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「歴史エッセー集 志とはなにか 奈良本辰也」奈良本辰也さんは、歴史学者で「二宮尊徳」の著述がある。最初読んだときは、新しく開発したところは租税を免ぜられる制度を活用したというところを強調されているように思えて、その描かれる尊徳像に違和感があった。「日本史探訪第9集」(昭和48年10月5日発行)で 邱永漢 さんとの対話で、邱さん「一にケチ、二にケチ、三にケチというような非常に堅苦しいところがあるんです。」という評価に対し、「私は、徳川家康に非常によく似ているのではないかと思います。・・・世の中を変える一つの力は、案外尊徳みたいな人がほんとうに持っているのかもしれませんよ。」と応じている。邱さん「菜種を川の土手へ植えて菜種油を採り、川の側の荒地に稲を植えた米には税金をとられないということを発見した 以後これを一貫して、・・・税金のかからない方法を徹底的に実践し、それを桜町以後も、百姓たちに教えて、ここのところをやれば税金がかからないぞということを実行しているんですね。それを合法的脱税という言葉で、私は表現しているのですが。」邱さんはいわば奈良本辰也さんの「二宮尊徳」の人間像を受け売りするが、奈良本辰也さんはこう答えている。「人間が生きていくためには、自然を征服しなければならない、ということを彼はよく知っているわけです。・・・ しかし、その自然を変える方法は、自然が教えてくれたことをそのまま、うまく利用してやっています。・・・ 彼にとって洪水、天災、すべて教師だった。それらから学び取ったということです。 私は、ちょっと、初めは大嫌いだったけれども、こんなことを考えるやつというのはすごいなと思い始めましたよ。」 「自然を征服しなければならない」という奈良本氏の自然観には違和感を持つが、正直に二宮尊徳の見方が変わってきたと告白する姿勢には好感が持てる。 邱さんは「初めは大嫌いだった」という奈良本氏の二宮尊徳像で話すものだから、話がしっくり合わない。いわば過去の奈良本さん自身と対話して同意を求めているようである。奈良本辰也さんは、成田山への参籠も大芝居だと断言する。「周囲の動きをちゃんとつかまえた上で、適当な時期にさっと成田山に現れて、断食しているということを皆に知らせるわけです。・・・ある意味では謀略というかな、ちょっと日本人離れしている。」 奈良本さんの指摘されるそういう側面も確かにあったと思うが、一方的に「謀略」と断ずるのは、まだ奈良本氏は二宮尊徳の本当のところをとらまえていないのではないかと思える。邱さん「二宮尊徳は、思想的にも、また行動においても、いわゆる封建社会から一歩も出ていません。・・・いわゆる立て直し屋に近いところがあるんじゃないでしょうか。」奈良本辰也さん「百姓一揆をやった連中が、封建制度を否定する考えを持っていたかというと、一人も持っていませんよ。・・・・彼が偉いのは年貢を制限するわけですよ。分度を決める。そして百年間の統計をとって、この土地の生産力はこれだけしかない、今、それが荒廃しているから、それを何割に見積もる、そこから領主の生活、収入が決まる。その収入の範囲内で暮らせよという。 その要求を聞かなかったら、私はお手伝いしませんよと彼は言う。 年貢を制限するというのは大変なことですよ。 百姓一揆以上にすごいことをやっているんです。百姓一揆で、このように年貢の半減を勝ち取ったところはどこにもないでしょう。ところが彼はやらしている。だから、私は彼をすごいと思うんです。 「二宮尊徳は百姓一揆以上にすごいことをやっている」という奈良本辰也氏の創見には感心する。そして全面的に同意する。尊徳の仕法が失敗に終わった原因は、すべてこの領主側の分度が守れなかったところにある。「彼がいちばん嫌ったのは、坊主と学者である。・・・本当に主体的にものを考える人間こそ正しい、尊いということを尊徳は教えた。」 そうではない。ただものを考えるだけでなく、実行することが大事だと尊徳は教えるために「坊主と学者が大嫌い」と言ったのだ。 尊徳は当時の第一級のすぐれた僧侶と親密な交際があって、いわば坊主一般を嫌っていたわけではない。「志とは何か」は、昭和56年の発行であるが、そこに登載されている「二宮尊徳に学べ」とは、昭和48年9月に「中央公論」に載せたものである。ここでは「素晴らしい経営コンサルタント」という前向きの受け止め方になっている。「彼は、今日の経営者としても立派に通用する人間なのだ」と、邱さんの「二宮尊徳は、思想的にも、また行動においても、封建社会から一歩も出ていない。」という見解を明快に否定する。服部家の建て直しも「全ての使用人が働きよい職場をつくるというのが尊徳のねらいであった。」と言及される。これは現代において尊徳の思想を経営に活かしている企業、たとえば伊那食品工業の塚越会長が会社経営の目標について言われることと一緒である。「経営にとって 本来あるべき姿 とは 社員が幸せになるような会社をつくり、それを通じて社会に貢献する ことだと思います。 そして売り上げも利益もそれを実現するための手段に過ぎないのです。」奈良本氏は昭和56年の段階では、「大嫌い」から 二宮尊徳こそが経営の神さまみたいな評価へと大きく変っているのである。「調査のないところに経営はないということを、誰よりも早く実行したのは二宮尊徳であろう。」「尊徳は、農業はいうまでもなく、治水や灌漑の土木工事に至るまで抜群の能力を持っていた。彼は経験を体系的に組み立てる頭脳を持っていた。そして、自然観察となる場合には、哲学といってもよいほどの思索の深さを示した。」「教育とは褒めることだという言葉があるが、彼はまさにそうした考え方をもっていた。 教育は同時に組織にもつながる。尊徳は、村人たちの心を百姓という仕事を中心として、その方向に組織していたのだ。」「私は、桜町仕法をみると、尊徳という人の並々ならぬ手腕に驚きの眼をみはるのだ。そして、彼こそ素晴らしい経営コンサルタントであったように思う。」奈良本辰也氏は2001年3月逝去されたが、最後の二宮尊徳観はどのようなものであったろうか。東北大学の大藤修教授は、「報徳学ナンバー2」(2005)で「土着の思想家、農民の立場に立った実践家と尊徳をとらえなおし、彼の思想と実践の意味を追究したのが、奈良本辰也氏である。」(34ページ)としている。これは、最初の岩波新書版の見解に依拠したもので、奈良本辰也氏は歴史学者としての良心で、たえず自らの見解を検証し、向上させ続けたのかもしれない。
2024.02.18
『現代語 安居院義道』の5000円以上リターンとして、クラウドファンディングに「農業余話と万作徳用鏡」を掲出したところ、5000円以上支援者の備考欄に何人かが希望と特出されていた。そこで再度原文を見直して「総論」に補正を加え、注を付した。「〇万作徳用鏡凡そ天地の氣受て成長する物、悉く男女の分ちあるは天の自然なり。其の長たる物は人也、故に男女の分ち甚だ明かなる鳥獸物は、人近き故に女男(メスオス)分ち知れ易し。魚虫の類は、人に遠き故に女男が見わけ難し。草木にも悉く女男があり。これ天地の気を受て育つ事、人に似たる故也、左れは稲麥小豆其の外必ず女男あつて。女(メス)を植ては実のり沢山につく事、女の子を産むと同じ道理なり。米は人を養ふ第一の物成故種おろせしより凡そ十月にて米となる事、人の種も十月にて人となるか如し。此の道理あると以て女の種を植て実のりの多きと知るべし。是国益の第一にて、百姓知らねばならぬ事成、都て記たる見分けよふと能々辨へ、何にても女の種を植て、徳ある事をためし試むべし。稲は雌を植れば、一反にて凡そ米二斗より二斗五六升、三斗も余分とれるなり。其の年の気候にて不作豊作あれとも、不作は不作なりに余計とれるなり。麦は粟黍(あわ・きび)の類も同じ如く也。都て穂に実るものは、陽なる性ゆへ、実に雌雄の姿をあらはす、稲麦の類を見て知るべし。根に実るものは陰性のもの故、土の内の根に雌雄の姿、人見分け難し、故に日に照られ雌は葉を凋む、大根牛蒡葉を凋むは雌也。是れ天地自然奇々妙々なる天の妙巧みなり。摂津国小西氏が数年試しみたるを本に著したる説也。小西氏が云い出せし如く、稲の雌を植えて、一反歩三年余の得ることあらは、千石万石に至らは大なる国益なり。ためし試みてその印あらはさんより、二人に教へ、二人より一村に教へ、一村より郡國へ伝へ、諸国用ふとあれは、国益の第一と知るべし。右の外凡てのなり果実、男は長みあり、女は丸みなり、男は皮あつく甘味すくなく、女は皮薄くて甘味多し、果物成共雌の種を蒔は育ちも早きものなり。」「※「農業余話」は、摂津国佐保村(大阪府茨木市)の小西篤好(あつよし)(1767-1837)が著した農書。小西家は庄屋で農事指導に熱心だった。小西篤好は自然現象が一定の法則支配下にあると気づき、陰陽説を適用して作物栽培、肥料、除草などを論じた。「摂津国小西氏が数年試しみたるを本に著したる説也」と『万人徳用鏡』にあり、庄七が小西篤好の「農業余話」を参考にしたことが分る。両者を対比して、『万人徳用鏡』にのみ主張されるところが、安居院庄七の肉声であり、その志は現代に響くかのようである。」
2024.02.17
先日、東日本の都道県立図書館に『現代語訳 安居院義道』の寄贈諾否の照会を行った2月14日 北海道、茨城県、千葉県、長野県の4館から返信葉書が届き、いずれも承諾とあった!嬉しい。そこで西日本の30府県図書館へ、寄贈の諾否照会を 気合を入れて 作って2月15日朝発送するどうかこの本が多くの都道府県立図書館で蔵書となり、次の世代と今共に生きる世代に読まれますようにと願いをこめて
2024.02.15
「尊徳の裾野」(佐々井典比古)に「御殿場村の教訓」があり、尊徳先生の教訓が現代語訳で載っている。尊徳先生の教訓部分を佐々井先生が訳したものである。天保10年、御殿場村の村民有志は進んで善種金の造成を始め、名主の平右衛門の債務の分担弁償案を添えて、尊徳先生に復興仕法を嘆願した。尊徳先生は村民の熱意を見定めて、天保11年3月、「難村取り直し相続手段帳」に報徳金430両を添えて、仕法を開始した。この手段帳の中で尊徳先生が説いているところである。「外国に生れた者は外国に生れたところが天命であり、日本に生れた者は日本に生れたところが天命であるように、御殿場村に生れた者は、御殿場村に生れたところがすなわち天命である。この村は、田畑反別24町1畝17歩、高200石5斗8升5合しかないが、昔から162軒もの家数で経営してこられたのは、どういうわけであろうか、それは全く近隣諸村との利便がよろしく、御厨(みくりや)随一の商都となっているからで、日本の中での江戸・大阪と同様、まことに幸いな立場ではないか。そうした幸いを得たからには、これに報い、幸いを施すことを心がけねばならぬのに、土地の幸い、受けえた国恩をわがもののように心得て、驕奢に流れ、その弊風を周囲に及ぼすものだから、近隣の村民も本業を怠り、田畑が粗作になって天禄を失い、困窮に陥った。したがって御殿場村も人々の往来がなくなり、商いの利用が減って、このように困窮に及んだのだ。だからこれを、立て直すのは、まず過ちを改めて、驕奢を省き、本業に勤めるほかはない。・・・もし、この村に商売の利用がなく、近隣なみの農村だったらとしたら、高200石では戸数20軒ちょっとが精々のところだ。そこへ162軒もあるというのは、土地柄が悪いと考えるか、または良い土地柄で、ありがたいと考えるか、2つに一つで、貧富・苦楽が分岐する。村民各自が、土地の幸いを思い、先祖代々商業で相続してきた恩恵をわきまえ、できる限りの譲り合いで恩沢に報いるならば、願い求めずとも生活は安定し、村は富み栄えるのだ。・・・」」
2024.02.11
きょう4日は西日本や東日本の太平洋側、南西諸島では雲が多く雨の降る所がありますが、次第に晴れ間が広がるでしょう。北陸から北の日本海側では雲が多く、にわか雪の所がある見込みです。北日本の太平洋側は概ね晴れそうです。あす5日は南西諸島や西~東日本の広い範囲で雨や雪が降るでしょう。北日本の日本海側は雲が多く雪の降る所がありますが、太平洋側は概ね晴れる見込みです。 (気象予報士・塩見愛)朝からの雨が止んで、近くのコンビニにある郵便ポストに 東日本の道・県立図書館あてに「現代語訳 安居院義道」の寄贈諾否の照会の手紙を投函してきた。都道府県立図書館でも、東京都立図書館や報徳関係図書の専門コーナー*を持っている神奈川県立図書館以外は、地域の図書でないと、蔵書としていただけない図書館が多い。半分くらいの図書館が寄贈を承諾していただければいいな。北海道立図書館青森県立図書館岩手県立図書館宮城県図書館秋田県立図書館山形県立図書館福島県立図書館茨城県立図書館栃木県立図書館群馬県立図書館埼玉県立熊谷図書館千葉県立中央図書館山梨県立図書館県立長野図書館令和6年2月吉日〇〇図書館 様 二宮尊徳の会 「現代語訳 安居院義道」の出版及び貴館への提供について 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。 私ども「二宮尊徳の会」では、報徳をはじめとする先人たちの偉業を資料集として後世に伝えるべく出版しています。最近では「技師鳥居信平著述集」「訳注静岡県報徳社事蹟」などを出版し、公立及び大学図書館に寄贈しています。 今回、出版する「現代語訳 安居院義道」は、静岡県(遠州)に報徳の教えを伝えた安居院義道(通称庄七)について、鷲山恭平氏が 82 歳の時にまとめられ、昭和28年に出版された『報徳開拓者 安居院義道』が原本です。原本は旧漢字・旧かな遣い及び文体など、現代人には読みづらくなっていますので、現代語訳するとともに、近年発掘された「相州大住郡北秦横曽根村仮趣法帳」などの新史料を収録するとともに、コラム欄でわかりやすく注釈を加えています。安居院庄七は 遠州などに当時の関西の進んだ農業技術を伝えており、本書に収録した農書について、原文と現代語訳で対比して、安居院庄七の近代合理主義に繋がる実験・検証の精神を通じて、当時の先進的な農業技術を伝播させようという意欲が理解できます。そうした意味でも貴重な資料集であると考えます。原本である『報徳開拓者 安居陰義道』はすでに入手が困難です。本書は鷲山恭平氏の御子孫から「読みやすくしてほしい」という、お話をいただいて、今回の出版の企画に至ったものです。 つきましては、本書の提供(無償)についての受諾について、ご承諾いただきますようお願い申し上げます。なお、ご承諾いただけます場合は、別添の返信用ハガキにて、「承諾します」に○を付けてご返信下さい。 もしご承諾いただけない場合にも、お手数をおかけして申し訳ありませんが「辞退します」に○を付けてご返信下さるようにお願い申し上げます。なお、所蔵につきましては、本の内容をご確認いただいてからのご判断になろうかと思いますので、提供(無償)についての受諾のご判断で結構です。 貴重な資料を後世(次世代)及び現在の市民の皆さまに伝えたい、知らせたい、広めたいという趣旨ですので、ご理解くださるようお願い申し上げます。 連絡先:二宮尊徳の会*報徳思想関係資料二宮尊徳は、天明7(1787)年に小田原の栢山村に生まれ、通称「二宮金次郎」といわれた江戸後期の農政家です。徹底した実践主義で農村改良策(報徳仕法)により、小田原・烏山・下館・相馬藩などおよそ600ヶ村を復興させました。また、分度(農村の生産力に応じて分度を決める)推譲(富を譲り合う)仕法の基本思想を形成し、多くの著作を著しました。神奈川県立図書館では、開館以来郷土資料として、二宮尊徳の著書、伝記、および報徳教に関する資料を収集してきました。また、「二宮尊徳および報徳教関係資料目録」を刊行しています。このコレクションは館内のみの利用となり、館外貸出はしておりません。二宮尊徳の会
2024.02.04
「現代語訳 安居院義道」最終の校正の指示を印刷所に昨日送信して、3回目となる大学図書館への送信用リストの作成にかかる。まだ「二宮尊徳の会」の「報徳の師父シリーズ」、「二宮先生語録」の本を蔵書としていただけていない国公立及び私立大学の附属図書館計40館程度に送る。偏差値の高い順から国公立20館、私立大学20館程度としてみよう。合計124館となり、3分の2が所蔵していただけるとして(狸の皮算用 ^^)80数館になろうか。大学図書館への送付が終わったら、都道府県立図書館(静岡県を除くー村松さん担当ー)と神奈川県内公共図書館をリストアップしよう。「安居院義道」の庄七逝去時の所持の本に注目している。本の刊行の後にあるが、できる限り追跡してみよう。安居院庄七様ご所持の品(相模草山貞胤寄 報徳四十一号)(一)書物の部 参考(日光提出書類)一天命十か条 一冊 一 天命勤行十箇條 一冊一暮方取直し日掛縄索中勘帳 一冊一一元混沌開闢図書 一冊一天徳無尽現量鏡 一冊一郡中邑々家政宝永録 一冊一報徳宝訓蔵 一冊一浦賀宮原氏、書簡写 一冊一円相図解之内書抜 一冊 一 二宮先生円相之伝書 一冊<庄七>一孝行奇特本業出精人取立方仕法 一冊一二宮先生御説聞書略 一冊 一 報徳聞書之一番 一冊<庄七>一塔之沢にて聞書 一冊一御殿場村御趣法文面之写 一冊 一難村取直永続手段仕法帳 一冊一常州真壁郡青木村取扱一件帳 一冊 一 常州真壁郡青木村取扱一件帳 一冊<日光>一西大井村藤曲村御仕法一件之写 一冊 駿州駿東郡藤曲村御趣法文面 一冊<庄七>一報徳作大益細伝記三部 三冊一日々勤行勘定帳 一冊一難村取直し相続手段帳 一冊一大参会教訓書 一冊一極難取続安楽鑑 一冊一浅田有信先生秋夕伝 一冊一報徳書取集 一冊一譲奪弁 一冊 一 譲奪弁 一冊<庄七>一於日光御説徳聞書 一冊一窪田先生御説徳聞書 一冊一河野氏上書聞書 一冊一報徳趣意 一冊一報徳問答録 一冊一地徳積立編町田氏上書相馬家手簡 一冊一報徳善種金仕法帳 一冊一桶田村御趣法請書 一冊一余業積銭勘定帳 一冊一御仕法証文 一冊一孝行人御取調入札帳 一冊一御恩借金証文及連中義定一札下書 一冊一神君御消息御文章 一冊一御両君御遺言写 一冊一相続根元心得記 一冊一五常大旨都鄙問答 一冊一孝経 一冊一安倍晴明之天文記 一冊一御触書写 一冊一嘉永六丑年万石以上被仰出写 一冊一耕作大益伝 一冊一白鹿洞書院掲示 一冊一神道大意之秘書 一冊一神代之巻 一冊一堪忍富貴貧賤善悪邪正之図 一冊一農業問答書 一冊一善光寺如来御文之写 一冊一曽我若狭守様御知行所御触書写 一冊一報徳一貫弁 一冊一河野御母堂上書之写 一冊一温家訓付雑書 一冊一報徳連名記 一冊一関川橋永続仕法帳 一冊一三社燈籠万人講帳 一冊一同本立帳 秋葉山御鳥居信心講 一冊一大神宮永代大々神楽万人講*太字は重複する書籍安居院庄七が逝去時所持の本の一つに「譲奪弁」があるが、訓読されたものがまだ見つからない。漢文の原文を訓読してみようとするが、富田高慶は漢学の素養がありすぎて、意味が判然としない。譲奪弁 一冊 は、報徳七人衆が日光に二宮先生を訪ねる前に庄七・勇次郎両人が写し取ったものと日光逗留中書写した書籍が列挙したなかにもあり、庄七が死ぬまで所持していた報徳の重要な書籍の一つであることがわかる。ほかの書も整合させれば、庄七が書籍で理解した報徳の教義の全容が浮かび上がってくるかもしれない。逗留中模写仕り候書面、並びに是まで庄七、勇治郎両人、その外へ願い求め写し置き候書類等 と この度関東にて写し候書類1 分内退暮方相附余財譲申度仕法御願書(二宮尊徳全集第三十七巻八五六頁) 倉真村願主 岡田佐平治 恐れながら書付を以て願い上げ奉り候 大久保加賀守様御領分、相州足柄上郡東栢山村、小高百姓家にて御出生、二宮金次郎様御幼年の時父母相果て、成長の後右藩中服部十郎兵衛様へ御奉公被成、日々御勤行の次第、大久保加賀守様御聞に達し、厚く御用い遊ばされ、日々御勤行の次第、大久保加賀守様御聞に達し、厚く御用い遊ばされ候処、その頃御末家宇津釩(はん)之助様御知行所、下野国桜町と申す所荒地多く、人家追々減じ候につき、右荒地開発、村柄取直しの儀、大久保加賀守様より二宮金次郎様へ仰せ付けられ、則ち御仕法御取行い遊ばされ候処、凡そ十余年を経ずして村柄立直り、人家相増し、御収納初年に倍し、人気相和し候に付、大久保加賀守様いよいよ御感服遊ばされ、右仕法の趣き帳面に仕立て差上げ候よう仰せ付けられ候につき、二宮金次郎様三十六巻の雛形書物御仕立て成され、大久保加賀守様へ御差上げ成され候、その節大久保様御領分へ、右御仕法御取行い遊ばされ候処、旧復仕り候村々少なからず、中にも相州足柄上郡曾比村の儀は、村高千二十七石九斗六合、家数九十六軒、人別四百五十有余人、借財高金六千二百四十八両一分二朱これ有り候難村にござ候処、右御仕法を以てわずか七ヶ年の間に無借に相成り、麁田再発、米麦実法相増し、当時安楽自在の村柄に相成り申し候。その外諸家様にて、二宮金次郎様御用い成され、御精功日増しに相顕れ、終に御公義様へ二宮金次郎様御召し出し、御家人に相成り、報徳の御印形下し置かれ候。然る処、相州大山の麓、修験密正院にて出生、安居院庄七と申す者、二宮金次郎様へ随身致し、同人弟浅田勇治郎両人、河内国田口村杉沢作兵衛と申す人、発起致し候三社太々御神楽、万人講の儀に付、東海道筋度々(たびたび)通行致され候処、弘化三牛年三州藤川宿菱屋喜兵衛方にて承知致され候には、遠州長上(ながかみ)郡下石田村与兵治と申す者、諸国神社仏閣へ拝礼いたし、極めて信者の由聞き伝え、右安居院浅田両人、与平治方へ尋ね寄り、万人講の物語之有り、其の翌未年春三月、又々伊勢太々御神楽執行に相登せられ候節、与平治同道にて参宮仕り候砌(みぎり)、種々雑談の序(ついで)、与平治申し演じ候は、近年世上驕奢に相成り、内実借金毎(ごと)に之有り、一ヶ年の遺作にても人々食物之無く、浅ましき次第なりと物語り、庄七、勇治郎申し聞かせ候は、借財返済村柄取直しの儀は、報徳と申し聞かせ候は、借財返済村柄取直しの儀は、報徳と申す仕法之有り、此の法を用い候時は、何様成る難村にても旧復致し候事速やかなりと申し聞き、旅中始終報徳の道、田畑作り方迄も教諭之有り、実に有り難き大善道と感服仕り、庄七、勇治郎両人を、下石田村与平治方へ請待(しょうたい)致し、連中を組立て、報徳勤行仕り候儀、是実に当国発端にござ候。夫(それ)より追々聞き伝え、右両人に随身致し、当時遠州にて三十二ヶ村報徳筋勤行仕り居り候。且つまた私儀この門に入り候は、六ヶ年以前、嘉永元年申年四月二十七日、当領分澤田村又六方へ一泊仕り候処、同人養子茂作申し聞き候は、相州小田原二宮金次郎と云う人、報徳窮民撫育と云う事を始め、当国にては天龍川西に行われ候、その訳は毎月連中三度会合いたし、各人の為に成すべき事を衆評に掛け、然るべき事を用い、休日には連中申し合わせ、所々道路を繕い、尚また御国恩報謝の為、毎夜藁をよくたたき、縄をない、毎朝取り集め、窮民撫育金に積み置き、その余不用の品を売払い差出し、右金子を無利足五ヶ年賦に貸付、末一ヶ年礼金之有り仕法、その外田地開発等専ら致し候旨承り候事、是れ実に私儀報徳と申す事耳に入り候初発にござ候。右茂作何れより報徳の儀を承知と後日承り候処、下石田村報徳連中増蔵と申す者、蝋燭(ろうそく)製法の職人、右茂作方へ雇われおり、この者より承り候由にござ候。さて私、勘考仕り候は、今の世右様の善種勤行仕り候は、如何にも感心なり。何卒(なにとぞ)その先生に面会いたしたく志聊か発起仕りおり候処、同年五月上旬、掛川宿十九首町、中屋八郎太夫拙者方へ来り、種々善事の物語これ有る中に、同人志願、今、世の中に流産致し候婦人これ有り。歎かわしく、何卒相止み候様法を立てたく申し演じ候。拙者心中善事にても、その徳これ無き時は行われず、依って報徳の義を用い候わば、流産自ずから相止む道理と存じ、申し聞き候は、報徳と云う事有り、この道承りたしと発言に及び候得ば、八郎太夫悦喜致し申され候には、その先生隣家松屋又左衛門方へ、近々来臨致し候間、その人来り候わば沙汰致すべしと約諾仕り、相別れ候処、同月十九日右先生来り候旨沙汰これ有り。早速罷り出候処、安居院庄七、浅田勇治郎両人にござ候。この時初めてこの両人へ面会致し、理解承り、如何にも感服仕り候間、翌二十日右両人拙者方へ請待仕り、村方長立候者一同理解承り候義、是実に当村報徳勤行の発端にござ候。然る処同年暮に至り、弥々(いよいよ)村内連中を相立、是迄五ヶ年勤行仕り候処、追々麁(そ)田再発田畑作り方委(くわ)しく相成り、窮民撫育金出来仕り、内外相助かり申し候に付、当御領分相勤め候村々共に取調べ、左の通り申上げ奉り候。(倉真村連中三十人、領家村十七人、十九首町八人、上西郷村五人、印内村七人、成瀧村六人、五明村六人、細田村十一人、遊家村十一人、上湯日村七十七人、不入斗村七人、中村二十八人、桑地村、〆四百六十九両余りを無利息五ヶ年賦末一ヶ年礼金仕法などの取り扱いを以て岡田佐平治から所々へ貸付を行った。)右の通りにござ候。聊か成る勤行にても、年限相立ち候に随い、塵の積るが如く、自然と安泰の道に趣き候に付、当国報徳連中皆々有難き事に相心得、何卒二宮金次郎様御許(おんもと)へ罷り出で、御教諭請けたき志願に付、当国報徳連中惣代の心得にて、気賀町兵左衛門、藤太夫、下石田村久太郎、森町常蔵、利助、影森村啓助、倉真村佐平治〆七人安居院庄七先生一同にて、当八月二宮金次郎様日光御神領、御仕法御用先へ罷り出候、是迄聊かにても勤行仕り候善種の程御賞美の思し召しか、日光御神領、荒地起し返し、難村旧復の仕法、見込之趣奉るべく書き上げる旨、御公義様より二宮金次郎様へ仰せ付られ、御仕法帳全部八十四巻御書き上げ成され候処、当丑二月十三日、日光御神領村々、荒地起し返し、難村旧復の仕法取扱い仰せ付けらる間、見込通り御料私領手広に取計い候よう致すべき旨、御免に相成り候御仕法帳の内等、拝見御免下され、数日拝見仕り候処、感服と申すも猶恐れ多く存じ奉り候、右拝見中、御随従の御方、度々御教訓之有り、或る日二宮金次郎様御用透しに付御目通りにて、厚く御教諭を蒙り、重々冥加至極有難き仕合せに存じ奉り候。