2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全19件 (19件中 1-19件目)
1
中国残留孤児が国の責任を問う裁判に、東京地裁は「国に責任はない」とした。中国に渡ったのは、国の施策。そして日本にやっと帰れたのは、民間人の努力による部分がとても大きい。あの人たちの孤児探しや帰国運動がなかったなら、残留孤児は残留のままで終ってしまっただろう。伊那の山本和尚さんたちと共に、帰国運動の先頭にたった故塚田浅江さん。開拓団に参加し、現地で日本人学校の教師をし、戦後、教え子たちを連れて帰国した。舞鶴埠頭を目前に息を引取った女の子もいた。いっしょに連れてこれなかった教え子もいた。そういう負い目が、戦後、孤児たちを探して帰国させる運動に身を捧げさせた。教師と国民学校の子どもたちとで行った切り込み作戦。その時の砲弾炸裂で、片眼は義眼、片耳は聴覚なし。「あの時、私は教え子たちに助けられて、命を長らえることができた」とつとつと自分の体験を語ってくださった塚田さんの姿を、今改めて思い出している。
2007年01月31日
コメント(16)

朝6時45分、朝焼け真最中今日は、いい日になりそうだねッ。午前9時、校正出しをしてから、村内パトロール(?)にこっそり出かける。(レンジャク恋しさに時々村内パトすることにしたの)三脚を持たずに出たのが、大失敗で、焦点定まらずの写真が多いけど、まあ、見てね。途中途中、山並が高みへと移動するのを横目で見ながら、まずは大洞高原まで一気に上がる。左から爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳雪がほんとに少なくて、スノーシューは無理だわ、やっぱり。でも、日陰の道路は凍てついて、スケート場に見えるでしょう(上の写真の左側が道路)。大洞からちょっと下がった椿峰地区(すてきな地区名でしょ)から。最近は、いろんな文明の利器が入って、写真を撮るにもそれらを避けるのがほんとに大変なのだ。トリミングのセンスと、画像処理の技術が大切になってきてるけど、私にはどちらもなく…椿峰地区から県道に合流する辻に、石像がまとめて立っていた。きっと道路改良で、本来あった場所からはここに遷座したのかもしれないね。山は唐松岳高山寺まで戻る。日曜日だったら良かったなあ。この村内パトで約40分。お父は思っただろう。「校正出すなんて言って、またどっかへ吹っ飛んで行ってるな」そう、私、吹っ飛びのbiranjiと言われたことも…………ないッ。
2007年01月30日
コメント(18)
長野市川中島にある「ひとミュージアム上野誠版画館」で行われたフォルクローレの演奏会を聞きに行った。もともとフォルクローレは大好きで(と言っても、難しいことはわからん)、生演奏があるとよく聞いたものだけど、なかなかこのあたりではないんだよね、生が。今回はお父も誘って(本音は、一人で出かけると肩身が狭いから誘ってあげたのヨ)1時間半、会費1500円(コーヒー+ケーキ付)のコンサート。まあ、ミニコンサートの類だろう。男性3人女性1人のメンバーによる堅苦しくないリラックスした演奏だった。4人とも、歌も歌うし、ケーナ、ギター、チャランゴ、サンポーニャ、ボンボなど、なんでもこなしてしまう。演奏の始まる前の表情とうってかわって、もうほんとに生き生きとした魅力的な雰囲気が醸し出されて…。ああっ、きっとchappi-chappiさんも、こんな感じにきらきらしながら、にこにこしながら、歌ったり、こけたり(ごめん!)してるんだろうなって、私もにこにこしながら聞いた。このパパス・フリータスっていうグループは、外国に本家筋の有名なグループがあるそうで、「ですから、私たちは『パパスタス・フリータス』って言った方がいいかもしれませんね」ってさ。1グループでこれだけ楽しめたのだから、chappiさんたちみたいに、いくつものグループが集まっての演奏会は、きっと華やかで、迫力があるだろう。「コンドル~」「花祭り」「岩山のおどり」「ラ・クカラーチャ」「チコチコ」「放たれた悪魔」「巡礼者」「四角い笛」等々。なんせ、プログラムもなかったので、私は耳で聞きながら必死にメモしたので、聞き違いもあるよ、きっと。その中で「ポジェリータ」(スカートのひらひらだって言ったような)っていう曲を男女2人(ご夫婦)がサンポーニヤで掛け合いのように吹いた。それがすごく素敵でね。ふかーい音色がさらに深く響きあって…アンデスの山には、やっぱりケーナとかサンポーニャなどの竹笛の音色が似合う。アルプスの山々では、ホルンの音だろうな。だったら、日本の山にはどんな音が似合うのだろうか…尺八?三味線? まさかねえ(笑)若草山あたりならもちろん雅楽の簫かなあ。ならば、私の鹿島槍にはいったい何の音がマッチするのだろうか。**************1日経って、今日ことあるごとにお父は言う。「きのう、付き合ったんだから、これやってくれ」付き合わせてあげたのにそれもわからずに…もう2度と誘ってあげないからねー。
2007年01月29日
コメント(14)
昨日、72分の32回め終了。まだ半分も行ってない。「本来は48分の32なのに」ってことは考えないでおこう。血小板はまたまた最低値で、64000。したがって50ug/0.5ml用を0.6。これで次回はまた少々、血小板の数値は戻るだろう。女医さん「この回数になっても、なんでまだ数値が下がるんだろうねえ。 普通はもう底値で、これ以上下がらないはずなんだけど」私 「私の血小板、とっても素直なんですよ」看護師さん:側でうんうんとうなずいている。女医さん「ほんとに薬の量の加減で、1回おきに上がったり下がったりしてるもんね。 まあ、効いているってことでしょうね」なんでもいいけど60000を切りたくないな。最近、注射をした数日よりも、週末になってくると軽い頭痛が起きる。まさか、インターフェロン中毒なんてことはないよねー。
