を施し、胸壁コンクリート及び鉄筋コンクリート沈床の崩壊せしものはこれを修理復旧する事としたけれども、自在堰陥没以来固定堰の溢流いよいよ頻繁にして下流高水敷の洗堀益々甚だしく、如上の修理工を以てしては将来における固定堰の安全を保障するに足らざるが故に、既設鉄筋コンクリート沈床より下流に向って幅員三八m五勾配約一二‰(パーミル)、張石及び鉄線施工による水叩きを補足して、固定堰総幅を六九mに増入することにした。 又既水路洗堀の結果異常なる出水に非ざる限り、高水敷に冠水する事なき現状なるを以て、固定堰右端より扇形に低水路に向って導水路を作って溢流水は五千石珠留工より上流の区間において低水路は別に入江を以て掘鑿せずと雖も、将来低水敷と同一深度に洗堀される虞れあるが故に、堰堤並びに堤防の維持に留意し、堰堤並びに堤防の維持に留意し、堰堤下流端を補強するがためには水叩補足部末端に長さ一〇m鋼矢板を上端標高(+)七mに打ち込み、堰堤接続の左岸堤防は護岸法先の杭柵に沿って長さ一〇m鋼矢板を打ち込んでこれを保護する。導水路左岸高水敷の水 崩壊を防止せんがためには、これに杭柵工、鉄 コンクリート及び柳枝工による護岸工事を施行するのである。 補足水叩法長さ三八m八の均土上流部二六mは張石工、下流部一二mは鉄線籠工にして、張石の脱離流失に際し損傷を一局部に限定せんがために、縦には約八m間隔、横には五〇m間隔に鉄線籠を配列し、これに割石及びコンクリートを填充して末留とするので、張石には硬簀割石を用いて切り込み砂利、砂及びコンクリートを以て目潰を施し、下流部鉄線籠には玉石を填充し、表向にはコンクリートを被覆するのである。 隔壁工 固定堰工事施行変更の結果可動堰左端と固定堰右端とは百mの間隔を生じたるを以て、 間を連結して堰堤の一部分を構成させると共に、可動、固定両岸堤部分における水流を分岐し、兼て魚梯一方の側壁を掩護するの必要上、低水路肩に沿うて延長二六〇m、幅四mの隔壁を造るのである。構造は長さ六―一二mの鋼矢板を二列に打ち込み、割石、上円岩、砂利及び砂を以て中埋とし、天端は
2024.02.25
信濃川改修工事 その10施行するのである。 信濃川補修工事はこれを堰堤工事、床固工事及び附帯工事の三種に分つ。堰堤浩二は補修工事中その首位を占むるものであって、旧自在堰に代って新信濃川の水量を調節せんがために、その上流百mの位置に低水路を横断して可動堰を築造すると共に、固定堰には充分なる補強工事を施し、両者を連絡して新たに隔壁を築造するのである。 又分水路運水以来特に自在堰陥没の結果下流低水路の洗掘せらるる事甚だしくなったので、毎秒二、七〇〇㎥程度の出水は高水敷に冠水せずして疏通し得る状態なるが故に、将来における河底低下を防止すると共に、延いで新可動堰の安全を期する目的の下に、可動堰下流と新信濃川河口付近とに堅牢なる床固工事を施し、その中間には構造簡易なる床留四箇所を設くるのである。 附帯低水工事は洗堰より上流末川筋中之口用分派口に至る延長八㎞の間に確行するので、従来洗堰下流の本川は土砂の堆積甚だしく、累年河床が上昇して涌水量を減じて灌漑と舟運とに困難を感ずるに至ったが、自在堰陥没の結果流勢新信濃川に集中して洗堰下流は通水一時杜絶するに至った。然るに洗堰下流の本川、派出西川及び中之口川は蒲原平野約二六、〇〇〇ヘクタールの灌漑を司る重要なる用水幹線なるを以て、河状を整理して下流に通水を計るの急務なるを認めたので、附帯工事として上記区間の低水工事を施行する事とした。次にこれら各種工事に亙って計画の要点を略述して見よう。 可動堰工 破壊陥没せる自在堰は更にこれを補強修理の途ないので、その上流百mの位置に新たに可動堰を造る事にした。その全幅員は一八〇mで、幅員三m五の橋脚によってこれを十箇の径間に分け、水路幅員一四m五で、各水路幅一六m、高さ二m九のストーニー式鋼扉を備え、扉頂標高(+)一二m一五とし、水位の昇降に応じ電力又は人力を用いてこれを開閉せしめ、以て水位の調節に遺憾なかしむるのである。 基礎は幅員三五mの上流幅と下流端とを長さそれぞれ一二m及び一一mの鋼矢板を河底まで打込んでこれを締切り、その尖端をそれぞれ標高(-)二m八五及び(-)二m四五に達せしめて、絶対に地下透水なからしめん事を期したのである。更にこれに直交して始終橋台及び橋脚毎に長さ一四m五の鋼矢板を尖端標高(-)一mまで打込んで隔壁とし、基礎コンクリート施行後上部はこれを切断するのである。然し本幅壁はこれを工事中の締切壁に兼用すると共に、将来基礎の一部に損傷を生じたる場合にも被害を一径間に局限せんがためであって、基礎コンクリート厚さは敷均六〇㍉、基礎版一m五五にして、橋脚部は幅員五mの間を鉄骨コンクリート構造、その他は全部鉄筋コンクリート造とし、かつ縦横に伸縮接合を設けて鋼裂防止を計った。 堰 は標高(+)九m三五にして、ベツレヘム会社製特殊工形鋼を据え付けたる上に幅五百㍉の戸当鋳鋼鈑を取り付け、これを挟んでその上下流に幅それぞれ一m二及び一mの花崗岩を配列して堰悶を固め、上流鋼は厚さ六〇㍉、下流側は厚さ八〇―三五㎝の上装コンクリートを施工して堰体を作るのである。 基礎杭は橋脚部及び橋台の一部に長さ一三m、末口一八㎝の松丸太を使用し、右岸堤保護のためには橋台を堤防線より九m突出せしめ、かつ基礎締切鋼矢板は上下流両列ともこれを延長して右岸堤天端に達せしむるのである。 橋脚コンクリートにはその一部に鉄骨を挿入してこれを補強し、橋台は鉄筋コンクリート構造にして併せて充分の耐震力を有せしめ、基礎コンクリート下の水の浮力を測定し、同時に土砂の状態を検討せんがためには橋台及び各橋脚毎に四箇所の地下水調定菅を装置し、堰堤の監視及び維持修理に便せんがためには、可動取の全長に亙りて有効幅員二m五の鉄骨鉄筋コンクリート桁橋を架するのである。 鋼扉開閉のためには橋台及び各橋脚上に鋼構脚を建て、これに突桁式構桁を架して構脚橋とするので、これはためなのである。鋼扉は総重量約二三トンで、その両側に重量約一八トンの鉄骨コンクリート造対重二個を付してこれをエンドレス式複線鋼 を以て
2024.02.24
信濃川改修工事 その9 附帯工事 としてはこの付近海岸線に沿うて弥彦国上の山々が起伏断続している近傍を信濃川の巨流が流れているので、三島、西蒲原両郡の一部は自然ここに低窪な一区域を形造ってなお島崎川がこれを横断流過しているから、常に悪水の排除に苦しんでいる状態である。由来大河津分水路開鑿の目的は本川沿岸の水害防御と共に、この間における耕地の灌漑並びに悪水排除もその一つに数えられるものであって、即ち蒲原用水路、信濃川新用水路東西合併悪水路、落水悪水路眞野代用水路等の諸工事を附帯工事として直接施行せんとするものである。 信濃川河口工事 は浚渫、突堤、護岸及び灯台建設の四種であって、浚渫は河口から上流へ長さ二一八二m、幅員一八一m八、深さ七m五に、海港は長さ七二七m二、幅一八一m八、深さ九mに達せしめる計画であって、この総浚渫土量は約一三五万㎥である。西突堤は水面上高三m六、堤頂の幅員七m二七、長さ一五一m七に築くものであって、その基礎は一個の重量半トン内外の天然石を上幅九m両法一割五分で低水面に達せしめて、これ以上はコンクリートの直壁とし、海 には一箇の重量一四トン及び二四トンのコンクリート方塊を投げ入れてその全部を包被し、河側には一四トン塊を以てその一部を包被するものである。 西突堤の頭部には直径一〇m九一の同形直壁を造り、その上に灯台を設けて航路標識の用に供するのである。又突堤付根から上流一、一八一mの左岸を保護するため沈床、根杭及び石張から成る護岸工事
2024.02.24
信濃川改修工事 その8堰の下流に放流するのである。 猿橋川 に在ては信濃川の水位上昇する場合は、その逆水の影響を受け沿岸耕地の悪水は排水不能に陥り湛水の害を被るを以て、本計画においては全くその影響を除去せんがために、本川の流水を延長して信濃川新締切堤に沿い洗堰下流の信濃川に放流せんとするものである。 信濃川改修計画は大河津より寺泊海岸までに新放水路を開鑿して信濃川の洪水を日本海に放流し、常水はこれを新潟港に流下せしめ。以て信濃川下流部の水害を除き、合せて新潟港の改善を期するものであって、それを新放水路開鑿、自在堰、固定堰、洗堰、閘門、締切堤築造、分水付帯工事及び信濃川河口工事に分けて述べよう。 新放水路 は下流部で山 を開鑿するのであるから、掘鑿土量の軽減を計り、下流に近づくに従って勾配を急ならしめて漏斗状形に河幅を狭め、海口に至って二一八m一とし、水面勾配は上流分岐点付近は二千分の一、中流部は七百分の一、下流部は五百分の一にしたのである。掘鑿総土量は約二、八八〇万㎥で、その内、山間部約二、一六〇万㎥、平地部約七二〇万㎥である。又新水路の堤防は堅固を主とし馬踏幅一四m五四、表裏両法二割、頂高は計画高水位上一m五とし、その延長は両岸を合せて一三、四五四m五である。新放水路の起点である大河津村地先に洗堰左端から約二八〇m下流に水路を横断して堰堤(固定堰、及び自在堰)を築くので、その頂高は本川既注の流量に鑑みて洗堰下流信濃川本川に灌漑と航運とのために必要な水量約四四〇㎥を通ずべき水位を標準としてこれを規定したのである。新水路の幅員七三七m三の内左岸寄五四五m四を洪水敷部として固定堰を造り、出水時はこれを越流せしめる右岸寄一八一m八を低水路として自在堰を設け、出水時はこれを開放し、減水時はこれを閉鎖して以て洗堰以下の水量を調節せしむるのである。 自在堰 は総長一八一m八を八区に分ち、八個のピーヤ(橋脚)でこれを分ってその間に各一個のベヤトラツプ式鋼扉(bear-trap gate)備えるのである。そのピーヤ間隔二二m七、ピーヤ幅三m九、純径間一八m八、扉の幅員一九m二で、その起伏高二m四である。扉は三葉式で、一組の重量は約五〇トンである。 固定堰 は堰高標高一二m二五で、その上幅一m八にし、これを中心として上流三m九は三割勾配にし下流一〇m三には八割勾配の砂礫堤を作って、その表面は厚さ三〇㍉のコンクリートにて被い、それに間知石(けんちいし:擁壁に使われる土木建築材料)を 込んで流水の勢力を減殺させるようにするのである。下流はこれに接続して長さ九m一の間に捨石長さ四m五の間に鉄筋コンクリート沈床を施工して溢流水による洗堀を防ぐのである、 洗堰 は大河津村地先本川と新水路との分岐点に設け、橋台間の総幅一四五m五、橋脚間隔五m四、橋脚幅員一m八、その数二六基、水路幅(純径間)各三m六で、各径間には各落を用いて水量を調整し、余量はこれを新水路に放流せしむる装置である。 閘門 は洗堰に隣接して設けその大きさは既往における通航汽船の最大型のものを通過せしむるに足る目的で、総長九〇m九、有効長(閘室長)六〇m六、閘室有効幅員一〇m九、閘門高低水位下一m五一、最低水深一m八である。扉室は各一対宛の観音開鋼扉通水路暗渠の開閉によって水位を調整して舟航に便するのである。 締切堤築造工事 は大河津分水工事の一つとして左岸三島郡大河津村大字大川津地先閘門付近から右岸南蒲原郡中之島村大字眞野代に至る間を横断して信濃川本流締切るものであって、この延長二、一八二m、堤防の形状は馬踏幅九m二、表裏両法各二割とし、なお堤内の部分では堤頂から二m四二下った処に五m四五の小段を設け、更に一m二下って一四m五四の第二小段を設け、堤体の強固を計り、堤頂は計画高水位上約一m五を高め、護岸として川面の方に根固、沈床と捨石とを施し、法面は金網蛇籠を以て被覆して新水路工事の竣工をまって信濃川の水流を分水して、その一つを寺泊へ流下するのである。
2024.02.24
