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今回の旅路の終盤は「紫香楽宮跡」(滋賀県甲賀市信楽町)の散策となった。思い返すと2013年の春には、主に第45代 聖武天皇 に思いを馳せての長旅(※)を経験したが、その際には聖武天皇によって「大仏造立の詔」が発せられた紫香楽宮の宮跡には訪れていなかった・・・。※関連記事⇒ リンク加えて近年になって、これまで「紫香楽宮跡」と指定されていた場所より北約2kmに位置する「宮町遺跡」から、大規模な建物跡が検出され、木簡が大量に出土したことなどから、その宮町遺跡が本来の宮跡と考えられるようになったこともあり、約30年ぶりに現地に行ってみようと意欲が湧いた次第である。まず上の画像は、その「宮町遺跡」のある地点から北方を撮影したもので、画像に映る田地の数十m先には中心となる建物の「朝堂」(桁行約37m・梁行約12m)があったとされている。さらにその東西には、約112mの長大な二棟の脇殿が配置されていたとのことで、その建築規模からみて往時の紫香楽には奈良の平城京に匹敵する皇都が建設されていたことが伺えそうだ。以下、「紫香楽宮」に関する概要を、ウィキペディアより抜粋しておこう。・740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。・翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられる。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。・744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。・745年(天平17年)1月には新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされた。しかし人臣の賛同を得られず、また天災など不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになった。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。次に上の画像は、冒頭の紫香楽宮の中心施設たる「朝堂」から、ほぼ真南約2kmのところにある甲賀寺跡(従来の紫香楽宮跡と指定された地域)の「金堂」のあった場所を撮影したものである。つまり予定通りに盧舎那仏が紫香楽の地で造営されたとするならば、この「金堂」に本尊として安置されることになっていたわけである。そもそも聖武天皇はなぜ、この紫香楽の地に大仏を造立しようと構想したのだろうか・・・これは大きな謎として歴史研究家を悩ませているが、その謎に明快に答えてくれる良著(※)があった。※書籍紹介・・・『星空の卑弥呼』(下) 榊 晶一郎 著 ・ 太平洋出版社 刊この本では、日本各地で天体を地上に投影するかたちで都造りや社寺の造営をしてきた形跡を、現地調査を重ねて追求していった経緯が記されており、往時の聖武天皇は橘諸兄を筆頭とする側近の支持を得てであろう、平城京より恭仁京や難波京、そして紫香楽京に転々と遷都していくが、おそらく都造りの際には国家機密とされたであろう「天体の地上投影」という観点から、五角星ともいわれる天体「ぎょしゃ座」の、最も天頂に近い「メンカリナン」の地上投影地として「紫香楽」が選定されたと推理する。聖武天皇が建てようとした「盧舎那仏」は、サンスクリット語では「輝くもの」を意味し、華厳経では「宇宙の中心」で真理そのものとされ、その仏の座すところは天空の真上、つまり「天頂」が相応しいので、当時は天頂に最も近づく星とされていた御者座の「メンカリナン」に「紫香楽」を対比させて、そこに盧舎那仏を安置しようとしたのではないかと、そのように推考できるそうだ。