右逗留中模写仕り候書面、並びに是まで庄七、勇治郎両人、その外へ願い求め写し置き候書類等左の通り一 報徳聞書之一番 一冊、一 勤行之図並びに丹精算勘録 一冊、一 暮方取直日掛縄索中勘帳 一冊、駿州駿東郡藤曲村御趣法文面 一冊、一 天命勤行十箇條 一冊、一 父母根元有無悟道弁 一冊、一 天地開闢万物根元 一冊、一 報徳宝訓蔵 一冊、一 駿州駿東郡御厨中へ御申渡 一冊、一 為仰被下候書 一冊、一 相州浦賀宮原氏へ之書翰 一冊、一 報徳善種金年賦貸付証文下書 一冊、一 二宮先生円相之伝書 一冊、一 譲奪弁 一冊、一 二宮大先生御説徳聞書略 一冊、一 天徳無尽現量鏡 一冊、一 暮方増減趣法 一冊、一 相州西大井村真福寺孝道法印並同国足柄下郡酒匂村林蔵殿へ書翰開発田地算勘神君御遺言七ヶ条 一冊、一 小田原御領分相州塔之沢にて村々へ御申渡聞書 一冊、御厨御殿場村 一 難村取直相続手段帳並浦賀湊竺郷先生へ書翰 一冊、一 家政調心得方之書 一冊、〆二十一冊是まで法則に仕り候書類にござ候。この度関東にて写し候書類左の通り一 常州真壁郡青木村取扱一件帳 一冊、一〇坪積雛形書 一冊、一 大久保故加賀守様御親製之文並びに楠公文にて問二宮先生答之文外に歌一首 一冊、一 二宮金次郎様より相州曾比村へ被下金御請書並同村御礼状外に同村広吉歌 一冊、一 野州東郷御代官山内総左門様並二宮金次郎様より相州曾比村広吉ゑ被下 詩歌一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法賃金三両積鍬下二十ヶ年季雛形 丁三一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法賃金五両積鍬下二十ヶ年季雛形 丁五一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法賃金六両積鍬下二十ヶ年季雛形 丁六一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法金無利五ヶ年賦報徳金附撫育料被下雛形 辛陽二一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法金無利五ヶ年賦報徳金附撫育料被下雛形 辛陰二一冊、一 日光御神領村々荒地起返方仕法五十軒暮方取直日掛縄索手段帳 癸一一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法六十軒暮方取直日掛縄索手段帳 癸二一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法九十軒暮方取直日掛縄索手段帳 癸五一冊、一〇相州大住郡片岡村大沢小才太報徳金克譲増益鏡 一冊、一〇孝行奇特本業出精人取立方仕法帳 一冊 相州大住郡片岡村大沢小才太、一 相州足柄下郡酒匂村平沢林蔵へ二宮大先生より被下金御書 一冊、一 相州三浦郡西浦賀和泉屋太平治支配人五兵衛家政取直相続手段帳 一冊、一 烏山御領分荒地開発御儀定書 一冊、一〇家政取調相続手段帳 一冊、一 日光御神領御仕法帳御見出し 一冊、一 御公儀より嘉永六丑二月二宮金次郎様へ御申渡二宮金次郎様より同年九月九日安居院庄七へ被下御書 一冊、一 暮方取直日掛縄索手段帳相州上新田中新田下新田 一冊、一 孝行口説止礼父子 一冊、一〇日光御神領村々荒地起返方仕法附百行勤惰得失先見雛形 甲三一冊、一 日光御神領村々荒地起返方仕法賃金一両積鍬下二十ヶ年季雛形 丁一一冊、〆二十五冊 内朱印十二冊この度日光へ罷り出候者方に之有り候間追て差上げ奉るべく差上候。 残十三冊合せ三十五冊、御覧入奉り候通りの訳柄、倩勘考仕り候処、私儀斯くの如き有難き御治世に生れ、庄屋御役、並びに地方御用達御役仰せ付けられ、殊に御田地高二百三十八石余所持ち仕り、代々相続仕り、重々冥加至極有難き仕合せ存じ奉り候。併し乍ら年々歳々取り喰らい候事のみを専らに致し御恩徳を報い奉らず候ては、多財の程歎かしく存じ奉り候、之に依りて右御仕法帳に基づき、家株取調分内を退けて暮し方相附き、其の余財を年々窮民撫育の為相譲り、九牛一毛御国恩報い奉りたく候、此の段聞こし召し為される訳、明春私方へ御出役成下され、仕法向万端御差図成し下され候様願上候、右願之通り御聞き済成し下し置かれ候わば、莫太の御仁恵、生々世々有難き仕合せに存じ奉り候以上 嘉永六年癸丑年 倉真村 願主 岡田佐平治 同村親類惣代 源八 同村同断 庄助 増井孫治右衛門様
2024.01.31
〇〇大学から「現代語 安居院義道」寄贈の辞退のメールがあった。寄贈しても所蔵してもらえず、そのまま処分されてしまう本がこれまでどれほど多かったことか。今回、CAMPFIRE事務局からの指示で、本を寄贈するまえに了解をとるようにとの指示があり、84大学図書館に照会の手紙を出した。「よかった」と受け止める。本を無駄に廃棄されることがなくてよかった(^^)=以下メール文=二宮尊徳の会 様いつも大変お世話になっています。私、〇〇大学学術情報基盤図書館の〇〇と申します。本日、図書「現代語訳 安居院義道」の無償提供のお申し出をいただきました。大変ありがたいお申し出なのですが、現在〇〇大学図書館では、スペースの狭隘化が深刻な問題となっており、原則的に学外からの寄贈のお申し出は辞退させていただいております。どうか当館の事情をおくみ頂きますようお願い致します。大変申し訳ない結果になり申し訳ございません。*同封されていいましたハガキは、今日返信いたしました。どうか宜しくお願い致します。=以上メール文終り=コメントで「驚きました」「理由が分らないですね」とコメントがあった。「コメントありがとうございます。今回、CAMPFIRE事務局のご指示もあり、事前に寄贈(無償)してよいか了解を得る手紙を出し、返信用葉書も同封しました。これまでも寄贈しても収蔵して頂けないケースは多々ありました。そこで徳島県のAさんのアイデアで蔵書として頂けない場合は、スマートレターを送付するので、返却いただければ大切な本を廃棄しないで活用できますという連絡文を入れて一部返却して頂けるようになりました。」「今回、大学図書館にできるだけ寄贈了解を得る為に東京大学T先生に事前に原文をお送りし短評をお願いしました。東大の「虎の威を借りる」。ですから寄贈の了解(蔵書の約束ではありません)を得られればT先生の御蔭、辞退されれば一重に編集者の責任です。本日センターのレターケースをみると15大学図書館から返信ハガキが届いていました。承諾10館、辞退5館でした。およそ3分の2です。84大学図書館に照会の手紙を出しましたから、比率でいうと54館で収蔵いただけるかと、捕らぬ狸の皮算用です(^^)」
2024.01.27
MさんへOさんの「若き大山御師庄七の像」と「安居院先生と岡田佐平治 初対面の図」送付いただきありがとうございました。『現代語訳 安居院義道』の大きなテーマの一つが「若き大山御師庄七」です。裏表紙の裏にこのイラストを貼り付けましょう。その前に折り畳みで挿入した「相州御領分絵図」と合わせて見れば、あたかも「若き大山御師庄七」が相模国足柄上郡の大山講の村々を廻村している姿を「らんまん」寿恵子のようにありありと眼の前に浮ぶかもしれません。*第115話新たに再度渋谷へ向かった寿恵子(浜辺美波)。弘法湯で身を清めてお参りに行く人に出会ったり、茶屋で出されたポルトガルの菓子「ボーロ」に感動したり、柳橋の芸者だったとよ香(入山法子)と葉月(実咲凜音)の話を聞き、渋谷の街に魅了されていく。万太郎(神木隆之介)のように渋谷を“観察”した結果、寿恵子は弘法湯主人の佐藤(井上順)や居酒屋店主の荒谷(芹澤興人)、とよ香と葉月らを座敷に招いて食事会を開く。寿恵子はりん(安藤玉恵)に教わった“妄想の話”を始める。この町で人と人をつなぐ待合茶屋を開きたいと伝える。「この渋谷が、東京で一番賑やかな街になるなど」――。誰が担いでもいい神輿をプレゼンテーション。“あぶれ者の吹きだまり”渋谷は唯一無二の街になると説いた。「初対面の図」は、安居院先生と岡田佐平治 初対面の図は、本居宣長と賀茂真淵の「松坂の一夜」に匹敵する歴史的な出会いだということをイメージしてもらうためのものです。本文153ページの下段の空白部に白黒で置いて、出版記念絵葉書の特典としてカラーで支援してくださった方に見ていただきましょう。Oさんには虎屋の羊羹と美味しいコーヒーをお送りします。「相州御領分絵図」といい、視覚情報が完成に訴える力は絶大です。
2024.01.27
印刷所へのメールOさんからイラスト2枚が届きました。Mさんから速達で届くと思いますので、取り込んでください。1 本文125頁下段に「安居院先生と岡田佐平治初対面の図」を白黒で 裏表紙に「若き大山御師庄七の像」をカラーで入れてください。 イラストの下に 「若き大山御師庄七の像」大須賀義明(森町)といれてください2 絵葉書に2枚とも採用願います。表面の説明もそれぞれ「安居院先生と岡田佐平治初対面の図」「若き大山御師庄七の像」でお願いします。安居院庄七と岡田無息軒の初対面のときの問答 掛川の中山八郎太夫から安居院庄七と浅田勇次郎が松屋へ逗留したと手紙を受け取った岡田佐平治は、すぐ松屋へ行き二人に始めてお目にかかった。佐平治らは報徳のお教えを願ったが、始めはただただ世間の善い事の話のみで、お昼過ぎになってようやく次の三首を記して示した。安居院:次の三首の歌の心を考えて自分の考えを話してみよ。1 飯と汁、木綿着ものは、身を助く その余は我をせむるのみなり佐平治:この歌は天の恵みを思い、万事つつましく致すことと考えます。安居院:2 日々に積る心のちりあくた 洗い流して、我をたずねん佐平治:この歌は悪念を払い尽して、大道に至ることと考えます安居院:3 梅の木は根も梅なれば種も梅 枝も葉も梅、花も実も梅佐平治:この歌は大道の根本を得心して、真実に実行に勤めることと考えます。たとえば、うわべは金にて中は銅にてはよろしくない。外も金、内も誠、いわゆる純金でなければならないことと考えます。安居院:誠にそのような心得であるならば、報徳の話をしよう。
2024.01.27
萬作德用鏡 その4蟲の事。 凡そ田畑害を爲すは、殻ある虫と裸虫なり。毛のある虫羽のある虫、鱗ある虫は害を爲さず。田畑に害をなす虫は、冷かなると暖かなるか父母となつて、風といふ勢を加へて虫を生ず。菌は暖め和かなるものなり。されは冷かなる時菌をすれば、冷かなると暖かなると戰ひて虫を生ずる事心得あるべき事なり。畑に生ずる根切蟲と云ふものは、秋冬畑を荒し置て春耕し種をおろせば、かいわりの時根切虫を生ず、是は寒中に耕すれば根切虫は生せぬものなり。肥へたる苗を早く植れば、本す虫とて葉の本に虫の付事あり、是は大きに暑き時遽に冷かなる時生ず、是も暖かなると冷かなると戰ふ故なり。此虫付たらは苗代の水を落し淺くすべし。扨鯨の油を一反に二三合入べし。所々に配るに及ばず、右の油を一と所へ入は一面としみ渡るなり。日の晴たる時入るべし。虫悉く死ぬるなり。凡て鯨の油は虫を殺す大藥なり。作物には大妙藥なり。都て虫は春より夏に移る時と、夏より秋に移る時との天氣の不順に依て生ず、北風なき時を用心すべし。又夏に秋とに北風吹は裸虫を生ず、裸虫とは羽のなきうねうねする虫を云ふ。裸虫にも數々ある、此虫は陰氣なるもの故、土の中より湧く虫なり。扨又北風より湧くのは是非もなし。もとめて是を湧かしむるなり、又出來る事有り、されば日の出る時心なく水肥又は水など濺ぐ時は此裸虫を湧かすなり。水肥しなどするならば夕方か又は曇りたる日にすべし。日盛りには惡しく日のあたる暖かなる所へ、冷かなる物を懸ける故、陰陽和合せず、是に風といふいきを吹きかくれば生ずるなり。作物は凡て陰と陽氣と戰はず、陰陽和合すれば十分に實法る筈のものなり。上方すじに有まきといふ虫を関東にては油虫といふ。此虫は菌の過ぎたるより湧く虫なり、日照の年は畑物は日に押されて育ちかねる故、菌過ぎて此虫を生ずるなり、日照の年は菌をひかえめにするがよし。稲の病の事、中國すじには稲の色付あしく、むら く になりたるをかなやけと云ふ。此病は土のしめらざる所へ淺く植る故なり。是を見て水を落し乾かし、一時に水を入て右の病を直す事、たれもする事なれども、其年はよけれとも明る年は又かなやけの病あり、是は水を落し乾かしたる故なり。次の年は彌々弱土となりてしまりあしき故なり。夫れよりは苗をよくふとらせ深く植付べし。必ずかなやけはなきものなり。凡そ稲の病は苗代にあつく蒔きたるか、又蒔付の遲きか、耕のうすきか、此三つより病となるなり。又根付惡きに肥へを強くすれば病と成るなり。又綿の事。綿は米の次に無くてはならぬ物なり。稲と隔年に植れば菌少くとも能く盛えるなり、土にあらはしたる様すを見て、種の雌雄を辨へ、雌の種を蒔べし。種も澤山につきふく事も早し雄の種は莖もふとく長さも長けれども、雌程は實のつかぬ物なり。綿種は何處にても灰を混ぜてはら く にして蒔く物なり。一反に種を壹〆五百目より三貫目ほど播く事常なり、是れ大なる損なり。肥をも奪はれ、間引くにも日間ゐるなり。種取らんと思はば、口あきふくらかに、綿よくふきたるを畑にて擇むべし。取入ては分らぬ物なり。種にせんと思ふ時は冬の中に綿を繰るべし春になりては種いたむものなり、播きつけてあしゝ、こゝに妙法あり、先雌雄を見わけ、爐の灰を能くふるい混せ合せ、桶へ水を澤山入、右の種を入かきまはせば、惡しき種は上へ浮き、能き種は沈むなり、沈みたるを取揚げ、又灰にまぜて能く乾かし、一粒つゝ程よく播くべし。されば間引く日間もいらず、菌もきき道早し。生へ揃はば四五寸程離れて、小さき穴明干鰯か又は竪肥を入るべし。若ばへの時葉に肥をかくれば悪敷也、心得べし。又若ばへの時雨たたきの土付かば傷むものなり、藁を細かに切りて根へぱらりと播くべし。雨たたきの土付かず、貝割りの葉土用迄も落ぬ物なり、如斯にすれば精氣強く生立故實も多くふさも早く、日照にも雨にも格別傷まぬものなり、よく ぐ 試めし其得を知るべし。植並み悪敷は、貝わりの時竹箆にて割り起し植かふべし。貝わりの時は根ざさんとする勢薄き故、日の照る時植ても傷むことなき物なり、余程育ちては日の照るとき植ふべからず、傷むものなり、日暮か夜か曇りたる時植べし。是は都ての種苗もの同じ事なり、心得べし。右の外作物数多しと雖も、此類を以て推し考へなば同じ道理也。尚委細其理を喜和免多事也、理ならん事心懸べし。
2024.01.21
萬作德用鏡 その3苗代の事、凡一年の作は出来不出来も、苗を育てるにあり。其年の氣候の惡しきは論に及ばず、苗所を換えす、同し所へ蒔付る事大なる損なり。毎年苗場を換える時は、苗太りて其根繁きものなり。肥に進み根付よき故、旱にも水損にも能こたゆるなり。然し苗所を年々換ること貧しき人には成し難し。左れども其年にて高取の百姓小前百姓に苗所を貸してやるべし。借る人は申合せて借置き、其代にかした人の苗所をも能く守り、鳥獸の荒らさむように代り代りに守るべし。斯の如くにすれば人力も費へず、方々利潤なることともなるべし。是等のことは村長なと心得べし。然し苗所は毎年冬の頃、雨少き乾きたる時能耕すべし。土くれ稲株なと細かに碎き、雨水を含まぬように畦となし置、春の頃照り續き乾く時を待ち、蒔時に至り平らかにならし水入べし。常には苗ふみとめるを踏むは悪しきなり。扨籾薄く蒔べし。生ひ立よくて穗早く出るなり。旱の節水の便悪敷田は、植る苗を畑に蒔付くべし。畑に生立るは水を好む故なり。田へ移る時速かに根さす故、旱にも傷み少なき物なり、是れ畑に育ち水なきに狎れたる故なり。畑に育ちて苗の時草生る物なり。蒔く時は土を碎き灰を混せ籾みへざる程かくべし。扨肥しを懸べし、籾見えんようにすれば鳥抔の荒らすことなし。兎に角畑にて苗を育て試むべし。菌の事、は其品多き事なり。國所によりて様々の勝手あれは詳しくは云ひ難し。鹽氣は肥しの元と知るべし。鹽けなきものは肥しのきき惡しきと知るべし。灰は何處にても菌に用ひるものなれども、灰は火の粕にて水氣を吸上る物故、畑の菌とす。米麥の糠は土を緩める物なり、の堅く締りたる所へ菌に用ゆべし。畑に作りたる物に旱り續きで水を懸ける事あり、日中には懸べからず曇りたる日か又は日暮にかくべし。是等は人の知りたる事なれども、水肥を懸るも右に同じ。朝早く懸るも惡し。扨鹽氣は陰なるものなり、土も陰なるものなり、陰と陰とのみなる故土を養ふ成り、人の鹽氣を以て身を養ふも腹の中のゆへ陰鹽氣が養ひとなるなり。されはとて鹽氣過ては養ひとならず、人にも鹽か過ては甘くは食へられぬなり。扨又萬の物生なる中は陽にして火に即する故、腐りては陰にして水に即す。人も生きてゐる内は暖かにして火に即し、死すれば冷めたくなるて水に即し、腐りては水となるなり、此陰陽の道理をよく辨ゆる時は、作物は總て陽の火にそくし、菌が都て陰の水にぞくする故、陰陽和合して養育といふことも判るなり。右の如くなれは腐りたる物は何によらず菌となる故、菌に使ふ物は、能く腐りたるものなり。川に有て腐りたる物も菌に使ふべし。鹽漬けにして腐りたる物等取捨べからず、菌に用ゆべし。めたしの茎や葉付はあしきもあれど、根の養には却つてよき物なり。干鰯の鹽氣過ぎたるは菌にして利き道惡しきなり、是は如何にとなれば鰯を干す時、日の照らざりし故なり、腐らまじとて少し鹽をしたる故、持前の鹽氣よりは強くなりたる故、鰯の精氣ゆるみてきき道惡しきなり。干鰯を求むる時、能々心付べき事なり。
2024.01.21
〇算法地方大成全 石盛の事一、田一反但し三百坪より、作り出したる米高を盛(もり)という。また斗代(とだい)ともいう。譬えば一坪の稲を刈って扱きこなし、籾一升得れば、三百坪にて籾三石あり。五分摺で、米一石五斗を得る。これを十五の盛とす。則ち一反歩の米なり。上田にて盛を立つるもあり。また中田は下田で立つるもあり。時宜によるべし。何方にても上田より次第に二つ劣りの定めなり。一、上田石盛は、中田の石盛と同じ、中畑石盛は下田の石盛と同じ、譬えば、 盛十五 盛十三 上田一反歩 上畑一反歩 この分米一石五斗 この分米一石三斗 盛十三 盛十一 中田一反歩 中畑一反歩 この分米一石三斗 この分米一石一斗 盛十一 盛十一 下田一反歩 下畑一反歩 この分米一石一斗 この分米九斗 下々田、下々畑これらに準ず。 盛十五、田一反歩但し一反は三百坪 この分米一石五斗この取米六斗 取米六斗を反取米取という。四分取に当るこれを四ツ成という。また免四つともいう。 この籾三石 内籾一斗 一反の種籾 内七升五合 一反の人足三十二人掛り 一人に付籾二合五勺扶持 内四斗二升五合肥し代その外農具代として〆籾六斗右は一反歩の籾三石の内より、諸人用六斗を引き、余り二石四斗、五分摺にして米一石二斗、これを五分五分の取にして、米六斗を得る。即ち一反歩の年貢なり。一反歩の米一石五斗の内、六斗年貢にとる故、年貢四分、百姓六分に当る。これを四公六民の取という。今は種子、夫食(ぶじき)、肥料、農具代等の差別なく五公五民の取なり。 畑方納めの事盛六ツ 上畑一反歩 上方地方 この分米六斗、取米二斗六升 是四ツ この代銀十一匁五分二厘、但し(三分一畑方定値段、米一石に付銀四十八匁替)盛六ツ 上畑一反歩 関東地方 この分永二百六十文但し(畑永定値段金一両に付、一石五斗替) 上方は田畑とも一統宜しき故、関東の田畑より二割増として、米値段も上方は関東に二割増しの積り、仍て関東畑永百六十文に、他二割の法一二を掛け百九十二文また、関東定銀相場六十目をかけ銀十一文五分二厘となる、則ち上方畑銀と同じ取箇也。 夫役割の図九田田上の如く割り、年々この廻り八つの内にて相勤め、外それ馬軍役等之に準ず。但し家数十軒あれば、八年の内にて一ヶ年夫役に当る也。或は高何百石、家数何百家これある共、右に準じ同じ事也。但し家数八十軒有れば、夫役十人、かつ八百軒あれば夫役百人と知るべし。 検見(けんみ)取箇付の事一、検見願い出る時は、その村々定免の内なれば、定免始まりてこの村何十ヶ年。或は何ヶ年になる。その内何ヶ年免ぜられ致したるや、また免ぜられ無きや相糺(あいただ)し、免ぜられ多きは水旱の難ある村なりと知るべし。また一ヶ年ばかりの被免は心の付所なり。能く糺すべし。一、年々検見取の村々は、先達て検見の時節にもなれば、内見立札、小前帳算入相違なきように例年の通り申し付くべし。荒地起返しも吟味致すべき事なり。是は六月七月時分改め極め置くもよし。村限郷帖を見て年々水引捨十石以上は心をつけ改むべし。右の通り吟味済の上、回状を以て来る幾日頃出立ちその村へ回村せしむの間、申達て申渡す通り、内見分付念入、三分以上の見込みなきように改め、帳面来る幾日迄に持参致すよう、尤も参入再応改め差出すべし。かつ合毛(ごうけ)三分以上の見込不埒の合毛等無きよう、また道筋掃除繕い等、無用の由相ふれるべし。一、桝 一升桝、五合桝、一合桝一、竿 三組、但し長さ六尺一分四本にて、一組本末切缼内法六尺一分にして、図の如く組むなり坪刈の節二方を稲株に当てこのように確と百姓に踏まえさせ、また二方を入れての如く坪を定め、名主・組頭・地主に見届けさせ、宜しき旨申さば刈らせ莚に包み、勝手宜しき所へ持ち寄り扱舂べし。その節油断ある時は、扱きこなしの内に百姓相減らす事あり。心得うべし。かつ竿の当りようは稲株に竿二方付け、二方すかしを正法とす。或は一方付、三方付、四方付、菱付等は宜しからず。二方付に限るべし。一、田畑検見改めようは、先ずその村へ入る時、当村は何方を一番と尋ね、その処にて五、六番も田一筆限りに人足を回し、大概広狭を見、五六番の内相違なくば、五十番何方と尋ね、その所へ行くべし。また七、八番も尋ね相違なくば、その通りいたすべし。また相違あれば、百番、七十番と尋ね、吟味いたすこともあり。水損などある村、譬えば水損町歩二町歩もあるを五、六町歩も、その余も仕出るときは名指書にて吟味いたせば、必ず現るなり。その時は先ず当人を返し、追て理解を申し聞かせ引戻すべし。大方この村方は、この水損にて、三分五厘或は四分損と大積りを見込み、取箇(とりこ)を胸中に付置く所を、百姓方にて、五分或は六分、或は皆損などと言い立て、引方を少しも多く願うもの故、よくよく心付くべし。一、検見回村、譬えば当日三ヶ村廻った所、この通りでは日数が掛り、百姓が難儀を致すに付、明日五ヶ村も回村致すべしと思う時は、朝早々日の出る頃は出宅すべし。雪国など遅く廻る時は、雪下になって損毛も計り難く、かつ百姓内損も多し、何れにも検見は早く仕舞う事が肝要なり。一、坪刈見立様は、その村へ入り小前帳へ引き合わせ、譬えば下見は五合毛なり、この村にては三合刈り出さねば、根取りに合わずと思うならば、一坪に三十八株か四十株か五十株か大概に積り。さて一株に付籾二匁ずつと見れば、四十株にて坪一升二合となる。四合干し減り用捨しても、八合はあるべしと見込めば刈るべし。一、坪刈り試し様は、見立第一の事なり。内見五合毛の所にて一升二、三合ありと思う所を刈るなり。然れどもその人の心持にてゆるむことあり強きことあり。譬えば上田一反歩下見五合毛の所、小検見何の誰□この如く一坪刈改め一升、また小検見の坪刈したる際より、外手先にて□このごとく一坪刈一升一合、すべてこの如く大検見は手代の刈改むる際を刈り改め、また手代の刈改める際を刈り改め、また手代は大検見の刈改め或は同役の刈改る際を刈違いに改むる時は合毛明かなり。もっとも合毛は十分に刈出し置き、追て大検見の勘弁し易きように取り計らうべし。坪刈帳左の如し。何十何番字何、稲の名何 地 主一上田一畝十五歩 何左エ門 内見五合 一坪四十株 但し 一株二十一本立 改八合 一穂籾百粒何十番何番字稲の名何 地 主一下田一反五畝歩 何兵衛 内見五合 一坪五十株 但し 一坪十五本立 改八合 一穂籾七十粒 この外に干減を除く事なり。合毛多分出ればとて、取箇過分に増す時は、その村立難し。勘弁あるべし。一、雨降又は朝露の内百姓検見を請ける事を嫌う。然れども取箇は役人の胸中にある事にて、合毛は大方のタメシものなり。少しも厭うべきにあらず。尤も雨降或は朝露を請けたるときは籾出るものなれば、籾をほうろくにて炒(カワカ)すなり。又炒さぬときは籾を桝の内へ百姓の力まかせに押入さす。盛上げて一升とす。その上にも合毛出れば、干減を余計に致し遣わすべし。是も当て合毛大意にして積もる事なり。一坪刈帳奥書文左の通り右は当村田方水損に付、この度御検見願い奉り、御回村成し下され候に付、私共御案内仕り、田毎に立札を以て一々御見分に入れ奉り候所、私共差上げ候内見小前帳を以て、書付の通り御引合いになさる処也。坪刈合毛御試し成され候には付、私共立合い見届け候所、干滅等存分に御引き下され、御改合毛少なくも相違御座無く候。然る上は右御改合毛を以て、何分の御取箇仰付けられ候共、少しも違背仕りまじく候、右御改めに付少しも御非分成る儀御座無く候。その為印形差上げ申す所仍て件の如し。 何国何郡何村 名主 何右衛門印 組頭 何兵衛 印 百姓代何左衛門印是は一村限に印形取る事なり。尤も検見済たる場所にて直に取るべし。少しも延引致すは宜しからず。一小前帳仕出し様、譬ば高五百石の村、検見の上坪刈合毛を仕出し、 右 寄一九反八畝十五歩 此籾二十三石六斗四升 八合毛一一町五反六畝歩 此籾三十二石七斗六升 七合毛一一町三反三畝十二歩 此籾二十四石一斗二合 六合毛一五町三反五畝歩 此籾八十石二斗五升 五合毛一五町九反二十七歩 此籾七十石九斗八升 四合毛一五町一反歩 此籾百三十五石九斗 三合毛一十六町五反四畝歩 此籾九十九石二斗四升 二合毛一四町四反三畝歩 此籾十三石二斗九升 一合毛一二町一反二畝十六歩 仕付荒皆損 反別合五十三町三反三畝十歩 籾合四百八十石 刈出二合 但 干減引 此籾三百二十石 二口合 籾八百石 此米四百石 取米二百石 高四つ取に当る 外 二百石 百姓作徳米右仕出し様は色取の法なり。一、畝引というのは、当合の内某年の坪刈合毛を引き、残りを当合にて割何割となる、則ち引畝の割とす。是を反別へ懸け、その反別の引畝歩を知る。端歩あらば、その橋歩へ斗り田法三を懸て、その坪数を知るなり。但し当合というは、検地の節坪刈合毛一升なれば、一反歩に籾三石、この内百姓夫食農具肥し代六斗を引き、残り二石四斗を一反歩の歩数三百坪にて割れば八合となる、是を当合という。尤も十ヶ年平均にて当合を仕出し、或は定免厘付を以て、当合を仕出す事あり。譬ば 上田二町三反四畝歩 当合八合 内五反八畝十五歩引 当年坪刈合六合 此籾四十二石一斗二升 但引畝歩除て 此米二十一石六升 内 取米十五石五斗三升 内 十石五斗三升 百姓作徳米此の如く中田下田下々田の引畝を仕出すべし、当時引畝取箇は用いず、併し私領にては仕来りにて今以て用いる所もあり。