信濃川改修工事 その7に三七〇㎞で灌漑の利甚だ多く、舟筏航路また二八三㎞の長きに亙るけれども、しばしば水害の甚だしきものがあってその被害もまたすくなくないのである。遠くは元禄十一年五月三日及び享保三年八月五日の洪水に引き続いて元文、寛保、延享、宝暦の災害等があったけれども、今その実況は詳らかに知る事を得ない。近世になってから水害漸く激甚を加えて、彼の明治二十九年の出水の如きは各所で破堤して沿岸の平野は水底に葬られ、その惨状実に甚だしく被害住民はそれから数年の間は全く立つ事の出来得ない程の疲弊困憊に陥ったのであった。又本川の沿岸は概して卑湿の地であって、随って湛水の害また深大である。しかも湛水の害は洪水のように 間歇的ではなく年々被害 のなかった事がないのである。ただ程度の大小深浅があるばかりで、本川付近肥沃の壌土はこれがために蒙る損害年々実に巨万の額に達して、殊に明治八年の如き格別の洪水でなかったにもかかわらず、沿岸地方は非常な湛水の害を蒙った。中、西、南の三蒲原郡での冠水面積は田地三一、五七六・〇ヘクタール、畑地九、三八二・〇ヘクタールに達したので、その損害額は四、三六四、四八六円の巨額に及んだのである。 信濃川改修事業の計画を分って信濃川上流改修計画、信濃川改修計画、信濃川補修工事計画に区分して左に述べてみよう。 信濃川流改修計画は、新潟県古志郡妙見以下信濃川大河津締切堤防に至る間の水害を絶つを目的とするものであって、最大流量毎秒五、五六五㎥を疏通せしむるに足る流積を有せしむる事とし、地形に応じその河幅を最小六一八m、最大一、二一八mに整理し無堤部には堤防を新設し、有堤部はなるべく旧堤を利用しこれを拡築し、流積不足の部分は掘鑿浚渫を施し以て洪水の快通を図り、激流の甚だしき支川及び悪水路には水門を設け逆水を阻止する等、水害の原因を一掃せんとするものである。 築堤工事 は全川に亙り馬踏七m二、表裏とも二割法とし、その高は計画高水位以上一m五の余裕を与えなるべく旧堤を利用拡築する事とし、長岡市付近に合流する太田、渋海両用の落日は瀬割新堤を以て引き下ぐる事とするのである。護岸及び水制工事中護岸は主に長岡より上流両岸堤防表法面及び下流部の沿岸で流平衡に面する箇所並びに堤脚の平水中に落ちる部分に対しては表法高水面以下を石張、又はこれと等しき工法により低水に接する箇所は沈床工を施し、また水制工は流心の矯正を要する部分に施すのである。水門工事は新田外二、三の悪水路に設置し、いずれも逆水止門扉を設けるのである。付帯工事は長生橋、與板橋の改築、黒川外二箇川の改修用悪水路の樋管伏替又は水路付替等であって、樋管八五箇所の多きに及ぶを以て、適宜これを処理せねばならないのである。なかんずく工事の最も大なるものは黒川外二箇川の改修であって、大正十四年度以降工費金一八四万一千円、県費負担一三二万九千円(内地元負担三五五、三五四円)にてその工を起し、国において直接施行するもので、その計画の大要は次の如くである。 信濃川左支黒川及び道満川 はいずれもその上流部においては、出水の時しばしば溢水破堤等のため沿岸耕地を害する事おびただしく、その被害面積千ヘクタール余になる事がある。又下流部の被害は常に湛水に起因するもので、五ヶ所に排水機を設置して僅かに悪水排除をしているけれども、最低地盤は海面上一四m内外に過ぎないから、降雨期に際しては信濃川の平水位においてすら排水機の運転を必要とする状態である。故に一朝信濃川の水位が上昇する場合は殆ど施すべき策なく、稲禾を没し家屋を浸し交通の途は全く絶える有様である。殊に融雪期の如きはその程度著しく浸水面積実に二千余ヘクタールに及ぶ事があり、而もその期間数旬に亙り、為に挿苗期を逸して耕地を荒廃する事が多い。よって黒川沿岸の高地及び道満川沿岸の悪水は、黒川本川、道満川並びに黒川の支川菖蒲川、荻城川の改修によって低地部の悪水は適当に集水して別に悪水路を開鑿し、遠く信濃川新水路固定
2024.02.23
信濃川改修工事 その6唱える所であって、今や大河津を開鑿して信濃川の水を日本海へ放流する時は、洪水の際は比較的土砂を混ずる事の少なき上層の水のみ寺泊の海に放流せられ、下層の土砂泥水のみ新潟に流れ来り、港口を游塞せん事を唱え反対したものである。元文二年新潟新田開発のため同潟の水を五十嵐浜へ落とさん事を請願したるに際しても、新潟は松ヶ崎の例を引いて反対し、その他悪水といえども新潟港以外の海へへ放流せんとする工事には極力反対したものである。要はなるべく多くの水を取入る事を望んだものであつて、これまたその当時においては当然の問題なれば当局においても大いにこれに留意して、大河津分水工事開始前において精密なる専門学者の調査を遂げしめたのである。その概要は大河津より寺泊へ向け新水路開鑿し、洪水量二〇万立方尺の水を放流し、新潟港へは平水のみを鑑みる事とし、更に港内在来の土砂八〇万坪を浚渫し、常に二〇余尺の深度を保たしむる事となった。ここに初めて新潟市民は安心せるのみならず、前途の発展を祝して大河津分水の計画に賛成するに至った。 その後明治四十年に帝国議会の協賛を経て 々国においてその工事を施行するの機運に到達した。而して 明治四十二年七月五日 信濃川治水に関する朝野の紳士を請じてその起工式を新潟県三島郡寺泊町海岸字白岩に挙行した。時の土木出張所長(元の土木監督署長)は内務技師小柴保人氏であって、同氏に次いで内務技師渡邊六郎氏所長となられ、上流古志郡妙見より以下大河津に至る即ち信濃川上流部の改修工事を加えて、この大事業の最大部分を完成せられた。後同じく内務省技師新開壽之助氏その後を受け保守継続大いに努められたが、不幸にして昭和二年六月突如として大河津自在堰の一部陥没の厄に遇い、直ちに応急工事を施し、それがほとんど成ると同時に同氏は職を引かれ、次いでその災害を補修せんがために信濃川補修工事が起工されたので、私が所長の職を継ぐ事になった。そこで同工事も明年を以て全く竣工するまでの運びに至った。又信濃川上流改修工事は今なお施行中である。 〇⋯⋯河狀並びに計画の大要 信濃川は遠くその源を中央山系である飛信甲武の深谷に発して、上流を千曲川といい、長野平野の川中島で犀川を合せ北流して越後に入り信濃川と称え、広大な越後平野を潤し数多の支流を合せて新潟港に注ぐのである。流路延長は実
2024.02.23
信濃川改修工事 その4 36頁目上京せしめ政府に嘆願させた。時の 越後府知事は壬生基修氏 であって、氏は直に上表して縷々その不可を疏し、次いでその責を引いてその職を去るに至った。翌三年正月民部省土木司は有志総代の意見を諒として、急に用弁掛、二人の状京を命じ金策をなさしめた。すなわち田沢與左衛門、鷲尾忠吾の両氏は大阪に到りて住友吉左衛門に工費の用達を交渉したけれども事意の如くならず、政府は遂に各藩に命じて工費を左の如く按分してその出金方を協議せしめた。金一百十万両也 分水路総額 内 金四十万両也 朝廷御下金金十五万両也 全国々役金金四十五万両也 水害堰高 を三十万石と見積り、一 石に付一両二分宛分担 如上標準割当で、水害地分割金四十五万両の出金方について協議したが、藩県総代の議論紛糾して容易に決し兼ねたので、民部省権少佐青柳重平氏の斡旋によって 七藩二県八百三十余ヶ村 の等級を定め、とにかく支弁の途を立てて再度工事を開始する事となったので、同年四月十九日土木司役員の出張を見るに至った。而して民部省測量司小林、三浦両氏の測量を挙げれば左の通りである。 分水口(大河津)より海浜(須走)迄四、七二ヶ間六分(二甲六町四ヶ間六分)築堤を要する低地二一四七間五築堤を要せざる地七三三間五分その他山間八四八間六分 かくして起工の準備が整ったので同年七月七日国上村字石湊において分水起工祭を挙行するに至った。夫れより藩県は事務を分掌して、夙夜鋭意工事の進行を図ったが、三間最高の所は八〇余尺もあって、悉く人肩によるの外はなく、数十尋の坂路を上下迂回して、一万ないし二万の男女人夫により土砂は運ばれ、工事進行を見たけれども、進行に伴い困難の度益々増加して、随って掘れば随って崩れ、いわゆる妖怪丁場などという箇所も出て来て、何時かこの役を終わらんとの嘆声すら多数民の口より洩れ出ずるようになった。然るに明治四年七月廃藩置県の令下って官制改正のため民部省の土木司は廃せられ、分水工事は大蔵省土木寮の管轄となって、又々工事支出の に大なる懸念を生じ、しかのみならず翌五年四月 渡邊悌輔等の一揆 を起すありして、人心恟々するに至ったけれども、暴動は数日で鎮定し、巨魁は悉く法に処せられ、幸いに大事に至らないでしまった。これがため工事は一時休止の運命を見んとしたが、大蔵大丞岡本健三郎氏によって続行する事となった。而して土木寮は更に七等出仕小野修一郎を派遣して工事を監督せしめた。 政府は更に前後して外人ブラントン(明治四年)及エハリントウ(同六年)をして信濃川を測量調査せしめたが、両人の調査復命は 分水の不利なる報告 のため、政府は遂に信濃川分水工事は詮議の次第之有り廃止する旨を布達するに至った。ここにおいて高橋健三、田沢與一郎(元の與左衛門)、大矢益 氏その他有志は遺憾措くあたわずとしてその筋へ論議したが、その甲斐もなく折角の工事も全く廃止する事になって、百万両の工費は水泡に帰してしまった。これ実に明治六年の三月であった。 その後政府は信濃川に護岸沈床の工事を実施したが、その効果の認むべきもの甚だ小さきため、又大河津分水事業再興の声民間に起こり、ここに又々有志の奔走する所となった。十二年田沢與一郎、須田勝十郎、市島正内、高橋健三氏等相謀り、交々上京して分水の要あるを政府当路に陳情嘆願した。中に高橋健三、田沢宝入の両氏は左大臣有梄川宮殿下もしばしば拝謁を得、親しく翻意を言上したけれども、容易に志遂ぐる事が出来なかった。然れども不屈不撓 を継続し、傍ら有志にて信濃川治水会社を創立して治水の方法を継承し、大河津分水起業を力説して大いに輿論の換起に努めたけれども、有志者或は死亡し或は耳を傾け気勢振るわざるに至った。十五年七月県会において目黒徳松、山口権三郎、小田宗四郎の三氏は工事中の中之口田、信濃川護岸沈床工事を中止し、大河津疏浚の測量を請求するの建議をを提出したるに入る檄を以て通過し、
2024.02.22
信濃川改修工事 その3 35頁目五、三〇三間三尺五寸(二甲一六町三尺九寸)、分水と海面との高低の差三丈八尺八寸とあり、頗る精確を極めたるものである。翌天保十四年二月幕府は更に勘定役高橋平作、普請役有坂理十郎、近藤鉄平等を出張せしめ、分水路予定地の内検分をなさしめられた。そこで桑名藩柏崎代官山本勘三郎及び星清五郎、山田清作氏等は新発田藩に至って同藩奉行高山吉右衛門、三宅角之丞に会見して工費の分担を約して帰った。天保十五年九月幕府は復た勘定役岡田利喜次郎以下数人を遣わして検分せしめたが、遂に許可するに至らなかった。その後十有余年を経て安政二年十月五十嵐文六、河合勝之助、星清五郎、兼古長兵衛氏等は江戸に上り勘定奉行所に嘆願し、次いで万延二年同じく嘆願したが、終に許可を得る事が出来なかった。後慶応元年新発田藩領内名主田沢與左衛門、上田幸助をして出府嘆願せしめたが、幕府は勘定方菊名仙太夫、依田市左衛門等を遣わして信濃川中之口川を検分せしめ、先ず中之口川呑口狭窄工事 を許可するに至った。而して、一行は大河津をも検分して帰られた。然れども如何せん。この事業たるや本邦未曾有の大工事であって、莫大の工費を要し、かつ沿岸町村に種々の反対もあるので、幕府も容易に断行しかねたものである。要するに享保年間始めて分水工事の施行が出願されて以来、多くの星霜を期したが、天保十三年に漸く測量をなしおえたのみで、未だその実現を見るに至らなかった。当時有志の運動熾烈で、各藩主の意気込みも漸く壮んになって、分水の気運も熟し来らんとするに至ったが、不幸にして偶々幕府の末路内外多事のため、幕府もこれを顧みるの暇なく、遂に政権を奉還するに至り、加えて明治元年になっては北越の地もまた砲煙弾雨の巷と化し、かつ同年五月に信濃川未曾有の洪水があって、堤防の決壊するもの十有二ケ所、濁流氾濫して蒲原平野一面の泥海と化したけれども、兵馬倥偬(へいばこうそう:戦乱であわただしいさま)の折柄とて防禦復旧をなす事が出来なかったので、甚だ惨状を極むるに至ったが、兵火の鎮定をまって大河津分水の論議は復々勃然として起こるに至った。明治維新北越の戦塵も一掃し去って朝廷越後府を置かせられ、政漸く緒に就くことを得た。ここに水害の最も甚だしかりし新発田藩は率先して分水を唱導し、大参事窪田平兵衛、小参事富樫万吉をして高崎、與板、村松、峰山、三日市、村上の六藩に交渉せしめ、七藩連署にて大河津分水を越後府知事に建白した。同年九月越後府は府吏に命じて大河津、塩ノ入の両地の比較測量を行わしめた。翌二年正月前記七藩に長岡藩を加え 八藩連署して越後府に建白 した。尋(つい)で田沢氏は赤渋村五幣次郎吉を従え京都に上り、治河総督中御門大納言に嘆願して、総督より越後府知事への直書を得て急行帰国してこれを府知事に致した。ここにおいて分水の機運も漸く熟するに至った。超えて三月越後府はいよいよ分水事業を起工する事に決して、その上工事費は官費を以てする旨を各藩に令達した。ここに初めて関係町村の農民は祖先より数十年宿志の遂げられた事を一同雀躍して歓んだのであった。 越後府は直に寺泊町に事務所を設けてこれを信濃川分水役所と称し(後治河会議所と改称)、分水路開鑿の準備に着手した。これ実に明治二年五月十九日であった。 当時の掘割設計の大要 は左の通りである。 分水路 長四、九九七間三尺、十坪七六八、八七八坪五分三勺 この人夫四、六五一、五六〇人九丸分 一人賃金平均永百文宛この金四六、五一五両六貫九〇文 然るに同年九月十七日突如政府より分水事業延期の令達があった。関係町村農民はこれを聞いて落胆致し、人心もまた動揺せんとするに至った。けだし政府は王政復古日尚浅く経費多端の折柄であったから、その工費支弁に堪えあたわざるによったものである。 ここにおいて新発田藩は勿論地方有志は深くこれを憂えて、直に田沢與左衛門、大矢益之助、高橋健三、鷲尾忠吾の四氏を有志総代として
