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最近はダライ・ラマの書籍が数多く出版されている。大手の本屋で仏教コーナーに行けば、必ず数冊目にすることになるだろう。その中でも「ダライ・ラマ死と向き合う智慧」は最も新しく出版されたものの一つである。 ダライ・ラマ同様チベットの精神的指導者であり続けた、パンチェン・ラマ一世の十七偈を元に、ダライ・ラマが死について前半は仏教の教えを元に平易に、後半は仏教の秘儀を元に高度な内容を語っている。その語り口は冷静に真理を語りながら、慈愛にあふれている。 パンチェン・ラマははじめの七つの偈で、どのように死にアプローチしていくかを説明している。最初の偈は、仏と、仏の教(法)と、教えを実践する集団の三つの帰依、(優れた相手に身をゆだねること)を説明し、続く第二偈と第三偈では、与えられた生を修行のために使うことがどれほど大切であるかを教えている。今生のはかなさ(無常)を意識し、そのおぼつかない経験にしがみつかないことで、この貴重な機会を利用するようにと説いている。第四偈と第五偈では死ぬ時の大きな苦しみや、死のプロセスにおいて顕れてくる幻影に対処できるような考えについて述べている。第六偈と第七偈では、実践してきた修行を思い出し、喜びを感じながら最も望ましい状態で死ぬには、どうすればよいかが説かれる。 続く三つの偈では、死のはじめの四段階に起こることを詳細に述べ、そのあいだどう瞑想すればいいかを教えている。意識を支えている肉体の四元素が溶解していく過程と、それに伴う経験をここで知ることになる。その溶解によって、より深いレベルにある、三つの微細な心が顕れてくる様子を述べたのが十一偈である。ここでは、意識と身体の構造を「無上ヨーガタントラ」(チベット密教のタントラで最上位に位置する)の教えに基づいて説明している。第十二偈と第十三偈では根元的な意識である「死の光明」の経験が最高潮に達する様子が述べられている。このもっとも深いレベルにある心が、すべての意識活動の土台となっている。 最後の四つの偈では、中有についてのべ、このプロセスでしばしば起こる数々のおそろしい現象に、どう対処すべきかを教えている。そして、さまざまなレベルの修行者が、どうすれば良い生まれ変わりができるかを語っている。 こうして、この十七偈を学ぶことで、死に関するすべての準備(死に際しての悪い条件を取り去り良い条件を整えること、死のプロセスでどのような修行をすべきかを知ること、中有の切り抜け方を学ぶこと、転生によい影響を与えること)ができる、とダライ・ラマは説いている。 現代では死が覆い隠される傾向にあり、あまり深く死について考えたり、実際の死を目の当たりにすることがまれになってきている。しかし誰もが経験する死について、ダライ・ラマは仏教思想を元に、死にゆくプロセス、そのときにどうすればいいか、また周りの人はどのようにすればよいかを明確に解き明かす。 しかも普通ならば聞くことのできないような秘儀までも、惜しげもなく解き明かされている。そしていかに死を迎えるかだけでなく、いかに生きるかについても同時に語っているとも言える。非常に貴重な書であると言えよう。
2004.11.30
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ダイエット!健康!美容をテーマにしているが、わたしはダイエットをやったことがないし、やろうと考えたこともない。それはなぜか? 太らないからである。 わたしは普段一食だし、肉類や脂っこいものなどほとんど食べない。しかし、食べる時はかなり量を食べるし、場合によっては太りやすいものでも食べることがある。肉体労働をしていた時は、かなり食べていた。しかし、太ることがない、せいぜいお腹が少々出るくらいである。 やせたいという人が世の中には多いとおもうが、太りたくても太れないといった人たちも存在するのである。確かに太りすぎると色々と問題があるだろうが、やせすぎも問題であろう。 ダイエットをして、かえって健康を損ねてしまったら本末転倒である。たいして太ってもいないのに無理に絞ったら、体にいいことはないだろう、必要があってされている方もいるだろうが、そうではないケースも案外あるように思う。 太らないためには食べなければいいと考えてしまうが、食べなければいいかといえば、その後もきちんと自分で自分を調整できればいいが、そうでないと一気に貪って食べてしまい、逆効果となる。 知り合いで修行と称して無理な断食をして、その後貪りがでて一気に食べてしまい、かえって太ってしまったり、体のバランスを崩してしまったといったことがあった。何事にも真剣に取り組むのはよいことだが、やりすぎてしまっても駄目である。 無理矢理押さえつけるのではなくて、普段から小食にしているのが一番だろう。これは時間をかけて徐々に慣らしていくのがよい。体が慣れてしまえばそれが自然な状態となり、苦痛もない。一気にやろうとすると、後で反動が来る。自分を律することができる人は多少無理しても大丈夫かもしれないが、大概の人はそれは難しいだろう。 健康のためにダイエットをしようとして、無理をして体をこわしてしまったら何にもならない。自分の体と心をよく見つめつつ行っていく必要があるだろう。 わたしの場合は、そういうことをしても全く太ることがないので、わたしがダイエットのことについて書くことは、無理があるのかもしれない。フリーページ更新しました。「捨てるということ」と「己を見つめる」です。
2004.11.29
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リンクさせて頂いている彩佳さんの発案で、プチ断食を多くの方が行った。わたしはちょうどやろうと思っていたところだったので、参加を表明した。一日程度の断食は月一度の割合で行っているので、覚悟を決めてというほどのものでなくあっさりとしたものだった。 いつも食事をしている時間帯になると空腹感が襲ってきたが、しばらくたつとそれも消え、空腹はあまり感じなくなった。そして体の感覚がいつもと違ってきて、意識が深い領域に入っていき、自然に瞑想状態になっていった。普段は瞑想に入ろうと思って深く入っていくのだが、断食を行っていると、それが自然に入っていってしまう。普段よりクリアだが、エネルギーも活発に動き出し、ちょっとコントロールしにくい状態になった。 心の状態も鋭敏になり、少しプライベートなことでごたごたすることが最近あるのだが、そのことが普段より気になりだした。深いところからこみ上げてくるものがある。普段はあまり感情的にならない方だが、何か爆発しそうなものがあった。しかし実際に爆発させることはなく、次第に落ち着いていった。 瞑想をしていると、慈悲の心が強く出てくる。自と他の区別を無くし、分け隔て無い心の状態を形成していこうという気持ちが出てくる。