2024.01.21
揚蒔作り蒔秘傳一、揚蒔といふは、畑作切り致し初めの方より土乾くより、其の方より蒔くのを揚蒔と云ふ也。且又一日の内に蒔しゆん有なり。早朝より晝八つ時迄蒔くべし、それより夕方はわるし。一、作り蒔と云ふは、畑を作切り、直ぐに土の乾かざる内に、しまいの方より蒔を、作り蒔といふ。極悪し。能々ためし見るべし。畑壹枚の内にては出来、不出来あるものなり。慎しむべし。右之通田畑蒔仕附菌持込耕作仕方、大麥小麥の通り其外是に準じ、大小豆諸雑穀に至る迄第一田畑起し方耕作肥し拵へ方用ゐ時を考へ、極々念入候時は是迄の三增倍も取れ申べく候へ共。自然としらす人命第一農人は骨折業を致し土氣を受候には、麥飯其外雜穀を澤山に食するを以て心の臓を養ひ肺の臓も整へ、食物澤山に喰ひ早く雜穀丈腹へる故に骨折業出来いたし、米飯にては自然減り方おそき時は肺心とも迫るを以て骨折候時は自然病を生ずる也。兎角美食は骨折候には至つてわろし。これ雜穀は天地より農人に授る事難有事に候。殊に雜穀類は御収納にも不仕田畑より取れる丈は農人の助けに相成申候。然りと雖も上人にても間々むぎこがしこうせん麥湯杯にいたし腹中の助けに用る。自然肺心整へよろこんで人々相助る事、奇々妙々の穀もつなり。夫米麥大豆稗胡麻、右を以五穀と名付、其品々に依て極々の妙能有り、第一米は人命を助け精氣を保ち肺心を整へ古今第一の穀物にして、異國杯には日本の米の能はこれなき故、人々違ひ唐人其外國々人顔色あしく見へ、日本人程精氣なし、誠に奇妙の穀物也。大豆は味噌に焚き、汁は第一腹中を整へ、精氣を保つ事、駿遠の境なる大井川の川越を致し候人、朝より味噌汁を三度づゝもちゆる人は精氣能く寒中水の中を越候ても体に水附ず、汁を用ゐざる人は體に水附き寒氣を受る。殊に食をよくこなす肝要の穀物也。稗は身氣整ひ能く腹中廣げ殊に幾年の大ひね積石致置候ても味ひかはる事なく、古へ五穀の人命を助け初なりと云ふ。胡麻は第一こうばし氣有て油け多く精氣を保ち諸毒を消し肺心を整へ、妙極々の穀也。右五穀其外人民助かる所の穀物は自然天地より授かる所田畑より作り出さゞるはなし、其難有き田畑荒し作り同様にしらず五穀そのほか人民を助ける穀物は、自然・天地から授かるところで、田畑から作り出されないもの楽これに過ぎず、諸人欲心增長煩悩の夢を覚し、根元の父母になる田地へ大孝行を盡し、共に共に粉骨碎身して勤行致し度事に候。怠らぬ勤めはやすき真心の、 深山櫻の花ぞ うつくし。
2024.01.19
麥種を選ぶ事一、麥の女穂を選ること、但し女穂と云ふは、穂太く長く、いかにも角が丸きようなるを取置べし。一、麥たねかし之事。但し種かしは六月土用の内、極上天氣を見合ひ水に浸し、浮を流し、下におどみたるをよく乾し、種に取置べし。大麥小麥の作方秘傳一、大麥小麥共刈取りはざに掛置、女穂をえること。一、六月土用の内にたねかしを致し、能く乾し置事一、毎年秋分の日、八月中より畑打始め、段々起し、九月の中より小麥蒔始め、九月の中より五、七日も過候頃より、四、五日の内大麥蒔くべし。是まことに大麥の蒔しゆんなり。一、畑打は成る丈深く小鍬に起してよし二た鍬さし三鍬さしと堀起をいたしてほし置、二十日も乾し置、あと能く馬にて竪横に掻くべし。夫より小萬鍬にて極よく平らむべし。作幅畦三尺に縄張いたし、送り縄又はすり縄に致し、作は深く底平らかに成る様切り、暫く乾 し置き蒔込土は少し深く掛けて良し。作幅狭き時は、麥取穀少し。作淺き時は、寒中氷にて麥ぬけるなり。其外萬事考へ合すべし。一、菌は草肥、但し厩肥よく、よく腐りたるを日に乾し、よく乾きたるを一反歩に十二、三俵位、金肥油粕一枚、下肥一荷位、大麥種一反歩に三升より二升五合迄、小麥種一升八合より一升五合位迄、よく切りまぜ、何邊も切りまぜ積込むべし。作り蒔は至つて悪し、揚作り蒔は必ず宜く候。一、草肥は土地を肥す。金肥は一旦宜敷く、後日に至り土地を荒す。草肥澤山用る、金肥は少々は用ゐて宜し。大麥小麥菌用方耕作致方之事一、十月の中前後三日も天氣続きの時、晝八つ時より七つ時半迄、踏み始めてよし、麥生立候ば掛肥致しても不苦、麥三つ葉に成り候時より、掛肥薄く致し早朝より晝九つ時迄掛くべし、晝九つ時過れば悪し、晝七つ時迄一番作足引(一回目の土寄せ)を致すべし。都て薄肥宜しく、肥は下肥風呂湯足洗場、小便、せゝなぎ(台所の排水)水色々とり合一日に三度づゝ掻き廻五七日を過ぎて田畑へ用ゐ候時は作物くせ病付ことなし、無病にて生長致すもの也。一、麦三つ葉になり候時より、積掛肥致し、晝八つ時より後踏み付くべし。一、十一月節前後、三日も天氣續きたるとき積掛肥致し後、晝八つ時より七つ時迄、踏み付け二番耕作し、早朝より晝九つ時迄、掛肥致し、夫より晝七つ時迄、鍬にて片作り南向に切付べし。一、十一月中前後、三番耕作、天氣三日も續き能く乾きたる時草取致し、積掛肥持込み、夫より七つ時迄踏み、早朝より晝九つ時迄掛肥致して後、作鍬にて日向に片作り切り付べし。一、十二月の節小寒前後、三日も天氣續き候時草取り積掛肥致し、晝八つ時より七つ時迄踏み、明早朝より、晝九つ時迄掛肥致しそれより片さくり南向切り付くべし。北向の時は、平らになる様切付くべし。一、五番耕作、十二月中大寒前後、三日も天氣續きし時、晝八つ時より七つ時迄の間踏み、早朝より晝九つ時迄掛肥致し、日向に片作り切付くべし。但し、作切は朝五つ時より致し候ても宜しく、七つ時仕舞、夫より餘業致すべく候。肥は寒中限り、寒明の肥を用ふる時は、麥くせ付くべし。澁も付くなり。慎しむべし。一、六番耕作、正月節前后、三日も天氣つゞき能く乾く時、晝八つ時より七つ時迄踏み明日晝九つ時より片作り切付くべし。一、七番耕作、正月中前後、前の通り乾き候時は、晝八つ時より七つ時迄踏み片作り切付くべし。麥三つ葉より踏み初め、大麥小麥共正月限り、二月に入り候へば無用のこと。但し踏事菜種からしは十二月限り、正月踏はわろし。正月二日田畑へ年始に行き、夫より引續き耕作は勿論何仕事にても致し度事に候。一、八番耕作、片作りきり付致すべし、踏むこと二月に至つてはわろし。一、九番耕作、仕舞作りは深く兩方へ成るたけ土をよせるべし。一、四月末より五月上旬に至つて、少し若き時刈り取り、小把にまるけ片付け、はざに掛け干し置、先づ跡の秋作仕付成るだけ急ぐべし。麥ははざに掛けるときは麥一反歩に付 二三斗位は取り増すもの也。一、はざにて女穂を撰り、大麥小麥共種をとり置べし。
2024.01.19
土菌(こやし*口の中は※)拵へ方傅、一、和らかき田は、山の荒土を取り能く乾し持込がよし。或は畑の土と田の土と入替えること至つてよし。田畑共末世に至る迄、上田と成る事明法なり、必ず勤行致すべし。一、又土肥の拵へ方は、ごみを敷き、田の和かきをこの上に置き、山の荒土をその上に置き、段々積み累ね、圍りを和かき土にて塗り付置くべし、年々寒中より、正月始めに拵へ置、順繰りに元肥に使ふべし。或は一坪に二荷、三荷、五荷にても宜敷、是和らかき田の傅法也。壹坪に五荷も持込む時は、米は是迄一倍穫れ申候也。勤むべし。勤むべし。田の草取り方の仕法堅き田草取の事一、固き田一番草取、植付より八日目、上肥は何なり用ひ、是迄通り草取致すべし。一、同二番草取、植付より十五日目、先づ上肥は何なり共用ひ、踏切り致し、其の上草取致すべし。一、同三番草取、植付より二十二日目、上肥何なり共用ひ、先づ踏切り従横に致し、草取り念入致すべし。一、同四番草取り植付より二十九日目、踏きり縦横に致し念入に取り、三日程乾かすべし。一、同五番草取り植付より三十六日目、踏切り東西南北に致し、極々念入草取致すべし。一、同六番草取り、植付より四十二日目、東西南北踏切り、極々念入り草取り致すべし。一、同七番草取り、植付より五十日目、踏みきり東西南北極く念入草取りいたすべし。 極和らかき田の草取之事一、和らかき田一番草取り、上肥何成共用ひ、植付より十二日目、是迄通り草取致し、其の上三四日も能く乾し置べし。一、同二番草取、植付より二十四日目、上肥は土肥金肥、何成り共用ひ、其上草取致し四、五日も能く乾すべし。一、同三番草取、植付より三十六日目、先づ踏切致し、但し東西南北にいたし、極念入に草取致すべし。四五日も能く乾すべし。一、同四番草取、植付より四十八目、前同様念入に致し、四、五日乾すべし。一、堅き田は、山附堅地冷水懸りの場所には花水は決して掛くべからず。又和らかき田は、初めより掛け流す場も有り、所により深く考ふべし。一、刈取はざにかけ十二、三日も乾すべし。是壹反歩に付、米二斗位取增者也。又麥田は少し早目に刈り取り片付け、跡の仕付も急ぐべし。但し花水と申は當村方にては鈴花時の事と心得べし。堅地冷水場は決して掛くべからず。又何れの場合にても、六月土用十日過後は堅く水落すべし。且鈴花時に相成候得者、天水節々所々ある時候なればそれにて事足り申候。
2024.01.19
💛1月17日病院での診察帰り、薬局で処方の薬の調合をしてもらっていると、松田のKさんから電話があった。Kさんは秦野から駿東郡さらに沼津へと延びる矢倉沢往還を研究されている。 今回、Kさんが発掘し、紹介された「相州御領図絵」を特別にご提供いただき、「現代語訳 安居院義道」の本の巻末に折込で掲載するとともに、出版記念絵葉書(5千円以上支援者へのリターン品)にも採用する。 「相州御領図絵」に「開導記」に載る庄七の実家の大山御師神成家の檀家一覧を載せてみると、二宮金次郎の故郷栢山村など重なることがわかる。 Kさんとひとしきり、庄七が大山御師として相模国足柄上郡・下郡を廻していた頃、二宮金次郎の評判を聞き及んだものと思われるという話で盛り上がった。 「図絵」の持つ視覚的情報量は膨大で想像力が膨らんでいく。 二宮金次郎は天保2年10年契約の桜町三村の復興計画をなしとげ、天保5年には仕法の継続が決定した。更には天保3年の飢饉を予知し、適切に対応したばかりか、さらには近隣の青木村の一村仕法を開業し、烏山藩などの飢饉で餓死する人々を救済するなどの評判に庄七は「善道の大道を蒙り」たいと念願していたのだ。 Kさんは、松田村に神成家の講があり、6軒の檀家があることに着目されて、松田村から二人、竹松村の復興仕法の手伝いに行っていたという情報を寄せていただいた。「おそらく庄七も天保11年の小田原領復興仕法の際に、足柄上郡の檀家から復興仕法の村へ出向いて、『西大井村仕法書』などを書写し、研究していた。だからこそ、天保13年桜町陣屋から秦野に戻って来た時に、横曽根村の村役人庄兵衛からの依頼で一村仕法を組立て、成功させることが出来たように思われます。『現代語訳 安居院義道』の役割の一つは、若き大山御師安居院庄七の像にスポットライトを当てたことにあると考えます」とKさんと二人でそういう話にすっかり盛り上がったのだ(^^)
2024.01.19
大学図書館への『現代語 安居院義道』の寄贈の受諾の有無の照会文発送を準備している。クラウドファンディング申請について、事務局から、大学図書館に寄贈する場合は事前に大学図書館から寄贈について了承してもらうようにと条件がついた。「今回の本は ー報徳の師父シリーズ第3集ー として発行するもので。これまで所蔵してもらっている大学図書館については、シリーズの一環として「暗黙の了解」を頂いている」などと抗弁したが、事務局からは事前の了承をもらうようにの一点張りだった。そこでクラウドファンディング開始前に、大学図書館へ了解を求める照会文と返信用はがきの案文を提出して、ようやくクラウドファンディング開始を認められた。約束は約束である、守らなくてはと照会の手紙の準備を進めている。考えてみると、寄贈してそのまま廃棄されるという発行者としては悲しい事態を避けることができる、という良い観点もある。物事の良い面に着目する、前へ前へと進むために大切な心得である。💛印刷所に電話して「相州御領図絵」をパソコンのマウスのパットとして使えるような工夫(紙製品)ができないか電話で相談してみる。「なるほど、検討してみます」と担当者が面白そうだという雰囲気で言う。そう、面白そうだ、楽しそうだと思えるならば成功するかも。常に「プラスアルファの努力」によって、人を喜ばせるように心がければ、それはいずれ自分に「収穫増加の法則」によって戻ってくる。安居院先生が、「人間算当勘定」で天道を自分の親父と思って一生懸命働けば、親父から給金をたくさん下されると述べていることも同じである。「天道人道の差別を考えてみると、天道親父の世界に奉公に来たと思うならば、何も難しい事ではない。 年中朝起きして藁をたたき、欲しいとか惜しいとかの念を去り、日中には人の仕事、自分の仕事の隔てなく、一心不乱に親父の教えどおり、午前六時頃より午後四時頃まで、農業にまごころをこめて努力し、田畑山林は我が命の親であるから、親に孝行を尽し、主人に忠義をいたす。現在お蔭をこうむる天恩、国恩、主や親の恩を深くわきまえて、その身その身に備わる家業を大切に行い、どうぞ勤めて身上を極楽に到りたまえ。農民に生れる者は田畑を不作にすれば、困窮して今日の暮らし方にも差し詰まることから、午前六時頃から田畑を耕し草を取り肥料を運び、麦米粟(あわ)稗(ひえ)様の心持ちに叶うように、その時々をはかって我が口腹を養うところであり、つまり十分念入りに勤労を尽しそれより余業に沓(くつ)わらじと縄綯(なわない)、午後八時頃寝て朝は午前四時頃起き、勤めるならば勉めただけは、親父の方から給金をたくさん、田畑・山林・衣類・諸道具・家蔵までも下される。有難い事ではないか。」5千円以上の寄贈者へは「出版記念絵葉書」をリターン品として本と共に郵送する。よりリターン品を魅力的なものにするために、いろんなアイデアを温めて提案している。『現代語 安居院義道』の本文は白黒であり、カラーの出版記念絵葉書と合わせてみると、想像力が大きく刺激されるような、そんな工夫を考えている、貰った人が驚き、喜ぶような(^^)◎ナポレオン・ヒルは「成功には6つの原則がある」ことを説いている。その原則とは以下の6つ。1 明確な目標を持つ2 プラスアルファの努力3 調和の精神4 信念の現実化5 自己規律6 自然の法則2番目の「プラスアルファの努力とは」誰でも、自分に課せられた業務や仕事がありますが、業務を果たすことだけで満足するのではなく、常にそれより多くのことを、自分に期待されているよりも、もっと効果的に行わなくてはなりません。「思考は現実化する」には、1つのエピソードが紹介されている。 大きな印刷会社で見積もりを担当する若い社員がいた。彼は、客が書体のことではあまり注文をつけなかったので、そのことには注意を払わずにいた。 しかしそれでは、本当に仕事を知っている人間としての彼を特徴づけるものが何もない。私(ヒル)はそのことを彼に指摘した。 そこで彼は編集の勉強を始めた。それによって得た知識はやがて印刷物の出来具合に影響を与えるようになった。顧客から仕上がりの美しさを注目されるようになったのである。客先から「とてもきれいな印刷物を作ってくれたね」との褒め言葉をもらったのだ。そこで彼の上司は、この若い社員が会社の評判のために何をしてくれたかに気がついたのだ。 この青年は、それまでは会社でほとんど注目されない人間であったが、今ではこの会社の重役である。 この青年は、プラスアルファの魔法を用いることによって、ちっぽけな給料とちっぽけな人間になることから自分自身を救ったのである。 「報酬以上の仕事をすること」の原則について詳しく述べてみたいと思う。まずこの原則、あるいはノウハウが生み出すものは、プラスアルファの魔法である。 初めに、土地と農夫との関係から話を進めることにしよう。農夫は細心の注意を払って土地の下拵えをする。そして小麦の種子を蒔く。丹精を込めて育成すれば、やがて蒔いた種子の何千倍の収穫をもたらす。この仕組みが「収穫増加の法則」だ。これは、自然の原理(摂理)の一部なのである。(中略) この畑から収穫できるのは、小麦だけではない。“自然が教える重要な教訓”という宝物も収穫できる。このプラスアルファの魔法を自分のものとして仕事に応用すれば、労力以上の報酬を得ることができるのだ。報酬以上の仕事をしてきた人は報酬以下の仕事しかしていない人よりも高い地位につき、高い報酬を得ている。
2024.01.18
湿気地にて和らぎ田の作り方の事。一、當り前淡水掛りの場所は四月中に荒代致し、總ての菌(コヤシ)を前の通り持込、畔に切り置、又中後中代致し五月節前後掻き田致し、其の上植代いたし、えぶりを以て能く平め、東西南北縄張致し、竪定規横定規を以て、極々念入り成丈淺く、四角に相成るよう、東西南北に作通り候よう植付べし。但し壹株三本二本植よし。株間壹尺五寸宛に定むべし。一、乾き地にて麥田は、麥少し若き内に苅取りはざに掛け、跡の仕付成丈急き、成丈毎年深く起し、早速小手切致し、荒代田壹反歩、馬と人三人にて一日能く掻くべし、其上元肥草肥ならは二拾駄位、金肥ならは金二分位持込、壹兩日過ぎ掻田いたし、其上植代極く念入掻き、えぶりを以てよく平らめ、東西南北へ縄張致し、竪定規横定規を以て氣宜敷日に、四角に相成よう、東西 南北へ作通り候よう、極々念入植付べし。 籾種株蒔仕法之事一、苗代田起し方、成丈深く起し、二三度程も小手切致し、しろは二三度も能く掻き、草肥よく腐りたるを持込、あせみの若葉を少し用ゆべし。虫除けなり。但し一反歩に、籾種貳升より貮升五合蒔く也。但し壹坪に付貮合五勺、貮合、壹合八勺蒔くがよろしく、夜は水懸置、晝は天氣宜敷時は能く乾かし置くべし。但し極和らかき場所は、笹の葉にてたゝくこと無用、種の生ひ立わろし。植付前に薄肥二三度も用ふべし。一、籾種、田壹反歩に二升五合より二升迄古き莚に包み、日向宜敷場所へ、流水或は半切に入れひやかすべし。毎日水取替へ、上下にかへして水張り込み日々水取替てよし。十二、三日位にてももゆる也。尤も寒暖によりて、一兩日は早くも遅くももゆる也。苗代日の都合によりて籾種水に附べし。
2024.01.17
〇報徳作大益細傅記(田畑作立大益秘傅)一、天地開闢して、日月行道のみ。人間はいふに及ばず、草木鳥獸虫魚、未だ生ぜざるときは、天地の間何一物なし、一物なければ、一圓日月の世界也。天神七代、地神五代の年數、合せて八百億二百三十五萬六千九百七十余年なりといふ。之れ斯れを、神代とも云ふべき也。然れば、天朝を始め奉り、あらゆる國々 日月の照し給はる處、是皆神國也。譬へば 數千里の原、家宅を建て、夫婦の外に、親もなく、子もなく、家來もなく、朋友もなければ、家は勿論、原一圓は夫婦二人の領地なるが如く、然りと雖も何を以つて今の世に生れ、古へを見しるべき謂れなし。今の形を以つて、盡きたる迄なり。尤も今日に居て、明日を知るべき謂れなけれども、昨日を以つて思慮するに同じ。又今の世に居て、古しへ、或は後世などと云ふ、文字を書くに似たり。また幾千萬歳を經て、草木生じ、或は花咲き實法り、變化して虫生じ、虫變化して禽獣龍蛇鮫鯨生ず。而してのぢ人間生じて、東西南北、或は草木鳥獣虫魚の名、自然と定る。依つて異國萬國の別名あるなり。然りと雖も、田畑未だ開けざる時は、一人の働にて、一人を養ふのみ。是に依て田畑を開き、五穀を植へ、五穀實法れば、食足りて身に餘力あり。是に依つて、家宅を建て、井を掘り、道を作り、橋を掛け、舟を造り、悉く事足り。是に依て、身を安んじ、心體を勞する事を惜み、他の財を奪ふ。是に依て、其の横道を制す。是武道の根元なり。夫より以來、或は治り、或は亂れ、幾千萬歳を經て、天照大神の御代に至らせ、ます〱厳法を立てさせられ、畔を破り、筧を毀ち、溝を埋るもの、或は親と子と犯せる者、子と親と犯せる者、畜を犯せる者、其の他、種々の誓を立させられ。幾千萬を經て、或は治り、或は亂れ、また東照神君に到らせられ彌々戸ざさむ御代となりたる御丹精を、生れながらにして、衣食住を得るもの、海内衆民、幼童又は乞食非人に至る迄、徳澤を蒙ること、たとへば、水に浸せる布紙の如く、依て以て、今の世に生れ得るもの、歳々年々不可忘報徳なり。神代の昔より代々の、至公賢君、是皆然り。今此の太平に治る御代に生れ逢て、今日唯今、御惠の御恩、神明氏神、諸神諸佛、天子天下、御領主様の御惠澤を蒙ること、なか 〱 一朝一夕の事にあらず、何を以て報ひ奉るべき哉、衆人の心を留て、勘考致し度事に候。某日々夜々種々愚考仕り候處、唯今世の中に、開けある所の田畑、荒し作り同様に罷成り、誠に以てなげかはしき事に候。是れ大神宮御諭し被置候、嚴法の通り田畑誠に念入り手抜り無之様、其の時々を考へ、菌拵らへ、起し方、鋤き、掻き、耕し草取り踏切り其の外手入等、極々念入り正直に仕候得者、壹反歩に付、米十俵位は取入可申候。左候得者諸神諸佛に供し、御年貢諸役高掛り物等に至る迄、自然と大切に相成り、御上納仕候外、御恩の報ひ方も無之故、左に印所を能々勘考して共に 〱 勤行致度事に候。
2024.01.17
〇人間算当勘定(書名)それ人は万物の霊にして、虫けらや鳥獣と同じではないが、命数はわずかに六十歳である。そのほか長生きなのは、世の中の人を考えるに、稀にあっても、年老いて働くのも行い難く、生まれ出てから十年の間は勤労もせず、十一歳から六十歳までの勤労は、心で定め、天道人道の差別を考えてみると、天道親父の世界に奉公に来たと思うならば、何も難しい事ではない。年中朝起きして藁をたたき、欲しいとか惜しいとかの念を去り、日中には人の仕事、自分の仕事の隔てなく、一心不乱に親父の教えどおり、朝六ツ時(午前六時頃)より昼七ツ時(午後四時頃)まで、農業にまごころをこめて努力し、田畑山林は我が命の親であるから、親に孝行を尽し、主人に忠義をいたす。現在お蔭をこうむる天恩、国恩、主や親の恩を深くわきまえて、その身その身に備わる家業を大切に行い、どうぞ勤めて身上を極楽に到りたまえ。農民に生れる者は田畑を不作にすれば、困窮して今日の暮らし方にも差し詰まることから、前々にも申した通り、朝六つ時から田畑を耕し草を取り肥料を運び、麦米粟(あわ)稗(ひえ)様の心持に叶うように、その時々をはかって我が口腹を養うところであり、つまり十分念入りに勤労を尽し、朝から昼七ツ時にしまい、それより余業に沓(くつ)わらじと縄綯(なわない)、夜五つ時(午後八時頃)寝て朝は七ツ時(午前四時頃)起き、勤むれば勉めただけは、親父の方より給金たくさん、田畑・山林・衣類・諸道具・家蔵までも下される。有難い事ではないか。もしまた働かない者にはそれなりの給金で年々貧乏になる種を蒔くのであって、次第に実りは一粒万倍の貧乏、天から降ってくるわけでもなく、地から湧いても出ず、皆自分の怠慢と不始末、だらしなさから起こり、人を恨んで小言が始まり、悪いたくらみが次第に募り、あるいは無理な借金、打ちこわし、そして小言が止むと顔色が悪くなり、いよいよ飢えに及ぶのじゃ。その時になって後悔しても仕様がない。これから本心に立ち返り、人生一生六十年と考えて、計算して左の通り人間一生、六十年を算当(計算しておよその見当をつけること)の事一.生れ出てより六十年勤労のうち 十年は無勤労なり ただし生れ出て一歳より十歳まで また二十五年 夜の分半分を引く また月に三日休日 ただし一年の間十二月三十六日、十年の間三百六十日、六十年に六年なり また一年 正月五節句、盆、親類への義理、近所村内病人、あるいは家作雨ふり風吹き、諸寺諸山へ参詣など月平均に七日程一年に八十四日、十年に八百四十日なり六十年に五千四十日十四年である。 〆(しめて)五十五年である。 差引残り五年勤労一日四百文平均の稼ぎ、一月十二〆文、銭直六〆文、代金二両である。一年分金二十四両生れ出て六十年の間、稼ぎ総〆金百二十両である。 六十年衣食住その外共に入用積りの事、 一日米五合月に一斗五升一年に一石八 斗、十年十八石、両に九斗替 六十年代金百二十両である。 味噌塩焚木香物一日二十二文、月六百八十二文、年八〆五百文、酒肴右同断一日に十二文、月三百七十二文、年に四貫五百文、衣類、夜具ふとん一か年に平均金一分二朱 家作修復 一年に 一人前銀六匁 親類へ義理 一年に 〃 〃六匁 寺社万人施し 〃 〃 〃一匁 髪結銭元結ひ油紙類 〃 〃 二百文 諸道具鍋釜はし〃 〃 百文 〆一年に一分二朱、十三匁八と一〆四百文 〆高金百六十九両二分と為すなり 総差引 金四十九両二分 不足 (人間算用勘定は以上を以て終りであるが、なお続稿とも見るべき日々勤行勘定帳があり、勤倹の字数を示したものであるから省略する。この因縁から二宮先生の勤行図を参考とし引用して、また後進者が選んだ人の一生は蝋燭の如しとあるを、借用して添付しておく。(借用添付は省略)
