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9月22日、山に相談に行きました。鹿島槍山麓ではなく、ちょっと高みの八方池まで。歩き出して1時間、やっとこさっとこ着きました。当てにしていた黒菱平の第3リフトが、今年は8月で運転中止になっていて、この登り20分が、結構きつかったァ。以前なら鼻歌まじりに行けたのに…やっぱり体力は激落ちで、このままでは山復帰はできませんねえ。待てど暮らせど来ぬ人…じゃなくて、1時間半たっても山は姿を表わさず。あきらめてその山々にお尻を向けてとった八方池です。アザミシナノオトギリニッコウキスゲネバリノギラン?タカネバラ(親戚です?)ドングリワレモコウ(吾亦紅)稜線は、夏に咲き競った花々はほとんど姿を消し(最後まで雪の残った窪地には、シモツケソウ、カライトソウ、ニッコウキスゲ、マツムシソウなどが残っていたけど)、来年への準備を進めている草木たちがあった。ニッコウキスゲは、種子を既に地に落し、中は空っぽだけど笑っているように見えませんか?タカネバラも、真っ赤に染まって役目を無事終えたことを乾杯しているし…ネバリノギラン?は、品さえ感じます。こんな姿を見ていると、「自然体で行きなさい」って無言の教えをもらっているようで。見えなかった山々は、午後5時近くになって、姿を表わしました。あと半年の治療継続を、ほぼ決めて山に行ったのですが、私は、まだ自分の役目があるなあと自覚しました。(もちろん、ここで治療をやめても、すぐにどうのこうのということは全くないんだけどね-笑)ニッコウキスゲのようにやり終えた満足感で微笑みを浮かべることもできないし、高潔な品も持てるほど、生きていない。何よりも、前のように、岩から岩へとはね下ってくる状態からは程遠い。このまま終ってなるものか!不安を取り除いて、もう一度全力で心置きなく山に入り、そして、あの花たちのように気高く笑って終りたい。そんな風に強く決心したのであります。もちろんお父の言葉や、青ガラスからのメール、ブログ仲間の支援、みーんな力になったし。そしてもう一つ、肝炎友の会に出席して、大きな力をもらってきました。あと半年、治療継続でーす!
2007年09月24日
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血小板 68000、30ml68000だから40か50mlでもいいのになあとなんて思っていると、爆弾が落ちてきたッ!医師「あと何回だっけ」私「あと5回です」(満面の笑みで)医師「ねえ、takanebiranjiさん、あと半年がんばってみない?」私「……、えーっ、だって先生。この薬、最高でも72回しか使えないんじゃないですか?」医師「この薬はそうなんだけど、もう少し弱い別の薬にして半年。今のところウィルスはマイナスになっているけれど、後半の薬の注射量が、ちょっと心配なのよね。もう少し、マイナス状態を維持したいのよ」私「……………………、半年くらい休んでからですか?」医師「ううん、連続。takanebiranjiさんの型の場合は、治癒率8割だけど、やっぱり後半の状況が不安だから。2割に入りたくないでしょ。せっかくここまでがんばって、ウィルスが復活しちゃったら、元も子もないもの。今度はレべトールがないから、副作用も今よりは楽になるはずよ」私「……………………、考えてみます…」確かに、後半の注射量は、毎回書いているけれど、「インターフェロンが入っているぞ」という脅しをウィルスにかけているだけのことで、ウィルスつぶしになっているか否かが心配だったことは事実だ。でも、検査ではマイナス(ゼロではないのよね)。何よりも、これ以上続けたら、体力的にも精神的にも自信がないのだ。特に精神面での自信が持てない。なんとか誤魔化し、誤魔化し、やってきたのに…考える。2日間、とにかく自分の気持ちを確かめたくて、考える。医師不信になったり、もういいから止めようと思ったり、せっかくここまで来てパーになるのも悔しかったり。近い将来、来るかもしれない肝硬変や肝癌を心配して生きるより、今やりたいことに燃焼した方がいいのではないかと思ったり。結局一人では結論がだせず。20日、お父に相談した。「先生を信頼して、全部任せたんだろ。だったら、先生の言う通りにした方がいいよ」あっさりとした返答だった。ちょっと気が楽になった。それでもなー、もう少し反論してみようと思う、先生に。
2007年09月18日