普段からこういうことを考えるようにしようとしているが、いつもより更に強く出てきたようだ。 普段から食事は一食のことも多く、間食として果物を取ったりするくらいだが、食事を一日取らないことで、更に心身に良い影響があることを改めて感じた。一食でも食べ過ぎてしまうことがあり、そのあとは心身が重たく嫌な感じがしてしまうが、食事を取らないととても軽くなりすっきりとする。食事ももう少しへらした方がいいかなと感じた。 やはり普段から行っていることは、あまり苦痛を感じない。これがなれていない人にとってはなかなか大変だろうが、習慣になってしまえば、どうということはない。断食とか瞑想とか修行という言葉を聞くと、非常に大変なもののように感じる方も多いだろうが、習慣になってしまえば、自然に行えてしまう。そうなるとやることが苦痛であるばかりか、やらないことの方が不自然となってしまう。何事もそうだが普段からこつこつと積み重ねていけば、大きな苦労をすることもなく、確実な効果が出てくる。 断食も急に行うと危険な面もあるが、少しずつならしていけば、苦痛なく心身の快適さを感じ取ることができる。飽食の時代において、食べることになれている私たちだが、すこしくらい食べることを控えた方が自然なようである。食べ過ぎることの方が不自然である。 約48時間ぶりにきちんとした食事をする。それもごちそうではなく、ご飯と野菜を煮込んだものと豆腐である。それで充分。断食明けには、あまりこてこてのものは食べない方がいい。胃がびっくりしてしまう。 48時間ぶりの食事でもあまり空腹感はない。そのまえに何度かバナナなどを口にしたが、48時間ぶりの食事でもあまり苦にならない。お腹がぎゅうぎゅうよりも、多少余裕がある方が心身にいいことは間違いない。 食事を取る前に2時間ほど瞑想したが、最初は雑念が多かったが、最後は雑念も静まり、仏教でいう六道、地獄、餓鬼、動物、人間、阿修羅、天界、の六つの世界を浄化したい、という意識が強く生じてきた。そのときは心が軽く、視覚的にも明るくなる。以前から何度かそういった意識を経験していたが、最近は忘れていた。断食していると瞑想中もあまり眠くならず集中できる。だからそういった状態になったのではないかと思う。 プチ断食と瞑想をされた皆さん。これだけで終わらせずに、またぜひやりましょう。
2004.11.28
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寿限無、寿限無、五劫のすり切れ、海砂利水魚の、水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、ヤブラコウジのブラコウジ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助。 これはコピペではない。子供の頃これをそらで聞いて覚えてしまい、いまだに忘れていなかった。子供の頃に覚えていたものは、なかなか忘れないものである。これが大人になってからだと、そう簡単に覚えられないし、覚えてもすぐ忘れてしまう。 落語の寿限無を知らない人には、上のものはなんだかさっぱりわからないだろう。これは人の名前である。もちろん落語だからあり得る話しであって、現実にこんな名前を付ける親はいないが、そこは落語である。大工の八五郎が子供が生まれたので、寺の住職のところに長生きできるような名前を付けてくれと頼み、住職があげていったのが冒頭の内容である。 しかし、見てみるとまともに名前としてつけられそうなのは最後の長助だけで、あとはこんな名前を付けられたら、子供がかわいそうだというものばかりである。住職がこんなものを列挙したのは、たんに自分の博識をひけらかしたかったのではないか?そう考えると、この住職もあまりたいした人ではない。 子供の頃は名前はいじめの対象である。こんな名前を付けられたら災難だと思うが、あろうことか八五郎は住職に言われたもの全部を名前としてしまう。現実にこんな名前の人がいたら、少なくとも日本では最長だろう。世界ではどうだろうか? 落語では、いちいちこの長い名前をみんなで呼びかけることによって、爆笑を誘う。もしこんな名前が現実にあったとしたら、略称で呼ぶことになると思うが、落語だけあって全部連呼する。寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の、、、これをやってるうちに、もう朝になっちゃったよ等というギャグが展開されていく。寿限無、寿限無、五劫の...いや、要するにこの子は病気もせず、怪我もせずに大きくなりまして、いよいよ学校へ上がる歳になりました。その入学式の当日でございます。朝早く、近所の子供たちが迎えに参りまして 近所の子 寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助ちゃん、学校行こう! かみさん おやまあ、タケちゃんたち、朝、早いんだねぇ。うちの寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助はまだ寝てるんだよ。ごめんね、いま起こして来るから、ちょっと待っててね。これ! 寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助! 起きなさい! まったくいつまで寝てるつもりだい! 今日から学校だって言うのに! 起きなさい、起きなったら...ちょいと、お前さん、寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助ったら、まだ起きないんだよ!! お前さんからしかってやっておくれよ 八五郎何ぃ? 学校上がる初日っから寝坊たぁ、どういう料簡でぇ! とんでもねぇ野郎だ。おぅっ、寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚、水行末、雲来末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助! 起きやがれ! 近所の子 おじちゃん! もう学校、夏休みになっちゃったよ!! とまあこんな感じである。わたしは子供の頃この噺をよく聞いて、腹をかかえて大笑いしていたものである。 この噺の中に出てくる人たちは、このばかばかしくも長ったらしい名前を全部連呼しなければならないと思っているようである。しかし、別に寿限無とだけ言ってもいいわけである。しかしそれをせずに、寿限無、寿限無、五劫のすり切れ、、、とやっている。寿限無だけですませていれば、学校が夏休みにもならずにすんだわけだが、そういうことをせずこれからもこの噺の中に出てくる人たちは、相も変わらずばかばかしい名前の連呼を続けるのだろう。 発想が凝り固まってしまうと、柔軟な思考ができず行き詰まってしまう。寿限無の登場人物達も名前を全部連呼しなければいけない、という固定観念に凝り固まっているから、無駄な時間を過ごし続けることになる。何事も固定的にとらえるのではなく、柔軟な思考が必要である。それによって行き詰まった状況から脱却することができる。