2024.01.17
莫(まく)忘(もう)想(そう)〔莫妄想か。禅語で、妄想することなかれの意味〕(読みやすくした)天命は一(いち)定(じょう)(変わらないこと)で常(つね)なし。命を造(な)すのは天である。命を立てるのは我(われ)である。柔は強に克(か)つ。礼は義に克つ。だから謙虚は鬼神(きしん)に克つ。陰徳をもって子孫が後に栄えることを請(ねが)う。 仁、仁心は一世の栄(えい)花(が)、 義、正直は家を保(たも)つの元(もと)出(で)、 礼、堪忍(かんにん)は万(まん)代(だい)の宝、 智、慈悲は子孫の禄(ろく)(俸禄)、 信、倹約は身を立(た)てる本、 天(てん)命(めい)論(ろん)中庸(ちゅうよう)に曰(いわ)く、天命(てんめい)之(これ)を性(せい)と謂(い)う、性(せい)に率(したが)う、之(これ)を道と謂う。道を脩(おさ)める、之(これ)を教(おしえ)と謂(い)う、道なる者は須臾(しゅゆ)も(少しも)離るべからざる也(なり)。離るべきは道にあらざる也(なり)。是(こ)の故(ゆえ)に、君子は其(その)睹(み)ざる所を戒慎(かいしん)し、其(その)聞こえざる所を恐(きょう)懼(く)す。隠れたるより見(みえ)る莫(な)し。微(かすか)なるより顕(あら)われる莫(な)し。故に君子は其(その)独(ひとり)を慎(つつし)む也(なり)。夫(それ)人(ひと)なる者(もの)は、天地(てんち)の精(せい)を得(え)て、万物(ばんぶつ)の霊(れい)と為(な)る物(もの)也(なり)。命(めい)は天(てん)の賦(ふ)する所、形(かたち)は精(せい)の舎(お)る所也(なり)。舎(しゃ)に善(ぜん)悪(あく)高(こう)卑(ひ)有(あ)り。賦(ふ)に富(ふう)貴(き)貧(ひん)賤(せん)有(あ)り。乃(すなわち)是(これ)天(てん)也(なり)。人(ひと)克(よ)く之(これ)を守(まも)り之(これ)を勗(つと)む。若(も)し天(てん)の命(めい)を奉(ほう)じ、其(その)分(ふん)に越(こ)ゆる無(な)くば、厥(そ)の徳(とく)、日(にち)に新(あらた)に永(えい)して、終(おわ)り有(あ)らん。故(ゆえ)に題(だい)して天命論(てんめいろん)と名(な)づく。爾(しか)云(いう)。 天保七年丙(ひのえ)申(さる)孟(もう)春(しゅん)万(ばん)歳(ざい)楼(ろう)識(しるす) 天の命をたもつは 定食と朝起にあり 天の命をそこなうは 飽食と淫乱にあり 天の命をのべるは 信心と陰徳にあり 天の命をちぢめるは 奸悪多欲にあり 天の命をやぶるは 酒食遊興にあり 天の命を補うは 保薬と灸治にあり 天の命をそむくは 五常を守らざるにあり 天の命をそむかないのは 忠孝を勤めるにあり 天の命を恐れるは 神仏の加護にあり 天の命を恐れない者は 鬼神の咎めあり 天の命に随う者は 君上の幸福あり 天の命に随わない者は 不慮の禍あり 天の命を恐れ働く者は 子孫繁昌富貴な り 天の命を恐れず慎まない者は 終に貧乏困窮に至る 天の命を慎むものは 開運立身出世する 天の命を慎まないものは 先祖の家業を破る 天の命を守るものは 世を安楽にくらす 天の命を忘れるものは 家を失い乞食となる 天の命を知るものは 足る事を知り安楽なり 天の命を知らないものは 身を崩し他にはしる 天の命をはなれる者は この世より地獄の責をうける 天の命を重んずる者は 子孫栄え愛敬あるなり 天の命をわきまえる者は 無理非道をしない 天の命を捨てる者は 家を破り人の使用人となる 天の命をほしいままにする者は 人に損をかけ身の立ち所がない 天の命をけがす者は 法度(はっと)を破り身を亡ぼす 天の命をないがしろにする者は 殺生を好んで短命となる 天の命を考える者は 家を治め始末を調える 天の命を省みる者は 堅固に我が家を守る 天の命を諦める者は 因果を悟り遁世する 天の命をなおざりにする者は 日にまし貧乏になる 天の命をあわれむ者は 慈悲深く人を助ける 天の命をいのる者は 極楽天上に生る 天の命を明らかにする者は 仁義を守り正直なり 天の命を平かにする者は 天恵を蒙り世に敵なし 天の命を仰ぐ者は 天下泰平を祈る ある人が言った。世に生れたのは天地自然である。死ねば土となる、どうして地獄極楽があろうか。仏法は人を善に進めようとの工夫で、釈迦が建てられたものである、という人がある。大きな心得違いというべきだ。およそ大千世界の仏・神・人・鳥獣・草木・五穀にいたるまで、種がなくて生じるものがあろうか。同じこの世に生れたのに貴賎・貧富の相違がある。生れながらに人を使う位に生れる人がある。また人から使われる運命に生れる人がある。これをもって知るべきである。前の世の種もって後の世に生れ、この世の種をもって後の世に生れる、すなわちこれが天である。儒道に積善の家に余慶ありというではないか。そうであればこの世で慈悲善根、信心功徳の種をまく時は、後の世に生れるであろう。因は種である、果は実(じつ)である。仙厓和尚が言っている。「神道の高天原(たかまがはら)と仏道の極楽と裏表である」と示されている。これも皆、天の命であろう。 傍らに安居院先生がいて言われた。「拙者(私)もこれまでそう思っていましたが、あなたが天命論を編集するのを見て思い続けて、知った。私がおおぜいの子どもを教えるに、よく覚える子もあり、全く覚えない子もある。また器用不器用な子もある。これをもって考えるに、いかにも前の世で学んだ種と学ばない種との違いがあるようだ。これを思うと儒道より仏道は奥が深くてよほど面白い」と言われた。 また傍らにいた田舎のおやじが天命論を聞いて出て言った。「昔は人の心もゆるやかであったせいか、死んでから先の善悪の報いが来たという。今は人の心が気短になったせいか善悪の報いは死ななくても現在に来ることがとても早い。この世でさえ地獄極楽が眼前にあるのだから、どうして後の世に地獄極楽はもとより、大千世界のうち天人・修羅・人・畜生・上品(じょうほん)など様々がないことがあろうか。また人は死んで土となるという人がある。しかし現在にも幽霊の事態がある。また人魂の火を見ることもある。聖人も鬼神を祭られている。そうであれば体は土となっても魂はどこに宿るか分からない。ああ恐るべき事だ、慎むべき事だ」と言われた。 蒔かなくにひとり生えたる種を問えば 天道生えと言うべかりけりこの歌を味ってみるべきだ。人が蒔かない種は天がこれを蒔かれたのであろう。何の守(かみ)何屋のだれがしと名乗るのも、皆これ天の命令で前世の種をもって生れ出る事ができたのであろう。そうであれば天の命を恐れて忠孝を守り、家業に精を出して信心陰徳を行う人は、悪い方に転んでも貧も福に代わり、短命は長寿となるであろう。韋賢(いけん:中国前漢の政治家)の伝に言う。「黄金をいっぱい子孫に与えるよりも一経を教えたほうがよい」と。それ天の作る災いはなお違えることができる。自ら作る災いは逃れる事ができないという。そうであれば今、長寿の相があっても自ら災いをつくる時にはたちまち短命無福となるであろう。また短命の相があっても信心・陰徳・善根を行う時は、たちまち福寿円満の相となるであろう。すべて世の人をありさまを見るにとにかく蒔かない種に利をとろうとする人が多い。これは大きな無理というものだ。天と命との種を蒔いてこそこの世から先の世に生えたのを果報というべきであろう。 みな人の天と命とに生れ得て 福寿はおのが行いによる 天命はよきにもなればあしきにも こころ次第のなすようになる 天命のあがりさがりを尋ぬれば 辛抱するとせざるとにある 世のことわざに万事よい事があれば運がよいといい、また悪い事があれば運が悪いという。また仕合せが良い、悪いなどという事があるが、運という事は運ぶと読む。仕合せは仕(つかまつ)り合わすとよむ。不仕合せ仕り合わせずとよむ。物事の運びの良いと悪いのと、仕るのと仕り合わせずとの二つから善悪が分かれるのである。人の運が悪いとか仕合せが良いというのは難しい事である。また自分の口から言うのはなおさら口惜しい事ではないか。 十目(じゅうもく)の視(み)る所(ところ)、十(じっ)指(し)の指(ゆびさ)す所(ところ)、其(それ)厳(げん)なる乎か他から見る時は人の善悪はよくわかるであろう。則ち天が人をもって言わせる所である。恐れ慎んで勤めなければならない。 天命因果と車輪の如し、 親となり子となり又は主となり家来となるも 天の命令 日々(にちにち)に天にあけては天にくれ命(めい)との道(みち)も目(ま)のあたりかな 咲けば散る花のうき世とみな人に 無事を観ずる山さくらかな 筑紫(つくし)博多(はかた) 神彦施印 (以下略)
2024.01.16
○安居院先生頌徳碑〔原文は漢文〕枢密顧問官(すうみつこもんかん)正二位勲一等伯爵(はくしゃく)松方正義(まつかたまさよし)篆(てん)額(がく)縕袍(うんぽう) (どてら) を 衣(き)、 孤(こ)貉(かく) (皮ごろも)を恥じず、強(ごう)毅(き)清(せい)貞(てい)、曠達(こうたつ)(心が広くこだわらない)雅淡(がたん)、気骨(きこつ)稜稜(りょうりょう)、眼光(がんこう)人(ひと)を射(い)る、是(これ)先生の風姿(ふうし)也(なり)。先生姓(せい)は藤(とう)、諱(いみな)は義(よし)道(みち)、字(あざな)は蘆(ろ)翁(おう)、乾坤齋(けんこんさい)と号(ごう)す。水戸の高士南蘋(なんぴん)翁、撰(せん)する所なり。其(その)詩に曰く。乾坤(けんこん)鑿破(さくは)一芦穿(いちろせん)、独沈清靡(どくちんせいび)両儀連(りょうぎれん)、遺却(いきゃく)万(まん)延年物(えんねんぶつ)老(ろう)、芦(ろ)翁(おう)独化(どくか)覚(かく)先天(せんてん)。蓋(けだし)先生晩年、翁の高雅を慕い、翁(おう)亦(また)先生の卓量を聞き、遥かに徳友と為す也。先生幼にして慧(けい)敏(びん)、長じて宏(こう)志(し)を有し、家を治むるを屑(いさぎよ)しとせず、二宮先師に就(つき)教(おしえ)を乞(こ)う。説を聞きて歎服(たんぷく)し、自ら謂(おもえら)く、われよく夫子(ふうし)の道(みち)を弘(ひろ)めんと。遂(つい)に弟(おとうと)浅田(あさだ)氏(し)と志(こころざし)を勠(あわ)せ出遊(しゅつゆう)し、兼(かね)て三社奉(さんじゃほう)楽(がく)信徒を募(つの)り、万人講(まんにんこう)と称(しょう)し、衆を得ること数万。弘化四年始(はじめ)て遠州(えんしゅう)石田村に至る。神谷(かみや)氏(し)を主(しゅ)とし、遠近(えんきん)其(その)教(おしえ)に従う。号して報徳社という。嘉(か)永(えい)四年浅田氏勢州(ぜいしゅう)に歿(ぼっ)し、六年癸(みずのと)丑(うし)、門人岡田、山中、神谷、中村、内田、松井、竹田、諸氏を率(ひき)いて、日光に行き先師に謁(えっ)す。先師見て大(おおい)に善を称す。是(これ)より先生駿遠を家とし、過(すぐ)る所、遊惰(ゆうだ)を励(れい)し、奢侈(しゃし)を誡(いまし)め、善行を賞し、窮(きゅう)寡(か)を恤(あわれ)む。商に農に、これを誘うに忠信守分(しゅぶん)を以てし、是(これ)を誘(いざな)うに積(せき)小(しょう)為(い)大(だい)を以てす。特に稼穡(かしょく)(農業)に精(くわ)しく、挿秧(そうおう)、縄(じょう)規(き)を以てし、千(せん)頃(せい)一望、棊局(ききょく)(碁盤)の如し。耕種改善靡(び)然(ぜん)(なびき従うさま)風(ふう)を為(な)し、大にして邑(むら)を興(おこ)し、小にして家を起す。報徳二州に聲(せい)振(しん)す。是(これ)に於(おい)て、本州(ほんしゅう)(遠州)業を受る者六十余邑(よゆう)、毎歳(まいとし)一次大会、道義を講演し、徳(とく)教(きょう)遂に東海六州に及ぶ。恵沢(けいたく)今に至りて益(ますます)広きを加う、皆先生の力也。社徒歳(さい)次(じ)例として太(たい)廟(びょう)を諧(かい)し楽(がく)を奏(そう)し、万人講(まんにんこう)緒(しょ)を継(つ)ぐ也。文久三季八月十三日、門人浜松田中氏家に卒(そつ)す。年七十五。玄忠寺に葬り、謚(おくりな)を弘道(こうどう)先生(せんせい)と曰(い)う。善(よい)哉(かな)、報徳(ほうとく)を道(みち)と為(な)し、至誠(しせい)を本(もと)とし、勤労(きんろう)を主(しゅ)とし、分度(ぶんど)を体(たい)とし、推(すい)譲(じょう)を用(よう)とす。世(せ)運(うん)澆(ぎょう)季(き)(末の世)徳(とく)教(きょう)陵(りょう)夷(い)(すたれ衰えること)、逸(いつ)楽(らく)風(ふう)を為(な)す。斯道(しどう)に拠(よら)らずんば、誰(だれ)か能(よく)之を免(まぬが)れん。本州諸邑(しょゆう)先生より蚕(さん)興(こう)聞く有り。其(その)幸(さいわい)既(すで)に勝(まさ)るべきか。今(いま)茲(ここ)に、門人耆(お)い旧多く世に就き、建(けん)碑(ぴ)未だ成らず。小野江副社長之(これ)を慨(なげ)いて、本社に提議す。僉(みな)之(これ)を善(よ)しとし、乃(すなわ)ち相(あい)謀(はか)って功(こう)を起(おこ)す。地を本館境域に卜(ぼく)し、銘(めい)を余(よ)に嘱(しょく)す。銘(めい)に曰(いわ)く。卓彼徳行勇與仁(かのとくぎょうゆうとじんにたくし)、教而不倦化斯民(おしえてしみんをかするにうまず)、希言自然(まれにいえばしぜんと)穿乾坤(けんこんをうがち)、諧謔縦横(かいぎゃくじゅうおう)入天真(てんしんにはいる)。清談間処(せいだんかんしょ)対棊局(いきょくにたいし)、揮弄翰墨別養神(きろうかんぼくべつにしんをようす)、不治一家(いっかをおさめず)治万家(まんかをおさむ)、君子人乎君子人(くんしじんかなくんしじん)。 明治三十八年六月 遠江国報徳社長勳六等岡田良一郎謹梨本宮家令兼内大臣秘書官従五位勳六等日高秩父書
2024.01.15
「現代語訳安居院義道」クラウドファンディング あと5時間で終了します新たな支援者は登場していない。支援者62人で終了であろうか?御支援に感謝します。鷲山恭平『安居院義道』現代語復刻版の意義庄七が桜町陣屋から故郷に帰ったのが五四歳、庄七が神谷與平治に報徳仕法を説いた時が五九歳、庄七は現代でいえば定年退職後に決心し報徳伝道に旅立ったのです。庄七は二宮尊徳の直弟子ではなく、基本的に書籍で学び、自分で考え、実践し、検証して報徳の教えを自分のものとしていったのです。このことはまた現代における私たちが報徳を学び、実践する上で、非常に参考になる模範であるように思います。 今回、東北大学名誉教授大藤修氏と東京大学戸石七生准教授が書評を寄せて下さいました。ここに掲出し御礼申し上げます。大藤修先生「鷲山恭平『安居院義道』は報徳運動研究の必読文献ですが、私が研究を始めた頃は入手困難となっており、古書目録を博捜してようやく見つけ購入した経験があります。それだけに、地福さんの御尽力でこの名著を現代語訳して今日に蘇えらせられましたこと、労を多とします。安居院義道は民衆の立場から尊徳の教えを摂取し、近畿地方で見聞した先進的な農業技術とともに報徳の教えを広め、近代報徳社運動の種を蒔いた人物ですので、本書の公刊は報徳運動関係者のみならず、近世・近代移行期の民衆思想史や社会教育史、農業経済史などの研究者にとっても裨益するところが大きいと存じます。「安居院義道の風景」と編者注で関連の文献や資料を紹介されていますので、安居院義道研究を進展させる上でのよき案内となります。」戸石七生先生「安居院義道は、安居院庄七の通称で広く知られ、初期の報徳運動の普及や報徳社の成立に際して大きな役割を果たした人物である。また、我が国の農業協同組合においても、地域振興や農民の組織化の手腕は高く評価され、我が国の農業協同組合運動の祖の一人とされている。だが、同時代人による記録は乏しく、その生涯は多くの謎に包まれている。 安居院義道に関する数少ない出版物の中で、歴史的資料だけではなく、生前を直接知る人々への貴重な聞書きも踏まえて書かれた鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』は、豊富な情報量および重要性において他の追随を許さない伝記と言えるだろう。とはいえ、出版から70年を経て同書もまた古典となった。旧仮名遣いや時代に特有な語彙が障害となり、現代を生きる我々にとって、難解なものとなりつつある。 未曾有の少子化に伴う若年人口の減少、地方の過疎化、新型コロナウィルスの流行等により、現代日本社会は大きな転換点に差し掛かっている。幕末という激動の時代において地域振興に辣腕を奮った安居院義道にも、改めて注目が集まっている。にもかかわらず、その功績に関する最も重要な文献が文体の古さにより広く世に知られないのは残念である。 そこで安居院義道の志を受け継ぐ人々が集まり、報徳運動の研究者地福進一氏による現代語訳の出版が進められることとなった。文体が現代語訳されて読みやすくなったのはもちろんのこと、原典の内容に懇切丁寧な注釈や地図を初めとしたさまざまな参考資料が付け加えられており、安居院義道の活躍した時代や地域を知らない読者にも分かりやすくなっている。これらは、同時代の資料だけではなく、後世の研究者の著作や論文のような二次資料を網羅的かつ丹念に読み込みんで検討を加えるという膨大な学術的作業に裏打ちされたものである。長年報徳運動の研究を続けてきた地福氏だからこそ可能な現代語訳と言えよう。 つまり、本書は古典のリバイバルであるとともに、安居院義道研究の最前線である。今後、安居院義道や報徳運動、また日本の農業協同組合運動や地域振興の在り方について知りたい、研究したいという人々にとっては必読の書であろう。」『現代語 安居院義道』が現代の多くの人々に受けいれられ、また安居院義道の生き方に「一同感心し」、それぞれの人の人生に生かしていただければ、編集者の一人としてこれにすぎる喜びはありません。 「鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を現代語訳するよう勧めてくださった鷲山恭彦大日本報徳社社長、秦野視察の際に案内頂いた宮永均JAはだの組合長、その他ご協力いただいた方々に心から感謝申し上げます。また本書の出版に際して、ご指導・協力いただいたCAMPFIREの皆様、クラウドファンディングでご支援いただいた多くの皆様に心から感謝いたします。
2024.01.13
「現代語訳 安居院義道」クラウドファンディング もあと14時間で終了します。https://camp-fire.jp/projects/view/710516...「あなたのプロジェクトに支援者が現れました」とCAMPFIRE事務局から連絡があった。62人目の支援者が登場今回、東北大学名誉教授大藤修氏と東京大学戸石七生准教授が書評を寄せて下さいました。ここに掲出し御礼申し上げます。大藤修先生「鷲山恭平『安居院義道』は報徳運動研究の必読文献ですが、私が研究を始めた頃は入手困難となっており、古書目録を博捜してようやく見つけ購入した経験があります。それだけに、この名著を現代語訳して今日に蘇えらせられましたこと、労を多とします。安居院義道は民衆の立場から尊徳の教えを摂取し、近畿地方で見聞した先進的な農業技術とともに報徳の教えを広め、近代報徳社運動の種を蒔いた人物ですので、本書の公刊は報徳運動関係者のみならず、近世・近代移行期の民衆思想史や社会教育史、農業経済史などの研究者にとっても裨益するところが大きいと存じます。「安居院義道の風景」と編者注で関連の文献や資料を紹介されていますので、安居院義道研究を進展させる上でのよき案内となります。」戸石七生先生「安居院義道は、安居院庄七の通称で広く知られ、初期の報徳運動の普及や報徳社の成立に際して大きな役割を果たした人物である。また、我が国の農業協同組合においても、地域振興や農民の組織化の手腕は高く評価され、我が国の農業協同組合運動の祖の一人とされている。だが、同時代人による記録は乏しく、その生涯は多くの謎に包まれている。 安居院義道に関する数少ない出版物の中で、歴史的資料だけではなく、生前を直接知る人々への貴重な聞書きも踏まえて書かれた鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』は、豊富な情報量および重要性において他の追随を許さない伝記と言えるだろう。とはいえ、出版から70年を経て同書もまた古典となった。旧仮名遣いや時代に特有な語彙が障害となり、現代を生きる我々にとって、難解なものとなりつつある。 未曾有の少子化に伴う若年人口の減少、地方の過疎化、新型コロナウィルスの流行等により、現代日本社会は大きな転換点に差し掛かっている。幕末という激動の時代において地域振興に辣腕を奮った安居院義道にも、改めて注目が集まっている。にもかかわらず、その功績に関する最も重要な文献が文体の古さにより広く世に知られないのは残念である。 そこで安居院義道の志を受け継ぐ人々が集まり、現代語訳の出版が進められることとなった。文体が現代語訳されて読みやすくなったのはもちろんのこと、原典の内容に懇切丁寧な注釈や地図を初めとしたさまざまな参考資料が付け加えられており、安居院義道の活躍した時代や地域を知らない読者にも分かりやすくなっている。これらは、同時代の資料だけではなく、後世の研究者の著作や論文のような二次資料を網羅的かつ丹念に読み込みんで検討を加えるという膨大な学術的作業に裏打ちされたものである。 つまり、本書は古典のリバイバルであるとともに、安居院義道研究の最前線である。今後、安居院義道や報徳運動、また日本の農業協同組合運動や地域振興の在り方について知りたい、研究したいという人々にとっては必読の書であろう。」『現代語 安居院義道』が現代の多くの人々に受けいれられ、また安居院義道の生き方に「一同感心し」、それぞれの人の人生に生かしていただければ、編集者の一人としてこれにすぎる喜びはありません。あと十数時間、更なるご支援をお願いします。
2024.01.13
「現代語 安居院義道」クラウドファンディングはあと18時間で終了します!https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show今回、東北大学名誉教授大藤修氏と東京大学戸石七生准教授が書評を寄せて下さいました。ここに掲出し御礼申し上げます。大藤修先生「鷲山恭平『安居院義道』は報徳運動研究の必読文献ですが、私が研究を始めた頃は入手困難となっており、古書目録を博捜してようやく見つけ購入した経験があります。それだけに、この名著を現代語訳して今日に蘇えらせられましたこと、労を多とします。安居院義道は民衆の立場から尊徳の教えを摂取し、近畿地方で見聞した先進的な農業技術とともに報徳の教えを広め、近代報徳社運動の種を蒔いた人物ですので、本書の公刊は報徳運動関係者のみならず、近世・近代移行期の民衆思想史や社会教育史、農業経済史などの研究者にとっても裨益するところが大きいと存じます。「安居院義道の風景」と編者注で関連の文献や資料を紹介されていますので、安居院義道研究を進展させる上でのよき案内となります。」戸石七生先生「安居院義道は、安居院庄七の通称で広く知られ、初期の報徳運動の普及や報徳社の成立に際して大きな役割を果たした人物である。また、我が国の農業協同組合においても、地域振興や農民の組織化の手腕は高く評価され、我が国の農業協同組合運動の祖の一人とされている。だが、同時代人による記録は乏しく、その生涯は多くの謎に包まれている。 安居院義道に関する数少ない出版物の中で、歴史的資料だけではなく、生前を直接知る人々への貴重な聞書きも踏まえて書かれた鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』は、豊富な情報量および重要性において他の追随を許さない伝記と言えるだろう。とはいえ、出版から70年を経て同書もまた古典となった。旧仮名遣いや時代に特有な語彙が障害となり、現代を生きる我々にとって、難解なものとなりつつある。 未曾有の少子化に伴う若年人口の減少、地方の過疎化、新型コロナウィルスの流行等により、現代日本社会は大きな転換点に差し掛かっている。幕末という激動の時代において地域振興に辣腕を奮った安居院義道にも、改めて注目が集まっている。にもかかわらず、その功績に関する最も重要な文献が文体の古さにより広く世に知られないのは残念である。 そこで安居院義道の志を受け継ぐ人々が集まり、現代語訳の出版が進められることとなった。文体が現代語訳されて読みやすくなったのはもちろんのこと、原典の内容に懇切丁寧な注釈や地図を初めとしたさまざまな参考資料が付け加えられており、安居院義道の活躍した時代や地域を知らない読者にも分かりやすくなっている。これらは、同時代の資料だけではなく、後世の研究者の著作や論文のような二次資料を網羅的かつ丹念に読み込みんで検討を加えるという膨大な学術的作業に裏打ちされたものである。長年報徳運動の研究を続けてきた地福氏だからこそ可能な現代語訳と言えよう。 つまり、本書は古典のリバイバルであるとともに、安居院義道研究の最前線である。今後、安居院義道や報徳運動、また日本の農業協同組合運動や地域振興の在り方について知りたい、研究したいという人々にとっては必読の書であろう。」『現代語 安居院義道』が現代の多くの人々に受けいれられ、また安居院義道の生き方に「一同感心し」、それぞれの人の人生に生かしていただければ、編集者の一人としてこれにすぎる喜びはありません。あと十数時間、更なるご支援をお願いします。
