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2004年も終わろうとしている。この年は世界規模で色々なことがあった。大きな価値の転換期であったと思う。今まで価値があるとされてきたことや、観念、考え方、常識が変換をし始めてきているように思う。そのことに気づいている人たちと、いまだに過去にしがみついている人たちと両極に分かれはじめているように思う。 普通は自分の考えや観念は簡単には変わらない。しかし、心も苦情だから必ず変化する。そしてそれは瞬時に起こりうるのである。それが起こるのは、見返りを求めない、本当の慈愛が生じた時に、瞬時に心は変化しうるのではないかと思う。「7つの習慣―成功には原則があった!」スティーブン・R・コヴィー、キングベアー出版、p26ある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄で体験した小さなパラダイム転換を、私は忘れることができない。乗客は皆、静かに座っていた。ある人は新聞を読み、ある人は思索にふけり、またある人は目を閉じて休んでいた。すべては落ち着いて平和な雰囲気であった。そこに、ひとりの男性が子供たちを連れて車両に乗り込んできた。すぐに子供たちがうるさく騒ぎ出し、それまでの静かな雰囲気は一瞬にして壊されてしまった。しかし、その男性は私の隣に座って、目を閉じたまま、周りの状況に全く気がつかない様子だった。子供たちはといえば、大声をだしたり、物を投げたり、人の新聞まで奪い取ったりするありさまで、なんとも騒々しく気に障るものだった。ところが、隣に座っている男性はそれに対して何もしようとはしなかった。私は、いらだちを覚えずにはいられなかった。子供たちにそういう行動をさせておきながら注意もせず、何の責任もとろうとはしない彼の態度が信じられなかった。周りの人たちもいらいらしているように見えた。私は耐えられなくなり、彼に向かって非常に控えめに、「あなたのお子さんたちが皆さんの迷惑になっているようですよ。もう少しおとなしくさせることはできないのでしょうか」と言ってみた。彼は目を開けると、まるで初めてその様子に気がついたかのような表情になり、柔らかい、もの静かな声でこう返事した。「ああ、ああ、本当にそうですね。どうにかしないと・・・・・・。たった今、病院から出てきたところなんです。1時間ほど前に妻が・・・・・・、あの子たちの母親が亡くなったものですから、いったいどうすればいいのか・・・・・・。子供たちも混乱しているみたいで・・・・・・」その瞬間の私の気持ちが、想像できるだろうか。私のパラダイムは一瞬にして転換してしまった。突然、その状況を全く違う目でみることができた。違って見えたから違って考え、違って感じ、そして、違って行動した。今までのいらいらした気持ちは一瞬にして消え去った。自分のとっていた行動や態度を無理に抑える必要はなくなった。私の心にその男性の痛みがいっぱいに広がり、同情や哀れみの感情が自然にあふれ出たのである。「奥さんがなくなったのですか。それは本当にお気の毒に。何か私にできることはないでしょうか」一瞬にして、すべてが変わった。 楽天日記を始め、自分の中に大きなパラダイム転換があった。それも訪れていただいた皆さんのおかげです。本当に感謝いたします。来年もまたどうぞよろしくお願いいたします。
2004.12.31
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わたしが購読しているメルマガ、ロシア政治経済ジャーナルはロシアに限らず、世界の情勢についても詳細な検討がなされていて興味深い。それの12月28日付の号では、日本人にとって驚くべき内容が書かれている。メルマガの発行者北野氏によると、これから世界で起こる戦争というのは、アメリカが起こす。アメリカの目標は「永遠に世界の覇権国家でいること」覇権国家の条件は、軍事力と経済力が世界一であること。アメリカは軍事力では圧倒的に世界一ですが、経済力では、ボロボロ。同国が覇権国家でいつづけるためには、1、ドルが基軸通貨でなければならない(ドルで借金して、ドルで返済できるシステムを維持しなければ破産する)2、世界経済の血液である石油を支配しなければならない。以上2つの理由で、中東戦争が起こっていく。中東戦争というのは、ドル防衛と石油支配という、2つの目的がある。そして、その後に、軍事力と経済力を強化し、次の覇権国家を狙う中国を叩く計画。中東戦争3つ目の理由は、3、中東から中国への原油の流れを、いつでも止める力をアメリカが得ること。こんな風に、中東戦争というのは、何重にもアメリカの利益になるように計算し尽くされている。そして米中戦争はアメリカが誘導して引き起こされる。中国はまだ経済力でも、軍事力でもアメリカに全くかなわないので、戦争を起こすことはない。それでも、中国経済は年9%の成長を続けているし、軍事費は1989年以降03年を除いて二桁増が続いている。アメリカの立場からすると、「弱いうちに叩いておかなければ、そのうち抜かれる」という恐怖がある。では具体的にどのように戦争になっていくのか?1、米中戦争の目的米中戦争の最終目的は、「中国を民主化する」こと。これが大義名分。ところが、真の目的は別のところにある。「中国を日本化(つまり天領化)すること」具体的には、・中国政府のトップは、(日本の首相のように)米大統領に従順でなければならない・中国は永遠に、米国債を買いつづけなければならない・中国は永遠に、米国に資金を流しつづけなければならない・中国は永遠に、製品をドルで供給しつづけなければならない日本(お金)・中東(石油)・中国(製品)この三つを抑えることで、アメリカは世界の覇権国家として君臨しつづけることになる。2、米中戦争の時期まずアメリカは中東を押さえる必要があるから、すぐに戦争にはならない。しかし時間がたってしまうと中国が強大化してしまうので、ぐずぐずしてもいられない。狙い目は2008年の北京オリンピック・10年の上海万博の後。3、どのように起こる?オリンピックと上海万博が終わると、建設バブルがはじけることになるだろう。しかし、中国は2020年まで成長期。本来であれば、回復は早い。ところが、アメリカは回復を許さない手を打ってくるに違いない。具体的には、米政府は米企業に、「もうすぐ戦争するから、早く逃げなさい」と言って、資本を一斉に引上げる。日本やEUの企業も同時に逃げれば、外資で持っている中国経済の危機は深刻化する。経済危機が全土に広がり、民衆の不満が拡大する中、アメリカは、反共産党・民主主義勢力を支援し、暴動を起こさせる。中国がこんな状態になったところを見計らい、米大統領は台湾の総統に独立するように持ちかける。いざとなればアメリカが守るようにする。そして、台湾独立宣言。経済危機・多発する暴動・三つの独立宣言。中国政府はパニック状態に陥る。それでも中国は、台湾への侵攻を開始するに違いない。ここで、アメリカは、中東から中国への原油の流れをカット。そして、米中戦争が始まり、圧倒的軍事力を持つ米軍が勝利。中国には親米民主主義政権が誕生。中国は、日本と同様「米国の天領」になる。というのがアメリカのシナリオ。ここからが重要な話しになる。この戦争の主戦場は、台湾と日本。アメリカは自分たちが被害に遭わないように、日本に米軍の拠点を集結させている。「米軍再編」とよく聞くが、再編の意味は、「アメリカにミサイルがぶち込まれても困るから、代わりに日本に犠牲になってもらおう」ということ。だから、米中戦争で犠牲になるのは、中国・台湾・そして我が国日本。以上が北野氏の主張である。戦争など起こるわけがない、と考えたくなるが、イラクでも戦争が勃発した。どのような事態が生じでもおかしくないのである。北野氏は冷徹な事実を元にした予測を書いていき、批判されたこともあったようだが、ことごとく的中してきたので、今は批判もされないそうである。ここにあげたような事態に100%なるとは誰も断言できないだろう。しかし、ここ数年世の中の動きは非常に早く、以前なら考えられないような事態が続出している。まさかそんなことが。等と考えず、世の中の動きを冷静に見つめ、どのような事態が生じても大丈夫なように対処していくことが必要であろう。
2004.12.30
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ここ数日多くの人と接し、その影響だと思うが、氣を消耗し、経絡が詰まってしまった感じがある。そうなると体がだるく、頭が働かなくなる。今も日記を書こうとしても、頭がぼーーっとしてしばらく書き始めることができなかった。本来はもっと複雑な内容のものを書こうと思っていたのだが、とてもそういったものを書ける状態ではなく、あえなく断念した。 よく血の巡りが悪くなると頭が働かなくなったり、不健康になったりすると言うが、血と氣は密接な関係がある。血の巡りが悪くなると、氣も全身を巡らなくなる。それによって頭が働かなくなったり、体調も悪くなってしまう。 気功やヨガをやると、血行が良くなり、氣も全身を巡るようになる。しかし、あまりにも疲弊してしまうと、とても気功やヨガをやる余裕がない。その場合は風呂に入ったり、充分休息をとったり、サプリメントの力を借りることになる。 ゆったりと風呂に入っていると、血行が良くなり、経絡が浄化されてすっきりとする。ただしあまり長く入っていると、かえって氣を消耗することにもなるので、注意が必要である。また寝過ぎると血や氣の巡りが悪くなってしまうので、充分な睡眠は必要だが、長すぎるのも良くない。 本来は私たちの中に自然治癒力があるから、外部からサプリメントをとるよりも、内側の力で回復させた方がいいのだが、そうも言っていられないこともある。しかし、サプリメントに頼りすぎても駄目だと思う。理想としてはできるだけ自分の治癒力を活用した方がいい。 ちなみにわたしはどういったサプリメントを使うかといえば、最近はやりのコエンザイムである。これはわたしの経験として効果は間違いなくある。日本人は今まで見向きもしなかったくせに、マスコミなどで紹介されると、急に飛びついたりする。周りが使っているから自分もという精神で、これはいかがなものかと思うが、コエンザイムが実際に効果があるのは、個人差もあるだろうが、間違いないと思う。 自分としてはできるだけ気功やヨガなどによって、氣の巡りをよくして回復させていきたいと思う。 日記を書いているうちに、少し頭が働くようになってきた。