2004.11.27
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分析心理学者カール・グルタフ・ユングが2度目のアメリカ旅行で、ニューメキシコのネイティブインディアンと対話した時の話し、彼はこの時はじめて非ヨーロッパ人と話しをした。「ユング自伝2」からの引用。オチウェイ・ビアノは「見てごらん、白人がいかに残酷に見えることか」といい、「彼らの唇は薄く、鼻は鋭く、その顔は深いしわでゆがんでいる。眼は硬直して見つめており、白人たちはいつもなにかを求めている。なにを求めているのだろう。白人たちはいつもなにかを欲望している。いつも落着かず、じっとしていない。われわれインディアンには、彼らが欲しがっているものが分らない。われわれは彼ら白人を理解しない。彼らは気が狂っているのだと思う」といった。 どうして白人たちがすべて狂気なのか、私は尋ねた。「彼らは頭で考えるといっている」と、彼は答えた。私は驚いて、「もちろんそうだ。君たちインディアンはなにで考えるのか」と反問した。「ここで考える」と彼は心臓を指した。 ネイティブインディアンからすると、白人のやっていることは、頭がおかしい、狂っていると見えるのだろう。必要以上に求め、その欲求はとどまることがない。大地を大切にするどころか、どんどん汚してしまい、自分たちの首を絞めているようなことをしている。わざわざ破滅に向かっているように見えるのだろう。 この話はもう50年ほど前の話しのはずである。今の白人がなしていることを見て、ネイティブインディアンはどのように感じるだろうか?完全に発狂してしまったように見えるだろうか?そしてそれは白人だけでなく、日本人も同様に狂っていると見なされるのではないだろうか? 現代人は頭で考えすぎているのかも知れない。ネイティブインディアンの猿まねをしても仕方ないが、彼らから学べることは、学び取っていく必要があるのではないだろうか? 心臓で考えるというと、チャクラの知識がある人はハートチャクラを連想されるかもしれない。ハートで感じることの大切さを語る人も多い。確かにそれは大切なことだと思うが、わたしは心臓で考えるとは、ハートチャクラの更に奥にあるものによると考える。 インドの叙事詩「マハーバーラタ」の中にある、「バカヴァット・ギーター」には各個体の心臓に宿る至上我(魂)という一説がある。またスワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著「魂の科学」には、心臓に真我が宿っていると記されている。つまり心臓に私たちの本質が宿っているというわけである。この考えからすると、頭脳で考えるのではなく、心臓で考えるとは真我、わたしたちの本質に基づいて考える、ということになると思う。 私たちは頭脳だけでものを考えるのではなく、本質に基づいた思考をもする時期がきているのかもしれない。フリーページ、映画についてを更新しました。
2004.11.26
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昨日に続いてマトリックスの話しだが、この作品では白人だけでなく、黒人やアジア系など様々な人種が登場し、重要な役割を演じている。これは人種通しでいがみあうのではなく、手を取り合って共存していこうというメッセージではないかと思う。20世紀は闘争の時代であり、今もその影響は深く残っている。しかし、それに対して強く異をとなえる人も多い。時代の流れが闘争から真の平和を求める方向に向かっているのではないか? ネオが機械の世界へ行き、そこで何が望みか問われるが、一言「平和だ」と答える。これはネオが今を生きる多くの人の望みを代弁したものではないだろうか?マトリックスはウォシャスキー兄弟が監督し作り上げたものだが、それだけではなく時代がこの作品を要求し作り上げてきたのではないかとも思う。 ストーリーの流れで強引すぎるところなどもある。1作目でエージェントがモーフィアスに会う前のネオを捕まえだが、あっさりと返してしまったり、サイファーがタンクを銃で撃ったが、負傷はしたが生きており、その後ピンピンしているとか、都合がよい展開になっている。 また2,3作目でネオとトリニティがいちゃすきすぎという印象をわたしは持った。あの描写はそれはそれで意味があるだろうが、もうちょっとひかえて欲しかった。これはあくまでも個人的見解ではあるが。 リローデッドとレボリューションズはアメリカではあまり受けなかったが、日本では大ヒットした。ストーリーが難解で、アメリカ人には受けなかったのだろうか。最近の日本人はミーハーな要素が強いから、それによってヒットしたというのもあるだろうが、日本人は潜在的にこの映画のテーマを読みとった故にヒットした、ということを信じたい。 欠点も多いが、マトリックス3部作は間違いなく歴史に残る作品だろう。そして世代を超えて多くの人に訴えかけていく作品になっていくはずである。 昨日の日記は力みすぎて、だらだらと長く読みにくいものになってしまったように思う。少々反省している。=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= 映画について少し書いていますが、わたしの購読しているメルマガで、映画を実に深く解読しているものがあります。アメリカ在住の精神科医の方が発行されています。映画の精神医学 色々な映画を精神医学、宗教、哲学、歴史など様々な観点から、実に鋭く解読されています。映画の見方がより深まり、面白さが増大すること間違いありません。フリーページ更新しました。「精神世界の落とし穴」です。
2004.11.25
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マトリックス3部作は、アクションと斬新な映像表現に目を奪われがちである。しかし、そこだけに注目したのでは片手落ちである。マトリックス3部作には、非常に興味深いテーマが内在されている。アクションと斬新な映像表現が注目に値し、とってつけたように哲学的な内容を付随させている、といった意見があるが、そういう見方をしてしまうと、非常にもったいない。 まず重要なテーマは、現実とは何か?である。マトリックスにつながれている人々は、現実を生きていると思いつつ、実はマトリックスが作り出した仮想現実の中にいる。夢を見ているわけである。モーフィアスは『何が現実か?五感が感じるものが現実?それを現実というなら、現実は脳による電気信号に過ぎない。』と言う。五感が常に当てになるものではないことは、わたしたちは体験していることである。条件によって、五感で感じるものは変わってしまう、そのようなあやふやなものを土台に、私たちはこれが現実である、と思いこんでいるのである。 