全30件 (30件中 1-30件目)
1
2024年5月26日朝4時頃、夢の中で、妻がヨーグルトと何か白いものをこぼし、すぐに「ああ、良かった」と言う夢を見た。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」に「嫌なことがあったら、すぐに ありがとう と言いなさい」とある。私の夢の中の出来事ではあるが、妻が 普通よくない出来事のあと、「よかった」と肯定的な言葉を言えて嬉しかった。夢ってすぐに忘れるので、記録する。俵万智さんの「サラダ記念日」に「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日とある。さしずめ、 「よかった」が言えた記念日か \(^o^)/
2024.05.26
森信三蔭(かげ)でライバルの悪口をいうことが、如何に自己を傷つけるはしたない所業かということの分らぬ程度の人間に、大した事など出来ようはずがない。・新渡戸稲造の妻メアリーが札幌農学校教授として赴任した折に同僚のアメリカ人教師の奥さんシャーロット・ブリガムが決して人の悪口を言わないことに驚き、母親に手紙で伝えている。(*1)*1札幌農学校教授新渡戸稲造 日録1891年3月21日 稲造は、夕食後クラブにたのまれスピーチに出かける。「シャーロット・ブリガムは優しい健康で家庭的な女性です。」「彼女は他人の悪口を決してもらしません。宮部博士の言によれば彼女は札幌に住んだ外国婦人の中で最も立派な人である、と日本人の間で思われているそうです。」「日本人は物事をとても早く学びとります。」(参考)アーサー・アンバー・ブリガムは、1856年アメリカ・マサチューセッツ州で出生。1888(明治21)年12月に札幌農学校教師に着任、農学・植物学を担当し、農園長を兼務した。農業技術の普及のため、学外の農業団体にも指導を行った。1893(明治26)年11月、財政緊縮のため契約期間1年を残して退職し、札幌を去った。札幌農学校のアメリカ人教師最後の人。また、同時期に大農法を制定したり、農園長に就任して農業技術を普及したりする等北海道における農業生産の向上に貢献した。1893年(明治26年)11月、財政の問題により予定より一年早く帰国した。
2024.05.12
「観音菩薩様は私の念仏を妨げるお方」佐賀枝弘子さん「気がつけば み手の中」講演より「阿弥陀さまの両脇には勢至菩薩と観音菩薩がついていらっしゃいます。それは阿弥陀さまの分身で阿弥陀さまのはたらきの智慧の部分を勢至菩薩、慈悲の部分を観音菩薩が担当されると説明されています。「勢至菩薩さまの方はお念仏を勧める方」と、ある先生はおっしゃいました。智慧のはたらきですから、その通りですね。そうすると世の中に勢至菩薩のはたらきをして下さる方が、たくさんいらっしゃって、私にお念仏を勧めて下さる方は全部阿弥陀さまの智慧のはたらきなんだなあと、すごく了解しやすいわけです。 ところが観音さまのはたらきは慈悲ですから、どういうふうにはたらかれるのかなと思いましたら、その先生はこうおっしゃったんです。「観音さまのはたらきは私にお念仏の妨げをして下さる方です」「えっ」と思いましたね。これは聞き違えたと思ったんです。先生のお話がすみましてから、お部屋へ参りまして、先ほどの勢至菩薩と観音さまのお話をもう一度お聞かせ下さいと申しましたら、「ああ、あそこですね。勢至菩薩は私にお念仏を勧めて下さる方」と、はっきりおっしゃて下さいました。そうしたら観音さまは、と耳をすましておりましたら、やはりさっきと同じように、「観音さまは私に念仏の妨げをして下さる方」とおっしゃいました。先生の言葉が私はわかりませんでね、「先生、もう一ぺんおっしゃって下さいませんか」とお聞きしますと、やはり、「私に色々な妨げをして下さる方ですなあ」とおっしゃいました。「わかりません」「わからないでしょう。自分で考えてごらんなさい。これに目が覚める時が、またお念仏に目が覚める一歩ですよ」とおっしゃったんです。ずいぶん長い間この宿題に悩みました。私の息子がお寺を継がないと言って、とうとう娘が継ぐことになったんです。その間は、継ぐ、継がないともめましてね。門徒さんは、若さんはどうしているんだ、早くちゃんとしてもらわんと困るんだ、と言われます。もう学校行くのもやめた、とか息子が言って、ごねたんです。その時にわかったんです。姑がこう言ったんです。「あの子を拝めるようになるといいんやけどね」私は「なんで、あんな奴を拝むんですか」あんなに言うことを聞かないで、親を困らせ、それなのにあの子を拝むなんてどういうことだろうと思ったんです。拝むってどういうことなんだろうと思っているうちに、「はーん、拝むというのは息子を観音さまのおはたらきと思えばいいのかな」と。私に苦労をかけてきりきり舞いさせて、この子の親でなかったらよかったと思ったくらい。なんでこの子が生まれてきたんだろう。きりきり舞いさせられた時に、なおかつ「この子を拝め」と言う姑の言葉と、「あなたにお念仏の妨げをする、私に苦しいこと、つらいことを思わせてくれる人が観音さまのおはたらきですよ」という言葉が、自然と一緒になりまして、なるほど苦労は、私をもんでくれるんだなあ。私にいろんなことを悩ませて、その時、本当に仏さまがどこかにいらっしゃるのなら聞いて下さいと訴えることもありました。が、全然お答えがなくて、なおかつ苦労だけがあるという時に「それをも観音さまのおはたらきといただいていけ」という先生の言葉を思いますと、この苦しみを仏法ではどのようにして乗り越えよと教えて下さるのかと考えさせられますね。すると、私はただお念仏を称えると、苦労もなくなって、幸せになれると思っていなかったか。お念仏というのはそんなに浅いものとして、私に受け取られてはいなかっただろうか。そういうことを絶えず問返す問いになってくれる、それが観音さまのおはたらきなんだなあということ、そうしたことが教えられてわかってきたようなことでございます。」苦悩をも観音菩薩様のおはたらきとして受け止められるとき、この世界は実に勢至菩薩さまのおはたらきと観音菩薩様のおはたらきの世界として目の前に出現する。そのときこの世界はそのままお浄土として立ち現われる。💛この「観音菩薩様は私の念仏を妨げるお方」の言葉に出会って、20年近くたって、ようやく我が身に引き換えてその意味が分り、実践できるようになってきた。すると「私を妨げる」働きが、「私を助ける」働きへとはっきりと変わってくる。これがいわゆる意識のステージを上げるということであろうか?「自分で考えてごらんなさい。これに目が覚める時が、また自分を進める一歩ですよ」
2024.03.05
「ほら買いました!」とSさんが マキノ出版ムック版の ツキを呼ぶ「魔法の言葉」 を見せてくれた。先週、「ツキを呼ぶ魔法の言葉」について熱く語っていたのである。30代の後半に、たまたま「ツキを呼ぶ魔法の言葉」の小冊子を読んで感動してね。ぜひこの五日市先生の話を聴いてみたいと思った。すると岐阜県の一の宮市の総合体育館で講演会があるとわかってね、友人のS君に一緒に行かないと話すと、車を出してくれるという。当日の朝、S君と待ち合わせて高速道路に乗ると、なんと逆方面に乗ってて、また高速を一回降りて一路一宮に。ちょうどその頃名古屋に叔母が住んでて、せっかく来るのなら、奢ってあげるといって、体育館の食堂で待ち合わせて、みそかつやら名古屋名物を御馳走になって、そのうち「おばちゃんも一緒に聞きたい」と言い出して、でも事前のチケットは持っていない、列に並びながらそんなこと話していると、前に並んでいた女性の方が振り返って、「友人が来られなくなって、よかったらチケットをぞうぞ」と譲ってくれた。ついてる(^^)自由席だったから、会場の前のほうに座ってね、先生のお話を聴いていたら、まあ泣くも笑うも自在。とても面白くてね、家に帰ったあと、そのときの講演の様子を 当時やっていたブログに載せたの。すると、「消してください」とメッセージが来てね、(ああ、これは先生本人だ)と思って、すぐに削除したんだ、するとね、「理由も言わずに消してくださいといってすぐに消してくれてありがとう。講演会ではみなさんに感動してもらうためにプライベートなことも話しています。でもそれは出してもしてもらいたくないんです。」「現在、用事で都内に来ているので、○○駅で会いませんか?」とのお誘い。「はい」とS君を誘って、お会いすることができた。講演会に行って、講演者本人とプライベートに話すなんてことは、滅多にないでしょう。そんなお話をしていた。これまでも 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」について多くの人にお話しする機会はあったが、積極的に行動に起こした人は初めてだ。そうして物事はすぐに行動に起こすことができないと、往々にして「ああ、よかった」という感想、思い出で終わってしまう。「らんまん」で、蘭光先生曰く「心が震える先に金色の道がある。その道を歩いていったらえい!」
2023.04.20
夢は自分の記憶から作られる?悪夢の意味や良い夢を見る方法を臨床心理士に聞いてみた松田 英子 東洋大学 社会学部 社会心理学科 教授・夢とは一体何か?「睡眠中の脳は、その人が今まで見聞きした情報を、整理しています。 脳の中にはライブラリーがあって、その人の記憶を『家族』、『友達』、『小学校時代』、『高校時代』、『恋愛』などのジャンル別に整理しています。 そのジャンル分けされたライブラリーに貯蔵された記憶を引っ張り出したりまとめたりするんですが、その過程を脳の中で再生しているのが夢なんですよ。 現時点の科学技術では、夢は自分だけが見ることのできる、『個人的なドキュメンタリー映画』と言ったら分かりやすいかもしれませんね。」・自分の体験以外のことは夢に出てこないの? 「睡眠環境から取り込まれた刺激以外は。基本的に、体験したこと、目にしたものが断片的に表れて、脳の中でストーリーとして作られていったものが夢なので。 ただ、子どもの頃は外部刺激…例えば絵本や漫画、テレビなどに、夢の内容が左右されやすいという傾向はあります。実際に体験していないことでも映像で観ていたり、想像したことがあったりすると、それらを組み合わせたものが夢になることがあるのです。 そういった夢を見て、『自分が体験していないこと、現実では起こりえないことが夢に出てきた』と思うのでしょうね。」・「表は、最近見た夢に関する調査をした際の頻出語を年代別に多いものから順に表したものです。 高齢者は『旅行』『仕事』『トイレ』『母』、大学生は『友達・友人』『遊ぶ』『サークル』、高校生は『友達』『学校』『クラス』『部活動』など、どの年代でも自分の生活史上、密接に関わっている言葉が多く見られました。 こうした結果が出るということは、自我がはっきりした高校生以上になると、やはり自分の体験をもとに、より日常に近い夢を見ているということになります。」・昔の人は「夢のお告げ」という言葉を使っていましたし、現代でも「夢占い」という言葉があります。 しかし、未来について夢が教えてくれるということはないのですね。 「『お告げ』のように、どこからかメッセージがやってくるということはないですね。 でも、『心の中で反芻して想像している未来』が夢に出てくることはあります。 そして、その夢(もとは自分の想像)がたまたま現実と一致することもあるんですよ。 ちょっと夢のない話かもしれませんが、夢が現実になった時、人は『夢が本当になった!』という印象を受け、よく覚えているものなんです。でも、外れた時の夢は印象に残らないので、忘れてしまっていることが多いんですよ。」・「自分は夢を見ない」 また、「夢を見たことは覚えているものの、どんな内容の夢だったのかはっきりと思い出せない」という人も多いですが、それは何故なのでしょうか。 「脳の損傷などがなく、脳機能が正常に働いている人なら、1日に平均で3〜5つの夢を見ます。『夢を見たことがない』と言う人は自分が夢を見たことを覚えていないのでしょうね。しかし、それは仕方がないことでしょう。 実は夢を見ている時は、起きている時と比べて、記憶を固定する神経伝達物質があまり出ないそうなんです。なので、寝ている時に見た夢を記憶として残しておくのは難しいんですよ。 さらに、私たちの睡眠には、ノンレム睡眠とレム睡眠の2種類があります。レム睡眠の時は『体は休んでいるけど、脳は働いている状態』です。なので、私たちがいわゆるストーリー性のある『夢』として覚えているのは、レム睡眠の時に見た夢の可能性が高いと言えるでしょう。 ただ、レム睡眠の時に見た夢もその後にノンレム睡眠がくると忘れてしまいます。起きる直前にレム睡眠であった場合は、そのとき見ていた夢を覚えていることがあるので、その覚えている一部の夢を私たちは『その日見た夢』として他者に話しているのです。」「嫌な夢、いわゆる『悪夢』の方が記憶に残りやすいです。」「悪夢は『縁起が悪い』『心理的にマイナスなもの』というイメージを持っている人が多いと思いますが、一概にそうとも言い切れません。 最初に述べたように、夢は脳が記憶を整理する過程で見る、断片的な記憶です。そのため、夢には処理しきれなかった記憶、オーバーフローした部分を整理する役割や、記憶を取捨選択する役割があると言われています。 ネガティブな情報を適切に処理するために悪夢を見るという説もありますから、悪夢は悪夢で役に立っている可能性もあるのです。」「さらに詳しく説明すると、悪夢には大きく分けて2種類あると言われています。 ひとつ目は、私たちが何らかのストレスを感じたときに見る悪夢。これは、誰しもが見るものなので、それほど深く悩む必要はありません。 実際に、悪夢に関する聞き取り調査を年代別に行ってみたのですが、そこで出た頻出語を多いものから順に並べてみたところ、年代による差がほとんどありませんでした。 『追いかける』『追う』『走る』『殺す』『死ぬ』『亡くなる』『落ちる』『飛び降りる』といった言葉は、世代を問わず共通しています。 実は悪夢に関しては、世界的に見ても同じような言葉が並んでいるんです。世代や人種、言語や環境にかかわらず同じような悪夢を見ているというのは、非常に興味深い結果です。」「夢を見ている最中に『これは夢である』と自覚しながら、その夢のストーリーをコントロールできる『明晰夢』というものがあります。明晰夢を見ている間は、視覚や聴覚などの感覚がセンシティブになって、夢の中の出来事がよりリアルでビビッドに感じられます。 明晰夢を見るためには、まず夢の中の不自然な点に着目し夢を見ていることに気付くこと、次に見た夢の内容を記録し、夢の中でのさらなる展開についてシミュレーションするなどが良いかもしれませんね。」「『寝る前にネガティブ思考を反芻しない』ということですかね。悪夢をよく見る傾向にある人は、寝る前にその日の行動を振り返って反省したり、次の日の心配をしてしまいがちです。入眠直前のインプットがストレスとなり悪夢の引き金となる可能性があるので、できるだけネガティブな思考を棚上げし、ベッドに持ち込まないことが大切です。 反対に、眠る前にポジティブなことを考えて眠れば、いい夢を見る確率は上がるかもしれません。『好きな人の写真を枕の下に置いて眠るとその人の夢が見られる』というジンクスがありますが、あながち間違いとも言い切れませんよね。」💛五日市先生が講演会で 寝る前に「今日はとってもいいことがたくさんありました、感謝します」と言いましょう。また起きたときに「今日はとってもいいことがたくさんあります、感謝します」と言いましょう とおっしゃったのも「眠る前にポジティブなことを考えて眠る」「ネガティブな思考を棚上げし、ベッドに持ち込まない」ということであろうか。