2024.01.13
CAMPFIRE運営スタッフからの連絡「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します残り24時間プロジェクトの募集終了は明日!プロジェクトの募集終了日まで残り24時間となりました。プロジェクトも本当の本当のラストスパートです。
2024.01.13
フィットネスに通う高齢者が急増中!・文部科学省実施の平成24年度体力・運動能力調査によると、65歳以上の高齢者の方の運動能力は1998年度から現在まで右肩上がり。・高齢になるほど「週に3日以上(年151日以上)」スポーツを行っている人の割合が高くなっています。70歳以上では、半分以上の高齢者が週に3日以上スポーツを楽しんでいることも報告されているのです。さらに、ジムに所属している年齢を見ると、若年層よりも60代以降のシニアの方の割合が多い傾向があります。💛市の講習を受けて体育館ジムで自転車など運動器具でリハビリしてみようかな総務省統計局は、「デイサービスなどによる機能訓練のメニューに組み込まれているのが大きい」としています。
2024.01.12
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り1日現在支援者数61人 目標金額の66% 駿州石田村回復方法の事(淡山論集第一編より摘載) 駿州有渡郡(うどごうり)石田村は戸数三十一戸、村高三百五十六石一斗四升あり。静岡宿を南にへだたること、およそ三十町、南海岸より僅かに十五町、土地は平らで広く水田が多く、当時久能山東照宮の神領に属して、政教が行き届かず村民はぜいたくで家業を怠り産業を治めず、このため次第に借財が増加し、田園の多くは他村へ質地となり、耕作物の収入も、ほとんど村民の所有ではなくなった。しかし村民は平気でこれを憂いとしない。おもうに神領の地で、借財が増加すれば政府が救助する恩典がある。訴訟の事があれば政府が常にこれをかばって、借財を返さなくてもよいことにするとなっている。だから小作人は地主の年貢を滞納し、年々歳々怠納の負債は増殖する。地主は他村に住んでいて、これを責めるが、貧窮し窮迫し、人気もこのようであるのでどうにもできない。債権主はやむを得ずこれを当局に訴えるに至り、数々その厳責を受ける。村民の無残なありさまなのも、またこれを憂いとしないものはいない。 安政四年の初め、安居院先生が庵原郡鳥坂村にあって、報徳の法を行う。府中宿の片羽町に伏見忠七という人がいた。資産家であり、当石田村に田地を所有し、以前からその困難の状況を知る。また鳥坂村にも田地を所有し、報徳の法によって村民の農業が進んで、借財の返済の道が行われ、風俗は日に改良におもむくことを知って、良法であるとし、その番頭を石田村の庄屋石垣治兵衛の家に行かせた。石垣氏が思うに、また借財の督促に来たのかと。心中大いに拒絶する色があり、それが顔色にあらわれる。番頭が言う、「心配しなくてもよい。今日私が来たのは、決して借財の督促のためではない。極めて良法がある。報徳という。その先生を安居院庄七という。今、現に鳥坂村にいらっしゃる。この法に従えば数年しないで村は回復するだろう。よろしくこの人についてその教えを問い、一村あげてこれに従いなさい。これは主人忠七が私を使いによこしてあなたに告げさせるゆえんである」と。石垣父子は共にこれを聞いて、大変喜んで、詳しくその経緯を尋問し、直ちに村内のおもだった者五十七名を集会し、この事を話したところ、皆大変にこれを喜んで、まだ村民に告げるいとまもなく、翌日直ちに鳥坂村におもむいた。伏見忠七の番頭がこれらの紹介を行い、安居院先生に請願した。 その時に先生は上座にあった。七人の者は、遠くに見て。彼は、どてら(厚く綿を入れた広袖の着物)を着た老人ではないか、果してあの老人を先生とするべきか、私たちは、だまされたのではないかと後悔した。しかし先生は、直ちに面会を許さない。面会を断るのに「仕法は容易に行うことはできない、彼らが悔悟していないからだ」と。同行の者は皆、眉をひそめ謝罪して帰る。なお再三おもむいて、ようやく面会を許された。 先生は言った「あなたがたが報徳の道を慕って教えを求めるのは大変賞賛すべきことだ。しかしこの道は容易の事業ではない。まずあなたがたの日常の心掛けを聞こう。あなたがたが天道のために尽すところはどれくらいあるか」、七人の者は答えることができずに黙っていた。先生は言った。「あなたがたが答えることができないのを見れば、今まで天道のために仕える道を尽くしたことが無いものと見える。村が困窮するは当然の事である」と言って他は言われない。七人の者は、終に答えることができないで去った。翌日また往く。先生は教えるに天道をもってする。翌日また往く。先生は教えるに人道をもってする。日々このように教戒があった。遂に前後十八日を積んで、先生はいよいよ報徳の大意を述べた。七人の者は、一日一回ごとにその説の意義のあることに感じて、深く感化されるに至った。この時に当って、石田村の村民は皆言う。「諸君は報徳神に参詣して福を得る方法を伝えられると聞く。どうしてこれを私たちに告げないのか」と。その帰るのを待って、行って詰問する。そこで七人の者は詳しくそのありさまを告げて言った。「私たちは諸君に隠すところはない。先生の言はこのようであったと。実に感服するにたえない。この法に従うならば、必ず村の復興は疑いない。どうか村こぞって先生を招いて、その教えに従いたいと思うが、いかがであろうか」と。ここにおいて村民は大変喜び、皆、その言に従って先生を招く事を決した。七人の者はまた非常に喜び、時を移さずに鳥坂村におもむいて、先生においで下さるように求めて止まない。先生はその事情を察して、この村に臨むことを承諾した。そこで時日を期して先生を迎えることを約束して、村に帰った。 すなわち期日を待ち、行ってこれを迎える。約束の日、約束の時刻より遅延した。先生は大変に戒めて言った。「あなたがたは、今日私を迎えるに、約束の時刻を遅れたことはどういうわけか、私はこれを待って久しい。思うにあなたたちは、帰村の上、村民の評議が変易する所があって遅刻したのであろう。このような状況で、私を迎えても、決して成功しがたい。これはきっと時機がまだ至らないからであろう。神が私を戒めることはこのようである。私がもし行くならば、必ず神意にさからうであろう。私が行こうと欲しても、行くことはできない」と。厳然としてこれを戒めた。迎える者は、大変顔色を失って謝罪し、辞を尽して、ようやく許していただいた。ここにおいて七人は、先生に従って帰村し、石垣家に招いた。直ちに村民を集めて、日夜報徳の教えを聞いて仕法を求めた。先生はすなわち毎戸の家政を調査して借財償却の法案を立てるも、家の資本は貧窮、借財は累積して仕法を立てるべき所が無いようである。先生はそのために屈せず諭して言った、「あなたは衣服・家屋を売り払って負債を償却すべきである。あなたは子女を人に託して、あなたは自ら人の下僕となるべきである。あなたの鍋・釜、あなたの膳・椀、あなたの鋤・鍬、これは皆債主の恩沢に依るものであるから、その不要のものはこれを売却して借財を返済する資本にして、必要なものはこれを保存し、常に債主の大恩を思い、決して壊してはならない」と。その法は、厳重で寛大に処置する所が無く、村民は大変驚いた。あるいは妻女が家に泣くものがあったり、あるいは子を背負って隣村に憐れみを求めるものがあったり、衣服を質にし、家屋を売却しようとするものがあったりして、一村の惨状は語ることができない状況になった。人気は再び挫折し、報徳社を脱しようと欲して村内の境内に会合するものが過半数、昼夜協議して、大変に不穏な状況となった。石垣氏は大変にこれを憂えて、同志と共に力を尽くし、利害得失を説明し、善法の善法たるゆえんを詳しく懇切に諭した。村民はまた心を改めて、挙げてその教えに従い、二心なくその法を遵守するに至った。これにおいて仕法帳を調成し、各債主のもとに至って、等しく年賦償還の承諾を求めた。その法は別に奇術があるわけではない。農業の余力をもって日掛縄索(ひがけなわない)の業を勤め、日夜怠らないでこれを積立て負債の返償にあてることに外ならない。また旧来の悪い風習である凧揚(たこあ)げ、雛祭り、その他諸祝儀飲酒の風、一切これを廃し、年賀の礼は役場において一同にこれを行い、各々積縄一房を持参することを例となし、また一年中、毎朝社長が各戸を回り、その積縄を集め、一手にこれを売却して負債償還の元資とするにある。その法は、一村の赤誠に成り、少しも違納するようなことがないということを認めたので、債主は各々これを良しとし、いずれも速やかに承諾しないものはなく、そればかりか農業奨励のために土台金を寄付するものもあり、肥料を寄付することもあり、無利足金を加入するものもあり、借債の督促は急に止み、一村は皆その法のありがたいことを歓喜し、人気は非常に進み、農業を一途に奨励し、積縄の法もまた怠らない、女、子供に至るまで、子を背負って縄をなうにいたる。これをもって十年で数千金の負債は残らず償却し、なお十年で数千円の社金を積立て得たので、次第に質地を受け戻し、または買戻しを行い、後には遂に他村からの入作地が無くなるにいたる。安居院先生は、当村に在ること三年、教えを親切丁寧に述べ、石垣氏はよくその教えを遵奉し、法を行うこと、数十年一日のごとく、誠心堅固であったため社員は一致してよくその業を遂げ、復興し、富盛の実功を成就することを得た。以来その報徳仕法は四方に伝播し、入社するものは、ほとんど三十余村に及ぶ。これを駿河西報徳社と称する。石垣氏が社長である。明治十三年、社中の諸村が力をあわせて報徳舎を石垣氏の邸中に新設した。 毎年六回この舎において発会し、勧業の業は今まで一日も忘れることが無いという。(以上淡山論集一編、摘載)
2024.01.12
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り1日現在支援者数61人 目標金額の66%六 遠州報徳連代表七人、日光に大先生を訪ねる 嘉永五年(一八五二)の暮、遠州報徳連中は、大参会を岡田無息軒(佐平治)方で開いた。その席上、成滝村の平岩佐兵衛が浮かない顔をしている。聞いて見ると、江戸の旧主が大病で危篤の知らせがあったので、急に行かねばならないが年の瀬を控えて困っていると。これを聞いて岡田佐平治は「それならば一刻も早く行くがよい。困っているのは年越しの心配だろうが、お前の暮賄いなら一、二軒は引き受けてやる」といわれ、この一言に平岩は安心して早速江戸へ出発した。行って見ると、旧主は運よく病も峠を越して快方に向かっていた。これから一路帰国するのであるが、何か無息軒先生にお土産を持って帰りたいと考えた。ところが天なるかな、というべきか、図らずも二宮先生が江戸相馬侯の中屋敷に逗留中と聞き込んだ。まことに好機である。逸してはならないとその二十日に訪問した。「仕法の教導を伺いたい旨を願い出て、門人の伊藤発身(いとう・はつみ)に会い、先生に面会することについて理解は得たが、二宮先生は不在に付き面会はできない」まま、平岩は引きさがった。それから少し間をおいて三十日にも再度訪問したが、「年末多事で取込中であり差し戻し」となってしまった。 明けて嘉永六年(一八五三)正月七日に平岩は三度目の訪問をした。役所の日記には、「暫く話した上、帰国の暇乞いをして引き取った」と書きとめられているが、伝聞するところを総合すると、次ぎのようである。すなわち平岩が玄関に立っていると、ちょうど二宮先生が他所(よそ)から帰られ、ちらりと同人を見かけたので、お供の人に「いずれの人か」と尋ねられる。遠州の人と答えると「それならばその者をちょっとここへ呼べ」となって、運よく平岩は面接が遂げられたのであった。 先生は「遠州には先頃から、我が報徳の道を唱えるものがあると聞く、誰がその先達(せんだつ)であるか、また報徳の道には次第がある、いたずらに口説法だけでは、世の人をあやまることになるから、その重立(おもだ)つ世話人達は、一度当方へ参るように取り次げ」と言われて、平岩はこれまで影にあった報徳が陽(ひ)に向かう事になるので、実に鬼の首をとったような喜びで、韋駄天走(いだてんばし)りの快足で帰って、岡田佐平治に報じたのである。翌年の嘉永六年(一八五三)の春の大参会は、袋井在高部村の高山藤左衛門方に開かれた。無論、当日の主題は、日光行きの相談であって、結局、連中四百十九人の総代として、左の七人が選ばれた。すなわち、影森村・内田啓助、倉真村・岡田佐平治、気賀町・竹田兵左衛門、同町・松井藤太夫、森町・中村常蔵、同町・山中利助、下石田村・神谷久太郎の諸氏である。一行は、同年八月十日連れ立って出発したと伝えられていたが、その行道は、終始同一歩調でなかった。すなわち岡田佐平治組四人は途中分かれて安居院先生の郷里を訪れることとなり、約十日も遅れて日光の地に入り、また竹田組と内田は安居院先生を加えて四人は先発して東郷陣屋を訪れている。それが彼の地の東郷陣屋日記及び日光出役中の日記から裏付けられる。岡田佐平治組一行は、その十三日十日市場の安居院家を訪れ、敬意を表したところ、妻女はなんと勘違いをしたか、言葉も荒く、先生を曲解しているように聞こえた。一行は先生の遠州における大きな功績を賛美して述べたので、自然その態度も改まったが、家庭には反(そ)りが合わない点があったことが印象付けられた。ついで大山に参詣して生家の密正院をも訪れて、先生が諸国へ報徳の道を教諭し、諸人が神のように尊敬して門人も数えられないほどもあると、一種の頌徳文を残している。岡田佐平治、山中利助、中村常蔵、神谷久太郎四人の署名である。なおこの一行はいささか後退したらしく、曽比村に剣持広吉を訪問し、討論数日に及んで、報徳の書類の数巻をも写したりしている。それからその所を辞して、日光の二宮先生がおられる旅館桜秀坊を訪れたのは、九月の二、三日頃であったと思われる。別行動に出た内田啓助は、旗本の室賀美作守知行所の者であるため、その知行所の仕法が念願であって、江戸に出て室賀家から親類関係の相馬家へ依頼し、その所から運動の便宜を得ようとして、日光に向かわずに八月二十二日に東郷陣屋に出頭している。すなわち日記に室賀美作守殿の知行所、遠州影森村名主の慶助と申すものが、郷宿民右衛門方へ着いて、相馬様へご地頭がご縁が有るということで、相馬藩ご家老の熊川左右衛門殿から添え書きを持参し、影森村が極難・困窮であり、なにとぞ永続の道をお指図いただきたい旨を願い出た。そこで富田久助が面会し、いろいろと教諭して、ひとまず同人の止宿は引き取ってもらった事 とあるのが、その状況をよく語っている。また竹田組の方も、近藤領地の仕法方に指導を得ようとしている。同じく江戸で近藤家の指導を受けて伊豆の江川代官の手代の町田時右衛門によって本望を達成しようとし、内田より一日後れて同二十三日にまた東郷陣屋に出頭している。すなわち近藤縫之助殿の知行所、遠州気賀町の大庄屋兵左衛門と同村の藤太夫がご仕法を願いたいと、郷宿民右衛門方に着く事町田時右衛門は昨日出張して来られた。山口村、徳治郎村その外所々へ植え付けさせた木曽の檜の苗を視察した。これは庄屋の兵左衛門が東大夫と同道してくれるように近藤様のご用人から願いも有ったついでに同道して参るよう申し出られたものである。暫く話して、民右衛門へ引き取られた。と記されている。翌二十四日には町田氏と一緒に出頭したので、富田久助氏がまた面会して、ゆるゆると報徳について説明して聞かせ、それから町田氏は一緒に竹田兵兵衛、藤太夫、慶助と日光参拝として出発している。これを受けて日光出役(役目のため出張)中の二十六日の日記には次のように出ている。八月二十六日、天気晴一 町田時右衛が昼前に参上した。同人は二十日に江戸を出発、二十三日に東郷陣屋に着き、二十四日の昼立ち、宮泊りで昨夜日光鉢石宿の紙屋半兵衛方へ宿をとったと申し出があった。外に近藤縫之助殿の領分の遠州の者、室賀山城殿の知行所の遠州の者が同道し、東郷陣屋から当方まで参上したとの事とあることから、先に述べた無息軒一行と同一の歩調でなかったことがはっきりする。それから九月四日には一行全員の顔が揃ったので桜秀坊の事務所に訪れたが、繁忙とのことで二宮先生との面会が得られない、そこで以来引き続いて仕法書を写し取ったりして逗留を続けた。今、日光出役中の日記を書きぬくと次のとおりである。九月四日、曇一、遠州影森村慶助、倉見村佐平治、氣賀町兵左衛門、同藤太夫、森町常吉、同利助、下石田村久太郎、外に安居院庄七が参上し、片岡村の仕法帳を拝見した事九月日、雨一、遠州の面々、今日もご仕法帳を終日拝見に参上された事九月六日、曇、昨夜禅寺山に雪が降った事一、遠州の面々今日も参上し、日光ご神領の雛形帳を拝見された、終日拝見の事九月七日、雨一、遠州の面々、今日ご仕法帳を拝借に参上した事九月八日、朝晴夕曇一、遠州の面々、一同参上し終日ご仕法帳を拝見の事九月九日、晴一、遠州の面々、一同参上し終日ご仕法帳拝見するため参上の事九月十日、曇一、遠州の面々、今日もご仕法帳を拝見するため参上の事九月十一日、晴一、遠州の面々、今日もご仕法帳拝見の事九月十二日、晴一、遠州の面々ご仕法帳拝見終日参上の事九月十三日、晴一、遠州の面々、明日出発に付き、ちょっと先生に面会し理解に及ぶ事九月十四日、晴一、遠州の面々、帰国お暇乞(いとまごい)に参上する、下新田縄索帳を貸渡される。九月十五日、朝雨昼晴一、 遠州の面々、今朝一同出発の事以上のように日記は簡単に要領を記載してあるが、実は一行の遠州出発は八月であり、以来一か月にも及び、気候も遠州の地とは違い、日光山中では雪の降る日もあるので、着る物に困った。そこで二宮先生がご多忙中で面会が得られなければ出直して参りますと伺いを立てると、お役所でもようやく気付かれて会見されるに至ったと聞き及んでいる。また日光出役中の日記に照らして見ると、二宮先生は四月に中風を発病している。それを六月から八月にかけ、無理をして日光神領の回村を行い、なお九月に入っても、回村を続けているから、疲労も加わってきたことは申すまでもない。そのため遠州一行を送り出した翌日の十六日には、再び発病しているから、無理もないことである。一行は日光を去るに臨んで、「報徳安楽談」と「三新田の仕法書」とを原典として頂戴している。以来、遠江国報徳社の宝物として伝えられ、大日本報徳社の浜松館文庫へ納められ珍重されていたが、昭和二十年五月の浜松空襲で、惜しくも浜松館と共に焼失したことは非常に残念でたまらない。その上に主事の横田遠治君も犠牲となって、被害は図りがたい痛ましいものであった。
2024.01.12
『報徳』令和5年12月号20頁に「東遠の茶業 昔と今」戸塚久美子(日本茶インストラクター*)が掲載されている。参加者は「茶の時期には人手が必要で、社員が助っ人に来てくれて、『結』が行われていた」という発言がありました。とある。安居院義道の元値商いにおいても「社員が助っ人に来てくれて、『結』が行われていた」という観点は大切なように思われる。「現代語 安居院義道」95頁に次のようにある。「報徳社中が、酒造家から一駄(酒では三斗五升入(約六十三㍑)二樽を一駄という)の酒を求め、販売を加勢したところ、仕入方の値段が格安となり、百文で買って九十文に売る道理、かえって儲けは一割余りの利益がありました。」元値売りで、大量に販売し、大量にまた仕入れする。すると仕入れ値段が格安になり、そこに利益が生まれる。鈴木藤三郎は、自家の菓子製造業で荒地開拓法を適用し、利益で更によい原料を買い求め、値段を安くして、売り上げを伸ばし、5年で10倍の売り上げを得たという。たえず報徳の精神を実践する態度が素晴らしい。ここに報徳社員の助っ人と自らの更なる実践で「元値商い」が成立する。小野江老の談話を紹介する。「当所に豊田屋源蔵といって燗酒(かんざけ:温かい酒)を売る者があった。平素、実直の人で、その頃報徳先生安居院と申す方が、初めてこの地にお越しの際に、ご理解を聴聞し、毎日話合後のお諭しに感服して、報徳商いを行った。これまでは元手が少なく酒一斗(約十八㍑)ばかりを前借りで求めては、生活していた。次第に店も繁昌し、本人の篤実を気の毒に思って、報徳社中が、ある時、酒造家から一駄(酒では三斗五升入(約六十三㍑)二樽を一駄という)の酒を求め、販売を加勢したところ、仕入方の値段が格安となり、百文で買って九十文に売る道理、かえって儲けは一割余りの利益がありました。その後は酒造家より豊田屋向けに直接に一駄ずつ送り遣わすようになって大いに都合がよくなりました。またその頃、豊田屋に魚屋がかつおを売りにきて、二、三本買って置いていた。魚屋が申すに、今日は荷物も多いから、五本ほど置くので帰りまでに売りさばいてくれるよう頼んで帰り道に立ち寄った所、そのかつおが残らず売りさばかれていた。小店には余りに多分の事だから、いかほどで売ったのかと尋ぬると、一本六百文のかつおを一節百五十文ずつに元値商い(原価のまま販売)したと話したので、魚屋も感心して、それでは手数料もない、気の毒だといって、一本につき百文ずつ値引きしてくれたので、元値売りで二割近い儲けがあった」と。(明治十二年十二月十一日浜松館常会講演)*社会生活の最小単位は家族です。その家族を大事にすることが、市や県や国のことも大事に考えられるベースとなると私は信じます。議員生活と、子育て・介護を両立していく過程が、そのままワークライフバランス(仕事と生活の調和)について考える機会となりました。日々の生活の中で、暮らしの細やかな疑問や課題を放っておかないで、ひとつひとつ着実に行動することで解決していく。それは、これまで私を形づくってくれた「織物」という手仕事を通じて、また「茶の世界」を通じて培われた、私のスタイルなのかもしれません。感性と実践力をもって、社会に奉仕する女性として、活動を促進していきます。「本気ですれば大抵のことはできる。本気ですれば何でも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる。人間を幸福にする為に本気で働いている人間は、みんな幸福でみんなえらい」(明治大正時代の教育者、後藤静香の言葉より)何事にも興味を持って、「本気」でまい進していくのが私のスタイルです。
2024.01.11