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山の大先輩が、また一人亡くなった。享年69才。ここ数年は、村民登山のお誘いをしても、山岳会の例会の連絡をしても「おーっ、ちょっと都合で出れねえわ」という返事をもらうのみであった。体調が良くないらしいと人づてに聞いて、心配はしていたけれど。お通夜に伺って、山の写真が部屋いっぱいに張られてあった。晩年、山から遠ざかった印象があったけど、やっぱり体調のせいだけで、彼の中には山がぎっしり詰まっていたことを知って、うれしかった。次の写真は、村の50周年記念誌に載った大先輩たちの山姿。まだ20~30代の、青雲の志を抱いていた頃の写真だろう。キャプションには「知床遠征のための強化訓練。八方尾根 昭和44年」とある。私がこの6人の先輩に出会うのは、これよりずっと後になるのだけれど。この6人の中、これで5人が現世からは姿を消し…向かって左からTさんへ:霞沢岳からの暗闇の中での下りと木いちご、小梨平のテント内で諸々の話。豪快な語り口調と笑顔が大好きでした。Gさんへ:大社長になる前の、無名時代のGさんが好きでした。白馬乗鞍岳へ追悼登山したとき、カメラを抱えて仲間を撮っている姿は、昔のGさんそのものでしたよ。 Kさんへ:初めて連れていってもらったのが、冬の唐松でした。ザックにしのばせて持ち上げてくれた「ホワイト・サントリー」は、おいしかった!Bさんへ:唯一存命のBさん。他の5人の短かすぎる命の続きを、一身に背負って、長生きしてね。山にもたくさん連れていってくださいね。当面、来年は裏銀ですから。Aさんへ:大先輩をつかまえて「Aさん、Aさん」と名前で呼ばせていただいてました。一度も山へはごいっしょさせてもらわなかったかなあ… Hさんへ:写真中の4人が亡くなり、「今度はオレだ」とBさんと言い合っていましたね。初めて剣に連れていってもらった時のリーダーはHさん。何故か、黒部ダムから内蔵助平経由で真砂沢まで、12時間以上もかかりました。パーティーが少しずつ離れ、乾いた山靴の音の聞こえる範囲で歩いた記憶も。 クールだったと思っていたけど、お通夜で見たお孫さんを抱く表情に、ホロリとしました。この村に嫁いで、なんとか今まで生きてこれたのは、この先輩たちのいろんな支えがあったことも、大きな要因です。いろいろあっても、腹蔵なく話せ、そして教えを請うことのできた山の先輩たち。またいつか、天国とかいう山にごいっしょできるまで、待っていてくださいね。もうしばらく、私はこちらの山を歩きたいと思います。合掌
2007年09月16日
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設立しました!「ひとり9条の会-鹿島槍を仰ぐ里」薔薇豪城さんのブログで「ひとり9条の会」という言葉を教えていただきました。また、「日本の市民運動は弱い!しかし絶対に権力につぶされない、それは、ひとり二人でやっている人たちが無数にいるので叩けない」と言われていることも、知りました。私もその一人だと自負しています。フラフラしてはいても、たまには日和るけど…(笑)でもやっぱり「戦争の放棄」を謳った9条は、そして、日本国憲法は、私にとっての宝物です。生きる指標です。まずは2人になることを目指して…早速、自分の名刺に「ひとり9条の会」を刷り込みます。(これは職業柄ゆえの強み。あまり使わない名刺なので、10枚、20枚とその時の気分で新しくしています-笑)
2007年09月16日
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「ふるさとらんど小川」で「秘境ニューギニアと撃墜王・西沢広義展」が開催されます。主催は村のニューギニア会と長野県ニューギニア会。入場は無料。以前、遺族会発行の『大東亜戦没後50年記念誌ー想い そして足あと』を編集する際に、朗読劇『この子たちの夏』を公演した仲間の女性たち数人で、記録を書けない高齢者たちの聞き取りをしたことがある。それ以来のおつきあいで、今回もほんの少しだけれど、喜んで協力させていただいた。この村のニューギニアでの戦没者は29人(誰も生きて帰ってこなかった)。毎年夏になると、遺族は松本市にある護国神社での慰霊祭に参加し、ニューギニア墓参にも昨年夏には3人が参加されている。今回はそのニューギニア墓参での記録写真や、ニューギニアの自然・文化・民俗なども紹介する。もう一つの柱は撃墜王・西沢広義さんに関する諸々の展示。初公開する写真もあるそうだ。この撃墜王については、実は私も数年前までは知らずにいて、プラモデルなどの専門雑誌に載っていて、初めて小川村出身だということを知ったのだ。マニアはよく知っていて、毎年夏、役場や生家に「お墓参りをしたい」という問い合わせがあると聞く。今回もこの西沢さんの取り扱いにはいろいろな意見があったようだが…。英雄扱いしてほしくないと思いつつ、これを目玉にしないと集客できないという意見もあり…。でも、撃墜王ともてはやされた西沢さん自身、決してそれを喜んではいないだろうと、私は思う。一旦就職した彼は、「勉強したくて予科練に入った」という証言もあり…村に撃墜王がいたという事実から、もう一歩どう踏み込んでいけば、戦争放棄につながるか…難しいけれど、立ち向かわなければいけないことだろうな。戦争によって村(村人)がどう蹂躙されたか…