2023.03.12
ツキを呼ぶ魔法の言葉<マスオさんCDバージョン>より💛最近、ウォーキングする時、歩きながら「ありがとう」、踏切で信号で立ち止まるとき、かかとおろししながら「ありがとう」と言っている。おばあさんは「でも、でも」と できない場合を言い募るつよしに「ただ言えばいいのよ」と言ったのだ。おばあさんから貰った手紙「ツヨシさん、お元気ですか?お手紙ありがとう。それにツキを呼ぶ魔法の言葉<マスオさんCDバージョン運が良くなる魔法の言葉をちゃんと使ってくれていて、とっても嬉しいわ。ツヨシさんの人生が、とってもよくなることを信じています。そしてツヨシさんだけでなく、これから一緒になる奥さんや、子供達や、お父さんお母さん、お友だちみんなが幸せにいい人生が送れるよう、願っています。人間の命は、奇跡を何億回も重ねて生まれ、たった1回で終ってしまいます。だから、毎日を大切に生きてください。ツヨシさん、あなたにはお父さんお母さんがいます。そのお父さんお母さんにも、それぞれにお父さんお母さんがいます。そのそれぞれのお父さんお母さんにも、やっぱりお父さんお母さんがいます。そう考えると、どこかでみんな繋がっています。みんな家族なんです。その、大きな家族の中で、幸せに生きていくうえで、何が一番大事なことか、ツヨシさんはもう気づいたかしら。そう、それは言葉の使い方なの。どんな言葉を口に出すかであなたの人生が決まってくるの。いい言葉を使っていると、必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでも忘れないでね。私は遠くに住んでいますが、いつもあなたのことを思っていますよ。さようなら、さようなら。」
2023.03.05
「ツキを呼ぶ魔法の言葉魔法使いのプレゼント」(原話五日市剛 文ほしのひかり 絵古山拓)では、おばあさんの手紙が載っている。これを亡くなったマスオさん、増岡弘さんが朗読するのだが、これがとってもいい。「ツヨシさん、お手紙ありがとう。それにツキを呼ぶ魔法の言葉を、ちゃんとつかってくれていて。とってもうれしいわ。生きていくうえで、いちばん大事なことはね、言葉のつかいかたなの。どんな言葉を口に出すかで、あなたの人生が決まってくるの。いい言葉をつかいかたなの。どんな言葉を口に出すかで、あなたの人生が決まってくるの。いい言葉をつかっていると、必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでもわすれないでね。ツヨシさん、私はいつもあなたのことを想っていますよ」
2023.02.18
「ツキを呼ぶ魔法の言葉ゴールドラッシュ」に駒村力(つとむ)さんが、石川遼君のことを書いている。「2007年8月、石川遼君が、ジュニア最高峰の大会といわれる「日本ジュニアゴルフ選手権」で、史上最年少で優勝を果たしたのは、皆さんの記憶に新しいと思います。石川遼君は、その会見の中で『感謝』という言葉を繰り返していました。 中学校の卒業論文にも『感謝の気持ちがどれほど大切か、あらためて知った』『人に何かをされて御礼をすることと、生きていることや一人でないこと、すべてに感謝することは全く違うことだとわかった』という内容が書かれていた。 これは、当時の担任だった森本先生が、ムック『ツキを呼ぶ魔法の言葉』を、石川遼君ら生徒全員に紹介し、「感謝する心」の大切さについて、クラスで話し合ったこととピタリ一致する。 それが、『感謝の気持ちを忘れなければ、運は必ず来ると思った』という、石川遼君の言葉につながったのでしょう。」そして森本先生はこのように生徒達に教えたということが52~53ページに載っている。「私が一昨年まで赴任していた中学校での話です。 私は常々、生徒に感謝することの大切さを教えています。当時担任だったクラスの子たちにも、給食のときに『お父さんお母さんに感謝して、いただきます』と声をかけることを日課にしていました。 そんなクラスの中で、魔法の言葉が聞かれるようになったのは、一昨年の6月ごろからです。私が、書店で『ツキを呼ぶ魔法の言葉』(マキノ出版)のムックを、偶然見つけたのが始まりました。 それまでは『感謝する気持ち』の大切さはわかっていましたが、『感謝の言葉』こそが大切なんだ、ということが腑に落ちたのです。 感謝の言葉を口にするだけで、前向きになり、しかも願いまで叶う、そんな効果もあることを知りました。森本先生は、一昨年の6月ごろ、書店で「ツキを呼ぶ魔法の言葉」(マキノ出版)のムック本を見つけ、「感謝の言葉」こそが大切だということに感銘した。森本先生は中学校3年生のクラスの担任だった。数日後、授業前の「朝の会」でムック本を読んできかせた。子供達は、五日市剛さんが、挫折から立ち上がり「ありがとう」と「感謝します」の魔法の言葉を唱えるうちに願いがかなっていくというエピソードに共感したという。それからというもの、朝の会で「ありがとう」「感謝します」」「ツイてる!」という魔法の言葉を全員で、声をそろえて言うようになった。石川遼君もその中にいた。スポーツ新聞に「感謝の言葉を忘れなければ、運は必ず来ると考えている」という記事があったが、これはみんなと唱えた魔法の言葉が多少なりとも影響していると森本先生は考えている。魔法の言葉は、生や、受験のストレスに押しつぶされる子もなく、みんなが前向きな気持ちを持ち続けた。追い込みの時期に入っても、それぞれが安定して受験勉強に取り組んでいった。長い教師生活でもこんなに順調だったことも珍しいほどだった。さらに魔法の言葉は、受験に効果があるだけでなかった。通常、体育祭や合唱祭などの学校行事は、3年生になると気分的にも余裕が無く熱心に取り組めない。ところがその時のクラスは違った。全員が一丸になって準備し、練習した。体育祭では、大縄跳びで校内新記録の65回を打ち立てた。このときも跳ぶ前に、全員で魔法の言葉を唱えたのだった。そして春、クラス全員34人がそろって第一志望の高校に合格できた。卒業式の日、生徒たちは涙で顔をくちゃくちゃにしながらも「ありがとうございます」「感謝します」という言葉をかえしてくれた。~全英への道~ ミズノオープンよみうりクラシック 2009石川遼、恩人・恩師に捧げるV3石川には今回のツアー通算3勝を、見せたい相手がいた。1ホールで9の大たたき。そして16番のチップインイーグル。自ら招いた波乱の展開も自力で終止符を打ち、思わずそっと閉じた17歳の瞼の裏に浮かぶのは、亡き恩人らの優しい笑顔だった。昨年11月に、日本ゴルフツアー機構の島田幸作・前会長が亡くなった。瞬く間にスター街道を駆け上がり、常に気を張る高校生プロに、「無理しなくていい。頑張らなくていい」と、いつもねぎらいの言葉をかけてくれた思い出に、今年1月に執り行われたお別れ会では献花のあと控え室で5分間も泣き続けたほどだった。そして今年3月には遠征先のアメリカで松伏第二中学の恩師・森本洋二先生の訃報を聞いた。またそのあと在学中の杉並学院高の関係者も亡くなり、いつもその活躍を暖かい目で見守ってくれた大切な存在を相次いで失い、胸を痛めていた。「…僕の優勝が天国に届いたらいいと思う」。抜けるような梅雨晴れの青空を仰ぎ見た。
2023.02.14
渡辺和子さんの「愛することは許されること」の「はじめにー私と聖書の出会い」はとっても心を打つ。それは普通ならこんなに赤裸々に人前に出さないであろう赤裸々な心の葛藤をいわば神のまえに捧げる犠牲のひつじのように差出しているからである。それはまた心の清澄さにほかならない。私の生れた家は浄土真宗でした。ですから父が死んだ時も葬儀は仏教で行われ、長いお経の間、座布団の上で神妙に座っていましたし、お骨を納めに母に連れられて、京都の東本願寺に行ったこともあります。 小学校は吉祥寺にある成蹊小学校。・・・ このように、他力本願の仏教を宗旨とした家に生まれ、・・・神棚が祭ってある茶の間で父から儒教の「論語」の手ほどきを受けた私は、・・・やがて双葉高等女学校というカトリック系のミッション・スクールに入学しました。これが私のキリスト教との最初の出会いですが、これとて私の意志ではなく、母や姉が決めたことでした。・・キリスト教の教えである公教要理を聞いたことがありましたが、その帰り道、四谷駅あたりで「シスターは今日、『神様は何でもご存じ』とおっしゃったけれども、私そんなこと信じないわ』と宣言して誘ってくれた友人を悲しめたものです。・・・私は「望まれないで生れた子」でした。みごもった時、すでに43歳だった母は、師団長夫人という世間体もあり、できることなら、私を産まないですませたかったらしく、医者であった義兄にも、どうしたらよいか相談したようです。その母に向かって「産んでおけ」と言ってくれたのは、他でもない父でした。「男が子どもを産むならおかしが、女が産むのに何のおかしいことがあるものか」。・・そんな出世前のいきさつもあってか、私は母よりも父がずっと好きでしたし、54歳だった父もまた、孫のような私を、目に入れても痛くないほど可愛がってくれました。父は私が9歳になったばかりの2月の雪の朝、2・26事件と呼ばれるクーデターの犠牲となって死にましたが、この9年間に、私は一生涯分の愛を父から受けたように思っています。私はたまたま父の死を1メートルのところで見届ける唯一の者となってしまったのですが、今になって思うと、父を『敵』の最中でたった一人で淋しく死なせないために、私は生まれてきたのかも知れないと思うようようになりました。渡辺さんのお母さんは夫が2・26事件で惨殺された後、一滴の涙も流さず、遺された15歳、12歳、9歳の子供たちに向かって、「これからはお父様と2人分、きびしくしつけます」宣言する。その言葉どおり、母は甘えるどころか恐ろしい存在となった。和子さんは、すでに嫁いでいた22歳年上の姉に「「お母様は、まま母ではないの?」と尋ねたくらい厳しいものだったという。何が何でも一番になりなさい、100点を取ってこなければ家に入れませんという母の叱咤のもとで、逆に和子さんは他に厳しく高慢で勝気な人間になってしまう。お母さんから「あなたは冷たい、つんつんしている。」と言われ、「そんなふうに育てたのはあなたじゃない」と心の中で反発していたという。そういう母に冷たくしか出来ない自分もまたつらかった。思い余って、尊敬していたシスターにあらいざらい心のうちを打ち明ける。「私は母が嫌で嫌でたまらないのです。そして、母にそんな気持ちしかもてない自分がもっと嫌なのです。」そのときシスターは静かにこうおっしゃった。「和子さん、あなたは自分のことばかり考えているみたい。少し、お母さんの身にもなってみたら」今でもなぜか、はっきり覚えている言葉ーそれは、何でもないことのようで、それこそ私にとっては「回心」のー心の方向を180度転回させるー言葉となっていました。
2023.02.13
「ツキを呼ぶ魔法の言葉ゴールドラッシュ」よりおばあさんがツヨシにくれた手紙の一節にこういう言葉がある。「私たちは奇跡を何億回も重ねて生まれ、たった一回で終わってしまいます。だから毎日を大切に生きてください。」まことにこれは、森信三先生がいう「人生二度なし」と同じである。人生の唯一最大の真理の自覚の端的な表現は「人生二度なし」の真理に他ならず、さらに直下に燃焼すれば「念々死を覚悟して真の生となる」の一語の他ないであろう。(「森信三先生随聞記」寺田一清243ページ)「修身教授録」ではこう述べられる。先生は今日はモーニングを着用して来られた。一礼された後、「人生二度なし」という題と共に、次の歌を無言のまま板書された。 高山の頂にして親と子の心相寄るはあわれなるかな「諸君この歌のうちで一番いいところはどこだと思いますか。」「心相寄るはーというところが好きです。」と生徒の一人が答えた。「ここが一番よいところです。これは赤彦でなければ言えないところです。赤彦は学歴としては、長野師範学校を出ただけです。それでいて万葉以後の歌人となったのです。それゆえ諸君が志を立てるには、明治以後の人のうちでは、最もよい目標の一人といえましょう。 とにかく人間は、地位とか学歴とかに引掛っている間は真に徹底した生き方はできないものです。学歴というようなけち臭いものに引掛っている間は、その人の生命は十分には伸び切らないからです。もちろん一方では、人間は自分の地位、さらには学歴というようなものについての謙虚さがなくてはなりません。しかしながら、その内面精神においては、一切の世俗的な制約を越えて、高邁な識見を内に蔵していなくてはならぬのです。そもそも人間はその外面を突き破り内に無限の世界を開いてこそ真に優れた人と言えましょう。 さて、われわれのこの人生は、二度と再び繰り返し得ないものであると言っても、諸君らはあまりたいして驚かないかもしれません。私なども、諸君くらいの年頃には、この人生の最大事実に対しても、一向に無関心でいたから、もっともなことでもあるのです。 そもそもこの世の中のことは、多少の例外があるものですが、この「人生二度なし」という真理のみは、古来ただ一つの例外すらないのです。