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り2日現在支援者数61人 目標金額の66%五、万人講から報徳の開拓へ弘化三年(一八四六)十一月弟の浅田は万人講募集のため東へと向かい、三河(みかわ)国藤川宿に移り、これから遠江(とおとうみ)に入るつもりだが、良い伝手(つて)がない。これを宿の主人に相談すると、同国の長上郡(ながかみぐん)下石田村の神谷與平治(かみや・よへいじ)氏は熱心な敬神家で、毎年伊勢神宮参拝を欠かしたことがない。その都度、毎回宿泊していただいていると推薦された。そこで浅田氏は道を姫街道(静岡県見付町と愛知県御油町を結ぶ街道)をとって本坂峠を越えて気賀(きが)に出て三方原(みかたはら)を横断して神谷家を訪れた。万人講の申し込みは敬神家の神谷氏にはすぐ受け取られ賛成を得た。それから余談に移って、同地方は最近水害や不作の災難をこうむって大変疲弊をしていると訴えられた。浅田氏はそれには良法があると切り出して、相模に二宮先生が出現され、一家の生計を取り直し、貧乏人を豊かにし、衰退した村を復興させつつあると、その仕法のおおよそを説いて善種金の話に及んだ、という。神谷氏は深く耳を傾けてその道をこの地に行われんことを期待した。浅田氏は来年の何月に兄の安居院氏が来て、その道を伝えることを約束してその家を去っていった。そして翌年弘化四年(一八四七)の早春、約束した通りに安居院氏が来て、滞留数日に及んで貧困救済の道、復興の方法を説明し、また農事農耕の方法を示した。村民一同は感嘆しその説明に服し、遂に同三月には下石田報徳社を創立した。これが遠州地方の報徳の第一歩で、結社のパイオニアとなった。(竹村老及び高山氏の「聞き書き」)その規約書と称すべきものを紹介する。義定一札の事(略)岡田無息軒、通称佐平治といわれた人は、掛川の在、倉真(くらみ)村の生まれ、掛川藩難村の仕法を担任し、初代の遠江国(とおとうみのくに)報徳社長を勤めた名高い人である。弘化四年(一八四七)の前後の頃、沢田といわれる土地で、用水に乏しく掘抜き井戸を掘ったと聞いて、一目見てみようと同村の親戚である又六という家を訪れた。その時分、同家ではちょうどロウソクを製造して浜松在、下石田から渡瀬増造という職人を雇い入れていた。渡瀬は最近、下石田では報徳ということが流行して、人々に縄ないをさせてそれを集めて資金として貧乏人に貸し付けると話した。又六はその話に無関心であまり気にかけなかったが、それをたまたま佐平治が見えたのでそれを話した。佐平治は不思議なことと思って、その増造に会って見たが、要領を得ず納得できなかった。更にそれには誰か指導者があるように見えるが誰かと聞いたところ、それが安居院庄七という先生であるとのこと。常に東海道を上下して掛川宿十九首(じゅうくしゅ)町屋六太夫方に宿泊することまでを突き止めた。そこで帰路、中屋へ立ち寄って、そのお客がお泊りになったならば、肴町(さかなちょう)の春日屋まで知らせてほしいと連絡しておいたのである。翌嘉永元年(一八四八)の春、安居院兄弟は関西へ行く途中、中屋へ宿泊した。かねて依頼があったことだから、佐平治のもとに連絡があり、早速これを訪問し、手土産として菓子折りを差し出したところ、言下に叱責してこれを退けたと言われている。安居院先生は、まず佐平治に向かって次の一首を示して、どう考えるか言ってみよと第一を放った。梅の木は根も梅なれば花も梅実も梅なれば枝も葉も梅こんな応対から二人は心中深くご縁を結ぶようになり、遂に安居院・浅田兄弟を倉真村の自宅に招待して、三日間にわたって、報徳の教義と仕法の方法などを論議して、この道が深く時弊を救う良法であることを悟った。それ以来、佐平治は衆に先んじて実践し、模範となり、村人を導き、その年の十二月には牛岡組報徳社の結社を見るに至った。「無息軒翁一代記」には次のように述べている。(以上高山老談話による)「二君(安居院・浅田先生)を家に招いて討論すること連日、夜を徹し、修身・斉家(身を修め、家を整え)財を興し、国を富ますこと、まさしくこの報徳の道に超えるものはないと。以来その書を写してその意義をきわめ、子供たちをひきいて農事に励み、耕作や土を肥やす方法を入念にして、稲を植えるに縄規(じょうき:縄を張って行う「正条植え」)を用い、麦を作るに七踏七転七糞の法(麦作での踏圧と土入れ・追肥)を行うようにして努力を尽した」とある。このような段階から四方各地に報徳の仕法が広められ、いずれも結社となって非常な進展がみられ、後の遠江国報徳社の土台石となったのである。翌年の嘉永二年(一八四九)には安居院先生は佐平治と連れ立って、袋井に住む高部村の高山藤左衛門氏を訪れて、同所の仕法を指示して後の高部報徳社が芽生えた。また同年に気賀宿に気賀社の創立をみている。それは次の記事で知ることができる。「嘉永二年春、浅田勇治郎氏が伊勢におもむく途中、当地の字(あざ)小森、恩田彦右衛門の茶店で休息した際に、話が報徳談に及んだ。恩田はその教えに大変感動し、浅田氏を庄屋の竹田兵左衛門に紹介した。竹田氏はまた報徳が非常にこの地の民に適切な教義であることを思って村人にはかって気賀社を創立した。翌三年浅田氏の実兄安居院庄七氏も来て大いに努力された。ここにおいて完全に基礎が確立した。」と(引佐郡誌上巻)また同二年に駿州大宮宿の鈴木正吉という人の厚い招待で江州へ安居院兄弟は出発された。至るところで報徳の道を励行され、なかなか帰国することもできず、東国の報徳連中からたびたび帰国を促がされた。ようやく九月に江州で兄弟は袂(たもと)を分って、浅田氏は伊賀・河内・京都まで巡られることになり、十月初旬安居院先生はようやく三年目に遠州へ向われた。その随身に江州仁正寺村の黒田清五郎代仁平、遠州気賀小森の恩田彦右衛門三人で駿州江尻の峯村御陣屋の佐野小左衛門まで向われたとある。江州の地にも相当に報徳が伝わったことと思われる。(浅田有信先生秋夕伝抄録)更に嘉永四年の秋には遠州周智郡一宮村片瀬に片瀬報徳社が出来、次いで小笠郡平田村にも平田(なめた)社が結成された。同五年二月に安居院先生は森町の依頼で山中豊作・中村常蔵氏に迎えられ、山中氏方に滞在中激性の間歇熱にかかり、七十日間病床にあった。この病中に山中豊作家の分度を定め、子孫永安の仕法を立て、また森町報徳社結社の仕事が忙しかった。なお、山中氏とは同地の山中勘左衛門のことで、山中豊作とあるのは後に新村をついで利助と改め、その地方の報徳社を統率して活躍された名高い報徳人である。またその兄弟に小野江善六、伊藤七郎平が共に安居院先生に教えを受け、揃って本社の副社長に選ばれている。また同年の頃、安居院先生は富士郡大宮町の富士浅間神社に参詣し、同神社大宮司富士又八郎を訪問し、報徳を説かれた。そこで先生は仕法を求められたので、数日間滞在して仕法を定め実施した。その年、先生は庵原(いはら)郡江尻の峯の陣屋佐野小左衛門方にいた時に、同郡大内村の荒木由蔵、以前相州小田原のある寺の住職だった僧の忠山が同村に住み、詳細に小田原藩の報徳の事を伝聞して、これに敬慕して入門した。安政元年には荒木の手で大内社が成立した。これが後の駿河中報徳社の前身といわれる。ちなみに荒木氏は終始報徳の道に身を捧げ、静岡県庁時代に入って山岡鉄舟に認められ、報徳教師を拝命して、全県下にわたって努力され、安居院先生以後の後継者として一生を捧げている。安政元年(一八五四)のある月安居院先生の足は甲州の万沢村に伸びて、同地の神職の近藤石見の家に身を寄せ、時々村人を集めて報徳を勧め、また軍記物を講じたこともある。先生が勧めたことは、朝起きの励行、縄ないの積立、報徳植として短冊苗代・正条植等がある。なお翌二年も続いて来られたと伝えられている。(同地吉田中知氏談)安政二年(一八五五)のある月には駿州庵原郡小島橘屋小右衛門方にあって、同地方に報徳を伝えたものと思われる。遠州の伊藤七郎平が訪問して教えを受けている。安政三年(一八五六)の正月に先生は、遠州神谷與平治方にあり、羽鳥村の松島授三郎が入門している。松島氏もまた有力な指導者で、後に三遠農学社の社長と仰がれている。なおまた安政四年(一八五七)に先生は庵原郡鳥坂村にあった。府中在石田村石垣治兵衛が先生について教えを受けたいと面会を求めたが受け付けない。懇請すること三か月に及び、次いで仕法開始となり、明治五年に至って仕法は成就したという。後に報徳社に組織されて駿河西報徳社と改められた。(詳細は別頁に譲る。報徳五十五号)文久二年(一八六二)のある月、先生が浜松に在る時に、遠州引佐郡田村の金原孫四郎が訪問して入門した。次いで同村に仕法が行われ、翌年二月には都田社の同志十九人で創立され、金原氏は社長となっている。以上は安居院先生が生存中の遊歴地で、かつ報徳関係を略記したに過ぎない。明治六年には伊勢松坂町に西町報徳社が創立されて、社長に亀山八代次郎がなっている。先生から教えを受けたものと思われるが、その後の発展がどうなったかは分からない。○勢州における報徳の種は浅田氏によってまかれたようで嘉永四年松坂にては田丸領へも広めらたく希望を聞き、また安政四年には藤堂候の家来で茨木理兵衛と言う人が御領分の正業に試したいという旨をもって仕法書類の借用を申し込んでいる。
2024.01.11
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング残り2日現在支援者数61人 目標金額の66% 四、信心作兵衛を訪れ、万人講へ安居院先生は河内国(かわちのくに:大阪市東部)の杉澤作兵衛の家に身をおいて神道を学ばれた。杉澤氏は、世に信心作兵衛と呼ばれるほどの名高い、神を敬う人で、その深まった力は公益の事業に顕れ、今に伝わっている。なかんずく伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮三社に大燈籠(とうろう)を献じ、毎年各々太々神楽(だいだいかぐら)を奉納する。その当日には各地から多数参集して非常に盛大を極めた。この組織を万人講と唱え、信心の加入者によって成る団体である。先生の兄弟はこの依頼を受けて継承者となって、全国に勧誘を試みる事となった。そこでここに杉澤作兵衛と万人講を概説する。杉澤作兵衛は河内国交野郡(かたのぐん)田口村に住み、親は七左衛門といい、男女六人兄弟の三男に生まれた。その頃、家の借金が加わり生活は困難を極めた。八歳から孝心が厚く氏神に毎日参って助けを祈る。十六、七歳の頃、家族で相談し、兄弟一同奉公に出て、その給金で借金を返し、家計を立て直そうということになった。三、四年で借金は返済でき、八、九年で質入れしていた田畑は請け戻すことができ、安心して生活できるようになった。ここに作兵衛氏は同じ苗字で潰家(つぶれや)だった杉澤作兵衛の家をついで、五、六年努力して家を立て直した。ところが人の世話をして手違いをして責任をとることになった。そこで所有していた家財・諸道具・衣類に至るまで売り払って片づけることになった。そのため急に生活に行き詰って貧苦に陥った。ここに自身が苦難をなめた体験から、他人の難儀(なんぎ)に共感し同情する慈悲心が湧いて、人をも助け我もともに助からんという願望を起した。しかしこれには神様の加護がなくては叶わない。氏神の日参は二十五年も続けたが、更に三社の神並びに京都御所、北野天満宮へ大願をかけ、起請文をささげ、飲酒と日中横臥をしないと二つの事を誓い、里数八十里余の所を三か年三か月にわたって月参を始めた。なおこの大願望は容易の事ではない。石清水八幡宮の神慮を仰ごうとして、道程四里余りの所を日参すること三年に及んだ。ところが寸善尺魔(良い事は少なく悪い事は多い)という通り、少し差支えがあって二、三日怠ってしまったので、更に改めて三年を追加して都合六か年に及んだ。ここで妻はあまりの事に離縁を申し入れた。作兵衛氏が諭しても聴かない。止むを得ず親元に戻すことにした。それでも日参は続けたという。ある年、五畿内(近畿地方の中央部)で干ばつがあり、虫が湧き出した。作兵衛は祈願をこめたお蔭で幸いに平年並みの作柄を収穫できた。そこでこれを感謝して初穂の三升を小さな俵に作って、京都の御所様に献納しようとした。ところが前例がないと一度は退けられたが、役所へ呼び出されてお尋ねをこうむり、多年にわたる信心の次第を一々聞き取られて、奇特(きとく)の志であるとお納めする事ができた。それどころかご褒美をいただいた上、京都御所への出入りを許されることになった。冥加(みょうが)この上ないことであった。 なお万人講の行っていた事業は、従来から行われていたことで、神仏への祈願または報謝の心から、灯籠の建立とか太々神楽(だいだいかぐら)の奉納とか、あるいは代参の派遣とか各地にあったが、あるいは怠慢のため中絶し、あるいは弊害のため支障を来し、一進一退の盛衰もあって連続されず怨みがあった。これに鑑みて思いを凝らし、大小貧富ともに信心の心を集め、誠に清浄の他力を以て三社に高さ二丈三尺余り(約3㍍90㌢)の石灯籠一本ずつを奉納し、昼夜灯を点じ、並びに三社に永代太々御神楽を奉納して神徳に報い、また二人ずつ月参させ、神慮を仰がせて御恩徳を感じさせるように導き、そのほか余ったお金で諸方の壊れた道や橋を補修し、通行人と牛馬の労苦を助けようとした。これが万人講の講元の心得であると述べている。 万人講より普請致し候場所昼夜燈一伊勢大神宮、二丈三尺余の大燈籠 勢州松坂より半道程先信通り道筋上川村と申す所へ相建て候 同一石清水八幡宮へ右同断 山城国石清水八幡宮一の鳥居の前に相建て候 十か年以前建立一神社仏閣に一丈八尺の常夜燈 勢州大燈籠地所同所へ相建て之有り候 十九か年以前建立一南都二月堂へ一丈八尺の常夜燈 南都奈良坂普請所坂の上に相建て之有り候一南都奈良坂並びに般若坂道両所の普請一京都大宮通車道敷石の普請一相州大住郡曾屋村道橋の普請 右の外少々ずつの道橋等の普請方表に数か所出来之有り候 以上が杉澤作兵衛氏の概要で、万人講の組み立ての抄録である。もちろん安居院兄弟の記録によったものであることは申すまでもない。なおその末文には次の記事が載せられている。 「わたくし事、先年上方へ参ったところ、不思議な因縁で万人講の最初から講元に付き添って、奈良に五年余りいました時、ご神慮のご加護があり、誠に心魂に徹し有難い事です。ついては私は相模国(神奈川県)出身ですので、相模国の人々に手をとって講中に加入させたいと存じます。」と弘化二年(一八四五)五月○日を以て浅田・安居院の両署名がある。 万人講は、杉澤作兵衛が晩年に及んで後事を安居院兄弟に託す事になり、これよりその後継者として各地に勧誘を努めた。今その足跡の詳細は判らないが、五畿内から東へ近江・伊賀・伊勢へと延びたらしく、もっとも著しいのは伊賀・伊勢であって、それには報徳をも加えている。また先生の述懐にも南部に五ヶ年余りいたとある。洞察力がある多才の先生の事だから、その地方の農業の進歩は見逃さない。元来、農業面は畑違いであるはずだが、後にはひとかどの農業者として栽培法を説き、稲の正条植え、種の薄蒔き及び茶の栽培のように、これを我が遠州地方に広く伝えた功績は大きい。それらはいずれもこの地方から取り入れられたものと思われる。 それから嘉永四年(一八五一)に弟浅田が伊勢に亡くなって片腕をもがれてしまい、特に報徳の道は、日に月に開拓されて忙しく、したがって万人講を顧みるいとまがなくなったので、同年の冬、これを遠州の報徳連中に相談して助けを頼んだ。ここに報徳社の力に継続されて、次の組織が出来上がった。
2024.01.11
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」クラウドファンディング残り2日で終了します。1月11日新たに2人、支援者が出現した。目標金額の66%になった、感謝します。〇〇様「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」プロジェクトプロジェクトをご支援いただきまして誠にありがとうございます。本日残り2日となって2人目の支援者です。残り5日になってから新たな支援者が出現しなかっただけに、本日新たに2人支援してくださることに力づけられます。『報徳』12月号に鷲山恭彦先生が「『報徳開拓者 安居院義道』をめぐるエピソード」の『巻頭言』を寄せられています。そしてその最期を「今回、70年ぶりに『安居院義道』が現代語訳で読めるようになった。「人民の勤耕」の立場に生きた安居院義道の思想と実践は、現代に生きる私たち市民が、自立的・主体的に現代の諸課題と対峙しようとするとき、様々な示唆と励ましを与えるものとなるのではないだろうか。」と結ばれています。出版記念絵葉書として、安居院先生の『報徳』の書や「若き大山御師安居院庄七の像」などのイラスト2枚、さらに今回発掘した「相州御領分図絵」も絵葉書として採用します。出来上がりが楽しみです。プロジェクトの進捗や状況については、プロジェクトページの「活動報告」にて投稿していきます。目標金額達成のためプロジェクトのシェア等、支援者様のさらなるご協力をしていただけますと幸いです。
2024.01.11
『現代語 安居院義道』 クラウドファンディングに本日2人目の新たな支援者が出現した 支援者数61人目 目標金額の66%素晴らしい!!残り2日 となって しっかりとした 支援者の出現に 感動する!大日本報徳社の『報徳』令和5年12月号の鷲山恭彦社長の『巻頭言』は『報徳開拓者 安居院義道』をめぐるエピソード」であった。『報徳開拓者 安居院義道』は、安居院についての唯一の実証的著作なのだが、古い書き方をしていて大変読みにくい。本書の意義を認めて現代語に直して下さった。祖父。恭平が報徳社に関わったのは、明治の終わり頃である。安居院は忘れられた存在になっていた。祖父は安居院に関心を持ったものの、資料も少なく、聞書きも難しくなっていた。集めてはみたものの「内容は貧弱であった」昭和28年82歳「空しく箱の底にしまっておいたのだが、昨年まとめてみたいと一大念願を起して、おいぼれの最後の努力を試みた次第である」出来上がるのを今や遅しと待っていたところ、本を手にして愕然とした。誤植の多さに驚いたのである。『お詫びまでに』と正誤表を作る。意に満たない出版だったが、学会で評価される。奈良本辰也氏は『二宮尊徳』の「あとがき」に「いろいろ参考になったのは.....鷲山恭平氏の『安居院義道』である」と特記された。加茂元照さんは「岡田佐平治と息子良一郎は、義道や尊徳から報徳の理論を学び、掛川を中心に報徳社運動を展開する。しかし後に国政に深く関与することによって、明治、大正、昭和を通じて、その時々の国家的要請、施策と合致した形が目立った。これは、二宮尊徳が後半生を幕臣として藩政改革に参画した性格を受け継いだものと言える」岡田良一郎は、世襲の庄屋である。「庶民自身のための近代思想としては、充分に活用できなかった」それに対抗して森町の報本社は「産業主義的な方向」で打ち出した。これは「安居院義道の指導した方向」であった。 この中から、鈴木藤三郎が出る。そしてこの方向が「浜松地方にホンダ、スズキ、ヤマハなどの新興国際企業の発展を促していく思想の基盤となった」と加茂さんは分析している。「この労作が見事に日本の近代史の欠けていた部分を補い、正しい評価に資したことは、多くの近代史家の論調が、この本の出版を境にしてハッキリ違って来ている点から見ても明らかである」と加茂さんは語る。鷲山先生は「現代語 安居院義道」について次のように結ぶ。「今回、70年ぶりに『安居院義道』が現代語訳で読めるようになった。「人民の勤耕」の立場に生きた安居院義道の思想と実践は、現代に生きる私たち市民が、自立的・主体的に現代の諸課題と対峙しようとするとき、様々な示唆と励ましを与えるものとなるのではないだろうか。」と結ばれている。💛本書は副題として「報徳の師父第三集」と銘打っている。この本は「鈴木藤三郎顕彰シリーズ」の一環にほかならない。「鈴木藤三郎顕彰第二集」「鈴木藤三郎はどのようにして遠州報徳の風土から出現したのか」を考究する「報徳の師父」シリーズ第3集なのである。 本書を通じて「安居院庄七→森町報徳三兄弟→鈴木藤三郎」と受け継がれた「産業主義的な方向」と鈴木藤三郎についても見直される契機となれば、編集者の共同の願いである。
2024.01.11
「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」のクラウドファンディング あと2日現在、支援者数60人 目標金額の64% です。◎相州北秦横曽根村難村取直し相続手段帳 相州大住郡北秦横曽根村仮趣法帳 右の村は前々より困窮していたところ去る天保四年(一八三三)、七年(一八三六)二度の大凶荒(天保の大飢饉)につき、暮し方初め全て極端にさしつまり、立直しの手段方法も尽き果てて一途方に暮れていた所、当村の庄兵衛老人(百姓代)が日頃村を善くする事を心がけていたが、ふと十日市場の(安居院)庄七に出会い、話の中で、庄七は二宮先生の大名を聞いて善道の大意を聞きたいと八か年以前より心がけていた所、幸いに庄七は去る天保十三年六月に野州の桜町陣屋へ出かけて、小田原領中沼村の伝蔵の取次ぎで先生へ一家取直し相続その外についていろいろと教えを受けて心から感服して、七月二十六日まで逗留し、同日いとまを申し上げて帰国したとのことであった。さっそく横曽根村の庄兵衛は村方へ一同相談したが、すぐには判断できないということでその年も過ぎた。翌天保十年二月から庄七は村に来て、庄兵衛も含めて村方の大小一同と話し合い、二宮先生の理解も段々進み、十月まで毎月三度ずつ来て参り説き聞かせた所、村方名主伴右衛門、市右衛門、吉左衛門、吉蔵、惣右衛門の五人をはじめ、村中一同恐れ入ったと感心し、御趣意に基いて毎日毎日農業は申すに及ばずその外何事に限らず、村の為に成ることを工夫して精を出し、あるいは米作りのお初穂、あるいは山かせぎ、あるいは縄ない・むしろ織り、あるいはわらじ作りなど、農事の間、朝夕励みました。村立直しの趣法を組み立てたいと思っても、その目標がなくては成就しがたいから、まずは人々が自分の身の分限をよくわきまえてほしい。たとえば木は同じ杉であっても桶屋が一升樽を作れば、一升樽に成る所が則ち身の分限である。三升樽を作れば、三升樽に成る所が身の分限である。五升樽を作れば、五升樽に成る所が身の分限である。壱斗樽を作れば一斗樽に成る所が身の分限である。また曰く、水六尺五寸の大桶を作れば、大桶に成る所が身の分限である。一升樽、二升樽、三升樽五升樽、一斗樽それぞれ大樽の積りをしようとしても十分に及ばない。だから他念がない。他念がないため生涯それぞれ八分に入れて置く時はこぼれて散る憂いがない。そうであれば横曽根村に住む者は村高五十七石、家数潰れも合わせて二拾二軒、一軒当り二石五斗九升一合に当る。これが天性自然である。その余は農間期に朝夕よく励んで働いて、天道の正理を恐れて、各々本業を尽し、百姓を相続したいものである。もし分を失えば貧苦や艱難を免れない。その根元を考えるに、人は皆天地の間に生れて、天地のめぐみを得て、天地の間に住みながら、どうして天地に従わないでよかろうか。いよいよ慎んで守る時は安楽自在を得る事は疑いがない。聖語(中庸)にいう。天命、これを性という。性にしたがう、これを道という、道を修める、これを教えという。道というものは少しも離れてはならない。離れることができるものは道ではない。右は相州大住(おおすみ)郡北秦横曽根村の人々が困窮難渋し、去る天保の二度の大凶荒飢饉について暮し方が差しつまり、このまま差し置いてはつぶれるほかはない途方にくれ、よんどころなく村中一同が相談の上で村役人惣代を以て御地頭所へお願いに上り、助成の米、金は左の通りです。一お米 一お金右の通り拝借仰せつけられ、下されました。村内一同助かり、皆が露命をつなぎました。誠に有難くしあわせに存じます。去る酉年より今卯年まで年々割済を以て返納いたしましたが、まだ村の立直しについては途方に暮れています。このたび庄兵衛の取持ちで二宮先生のご理解を承って一同感心した事は前文の通りです。人々が分限分内をわきまえて天命に基けば貧窮の憂いを免れて富貴も一段と進むことと互いに励んで、農業に一生懸命精を出して働き、農業のあいまに朝夕縄をないむしろを織り、わらじを作り、村の為になるようにと一心に努力していきたいと、村中一同連印し捺印する次第、次の通りです。発言人 姓名 印 名 主 同 印組 頭 同 印 百姓代 同 印総百姓 同 印 取次人 同 印 二宮金次郎様聖語(論語・学而)に曰く、過ちては改めるに憚(はばか)ることなかれ、とのたまえり。中庸に曰く、果たしてこの道を能くすれば、 愚と雖も必ず明らかに、 柔なりと雖も必ず強し。今回、村の取直し、百姓相続の趣法組立てのことは当二月からご指導を頂き承服している所です。村が前々から困窮難渋し、あるいは潰れ、あるいは退転しているその根元はそれぞれ本業を怠り、終に身の分限を失い、おごりにふけるためです。もっとも貧富は時により変化しますが、一村同じ所に生れることは、前世の宿縁で、万代変わらない仕合せなことです。そこで村内で申し合せ、潰れ百姓や非常に困窮する人、今日の暮し方に差し支える者が相互に助け合い、取直しを申し合せ、常々何事に限らず全て倹約を宗とし、酒を止めその器物を売払い、煙草を止めその道具を売払い、質素な服を用いその余の服を売払い、質素な器を用い余の器を売払い、神事を厚くし長ずるを禁じ仏事を厚くし長ずるのを禁じ、伊勢太々講は驕奢を禁じ・・・・吉礼凶礼全て本源を厚くし弊風驕奢を省き節倹を尽し、潰れ百姓相続したい段、窮民撫育のため勤労し、家政を取直し、子孫に相続するため本業に精出し、暮し方の驕倹その外何事によらず共々勤め行いたい事です。 日々につもる心のちりあくた あらい流して我を尋ねん 飯としる木綿着物は身を助く 其余は我をせむるのみなり恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども年々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども月々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども日々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども時々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめばその身その身天命有れども刻々その徳分内を減ず恐るに恐るべし財を受け身を楽しめば終に父母祖先の徳を滅じてその身子孫の徳を失うなり勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども年々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども月々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども日々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども時々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身天命有れども刻々その徳分内を増す勤むに勤むべし身を苦しめ財を施せばその身その身有れども天命その身子孫徳を得るなり聖語(中庸)に曰く、天の命ずるこれを性といい、性にしたがうこれを道といい、道を修めるこれを教えという。道はわずかな間も離れてはいけない。離れられる道は道ではない。曇らねば誰が見てもよし富士の山 生れ姿で幾世経るとも聖語に曰く、過てば則ち改めるに憚るなかれ。 日々に積る心の塵芥 洗い流して我を尋ねん聖語に曰く、君子は必ずその独りを慎しむ 山寺の鐘つく僧の起伏しは 知らで知りなむ四方の里人湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たに日日に新たにまた日に新たなり 古の白きを思い洗濯の返す返すも返す返すも富貴・貧賤・善悪・邪正とも 蒔種と生たつさまは異なれど 実法は元の種となりぬる 蒔種のすぐにそのまま生いたちて 花と見るまに実る数数 天地や無言の経を繰り返し後に語(論語・陽貨)に曰く、天何をかいうや、四時行われ百物生ず、天何をか言うや。儒者同じく語る。経(般若心経)に曰く、色則是空、空則是色。(完)
2024.01.11