2024.02.21
青山士の語る「パナマ運河の話」 「ぱなま運河の話」の奥付には、昭和十四年五月二十日印刷とある。青山士が著者として唯一印刷・刊行した本で、パナマ運河にただ一人日本人として参加した記録としても歴史的にも貴重な資料である。本集資料編に「余禄」等を現代語表記で収録した。 この本には、「はしがき」と奥付の次ページに青山士自身の筆記が載っているものがある。
2024.02.21
信濃川改修工事 その2 34頁目五、三〇三間三尺五寸(二甲一六町三尺九寸)、分水と海面との高低の差三丈八尺八寸とあり、頗る精確を極めたるものである。翌天保十四年二月幕府は更に勘定役高橋平作、普請役有坂理十郎、近藤鉄平等を出張せしめ、分水路予定地の内検分をなさしめられた。そこで桑名藩柏崎代官山本勘三郎及び星清五郎、山田清作氏等は新発田藩に至って同藩奉行高山吉右衛門、三宅角之丞に会見して工費の分担を約して帰った。天保十五年九月幕府は復た勘定役岡田利喜次郎以下数人を遣わして検分せしめたが、遂に許可するに至らなかった。その後十有余年を経て安政二年十月五十嵐文六、河合勝之助、星清五郎、兼古長兵衛氏等は江戸に上り勘定奉行所に嘆願し、次いで万延二年同じく嘆願したが、終に許可を得る事が出来なかった。後慶応元年新発田藩領内名主田沢與左衛門、上田幸助をして出府嘆願せしめたが、幕府は勘定方菊名仙太夫、依田市左衛門等を遣わして信濃川中之口川を検分せしめ、先ず中之口川呑口狭窄工事 を許可するに至った。而して、一行は大河津をも検分して帰られた。然れども如何せん。この事業たるや本邦未曾有の大工事であって、莫大の工費を要し、かつ沿岸町村に種々の反対もあるので、幕府も容易に断行しかねたものである。要するに享保年間始めて分水工事の施行が出願されて以来、多くの星霜を期したが、天保十三年に漸く測量をなしおえたのみで、未だその実現を見るに至らなかった。当時有志の運動熾烈で、各藩主の意気込みも漸く壮んになって、分水の気運も熟し来らんとするに至ったが、不幸にして偶々幕府の末路内外多事のため、幕府もこれを顧みるの暇なく、遂に政権を奉還するに至り、加えて明治元年になっては北越の地もまた砲煙弾雨の巷と化し、かつ同年五月に信濃川未曾有の洪水があって、堤防の決壊するもの十有二ケ所、濁流氾濫して蒲原平野一面の泥海と化したけれども、兵馬倥偬(へいばこうそう:戦乱であわただしいさま)の折柄とて防禦復旧をなす事が出来なかったので、甚だ惨状を極むるに至ったが、兵火の鎮定をまって大河津分水の論議は復々勃然として起こるに至った。明治維新北越の戦塵も一掃し去って朝廷越後府を置かせられ、政漸く緒に就くことを得た。ここに水害の最も甚だしかりし新発田藩は率先して分水を唱導し、大参事窪田平兵衛、小参事富樫万吉をして高崎、與板、村松、峰山、三日市、村上の六藩に交渉せしめ、七藩連署にて大河津分水を越後府知事に建白した。同年九月越後府は府吏に命じて大河津、塩ノ入の両地の比較測量を行わしめた。翌二年正月前記七藩に長岡藩を加え 八藩連署して越後府に建白 した。尋(つい)で田沢氏は赤渋村五幣次郎吉を従え京都に上り、治河総督中御門大納言に嘆願して、総督より越後府知事への直書を得て急行帰国してこれを府知事に致した。ここにおいて分水の機運も漸く熟するに至った。超えて三月越後府はいよいよ分水事業を起工する事に決して、その上工事費は官費を以てする旨を各藩に令達した。ここに初めて関係町村の農民は祖先より数十年宿志の遂げられた事を一同雀躍して歓んだのであった。 越後府は直に寺泊町に事務所を設けてこれを信濃川分水役所と称し(後治河会議所と改称)、分水路開鑿の準備に着手した。これ実に明治二年五月十九日であった。 当時の掘割設計の大要 は左の通りである。 分水路 長四、九九七間三尺、十坪七六八、八七八坪五分三勺 この人夫四、六五一、五六〇人九丸分 一人賃金平均永百文宛この金四六、五一五両六貫九〇文 然るに同年九月十七日突如政府より分水事業延期の令達があった。関係町村農民はこれを聞いて落胆致し、人心もまた動揺せんとするに至った。けだし政府は王政復古日尚浅く経費多端の折柄であったから、その工費支弁に堪えあたわざるによったものである。 ここにおいて新発田藩は勿論地方有志は深くこれを憂えて、直に田沢與左衛門、大矢益之助、高橋健三、鷲尾忠吾の四氏を有志総代として
2024.02.21
信濃川改修工事 その1 33頁目 内務省新潟土木出張所長 青山士 信濃川改修事業は左岸新潟県三島郡六日市村より海に至る間の信濃川の改修工事であって、既往より数十年に亙って企画し、又は施行せられたものである。その目的は古来しばしば同川の沿岸を襲うた水害を除去するのを主眼とするものであって、その工事竣工の暁は長岡市より下流沿岸耕地湛水の害をも除き、かつ又灌漑の利をも増進して、以て国土の保全、住民の安泰と副利とを確立しようとすると同時に、新潟港をも改良してその繁栄を増さんとするものである。それがために爾来莫大なる国帑(国家の財産)と犠牲とを払ったので、その結果工事の大部分を竣工して当初の目的を達する事が出来たが、目下未だその事業の継続中である。 〇 沿革 古史を按ずるに、蒲原の地は一の入江であって、ここに信濃川は遠く信濃より、阿賀野川は遥かに岩代より、日夜土砂を流下する幾千年その沈殿により沃野を生成したものである。即ち蒲原の沃野は実にこの二大川の賜だというけれども、その水害もまた甚だしく、古来その治水に努力せしものは少なくなかったのである。徳川氏の治世に及びその政策として北越の地は諸侯の領土を錯綜せしむるのみならず所々に幕領を介在せしめ、彼我相対して以て一致せしめざらん事を計った結果、治水の実挙らず水害の惨状見るに堪えざるに至り、志士仁人の起って治河(ちこう)の大事に当り住民の安泰を計らんとするに至った。即ち享保年間に寺泊町の本間数右衛門、河合某の二氏大川津(後に大河津と改む)を開鑿して信濃川の水を寺泊海岸に排泄し以て水害を軽減せん事を幕府に出願したがその省みる所とならなかった。宝暦三年改めて石瀨支配所に出願したが、又許可を得る事が出来ないで、同七年数右衛門氏は遂に病死した。復た安永文政の間に頚城郡葛畑村の人、湯本太郎右衛門、上小野村の人三上猪之助、下小野村の人、片桐三郎右衛門の数氏は安永五年に、二代目数右衛門は天明六年に、天保、元治の間には蒲原郡福島村の庄屋田中新之丞、寺泊町大肝煎河合勝之助、同大庄屋本間媽平治氏等は天保三年に、又天保四年には蒲原郡貝喰新田外四十三箇村の村民は連所署して、桑名藩陣屋に大河津の開鑿を出願した。後桑名各領下新村庄屋本間徳左衛門、同川内村庄屋山田清作、柄沢村庄屋吉田久兵衛、新発田領大沼新田田名主吉原源太の数氏は天保九年に、桑名領野積村星清五郎、新発田領今井新田名主諸橋勝蔵、寺泊町大肝煎五十嵐文六、同町桑名用達河合勝之助、武州多摩郡中野村の人兼古長兵衛氏等は安政二年に、降って慶応元年には蒲原郡古川村名主田沢與右衛門、梅之木村名主上田幸助、中山村佐藤又市氏等また幕府に大河津の開鑿工事国役普請を出願した。 かくのごとく百数十年間数次の請願に対して幕府もしばしば吏を派してその水害地を検分せしめたが、遂に許可の運びに至らずして、世は明治に移った。今その概要を述ぶれば左のごとくである。 安政五年 幕府は普請役河野與十郎、西原幸八郎を遺わして検分せしめたが(湯本等の請願により)、許可するに至らなかった。 寛政二年 一月二代數右衛門氏の請願により暮将は野々山金一郎、早川平吉を遣わし検分せしめたが、掘割川筋二十ヶ村民の故障を申し立てたために、翌三年四月幕府は桑名落を経由して不許可の命を伝えた。 その後慕府は数度の請願に鑑みる所となって、天保十三年 八月分水鑿渠場所検分として勘定役直井倉之助、普請役佐藤友二郎、近藤鉄平等を派遣して川筋を検分せしめ、かつこれが測量をなさしめられた。一行はその年十月三日測量を終了して設計書を桑名藩の役員に渡して帰府致し た。その測量を見れば分水渠延長
2024.02.21
公開講座「鳥居信平物語」を開催致します。鳥居信平は袋井市上山梨出身で、今年は彼の生誕140周年、彼が作った台湾地下ダムの完成100周年を迎えます。彼の作った台湾地下ダムは 100年経過した今なお、現地で使われ、現地の方々に恩恵を与え、尊敬されています。いわば、彼はビジネスマンの(鏡)となる人物の一人です。本講座では彼の人生・台湾での活躍:事績を紹介します。この機会に、遠州の先達について理解を深め、今後の参考にしてください。〇日時 11月18日(土)13時30分~〇場所 袋井市北コミュニケーションセンター〇内容 ・講演「二峰圳(にほうしゅう)および萬隆(ばんりゅう)農場の100周年を迎えて」講師:東京大学名誉教授 鳥居徹氏(孫) ・朗読劇「台湾で日本最初の地下ダムを造った鳥居信平」袋井市文化協会:袋井むかし話の会・映画上映 鳥居信平ドキュメンタリー「二峰圳百年の底力」《制作:台湾屏東県》〇会費 1000円(大学生・高校生・中学生は無料)〇申込 11月1日~15日まで 当メール返信でお願いします。詳細は添付チラシを参照願います。当日 会場でお待ちしております。
2023.10.24
