全11件 (11件中 1-11件目)
1
今月の10月12日、「祖母山(そぼさん・標高 1,757m)」に登った。冒頭の画像は登山の前に、祖母山・阿蘇山・久住山と、三つの山々を展望できる「三秀台」より、祖母山方面を撮影したものである。標識が示すように、祖母山は画像中央の少し右側となるが、その山頂部は雲に覆われて見えなかった。標高約1,100mにある北谷登山口の駐車場へ向かって舗装されていない車道をひたすら走り、ようやく現地に着いたのは午前9時頃であった。身支度をして登山道の登り口を撮影した画像が上である。上の画像は、登り口にあった祖母山の解説版を映したものだ。記紀によると祭神の「豊玉姫」は・・・海神・大綿津見神の娘にして、天孫・邇々芸命が大山津見神の娘木花佐久夜毘売との間にもうけた火遠理命(=山幸彦)と結婚し、鵜茅不合葺(ウガヤフキアエズ)命を生む・・・とある。ここで興味深いのは、記紀において豊玉姫の息子の「鵜茅不合葺命」は一代限りとされるのに対し、記紀以前の古文献によると、五十代以上も続く「ウガヤフキアエズ王朝」が存在したと記述されており、またその王朝を象徴する代表的な御山を「祖母山」とする説があるという点だ。※関連記事・・・ウガヤ朝の故郷を訪ねて(2)⇒ リンクその「祖母山」に登拝できる喜びを胸に歩いていると、秋色の落ち葉が程よく積もった美しい山道に出くわしたので、シャッターチャンスと写した一枚が上の画像である。さらに山道を歩いていると、宮崎県・大分県・熊本県と、その三県の県境を示す立て看板に遭遇。ある種の感動を抱きつつ映したものが上の画像だ。そして最後となる下の画像が、祖母山の八合目から上方を撮影したものである。この日は、山頂部に霞が掛かっており、また八合目から山頂近くまで粘土質の滑りやすい坂道が続いていたので、なかなかに厳しい道のりだったことを憶えている。
2015年10月30日
甑島で最後となる素晴らしい展望を満喫した私たちは、車を停めた山道の入口にあった手書きの案内板に記載の、「100mで海岸」という(同行した二人の)記憶を頼りに、断崖の下方に見えた海岸まで降りていくことにした。それが、既に100mは下り道を歩いたにも関わらず、行けども行けども辿り着けないのである。時間は押していたが、お互いに最後の力を振り絞って、急斜面の厳しい道のりを海岸まで降りてみることに・・・。するとそこには・・・甑島周遊の最後に、この景色を体感していきなさい・・・と言わんばかりの、大自然の海浜が醸し出す感動のロケーションが待ちうけていた。その「内川内(うちかわうち)海岸」の玉石浜において、波に洗われる玉石の涼やかな音色を聴きながら、海原に向かって三つの方面を映した景色が、上から連続する三枚の画像である。上の画像は、この海岸のすぐ横に続く岸壁の、侵食された洞穴を映したものだ。その折り重なる地層が、せめぎ合うかのように形成された洞穴は、甑島という中央構造線の最西端に位置する大地の躍動を、まさに凝縮して伝えているかのようであった。・・・この類まれな・・・とも思われる洞穴を潜り抜けた私たちは、慌てずに急いで帰途に就いた。その際に、内川内を降り落ちる雄々しき滝の姿を撮した画像が下である。この海岸から登りの山道においては、停車していた車に到着する直前の道中で、先頭を歩いていた私は体長約30cmのハブの子供に出会った。その子ハブは歩道の道沿いを素早く這っていったが、当時の9月中旬はまだハブの活動期とのことで、宿泊したホテルのフロントでも細い山道を歩くときは「長靴」を履くよう指示されていたことを思い出した。甑島では毎年、ハブに噛まれる観光客が数人いて、島内の病院では血清を常備しているそうだ。この甑島列島を周遊した最終局面で、毒蛇のハブが登場したということは、自然界から甑島散策における注意を喚起された気がする。そこで上記の「100mで海岸」の件だが、山道の入口で改めて看板を確認すると「1000mで海岸」と記されており、同行の二人は共に一桁間違って記憶していたことが分かり・・・ということはやはり、私たちを海岸まで連れて行くための計らいだったのでは・・・と感じた次第。・・・・しかし、あの高低差のある厳しい山道を、よく三人とも短い時間で登り降りできたものである。