2004.12.29
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インドネシア沖、スマトラ島沖の大地震および大津波による死者は、12月28日8時12分付けのロイター通信で、2万3266人に達している。詳細は以下の通りのようである。 国 死亡者数 負傷者数 バングラデシュ 2 インド 7,110 インドネシア 4,912 マレーシア 52 218 モルジブ 52 ミャンマー 34 ソマリア 38 スリランカ 10,200 タイ 866 7,000 --------------------------------------------- 合計 23,266 この数値はまだまだ増えるだろう。また国連の発表では、地震と津波の被害において、「おそらく史上最大になる」と発表した。 2004年が終わる寸前に大変な事態が発生したものである。普通災害は1カ国に影響があるが、これだけ多くの国で被害が発生したのはあまり例がないだろう。犠牲になられた方々の冥福を祈るばかりである。 人類は地球において我が物顔のように振る舞ってきたが、その付けが回り始めているように思える。地球は人類だけの物ではない。生きとし生けるもの全てのために存在している。これ以上人間のエゴを増大させ、我が物顔のように振る舞っていたら、もっととんでもない事態が生じてくるのではないか。 地球はあらゆる形で警告を発しているが、気づき始めている人たちもいるが、まだまだ数は少ない。わたしたちはもっと地球から発されている警告に耳を傾ける必要があるだろう。
2004.12.28
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昨日の続き。 Nが部屋に入ってきた。わたしはどのように対応しようかと思ったが、向こうから気軽に話しかけてきた。そこで印象が少し良くなった。そのうちMが飲み物を持って上がってきた。それは種類は忘れたが、アルコールだった。わたしはアルコールが入ると、やたらと陽気になる。数分後にはNともわっはっはと笑いながら、親しい友人のように話しをしていた。 結局わたしはMの策略に引っかかり、Nとも親しい友人となった。修羅場が展開されることはなかったのである。 その後も色々あったが、結局NとMは数年後結婚して夫婦となった。そうなるのではないかという予感はあったが、予想通りであった。今はつきあいがないので、どうなっているかはわからない。幸せに暮らしていてほしいと思う。 大学では英文科に入った。英文科は女性の比率が高い。クラスでも半分ほどは女性だった。しかし大学でもできる友人は同性ばかりだった。学生生活を通じて、異性とつきあったこともなく、恋文をもらったこともない。全くそういった経験がないのも、珍しいのかもしれない。 大学を途中で放り出し、精神の世界へどっぷりと浸かるようになると、異性とつきあいたいという願望はどんどんなくなっていった。だからいまだに独身である。これからもそのつもりでいる。 しかし皮肉なことに、精神の世界へどっぷりと浸かってから、かえって異性との縁が生じるようになった。それまでは異性と話すとかまえてしまったり、どうせ自分はもてないという意識が生じていたが、そういうものが全くなくなってしまうと、自然に異性と話ができるようになった。それまで全くもてなかったのが、逆にもてるようになってしまった。言い寄られたこともある。つきあいを求めていた時は得られず、求めなくなったら寄ってこられる。人生とはうまくいかないものである。 同性、異性を問わず多くの人と接して感じたことは、人は安らぎを求める傾向があるということである。特に今のような世の中では、心の安まることもない。癒しがブームとなっているが、安らぎたい人が多いのだろう。 ハートチャクラが開発されてくると、周りの人を安らがせるようになる。瞑想などを行ってハートチャクラが開発されることによって、わたしも人を引き寄せるようになってきたようである。それが全ての要素ではないが、もてるひとはひとを安らがせる力があるのではないかと思う。追記 また人と接していて思うことだが、人は心の充足を求めているが、満たされていない人が多い。寂しいとか心を埋め合わせたい、と思っている人が多く、達成されていない。クリスマスイブに一人で過ごすのはいやだ、等という声を聞くことがあるが、心の充足感がないから、一人だと寂しいと思うのだろう。 もてるひとは、心を満たしてくれる力があるようにも思う。お金や物で埋め合わせようとしても、それには限界がある。人はやはり精神的な充足を求める物である。心を埋め合わせてくれる対象を人は無意識のうちに求めるのだろう。 逆に言うと、充足している人は一人でも寂しさを感じることはない。わたしは仲良い人たちと大勢でわいわいやるのも好きだが、一人でいることも好む。一人でいてもあまり孤独感を感じない。しかしそれだけではなく、他の人の心の寂しさを埋め合わせるお手伝いもできればと最近は思っている。
2004.12.27
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昨日の日記にも少し書いたが、わたしは10代の頃異性に全然もてなかった。別に無関心だったわけではなく、当然関心があったが、異性と話しをする時にはかまえてしまい、妙な緊張があったように思う。そういう心の状態が、異性を遠ざけていたのかもしれない。また自分はどうせもてない、という観念もあった。その様に思いこんでいたら、もてるはずもない。 まずは小学六年生の時の話しである。小学生も高学年になると、異性に関心を持つのも出てくる。わたしはあまりそれはなかったと思う。小学生の頃は、同性との方が仲が良いものである。だから同性とばかり遊び、異性と接することはあまりなかった。 クラスのませた女子の間で、どの男子がいい、などと話しをしていたり、紙に自分が好きである男子の1位から10位までのランクを書いて回していたりした。ある日1位から10位でなく、クラス全体の男子のランキングがあり、それを何人かの男子で見た。そのときのクラスは確か男子が24人くらいだったと思う。そこでわたしは19位だった。 24人中19位はかなりの低ランクである。それを見てわたしはショックを感じた。異性への関心が薄いとはいえ、そんなに低ランクにしか見られていないのかと思うとショックであった。小学生ながらにプライドが傷ついたのだろう。 また修学旅行の時、女子の部屋に何人かの男子が行くことになったが、女子の方から来てもいい男子の名前が伝わってきた。その中にわたしの名前はなかった。がっくりきたわたしは、同じように行くことを許されなかった男子とぶつぶつ言い合っていた記憶がある。 中学になると、異性への関心はとても強くなってくる。それとともに、性的な関心が非常に強くなってくる。その様な体験をしたいという欲求が日ごとに増していったが、満たされるようなことは全然なかった。 今は中学生や小学生の高学年でも性的にかなり乱れてきているようであるが、わたしの当時はまだそういうことはなかった。ただやはりつきあっているカップルもいたが、わたしは全く縁がなかった。思い起こしてみても、中学の時も同性とばかり遊んでいたことばかり思い浮かぶ。 バレンタインでもチョコレートをもらったりしているのもいたが、一切もらうことはなかった。わたしはチョコレートが大好物だったのでもらえないことは非常に残念であったが、もらうのは母親からだけであった。 高校に進学する際、わたしは男子校に行きたかったのだが、親から共学に行くように勧められた。男子校に行ってしまうと、ますます偏屈になってしまうと考えたようである。それはそうであったかもしれない。 というわけで共学の高校に行ったが、ここでも異性とつきあうことはなかった。かなり仲良くなった異性の友人はいた。今までにないくらい異性と話をする機会ができた。好きだとかつきあいたいという意識が強かったわけではないが、本格的な異性の友人ができたことは非常に嬉しかった。 その友人をMとしておこう。Mは生徒会に立候補するような人で、色々と本も読んでいた。読書が好きだったわたしは、本についての話ができることがとても嬉しかった。Mとは順調にいけばつきあうようになっていたかもしれない。 しかし運命はわたしに異性とつきあうことを許さなかった。生徒会に立候補した時、Mは演説をしたのだが、なかなか立派な物であった。それを見た一人の男性がすっかりその友人を気にいってしまい、アプローチする機会をうかがっていたようである。 