諸君らが、この「人生二度なし」という言葉に対して、深く驚かないのは、無意識のうちに自分だけはその例外としているからではないでしょうか。もちろん諸君らも意識すれば、自分をその例外であるなどと考えている人は、一人もないに相違ないのです。要するに諸君たちが自分の生命に対して真に深く思いをいたしていない何よりの証拠だといえましょう。すなわち諸君らが二度とない一生をこの人の世にうけながら、それに対して、深い愛惜尊重の念を持たない点に基因すると思うわけです。 われわれは、わずか一日の遠足にさえ、プランを立て、調査をするわけです。しかるにこの二度とない人生について、人々は果たしてどれほどの調査と研究とをしているでしょうか。否、この「人生二度なし」ということさえ、常に念頭深く置いている人は少ないかと思うのです。これ古来多くの人が、たえず生きかわり死にかわりするけれど、しかも深く人生の意義と価値とを実現する人の少ないゆえんかもしれません。 そもそも人生の意義については、いろいろ考え方がありましょうが、われわれ日本人としては、自分が天から受けた力をこの肉体的生命の許される限り、十分に実現して人々のために尽くし、さらにこの肉体の朽ち果てた後にも、なおその精神がこの国土に残って、後にくる人々の心に、同様な自覚の火を点ずることにあるかと思うのです。かくしてわれわれが人間としてこの世に生まれてきた意味は、この肉体が朽ち果てると同時に消え去るのでは、まだ十分とは言えないです。この肉体の朽ちると共に、同時にその人の存在の意味も消え去るのでは、実は肉体の生きている間も、その精神は十分には生きていなかったと言っていいでしょう。二宮尊徳翁はその「夜話」の中で「生きているうちに神でない人が、死んだからといって、神に祀られる道理はない。それはちょうど、生きているうちに鰹でなかったものが、死んだからといって、急に鰹節にならぬのと同じだ」と言っていますが、さすがに大哲人の言葉だけあります。生前真にその精神の生きていた人は、たとえその肉体は亡びても丁度鐘の余韻が残るようにその精神は必ずや死後にも残ることでしょう。 こう考えると、諸君らは今こそここに志を立てるべき時です。そのような志が真に確立しない限り、諸君らは真に深く自分の生命を愛惜するとは言えないでしょう。何となれば、真の精神は不滅であり、いかに凡人でもその生涯を深い真実に生きたならば、必ずやその死後、何らかの意味でその余韻を残しているからです。人間が死後にも生きる精神とは、結局その人の生前における真実心そのもので、その真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るのです。かくして人生の真のスタートは、この「人生二度なし」という真理を、その人がいかに痛感することから、始まると言ってよいでしょう。」 二度とない人生だから by 坂村 真民二度とない人生だから一輪の花にも無限の愛をそそいでゆこう一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけてゆこう二度とない人生だから一匹のこおろぎでもふみころさないようここころしてゆこうどんなにかよろこぶことだろう二度とない人生だから一ぺんでも多く便りをしよう返事は必ず書くことにしよう二度とない人生だからまず一番身近な者たちにできるだけのことをしよう貧しいけれどこころ豊かに接してゆこう二度とない人生だからつゆくさのつゆにもめぐりあいのふしぎを思い足をとどめてみつめてゆこう二度とない人生だからのぼる日 しずむ日まるい月 かけてゆく月四季それぞれの星星の光にふれてわがこころをあらいきよめてゆこう二度とない人生だから戦争のない世の実現に努力しそういう詩を一篇でも多く作ってゆこうわたしが死んだらあとをついでくれる若い人たちのためにこの大願を書きつづけてゆこう
2023.02.13
家族ふれあい新聞第1040号より 「壮快」に、安藤和津(かづ)さんが五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」についてエッセイを寄せている。それを読んでいたら以前、安藤さんの出演したテレビで夫奥田瑛二のことを述べていたのを思い出した。和津さんがパーティーを開いたところ、友人がまだ無名の奥田瑛二を連れてきた。和津さんには、その少年がなにかキラキラ輝いてみえた。瑛二少年はその頃、公園で寝起きしていた。水を飲んで飢えをしのいでいた。安藤さんと瑛二少年はデートするたびに、安藤さんがおごっていたというのだ。ふーん、奥田瑛二という役者はそんなに苦労しているのかと面白く聞いていた。エッセーには、奥田瑛二の日常がこう書かれていた。「実は我が家では、私や子供たち以上に、夫が『ありがとう』や『感謝します』をよく口にします。 夫は、世間では無口なイメージなようですが、家の中ではいちばんのおしゃべりです。妻の私にも、あらゆる場面で惜しみなく『ありがとう』といってくれるのです。 仕事で嫌なことがあっても、『苦労ありがたや、ありがたや』と独り言をいって、その日のうちにストレスをどこかへ吹き飛ばしてしまう名人です。」☆するとあの「オーラの泉」に、奥田瑛二さんが出演したときの話をあるホームページで読んだ。「私はお宮に行っても、お寺に行っても願わない。ただ一つあるとすれば、必ず全ての事に対して、全部それを『ありがとう』に置き換えました。うまく行く、行かない関わらず。『全てにありがとう』って言う」「『おう、ありがとう。おう、ありがとう』。 水飲む時も『おう、ありがとう』、みたいな事ですよね。 それがね、すーっごい気持ちいいですよ、ええ。」美輪明宏さんがこれに対して「一つ段階が上がられたのね。黒を知らないと白さも分からない。苦労を知ればささやかな幸せもありがたい。」と応じていた。奥田瑛二さん「『千利休本覺坊遺文(せんのりきゅうほんかくぼういぶん)って映画の台本。〔映画・「千利休本覺坊遺文」(1989)・・・奥田は千利休(せんのりきゅう)の弟子、本覺坊を演じた〕小説もそうですけど。訳解んなかったですよ。もう、難しい事ばっかりで全く訳解んない。一行目から訳解んないんですよね。 でも『それ、演れー』って言われると、演らざるを得ないから。 だから、山に籠もって、自発的に山に籠もったり。 1年前からお茶を習って。もう徹底してやって。苦痛ですよね。でも、その内に一つ一つクリアして行くと。 板の間で正座を最初、5分しか出来なかったのが2時間出来るようになり、3時間出来るようになると。 その段階で、『すっごい知らなかった事が見えて来る』っていう事って、ありますよね。 だから、一つ一つ、それが、まあ・・薬箱の引き出しじゃないですけど。 こう色んな引き出しが出来たという事が、すっごいプラスになってますよね、ええ」
2023.02.10
「森信三先生随聞記」(寺田一清著)の尊徳先生に関するページをコピーして配布した。「森先生は平成4年(1992年)97歳をもって一代の「生」をおえられましたが、その前に、21世紀の展望のいったんを予言せられました。それは日本の立ち直るのは、2025年からだろう。そしてそれは、二宮尊徳のお教えに準拠せねばならぬでしょう。そして世界が、日本の立ち直りを認め出すのは、2050年だろうと、先見の明を示されました。また『二宮翁夜話』こそは、日本人の論語とすべきものですと。」(50ページ)森信三先生の組織論「開かれたコンミューンを提唱されたのが、森先生でした。開かれたコンミューンとは、開放的で出入り自由という意味です。コンミューンとは、共同体とか組織集団を意味します。そうした開かれた同志集団が、しかも幾重にも重なり合った集団、しかもその中心代表が互いに手を取り合っている。」 (240ページ)「この森信三先生の「円心あって円周なし」── そしてみな自主独立にして出入自在。 今後は無数のコンミューンが生まれねばならぬが、この様な円の中心者たちが、お互いに手を取り合う「開かれたコンミューン」でなければなるまい。これがこの読書会の方針なのです。」241ページにはこうある。「最後に 開かれたコンミューン づくりのために大事な一か条を付け加えさせていただくならば、『ハガキ活用の練達者となること』この一か条をいかほど大切かは、実行した者のみ知る功徳です。」☆第2回報徳記を読む会にて より第2回報徳記を読む会を7月9日(水)に開催した。7人集まった。もともとはKさんと2人で立ち上げたものだから、最後は2人だけでもいいと思っていたのだが、こうして第1回目に引き続いてにぎにぎしく参加していただいたことが嬉しい。「この間、お願いではなく感謝するって教えてもらったから、感謝に切り替えたよ」と顔を見るなりKさんに言われた。Kさんの職場の近くに報徳二宮神社があり、出勤の途中、寄っては職場の無事などお祈りして通われているという。7月5日(土)小田原の尊徳記念館など見学会を実施した時、見学会終了後、小田原駅構内の魚国で参加者一同乾杯したのであるが、Kさんが「お願いすることがたくさんあってね・・・」と言うので、「お願いじゃなくて感謝したらどうですか。『こうなりました。感謝します。』ともうそうなったとイメージして感謝するのです。脳というものは現実とイメージと区別ができない。こうなったと本当にそうなったとイメージして何の疑いも不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで感謝しちゃうと、脳はそうなるように働き出すんですよ。」としゃべっていたのだ。
2023.02.10
家族ふれあい新聞第1023号より 「峠の釜めし」の発案者であり、横川の荻野屋さんの副社長でもあった田中トモミさんの『一期一会』という本に「峠の釜めし」の誕生秘話が載っている。 学校の先生をされていた田中さんがお姉様の嫁ぎ先の荻野屋さんを手伝うことになった。日本で二番目に古い駅弁屋の荻野屋さんも田中さんが入った昭和26年頃は一日に20~30個の弁当さえ残ってしまうほどだった。田中さんは、「お客様がどんなお弁当を求めているか、どうしたら喜んでくれるか」を考えながら駅のホームに立ち続けた。団体の添乗員や役員の人に聞くと異口同音に「どこへ行っても似たりよったり。何か変った弁当が欲しい」という答えだった。『2月の寒い日、駅のホームのゴミを片付けていると隅のところだけ箸がつけられた弁当が捨てられていた。凍っていたのである。以来、列車の着く時刻に合わせて温かいご飯を盛り付けて駅へ持込んだ。100円の弁当を私の手から買い求めてくださった母子が「このお弁当は温かい!」と言って胸に抱いて下さった。動き出した列車から私に向かって二人が手を振ってくれた。私も手を振った。自然にホームを走っていた。走りながら目頭が熱くなった。列車が見えなくなるまで手を振り、感謝を込めて最敬礼をした』駅頭での出会いは文字通り「一期一会」。この方々にお喜び頂ける弁当を造ろう、造りたい、造らねばならないという思いが現実になったのが「峠の釜めし」です。「置かれた場所で一所懸命やれば必ず道は開ける」が信条の田中さんは横川駅のトイレ掃除もされているという。☆「打つ手は無限」の素晴らしい詩を残された滝口長太郎さんは、千葉船橋の貧しい海草採りの子として育った。小学校を出ると、父親の小船で、海草を取っては干してリアカーに積んでは海草問屋に売りに行った。その日なんとか食べることができるという赤貧の生活であった。長太郎少年が16歳のときの出来事である。親友の家に遊びに行った。代々網元で御殿のような家に住んでいた。その日集まった友だちでにぎあう家でその網元の親父さんは朝から酒を飲んで、取れたての新鮮な刺身に舌鼓を打っていたが、どういう風の吹き回しか長太郎少年にからかい気味に言った。「よお、そこのター坊よ。漁師っていうのはな、魚を捕るから漁師なんだぞ。海草はひろうもんだ。捕るんじゃねえ。言ってみりゃあ、海のモク拾いのようなもんだ。わっはっは。」周りの人々も大笑いした。少年は瞬間頭に血が上った。怒りで恥ずかしさでブルブルと体が震えた。居たたたれずその家を飛び出した。どこをどう走ったか分からない。気がつくと、人っ子一人いない広々とした塩田の堤防の上に腰かけていた。いつまでもいつまでも海を見ていた。次から次から悔し涙があふれてきた。泣けて泣けてしょうがなかった。「バカヤロー、バッカヤロー」誰ともなく大声であらん限りの声で叫んだ。この事件がきっかけで、俺は海草採りから足を洗うぞという気持ちがめばえた。「海草採りから足を洗いたい」と思い余って父親に打ち明けると「バカヤロウ、漁師のほかにお前に何ができる。冗談じゃねえ、陸(おか)にあがって勤まる仕事がありゃ苦労しねえ。長男のくせして漁師が嫌なんぞ、この親不孝ものめ!」と怒られた。果たしてその後、洗濯屋、畳屋の小僧、臨時雇いの検査工、溶接見習い・・・何をやってもしっくりこなかった。20歳になって、徴兵検査に合格した長太郎は北満州、南方へと転戦した。捕虜生活も体験し、ベトナムで終戦を迎え、昭和21年4月26歳で復員した。 さてこれから何をやって食っていくか?でももう海草採りはやりたくない。毎日毎日浜に出てはぼんやりと海を眺める日々が続いた。ふと気付いた。(このままではいけない。こんなことなら南方の密林で朽ち果てたほうがましだった。自分が生涯をかけて悔いることのない仕事を求めよう。こんなふうに座っているだけじゃ駄目だ。まず求めよう、歩くことだ)そう気付いたとき、胴奮いがきた。その時、漁師と百姓の2人の話が耳に飛び込んできた。海草と芋の物々交換をしていたのである。(これだ、これなら仕事になる!)海草を乾燥させたのを直接農家に売りに行くという長太郎さん原点の仕事がひらめいたのである。にわかに視界が開け、夢がいっきにふくらんできた。しかし先立つのは金だ。まず父親に無心した。「何?おめえが商売だと?冗談じゃねえ?世の中そんあに甘えもんじゃねえ。ビタ一文貸せねえ。」(ああ万事休すか)と思う寸前、ふと妙案がひらめいた。恵んで惜しくない少額のお金、それなら貸してくれるかもしれない。そうだ、数を集めればいいんだ、さっそく翌日から知り合いのところを一人ひとり歩いてまわり、頭を下げて一ヶ月かけて必要な資金を集めたのであった。後に滝口長太郎氏は回想する。「求める気持ちが私を自覚させたのです。」と。
2023.02.10