9月19日 第122回 “確認し合う”万太郎と佑一郎万太郎は徳永教授に辞表を提出。植物学教室を去る日、佑一郎が大学へやってくる。翌年度から教授となるのだ。それぞれ別の道を行く万太郎と佑一郎だが、目指す場所は同じなのだと確認し合う。佑一郎「工科大学側は派閥がうるさそうでのう。ホンマは派閥の人間を増やしたいところを、何ちゃあ関わりもないわしが、北海道から呼ばれたじゃろう?」「『今から食事を』だの、もうわずろうて全部断ってきてしもうた」「なんぼ大学教授ゆうても、わしらの仕事は教授室ではできん。普請場に出て、工事の施工に立ち会い、完成させることが使命じゃ。派閥じゃ何じゃと争うより、わしはただのエンジニアでありたいき」万太郎「佑一郎君。わしらは別の道を行くけんど、目指す場所はおんなじじゃろうか?」佑一郎「わしもそう思いよった。わしらはあの仁淀川からずっと並んで走りゆうきのう」広井勇と「紳士の工学の系譜」「二宮尊徳の会」では「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士―紳士の工学の系譜―」を二〇一四年七月に刊行し、全国の大学図書館、公共図書館に寄贈した。また「ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集」の資料編には「故廣井勇君の小伝」を収録しています。広井は旧高知藩士広井喜十郎の長男として一八六二年(文久二)九月十二日高知県佐川村に生まれ、昭和三年十月一日東京市牛込の自宅で亡くなります。六十七歳でした。九歳の時、父が亡くなり、十一歳で上京し、叔父片岡利和のもとに身を寄せます。東京外国語学校に入学した後、工部大学校予科へ転じ、一八七七年(明治十)札幌農学校の官費生募集に応じて二期生となりました。同級生に宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造らがいます。広井は同級生六名とキリスト教の信仰に入りました。また、アメリカの土木技師ウィリアム・ホイラーに工学を学びました。札幌農学校ではそれぞれ天賦の才能にしたがって、規定の学科以外に特定の学科を選び研究し、卒業後はその専門を以て開拓使に奉職することになっていました。広井は土木工学を選び、ホイラーに従い数々の設計等を行いました。広井の札幌農学校卒業演説は「最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり」で、北海道の農業振興にはキリスト教道徳が必要であるというものでした。一八八一年(明治一四)卒業すると、広井は開拓使御用掛の辞令を受け、幌内鉄道工事の一部を担当したりします。内村鑑三は広井の告別式で北海道鉄道の橋梁の建設に従事していた頃の広井について語っています。「君は君の当時の工学的知識の全部をしぼりてその任に当たりました。そしてようやくにしてその橋は成り、列車の試運転が行われんとせし時、君は顔色あおざめ、四肢震いて憂慮に堪えざるものがあり、列車の無事通過を見て安心して胸を撫で下したと聞きました。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります」(第一集一四二頁) 一八八三年(明治一六)六月七日付けで広井が宮部宛に出した英文の手紙には「僕が君に打ち明けた宗教上の確信は日に日に強まるばかりだ。僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト教徒の最大の義務だ」とあり、手紙に添えられた詩に「我らは救い主を固く信じ 生涯闘い続ける ついに勝利した時闘いを止め 神の栄光を分かちあうのだ」とあります。(第一集一一四頁)同年十二月広井は同級生中で一番先に留学します。ミシシッピー河の治水工事に従事するなど、働きながら工学を研究する生活を続け、後にアメリカ留学を果たした新渡戸、内村、宮部と親交を深めます。 一八八七年(明治二〇)広井は札幌農学校助教に任ぜられ、土木工学研究のため三年間ドイツ留学を命ぜられます。一八八九年(明治二二)七月帰朝し、九月に札幌農学校教授として新設の工学科の運営に苦心努力し、八年間教育に従事し、岡崎文吉、真嶋健三郎など優れた工学者を育成します。『広井勇伝』には、明治二三年頃、ドイツ艦隊が小樽に寄港し司令長官が札幌に来て道庁を訪問し、長官が広井に通訳を依頼しましたが、「今、授業中です」と平然と授業を続けたというエピソードが紹介されています。 広井の設計監督による小樽港工事は明治三0年五月に始まり、四一年六月まで十一年間にわたる大工事でした。この工事で広井は科学的実験の結果を経て、始めて火山灰をセメントに混和してコンクリート・ブロックを作り、これを大規模に使用して好成績を収めました。明治三三年一二月二五日の大暴風雨の際の事が市立小樽図書館所蔵の「原稿」に記されています。「山のごとき激浪が非常の力でもって防波堤に衝突し、その勢いといったら実にたいしたもので、積重機を平気で打ち越え、積重機の上の枕木等を皆さらわれた。今まで多大の辛苦をして、漸くここまで仕上げたことがすべて水泡に帰してしまう。自分の熱血をそそいだ防波堤と共に情死する決心をした。暁近くまで心配したが、疲れで寝込んでしまい、翌日十時頃目がさめてみると、昨日と打って変って好天気なのに喜んで飛び出してみると積重機が少し傾いただけで無事だった。その時の嬉しさはいいようのないほどであった」(第四集一三三―八) 一八九九年(明治三二)九月広井は東京帝国大学教授に任ぜられ、大正八年までおよそ二十年間教鞭をとり、幾多の優秀な土木工学者や技師を輩出しました。東京帝大時代の授業について『広井勇伝』では、朝の九時からの授業に一人でも遅刻者がいると、講義はさっさと切り上げ、級の総代は教授室に呼びつけられ「教室は寄席ではない、学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講するべきものである」と言い渡され、広井の授業中、学生はいつもより早く腰掛に座って、静かに広井を迎えるようになったといいます。(第四集一二頁) 広井はアメリカ留学中一八八八年にニューヨークのバン・ノストランド社からプレートガーダー橋の設計参考書を発行しています。この本はハーバード大学の土木工学のチャプリン教授が「これは貴国の人が書いたもので、他に比類のない良書です」と宮部に語ったように、広く教科書・参考書として採用されました。英語による出版もまた広井が新渡戸や内村に先駆けて出版したのです。(第一集一四三頁) 内村は「旧友広井勇君を葬るの辞」(第一集一五五―九)において「君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に貴いのであります」と述べています。内村は最後に述べます。「『この貧乏国の民に教えを伝える前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。」 八田與一の台湾における事業もまた、広井の「紳士の工学」を受け継いで、「一種独特の永久性のある事業」が刻印されているように思えます。恩師広井勇 八田與一と広井が東京帝大で教授と学生という立場で邂逅したのは、與一21歳、広井46歳の時で、與一は卒業までの3年間、広井の薫陶を受けていたが、広井は学者タイプの書斎派というよりも実学を重視する技術者であった。広井の専門分野は港湾工学で、功績は防波堤などに働く「波」の力を波圧計で計算する波力算定法の公式を確立したことである。今日でも「広井公式」と呼ばれて防波堤の設計には必ず用いられる公式となっている。また、広井は橋梁工学の分野でも名を成し、海外でも『プレートガーダーコンストラクション』の著者として有名である。だが、広井の業績で特筆すべきは、なんといってもコンクリート強度の経年変化を百年というタイムスパンで研究した耐久試験だろう。この試験によって、広井の名が世界的に喧伝されている。 実学を重視した広井の学問は研究、試験が基本であった。功績としては、とくに土木の世界でもっとも大量に使用するコンクリート材の耐久性をテストピースで試験したことにありその成果はひび割れ防止やコンクリートの耐海水性向上に世界で初めて火山灰を混入して、その効果を立証したことである。・・・・・・ 広井の人となりについて札幌農学校時代の同級生の内村鑑三は端的に告別式の悼辞で述べている。「・・・・・・広井君が工学に成功したのは君が天与の才能を利用したに過ぎません。然しながら、いかなる精神をもって才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります。・・・・・・事業のための事業にあらず。もちろん名を挙げ利をあさるための事業にあらず『この貧乏国の民に教えを伝うる前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります(後略)」 與一が恩師広井の死を知るのは渡台5年後のことになるが、内村の・・・・・・「いかなる精神をもって才能を利用せしか、人の価値はこれによって定まるのであります」というくだりが、與一の生き方を示唆していた。そして「一種独特の永久性のある事業であったのであります」というくだりはまさに、與一と烏頭山ダムの関わりにピッタリではないか。・・・・・・與一の3年間の帝大時代は広井教授の聴講に明け暮れていたようだ。教授の口癖は「実習で実学を学び技術先進国の欧米の技術書を原書で理解しろ」であったという。與一が英語に堪能であったのは学生時代の勉強の成果で、1853年ペルリが浦賀に来航する1年前に創刊されたアメリカの土木雑誌『AMERICAN SOCIETY OF CIVIL ENGINEERS』を、大学の図書館でよく読んでいたという。
2023.09.18
『技師鳥居信平著述集』が周南公立大図書館で蔵書となる74大学図書館の蔵書となる9月4日 74館愛知学院大学 図書館 情報センター、秋田大学 附属図書館、岩手大学 図書館、大阪公立大学 杉本図書館、大阪産業大学 綜合図書館、大阪大学 附属図書館 理工学図書館、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、お茶の水女子大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、関西国際大学 メディアライブラリー三木、九州大学 中央図書館、九州大学 理系図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、皇學館大学 附属図書館、国学院大学 図書館、国士舘大学 鶴川図書館・情報メディアセンター四国学院大学 図書館、四国大学 附属図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館周南公立大学 図書館西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高松大学 附属図書館、拓殖大学 八王子図書館、大東文化大学 図書館、東海大学 付属図書館 清水図書館、東京工業大学 大岡山図書館、東京女子大学 図書館、東京都立大学 図書館、東京農業大学 生物産業学部図書館、東京農工大学 府中図書館、東北大学 附属図書館本館、徳島大学 附属図書館、獨協大学 図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、名古屋大学 生命農学 図書室、奈良県立図書情報館、鳴門教育大学 附属図書館、日本女子大学 図書館、広島工業大学 附属図書館、広島大学 図書館 中央図書館、法政大学 図書館、北星学園大学 図書館、北陸学院大学 ヘッセル記念図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、北海道大学 大学院農学研究科図書室、前橋工科大学 附属図書館、宮城教育大学 附属図書館、武庫川女子大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、明治大学 図書館、山口大学 図書館 工学部図書館、横浜国立大学 附属図書館、立命館大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、鹿児島純心女子短期大学 図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、神戸大学 附属図書館 総合図書館 国際文化学図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡大学 附属図書館 浜松分館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、信州大学 附属図書館 中央図書館、高崎経済大学 図書館、弘前大学 附属図書館本館、玉川大学 教育学術情報図書館、福島大学 附属図書館、酪農学園大学図書館、公立鳥取環境大学 情報メディアセンター、立教大学図書館周南公立大は来春人間健康科学部と情報科学部が新設されるという女子サッカーは山口県で12回目の優勝を果たす第8回報徳講座で講師が科学の目で観察を習慣化を信平の特徴に挙げられた本書が学生に読れる事を期待