わたしの通っていた高校は野球とサッカーが強く、甲子園や国立競技場の常連であり、全国優勝も何回か果たしている。高校一年の夏、母校は甲子園で準優勝したが、そこで当然応援にかなりの生徒が繰り出す。わたしは一回戦だけ甲子園に行ったが、後はめんどくさくて、家でテレビを見て応援していた。 Mは全部の試合を見に行っていた。そしてMに目をつけていた男子は甲子園から東京へ帰るバスの中、Mにアプローチを始めた。Mもその男子とすっかり意気投合してしまい、そのときから二人のつきあいが始まった。 わたしには同じ中学出身の友人が何人かいたが、彼らとはMと共通の友人でもあった。ある日わたしがMともっと親しくなりたいみたいなことを友人に話したら、友人は「Mはもう駄目だよ。Nがいるから」という話をした。それを聞いてわたしはショックを受けた。友人も甲子園にずっと行っていたのだが、バスの中でNがMにアプローチをして、MもすっかりNのことを気にいっていた様子を話してくれた。 それを聞いているとわたしの出る幕はなさそうである。そこでわたしのMとの関係は、親しい友人で終わってしまうことになったのだった。 その後も少々未練があったわたしは、Mに手紙を書くことにした。当時はEメールなどなかったから、手書きである。好きな本のこととか、色々と手紙に書いた。Mは丁寧に毎回返事をしてくれた。それ以外でも学校で会うと色々と話しをしたり、仲が良い友人通しで遊びに行ったりすることもあった。わたしとMは相変わらず仲の良い友人通しだった。 ある日わたしはMの家に遊びに行くことになった。それが初めてではなく、2回目くらいだったと思う。久々にMの家に行くことになった私は少々浮かれていたと思う。2階のMの部屋に上がって、少し話しを始めた。Mの部屋はいわゆる女の子の部屋、という感じではなかった。ただきちんと整理整頓されていた。本棚には本がいっぱいあり、フロイトの本などもあった。 しばらく話しをしていると、Mが「今日はN君も呼んでいるから」と言った。「なんじゃいそりゃああ」わたしの心の叫びだった。せっかく二人で話しできると思ったのに、そりゃあないだろう。わたしは少々がっかりした。浮かれていた気分が失せていくようだった。 Nは顔は知っていたが話しをしたことはなかった。どの面下げてあえばいいんだ?今更帰るのもなんだし、すっかり弱ってしまった。やがて階段を上ってくる足音がし、Nが部屋に入ってきた。 いかなる修羅場が展開されたのか?ここまで読まれた方はそう思われるだろうが、案外長くなってしまったので、続きは明日。
2004.12.26
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クリスマスの語源は、ラテン語の「クリストゥス・ミサ」の略で、Christ(キリスト)+mas(礼拝)を意味する。XmasはX(ギリシャ語で「Xristos」の頭文字)+mas(礼拝)。Xristos(クリストス)は「油を注がれた者」という意味で、「救世主」「キリスト」を意味する。 本来のクリスマスは救世主に礼拝するという意味であったわけだが、今の日本ではそこから完全に逸脱している。これはキリストに対して失礼なのではないかと感じてしまう。本来のクリスマスは敬虔な日であるはずだが、今の日本では欲望を満たす方向に行っている。 わたしはクリスチャンではないが、イエス・キリストは偉大な魂であったと思う。だからクリスマスは敬虔な日であってほしいと思うが、クリスマスにホテルを予約するのに、一年ほど前から予約しておかないと部屋が取れないといった話を聞くと、どこかずれていると感じる。 もともとわたしはクリスマスだからといって浮かれている人たちを、冷めた目で見ている方であった。クリスマスをそういった日にしてしまって良いのかという思いがあった。イブの日に彼氏や彼女がいなくて、一人で過ごすのは寂しいなどという話を聞くと、とうてい理解不能であった。 はっきり言ってわたしはもてなかった。だからクリスマスを彼女と過ごすという経験は一度もしたことはない。しかし、それで寂しいとか空しいと感じたことは全くない。そんなことで心が沈んでしまうなど、ばかばかしいことだと思っていたし、今でもそういう思いである。 すっかり本来の意味を見失っているクリスマスだが、わたしはクリストゥス・ミサとしてのクリスマスを過ごしたい。
2004.12.25
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超臨界とは、臨界質量〈連鎖反応を維持するために最小限必要な核分裂性物質の質量。臨界量〉を超えること、である。こういった現象には以前から関心があったが、最近ますます関心が深まりつつある。 精神的なことに関心を持つ方が増えてきたが、そういう人たちが臨界点を超えると、現象が一気に変わることがあるのではないかと思う。そういう事例はいくつもある。「なぜそれは起こるのか――過去に共鳴する現在 シェルドレイクの仮説」喰代栄一、サンマーク文庫―エヴァ・シリーズ、p28より 今から約250年前、グリセリンが天然脂肪から初めて抽出されたころのことだ。グリセリンは当時も医療用に、またダイナマイトをつくるのに使用されていた。しかしそのときのグリセリンは今とは存在の仕方に違うところがあった。どこが違っていたのか? それは同時のグリセリンがけっして結晶にならなかった点である。普通、化学物質の結晶をつくるには、その液体を加熱してから冷やせばよいのだが、そのときのグリセリンはどんなことをしても結晶にはならなかった。温めても冷やしても液体のまま変化しなかったのだ。それでグリセリンの結晶体はないものと思われていたのである。 ところが19世紀に入ってまもなく、怪現象が起こった。一樽のグリセリンがウィーンの工場からロンドンに運ばれる途中のことだった。どうしても結晶にならなかったグリセリンが、樽の中で突然、結晶化したのである。これに興味をもった化学者たちはその結晶をわけてもらい実験してみると、たしかにグリセリンは結晶化した。それは摂氏17度前後を境にして起こった。 同じころ、カナダのプリティッシュコロンビア州にあるジャイアント・パウダー・カンパニーという化学会社の工場のグリセリンが結晶化していた。それを知ったカリフォルニア大学のG・E・ギブソンとW・F・ギアウケはその結晶をわけてもらった。彼らはグリセリンの詳しい研究をするため、別途輸入した液体グリセリンで結晶をつくろうとしていた。普通、つくりたい結晶の物質が溶けている溶液の中に核となる微細粒子をいれると、その粒子に結晶が付着してきて結晶は成長する。それで結晶をつくるときは、核となる微細物質を使うことが多い。ギブソンたちはグリセリンと構造のよく似た物質の結晶を核として、グリセリンの結晶をつくろうとしていた。ところがいくら試みてもグリセリンは結晶化しなかった。そこで彼らはその化学会社からわけてもらったグリセリンの結晶を核に使ってみたのである。はたしてわけてもらった結晶を核として使うと、別途輸入した液体グリセリンは容易に結晶体になった。 不可解なことはそれから起こった。その化学会社の結晶が彼らの実験室に届いてから、それを結晶の核として使わなくても、液体グリセリンは容易に結晶化したのである。またその結晶が核として混じらないように細心の注意をはらっても、結果は同じだった。ところが、まもなくするうちに実験室にあったすべてのグリセリンは温度を変えるだけで自動的に結晶体になったのだ。そして今では世界中のグリセリンは17度以下で結晶するのである。 こういうことがこれからも続いていき、人々の心を、地球を、宇宙にまでも影響を及ぼし大きな変化がいつの日かくるような気がしている。 追記 だからといってそう簡単に現象が変わるとも思っていない。まだまだ超臨界の現象がおこるには、数も質も整っていないように思う。そしてそういった現象がおこる前にも、何らかの犠牲というのも必要であろう。この世もなかなか簡単にはいかないものである。 しかし、このままの状態が続くとも思えない。人知を越えた大きな力の働きが、影響を及ぼす時もくるように思う。これは根拠をあげよと言われても困ってしまうのだが、直感的に感じるところである。
2004.12.24