鍵山秀三郎「一日一話」氏田さんは、「人間行脚の会」と言うのを結成した。顧問に鍵山秀三郎さん、モスバーガー創業者の櫻田慧さん、最初の発起人は西垣戸勝さんで他には松下政経塾の上甲晃さん、綜合開発の樋口順三さん、甲州建設の志村元司さん、大阪銀行の勝山直人さん、みの源の瀧内氏重さん、はやの速水逸也さん、など、そうそうたるメンバーで、私が最年少で何でも走り回る役でした。その結成式の時に、大変まずいことが有った。氏田さんは、鍵山さんに食ってかかったのだ。何かちょっとした言葉の中で、ローヤル(現イエローハット)の商売の仕方についてだ。「社長の考えてはる商売の仕方とか、が僕には理解できません。おかしいじゃないですか?今までの話とは違う!」ということで、訳も分からず鍵山さんに食ってかかっていた。何か非常にまずい雰囲気の中でその会は終った。その後自分としても気持ちの収まりが付かない。そこでお詫びの手紙をだした。「昨夜は遅くまですみませんでした。酒を煽って眠りに就いたものの、明け方に目が覚めました。布団の中で実につまらんことをしてしまった、自責の念でいっぱいです。いくら言葉や表現を変えてごまかしてみたところで、昨夜のこと、実際には自分の現状の不安や情けなさを表現したに過ぎないことがはっきり分かりました。自分の意志で長年の希望通りの仕事の展開を与えていただきながら、その不安に自分を偽っていたのが本音のところです。慌てて岸にあった船に乗って河を渡りかけていたのかもしれません。それも自分が長年憧れていた向こう岸に向かって河に出たものの、思いのほか流れが急すぎて、船のせいや河の流れのせいにしているのが今の私です。しかし、たとえ万が一にも船が転覆したところで、もう元の岸には戻れません。その場で溺れ死ぬか、何とか泳いででも夢に見た向こう岸にたどり着くか、、、。人のせい、世の中のせいにしている自分の情けなさに気が付きました。人間行脚の会のおかげで目の鱗が落ちたようです。もう二度と後悔じみたことを言ったり言葉をすり替えたりせず、がんばってみせます。たった一度の人生だからこそ、がんばってがんばって、がんばり抜いて見せます。貴重なお時間、本当にありがとうございました。行脚の会の一時に心より感謝し、あわせてお詫び申し上げます。今後ともよろしくお願い申し上げます。」こういう手紙を出し、心からお詫び申し上げた。この時、鍵山さんは、「良かったら、年が変わったら、一度東京へお越しください」とおっしゃっていただいた。平成3年の2月6日、ローヤルの本社を訪問した。本当に噂通りのすばらしい会社で、皆様の応対もすばらしかった。それ以上にすばらしかったのは応接室で待っているときに色紙がかけてあった。『その時の出会いが人生を根底から変えることがある 良き出会いを』という、相田みつおさんの詩だ。氏田さんは、これを見たとき、本当にこの方とお会いできて良かったな、ここへ来て良かったな、と思った。本当にきれいに掃除の行き届いた応接セットと、心を感じさせる「蜂の巣」の飾り物が置いてあったのが印象的だった。お昼の食事を一緒にいただいた後、鍵山さんが私にこの紙を出してくださった。「こうだったから、こうなった。 こうだったのに、こうなれた。 こうだったからこそ、こうなれた。」これを教えていただいた。「氏田さん、最後が良いんですよ。『こうだったからこそこうなれた』というふうに自分の人生をやられたらいかがですか?」とおっしゃった。自分に何らかのハンディキャップがあったり、自分が苦しければ苦しいほど、「だからこそ、こうなれた」、というふうに言える人生にしたい、と氏田さんも心した。今でも氏田さんは自分の部屋にこれをかけている。「きっと私が行くために鍵山さんが書いてくださったんや」とずっと思い続けている。氏田さんの宝物である。『人は考えたとおりの人間になる。』これも鍵山秀三郎さんに言われた言葉だ。「氏田さん、人間はだんだん人間らしくなっていくんですよ。それは自分の心の持ち方と進め方なんですよ。」◎鍵山さんはイエローハットという車部品の店を始められた時、たとえば雪が降ったとき、かきいれどきだとばかり、スノータイヤを通常の何倍にもして売るのが通常だった。鍵山さんはおかしいと思って、正常の価格で売った。すると同業者から憎まれて、雪が降ると鍵山さんの店のスノータイヤを買い占めて、雪が降り止んでから返品の嵐というような、嫌がらせが続いた。そうしたことをすべて掃除を通して自らの心を育てるように活かされていくんだ。こうだったからこそこうなれたというふうに、自分の人生をやってこられたんだね。するとオセロで黒が一瞬で白に変わるように、過去が一瞬で肯定的見方に変わるんだ、
2023.02.10
家族ふれあい新聞第967号よりあるブログより「ひとりさんの今日の言葉を見たら、「みなさん元気ですか?ひとりさんも元気ですよ 今日はいいことありますよ」とありました。朝、主人が起きてきた時、「今日は良いことあるような氣がするって10回言って見て」と何気なく言うと、本当に言ってくれました。意外だったので、家族であははは~と笑いました。そして朝食の支度が終ると、主人が「さっき10回言って見てといった言葉、なんだったけ?」と言うので、「今日は良いことあるような気がする、だよ」と言うと「その言葉を言ったら頭痛が取れたよ・・・」ポロッと言って、朝食のパンを食べていました。主人は、そんな話に興味も持たないし、そのような本も読まない人なのですが、時々面白い気づきを教えてくれます。」昔、有楽町の読売ホールで「幸せの花一輪コンサート」があって、そして五日市剛さんが五日市さんにしては短い一時間ほどの講演をされた。その中で朝、起きたら「今日はとってもいいことがたくさんありました。感謝します。」とまず感謝しましょう。そして夜寝る前に、その日あったいいことを思い出して「今日ははとってもいいことがたくさんありました。感謝します。」と言って休みましょう。一日は一生の縮図です。一日を大切にしましょう」と言われた。今日もとってもいいことがあった。知り合いのお寺の住職の方がわたくしを訪ねてきてくれた。「今日はあなたにお礼を言うために来ました。以前、鈴木秀子さんが話されたという『縁を生かす』という話をいただいて、北海道にバスで団体で旅行にいったとき、『ただ遊んで回るだけではなんですから、いい話がありますからお話しましょう』とバスの中であの恩師を母の席に座らせた話をしたのです。すると、後で私の友人から『お前を恨んでいる。お前があんないい話をするから、俺はポロポロ涙が溢れてきて、周りが女性ばかりの中で恥ずかしい思いをしたぞ』なんていわれたんですよ。」そんな話をしてくれた。
2023.02.10
「斎藤一人の不思議な魅力論」あのね、俺は、大切にしたものが残るっていうんだね。ほとんどの人は、たいてい困ったことがあるといけないから、っていうんで貯金するでしょ。それはお金が大切じゃないの。自分だけが大切なの。そうすると、本当に困ったことが起きて、お金に困っちゃう。だけど、俺はお金を大切にしているからお金を残すんだ。だからお金に困らない。お金を大切にするからお金に好かれ、またお金が入り、貯金が増えるんだ。お金っていうのは、自分の手元に来たときにはくたびれているの。それを無駄にしておくのはもったいない、って、株とか土地とかに買ってコキ使ったりするから、お金に嫌われるんだよ。アイツのところにいるのは止めた、って、全員いなくなっちゃうの。だから俺みたく、大切にしてみなよ。そうしたら、お金のほうから言ってくるよ。『ちょっと使ってくださいよ。私を少し出してくれたら、私、仲間をみんな連れてきちゃいますから』って。お金を大切にしていると、それぐらいお金から愛されるんだよ。だから、大切にしたものが残るんだよ。それと同じように、友だちを大切にしている人は、友だちが残る。自分しか大切にしない人は、自分が残る。友だちもいない、誰もいない。自分だけが残るんだよ。だけど、自分さえも大切にしない人がいる。そういう人は、自殺しちゃったりして、何も残らない。 俺はお客さんを大切にし、商売も大切にし、お金も大切にする。だけど、それ以上に10人のお弟子さんたちが大切。まるかんの人全員が大切なんだよ。だから、俺は大切なみんなに囲まれているんだ。で、大切な人に囲まれている人生が最高の人生なの。俺は、お金も、商売も、お客さんも大切で、愛している。だけど、肉体が滅びて、俺の魂がふるさとの天国へ帰ったとき、それを持ち帰ることはできない。 魂のふるさとへもち帰れるものはこの世で与えたものなの。それは愛なんだよ。 愛を与え、大切な人に囲まれて楽しく生きて、本当にしあわせだったという記憶しかもっていけないの。 もう一回いうよ。 何を大切にするか、ってことが大事なんだよ。
2023.02.06
「忘れかけていた大切なこと:ほほえみ一つで人生は変わる」渡辺和子さんより曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、「だいじょうぶの小石」というお話があります。仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、掌に入るくらいの小さな小石をもっていて、これから手術を受けようとしている人に、その小石を握らせてあげるのだそうです。その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、それを握らせてもらった人は、「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」と喜びます。すると、その方は、「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫の小石なんですよ」とおっしゃるのだ、というお話なのです。この話を読んで、私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。祈れば神が私の願い通りにしてくださる、病気を治してくださる、夫の怪我を治してくださる、子供の暴力を止めてくださる、というのではなく、どっちに転んでも大丈夫、神は悪いようにはなさらないという信頼、腹のすわった心がまえ、そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。私たちが祈ると神はきいてくださる。まるで私たちの意のままになる神のように想い勝ちですが、私がどう願おうと、神はご自分の御心をお行いになるのです。私は「欲しいもの」を願うけれど神は「要るもの」を下さるのです。私は26年前、うつ病になりました。50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、その時に欲しくも無い病気をいただきました。その時、一人のカトリックのお医者さまが、「シスター、運命は冷たいけれど、摂理はあたたかいですよ」と慰めてくださったのです。その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。治りたい!治りたい!とだけ想い、神をうらみ、愚痴を並べ、そして暗い顔をしておりました。私が唯一微笑むことの出来なかった時期です。その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。この世の中に起こることをしようがないこと、降って湧いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け取るなら、摂理として神のはからいとして受け取る。だから「大丈夫だ」ということなのです。私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない、。でもいつか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることが、すべてを摂理として受けとめるということです。(略)神の摂理として病気をいただいたということ、その時はとても辛かったけれども、いまとなっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。それまで人に対してきびしくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、それを思わないで済むようになりました。自分の弱さを知ったからです。私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。(略)皆さんも、「だいじょうぶの小石」をしっかり握りしめて生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。時たまポロッと落としてしまってもかまいません。どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。
2023.02.03