2007年09月14日
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10日、血小板 58000、なんとか 30ml 注射。看護師さん「今日注射する場所はどこだっけ?」私「左肩です」記録を見ている…看護師さん「えっ、今日右肩じゃない?」私「いいえ、右肩は先週しました。今日は、絶対左肩です」看護師さん「あれっ、ここ書いてないねえ。じゃ、左肩だね」こんなことが今までも数回あった。まあ、注射する部位が2週にわたって同じでも、効かないということはないのだろうし、害になるということもないのだろうが…。看護師さんを見ていると、ほんとに忙しそうだ。細切れの仕事の連続みたいにも見える。常々患者への応対をどう分担しているのかなーと、観察眼を丸くして見ている私。次の看護師さんへの引き継ぎがうまくいかなくて、それだけで30分も待たされたこともある。奈良の産婦人科の救急受け入れ拒否や、長野県下の産婦人科の減少、大病院での産婦人科をなくす…などの動きを見ていて、なんて国になったんだろうなあ、日本は…と思ってしまう。私の事故だって産婦人科、悔しいと思う反面「F病院が体面を気にせずに、よく日赤に搬送してくれたよ」とちょっぴり感謝の気持ちも持っていた私。でも、あれは医療ミスだとも確信している。私みたいなケースが、出産にはいつもつきまとっているんだろうな。だから、訴訟を恐れて産婦人科は減っているのだろうか。最後は、医師と患者の間にどの程度の信頼関係ができあがっているのかということになるような気もするが。改めて出産の大変さと、医師や看護師の仕事の忙しさを思う………
2007年09月12日
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8月の最終週、お父の運転で気になっていた場所分杭峠1分杭峠2に行ってきた。磁場ゼロ、気が集る所、中央構造線の下、γー線が多い、なんて聞けば、秘境大好きな私にはずっと以前から行ってみたい所の一つになっていた。気が集る所ではあっても、決して霊場などとは違うのですよ。駒ヶ根から入って旧長谷村から南アルプスの前山みたいな山々の稜線に出る。長野県内はもちろん、県外からもたくさんの車が入っていた。駐車場から歩いて5分。崩れかけている沢に着くと、こんな風に大勢が座って、沢からあがってくる風に身体をさらしていた。鉄砲水でも出そうなところだな。上から落石が来たらどうするんだろう。と、ちょっと心配。何よりその雰囲気の暗さが恐くて…インターネットで調べた近くの別の場所に行ってみることにした。林道を車でも入れるらしいけど、我々2人は約10分を歩いて行った。「たまには、こういうところ、2人で歩くのもいいじゃん。なあ、お母」 外に出ると仲良くなる2人なので。(いや、じつは、車の中ではけんかをしていた-苦笑)、ここにも、簡易椅子やシートなどを持って静かに団らんしている人昼寝をしている人ピクニックみたいにお弁当を食べている人 等々沢の上から風が常時吹いてくる。冷気を含んで、その風にあたっているだけで、ほんとに身体が軽くなるような気がする。私には気が来ているのかどうかは全くわからないのだけれど、でも、気持ちはいい。サービスにお父の肩をもんであげ(近くにいたご夫婦がそうしていたから、同じようにしてくれと、お父は目で要求)私ももんでもらって(口でしっかり要求した)岩からしみ出してきている沢の水を飲んでみる。まろやかで、おいしい。2リットルのペットボトル4本に汲み持ち帰ったけど、あとからあとから大きなポリタンクで汲みに来る人がいて、私達はちょうどいい時間帯に着いたみたいだ。沢風は、京都の東山のお寺で感じた沢風も似ている。水の味は、鹿島槍ヶ岳の一の沢の水にも似ている。本当に「気」が含まれ、γ線が含まれているのかどうかは、わからない。けれど、身体も軽くなったし、肩凝りも消え。お父も、前日の畑仕事で初めて使った耕耘機による筋肉痛も消えたそうだ。1度行ったきりでは、きちんと治ることはないようだけど、私は肝臓付近と、足の膝と、ついでに頭に、その風を集中的に受けてきた…善光寺にある「線香の煙」を身体にかける「びんずる様」の身体の部位をさすり自分の身体に触るというのよりは、効果があるような気にもなる。まあ、まさに「気分」の問題かもしれないけどね。帰りは大鹿村経由小渋ダム経由で、もちろんソースカツ丼も食べて帰る。お水は、日本茶、コーヒー、ごはんなどに使って、もう終ったけど、なかなかの味だった…ような「気」がする。一番見たかった大鹿村営のフォッサマグナ資料館を通りすぎてしまったのは残念だったけど、小渋ダムの下に、無名の(?)、高さ100メートルはある滝を見つけて感動した。私の立っている道路が滝を二分していて、1本に見えないのが残念。また、滝口もみえないけど、迫力抜群。もし本当にここに名前がついていないのなら、「こんなのが、きっと奥に行くとたくさんあるんだぞ。 南アルプスは深いなあ」と、お父と2人、盛んに感心した。帰路はけんかをせずに、無事帰宅。