ネオは生きながら、何か夢の中にいるような感覚があった、この世界はおかしい、何かが違う。それをはっきりとさせたかった。目覚めたかったのである。仏陀とは目覚めた人、覚者のことである。そしてネオは目覚めていき、目覚めた人覚者から更に救済者への道を進んでいく。 私たちかこの物語を単なる絵空事としてとらえていいのだろうか?私たちは常に五感を刺激され続けている。そして本質からどんどん遠ざけられている。仏教の縁起の法では輪廻の源は、五感への渇愛と説く。そこを脱却したところに本質がある。私たちもまた五感への渇愛を生じさせられるようにしくまれた社会にいる以上、目覚めてはいない、本質を理解していないから、マトリックスの中にいるようなものである。 真理とは物事をありのままに見つめることである。しかし、それは非常に難しい。なかなかできなかったり、場合によっては恐怖したり、拒絶してしまったりする。ネオがモーフィアスからマトリックスの説明を詳しく受け、真実を目の当たりにした時、はじめ激しい拒絶をし、錯乱状態になり嘔吐してしまう。今までこれが真実である、と思っていたものと、実際の真実があまりにもギャップがありすぎると、人は真実を受け入れることができない。 真実を追究する手段は存在する。しかしそれを実践できる人は少ない。それは真実を受け入れるだけの土台ができていないと難しい。釈迦牟尼も始めて覚醒した時、自分の得たものを表現したとして、誰が理解できるだろうか?と考え、衆生に法を説くことを躊躇されていた。それを見ていた梵天がどうか法をお説き下さいと懇願し、釈迦牟尼はそれを受け入れて法を説かれることになった。これは誰もが真実をすぐに受け入れられるわけではないことをも意味する。 ネオとモーフィアスが格闘トレーニングのプログラムの中で、訓練をする。そこでモーフィアスが「早く動こうと思うな、早いと知れ」と言う。これは私たちの中に、すでに早く動ける種子があることを意味する。その意味を悟ったネオはものすごく早い動きをするようになり、弾丸まで避けることができるようになる。 本来の私たちはこのちっぽけな肉体にとらわれたものではない。もっとより大きな存在である。人類共通の集合的意識と共にある。それに気づくと、膨大な情報を得ることができる。そして、小さな個ではなく、自分と周りは不離一体であると気づく。これこそが一即多多即一である。 一作目で覚醒を果たしたネオは、二作目以降救済者としての役割を果たしていく。リローデッドでネオはザイオンを救うか、愛するトリニティを救うかの選択を迫られる。この時点ではトリニティを救うことを選択する。この時点ではネオはまだ救済者として、完全ではない。しかし、レボリューションズではトリニティの死を乗り越え、自らを犠牲にして人類を救う道を選択する。まあわたしはネオがトリニティの死に対して、めそめそしすぎという印象を持ってしまったが、とにかくネオは人類を救済する道を進み、それを果たした。単なる個に対する愛から、より大きな愛の実践へと進んでいったのである。 そして人を救うとは、犠牲を伴うものである。イエス・キリストは衆生の罪を背負うため、十字架にかけられた。ネオは自分の身を犠牲にして、ザイオンの人たちを救った。ネオにイエス・キリストの姿をだぶらせることができる。すべてが終わりネオが横たわるが、そのとき十字架の形をしている。まさにイエス・キリスト、救済者の姿である。 そして、こういったアクション映画では、よくあるパターンとして、善が悪をやっつけってめでたしめでたし、というものである。しかし、マトリックスではその様な終わり方をしない。これに対して不満を持つ人がいるだろう。しかし、この作品は単純な勧善懲悪ではない。人間側が善で機械が悪という単純な分け方をしていない。ネオは機械側と交渉し、スミスの暴走を止めた時点で、アーキテクトは約束通り人間を解放した。これはアメリカが世界に対して行っているようなやり方ではなく、お互いの共存、平和での解決である。 レボリューションズのタイトルバックで、神秘的な音楽が流れる。一作目と二作目ではタイトルバックでロックが流れていたのと対照的である。 その中でオーム・シャンティ・シャンティ・シャンティ・オームという女性の声が2度流れる。このシャンティとは平和という意味である。このことからもマトリックス三部作が闘争をテーマとせず、平和をテーマとしているのは明かである。 またネオが善スミスが悪ととらえがちであるが、彼らは表裏一体である。それはオラクルが明言している。彼らは一作目でデータが同化した。それから肉体は分離していたが、本質は一つであった。そこで最後にネオがスミスにコピーされたと同時に、ネオがコピーされたスミスが破壊され、それと共にその他のスミスがみんな破壊された。これは元が一つであったからこそおこった現象ではないかと思う。ここからわたしは、善と悪、光と闇も最終的には一体化し、同化していくことを表しているように思えた。 それ以外にも3部作には様々な意味合いがある。それらを見た人一人一人が読みとっていければ、この映画の存在意義もますだろう。フリーページ更新しました。「虹の身体」です。
2004.11.24
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わたしは用事があって北朝鮮へ行った。空港でひともんちゃくあり、そこから収容所へ連れて行かれてしまった。そこで知り合いとともに収容されることになってしまった。手をガムテープのようなものでグルグル巻きにされた。何かの手違いでこうなったにちがいない、しかし困ったことになったなあ、と思った。 食事が出たが、まず少しカビの生えたパンが支給された。カビが生えているのはあまりいい気分はしなかったが、思ったよりもおいしかった。それからきちんとした食事が出され、お茶まで用意された。案外いいものを出してくれるな、と思った。 その後いつのまにか手がガムテープのようなものがはがれていたので、自由に歩き回った。収容所から出て外に出てみた。 林がありそこはいちょうの木ばかりあった。北朝鮮では色々ないちょうの種類があるようだった。 町にも出てみたが、人はあまりいなかった。しばらくうろうろしてから収容所に帰ろうとしたが、自分がどこにいるかわからない。こんな言葉の通じない異国の地で迷ったら大変だ、と思っていたが、何とかたどり着いた。 別の知り合いがたどり着いていて、どうやら私たちが収容されたのは手違いで、日本に戻れるようにしてくれているらしい、しかし交渉が上手くいっているかどうかわからない、いつになったら日本に戻れるのか、このままずっとここにいなければならないのか、と悩んでしまった。 そうこうしているうちに夢の中に行っていた意識が、肉体に出たり入ったりしている感覚があった。そして、ああこれは夢だ、とほっとした瞬間に意識が肉体に戻った。