2007年01月27日
コメント(10)

商工会の新年祝賀会があった。女性部の正副はお手伝いも兼ねて、出席。公民館の広いホールに約40人はちょっと寂しい人数だよね。新年祝賀会といっても、一般商工会員はほとんど出席せず役員のみ。来賓は、県会議員、村長、建設経済常任委員会の議員、教育長、公民館長、前商工会長、役場建設係職員などなど。この村の商工会も加盟者が100を切って、統合を強いられて。町村合併は成立しなかったけれど、商工会は新年度からN村S町と広域連携をすることになった。広域連携と統合はどこが違うのか、私にはよくわからんな。長野県の商工部では、加盟数が300に満たない小規模団体について、19年度から統合・連携すれば今までの補助金の80パーセントを補助するが、統合しない場合は50パーセントしか補助しないそうだ。締め付けは町村合併同様に厳しくなる一方で。役員にもなり手がいなくて、わが女性部も次期はどうなるかわからないし…大体本会三役だって、もう数回の留年が続いているそうだし…来賓などの発言の中で「商工会は、この村唯一の経済団体」という言葉が何度も出てきた。そうだ、商工会は経済団体だったんだ!親睦団体とは違ったんだ(恥)。でも、「経済団体っていったい何するの?」経済のケの字もわからん私め…経済学部出身(スキーばっかしやってたそうだけど)のお父に聞いてみた。「ねえ、経済団体って一体なにする団体なの?今まで飲んでるとこしか見たことないよ」「経営指導や、資金の融資や記帳指導もしてるだろ。商工会を通して融資してもらった方が有利な面もあるしさ」なるほど、なるほど、そういうことなら、やっぱし商工会って必要団体?それよりなにより、「商工会は飲み会でもなく圧力団体でもなく、魑魅魍魎の集団でもなく、大事な経済団体」という認識を、経済音痴の私みたいなのもちゃんと持てるような場の設定をしたいよなー。また一つ、私の知らない世界に首を突っ込んでしまったぞ。(oliveさんに読まれたら失笑されそうだな)ほら、鹿島槍も「ちょっと高みから見てごらんよ」ってさ。2007.1.19
2007年01月24日
コメント(15)

あまりのぽかぽか陽気にじっとしていられない私。コルリさんや野鳥大好きさんの真似をして、「鳥見」をしようと思い立った。レンジャクたちを見たくて、やどり木のたくさん付着している木の周辺(こんな所にやどり木が集団であるなんて、絶対レンジャクたちの仕業だと思い込んでる私だから)を、あっちの峰、こっちの峰と1時間ほど車で放浪した。もちろん、レンジャクたちはいなかったぁ。(涙、笑、涙!)いったん家に戻り、今度は徒歩で裏山へ。時刻は午後3時。双眼鏡を持って行くのを忘れ、図鑑も持たず…デジカメと転倒防止のためのストックを1本。小鳥たちの姿はたくさん見えたけれど、はっきりとは同定できないよ、私では。ヤマガラ、エナガ、ヒヨドリ、ムク、トンビのご夫婦。シジュウカラにカラスもね。その他、数種類。去年の今頃は…土尻川も氷で被われていたのにさ。自然の力(2006年1月16日の日記)冬の散歩(2006年1月29日の日記)今は全く雪がない。今冬みたいに雪がなくて、昨秋みたいに餌がなくて…きっと熊は冬眠できないでいるだろうなあ…ひょっこり…ガォーッなんて、やだやだやだ!ほら、たんぽぽが咲いている。最近は真冬のたんぽぽなんて珍しくはないけれど、これは日本たんぽぽ。あれ、これってなめこ?なめことは違うみたいだけど、なんと、つやつやと。春出しきのこなんてあったかなあ。そして春の定番、ふきのとう。雪の下にいる時間が短かったせいか、独特のあの香りはやや弱い。それでも夕飯の一品には、フキ味噌が彩りを添えた。秋と冬と春の同居は、それぞれの季節の素晴らしさをレベルダウンさせちゃうよね。
2007年01月21日
コメント(14)

2月11日の叔父の命日に墓参できないから、善光寺のお線香を送ってあげようと、実家から帰る途中に寄り道した。叔父が学生時代、多分毎日通っただろう通学途上にある善光寺。白梅と白檀の香りのするお線香を買い求めた。ついでに、大きな香炉に100円なりのお線香の束を買って投げ入れ、お線香の煙を、頭、腹、膝にたっぷりと浴びせた(煙をかけると、その部分が良くなるんだって)。つまり頭(ボケとイライラ虫退治・脱毛対策)腹(ウィルス退治)膝(軟骨増量?)ていうわけ。お線香の煙だけじゃ不安で、本堂に入ったところにあるびんずる様(このHPの下の方をクリック)の身体の部分をなでて、自分の身体をなでて、早期治癒をお願いした。びんずる様は人々の手に擦られて、もう原型がよくわからなくなっている部分もある。自分の身を削って弱者を助ける…偉いなあ。参道を戻り始める。来る時に気になっていた「そば饅頭」「酒饅頭」「味噌饅頭」の香ばしい匂いが漂って…草津温泉なんかに行くと、試食の温泉饅頭を食べられるんだけど、ここでそれはしていない。でも、食べたい私。「すみません、バラ売りはあるんですか?」「バラ売り、やってないんだよー… はい、1個食べてみて!」「えっ、でも私買わないんだけど…」「いいさあ、味見してみなよ」蒸籠から取り出してわけてくれた「そば饅頭」はあったかくて、そば粉の香りがして、美味しかった。けちな事言わずに、1箱12個入りっていうのを買ってくれば良かったかなあ。お店のおばちゃん、ごめん。参道から1本東側の坊のある通りに移動。「坊体験と精進料理を味わうツアーご一行様」なんて看板の出ている坊もあった。こんな看板にひかれて、中を覗いたら、かわいい「うぐいすもち」と「すあま」がショーウィンドーに入っていた。でも、何となくいまいち吸引力がなくて…いったん出て、もう一度「やっぱり弘化7年創業」の「うぐいすもち」を食べてみたく、またまた敷居をまたいだものの……やっぱり止めたぁー。