私自身も実際に歴史の現場に立ってみて・・・この紫香楽の地に大仏を造りたかった・・・という想いが、何故かひしひしと心に伝わってきて、しばし感慨深い思いに浸ったことを憶えている。さて旅路の最後に向かったのは、琵琶湖の湖水を源流とする瀬田川の急流域に鎮座し、祓戸四柱を祀る「佐久奈度神社」(滋賀県大津市)であった。当神社は、天智天皇8年(669年)勅願により、中臣金が祓戸の神を祀ったのが創始とされ、以来「七瀬の祓い所」の一つとして重んぜられ、名神大社として延喜の制に定められるなど、当地方の名社とされていた。神道の祭祀に用いられる祝詞の『大祓詞』のもととされる『中臣大祓詞』は当社が創始地とされており、古代より当社に伝わる祓詞が、文武天皇の時代に勅使がつかわされ『中臣大祓詞』として増補制定されたとのことだ。さらに明治維新を迎えて国家管理となった神社界において新たに制定されたものが、『中臣大祓詞』より抜粋された現在の『大祓詞』ということである。最後の画像は、旧社殿の跡地より展望した瀬田川の急流を撮影したもので、その轟々と流れる音を体全身で浴びながら、今回の旅路の全体を展望しつつ、天然の身禊大祓(みそぎのおおはらい)を受けている心境になるのであった。
2015年06月26日
そ う ぎ ょ く 『 奏 玉 』本州最西端の温泉地・・・ 川 棚 ・・・「青龍伝説」の薫る川棚温泉において 手作りの「 玉 」(造形作品)を奏でる「 龍 」の姿を「北斗七星」に、そして手に持つ「宝玉」を「北極星」に見立てまるで宇宙船のような施設「川棚の杜」にて 「天空に輝く星々」 を演出します会場には基本の立体を作る席を設けて 皆さまのご来場をお待ちしています [ と き ]2015年7月19日(日)~20日(祝)午前10:00~午後7:00 [ と こ ろ ] 「 川 棚 の 杜 」 (小交流室にて) 川棚温泉交流センター 【入場無料】山口県下関市豊浦町大字川棚5180 http://www.kawatananomori.com/
2015年06月22日
さて、翌6月14日の早朝は、昔から「伊勢に七度 熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と謡われる「多賀大社」(滋賀県犬上郡多賀町)への参拝から始まった。そこで冒頭の画像は、当社の本殿を撮影したものである。その日本建築の粋を集めた「お多賀さま」の気品ある佇まいに、思わず息を呑んだことを憶えている。次に訪れたのは、平成21年に今から約1万3千年前の縄文遺跡が発見された「相谷熊原 (あいだにくまはら) 遺跡」(滋賀県東近江市永源寺)だった。(※関連記事⇒リンク)上の画像は、その遺跡のすぐ近くに鎮座する「熊原神社」の境内を撮影したもので、手前の「磐座」と右奥の「神籬」が、木々の間より漏れくる陽光と共に神々しく映っている。この縄文草創期の遺跡からは、国内最古級の土偶が完全な形で出土しており、またこれまでの想像をはるかに超える規模の竪穴住居跡が見つかっている点で注目を集めている。約1万3千年前は、地球規模で一時的に寒冷化し、平均気温が現在より10度以上も低かったとの説があり、その気候変動に着目した考古学者の話では・・・急激な寒冷化によって、縄文人は寒さをしのぐため、深さが1メートルもある半地下式の竪穴住居を築くようになった。深くて大きな竪穴住居を築くには、集団で作業をしなければならず、人が集まることで新たな文化が芽生え、土偶が生み出されたのではないか・・・と推測されるとのことだ。この深さ1メートルを超える竪穴住居(縄文の住居跡)は、世界的にもシリアで出土した約1万2千年前が最古級とされ、国内どころか世界的にも極めて古いとのことである。上の画像は、伊勢・志摩国の水源地の一つとして大切にされてきた「天の岩戸」(三重県志摩市磯部町)にある、「恵利原の水源(名水百選)」を撮影したものである。当日は道すがら、たまたま訪ねることになったのだが、深閑とした木立の奥にある水穴より渾々と湧き出る水は冷たく、参拝かたがた水汲みに訪れる者たちの喉を潤してくれていた。