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キューブリックの2001年の次に撮った作品。前作ではほとんど台詞がなかったが、この作品ではうってかわって饒舌に人間と社会の愚劣さを痛烈に暴き出す。 主人公のアレックスは暴力とセックスに明け暮れていたが、仲間の裏切りで警察に捕まってしまう。務所行きとなるが、そこで新たな治療法を受けると自由の身になると聞き、自分が受けることを志願する。アレックスは治療の成果で暴力とセックスに対して、反応することができなくなってしまう。 自由の身になるが、行く当てもなく無一文となり、さまよっているところを反政府の人たちに拾われ、政府を転覆させるための道具として利用されそうになるが。。 作品全体にあふれる暴力はすさまじい。現代の映画ではもっと激しい暴力描写のある作品はいくらでもあるが、30年ほど前の映画としては画期的だったであろう。またキューブリックの描写は、暴力を時には美しさすら感じさせるように撮っている。しかし、キューブリックは決して暴力を礼賛しているのではない。その背景には、人間とはこういうものであるという冷めたシニカルな目がある。 人類は闘争と紛争に明け暮れてきている。残虐な犯罪も後を絶たない。なぜその様な愚かな行為を繰り返すのか?それは人類の中に、暴力を好み、快楽を感じる要素があるからである。きれい事をいかに言ったとしても、この事実は断固としてある。もちろん人類の根本は愛にあふれ、汚されることのない素晴らしい要素があるが、そうではないぐちゃぐちゃな見るに耐えない部分があるのは、否定使用のない事実である。キューブリックはそれを冷静に描写し続ける。そのことを受け入れがたい人もいるだろうし、そこが良いと感じる人もいるだろう。 またこの作品で描かれる社会は、現代社会を先取りしていたとも言える。アレックスが受けた治療はまさに洗脳そのものである。その技法は古典的なものだが、現代社会はよりソフトに巧妙に人々を管理し、洗脳するようになってきている。キューブリックはそうなることを予測していたのかもしれない。 警官の横暴、政治家やマスコミの愚劣さ、等を冷めた目でキューブリックは映像に映し出す。人間や社会とは所詮こんなものだと冷めた目でいたのか?それとも映画を見る人たちに警鐘を鳴らしていたのだろうか?それは見る人それぞれが判断すればいいだろう。 アレックスは自由奔放に振る舞っているように見えるが、社会機構の中に取り込まれてしまっている。時計仕掛けのオレンジという風変わりなタイトルは、本来自然なものであり、その様に見えるが、実際には機械仕掛けで不自然なものであったということを表しているとされる。 これはアレックスだけでなく、現代社会に生きる人々に当てはまるのではないか。自分は自分の考えなどで生きているように思っているが、実際は社会の中に取り込まれてしまい、自然な状態を失っている。私たちはこの映画を他人事のように見ない方が良いように思う。
2004.12.23
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ブログとともにソーシャルネットワークが広まりはじめている。わたしも参加している。 ソーシャルネットワークとは何か? 日本語直訳で言い換えれば「社会交流のネットワーク」である。平たくいえば、現実社会における人的ネットワークを管理するサービスだろう。 具体的に何をするかというと、まずサービスサイトにアカウントを作成した後で自分の人脈を登録する。知人とのコミュニケーションをこれまで以上に濃密にできる機能があったり、自分の人的ネットワークを視覚的に鳥瞰することで新しい出会いを見つけることもできる。 イメージしやすいのが、フジテレビの番組「笑っていいとも」の人気コーナー、テレフォンショッキングで出てくる「友達の輪」だ。まず、誰それさんの知り合いを紹介してもらい、それを繰り返して友達の輪を作っていくという話だ。ソーシャルネットワークサービスは、それを自分の人脈に幅広く適用したものと思えばいい。 例えば、知人の「友達リスト」を見て「あ、あの人を知っているんだ! それなら…」ということで、意外なビジネスに発展するかもしれない。もしくは、「あ、あの人の知り合いなの?」と共通の知り合いを発見する可能性もあるし、連絡が途絶えた級友と知人を通して再会するなんてこともあるだろう。 わたしは3日ほど前参加したばかりだが、偶然にも知り合い二人をその中で発見した。お互いに参加していることは知らしていなかった。連絡したら相手も驚いていた。こういう出会いがあるとなかなか面白い。 更に関心事を共有する人とどんどん知り合いになっていける。何人かの人と新たに知り合いとなれた。まだまだ多くの人と知り合いとなることができる可能性を秘めている。 ブログや掲示板だと誰でも来ることができるから、荒らされたりすることも多い。ソーシャルネットワークは紹介制だからそういった心配はほとんどない。書き込みを見ていても、いい人が多いという印象がある。 日本では大きな二つのソーシャルネットワークサイトがある。一つはミクシィであり、もう一つはグリーである。わたしは縁あって両方参加しているが、個人的にはミクシィの方が使いやすい。機能が色々とあり、積極的に活用できる。 ブログやソーシャルネットワークを活用していると、多くの人と繋がっているという認識が生じる。ネットの世界は色々と問題もあるが、きちんと活用すれば、無限の可能性が広がっていくように思う。仏教の縁起の法則では一切が繋がっていると説くが、そのことを実感できる。時代がこういったネットワークを必要とし、作り出そうとしているのかもしれない。
2004.12.22
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人は情報によって動く。これは自分の中にあるもの。そしてアーカシックレコードと呼ばれる、あらゆる情報が収まっているものがあると言われるが、そこにある情報のどれを選択するかによって、その人の行動は決定されてくる。 現代教育では唯物論が教えられ、心に関することや、スピリチュアルなことは全然教えられない。これは情報が偏っているとも言える。現代教育を受けていくと唯物論に傾き、心に関することは重要視しなかったり、考えない人が増える結果となる。今の世の中が荒んできていると考える人は多いだろうが、偏った情報のみを与えられる教育も、その大きな要因ではないかと思う。 食べ物を食べておいしいと思う。それはおいしいという情報を選択したからであり、まずいと思う人はまずいという情報を選択した結果である。アーカシックレコードに多くの情報があるが、その中のどれを選択するか、それは自分の心であり、自分の中にどう言った情報があるか、そして情報を正しく選択する透明さが大事になってくる。 一切に実態はない。それは食べ物があって、その食べ物をおいしいと感じる人もいれば、まずいと感じる人もいる。食べ物には固定的な実態がなく、そのひとそれぞれがどういった情報を選択するかで決まってくるわけである。これを一切は空である、とも表現される。 釈迦牟尼はあまり空ということを強調されなかったが、それは誤った方向にとらえてしまう人がいるからではないかと思う。一切は空なら何をやっても良いのだ、努力してもしかたがない、等ととらえてしまう人が出てくる。 確かに例えば悪いことをしても、心をすぐに切り替えて、悪い情報を捨て、良い情報だけを取り入れることができる人は、何をやってもいいかもしれない。しかし、それができる人はほとんどいないだろう。表面的な意識では情報にとらわれていなくても、深い意識ではいまだにとらわれているものである。結局はその情報の影響下にあることになる。 すべて心で決まると言われるが、アーカシックレコードにある情報、自分の中にある情報のどれを選択するかで決まるわけである。現代社会は情報が多すぎるから、まずは必要のない情報を取り入れすぎないことも必要ではないかと思う。そしてすべての情報をシャットアウトすることは不可能だし、その必要もないから、次はきちんと情報を取捨選択することができるように、心を透明に磨き上げていくことが必要になってくる。瞑想はそのために行うのであるとも言える。 一般的に知識を増やすことは良いとされるが、知識とは条件によって左右される。例えば外国に行くには語学力があった方が普通は良いわけだが、語学力があるばかりに誰にでも話しかけだまされてしまうという人もいるかもしれない。逆に語学力がないため慎重に行動し、だまされることなく無事旅を終えた、という人もいるかもしれない。ここで大切なのはただ語学の知識を増やすことでなく、適切に語学を活用する智慧が必要であることである。知識は情報であるが、情報に左右されるのではなく、情報をきちんと活用できるようにしていくことが最も重要なことである。 一般的な教え、顕教では情報から離れることを目的とするが、秘密の教え、密教ではアーカシックレコード(虚空蔵)に到達し、多くの情報を得ることを重要視していると思う。あくまでもわたしの感覚だが、一般的な瞑想を行うと情報から離れていくような感じがあり、密教的な瞑想を行うと、多くの叡智がわき起こってくるような気がする。 どちらにしろ情報に翻弄されることなく、惑わされることがないようにすることが必要である。無駄な情報を選択せず、情報を自在に使いこなせるようにできるようになれば素晴らしい。フリーページ「心臓で考える3」更新しました。
2004.12.21
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人はこれが正しい、これは間違っていると判断しがちである。そして、自分の考えや意見にそぐわないものは、受け入れたり理解しようとしない傾向がある。確かにこれは正しいとかこれは間違っているとしたり、これは善であり、これは悪である。とするのは楽である。しかし、簡単にそう判断を下していいものか疑問が生じる。 他のものを認めたり受け入れたりするより、攻撃したり悲観する方が簡単にできるし、楽である。あれは間違っていて悪でありとんでもないものである、しかしわたしは間違っていないし、正しいのだ、と思うことで自分を正当化し、そのときは楽になる。しかしこういった安心感など無常なものであり、すぐに崩れ去ってしまうものである。攻撃したり、批判しているとやがて自分がその様な目に会う。結局自分が苦しむし、損をすることになる。 人間は自分と違う点があると、受け入れずに排除することが多いが、日本人はその傾向が特に強いようである。周りと同じことであることを好み、そこから逸脱することを恐れる。そして違うものを排斥する。しかし、周りと同じものが正しくて、違うものが間違っているのだろうか?単に数が多いものが、必ずしも正しいといいきれるのか?この混沌とした世の中では、多数派が本質から逸脱し、少数派の方が本質に近いこともあるだろう。 20世紀は闘争の世紀であったが、これからはそうではなくなっていくような気がする。今までは白黒はっきりつけたり、邪魔なものはたたきつぶす、自分と違うものは従わせたり、屈服させたりすることが正当とされた。今もその傾向は根強い。しかし、徐々にこの流れは変わりつつあるように思う。まだまだ今までの傾向は続くし、大多数の意識はそう簡単に変わらないだろう。しかし、今までと同じやり方で押し通す人は、少しずつそのやり方が通用しなくなってくることに気づかざるを得なくなってくるだろう。 今まで志を同じくしていた人が、わたしは正しい、あなたは間違っている、そういうことは認められない、と対立しているのを見ると、非常に悲しくなってくる。精神的なものを求めている人たちでも、このような対立をするのか、いやそうでない人たちより、よりひどいのではないかと思うと、やりきれなくなってくることがある。最近こういうことを目の当たりにしたり、耳に入ってくると少々憂鬱になっていたが、そういうことで心を乱していても仕方がないと考えを改めた。 自分は何を言われてもそれに心を動かすことなく、ありのままに受け入れ、すべてを冷静に観察し、言うべきところは言うようにしようと思う。 安易な和合や共存はかえって混乱を生むが、対立をし続けたり、自分と違うものを排除しても解決に向かわず、事態はひどくなる一方である。まずはこのことを自分から実践していこう。