2007年01月20日
コメント(2)
青ガラスから手紙が来た。手紙?何かあったのだろうか…ドキドキドキの∞!読み進みながら、顔が歪んだ…うれしくて。教師1年めの一昨年、青ガラスは1年勤めただけで教師を辞めようとしていた。ノイローゼになっていたのすら知らなかった。止めたいと思う原因を特定できずに、お父とお母はただひたすら心配していた。自分の現職の頃を思い出して、生徒の親との関係?教師集団?指導技術?大学院?等々、いろいろ思ってみたが、やっぱり一番の基礎である学級経営だろうなとは思っていた。お母も自分の25才の頃に抱えていた悩みをかなり赤裸々にメールした。お父も何やらメールを送っていた(但し、お父は入力が苦手なので、電報みたいなメールなのだ、いつも)。「1年で辞めようと思っていたけど、辞めなくて良かったよ。それもこれもお父とお母がそう言い続けて(3年は続ける)くれていたからだと思う。特にお父の『堂々と娑婆を生きろ』という言葉は今でも忘れられないね。これで踏みとどまったようなもんだよ。改めてありがとうございます」お父の電報的言葉で青ガラスは何とか持ち堪えて奮起し、昨秋の学校祭に向けてクラスがまとまり出したそうなのだ。夜間の自主練習を経て圧倒的強さで学年優勝。ホームルームでルーム長が賞状を掲げ、「これを僕たちのためにがんばってくれた青ガラス先生にプレゼントします」と言ったそうだ。「涙腺がゆるんでしまいました。この時ほど先生をしていて良かったなあと思う時はなかったよ。」まったく、熱血学園ドラマそのものじゃないの。いや、きっとほとんどの教師は、みんな力の限り生徒を指導し、生徒と共に伸びようとしていると思う。(そんな先生たちを潰すような教育行政にはさせないぞッ!)もう青ガラスの呼称は不適かもしれないねえ~。それにしても、入力得意のお母の長駄文は、入力苦手のお父の電報文にかなわなかったというお話でありました(苦笑)。
2007年01月19日
コメント(14)
子どもの頃に行っていた実家近くの床屋さん。もちろんちゃんと代替わりしていて、私とトントンくらいの年齢のお嫁さん(もちろんおばちゃん)が中心になって元気で明るい床屋さんになっている。私は乙女になった高校生の頃に、床屋さんから美容院へ行くようになったから、ほんとに久方ぶりに床屋さんに行ったのだ。本数が減った髪の毛を切るのは勿体ないとばかり、伸ばし放題にしていたけれど、「カモカのおばちゃん」(by chappi-chappiさん)になっちゃいそうなので、裾だけカットしてもらった。おかげで、顔のシワやかなり上昇した額なんかを除けば………うん、かわいくなった…みたい…な気がする(笑)。スリッパを脱いだ足を毛布でクルッと包んでくれて、膝高くらいまであげ、血流が良くなったみたい。おかげで身体はほっかほか。居眠りしそうだなーと心配したけれど、奥さんの話がおもしろくてそんな暇はなかった。3人の子どもたちの現況を、「えー、お客にそんなにまで話しちゃっていいのー」と思うくらい、あけっぴろげに話す。大変だったことも、苦しかったことも、みーんなばらしちゃってさ。他に3人いたお客さんにだって当然聞こえるだろうに…。あっ、そうか…私が珍しく来ただけで、常連のお客さんはそんなこと、もうすっかり知っているんだ。山の写真、マラソンの話、時々ご主人の間の手が入って、なんかアットホームなんだよね。美容院が醸し出す雰囲気とは大違い。庶民の毎日の生活がそこに詰め込まれているって感じがしたんだぁ。私の髪の毛のことも、母から聞いているのか「薬で抜けるから、カットしていて気持ち悪かったらごめんね」と言った私に「大丈夫、だいじょぶ。そんなこと気にしないで」って。とってもとっても居心地のいい床屋さんだった。乙女の頃もとうに過ぎたから、美容院から床屋さんに転向しようかしらん。この床屋さん、次から次とお客さんが来るし、予約の電話は入るしで、昼食は食べられなかっただろう。お仕事繁昌でなによりね。大変だろうけど、息子さんが後を継ぐまで、居心地のいい床屋さんを続けてちょうだいね。ブログ友達のしーちゃんも床屋さん。女の細腕1本で、お店を切り回しているそうだ。きっと私の行った床屋さんと同じように、お客さんに愛され、お客さんがホッと息をつけるお店なんだろうなあ。しーちゃん、がんばれ。全国の床屋さん、がんばれ。
2007年01月18日
コメント(11)