今回初めてこの地を訪ねた時、私の脳裏には「岩戸」を示す星座がハッキリと観えていた。その「天の岩戸」を象徴する星座とは、最近のブログで何度か取り上げてきた、天空に輝く星座の「御者座(ぎょしゃ座)」である。もちろん象徴的ではあるが、どうやら「岩戸開き」の鍵は、天体の「ぎょしゃ座」にあると、この朝熊山地の山麓は伊勢神宮の別宮「伊雑宮」の社叢の原生林に存在する「五十鈴川」の源流にて、そのように感じたのだった。次に向かったのは、三重県多気郡多気町に鎮座し「天手力男命(あめのたぢからお)」を主祭神として祀る「佐那神社(さな)」であった。そこで、当社の境内に「天宇受賣命(あめのうずめ)」の和魂として祀られた磐座を映したものが上の画像である。実は以下に紹介する書籍によって、日本神話に記された「天宇受賣命」の御正体が、ある領域の天体(星座)だと認識していた。しかし、この画像の磐座を現地で実際に見た時に、その磐座全体が「ぎょしゃ座」(上部)と牡牛座の「ヒアデス星団」(下部)が合体して構成された形状と感じられ、さらに未だ閉じた岩戸の前で舞う「天宇受賣命」に観えてきたのは不思議だった。ちなみに、天の岩戸の神話物語では、岩戸の脇に控えていた「天手力男命」が、隠れていた天照大神が岩戸から顔をのぞかせた時に、その岩戸を開いて天照大神を引き出す大役だったのだが、その「天手力男命」の御正体とは、「おうし座」にある「ヒアデス星団」のβ星「エルナト」(かつては御者座の左下にあるλ星とされていた)とのことである。つまり・・・「天の岩戸(御者座)」を力強く押し開かんと、まさに岩戸に手を掛けている「天手力男命」の豪腕を象徴した星こそ、おうし座の角の先端のβ星「エルナト」ではないか・・・ということだ。※参考書籍・・・書名『 星空の卑弥呼(上)』 榊 晶一郎 著/星雲社 刊そして、なぜか今の私には、上記の「岩戸神話」と前回の日記でも書いた「扇を開く仕儀」が連動して観えている。つまり、八百万の神々が集った天の岩戸の前で「天宇受賣命」が舞踏すると、それに天照大神が呼応して岩戸を少し開いて外を覗くシーンが、扇を開ける際にまず一本の骨を開く仕草に・・・そして「天手力男命」の豪腕で岩戸を全開して天照大神を引き出すシーンは、その開き始めの日の丸扇を一気に全開する仕草に観えるのである。いずれにしても、日本神話における「岩戸開き」のクライマックスは、「天宇受賣命」の舞踏と「天手力男命」の豪腕によって、隠れていた「太陽(天照大神)」が岩戸から出て、世の中が再び明るくなったということだ。そういえば、明日の6月22日は「夏至」である。「夏至」は太陽の日照時間が一年で一番長いことから、いわば年間で「究極の岩戸開き」(日の丸扇の全開)の月日と言えよう。
2015年06月21日
今年の5月17日に、福岡県糸島市の「高祖山(たかすやま)」への登拝が契機となり、先日の6月13日には滋賀県と岐阜県の県境にある「伊吹山(標高1,377m)」に登る機会を得た。※関連記事・・・『伊都国の高祖山(たかすやま)』に登る⇒ リンク上にリンクした記事にあるように、古事記編纂の土台と思しき三つの基本三角形の、その中央部となる三角形は「伊吹山」を頂点として「伊勢」と「三輪」を結んでできる、「正八角形」を基盤とする二等辺三角形で構成されている。その二等辺三角形の鋭角の頂点が「伊吹山」の山頂であり、また「正八角形」の中心点に相当し、古事記では天空に輝く北天の中心「北極星」の投影地として、特別に位置づけられている模様である。今回の伊吹山への登拝は、来月の七月後半に山口県内で開催する自作の造形展示会(詳しくは6月22日に告知予定)に先駆けて、「古事記」の隠れた編纂者が意図したであろう「北極星」の地上投影地たる伊吹山の山頂を訪れ、その山頂で体感する息吹きを作品展示に反映する機会をいただいたものと推察する。