2023.09.04
台湾人士鑑改正昭12鳥居信平 台湾製糖株式会社取締役 同社農業部長【経歴】明治16年1月6日静岡県周智郡山梨村上山梨125に生る明治41年7月東京帝大農科大学農学科を卒業明治41年11月より同42年11月迄2か年間農商務省耕地整理事務取扱嘱託を勤め、同42年12月中華民国山西省高等農林学堂に教習として招聘せられ44年1月に至って再び帰国、同年5月徳島県農業技師となりその手腕を当時の社長山本悌二郎氏に認められ大正3年10月台湾製糖株式会社に入社 爾来蔗作(サトウキビ)改良を始め農事改良に非凡な手腕を発揮して昭和9年10月には同社取締役に当選して同社の為め又本島蔗作の為めに貢献するところ頗る大なり 現に同社農事部長兼後壁林所長たり 篤学練達の士なり
2023.08.25
高知工科大学図書館と公立鳥取環境大学に寄贈した『技師鳥居信平著述集』が共に蔵書となっている。裏表紙には台湾屏東科技大学の丁澈士教授が新たに鳥居信平の築いた地下ダムのイラストを作成して本書に寄せて下さった丁教授は今春、旭日中央綬章を受章され、今年7月に行われた袋井市での国際会議の後、祝賀貝が行われたご縁を頂いただけにとても嬉しい(^^)【丁澈士氏に旭日中綬章を伝達】 6月28日、令和5年春の外国人叙勲で旭日中綬章を受章された丁澈士・屏東科技大学名誉教授に対し、奥正史・高雄事務所長から、勲記及び勲章の伝達を行いました。 丁名誉教授は、日本人技師・鳥居信平が建設した二峰圳(地下ダム)を30年以上にわたり研究、鳥居技師の功績を継承しダムの維持管理を担うとともに、鳥居技師の功績及び研究成果をシンポジウム等を通じて広く発信し、日本と台湾間の学術交流及び相互理解の促進に大きく貢献されました。伝達式では、参席された周春米・屏東県長や曽貴海・総統府国策顧問が祝辞を述べたほか、蘇嘉全・台湾日本関係協会会長、謝長廷・駐日代表、陳其邁・高雄市市長、曹啓鴻・財団法人大武山文教基金会董事長らの祝電披露、親族の方々による花束の贈呈も行われ、丁名誉教授の受章をお祝いしました。 二峰圳は、完工から100年を経た今も、澄んだ水が豊かに流れています。この度の丁澈士名誉教授の栄えあるご受章を改めて心からお祝い申し上げるとともに、今後も一層のご健康を保たれまして、日本と台湾の学術交流及び相互理解の促進のためにご尽力されることを期待し、今後も日台間の友情ときずなが、二峰圳の澄んだ水の流れのように末永く続いていきますことを祈念いたします。
2023.08.17
〇〇先生、〇〇様御無沙汰いたしております。毎日暑い日が続きます。会報を作って、会員に送っています。森町の〇〇さんを通じて鷲山恭平氏(鷲山社長の祖父)著の「安居院義道」の現代語訳を頼まれ、試みていて、ワードで起こすごとに掲載し、それを読んでもらって誤字など指摘をもらおうと意図で旬刊しているものです。ついでにその時々のトピックを載せています。11月18日(土)午後、袋井市で遠州アカデミーが鳥居信平記念事業を開催します。記録映画やお話の会が読みがたりなど行いますが、私も20分ほど講演します。鳥居信平氏の業績をこうして生誕の地でアピールできるのは〇〇先生のお蔭で「技術者シリーズ」の刊行が始まり第3集として「技師鳥居信平著述集」を発行でき、また○○様のお蔭で「松坂の一夜(本居宣長と賀茂真淵との会見)」ならぬ「大坂の一夜」(^^)から「技師鳥居信平著述集」が始まったことを思うと感慨深いです。ご都合がつくようでしたら、どうぞおいでください。まだまだ暑く、どうぞ熱中症など十分にご自愛ください。
2023.08.04
八田與一の師・広井勇と「紳士の工学の系譜」「二宮尊徳の会」では「ボーイズ・ビー・アンビシャス第4集札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士―紳士の工学の系譜―」を二〇一四年七月に刊行し、全国の大学図書館、公共図書館に寄贈しました。 また「ボーイズ・ビー・アンビシャス第一集」の資料編には「故廣井勇君の小伝」を収録しています。 広井は旧高知藩士広井喜十郎の長男として一八六二年(文久二)九月十二日高知県佐川村に生まれ、昭和三年十月一日東京市牛込の自宅で亡くなります。六十七歳でした。九歳の時、父が亡くなり、十一歳で上京し、叔父片岡利和のもとに身を寄せます。東京外国語学校に入学した後、工部大学校予科へ転じ、一八七七年(明治十)札幌農学校の官費生募集に応じて二期生となりました。同級生に宮部金吾・内村鑑三・新渡戸稲造らがいます。広井は同級生六名とキリスト教の信仰に入りました。また、アメリカの土木技師ウィリアム・ホイラーに工学を学びました。札幌農学校ではそれぞれ天賦の才能にしたがって、規定の学科以外に特定の学科を選び研究し、卒業後はその専門を以て開拓使に奉職することになっていました。広井は土木工学を選び、ホイラーに従い数々の設計等を行いました。広井の札幌農学校卒業演説は「最高なる道徳の準度は北海道農家に緊要なり」で、北海道の農業振興にはキリスト教道徳が必要であるというものでした。一八八一年(明治一四)卒業すると、広井は開拓使御用掛の辞令を受け、幌内鉄道工事の一部を担当したりします。内村鑑三は広井の告別式で北海道鉄道の橋梁の建設に従事していた頃の広井について語っています。「君は君の当時の工学的知識の全部をしぼりてその任に当たりました。そしてようやくにしてその橋は成り、列車の試運転が行われんとせし時、君は顔色あおざめ、四肢震いて憂慮に堪えざるものがあり、列車の無事通過を見て安心して胸を撫で下したと聞きました。すなわち広井君にはその事業の始めより鋭い工学的良心があったのであります。そしてその良心が君の全生涯を通じて強く働いたのであります」(第一集一四二頁) 一八八三年(明治一六)六月七日付けで広井が宮部宛に出した英文の手紙には「僕が君に打ち明けた宗教上の確信は日に日に強まるばかりだ。僕は努力することを学んだ。この確信において努力することこそキリスト教徒の最大の義務だ」とあり、手紙に添えられた詩に「我らは救い主を固く信じ 生涯闘い続ける ついに勝利した時闘いを止め 神の栄光を分かちあうのだ」とあります。(第一集一一四頁)同年十二月広井は同級生中で一番先に留学します。ミシシッピー河の治水工事に従事するなど、働きながら工学を研究する生活を続け、後にアメリカ留学を果たした新渡戸、内村、宮部と親交を深めます。 一八八七年(明治二〇)広井は札幌農学校助教に任ぜられ、土木工学研究のため三年間ドイツ留学を命ぜられます。一八八九年(明治二二)七月帰朝し、九月に札幌農学校教授として新設の工学科の運営に苦心努力し、八年間教育に従事し、岡崎文吉、真嶋健三郎など優れた工学者を育成します。『広井勇伝』には、明治二三年頃、ドイツ艦隊が小樽に寄港し司令長官が札幌に来て道庁を訪問し、長官が広井に通訳を依頼しましたが、「今、授業中です」と平然と授業を続けたというエピソードが紹介されています。 広井の設計監督による小樽港工事は明治三0年五月に始まり、四一年六月まで十一年間にわたる大工事でした。この工事で広井は科学的実験の結果を経て、始めて火山灰をセメントに混和してコンクリート・ブロックを作り、これを大規模に使用して好成績を収めました。明治三三年一二月二五日の大暴風雨の際の事が市立小樽図書館所蔵の「原稿」に記されています。「山のごとき激浪が非常の力でもって防波堤に衝突し、その勢いといったら実にたいしたもので、積重機を平気で打ち越え、積重機の上の枕木等を皆さらわれた。今まで多大の辛苦をして、漸くここまで仕上げたことがすべて水泡に帰してしまう。自分の熱血をそそいだ防波堤と共に情死する決心をした。暁近くまで心配したが、疲れで寝込んでしまい、翌日十時頃目がさめてみると、昨日と打って変って好天気なのに喜んで飛び出してみると積重機が少し傾いただけで無事だった。その時の嬉しさはいいようのないほどであった」(第四集一三三―八) 一八九九年(明治三二)九月広井は東京帝国大学教授に任ぜられ、大正八年までおよそ二十年間教鞭をとり、幾多の優秀な土木工学者や技師を輩出しました。東京帝大時代の授業について『広井勇伝』では、朝の九時からの授業に一人でも遅刻者がいると、講義はさっさと切り上げ、級の総代は教授室に呼びつけられ「教室は寄席ではない、学生は紳士であるから、もっと紳士らしい態度で聴講するべきものである」と言い渡され、広井の授業中、学生はいつもより早く腰掛に座って、静かに広井を迎えるようになったといいます。(第四集一二頁) 広井はアメリカ留学中一八八八年にニューヨークのバン・ノストランド社からプレートガーダー橋の設計参考書を発行しています。この本はハーバード大学の土木工学のチャプリン教授が「これは貴国の人が書いたもので、他に比類のない良書です」と宮部に語ったように、広く教科書・参考書として採用されました。英語による出版もまた広井が新渡戸や内村に先駆けて出版したのです。(第一集一四三頁) 内村は「旧友広井勇君を葬るの辞」(第一集一五五―九)において「君の工学はキリスト教的紳士の工学でありました。君の生涯の事業はそれが故に貴いのであります」と述べています。内村は最後に述べます。「『この貧乏国の民に教えを伝える前にまず食べ物を与えん』との精神のもとに始められた事業でありました。それが故に異彩を放ち、一種独特の永久性のある事業であったのであります。」 八田與一の台湾における事業もまた、広井の「紳士の工学」を受け継いで、「一種独特の永久性のある事業」が刻印されているように思えます。
2023.07.27
台湾の屏東中正RCと交流 袋井RC2023.7.18 袋井市と森町を拠点とする袋井ロータリークラブ(RC)はこのほど、台湾の屏東中正RCの会員を招いた交流会を同市で開いた。食事や市内見学などを通じて相互理解を深めた。同市出身の農業土木技師鳥居信平(1883~1946年)が屏東県に地下ダムを造った縁で、昨年から両団体の交流が始まった。鄭智端会長ら4人が訪れ、流しそうめんを体験したほか、市月見の里学遊館にある鳥居信平像の視察、同市特産のクラウンメロンの温室ハウス見学も行った。 今後も継続的に交流し、将来的に自治体同士の交流につなげることを目指すという。鄭会長は「貴重な時間を過ごすことができた。これからさらに友情を深めていきたい」と話した。中日新聞静岡版でも 袋井と台湾のロータリークラブの交流記事が掲載されている。交流は鳥居信平が台湾に地下ダムを造った縁で昨年から始まった今年袋井市での国際会議にあわせ旭日章受章の丁教授らと懇談「将来屏東県と袋井市の友好提携に繋げたい」
2023.07.22