単純な私は、映画『硫黄島からの手紙』を見てから、そこから脱却できないでいます。昨日、映画『硫黄島からの手紙』の感想を書いていて、どう解釈していいのかわからない点が一つあった。それはパン屋出身の若い兵士、西郷の存在。ドラマ全体を通して出演している、いわば本物の主人公。でも、西郷の話し方、西郷のシャツの着方、西郷のお茶らかし的な態度など、西郷そのものが、現在のかる~い若者像に見え、ミスキャストじゃないかとさえ思った。彼を演じているのが、人気グループ嵐のメンバー・二宮和也だということは、帰ってきてからパンフを見て知って、ますますその感は強くなった。(私の中にある偏見が、はっきり顔を出していますね…苦笑)だけど、もう一度見たいとさえ思っている自分ののめり込みを見ると…。それは西郷の存在による部分が大きいような気がする。全編に出てくるせいかどうかはしらないけれど、とにかく気になる存在で、苦笑しながらも彼の生還を願い…。途中から、「あっ、生存する一人は西郷だな」ってことが予想されて一安心したり…。まあ、西郷の母親の世代になるだろう私や、現在、西郷と同年齢の人、当時、西郷と同年齢の人たちにとって、映画の中で自分を重ねて生きられる役柄が西郷なんだ。つまり、戦争を追体験できるのは、西郷の存在あってこそということになる。二宮和也を西郷役に変更したのは、実際に彼に会ったイーストウッド。多くの観客の共感を得ることができるだろうと予測して、二宮和也に役を振ったのだとしたら…イーストウッドのキャスティングは尊敬に値する。当所の予定は多分、やさしい憲兵だったがために資格をはく奪され、虚無的になって硫黄島に送り込まれた「清水」を演じた加瀬亮だったろう。加瀬自身は、西郷よりも清水の役にひかれ、キャストの交替はスムーズに。この2人、いずれも20代、30代だが、映画の中で、目覚ましい変貌を遂げる。清水は「生きる」ことへの執着を持つようになり、西郷にも「必死さ」「厳しさ」がにじみ出てくる。若い2人だから、変われた…。「若い」って、それだけで価値あることなんだ。いや、若くなくても「必死に生きる」ことで、可能性は無限に広がってくるはずだ。
2007年01月16日
コメント(13)
本当なら48分の30で着々と終了に近付いている頃なのに…半年延ばされたから72分の30というところ。ああ、今夏も登山はできないなあ。治療が終ったら元通りになるという女医さんや先輩諸氏の話を信じてひたすら治療するんだけれど、もしかしたらこのまま続いてしまうのではないかなあとかなり心配。今日の血小板は66000とまたまた最低値を更新し、減量時用ペグイントロン投与となった。50000近くなると中止だぞ~ッ(冷汗)。治療最初の頃、38度の熱が出てあれはあれで辛かったけど、でも数日で元に戻ったよなー。最近は常に薬の存在を意識させられて…結構頭痛が長引くし、体重減のため、寒くてホッカイロを背中に貼ってさ。でも、それらを意識してじっとしてると、なお痛みが増えるような感じだから、せいぜいお出かけしたり、お父につっかかったり(ごめんね、お父)。きつくて処分しようとした喪服が着られる。気に入った帽子を見つけるとすぐに買おうとするけど、お父は「むだ使い」とは怒らずに「あっちの方がいい」と変なセンスでアドバイス。これらはうれしい副作用。来年の今頃は、私は帽子大尽になってるやもしれん。一番は気分のイライラと、集中力が欠けてきたこと(年齢のせいばかりではあるまいよ)。とまあ、繰り言を毎回書いてしまうけれど(書けば気が済むタイプかなあ)、本人は結構前向きに変化はないから。今日はいっぱい日記を書いたぞ。つまり、暇なのだあ~。
2007年01月15日
コメント(14)
14日、やっとお父と見に行くことができた。リニューアルして半年くらいたつ「グランドシネマ」。同時に7種類くらいの映画がかかっているので、はしごもできる。12日までは『父親たちの星条旗』も、一旦終了したものの再上映されていたので『手紙』と『星条旗』をはしごしようと思っていたが、願い叶わずだった。観客は10代から80代まで幅広い。中には、戦友会みたいなグループが旅行会社と思しき人の引率者に付き添われて入場していた。いったん席についてから、開演間もないのに1人いないと大騒ぎ。みんなの焦りの中、コーラと山程のポップコーンをトレーに乗せて帰ってきた行方不明者。「おい、そんなたくさん、食べられるのかい」という仲間の声に「だって、セットでしか売ってねえんだよ」若者文化の中で、戸惑う高齢者の姿と、私には見えた。でも、これから上映される映画の時代には、彼らだって若かったのだ…。微笑ましい光景の中で、『硫黄島からの手紙』は始まった。*********カラー映画ではあるけれど、全体にモノトーンの印象が強く、それが硫黄島の地下壕を一層現実的に突き付けられた感がある。禁止された玉砕ではあるが、それに従わない将兵の突撃場面や、栗林中将の最後の訓示場面では「天皇陛下 ばんざーい」と諸手をあげる場面が数回出てきた。それを見ながら、怒りが湧いてきた。涙が溢れた。『蟻の兵隊』で、靖国神社を徘徊する軍服姿の輩を見たときと同じように…。地下壕ガイドの折に「ある意味では、昭和天皇も国体護持の犠牲者の1人」と説明している私ではあるけれど、「昭和天皇にやはり戦争責任はある」と改めて強く思った。昭和天皇は自分の名を叫んで多くの兵士が死んでいったという事実を、どの程度知っていたのだろうか。「天皇陛下万歳」の「天皇」は自分のことだと、どのくらい自覚していたのだろうか。そう言って約300万人が死んだのよ…。私がもし天皇だとしたら、あの場面を思い出せば生きてはいられないだろうし、精神的にも異常をきたしていくんじゃないかな…。(もっとも死ぬこともできず、狂うこともできなかったとしたならば、それはそれで地獄)投降した日本兵の監視を命ぜられた米兵が、面倒だからと射殺してしまう場面。監督はクリント・イーストウッドであるにせよ、アメリカ人。すごいと思った。脚本の段階から俳優も含めて日本側スタッフが入ったそうだから、外国で造られた映画によく見られる「富士山・芸者」的な日本描写の不自然さはあまりなかったけど、でも、日本軍(内務班?)の陰湿さとかはやはり表現不足だったような気もする。