さて冒頭の画像は、伊吹山への登拝前に琵琶湖に浮かぶ「竹生島」に渡った際、東方の伊吹山方面を撮影したもので、湖面の向こうの画像中央に薄らと見える山並みが「伊吹山」だ。そして「竹生島」から帰港して、当日の目的地たる伊吹山に登る直前に訪れた場所があった。それは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊吹山に登る際に、お妃である尾張の宮簀媛命(みやすひめのみこと)の元に「草薙の剣(三種神器の御剣)」を置いてから登ったとされ、その後に「草薙の剣」を御神体として祀られたのが創始とされる「熱田神宮」である。(上の画像は本殿を撮影したもの)この熱田神宮の境内には、別宮の「八剣宮」が鎮座しており、今回の神宮参拝はこの別宮から始まった。今まで何度か神宮を訪れており、この「八剣宮」を参拝したのは今回が初めてだが、これを調べると過去に同じく「八剣宮」と称されたと記録に残る、北部九州は遠賀川の河口域に鎮座する「高倉神社」との深い関連が窺え、またこの遠賀川流域に日本武尊を祀る「八剣神社」が多いことも含めて、「九州王朝説(⇒リンク)」の歴史の真実味が増してきたと実感するところだ。さらに「八剣宮」の「八剣」が示す本質とは、「北斗八星(北斗七星+輔星)」とする北辰・北斗信仰が背景にあると判断され、古事記が物語る「北極星」の投影地「伊吹山」に登る前に、その「北極星」の周囲を廻る「北斗八星」の投影地たる「熱田神宮」を参拝することが、おそらく順序として必要だったという感覚が掴めたのは、この旅路から帰ってきてからである。神宮本殿を参拝の後、本来は禁足地で近年になって一般の参拝が許された本殿の北西に鎮座する「一之御前神社」を参拝、本殿の周囲を廻る「こころの小路」を経由して「清水社」では美味しい湧水をいただき、明治時代の中期まで御神体の「草薙の剣」が祀られていたとされる「土用殿」に参拝の後、いよいよ高速を乗り継いで「伊吹山」の山頂へ向かった。伊吹山(百名山)の登山は、有料の伊吹山ドライブウェイを使えば山上の駐車場が9合目となり、後は山頂までの標高差約100mを徒歩で登ればよいので、ハイキング感覚で気軽に登れる山といえよう。その伊吹山の広大な山頂部より、西方の琵琶湖方面を撮影したものが最後の画像である。薄霞がかかっており展望は今ひとつだったが、下方より吹き上げてくる風の強さに圧倒され、まさに大地の息吹きを体感したところである。「伊吹山」の登拝は今回で三度目となるが、上述の「古事記」が構想したと思われる天体「北極星」の投影地点としてだけではなく、特にこの度の思い入れとして意識に浮上してきた幾何的構造があった。それは前回のブログでも触れたが、「日本列島」の全体を、開いた「日の丸扇」と見立てた場合に、「富士山」を扇の「要」と認識することができ、それを閉じた場合の扇の先端が本州最西端の「毘沙ノ鼻」、その先端の留め具として「蓋井島」が想定できるとした。そこで、扇を開く仕儀として、右手で扇の要のある根元を握り、まず一本の骨を手指を使って開いてから、時宜を得て残りの骨を一気に開いて全開すると聞く。その扇を完全に閉じた状態から、その一本を開いた骨の直線が列島へ投影された軸線を、「富士山と出雲を結ぶ東西軸」と見立てて、このブログでは何度も取り上げてきた。実は、この「富士山と出雲を結ぶ東西軸」の軸線上に、「伊吹山」が含まれているのである。その「伊吹山」の場所こそは、まず扇に手をかけて一本の骨を開く際に、その骨に「親指」を置いて力を込める大切な位置に違いないと、今回の旅路の直前に直感したのであった・・・。日本列島を象徴する「日の丸扇」・・・その閉じた扇を開く際に、まず一本の骨を開く重要な働きを担う「親指」の位置が「伊吹山」であり、それはまた北天で最も重要な星とされる「北極星」の投影地でもあった・・・。