2004.12.20
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何かここ数日色々なことが立て続けにあり、自分の中で消化しきれていない。物事が動き出す時はそんなものだろう。数日前おみくじを引いたら、新しいことを始めるにはいい時期であるとでていたが、あまり焦りすぎても仕方がない。まずはどのようになっていくかしっかりと観察をしておく時期であるかなと思う。 今後どうなるか不安でもあるし楽しみでもある。自分が今まで大切にしていたものが、根底から揺さぶりをかけられている。それにしがみついていくか、それとも放棄をしていくのか、選択を迫られる時があるだろう。人は生きていく上で重要な選択を迫られる時が何度かある。もうすぐそういった時期が来るように思える。どのようになったとしても、後悔するような生き方だけはしないようにしたい。 動く時期は不安定になる。人は安定を求めるが、それだけでは進歩はない。時には不安定になってつらくても動いていく必要もあると思う。こういった時は大いなる存在から試されているような気もする。常に楽々と進んで行ければいいが、なかなかそうもいかない。そしてたとえつらくてもそういった時期を乗り越えれば、より大きな安定が得られる。そういったことを繰り返して生きたから、今は少々辛抱する時期なのだなと感じる。
2004.12.18
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と久々に会った人から言われることが多い。自分ではよくわからないのだが、多くの人からそう言われるからそうなのだろう。わたしは特に顔が細く、頬がこけているから痩せて見られるのだろう。自分のことはかえってわかりにくいことも多い。 他人の様子はよくわかるが、自分のことはわかりにくい部分がある。他人の顔はよく見えるが、自分の顔をはっきりと見ることはできない。これは案外心についてもそうで、他人の心がわかっても自分のことをわかっていないこともある。人は他人のことをとやかく批判したりしがちだが、自分のことをまずしっかりと見つめることが必要である。そうすると他人の要素が実は自分の中にあることに気づくものである。他人のことをとやかく言う前に、まずは自分のことをしっかりと理解することが大切だと思う。 それにしてもやせましたね、と言われるのと、頬がこけましたね。と言われるのではずいぶん印象が違う。後者だと全く良い印象ではない。また多くの女性にとってはやせましたね、と言われると嬉しいのかもしれないが、わたしは別に嬉しくも何ともない。あまり痩せすぎでも見た目も、実際問題としても良くはない。やはりバランスがとれた体型が一番だろう。 わたしの場合、お腹が少し出てしまい、顔はいつも痩せたままだから、お腹の脂肪がもう少し顔にいってもらった方がバランスがとれるかなと思う。まあ本質的な問題ではないが。 痩せている太っているというのも相対的な問題であり、日本で太っているといわれる人も、西洋人でものすごく太っている人たちの中にはいると、全くたいしたことがなくなってしまう。相対的なものに惑わされることなく、自分にとって見た目も健康にとっても一番の状態を見極めて、その状態を保つようにしていくことが大切だろう。必要以上に体重を絞ったり、健康管理を何もしないというのは、賢いことではないであろう。フリーページ「心臓で考える2」更新しました
2004.12.16
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ここ数日色々な人と接し、自分の内面に大きな変化をもたらすことが多い。今まで自分が考えてきたことの再確認ができたり、自分の中で大きな変化をもたらすことが連続して続いている。 しばらくはこの大いなる流れに乗っていこうと思う。来年は自分にとって大きな変化の年になっていくだろう。そういった予感と言うより確信がある。自分自身を大切にしていくことは必要だが、しがみついていてばかりでも駄目で、ぶっ壊すところはぶっ壊さなければならないと最近感じでいる。
2004.12.15
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地球の環境問題が少しずつ話題になりつつある。まだ多くの人が気づいていないが、地球は警告を発し始めている。環境問題に真っ向から取り組んだその姿勢は評価できる。 CGがふんだんに使われているが、なかなかリアリティがある。風、水、雪、氷が人類に襲いかかってくる。CGの映像の前では、大自然の驚異の前には、人類は無力であるという点が伝わってくる。 ただストーリー展開は、こういった映画ではよくあることだが、様々なエピソードを盛り込んでいるのだが、一つ一つが薄くなってしまい、あまり心に響かない。この作品の監督は、「インデペンデンス・デイ」も撮っているが、あれもCGはすごかったが、一回見ればいいや、と思わせる内容だった。「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」も似たような感じがするのは残念である。 主人公が息子と再会し喜びを分かち合う。生存者がいたことが報道される。感動を生むような場面だが、しかしその一方比較にならないほど多くの人が死んでいったことが、忘れ去られてしまうような作りである。これについて違和感を感じた。 ラストも氷河期がくるようなことを言っておきながら、太陽が出てこれからは気象が回復していくような描写になっている。あまりにも脳天気すぎるように思う。もっと悲惨な状態を現出したほうが良かったのではないか。 最後の方でアメリカ大統領が、この異常気象は、人類の欲望と傲慢さが生み出したものであった、という趣旨のことを言っていた。これはまさにその通りであろう。ただそのことが映画自体から強く伝わってこなかったのが残念である。 何だかんだ言っても、この映画の出来事は絵空事でなくなりつつある。そう言った事態にならないように、人類は配慮していく必要があるだろう。フリーページ「心臓で考える」更新しました。
2004.12.14
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日付で言うと昨日になるが、第13回東京すぴこんに行ってきた。すぴこんとは変わった名前だが、スピリチュアルコンベンションの略で、様々なスピリチュアル関連の見本市である。なんというか学園祭ののりである。 12:50からお気に入りに入れさせていただいている、まんだらやのご主人小林宗次郎さんと、ホリスティック医学協会理事の村上信行さんの対談があり、それに間に合うように会場に着いた。お二人とも真言宗の僧籍にあり、仏道修行をされている。 村上さんの話では、ここ数年以前とは考えられないほど、日本人の心はすさみだしている。医者もお手上げの状態ということである。日本は物質は豊かになったが、肝心の心の部分はなおざりになっている。医学にはもう期待できないとまで、村上さんは言われていた。 インドは貧しい国だが、そこの子供達は目がきらきらと輝いて、イキイキとしている。反面日本人は覇気がなくなっている。物質が豊かだから幸福になるとは言えないようである。それは日本人のアイデンティティの欠如から来るものだとお二人は看破されていた。日本人は、元々もっていた貴重な身体文化や精神文化を、なおざりにしてきてしまった。仏教や密教など、欧米人の人の方が多くの関心を集めているほどである。日本人は今一度自分自身にとって大切なことは何か?自分は何のために生きているのか?はっきりさせる必要があると小林さんは話されていた。 30分という短い時間であったが、非常に貴重なお話を聞くことができた。最後に宗次郎さんの音頭で般若心経を唱えられる人は唱え、そうでない人は聞いていたが、宗次郎さんが般若心経を唱え始めると、空間の波動がパッと変わった。やはりきちんと修行をされている人が経を唱えると、大きな力を発揮する。これからの時代、頭で考えるだけや、口先だけでは駄目で、実際に実践をし本当の実力をつけていくことが大切であると改めて感じた。 それから色々とまわっていった。