「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」のクラウドファンディングが暫く新たな支援者が出現していなかったが、60人目となる支援者が現れた。〇〇様「「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します」プロジェクトをご支援いただきまして誠にありがとうございます。60人目のご支援感謝します。カウント5日目くらいから、新たな支援者が現れず、59人、目標金額の62% で終了するのかなと思われただけに新たな支援者の出現に感激しました。目標金額に達しなくても、本書は出版し、大学図書館・公共図書館に寄贈します。また出版記念絵葉書をより魅力的なものにするべく、調整中です。プロジェクトの進捗や状況については、プロジェクトページの「活動報告」にて投稿していきます。目標金額達成のためプロジェクトのシェア等、支援者様のさらなるご協力をしていただけますと幸いです。
2024.01.11
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますあと2日で終了します。 四、信心作兵衛を訪れ、万人講へ安居院先生は河内国(かわちのくに:大阪市東部)の杉澤作兵衛の家に身をおいて神道を学ばれた。杉澤氏は、世に信心作兵衛と呼ばれるほどの名高い、神を敬う人で、その深まった力は公益の事業に顕れ、今に伝わっている。なかんずく伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮三社に大燈籠(とうろう)を献じ、毎年各々太々神楽(だいだいかぐら)を奉納する。その当日には各地から多数参集して非常に盛大を極めた。この組織を万人講と唱え、信心の加入者によって成る団体である。先生の兄弟はこの依頼を受けて継承者となって、全国に勧誘を試みる事となった。そこでここに杉澤作兵衛と万人講を概説する。杉澤作兵衛は河内国交野郡(かたのぐん)田口村に住み、親は七左衛門といい、男女六人兄弟の三男に生まれた。その頃、家の借金が加わり生活は困難を極めた。八歳から孝心が厚く氏神に毎日参って助けを祈る。十六、七歳の頃、家族で相談し、兄弟一同奉公に出て、その給金で借金を返し、家計を立て直そうということになった。三、四年で借金は返済でき、八、九年で質入れしていた田畑は請け戻すことができ、安心して生活できるようになった。ここに作兵衛氏は同じ苗字で潰家(つぶれや)だった杉澤作兵衛の家をついで、五、六年努力して家を立て直した。ところが人の世話をして手違いをして責任をとることになった。そこで所有していた家財・諸道具・衣類に至るまで売り払って片づけることになった。そのため急に生活に行き詰って貧苦に陥った。ここに自身が苦難をなめた体験から、他人の難儀(なんぎ)に共感し同情する慈悲心が湧いて、人をも助け我もともに助からんという願望を起した。しかしこれには神様の加護がなくては叶わない。氏神の日参は二十五年も続けたが、更に三社の神並びに京都御所、北野天満宮へ大願をかけ、起請文をささげ、飲酒と日中横臥をしないと二つの事を誓い、里数八十里余の所を三か年三か月にわたって月参を始めた。なおこの大願望は容易の事ではない。石清水八幡宮の神慮を仰ごうとして、道程四里余りの所を日参すること三年に及んだ。ところが寸善尺魔(良い事は少なく悪い事は多い)という通り、少し差支えがあって二、三日怠ってしまったので、更に改めて三年を追加して都合六か年に及んだ。ここで妻はあまりの事に離縁を申し入れた。作兵衛氏が諭しても聴かない。止むを得ず親元に戻すことにした。それでも日参は続けたという。ある年、五畿内(近畿地方の中央部)で干ばつがあり、虫が湧き出した。作兵衛は祈願をこめたお蔭で幸いに平年並みの作柄を収穫できた。そこでこれを感謝して初穂の三升を小さな俵に作って、京都の御所様に献納しようとした。ところが前例がないと一度は退けられたが、役所へ呼び出されてお尋ねをこうむり、多年にわたる信心の次第を一々聞き取られて、奇特(きとく)の志であるとお納めする事ができた。それどころかご褒美をいただいた上、京都御所への出入りを許されることになった。冥加(みょうが)この上ないことであった。 なお万人講の行っていた事業は、従来から行われていたことで、神仏への祈願または報謝の心から、灯籠の建立とか太々神楽(だいだいかぐら)の奉納とか、あるいは代参の派遣とか各地にあったが、あるいは怠慢のため中絶し、あるいは弊害のため支障を来し、一進一退の盛衰もあって連続されず怨みがあった。これに鑑みて思いを凝らし、大小貧富ともに信心の心を集め、誠に清浄の他力を以て三社に高さ二丈三尺余り(約3㍍90㌢)の石灯籠一本ずつを奉納し、昼夜灯を点じ、並びに三社に永代太々御神楽を奉納して神徳に報い、また二人ずつ月参させ、神慮を仰がせて御恩徳を感じさせるように導き、そのほか余ったお金で諸方の壊れた道や橋を補修し、通行人と牛馬の労苦を助けようとした。これが万人講の講元の心得であると述べている。 万人講より普請致し候場所昼夜燈一伊勢大神宮、二丈三尺余の大燈籠 勢州松坂より半道程先信通り道筋上川村と申す所へ相建て候 同一石清水八幡宮へ右同断 山城国石清水八幡宮一の鳥居の前に相建て候 十か年以前建立一神社仏閣に一丈八尺の常夜燈 勢州大燈籠地所同所へ相建て之有り候 十九か年以前建立一南都二月堂へ一丈八尺の常夜燈 南都奈良坂普請所坂の上に相建て之有り候一南都奈良坂並びに般若坂道両所の普請一京都大宮通車道敷石の普請一相州大住郡曾屋村道橋の普請 右の外少々ずつの道橋等の普請方表に数か所出来之有り候 以上が杉澤作兵衛氏の概要で、万人講の組み立ての抄録である。もちろん安居院兄弟の記録によったものであることは申すまでもない。なおその末文には次の記事が載せられている。 「わたくし事、先年上方へ参ったところ、不思議な因縁で万人講の最初から講元に付き添って、奈良に五年余りいました時、ご神慮のご加護があり、誠に心魂に徹し有難い事です。ついては私は相模国(神奈川県)出身ですので、相模国の人々に手をとって講中に加入させたいと存じます。」と弘化二年(一八四五)五月○日を以て浅田・安居院の両署名がある。 万人講は、杉澤作兵衛が晩年に及んで後事を安居院兄弟に託す事になり、これよりその後継者として各地に勧誘を努めた。今その足跡の詳細は判らないが、五畿内から東へ近江・伊賀・伊勢へと延びたらしく、もっとも著しいのは伊賀・伊勢であって、それには報徳をも加えている。また先生の述懐にも南部に五ヶ年余りいたとある。洞察力がある多才の先生の事だから、その地方の農業の進歩は見逃さない。元来、農業面は畑違いであるはずだが、後にはひとかどの農業者として栽培法を説き、稲の正条植え、種の薄蒔き及び茶の栽培のように、これを我が遠州地方に広く伝えた功績は大きい。それらはいずれもこの地方から取り入れられたものと思われる。 それから嘉永四年(一八五一)に弟浅田が伊勢に亡くなって片腕をもがれてしまい、特に報徳の道は、日に月に開拓されて忙しく、したがって万人講を顧みるいとまがなくなったので、同年の冬、これを遠州の報徳連中に相談して助けを頼んだ。ここに報徳社の力に継続されて、次の組織が出来上がった。 ◎三社(さんしゃ)燈(とう)籠(ろう)万人講(まんにんこう) 三社(さんしゃ)燈(とう)籠(ろう)万人講(まんにんこう)永代(えいだい)太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)金元(かねもと)立(たち)仕法帳(しほうちょう)伊勢(いせ)春日(かすが)八幡(はちまん)三社(さんしゃ)燈(とう)籠(ろう)万人講(まんにんこう)、並(ならびに)永代(えいだい)太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)之(の)儀(ぎ)者(は)、河内国(かわうのくに)杉澤(すぎさわ)作兵衛(さくべえ)君(くん)発起(ほっき)、其(その)趣旨(しゅし)者(は)、世人(せじん)三社(さんしゃ)之(の)御(おん)徳(とく)を崇敬(すうけい)、太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)古来(こらい)より連綿(れんめん)と行(おこなは)れ候(そうら)へ共(ども)、悲(かなしい)かな貧家(ひんけ)の者(もの)太々(だいだい)御(おん)神楽(かぐら)奉(ほう)献(けん)と申(もうす)事(こと)は甚(はなは)だ稀(まれ)にして当世(とうせい)の形体(さま)貧民(ひんみん)をよばざるが如(ごと)し。依(より)て世(せ)界(かい)一(いっ)統(とう)奉献(ほうけん)相(あい)成(なり)候(そうろう)様(よう)講中(こうちゅう)を取結(とりむす)び、半途(はんと)にして杉澤(すぎさわ)君(くん)死(しに)退(しりぞ)き、相州(そうしゅう)安居院(あぐい)庄(しょう)七(しち)浅田(あさだ)勇次郎(ゆうじろう)兄弟(きょうだい)の君(きみ)、杉澤(すぎさわ)氏(し)の志(こころざし)を継(つ)ぎ年々(ねんねん)御(おん)神楽(かぐら)奉献(ほうけん)専(もっぱ)ら世話(せわ)中(ちゅう)、嘉永(かえい)四亥(いの)年(とし)浅田(あさだ)君(くん)死(しに)退(しりぞ)き、安居院(あぐい)君(くん)一人(ひとり)と相成(あいなり)世話(せわ)行(いき)届(とどき)難(がた)く、暫時(ざんじ)休(きゅう)年(ねん)国中(くにじゅう)の講中(こうちゅう)へ相達(あいたっ)し候得共(そうらえども)、其(その)儘(まま)廃(はい)せし事(こと) を深(ふか)く歎(なげ)き、報徳(ほうとく)連中(れんちゅう)へ相談(そうだん)の趣意(しゅい)一同(いちどう)感服(かんぷく)、則(すなわ)ち報徳(ほうとく)連中(れんちゅう)世話人(せわにん)と相成(あいなり)、永代(えいだい)御(おん)神楽(かぐら)奉(ほう)献(けん)の基本(きほん)仕立(したて)左(さ)に組立(くみたて)、弥(いよいよ)成就(じょうじゅ)の上(うえ)者(は)右(みぎ)講(こう)鑑札(かんさつ)信心(しんじん)の人(ひと)へと相(あい)譲(ゆず)り貧富(ひんぷ)に抱(かか)はらず御(おん)神楽(かぐら)奉(ほう)献(けん)、大(だい)神(じん)宮(ぐう)に御(おん)恩(おん)徳(どく)を報(むく)ひ奉(たてまつ)り善人(ぜんにん)多(おお)からんことを希(ねが)ふ而(の)己(み)。(略) このようにその時代は順番制で交替したものであった。後に明治初年に遠江国報徳社の所管に移して、行事は毎年三月二十三日に代参人二名を派遣して太々神楽を奉納し、各社員は東西より参加して盛んであった。またその機会において代参人は松坂にある西法寺に仏供料(ぶつくりょう)を納め、浅田氏の墓参を行った。 それからは万人講金も千百九十円に達し、年々行事を務めてもなお増額の計算となったが、明治三十九年に安居院先生顕彰碑の議論が起ってこれに転用された。今、万人講保存備金として掲げるものは、大変少額となった。とくに近年になっては奉納金もけた違いの額になったようで、昔の万人講の優位は、今は全く見受けられない。先人に対して済まないような気持ちでいっぱいである。
2024.01.11
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますクラウドファンディングは、終了まであと3日です。現在、支援者数59人です。安居院義道 三、野州に報徳を聞き大転換安居院先生は、はるばると野州(栃木県)にまで下って二宮金次郎に接近したものの面会は断られ、希望した安い金利での借金を持ち出す機会もない。ただ衣食住の心配はなく、少しひまはある。そこで「二宮とは何者なのか」との研究心が湧き起ってきて、朝夕出入りする来訪者への対談や門人達への説話を立ち聞きする。初めは金貸しの親方くらいに想像していたのが、大きな見当違いでとても大きな衝撃であった。今その時の説話のどのような要点が衝撃を与えたのかは分からないが、おそらくは天理人道から説き来って、治乱興亡の経綸(国の秩序を整える)に及んで、難村の復興や困窮した民の救済に至る未だ発見されていない実際論であり、人の為、世の為にその身を忘れて全精神を捧げるこれまで聞いたことも見たこともない偉大な聖賢であったことに心が打たれたであろう。つらつらと自分の過去を回顧し反省すれば以前の生活は全く誤っていた。天地や神明に背き、人道を無視し、私利私欲に凝り固まった鳥や獣の姿であったことに想い致って、懺悔せずにはいられない。まるで月が雲を離れてコウコウとした光を放つように、長い眠りから、さめて心機の一大転換を起した。 まず第一に念頭に起ったのは、世の中の人は余りに金にとらわれ過ぎている。自分は金はいらない。自分のような者が金を持ったところで、正しい金の用い方を知らない。それに金を持たしたところで、金を殺してしまう。芸のない事だ。第二に浮かんだことは、しかし自分は金はいらないが、金があったら、二宮先生に差し上げたい。先生は古今独歩の金遣いの名人であるから、と。 このように心機が一転して、当初の借金問題はひっこんでしまった。しかしなおこの機会により多く二宮先生の説諭を聴かなければ、門人にも学ばなければ、また仕法の組み立ても知りたいと、仕法書類の写し取りなどに魂を打ちこんで、遂に借金の件は口にも出せず、また二宮先生にも面会しないで、十八日目に引き上げて郷里に帰った。(竹村篤老、高山藤七郎聞書) この聞き書きは桜町陣屋の七月二十六日の条とほぼ合致する。すなわち 一、「相州(そうしゅう)浦賀(うらが)宮原啓三郎、宮原治右衛門、伝右衛門、同(どう)大(おお)磯(いそ)宿(しゅく)茂兵衛、十日市場(とおかいちば)磯(いそ)屋(や)庄(しょう)七(しち)、豊田村(とよだむら)吉左衛門、甲州(こうしゅう)都留郡(つるぐん)小(お)沼(ぬま)村(むら)年寄(としより)忠兵衛、昨夜より御(ご)陣(じん)屋(や)へ罷(まかり)越(こし)居(おり)同(どう)道(どう)罷(まかり)帰(かえり)候(そうろう)事(こと)」 安居院先生が野州に下って得たものは、金の宝ではなかった。大きな収穫は、破れた自分の魂の取戻しであった。過去は全く空で一切が無である。一切を忘れ万事を葬り、未来を求めなければならない。生身の人間は口に利口な事を言っても世間の風に吹かれるともろい。よし一遍死ぬ、そしてよみがえるのだと、覚悟がきまった。いわゆる大死一番のすぐれた真理に到達した勝利である。この生まれ変わった姿は実に安居院先生五十四歳の時であった。顧みると先生の過去五十余年は不可解の人、疑問の人でもあった。ここに一切を清算して先生の真骨頂があきらかに顕現する。 自宅に帰ってからの先生は米の搗(つ)き売りを始めた。もともと米屋を営んでいたことだから別に不思議はない。しかし不思議なことは表戸を締めて、中でコトンコトンと米を搗く。それを裏口で売る。近所の人が「しばらく不在であったが、いつ帰った。また表戸を締めて何をするのか」と尋ねると、「所用があってよそへ出ていたがようやく帰って来た。これから米の搗き売りを始めるからよろしく頼む。表戸を締めているのは、この庄七は失敗してどん底から立ち上がらなければならない。世間では開店時は表を景気よく飾り立てて出発するが、いったん経営状態が悪化すると戸を閉めるのが型どおりだ。それを考えて次第に景気がよくなれば表戸を一つずつ開ける」と答えた。大死一番、一度死んで生れ変わって全力を尽くすということを、実践に移したのである。 その商売のやり方を元値商(もとねあきない)という。玄米一俵の仕入原価を白米として同一の値段で売る。一般の商業経済論からは全然商売にはならないと、一笑に付せられるかもしれない。家賃や食費、手間は勘定には入れない、ただ空の俵、糠(ぬか)、小米が純益となる細かい利潤が成り立つ。売る米は水で増やさず糠も足さない、ます目も正しく値段も安い。次第に人々が聞き知って遠くから買いに来る。そんな人たちに言われて店の戸を開けるようになって、暮れになって勘定すると十両の利益が出たという。そこで先生は、世の中の人は高く売れば儲かると言い、安く売れば損をすると思う、しかし高値で売る店はお客が減る、安く売るようにする店はお客が増える、譲って損なく奪って益なしの教訓を得た。そこから「合うようにしても合わぬ、合わぬようにしても合う」の格言のようなものを案出して、自分のそろばんを強く握って利益が出るようにしても思ったほどは儲からない、お客にそろばんを預けても、お得意様を大事に扱えば店は栄える。また商法は売って喜び、買って喜ぶ、双方共々喜ぶのが極意であると、大悟し徹底したことを説いている。 いったい元値商(もとね・あきない)の本質は不可解なものであって、あるいは米商売であれば応用されるかも知れないが、取り扱う品物によっては、仕入値で売れば暮しが立てられない心配がある。淡山先生は入費を差し引くといい、高山老は副産物利得の奉仕的と言われた。元値商を原価販売とすれば利潤はどこにあがるのか。要はお客本位の物の取次ぎ役に立ち、打算的でなく利益を独占しないことを奥義とし、後の薄利多売主義に替わるように思われる。この主義が後には我が遠州各地に広まって、至る所に報徳店が現出する。(岡田淡山著「富国論」中勧商章参照) このように一念発起して一家の生業をとったものの、悟りきった人の考え方と在来の営利に汲々とする風俗とは両立しない。ここに到って安居院先生は決然として一家を捨てて周遊の旅について、一家を廃して万家を興すと豪語し漂然(ひょうぜん)として、郷里を去った。(岡田淡山老師談) 〇元値商の歌売る人は成丈(なるだけ)安く買い出でて上手をいふて高く売るらん買方の心は誰も同じ事、値も格好で品のよひのを雑費やら懸けたほれやら引き去って、その値で売れば同じ事なり現金で元値限りに売るときは皆下げ銭で足はいとはじ現金で元値限りに売る時は、皆下げ銭で遠くから来る安心なこの商売の味ひをしらねば、急に取りてかかれず
2024.01.10
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますクラウドファンディングは、終了まであと3日です。現在、支援者数59人です。安居院義道 二、安居院家を継いで商人となる 先生は長じて同郡曾屋村(秦野市曽屋)十日市場の安居院(あごいん)家に婿入りしてその家を継いだ。同家は磯屋と称して代々穀物商を営んでいる。それがどんな縁からか、いつ頃か、また何歳か全くわからない。その妻を「ヒサ」といい、すでに先夫藤吉との間に数人の子があったと伝えられるから、相当の年配になってからのように推定されるが、この前後の経歴は全く不明である。これより一商人として家業に従事したことと思われるが、元来慧敏(けいびん=知恵があり気が利く)といわれる多芸の才物であったから、壮年時代は特に鋭気満々として、空しく一草蘆(そうろ:草ぶきの庵)に起き伏しすることをいさぎよいとしないで、常に一攫(いっかく)千金を夢見る山気があった。そのためその考えから出発し、たどった道は米相場であった。これは修験の家に生まれて陰陽説の信奉、気候風土の物産や物価に影響する等の天文記、安居院先生の没後に遺物として残された玉手箱(著作物)に結びついて考えられる。しかしこの手筋は一般に金儲け猛者(もさ)連の着眼する常道で、新発見でも天外からの福音でもない。ちょうど賭博(とばく)をする者が金にのみ眼がくらんで、自分だけは当たることだけ思い込んで、外れたら損をすることの分別が見忘れているのと同じである。さすがの先生といえども、また一直線に突進して浮き身をやつして、一進一退、虚々実々の場面にしのぎを削った。時には面白おかしく鼻高々の面もあったことと想われるけれども、いつまでもそうは甘くはない。遂には一敗地にまみれて大きな傷を受ける破目に落としいれられた。そして「しまった」と気づいた時は、自分の金銭を失くしたのではなく、養家の財産をすっかりなくしてしまった。しかし申し訳がないからと腹を切る気にもなれず、運が悪いからだと自己弁護に都合のいいふうに解釈し、もし金があったら取り返せそうな気がする。誰か資本を貸してくれる人はないか、最後の一戦に運命を賭けてみたいと念じていた。そんな時、天保十一年(一八四〇)になって報徳二宮先生は、小田原領内曽比・竹松の二村に報徳仕法を行い、負債整理や荒地開墾など難村衰村の立て直しにあずかる。安居院先生は仕法事業の性質は知らない。また深く究めるほどの興味は起こらない、そのうちに利息の安い金を貧乏人に貸す一事だけは天来の福音と感じて受け取った。しかしまた他面には今のようなセチ辛い世の中に利息が安いことなどあるはずがない。それを貸すということがわからない。事によると、二宮という者は大山師で、一芝居うつのではないかと疑った。しかし自分は二宮に用があるのではない。金を借りることが目的だ。よし一つ頼もうと決心した。その時二宮先生は小田原領におられない。野州(栃木県)桜町陣屋にあると聞いて、はるばると同地に向かった。すなわち陣屋日記の条に一、 相州十日町市場磯屋庄七と申す者、田蔵をたよって罷り越し候事と記載されている。また別日記の二宮先生の子息尊行氏二十二歳の時の筆記にも、田蔵の上に中沼村を加え、その末文に「始めて来る」と付け加えられている。 安居院先生は陣屋に行き、早速二宮先生に面会を求めたが、公務多忙のためと即座に拒絶されてしまった。 それは陣屋としては誠に無理もないことで、その当時、二宮先生は老中水野忠邦より、江戸表へ出府するように命令されていた。続いて利根川分水路印旛沼掘割工事の検分を仰せつけられ、後には幕府の役人に取り立てられ、御普請役格(ごふしんやくかく:土木工事係)を拝命するというを拝命するという、一世一代の光栄の出世時代に遭遇して内外実に大変多忙な時であって、それらは七月二十六日の陣屋日記に照らして逐一次第がうかがわれるからである。 このような場合であったから、先生に対して面談の余裕はない。しかし郷土の方から尋ねて来た情義で門前払いも忍びない。「まあ当分、風呂番でもさせておけ」といわれ、それから雑用をしながら面会の機会を待って、暫く陣屋に厄介になっていた。後に二宮先生はかいま見られて「彼は風呂の焚き方を心得ている」と言われたと伝えられている逸話がある。 この安居院先生と報徳のつながりについては次の一説がある。「その頃、竹松村の隣村に安居院庄七という人がいた。先師が、曽比・竹松の二村に取り直し仕法取り調べのため出張されると、筆算するべきものが多いことから、この庄七氏を書記に命じた。氏はもとより英才かつ志あり。師の教諭を聞いてよく筆記し、仕法の書類を多く書写し、厚くその教えを信じ、よくその意を理解した。事が終わって後に伊勢神宮に詣でて、帰路この教えをもって駿遠二州に遊ぶ、二州にこの道が伝播したのは全く庄七氏の力である、云々」(福住正兄著「富国捷径」首巻)「時に翁その隣村にあり。子弟に授くるに法書(手本となる仕法書)を以てす。先師その能筆を聞いて、挙用して書記役とする。弟の浅田勇次郎もまた随(したが)う。兄弟は昼夜先師に親しんで会得することが大変多かった。翁が一代の経営は既にここに基づく、云々」(雑誌報徳二十三号)とあることから、安居院・浅田兄弟の書記採用説が伝えられるが、我が遠江地方において先輩の伝える所では聞くところがない。桜町陣屋訪問の記事のように全く報徳には親しみも見えない、また二宮先生も未見の人のように面会も許されないと伝え、後の嘉永六年遠州七人組の日光訪問が初会見であったように伝えられている。(竹村篤氏・高山藤七郎老「聞き書き」による)また足柄下郡曽比竹松の仕法地について調べてみたが、安居院先生の関係は見つからない、また先生がその隣村に住んでいたとあるが、郡が大住郡と足柄郡との違いもあって理解しかねる。 本社理事、故神谷喜源治氏は、安居院先生は初め能筆ではなかった、筆道の研究にふけったのは晩年の五十余歳からである、能筆であったのは弟の浅田氏であって、あるいは同地仕法の手伝いに出たのは同氏であったかと思われる、と語られた。なお、筆者(鷲山恭平)の意見として述べれば、浅田氏が近江・伊勢地方において早くから報徳を説かれた所から、その資料はいずこから仕入れたか判然としていないが、必ずや小田原領の仕法から学んだより外にない、と思う。【編者注】「富田高慶先生との対話」(『富田高慶報徳秘録』所収)に次の一節があり、それからすると安居院先生は、小田原の曽比・竹松の報徳仕法の際、二宮先生の村民への教戒を聴聞しており、また仕法書の書き写しをしていたようである。「安居(院)は、旧大山御師なりと云う。曽比・竹松の両村御趣法御施行の頃、故先生が村民一同ヘ御教戒為されたる所を、障子(しょうじ)の外にて立ち聞きした人物で、御趣法はその頃、筆記に頼られていたのを幸いに写し置き、その御趣法に感じて、駿遠地方に説諭し、回られたり」
2024.01.10