硫黄島で、地図と黒板を使って作戦研究をしている分隊なんて、日本にあったのだろうか。あれは、『コンバット』の世界だよ。************140分あまりの上映が終った。場面に流れる英字を見ながら、席を立つ人はしばらくいなかった。この映画を見て「戦争はしてはいけないんだ」ということを感じてもらえればいいというのが、監督や主演の渡辺謙(本当の主役は別の一兵卒だと思うけど)の気持ちだそうだ。高校生たちの「死ぬって怖いんだねー」という言葉が聞こえた。戦友会の人達の感想を聞きたいなーと思った。「親父に言わせれば、本物の戦争はまだこんなもんじゃないって言うだろうな」とお父。そう、どんなに臨場感あふれる映像を造っても、それはまがいもの。実際の砲弾が飛び交う場で感ずるものとは格段に違うだろう。けれど、今の私たちは、その方法でしか戦争を知ることができないのだから、今回のこの映画は、「戦争の恐怖」と「戦争はしてはいけないもの」という気持ちを、一人でも多くの人が持ってくれれば成功と言えるんだろうな。************ただね…「家族や国民を守るために闘う」は、沖縄も含めて、決して守るためになっていなかったということも、知らなければいけないと思う。本当に「家族や国民を守る」ためであるのなら、1日も早い戦争集結を模索するのが本当であって、美辞麗句で誤魔化してはいけない。実際は「出血持久戦」という時間かせぎ以外の何者でもないし、玉砕を否定して最後の最後まで戦えと命令した栗林中将も、そういう意味では生っ粋の日本軍人である。そして「持久戦」が、中国残留孤児を生み、広島・長崎を作り出した一因であることを、私は絶対に忘れたくない。さてさて、安倍さんの「美しい日本」。「美しい」ってどういうことなのか…日本の何が美しければいいのか…************折しも、長野県、特に長野市周辺では「栗林フィーバー」が起きている。彼の生まれたのは長野市松代町、そう、あの地下壕のある町。来月4日には『散るぞ悲しき』の作者・梯久美子さんが松代に講演にくる。
2007年01月15日
コメント(2)

松代大本営象山地下壕の側にある恵明寺境内にある「中野次郎 供養塔」。創氏改名による日本名だけれど、朝鮮人労働者とはっきりしている唯一の遺骨。一昨年、遺骨は韓国に帰国し、「望郷の丘」に埋葬された。(難しい内容なのに言葉足らずの下手な文章だけど、願わくば全文を、時間のない方は、途中の青字だけはぜひ目を通してくださいね)1月11日に取り上げたNHKクローズアップ現代のテーマは、「日韓 新たな息吹(いぶき)~わだかまりを無くせるか~」政府同士が結んだ条約では、国と国の補償をすることによって、個人の補償要求は全て放棄するという条約を、最近になって韓国政府が文面を公開した。日本で労働し亡くなったことを韓国政府が認定しなければ、韓国政府による個人補償は受けられず、その認定は非常に厳しくなっていて、認定のための資料提供が日本政府にも求められている。(つい25年前のC型肝炎のカルテだって見つからないのに、60年前だよ。証明は困難を極めるだろうなあ)しかし、時間の隔りが資料を消滅させ、残っている資料も「創氏改名」で朝鮮名が特定できない。補償問題があるからと出ししぶっていた企業側も、前述のような文書が公開されたのならば、最大漏らさず公にしてほしい。そしてもう一つ、新たに出て来た問題が「個人情報保護法」。これがあるから、簡単に当時の名簿を出すことができないと、政府のお役人が言っていた。大体この保護法って、こんなことに適用されるために制定されたんじゃないと思うけど…。制定のときの意図がどんどん転用されていくいい例ではないだろうか。そんな状況の中で、両国政府が共同して遺骨を発掘し帰国させる活動も生まれてきている。昨年8月、北海道猿払村で行われた朝鮮人労働者の遺骨発掘作業。そこに参加した朝鮮大学校の女子学生2人が、昨年11月11日の「11・11松代大本営工事犠牲者追悼・平和祈念のつどい」に参加して、メッセージを朗読してくれた。ここ10年くらい、朝鮮大学校ではずっとこのつどいに参加してくれ、その都度、心を打つメッセージを残してくれている。でも大半が、自分の祖父母からの聞き取りで、強制労働・連行を知ったという内容が多かったが、昨年の2人の体験は、その基本からさらにもう一歩進んだ体験を話してくれている。****************(松代大本営の保存をすすめる会会報『保存運動』192号より転載)「追悼のことば」朝鮮大学校 外国語学部2年の2人今日、11月11日は松代大本営の工事が始まった日にあたります。62年前朝鮮人労働者の多くがここ松代で、一年以上のあいだ、とても厳しい労働を強いられた爪あとの始まりの日になります。6000とも7000とも言われる朝鮮人が苛酷な労働を強いられたといいます。 私達を含む朝鮮大学校の6人の学生が今年の8月、北海道で行われたフィールドワークに参加しました。このフィールドワークは戦前、北海道の猿払村にて苛酷な強制労働の下で死亡し埋葬された人々の遺骨を発掘する作業で、私達在日と韓国、中国から参加した人達と、日本の大学生と社会人が参加して行った共同遺骨発掘事業です。 7日の間に組まれたプログラムは、遺骨発掘作業を主としながら他にも学術的シンポジウムやディスカッション、そして国境を越えた文化交流、生活の交流などでした。 寝食を共にし互いの文化に触れ、国境と思想や世代の違いを乗り越えた交流とディスカッションを通して私たちが思い、感じた事…それはショックな歴史的事実であり、怒りでもあり、また悲しみと喜びでもありました。 