相互リンクさせていただいている。京子の部屋さんのところへ行ってしばらくお話ししたり、知り合いの愛と桃舎さんのところでアロマを受けたりした。アロマを受けるとすぐに顔色が良くなってきたと、わたしに施してくれた知り合いの女の子が言っていた。確かに気分がすっきりした。 色々と回ってもどうも自分にぴったり来るものがなく、歩いているだけで疲れてきた。色々なエネルギーや人の想念が渦巻いていて、わたし以外にも疲れているような人がいた。敏感な人にはきつい空間であったと思う。 オーラ写真を撮影するコーナーがあり、撮影してもらった。以前にも撮ってもらったことがあり、そのときは白いオーラだった。白はすべての色の混合であり、純粋で高次元のエネルギーは生来のヒーリング力を示すという、ただ他の色に染まりやすく、混乱・自信喪失につながる傾向に要注意とある。 今回はどうなるかと思っていたが、見事に紫となった。紫は神秘と直感のエネルギー、宇宙的な視野で物事をとらえる人のオーラ。精神面でのリーダー的存在。方向性を見失うと利己的になってしまうこともある。ということである。 今改めて写真を見ると、体の近くは白っぽくなっており、その周りを紫で囲っている。紫は精神的な色なので、それが出て嬉しかった。ただオーラも無常なので、うっかりしていると変わってしまうから、ただ喜んでいても仕方がない。ただとりあえずは良かったな、と思う。 今回の成果として、ヨガに関心を持っている20代の男性二人と知り合いになれたことがある。 一人はたまたま愛と桃舎でセッションを受けていて、ヨガの話になってわたしと引き合わせようとしたら、ちょうど私が通りかかり、そこでヨガの話をいろいろとして、連絡先を交換した。すでに習っていてかなり高度なことをやっているようである。このような出会いは滅多にあるものではない。 もうひとりはやはり、愛と桃舎で以前セッションを受けたことがある人で、紹介をしてもらった。穏やかで感じのいい人であった。4月にすぴこんに参加したときも貴重な出会いがあったが、今回もまたそういった出会いがあった。今後は現象が大きく動いていく予感があるが、その前兆かもしれないと感じた。
2004.12.13
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もう12月だが、12月としては暖かい日が続く。先月が記録的な暖かさだったが、今月に入っても朝晩は冷えるが、日中などはかなり暖かいように思う。 先日2時間ほど散歩していたが、すぐに汗をかいてきて、上着を脱いでしまった。気温を見ると15度くらいだったような気がするが、12月の東京でそこまで暖かかったような記憶がない。夏は猛暑で冬は暖冬となると、地球の平均気温がますます上がってきていることは疑いない。 このままでは地球の寿命が案外早く尽きてしまうという話を聞いたことがある。そういったことはなかなか発表されない。道でもいいことばかりが報道され、大切なことが秘されている。あとはまだ大丈夫だろうと、たかをくくっている人が多いのかもしれない。しかし、そのときになってじたばたしても遅い。 まあ地球も永遠に存在するわけではないし、いつかは寿命がくる。地球の寿命をどんどん縮めているのは人間に他ならないが、もし生きている間に地球の限界が来ても、じたばたせずそれまでに後悔しないような生き方をしておきたいように思う。
2004.12.12
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CDやロボット犬「AIBO」の開発をした天外伺朗氏が、この本ではD博士として登場し、対話形式で話が展開されていく。天外氏の書籍は比較的わかりやすいが、これはその中でも更にわかりやすいものになると思う。 現代社会では何か計画を立てて、それを実現させていくために全力を尽くすことが良いとされる。ネイティブアメリカンの伝統的な考え方は、それとは全く違う。その哲学は「イーグルに聞け」という言葉に象徴される。これは目に見えないレベルの流れを発見し、上手にそれに乗っていく、という高度なテクニックである。タオイズムに通じるものがあると思う。 これはなにもしないでのんべんだらりとすることとは全く違う。エゴを弱め、大いなる流れをつかみ取る感性を常に磨いていなければならない。そのためには瞑想が不可欠である。 そして、大いなる流れをつかみ、その流れに身をゆだねていけば、物事がうまくいくという。人事を尽くして天命を待つ、という言葉があるが、これはまさにそのことを実践したものであろう。 そしてエゴなどの鎧をどんどん脱ぎ捨てていったらどうなるか?その先に涅槃がある。その境地に至ると、宇宙と一体感を感じ、大いなる愛に触れる。それは何もしないでは到達できない。瞑想やボランティアなどの実践が必要である。 現代人はあまりにも多くの鎧を身にまとってしまっている。それを少しずつ瞑想などの訓練で脱ぎ捨てていく。それによって本当に素晴らしい状態に至ることができる。 天外氏はばりばりの企業マンだったが、ある種行き詰まりを感じ、精神世界や瞑想などに関心を持ち、本に書いたりセミナーを行ったりしている。天外氏だけでなくがむしゃらなに働き続けてきた人が疑問を感じて、精神世界に関心を持つ人が増えてきているようである。まだまだその数は多くはないが、今後ますます増えてくるであろう。時代の流れがその様になりつつあるように思える。 わたしは目的をしっかりと持ち、それに向かって努力することは、必要であると思う。しかし、自分の意思や考えよりもっと大きく崇高なものがあることも忘れてはならないだろう。これがキャッチできるようになるための努力をも惜しんではならない。そしてそれが達成できた時は、一切の努力も必要でなくなっていくのだろう。
2004.12.11
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何かと話題のマイケル・ムーア作のドキュメンタリー。ブッシュとブッシュ政権を徹底的に批判している。本作品はカンヌ映画祭で、最高賞であるパルム・ドールを受賞している。 ドキュメンタリーは真実をありのままに伝えることであるのが前提であるが、それからするとこの作品はマイケル・ムーアの色が強く出ていて、純粋なドキュメンタリーと言えないかもしれない。彼の主張が全面に出ているから、それを注意して見た方がよいと思う。しかし、いくつか注目すべき映像があるのも事実である。 911テロがあったとき、ブッシュはマイアミの小学校を訪問していた。そこで報告を受けたが、ブッシュはしばらくそこから動かず、子供達と一緒に過ごしていた。それほど大事な報告があったのならすぐに行動してもよさそうなだが、全く何もしていない。こういった事実はアメリカ国民に知らされていなかったのだろうか?少々不思議である。 イラクで子供たちが先頭の犠牲になっている映像は実に痛々しい。戦争を肯定したりやむを得ないと主張する人たちは、そういった映像を見た上でもまだそういった主張ができるのであろうか?現場はもっとすさまじいことであろう。人間の愚かさに暗澹たる気持ちにもなる。 短いショットだが、日本人は注目すべき映像がある。数ヶ月前イラクで邦人三人がとらわれの身となった。彼らに対して自己責任論や挙げ句の果てには自作自演説まで展開され、非難ごうごうであった。無論彼らにも注意すべき点はたくさんあったが、ただ世論の彼らに対する非難の仕方は、少々行き過ぎではないかと思わせるものであった。 彼らがのど元に刃物を突きつけられ脅されている映像がある。そのときの恐怖の表情は、とても自作自演とは思えない。自己責任だ自作自演だと軽く語る人は、自分自身がその様な目にあった時、どのような反応をするのだろうか?安易な非難をする人は、まずはその映像を見て、我が身に置き換えてから言ってほしい。そういう人は我が身に置き換えてということがなかなかできないのだろうが。 これはマスコミで報道されていることしか知らなかったり、マスコミの報道が真実であると思っている人こそ見た方がいいと思う。マイケル・ムーアもすべて真実を語っているとは言えないだろうが、マスコミに毒された人々はこういった事実もあるのだ、ということを認識しておくことは大切であろう。 マイケル・ムーアはこの作品を上映することによって、ブッシュの再選を阻止しようとした。しかし、結果はそうはならなかった。アメリカでは結局ブッシュ支持の人はこの作品を見ることはあまりなく、ブッシュに反対する人や、民主党を支持する人が主に見たようである。マイケル・ムーアはブッシュを支持する人にこそ見てもらいたかっただろう。なかなか世の中思い通りにはいかないものである。 ブッシュが当選したことについて嘆いたり、憂いたりする人もいるだろう。しかし現実は現実として受け止める必要がある。これからどうしていけばいいか?それを考え実践していくことが大切である。マイケル・ムーアも次回作のことをすでに考え実行しようとしているようである。彼の考えに賛同するかどうかは別にして、その行動力、実行力は見習うべきものがあると思う。
2004.12.10