あばれものややくざものでも慕ってくる限りは、縁のある限りは決して捨てない人物を二人知っている。一人は山岡鉄舟だ。鉄舟は清河八郎の主催で虎尾の会を松岡萬と村上政忠、石川周蔵らと起こす。松岡は剣の達人でその頃だいぶ人切りをしていたといわれる。松岡は鉄舟の議論をふっかけても茫洋としたつかみどころのないところが気にいらなくて、ある会合の時、切ろうと刀を抜きかけた。しかし鉄舟の人格に押されて切れなかった。そこで感激家の松岡は逆に鉄舟に弟子入りする。鉄舟は俺は弟子はとらないと断ったが、松岡は一たん決めたらてこでも動かない。そこで毎朝撃剣の稽古に来るならと入門を許したんだ。ところがある雪の日、松岡が来ない。鉄舟は松岡を尋ねる。松岡は腹を壊してうんうんと寝ていた。「なんだ死んだと思ったら生きているじゃねえか。生きているのに来ねえなら破門だ」と鉄舟は厳しいねえ。すると松岡は剣に寄りかかって鉄舟の家の前に来て「俺が悪かった。許してくれ」と数時間雪の上に座って謝ったというんだ。後に松岡はその治水や工事の手腕をかわれ、新政府でも腕を振るう。あの秋葉原の万世橋も自分の名前からとったといわれ、静岡では地元の農民に「松岡さま」と感謝され、磐田市の地主神社と岡部町の松岡神社の二社にまつられているほどなんだ。また、村上政忠というのもまあ御しがたい人物で勝海舟にしょっちゅう金をせびりにいって、悪たれをついては困らせた。海舟も手にあまって鉄さん、村上をひきとってくれと使者を寄越したほどだ。警視庁とだって揉め事を起こして平気だったけど、鉄舟には借りてきた猫のようにしたがった。鉄舟がなくなった時には、殉死のおそれあると警察に拘束されたり、その後も悲嘆のあまり三味線一つかかえて行方がわからなくなったほどだ。また鉄舟の義弟、奥さんの妹と結婚したのだけれども、石坂周蔵という人物がいる。清川八郎が惨殺されたとき、親の仇であるといいたてて清河が隠し持っていた虎尾の会の血判状と清河の首を鉄舟の家に持ち帰った人物だ。年は鉄舟より上だったので自分の肝っ玉をみせて感心してやろうと、箱根で政府軍と幕府軍がドンパチやっているなか、孔明の出陣の詩を朗々と詠ったと自慢したところ、本をさかさまに持ってたというじゃないかと鉄舟にからかわれて「とても兄貴にはかなわない」と鉄舟の弟子となったのだ。後に石油王といわれるくらい事業家となったが、結局失敗して、鉄舟がその後始末を見た。今でも谷中の全生庵に鉄舟の墓をとりかこむように3人の墓があるんだ。もう一人は山本玄峰老師で、臨済宗の傑僧だが、こうおっしゃった。「僧堂にはいろいろな人がくるが、まともな人間は余人に任せる。わしは世間から、あばれもの、やくざもののように見られている連中を世話する」と。こんなことはよほど傑出していないといえないし、実践できない。現に田中清玄という人は東大を出てコチコチのコミュニストだったんだけど、獄中で転向する。『自分が共産党から転向したのは、実は玄峰老師の教えによって転向したんだ。初め老師が、刑務所へ教誡師としてきて、話をされたけれども、このくそ坊主、何をいうかと。こっちは、こちこちのマルクス・レーニン主義者だから、頭から馬鹿にしておったが、あの人が帰ると、妙に寂しくなってくる。そのうち、段々と老師の来るのを楽しみに待つようになった。それで、とうとう転向したんだ』と本人が語ったことがあるという。後に田中は玄峰老師の秘書のようになり、終戦時、鈴木貫太郎首相に「堪え難きを堪え、忍びがたきを忍んで、この難局を乗り切ってください」と激励した。これが終戦の勅語に反映されたというんだね。老師は横綱、大関が引退するように、きれいに戦に負けなさいと伝言させるんだ。おそらく鉄舟や玄峰老師はどんな人の中にも仏性を見たんだろうね。だからどんなあばれもの、やくざものの中にも、その内なる仏性を見て縁がある限り決して見捨てない。エステの今野華都子さんも「辞めさせてください」と自分で自分を見限って申し出る弟子たちがいるとこう言うんだって。「いつ辞めていいよ。でも私がいいと言うまではまだここにいなさい。私がいいといったら、どこに行っても何をやっても大丈夫だ。でも、まだ辞めてはいけません。」今、日本の教育や社会はすぐに人を「あいつはダメだ」とは早急に評価を下して、切り捨てようとする。そういうふうに切り捨てるのではなく、こういうような人を活かす、そういう教育、経営が本当に必要な時代なんだろうね。
2023.02.02
💛先週、土曜日に歯医者に行った折。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」について、歯科助手の女性におしゃべりした。女性には小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を差し上げたことがある。歯科助手「なかなかありがとうがいえなくて」わたし「小冊子に 五日市さんが 「喧嘩したりして ありがとう って言えないときがあるじゃないですか?そんなときはどうするんですか?」とおばあさんにいうと おばあさんが 「ただ、言えばいいのよ」というシーンがあります。五日市さんは、おばあさんに 幸せをもたらす魔法の言葉を聞いてから、ハンカチから手の平からはてはパンツまで ありがとう と書いて身につけようとしたんです。イスラエルで車にひかれたときも、ありがとうと言って、なんともなかった。荷物を置き引きされたときも「ありがとう」とその犯人にどなって戻ってきた。帰国の時、イスラエル入国の際にトイレに置き忘れた財布が戻ってきて号泣し、「魔法の言葉」を確信したのです。すると歯科助手の方が、電話に出たあと、「ありがとう」と言って帰ってきた。お医者さんが笑って「キャンセルの電話?」と聞くと、「予約の電話です」(笑)そうそう「ただ ありがとう と口に出せばいいんです」と心に呟く。「普通はつらいよ」斎藤一人さんより「神事(しんじ)に『国誉(くにほ)め』というのがあります。 古代、ある国に任命された役人が最初にやった仕事です。たとえば、私がどこかの国に任命され、その国に行っていちばん最初に何をやるかといえば、そこの国がどんなにすばらしいか誉めたたえるのです。 その行為が、神事だというのです。 不幸な人は、この国誉めができません。 たとえば、北海道に住んでいるのに、北海道の悪口を言っている人、「まったく、雪が降って嫌になっちゃう」とか。 沖縄に住んで、今度は「雪が降らなくて嫌になっちゃう・・・」とか・・・。 不幸な人というのは、自分の住んでいるところをけなします。 日本に住んでいるのに日本をけなす。・・・ 自分が住んでいる場所や生まれた場所をけなしている人には、いいことはまず起きません。その人の発言で、その場所に住んでいる土地の神様から、先祖まで、みんな嫌な気がしているのですから。・・・ 「日本っていいよねえ」「○○っていいよねえ」「自分の住んでいるとこっていいよねえ」「自分のお店っていいよね」 こんなふうに国誉めをしていると、どんどん幸運になってきます。」
2023.01.31
2008年12月23日に有楽町の読売ホールで「幸せの花一輪コンサート」があり、第一部で五日市剛さんの講演会があった。その講演のなかで、「1日を大切にすること」を強調していたのが、脳裏に残った。「朝、起きたとき『今日いいことがたくさんありました、感謝します』と感謝しましょう。そして夜寝る時『今日いいことがたくさんありました』と一つ一つ思い出して感謝しましょう」という話だった。鈴木重子さんは、眠る前に、毎日こう感謝するという。 「私がきょう踏んだ地面よ、 ありがとう、 あなたは、私です。 私がきょう食べたものたちよ、 ありがとう。 あなたは、私にいのちをくれた。 あなたは、私です。 私がきょう見たけしきよ、 聞いた音よ、 触れたものたちよ、 そして、この星の上の すべての生きものたちに、 ありがとう。 あなたがたもすべて、私です。 私がきょう会った人たち、 私のたいせつな人たち、 そして、この星の上の すべての人たちに、 ありがとう。 あなたは、私です。 私、 私よ、 ありがとう。 きょうもまた、精いっぱい 生きてくれた、私にも、 感謝を。 天使さまがた、 いつもいつも、ありがとう。 あたたかいことばは、 私を、大きな世界に、 連れていってくれる。 そして、神さま、 ありがとう。 きょう起こった、 すべてのことに感謝します。 あしたがもっと、 すばらしい日でありますように。 この星に、 宇宙のすみずみに、 光が、あふれますように。」
2023.01.20
元旦、布団のなかで この世における生まれ変わり について思いを巡らせていた。鎌倉殿の十三人のラスト近くのシーンで小四郎(義時)が三浦義村に毒入りの酒をすすめるシーンがある。小四郎「のえが体に効く薬を用意してくれてな。それを酒で割って飲むと、うまい」義村「俺はいい」小四郎「それとも、他に飲めない訳でもあるのか」腹をくくって義村は、一気に盃を飲み干す。小四郎「俺が死んで、執権になろうと思ったか」義村「まあ、そんなところだ」小四郎「おまえには務まらぬ」義村「おまえにできたことが俺にできないわけがない。俺はすべてにおいておまえに勝っている。子どもの頃からだ。頭は切れる。見栄えはいい。剣の腕前も俺の方が上だ。おまえは何をやっても不器用で、のろまで。そんなおまえが、今じゃ天下の執権。俺はと言えば、結局、一介の御家人に過ぎん。世の中、不公平だよな!いつか、おまえを超えてやる…。おまえを超え…超えて!いかん!口の中が痺れてきやがった。これだけ聞けば満足か!うっ、ううっ…」小四郎「よく、打ち明けてくれた。礼に俺も打ち明ける。これはただの酒だ。毒は入っておらん」義村「本当だ。しゃべれる。俺の負けだ」小四郎「平六、この先も太郎を助けてやってくれ」義村「まだ俺を信じるのか」小四郎「おまえは今、一度死んだ」義村「フッ…。これから先も、北条は三浦が支える」小四郎「頼んだ」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」でイスラエルで出会った不思議なおばあさんは「五日市さん、運命というのはね、あるのよ私達の運命はね、最初からほとんど決まっていたのよ。」「私、ユダヤ教徒の人間だけど、「生まれ変わり」を信じているの。過去世や来世というのはあると思うわ。」五日市さんは「人は生きているうちに言葉で生まれ変わることができる」と理解した。そして「訳注 静岡県報徳社事蹟」で紹介した報徳の実践家たちもまた「人は一旦死んで、報徳によって生まれ変わることができる」と信じたのである。平兵衛「権左衛門はここで死んで小林の子として生まれ変わるのだ、いいか。」権左衛門「わかりました。」平兵衛「では明日野州桜町に連れていこう。」権左衛門「家には入湯とだけ言って来たので・・・」平兵衛「一旦、死んだはずではないか。」また、山岡鉄舟が荒木由蔵に「報徳とはいかなることか」と聞いた。「報徳とはひとたび死ぬることでござる」と荒木は答えた。鉄舟「わかった。それはよろしい」と膝をたたいて言った。
2023.01.01
山梨県の友人O君から あんぽ柿 が送ってきた。毎年この時期にいただくのだが、今年は2箱もある。友人のS君(二宮尊徳の会員)に2パックと季節の栗のお菓子を添えて送る。S君は 「訳注 静岡県報徳社事蹟」のクラウドファンディングにとりかかるはるか前にお金を送ってきてくれて役に立ててくださいとあった。誠に進んで推譲する、「報徳記」原文を輪読した仲間だけのことはあると感嘆した。同じく会員のM君も 支援依頼をする前に お金を送ってきた。2人の推譲のお金を印刷所に先に送って、その資金で 明治39年と明治41年の静岡県全図を古本市場から購入してもらった。明治39年のはデジタルで鮮明だが著作権上も問題があるかもと、紙のほうの明治41年の静岡県全図を表紙に用いた。また「静岡県報徳社事蹟」の古本も購入してもらい、ばらばらにしてデータで取り込み、当初は本に組み込むつもりであったが、残念ながら今回はそれほど資金的余裕がない。場合によっては単独で もし改訂版が出せるならその機会にでもと デジタル化だけは進めてもらっている。あんぽ柿を送った S君とは もう30年以上の付き合いになる。五日市剛先生が一宮で講演された折には、車を出してもらい、初めて講演を聞きにいった。懐かしい思い出である。今回五日市先生からも多額の支援をいただいた。この「訳注 静岡県報徳社事蹟ー報徳の師父第2集-」は、出版する前から、寿がれている。クラウドファンディングもあと17日。支援していただいた方々に心から感謝します。
2022.11.09
きのう、歯医者に定期的な歯垢除去に行ったとき、歯科技能士の方にクライドファンディングのチラシを差し上げた。歯科技能士の方には以前小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を差し上げたことがある。「ちっとも、ありがとう、感謝します が言えなくて・・・」とおっしゃる。「五日市先生は、イスラエルでおばあさんから 幸せをもたらす魔法の言葉を聞いたあとイスラエルにいる間に、魔法の言葉を身につけようと、ハンカチから手のひらからはてはパンツにまで、魔法の言葉を書き付けたそうです。」マスオさん盤にはこうあります。「それから、おばあさんの家を出てツヨシはさらに旅を続けました。3日後、ツヨシが道を歩いていると、後ろから走ってきたあやしい男に、リュックをひったくられたのです。そのときです。「ありがとう!」とっさに、あのおばあさんから教わった魔法の言葉を口にしました。すると、ひったくりが、少し先で、荷物を持ったままひっくりかえりました。そしてなんと、リュックを置いて逃げていったのです。とっさの出来事で、なにがなんだかわかりません。でもそのおかげで、リュックをとられなくてすんだのです。あのおばあさんのおしえてくれた言葉は本当かもしれない。ツヨシはそう思いました。それからまた、何日かして、こんどは交通事故にあいました。なにげなく道路をわたっていたとき、走ってきた車がぶつかってきました。車が自分に向かってくるのを見たツヨシは、とっさに、おばあさんから教わった魔法の言葉を口にしました。「ありがとう!」ドンッ!車とぶつかる大きな音がしました。ツヨシは、もうダメかと思って目を閉じましたが、そっと目を開けてみると、自分の手足は無事でした。どこも、なんともありません。しりもちをつきましたが、ズボンがよごれただけで、けがはありませんでした。(おっ、おばあさんの魔法の言葉のおかげで、助かったんだ!)ツヨシは、そう思いました。ああ、無事でよかった。感謝します。旅の途中で起きたトラブルを、おばあさんの魔法の言葉で乗り切ったことで、ツヨシは、魔法の言葉をすっかり信じるようになりました。そして、帰りの空港で、また信じられないことが起ったのです。「これはあなたのものですか?」空港で出国しんさを受けたとき、係りの人からそう声をかけられました。見ると、そこには見覚えのあるさいふがありました。「あっそれ。はっ、はい!間違いなくそれは、ぼくのさいふです」1ヶ月前、入国してすぐに、この空港でさいふをなくしたときは、2度と自分の手にもどってくることはないと、あきらめていたのです。そのさいふが、目の前にあるのです。「おっ、おばあさん!きせきです!きせきが起きました!」ツヨシは、おばあさんに、心から感謝をしました。考えれば考えるほど、不思議な話です。でも、みんなほんとうの話なのです。」すると、歯科医の先生がニコニコして寄ってこられて「歯にも感謝ですね」「ほんとうにそうです。歯にも感謝です」
2022.10.16