・・・この【「甑島」の周遊写真集】の最後を飾る下の画像は、初日のクルージングで海から見た当地・・・二段からなる滝が見える「内川内海岸」・・・の美しき全体像を映したものである。ちなみに、この内川内の滝から流れ落ちる水は、麓にある玉石浜の下を潜って海に流れるために海水と入り交じり、その透明度は抜群になるそうである。ここで今回の旅路の別称『 甑島列島・行きたいところ「てんこもり」行脚(二泊三日) 』を振り返ると、同行の二人に希望された全ての訪問地に行くことができたので、おそらく当ブログ連載の【「甑島」の周遊写真集(1)~(11)】は、これから甑島を訪れる観光客の、ちょっとした参考資料になるであろう。そして大満足の私たちは帰途のフェリーにて、訪れた各地で共有した体験談もそこそこに、心地よい眠りに入るのだった・・・(了)
2015年10月20日
甑島から九州本土に渡るフェリーの乗船時刻に、おそらく残された時間は3時間も無かったであろう・・・私たち3人は思い切って、前日にも訪れて散策を諦めていた内川内という集落に鎮座する「高岩神社」を目指すことにした。下甑島では最も奥にある小さな集落、その鎮守の森への道中は直近の台風の影響もあって悪路となっていたが無事に到着。参拝後は、まるで導かれるかのように神社の裏手へ・・・。その神社の裏には、登れそうな急斜面があったので歩みを進めてみると、全体として一枚岩と思われる高台に到達した。その海抜約150mの狭い岩場から臨む景観を撮影したものが、冒頭から四枚の画像である。断崖下の海岸から海原、そそり立つ山岳や流れ落ちる滝も臨めて、スリルあふれる最高のロケーションであった。最後の下の画像は、道中の水場で見つけた大きなナメクジ?!である。体長は15cmはあったと思う・・・手つかずの原始林に太古から生息する貴重な動植物の一種ではなかろうか・・・。
2015年10月19日
瀬々野浦集落の海辺にある「ローソク岩」を映したものが、この上下の画像である。まるで大きなローソクのような奇岩がそそり立ち、周囲の断崖に広がる特異な地層も含めた異空間に圧倒される。この瀬々野浦の湾岸は、前回取り上げた「ナポレオン岩」や「鷹の巣」などを含む奇岩地帯となっており、世界的見地からも特別に風光明媚な景観と思われ、この景色を眺めつつ集落に暮らしてきた人々の中からは、時には偉人も輩出しただろうことが伺えた。上の画像は、この集落の総鎮守「大帯姫(おおたらしひめ)神社」を撮影したものだ。同行の知人の話によると、この「神功皇后」を主祭神として祀る神社は、現在でも「武内宿禰」の子孫が護っているとのことである。そして、この「瀬々野浦(せせのうら)」地区は「神入裏(しんぬうら)」とも呼ばれ、「武内宿禰」の母である「山下影姫」の出身地にして、この地を度々訪れていた神功皇后と武内宿禰の息子を「応神天皇」とする伝承もあるとのことで、歴史ロマンの膨らむ実に興味深い話だ。また現地にて、この集落にお住まいの方から直接お伺いした話では、この「大帯姫神社」のすぐ近くにある二社は個人宅の神社とのことで、それとなく区別するよう伝えられたのも印象的だった。下の画像は、訪れた瀬々野浦の湾岸地域を「前の平展望台」より撮影したもので、画像の中央部に「ローソク岩」と「鷹の巣」の奇岩を確認することができる。
2015年10月17日
二泊三日(9月11日~13日)の甑島周遊も最終日となった。当日の予定としては、宿泊所近くの手打港発の観光船「おとひめ」で、甑島のシンボル的存在として親しまれている「ナポレオン岩」等の奇岩や断崖を海から見ようと企てていたが、あいにく天候不順のため欠航となってしまった。結果的には時間配分を含めて、その後の散策に功を奏するわけだが、私たち三人は再度訪れたいと思っていた「神籠石」や「瀬尾観音三滝」を経て、瀬々野浦の奇岩群を訪ねた。冒頭の画像含めた上から三枚は、先述した「ナポレオン岩(標高127m)」を撮影したものである。この名称は、明治の初めの頃に、フランス人がこの岩を見て・・・オー!我が母国の皇帝ナポレオンにそっくりだ!・・・と言ったことから付けられたという説があるそうだ。(この画像は「前の原展望所」より撮影)それにしても、この岩の貫禄は大したもので、その圧倒的な存在感に、何度シャッターを切ったか分からない・・・。そして上の画像からの三枚は、同じ瀬々野浦にある「鷹の巣」と呼ばれる奇岩である。平家の落人の三家族が、この瀬々野浦集落に落ち延びて暮らした証として、この画像の頂上部にある岩を三つに割ったという伝承があるそうだ。ちなみにこの集落には、今でも三つの苗字しか存在しないとのことである。この三つの岩石について私見を述べると、古代人がある目的をもって意図的に配置したとしか思えないのだが・・・。