「八田與一と鳥居信平」、「技師鳥居信平著述集」が鳴門教育大学付属図書館の2階阿波学のコーナーに蔵書となった阿波学とは徳島県の歴史文化地域について体系的に学ぶコースで鳥居信平は徳島県技師として水路整備などで活躍した後に台湾製糖株式会社に赴任して地下ダムなど設置した二峰圳(にほうしゅう)などにより、広大な耕作地を開拓した。「技師鳥居信平著述集」は、北海道の北星学園大学図書館でも蔵書となり、73大学図書館で蔵書となっている。7月21日 73館愛知学院大学 図書館 情報センター、秋田大学 附属図書館、岩手大学 図書館、大阪公立大学 杉本図書館、大阪産業大学 綜合図書館、大阪大学 附属図書館 理工学図書館、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、お茶の水女子大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、関西国際大学 メディアライブラリー三木、九州大学 中央図書館、九州大学 理系図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、皇學館大学 附属図書館、国学院大学 図書館、国士舘大学 鶴川図書館・情報メディアセンター四国学院大学 図書館、四国大学 附属図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館、西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高松大学 附属図書館、拓殖大学 八王子図書館、大東文化大学 図書館、東海大学 付属図書館 清水図書館、東京工業大学 大岡山図書館、東京女子大学 図書館、東京都立大学 図書館、東京農業大学 生物産業学部図書館、東京農工大学 府中図書館、東北大学 附属図書館本館、徳島大学 附属図書館、獨協大学 図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、名古屋大学 生命農学 図書室、奈良県立図書情報館、鳴門教育大学 附属図書館、日本女子大学 図書館、広島工業大学 附属図書館、広島大学 図書館 中央図書館、法政大学 図書館、北星学園大学 図書館、北陸学院大学 ヘッセル記念図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、北海道大学 大学院農学研究科図書室、前橋工科大学 附属図書館、宮城教育大学 附属図書館、武庫川女子大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、明治大学 図書館、山口大学 図書館 工学部図書館、横浜国立大学 附属図書館、立命館大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、鹿児島純心女子短期大学 図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、神戸大学 附属図書館 総合図書館 国際文化学図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡大学 附属図書館 浜松分館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、信州大学 附属図書館 中央図書館、高崎経済大学 図書館、弘前大学 附属図書館本館、福島大学 附属図書館、酪農学園大学図書館、公立鳥取環境大学 情報メディアセンター、立教大学図書館玉川大学 教育学術情報図書館
2023.07.21
今年になった玉川大学図書館に寄贈した「技師鳥居信平著述集」が半年の月日を経て蔵書となっている「いい日です」目出度い(^^)現在「技師鳥居信平著述集」で73大学館で蔵書となる。7月20日 73館愛知学院大学 図書館 情報センター、秋田大学 附属図書館、岩手大学 図書館、大阪公立大学 杉本図書館、大阪産業大学 綜合図書館、大阪大学 附属図書館 理工学図書館、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、お茶の水女子大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、関西国際大学 メディアライブラリー三木、九州大学 中央図書館、九州大学 理系図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、皇學館大学 附属図書館、国学院大学 図書館、国士舘大学 鶴川図書館・情報メディアセンター四国学院大学 図書館、四国大学 附属図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館、西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高松大学 附属図書館、拓殖大学 八王子図書館、大東文化大学 図書館、東海大学 付属図書館 清水図書館、東京工業大学 大岡山図書館、東京女子大学 図書館、東京都立大学 図書館、東京農業大学 生物産業学部図書館、東京農工大学 府中図書館、東北大学 附属図書館本館、徳島大学 附属図書館、獨協大学 図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、名古屋大学 生命農学 図書室、奈良県立図書情報館、鳴門教育大学 附属図書館、日本女子大学 図書館、広島工業大学 附属図書館、広島大学 図書館 中央図書館、法政大学 図書館、北陸学院大学 ヘッセル記念図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、北海道大学 大学院農学研究科図書室、前橋工科大学 附属図書館、宮城教育大学 附属図書館、武庫川女子大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、明治大学 図書館、山口大学 図書館 工学部図書館、横浜国立大学 附属図書館、立命館大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、鹿児島純心女子短期大学 図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、神戸大学 附属図書館 総合図書館 国際文化学図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡大学 附属図書館 浜松分館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、信州大学 附属図書館 中央図書館、高崎経済大学 図書館、弘前大学 附属図書館本館、福島大学 附属図書館、酪農学園大学図書館、公立鳥取環境大学 情報メディアセンター、立教大学図書館玉川大学 教育学術情報図書館裏表紙に地下ダムイラストを寄せて頂いた台湾の屏東科技大学丁澈士教授は旭日中綬章を綬章された。受章記念の一冊ともなり、嬉しい。功労概要:日本・台湾間の学術交流及び相互理解の促進に寄与 日本人技師・鳥居信平が建設した二峰圳(地下ダム)を30年以上にわたり研究、鳥居技師の功績を継承しダムの維持管理を担うとともに、その研究成果を広く発信し、日本と台湾間の学術交流及び相互理解の促進に寄与した。
2023.07.20
袋井市のTさんから 台湾の屏東科技大学丁澈士先生の旭日中綬章受章をお祝いする会が袋井市での国際会議にあわせて掛川市グラウンドホテルで開催されたと連絡がありました。「技師鳥居信平著述集」の裏表紙に地下ダムイラストを新たに作成し寄せていただいた。丁先生にイラストを描いて頂いただけに、喜ばしい。「技師鳥居信平著述集」は山口大学工学部図書館が新たに蔵書としていただいて現在2大学図書館に蔵書となっています。7月16日 72館愛知学院大学 図書館 情報センター、秋田大学 附属図書館、岩手大学 図書館、大阪公立大学 杉本図書館、大阪産業大学 綜合図書館、大阪大学 附属図書館 理工学図書館、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、お茶の水女子大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、関西国際大学 メディアライブラリー三木、九州大学 中央図書館、九州大学 理系図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、皇學館大学 附属図書館、国学院大学 図書館、国士舘大学 鶴川図書館・情報メディアセンター四国学院大学 図書館、四国大学 附属図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館、西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高松大学 附属図書館、拓殖大学 八王子図書館、大東文化大学 図書館、東海大学 付属図書館 清水図書館、東京工業大学 大岡山図書館、東京女子大学 図書館、東京都立大学 図書館、東京農業大学 生物産業学部図書館、東京農工大学 府中図書館、東北大学 附属図書館本館、徳島大学 附属図書館、獨協大学 図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、名古屋大学 生命農学 図書室、奈良県立図書情報館、鳴門教育大学 附属図書館、日本女子大学 図書館、広島工業大学 附属図書館、広島大学 図書館 中央図書館、法政大学 図書館、北陸学院大学 ヘッセル記念図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、北海道大学 大学院農学研究科図書室、前橋工科大学 附属図書館、宮城教育大学 附属図書館、武庫川女子大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、明治大学 図書館、山口大学 図書館 工学部図書館、横浜国立大学 附属図書館、立命館大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、鹿児島純心女子短期大学 図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、神戸大学 附属図書館 総合図書館 国際文化学図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡大学 附属図書館 浜松分館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、信州大学 附属図書館 中央図書館、高崎経済大学 図書館、弘前大学 附属図書館本館、福島大学 附属図書館、酪農学園大学図書館、公立鳥取環境大学 情報メディアセンター、立教大学図書館
2023.07.16