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地球交響曲~ガイアシンフォニー~第5番を見てきた。ガイアシンフォニーは以前からみたいと思っていたが、今まで見ることができていなかった。それが実現できて非常に嬉しかった。 一切は繋がっている。これはこの映画の中で語られているメッセージの一つである。宗教もしくは精神世界の分野で言われてきた「すべては一つに繋がっている」ということが最先端科学においても、証明されてきている。 ガイアシンフォニー第5番の出演者、ラズロー博士の最新作、「Science and the Akashic Field: An Integral Theory of Everything」(仮邦題:科学とアカシック場:すべてを統合する理論)においては、時空を超えてすべてを互いに結合している場を「アカシック場」もしくは「Aフィールド」と名付け、その性質について科学的に議論している。 量子力学においては、「Entanglement」(絡み合い)と呼ばれる現象が見出されており、光速を遙かに超えるスピードで、準同時的に量子が結合しあっていることが証明されている。 人の意識が他人の意識に作用すること(テレパシー)、祈りが治療に効果を発揮することなども、科学的に証明されてきている。 ラズロー博士は、伝統的科学では解明できていないこれらすべての現象が、 「Aフィールド」を通じて起きていると考えている。 「Aフィールド」は、「量子真空場」「ゼロ・ポイント・フィールド」「サイ・フィールド」とも呼ばれてきているものである。 一切は繋がっている。これはまさに仏教の縁起の法則である。ラズロー博士は2000年以上前から仏教が唱えていたことを、科学的に証明しつつある。将来的には宗教と科学が完全に融合する時がくるであろう。 宇宙は一切の記憶を内在させている。だから私たちの行っていることが、未来にも影響を与えていく。故に自分のことを考えず、他人のために尽くすことが大事になってくる。私たちの行っていることが、子孫に影響を与え、自分たちにも返ってくるのである。一切は繋がっているのだから、周りのこともすべて私たちに関連がある。宗教で言われてきたことが単なる絵空事でなく、やはり重要な意味合いを持っていたのである。 また、ダライ・ラマ法王が来日した時の様子がおさめられていた。ダライ・ラマ法王に一人の女性が質問をしていた。色々と悲惨な内容のことが報道されたりしているが、それを子供にどのように説明していけばいいか、といった趣旨のものであった。法王は確かに苦しみが多いが、それによって慈悲の心を培っていくことができる。だから目をそらさないでほしい、といった回答をしていた。 苦しみを人は避けたがるが、それによって慈悲の心を培っていくことができるのだから、それも大切なことである。法王のこのような考え方は、非常に素晴らしいと思う。ダライ・ラマ法王の自伝を読んだり、映画を見たことがあるが、本当に悲惨な経験をされてきているが、そういうことをみじんも感じさせないほど、法王の笑顔は明るく、声は慈悲に満ちあふれている。これ以上ないほど悲惨な体験を乗り越えてきた者から生じる慈悲の心を感じさせた。 他にも映画には貴重なメッセージがたくさん込められている。普段私たちは取るに足らぬことに翻弄されているが、地球や宇宙の広大な営みの前には、そのようなことが本当にどうでも良くなってくるように思える。単なる楽しみを求める映画が多いが、たまにはこういった心あらわれるような、そして色々と考えさせられるような映画を見ることも大切なことであると思う。
2004.12.09
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最近体調がいいと数日前書いたが、どうも過信していたようで一気にお腹を下し、今も壊したままである。そして久々にまとめて長い時間寝てしまった。無理をしていて体が疲弊していたので、体からのサインとしてお腹を下したり、まとめて寝るようになったのだろう。 わたしは外食は滅多にしないが、久しぶりに外で食べたらこうなった。慣れないことをすると体に反応が出る。比較的体によいものを出すところで食べたのだが、しっかりと反応してしまった。やはりあまり外で食べない方が良さそうである。 わたしの場合疲労がたまると、すぐに体に反応が出る。お腹を壊したり、熱が出たり、まとめて眠るなどである。そういうことがない人からすると、気の毒に見えたり、だらしなく見えたりするようである。しかし、熱を出したり、お腹を下すとは体の浄化作用である。その様な反応が出ないと、毒素や疲労が体に蓄積され、取り返しのつかないことになったりする。普段から風邪一つひかないような人が、突然ぽっくり逝ってしまったり、弱々しく見える人が、案外長生きするといった例はよく聞くことである。これは頑丈そうに見える人が、毒素などを排出する要素が弱かったり、弱々しく見える人が、排出する要素が強く、普段は弱々しく見えるが、毒素がたまらない、ということがあったりするからそうなるようである。 お腹を壊すと当然きついが、しかし、その後はいつも非常にすっきりとした状態になるので、それは嬉しいことである。逆に普段から健康そのもので寝込むということと無縁の人の方が、かえってその後大変な状態になったりするから、過信することは禁物である。 それにしても体の働きとは面白いものである。うまくできているものである。こういった体の働きを理解し、大切に扱っていきたいものである。フリーページ「バニラ・スカイ」更新しました。
2004.12.08
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何人かの知り合いと集って、話しをしたり歌ったり食べたりした。久しぶりの機会なのでついつい食べ過ぎてしまい、終わってから苦しくてしょうがなかった。こういう状態になると、「ああ、食は苦だ」と考えてしまう。わたしは普段から必要以上に食べないようにしているが、時々無茶食いをしてしまい、そのつど腹をおさえてうんうん言ってしまう。どうにも学習能力がないなあ、と自分でもあきれかえってしまう。 わたしは歌うことが好きだが、最近の歌はさっぱりわからない。小学生や中学生の頃に流行っていた歌しかよくわからないので、自ずと古いものばかりとなる。高校に入ってからは洋楽ばかり聴いていたので、日本の歌はあまり知らない。 ヨガや気功をやっている人は、経絡(氣の通り道)が通っていて、氣も強いので大きな声が出る人が多いと思う。また声もきれいな人が多い。わたしも声だけはでかい。そして通るようである。だから歌うと目立つ。これでへたくそだったら目も当てられないが、まあなんとか聞いてもらえるだけのレベルにはあるようである。 知り合いと楽しい時間を過ごしていると、瞑想などをするとはまた違った意味で、心が軽やかになる。毎日のようにこういったことをやっていても仕方がないが、たまにはこんな日があってもいいかな、と改めて感じた。明日の日記おそらく休むことになると思います。フリーページ「マトリックス3部作」更新しました。
2004.12.06
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わたしは年齢不詳である。と自分で言うのも変だが、よく年が何歳かわかりづらいと言われるのである。 わたしは今35だが、若く見られることが多い。肌のつやもいいし、何よりも正確が子供っぽいからであろう。ただ落ち着いているようにも見られることがあり、若くも見えるし、年をくっているようにも見えるようである。 19の時わたしは大学に通っていたが、同じ年くらいの女子大生に自分の年齢を言ったら、「ええーーーっ」と驚かれてしまった。てっきりサラリーマンかと思ったそうである。このころはまだ本格的に瞑想などを行う前で、心も暗いことも多く、実際より老けて見えたようである。 瞑想などを本格的にはじめると心が明るくなり、それと共に若々しさが出てきたようである。また氣を無駄にせず蓄えてしかも強めていく訓練もしていたので、ますます若く見られるようになってきた。老けるとは氣が消耗した状態とも言える。肌のつやが無くなり、しわが増え、白髪が増えるあるいははげる。体に締まりが無くなりだぶついてくる。こういった現象は氣が消耗されておこるものである。だから若々しくありたければ、まず無駄に氣を消耗しないことである。それには過食をしない、過剰な性行為をしない、怒りすぎない、等に気をつける必要がある。こういった行為は氣を明らかに消耗する。 わたしは一食や二食のことが多いし、過剰な性行為は一切行わない。怒りも生じることはあるが、すぐにおさまってしまう。更に気功などを行うことで、氣を強める訓練もしている。それによって氣が充実し、若々しくなってくる。 美容を心がけたいと言いながら、過食をし酒やたばこを大いにたしなみ、過剰な性行為を行っていたら、間違いなく老けるのが早い。 また結婚していないので、意識がいまだに二十代で止まっているような感覚がある。結婚している人としていない人では、やはり何か違う。わたしの知り合いは結婚していない人も多いが、結婚している人よりも若々しい感じがする。所帯を持つと老け込んでしまうのだろうか? とにかく若々しくありたいなら、心を明るく軽く保ち、氣をしっかりと保全することが肝心だと思う。 日本人は西洋人に比べると若く見えるものらしい。わたしも西洋人から20代に見られたし、わたしの知り合いの女性で、30代後半だったのが、学生に間違えられたということがあったそうである。西洋人は若い時は女性などとてもきれいでスタイルも抜群の人が多いが、年齢を重ねると共に、休息に老け込み、スタイルも全く変わってしまう例が多い。若い頃はすっきりとしたスタイルや、ダイナマイトボディであった人が、年をとるとビア樽のようになってしまうこともある。日本人ではそこまで極端な例はあまり聞かない。 これは食べるものの違いがあるだろう。西洋人は肉を好み、脂っこいものが多い。また甘いものでも日本人には甘すぎて、気持ち悪くなるほどのものを喜んで食べたりする。これでは太って当たり前とも感じてしまう。 ただ日本人も食事が西欧化してきているので、西洋人のように急激に太ってしまう人が増えてくるかもしれない。 これはわたしの主観だが、東洋人の方が西洋人より氣が微細であるような感じがする。もちろん例外もあるが、全体的にその様な傾向があるように感じられる。氣の質の違いも老け込むのに早いか遅いか決定する大きな要因ではないかと思う。