聖アントニオは、カトリックの世界では、亡くしものをしたとき、「聖アントニオ」と唱えると亡くしたものが出てくると広く信じられている。ほかのアントニオと区別するために「パドマの聖アントニオ」と呼称されている。本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブリャォン(Fernando Martins de Bulhão)という。ポルトガルのリスボンで貴族の子として生まれた。アッシジのフランチェスコに共感し、彼の創設したフランシスコ会に入会した。イタリアや南フランスといった地域を巡り、精力的に活動するも、パドヴァ近郊でわずか30代半ばで病没した。聖アントニオは、説法に優れ、生前から民衆にも大変人気のある人物であった。彼が死んだとき、町中の教会の鐘がひとりでに鳴ったとも言われている。彼の絵画や肖像では、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンがともに描かれている。祝日は6月13日。聖アントニオが亡くしものの守護神として信じられるようになったのはある時、学生たちを教えていて、学生の一人が聖アントニオの愛用していた詩編を盗んで田舎に帰った。アントニオが祈るとね、その学生の前に鬼のようなものが現れてすぐ詩編を返すよう迫って、学生は恐れをなして返した。そんなことから失せ物のとき聖アントニオと唱えると失せ物が見つかると広く信じられるようになった。2013年、石川県小松市の女性がオーストリアで落し物のカメラを拾った。時間が迫っていて、現地の警察に届けることができなかった。日本に帰って来て警察に相談したが、日本国内の拾得物しか扱わない。女性は困り果ててオーストリアの日本総領事館に事情をかいてカメラを送った。領事館ではカメラに収められた映像からドイツのワイデンの会計事務所と教会が写っていることから教会に照会してついに持ち主のエーディス・二クラスさんを割り出した。二クラスさんは毎日教会に行って聖アントニウスにカメラを探しだして下さいとお祈りしていた。現地の新聞はね、聖アントニオがインターネットのグーグルでカメラを探しだしたって評判になったという🎵きのう、大切な書類が見当たらないという事件があった。ある事務所から3件送ってもらうことになっていて、2件は確かに受領していた。担当のFさんに聞くと、「渡しましたよ」と一昨日電話で言われた。そこで、きのう午前中、机の引き出しの中や書類を置いたであろう場所を探し回り、ついでにいらない書類、紙くず類をシュレーダーにかけた。ふと思いついて「聖アントニオ」を唱えて「書類が見つかりました。感謝します」と唱えた。そうしたら午後3時過ぎ、席をはずしていた時に、Fさんが書類を持ってきて、そのなかに「渡しましたよ」と言っていた書類が入っていた。「Fさん、すみませんでした の一言もなかったんだよ」と隣の席の人に愚痴ったが、むしろ感謝の気持ちがまさっていて、Fさん本人を咎める気持ちはなかった。「聖アントニオ」を唱えると、見つかっても見つからなくっても、そういう効用があるようだ。見つかったら感謝、見つからなくてもそれはそれでよかったのかもしれないとあきらめる。小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を魅力的にしているのは 二つの箱の話である。ツヨシさんは、イスラエルで不思議なおばあさんに出会い、お宅に泊まらさせていただくことになり、その夜におばあさんから「幸せをもたらす魔法の言葉」を伝授される。そして翌朝、おばあさん「おはよう、よく眠れた?朝食は、温かいスープとパンよ」ツヨシ「わあー、おいしそう」おばあさん「あ、そうそう、あなたに贈り物があるわ。さあ、これ。あなたにあげる」それは2つの箱でした。一つは大きくて軽い白い箱ともう一つは重量感のある小さな黒い箱でした。「えっ、僕に。でも、とめてもらったうえに、プレゼントまで受け取るわけにはいきません」おばあさん「そうですか。ただでは受け取れないというわけですね。じゃあ買ってください」「お、おいくらですか?」おばあさん「そりゃ、いくらでもいいわよ」ツヨシ(どうしよう。今持っているお金は、2万円ぐらいだし、後何日もこれで暮らさないといけないし。500円くらいかなあ、1,000円くらいがいいかなあ。でも、おばあさんにはお世話になったし、ちゃんとお礼しないと後で絶対に後悔するぞ。よし、持っているお金の半分をあげよう。)「じゃあこれだけ払います。」おばあさん「やっぱりね」ツヨシ「えっ、やっぱり」おばあさん「あなたは、お金のつかいかたを知っているのね」ツヨシ「えっ、お金のつかいかた、ぼくが知ってる・・・」おばあさん「ツヨシさん、約束してくれる?あなたの誕生日が来たら、どちらか一つをあけて、そして、その次の誕生日が来たらもう一つを開けてね」イスラエルの旅から戻ってからのツヨシはいいことばかり続いていました。それはあのおばあさんが教えてくれた魔法の言葉を使っていたからでした。誕生日がきました。「そうだ、おばあさんから頂いたあの箱を開けなきゃ。白い箱と黒い箱とどっちにしようかな。」どきどきしながらツヨシは白い大きい箱を開けました。あれっ、何も入っていません。えっ、どういうことだろう?なぜ?からっぽ?意味が分かりません。分からないまま、次の誕生日が近づいてきました。今度こそ、あの黒い箱には、何か大事なものが入っているはずと、ドキドキして誕生日が来る前に開けたくて開けたくて、たまらなくなりました。ところが、あれっ、黒い箱が見当たりません。確かに置いた場所にも、どこにもないのです。とうとう誕生日が来てしまいました。すると、その何日か前に、ツヨシがプロポーズしていた女性から、その黒い箱がバースデープレゼントとして送られてきたのです。箱の中にはなんと、結婚の申し込みをお受けしますという手紙が入っていたのです。さらに、おばあさんが集めていたような、素晴らしいペンが入っていました。不思議な出来事で、いくら考えてもツヨシには分かりません。でも、みんな本当のことばかりです。そしてもう一つ、おばあさんから貰った手紙もいつもツヨシを励ましてくれました。「ツヨシさん、お元気ですか?お手紙ありがとう。それに魔法の言葉をちゃんと使ってくれていて、とっても嬉しいわ。ツヨシさんの人生が、とってもよくなることを信じています。そしてツヨシさんだけでなく、これから一緒になる奥さんや、子供達や、お父さんお母さん、お友だちみんなが幸せにいい人生が送れるよう、願っています。人間の命は、奇跡を何億回も重ねて生まれ、たった1回で終ってしまいます。だから、毎日を大切に生きてください。ツヨシさん、あなたにはお父さんお母さんがいます。そのお父さんお母さんにも、それぞれにお父さんお母さんがいます。そのそれぞれのお父さんお母さんにも、やっぱりお父さんお母さんがいます。そう考えると、どこかでみんな繋がっています。みんな家族なんです。その、大きな家族の中で、幸せに生きていくうえで、何が一番大事なことか、ツヨシさんはもう気づいたかしら。そう、それは言葉の使い方なの。どんな言葉を口に出すかであなたの人生が決まってくるの。いい言葉を使っていると、必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでも忘れないでね。私は遠くに住んでいますが、いつもあなたのことを思っていますよ。さようなら、さようなら。」
2022.10.15
五日市剛さんの営業スタイル営業で大切なことは、「相手を好きになる」こと。好きになるということは相手に興味を持ち、どのような性格かどんなことが趣味なのかと相手が喜ぶことをいち早く見抜き、そういう話題に持って行き心から「素晴らしいなぁ、素敵だなぁ!」と思えるようにすること。「お客様が自分に興味を持ってくれ、感性が似ている」と思えたら仕事は後から付いてきますよ」と。優秀な営業マンほど相手に興味を持とうとし、そうでない営業マンは自分の話しが中心となるのでしょうね。💛上記を読んでいたら「鏡の技法」の一節を思いました。「あなたがある人の性格を素晴らしいと憧れるとき、自分自身はとてもそんな性格をしているとは思いません。自分が憧れるような面を自分が持っているとは思えないのです。でも、あなたがある人の優しさ、思いやりなどにあこがれるときは、実はあなたの中にもそれと同じ優しさや思いやりがあるのです。イエスも「あなたが他人のなかに見るものは、すべてあなたの中に、もっとたくさん存在している」といっています。つまり、あなたが憧れる他人の一面は、もっとたくさんあなたの中にあるのです。これって素敵なことだと思いませんか?」
2022.10.02
悪夢を見て目が覚めたよく家に帰りつかなくて、延々と電車を乗り継ぎしたりする夢は、時々見るがその新しいパターン。途中でバーによると、ぼられそうな怪しい雰囲気に、帰ろうとすると一人のスーツを着た店員がまとわりついてくる。まこうとするが、いつまでもしつこくついてくる。目がさめると、対人関係で こういう ことで ありがちかなあ。いわゆるこちらの対応のまずさで、しつこく恨まれ、しつこくからまれる。悪夢で目が覚めてよかったと思う反面、こういうことが現実に起こった場合の対処を想定する。これまで出会い学んできた考え方のなかでよかったと思うのは「ツキを呼ぶ魔法の言葉」のおばあさんの言葉である。嫌なことがことがあったら、すぐに「ありがとう」と言いなさい。いいことがあったら「感謝します」と言いなさい。嫌なことがあったとき「ありがとう」というと、悪い循環が断ち切れて、いいことに転換してくれる。よいことがあったときに「感謝します」というと、感謝しなければならないようなことが起こる。そうそう、夢の中で すぐに「ありがとう」と言っていれば、しつこくつきまとわれる循環が断ち切れたのかも。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を読んで やったことがある人はいても、やり続けている人は少ないように思う。以前、自転車で遠出をしたとき、チェーンがはずれて、車輪にくいこんで、はずそうとしてもはずれない。手も真っ黒になって、疲れたとき、そうだ魔法の言葉「ありがとう」だと思い出し、唱えたら、たしか近くに大きな雑貨屋があったことを思い出して、そこまで自転車を押していったことがある。そこで自転車用のオイルを買って無事チェーンがはずれたことがある。また、長期の介護休暇をとって田舎に帰省してた時に、夜、病院からの帰り、これまた自転車から転んで、体をかばって腕と指をいためたとき、「ありがとう」と唱えながら、実家まで帰った。そして傷を負った獣のように布団のなかで朝までじっと丸まっていた。翌朝、病院に行くと腕が骨折していて、応急措置してくれて、こちらに帰ってから病院でギブスをまかれたことがあった。おかげで何事もなかった。魔法の言葉は 一つには 悪い思考の状況から、発想を転換して、くれる。 また、「ありがとう」に集中することで、不安や苛立ちから解放してくれる。そういう幾たびの経験を経て、魔法の言葉を確信をもって唱え続けるようになった。もっとも人に勧めると、新興宗教のように警戒されることがあるからご用心。「私はねえ、戦争中ドイツからきたの。だからその頃は、それはも大変だったのよ。主人は大学で数学を教えていたの。3年前に亡くなったけど。息子夫婦は隣町に住んでいて、時々みんなでお食事するのよ。それでね、私の趣味は、お裁縫に、植物を育てたり、ペンを集めたり・・・」そして、スープを飲み終わるとおばあさんは、こんな話をしてくれたのです。「ツヨシさん、あなたはいい人生を歩みたいですか、それとも悪い人生でもいいのかしら?」「もちろん、いい人生がいいです。」「じゃあ、ツヨシさん、運がいいっていう言葉を知っているでしょう。」「ええ、知っていますよ」「じゃあ、これさえ言えば誰でも運がいい、幸せな人生になる魔法の言葉を知っているかしら?」「ええっ!そんな言葉があるんですか?ぜひ教えてください。ぼくはこの国に来るまで、いや来てからもずーっと悪いことばかりでした。だから、もし、その言葉がわかったらぼくにもいいことがやってくるかもしれません。どうか教えてください。お願いします。」「そうだったの。つらかったわねえ。でも、もう大丈夫よ。それはね、ありがとう 感謝します この2つよ。」「えっー、そんな簡単な言葉なんですか?」「簡単すぎた」「はい、僕でも知っているし、誰でも知っている普通の言葉ですから」「そうねえ、誰でも知っているし、使っています。でもね、本当の使い方があるの。」「ええっ、本当の使い方?」「そうよ、使い方が大事なの。ありがとうは、何かしてもらったときに言うけれども、そのほかに、嫌なことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき、ありがとう。財布をなくしたとき、ありがとう。とても、大切な人を失ってしまったときも、言えないかもしれないけれど、歯をくいしばって ありがとう って言うのよ」「それはどうしてですか?」「ありがとう と言うとね、それ以上嫌な気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動き出すのよ。だから ありがとう は魔法の言葉なの。感謝します は、いいことがあったら言ってちょうだい。そういうと、また嬉しいことが起こるかもよ。それにこの 感謝します って言葉はね、もっと素敵な使い方があるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」 「ええっ、これから起ることにですか。」「そうよ、たとえば家の鍵をなくしたら、 鍵がみつかりました、感謝します と言うの。何の疑いも心配もなく、そう思いこんでね」「何の疑いも心配もなく ですか?」「そうよ、何の疑いも無く心配も無くいえたら、そのとおりになるのよ。言葉にはそういう力があるの。 ただねえ、これだけは言ってはいけないという言葉もあるのよ。それを言っちゃうと、いいことがぜんーぶ、悪くなってしまうの」「どんな言葉ですか?」「それはね、汚い言葉、それから人の悪口。汚い言葉や人の悪口を平気で言う人は、その言葉のとおりに、嫌な毎日になってしまうの。それから怒ってもいけないわね。怒れば怒るほど悪いことが起きてしまう。」「僕はここに来るまで、ひどい言葉ばかり言っていました。それにいつも人を怒っていました。だから悪いことばかり起こっていたんです」「でもねえ、どうしても怒らなくては、ならないときは、自分に ありがとう と言って ちょっと深呼吸して、別な言葉でやさしく伝えたらどうかしら。一呼吸置くと心が落ち着いて、いい言葉が見つかると思うわ。」