「ああ、自分は北朝鮮に収容されていないな」と心底ほっとした。 これには続きがある。またそれから寝てしまったが、夢の中で知り合いに北朝鮮で収容されていたことを説明したり、電話がかかってきて、「災難だったなあ」と励まされたりした。寝て起きてそのつど夢の続きを見ていた。 わたしが夢を見ている時は非常にリアルである。その中にどっぷりと浸かってしまう。その中はまさにリアルである。もし夢から覚めなかったら、それこそが現実である。突き詰めてみると、何が現実なのか?ということが曖昧になってくる。起きている時が現実だと普通は感じるが、夢がリアルな人は夢の中こそ現実である。起きている時こそが夢で、夢の中こそが現実かもしれない。 起きている時と夢の中と両方を超えたところに真実の世界があるとおもうが、それを認識できることはほとんど無い。それを瞑想によって認識していくが、覚者、目覚めた人は瞑想に入らずともその状態を体現しているそうである。まだその状態にはほど遠いが、達成したいものである。 わたしは夢の中にいる時はそれこそが現実であり、これは夢だと気づくことは少ない。夢の中でこれは夢と認識するのが明晰夢だが、わたしはあまりこの経験はない。知り合いには夢の中で夢と認識すると、夢の中でやりたい放題やったり、夢をどんどんコントロールしていく。なかなかうらやましい話しである。 チベット密教で夢を使った修行があるが、夢の中でこれは夢だ、とまず認識し、そこから夢を自在に換えていく実践をする。そうするとこれが現実である、という思考が破壊されてくる。そして次第に夢も現実も自在となっていく。 わたしは先ほども書いたようにあまり明晰夢の経験はないが、たまに夢の中で夢と認識することがある。そうするとわたしの場合大概目が覚めてしまう。しかしたまにそのまま夢の中にいることがある。その場合わたしはチャンスとばかり瞑想をする。夢の中で行う瞑想は、普段の数倍の効果がある。数日前も久々に行ったが、効果が非常に大きかった。しかしたまにしかできないのが残念である。フリーページ更新しました。「苦手なことを克服すること」です。
2004.11.23
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知り合いの子供達と一緒にとなりのトトロを見た。童心に返ったように、わくわくしながら見入ってしまった。 わたしは宮崎アニメをリアルタイムで見ることができたのだが、アニメはテレビで見るものであり、映画で見るものでは無いという今思えば妙な観念を持っていた。損をしてきたと思う。 10年ほど前風の谷のナウシカはスピリチュアルな内容である、といった話を聞き、見ることにした。見終わった後思ったのは、もっと早く見ておけば良かった、という後悔であった。それからは宮崎アニメを見始め、主要な作品はほとんど見ている。 彼の作品は大人が失いつつある、純粋な童子の心にうったえかけてくる点にあると思う。宮崎アニメでは飛行場面がよく出てくるが、そこで子供の頃のように胸を躍らせる人はわたしだけではないうだろう。彼の作品を嫌いな人も当然いるだろうが、そういう人は元々持っていた、純粋な子供の頃のような心に触れることを避けてしまう傾向があるのではないかと思う。純粋なだけではこの世を生きていくのは難しいが、そういう点を失ってしまっては、人間として大きな損失であるのではないか。 他の宮崎アニメでは多少暴力的なシーンや、登場人物が死んでしまったりすることがあるが、トトロではそういうことが全くない。せいざいおばあちゃんが孫のカンタの頭をどつくシーンがあるくらいである。映画に激しい刺激を求める人は物足りないだろう。しかし、ほのぼのとしたどこか懐かしい感じがするという人は多いはずだ。そのとき私たちは純粋な童子の心の状態に戻っている。 トトロは主人公の女の子であるサツキとその妹であるメイにしか見えない。色々なものを背負い込み、純粋さを欠いてしまった大人には見えないわけである。現代は純粋な心が価値を持たれなくなり、失われつつあるが、それでは大きな損失であることを訴えているようにも思える。またトトロが興行的にも非常に受けたのは、人間の自然な感情として、純粋さにひかれるということの現れであろう。トトロを単なる子供向けのアニメと切って捨てる人は、かなり屈折してしまっているようにも思える。 ハウルの動く城が公開されるが、これも楽しみである。また多くの人が劇場に訪れるであろう。また新たな伝説が生み出されるのであろうか? 追記 ここで童子の心と書いているが、子供のようであればいいという意味ではない。子供は純粋だが、わがままでもある。メイは母親がいったん退院してうちに帰ってくる日が延びたことを聞いて、ひどくだだをこねる。サツキがさとしても「お姉ちゃんのばかあ!」と更に泣きわめく。サツキも当然悲しいのだが、母親のことを考えてこらえるのだが、メイはお母さんに会えないことが嫌でたまらず、サツキの言うことを全く聞こうとしない。 ここでメイは母親のことを考えず、自分の感情を優先させている。これは母親に対する愛ではない。自分の感情にとらわれた状態である。仏教では渇愛と表現する。一般的に愛と言われるのは実際のところ愛ではなく、渇愛である。トトロと接している時のメイは純粋な童子の心の状態だが、泣きわめいているメイはただのだだをこねている子供である。 などとつい純粋なものの見方でなく、ひねくれたものの見方をしてしまうのでありました。
2004.11.22
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わたしはアレルギー体質である。子供の頃からアレルギー性鼻炎と、アトピーの症状があった。わたしはチョコレートが大好物だったが、チョコレートを食べると、必ずアトピーがひどくなった。この事実からすると、チョコレートは体に良くないのではないかと思う。 アトピーは小学生のころもだが、大学受験のストレスがたまっていた時が一番ひどかった。全身に出てしまったが、顔と頭がひどかった。特に顔は他人にさらされるので、かゆみだけではなくどのように見られるのか気になってそれも苦しかった。中には顔を見て、「エイズじゃないのか」などと言うのがいたが、わたしは他人に対してあまり本気で腹を立てることがないのだが、この時は本当に頭に来てしまい、なおかつ非常に悲しかった。どれだけの苦しみを経験しているのか理解できないし、しようともしないのだろう。 鼻炎も大変だった。鼻が常に詰まるか、鼻水が出てきてしまう。この状態だと頭がぼーっとして働かなくなる。鼻で息をするということが、きちんとできなかった。呼吸は口呼吸でなく、鼻呼吸をするべきで、ヨガの呼吸法は基本的に鼻呼吸なのだが、とてもできる状態ではなく、体調もすっきりしなかった。 ヨガの実践によりこれらが改善されてきた時は嬉しかった。鼻で呼吸ができるようになると、なんと気持ちの良いことか。鼻炎になっていない人にはあまりわからないだろうが、鼻で呼吸をすることがこれほど気持ちの良いものかと思えた。 