「技師鳥居信平著述集」が4月以降、東京農工大学 府中図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、山口大学 図書館 工学部図書館と工業系大学図書館、工学部図書館に寄贈したことが効果を発揮して新たに蔵書としていただき、現在71大学図書館の蔵書となっている。6月12日 71館愛知学院大学 図書館 情報センター、秋田大学 附属図書館、岩手大学 図書館、大阪公立大学 杉本図書館、大阪産業大学 綜合図書館、大阪大学 附属図書館 理工学図書館、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、お茶の水女子大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、関西国際大学 メディアライブラリー三木、九州大学 中央図書館、九州大学 理系図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、皇學館大学 附属図書館、国学院大学 図書館、国士舘大学 鶴川図書館・情報メディアセンター四国学院大学 図書館、四国大学 附属図書館、静岡県立農林環境専門職大学 図書館、西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高松大学 附属図書館、拓殖大学 八王子図書館、大東文化大学 図書館、東海大学 付属図書館 清水図書館、東京工業大学 大岡山図書館、東京女子大学 図書館、東京都立大学 図書館、東京農業大学 生物産業学部図書館、東京農工大学 府中図書館、東北大学 附属図書館本館、徳島大学 附属図書館、獨協大学 図書館、長岡技術科学大学 附属図書館、名古屋大学 生命農学 図書室、奈良県立図書情報館、鳴門教育大学 附属図書館、日本女子大学 図書館、広島工業大学 附属図書館、広島大学 図書館 中央図書館、法政大学 図書館、北陸学院大学 ヘッセル記念図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、北海道大学 大学院農学研究科図書室、前橋工科大学 附属図書館、宮城教育大学 附属図書館、武庫川女子大学 附属図書館、室蘭工業大学 附属図書館、明治大学 図書館、山口大学 図書館 工学部図書館横浜国立大学 附属図書館、立命館大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、鹿児島純心女子短期大学 図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、神戸大学 附属図書館 総合図書館 国際文化学図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡大学 附属図書館 浜松分館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、信州大学 附属図書館 中央図書館、高崎経済大学 図書館、弘前大学 附属図書館本館、福島大学 附属図書館、酪農学園大学図書館、公立鳥取環境大学 情報メディアセンター〇袋井市のTさんから「鳥居信平」映画上映会の企画の連絡があった。まだあくまでも予定の段階だけれども、台湾の屏東科技大学の丁教授が鳥居信平の築造した地下ダムや水路の保全とその研究交流活動を評価されて旭日中綬章をこの春の叙勲で受章された。実現され、鳥居信平の生誕地袋井市でも祝ってもらえればいいな。2023年11月28日(土) 鳥居信平生誕140年記念映画上映会鳥居信平のドキュメンタリー映画「水と砂糖とパイワン族と」の上映会定員100人 入場料1000円(予定)
2023.06.12
「技師鳥居信平著述集」を昨年12月出版し、大学図書館に寄贈した。「広井勇と青山士」、「八田與一と鳥居信平」に続く「技術者シリーズ第3弾」になる。木更津工業高等専門学校武長先生が「技術者は成果が事業の形で示され、ある意味はっきりしている反面、学者や小説家と違い個別の成果がはっきり分かりにくく、また書いたものの注目度もあまり高くない。その点で、二宮尊徳の会のように、歴史上で活躍した技術者の執筆したものをまとめ、積極的に出版を続けている活動は、非常に貴重である。筆者はこの会の書籍を2冊所有している」と評価頂いている。「技術者シリーズ」の歴史的、資料的意義を理解していただいて大変有難い。本年の2月、3月にかけて公立大学や技術系の大学図書館を中心に再度寄贈した。3月1日寄贈の室蘭工科大と2月17日長岡技術大の図書館で蔵書となり現在69大学図書館で蔵書となっている。本書の裏表紙は台湾丁澈士教授が、本書のために新たに地下ダムのイラストを作成していただいて提供頂いた。春の叙勲で丁教授が鳥居信平が築造した地下ダムの研究と普及で旭日中綬章を受章された。とても目出度い^_^ある意味、旭日章受章の丁先生が本書のためにイラストを作成し、提供していただいたことだけでも、本書の歴史的意義は高まったともいえるかも(^^) 4月29日、日本政府は令和5年春の外国人叙勲受章者を発表しました。その中で、台湾から3名の方が日台間の友好関係の増進に顕著な功績があったとして受章されました。勲 章:旭日中綬章氏 名:丁 澈士主要経歴:屏東科技大學名譽教授功労概要:日本・台湾間の学術交流及び相互理解の促進に寄与日本人技師・鳥居信平が建設した二峰圳(地下ダム)を30年以上にわたり研究、鳥居技師の功績を継承しダムの維持管理を担うとともに、その研究成果を広く発信し、日本と台湾間の学術交流及び相互理解の促進に寄与した。
2023.05.16
立教大学に寄贈した『技師鳥居信平著述集』が蔵書となった。現在67大学図書館で蔵書となっている。『技師鳥居信平著述集』裏表紙には台湾の屏東科技大学名誉教授丁先生に地下ダムのイラストを提供頂いた。丁先生は春の叙勲で旭日中綬章受章された。鳥居信平に水利事業を研究されるとともに、その保全に尽力され、また研究成果を広く発信されるなど、日本と台湾の学術的交流に寄与されたことによる。2023年04月29日勲 章:旭日中綬章氏 名:丁 澈士主要経歴:屏東科技大學名譽教授功労概要:日本・台湾間の学術交流及び相互理解の促進に寄与日本人技師・鳥居信平が建設した二峰圳(地下ダム)を30年以上にわたり研究、鳥居技師の功績を継承しダムの維持管理を担うとともに、その研究成果を広く発信し、日本と台湾間の学術交流及び相互理解の促進に寄与した。『技師鳥居信平著述集』出版を通じて、ご縁があっただけに喜ばしい。丁教授ほかにあてて、台湾の大学図書館等にと200冊寄贈した。『技師鳥居信平著述集』は現在日本では67大学図書館で蔵書となっている。台湾の大学図書館でも蔵書となり、次の世代の学生の皆さんへとつないでくださるとうれしいな。日本と台湾で鳥居信平氏の業績が周知されることを願う
2023.05.01
M/T様木更津工業専門学校の武長先生が台湾で活躍した技術者を紹介した論文で「技術者は成果が事業の形で示され、ある意味はっきりしている反面、学者や小説家と違い個別の成果がはっきり分かりにくく、また書いたものの注目度もあまり高くない。その点で、二宮尊徳の会のように、歴史上で活躍した技術者の執筆したものをまとめ、積極的に出版を続けている活動は、非常に貴重である。筆者はこの会の書籍を2冊所有している2)。2)『八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師』二宮尊徳の会、2017年;『資料で読む技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある』二宮尊徳の会、2021年.」とあります。正しく評価していただいて感謝です(^^)台湾日日新報と台湾の技術者1. はじめに日本植民地期の台湾(1895‐1945)において、有力な新聞はいずれも漢文記事も掲載しながら日本語紙で、三大新聞と呼ばれた。中心都市台北市で発行された台湾日日新報と、台中市で発行された台湾新聞、台南市で発行された台南新報である。台湾日日新報は、1896年(明治29年)発行の『台湾新報』と『台湾日報』が合併し1898年(明治31年)に成立した。1939年(昭和14年)の発行部数は68,392部に達ている。同じ年の台湾新聞12,348部、台南新報が40,185部に比べてもずっと多く、敗戦まで台湾における最有力新聞であり続けた1) 。台湾日日新報は、成立において台湾総督府の指導が強く働いたこと、総督府の命令や人事等を伝える府報が掲載されていたことなどから御用新聞と呼ばれる。筆者は、この新聞が常に総督府の政策を支持し続けたとは限らないことから、必ずしもこの名称に賛成しないが、行政との結びつきが強くあったことは確かである。だからこそ取材や情報の入手が比較的容易であり、台湾日日新報は、植民地期台湾史の研究において不可欠な存在となっている。他の台湾新聞、台南新報も同様であり、むしろ台湾日日新報以外の新聞の活用が十分に進んでいないのは台湾史研究上の大きな欠点であるが、台湾日日新報自体は、詳細に注目し調査に値する新聞であることは確かである。日本では、国立国会図書館をはじめ多くの大学図書館に台湾日日新報のマイクロフィルムが所蔵されているが、すでに台湾で作成され、多くの図書館でデジタル版を所蔵されているため、台湾はでアクセスが格段に便利になった。日本では丸善を通して購入あるいは契約できる。本稿もまた、デジタル版を活用している。日本では台南新報を所蔵しているところは極めて少ない。筆者は、日本台湾交流協会の図書館にあることを確認しているが、他は知らない。台湾では、多くの図書館で冊子およびマイクロフィルムで台南新報を読むことが出来る。デジタル化はまだのようである。台湾新聞に至っては、冊子もしくはマイクロフィルム化もされていない。台湾新聞が容易に入手できるようになれば、様々なことが分かるようになるのではないか。やはり部数が大きく違い特に台湾在住の日本人(内地人)への影響力は、台湾日日新報が他を大きく引き離していたと言ってよく、この新聞に注目や研究が集中するのは十分理解できる。この新聞によって組織や人物の動向、考え方等をある程度確認することが可能である。筆者は、八田與一をはじめとする台湾総督府に勤めた技術官僚の研究を続けており、本稿もその一環である。植民地期台湾においては、総督府が大きな力を持っており、ある種日本内地以上に官尊民卑なところがあった。民間所属の技術者も多数いたものの、やはり総督府所属の官僚が主流であり、今日まで名が知られている技術者は多くがそうである。彼等は度々新聞の取材を受け、また寄稿も行った。そうした記事は、台湾で活躍した技術者について、研究内容や主義主張等、技術者の人物を知る上で多くの材料を提供してくれる。なお、技術者に限らず、一定の社会的地位のある人物が新聞に載る最も多い機会は、人事・移動などの情報である(現在はそうとは限らない。当時の新聞の事情)。デジタルである人物を検索しヒットした場合、最も多いのは、その人物が台北(あるいは台南、台中、高雄など)の何という旅館に泊まった、そこを離れた、東京に滞在中である、あるいは任命された役職、与えられた位階・勲章などである。そうした記事も検討の対象にしていない。技術者は成果が事業の形で示され、ある意味はっきりしている反面、学者や小説家と違い個別の成果がはっきり分かりにくく、また書いたものの注目度もあまり高くない。その点で、二宮尊徳の会あるいは会代表の地福進一のように、歴史上で活躍した技術者の執筆したものをまとめ、積極的に出版を続けている活動は、非常に貴重である。筆者はこの会の書籍を2冊所有している2)。新聞への寄稿記事は、直接専門分野や能力を知らない一般読者に内容を分かりやすく説明し、その技術者の考えや業績を知らしめる機会である。何らかの形で記事が公表され、現代の人々に知られるようになるのが望ましい。もちろん、新聞を歴史研究に用いる際の危険として、誤記や記者の知識不足による歪みなど、記事が正しく情報を伝えているかどうかは、常に注意しなければならい。本稿では、台湾日日新報に、台湾総督府所属の技術者数人を考察の対象とし、彼等が寄稿した記事から,その人物研究に資する試みである。記者による取材記事は今回考察の対象としない。だが、寄稿の記事は完全に当人の考えを記載したもの、取材記事は記者を通すため当人の考え以外のものが入ると、はっきり区別できるかというと、必ずしもそうでない。記者に語ることで自己の職務内容や主張を新聞紙上で説明するような記事は、ほとんど寄稿と変わらない。逆に寄稿の形であっても、新聞社が完全に掲載せず省略や変更などをしている場合も考えられるが、これは紙面上ではわからない。迷いもあったが、例えば林業に功績のあった河合鈰太郎は、寄稿でない取材記事に興味深い内容が多いが、今回は考察と対象とするのを見送った。そのような理由で今回は対象となる人物がそれほど多いとは言えないが、別の機会があればさらに多くの技術者、記事にあたりたいと思っている。原文の漢字は現代表記に改め、仮名は原文のままとする。(略)
2023.04.23