2022.09.16
今野華都子先生の洗顔のマニュアルを簡単にしたもので、夕方シャワーのときに洗っている。「正しい洗顔法のトリセツ」の泡で洗うは、今野先生も強調されることだが、ぬるま水で最後洗うは、改めて認識させられて、お湯ではなく水で仕上げする。これまで 年相応の しみ、しわ などは別として さほど トラブルがないのは今野先生直伝の リンパ線にそった洗顔法のお蔭かも。2022年9月8日の『あしたが変わるトリセツショー』で放送された、「正しい洗顔法のトリセツ」ポイント3:ぬるま湯ですすぐこと!仕上げのすすぎには、ぬるま湯を使うことがとても大切です。一般的に考えてられているぬるま湯の温度は36℃前後。ですが、コスメショップの美容部員の方たちは32℃前後とさらに低い温度で洗っていることが判明。もはやぬるま湯というより、ぬるま水!高すぎる温度は、肌にとって必要な皮脂まで洗い流してしまうため、肌の乾燥につながる。逆に低すぎる温度(冷たい水)は皮膚の温度が下がることで、細胞同士の結合がゆるみ乾燥につながるという研究もある。冷たい水は毛穴が締まるというイメージがありますが、毛穴が締まるのは一時的な効果。低めの温度のぬるま湯で丁寧に泡を流してあげるようにすると、潤いを保ったまま汚れを流すことができる。・洗顔の時には、とにかく泡をいっぱい立てる。泡はメレンゲのようなきめ細かい泡を立てる。・顔を洗うときには、手のひらと顔の間の泡が動くように洗う。・洗い流すときは「少し冷たいかな」と感じる程度の30度くらいのお水ですすぐ。仕上げのすすぎは冷水にし、5回ほど顔にかける。これをすることによって、毛細血管の収縮→直後に血流の増加が促され、肌に良い効果をもたらします。確認すると、今野先生はそうおっしゃっていたのだ。
2022.09.16
五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」に、斎藤一人さんの講演会を聞いた話が出てくる。「斎藤一人さんの講演を聴く機会がありましてね。この方は中学しか出ていないそうなんですけど、自分でユニークな漢方薬の会社を興されて、6年か7年連続で日本一の納税額支払者。つまり、日本一のお金持ちとなっている方です。斎藤さんが言っていることは極めて単純でして、特に2つのポイントに重点を置いているんですね。一つは「ツイてる、ツイてる」と言っていれば、必ずつくんですよ、ということ。「ついてない」と言うと、ツキを全部失ってしまうようです!ただ、「ツイてない」と言っちゃうと、ツキを全部失ってしまうらしいですね。要注意。「運が悪い」とか「ツイてない」なんて言っちゃダメですね。それからもう一つは、「ツイてる、ツイてる」と言っていれば確かにツイてはくるんですが、どっちを選んだらいいのだろうか?・・・という選択する機会が出てくる。そのときの判断基準として、どちらか正しいか、正しくないかということではなく、「楽しいか楽しくないか」で判断する。要するに、自分にとって楽しい方だけを選んでいけば、長い目で見るとすべてうまくいくようなんです、おもしろいですね。」(同書40~41ページ)「楽しいか楽しくないか」の判断基準について、以前アメリカで開業されているキネシオロジーの専門家にメールで問い合わせたことがある。そのとき「キネシでもおそらく同じ結果になると思います」とお墨付きをいただいた。その出典が気になっていたが、「変な人の書いたツイてる話」にそれが載っていた。「この本は、私が平成11年9月26日に大阪オーバルホールで初めて講演会をしたときのテープをできるだけ忠実に、また読みやすく本にしたものです。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、「平成12年12月に金沢の知人宅にて10数人の前で2時間ほどお話することになり」と「あとがき」にある。おそらく五日市さんはこの時、斎藤一人さんの講演会を聴かれたのだ。さて、斎藤一人さんの「楽しいか楽しくないか」という判断規準である。「ツイてる、ツイてる」と言いながらも、人生にはいくつもの分かれ道というものが出てきます。右に行くか、左に行くかを、判断しなくてはならないときがあります。そのときは、どちらか正しいか、ということを絶対に考えないでください。どちらが楽しいか、を判断基準にしてください。(「変な人の書いたツイてる話」47ページ)
2022.09.03
ツキを呼ぶ魔法の言葉<マスオさんCDバージョン このお話は、アジアのずっと西にある小さな国から始まります。日本よりあたたかいこの国は、雪の降る山もありますが、雨が少なくてかわいた砂漠が多いのです。けれど、晴れる日が多いため、どこにいても、夕日の美しい国でした。ある年の12月、日本から一人の若者がこの国を旅しました。名前を、ツヨシといいます。ツヨシはいつもひとりぽっちでした。親や友達がいないわけではありませんが、口が悪く、いやなことばかりいうので、みんなからとてもきらわれていました。そんな暮らしからぬけ出したい、そう思って旅に出たのです。この国を選んだのは、アメリカに留学していたときに、少し興味を持ったからでした。ツヨシは、アメリカの大学に留学していたことを自慢し、鼻にかけていたのです。授業で先生がちょっとでも間違えると、得意になってせめ立てました。「先生、何いっているんですか、それは間違いですよ。給料をもらっているんでしょう。もっとしっかりしてくださいよ。そんな間違いをしていたら、やめさせられますよ」「あいつもこいつもどいつも全く、まわりのやつら、ろくなもんじゃないよ」ツヨシは、いつも平気で人の心をきずつけていました。自分がきらわれていることも知らず、文句ばかりいっていたのです。そんなツヨシが始めてこの国をおとずれたとき、思いがけぬ大雪が降りました。初めて見る街も山も真っ白な雪景色でした。それは数十年に一度という大寒波でした。寒さで、ガタガタと震えました。ツヨシが着ていた服は、半そでのシャツに薄いジャンパーだけ。それでは寒くて、雪の中を歩けません。旅の始まりから、思ってもいなかった雪で、ツヨシはほんとうに運が悪かったのです。そのうえ、空港でさいふをなくしてしまい、気がついた時には、ポケットに入っていたお金だけでこれから先、すごさなければなりません。「チクショー!なんで、こんなに運が悪いんだ!バカヤロー、シンジマエ!」始まったばかりの旅なのに、寒さと、お金をなくしたくやしさで、ツヨシはひどい悪口をいっていました。ネズミが走っているような安宿を転々としながら、ツヨシはある町に着きました。いつものように、安宿をさがして歩きます。すっかりつかれきっていたので、早く宿に入って休みたかったのですが、どこに行っても、本日休みという看板が出ているのです。「お前はもうおしまいだ」と、いわれているような気がしてツヨシは、一人で見知らぬ国にきたことをくやみました。あたりは暗くなり、道行く人も少なくなってきました。「コンチクショー!コンチクショウ!」と、思いっきり、雪のかたまりをけとばしました。寒さと、不安と、情けなさで涙が流れました。道端にがっくりと手をついて、しゃがみこんでしまいました。どのくらいたったかわかりません。「どうしました?だいじょうぶですか?顔色がよくないですよ。」はっとして声のほうを見ると、うす暗い灯りを背に、マントすがたのおばあさんが、うかび上がっています。「なんて町だ、ちきしょう。まったく!ろくな宿もないうえに、今夜とまるところがない!」「よかったら私の家にきませんか」「えっ?」「ここにいたら風邪をひいてしまいます。私の家へどうぞ」おばあさんがにやりと笑ったように見えたので、ツヨシはギョッとしました。日本でだって、知らない人をかんたんにとめたりはしません。ましてやここは外国です。言葉は親切だけれど、もしかしたら自分をだまそうとしているのかも・・・・・・。おばあさんをよく見ると、鼻が曲がって顔はシワだらけ。まるで魔女のようです。ツヨシは、なんだかこわくなってきました。時計を見ると、まだ9時です。もう少し宿をさがせるような気がしました。「ど、どうも、でも、もうちょっとさがしてみます。それでも見つけられなかったら、おじゃまするかもしれません」「そう、でも、あなたはきっと来るわ」魔女のようなおばあさんが、紙に住所と地図を書いているあいだ、よっぽどにげだそうかと思いました。おばあさんと別れてから、なんとか宿をさがそうとしましたが、やはりどこにいっても大雪のせいもあって「本日休み」の看板ばかりです。とまるところがどこにもないのです。「ああ、もうだめだ。あの魔女の家しかない・・・」ツヨシは絶望的な気持ちになりました。行きたくない。けれど、どんどん夜はふけていき、寒さもましてきます。ツヨシはしかたなく、重い足で、おばあさんの家に向いました。たどり着いた家を見るとなんだか普通の家と違うようすでした。「まどがない!」と、気がついたとき、ツヨシの体はかたくなりました。その国で死んだ人が入れられる、かんおけを思い出しました。「家が、かんおけだなんて!」ツヨシは、おそろしさで手がふるえてきました。「ぼくはこれからどうなってしまうんだ。あの魔女に、あやしい魔法をかけられて生きて帰れなかったら、どうしよう・・・・」こんどは、全身にふるえが走りました。おそろしさで息がとまりそうになり、心臓もドキドキしてきました。「もう日本へは帰れないかもしれない・・・・・」寒さとおそろしさで、ガタガタふるえながら、ツヨシは玄関の呼びりんに手をかけました。「ピン・・・」「はい、どうぞ待っていたのよ。」(ガチャ)「・・・ポーン」呼び鈴が成り終わる前に、ドアが開いて、あのおばあさんが顔を出しました。それがあまりにも早かったので、ツヨシは、飛び上がらんばかりに驚きました。「いらっしゃい。よくきたわね。さあ、入って。座って」部屋に入ると、すでにスープが2つテーブルの上に用意され、湯気を立てていました。まるで今、ツヨシが来るのをことを知っていたかのようです。どこかで見ていたのでしょうか。おばあさんにすすめられて、ツヨシはスープを一口すすってみました。「熱っ!」思わず声が出るほど、熱く、そしておいしいスープでした。でも、なぜ僕が来ることを知っていたんだろう?なぜ?と考えるとどきどきするばかりです。おばあさんはいったい何者なんだろう。本物の魔女?魔法使い?そしておばあさんは、ツヨシのことなど何も聞かずに、自分のことばかり話しました。「私はねえ、戦争中ドイツからきたの。だからその頃は、それはも大変だったのよ。主人は大学で数学を教えていたの。3年前に亡くなったけど。息子夫婦は隣町に住んでいて、時々みんなでお食事するのよ。それでね、私の趣味は、お裁縫に、植物を育てたり、ペンを集めたり・・・」そして、スープを飲み終わるとおばあさんは、こんな話をしてくれたのです。「ツヨシさん、あなたはいい人生を歩みたいですか、それとも悪い人生でもいいのかしら?」「もちろん、いい人生がいいです。」「じゃあ、ツヨシさん、運がいいっていう言葉を知っているでしょう。」「ええ、知っていますよ」「じゃあ、これさえ言えば誰でも運がいい、幸せな人生になる魔法の言葉を知っているかしら?」「ええっ!そんな言葉があるんですか?ぜひ教えてください。ぼくはこの国に来るまで、いや来てからもずーっと悪いことばかりでした。だから、もし、その言葉がわかったらぼくにもいいことがやってくるかもしれません。どうか教えてください。お願いします。」「そうだったの。つらかったわねえ。でももう大丈夫よ。それはね、ありがとう 感謝します この2つよ。」「えっー、そんな簡単な言葉なんですか?」「簡単すぎた」「はい、僕でも知っているし、誰でも知っている普通の言葉ですから」「そうねえ、誰でも知っているし、使っています。でもね、本当の使い方があるの。」「ええっ、本当の使い方?」「そうよ、使い方が大事なの。ありがとうは、何かしてもらったときに言うけれども、そのほかに、嫌なことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき、ありがとう。財布をなくしたとき、ありがとう。とても、大切な人を失ってしまったときも、言えないかもしれないけれど、歯をくいしばって ありがとう って言うのよ」「それはどうしてですか?」「ありがとう と言うとね、それ以上嫌な気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動き出すのよ。だから ありがとう は魔法の言葉なの。感謝します は、いいことがあったら言ってちょうだい。そういうと、また嬉しいことが起こるかもよ。それにこの 感謝します って言葉はね、もっと素敵な使い方があるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」 「ええっ、これから起ることにですか。」「そうよ、たとえば家の鍵をなくしたら、 鍵がみつかりました、感謝します と言うの。何の疑いも心配もなく、そう思いこんでね」「何の疑いも心配もなく ですか?」「そうよ、何の疑いも無く心配も無くいえたら、そのとおりになるのよ。言葉にはそういう力があるの。ただねえ、これだけは言ってはいけないという言葉もあるのよ。それを言っちゃうと、いいことがぜんーぶ、悪くなってしまうの」「どんな言葉ですか?」「それはね、汚い言葉、それから人の悪口。汚い言葉や人の悪口を平気で言う人は、その言葉のとおりに、嫌な毎日になってしまうの。それから怒ってもいけないわね。怒れば怒るほど悪いことが起きてしまう。」「僕はここに来るまで、ひどい言葉ばかり言っていました。それにいつも人を怒っていました。だから悪いことばかり起こっていたんです」「でもねえ、どうしても怒らなくては、ならないときは、自分に ありがとう と言って ちょっと深呼吸して、別な言葉でやさしく伝えたらどうかしら。一呼吸置くと心が落ち着いて、いい言葉が見つかると思うわ。」おばあさんはツヨシの目をじっとみつめながら、静かに話してくれたのです。ツヨシはびっくりして、どきどきしながら聞いていましたが、あたたかい部屋で食事をしたこともあり、安心したこともあり緊張がとけてその晩は、そのままねむってしまいました。おばあさんから教わったのは ありがとう と 感謝します この2つだけだったのです。そして翌朝、「おはよう、よく眠れた?