今は鼻炎の症状はほとんど消えてしまった。アトピーについては時々まだ出る。今も若干顔と頭に出ている。しかし昔のようにひどくなることはほとんど無い。ヨガの実践で体質が改善されると、心身にとても良い影響がある。 それでも2年ほど前、いったんアトピーの症状がわっと出たことがある。この時も顔と頭に出てしまい、またアトピーの症状がよく出る肘の裏などにも出てきた。久々にひどく出てしまい、少々困った。この時飛行機に乗ったのだが、飛行機は空気が乾燥しており、更にひどく症状が出た。スチュワーデスがぎょっとした顔をしていた。幸いにもそれはしばらくして引っ込んだのでよかった。 しかし面白いことに、わたしの皮膚はアトピーの症状が出ていない時はきれいなのである。これは思いこみではない。わたしの知り合いの女性はわたしに会うたびに、「肌がきれいですねえ」と感心したように言う。女性ならそう言われるととても嬉しいだろうが、三十代半ばの男にとってはとりたて嬉しくもないが、悪い気はしない。 肌がきれいなのは、やはり今までの修行の成果であろう。肌をきれいにするには、とにかく気を強め、保っておくことである。現代は色々と気を消耗し、汚すものが多い。食べ物も空気も水も汚れている。これらをとっていたら、気が汚れて当たり前である。そうはいってもとらないわけにはいかないから、できるだけきれいなものをとるようにするべきである。 また気を消耗しないように気をつける必要があるが、過度の性行為をなさないとか、怒らないなどの実践で気を漏らさず蓄えていくことを心がけることが必要である。更に呼吸法や、気功、瞑想を行えればベストだろう。 今生まれてきている子供の多くは、アレルギー体質だそうである。うろおぼえだが、二人に一人はそうであると聞いた記憶がある。実に気の毒だと思う。本人もつらいし、親御さんの悲しみも大きいだろう。様々なものが汚染されている現代社会においては、アレルギー体質になってある意味当然という見方もできてしまう。 人間は欲望の赴くままに生き、その結果様々なものを汚染し、そのつけが回ってきている。アレルギーもとどのつまり、人間の欲望、煩悩が生み出してきた産物なのではないか。 わたしはアレルギー体質のおかけで大変ではあったが、それによって色々と学べることもあった。だからアレルギー体質に感謝したいくらいである。しかし、人間の欲望に赴くままの生き方は、何とかする必要があるのではないかと感じる。
2004.11.21
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ここ数日体調が良く、あまり寝なくても大丈夫でこれはいいなと思っていたら、揺り戻しが来たようでかなり寝てしまった。また腰のあたりがどうも重く、詰まったような感覚がある。それまでは体がとても軽く、こころも軽快で軽やかだったのだが、体がそうなってしまうと心もどんよりとしてしまう。 悩んでいる人の相談にのっていたら、その人はすっきりと楽になってよかったのだが、自分は少々きつくなった。こうなると普通は嫌だなと感じるものだが、あまりそういうことは考えないようにしている。その人が楽になってくれれば嬉しいと、自分のことは後で何とかすればよい。このように考えた方が、結局自分自身の苦しみも少なくなる。自分のことだけを考えていることが、とどのつまり自分自身にも苦しみをもたらすことになる。 それにしても、体調がよいからと調子に乗っていると、だいたいリバウンドが来る。ここで中道という考えが出てくる。無理をしすぎず、怠けすぎずということである。中道というと、どうも無理をしすぎない、という面が強調されすぎていて、何事もほどほどがいいのだ、ととらえている人も多いように感じるが、実際は怠けすぎずという点も大事であると思う。 人間は本質的に怠惰な要素がある。何の刺激もなく放っておけば、ぐうたらしてしまう人が多いであろう。わたしは元々とても怠け者であるから、少し無理をするぐらいの気持ちでちょうど良いかな、と思っている。しかし無理をしすぎると、ダウンしてしまったり、体をこわしてしまったりするから注意が必要である。 このさじ加減が大事だと思う。つまり今はすこし無理をするくらい全力でやる時期だ、今はすこしゆっくりとする時期だといった正確な判断ができるようになることが必要ではないかと思う。それができる人が本当の知恵者と言えよう。 わたしはまだそのあたりができなくて無理をしすぎたり、のんべんだらりと過ごして愚鈍な状態になってしまうことを繰り返している。まだまだ知恵がないなあ、と反省することしきりである。 すこし怠惰なモードになってしまったから、またすこし自分自身にむち打って、しゃっきりとすることにしよう。 フリーページ更新しました。「武術の本質」です。
2004.11.20
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最近は男性もなのかもしれないが、特に女性は形状がいいかどうかは大きな問題とされてしまうことが多いように思う。美人はもてるというが、良い印象を持たれることも多いようである。 うろおぼえだが、心理学の実験で女性二人の写真を見せて、どちらが犯罪を行ったように見えるか聞く。形状が悪い女性の方が、良い女性よりも犯罪を行ったのではないかと思われる率が高かったそうである。詳細は違っているかもしれないが、そんな感じの実験であったらしい。 女性の形状は周りの男性にとっても、そして女性自身にとっても大きな関心事であろう。瞑想を行っている女性の知り合いがいて、この人はなかなか美人なのだが、10代や20代の頃は自分の形状にものすごくとらわれていたと言っていた。この人はあまり俗っぽいことに関心がない人なのだが、そういう人でもやはり関心があるのだなあ、と思った次第である。 多くの人の関心を集めるだけあって、形状や器量に関する小咄、ジョークは多い。 レストランに犬を連れてやってきたご婦人がいた。するとそこのレストランのマスターが、「駄目ですよあなた。豚なんか連れて来ちゃ」ムッとしたご婦人「失礼ね!これ犬よ!」「わたし、犬に言ってるんですよ」「聞きました?お隣の奥さん、交通事故で顔がめちゃくちゃになっちゃったそうですよ」「まあ、お気の毒にねえ」「でも最近の整形外科はすごいわね。ちゃんと元通りの顔に戻ったそうですよ」「まあお気の毒」料亭で二人の紳士が話しをしていまして「近頃美人てものを見なくなったけどね、お前さんはどういうのが美人だと思う?」「まあ美人といっても色々あるけどね。僕は鼻の下がちょいと長いの、そういうのが美人だと思うね」「ああ、お前さんもそう思うかい。僕もそう思うよ。鼻の下のちょいと長いのは美人だよ」この会話を襖越しに聞いていた女中さん、襖をスーと開けて、鼻の下を伸ばして一言。「おひゃをどーひょー」(わかりにくいかな?) これらの話ができるのも、やはり美人が得であると考えられているからであろう。 