大東文化大学図書館に1月30日に寄贈した「札幌農学校の三人組と広井勇」「新渡戸稲造の留学談」「二宮先生語録」「シナリオで読む砂糖王鈴木藤三郎」「訳注静岡県報徳社事蹟」など5冊が全て蔵書となっている。らんまんの主人公万太郎が出会う名教(メイコウ)館学頭蘭光先生のモデルは伊藤蘭林で、広井勇の祖父、広井遊冥*に学び、勇や田中光顕、牧野富太郎等に教えた。広井と牧野は同じ佐川町出身なので不思議はないのだが、世界的な植物学者と偉大な土木学者とが伊藤蘭林の学者から出ていることに感銘を受ける。広井勇(ひろい いさみ)は「港湾工学の父」といわれる土木工学の権威。広井勇は広井遊冥のひ孫。「らんまん」では「広瀬裕一郎」として登場する。中村蒼演ずる広瀬祐一郎*広井遊冥 1770-1853 江戸時代後期の儒者,和算家。明和7年10月15日生まれ。土佐高知藩の重臣深尾氏につかえ,郷校名教館の教授をつとめた。嘉永(かえい)6年9月11日死去。84歳。土佐出身。名は鴻(こう)。字(あざな)は千里。通称は喜十郎。著作に「遊冥館詩文集」など。
2023.04.13
「なぜ古代ローマ時代のコンクリートは2000年もの耐久性を誇るのか?」の謎が明らかに古代ローマの人々は非常に高い建築技術を持っており、約2000年前に作られた道路や水道橋、港、建造物などが現代に至るまで残されています。「一体なぜ、古代ローマのコンクリートは2000年が経過しても大丈夫なほどの耐久性を誇るのか?」という謎について、マサチューセッツ工科大学(MIT)が率いる国際的な研究チームが調査したところ、「コンクリートの製造プロセス」にヒントがあることが明らかになりました。高度な建築技術を持つ古代ローマ人が使ったコンクリートはローマン・コンクリートと呼ばれており、現代で広く使われている鉄筋コンクリートの寿命が約50~100年ほどなのに対し、2000年が経過しても構造を維持できる耐久力があります。 以下は、実際に118年~128年にかけて建造された古代ローマの神殿・パンテオンの写真です。ローマン・コンクリートの基礎部分に建物とドームがのった構造で、基礎やドーム部分はほとんど改修されていないにもかかわらず、約2000年が経過した現代まで当時の姿を残しています。ローマン・コンクリートについての過去の研究では、原料に火山灰を混ぜることで結合能力のある化合物が生成されるポゾラン反応が促進され、強度の向上につながっていることがわかっています。また、ローマン・コンクリートは海水による腐食のプロセスを利用することで、さらに強度が上がっているという研究結果も報告されています。 2000年もの耐久性を誇るローマ時代のコンクリートは海水の腐食によって強度を上げていた..💛これは広井勇博士が小樽港の堤防を作るにあたって、火山灰をコンクリートに混ぜることによって、100年堤防といわれる、100年を既に過ぎて現在でもつかわれているコンクリートを生成した要因でもある。広井勇を顕彰する会小樽港北防波堤に使用したコンクリートブロックは、セメントに適量の火山灰を混入して、耐久性を高める工夫がなされています。しかし、火山灰の配合割合による強度変化が十分解明されていなかったため、廣井勇は6万個に及ぶテストピースを製作し、コンクリートの耐久性を長期にわたり試験することとしました。明治29年に第1回の強度試験を実施して以来、100年以上たった今でも実験が続けられています。小樽港北防波堤に使用したコンクリートブロックは、セメントに適量の火山灰を混入して、耐久性を高める工夫がなされています。しかし、火山灰の配合割合による強度変化が十分解明されていなかったため、廣井勇は6万個に及ぶテストピースを製作し、コンクリートの耐久性を長期にわたり試験することとしました。明治29年に第1回の強度試験を実施して以来、100年以上たった今でも実験が続けられています。廣井 勇 ~ 近代化の扉を開いた、清き技術者~札幌農学校の同期であり植物学者の宮部金吾は、廣井の小伝を執筆した。その中で、小樽築港の際に火山灰を混ぜたコンクリートブロックを使用したことを挙げながら、次のように記している。「君が綿密なる科学的実験の結果を経て確信する処があったによると雖(いえど)も、また君の自信と英断とに因(よ)るというを、はばからないのである」。そして「崇高なる信仰の上に立った生涯は君をして清く正しくあらしめた」と評した。💛<参考文献>に「二宮尊徳の会」の「広井勇と青山士」がある(^^Z)『工学博士 廣井勇 傳』故廣井工学博士記念事業会『シビルエンジニア 廣井勇の人と業績』関口信一郎(北海学園東北アジア研究交流センター)『ボーイズ・ビー・アンビシャス第四集 広井勇と青山士 ―紳士の工学の系譜―』二宮尊徳の会『近代土木の先駆者 広井勇』佐川町立青山文庫『さっぽろ文庫8 札幌の橋』札幌市教育委員会 編(北海道新聞社)「廣井勇君之小傳」宮部金吾(札幌同窓会第50回報告別刷)
2023.01.11
重さ100トンのコンクリートの塊を海中に1500個設置!? 知られざる巨大消波ブロック設置工事の全貌に迫る!!1/7(土) 2022年9月下旬、青森県北西部の津軽半島で行なわれている消波ブロックの設置工事を取材した。設置場所は小泊岬の南側の下前漁港、施工業者は地元の齋勝建設株式会社(五所川原市)で、設置する消波ブロックは国内最大級の100tクラスだ。消波(しょうは)ブロックとは、港や岸壁に設置されているコンクリート製のブロックのこと。一般的には「テトラポッド」の名称で知られているが、これは大手ブロックメーカー、株式会社不動テトラの商標。一般名称は「消波ブロック」「消波根固(ねがため)ブロック」もしくは「波消しブロック」だ。 消波ブロックには、沿岸部でよく見かける四本脚のものに代表される立体型をはじめ、平型、階段型などさまざまなブロック形状が存在。大きさもさまざまで、小さいものだと500kg程度からあるが、大きいものだと100tに及ぶ。自然災害の多い日本では、防災や海岸侵食対策として、いたるところにさまざまなタイプのブロックが設置されているが、今回取材したのは国内最大級となる100tクラスの消波ブロックの設置工事。100tクラスは沖縄や北海道で設置例があるものの、本州での設置は初めてという。 下前漁港は小泊岬の南側にある日本海に面した漁港で、港の西側から東側にかけて突き出した巨大な堤防で漁港全体が覆われているのが大きな特徴。この巨大な堤防は日本で3番目の高さを誇るそうだ。 なぜここまで高い堤防が必要なのかというと、それはもちろん波が高いからで、波が高いのは周囲の地形が急深(足元から一気に深くなる地形。波が盛り上がりやすい)なため。特に台風や低気圧が日本海側を通過する際に生じる特有の南西風を食らうと高波が発生しやすく、これまで3度被災を経験している。 この特有の地形がもたらす高波の被害から漁港や周辺の民家を守るために行なわれているのが、今回の消波ブロック設置工事だ。ちなみに下前漁港は過去に何度も消波ブロックの設置工事を行なっており、それは堤防の外洋側に積み重ねられた無数の消波ブロックからも伺えるが、今回の設置工事は今までと違い、堤防から少し離れた位置に消波ブロックを設置する。これにより波の威力が減衰され、高波が発生しにくくなるのだという。大型消波ブロックは重量や寸法的に工場からの運搬が困難なので、現地でつくるのが基本。どのタイプの消波ブロックを使うのかは事前の計画段階で決められており、その計画に基づいて地元の建設会社が形状の特許を持つブロックメーカーから型枠をレンタルしてきて、自分たちで生産を行なう。 今回生産する消波ブロックは東京のブロックメーカー、三省水工の「シーロックエイト(エイトはラテン数字)100t型」で、完成時の寸法は長さ5.78m×幅5.35m×高さ4.82mで質量は98.90tに及ぶ。使用する型枠の容積は44リューベで、これは大型トラックベースのミキサー車11台分に相当する。 消波ブロックの生産は、組み立てた型枠に原材料となる生コンクリートを流し込んで固めるというもので、型枠に入れて2日で初期硬化し、さらに2日で「持ち上げてもいいぐらい」まで硬化。最終的に28日後に検査を受けて、設計強度を上回っていれば完成となる。津軽半島は11~2月の冬季間が豪雪のため、3~4月が特産品であるイカの産卵期のため海での作業ができなくなり、取材時に生産していたブロックは来年の春用。生産は設置工事がストップする冬季間も行なわれ、設置工事が再開する来年の春にはヤードが一杯になる予定だ。今回の下前漁港への消波ブロック設置工事は、100t級の消波ブロックを3年で1500個設置する計画。1年あたりの設置数は500個となるが、前述の通り11~4月中旬までは海での作業=設置作業ができないので、実質的に半年で500個を投入しなくてはならない。💛今回の消波ブロックが高波被害の防止になればいいなあ。広井勇博士の逸話に 南海トラフ地震のとき、江戸時代の土佐藩家老野中兼山が設置した堤防が津波の被害をくいとめたという。100年、200年くらいの構想のもとで土木施設は作られなくてはならない。『築港』緒言に、広井が幼い頃、高知県浦戸に遊びに行ったとき、野中兼山が築いた防波堤が二百年の時を経て、安政の大地震で津波を防いで、一村が助かった話を古老から聞いて感動したとある。「惟(おも)うに港湾修築の事たる、実に国家重大の事業にして、その施設の困難なる土木事業中の最たり。故にこれが計画を立つるに当りては、最も慎重に、最も周到を以てし、百年に竟(わた)りて違算なきを期せざるべからず。 著者幼時、土州浦戸種崎に遊び、これを古老に聴く。 該地海峡を扼(やく)する二個の波止〔はと・防波堤〕あり。これ我が邦(くに)工学の泰斗〔たいと・泰山北斗の略:その分野の第一人者〕たるの中野中兼山の築きしものなりと。その種崎村にあるものは、久しく堆砂(たいさ)のうちに埋没し、知るもの絶えてなかりしに、後二百余年を経、安政元年の震災に際し、怒涛襲来し、種崎の一村今や狂瀾(きょうらん)に捲き去られんとする一刹那(せつな)、彼の波止露出し、ここにこれを防止して僅かに一村を全うすることを得たりと言う。ここにおいてか、兼山の施設の永遠に迨(およ)び、その当を得たるを証するに足る。実に技術者、千歳の栄辱は懸かって設計の上に在り。これが用意の慎密遠図を要する、また以て了すべきなり。・・・ 明治三十一年八月 著者識(しるす)」
2023.01.10
二峰圳は、未来土木のお手本100年記念式典が開かれた2022年7月23日。台湾の最南端に位置する屏東県の来義郷にある喜楽発発吾(シーローファーファーウー)森林公園に、朝早くからあでやかな伝統衣装をまとったパイワン族の長老たちや関係者が集い、式典に参加する蔡英文総統ら要人の到着を待っていた。日本統治時代の1923(大正12)年に完成した地下ダム『二峰圳』(にほうしゅう)の、100年記念式典がこれから始まろうとしていた。午前10時前。ファンファーレが周囲の山々にこだまする中、警備スタッフに囲まれた蔡総統が到着。地元の若手ダンサーらが水の流れをイメージした踊りや歌を披露すると、会場は一気に華やいだ。盛大な拍手に迎えられて登壇した蔡総統は、“水利技師鳥居信平(1883〜1946)が独創的な工法で造った灌漑施設は、農業発展ばかりでなく台日交流の礎となっていること、その『二峰圳』同様に伏流水(註・河川の流水が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透して水脈を保っている、一種の地下水)を利用した施設が、初めて屏東県に完成したこと”などを紹介し、多くの関係者の尽力に感謝の念を表した。とりわけ、荒ぶる屏東平原の開墾工事に大きな力を貸したパイワン族の労苦を次のようにねぎらった。「二峰圳は屏東平原を実り豊かな大地に変えました。これは原住民の力添えのたまものです、」「信平は、単に農場へ通水するという灌漑施設の施工だけでなく、農場からの生産量をあげるために、台湾大学の研究者の協力を得て微生物やバクテリアの研究も熱心に行っています。土壌の菌やバクテリアを定量化して土地改良にも力を尽くしたことを知って、ハードとソフトの両面から、大きなひとつのシステムとしての農場経営を目指していたことがわかりました。そこに現代のSDGsに通じる先進性を感じますね」
2022.12.11
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