2015年10月16日
・・・ここに行くと何かあるだろう・・・という直感が走ったのか、夕方に近くなって私たちは、下甑町の高台にある「しんきろうの丘」に向かった。冒頭の画像は、その丘より西方の「瀬々野浦」の方面を映したもので、画像の中央にある小島が標高127mの奇岩と謳われる「ナポレオン岩」を遠望した景色である。その見晴らしのよい丘を散策していると、「夫婦岩」という手作りの新しい立て看板が目に入り、そこから少し降った近場と分かったので行ってみることに・・・。するとそこには、近年に開墾されて浮き彫りになったと思われる二つの大きな磐座があった。それは私にとって、その日を締めくくる感動の出会いとなった。この下に続く四枚の画像は、その二つの磐座の佇まいを、様々な角度から撮影したものである。この「夫婦岩」という二つの磐座は、明らかに何らかの人工的な手法を用いて、上方と下方に並べて据えられていた。まず上の画像は、二つの磐座の上方に置かれた(おそらく)男岩を撮影したものである。その綺麗に丸く整形された姿は、まるで大きな卵のようであった。次の画像は、下方に置かれた(おそらく)女岩を撮影したもので、その中央部の割れ目は、全体としては太くて長い女岩を二分するものだった。そしてこの画像は、山腹の八合目あたりに据えられた二つの磐座を、下方の女岩から上方の男岩に重ねて撮影したもので、この傾斜の更に上方には(現在は近場の樹木で見えないけれども)山頂が見えたであろうことが、この夫婦岩を取り巻く周辺の様子から読み取れた。そこで方位磁石を取り出して、この女岩の割れ目(亀裂)の走る方向と、この画像のようにその亀裂から男岩を見通す方位が、共に「北」を示すことを確認した際には、感動で自身の体が打ち震えたのを憶えている。この「夫婦岩」を映した最後の画像は、上方の男岩の横から下方の女岩を映したものである。以上のことから、この二つの磐座は、古代人によって意図的に整形され配置されたことが考えられ、おそらくその主なる目的とは、黄昏から暗夜に向かう狭間に、方位を「北」に示す女岩の亀裂を照準とし、その先の男岩を通して山頂の上に輝いていたはずの、当時の「北極星」を観測する装置だったのではあるまいか・・・。私は今まで「北極星」を観測していたであろう数例の磐座(岩組み)を見てきたが、これほど解りやすく集約された「北極星の観測装置(古代磐座遺跡)」を見たことがなかった。その後は、さらに西日を追いかけて車を走らせ、たどり着いた「片野浦」の波止場にて、その日に受けた数々の感動を胸に、東シナ海に沈みゆく夕日に想いを馳せるのだった。
2015年10月14日
事前情報で遊歩道の終着点にあるとは知りつつも、現地では直近の台風の影響もあってか道が冒頭より判然とせず、何度も諦めかけては歩を進めて、ようやく辿り着くことのできた謎の巨石「竪石(たていし)」・・・。本日の画像の上から三枚は、その「竪石」(高さは約4.5m、周囲は約7.5m)を三つの角度から撮影したものである。この「竪石」の醸し出すひびき・・・わかる人には分かるであろう。同行の知人から聞いた話では、この「竪石」には歴代天皇が訪れていたという噂があるとのことだが・・・それはもしかすると「ウガヤフキアエズ王朝(古代九州王朝)」の時代より引き継がれた伝統だったのかもしれない・・・などと歴史ロマンに思いを馳せた。そして下の画像から三枚は、上記の「竪石」に向かう遊歩道の途中で、たまたま遭遇した巨石群を映したもので、確実に方位等を意識したカッティングと配置、そして石組みに見惚れてしまい・・・近辺に古代人が居住していた雰囲気も濃厚に感じ取れて、しばしの感動に酔いしれた一時だった。
2015年10月08日