では美人はもてるのか?これは一般的にはそうであろう。しかし、絶対条件かどうかはわたしには何とも言えない。知り合いでも正直なところとても器量よしとは言えない女性でも、とてももてる例などを知っているからである。 例えば女性の芸能人は美人であることや、可愛らしいことなどは重要な要素である。しかし私から見て、器量よしと見えてもあまり人気が出なかったり、逆にあまり形状がいいとは思えないな、という人が結構人気が出たりする例もあるように思う。 以前、花の中三トリオと呼ばれたアイドル達がいた。それは山口百恵、桜田淳子、森昌子の三人である。この三人の中で純粋に器量をだけを見ると、一番優れているのはわたしは桜田淳子だと思う。しかし一番人気があったのは、山口百恵である。山口百恵の全盛期わたしは小学生だったが、「正直言って美人と思えないのに、なんで人気があるんだろう」と思っていた。それはわたしだけでなく、他にもその様に思っていた人もいたようである。 しかし今から思うと歌はうまかったし、三人の中で一番神秘的な雰囲気があったように思う。最近はあの人はオーラを発しているという言い方が普通に言われるようになったが、まさに彼女はオーラを発していたのだろう。 また彼女はとても礼儀正しかったそうである。こういう要素から見ると、山口百恵はエネルギーが強く、徳も高かったのではないかと思う。人気が出たりもてるようになるためには、最終的にはエネルギーの強さや、徳が決定するのではないかと思う。 チャクラの観点からすると、主な七つのチャクラのうち、下から二番目のチャクラが活性化すると、異性を引き寄せるようになる。先ほど書いた器量が良いとは言えないがもてた知り合いの女性は、このチャクラから強烈なエネルギーを発していた。他にもそういう例は色々と見てきた。 更に下から四番目のハートチャクラが活性化すると、同性異性を問わず慕われるようになる。だからもてたいとか人気があるようになりたいと思うなら、エネルギーを強め、これらのチャクラを活性化させるのが一番確実ではないかと思う。 まあもっと崇高なものを目指す人は、もっと上のチャクラをも活性化させる必要があるだろう。また培った徳をもてるということに使わないようにすることが必要となろう。 今回は少し柔らかめの話しをしました。 フリーページ更新しました。「人知を越えたもの」です。
2004.11.19
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わたしの好きな映画にマトリックスシリーズがある。ここで主人公のネオはThe Oneとも呼ばれている。これは意味としては、救世主や選ばれしものという意味となる。ちなみにネオのつづりはNeoであるが、これはOneのアナグラムである。 映画ではOneは救世主と訳されているが、まずは選ばれしもの、という意味合いが強い。ネオはいきなり救世主として登場したわけではない。まずは将来救世主になるであろう魂として登場した。だから「キリスト」や「メシア」とは違う。 わたしも未来において、そのような魂になることができると良いなあ、という思いを込めてこの名前を選んだ。決して今現在わたしが救世主であり、選ばれしものと宣言しているわけではありません。巷ではそういうことを言って人を惑わしてしまっている人もいますね。 マトリックスシリーズは、巷ではアクションやこった映像に注意が向けられがちであるが、なかなか深い内容が含まれているように思う。現実とは何か?自己を犠牲にして他の魂を救う、闘いではなく共存などといったテーマが盛り込まれている。近日中にマトリックスシリーズについて書いてみたいと思う。 またこの世は相対の世界であり、二元の世界である。善と悪、美と醜、表と裏、などといった二元の状態に人は入り込んでいる。今のアメリカなどはまさにその思考に入り込んでいる。テロは絶対に悪であり、断固として戦いたたきつぶす、といった思考に入り込んでいるように思われる。そして自分たちは正しい、相手は間違っているとしている。 しかし本来の世界は一元の状態にある。善や悪、美と醜といった状態を超えたところに真実がある。これは例えば深い瞑想を体験した人は、みな同じようなことを主張している。そこに真の平安や愛が存在する。二元の状態では、何かを犠牲にした上での平安、愛も偏った愛になってしまう。しかし、一元の状態では何も犠牲にすることがなく、偏らずすべての魂に同じように愛を注ぐことになる。 このことをわたしはより深く理解していきたいし、多くの人に知ってもらいたいという願いをこめてOneと名乗っている。 ついでにタイトルの意味合いであるが、これは『華厳経』にの重要な考え方である。それは微塵(チリ)のように小さな一つ一つの存在の中に大きな世界のすべてが映し出され、それら一つ一つが全体として一つの大きな世界をなす、しかもそのかぎりなき全体がひとつの珠玉のように光り輝いているという考え方である。 「一即多」を分かりやすく説明するのは、印(いん)印陀(だ)羅(ら)網(もう)陀羅網(いんだらもう)の譬えだろう。印陀羅網とは帝釈天宮(てんぐう)天宮にある輝く宝の網のこと。その結び目にあって光彩を放つ珠玉が互いに映じ合い、映じ合った珠がさらにまた映じ合って、それが無限に続いて光明を放っている。 その印陀羅網の網のA点を持ち上げると他のあらゆる点が無限にからみあって動く。B点を持ち上げると他のすべての点が互いに関係しあって無限に動いていく。C点を持ち上げればCを中心にあらゆるものがここに関係してく。このように「一」が「一切」につらなり、互いに無限に関係しあうのが「重々無尽」の関係である。 インターネットは印陀羅網に似ていると思う。私のページを訪れた人が、さらにそこから別のページへと飛んでいく。そこから更に別のところへも行ける。また一人だけでなく多くの人が訪れ更に別のところへも行ける。ネットの中にいる人はみなつながっているとも言える。インターネットは魂を引き下げる要素も強いが、覚醒へ至らせるための有効な手段にもなり得るのではないかと思う。 このように一切が関連しあい、つながっているというのはまさに縁起の法則である。私たち一人一人が周りの人と、そして世界とつながりを持ち、関連性があるのである。自分の中にすべてがあり、すべての中に自分がいる。何とも壮大な考えである。そして多くの聖者と呼ばれる人々はこのことを実際に体得してきた。 この状態が更に進んでいくと、一切が精妙な光へと溶け合いすべてが一体となる。密教ではこの境地を瞑想などで体得しようとしてきた。私たちの本質は精妙な光り輝く光明のこころである。しかし輪廻を繰り返すうちに多くの業を蓄積し、その精妙さを忘れてしまっている状態になっている。本質的に私たちは悟ったものだが、妨げられてしまった。この境地に戻ろうとするのが本来の仏教の姿ではないかと思う。 等とえらそうなことを言っていますが、深い熟考の元でなく、案外軽く思いつきでつけたところもある。皆さんはどうなのだろうか?フリーページ更新しました。「生きる理由」です。