歴史認識が異なっているという現実の悔しさや不安、他民族の文化を素直に楽しめる喜びなどが複雑に入り混じった一週間でした。 個々が違ったことを感じ、思いながらもそこに集まった200人を越える参加者達はただ「遺骨を捜し、遺族の方々に、故郷にその遺骨を返そう」という一心で共に汗水を流し、雨の日も晴れた日も泥と戦いながら遺骨を捜し続けました。 その過程で朝鮮人男性と思われる4名の遺骨が発掘されました。その方々の遺骨は誰にも知られる事なく樹木の茂る林の土の下で静かに60年以上の間眠ったままでした。その林はかつては「共同墓地」であったというのですが、今そこには墓碑すら立てられていません。おのずとその方々の名前も知れず、どの様にして亡くなったのかも故郷も遺族も何一つ知ることが出来ません。 私達はこの事は日本政府により戦前に起きた出来事が長い間、無責任に見捨てられ、放置されたままになっていた為だという事を強く感じました。 ここ数年日本では各地で遺骨を捜し出す作業が行われていますが、探し出された遺骨が全て遺族の方々のもとへ返還されたのではありません。もちろん、調査もされ、現在も調査中という遺骨もあろうと思いますが、身元が確認されないまま、まとめて韓国にある「望郷の丘」に埋められる遺骨も沢山あるといわれます。 祖国の解放も伝えられず、60年以上も土の下に埋もれたままの犠牲者の方々、そして突然に訪れた別れと、その後の生死すら確認できないままに悲しみの中でひたすらに待ち続けていた遺族の方々を想うと、どうしてこの様な無情の仕打ちをできるのかと怒りがつのります。 私達は遺族の方々の気持ちを何よりも大切にし、探し出した遺骨を確実に返してさし上げなければならないと、しっかり胸に収めました。 ここ松代でも事故や、栄養失調などで多くの朝鮮人労働者が犠牲になり未だに死亡者の人数も定かでなく、名前や埋葬場所等が明らかにされていない犠牲者が数多くいるといいます。遺族のもとに遺骨を返してあげないと犠牲者のハン(恨)は何時までも消えないと想います。また私達はフィールドワークに参加する中で少しでも遺族の方々が堪え忍んできた苦痛を共有する立場になって遺骨の捜し出し、返還の活動をしなければならないと想いました。 今、朝鮮での核実験実施を含む様々の問題で朝鮮と日本の関係はより悪化しています。心無い人によって朝鮮の民族学校に通う学生らに対する嫌がらせもおこっています。 しかしこんな時だからこそ、国という枠を超えて人と人が出会い、分かち合い理解を深める事が大事だと感じます。 いま政府間で出来ないことでも人と人との出会いと交流、活動が、北海道での遺骨の発掘という事を成し遂げたのだと思います。 私達は北海道でのフィールドワークで初めて心の通い合う日本の友達と知り合う事が出来ました。歴史についても、将来の夢についても何でも話し合える友人が出来たことは、本当に嬉しい出来事でこれからも多くの日本の友人を増やしたく思います。 私達は新しい出会いと交流をひろめ、北と南の朝鮮人と日本人の方々の力を合わせて異国の地で亡くなられた人々を探し出しその遺骨を遺族の方々に、故郷のもとに返す為に、そして戦争の無い平和な世界を築くために、今私達にできる事、やらなければならないことを一生懸命にやりたいと、心に誓っています。 皆さんも惜しまない御協力をお願いします。 最後にこの松代の地で亡くなられた朝鮮のハラボジ、ハルモニの御冥福をお祈りいたします。2006年11月11日
2007年01月12日
コメント(0)
仕事の打ち合わせで小学校へ行った。給食室からおいしそーな匂いが漂ってきた。お昼まであと1時間半。給食室は急ピッチなんだろうな。食べたいなー。「地域住民希望者に給食を食べてもらう日」なんてないかなあ。これから考えられるチャンスは、青ガラスに子どもができて、祖父母参観日の給食試食。いったい、何時の話になるやら…。以前は、一通り盛り付けて余ったものは、先生に先ず追加盛り付けがされた。好きなものの時は、大歓迎。嫌いなものの時は、頼み込んで、優先順位を後回しにしてもらった。先日、青ガラスに「今も、先生優先でしょ」と聞いてみた。ところが…先生にはほとんど回ってこないそうだ。給食があるから、独身男性の栄養バランスもなんとか保たれていると信じていたのにさ。盛り付けがうまくなって、余らないのかもしれないけど…。とまあ、みみっちい時代に生まれたお母は、給食の匂いから、思いは千々に乱れるのでした(笑)******9日、防衛庁が昇格して防衛省に。安倍さんは「これで戦後60年の体制から脱却して、新しい国防を」と訓示。11日、ブッシュさんが演説して、イラク戦失敗は自分の責任にあるとしながらも、さらに2万人以上の増兵をするって。失敗を取り返すのなら、撤退しかないのにさー。日本の自衛隊だって、その失敗に加担しながら、今だに空自を派遣し、燃料を提供し…そして省に昇格して、堂々と海外派兵するのだろうか。イラクの人たちにとって、イラクは故郷。他国の兵士は、まず必要ない。「自立」は強要されてするものではないのに。故郷の味を思い出そうよ。
2007年01月11日
コメント(20)
雪が止んで、久方ぶりの鹿島槍が夕方見えた。会社の中に明るい陽射しが差し込んで…「わっわっわ」とばかりにベランダに突進。雪煙が燃えていた。うれしいな、山が見えて。うれしいな、すぐに反応する私がいて。白馬乗鞍のご夫婦も無事生還。お母さんが、ご主人の背に隠れるようにして泣いていた。もらい泣き。良かったね、うれし涙で。ほんとに良かった。中央アルプス・宝剣岳の50代男性の行方不明も、どうぞご無事で。