掲載した上方の三枚の画像は共に、下甑島の下甑町にある「瀬尾(せび)観音三滝」を撮影したものだ。まず冒頭は、大きくて広い一枚岩の岩肌を静かに流れる滝・・・その何とも言えぬ悠然とした清涼感に包まれて、甑島の懐の深さを改めて感じたところである。同じ滝を少し斜めから映したものが次の画像である。全体として、かなりの水量だと思うのだが、それを感じさせない凄みと貫禄のようなものを感じた。この滝は緑に囲まれた瀬尾川の上流にあって、その水流は約55mの高所から「一の滝」、「二の滝」、「三の滝」と三段で落ちてくる構造になっている。この三枚目の画像は「一の滝」と「二の滝」を、そして一枚目と二枚目は「三の滝」を映したものである。さて、この上の画像を含む下方の三枚は、下甑島の最北端にある「夜萩円山公園」の展望台より撮影したものである。この大海に向かって直立する約200mの断崖絶壁は、思わず足がすくんでしまうほどの景観であった。この断崖の地層は「ページ岩」といわれ、ここでは画像のようにハッキリと見ることができる。また、ごく最近の2013年、この近辺の約8000万年前の地層から採取された歯根の一部が、「トリケラトプス」などで知られる角の発達した草食恐竜の「ケラトプス類」の化石と確認されたのは国内初で、アジアでも貴重な発見とされているとのことだ。そういえば今年の夏に、地元の山口県立美術展で開催された「世界大恐竜展」では、大型植物食恐竜「トリケラトプス」を筆頭に、様々なケラトプス類の恐竜の化石が展示されていたことを思い出し・・・これは繋がっているな・・・と、感慨深いものを感じた次第である。☆関連記事・・・2015年08月08日『 恐竜に「龍」を感じて・・・』⇒ リンクそこで恐竜の化石といえば、下甑島の鹿島支所内に「化石展示コーナー」があり、私たちが訪ねた当日は新装展示に向けて模様替えの最中だったが、有り難いことに最近発見された「ケラトプス類」の歯の化石をはじめとする、同島で発見された化石の数々を見学することができた。いやいや・・・それにしても甑島は奥が深い・・・地球の歴史が刻まれたフォッサマグナの強烈なエネルギーに包まれつつ、私たちは更なる大自然の奥座敷へ入らせていただくことに・・・。
2015年10月07日
翌日(9月12日)の早朝、私たち三人は朝日を拝もうと旅館のすぐ近くにある高台へ・・・。日の出の直前に赤紫色に染まる東雲を写したものが冒頭の画像だ。それは感動の色調だった。上の画像は、いよいよ現れた朝の光・・・その曙光を待った高台とは、下甑島の南方にある「手打湾」に突き出た大きな卵のように丸い岩の上であった。同じ画像の下方に映るのは、この岩塊の上部の岩肌である。次の画像は「神籠石」と書かれた立札のある、その大きな岩塊の全体像を撮影したものである。そこで今、この大きくて丸い、おそらく意図的に整形された岩塊に思いを馳せていると、兵庫県の淡路島は岩上神社の境内にある「神籠石」を思い出した。その双方の名称が同じだったことも、たった今確認できたことだが、その岩塊の大きさも同じくらいなのである。・・・今でこそ甑島の「神籠石」は斜めに寝そべっている感じだが、かつては淡路島の「神籠石」のように、海に向かって屹立していたに違いあるまい・・・☆関連記事・・・2015.5/20「 GW・四国~淡路島への旅(4)」⇒リンク古代イスラエルと日本に共通する文化に詳しい研究家の説で、あらかじめ淡路島と甑島の関係性は知っていたが・・・その関係性を示す太い軸線は、甑島の「神籠石」と淡路島の「神籠石」で結ばれていた・・・と、ここに至って直観した。上記の「神籠石」がある手打湾の砂浜から朝日を展望・・・実に素晴らしいロケーションである・・・。そして次の画像は、遠方の山並みの中腹に(わかりづらいのだが)「神籠石」を見いだせる方向を、湾岸に続く美しい砂浜より撮影したものだ。その約2キロに及ぶ湾内の砂浜を走る道路沿いに、かなり大きな看板があったので近寄って見ると、あの松竹映画「釣りバカ日記9」のラストシーンで利用されたロケ地と紹介された解説板だった。そういえば、今回二泊した旅館(竜宮の郷)には、俳優の三國連太郎や西田敏行が実際に釣った二枚の大きな魚拓が飾ってあったので、おそらくこの旅館を根城にして撮影ロケが行われたと推察・・・。そこで、もう一つ芸能情報を加えると、この最後の画像である。演歌歌手の森進一が唱う「おふくろさん」の歌碑が、この手打湾に据えられているのだ。その森進一のお母さんが、この下甑島の出身ということから歌碑が建立されたとのことである。実は私のカラオケの十八番は、この「おふくろさん」である。歌碑の前にあるボタンを押すと、歌が流れる仕組みになっていて、思わず私は二人のギャラリーを前に、ノリに乗って(歌真似も加えて)三番まで歌ってしまうのだった・・・。