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版しますクラウドファンディングは、終了まであと3日です。現在、支援者数59人です。安居院義道〇現代語版の『安居院義道』に寄せて 鷲山恭彦 安居院義道の肖像と書題字 序文 はしがき(鷲山恭平氏自序) ・・・・ 21 目 次一 家系と生い立ち ・・・・ 24二 安居院家を継ぎ商人となる ・・・・ 28三 野州に報徳を聞いて大転換 ・・・・ 35(参考資料)相州大住郡北秦横曽根村仮趣法・41 伊勢原市史資料編 続大山・・・・ 49四 信心作兵衛を訪ねて万人講へ ・・・・ 54五 万人講から報徳の開拓へ ・・・・ 64六 遠州報徳連代表七人日光に大先生を訪ねる ・・・・ 74七 先生の指導型と石田村の仕法 ・・・・ 80八 駿河遠州を家とし足跡点々 ・・・・ 92九 その人柄と才芸、逸話の数々 ・・・・ 103十 先生の臨終、葬儀とその遺物 ・・・・ 114十一 歿後の余韻 ・・・・ 126十二 浅田勇次郎氏伝 ・・・・ 136十三 先生の残された著作物等々 ・・・・ 144資料編156 1莫妄想157 2人間算当勘定1623報徳作大益細伝記166 4算法地方大成全194 5万作徳用鏡203【コラム】1 安居院はどう読むの?26 2 大山信仰と御師の経済生活27 3 青・壮年期の庄七34 4 農業協同組合の原点53 5 安居院兄弟の万人講時代の収入64 6 神谷與平治正信71 7 岡田佐平治72 8 新村豊作73 9 荒木由蔵91 10 後を継ぐ者(『二宮尊徳』)102 11 報徳作大益細伝記165 12 万作徳用鏡202〇あとがき 村松達雄221 地福進一224
2024.01.10
『報徳』2024年新年号が届いた。鷲山社長の巻頭言は「汝の馬車を星につなげ」です。「天から受けた『分』に従って、自らの『度』を立てる。どのような『度』を立て、それを貫くかは、国民の知恵と決断にかかっています。 私たちの目指すのは、人と人との豊かな結びつきです。地域を活性化し、平和で働き甲斐のある社会を創ることです。自主独立と連帯の国際関係をどう構築していくかということです。」「アメリカの詩人エマーソンの『汝の馬車を星につなげ』の呼びかけに応えて、私たちの想いをひらめく星につなげてまいりましょう。」昨年12月10日(日)大日本報徳社常会で「秦野と安居院庄七」のテーマで講演した時にも、エマーソンの『汝の馬車を星につなげ』を引用した。「高く掲げた目標をいつも意識することは、人をそこへと引き上げてくれます。 札幌農学校のクラーク先生が学校を去る時に「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と言っています。実はクラーク先生は札幌農学校の開校式で「lofty ambition(高邁な野心、志)」を持てと言っています。 内村鑑三は、1927年北海道大学中央講堂で、「Boys be ambitious」のテーマで学生たちに講演しました。「私はこの題を掲げましたが、私は、ウィリアム・エス・クラーク先生が50前この校を去るに臨んで、島松の駅逓で馬上一鞭あてて、あとに従う学生一同に向かって叫ばれた「ボーイズ・ビー・アンビシャス」という簡単な言葉を、いかなる意義によって残されたかを考えてみたい。」「(ボーイズ・ビー・アンビシャスを)日本語に訳せば、まあ「野心」であろうが、「大望」と言うたほうが良いと思う、 わかりやすく申せば、将来自分が成し遂げてやろうとする仕事をしっかりきめる精神を言う。」「それについて今思い出すのは、エマソンの言葉に'Hitch your wheels to the star' (なんじの車を星につなげ)というのがあるが、これは「望みを高くいだけ」ということで、クラーク先生が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と平易に言うたことを詩的に言い表したのであって、全く同精神に出ている。」「高い目的を持つことが、人生を最も有意義に用うるゆえんである。」「難しいかもしれない。生涯をささげて成功しないかも知れない。しかしながらあとから来る人々の成功の道案内たることができれば、それは実に尊いことである。「なんじの車を星につなげ」である。」と言っています。「望みを高くいだけ」、常に高い目的を掲げて意識することは、その人の人生を引っ張り上げてくれるように思います。」☆『報徳』2024年新年号の新春対談は、栗山前WBC日本監督と鷲山社長であり、面白い。大谷選手の「憧れるのをやめましょう」の言葉から、ドイツ文学専攻の鷲山社長は「憧れるを知る人のみぞ、我が苦しみを知っている」とゲーテの「ミニヨンの歌」にありますが、憧れは、苦悩、苦心惨憺と同一線上にあるということですね。とある。「ミニヨンの歌」が気になって調べると、シューベルト『Lied der Mignon(ミニヨンの歌)』に使われたゲーテの言葉を鷲山社長は引用されたように思われる。鷲山:決勝の試合前、大谷祥平がロッカールームでチームメイトに言った「憧れるのをやめよう」が評判になりました。・・・・・・人は「憧れ」によって引き上げられるものなのですね。教育学の先生がおっしゃったのですが、人間は「憧れに憧れる存在」だと。素敵な人間が素敵なのはその人が憧れを持っているからだ。栗山:僕は「憧れる」イコール、そこに近づかなきゃいけないという責任が生じ、その努力を背負うことだと思っています。・・・・・「何となく、この人に憧れているのではなく、その人に近づく努力をする責任を負わなきゃいけない」💛ここにおいて、鷲山社長の巻頭言「アメリカの詩人エマーソンの『汝の馬車を星につなげ』の呼びかけに応えて、私たちの想いをひらめく星につなげてまいりましょう。」に繋がる。栗山「「憧れる」イコール、そこに近づかく責任が生じ、その努力を背負うことだ」
2024.01.10
https://norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/ichiya4.html現代語訳「安居院義道」のクラウドファンディングあと3日です。現在、目標金額の62%です。支援が多ければより多く印刷し大学公共図書館に寄贈できます。5000円以上支援の方には、出版記念絵葉書10枚一組を本と共に郵送しますが、より魅力的な返礼品とすべく、森町在住の大須賀画伯に新たに「若き大山御師・安居院庄七の像」、「安居院先生と岡田佐平治初対面の図」の2枚のイラストを描いていただき、出版記念絵葉書に収録できないか調整中です。💛入院し、暫くブログも遠ざかっていましたが、復帰しました。
2024.01.09
「心をととのえるスヌーピー」という本をプレゼントされて読んでいる登場人物の個性がはっきりして面白い実際にはこれほど単純にはなれないが、個性が際立つルーシー if everybody agreed with me, they,d all be right!もしみんなが私と一致したら、みんな正しくなれるわ!ライナー I don't like to face problems head one.僕たち問題に真向からぶつかるのは嫌なんだNo problem is so big or so complicated that it can't be run away from!どんな問題であれ逃げ出せないほど大きくも複雑でもないルーシーの自己中心もライナーの問題逃避も自分のうちにあるような一休禅寺の遺言「なるようになる」時間軸と空間軸を遠くにすれば、悩むような問題などはない今ここで感謝して行うのみかhttps://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show
2023.12.23
「現代語 安居院義道」クラウドファンディング支援者が49人になりました 感謝します 目標金額の51%ですhttps://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_show出版した本は支援者へのリターンのほか大学図書館、静岡県の公共図書館に寄贈して 次の世代そして今を共に生きる人に広く伝えます今回9月27日に秦野市農協宮永組合長の案内で鷲山大日本報徳社社長らと秦野視察を行った結果、新たな事実を発見しました。これまで安居院義道俗名庄七は米相場で失敗し無利息のお金を桜町陣屋におられた二宮尊徳に借りに行き、そこで初めて報徳の教えに出会ったというのが定説でした。しかし本書に原文と現代語訳併記で収録した「西曽根村仮趣法帳」及びその10年後の大山日記を精読すると、桜町陣屋に行く「八カ年以前から二宮先生の大名を承り、御師の教諭を蒙りたい」と念願していたことがわかります。それでは庄七は8年前どこで二宮先生の大名を聞いたのでしょうか?庄七の生まれた朝田家(後に神成家に改める)は、大山御師(おし)の家で蓑毛にあり、相模国大住郡、足柄上郡、足柄上郡、駿河国駿東郡、伊豆くになどを巡回し大山講を組織させたり維持していました。大山講は御師自らが組織し、お互いに人の講に介入しないため「開導記」を作成し、どの御師の家がどの村に何軒の村の講を組織しているか記録していました。「開導記」によると神成家は足柄下郡にも多くの講を組織し、二宮尊徳の生まれた栢山にも神成家の講があります。庄七が桜町に行ったのが天保13年ですその8年前というと天保5年、その前年頃から天保の大飢饉が始まります。庄七は栢山や足柄上郡で二宮先生が飢饉に備えてそばやひえを栽培させ飢饉に備えさせ、更に周囲の飢饉に苦しむ村々を救った話を聞いていてぜひお会いして直接に二宮先生からお話を聞きたいと切望していたと思われます。真理は誰の上にも降って来る。しかし待ち受ける心構えのある人だけが聞き分けることができるのです^_^
2023.12.23
「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します「現代語 安居院義道」クラウドファンディング終了まであと22日5千円以上支援者に出版記念絵葉書10枚セットをリターンします 安居院先生の書(大日本報徳社所蔵)、相州御領分絵図(個人所蔵ー縮小)等の貴重な或いは新発見資料を含みます現代語版『安居院義道』「現代語 安居院義道」 はしがき安居院義道(庄七)先生は相州の生まれ、報徳界の高弟で、早くから我が駿州・遠州の地に報徳の種を蒔きつけて育て上げた、第一人の開拓者である。その事蹟はしかし先生の晩年のことで、五十八歳から七十五歳の終焉に係る。その青壮年の経歴は残念であるが、全く不明であって、初老の時に商業に従事して最後に一敗地に落ちた時が、報徳への序幕となる。 しかしその失敗が幸いにも、二宮先生の報徳に縁を結ぶ機会となって大転換をしたのである。しかも天地をひっくり返したほど百八十度の逆転換をした。今までは勤・倹・譲を裏返しに着て、独酔的な良い心持ちで高歯の下駄をはいて歩いていた。つまずいてから、恐れ入ってはだしになり、怠・奢・奪を引っ込めて、表を出して着替えて見れば、一ちょうらの晴着で通用する立派なふん装である。 暫く陣容を整えてかかれば、本来の人物はまた光を放たずにはいない、報徳の先生として出発する。そして我よく二宮先生の道を広めんと唱えて、その郷里を去った。 以上のような先人の歩みは、ぜひ調べておきたい。出版するという考えもなく、書き綴っていたのが明治の四十二年から始まる。 資料を与えられた先輩は 高山藤七郎老、中遠袋井町の人、青年時代、 家道失脚のため、報徳式に取り直した権威者で、安居院先生の著及び説話は大体筆記してある。晩年遺稿として我が家憲の一書を残されている。また老は我が父と同年で、親交もあって特別に知遇をこうむっている。 竹村篤老、浜松在入野の人、若くして商業を浜松に見習い、その間より厚く報徳の道に帰依して安居院先生門下の人々に教えを受けてよく記憶している。また丹念に道歌のようなものは記録してあった。淡山先師(岡田良一郎)、安政六年二宮門を辞して以来、文久三年安居院先生没年まで最もよく先生を見ている。特に明治四十二年浜松において先生墓参追吊会の時、講演も筆記していた。 中上信英氏・静岡の人、「報徳」雑誌を発行して安居院先生の記事は多く載せられている。同雑誌は明治二十五年第一号を発行して同三十六年に五十六号を発行して中止された。 また明治の末年、相模(神奈川県)中郡において井上福松氏等を中心として報徳の大運動が起こされ、私も各村ごとに講演し、時々安居院先生をはさんで対話したが、到るところ先生の事はほとんど知られていなかった。後に山田霞洲兄が十日市場の家について一端を聞き取ってくれた。 以上がこの伝記の全部であって、内容として貧弱なものであった。あるいは先人の余栄を傷つけるなきやと懸念して、空しく箱の底にしまっておいたのだが、昨年まとめてみたいと一大念願を起して、おいぼれの最後の努力を試みた次第である。 顧みて安居院先生が亡くなって今年で九十年(本書発行は昭和二十八年(一九五三))になる。この間に実に大きな変動が二回も起こっている。その第一回は明治維新の改革で、諸制が刷新されて、報徳の仕法は日光御神領をはじめとして廃止された。ただ安居院先生によって伝えられた民間同士の結合になる報徳社だけはお構いなしであって、ついで福住正兄先生、岡田淡山師等がその全力をそそがれたので、漸次隆盛に向かったことはうれしい。その第二回は敗戦日本の末路であって、根本的に取り除かれて、新しいアメリカ式の風になびかされている。加えるに混乱怒涛中にさまざまな思想が入り込んでいる。したがって報徳社徒の中にまで影響し、不振の状態におかれている。 今、安居院先生の伝記を出版しようとする事は、あるいは「落花深き所、南朝を語る」の評もあるかも知れない。しかし私は前に眺めて後ろに鑑みて、後に腹は切れない。あえてここに安居院先生の伝を編集することは誠に止むを得ないからであり、幸いに報徳社同志が、一顧されんことを切望する。 終わりに、この念願を不敏として河井社長は題辞を寄せて激励され、ついで神谷副社長は賛辞を尽し序文を投ぜられ、光栄の至りと肝に銘ずる。更に本社の中山、小野、太田の各位は陰に陽に援助をたまわり、いわゆる「死に花を咲かせる」の同情をこうむる。深く謝意を表する次第である。 昭和二十八年初秋 八十二老 鷲山恭平誌す ⑴ 原文では「安居院翁」と「翁」を使っているが、本書では「安居院先生」と「先生」で統一した。秦野市市史研究第一号(一九八三年三月)に井上靜男氏「安居院庄七と報徳」が掲載され、そこに井上氏が浜松の報徳店を初めて訪れた時の挿話が載っている。「昭和二十四年(一九四九)夏、初めて下石田報徳店を訪ねた時、松の手入をしていた主人が、わざわざ床に庄七の肖像を掲げ、一句一言の中に安居院先生と呼び説明された。庄七を尊敬している様子が偲ばれ、その指導の偉大さを知らされ、今にしてなお、庄七は遠州に生きている感を強くした。」(六十六頁)(太字は編者)💛2023年12月17日大日本報徳社大講堂でI先生が来られ、壇上のポセンチアを指して「私からです。花言葉は『祝福』です」とおっしゃられた。そのお心に感動した。講演が終わって新幹線で帰った後、お礼にと虎屋の羊羹をお送りした。すると同日、本が2冊送られてきて「宇宙へ」と題された一冊の冊子には実に豊かな人との出会いと交流が記されていた。「報徳の精神」で動けば「尊い」出会いがあるということがよくわかる!
2023.12.22
現在 226,000円 支援者 47人 残り23日「現代語訳 鷲山恭平著『報徳開拓者 安居院義道』」を出版します「現代語 安居院義道」クラウドファンディング終了まであと23日5千円以上支援者に出版記念絵葉書10枚セットをリターンします 安居院先生の書(大日本報徳社所蔵)、相州御領分絵図(個人所蔵ー縮小)等の貴重な或いは新発見資料を含みます安居院義道〇現代語版の『安居院義道』に寄せて 鷲山恭彦 安居院義道の肖像と書題字 序文 はしがき(鷲山恭平氏自序) ・・・・ 21 目 次一 家系と生い立ち ・・・・ 24二 安居院家を継ぎ商人となる ・・・・ 28三 野州に報徳を聞いて大転換 ・・・・ 35(参考資料)相州大住郡北秦横曽根村仮趣法・41 伊勢原市史資料編 続大山・・・・ 49四 信心作兵衛を訪ねて万人講へ ・・・・ 54五 万人講から報徳の開拓へ ・・・・ 64六 遠州報徳連代表七人日光に大先生を訪ねる ・・・・ 74七 先生の指導型と石田村の仕法 ・・・・ 80八 駿河遠州を家とし足跡点々 ・・・・ 92九 その人柄と才芸、逸話の数々 ・・・・ 103十 先生の臨終、葬儀とその遺物 ・・・・ 114十一 歿後の余韻 ・・・・ 126十二 浅田勇次郎氏伝 ・・・・ 136十三 先生の残された著作物等々 ・・・・ 144資料編156 1莫妄想157 2人間算当勘定1623報徳作大益細伝記166 4算法地方大成全194 5万作徳用鏡203【コラム】1 安居院はどう読むの?26 2 大山信仰と御師の経済生活27 3 青・壮年期の庄七34 4 農業協同組合の原点53 5 安居院兄弟の万人講時代の収入64 6 神谷與平治正信71 7 岡田佐平治72 8 新村豊作73 9 荒木由蔵91 10 後を継ぐ者(『二宮尊徳』)102 11 報徳作大益細伝記16512 万作徳用鏡202〇あとがき 💛浜松のYさんに、5000円以上の支援者には、出版記念絵葉書10枚セットをリターン品として郵送する。浜松の第一館の碑と玄中寺の安居院先生のお墓の写真を記念写真集の一枚にいれたいと申し出たところ、お寺のほうにも許可をいただくよう尽力いただき、しかも多量の写真を送っていただいた。その一部を紹介する。金次郎像をなんとか写真の中に取り込んでみようと本ブログに載せた以外にも、いろいろな角度で写真をとって送ってくださった(^^)
2023.12.20
会員にメールを送る令和5年12月17日(日)掛川市の大日本報徳社大講堂で第10回報徳講座「安居院義道と農書」について講演しました!盛況でとても良い記念の講演会になりました。講演いただいた鷲山社長、宮永組合長また参加してくださった皆様に心から感謝します。主催の遠州アカデミーの戸田さんから講演風景の写真(略)とコメントが届きました。戸田さんより「「安居院庄七と農書―農業余話と万作徳用鏡―」をご講義いただき、誠にありがとうございました。参加者の方々(51名)も聞き入っておられたように思います。来年以降も報徳講座は開催の予定です。また、機会があれば、よろしくお願いいたします。」なお、今回の本の表紙は、鷲山恭平先生の原著の字だけのものとし、当初考えていた肖像画や書はなくすことで、当日鷲山社長のご了解を得ました。刊行する本の表紙の地合いの文様と文字は原著に添ったものとしますのでご了解ください。また当日秦野農協宮永様が多額の支援金を持参され、同日印刷所に送金しました。クラファンは目標金額の半分なだけに、その志には頭が下がります。https://camp-fire.jp/projects/view/710516?utm_campaign=cp_po_share_c_msg_mypage_projects_showまた大日本報徳社石野副社長が当日会場にポインセチアを飾り付けてくださって「花言葉は祝福です」と言葉を添えてくださったのには感動しました。
2023.12.20
鷲山恭平著「報徳開拓者 安居院義道」の現代語訳復刻版クラウドファンディング終了まで 残り25日💛12月17日、第10回報徳講座を、掛川の大日本報徳社で開催したときに、鷲山社長に「本の表紙を 安居院先生の肖像画のあるものから 鷲山恭平先生が出版されたのと同様に 文字 だけのものにしたい」旨、申し上げると快諾され、「すべてお任せします」とのことでした。そこで 印刷所に 表紙を送付したワードを参考に文字のみに変更してください地の文様も原著に近づけてください。別途原著を郵送しますので、それを参考に「報徳開拓者 安居院義道」の書体はコピー願います。文様も現物を見ないとわかりにくいので、原著を参考願います。「すべてお任せします」まことに有難いお言葉である。鷲山恭平著報徳開拓者 安居院義道 大日本報徳社 序 文 私の友人の話では、農業経営上の進んだ事例を研究する時には、必ず静岡県の農業が問題になるということである。つまりそういう学者の目から見れば静岡県の農業は全国農業の最先端を進んで来たというわけである。「どうして静岡県の農業がこんな具合に発展して来たか」を考察することは、日本農業の発展の原動力は何かという、より大きな課題の解決のためのカギを与える重要な問題である。これについて従来は静岡県特有の報徳社運動との関連が考えられ、静岡県農業発展のかげに報徳運動ありと考えられていたと思う。しかしこれには二つの疑問が残されている。一つには静岡県の報徳運動がいかにして起こったか、また起こっただけでなく百年後の今日までなぜ存続されているのかという問題である。他の一つは静岡県農業の最重要部門である茶業の発展の問題である。茶業発展の基礎は何といっても牧之原の大茶園の開墾である。この着手は遠州報徳運動と無関係に見えるのである。 本書の著者鷲山氏がこの問題を眼中に置かれたか否か私は知らない。しかし氏の五十余年の研究と、雄大な人格から流れ出るおのずからなる科学的筆力は、この大問題に痛快な解答を与えられたと私は深く信じる。 それだけでなく、平々凡々と前半生を終えた一人の人間・安居院庄七が、二宮尊徳という偉大な人格にふれ、この「大死(だいし)一番(いちばん)の発(ほっ)心(しん)(一度死んで生まれ変わった発起心)」が、いかに偉大な業績を行い得るものであるか。またそれがいかに永続的な影響を後世に与えるものであるかを、読むものをして悟らしめなければやまないであろう。 しかし以上のような学問上の意味や、農業発展への功績等の世俗・半世俗的な人間の仕事についての論述であるだけならば、八十を超えられた鷲山氏が文字通りの心血をそそいでこの著述に没頭されるはずがない。このことは本書を手にされるほどの読者ならば私以上にそれを感得されるに違いない。そして、安居院先生と共に、一個の人間であることの「このましさ」、また偶然と必然の錯行する人生の深み、そして真の日本社会史の妙味を、つくづくと味われるであろう。昭和二十八(一九五三)年十二月二十八日 神 谷 慶 治 *神谷慶治氏は農業経済学者。東京大学名誉教授。一九七四-一九九八年大日本報徳社社長を務めた。
2023.12.19
浜松のYさんにお願いして安居院先生の顕彰碑を出版記念絵葉書の1枚に加えられる。5000円以上の「現代語 安居院義道」出版プロジェクト の支援者には、出版記念絵葉書セットをリターンする。魅力的なリターン品にするべく、12月10日に講演でプロジェクターに投影した秦野視察報告もののほか、安居院先生の書や屏風なども収録する。さらに 江戸時代末期の足柄上郡・下郡の絵図もリターン品として提供すべく調整中である。企画を考えるだけでも、楽しみ。実現できれば、学問的にも寄与するものになろうか(^^)魅力的な出版記念絵葉書となるために、本プロジェクトでなければ入手できないものになるために。
2023.12.17
12月17日(日)掛川の大日本報徳社大講堂で「安居院義道と農書」について講演します。以下はその概要です。クラウドファンディングはまだ目標額の50%に到達していません。多くご支援いただければ多くの大学・公共図書館に寄贈できます。ご支援いただけいて多くの図書館に出版した本を寄贈できるようになることを願います。鷲山恭平『安居院義道』現代語復刻版 安居院庄七と農書について 今回、原書に収録する「報徳作大益細伝記」と「万作徳用鏡」の農書については、原文と現代語訳を対比させました。 安居院庄七の功績の一つに関西地方の進んだ農業技術を広めたことがあげられています。 いったい安居院庄七はどこからその農業技術の知識を入手し学んだのでしょうか。 ヒントとなるのは本書に収録の庄七が逝去した時の所持品の「書物の部」(本書 頁)と庄七自身が著した農書で見ることができます。「書物の部」のうち『耕作大益伝』の著者は中山忠道で、天保十年発行、「農業問答書」は不明です。 庄七著の『報徳作大益細伝記』と『極難続安楽鑑』の写本が報本社(解散)に残されています。『報徳作大益細伝記』は「報本社本」と本書に収録した分に相違があります。「報本社本」を底本として足立洋一郎氏が翻刻(ほんこく)・現代語訳したものが、「日本農書全集」第63巻に収載されています。報本社本には「私が、上方の山城・大和・河内の作り方から気づき、いろいろ考え、その方法で駿河・遠江・相模・伊勢・近江などで耕作させたところ、だんだんと収量が増えている」とあります。 また本書資料編で「万作徳用鏡」を原文+現代語訳で紹介しました。原本の「農業余話」(以下「余話」)と対比すると、庄七が「余話」の内容を自分の言葉で端的に説明していることが分ります。同時に「余話」にない箇所に、庄七自身の生の声を聴くことができます。「試し試みてその印が現れたならば二人に教え、二人より一村に教え、一村より郡国へ伝え、諸国用いれば国益の第一と知るべし」ここには、農業の収穫を増やす技術を広めたいという念願が記されていますが、それはまた報徳の教えを広めたいという念願にも通じます。また最後を「作物の数が多くても、これを類推して推し考えるならば、同じ道理である。その理を極めたい事である。理にかなうことを心がけるべきである」と結んでいます。ここに現代の科学精神に繋がる合理的思考及び「実験と検証」の精神が息づいています。 鷲山恭平『安居院義道』現代語復刻版の意義 安居院庄七が桜町陣屋から故郷に帰ったのが五四歳、庄七が神谷與平治に報徳仕法を説いた時が五九歳、庄七は現代でいえば定年退職後決心し報徳伝道に旅立ったのです。 庄七は二宮尊徳の直弟子ではなく、基本的に書籍で学び、自分で考え、実践し検証して報徳の教えを自分のものとしていきました。 このことはまた現代における私たちが、報徳を学び、実践する上で、非常に参考になる模範であるように思います。
2023.12.16
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