2007年01月09日
コメント(8)
やっと来た冬雪の降る時期に、やっぱり雪は適度に降るのが自然だ。昨年みたいなのも困るけど、暖冬すぎるのも、私の気持ちをだらけさせる。暮れの大雪警報には肩透かしをくらったけれど、この連休の警報は当たった。やっとやっと冬が来た…そんな気分。「爆弾低気圧だから、よもや登山する人はいないだろうな」念じていたけれど、遭難はいくつも起こった。しかも、登山者ではなく、スキーヤーとボーダー。志賀高原の6人遭難は本日午前2時に無事救助。白馬47スキー場でのボーダー1人も救助。良かった。白馬乗鞍の山スキーの夫婦2人は7日の救助要請電話以降連絡とれず。5日に入山し、日帰りの予定だったのに道に迷って2日間ビバーク。7日まで救助要請をしなかったっていうのは「天気さえ回復すれば自力で下山できる」と思ったのか。安易な救助要請も困るけれど、どうにも動けなくなってからの要請も、救助側にすれば大変な話だ。今回の遭難者はみんな20~30代の若い人。純粋な山域ではなくて、スキー場かその延長線上。山と里がごっちゃになってきているのと同様、山とゲレンデもごっちゃになってきている。白馬乗鞍の2人も、無事に戻ってほしい。そう言えば、冬眠できないでいる熊たちは、どうしているだろうか…
2007年01月08日
コメント(18)
【注射始め】今年のの注射始めは、1月5日。12月28日の最終時の血小板が堂々と7万を割り、初めての6万台に落ちて、もちろん薬量を減らされた。そのせいで、5日は7万台に復帰し100ug/0.5ml用×0.4ml注射。結構辛かったなあ。女医さんは「血小板の数値も低いなりに一定してきているから、大丈夫だと思うよ」と、再三再四言うけれど、薬の量に素直に反応して上下する数値がいささか心配。最近見た副作用の説明の中に「血小板数値の低下は、肝臓の繊維化が進んでいる証拠」というのもあったし……………なによりも、治療中止になることだけは避けたいよね、ここまでがんばったんだもの。……ドキ……ドキ……ドキ……ドキッ【弱いよ、takane】高額医療の件で長野保健所に電話してお聞きした。その際に、肝炎治療費補助継続の話題にちょっと転じてみた。「補助継続になったtakanebiranjiです。これからもよろしくお願い致します。ところで、何人くらいが継続になることができたんですか。そういう数字って外部に出すのはまずいのですか」「そんなことないですよ」と担当の女性職員。そのまま私が黙って話を聞けば良かったのに、「数字を聞いて政治的活動でもしようとしてるのかしら、この患者は」なんて思われると嫌だなーと思っていた私は、続けてペラペラとしゃべってしまった(真実を知ることは、決して政治的活動でも何でもないのにねー。まだまだ古いよ、私の思考は)。「私がかかっているお医者さんの話だと、40人くらいが申請したそうですが…。新聞には依然の治療費補助されている患者は4000人以上とありましたよね…」「takanebiranjiさんの場合は、医師が証明してくれましたからね」てっきり日赤かF産婦人科の医師かと勘違いした私、「えっ、F先生が証明してくれたんですか」「いいえ、そうじゃなくて、カルテがない場合は、今かかっている医師の証明(状況から見て当然止血剤使用が推測されるという証明)があればいいんです」そうだった、そうだった。あわてるな、takaneよ。「てことは、私のように現在の医師が証明してくれたというケースはほんとに少なかったということですね」「そうです。ほとんどの医師は自分に関係のない時の証明はしたがらないんですね。だから、申請がぐっと減ったんだと思いますよ」結局、継続になった人数は聞くことができなかった…ム、ム…【負けたくないもん、ウィルスなんかに】私にももちろんカルテはない。日赤にもF産婦人科にも問い合わせ、日赤からは丁寧な返事をいただいた。けれど、当時の状況は母子手帳などで膨大な輸血量だったことははっきりしている。止血できずに転院に至ったこともはっきりしている。そして、すがる思いで大切にしている資料もある。平成16年度に発表(新聞掲載)された「昭和55年以降にフィブリノゲンが納入(業者が試供品として置いていった場合も含む)・使用された長野県下の病院」一覧表(現在はインターネットでも公開されいる)。これも自己申告だから100パーセントは信じられないだろうけど。(だけど、この回答を見ると、病院の誠意のあるなしが実によく伝わってくる)集団注射の針使い回しで感染した方には申し訳ないけど、その人たちに比べると、私の方が感染を特定できる状況にいる。だから、自分の病のことは自分で学びながら、信頼できる女医さんに治療を委ねていこうと思っている。新たな年を迎えての、ウィルスへの何度めかの戦線布告です。共存ではなくて、宣戦布告よ。【おまけ:しわくちゃくちゃ】先日、珍しく化粧などをして、お父に買ってもらった(いつぞやのワインレッドのものとは別)お気に入りの帽子を被って外出した。家に帰って何気なく鏡を見たら…ゲゲゲゲゲーッえーっ、これ私の顔?細かな筋、はっきり書くと「しわ」がほんとに無数に顔面に浮き出ている。こんなに年寄りだったっけ?私って。体重が減って、足の筋肉も落ち、ほお肉も少し下がり気味になったことまでは自覚していた。でもさー、この「しわ」って…私の年齢にしては、酷じゃなあい?おしゃれして外出するのが嫌になってきたよ。この最後の項目は書かないでおこうと思った。でも、私の後に続く人(いない事を願うけど)のために、記録は残さなきゃ。絶対これも副作用なんだから。対策その1 笑顔を強調し、はつらつとして「しわ」に気付かせない。 要するに内面の若さよね。対策その2 化粧はご法度