古代史の研究者の間でも・・・中国や半島諸国に対する外交文書として編纂された側面を持つ「記・紀(古事記と日本書紀)」によって、当時の国家機密となる「富士山と出雲を結ぶ東西軸」は隠され、その代わりに「伊勢と三輪を結ぶ東西軸」が設定されたのでは・・・と取り沙汰されてきたが、私もその見解に賛同するものである。※関連記事・・・「もう一つの太陽の道」⇒ リンク時代は既に、これまでの「伊勢と三輪を結ぶ東西軸」から「富士山と出雲を結ぶ東西軸」へと、「伊吹山」を起点に大きく転換したのであり、その扇の一本の骨が開いた見立ての「富士山と出雲を結ぶ東西軸」は、記紀神話の「岩戸開き」の如く、あるいは日本列島に擬えられる「日の丸扇」のように、一気に全開する季節を迎えたと感じている。
2015年06月18日
さて蓋井島の港に着いてからは、前回の探訪でも印象に残っていた、この島に特有と思われる岩礁を目指した。港から海岸沿いに約20分は歩いただろう・・・上の画像は、海岸べりに突き立つ名も無き岩塊を撮影したものだ。その雄々しさに、思わず淡路の沼島で見た「上立神岩」を重ね合わせた。◎関連記事・・・GW・四国~淡路島への旅(5)⇒ リンクそして上の画像は、海に向かってゴツゴツとした岸壁に根を張る松の風情を映したものだ。この近辺の海岸を歩いて気付いたのは、その波打ち際にある石や岩の質が、場所ごとに絶妙に違っているということだった。この画像は、打ち寄せる波に音を立てて洗われる玉石群を映したもので、今回の散策で最も美しいと感じた場面である。約2時間の滞在だったが、この「山の神」の住まう自然豊かな蓋井島に、大いに元気をもらった感じがした。その帰りの船舶の後尾から、スクリューによって眼前に巻き起こる波しぶきを撮影したものが上の画像だ。そして、最後に掲載する上下の画像は、響灘沿いの海岸にあるレストランから蓋井島を遠望したものだ。この展望デッキからの眺めは素晴らしく、上の画像のように「鳥の飛翔」を象徴するような素敵な雲が現れたと思って見ていると、その天空の形象は目前で大きく変容をしはじめ、下の画像のように陰と陽の反転あるいは統合を暗示させるような極めて神妙な景色を堪能させてくれるのだった。前回のブログでリンクした関連記事でも書いたように、扇の要としての「富士山」と本州最西端の「毘沙ノ鼻」を結ぶ軸線を「畳まれた一本の扇子」と見立てた場合に、今の私の感覚としては「蓋井島」が、扇子の先端を束ねる「留め具」に観えている。・・・時代は今、「蓋井島」という島名が示す蓋を覆うが如くの「留め具」が外れて、いよいよ隠されてきた日の丸扇(奥義)が開く時を迎えたため、その手に持つ位置の「扇の要」の部分(富士山~箱根を含む伊豆半島地域)が微妙に震えているのでは・・・などと、最近の列島全体の動向を俯瞰しつつ、そのように感じる今日この頃である。
2015年06月12日
先日、久しぶりに本州最西端に浮かぶ「蓋井島(ふたおいじま)」(山口県下関市)を訪ねた。その渡海の前に、本州最西端の地「毘沙之鼻」の展望台から、西方の響灘に浮かぶ島を映した画像が冒頭である。この画像は、上記の展望台を撮影したものである。当日は全般的に薄曇りの天気だったが、なかなかの展望で動きやすい一日だった。◎関連記事・・・「富士山」と「本州最西端」を結ぶ《龍蛇の道》⇒リンクさて定期船に乗って出発・・・その約30分の航行過程で、私なりに最も映える姿と感じた島の画像が上である。そして海岸の岩礁を見ると、特徴のある岩門が目を引いたので、思わずシャッターを切った一枚が上の画像。この蓋井島には、『蓋井島「山の神」の森』という国指定重要民俗文化財(有形)があり、上の画像は神事の際に「やま」の神に乞うて切り取った枯木や倒木を、円錐状に組合せた神籬(ひもろぎ)を撮影したものである。下の画像は、その文化財に関する解説版を映したものだ。生き生きとした森の息吹を感じるこの島には、古式ゆかしき祭事が連綿と伝承されている模様である。
2015年06月11日
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