朝食は、温かいスープとパンよ」「わあー、おいしそう」「あ、そうそう、あなたに贈り物があるわ。さあ、これ。あなたにあげる」それは2つの箱でした。一つは大きくて軽い白い箱ともう一つは重量感のある小さな黒い箱でした。「えっ、僕に。でも、とめてもらったうえに、プレゼントまで受け取るわけにはいきません」「そうですか。ただでは受け取れないというわけですね。じゃあ買ってください」「お、おいくらですか?」「そりゃ、いくらでもいいわよ」どうしよう。今持っているお金は、2万円ぐらいだし、後何日もこれで暮らさないといけないし。500円くらいかなあ、1,000円くらいがいいかなあ。でも、おばあさんにはお世話になったし、ちゃんとお礼しないと後で絶対に後悔するぞ。よし、持っているお金の半分をあげよう。「じゃあこれだけ払います。」「やっぱりね」「えっ、やっぱり」「あなたは、お金のつかいかたを知っているのね」「えっ、お金のつかいかた、ぼくが知ってる・・・」「ツヨシさん、約束してくれる?あなたの誕生日が来たら、どちらか一つをあけて、そして、その次の誕生日が来たらもう一つを開けてね」それから、おばあさんの家を出てツヨシはさらに旅を続けました。3日後、ツヨシが道を歩いていると、後ろから走ってきたあやしい男に、リュックをひったくられたのです。そのときです。「ありがとう!」とっさに、あのおばあさんから教わった魔法の言葉を口にしました。すると、ひったくりが、少し先で、荷物を持ったままひっくりかえりました。そしてなんと、リュックを置いて逃げていったのです。とっさの出来事で、なにがなんだかわかりません。でもそのおかげで、リュックをとられなくてすんだのです。あのおばあさんのおしえてくれた言葉は本当かもしれない。ツヨシはそう思いました。それからまた、何日かして、こんどは交通事故にあいました。なにげなく道路をわたっていたとき、走ってきた車がぶつかってきました。車が自分に向かってくるのを見たツヨシは、とっさに、おばあさんから教わった魔法の言葉を口にしました。「ありがとう!」ドンッ!車とぶつかる大きな音がしました。ツヨシは、もうダメかと思って目を閉じましたが、そっと目を開けてみると、自分の手足は無事でした。どこも、なんともありません。しりもちをつきましたが、ズボンがよごれただけで、けがはありませんでした。(おっ、おばあさんの魔法の言葉のおかげで、助かったんだ!)ツヨシは、そう思いました。ああ、無事でよかった。感謝します。旅の途中で起きたトラブルを、おばあさんの魔法の言葉で乗り切ったことで、ツヨシは、魔法の言葉をすっかり信じるようになりました。そして、帰りの空港で、また信じられないことが起ったのです。「これはあなたのものですか?」空港で出国しんさを受けたとき、係りの人からそう声をかけられました。見ると、そこには見覚えのあるさいふがありました。「あっそれ。はっ、はい!間違いなくそれは、ぼくのさいふです」1ヶ月前、入国してすぐに、この空港でさいふをなくしたときは、2度と自分の手にもどってくることはないと、あきらめていたのです。そのさいふが、目の前にあるのです。「おっ、おばあさん!きせきです!きせきが起きました!」ツヨシは、おばあさんに、心から感謝をしました。考えれば考えるほど、不思議な話です。でも、みんなほんとうの話なのです。あのおばあさんはいったい何物なんだろうとツヨシは思いました。どうかんがえてもあのおばあさんは魔法使いとしか思えません。あのおばあさんはやっぱり魔法使いだったんだ。旅から戻ってからのツヨシはいいことばかり続いていました。それはあのおばあさんが教えてくれた魔法の言葉を使っていたからでした。「ありがとう」、「感謝します」この2つを繰り返し使い、怒らなくなってからというもの、ツヨシの人生はすっかり変わりました。誕生日がきました。「そうだ、おばあさんから頂いたあの箱を開けなきゃ。白い箱と黒い箱とどっちにしようかな。」どきどきしながらツヨシは白い大きい箱を開けました。あれっ、何も入っていません。えっ、どういうことだろう?なぜ?からっぽ?意味が分かりません。分からないまま、次の誕生日が近づいてきました。今度こそ、あの黒い箱には、何か大事なものが入っているはずと、ドキドキして誕生日が来る前に開けたくて開けたくて、たまらなくなりました。ところが、あれっ、黒い箱が見当たりません。確かに置いた場所にも、どこにもないのです。とうとう誕生日が来てしまいました。すると、その何日か前に、ツヨシがプロポーズしていた女性から、その黒い箱がバースデープレゼントとして送られてきたのです。箱の中にはなんと、結婚の申し込みをお受けしますという手紙が入っていたのです。さらに、おばあさんが集めていたような、素晴らしいペンが入っていました。不思議な出来事で、いくら考えてもツヨシには分かりません。でも、みんな本当のことばかりです。不思議な出来事に出会うたびに、ありがとうと感謝しますの、この2つの言葉の力に驚かされてきました。そしてもう一つ、おばあさんから貰った手紙もいつもツヨシを励ましてくれました。「ツヨシさん、お元気ですか?お手紙ありがとう。それにツキを呼ぶ魔法の言葉<マスオさんCDバージョン運が良くなる魔法の言葉をちゃんと使ってくれていて、とっても嬉しいわ。ツヨシさんの人生が、とってもよくなることを信じています。そしてツヨシさんだけでなく、これから一緒になる奥さんや、子供達や、お父さんお母さん、お友だちみんなが幸せにいい人生が送れるよう、願っています。人間の命は、奇跡を何億回も重ねて生まれ、たった1回で終ってしまいます。だから、毎日を大切に生きてください。ツヨシさん、あなたにはお父さんお母さんがいます。そのお父さんお母さんにも、それぞれにお父さんお母さんがいます。そのそれぞれのお父さんお母さんにも、やっぱりお父さんお母さんがいます。そう考えると、どこかでみんな繋がっています。みんな家族なんです。その、大きな家族の中で、幸せに生きていくうえで、何が一番大事なことか、ツヨシさんはもう気づいたかしら。そう、それは言葉の使い方なの。どんな言葉を口に出すかであなたの人生が決まってくるの。いい言葉を使っていると、必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでも忘れないでね。私は遠くに住んでいますが、いつもあなたのことを思っていますよ。さようなら、さようなら。」日本から、一人ぼっちで寂しい旅をしていたツヨシを、どうしておばあさんが助けてくれたのかは、今でも分かりません。でも、あの時のたった一晩の出来事がツヨシの人生を大きく変え、そして幸せにしたのです。「いつもあなたのことを思っていますよ」そう書いてくれた、おばあさんの手紙はツヨシの心を励まし、温めてくれるのです。そして、ツヨシは思うのです。あのおばあさんは、人を幸せにする、本物の魔法使いに違いないと。それからというもの、いつでもどこでも、ツヨシは、こう言います。ありがとう感謝しますこれで、五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を終ります。ありがとうございました。そして皆さんに、感謝します。「ツキを呼ぶ魔法の言葉ゴールドラッシュ」に付録としてついているマスオさんの朗読より「皆さんは、私の顔を知らなくても、声を聞けば『ああ!』と気付かれることでしょう。 私は放送開始から38年になる長寿番組のサザエさんで、フグ田マスオの声を担当しています。 ちなみに、子どもに大人気の『それいけ!アンパンマン』に登場するジャムおじさんの声も私です。 ご存じのように、マスオさんは、少々頼りないけれども心優しい、磯野家のお婿さんです。 マスオさんの年齢は、20代の設定です。その声優を35年も続けているうちに、私の年齢は、いつのまにか舅(しゅうと)の波平さんの年齢をも超えてしまいました。でも、マスオさんの若々しい声だけは、しっかりキープしているつもりです。 そんな若々しい声を出し続けてこられたのは、『言葉』をだれよりも大切にしてきたからだと思います。声優としても、一人の人間としてもこだわってきたことです。」増岡弘さんは、2020年3月21日直腸がんのため83歳で亡くなった。『アンパンマン』メロンパンナ役のかないみかさん「師匠。。。悲しい。。。ありがとうございました。心よりご冥福をお祈りします」「大好きな師匠。いつも優しくて休憩時間のおしゃべりが楽しくて。ママとの思い出もいっぱい聞かせていただきました。『みかちゃん、梅酒を作る時は、ホワイトリカーじゃなくて、甲類はダメ、乙類の焼酎で作るんだよ』教えのとおりにしていますよ。ずっとずっと大好き」バタコさん役の佐久間レイさん「増岡弘さん、32年間隣の席で自然の美しさに心を開き、人生を喜んで生きる事の大切さを教えて下さいました。『おいしくなぁれ』と想いを込めて声を合わせる楽しさ、忘れません。人生は良い時ばかりじゃない。だからこそ笑顔は宝物。永遠のジャムおじさんありがとうございました。いってらっしゃーい」からくりぐんない役、アニメ『フルーツバスケット』草摩夾役(増岡さんは透の祖父役)関智一「また恩師が旅立たれました。特に厳しい方でした。愛もたくさん感じました。優しい役柄の印象が強いですが、指導は激しく熱かった」「あの時弱点を御指摘下さった言葉、今も心に置いて取り組んでます。お宅にも度々お邪魔して陶芸や落語にも触れさせてもらいました。ありがとう御座います。先輩お疲れ様でした!」
2022.09.02
眠れない夜のために 1職場で「嫌なことがあったら、ありがとう。良いことがあったら、感謝します」と小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」の話をしていたら、「じゃあ、〇〇さんが ありがとう と言っているときは 嫌なことがあった ということですね」と言われた。確かに(^^)五日市剛(いつかいちつよし 工学博士)さんより 僕がまだ大学院の学生だった頃のことですが、一ヶ月間イスラエルを貧乏旅行しました。 ある寒い日の夕方、ハイファという港町にバスで着き、さっそく宿探しを始めました。が、なぜかどこのホテルも休業中。「そんなバカな」と焦って探しても、開いている宿は一向に見つかりません。どんどん夜が深まり、寒さも一段と厳しくなってきました。その日は数十年に一度の大寒波がイスラエルを襲った、とんでもなく寒い日でした。もし、野宿したら死んでしまいます。 「オレの人生ってここまでかな」 ・・・そうつぶやきながら、肩をガクッと落とし、トボトボと通りを歩いていると、一人のユダヤ人のおばあさんが話しかけてきました。 「どうしたんですか?顔色が悪いですよ」 「日本から来たんですけど・・・泊るところがないんです。」 それから5分くらい話したでしょうか、そのおばあさんは微笑んで 「よかったら、私の家へどうぞ」 僕もさすがに、すぐに「うん」と言わずに。 「もうちょっとホテルとかを探してみます。 それで、もし見つからなかったらおじゃまするかもしれません。 その時はよろしくお願いします。」 でも結局、どのホテルもみんな閉まっていて、そのおばあさんの家へ泊めてもらうことになりました。おばあさんの家に着くと、まず、おいしい夕食をごちそうになりました。その後、おばあさんは電気を消してロウソクを灯し、いろんな興味深い話をしてくれました。 その中で、「運命というのはね、本当にあるのよ。それに、ツキというものもあるのよ。そのツキというのはね、実は簡単に手に入るものなのよ。」 と言ったものですから、「えっ、本当ですか? どうしたら得られるんですか?」と尋ねました。「あのね、ツキを呼び込む魔法の言葉が二つあってね。これさえ唱えていれば誰でもツキっ放しになるわよ。」「何、なに?教えて下さいよ」「いいわよ。一つは『ありがとう』、もう一つは『感謝します』。普段何気なく使っている言葉だけど、使い分けるといいわ。・・・そうね、どんな些細なことでもいいから、いやなことがあったら「ありがとう」。逆に、良いことがあったら「感謝します」何度も繰り返し繰り返し言うのよ。そしたら、絶対にツイてくるわ。本当よ!」「五日市さん、あなたの親が亡くなっても、歯をくいしばって「ありがとう」と言うのよ。どうしてかというとね。イヤな事が起こるとイヤな事を考えるでしょう。そうするとね、またイヤな事が起こるの。不幸は重なるというけれど、それは間違いなくこの世の法則なのよ。だけど、そこでね「ありがとう」と言うとね、その不幸の鎖が断ち切れちゃうのよ。それだけでなく、逆に良いことが起こっちゃうの。だから、「ありがとう」という言葉はね、魔法の言葉なのよ・・・」 また、おばあさんは次のようなことも言いました。「絶対に人の悪口を言ってはダメ。 言えば言うほど、あなたからツキはなくなっていくわ。 怒れば怒るほど、あなたがせっかく積み重ねたツキがどんどんなくなっていくのよ。 だからネガティブな言葉を言ってはダメ。「てめえ!」「クソったれ!」「死んじまえ!」などと汚い言葉を平気で使っている人はね、そういう人生を歩むのよ。人の口から発せられる言葉はね、魂を持っているものなの。本当よ。だから、きれいな言葉を使いましょ。」 おばあさんのお話に、僕はとても感激しました。僕の唯一の取り柄は素直なこと。だから、この日以来、おばあさんから言われたことをひたすら日々実践しています。結果は言うまでもありません。思いっきりツキまくりです。「オレってどうしてこんなに運が良いのだろう」の毎日となりました。五日市さんは「おわりに」こう言われています。「プラスの言葉は魔法となってステキな出来事を体験させてくれます。ステキな出来事に「感謝」。そして、素晴らしい運命に「感謝」しましょう。 もし、最愛の人を亡くしたら「ありがとう」。交通事故にあっても「ありがとう」です。これですべてオーケーです。何も心配することはありません。まだ起こっていない未来に対して「不安」がったり、「心配」したりするのはもうやめましょうね。」さらに後書きにこうあります。「イスラエルから帰国した後、おばあさんにお礼の手紙を送りましたら、すぐに返事が来ました。「心の持ち方って大事よ。だけど、もっと大事なのはね、言葉の使い方なの。どんなことを口に出すかであなたの目の前の状況が変わってくるし、あなたの心も変わってくるの。本当よ。」眠れない夜は「ありがとう」と言う(^^)。
2022.08.20
全30件 (30件中 1-30件目)
1