2007年01月05日
コメント(7)
2007年1月4日 松代大本営象山地下壕毎年1月4日は、「壕開き」。と言っても、私だけのイベント。長野市役所の管理下にある壕は、12月29日から1月3日までお休みとなり、仕事始めの今日、地下壕も1年のスタートを切るというわけ。数年前までは、いつも壕の1番乗りをしていたけど、寄る年波には勝てず…おいおいおいおい…嫁の自覚が出てきたのかも…??今日は、午後からの地下壕行きとなった。冬場、壕の中はとってもあったかい。ちらほら見学者の姿もあって、写真を撮るには不都合だけど、見学者様々だから、アングルから消えるのをじっと待つ。1度なんか、三脚をぐーっと低くして地面近くにセットし、それに合せて私も座り込んでレンズを覗いていたら…「キャーッ」って言われてしまったよ。私も壕の中に一人でいるのは最近まで怖かった。強制労働させられた人たちの怨念が籠っているような気がしてね。でも、「あなたたちの無念や戦争のくだらなさを、地下壕の映像を通してたくさんの人に知ってもらうから、写真を撮る」って思うようになってから、怖くなくなってきた。むしろ応援されているような気にもなって、本日は1時間半、壕を行ったり来たりして写真を撮った。管理人さんが懐中電燈を持って見回りに来たので、あわてて「出まーす」カメラのモニターで見た時は「おっ、結構いいのが撮れたぞ。私だってやる気になれば撮れるんだぞー、お父」でも、家に帰ってパソコンで開いてみると…やっぱりだめだ。お父のようにはいかないよ。特に広角レンズで撮ったのは全滅。基本からちゃんと勉強しないと、地下壕の語る思いは、伝わらないなー。
2007年01月04日
コメント(12)

2007年1月1日 大谷原より鹿島槍ヶ岳今年の1月1日は、久々に鹿島槍ヶ岳の大谷原からちょっとだけ歩いて来ました。前日西股まで入った友人の「雪が少ないよ」の言葉や、1日朝の鹿島槍の「おいで、おいで」に誘われて、ボソッと言ってみました。「お母、ちょっと大谷原まで行ってくるわー」すぐに反応したのが青ガラスでした。「えーッ!」そしてしばらく沈黙があって「お母、オレも行くわ」「大谷原までだから、大丈夫だって。駐車場からすぐだもん」「いいから、いいから」どうやら車の運転をしたかったのも付いて行く理由の一つだったようですが(免許は持っているけれど、京都ではスクーター)…。お父は自分ではいっしょに行くとは言わず、姪と甥をけしかけて、結局4人で行きました。本音は1人、もしくは青ガラスとの2人散歩がしたかったんだなあ。今年、亡くなった弟と同年齢になった青ガラスに、弟のことをあれやこれやと話しながら歩きたかったのですが…。いえいえ、甥や姪の屈託のない笑顔もエネルギーになったし、雪の中を4人で歩くなんてことは、もうないかもしれないね…。ありがとう。この4人、急に決まった雪山散歩なので、ありあわせのヤッケと長靴姿。スノーシューも2組しかないから、ちょっと遠めに歩く予定の私は自分のをつけ、もう1組は甥ッ子が。ところが、誰も駐車場で待ってると言わないものだから…長靴とスノーシューと、Gパンと、何やらバラバラの集団が樹林を歩きました。一人普通の山姿をしている私だけが、何か浮いていて…笑えます、はい。青ガラスと私スノーシューをつけた甥と私よりも、長靴の姪と青ガラスの方がどんどん歩いて行ってしまう。そう、今年は雪が少ないのですよ。せっかくスノーシューを付けているのだから、脇の新雪に入り、急坂を登ったり…少ない雪なのに、帰る頃には足を持ち上げるのが苦痛で。脚力が落ちていることが一目瞭然。でも、甥も「行く時よりも重いよね、雪が。湿気が多くなったのかな」と言っていたから、湿気のせいにしようっと、私も。りすを見かけたり、ウサギやキツネ?やタヌキ?、そしてカモシカの足跡も見たりして、結構楽しかった。大谷原からちょっと奥の、荒沢に向かうルートにそれて、お線香とお正月料理とビールを供えた。でも、マッチを忘れ、持ってきたはずのビール缶がなく…煙の出ないお線香と、ビール代わりの熱いお茶で、「おーい、Tよー、お前と同じ年齢になった青ガラスだよーッ」と、心の中で報告して。久方ぶりの正月の鹿島槍ヶ岳山麓行を終えた。わずか2時間弱の雪遊びだったけど、楽しかったなー。1日から、一応、山に来れて、今年は何かいいことがありそうな…にっこり!駐車場から見た天狗尾根(拡大写真はトップに載ってます)。重い雪にヒーヒー言いながら到着した私に、「ここ、いい写真撮れるよ」とYさんとNさんが教えてくれたポイントです。これは実は2枚の写真を合成しました。*********************もうずっと前の12月30日朝、弟たち5人は大谷原から天狗尾根に入りました。その日は天狗の頭に、31日は小屋岩でそれぞれビバークし、1日に北峰を越えたあたりで、多分雪崩で一気に北股本谷を流されました。弟が見つかったのは、5ヶ月後、西股出合でした。弟のおかげで、私は鹿島槍ヶ岳に関してはほんのちょっぴり「通」(自称)になれました。これもまた、すてきな事なのかもしれません。*********************帰り道、「左に寄り過ぎだぁっ」「ギャアギャアうるさいのッ」「ここで60キロ出すのーッ、信じられなーい」と、まあ、山に行くより怖かった運転で、無事に帰ってきました。青よ、お前の心根に感謝だよ。
2007年01月02日
コメント(26)
全19件 (19件中 1-19件目)
1