2007年09月08日
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またまたあきもせず、いつもの話題です。《政府と裁判所は、ツーカーではない?》今日7日、仙台地方裁判所で起こされていた薬害肝炎訴訟で、製薬会社の責任を一部認めたものの、国の責任は、この訴訟関連では初めて認めなかった。6人の原告はまたまた分断されて、1人に1100万円の支払いを命じたのみ。5日に与党肝炎対策プロジェクトチームが公的助成を政府に求める方針を打ち出したばかりなのに。なんか矛盾してるよねー。三権分立というのはよくわかるけど、こういう場合は、共通のスタンスに立ってほしいよ。《県なら、まだまだ顔の見える対応が可能?》長野県でも、補助額が徐々に減り、ついに昨年から、「入院患者」と、「血液製剤を使ったという証拠(カルテ、もしくは、現在かかっている医師の証明)があれば、通院患者も所得に応じて補助を受けられる」、に変わった。私の場合は、現在かかっている医師の証明によって補助を受けている。で、最近、通院患者への補助が復活した。(ただし、以前より補助率はかなり低い…らしい)9月に切れる「ウィルス肝炎医療費受給者証」の再交付申請をしたところ、長野保健所の担当職員から電話が入った。保健所「takanebiranjiさんですね。今度、通院補助もできるようになったのですが、ご存じですか?」私「はい、本人です。ええ、知っています」保健所「どうしますか、申請されますか?」私「あのー、私、現在、通院だけど補助を受けているんですが…」保健所「……(多分パソコンで検索している?)、あっ、そうですね。 なら、現在の補助の方が率が高いですから、申請されないですよね」私「両方はできないのなら、今のままでお願いします」で、一件落着したのですが…長野保健所は全県カバーでなく、長野市周辺カバーだから、まだまだ顔が見える(と感じる)あったかーい行政と言えるのだろう。これが道州制になったなら、保健所のカバーエリアは同じでも、恐らく今の郵便局のように、何か冷たい、無機質なお役所に変化しちゃうかもしれないね。《ハッとした看護師さんのことば》3日、採血後、その場で血小板などの数値の出る機械に目を凝らす私。「64000」と出たとたん、「良かったーッ!」と血管を抑えながら立ち上がった私。看護師さんが「64000で、良かったーって、喜ぶなんて…」と言った。何か、ハッとしたのよね。意地悪い看護師さんでは決してない。むしろ逆で、季節の話をしたり、体調の話をしたり、他の看護婦さんよりはずっとふれあいのある人だ。いい意味で哀れみを感じて、ついつい出た言葉だろうな、きっと。「この数字とて、注射はできても、決していい値ではないのよ。 体、大事にしてよね。早く、正常値に近づくといいね」注意と激励と…そんな気持ちを込めてくれたように感じたのです。一つの病と治療を通して、病を巡る情勢、周囲の人、自分の姿が結構よく見えました。あと7回、完全終了したら、次に同じ道を通るかもしれない人に、記録を残さないといけないな。
2007年09月07日
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9月3日、受付すれすれの5時10分前にお医者に飛び込む。75回めの血小板の数値は、64000で、40ml注射。この週は、めっちゃくちゃ忙しくて、4日の朝から校正は戻るわ、校了はあるわで、必死。頭痛に発熱に、もうやだー。この状態は本日も続いてさ。ブログを書くどころの話ではなく…友達から来る電話やメールに癒されながら、なんとか生き抜いた(?)校正を出し終え、校了も1つ終え、多少心身ともに楽になった。●村議選のこと●旧長谷村の磁場ゼロ、気が集中しているという「分杭峠」に行ったこと●長野県母親大会で、「国民保護計画」を学んできたこと等々、書くことはたくさんあるんだけど、これらは、もう少し「あとの心だぁ~」になりそうです。
2007年09月05日
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