2004.11.18
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久々にブログを始めてみると、ちょうど止めようとされたり、しばし休憩されている方が何人かいらっしゃった。ブログを続けていくのもなかなか大変である。ネタを考え出すのも大変になってきたりする。日記ならば自分の書きたい時に、書きたいように書けばいいのだが、読者を想定すると、ついついネタを考え出すという発想になってしまう。これがつもりつもってストレスとなったりする。まあそうでない方もいるであろうが、振り返ってみるとわたしはストレスがたまっていたようでもある。 また大勢の方の目にさらされるわけだが、これによって人の想念の影響を受けたりもする。私のところに来て頂いている方々は精神世界に関心のある方が多いが、そういう人は人の想念に敏感な方が多い。これは直接話すだけなく、電話やネットでも影響がある。某巨大掲示板を気持ちが悪くて読むことができないという人も時々いる。あそこはネガティブな想念のるつぼである。わたしも時々のぞくと、何とも言えない気分になってしまうことがある。 また人から依頼を受けて呪詛をかける人たちがいるが、最近ではネットを通じて呪詛をかける人たちもいるようである。そういう人たちも最近ではサイバー化してきたということであろうか?なかなかすごい話しである。 ある人気作家がよる仕事中に、窓の外から読者達の非常に強い念の働きを感じたことがあったそうである。熱狂的なファンの想念はすごいものがあるだろう。人気のある芸能人が、おかしな言動をとったりしてしまうことがあるが、これはファンの想念の影響による場合もあるのではないだろうか? ブログは大勢の方が目にされる。敏感な人はなかなか大変であろうと思う。わたしもいったん中断してからは、なんとなくすっきりとした気分になったことを覚えている。私も敏感な方なのだが、今回はそういったものの影響にあまりこだわらないようにしようと思っている。
2004.11.17
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私はこの映画を何度も見た。おそらく10回以上は見ていると思う。初めて全部通して見たのは高校生の時であった。中学生の時一部だけ見たのだが、それからなんとしても全体を通してみたいと思い続けていた。念願かなって全体を見通した時は、言葉には表現できないが、大きな感銘を受けたことを覚えている。 そもそもこの映画は言葉で表現する類のものではない。言語や論理的な左脳よりも、感覚や直感の右脳中心で見るものである。キューブリックも神や何らかの大いなる存在を感じることができれば、この映画は成功したのだ、というようなことを言っている。この作品はよく難解だと言われるが、それは見ながらごちゃごちゃと考えすぎてしまうからであろう。 ストーリーはシンプルであり、テーマは明白である。地球外生命体の存在を確認し、探索にいくという簡単に言ってしまえば、そういった物語である。そしてその存在と遭遇し、次なる段階へ進化していく、もちろん人によって解釈は違うが、私はこのように理解した。 地球外生命体に遭遇するというと、エイリアンにでも遭遇するのか、というようなイメージを抱いてしまうが、そういったものは一切出てこない。神の視点から人類を見つめているだけである。そしてこの作品の特徴として、人類が神や超越的な存在とただ遭遇するだけでなく、次の段階へ進化していく過程を表現しているところにあると思う。 キリスト教では神に祈り、神の恩寵を受けるというものであるとも言えるが、仏教やヒンドゥー教や仙道などの東洋の宗教や哲学は、人間が神となり、神をも超えていくことができるとし、その実践方法もある。この作品ではボーマン船長が映画の最後で老い、病、死のプロセスをたどり、そこから新たなスターチャイルドとして生まれ変わるところで終わる。これはキリスト教よりも、東洋の宗教や思想と一致するように思えた。 ラストで主人公が新たに生まれ変わるわけだが、その前のディスカバリー号が木星へ至る途中で、そのことを示唆する描写があると思った。これは監督が意図したものであるかはわからない。それは何かというと、光の中を進んでいき、その後白いものとと赤いものが空間に広がっていた。これはわたしは精子と経血の象徴ではないかと思った。密教では、人が死ぬゆく時に白と赤のエネルギーが混ざり合い、次の転生へと至るとされる。白いエネルギーは精子の象徴でもあり、赤いエネルギーは経血の象徴である。ひょっとしたらキューブリックは、意図せずして密教で説かれる内容をこの映画の中で表現したのではないかと感じた。これはあくまでも私の憶測であるが、大いなる存在がキューブリックを借りて、秘儀でもある内容を表現したのかもしれない。 この映画は万人向けとはとても言えない。初めて日本で公開された時、家族向けの映画と宣伝されて、見に来た人たちが非常にとまどったという話である。家族やカップルで見るには不向きである。しかし、やはりこの作品はSF映画を超えて、映画史上に残る金字塔であると思う。映画好きの人なら、何がなんだかわからなくても良いから、一度は見ておくべきものであろう。
2004.11.16
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ブログが流行っているが、本来日記は人に読まれるものではない。しかし、ブログは人に読まれることが前提とされている。だからここでは日記となっているが、厳密に言えば日記と言えるのであろうか? 以前ブログをやっていたことがあったが、そのときは毎日書かなければとか、どのようなものが受けるかとか、そういうことに意識が向きすぎて、書くことが苦痛になってしまう日もあった。これでは本末転倒である。今回はもう少し気楽にやっていこうと思っているが、しかしがちがちに固い内容のものも書いてしまうのだろうなあ、と今から予想している。 ところで私は魚座である。魚座の特徴として二面性があげられる。わたしはディープで深い話しをするのが大好きだが、その反面非常にくだらない話しをするのも好きであったりする。友人と仏教思想や、真理とはなんぞや?といった話しをしているかと思えば、あの芸人は面白いとか、昨日のプライドやk-1はどうだったといった話もしてしまう。以前はこういった要素に振り回されていたが、最近は少しずつうまくつきあえるようになってきたように思う。ここでも様々なことを語っていければと思っている。 ニックネームはone3792となっているが、数字は無視して頂きたい。そしてあくまでもおねとは読まないで下さい。これはワンであります。
2004.11.15
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