2004.12.05
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昨日は体調が最近いいと書いたが、少し悩んでいる人の相談にのっていたら、相手の人は楽になって喜んでいたが、自分はお腹を下し、久しぶりに長く寝てしまった。休養が必要と体がサインを出してきたのもあるだろう。 普通ならこういった事態になるといやだな、と思ったり、苦痛を感じたりするものだが、わたしは逆に喜びを感じた。仏教ではまず自分が悟りを開くために修行をしていくが、そこから涅槃に至る道を行くものもいれば、そこへ至れるがあえて至らず、身をこの世にとどめて他の人たちのために尽くすかの道を進んでいくことになる。後者が菩薩の道である。 チベット密教にトンレンという修行法がある。これは自分の喜びや徳を与え、他人の苦しみを受け取るという実践である。仏教では慈悲の大切さを説く。他人を慈しんだり、哀れみを持つことは素晴らしいことであり、実践もやりやすい。しかし、自分の喜びを与え、他人の苦しみを背負い込むのは、そう簡単ではない。しかしそういった実践を行うことによって、より深い慈悲の実践ができる。 トンレンを行うことで、よりいっそう人の苦しみを理解することができるし、慈悲の念も深まってくる。人間は自己愛着によって苦しみを増大させている。トンレンの訓練で自己愛着を放棄し、真の幸福へ至ることができる。 トンレンは簡単に行えるものではないかもしれないが、訓練をしていくことで少しずつできるようになっていく。巷で愛ということがよく言われるが、本当の愛とは自分を犠牲にしてでも他の利益となることを優先し実践することだと思う。わたしもトンレンの実践が完璧とはほど遠いが、一緒に瞑想した人が苦しみを減少させ、喜んでいる姿を見ると、自分の状態が悪くなったとしても非常に嬉しい。 すべて価値あるものは他のもとへ すべて貧窮はわがもとへ この言葉にトンレンの神髄がある。この実践を一人でも多くの人が行うことができるなら、世界も変わっていくことができるかもしれない。 こういった実践の土台となるものが菩提心、菩薩の心である。菩提心とはすべての魂に慈愛を注ぎ、他のために尽くすと共に、空性を理解し、一切の現象を頼りにすることなく、とらわれがない状態。輪廻にも涅槃にもとどまることがない境地である。これは言葉で容易に表現できないが、菩薩の道を歩むことを決意したものは、この境地に至ることを目指して、修行していくことになる。わたしもそうなれたらいいなと思う。 ところで12/4はわたしが本格的に精神の探求をしようと決めた日である。それが16年前だったが、月日のたつのは早いものである。そのときは菩提心という言葉も知らなかったが、そのときから少しずつ菩薩の心という物を知り、身につけていこうと模索し始めている。この探求はまだまだ終わりそうにない。16年と言う月日は長いと言えば長いが、振り返ってみれば瞬間である。残りの生涯を菩提心を会得するためだけに費やしたとしても一切の悔いはない、と言いきれるようになりたい。フリーページ「菊次郎の夏」更新しました。
2004.12.04
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ここ数日体調が比較的いいが、早寝早起きを心がけているからであると思う。少し前までは遅くまでネットをやっていて、遅く起きて昼もボーッとしていたり、無駄に長く寝てしまっていた。 これではいけないと思い、夜中にネットを長々と行うことを控え、比較的早めに寝るようにした。そうすると3時間ほどでパッと目が覚める。それから気功やヨガの行法や瞑想などを行うと、意識がはっきりとして、実にすがすがしい。昼間や夕方眠くなることもあるが、寝てしまってもすぐに目が覚める。やはり人間は早く寝て、早く起きる方が自然な状態のようである。 今の日本はどんどん社会全体が夜型になっているようである。夜十時といえば皆さんはなにをしているだろうか?テレビを見たり、食事をとったり、インターネットをしたり、友人と一緒に過ごしたり、と様々なことをしている人が多いだろう。コンビニでも買い物ができるし、最近は24時間のスーパーも増えてきた。スポーツクラブで一泳ぎすることもできるし、お金もおろすことができる。まだまだ色々とやることもできる。ところが、1960年には、日本人のほとんどが、十時には就寝していたのである。 NHK放送分か研究所が行っている「国民生活時間調査」という資料によると、六十年は一週間を通じて、十歳以上の国民の約七割が朝六時に起床、夜十時には就寝している。それが二〇〇〇年の調査では、平日は六時三〇分に起床、夜十一時就寝と、起床時間が三〇分、就寝時間が一時間遅くなっている。それにともない睡眠時間も短くなってきている。 そしてこの四十年の間に、人々は更に健康になったかと言えば、とてもそうは言えないだろう。夜型の人が増え、それとともに不健康な人が増えているように思う。単純に夜型が悪いとは言い切れないが、自然の理に反しているように思う。 早寝早起きの人は生活が規則正しい人が多いが、夜型の人は不規則な生活の人が多いようである。人間不規則な生活をしていると、やはり心身のバランスを崩してしまう。わたしは早寝早起きを心がけるようになってから、生活パターンが規則正しくなってきた。やはり早く起きて、きちんとしたリズムで生活するのが心身にはいいようである。
2004.12.03
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まずは一つの寓話から。 一頭の野生のロバがいた。このロバは非常に大きな声で鳴くことができた。その鳴き声を聞くと、他の動物たちはみなびっくりし、ロバに近寄ることがなかった。 ある日一頭の虎がロバを襲おうと近づいていった。ロバは大声で鳴き、その声にびっくりした虎はあわてて退いた。もう一度近づいたがロバは大声で鳴き、再び虎はあわてて退いた。 虎は二度退いたが、ロバが鳴くだけでなにもしてこないので、今度はロバが大声で鳴くにもかかわらず、更に近づいていった。怒ったロバは虎を蹴飛ばした。 しかし、ロバの蹴りなど虎にとっては全く対したことはなかった。虎は「なんだ、こいつは鳴き声が大きいだけで、全然強くないな」と見切ってしまい、ロバに襲いかかり食べてしまった。 ロバは大声で鳴くことができ、それによって他の動物たちを驚かすことができたが、実際には全く強くなかった。はじめは虎もロバの大声に惑わされていたが、ロバの力を見切ると、簡単にロバに襲いかかり食べてしまった。ロバの力と虎の力は比較にならなかった。 私たちは外側のものに惑わされがちだが、実際に大切なことはその本質であり、外側が立派であっても、実力が伴わなければ、砂上の楼閣である。幻影に惑わされることなく自分自身を磨き上げ、実力を伴うように努力し、本質をつかみ取っていくことがやはり大事であろう。 現代はこの寓話のなかのロバのような人が多いだろうか?それとも虎の方が多いのだろうか?わたしたちは寓話の中のロバのようでなく、虎のようにありたいものである。フリーページ「となりのトトロ」更新しました。
2004.12.02
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11月25日に紹介したメルマガ映画の精神医学で、わたしの投稿した2001年宇宙の旅、の解読が掲載された。まさか掲載されることもあるまいと思っていたのだが、配信されたメルマガを見て驚いた。わたしの投稿したものが掲載されている。その影響だと思うが、昨日のアクセスは楽天の人よりも、楽天以外の人の方が多かったような気がする。こういうことは初めてである。 この出来事で駄目元でもやってみるものことが肝心だと改めて思った。何事も取り組んでみなければ結果は出ない。もちろん思いついてすぐやってみて、失敗する場合もある。石橋をたたいて渡ることも必要であろう。しかし早く取り組むにしろ、遅く取り組むにしろ、実際に一歩を踏み出さなければ何も始まらない。 私たちは何かに取り組む前に、「これはできない」「まあ駄目だろう」といった考えに支配されることも多い。それは何かに取り組むことは、苦痛を伴う場合もあるし、何もしないでいる方がその場は楽である。しかし、何もしないでいては進歩はない。ゼロはいつまでたってもゼロのままだし、1や2はそのときは小さくても積み重ねていけば、5にも10にも100にもなっていく。 神やタオや空に到達した人は、じたばたせず何もしないでいていいだろう。しかし、そういう人はまれである。大いなる存在に同化してしまったら何かをすることが逆に邪魔になるかもしれないが、そこに至るまでには何もしないでいたら単に怠惰になっていくだけである。まずは何かに取り組むことが肝心であり、色々と言い訳をして実践をしない人は、いずれ後悔することになるだろう。
2004.12.01
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