2015年10月06日
この上の画像は、上甑島の「貝池」を撮影したものだ。何でもこの「貝池」には、23~30億年前に出現した「クロマチウム」という珍しい微生物(光合成細菌)が生息しているとのことである。私的にはとても興味があったので・・・どんな味がするのだろう・・・ということで、現地ではその池の水を手ですくって飲んでみた。すると、思わず舌鼓を打ちたくなるほどの旨さなのだ。同行の二人も実際に飲んでみて・・・・「すまし汁」のように美味しい・・・と異口同音に歓声を上げていたことを覚えている。次の画像は「長目の浜」といって、大小3つの池(上記の貝池を含む)と海を隔てて、長さ約4キロにわたって続く砂州を映したものである。この甑島を代表する景勝地の「長目の浜」は「国の天然記念物」に指定されており、その内容については展望所にあった下の画像の案内板に詳しい。さて続く3枚の画像は、下方の立て標識に記してあるように、上甑島に生息する大型の南方系シダ植物「ヘゴ」を撮影したものである。この「ヘゴ」は、地球上に恐竜が跋扈していた太古の時代から繁茂していたとされ、実際にこの植物を身近で観ていると、今すぐ直近に恐竜が現れるのではないかとドキドキしてきた。この画像は、その「ヘゴ」の上部にあった新芽を映したもので、これを草食系恐竜の「トリケラトプス」がムシャムシャ食べていたと思うと、何だがワクワクしてきたことを覚えている。この甑島自生の大ヘゴは「ヘゴ 自生地北限地帯」として「国の天然記念物」に指定されている。そして下の本日最後の画像は、上甑島の里港から下甑島の長浜港に向かうフェリーより、甑島に沈む夕日を撮影したものだ。デコボコの山並みに添って何度も出没する太陽・・・一日に何度も夕日が拝めた気がして、有り難き感覚に包まれた甑島初日(9月11日)の夕暮れだった。
2015年10月03日
冒頭の画像は、甑島(こしきしま)という島名の由来とされる「甑岩(こしきいわ)」を映したものだ。そもそも「甑(こしき)」とは、古代の「穀物を蒸す土器」のことで、古来よりその甑形に似た巨岩を「甑岩」と呼び、島名になったとのことである。また、太陽によって島々が様々な色に光り輝くことから、かつては「五色島(ごしきじま)」と呼ばれたとも伝わる。ちなみに甑島は、上甑島・中甑島・下甑島と、縦に三島を連ねた島々のことで、甑島列島とも称される。以上の三つの画像は、地元では「甑岩大明神」として祀られてきた「甑岩」を、左側と右側そして中央と、三つの角度から撮影したものである。この「甑岩」は切り立つ断崖の上にあるため足場が悪く、すぐ側まで近寄ることはできなかったが、この形状になるよう意図的に成形された雰囲気を感じることができた。さて次の画像は、中甑島の「帽子山展望台」より南方を撮影したもので、突き出た島の中央部にあるピークが、標高156mの「ヒラバイ山」である。ある古代史研究家によると、撮影地の中甑島はイスラエルの首都エルサレムとほぼ同緯度(北緯31度47分)、とりわけ同島の南方にある「ヒラバイ山」は同緯度とも言える北緯31度46分にある山であり、その山名の「ヒラバイ」とはイスラエル人を意味する「ヘブライ」が訛ったものとされている。ということは、「イスラエルの失われた十支族」と伝わる古代イスラエル人を乗せた船団は、西南諸島を経由して甑島にたどり着いたということであろうか・・・。そして下の画像は、上と同じく「ヒラバイ山」(画像中央部のなだらかな山並みのピーク)を、下甑島の「鳥ノ巣山展望台」より映したものである。そういえば、旧約聖書の創世記に「ノアの方舟」の記述(以下に引用)がある。「・・・それで水はしだいに地の上から引いて、150日の後には水が減り、方舟は7月17日にアララテ山にとどまった。水はしだいに減って10月になり、10月1日に山々の頂きが現れた。・・・」結果的ではあるが、その山々の頂きが現れたとされる本日10月1日に、この記事を公開できたことについては、これを「奇しき因縁」と認識したい。
2015年10月01日
全11件 (11件中 1-11件目)
1